(2)
「う、わ……」
車を降りてすぐ、店の外観を目の当たりにした私は思わず息を飲んだ。
オーベルジュ ”ラ・リューヌ”。
”月”と名付けられたその店――城は、その名を冠するに相応しい神々しさと荘厳さを湛えており、以前廃墟マニアの間で有名だった場所とは思えない程に美しく整えられていた。
この景色を譬えるなら、幼い頃に読んだ童話の綺麗な挿絵だろうか。色とりどりの花、みずみずしい緑、それらに彩られた白亜の城壁。こういうところに行ってみたい、と子どもの頃憧れたあの情景が今まさに目の前に広がっていて、私は驚きと感動で言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまった。
「お気に召しましたか」
「はい……! パンフレットで見たのよりも、ずっと綺麗で神秘的で……おとぎ話の中に迷い込んだみたいです!」
いつの間にか隣に立っていた都倉さんに問い掛けられ、私は半ば興奮気味にそう答えた。
普段ならスマートフォンを掲げて写真を撮りまくっていただろう。でもそんなことも忘れるほどに城や庭の創り出す世界観に見入っていた私は、都倉さんの立ち位置がずいぶん近いことに気付かなかった。いや、気付いてはいたのだけれど、普通ならさりげなく間を開けるであろう不自然なその距離感が、その時は全く気にならなかった。
「良ければ庭を見物して下さい。
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。手入れをしているのは彼ですし、花の種類も私よりも詳しく説明してくれると思いますよ」
そう言って都倉さんは、店の入り口に向かって手招きをした。その動きにつられて移した私の視界に入ってきたのは、一人の男性がこちらへ向かう姿だった。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
「あっ、帆高です。帆高咲葵です。宜しくお願いします」
頭を下げるその男性に、私も慌ててお辞儀をしながら挨拶を返す。
「紫藤。荷物は私が運び入れておくから、彼女に庭園の案内をしてやってくれ」
「かしこまりました」
都倉さんからそう指示を受けたその男性――紫藤さんに穏やかな笑みを向けられ、私も何とか愛想笑いをして応えた。
紫藤さんも都倉さんに負けず劣らずの高身長であるせいか、こうして二人に挟まれるようにして立っていると、何だか自分が随分小さな生き物になったように感じられた。
「では、参りましょうか」
剪定され形のそろった生垣がなぞる小道を、紫藤さんと並んで辿りながら城を見上げた。白い外壁を飾る大輪のバラが佇まいに艶やかさを与えている。
私はいちいちその美しさに見入っては感嘆のため息をつき、また、紫藤さんにその種類や手入れの方法を尋ねたりした。一時かじった程度のガーデニング知識しかない私の質問など、さぞかし拙いと感じただろう。だけど紫藤さんは逐一丁寧に答えてくれ、また私が聞かなくても、それに付随したお役立ち知識をたくさん聞かせてくれた。
そうやって講義を受けながら一通り庭を見て回ったあと、私たちは庭園の端に設えられた東屋でしばしの休憩をとることにした。
「これ、紫藤さんが焼いたんですか?」
いぶし処理の施された風情ある金属脚のガラステーブルの上に、紫藤さんの淹れた琥珀色の紅茶と、一口大のサイズで焼き上げられたスコーンが並べられていく。少しばかりだったはずの空腹感は香ばしい匂いに刺激されたせいか、一気にその度合いを増したようだった。
「お口に合うと良いのですが」
「た、多分、合うと思います。そんな気がします」
紫藤さんが向かいの席に着いたのを確認して、私は待ってましたと言わんばかりに、両手を胸の前で合わせた。
「頂きます!」
こんなみっともない食事前の挨拶を、過去にしたことがあっただろうか。もっと年齢相応の、この場に応じた
まず紅茶で口を潤してからスコーンを手に取り頬張る。さくりと軽い歯ごたえと優しく広がる甘さ、それと共に感じるこっくりとしたバターの香り。濃い風味であるにもかかわらず、飲み下した後の舌には油脂感がまったく残らないことに、私は感嘆の声を漏らした。
「お味はいかがですか」
「すごい、本当においしい。私、こんなにおいしいスコーンは初めてです!」
「それは良かった。玲が喜びます」
「え、都倉さんがですか?」
そう聞き返すと、なぜか紫藤さんは少し驚いたように瞳を丸くしてこちらを見つめ返した。
「あ、あの……?」
「……ああ、いえ。実は、このスコーンのレシピを作ったのは玲なのですよ。私はその指示通りに焼いただけなのです」
