(3)

 駅から程近いところにある、センス良く施されたガーデニングが特徴的なカフェ。

 今日の気候の良さからテラス席を選んだのだけれど、それはどうやら正解だったらしい。色づき始めた街路樹の葉を揺らす爽やかな初秋の風がとても心地良く、そして今の時間帯はお客さんや通りを歩く人の姿がまばらなせいか、とても静かで、この雰囲気ならのんびり読書も楽しめそうだ。


「だめっすよ、おねえさん。コロッと騙されて変な絵とか買っちゃうタイプっすよ、それ」


 テーブルに二つ並んだガトーショコラの内の一つが、呆れたようにそう呟く目の前の彼――清水しみずくんの振り降ろしたフォークによって無残に潰されていく。その様子が、まるで今の自分の心境を的確に表しているように見えて、私は深くため息をついた。

 清水くんは、開店前のとあるオーベルジュでの試泊モニターとなってくれそうな人を探していたのだそうだ。これまで、雇い主であるその店のオーナーから指定されたターゲット層のモニターを数組募ることに成功しており、”二十代半ばの女性会社員”の層が最後のノルマだったらしい。

 つまり、先ほど清水くんが「こうやって声を掛けるのは初めて」などと哀愁を漂わせながら抜かしていたのは、やっぱり私を引っ掛けるための口八丁だったというわけだ。ついでに言うと、二十代女性の募集を始めたのも二日前からではなく今朝からで、更に言ってしまえば私は一番最初に声を掛けられた人物だった。


「まあ、俺は至極真っ当なアルバイトとしておねえさんにこの話を持ち掛けたから、問題はないですけどね。でもホント、今後は気を付けないと……あ、ここにお名前と、あと日中連絡のつきやすい電話番号をお願いしまーす」

「はいはい……」


 バカみたいだ、と心の中で自嘲した。相手の話にまんまと乗せられて、気がつけばこうして予約の申込書に記入してしまうなんて、バカの極みとしか言いようがない。

 だって、詐欺かもしれない。行った先で軟禁状態になり、それこそ変な絵を買うまで帰してもらえないとか、最悪、言葉の通じない遠い国でいかがわしいオシゴトをさせられたりするかもしれない。

 そうやって考えつくだけの危険を全部頭の中に並べて、それでも尚、こうして申込書に自分の名前を書き込んでいるなんてバカに何乗かけても足りないくらいだけど、一応それなりの理由がある。

 運命を感じてしまったのだ。

 今回はマーケティングが目的だから宿泊料をはじめ一切の料金はかからないという説明にキュンとしたのは確かだけれど、そこは重要な点じゃない。重要な点じゃないのだ。

 乗れるはずだった電車を乗り過ごし、かわしても良かった怪しいキャッチにホイホイ付いていく。それはいかにも私らしくないけれど、いつまでも”私らしさ”の中にいたのでは何も変わらないという思いが、いつからかぼんやりと心のどこかに浮き上がっていた。

 だから、今日のこの出来事は何かしらのきっかけを何某なにがしかが与えてくれたのではないかと感じた。私に「変われ」と、こうあるべしというつまらない殻を破ってしまえと誰かがささやいている気がしたのだ。

 どこがそれなりの理由だ、と思うことだろう。あたう限り考えついた危険性と「運命感じちゃった~」を天秤にかけて、なぜそっちの方に傾くのかと。

 そんなことは自分でもよく分からない。分からないけれど、何となくこっちを選んでしまったのだ。

 ……無料だからっていうのは本当に関係ないんだって。


「えっと……、この同行者っていうのは」


 申込書の真ん中辺りの欄を指さしながら、書面から顔を上げて清水くんに尋ねる。良ければお友達もご一緒にどうぞ、的なやつだろうけれど、これが必須項目だったらいけないと考えた上で、一応確認しておこうと思ったのだ。 


「相手の都合もあると思うし、今んとこは空欄でいいっすよ。前々日までに直接店の方に連絡すれば対応してくれるらしいですから」


 その口ぶりだと、一人ではだめというわけではなさそうだ。念のため、現状たった一人の友人の事を心の片隅に準備していたけれど、自分と違って色々と忙しい身である彼女を引っ張り出さないで済んだことにほっとした。


