(5)
ロビーや客室などはずいぶん凝った内装だったけれど、この食堂はそれに比べると簡素に思える。目立った調度品と言えば、グラス置き場として使用されているキャラメル色をしたアーチ型のキャビネットぐらいだろうか。
シンプルなダイニングテーブルと、それに合わせたダイニングチェア。背もたれと座面の張地に使われている織布は深いオレンジの単色で、こちらもまた豪華さとは縁遠い代物のように感じられる。
「余計なことを……」
彼女の同伴者だから私の分の料理もお願いね、と言いながら、私の向かいの椅子に腰掛けた奥平さん。
その言葉で状況の概要を察したらしい紫藤さんは、呆れたように呟いて額に手を当てた。先ほどの穏やかさからは想像がつかないほど表情は厳しいものに変化していき、そのオーラに圧倒された私の背筋は自然と、まっすぐに伸びたその形のまま固定されてしまった。
「あら、このルールはお客様に言っちゃいけなかったかしら。それはそれは、ごめんなさーい」
私だったらひれ伏しながら謝り倒すであろうこの状況下で、奥平さんはいたずらっぽく舌を出して誤魔化している。
そのお茶目さんな対応はちょっと悪手なのでは、と、非常にハラハラしながらも、私はただ二人のやり取りを眺めるしかできず、ひたすら視線だけをきょろきょろと動かしていた。
「もういい。君は席を外しなさい」
「今日は、”すべて玲の意志に沿うべし”じゃなかった?」
私からすればそれは、脈絡がなく会話の流れにそぐわない、不自然さが際立つ言葉だ。
だが紫藤さんはそこから何かしらの意味を汲み取ったらしく、怒りを帯びていた表情は驚きのそれにとって代わった。
「一人でテーブルに着くことは禁止。そんなバカげたルールを決めたのは玲ちゃんでしょう」
「それは、……」
言い返せないのか、言葉を探しているのか。紫藤さんはそれ以上は黙したまま、視線をわずかに下へとずらしていく。
「私はそのルールに従っているだけよ。それは、……紫藤さん、あなたが私に言いつけたのではなかった?」
奥平さんはその瞳に意味ありげな光を湛えながら、紫藤さんを視界にとらえてそう言った。
「とは言っても、ね。もし私以外に咲葵ちゃんにご同伴して下さる方がいるというのなら、私は席を譲らざるを得なくなりますけど」
紫藤さんは答えない。その寄せられた眉根から苦悩が感じられ、理解しがたいというよりも賛同しかねているような、そんな心境であるように見えた。
「さ、どうする? 黙っているだけじゃ、私は動かないわよ」
その言葉が最後の一押しになったのだろう。紫藤さんはがっくりと肩を落とし、深い深いため息をついた。
どうやらこの場は、奥平さんの言い分が通ることになりそうだ。
(えー、と……)
ここまで空気を読みつつ黙って二人の様子を観察していたけれど、さて、どうしよう。状況が何一つ分からない。
確実に分かったのは、第三者が口を挟むべきではない、というか挟む隙間など全くなかったのだけれど、他人が首を突っ込んでいい内容ではないだろうということ。そうなると、気になるところが一つ。
私、この場にいて良かったのだろうか。
紫藤さんは奥平さんに席を外すよう言っていたけれど、もしかして、それは私の方がすべきことだったんじゃ……。
「とにかく」
これ以上の沈黙は許さない、と言うかのように、奥平さんの凛とした声が響く。私は、離席する旨を伝えようと開きかけていた口を慌てて引き結んだ。
「私の代わりを連れて来て。そうしたらお望み通り、ここから立ち去ってあげるわ」
勝敗が決したとはいえ、空気の重さはそれほど変わらない。
何とも言えない重圧感に不安を抑えきれず、私が二人を交互に見比べていると、不意に紫藤さんと目が合った。
「あ、えー、……」
「申し訳ありません、お見苦しいところを」
何か言わなくては、その一心でただ口を開き、”言葉”とは言い難い謎の唸り声を上げただけの私に、紫藤さんは厳しい表情を保ったまま軽く頭を下げた。
「不愉快な思いをさせてしまったお詫びは、また何らかの形で必ずさせて頂きます」
「そんな、お詫びだなんて! 不愉快には思っていないですし、むしろ、お店にそんなルールがあったなんて知らなかった私の方こそ」
謝ろうとしたところで、紫藤さんは首を横に振った。
「咲葵さんは何も悪くありません。私の判断が甘かっただけのことです」
そう言って紫藤さんはチラリと奥平さんを睨……見やると、再びこちらに視線を戻した。
「すみません、少しお待ち頂けますか」
「え、あの……」
「五分ほどで終わらせます」
