(7)
「あ、そう言えば」
コース最後のデザートとコーヒーが運ばれてきたところで、私はあることを思い出してふと顔を上げた。
「予約を変更しないかって連絡をしてくれた、あの……暮野さんって、今日はいらっしゃらないんですか?」
「……」
都倉さんが、私をじっと見つめて小さく首を傾げる。
やってしまった、と思った。この空気感からして、私はおかしなことを口走ったんだと確信したその時だった。
「暮野は、私ですが」
斜め後ろから低く優しい声が降り注ぎ、そちらの方を振り返る。
デザートのサーブを終えて厨房へ戻ろうと背を向けたところだった紫藤さんが、困惑した表情を浮かべてこちらに向き直っていた。
「え……と」
「……ご存知だと思っていたのですが、そうではなかったようですね」
「えっ、だって、じゃあ、”紫藤”っていうのは……?」
「私のファーストネームです」
血の気が引く、というのはこのことだと、ここまではっきり実感したことがこれまであっただろうか。
今の私の心境を表すなら、なんてこったい、この一言に尽きる。私はこれまで二人のことを、初対面でもファーストネームで呼んでしまうちょっと距離感が馴れ馴れしい紳士だと思っていたのに、紫藤さん、いや、暮野さんに関してはどちらかというと私の方が馴れ馴れしい人間だったようだ。
「ご、ごめんなさい。私てっきり苗字だとばかり……」
「いえ、構いませんよ」
めまいを起こしそうになりながらも、なんとか礼を失していたことを詫びると、暮野さんは優しく微笑みながら首を横に振り、軽く会釈をしてからこの場を後にした。
「変だと思ったんですよね。ほら、都倉さんとスコーンのレシピの話をした時、態度が何だかおかしかったから」
恥ずかしい気持ちを何とか誤魔化そうと、私はまくしたてるように言いながらフォークを取り上げた。
都倉さんに名前で呼べと言われた時はあんなに拒否したくせに、暮野さんだけあっさりと呼んでしまうなんて、都倉さんからすればさぞ不自然な光景に見えていただろう。
「てっきり”スコーン”の発音が間違っているのかなって。でも間違ってたのは名前の呼び方だったんですね」
スッキリして良かった、そう続けて、フォークの先をフルーツタルトに触れるか触れないかの位置まで下ろした時だった。
「……間違っては、いない」
「え……」
小さくくぐもった都倉さんの声。初めて聞くようなその低い声音に、私は驚いて手を止め、顔を上げた。
「間違っていないと言ったんだ。君が彼を”紫藤”と呼ぶことは」
都倉さんは少し怒ったような、それ以上に悲しげな表情で私をまっすぐ見つめていた。
フォークを置き、都倉さんの言葉の意味をしばし考える。迎えの車内でした、名前を呼ぶ呼ばないのやり取りに行き当たったけれど、そのことについて言っているようには到底思えない。
「すみません、あの、それはどういう……」
「咲葵」
「……!?」
名前を呼ばれた、だけではなかった。
都倉さんはすがるような、切ない、という表現がぴったりだと思わせる目で私を見つめながら、私の手を強く握ったのだ。
「ああああああのあの、こ、これは一体……!?」
ひんやりと冷たい手の感触と、心まで絡めとられるのではないかと思わせる熱いまなざし。
突然それらの応酬を受け、パニックに陥る、という道しか残されていなかった私は、裏返りそうになる声を何とかコントロールしながらも、都倉さんのこの行動の意味を引き出そうとした。けれど、都倉さんは何も答えない。ただ私の視線と手を捉えたまま、微動だにすることすら許さないかのような空気を醸し出している。
私はますます焦った。こうして男の人に見つめられながら手を握られるなんて、浅野くんの一件以来、一度もなかったことだから、どう対応したら良いのか分からないのだ。
(そ、そうだ。まずは手を放してもらおう。それでいったん落ち着いたら……ああそう、そうだね、落ち着こう、先に落ち着いた方がよさそうだ。いやでも、それにはまず手を放してもらってからじゃないと……)
