(4)




「咲葵。あんたさぁ、何かあたしに隠してることあるでしょ」

「えっ!? ……っ!!」


 対面に座る芹香が、ワイングラスを置きながらこちらを上目づかいで見つめた。

 突然の問い掛けに思わず咳込んでしまった私は、レモングラスの浮いている水を一気に呷った。


「すごい動揺っぷり。そこまでいい反応されると、いっそ清々しいわね」

「ち、ちが……急に突拍子もないこと言うから、ちょっとびっくりしただけ」

「言い訳はいいから、とりあえず芹香ちゃんに話してみ? ん?」


 口調はふざけているのに、その目にこもる心情は正反対の色を帯びている。私は、何かいい具合に誤魔化せないかと必死で頭を巡らせた。


「さっきも急ぎの仕事を忘れてた、なんて言ってたけど、あれホントなの?」

「だ、だからあれは……」

「ホントにホントーに、”咲葵が”忘れてたの?」


 肘をついて真っ直ぐに私を射抜く芹香の視線は、言い訳の言葉を考える猶予すら与えてくれそうにない。

 私はフォークを取り上げようとしていた手をテーブルから下ろして膝に置き、小さく息を吐いた。


拓己たくみが絡んでる?」


 一瞬迷ってから、小さくうなずいて答える。芹香は、やっぱりね、と呟き、再びワイングラスを手に取った。


「無関係じゃない、と思う。けど……」

「ふーん……?」


 芹香はグラスに口を付けながらも視線を外さず、その先を続けるように促している。私は芹香のそんな意図をちゃんと理解した上で、口をつぐんで俯いた。

 浅野あさの拓己たくみくん。

 入社当時は企画開発部の所属だったのだけれど、企画力の高さだけでなくバイヤーとしての手腕をも持ち合わせていたところから、マーチャンダイザー”見習い”として今は各部署を転々としている。アパレル業務全般のノウハウを勉強中の、いわゆる期待の新星だ。

 現在は販促課に所属していて、そこで若くして課長を任されている芹香ですらも、彼の怒涛の邁進に自分の立場の危うさを感じている、らしい。

 それ程の才能を持ち、社内外から注目を集める浅野くんは言わずもがな、女子社員たちの”あこがれの君”でもあったりする。そんな彼が、総務部でひっそりと皆を支えることに従事している地味な私に、尋常ではない興味を抱いているとなると、彼を慕う界隈が私にとって良くない形でざわつくのも無理ないことで。さっき私に仕事を押し付けていった彼女たちも、『あんな地味オンナにのぼせ上がるなんて、絶対浅野くんは何か騙されてる!』という信条の下、私を目の敵にして嫌がらせをしてくるのだ。本当に、いい迷惑としか言いようがない。

 仕事もできて女の子にもモテて、キラキラ眩しい勝ち組一直線の浅野くんと、普通以上でも以下でもなく、正負どちらにも突出したところのない私。なんだか一生口を聞くこともなさそうな感じだし、実際、話をした記憶が私には残っていないのだけれど、浅野くん曰く私たちは”衝撃的な出会い”をしたのだそうだ。

 それは、入社したばかりだった浅野くんの始末書作成を手助けした、ということらしかった。

 企画書はスイスイ書けても、総務部が提出をお願いするような類の書類は苦手、という社員はたくさんいる。そんな人の為に、今後は一人でできるようにと丁寧に指導することは、もはや私にとって日常業務の一環でしかない。だから浅野くんとそういうやり取りをしたことを覚えていなかったんだと、その点のみは納得したけれど、それがなぜ恋愛感情を抱かれることに繋がるのか、未だに私は理解できないでいる。


「あたしに打ち明ける気はない?」


 口を堅く閉ざしたままの私に、芹香は威圧感を与えないようにと気遣ってくれたのか、やわらかい口調でそう尋ねた。

 膝に乗せたままだった手を、強く握りしめる。言ってしまえ、話して助けてもらえと囁く声と、無関係の芹香に迷惑を掛けるなと諫める声が脳内に響く。


「ごめん、今はまだ……」


 結局私が選んだのは、芹香を巻き込まないようにする道だった。


「でも、その内解決すると思うから」

「そっか……」


 皿に盛られたパスタの山にフォークを刺し、くるくると丁寧に巻き付けて行く。芹香のそのしなやかな仕草を見つめながら、更に問い詰められる覚悟をして、次に続くであろう言葉を待った。


