9巻

「心肺機能正常です」

「オッケー。じゃあ始めよっか」

 耳元から声が聞こえる。

「本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫で~す♪この電流と電圧ならあの人は耐えられますから♪」

「ん?もうこちらも試したんですか?」

「えっと、まぁ~そんな所です‥‥」

 なぜこんなに身動きが取れないのか、何も思い出せない。

 身体も頭も、心臓さえ火傷しそうな程に凍り付いている。

 記憶の端々に手を伸ばし、幾つかの断片を拾い上げてみる。そうだ、今日は暑かった筈だ、自身の首から溢れる汗の感触を確かに覚えているというのに。

「寒い‥‥」

 誰かに伝える為ではない。

 ただただ自分の感情を吐露したに過ぎない。けれど覚えている。この耳元から聞こえてくる声を。脳に伝わるよりも先に、凍てついた心臓に鼓動を取り戻す声を。

 瞼を開かせる。或いは永遠の眠りへと誘う魔性の調べは———恋人達の声だった。

「はいはい。いいから始めるよ。ヒジリもそろそろ限界だろうし、ちょっとだけ気持ちよくなってもらおっか。痛いの好きだし」

「そうですね」

「は~い、では、スイッチオン♪」

 一瞬の出来事だった。

 鼓動と鼓動の間隙、手首の脈動よりも早く、過ぎ去る弾丸よりも素早く、的確に心臓を抉る。杭でも打たれたのかと錯覚したそれは―――。

「痛痛痛痛っ痛った!!」

 耐え難い激痛に正気を失った自分は、木箱を内側から蹴り破って外に飛び出る。第三者が真上から見下ろせば突然ミイラが蘇り、とうの昔に失った命を取り戻そうと抗う光景そのものだ。もはやお前に居場所などない。どうか安らかに旅立ち、心臓を秤に置くがいいと───続け様に胸と首元に張り付けられた電極を力任せに剥ぎ取って、床に叩きつける。

「ちょっと大丈夫!?心拍飛んだけど!!」

「ああ!!今の電撃のせいで飛びかけた!!」

 思い出した。今日はシズクの仕事を手伝っていたのだった。



「潜入?」

「そう、潜入」

 第二の家、もしくはサードスペースとも呼べていたモーターホームが大破してしまったので、今日はサイナの工房で作戦会議をしていた。どのみちサイナに頼っている自分は、もはや彼女がいなければ何も出来ないレベルで堕落しているのだろう。

「それが頼みたい仕事か?」

「そうだけど‥‥いい加減起きてくれない?」

「私に構わず続けて下さい」

 幼馴染であるシズクから仕事に関しての話があると告げられていたので、予定を作らず、何も取らずに集合していた。それを取り返す為に僅かながらの時間すら惜しいと、暗い部屋の中でネガイの足の上に頭を置いて撫でてもらっていた。

「‥‥じゃあ、構わず続けるよ」

「あ、今日の夕飯どうする?」

「鮭の切り身を解凍しましょう。チーズやレモンをかければ美味しいですよ」

「ちょっと!!私は今回依頼者なの!!しっかり聞いて!!」

 いい加減痺れを切らしてしまったシズクが身を乗り出して耳を掴んでくる。

 けれど、力加減の勝手がわからないらしく、さほども痛みを感じなかった。

「悪かった。ネガイ、仕事の時間だ」

 諦めて起き上がり、プロジェクターが映している建物内部の画像に目を通す。

 一目でわかった。彼女はこの仕事に全力を注いでいると。詳細に撮られた建造物の内覧写真、何処からか入手した青写真、そして自力で作り上げた3Dの断面図。

 その上、関わった建築士や設計士が過去に携わった物件まで用意している隙の無さ。

 実際に潜入しなければ入手困難な内部の写真は、イノリの手を借りたのだと察した。

「じゃあ、始めるね。今回君に頼みたいのは潜入と探索。ここまではいい?」

 先月の出来事など意にも返していないさそうな表情を浮かべているサイナが、やはり朗らかに優雅に隣に座る。柔らかな髪から漂う甘い香りに視線を引かれていると、その手に持つタブレットで指定してされた品を表示して見せてくれる。

「‥‥これか。他には?」

「いいや、それだけ」

 指定してきたのは形容し難い像だった。

 胸像や首像ではない。人間が捻られているようなデザインから、苦しみや苦悩を感じ取れる。だが磔ではないので再生や希望、復活といったポジティブな部分は見受けられない。ただただ作者の苦悩だけが感じられる。

 はっきり言って、没だ。好みではない。

「それを探して欲しいの」

「理由を聞いても?」

「そこは察して」

「了解。回収はするか?」

「うんん、見つけたら見つけたって連絡して。あとは裏側にこれを貼って」

 次に示されたのは、小さいなパッチかシールのような代物だった。

 仄暗い像の色に合わせた黒炭色であるそれを、この暗い部屋ですらすぐに見失いかねないと考え、誰よりも品々には格別の覚悟を宿しているサイナに渡す。

「で、こっちを見て欲しいんだけど、わかる?」

 壁のプロジェクターに発射されたレーザーポインターが示す建物は、世間一般でかなりの知名度を誇る大学の資料館。

 大学という、ある種の私的な自治を許された施設内での犯罪はままあることだった。過去には危険な薬物の栽培や製造を学生が行っているとオーダーが潜入して立件したこともある程。

「‥‥頑丈だな。攻め難そうだ」

 警備員は勿論、監視カメラの配置まで事細かに書かれている内部図は、それだけで相手が難敵だと訴えかけてくる。当然と言えばそれまでではあるが。

「うん、見た通りイノリに少し頼んで、一緒に下調べはしてきたんだけど時間切れ。———本当は何処にあるかも調べたかったんだけど、見ての通りかなり厳重。保管場所がわかる前に期日が来ちゃったから、早め行って探してもらいたいの」

