(9)




 土曜日。自宅に着いたのは、昼前だった。

 昨日の朝の言葉通り、都倉さんが店に戻ってきた様子はなかった。そして、私が客室に引きこもったままだったこともあったせいか、暮野さんや奥平さんとも、当たり障りのない”店員と客”程度のやりとりをするだけに留まった。

 旅行バッグを玄関先に放り投げると、荷解きもしないでまっすぐ寝室へと向かう。着替えすらもせず、小さなショルダーバッグも肩から提げたままでベッドに倒れこんだ私は、静かに目を閉じた。

 真っ暗な私の視界に走馬灯のように流れるのは、この三日間のことだ。

 童話の挿絵のような美しいお城、誰をも惹きつけるであろうおいしい料理の数々。そして思いがけず、両親を知る人と出会えたこと。

 こんなにも充実した旅はないと思えるほどなのに、今の私はひどく疲れ切っている。その理由は……言わずもがな、だろう。

 楽しい旅行だった、と素直に言えないことが、とても残念で仕方がない。芹香にも、いいお土産話をたくさん聞いてほしかったのに。


「……そうだ。帰った、って連絡だけしておこうかな」


 もちろんそれは芹香に対するもので、決して都倉さん宛てにではない。あの時もらった連絡先を置いてきたのは、その行動の意味から私の気持ちを察してほしいと思ったからだ。まあ、あれが手元にないからと言って、連絡を取る手段を完全に失ったわけではないけれど……。


(ああもうやだ。都倉さんのこと、考えたくないのに考えちゃう)


 このまま眠りに誘われて全部忘れたい、という怠惰な欲求を抑え込みながら、のそりと体を起こす。そしてスマートフォンを取り出そうと、ショルダーバッグに手を入れた時だった。


「あれ……」


 ちょうどいいタイミングで鳴り始めた、着信音。慌てて画面を確かめると、そこには芹香の名前が表示されていた。


「もしもし」

『あれっ、出るの早いね~。もしかして、もう帰って来てた?』


 寛いだ口調に、バックに流れるよく分からない音楽。芹香もどうやら、今日は休みを取っていたようだ。


「うん、今ちょうど家に着いたところ。芹香、土曜日に家にいるなんて珍しいんじゃない?」

『やーだ分かっちゃった? 休日出勤が続いてたのを、ちょっと上からチクチクやられててさぁ。ホントは色々片付けたいことがあったんだけど、仕方なく休んでんの』


 お偉方はすぐそうやって無茶ぶりするよね、とぼやく芹香の言葉に、私も電話越しながらも深くうなずいて同意した。仕事はすべて就業時間内に収めるべし、という理念は素晴らしいのかもしれないけれど、今の仕事量に見合っていない気がするのは私だけではなかったようだ。


『んで? どうだったのよ、久しぶりの旅行は』

「ああ……うん、その事なんだけど」


 話せないことはたくさんあるけれど、それと同じくらい、話したいこともある。それにちょっとした目論見もあるから、今電話で報告するのはどうしても避けたい。


「できたら、顔を合わせて報告したいなって」

『なになに、もったいつけるじゃなーい! じゃ、今日の夕飯、どこか食べに行く?』

「あっ……ええと」


 この後に予定なんて入っているはずもなく、いつもならすぐにOKの返事をしていた。だけど……。


「今日はほら、荷解きとか、やることがあるから……。明日の午前中からとかじゃ、ダメかな?」


 不自然に思われないように、尤もらしい理由をつけて私の思惑へと誘導する。芹香は、ちょっと待ってね、と妙なメロディーを付けながら言うと、ごそごそと何やら探るような音を立て始めた。


『えーと明日は……っと、ごめん、そうだ。母に仕事の手伝いを頼まれてるんだった』

「そっか……」


 先約あり、の返答に、思わずトーンダウンしてしまう。

 都倉さんは、明日の午前中までに連絡が欲しいと言っていた。連絡先の書かれたカードは置いてきてしまったけれど、あのオーベルジュは既にホームページやSNSなどで紹介されており、少し頑張ればどうにか連絡を付けることができてしまうのだ。だから、できればその時間帯は余計なことを考えずにいられるよう、何か予定を入れたいと思っていた。

 一人でいるとどうしても考え込んでしまいそうだし、芹香と一緒にいれば気が紛れていいんじゃないかと思ったのだけれど、その”目論見”はあっさりとお流れになってしまった。


『一応、夕方には終わる予定になってるけど、あの人と動くと絶対時間押すからなー』

「仕方ないね。それなら、」

『うん、今からどっか出よう』


 また折を見て、という言葉を繋げようとしたところで芹香がそう提案した。


「でも私、片づけを全然やってなくて」

『さっきからヒマでヒマでしょうがなかったのよー。こんなにいい天気なのに、一人でDVDを見るだけってのももったいないなって』


 引きこもってDVD鑑賞なんて、私にとっては楽しい休日の過ごし方の一つだというのに。普段から外へ出ずっぱりの芹香にとっては、もはや苦痛でしかないのだろうか。


「分かった。じゃ、どこに行く?」


 そう答えた私に、芹香はそうこなくちゃ、と嬉しそうな声を上げた。

 明日に予定を回すという狙いだけではなく、今日この後は部屋でのんびりしたいという気持ちも少なからずあった。でもせっかくのお誘いだし、ここは芹香の暇つぶしに付き合ってあげることにしようと思う。