「まあ、咲葵がそう言うなら仕方ない。この話はおしまいね」


 あっさりと引き下がる芹香。もっと問いただされる心づもりだったせいもあり、私は驚いて目を見張った。


「無理に聞き出すのはイヤだしさ。何か思うところもあったりするんでしょ?」


 そんな私の視線に気付いた芹香が、少し困ったように微笑む。それを見て、私は芹香に対する申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになってしまった。

 思うところなんて何もなくて、解決の糸口すらも掴めていない。こうして身を縮めている間に嵐が去ってくれないかと、神頼みにも似た思いを抱えるだけで、実際は何の行動も起こせていないのだ。


「なんか……本当にごめん」


 そんな体たらくな状態を打ち明けることなんて、到底できるわけがない。

 私の口から出たのは、自分を心配し支えようとしてくれている芹香の期待を裏切っているという罪悪感から湧いて出た、謝罪の言葉だけだった。


「いいのいいの。でも、本格的に駄目になる前にちゃんと相談してよね」

「ありがとう。そうやって気に掛けてくれてる人がいると、凄く心強い」

「うんうん、頼りにしてくれて構わないから!」


 芹香は、胸をどん、と叩くジェスチャーをして自分の器の大きさをアピールする。そんな芹香の様子に、私は笑いを零した。


「……芹香、あの」

「それにしても、拓己もホントにはた迷惑な奴よね~」


 私の発した声は、小さすぎたせいか店内に充満したざわめきにかき消されてしまう。それに気付かないままうんざりしたように話し出す芹香に、私は苦笑いを返すに留め、心に浮かんでいた言葉は奥へとしまい込んだ。


「高校時代もそうだったけど、好きになったら相手の都合なんてお構いなしに一直線に突っ走るんだから」


 実は、芹香と浅野くんは同じ高校に通っていたらしく、同じ弓道部に所属していたそうだ。お互い別の大学に進学したことや、そもそも一学年の差があったこともあり、その縁は一度途切れてしまっていたのだけれど、社会人になって偶然にも同じ会社に就職し、再びこうして先輩後輩の関係を築くことになったのだ。


「で、今日も拓己はご機嫌伺いに来たの?」


 各テーブルを巡回している、焼き立てパンの籠を抱えたウェイターを気にしながら、芹香が尋ねる。私はその問いかけに首を横に振って答えた。


「実は、今日会ってないんだ。私、午後からの出勤だったから」

「えー、咲葵が午後出勤するなんてめっずらし。……って、そうか、それじゃあ拓己、咲葵の顔見てから外回り出たかったのかな。今日はそのまま帰社せずに接待だって言ってたし」

「何のこと……?」


 それ以上は聞きたくない、だけど芹香の愚痴にはなるべく付き合ってあげたい。

 相反する気持ちに何とか折り合いをつけつつも恐る恐る先を促すと、芹香は待ってましたと言わんばかりにテーブルに肘をつき、前のめりの姿勢になった。


「あたしも今日は外回りでさ。拓己も、あたしのとは別件で近くの得意先に行く予定があったから、じゃあ途中まで一緒に、ってなってたんだ。なのに、そろそろ時間だっつってんのによ? 全然出ようとしなくってさぁ。なんとか宥めすかしてやっと出発したと思ったら、工事で道が混んでて大渋滞で!」

「それ、間に合ったの?」

「ギリギリアウトだったわよ。移動中に連絡入れといたし、付き合いの長い相手だったからその辺はまあ、お互い様ですから、なんつって笑って許してくれたから助かったけど」


 ウェイターから全種類のパンを二つずつ取り分けてもらいながら、芹香の浅野くんに対する愚痴は続く。それを聞きながら、自分が彼の思いを受け入れられないのはこういうところだ、と改めて実感した。