「……それなら、はい。書けました」

「ありがとうございまーす! じゃ、確認しますね」


 申込用紙を渡し、この日何度目かのため息をこっそりついてから、カフェラテの入ったカップに口を付ける。


「えっと……すみません、記載事項に漏れがないか、責任者に連絡させてもらってもいいっすかね」

「ええ、ええ。どうぞ」

「じゃあ失礼して、と」


 そう言って清水くんは、スマートフォンを取り出して電話を掛け始めた。

 こうしてきちんと責任者に確認を取る辺り、仕事は意外としっかりやっているんだな、と少しばかり感心した矢先。


「……あーもしもし、暮野くれのさんすか?一人つかまえ……あ、いや、ご予約をね、承ったんですけど」


 捕まえたって言おうとしたよね。私は珍獣か何かか。

 むっとしつつも、二口目のカフェラテを味わうべくカップに口をつける。そうしながらも、申込書に記入する前に渡された小冊子にもう一度目を落とした。

 そこには、オーベルジュの簡単な紹介が写真付きで載っていた。

 西洋の古い様式で建てられたかのようなそのお店は、優雅な佇まいでぽつんと山頂に座している。一言で表現するなら、まさにおとぎ話に出てくるお城そのもので、実際に目の当たりにすればとてもファンタジックな景観なんだろう。

 もともとここは展望台に隣接するレストランとして賑わっていたそうなのだけれど、数年前に経営会社の倒産と共に閉店してしまったらしい。その会社には空になったこの建物を解体できるほどの余力もなかったらしく、ずっと閉店当時のままで放置されてきたそうだ。

 その内、廃墟マニアが集まる観光地、というほどでもないけれど、密かな話題の場所になっていたらしい。


「すごいなあ……。こんなに綺麗に生まれ変わるなんて」

「え、何か言いました?」


 はっとして顔を上げると、すでに電話を終えた様子の清水くんが首をかしげてこちらを見ていた。


「いえ、何でもないです。……で、どうでしたか」

「オールオッケー、問題なしです!」


 そう言いながら両手で大きな丸を作り、満面の笑みを向けてくれた。私はその子供っぽい仕草に対して言葉ではなく苦笑いを返しながら、やっぱりこの子はいろいろとダメだと確信した。








 出勤時間は違えど、仕事の内容に変わりはない。私は自分のデスクに向かいながら、一日で溜まった仕事の内、今日中に終わらせておきたいものをさばいていた。

 私が今勤めているこの会社は、新進気鋭のアパレルメーカーで……なんて、こんな風に言うと私がいかにもおしゃれな、流行の最前線でファッションを楽しんでいる人間のように聞こえるかもしれない。でも仕事内容からもお察しの通り、私が所属しているのは総務部で、いわゆる縁の下の力持ち、各部署を引き立て支える役割を担っている。

 昨日、新山部長から頼まれた”経理のお手伝い”も私に与えられた役割の一部だ。毎月締め日の近い時期になると、当然のごとく提出される領収書の数がかなり増える。その為、経理の担当者だけではなかなか整理しきれず、私の方に手伝いの要請が来るのだ。


「さて……」


 一息ついて時計を見上げる。六時十五分を指す針を確認してから、片づけを始めた。

 残業すればきちんと手当は出る。だけどこの会社では、就業時間内に仕事を終わらせられないのは悪であるかのような理念を掲げており、総務部には特に厳しく「残業ダメ!」というお達しが下っていた。だから、最前線で活躍している看板部署はさておいて、私たちのような影の者は、そうおいそれと居残ることはできない環境にあるのだ。

 昨日は自宅でやってもさほど問題ない仕事を持ち帰り、宅飲みならぬ”宅残業”をしたけれど、さすがにこの領収書の束を持ち帰るのはコンプライアンス的にもまずいだろう。だからと言って、これ以上居残りすると自分が叱られるだけでなく、部長も監督不行き届きとかナントカで注意を受けることになり、迷惑をかけてしまうかもしれない。


「……あーあ」


 やや大げさな音量でついたため息を誰も拾ってくれないのは、総務部のフロアに残っているのが私一人だけだからだ。

 フレックスタイムを使う時期を間違えた、という後悔の念がチラチラと頭を過ったのは、今日だけで何度目だろうか。そして、こういうものは思い立った時に使うべきで、今日の自分にとっては必要なことだった、と言い聞かせたのも。