「イノリが下調べしか出来なかったなら。それだけで困難ってわかるよ」

 続いて今回の依頼人はプロジェクターを操作して、一枚の写真を見せてくる。

 部屋を隅から俯瞰図で撮影した写真だった。

 写真には、多くの鉄製の棚に骨董品らしき品々が並んでいる。

 見える範囲には象牙に仏像、茶器に置時計が保管されていた。それぞれには白いカバーが被せられているので、大学の資料館に所属する学芸員の手によるもの。

 しっかりと保存されていると、カバー越しの写真だけでも状態の良さがわかる。

 魔が差してしまった。ここに行けるのかと思うと、目が躍る。

「十中八九この部屋にあるのは間違いないの。ここは‥‥これだけ伝えておくね。ここにある大半は財団が保有して、学芸員が適切に保管してる全うな資料館。でも中には盗品とか行方不明の品、それに国外に運ばれる物も混じってる。後、もう買い手がついたからここで保管してる物も―――」

「了解。この像も盗品か何かなのか?」

「そんな所」

 木を隠すなら林、林を隠すなら森、森を隠すなら私有地。論理的で正しい犯罪だ————類似を考えるまでもなく、こういった資産家の犯罪は立件し難かった。

  公共の場での犯罪は、秩序維持の目的で易々と捜査ができる。しかし、個人の土地を捜査するには、相応の理由が必要だった。

 犯罪を捜査するには理由が必要。理由を得るには捜査が必要。矛盾した論理がここに発生する。だが、所詮それは人間程度の論理ルールでしかない。

「いいだろう。やろう。潜入は俺1人か?」

「イノリもだけど、イノリには君の補助をして貰うから潜入中には顔を合わさないと思う」

「潜入の手助けか。シズクとイノリからのバックアップを受けられるなら、安心して潜入出来るよ」

「あは、頼っていいからね。あ、だけどイノリは、鍵を開けて貰ってたり、状況が変わった時とかの報告、最悪逃げる時の救助とかをして貰う予定だから」

 軽い口調で進む会話に、ネガイが疑問を問う。

「危険じゃないですか?見つかったら、『今の警察』に逮捕されますよ」

「その為の俺だろう」

「‥‥気付かれた?」

 バツが悪そうに縮こまるシズクが、わざとらしく可愛らしい声でさえずった。

「俺は仮にも法務科の所属。そんなオーダーが潜入したと分かったら、警察だって絶対動く上、オーダー本部も動く。公的な捜査をした結果、盗品や行方不明になっていた品々が明るみになったのなら、まず俺の罪は帳消しになる。しばらく謹慎にはなるだろうが。それでも、その時シズクの目的も達成される」

 大方の予想通りだったようで、愛想笑いをして誤魔化しを続ける。

 つい先ほどまで強気にプロジェクターを捜査していたキャリアな様子は成りを潜め、視線を鋭くしたネガイから顔を背けている。シズクらしいといえばらしいが、釘を刺す事にする。

「俺は構わないけど、法務科の立場にあんまり頼るなよ。いつか、マトイと一緒に逮捕しに行く事になるから。ほどほどに」

「そ、それだけは許して!!でも‥‥行けるよね、行って、くれる‥‥?」

 卑怯だった。そして困った。本当に困った。

 顔と身体ばかり成長し、並み居る同級生達の中でも格段に大人の色香を持ち合わせた、無自覚なシズクが上目遣いで聞いてくる。

 自分にしか見せない甘えてくる姿が可愛くて仕方ない。

「誰に言ってる?影も残さないでやってやるよ。でも、条件がある」





「ちょっと!あんまり声出さないで―――警備員に見つかるから」

「出力、間違えましたかね?」

 耳元からシズクとサイナの声が聞こえた。

「‥‥次は、もう少し優しく起こしてくれ。潜入成功。場所はわかるか?」

 床に叩き落とした電極パッドを胸に貼り戻し、腰に付けている機器に接続し直す。

「待ってて、今、確認するから。‥‥いいよ、見えた」

 この機器はふたりが何処からか用意した代物。遠隔操作で心臓に電気ショックを与えるAEDと言える。同時にもう一つの機能も搭載されていた。

「サイナ、そっちは?」

「しっかりと見えてま〜す。ネガイは?」

「はい、心拍、脈拍、共に正常です。作戦の実行を推奨します」

 発信機兼心拍計兼電気ショックを操作しながら、外部から補佐をしている3人の声が正確に耳元のスピーカーから流れてくる。通信環境も問題ないようだ。

「体調は問題無さそうだね。行ける?」

「いつでも」

「よし、じゃあ、作戦開始」

 声を聞いた瞬間、床を蹴りつけ駆けた。

 扉の袂で壁を背にしゃがみ、誰かが侵入した時の為の体勢を整える。

 次に部屋の確認をする。

 未だに意識がおぼろげだが、指定通りの場所であるのは間違いない。

 説明通りの場所ならば―――ここは届いた骨董品を資料館に展示する為、一時的に保管する仮の倉庫。

 この部屋で学芸員と大学職員が中身を確認していると証明するように、部屋中には大小様々な木箱が無造作に放置されていた。そして俺を梱包して運んだ木箱と同じような大きさの物すら多く見受けられた。

