(6)




「おおおおいしい……!」


 たった一言、ごく一般的な言葉でしかこの料理の素晴らしさを表現できない自分が情けないのだけれど、私の舌はいま感動的な衝撃を受けており、”食の喜び”の何たるかを思い知らされている。

 前菜として出された、”紅葉のロースト”。その名前から、秋らしい色どりで皿が飾られているのかと思っていたけれど、そうではなかった。

 薄くそぎ切りにされた肉の、外側の焼き色から内側のワインレッドへのグラデーション。うまみをたっぷり含んでいそうな艶やかな表面の照り。見た目は完全にローストビーフだけれど、一口噛みしめただけでロースト”ビーフ”ではないことが分かった。

 よく知ったあの風味とはまた違う、もっとこう、自然な感じというか。人のためにおいしく柔らかく育てられたのではなく、自力で過酷な環境を潜り抜けて生きてきたのではないかと思わせるような、そんな野生的な味わいなのだ。


「このお肉って、牛……じゃないです、よね」


 鼻に抜ける甘酸っぱいソースの香りを楽しみながらそう尋ねると、都倉さんはワイングラスを置きながらうなずいた。


「それは鹿肉だよ」

「鹿……あ、そうか。鹿肉は”モミジ”だから、紅葉のロースト、なんですね」

「その通り。今日キャンセルした客が調達してくれた、特別な肉なんだ」

「特別な……」

「スーパーの精肉売り場で行儀よく並んだ肉など食うに値しない、と豪語するような人でね。自ら狩って捌き、熟成までの工程も全て自分で行なったらしい」


 肉は買うものではなく、狩るものだったか。

 ……ああ、今のフレーズ、ちょっといいかもしれない。

 それにしても、予約日程を繰り上げないかと連絡を受けた時はずいぶん一生懸命に勧めてくるんだなと思ったけれど、今の話を聞いてようやく得心がいった気がした。こんなおいしいものを誰にも味わってもらえないのは、確かにもったいないことだ。

 濃厚なのに後を引かないさっぱりした肉の味、そこに絡む、酸味の中に静かな甘味の効いた深紅のソース、横に添えられた緑野菜を合わせれば、ぴりっとした辛味も加わって……。

 これは、やばい。どうしてもフォークの行き来を止められない。

 もっとゆっくり味わいたい、それに都倉さんのペースにも合わせなきゃ、そう思っている合間にも、明らかに私の皿の余白はどんどん広くなっていく。


「ジビエって、もっとクセが強くてすごく固いイメージがあったんですけど、そうでもないんですね」


 理性で本能を抑えられないならば、別の手段を取るまで。

 私は、話すことによって食べるスピードを調節することにした。食とは違う目的で口を動かしておけば、否が応にもフォークの動きは止まるはず、という判断だったのだけれど。


「熟成方法や火の入れ方を間違えれば、クセが強く出たり固くなったりすることはままあることだ。同じ個体でも部位が変われば手の掛け方も変わる。その辺りの見極めがきちんとできれば、野生の肉でもこうしてちゃんと答えてくれるんだ」


 そう話す都倉さんの表情は、料理が本当に好きなんだということがひしひしと伝わってくるほど、慈愛に満ち溢れているように感じた。そして、私の目論見は見事に外れたことも同時に思い知ることになった。

 私が話し掛けると都倉さんもそれに丁寧に答えてくれるわけで、そうなると結局二人の食べるスピードの差は縮まるはずなどないのだ。

 普段一人で食事をすることが多いせいで、つい本能に従ってマイペースに食べ進めてしまうおひとり様の悲しき悪習慣。今はきっちり封印しておかないと……。


「そう言えば、都倉さんは両親とはどういう風に知り合ったんですか?」


 一旦ナイフとフォークを置き、炭酸水の入ったグラスに手を伸ばしながら、私は都倉さんに視線を向けた。

 食の進みを遅くする為の話題提供ではなく、これは私が純粋に聞きたかったことだ。

 都倉さんの年齢は、見た目だけなら二十代から三十代前半で充分通せると思う。でも両親の名を呼び捨てにしているところや、どこか時代がかった堅めの言葉遣いを考慮すると、どうしてももっと上の年齢層を想像してしまう。両親との出会いを聞けば、ある程度の年代はつかめるのではないかと考えたのだ。


「そうだな、まあ……仁哉については、仕事の関係で、といったところだ」

「仕事、ですか」


 父が亡くなったのは私が十七歳の時だった。出会ったのは確実にそれよりも前に違いないから、それなら都倉さんの年齢は……?


