朔望のしずく~ある吸血鬼との浪漫的人生譚
よつま つき子
悪魔はプラダを着ているか
(1)
ねえ、お母さん。
――なに?
お父さん、仕事毎日がんばってたよね。
――そうだね。
私の学校の先生とか、マンションのおじさんやおばさんたちは仲良くなくても来てくれたのに、どうしてお父さんの会社の人は……
――きっと仕事が忙しいのよ。
忙しい?
――そう、忙しいの。だから、お葬式には来られないんだと思うよ。
それじゃお父さん、かわいそうだよ。お父さんが死んだこと、誰もちゃんと悲しんでくれないなんて。
――じゃあその分、お母さんと
……ねえ、お母さん。
――なに?
私、悲しい。
――……。
寂しいよ。もっと、ちゃんと話をすればよかった。
――……そう、だね。
お父さん……会いたいよ。
◇
父が亡くなったのは、私が高校生の時だった。得意先へのあいさつ回りの途中、車の事故に巻き込まれたらしい。
営業マンだったらしい父は、「自分は優秀じゃないから、成績を上げるには誰よりも足を使うしかない」と常日頃言っていたのだけれど、その努力があの不幸を招いたような気がしてならなかった。
私が起きるうんと前に家を出て、就寝時間になってようやく帰ってくる。休日も、私や母に謝りながら背中を小さく丸めて玄関のドアを開け、会社へと出かけて行ってしまう。
以前はそうじゃなかった。朝は学校に行く私と同じ時間に家を出ていたし、夕飯が出来上がる頃にはきちんと帰って来ていて、三人で食卓を囲む風景は日常的なもののはずだった。
いつからだろう。私たちと過ごす時間をより楽しいものにしたいと、休日ごとに張り切って色々なイベントを考えていた、そんな父が、ただひたすら会社と家を往復するだけの日々を送るようになったのは。あの頃の父の顔はいまだにちゃんと思い出せず、そもそも顔を合わせる機会があったのかどうかすら、記憶には残っていない。
けれど、私はそれでも父のことを以前と変わらず慕っていて、その思いは現在進行形で続いている。私と父を”親子”として繋ぎ止めてくれていたのは、私と絆を深める時間の少なくなった父に代わって、その役割を補ってくれた母のお陰なのかもしれない、と、今ならそう……
「
ハッと気づいて顔を上げたそこには、椅子の背もたれにできる限り体重を預け、腕を組みながらこちらを見上げている
「返事がないけど、私の話ちゃんと聞いてた?」
「あ……え、っと」
怪訝な表情を浮かべながらそう聞かれて、私は慌てて記憶をたぐり寄せた。
「来週の締め日には間に合うように、経費チェックの手伝いを」
しどろもどろになりながらもなんとか答えたけれど、間違ってはいないはずのその返答は、新山部長の機嫌をわずかに損ねたようだった。
「……まあ、いいわ。あくまで手伝いなんだし、とにかく無理はしないでちょうだい。手が回らないと判断したなら、早めに相談して」
強めに引かれたアイラインによって、私に向けられた彼女の眼光はことさら鋭いものになっている。気遣いをしてくれているのはその言葉から伝わってはいたけれど、それ以上の圧力を感じた私は、消え入るような声で返事をすることしかできなかった。
失礼します、と頭を下げて自席に戻る。デスクで私を待ち構えていたのは、すっかり冷めたコーヒーと、山積みになっている書類だ。山積みとは言っても、隣の席に置いてあるパソコン画面の上半分が、立ち上がって覗き込まなくても顔を少しそちらに向けただけで見ることができているので、今のところはまだ少ない方だと言える。
「何かミスでもあった?」
そのパソコンに向かって何かの数値を入力しながら、二年先輩の
「いえ、そろそろ精算の締め日が近いから」
「あー。経理の手伝いね」
いやそうに顔をしかめる仲村さんに、私は苦笑しながらうなずいた。
「帆高さん、いつも指名されてるよねぇ。断ってもいいんだよ?うちらだって忙しいんだし」
キーボードを打つ手を止めてこちらに向き直りながら、仲村さんは呆れたようにそう言った。
「でも、経理の担当だけじゃ大変なのは確かだし、困ったときはお互い様ですから」
「あっちはほとんど頼りっぱなしで、お返しなんてしてくれたことないじゃない。たまには思い知らせてやればいいのよ」
フン、と鼻を鳴らし、経理担当のデスクがある一角にチラッと目をやる。
「今日だって二人とも有給とってるしさ。こっちも忙しいんだから、たまには手助けしてくれても」
「仲村さん!」
仲村さんの言葉を遮ったのは、新山部長だった。
「来週あたまに知財管理のことで弁護士と打ち合わせだって言ったわよね。その資料はできてるの?」
「あー、いえ、まだ半分ほど残ってます」
「じゃあ早めに仕上げてちょうだい。チェックもしなきゃいけないんだから、ギリギリだと困るのよ。ああ、それからこの申請書の様式なんだけど……」
私にだけ聞こえるような小さなため息をついてから、仲村さんは席を立って部長の元へと向かっていく。その後ろ姿を少しの間見送ってから、私は自分の仕事に向き合うために、書類の山頂へと手を伸ばした。
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