 その上、床には緩衝材替わりの木くずや紙屑も大量に散乱している。

「‥‥悪い、サイナ、少しだけ」

「は〜い。チクっとしますよ♪」

 爪でも立てたような電流が、電極パッドから流れ心臓と脳を完全に覚醒させた。

「いいぞ‥‥」

「いつでも言って下さ〜い♪」

「ねぇ、仕事の為だよね?まぁ、いいや。部屋の様子はどう?」

 不満そうながらもキーボードを流れるように打つシズクが確認を取ってくる。同じく潜入しているイノリに伝令を発しているのだと想像した。

「指定通りだと思う。周りに木箱がある。場所は?」

「こっちも想定通りの場所で君の心拍を確認した。タイムリミットは今晩だけ。早速動いて」

「了解。第二段階に移行する。バックアップ頼む」

 シズクの予見通り、扉にはカードを置くパネルが設置されており身軽になるため電子機器の大半を置いてきた自分だけでは脱出が困難だった。

 だが、その時の為に用意したスマホアプリを起動させ、パネルに押し付ける。

「確認できた。ちょっと待って‥‥解錠完了。3秒か。ナンセンス」

 パネルから軽い電子音が鳴り、解除成功を知らせた。

 このアプリはシズクの遠隔操作を許可する機能を持っていると聞いていた。

 つい最近にサイナが用意してくれた機能とは違う―――手動で鍵を開ける為のハックツール。だが、鮮やかな手口だと舌を巻いていた自分の耳を疑った。

「ナンセンス?なんでだ、しっかり開いたぞ」

 ゆっくりと扉を杭で押し開く。

 しゃがみながら扉と壁の間から外を確認する。足音も影もない。

「この程度で3秒もかけたのが、ナンセンスって言ったの」

 天才らしい悩みと恥の認識だ。

 3秒という壁が余程気に食わなかったようで、声色から不満が感じられる。

「なら、次は短くしないと。いくらでも付き合うから2人で練習しよう」

「つ、付き合う?‥‥うん、付き合って」

「潜入中ですよ。私語は謹んで下さーい」

 まさかサイナから注意されるとは思っていたなかったのか、シズクが可愛く呻いた。

「このまま左手に向かえばいいんだな?」

「はい、そのまま進んで。突き当たりの扉は開いてる筈だから」

 一時保管庫から出て、指定通りの突き当たりの扉の前で屈む。改めて周りを確認しながらノブを捻ると、シズクの言う通り開いていた。

 閉館時間になる前に、イノリがここまで来て手筈を整えてくれていた。

「開いた」

「そこから地下に通じる階段はない?」

 扉を開いた先は資料館の一般通路だった。

 外から確認した時から相当だと見込んでいたが、かなり広い。国ではない大学所有の資料館の中でも、ここまで大規模な施設は数えるほどもない。

 もし次に訪れる機会に恵まれるのなら、一般参観者として訪れようと心に決める。

 だが、それまでに閉鎖されているかもしれないが。

「ある―――だけど、図で見たよりも遠い」

 指定した階段は、この扉から一般通路である回廊を通り過ぎた向こう岸。

 周りにはガラスケースが立ち並び、古文書や巻物が展示されている。この回廊は遠く平安時代を紹介され、牛に籠を引かせている様子を描いた巻物が確認できた。

 源氏物語。雅だ。

 繊細で色鮮やかで、当時の色彩感覚は現代にも負けていないのがわかる。

「行ける?」

「行ける。待ってろ」

「取り決め通り、この施設のカメラは3秒が限度ですよ♪」

 天井にはドーム型の監視カメラが回廊全体を見渡すように設置されていた。

 サイナから受け取っていたカメラを停止できる、EMPを発生するボイスレコーダーを腰から取り出し、言い渡されていた言葉を噛み締める。

 全員での会議の結果、カメラは破壊せず、停止に留めようと決定していた。

「縮地は呼吸でしてはいけません。迷いが生まれます。気を付けて」

「了解———」

 ボイスレコーダーを起動させ、腕を伸ばしながら扉から飛び出す。

 次瞬で一歩踏み出し、心臓から内臓と膝を中心とした足腰一帯に血を通す。

 酸素を豊富に含ませた鮮血が、文字通りのエネルギー源となり望んだ通りの脚力を算出してくれる。

 一切の猶予もなく監視カメラに点灯する緑色のライトが消え始めるのを確認。

 二歩目で回廊に完全に踏み込み、溜めていた鮮血を一気に放出。

 真横へと滑るでは留まらず、完全に宙を飛ぶ。

 平安時代の貴族達に囲まれながら無礼ながら横切らせて貰う。残り2秒。

 二歩目の勢いが死に足が地面についた時、丁度中央、王朝人としての光源氏と子女達との恋愛を描いた絵巻物が見える。残り1秒。

 足が付いたと同時に心臓のギアを一気に下げ、膝と足首の筋肉に鮮血を通し、一気に6速まで上げた瞬間――――飛ぶではない、拒絶されるように身体が弾かれる。

 光源氏よりも禍々しく、光源氏よりも欲望が果てしない化け物は朝廷に追放される。

 源氏没後の絵巻物を超え、化け物は立ち入り禁止と書かれた立札を超えて、飛び込むように地下へと身を隠す。

「どうだ?」

「2・5秒。余裕です」

 ネガイの声に笑みが浮かぶ。だが決して人間に見せていい代物ではない。次の段階など知れているが、精神の安定を求めてタスクの確認をする。

「そのまま行けるだけ下に落ちて下さい。出来る限り日光を避けて保管しているようなので、最下層にあります」

「本来はエレベーターで行くの。大変だろうけど、行きも帰りも徒歩でお願い」

 イノリも同じような通路で行ったのだから文句を言えるはずもない。むしろ昼間の潜入でよく地下まで潜れたと感心してしまう。

 昼間だからカメラを気にする必要は今よりも少ないだろうが、常時、職員が使っている保管庫に入り込んで撮影するなんて。

「イノリと話せるか?」

「いいけど、なんで?」

「大まかでいいから部屋の内部をもう一度聞きたい」

 頷いたシズクはなんの迷いもなく、イノリへと繋ぐ、だが「私なんてそこまで行くのに2時間掛かったのに」と第一声に疑問が湧いた。一体、なんの話だと聞き返す。

「何に?」

 階段を降りながら聞き返す。注意を向けるべくは足音で、物音は出来るだけ減らしたいが、もしも踏み外したら危険なので一歩一歩確実に着実に降りていく。

「その階段に辿り着くまで。最初なんか保管庫の場所も、一時的な保管室も正確にわからなかったのに。なんか、つまらないって感じ」

 そのような状況で2時間掛ければ大方の場所はわかるとは――――シズクとイノリが組めば、初めて入る場所でも2時間で下見が完了するという事だった。

 潜入の下見など1日は絶対、場合によっては1ヶ月かかる仕事もあるらしいのに。  

 天才達の基準とは、よくわからない。

「で、なんの用?今忙しいんだけど?」

 突っぱねるように言い放ってくるが、聞かなければならない疑問が浮いた。

「前々から探ってたんじゃないか?」

「へぇー、なんでそう思うの?」

「2時間掛かった――――保管庫まで潜入にかかった時間として、それは事実だろうけど、保管庫への潜入までしたのに、2時間はあまりにも運が良過ぎる。常に人間はいただろう?昼休憩を狙ったとしても、全員がいつ退出するかなんてわからない。最低でも1週間はかけて人員の数を調べ上げる」

