(10)




 芹香と別れ、自宅に着いたのは午後十時を回った頃だった。旅行疲れを癒すために使おうとしていた時間は全て、芹香と友情を深めることに費やした。体の疲れは増してしまったけれど、心の方はずいぶんとすっきりしたので、結果オーライといったところだろう。

 後は、明日の午前をどのようにやり過ごすか、だ。物理的な身の隠し方ではなく、どちらかといえば精神的なもの――いかに思い煩わず、考え込まずに乗り切るか――それをちゃんと考えて段取りをしておきたい。

 家に引きこもるのは危険だろう。時計をひたすら見つめては落ち着きなく部屋をうろつく自分を想像しただけで、プレッシャーに心が折れてしまいそうだ。となると外出するのが無難か。

 ではどこへ行こう? 今日行けなかった映画館? よし、それで決まりだ。

 明日向かう場所が決まったところで、朝バタバタしないで済むように、今からできることはやっておくことにした。


「……とりあえず、旅の後片付けからかな」


 まだ玄関に置きっぱなしだった旅行バッグを前に、私は腰に手を当てて一つ息を吐くと、それをまず洗面所へ運んだ。

 洗濯物は洗濯機へ放り込み、今から回せばご近所に迷惑になってしまうので、明日の朝少し早めの時間に起動するようにタイマーをセットしておいた。その他にも化粧品、ドライヤー、ブラシなど、細々したものをいつもの場所へと戻していく。

 その作業を終えてから、次は寝室へ向かった。寒さ対策にと、少し多めに持って行ったものの出番のなかった羽織りものなんかをクローゼットにしまうつもりだ。

 だいぶ軽くなったバッグをベッドに放り投げて置いたところで、ふと違和感を覚えた。片付けを始めようとしていた手の動きを止め、そこに横たわるバッグをもう一度じっくりと眺めてみる。

 ここに存在しないはずの、見覚えのあるカード。それがなぜか、表面についている小さなポケットに刺さっている。

 恐る恐るつまみ出しその紙面を確認してみると、やっぱり思った通りのものだったために、私は深くため息をついた。そこに書かれていたのは都倉さんの連絡先と、『お忘れ物です』という丁寧な文字だった。


 「暮野さんだろうな、これ入れたの」


 いつの間にやりやがった、なんてわざと悪い言葉で憤ってみてから、がっくりと頭を垂れる。

 あの場に置いたままにしたことの意味は、暮野さんのことだからきっと察してくれていたに違いない。察した上で、私の思いに反するように、こうしてこっそりこれを忍ばせたのだ。

 暮野さんは全ての事情を承知しているのか、そして私が真実を知ることを望んでいるのかどうかは分からない。でも、たとえ明日の期限までに私が連絡しないとしても繋がりだけは持っていてほしい、そう願っているように思えた。


「まあ……別にあってもなくても、ね」


 誰に対するでもない言い訳めいた独り言を呟いてから、私はそのカードをベッドそばの小さなチェストに封印しようと、一番下の引き出しを開けた。


「……」


 ぎくりと体を強張らせる。そう言えば、この引き出しに触れること自体ずいぶん久しぶりだということを思い出した。

 無造作に放り込まれていた写真立て。それは、まかり間違っても写真自体を目に入れないように、という自分への配慮であるかのように裏返してあり、そしてそのバックボード部分には、”うそつき”とマジックで殴り書きがしてあった。それが自分で書いたものだということは字を見て分かったけれど、なぜ書いたのか、誰に宛てられた言葉だったのか、そこまでは思い出せない。