「へえぇ、そうだったんですか」
一瞬の沈黙の後、何事もなかったかのように元の穏やかな表情に戻る紫藤さん。私は小さなその変化に引っ掛かりを感じながらも、触れずに置いた。
「そう言えば、咲葵さんはバラを育てたことがあるのですか?」
思わず紅茶を吹き出しそうになった。急に話題を振られたからではない、当たり前のように下の名前で呼ばれたことにびっくりしたのだ。
ここのスタッフの人たちは言葉づかいや物腰は丁寧で紳士的なのに、なぜ距離感はこんなにもフレンドリーなのだろう。
そんなことを思いながらも、私は平静を装ってソーサーにティーカップを置いた。
「無いんです。いつか育ててみたいと思って色々やっていたこともあったんですけど、その……私、そういうのにあまり向いてないみたいで」
少し声のトーンを落としながらそう言うと、紫藤さんはその言葉だけで全てを察してくれたようだった。
「植物は……特にバラなどはそうですが、何かと世話の焼ける生き物ですからね。私も中途半端な構い方をして枯らせた事が何度もありました」
「えっ、紫藤さんにもそんな過去が……」
思いも寄らない体験談に私が大げさに驚いてみせると、紫藤さんは肩をすくめて小さく微笑んだ。
「何事にも失敗はつきものです。私も、ここに至るまではそれなりに苦労を重ねてきましたからね」
「そうだったんですか……」
「ですがそれを繰り返した分だけ、成功した時の喜びは大きくなる。これまでの失敗すら愛おしく思えるほどの達成感は、何物にも代えがたいですよ」
目を細めて庭を見つめる紫藤さんに、さすがは年の功、と言いそうになり、私は慌てて口を噤んだ。
紫藤さんは、都倉さんのように鮮烈でパッと目を引く華やかな雰囲気の人ではない。だけど、低く落ち着いた声、そして言葉や仕草一つひとつには厳かな風格が感じられて、どこか高貴な家の出身なのではないかと思わせるような空気感をまとっている。
何というか、多めに見積もったとして私と十歳くらいしか違わないように見えるのに、なぜか幾重にも重ねられた年輪のような重厚さを感じさせるのだ。
一体どんな人生を歩めば、ここまで人間性に深みを与えられるんだろう。
私はティーカップを再度手に取り、紅茶の香りを味わった。薄く立ち昇る湯気の向こう側で、涼しげに庭を眺める紫藤さんをこっそりと見つめてから、私は思い切って口を開いた。
「……あの、失礼だったらごめんなさい。紫藤さんって今お幾つなんですか?」
ゆっくりと、紫藤さんの視線がこちらへと向けられる。その瞳に浮かんでいるのが不快感でないことは何となく察することができたけれど、興味本位でつまらない質問をしてしまったことに気恥ずかしさを覚えた私は、今すぐ謝らなければならないような感覚に陥った。
「ご、ごめんなさい。やっぱり男の人でも年を聞かれるのは」
「幾つに見えますか」
「えっ」
「咲葵さんから見て、私は幾つぐらいに思えますか」
「……」
下手を打つわけにはいかない、咄嗟にそう思った。紫藤さんは相変わらず柔らかな笑みを浮かべており、怒りや嫌悪など、心模様がマイナスに動いているような感じは見られない。でも、それが真に抱えている感情だとは限らない、そんな風に勘繰ってしまうような得体の知れない何かが、紫藤さんには潜んでいる気がするのだ。
ここは若めに言っておくべきか、それとも素直な考察を述べるべきか。私の心は激しく揺れた。
「そんなに熱心に考え込まないで下さい。冗談です」
「へっ?」
熟考する態勢を整えようとしていたところを窘めるような口調で止められて、私はつい間抜けな声を上げてしまった。
「……私、そんなに真剣な顔してました?」
「ええ。眉間にしわを寄せて、緊張感が
可笑しそうに笑う紫藤さんに釣られるように、私の頬も自然と緩む。少しの間そうやって笑いあった後、紫藤さんはふと何かを思い出すような表情を浮かべ、視線を遠くへ向けた。
「咲葵さんは、真面目なのですね」
「いえ、ただ冗談の通じないつまらない人間でして……」
「そんなことはありませんよ。人の言葉を素直に受け止め真摯に向き合って下さる、素晴らしい方です」
「……簡単に騙されるチョロイ奴、って意味ですか?」
「マイナス思考はいけません。せっかくの素直さが翳ってしまいますよ」
「……」
褒め言葉を“素直に”受け取れないのは、自分が狭量なだけではなく、紫藤さんの笑顔が少し意地悪に見えたせいに違いない。
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