 イノリの仕事上、最後は大胆に決める必要があるが、それまでは堅実に行わなければならない。勘付かれれば人命が失われる。しかも幼い子供達の。

「室内での撮影なんて、職員の振りをしててもまず止められる。隙をついたとしても、イノリはそんな突貫な作業なんてしない。全員がいなくなったのを確認してから撮影した。なら職員全員の動きを把握しないといけない。2時間じゃあ、まず無理だ。違うか?」

「言っておくけど、私が調べてたのは、そこで働いてる職員の数とシフト程度。シズクの腕がないと、一歩も踏み込めなかった」

 気に障ったらしく、イノリが早口で返してきた。

「あんたの潜入方法って言うか、配達方法だって、シズクが考えたやり方だからね」





「君にはこの中に入って貰います」

 意気揚々と繰り出して奇策に息を吐いた。呆れたか感嘆したかは述べない。

「箱ですか?」

「そう箱。いい加減降りてくれない?」

 ネガイが膝の上で寛いでいるのが気に食わないらしい。だとしても動く気にはならず、ネガイが見せてくれるタブレットのお陰で言いたい事はわかった。

「心臓を使えって事か――――これは必要な接触だ。なぁ、ネガイ」

「はい、これは意識を向上させるのに」

「わかったわかった、わかったから!!もう見せつけないでいいから!!」

 ネガイに胸を押し付けて抱擁する。応対する肩に手を置いて頷いてくれた。

「まぁ、じゃあ、続けるね。君の言う通り、心拍を操作してこの木箱に入って潜入してもらいます」

 心拍の操作を知っているのはネガイとミトリ、そして幼馴染みのシズク。

 数少ない心臓の能力を知っている人間であるシズクは、木箱に入って心拍を出来る限り弱めて呼吸の数を減らせと言っていた。

「それは構わない。一日中だって眠り続けてやる」

「休日は私といつもそうしてますものね」

「ネガイがいない時は私とですよね♪」

 その発言に黄金の瞳を開けて無表情に見つめられる。心臓が止まりそうだった。

「だけど問題がある。心拍を弱めて眠った場合、俺は誰かに起こされないと本当に1日眠り続ける。送られたら誰かに見つかるまで木箱の中」

「あのー心臓の話って、なんですか?」

 サイナが手を上げて聞いてきた。そう言えばサイナには話してなかったと気付き、端的に俺は心臓の鼓動を操作出来ると伝え、差し伸ばした手を握らせる。

 そのまま左胸に導き、心拍を操作する。

「‥‥わかるか?」

「ゆっくりですね‥‥、あ、早くなった」

 驚愕、とまでは行かないが興味深いようで瞼を閉じて胸に耳を付ける。膝の上で寛いでいるネガイに被さるような位置にいるが、構わずに聞き続けた。

「ねぇ、そろそろいいんじゃないの?」

 と、またも痺れを切らしたシズクが問い質すが、当のサイナは「もう少し‥‥」と言って利かなかった。そこで彼女の狙いに勘付いたネガイが言い放つ。

「この場所は私の物です。昨日ずっと座っていたサイナには渡しません」

「残念です‥‥」

 仕留められた事実上の経営者はすごすごと引き下がり、それでも隣に座る。

「さっき言った通り。心拍を操作して呼吸を減らして仮死状態にはなれる。だけど、誰かに起こされないと自力では動けない」

 ここでも矛盾が発生した。

 1人で潜入しなければならないのに、1人で潜入しては動く事ができない。

 シズクどころかネガイにも話していない。

 自分自身、仮死状態になるまで懇々と眠り続けると気が付いたのは、実験室でネガイに起こされるまで一切の物音にも気付かずにまどろんでいたからだった。

 つまりは誰かに揺すられ酸素を大量に含ませなければ、自分は眠り続ける。

「う〜ん、じゃあ、耳元のマイクで叫ぶとかは?」

「どうだろうな。出来る限り静かにしたいんだろう。ネガイ、前に俺が寝た時は、どう起こした?」

「‥‥秘密です」

「え?普通に起こしてくれただろ」

「秘密です‥‥」

 急に髪で顔を隠してしまう。この姿勢は断じて従わない時に見せるもの。

 そんな様子にシズクが呼びかけ続けるが、顔を振ったネガイの意思は固かった。

「‥‥耳、貸して下さい」

 根負けして起き上がったネガイは、シズクの耳元で何かを囁き始めた。

 それを聞いたシズクの顔がたちまち真っ赤に血が差した。そしてシズクはネガイに小声で何かを言って隣に座らせる。

「その席を譲ります」

「は〜い、遠慮なく♪」

 ネガイよりも肉付きがいい足と臀部が飛び乗り、首に腕を回される。

 背中に腕を回して落ちないように、快適でいられるように受け止めるが、ふたりの様子が気掛かりだった。

「困った。君を起こす方法までは、考えてなかった‥‥どうにもならない?」

「どうにもならない。目覚まし時計みたいに、時間が来たら揺すってくれるような、もしくは心臓を掴むような」

 言って思い出したが、それが出来るのはこちらの世界ではマトイだけだと。

 あの方にお願いすれば可能かもしれないが、いつも世話になっているのだ。ごく個人的な頼みを聞いて貰うのは申し訳なかった。

「心臓ですか」

「心臓ねぇ」

 2人それぞれ腕を組んだり、足を重ねて頬杖を突いて代替え案を模索するが、それぞれが新たな策を繰り出す前に言い淀んでしまい、声にはしなかった。

 そんな中、唐突に両手を叩いたサイナが軽やかに膝から降りる。

「あ、ちょっと待ってて下さ〜い♪」

 何か思い出したサイナが、ふたりの間で何か耳打ちを始めた。

「え‥‥それ‥‥本当?」

「本当ですよ♪喜んでくれましたとも!」