 ためらいながらも手を伸ばし、それを取り出す。本来の形に戻してから定位置に置いた、たったそれだけのことなのに、私の心は打ち震えた。

 そこにいたのは、満面の笑顔で写った若い父と母、そして高校生の頃の私だった。

 三人とも海風で髪の毛がボサボサになっているし、手ブレもすごいし、何よりちゃんと水平に撮れていないからとても不安定な構図になってしまっている。

 それでも、こんなにひどい写りでも、見ているだけでこうして自然と笑みがこぼれるこの写真は、私の一番のお気に入りだった。


「何だっけ……。何がこんなに楽しかったんだっけ」


 再び写真立てを手に取ると、そのガラス面を当時を慈しむ思いでそっと撫でながら呟く。

 思い出せない。チェストにしまい込むまでは、この旅行で何をしてどんな話をしたかということまでちゃんと覚えていたはずなのに。


「そうだ。他の写真もアルバムに入れておいたはずだから、それを見れば……」


 取りに行こうと立ち上がりかけて、私は再びその場に座り込んだ。

 アルバムは、以前はリビングの本棚に並べていた。でも、今はその場所にはないことを思い出したのだ。

 それだけではない。玄関のシューズキャビネットに置いていた家族写真も、もらったプレゼントやお土産も、父が集めたレコードも、母が刺繍したきれいなハンカチも。私の目につくところに、両親の面影が香るものは何一つ置かれていない。

 過去に縋り、独り暗闇の中でうずくまっていた時は、確かに私に寄り添っていた思い出たち。でも、このままではいけない、一人で立ち上がるためにと、私はそのすべてを見えないように封をして、奥の方へと押しやったのだ。


「……違った。私、忘れちゃってたんだ」


 無意識にこぼした言葉が、現実を物語っているような気がした。

 乗り越え、受け入れたつもりでいた。時間が優しい記憶に変えてくれたと、無垢にそう思っていた。

 でもそれならなぜ、未だに思い出の数々を目の当たりにできないのか。こんな一枚の写真を見ただけで、ここまで胸が苦しくなってしまうのか。


「おっかしいなあ。私、もう平気だと思っていたのに」


 写真立てのフレームを強く握り締める。ぽたり、ぽたりと、ガラスに落ちるしずくが写真の景色を滲ませていく。


 またここに三人で来ようって言ったよね、私。

 お父さんはなんて答えた? お母さんはどう言っていたっけ?

 何も、なんにも思い出せないよ。

 どうして私たち、こんなに楽しそうに笑っていたんだっけ。

 どうしてこれが最後の旅行になってしまったんだっけ。

 ねえ、どうして。どうして。


「どうして、死んじゃったの……」


 なぜ、気づかなかったのだろう。

 乗り越えてなどいなかった、そもそも受け入れてすらいなかった。ただ、忘れることによって感情を薄めていただけだということに。







 父が亡くなったのも、母が治療を拒否したのも、表面上に見えるものは全て偽装されていて、真実は違うところにあると信じていた。

 自分の運転ですら具合が悪くなることがあるほど車酔いの酷い父は、基本的にタクシー以外の公共の交通機関を使って移動していた。必要に迫られた時は必ず自分が運転し、助手席に話し相手として誰かを乗せるなどの対策もとっていたのだ。それなのに、いくら仕事だとは言えあんなにカーブが続く峠道をたった一人で車で通るなんておかしい。

 母にしても、私が家族を失い孤独になることを分かっていながら、「これ以上はつらい」なんて理由で治療を放棄するような自分本位な人ではなかったはず。きっと治療に充てるべき時間を削ってでもやらなければいけないことがあって、それは多分、父の死に関係することだったに違いない。

 不審な点があると疑うには、その根拠はあまりにも弱すぎるのかもしれないけれど、私にはそれだけで充分だった。

 でも、自分なりに見出したその”真実”を、最後まで描く勇気はなかった。それを突き詰めた先にあるのは、きっとひどく恐ろしいものであるという確信があったからだ。

 だから、忘れることにした。伝えられた”真実”をそれと認め、そこから自分なりのスタートを切ること。私は全てをしまい込み、その道を行くことに決めたのだ。


「これでよし、と」


 ハンガーに掛けられきれいに並んだ洗濯物が、風に吹かれてはためいている。青空をバックにしたその爽やかな光景を一通り眺めると、私は満足して部屋に戻った。

 久しぶりに押入れの奥から引っ張り出した、生前母が使っていたエプロンを外す。それをリビングのソファのひじ掛けに無造作に置いたところで、インターホンが鳴った。


「おはようございます」


 ドアを開けたところに立っていたのは、暮野さんだった。


「ご準備は、よろしいですか」

「はい。すぐに出られます」


 迷いなくまっすぐ暮野さんを見上げてそう答えると、暮野さんは少し眩しそうに目を細めながらも微笑んでくれた。





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