「疲れたなあ」


 独り言をつぶやきながら伝票と領収書を簡単にまとめ、ファイルに適当に放り込んでいく。

 その動きに合わせて、自分の爪がキラキラと濡れたような光を放つ。薄く割れやすい爪を防護する透明のマニキュアが、蛍光灯を反射しているのだ。


――いいっすね、そういうの。俺、帆高さんみたいな素朴な人って好きなんです。


 それを引き金に、あまり思い出したくないセリフが頭の中で再生される。

 途端に焦燥感とも羞恥心ともとれるよく分からない感情がこみ上げてきたのを感じて、私はわざとバタバタ音を立てて片づけを進める手を速めた。

 良く言えばナチュラル、悪く言えば地味。服やアクセサリーを選ぶのも”シンプルであること”を基準にしているし、メイクの色合いも肌になじむものだけで統一している。爪に塗られたこのマニキュアも、自分を美しく個性的に飾るためではなく、守るためだけのものでしかない。

 社風を損なわず、かと言って自分なりのカラーを出すことも忘れてはいけない、といういわゆるドレスコードのようなものが暗黙の内に設定されている花形部署とは事情が違って、こちらはその辺に関してはずいぶんと気が楽だとは思っている。

 そもそも、アパレル業界にはそんなに興味はなかった。

 それならなぜ、こうも地味な私がこんな煌びやかな世界に飛び込んだのか。総務の仕事ならあらゆる業界にあるのに、どうして自分の住む世界とはおそらく対極地に存在するであろうこの会社に就職したのかと言えば、ここの待遇が一番理想的だったからだ。

 私は、自分のことはひとまず置いておき、唯一残った家族である母を最優先にしようと考えた。

 できるだけ傍について、一人でいる時間を減らしてあげたい。日常生活に困るような思いもさせたくない。

 出勤時間や休みに融通が利き、なおかつお給料も考えた金額以上のところとなると、この会社しかなかった。母を支えられるのは自分しかいないという責任感から選んだ道だった。

 その母も亡くなり、この先はもう自分の為だけを思って生きていくことができる。もっと居心地の良さそうなところに就職し直すという手もあるにはあるけれど、やっぱりこのご時世。見た目だけでなく経歴すらもご多聞に漏れず地味な私なんかを、中途採用でとってくれる会社なんてあるだろうかと考えても、答えは火を見るより明らかだ。

 とにかく、今の私には人生を賭けた大勝負に出られるほどの自信はないのだ。

 それにせっかく縁あって飛び込んだ世界なのだから、もうちょっと何かを体得して自分の成長に繋げたい。そんな期待も込めつつ、何かと肌に合わない部分を感じながらもこうしてこの会社に勤め続けてきた。

 実際、収穫はゼロではなかった。第一線で奮闘する他の社員をひっそりと陰で支える今の仕事は性に合っているとも思えるようになったし、そして何より、良き友人との出会いもあった。


「あ、やっぱりまだいた」


 総務部のフロアにひょっこりと顔を出したのは、営業部の水留みずとめ芹香せりかだった。彼女は、私と同い年でありながらも既に販売促進課の課長の椅子に座っている、いわゆるバリキャリ女子だ。以前新卒向けの会社説明会を総務部主体で企画した際、芹香も共に企画メンバーの一員として加わったのがきっかけで仲良くなった。見た目も生き方も、何もかもが正反対の私たちなのになぜか意気投合し、今では社内で余計な気遣いをせずとも心地よく付き合える親友とも言える存在だ。


「お疲れさま。今から帰り?」

「うん。咲葵さきはまだ掛かりそうかな」

「今日はもう上がろうと思って、片づけてたところ」

「そっか! さっすがあたし、グッドタイミング~。じゃあこれからご飯行かない?」


 言いながら、スマホの画面をチラリとこちらに向ける芹香。そこには、飲食店と思しき外観画像と、割引クーポンが表示されていた。


「……それ、昨夜ラインで言ってたバーじゃないよね?」

「まっさか! 咲葵がアルコールに壊滅的に弱いの分かってて、お酒しかない店に誘うわけないじゃん。これはまた別口で見つけたの」


 それを聞いて、ほっと胸をなでおろす。

 入社当時の歓迎会で初めて飲酒を経験した際に分かったのだけれど、私にはアルコールに対する耐性が全く無い。その時は口当たりの優しいカクテルを一口二口飲んだ程度だったのにも関わらず、顔を真っ赤にして倒れてしまった。

 せっかく設けてもらった酒席を台無しにしてしまったことを後悔した私は、お酒そのものはもちろん、ウイスキーボンボンのようにお酒がふんだんに使われているお菓子すら食べることも控えて、一切のアルコールを徹底的に回避してきたのだ。


