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 結局、昨日は予想していた通りのサービス残業を自宅できっちりこなしたせいで、若干寝不足でふらつく足をひきずりながらこの通勤ラッシュに挑むはめになってしまった。

 朝のさわやかな空気を目いっぱい吸い込んで深呼吸すれば、少しはリフレッシュできるのかもしれない。でも、こんなにたくさんの人に囲まれた中で、しかもその大半がイライラしているとなると、リフレッシュどころか自分にまでそのイライラが伝染してしまいそうだ。

 仕方なく私はスマートフォンの画面に目を落とし、電車を待つ時間をつぶすことにした。SNSをチェックし、面白そうな記事や共感できるつぶやきを見つけては「いいね」を押していく。半ば習慣化したその作業を繰り返しながら、私はぼんやりと母のことを考えていた。

 父と私の接点が少なくなり始めたころ、母は父の話をよく聞かせてくれるようになった。父と出会った時のこと、初めてのデートで起きたハプニング、結婚式の感動エピソード、そしてお産に立ち会えなかったものの、生まれた私を初めて見た時に大号泣したこと。

 たくさんの父を教えてもらい、その度に私は、薄らいでいきそうになる父の存在を鮮明な色合いに塗り替えていた。

 きっと自分も寂しい思いをしていただろうに、父に対する愚痴もこぼさず、切ない表情を浮かべることもなく、本当に楽しそうに話してくれていた母。悲しさも侘しさもない、ただ楽しかったいい思い出として明朗な声で綴られる父の話は、もう母の口で語られることはなくなった今もはっきりと覚えている。

 父が亡くなってから三年ほどたったある日、私は母から、治ることのない病気を抱えていることを、これ以上治療するつもりがないという意志とともに打ち明けられた。

 母はずいぶんと前から私に何も言わず、たった一人で病気と闘っていたらしかった。私ににこにこと優しく笑みを向けるその裏側で、ひっそりと痛みや苦しみに耐え続けたに違いない母に、治すためにもっと頑張ろう、などとは言えなかった。

 私は母の選択を受け入れ、最後の瞬間までそばに寄り添うことにした。これまでと変わらない暮らしの中に、ちょっとした贅沢や楽しみをエッセンスとして加え、母の笑顔を絶やさないようにと心を砕いた。先の短い人生ならば、少しでも太くしてあげたいと思ったのだ。

 体に負担の大きい無理な治療を行わないこともあってか、母はともすれば健康体であると見紛うほどにはつらつとしており、それは医師から病状の説明――余命宣告を受けてなお、本当に病気なのかと疑いたくなるほどだった。

 しかし、そこからは早かった。病はじわりじわりと年月をかけながらも間違いなく母の体を侵食していたようで、三年前の年明けすぐの頃、母は静かに旅立った。ここまで苦しみや痛みを感じずに最後を迎えられたのは幸いですよ、と医師は言っていた。

 思い出を語る相手がいないという事実は辛いもので、私は毎日のように泣いていた。最低限自分を生かすため以外は、過去の眩しい思い出に浸ってむせび泣くという日々が続き、私はこの先悲しみの渦から出られる術を持たないまま、泣き暮らして死んでいくのだと思った。

 だけど、時間というのは誰も何も置き去りにはしない。

 私の心をさんざんに痛めつけ続けた孤独の刃は、時の流れと共にゆっくりと切れ味を鈍らせていき、やがて表面を優しくなでるだけの代物へと変化していった。それはまるで波蝕して丸く形を変えたガラスの破片のようで、光を反射して強烈に輝くことも、向こう側の景色を明瞭に透き通らせることもできないけれど、もう触れても血を流すほどの痛みを与えることのない、柔らかくて温もりのある美しさを湛えるものになった。

 両親の死がそんな風に形を変えた頃、私はあることに気が付いた。

 一人ぼっちというのは、意外と時間を持て余すのだ。

 これまでは父や母のことを考えては泣いて過ごしていたけれど、その行為にそこまで情熱を注げる程ではなくなった今、空いた時間をどう使えばいいのか分からなくなってしまっていた。

 学生時代に付き合いのあった友人との繋がりはすでに途絶えており、今勤めている会社にも、友達と呼べる人は片手で充分足りる程度、否、指一本あれば事は済んでしまう状況だ。となると、やはり一人でできる楽しい何かを開発する必要がある。

 そこで私はガーデニングやDIY、手芸工芸など、流行りものから定番ものまで色々チャレンジした。

 初めは、知識と共に世界が少しずつ広がっていく感覚が本当に楽しかったけれど、失敗作ばかりがどんどん生産されていく現実はやっぱり虚しかった。自分にはものづくりの才能がないんだということに気付けただけでも良かったと思う一方で、誰かと話題を共有できなくても、せめて自分の中で密かに誇れるものが一つでも欲しいとも思った。

