ローマで休日を
(1)
その日は思いのほかすぐにやってきた。と言っても予約を入れた日から一日空けての今日だから、それは当然と言えば当然かもしれない。
だけど私にとっては久しぶりの旅行。浮き立つ気持ちを何とか制しながら準備をするのに、昨日丸一日かかってしまった。荷物を作ること自体は非常にはかどり、それこそ午前中だけで終わらせることができたのだけれど、大変だったのは二泊三日分とは思えないほどに膨れ上がった量を減らしていく作業だった。旅慣れない人間の荷物の作り方は無駄が多いと聞くけれど、私は超ド級の旅人初心者だったようだ。
海外出張も経験済みの芹香にアドバイスをもらい、何とかそれなりにコンパクトにまとめた頃にはもうとっくに日が暮れていた。まだ何も始まっていない準備の段階ですっかり疲れ切ってしまった私は、芹香が有休を一日多く取ってくれたことにその時心から感謝した。
「えーと……。三時に駅前、でいいんだよ、ね……?」
しん、と静まり返る駅舎。乗客どころか駅員の姿さえ見えないホームで独り、不安に駆られながら呟く。旅気分を少しでもたくさん味わおうと、最寄りは最寄りでも”主要駅”ではなくローカル線の小さな駅を送迎先に指定したことを、私はほんの少し後悔した。
改札はきちんと機械化されていることにほっとしつつ、駅を出る。
シャッターが閉まったままで数年は経っているであろう売店の横には、最新機能を搭載した自動販売機がぽつんと佇んでいる。不調和なその景色に時代の流れを感じながら、私は辺りを見渡した。
申し訳程度に整備されたロータリーがあり、そこに程良く錆の張りついたバス停の標識柱が立っている。本来ならバスが停留するであろう場所には、バスではなくつややかな黒塗りの高級車が停まっており、そしてその傍には背の高い男性が立っていた。
「うわぁ……」
間違いなく迎えの人だと分かっていながら、私の足はそちらへ向かうことを全力で拒否している。高級そうな店名だとは思っていたが、まさか送迎をあんなにピカピカの良い車でする程のものとは考えていなかった。芹香のアドバイスに従い、クローゼットの中にあるなるべく質の良い洋服を選んできたものの、あいにくあれ程の高級車に意気揚々と乗り込めるほど高いレベルの洋服も心意気も持ち合わせていないのだ。
とは言ってもこのまま回れ右するわけにもいかないので、私は大きく息を吐いて覚悟を決めると、その男性の方に歩を進めた。
「あの……」
「帆高咲葵様、ですね。お待ちしておりました」
恭しくお辞儀をし、にこりと微笑みを向けるその男性の姿に、私は激しく狼狽した。
少し長めに整えられた黒い髪、若干きつめに切りあがったアーモンド型の目、そして西洋人のように通った鼻筋に形の良い唇。すらりと伸びる長い手足は背の高さに過不足なく見合っていて、全体的に無駄のない締まった体躯をしている。そして何より、透き通るような白い肌は、どこか人間離れした神々しさすら感じさせた。
天は二物どころか大盤振る舞いし過ぎではないかと思う程の完璧な容姿に、私は立ちくらみを覚えながらもなんとか頭を下げて挨拶を返した。
「荷物はこれで全部ですか?」
「あ、は、はい」
「ではトランクに積みますので、中で待っていて下さい」
そう言って、男性は後部座席のドアを開けてくれた。
自分なんかが乗っていいのだろうかという不安を抱えつつ、そろりと足を踏み入れる。革張りのシートの手触りに恐れおののきながらもゆっくりと腰を下ろすと、意外にもやさしく体を包み支えてくれた。そして、車内に漂う、芳香剤とは格の違う良い薫りも手伝ってか、少し心が落ち着くのを感じた。
「ご挨拶が遅れました。
運転席に乗り込んできた男性――都倉さんは、こちらに振り返りながら自己紹介をした。
「あ、おとといの夜、予約変更の電話をした時の……」
「ええ、そうです。少し事情がありまして、店は人手を抑えている状態でしてね。今日はこうして送迎もさせて頂いておりますが、本来は厨房を任されているんですよ」
「えっ、そうなんですか? てっきり私オーナーさんだと……」
見た目や立ち居振る舞いから勝手に思い込み、驚いてそのように返したけれど、ふとあることに気が付いた。
「あ……でも、そういえばもらったパンフレットに書いていたオーナーは、女性の名前でしたよね。確か、
「ええ。奥平