 シズクが信じられない物を見るように、引きつった顔を向けてくる。

「なるほど、そういった痛みも好きなんですね。サイナ、私にも下さい。夜に使います」

「は〜い♪シズクさんはどうですか?」

 ネガイが納得したように、何度も頷いてサイナに何かを頼んだ。そして、その何かを勧められたシズクは、サイナとネガイにも信じられないような目を向けるが。

「‥‥弱いのでいいから頂戴」

「かしこまりました♪個人用ですね♪」

 サイナからの確認に、シズクは商人の首を掴んで全力で否定した。




「まさかスタンガンで遊んでるなんて相当ね。死にたいの?」

「死ぬぐらい、痛めつけてくれるのか?」

「冗談に聞こえないのが、あんたらしい‥‥」

 イノリはシズクと違って、やはりか、と言った感じで受け入れてくれた。

 自主的に起きられない俺の為に用意された目覚まし時計が、腰に設置された件の電撃装置だった。確かに瞬時に起床出来たが、続けて数秒も受ければ自分は深い眠りについていただろう。

「で、結局、あんたは何を私に聞きたいの?」

「そっちの目的も手伝おうか?」

 イノリが関わっているということは、恐らくただ事ではない。

 確固たる証拠など自分は持ち合わせていなくとも、此処で人身売買でもされていてもおかしくないと感じた。イノリが直接出向いているのならば尚更に。

 情報科潜入学科。彼女がつい先日まで所属していた学科にして、公に出来ない危険で狂気的な事件を追う潜入のプロの育成学科。

「血の聖女絡みで、散々イノリに迷惑を掛けたから。教えてくれ、何をしてるんだ」

「さぁ?」

「どこに行けばいい?」

 最悪、シズクの依頼は無視してイノリに仕事を手伝う必要があるかもしれない。

 ヒトガタと同じように、持ち主の一存で今後の生き方を奪われるような子達がいるのなら、俺は救わなければならない。

 オーダーとしての矜恃も、捨てられない自分なのだと気が付いたから。

「言ってくれ。弾丸一発でもイノリの役に立ちたい。シズクもいいか?そもそも俺をここに寄越したのも、それが目的か?」

「‥‥やっぱりバレちゃうか。でも君にパッチを貼ってもらえれば、私達はそれで助かるから、いいの」

「了解。最速で終わらせる。待ってろ」

「うん‥‥」

 この言い方だと、やはり俺に貼って貰う事に意味があるらしい。

 長い階段もいつの間に終わりが見えてきた。地下4階。直射日光を防ぐ為に建設したとは、とても言い難い深さだった。

 働いている職員や学芸員の中には、自分が関わっている犯罪に気付かないでいる人達もいるだろう。むしろ一切関わっていない人達が大半に違いない。しかし、盗品の事が世間に明るみに出れば全員一時的に拘束される。

 世知辛いが、甘んじて受け入れて貰おう。

「最下層だ。任せる」

 地下4階にはエレベーターと分厚い隔壁にも似た扉しか見当たらず、進入禁止と板金されていた。そしてシズクの狙い通り、イノリの報告通りにタッチパネルも。

 先ほどと同じように、しゃがみ込んで壁のタッチパネルのスマホを押し付けた。

「任せて、はい、終わり」

 1秒で開いてしまった。スピーカーから感嘆の声が流れる。

 イノリもこれには驚いたのか、息を飲んだ声が聞こえた。

「第三段階に移行」

 ドアノブを捻って侵入を開始。そこで自分は密やかに唇を結んだ。

 廊下の装飾がまるで違う。壁には絵画、天井はクリスタルで出来たような荘厳なシャンデリア。床は毛足の長い黒い絨毯。もしコンシェルジュでもいれば尚更それらしく見ていただろう。ここだけ格式高いホテルや美術館を思わせる。絨毯を踏み付けて通る人々がどれだけ社会的地位が高いか、否が応でもわかる。

「‥‥突き当たりだったな」

「そう、真っ直ぐ行って」

 声には一切のノイズも走らない。繰り出した条件は上手く行っているようだ。




「しっかし!お見事ですね♪お互い地下深くにいるのに通信が切れないなんて」

「うん、元々の資料館の設備があったとしても、ここまでノイズ一つ入らないなんて」

 シズクとサイナが驚いている。

 通信技術に疎い私でも、これが個人で借りられる事実の凄さがわかった。そして、あの人の出した条件は正しかったと、少しばかり胸を張ってしまう。

「今晩はずっと借りられるんでしたよね?」

「そうだよ。その為にこんな早く潜入して貰う事になったんだもん。オーダーがレンタル時間無視して返せ、なんて言ってきたら訴えてやる」

 あの人のいる大学資料館から少し離れたホテルの地下、そこに私達はいる。

 オーダーが出資しているらしいホテルは、このアンテナがついた車が入って行っても誰も止めなかった。こういう荒事は度々あるのだと語外の声で伝えていた。

 シズクの依頼を聞いた翌日、私達は潜入作戦を実行した。

「でも、よく借りられましたね。情報科の生徒でも、余程の事がない限り使えないんじゃ」

「えーと、実を言うとね。‥‥ヒジリが使いたがってるって、オーダー校に言ったら、今晩は貸せるって、数秒で返ってきて」

「‥‥あの人が発言すれば、オーダー校も動くんですか」

 サイナは驚いているようだが、あの人の名義でお願いしたのなら、この貸し出しは当然だと思う。

 あの人はオーダーの為に、身を捧げて、血を流し続けた。

 法務科の為に全てを奪って、あらゆる命を救ってきた。

 だが、あらゆる貢献をしてきたというのに、あの人は何も欲しがらなかった。人間からすれば、いつ牙をむかれてもおかしくない罠に何度も落として、手も伸ばさなかったというのに———あの人は人間の全てを無視している。