(分からないけど……。なくはない、よね)


 私はかぶりを振った。別に幾つだって構わないんだし、人様の年齢のことで頭を悩ませるのはやめよう。


「……あ、じゃあ」


 具体的に何がきっかけで知り合ったのか、いつからの付き合いなのか、本当はもう少し突っ込んだところまで聞くつもりだった。

 でも、都倉さんの視線がすっと私から外れ、その行き先が優雅な所作で取り上げたワイングラスへと向かっているのを見て、私は次に用意していた質問の言葉を思わず飲み込んでしまった。

 食事中であるならよく見られる、本当に何気ないその仕草。でも、その時の空気感というのだろうか。私は都倉さんがそれ以上踏み込んでこられることを嫌がっているような、そんな雰囲気を感じ取ってしまったのだ。


「じゃあ……、母とは父からの紹介で?」


 咄嗟の判断で質問を変えたのは、やはり正解だったらしい。ワインを飲み下してこちらに向き直った都倉さんの表情は、既に優しく緩んでいた。


「ああ。どうしても会ってほしいと、数週間に渡って毎日電話攻撃を受けた。正直あの時は、電話の呼び出し音が鳴るたびに背筋が凍ったよ」

「あ……はは」


 笑いが乾いてしまう。私たぶん今、上手な笑顔を作れていないと思う。

 亡き人を、しかも自分の父親を悪しざまに言うのも何なのでなるべく良いように表現すると、父は人懐こさがちょっと暴走してしまうというか、人好きが過ぎて制御が効かなくなるところがあったのだ。


「……その節は、父が大変ご迷惑をおかけしまして」

「いや、当時は……うん、はっきり言えば疎ましいと感じていたが、仁哉のそういうところに救われ癒されたのも事実だ。彼に出会えて、本当に良かったと思っているよ」


 私は苦笑いを浮かべて炭酸水を流し込み、額の汗をそっと手で押さえた。

 恐らくストーカーとして訴えられても何ら不思議はない父の過去の不義を、笑顔で語る思い出に変えてくれた都倉さんの器の大きさには感謝してもしきれない。


(ああ、そう言えば……そうだったな)


 また一つ、思い出がよみがえる。

 父は、出会う人皆にいつも何かしらの縁を感じていて、挨拶を交わそうものならこれはもう運命だと、連絡先を聞かずにはいられないという厄介な人だった。旅行先で数分世間話をしただけの老夫婦と、季節ごとに絵葉書や贈り物のやり取りをするような仲までに発展させたことがある、と言えば程度の想像がつきやすいだろうか。

 これほど人を愛していた父には、当然のことながら友人が多くいた。さっき挙げた老夫婦のように、手紙のやり取りをするだけの相手ならそれこそ数知れずいたし、年に一度は多くの友人を招いて盛大なパーティーを開いていたこともあった。

 家族だけではなく、周囲の人間を大切にしていたはずだった。たくさん愛情をかけて、たくさん返してもらっていたはずだった。

 それなのに、父はそのすべての関係をシャットアウトして仕事にのめりこんでいってしまった。大事にしていた住所録も、友情の証だと丁寧にファイリングしていた手紙やはがきも全部処分して……。誰にも一言も伝えずに引っ越した先のマンションでも、近隣の住人とコミュニケーションをとることはなかった。

 その結果、心から悲しんでくれる参列者のいない葬儀で父を見送ることになってしまったのだ。

 父をそこまで駆り立てたのは、一体何だったのか。人との絆を断ち切ってまでやり遂げたかった仕事とは、一体どんなものだったのだろうか。

 今となってはもう知る術はなく、考えても仕方のないことなのだけれど……。




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