「いいですね、友達と二人三脚で店を切り盛りするなんて。何だか楽しそう」
「仰るとおりです。今日は彼女も店におりますので、頃合いを見てご挨拶に伺わせますよ」
その女性オーナーは本当にただの”良い友”なのか、などとつい下衆な考えが浮かんでしまい、慌てて首を振った。人間関係を探るなんて、つまらないことをするのは止そう。せっかくの旅行が台無しになってしまいそうな気がする。
そう思って静かに深呼吸をし、思考を別のことに移すために車内を見回していると、ふとルームミラー越しに微笑む都倉さんと目が合った。
「あ……え、えーと」
「……」
言葉もなく見つめられ、緊張感と鼓動が否応なしに高まっていく。
不快感はない。けれど気分がいいかと問われれば決してそういうわけでもなく、どちらかというと居心地の悪さを感じた私は、必死に考えてこの沈黙をどうにかしようとした。
「都倉さん。あの、」
「玲、と呼んで下さい」
「あ、はい。……え?」
その場の雰囲気、流れで承諾してしまってから、問い返す。
「いっ、いやそれはちょっと初対面では難しいと言うか」
「では私も咲葵さんと呼びます。それなら良いでしょう?」
「いいって何が!?」
「出発しますよ」
私の問い掛けには答えてもらえないまま、車はゆっくりと走り出した。
膝の上で固く握りしめた掌は、今度は間違いなく不快感を覚える程に汗をかいている。
「……あの、すみません。お店まではどれくらいかかるんですか?」
この妙な空気感をどうにかしようと、当たり障りのない話題を持ちかけてみた。
「十分から十五分ほどです。道の混雑具合にもよる、と言いたいところですが、まあこの辺りは事故でもない限り混むことはありませんから」
「そう、ですか…」
できる限り早くこの空間から脱したいと思っていたので、渋滞することはないというその情報は私の心を幾らか楽にしてくれた。とは言え、ある程度は我慢をする必要がありそうだ。
静けさを誤魔化したい気持ちでいっぱいの私が、何か話のタネになるものはないかと、車窓を流れる景色に目をやった時だった。
「これは……」
カーオーディオから流れ始めた音楽に、自分の中の遠い記憶が呼び起こされるような感覚を覚えた。
「ジャズ、ですよね?」
ノスタルジックなメロディーに興奮にも似た感情を抱きつつそう尋ねると、都倉さんは小さくうなずいた。
「音楽には疎いので、細かいジャンルはよく分からないんですがね。このCDも亡き友人から譲ってもらった物でして」
「そうなんですか……」
「スウィングがどうのこうのと、やたら熱く語る奴でした。ジャズの何たるかは未だにちゃんと理解はできていませんが、それでもこの曲は心地良く感じるんですよ」
ハスキーなトランペットの音色が響く中で、都倉さんの話に耳を傾けながら、私はなぜかその”亡き友人”という人に父の姿を重ね合わせていた。
父は仕事柄、あちこちの国へ出張に出かけることが多かった。帰ってくるたびに持ち帰るお土産にはなぜか必ずジャズのレコードが入っており、それを聴きながら家族だんらんの時間を過ごすのが帆高家の日課だったのだ。
母の手料理の香り、混ざるように揺蕩う旋律。耳にタコができる程聞かされたジャズ談義や、食事を妨げないようにと窘める母の言葉……。
「どうしました?」
突如湧き上がるようにして蘇った記憶に戸惑い、黙りこくってしまった私に、都倉さんが心配そうに声を掛けてくれた。
「あっ、大丈夫です。何でもないです」
「車酔いしたのでは? もしそうなら」
「いえ、本当に何でもないんです。私、どんな山道で揺られても酔わない体質ですから」
私がそう返すと、都倉さんはルームミラー越しに私をちらりと見て「おや」と呟いた。
「そうでしたか。それはまた、意外ですね」
「……意外、ですか?」
「ああいや、何というか……まあ、ただ私が勝手なイメージを抱いたまでで」
意外だ、という感想が返ってくることが意外で思わず問い返した私に、都倉さんは取り繕うようにそう答えた。
私、車酔いしそうな顔つきをしているんだろうか。いや、そもそも車酔いしそうな顔ってどんな顔なんだろう。
悶々としながらも、深く突っ込んで聞くことでもないだろうと思い、それ以上の追及はしないことにした。
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