 突如として始まった猛烈なアタックに戸惑いはしたけれど、はっきりと好きになれないことは伝えたし、この嵐は小さな内に収束してくれると思っていた。でも浅野くんは、どんなに拒絶しても真っ直ぐな好意を迷いなく向けてくる。私はこれ以上どう対処すれば良いか分からなくなり、ほとほと困っていた。

 悪い人間ではない、とは思う。

 風の噂、くらいの話においてもマイナス要素の内容が加わることはない辺り、どちらかと言うと”いい奴”という部類に入るのだろう。それでも彼に対してあまり良い印象を抱けないのは、あまりにも自分勝手が過ぎるからだ。

 こう、と思ったら周りを顧みずに突っ走る。自分の行動が誰かに迷惑を掛けるかもしれない、という考えは毛頭ない。仕事面においてそれは良い形で発揮されているようだけれど、プライベートに及ぶところでそれを押し付けられているこちらにしてみれば、ひたすら悪影響でしかない。

 短所も長所に置きかえられ、そこここで高評価を得ている実力派のエリートも、私の目には短慮で独善的で幼い人間、としか映っていないのだ。

 そして、私が浅野くんを頑なに拒絶する決定的な理由は、それだけではない。


「そういや、もう二か月ぐらいたつんだっけ」

「何が?」


 パンを頬張ったお陰で満足に開かない口元を押さえながら、芹香を見つめ返す。

 芹香はにやにやしながら次のパンに手を伸ばした。


「ほらぁ、あれよあれ。酔っぱらった拓己に抱きつかれながらプロポーズされたあの事件!」

「ちょ……っ、芹香!」


 芹香の厭らしい笑みの載ったその言葉に、私は自分の顔が一気に紅潮したのが分かった。


「もうやめてよ。あんまり思い出したくないんだから」

「ごめんごめん。でも、忘れたくても忘れられないって言うかさ~」


 それは”交流会”という名目で、各部署の有志のメンバーが集まった食事会、もとい、飲み会で起こった事件だった。

 開始当初からハイペースでグラスを空けていたらしい浅野くんは、私を含めたノンアルコール組が囲むテーブルに割り込んできて、何の前触れもなくいきなり私に抱きついたのだ。

 しかも、「愛してます、結婚して下さい!」という謎の言葉を大声で添えながら。

 もちろん、他の社員さんたちがすぐに引きはがしに掛かってくれたし、和やかな笑いも起きていたことから、そこにいた皆――一部の女性社員たちを除いて――は、一様に”酔っぱらいの悪ふざけ”として認識していた。

 私自身も、内心は穏やかでいられなかったものの、その場の空気に合わせて何とか笑って躱せていたと思う。だけど、社員どころか見知らぬ人の目もある中での出来事だったこと、また男性に対してそれほど免疫がなかったこともあって、受けたショックは大きすぎるほど大きかった。

 そんな私に更なる追い打ちを掛ける騒動が起きたのが、その翌日のことだった。前日の晩の、セクハラと訴えられても仕方がない行為を謝りに来た浅野くんは、同時に信じられないことを口走ったのだ。


「『俺が昨夜言ったことは本気です。結婚して下さい』だったよね、確か」

「やめてってば! 今でもたまに夢に見てめちゃくちゃうなされるのに!」


 周囲を気にしてトーンは低めに、それでもなるべく声を張って芹香を非難する。焦る私の様子がよほど滑稽だったのか、芹香はくすくすと笑いをこぼしていた。

 浅野くんの求婚は決して酒席での無礼講なんかじゃなく、ただ隠していた本音が酒の力によって漏れ出ただけだった、という芹香の見解は正しかったようで、その日以来、浅野くんは社内で私を見つけると、時間が許す限り私を口説き落とそうとするようになった。