「……咲葵、君は本当に何も」
「の、喉が! 喉がすごく乾いているんですよね、私!」
真っ白になった頭を何とか無理やり回転させた私は、声量の調節も忘れ、夢中で言葉をひねり出した。
「ですから、手を放して下さればと! コーヒーを一口頂ければと!」
私の妙な反応に気を削がれたのか、都倉さんはハッと我に返ったように息を呑むと、黙って私の手を解放してくれた。
「ありがとうございます。それじゃ、いただきます」
自由になった方の手でコーヒーカップを取り上げ、その指の感覚でさほど熱くないことを悟った私は、一気にその中身を呷った。
考えてみれば、もう片方の手は使える状態のはずで、コーヒーが飲みたいならこちら側の手を出せばいいことだった。だけどまあ、とりあえず都倉さんがそこに触れず素直に手を放してくれて助かったと思うことに……
「……おい、咲葵!」
ほっと一息ついたのもつかの間、何かに気が付いた都倉さんが慌てたように、空っぽになったカップを私の手から取り上げた。
「あっ、ちょっ……」
「まさか君、これを全部飲んだのか!?」
何のことかと思ってテーブルを見ると、飲み干したと思った私のコーヒーはまだカップに注がれた時のままで、都倉さんのソーサーには何も乗っていない状態だった。配置をよく確認すると、私が飲んだのはどうやら都倉さんの方に出されたコーヒーらしく。
(あ……)
間違えた、そう思った次の瞬間、私の視界はぐらりと揺れ、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
◇
「大丈夫か?」
「はい……何とか」
私は今、客室のベッドで横になっている。さっきデザートと一緒に出されたコーヒーを一気飲みした私は、そのまま倒れてしまったのだ。
都倉さんに出された方のカップを取ってしまったが故の事故というか、実はあのコーヒーには度数の強いブランデーが入っていたそうで、前述のとおりお酒がだめな私は体が過剰反応してしまったらしい。
つまり、私は今、非常に酔っぱらっている。
「ごめんなさい。せっかくのフルーツタルトだったのに、食べられなくって」
「気にすることはない」
「でも、すごくおいしそうだった……」
何のことはない、単に私が食べたかっただけだ。
「またいつでも作ってあげるから。とにかく、今は少しでも体を落ち着けるんだ」
余計なことは考えるなと言わんばかりのその言葉に、私は小さくうなずいた。
また作ってくれる、って、いつになるだろう。いつでもって、本当にいつでもなのかな。
そんなつまらないことを考えながら、重くなる一方の瞼を何とかこじ開けてはいたけれど。
「あの……」
「ん?」
「……このまま、寝ちゃだめですか」
呆れたようなため息。額に乗せられた濡れタオルを少しずらして都倉さんの方に目をやると、都倉さんは意外にも笑顔を見せていた。
「それなら、少し眠るといい。頃合いを見て一度起こしに来よう」
「朝まで寝ちゃだめですか」
「だめだ。二日酔いになるぞ」
「ええー……」
もう頭が働かなくなってきたので、とりあえず小さな反抗だけはしておいてから、その後は口をつぐんだ。
心地よく冷たい感触が、茹だるほど熱く火照った頬を優しく撫でていく。ああ、もう一つ、濡れタオルを当ててくれたんだと思いながら、私は静かに意識を沈めていった。
◇
耳に届いたのは、誰かが言い争うような声だった。それは激しいはずなのにとても静かで、きっと眠っている私を起こさないよう気遣っていたんだろう、と思った。けれど、時折強くなる語気からして、感情は非常に昂っているようだ。
お父さんと、お母さんの声。そして、もう一人は……
「――……」
無意識に呟いた、その名前。ああ、そうだった。私、この名前の響きに覚えがある。
そう思ってからすぐ、その記憶は闇に吸い込まれてしまった。
ええと、誰だったかな。私いま、誰のことを思い出していたんだっけ。
もう少し頑張れば思い出せそうな気もするんだけれど、何しろ私、酔っぱらっているから……。