紫藤さんはそう言ってから、奥平さんの肩に手を置いた。奥平さんは先ほどと変わらない澄ました表情のまま、それでも肩に置かれた手の意味を理解して、優雅な所作で椅子から立ち上がる。
腕を引かれたり背中を押されたりすることもなく、食堂の外へ向かう紫藤さんを静かに追従するその姿は、サスペンスドラマのラストシーンで真相を暴かれ逮捕されたセレブ妻のようだ。
そんなことをぼんやり考えながら二人を見送る。
途中、笑顔で手を振ってくれた奥平さんに苦笑いと会釈を返してから、私はダイニングチェアに深く掛け直し、ほうっと一つ息をついた。
◇
重厚なつくりの大きな柱時計が、時を刻む音を響かせている。針が指し示す現在の時刻は、七時二十五分だった。
つまり、紫藤さんたちがここを出てから二十分ちょっと過ぎたことになる。
あれから何の音沙汰もないまま、私はここで一人ぼんやりと座っていた。何か理由をつけて席を立っても良かったのに、何となく機を逸してしまっていた。
「……はあ」
ため息がこぼれる。その吐息の音は意外に大きく響いていて、食堂の静けさが一層際立つように感じる。
営業を開始すれば、きっとここは賑わうに違いない。こんな静寂の中で食事ができるのは、もうこの機会を逃せばなくなるんだろう。
この二十分ほどの間でそんなことを考えたのは、たぶんこれで三度目だ。そろそろ手持ち無沙汰と空腹を耐えるにも限界がきた、と感じたその時だった。
「すまない、準備に手間取ってしまって」
どうやら私はぼんやりすることに集中しすぎていたらしく、人が近づいてくる気配に全く気付けないでいたようだ。はたと我に返り顔を上げると、都倉さんが私の向かいの席に着く姿が目に入った。
「あ、あの」
「オーナーの代わりに私が同伴を務めるよ。彼女に任せていては、更に余計なことを言いかねないから」
困ったようなその笑顔がまた眩しい。さらりと揺れる前髪がとても色っぽい。コックコートで男前度が数割増しだと言ったけれど、ブルーグレーのシャツに細かなヘリンボーン模様の上品なジャケットを羽織ったフォーマル姿は、その何倍もかっこいい。もう私に対する言葉遣いが丁寧なものではなくなってしまっていることすら気にならないほど、都倉さんのイケメンオーラに圧倒された私は、黙ってうなずくことしかできなかった。
「食前酒はいかがなさいますか」
いつの間にか都倉さんの後ろに控えていた紫藤さんがそう尋ねる。
「あ、わ、私は……」
「彼女にはジンジャーエールを。私にはいつものでいい」
アルコールがダメなことはもう話していたんだろうか。都倉さんとの会話を思い出そうと記憶を探るけれど、何しろ起こそうとする行動すべてが手に付かず、集中できない。
さっきは、自分を貴族の娘などに見立てて書き物なんかを楽しんでいたけれど、とんでもない事だと気付いた。そんな余裕ある高貴な振る舞いなんて、この人の前ではできそうにない。そう、私は平民だ。何を間違ったかこんなきれいなお城に迷い込み、その主である伯爵から思わぬもてなしを受けて困惑する農家の娘、という設定がお似合いなんだ。
ああ、何だか脳の回路が混線して思考が定まらない。何だっけ、私何のことを考えて
「大丈夫か?」
「へっ?」
「顔が赤いが……。もし体調が優れないのなら」
「い、いえ、大丈夫です。こ、こういうかしこまった席は初めてで、その、緊張してしまうというか」
本当は都倉さんのイケメン具合に恐れおののいているなんてことは言えるはずもない。とりあえずつっかえながらもそう答えると、都倉さんは一瞬キョトンとした顔で私を見つめた後、肩を揺らして笑い始めた。
「あ、えっ、と……。私、何かおかしなことを……?」
慌ててそう尋ねると、ますますおかしさが増したようで、都倉さんは頭を垂れながら声を殺すようにして笑い出してしまった。こうなってしまった人間は、こちらが何かアクションを起こすと更に刺激を与えられて笑いが止まらなくなってしまう。私は居心地の悪さを覚えながらも、早めにその嵐が収まってくれることを願いながら大人しく待つことにした。
「……もう、話し掛けても大丈夫でしょうか」
ようやく一息ついたところを見計らってそう尋ねると、都倉さんはジャケットの襟元を正しながら何度か小さくうなずいた。
「いや、本当にすまない。こんなに笑わせてもらうとは思いもしなかった」
「楽しんでいただけて良かったです」
特に私が何をしたわけでもないけれど、とりあえずそう答えておく。ジンジャーエールをあおる私の顔があまりに憮然としていたせいか、都倉さんは今度はバツが悪そうな笑みを浮かべた。
「女性に対して失礼な態度を取ってしまったな。本当に申し訳ない」
「いえ、別に……。失礼とかそんなことは、思ってないですけど」
