打ち棄てられた獣
篠岡遼佳
打ち棄てられた獣
私は魔獣だ。
知恵を持つ獣を、そういうらしい。
知恵、などというたいそうなものを持った覚えはないが、私に相対するものがみなそう言うのだから、そうなのだろう。
今年も、この季節がやってきた。
森の木々が葉を落とし始め、またその姿を赤や黄色に変えていく。
葉が染まっていくことを、
以前、とある娘に教えてもらった。
あれは一体いつ頃だっただろう……?
まぁ、記憶が曖昧なのは、いつものことだ。
今日も乾いた藁の匂いで目を覚ますと、私は大きく伸びをして、巣穴を出、川へ向かう。
川の横に生えている木には、線が何本も刻まれている。
これは、私が考えた「何日経ったかわかるもの」である。
360回程度日々を繰り返すと、おおよそ同じ季節がやってくる。
このあたりは雨も多いし、雪の降る季節も長い。そういったことが、この線でわかる。
本当は文字で書けばいいのだろうが、書く道具がここには一切なかった。
今日も全身を川にひたして、体を洗う。流れてくる水で喉を潤す。
そして、背中の翼も梳くようにして洗う。
髪もずいぶん伸びた。邪魔だなと少し思うが、やはりここには切る道具がなかった。
――しばらくそんな風に身を洗い、水遊びもしたりして、魚を捕ってから巣穴に戻った。
すると、……おや。
入り口の周りに、熟した果物やたくさんのパン、血抜きをした獣の肉などが並んでいた。
どうやら、今日が、例の日らしい。
私は寝藁の上に座り込んで、それを待つ。
ガサガサと下生えを踏みつける音。しゃらしゃらという鈴の音。
衣擦れの音も聞こえてきたら、もうすぐだ。
……人影が見えた。さっと日が射す。
真っ白な衣装に、結い上げた金髪。特徴的な長い耳。
年若い娘だ。かなり美人だと言っていいだろう。
けれど、顔色が悪い。何かに恐怖しているようだ。
相手は、私を見ることもなく、倒れ込むように座り込んだ。
そして額を地面に付ける。
彼女は切れ切れに言った。
「魔獣さま、今年の、実りでございます。
どうぞ、お納めください」
彼女はそのまま顔を上げてくれない。
仕方がないので、私の方から近づく。
とおりしな、リンゴをひとつとってかじってみたが、うん、いつも通り良い出来だと思う。
「えっとね」私は彼女の目の前に座って言う。
「…………」
「顔を上げてくれるかな。話がしたい」
私が言うと、彼女はピクリと身を動かした。
そしてゆっくり、そっと、私をみた。
「――――!」
きれいな湖の色の瞳が、大きく開かれた。
私を見た人は、大抵同じ反応をするので、慣れている。
「私が魔獣だ。いつも実りをありがとう。冬の蓄えにさせてもらっているよ」
「あ、あなたは……魔獣……?」
何度も瞬きしながら、彼女はそう言った。
そうだ、私は魔獣である。
人の身に近い姿だが、黒い瞳に、黒い髪、そして額に一角の黒い角、背中には真っ黒な翼がついている。
「立派な爪も牙もなくてすまないね。知恵ある獣、それが魔獣と呼ばれる私だ」
「魔獣さま……は、人を食べると聞いています……」
自分の身がどうなるか心配なのだろう。彼女がそう聞くので答える。
「食べないよ。どこへなりとも行くといい」
「どこへも行けません……私は、供物です」
「みんな同じこと言うんだね。こまったなあ……」
この近くにある、耳の長い種族の村では、秋の収穫が一通り終わると、こうして供物として様々なものを持ってきてくれる。
だが、それに、なぜか年若い女性まで供物としてやってくるのだ。
「ずいぶん長い間ここにいるけど、なんで人まで供物にするかな」
処理するのは私である。いつも相当苦労するのだ。
私がぼやくと、まだ表情を硬くしたまま、彼女が答えた。
「力の強いものを、魔獣さまに食べていただくことで、我らの村を守ってもらいたいのです。我らの村が豊作なように」
「……なるほど……」
きちんと答えてくれたのは彼女がはじめてだ。
もうこの供物のやりとりを十回はしているが、なかなかうまくいかない。
とりあえず、いつものように言ってみる。
「じゃあ、国境まで送るから、そこからはひとりでがんばれるよね?」
「…………私を逃がすのですか?」
「うん、みんなそうしてきたよ。国境までは三ヶ月くらいかかるから、まあお互いがんばろう」
「だ、だめです!」
彼女は急にはっきりとそう言った。
「もう、だめなんです。これが最後の供物なんです」
「どういうこと?」
「国が、村全体を統合することになって……だから、私たちの住む場所は変わってしまう。そうしたら、魔獣さまのお側にいられなくなるから、もう実りは約束できないのではないかと……」
「なるほど……」
人の社会についてはあまり興味がないが、そういうことだったのか。
「魔獣さまも、一緒に行きませんか。我らの守り神として、どうか」
彼女は真摯な瞳でそう言った。
神。
それは、村で信仰されているとある神である。
しかし、私は知っている。
「かみ……高き御方のことか」
「高き御方、ですか?」
「そうだよ。ほんとうのかみさまのこと」
「本当……?」
「そう、私をうち捨てた、高き御方」
私は翼を広げる。
真っ黒に染まった両の翼。
「……なぜ、捨てられるなんてことを……?」
彼女の台詞に、私は完全な自嘲の笑みを浮かべる。
「――私が高き御方に祈ってしまったのだ。人を弄ぶのはやめてくれと」
「?」
「御方は、『この世界』を滅ぼすかどうか、我々を『たくさんの世界』に送って調べている。そのせいで、戦争が起きる。病が広がる。運命を操られ、人は殺され、悲しみは止まない……」
私の大事なものも、大事な人も、私のせいで狂っていく。
私はそれがつらかった。見ていられなかった。
「もう私の声は御方に届かない。祈っても、なにも返ってこない。
見捨てられたことも、何より辛い……」
見ず知らずの彼女に、私は真実を語った。
なぜだろう。もう自分がおしまいだとわかっているからだろうか……。
彼女は、じっと私を見つめて、こくんと喉を動かしたあと、
「――黒という色は、すべての色を混ぜた時に作られる色だと聞いたことがあります」
そう言って、私の長い髪を梳いた。
「あなたは、異形のもの。今は魔獣さまと呼ばれているだけ。だけど、可能性の黒色を持ったひと。
長の娘である、エレナ=フェーカルナが、あなたに新しい名前を、つけます」
彼女はその金髪を留めていた櫛を外す。
地面に何やら、大きな円と細かい字をあっという間に書き上げると、
「あなたは人を食う魔獣ではない。うち捨てられた天使さまでもない。
実りを司る豊穣の幻獣。」
円をなぞるように真っ白な光が私と彼女を包んだ。
「――――――」
そうして、私は名前を手に入れた。
可能性という意味の、その響きは、彼女に呼んでもらうことで、私を強くする。
ここから、また旅立てばいい。
打ち棄てられた獣 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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