「ここから二駅くらいのとこだけど、いい?」

「構わないけど、混んでないかな。私もうお腹ぺこぺこだから、大人しく待てるかどうか……」

「大丈夫! 予約はバッチリですから」


 芹香の抜かりない手回しに、心から感謝した。さっきからお腹が鳴りやまず、困っていたのだ。


「じゃあ、さっさと片づけ終わらせちゃうね。休憩室で待っててよ」

「オッケー」


 優雅に手を振りながらフロアを後にする芹香を見送る。予約を入れているのなら、時間に遅れるわけにはいかない。

 私は書類が散在していたデスクの上をすっかり綺麗に片づけると、社用のスマートフォンからタイムレコードアプリを起動し、”退社”のボタンをタップした。

 そして、久しぶりの芹香との外食に心躍らせながら、席を立とうとしたその時だった。


「あー、いたいた、良かったぁ!」


 突然響いた声にびくりと肩を震わせ、部屋の入口に視線を向ける。

 カウンターのそばに立っていたのは、二人の女性社員だった。各々の手には何かしらの書類が入っているであろう封筒が握られているのが分かって、私は、またいつものヤツが始まった、とこめかみを押さえた。


「悪いんだけどこれ、至急郵送しておいてくれないかな?」

「……もう終業時間過ぎてますし、明日にしてもらえませんか」

「急ぎなのよ~。だけど私たち、まだまだ体空きそうにないから出しに行けそうもなくって」

「そうそう、忙しいのよねぇうちの部署は。どっかの誰かさんと違って」


 どっかの誰かさんというのは総務部の帆高さんのことでしょうか、と心の中で皮肉を込めて呟く。その言葉を口に出すことができないのかと、ちょっと情けない気持ちになった。


「……」

「渋る程のことじゃないでしょ? 帰り道の途中でぱぱっとポストに入れて来てくれればいいんだから」

「そんなに時間のかかるモンでもないし、そもそもこれは総務のオシゴトなんだしさ。ね、お願い!」


 確かに、郵便物の送付は総務部で一括して行なっている。さして手間もない簡単な雑務であることも否めない。


「……分かりました。次からは早めに出すようにして下さい」

「わー、ありがとー! 助かるわー」


 断れば、またグダグダとごねられるのは目に見えていた。

 芹香を待たせてまでこんなことに時間を割くのももったいないから、と考えを切り替えて素直にその書類を受け取ったけれど、その内一通の表面には宛先が書かれていないことに気付いた。


「あの、これ」

「ああ、こっちの分の送り先はこの名刺の住所にお願いね。初めて出すとこだけど今後もお世話になると思うから、ついでに宛て先ラベルも作っておいてよ」

「えっ、ちょっと」

「じゃあヨロシク~」


 私の呼び止めには応じず、二人はクスクスと笑いながら部屋を出て行ってしまった。

 郵便物を出すのも宛て先ラベルを作るのも、それほど難しい仕事ではない。けれど、この帰り際というタイミングだととても面倒なものに感じてしまうのはなぜだろうか。


「はあ……」


 彼女たちはそれを分かっていて、私にそういった仕事を退社時間を見計らって押し付けていったのだ。これは私に対する悪意を具現化した行為、そう、他でもない嫌がらせというやつだ。

 なぜ自分がこんな目に遭っているのか、彼女たちが今まで私に向けてきた言動の端々からそれとなく察してはいて、自分自身に主な原因があるわけではないことははっきり分かっている。だけど、こんな理不尽な仕打ちが続けられているのは、他でもない私の弱腰な態度が原因だ。

 きっぱり断らないのは面倒に巻き込まれない為、なんていうのは建前で、本音はただ勇気がなくて言い返せないだけ。自らは及び腰で何もできず、かと言ってこんな状況下にあることを周囲に知られたくないために、誰かに助けを求めることもできない。

 プライドばかりが無駄に高くて、その実はただの弱虫でしかない自分が嫌で仕方なかった。


「……」


 手元に残る二つの封筒と、名刺。

 空白の宛先を睨みつけながら、宛名をわざと汚い字で手書きして送ってやろうかと考えたけれど、何とか怒りを制して自分の席に戻った。

 不本意とは言え引き受けた仕事、責任の最終的な所在は自分にある。それに一時の感情で自分勝手な振る舞いをすれば、あの女子社員達や私だけではなく、会社全体の品位が損なわれてしまうのだ。

 一度電源を落としたパソコンを再び立ち上げる。

 起動処理中の画面を眺めながら、思いっきり叫んで発散したいという衝動に駆られたけれど、誰に聞かれるかも分からない社内で凶行に走るわけにもいかず、諦めて肩を落とした。





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