むしろお陰で緊張がほぐれたのだけれど、それは黙っておこうと思う。ちょっと腹が立ったのは事実だし……。
「懐かしいな」
「え」
「前にも、これと同じようなやり取りをしたことがあった。それを思い出したんだ」
「私と……ではないですよね?」
「ああ。ここへ来る車内で少し話しただろう、ジャズ談義をさせるとやたら熱くなる友人がいたと」
そう言われて、都倉さんが送迎車の中で聞かせてくれた話がよみがえった。
その人が、私のような感じだったということだろうか。
「その友人が亡くなったという話は、もうしたかな」
「……亡くなられた、ということだけを聞いたように思います」
そう答えると、都倉さんはやや感傷的な憂いをその表情に湛え、私をまっすぐ見つめた。
「数年前、不慮の事故で亡くなったんだ。乗っていた車にトラックが追突し、ガードレールに突っ込んで……」
「そうだったん、ですか」
父と同じだと思った。
父も仕事の車で山道を走行中、居眠り運転をしていたトラックに後ろから勢いよくぶつけられたせいで、ガードレールに衝突したのだ。ガソリンに引火して車は燃え上がったらしく、父の遺体は家族に見せられる状態ではないという理由で、身元確認もできなくて、
「遺体の損傷は激しく、家族も最後の顔合わせをさせてもらえなかったそうだ。親戚付き合いのなかった彼の葬儀には、妻と娘以外の参列者はほぼおらず、会社の人間すら顔を出さなかったと」
「え……」
どくん、と一つ、鼓動が大きな音を立てる。心臓が跳ね上がったかのようなその感覚に、私は思わず胸元でぎゅっと強く手を握り締めた。
家族で過ごす時間を犠牲にしてまで頑張っていた父。そんな父の葬儀に会社の人が誰も来なかったことを、私はとても悔しく思っていた。父の些細な努力なんて、社内の誰の目にも留まることはなかったのだと告げられているような気がしてならなかったからだ。
「私が彼の死の報せを受けたのは、ずいぶん経ってからだった。事故のことも葬儀のことも、偶然出会った彼の妻から聞かされて初めて知る所となった」
「……」
「……君は」
「君は、父親によく似ている」
幼い頃から、よく言われていたことだった。初めはみな母親似だと言うけれど、父の顔を見るや否やその評価は、”お父さんにそっくり!”に変わるのだ。
気弱そうな下がり眉も少し上を向いた鼻先も気に入らなかったけれど、そこが父譲りであることが分かってからは、愛すべき特徴になった。外光の下では少し変わった色合いを見せる瞳がうんと好きになったのも、父譲りの特徴だと指摘されたからだ。
「
両親の名を違わず口にし、そして頭を下げる都倉さんの姿を見つめながら、私は唇を噛みしめた。
何も答えられなかった。頭を上げて下さいとも、言えなかった。ただひたすら、白くにじむ視界がこれ以上歪まないよう、こらえることに精一杯だった。
「ご存じだったん、ですか」
ようやく絞り出した声はかすれ、震えていたように思う。都倉さんは小さくうなずき、私の質問に是の意を示した。
「それじゃ……今日私をここに呼んだのは、そのことを話すために?」
「それは違う」
「でも、」
「キャンセルで空きが出た日に予定を繰り上げたことは、確かにこちらが作為したものだ。だが君がここに来ることになったのは本当に偶然だったんだ」
都倉さんはそう言うと、テーブルの上で組んだ手に視線を落とした。
「予約リストに君の名前を見つけた時、心臓が跳ね上がる思いだった。直後、君から電話がかかってきて」
その言葉に、予約変更の電話を入れた時のことを思い出す。最初に電話に出た時に都倉さんが挙動不審だったのはそのせいなのか、と、ようやく合点がいった私は、思わず口の端をゆるく上げた。
「まあ、積もる話は腹ごしらえをしながらゆっくりするとしよう。そろそろ前菜が仕上がる頃だ」
「……! は、はい!」
都倉さんの提案に、いささか場違いなほど元気な返事をしてしまったのは、空腹が満たされることに対する期待や喜びからではない。
両親のことを知っているのは、この世で自分だけだと思っていた。私以外の誰も、二人の死を心から悼んでくれることはなかったから。だけど今日、こうして二人の思い出を語ることのできる人に会うことができた。
”積もる話”を聞いてくれる、共感してくれる人が目の前に現れたのだ。
私はその事実が本当にうれしく、すっかり舞い上がってしまった。私をにこやかに見つめていた都倉さんが、密かに表情を曇らせたことに気付くこともないまま。
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