疾走
緑茶
疾走
曽祖父の話によれば、その生き物の疾走を最初に目撃したのは、大学生の時のある日だったという。
その生き物は輪郭が曖昧で、白く濁った躰を持ち、上のほうに黒い大きな空洞が二つぽっかりと空いているという。まるで馬の骸のようだった、と曽祖父は言った。
その生き物について、詳しいことは誰も知らない。深く知ろうともしない。学者たちも何故かその生き物のことを研究しようとだけはしなかった。
誰もかれもがその生き物を見知っていたが、誰もかれもがその生き物のことを記憶から消したがっていた。
だが曽祖父は、忘れようとするたびに、あの生き物が前を通り、自分の眼前で止まり、黒い空洞で自分のことをじっと見つめてきたのだという。
曽祖父は、その生き物が何を伝えたいかをなんとなく理解していたという。祖父も父も、それを知りたがっていたが、誰にも言うことなく、曽祖父は逝った。大きな二つの空洞が訴えるものを、永遠に秘密にしながら。
私はどうしても、その生き物について詳しく知りたかった。皆が深い詮索を恐れているという状況が、よけいにその欲求を高めさせたのだ。
私は調べた。インターネットや図書館で、あらゆる目撃証言を集めまくった。何やら背中に、常に寒気のようなものを感じながら、絶え間なく調べた。テレビのニュースが、何やらあまり気分のよくないことを言っていたが、気にならなかった。
そしてわかった。その生き物が出現する条件というものが。
多くの命が流転し、ふるいにかけられ、死に落ちるときの前触れに、その『馬』は現れて、去っていく。
『馬』は人々の前にふっと現れ、大きな黒い虚空で何かを訴えながら、去っていくのだ。
なるほど、と私は思った。曽祖父の言っていたそいつは、人間の心が生んだのかもしれないな。
しかし。こうして調べてしまっても、何やら宇宙的なおそろしさは感じられたものの、何も起こらないではないか。先人たちは一体『馬』の正体を探ることの何を恐れていたのだろう。
まぁいい、こうして調べて出た結果に基づくなら、私の前にあれが姿を現すことは無いだろう。だから、安心して――
しかし。
ある暑い夏の昼だった。
部屋の電気が消えた。
何事かと思った。
窓から庭を見ると。
あの生き物が居た。
まっすぐに、黒い二つの空洞が私を射抜いている。
微塵も動かないでいる。
周囲の音がすべて消える。風も消える。
私は動けなくなった。そいつから視線を外すことも出来なかった。
何も動かない。ただただ、その白っぽい茫漠とした生き物は、じっと私を見ている。
自分の後ろで、テレビが点く音がした。
ニュース番組だ。それは、ある始まりを告げていた。
いや、そんな、まさか。『不自然』だ、あの情勢がそんな悪化の仕方をするなんて。
はっ、として、私は馬をさらに注視した。後ろで深刻な声をしたアナウンサーが、次々と飛び込んでくる速報を読み上げている。
私は全てを理解した。
そうか、そういうことか。
『馬』が疾走を始めて私の前から姿を消したとき、海の向こうから、世界の終りがやってくる。
疾走 緑茶 @wangd1
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