 そんな中での初めてのお願いだ。

 恩を売る意味でも、ご機嫌取りの意味でも、貸し出しの要請に応えれば冷え切った心象の幾ばくかは良くなるだろうと判断したに違いない。

 だけど、やはり人間はわかっていない。

 あの人は、もはや人間には、何の期待もしていないというのに。

「それに私も一度でいいから使ってみたかったから、ヒジリの条件は願ったりかなったりなんだけどね。多少手間がかかったけど」

 シズクが操作しているPCのディスプレイには、内部図の中で問題なく脈拍を放っているあの人がいる。ただの赤い点で今いる場所を示している。物のようだ。

 人間が駒のように、あの人を使い潰した理由がわかった。

「脈拍正常です。少しも焦ってません」

「うんうん。幼馴染がこんなに頼もしくなって、私も鼻が高い!」

 珍しくシズクがあの化け物を褒めた。

 いつもシズクにあの化け物の評価を聞くと、はぐらかしてしまうのに。

「シズク」

「ん?な~に?」

「彼と何かありましたか?」




「なんか向こうはやけに盛り上がってるな。何かあったのか?」

 聞こえない程度の声で呟いてみる。

 けれど、踏み出そうとした足が止まる———黒い絨毯が敷かれた廊下にカーペットクリーナーでも散布されているのか、甘い香りが充満していた。

 汗が伝る。

 指先が貫かれたかのような緊張感を覚える。脳裏に想定外のパターンが刻まれる。帰還時に匂いを引き連れて落としでもしたなら痕跡で潜入に気付かれる。

「シズク緊急だ」

「ど、どうかしたの!?」

 こちらと同等か、それ以上の緊張感が伝わる。逃げ惑っているように息が荒い。

 最悪の状況を感じ取った。

「誰かに追われてるのか‥‥!」

 だとしたら自分がしくじり補佐側の場所が探知された―――しかし、シズクは論外だがネガイとサイナがいる。二人が揃っているなら、逃げ切りも返り討ちも可能。

「最悪、俺の事は無視して逃げろ。俺一人でも、ここから逃げ出す程度は」

「ち、ちち違うから大丈夫!!ヒーとは何にも無いから!」

「ヒー?ヒーとは何ですか?」

 状況がわからない。なぜ、ネガイがヒーというあだ名を知っているのだ?

「平気ならいいけど、悪いがこっちも緊急だ。廊下に香料が散布されてて身体に残るかもしれない。匂いを消す方法は何かないか?もしくは、別のルートは?」

 この強い香りが、今の装備についたら後を追われる可能性がある。

 犬並みの嗅覚が必要かもしれないが、後光の憂いは断っておきたい。

「香料、マズイ想定外だった。イノリ」

「ごめん。私の時にはなかった。それに、向かってる保管庫は一歩道だった。他のルートはないと思う。あんたから何か見えない?」

 絨毯を踏む前に、改めて廊下を眺める。

 廊下の突き当たり途中にはドアがいくつかあるが、これも上の階には無かった高級な木材を使った重厚な扉だった。ドアノブすら濃い飴色で傷ひとつない。

 諸人に顔を見せる事なく応接間へと繋がれ、付き添いの役員クラスのみが踏み込める隔絶された階層だった。

「いや、無い。———保管庫には、何があった?」

「何って‥‥」

「思い出せるだけ言ってくれ。何があった?」

 芸術品や骨董品のような触るだけでひび割れ、欠けていく代物を適切に保管、展示するのが資料館の仕事でもある。だとしたら、俺の想像通りならばある筈だ。

「骨董品以外の話よね?だったら、梱包用の白い布と、掃除で使うみたいなブラシとか洗剤とか」

「その中にアルコールスプレーはなかったか?」

 触れるだけで壊れる品の匂い消しや殺菌消毒の為に使われる洗剤に、よく使われる物がある。泡タイプのスプレーとアルコールタイプのスプレーの二種類。

「スプレーは、あったと思う。でもアルコールかはわからない。それにひと一人分もあるかどうか‥‥」

「行ってみないとわからないって事か」

 やはりここでも矛盾が生まれた。

 匂いを消すには進まなければならないのに、進んだら匂い消しを探さなければならない。そもそも廊下を渡らなければ匂いはつかないが、渡らねば目的には辿り着かない。

「危険だね。帰ってきて」

「—―いや、行ってくる」

 マイクの向こう側からシズク以外の笑い声が聞こえてきた。

「勝算、あるの?」

 祈るような声で聴いてくる。そんな声で言われたら、行ってこない訳にはいかない。シズクの頼みを聞けないなんて、この化け物のプライドが許さない。

「ああ、任せろ。それと聞きたい。俺が目指してる保管庫以外にも、保管する場所はあるのか?」

「うん、あるよ。そこは、表に出せない品を一時的に持ち込む場所みたいだから」

「だったなら、確実にアルコールタイプがある。任せろ」

 そんな場所ならば、ありとあらゆる品に対応した掃除道具や長期保管用の道具があるだろう。それこそ、ひと一人分の匂いが消せる量も。

「—―大丈夫。最悪全員殺せばいい」

「それが一番最悪だよ!!」

 シズクからの抗議の声を聞き流して、深呼吸をする。

「‥‥シズク、そっちも行けるな?」

 俺の言葉に、今度はシズク以外の全員が首を捻るような声を出す。

 しかして、シズクは頷いた。

「任せて、私は、君の幼馴染。—―もう一人の化け物だから」




「見つけた」

 あるはあるはアルコールスプレー。本当にひと一人分は消せそうな量がある。

 もしくはひと一人分を保存できるそうな量があった。

「量は足りそう?」

「生涯分はありそうだ」

 掃除道具に保存道具に、梱包シートのロール等が全て揃った部屋が一つ備えてあった。相当の量をここでさばいているらしく、作業が済んでいない品々が入った木箱が大量の置いてある。これを売るだけで、一体何回分の生を謳歌できるだろうか。

