(8)
起きてすぐ、体調はすこぶる良いことが分かった。以前新入社員の歓迎会で酔ってしまった次の日の朝は、ひどい二日酔いで大変だったから、今回も同じ結果を覚悟していたのに。
寝てしまうとアルコールの分解が遅れるからなるべく起きておいて、糖分と水分、酸素の供給を意識的にするように、という都倉さんのアドバイス……いや、あれはほとんど命令口調だったけれど、とにかくその言葉に従って本当に正解だと思った。
昨夜は奥平さんと少し話した後、シャワーを浴びたせいかなかなか寝付けなかったので、オレンジジュースを飲んで深呼吸をしてトイレに行って、というサイクルを延々とこなしていたのだ。寝るなと都倉さんから強めに言われていたし、結果的にそれは功を奏した形になるのだろう。
でも、その作業を無心で続けることなんてできるはずもなく、気付けば私は昨夜のことを色々と考え込んでしまっていた。
都倉さんが聞かせてくれた、両親の話。私の知らなかった一面だったり、慣れ親しんだ表情がうかがえるエピソードだったりと、二人はもうここにはいないのに、また新しい思い出を作ることができたように思う。
だけど、私はその話の合間合間に、隠された何かがあるような気がしてならなかった。
全てを知る必要はない。そんな風に撥ねつけられているような疎外感、そして違和感とでもいうのだろうか。巧妙に張り巡らされた見えない壁を突破することができず、そんな私に残ったのは、ただ核心から程遠い周辺をグルグルと回らされているような、そんな妙な感覚だけだった。
「おはよう。気分は悪くないみたいだな」
アメリカンスタイルの朝食を平らげたところでそう声を掛けてくれたのは、食堂に入ってきた都倉さんだった。
「あ、おはようございます。昨夜は、本当に……すみませんでした」
「気にするなと何度も言っているだろう。とにかく、朝からそれだけきちんと食べられるなら心配はいらないようだ」
寝起きでもがっつり食べられるところから、父から『偉丈夫ならぬ、”胃”丈夫だね!』とからかわれたことを思い出し、何となく恥ずかしさを覚えた私は、肩をすくめてあいまいに笑っておいた。
都倉さんの様子は至って普通で、昨夜のことを引きずっている様子は見られない。それならわざわざ蒸し返す真似はしない方がいいような気がして、この話題はそれ以上掘り下げないでおくことにした。
「そう言えば、今日は新しいお客さんは来られるんですか?」
ふと訪れた沈黙を継続させないために、何気なく話題を振ってみる。
「試泊モニターのことか? それなら土日だけの募集だから、来るとすれば明日になる」
「えっ、そうだったんですか」
「ああ。昨日も話した通り、当初宿泊する予定だった客は特別な人でね。色々事情もあって、店のスタッフも最小限に抑えておいたんだ」
スーパーの肉は肉に非ずと豪語するというその人は、ただの狩人というわけではないみたいだ。むしろ、こう、社会的に地位の高そうなイメージが一気に湧いてきてしまったのだけれど……。
「なんだか私、本当にいい枠に滑りこんだような気がします」
「それは否定しないでおこう。昨夜のような気取ったコースメニューも、モニターには出さないからな」
ということは、本来ならもっと気軽な料理を出すつもりなのだろうか。
分かってる、こんな機会はないのだから、何も言わずにサービスを受けておけばいいことくらい。
だけど、だけど。
「……今夜は、モニター向けの普段のメニューを君に出そうと思うんだが」
「えっ」
「どうかな?」
「はいっ、ぜひ!」
一気に高まったテンションに任せて元気に返事をすると、都倉さんはまた昨夜のように声を殺しながら肩を揺らして笑い始めてしまった。
「君は本当に……分かりやすい子だな」
「えっ、そ、そう、ですかね……」
「ああ。表情も態度も、一生懸命ニュートラルに保とうとしているようだが、内心が透けて見えているよ」
不器用だという自覚はある。分かった上で、自分なりに頑張って大人の振る舞いをしているつもりなのに、都倉さんは私の必死な取り繕いを、
こんなことで釣られてしまうなんて、自分がとても幼くて器の小さい人間であることを思い知らされたような気がして、私はしょんぼりと肩を落とした。
「……おっと、もうこんな時間か」
都倉さんが腕時計に目をやり、そう呟く。暗すぎないチャコールグレーのスタンダードなスーツに深い青のネクタイ、黒く飾り気のないシンプルな革靴。そして手には黒いビジネスバッグが提げられていて、これから仕事なのだろうということは、さすがの私もここに都倉さんが入ってきた時から察してはいた。
「ごめんなさい、お忙しいのに引き留めてしまったみたいで」
「こちらこそ慌ただしくしてしまって申し訳ない。すぐにここを発たなくてはならないんだが、君の滞在中には恐らく戻ってこられないだろうから……」
「あ……。それじゃあ、これでもう」
顔を合わせる機会は、なくなってしまうということだ。だからこうして、時間がない中わざわざ食堂に顔を出してくれたのだろう。
私は慌てて席を立ち、頭を下げた。