「目が覚めた?」
そう言って私を覗き込んだのは、奥平さんだった。
「あ、れ……」
視線だけを動かして辺りの様子を確認する。天蓋から流れる薄い半透明の布越しに、今自分がいる場所を特定してから、私は体に響かないようゆっくりと上半身を起こした。
「すみません、私ものすごくぐっすり寝ていたみたいで……」
「ええと……うん、そうね。まずは少し水分を取りましょうか。出来たら、オレンジジュースを飲んでおいてほしいんだけれど、受け付けそう?」
何かはぐらかされたような気がするけれど、まあいい。それより、さっきから喉が乾いて仕方なかったんだ。
「はい、頂きます」
「すぐ用意するわね。ああいいの、ベッドからは降りないで。もうここに運んできてあるから」
奥平さんは腰を上げかけた私を制しながらそう言うと、こちらに背を向けてサービスワゴンに乗せたガラスのミニピッチャーを取り上げ、ジュースジャーに中身を移し始めた。
「全部は飲まなくていいから、ゆっくりね」
私は小さな声で感謝を伝え、差し出されたジュースジャーを受け取ると、かさかさに乾いた唇でストローをくわえた。
ひんやりとした感触と、甘酸っぱい香り。喉だけでなく全身が潤っていくのを感じながら、私は一気にジュースを飲み干してしまった。
「……」
「……お代わり、いる?」
「……お、お願いします」
奥平さんは優しく微笑むと、空になったジュースジャーを私の手からそっと取りあげた。
「咲葵ちゃん」
「あ、はい」
「……玲ちゃんから何か聞けた?」
オレンジジュースを移す作業をしながら、こちらへちらりと視線を向ける奥平さん。私は少し迷ってから、小さくうなずいてみせた。
奥平さんは、そう、と一言呟いて再び私の方へ向き直り、お代わりを差し出してくれた。
「ご両親の話を、したのよね」
「はい。昔の思い出話を色々と聞かせてくれて」
私がそう答えると、奥平さんはベッドの端に腰掛けながら少し難しい顔をした。
「それ以外は、何も?」
「え……それ以外、ですか」
思わぬ問い掛けに困惑してしまう。それ以外って、何だろう。あの時話した内容と言えば、調理や食材のこととか、私が暮野さんをファーストネームで呼んでしまっていたこととか、あとは……まあ、それぐらいしか思いつかない。
「ごめんなさい、ないならそれで構わないの。私が口を出していいことではないのだし」
「あ、あの」
「私が詮索したってことは、あの二人には内緒よ? こんなことが知れたら、またながーい説教を聞かされるに決まってるもの」
眉をひそめて嫌そうな顔をして見せてから、奥平さんは深いため息をついた。
しょんぼりと肩を落とすその姿から、ついさっきまで叱られていたんだろうことが見て取れる。
「……分かりました、黙っておきます」
苦笑しながらそう答えると、奥平さんは嬉しそうに破顔して、良かった、と呟いた。
「さて、私はそろそろ下がるわね」
「すみません、お手間を取らせてしまったみたいで」
「何を言っているの。倒れたお客様を介抱するのは、店の者として当たり前でしょう」
なんたって私はオーナーなんだし、と弾むような口調で付け加えると、奥平さんはまた鼻歌を歌いながらサービスワゴンと共に部屋を後にした。もちろん、こちらに手を振るのも忘れずに。
再び静かになった部屋を、ぐるりと見渡す。
中身が半分ほどになったジュースジャーをサイドテーブルに置きながらアンティーク時計を確認すると、その針は十時半を指していた。
私は深呼吸を一つしてから、のそのそとベッドから這い出るようにして降りた。
窓の方へ寄り少しカーテンを開いて、その隙間から外の様子を覗く。月が空の高い所で煌々と輝いているのが見える。それ以外の光源がないせいか、月明かりが少し眩しく感じた。
再びカーテンをきちんと閉じ、幾分かは軽くなった体を少し伸ばしてから、私はシャワールームの方へ向かった。
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