 当然それは他の社員がいても気遣いなく行なわれるため、浅野くんの思いは立ちどころに社内に広まる結果となってしまったのだ。


「まあまあ、そう怒んないでよ。誰かからわき目も振らずに好かれるなんて、幸せなことなんだしさ」

「……好いてくれる相手によらない? それに、場はきちんと弁えるべきだと思うんだけど」

「あれ、そういうことするのってお昼休憩の時ぐらいなんじゃないの?」

「業務中かそうでないかってことじゃなく、単純に物質的な場のことを言ってるの。社内で、しかも皆が注目してる中であんな事するなんてどうかしてるよ」


 注いでもらったお代わりの水を、じわじわと湧き上がってくる怒りにまかせて再び飲み干す。

 芹香は、確かにね、と頷いて私が露わにした感情を肯定しながらも、その笑顔に少しだけ困惑の色を落とした。


「まあ、何て言うか……あれは拓己なりの牽制なんだよ、きっと。咲葵にちょっかい掛けるつもりの奴は俺を倒してから行け! みたいな」

「ええー……。だとしたら、尚更嫌なんですけど」


 浅野くんへの嫌悪がまた一つ加算されていく。

 決して店内の空調が原因ではない震えが全身を駆け抜け、私は自身を抱きしめるように腕を組んだ。


「そ、そんなに嫌? こう、愛されてる感が強くて、ちょっと気分良かったりしない?」

「しない! ああ~、やだなあ。私しばらく雲隠れしようかな」

「雲隠れって……。そんなことして原因が自分にあるって分かったら、拓己絶対に大荒れするじゃん……」

「今まで私が迷惑がってきたのを無視して突っ走って来た罰だと思ってくれればいいよ。ついでに嫌ってくれれば尚良し」

「う……。で、でもさ、そんなに頭ごなしに拒否るんじゃなくて、とりあえず、ほら、なんて言うのかな、その……」


 不自然な様子で言葉を濁す芹香に、私は眉根を寄せて首を傾げる。

 少しの間、視線の合わない芹香を見つめていたけれど、ふと彼女が言わんとしていることに気付いてしまい、私はあからさまに不機嫌な表情をしてみせた。


「まさか試しに浅野くんと付き合ってみろ、なんて言い出すんじゃないでしょうね。私、これっぽっちも好きじゃないのに」

「これっぽっちも、って……。ねえ、この際だからはっきり聞くけどさ、咲葵は拓己にあんだけ好き好き言われて、ホントにホンキで何とも思わないの?」

「本当に本気で何とも思わない」

「超絶とまではいかないけど容姿もそこそこだし、何より将来性だってある。あたし、なかなかいい物件だと思うんだ」

「物件て……。芹香だってよく分かってるでしょ、私が真剣に困ってるってこと」

「いやまあ、そりゃそうなんだけど。うーん、でもなぁ……」


 芹香はゴニョゴニョと口ごもりながらも何かしら私に伝えようとしたけれど、頑なな態度を崩そうとしない私の様子を見て取ると、がっくりと項垂れた。


「分かった、ごめん。この件に関してはもう余計な口は挟まないようにするよ」

「そうしてくれると助かる。あと、誰に取り持ってもらっても私の気持ちは変わらないって、浅野くんに伝えておいてね」

「うっ……お見通しでしたか」


 苦々しげに笑いながら、バツが悪そうに肩をすくめる芹香。何となしの予感に従って掛けたカマは、見事に的中していたようだ。


「いや、あたしずーっと断ってたんだよ? あたしじゃ絶対仲介なんてできないから、自力でどうにかしろって。でもあいつホントしつこくてさ」

「そういうしつこいところが嫌だってことも、改めてきつめに言っておいてくれる?」

「おお……うん、分かった」


 あまりの嫌悪っぷりに、さすがの芹香も少し引いた様子だった。

 でも、これくらい冷たい態度を取ったとしてもあっさり軽く乗り越えてくる浅野くんの姿が容易に想像できてしまい、思わずげんなりしてしまった。


「はー……。なんか、どっと疲れちゃった」

「この場にいないのにこっちの体力削るとか、拓己はホント怖い奴だわ」

「話題に上るだけでも精神的にダメージ食らうんだもん。どうにかならないかな、この状況」

「……悪い子じゃ、ないんだよ?」

「私には悪でしかないから……」


 後輩を思っての芹香のフォローも、大人げなく押し返してしまう。私は自分の器の小ささに改めて気付かされ、ますますうちひしがれてしまった。


「……咲葵、鳴ってない?」

「え」

「スマホ。ほら、なんかピカピカ光ってるよ」


 そう言って芹香が指さした先、少し開いていたバッグの隙間からは、着信を知らせるLEDの光が漏れ出していた。





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