(4)




 ――大丈夫、怖がることはない。


 その人はいつもそう言って、私の方へと手を伸ばす。

 白い指先が頬に触れるか触れないか、というところまで来ると、私はこう思うのだ。


 (ああだめだ、捕まってしまう)


 そうして強く目をつむったところで、私は現実世界へと引き戻されて……。


「ここ、は……?」


 見慣れない部屋の景色、嗅ぎ慣れない甘いバラの香り。私は口元を飾る夢の残滓ざんし――いわゆるヨダレというやつを拭いながら、辺りを見回した。

 ああ、そうだ。私、お城に来たんだった。

 ごく簡単に事情を思い出して、一つ息をつく。首を回してから伸びをし、もう一度大きく深呼吸をしてから、ソファから立ち上がった。

 ベッド横のチェストに置いてあったアンティーク時計は、六時四十分を指し示していた。私が指定した夕食時間まであと二十分ほどだけど、確か奥平さんが声を掛けに来てくれると言っていたから、それまでに身支度を整えておかなくては。


「とりあえず、お化粧は直した方がいい……よね」


 頬に軽く手をやりながら独り言ち、バッグを探って小さなポーチを取り出してから洗面所へ向かう。鏡に映った自分が、思ったほど酷い有り様ではなかったことに安堵しつつ、ポーチのジッパーを開いた。

 私は物心ついた時から、毎日ではないけれど、同じ夢をたびたび見ている。

 小さな少女である私に見知らぬ男性が触れようとするだけで、そのシーンの前後のストーリーが展開されることはない。たった数秒で終わってしまうような本当に短い夢なのだけれど、私はそれをひどく怖がっているのだ。

 なぜ怯えているのか、その理由は分からない。

 そのシチュエーションに犯罪めいた匂いがするからかとも考えたけれど、どうもそうではないらしい。というのも、こうしてその夢の情景を思い出したところで、現実の私が恐怖心を覚えることはないのだ。私が夢を怖がっているのではなく、夢の中の少女役の私がその状況に怯えている、と言えばしっくりくるだろうか。

 今のところ実生活に支障を来すような影響はなく、ああまたいつものやつね、くらいに受け止められているので、これまでそれほど気に留めたことはなかった。


「でも今日は何だか……やけに景色がはっきり見えたなぁ」


 眉用ペンシルをポーチにしまい、鏡の自分をじっと見つめて呟く。

 雪が降っていた。池の水の表面にはうっすらと氷が張っていて、鹿威ししおどしもその動きを止めていた。

 そして、少女に触れようとしているその男性の顔は、指先と同じくらいに白く透き通った肌をしていて……。

 今までは視界がぼんやりとしていたこともあって、周囲の景色はともかく、目の前の男性の様子すら、ここまで認識したことはなかったのに。

 これには何か意味があるのだろうか。私の心境の変化? それとももっと別の……


「……」


 ああ、いけない。これは、つまらないことを気にしてグダグダと考え込んでしまうパターンに陥ってしまうやつだ。

 私は頬をぱちぱちと叩いて気持ちを切り替えると、服にあからさまなシワが寄っていないことを確かめて洗面所を出た。

 再度時間を確認すると、先ほどから二分ほど経過していた。化粧直しが五分以内で済むなんて夢のような話だと芹香が言っていたことを思い出す。メイクを完璧に仕上げるために毎朝五時前に起床している彼女に、一からのメイクでも二十分もかからずに済んでしまうという事実は、未だに打ち明けられていない。

 ポーチをバッグに片付け、手持ち無沙汰になった私は部屋を見回した。

 テレビを見る気にはならないし、スマホゲームに興じることもしたくない。そんなことをすれば、せっかくの貴族の娘気分が台無しになってしまいそうだ。


「ちょっと早いけど、食堂の方に降りてみようかな」


 もう一度時計に目をやる。ここは三階だし、内装や調度品をじっくり見て楽しみながら向かえば、それなりにいい時間になるかもしれない。

 そう考えて、私はコートツリーに掛けていた小さめのショルダーバッグを手に取った。







 奥平さんは忘れっぽいのだそうだ。

 例えば知り合いと食事の約束をしたとして、普段から親交の深い人ではない、仕事上での顔見知り程度の相手になると、誰と約束したのか顔を見るまで思い出せないことがよくあるのだという。

 だから、席は必ず自分の名前でリザーブすることにしているのだとか。店に行ってその人を探したところで見つけられるはずもないし、名前を思い出せないから店員に案内してもらうこともできない、ということらしい。


「ホント困ったちゃんよね~。そんなんでよくトラブルが起きないな、って、主人も呆れてるのよ」


 そう言って笑う奥平さんに、そうなんですかー、なんて返事をしながら笑顔を返す。

 客室を出てすぐ、声を掛けに部屋に来てくれた奥平さんと出くわした私は、城内を見物するという予定を変更し、こうして奥平さんとの会話を楽しんでいる。

 ……いや、本当に楽しいと思っているからね?