 そのせいなのだろう、私がこうしていつもと違った選択をしたのは。

 しばらくの間、暗闇のなか下を向いてとぼとぼ歩いていた人間だから、積極的に明るい道を歩こうとすることに慣れていないために、目が眩んだに違いない。

 私は今、乗り込まなければいけなかった電車の後姿を、サラリーマンでごった返す駅のホームにたたずんでぼんやりと見送っていた。







「あっ、ちょっとそこのおねえさん!」


 結局、次に来た普通電車も見送ってしまった私は、会社に電話をして午後から出勤をすることを伝えた。

 応対してくれた同じ総務部の女性社員が変な声をあげて驚いていたのは、母の死後、事前の申請をしていた分を除けばまるで機械のように間違いなく九時五時勤務をしてきた私が、何の前触れもなくいきなりフレックスタイム制を使用したからだろう。

 だけど、今はちょっとした繁忙週間。この制度を使うには明らかにタイミングを間違っている。きっと嫌な思いをさせるだろうと思っていたのに、驚いた後に了承してくれた彼女の声音はとても優しかった。


「ちょ、ちょっと……、ちょっと待ってってば」


 有給休暇にするかと聞かれたけれど、それはさすがに辞退した。

 繰り返すようだけれど今は忙しい時期で、今日なんかはどちらかと言えば少し早めに出社しておきたいぐらいだったのだ。自分でも理由の見えない気まぐれで午後出勤にしたことを心苦しく思っているのに、休みなんかにしてしまえばきっと向こう半年は自分を責め続けてしまうに違いない。


「あ、あの、すいませ……、あっ、ごめんなさい、ちょっと、そこのOLさーん!」


 OLという言葉は、昔、と言うか今も普通に使用されているけれど、最近は”放送するのは望ましくない言葉”として扱っているテレビ局もあるらしい。

 OL=オフィスレディ、つまり女はオフィスにいるべきってこと!? 差別差別! なんていう声があるせいだとかなんとか。それならいっそオフィスマンとかいう造語も普及させて、男女は対等であることをアピールしてはどうかな、なんて考えたりもしたけれど、今のところそのアイデアは心の中で温めたまま放置している状態だ。


「頼むから少しゆっくり歩……うわっ!」


 急に立ち止まった私の背中に、衝撃を感じた。誰かがぶつかったのだ。


「良かった、聞こえていないのかと思った。あの、」

「ごめんなさい、間に合ってますので!」


 私は振り返ることなくそう言い放ち、再び急ぎ足でその場を立ち去ろうとした。


「いやいやいや、宗教の勧誘とかナンパじゃなくて! ちょっと話を聞いてもらいたいんですって」


 慌てたようにそう言うと、その”誰か”は私の手をがっちりとつかんだ。すぐに大声を上げればきっと自由の身になったはずなんだけれど、咄嗟のことでそこまで気が回らず、そもそもそんな勇気を持ち合わせていたかどうか怪しいということもあって、私は立ち止まらざるを得なくなってしまった。


「あのですね、実は、おねえさんみたいな方にぜひおすすめしたいプランがあって」


 行く手を阻むかのように私の前方に回り込みながら、その人はニコニコと話し始める。

 就活生を彷彿とさせる無難なグレー無地のスーツを着込んではいるけれど、くせ毛なのかパーマなのかよく分からないふわふわした明るい茶髪やダルそうな身のこなしが、お堅い服装とちぐはぐな印象を与えている。どちらかと言うと、今どきの若者感を前面に押し出した、正に流行全部乗せ!な服の方がバッチリ似合いそうな、一言で言ってしまえば軽そうなヤツ、という感じだ。

 私は勢いよく首を横に振りながら、ついでにつかまれたままの手も振りほどいた。


「な、何だかよく分からないけど、私に必要なプランなら自分で探して見つけます。だからそれは別の人におすすめしてあげて下さい」


 予定外とは言え、せっかく午前中に休みをもらったのだ。よく分からないキャッチセールスにつかまって時間を無駄にするなんて、すごくもったいない。そう思い、完全拒絶の姿勢を貫く構えでまくしたてるように答えると、立ちはだかる彼を避けてこの場を離れようとした。


「話を聞くだけでも構わないんです。自分、二日前からここで粘ってるんですけど誰も捕まらなくって」

「私にはそんなこと関係ないですから」

「実はこうやって声掛けたこと自体、初めてなんすよ。だからホント、お願いします」


 悲壮感漂うその言葉。

 私を自分のペースに引き込もうとする作戦であるという可能性に気付かなかったわけじゃない。たぶん、普段の私ならそれ以上何か余計なことを聞いてしまわないように走って逃げていたと思う。

 それなのに。


「知らない人に声掛けるのって、仕事とはいえ難しいんですよねぇ。なかなか踏ん切りがつけられなかったんですけど、今やっと自分の殻を破れたと言うか」


 もしそれが本当だとしたら、なんていう考えが浮かんでしまった。そうしたら芋づる式に、ちょっとかわいそうに思う気持ちが湧きあがって、私はつい足を止めてしまった。


「や、でも……そうっすよね、おねえさんには関係ない話ですもんね。忙しいのに足止めさせちゃってすみません、頑張って他の人に当たります」

「……五分」

「えっ」

「五分くらいなら、話を聞いてもいいですけど……」

「ほ、ホントっすか!?」


 コクリと遠慮がちにうなずいた私に、彼は元々下がり気味だったまなじりを更に下げ、顔が溶けたんじゃないかと思わせるような笑顔を見せた。






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