「とりあえず、一回分は使う。念の為な」

 もし今誰かが入ってきたら匂いでバレるので、使う事にする。

 ボトルを一本開けて、大量に被るように使う。肌に直接かける訳ではないので、痛くも痒くもない。

「どうですか、その装備は♪」

「なかなかだ。呼吸が楽なのがいい」

 黒一色の特殊装備だった。見た目もさることながら、実用性には目を見張る。

 素朴なデザインながら防弾性も密閉性ある薄手の上着に、大量の装備を設置できる金具がついた腰巻。大量のアルコール被っても、強い刺激臭が漂わないマスク。

「レビューにはなんと?」

「サイナ商事お勧めと評価してくれ。少なくとも、俺が買う」

「は~い♪」

 アルコールで匂いを消し終わったところで、梱包用シートが占領しているテーブルの上に置いておいたスマホを手に取る。

「‥‥確認だ。これでいいんだな?」

 具体的な特徴は言わない。どこから声が聴かれているかわからないから。

 よってマスクも外さない。どこから見られているかわからないから。

「うん。それでいいよ。‥‥ねぇ、まさか、忘れたとか言わないよね?」

「ここで失敗するのは、シズクだろう。持ってるよ」

 スマホカバーを外して、中に入れておいたパッチを取り出す。

 黒炭色のパッチは、黒い手の中では見えなくなる。無くしたら大ごとなのでスマホカバー内に戻すと、思い当たる節しかない張本人が小動物の鳴き声にも似た唸り声を絞り出す。

「うー、そう言われると弱いけど。でも、私、すごくなったでしょう?」

「俺が認める。シズクはオペレーターのプロになった。次の仕事でも頼むぞ」

「あ‥‥うん。うん!任せて!」

 機嫌がころころ変わるのも、相変わらず。それに人に褒められると嬉しい所も。

「———第四段階だ。探してくる」

 作業部屋から退室し、改めて保管庫を確認する。

 中はホコリ臭いが、床や壁に一切の汚れや傷が無くて清潔感がある。恐らくこの部屋には、公に出来ない組織に頼るような人間が出入りしているのだろう。財界や政界、当然ながら社会的に表に出れない人間。堅気もいるかもしれない。

 保管部屋一つとっても、迎え入れる為のおもてなし精神を感じる。無駄な努力だ。

「ねぇ、ほんとに見つかるの?私でさえ見つからなかったのに」

 イノリが心配そうに言ってくる。

 部屋の床面積は軽く30畳はある。確かに保管庫と呼ぶに相応しい巨大さだった。

 この場所には表沙汰に出来ない品々のみあるらしいが、恐らく500を超す骨董品が陳列されている。しかも天井も高いので、棚一つに更に大量な品々が並んでいる。

 確かに、人間では短時間で探すのは困難かもしれない。

「任せろ。どうにかするから」

 目に焼き付けておいた像を呼び起こす。

「‥‥ここじゃない」

 棚一つを3秒で終わらせる。

 本当は目を奪われるような古美術品が大量に転がっているが、品々を愛でていたら全員に怒られる。持ち帰りたい欲望を我慢しながら瞳に刻まれた形を探す。

「‥‥違う」

 一歩一歩、足を前に出して迷宮の壁のように立ち塞がる棚を確認していく。

 目が自然とあの像のシルエットを探し、棚の影になっている古美術品も透視して探していく。近い物を幾らかピックアップするが、違うとわかったら瞬時で目の中で削除する。CPUにも似た同時並列処理を連続的に終わらせる。

「本当に見つかるの?」

「大丈夫です。あの人は、何か無くしてもすぐ見つけ出します」

「そういう話?」

 イノリの呼びかけにネガイが答えている。個人が判明しかねない会話は外部回線でやり取りして欲しいが、なおも四人は内輪の話を続ける。そして思い出したようにイノリがサイナへと呼びかける。

「は~い♪私をお呼びですか~買いですか?売りですか?」

「こいつ電撃が好きってほんとう?」

「本当ですよ♪」

「私語は慎むんじゃなかったのか?」

 その話をされると弱るので、慌てて止める。

「あんたは探してなさい。探し物、得意なんでしょう?」

 イノリからの正論には抗えないので、黙って聞くしかない。その上ネガイすらも興味を持ってしまい、「スタンガンですよね。どうやって遊んだんですか?」と購入済みの玩具の使用方法を問い始めた。

「普通にこう、ビリビリと♪」

 好奇心や感嘆の声が混じっているのがわかる。一体どこに指差して言ったのだ。

「もう可愛かったんですよ♪痛いのに、もっともっとって、こう、私の手を掴んで欲しい所に、恥ずかしいあんな所にも————皆さんに聞かれて興奮してます?」

「‥‥してない」

「してるよね」

「してるんですね♪」

「してますね」

「してるんだ」

 決めつけの四重奏が鼓膜を叩いた。

 否定の言葉もどこ吹く風と更に我が秘め事は暴露される。決して興奮などしていないのに、そんな、こんな事で興奮なんて――してる。訳ない。

「どこにされるのが好きでしたか?」

「もう許してくれ‥‥」

 ネガイのさらなる追い打ちに助けを乞うが、サイナは止まらない。

「一番は心臓でしたね。血が一気に流れるのがいいみたいで」

「見つけた」

「で、続きは?」

「見つけた!」

「静かにして下さい。そして速やかに送信して下さい。それでサイナ、続きを」

 サイナを筆頭に通信に参加している身内が自慢するかのように暴露していく。

 なぜだろうか。なぜ、俺はこんなつまらない像片手に自分の恥部を聞かされなければならないのか。

「やっぱ胸なんだね。暇さえあれば、サイナかネガイさんの上で休んでるもんね」

 像の全長は思ったよりも小さかった。

 片手で握れる程度、鈍器として使えそうだ。

「足と手もですよ。あと眠れないから耳元で話してくれとも言われた事があります」

 あの方に言われた通り、身体を捻っているのは間違いなく人間だ。しかし、黒炭色の人間は中央の柱に身体を押し付けている。一体化の途中、もしくは乖離する寸前と言えば生々しいかもしれない。