 あの電話の後、私はすぐに家を出て芹香と落ち合った。

 街をぶらついてウインドウショッピングを楽しんだり、適当に入ったカフェですごくおいしいタルト・タタンに出会ったり、映画を見ようと提案して「すぐ屋内に入り浸ろうとするな」と即却下されたり。

 もちろん旅行の話もしたけれど話題はそれだけに留まるはずもなく、気付けば太陽はビル群に埋もれてその隙間からオレンジの光を放っていた。


「あー、憂鬱だわぁ」


 そう言ってビールを煽る芹香。歩き回ったせいで少し疲れてしまった私たちは、たまたま通りかかった感じの良い居酒屋で早めの夕食をとっていた。


「あたし、明日はどんだけこき使われるんだろ」

「そう言えば、お母さんのお手伝いだって言ってたね」


 芹香のお母さんはスタイリストをやっているそうで、たまに人手が必要な大きなショーや撮影があると、駆り出されることがあるのだそうだ。芹香はその度にこうして愚痴をこぼしているけれど、親子が同じ土俵に立って助け合えるなんてすごく素敵だなと思うし、私からすればその関係性がちょっとうらやましかったりする。


「普段はあたしのセンスをこき下ろす癖に、こういう時だけ手の平返すのよ? ホント、腹立って仕方ないわ」


 愚痴の合間にビールを流し込み、それを飲み下せば愚痴が始まる。

 ビール、愚痴、ビール、愚痴、ビール、愚痴……。まるでルーティンワークかのように間違いなく繰り返されるそのサイクル。芹香にとっての愚痴は、ビールの肴に値するものなのだろうか。


「忙しい時に頼りにするってことは、芹香のセンスをちゃんと認めてるってことなんじゃないの」


 ウーロン茶の入ったグラスを置きながらそう言うと、芹香は大げさに手を振って私の意見を否定した。


「違う違う、ただ気兼ねなく使える雑用係が欲しいだけなんだって」

「でも、たとえ雑用スタッフでも自分の眼鏡にかなった人しか周りに置かないって、芹香言ってたじゃない」

「あー、まあ、それは……そうだけど」

「ね。叱咤激励が行き過ぎるのも、期待しているからこそ、みたいな」

「叱咤は認めるけど、激励してくれてるのかどうかはちょっとアヤシイな~」


 そう言ってジョッキの底にわずかに残ったビールを飲み干し、芹香は大きく一つ息を吐いた。


「ねえ、芹香」

「んー」

「芹香は、今幸せ?」

「はっ?」


 ハトが豆鉄砲を食らった、という言葉が瞬間的に頭に浮かぶ。芹香はその表現がまさにぴったりな表情をしていて、そしてそんな顔をするのも無理はないと思った。自分でもこんな質問を何の脈絡もなく放り投げてしまうとは、考えもしなかったのだ。


「ええーちょっと、何なのいきなり」

「あー、うん。ごめん。別に深い意味はないんだけど」


 ビールを飲み干した時の顔がすごく幸せそうだったからつい聞いちゃったということにしておこうか、などと言い訳を思案する私をよそに、芹香は眉間にしわを寄せて腕を組み、意外にも真剣に考え始めた。


「敢えて答えるとするなら……幸せ、かなぁ」

「そっ、か」

「うん。だってビールはおいしいし、ここのたこわさ結構いけるし。今日のお店は当たりだな~って」


 しみじみと噛みしめるようにそう言うと、芹香は通りかかった店員さんを呼び止めてビールのお代わりを注文した。

 こんなにおしゃれで美人なのに、赤ワインとブルーチーズ、ではなくビールとたこわさに幸せを感じるなんて、中にオッサンでも入っているのではないだろうか。そんな風に考えて、私は思わず口元を綻ばせた。


「何よ。何で笑ってるの?」

「だって芹香、本当に幸せそうだから」

「そりゃそうでしょー。おいしいご飯があって、それを心許せる友達とシェアできるんだもん。幸せ過ぎてホント震えちゃう」


 そう言ってふざけたように体を揺らしながら自分を抱きしめるジェスチャーをして見せたので、私は堪えていた笑いを塞き止めることができずにとうとう吹き出してしまった。

 幸せだと感じた。お喋りは楽しいしおいしいものもある。そして何より、私を”心許せる友達”と言ってくれる人が目の前にいる。オンリーワンでもナンバーワンでもない、平凡なものかもしれないけれど、私にとってこんなに幸せなことはない。

 父は亡くなった。母も、その後を追うようにして。

 それは誰も揺るがすことのできない”事実”なのであって、私が都倉さんから何を聞いたところで変わるわけではない。変わるところがあるとするならば、それは私がこれまでずっと信じ続けてきた”真実”の方だろう。その上に私は小さな幸福を自力で積み上げてきたのに、これを根底からひっくり返して崩すことなんて、やっぱりできない。


(そうだよ、迷うことなんて何もない。明日までに連絡しなければ、すべて元通りなんだから)


 燻ぶりながらじわじわと心を焦がしていた火種は、芹香のお陰で完全に温度を失った。

 そんな風に、思っていた。





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