 奥平さんはとてもお喋りが好きなようで、食堂へ向かうこの道中、沈黙のいたたまれない空気を心配する暇もないほどたくさん話をしてくれる。

 こういう人は嫌いじゃない。あれこれ考えすぎて結局何も言えなくなってしまうことの多い私からすれば、こうしてポンポン話せる人はむしろあこがれの対象だったりもする。


「咲葵ちゃんは、今日はおひとりで来たの?」

「えっ、あ、はい。一人です」


 さっきまでの話の流れからは予想もつかない質問にちょっと驚きつつ、私はコクリとうなずいた。もういきなり下の名前で呼ばれるのは慣れっこになってしまったらしく、そちらの方はあまり気にならなかった。


「ということは……まあ、そういう判断なのかしらね」

「?」


 奥平さんの大きすぎる独り言に思わず反応し、私は彼女の横顔を見つめて首を傾げた。


「じゃあ、同伴者として私があなたのテーブルに着こうかしら」

「……? え、と」

「ね、どう? 女同士、語り合いながら食事を楽しみましょうよ」


 一緒にテーブルを囲むのが嫌で即答できなかったのではない。ただ、どういういきさつでその結論が導き出されたのかがよく分からなかっただけだ。


「咲葵ちゃんとお話していると、どんどん話題が出てきちゃうのよね~。意欲を掻き立てられるというか……。もっとたくさんお話したいのよ、私」


 奥平さんも私が困惑していることを悟ったのか、少しおちゃらけた様子でそう説明してくれた。

 確かに、それは昔からよく言われてきたことだ。私と話しているとどうもみんな秘密を暴露したくなるらしく、皆には内緒だけど咲葵ちゃんだけね、と幾度となくプレッシャーを掛けられてきたことを思い出す。

 奥平さんは、とても人懐っこい人だと思う。数時間前にたった二言三言交わしただけでそんな雰囲気は伝わってきたし、今もこうして屈託なく私に話をしてくれる。だけど、いくら何でもそんな理由だけで初対面の私と一緒に食事を、なんて言い出すような人ではない……と、思うのだけれど。


「なーんて、冗談よ。ああ……冗談ではないわね、本当にたくさんおしゃべりしたいって、そう思ってるんだもの。ただね、このお店、玲ちゃんがこだわってることが一つだけあるのよ」

「(玲、……)こだわり、ですか」

「そう。あまり時代にそぐわない妙なこだわりでね。ほら、私オーナーでしょ? そこはガツンと言って、開店前までには廃止にしたいところなんだけど」


 そう前置きした奥平さんは、一呼吸おいてから続けた。

 このオーベルジュは、おひとり様でのご利用はお断りしている、と。

 予約申し込み書に同伴者の名前を書く欄があったのはその為だったのか、と納得しつつ、どうして事前に説明されなかったのかが気になった。

 あのキャッチの男の子……清水くんは言い忘れていた可能性が大きいとして、予約確認の電話をくれた暮野さんはそういった類のことは一言も言わなかったし、都倉さんや紫藤さんにしてもそうだ。ここに到着してからそんな話題がのぼったのは今が初めてで、二人から指摘を受けた記憶はない。もし説明があればちゃんとそれに従っただろうし、できないならできないで、多分この話は受けずにおいたのに。

 まさか、私が友達付き合いの少ない人物と見透かされていたのだろうか。それを気遣って、敢えて触れないようにしてくれていた……?


(まあ、そんなわけないよね)


 自分で思いついた有り得ない理論を、自ら一笑に付し葬り去る。

 事前に知らされなかった私に落ち度はない……はず。そもそも店の人が何も言わないのだから、別にそれはそれで構わないということなのだろう。


「玲ちゃんの訳の分からないワガママなんだし、気に病むことはないわ。それに、今日のところは私がご一緒するから大丈夫よ」


 奥平さんもこうして親切に申し出てくれているのだから、ここはお言葉に甘えておこう。





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