親子

「これから寒くなるから、上に羽織るものが要るわね」


 友香をベビーカーに乗せて散歩中、公園の木がサラサラ揺れた。吹いてくる風は、もう夏の空気を含んではいなかった。ひやっと冷たい風の一部に、髪の毛を揺らされる。友香の髪の毛も同時に揺れた。小さなくしゃみ。ベビーカーの中、地球上で一番小さな世界。

 友香にとって初めての冬がやってくる。母親としても初めての冬。

「風邪をひかせちゃうわ」

 香織は言うと、公園の入り口でベビーカーをUターンさせ、歩いてきた方向へ再び歩き出した。

 

 公園から歩いて五分ほどのところにあるマンション。友香がお腹にいる時に越してきた。六階建てマンションの二階に部屋を借りている。窓からの眺めなどない。ただ生活をする場所。父親は居ない。友香が生まれて二日後、交通事故で亡くなった。今は、亡くなった時に支払われた保険金で、なんとか生活させてもらっている。

 履歴書を書き、他人に自分の経歴をさらけ出せば、隠れた表情の奥で笑われる。何度も繰り返した。現実を思い知らされるのだが、止めるわけにはいかない。送り返されてきた履歴書は、即ゴミ箱。履歴書を購入する段階で、この支払いがほぼ意味のない支出になることは分かっている。手から離れていく硬貨に申し訳ない。

 0歳の子供を抱えている状態で、都合よく働ける場所などこの日本には皆無だ。そのハンディを補うような資格もない。振り返ってみると、穴だらけ。

 

 今、幸せそうに生きている人たちは皆、明確に未来を描き、生活を成り立たせるための努力をしてきたのだろう。仕方がない。自分は何もしてこなかった。

 夫が突然亡くなったと同時に、香織の中に、なんとか見えていた未来が消滅した。そして今、どうしていいのか分からない。とりあえず、友香と一日を過ごしている。 保険金はそれほど無い。このペースで行くと、あと半年も持たない。不安。友香の未来を、私は背負ってしまっている。

 

 友香を連れ、晴れた日に公園へ。先日買ったばかりの上着を友香に着せた。少し大きく、ブカブカしているが淡いピンクがとても綺麗だ。しかし、少し汗ばむような陽気。ベビーカーをゆっくりと押し、公園までの道を歩く。途中で、同じようなベビーカーを押している女性とすれ違う。どういう生活をしているのだろう。服装は? 化粧は? 髪の毛は? 今晩のおかずは? 不安はある? ない?


 公園は、平日だというのに、紅葉目当ての人たちがたくさんいて、並木道は人の背中を見ながらしか歩けない状況。香織は、人気のない通りへ入り込み、公園の奥の方へ進んでいった。

 自然の中に身を沈め、ベビーカーを押す。明日の生活をどうしよう、一週間後、一ヶ月後は?何度も自問自答。


 視界の先、公園の突き当りのような場所に、大きなモミジがあった。人気はない。老人が一人、立っていた。目の前の光景は絵画のようだった。静寂。香織はしばらくその様子を眺めていた。時が止まったような錯覚。友香が小さく泣いた。我に返る。暑いのだろうか。


 香織は老人のいるモミジの元へと近づいて行った。

「こんにちは」

 香織が声をかけると、老人は振り向いた。

 老人は火照ったように頬が赤く、ニコリと微笑んだ。

「こんにちは」

 手には、小さなカメラ。

「おじいさん、写真、撮ってあげましょうか」

 一人で紅葉を撮っている老人の後姿は、寂しげだが美しく、香織の心を動かした。照れている様子の老人は迷った様子だったが、遠慮がちにカメラを差し出した。

 香織は、老人と紅葉の風景全体が入るよう、少し離れたところに立った。

 老人が帽子に手をやった。

「帽子脱いじゃうんですか? そのままの方が絶対いいですよ」

 香織はカメラを構えながら言った。老人は何やらつぶやいていたようだったが、結局、帽子を脱いでしまった。

 香織は、そのままシャッターを押し、カメラを返すと、老人は静かに会釈をし帰っていった。

 香織は、老人の後ろ姿が視界から消えて無くなるまで見送った。


 友香と共にしばらく紅葉を眺めていると、次第に風が冷たくなってきた。香織はベビーカーをいつもより早めに押しながら、公園を後にした。

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老人と親子 高田れとろ @retoroman

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