「いろいろとお世話になりました。両親の思い出話がたくさんできたし、本当に楽しかったです」
宿泊先のスタッフに対する挨拶としては、ごく無難なものだと思う。もっと何か気の利いたことを言えればスマートなのだろうけれど、それでも礼を失するような振る舞いではないはずだ。それなのに、都倉さんからは何の言葉も返ってこない。
そういえば料理がおいしかったことを伝えていなかったと思い至り、そのことについても感謝しようとした時だった。
「真実を、知りたいと思わないか」
「へっ?」
あまりに突拍子もない問いかけのせいで、お礼を言うために開いた口から出たのは素っ頓狂な感嘆詞だった。
「壁の向こうには厳しい現実が待っているかもしれない。だがそれを受け入れる覚悟があるのなら、私は私の知る事全てを話してもいいと思っている」
「えっ、あの……」
「今ならまだ君を
「ち、ちょっと待ってください」
突然そんなことを言い始めた意図が理解できなかった私は、咄嗟に都倉さんの前に手をかざし、強制的に話を遮った。
「話がよく見えません。真実って、一体何のことなんですか? それに、元の世界、って……」
都倉さんは、答えない。ただ黙って私をじっと見つめているだけだ。
「あの……?」
「心当たりがないなら、それはそれで構わない。ただ、ほんのわずかでも思い
当たる節があった上で、君が今もなおそれを知りたいと思っているなら……」
都倉さんはそこで一旦言葉を切り、胸ポケットから名刺のようなカードを取り出した。
「電話でもメールでも、SNSを使ってくれても構わない。明後日の午前中までに、私に連絡をしてほしい」
差し出されたそのカードには、都倉さんのプライベートの連絡先が書いてあるようだった。私はそれを一応の礼儀として受け取りはしたけれど、都倉さんの意図はまだ汲み取れないまま、ただ困惑していた。
私が求める真実なんて、特に思いつかない。記憶をかき分けて探しても、浮かんでくるのは本当に下らない些細な事ばかりだ。
都倉さんが知っていて、なおかつ私が知りたいと強く求めるもの。都倉さんと私が、共有できるもの……。
都倉さんと私の、共通点――?
(あ――……)
私は、ぎくりとして口元に手を当てた。
都倉さんと私を結び付けているのは亡くなった両親であることに思い至った瞬間、心の奥底に封じ込めたはずの思いが、一気にあふれ出したのだ。
「……選択は君に委ねる」
私が何かに勘付いたのを見て取ってか、都倉さんは静かに、呟くようにそう言った。
「私や他の誰かを気遣うのではなく、自分本位で判断するんだ。いいな?」
突如湧き出した暗い過去の片鱗に触れて、硬く強張った私の肩を、都倉さんは優しくポンポンとたたいてから食堂を後にした。
私はその後姿を見送ることもできず、姿勢を変えることもなく、ただぼんやりとするだけだった。
あの頃私が知りたかったことが、あの頃と同じようにして心に乱雑な螺旋模様を描き出していく。それによってもたらされるのは、痛みのような、息苦しさのような、とにかく我慢を強いられる感覚だ。
父に詳しい仕事内容を聞いても、いつもはぐらかされてきた。どうしても知りたくて密かに会社を探したけれど、見つけられなかった。父が亡くなったのは交通事故などではなく、母が治療を拒否したのも病に屈したからではない、そう信じたいと、その確固たる根拠を見つけたいと思っていた。
私がこれまで強く求めたものは壁の向こうにあって、それを越えるための梯子が今、目の前で掛けられている。もしこれが、暗闇で独りうずくまって泣いているだけだったあの時に与えられていたなら、私は一も二もなくしがみついていただろう。それなのに、今の私はそれに手を伸ばすことをこんなにも
降って湧いたような話に、頭が追い付いていないせい? それとも、そんな
都倉さんの申し出に応じる決断ができない理由を幾つも考えて、そして、たどり着いた先にあったもの。
(――時間、経ちすぎちゃったんだろうな)
心にすとんと落ちたその瞬間、再び私を苛もうとしていた嫌な感覚は嘘のように消えた。
あの時はっきりと感じていたはずの怒りや悲しみ、寂しさは、時間がそのほとんどを”過去の物”に変えてくれた。それらを礎にして、私はすでにこうして自分なりの幸せの形を作り上げている。両親の死を受け入れ、つまらないだけだった仕事に意義を見出し、小さいながらも居場所を見つけ、さらにそこから世界を広げていこうという思いまで湧きあがっていて……。
もう、”今さら”なのだ。
知るには覚悟が必要だというその真実は、きっと私が手塩にかけて育てた幸せを崩してしまうに違いない。それを分かっているから、私は――。
(ごめん、なさい)
テーブルにそっと、都倉さんの連絡先が書かれたカードを置く。そして、ただ自分のつま先だけを見つめて、私はその場を後にした。
越えない方がいい一線は必ずある。そんな言葉が、心の中に浮かんでいた。
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