 そして、確かに柱が折れるように欠けている。実際はもっと長かったのだろう。

「今もそうなんだ。小学校の頃なんか、怖いから手を繋いで一緒に眠ってって言われた事もあったし」

 シズクの発言に周りがどよめいた。

 もうマイクを破壊したいぐらいだが、壊したら帰れないので聞くしかない。それに—―事実なのだから仕方ない。そして胸の中で眠らせてくれた事は言わなかった。

「送信したぞ」

 指定した像を掴んでスマホで撮影、指定されたアドレスに送信。

「———いいよ。間違いない。裏に貼ったら木箱に戻って」

 保管庫に侵入して約20分で発見成功。なかなかのタイムだと我ながら思う。

「嘘、もう見つけたの?」

「ああ、物探しは得意なんだ」

 像の裏にパッチを貼って馴染ませる。貼った瞬間にわかったが、本当に像の色と同じでパッチと像の境界線が一切見えなくなる。

 像自体のデザインも相まっている為、まず見破られまい。

「なんかずるいし、私の立場無いんだけど」

 人間からすれば相当ずるい事をしているが、これも人間に植え付けらてた力の一つなので、受け入れてもらおう。便利ではあるが、望んで培った技術では決してない。

「得意不得意の話だ、比べるなよ。—―帰還する。案内頼む」

 スマホを腰に戻しながらオペレーター達に頼む。

「お疲れ様。じゃあ、木箱に戻って、また鞘に収まって」





「で、なんで木箱なんだ?」

 現物をシズクの工房で見せてもらう。

「ミイラでも入りそうな大きさですね」

「入るのは俺だ。ミイラでも入る大きさじゃないと送れないだろう」

 木箱の中にある緩衝材替わりの細長い紙屑の感触を、しゃがんだネガイが楽しんでいる。微笑ましい光景だが、俺の棺桶の準備をしているように見えてきた。

「なんで木箱か。それは、君が骨董品、美術品の振りをして入ってもらうからです!」

 腰に手を当てて、誇らし気に輝くような笑顔で言い放ったが、そんな事はわかっている。

「聞き方を変える。これが安全な侵入方法なのか?」

 確かに真夜の怪盗よろしく侵入するよりも、疑われずに入れるかもしれない。だが、蓋を開けられれば一瞬でバレる。それこそ、ミイラみたいに包帯で巻かれなければならない。

「あそこは表面上は大学の施設だから、官民問わずの寄贈品の受け入れも珍しくないって調べが付いてるの。社会貢献の一つなのかな?それとも、学生が勉強するため?」

「どっちもかもな。それに、いい隠れ蓑だろう?貴重な資料の保存の頼みを受け入れて、それで勉強も研究もしてくれるなんて。寄贈した甲斐があるって思われてる」

 売り手よし、買い手よし、世間よし。

 犯罪の世界でも、これがまかり通るとは恐れ入った。

「あ、でも、噂もあるの」

「噂?」

 シズクが伏し目がちになって両手の指を重ねる。

「あの資料館に寄贈したら物が無くなるって噂があるの」

「売り払ってるのかもな」

「‥‥うん。寄贈したものだから、返せとも言えないみたいで。まぁ、噂なんだけどね」

 寄贈した古美術品は資料館側に権利がある。保管の為、展示ができないと言われたらそれまで。どうにも、その資料館は、世間に言えない世界へ相当根深く浸かっているようだ。

「ネガイ、その辺で」

 紙屑で遊んでいるネガイを止める。

「なぜですか?」

「平べったくなってきただろう?木箱の中だとしても快適に運ばれたい」

「‥‥なるほど」

 木箱の紙屑を押しつぶしていたネガイが、納得してくれたらしく今度は両手で持ち上げるように、遊び始めた。まぁ、それならいいか。

「んで、どうやって俺は戻るんだ?」

 シズクの話では、俺と梱包した木箱は一方通行で、行ったら行ったきりのように聞こえた。

「えっと、まず君は、オーダーが捜査の一環で見つけ出した証拠品扱いになってて、捜査が始まる前の一時保管場所として資料館に預かってもらう事になってるの」

 なるほど。得心がいった。これも世間体を考えた資料館側の作戦だ。

「だから、蓋が開けられる事はまずないの。オーダーが捜査する為に一時的に預けてる品に触るような勇気がある組織なんてまずないから」

「わかった。これで蓋を開けられる心配もないって事か」

「そういう事」

「では、どうやって帰るんですか?」

 紙屑を一ヶ所に集めて、カワウソを作り始めたネガイが聞いた。

「緊急で必要になったから、朝一でオーダー街に送れって言うの。後は、ゲートに送られてる君を回収して終わり。どう?」

 念入りで、隙の無い作戦だ。

 随分と前から練っていたらしく、渾身の出来だと自負しているのが伝わってくる。

 侵入という潜入する時に、もっとも時間を取られ、危険な工程を向こうが勝手に受け入れてくれる。俺は木箱から起きてやる事をやったら、また木箱に戻る。

 最後の脱出も向こうが勝手にやってくれる。始まりと終わりを用意している。

 なかなか悪くない。

「乗った。いいだろう。やろう」

「よし!じゃあ、結構早くなったけど、さっき言った通り、明日の夜ね」

 上機嫌なシズクから決行時間を軽く確認され、ペンギンも完成させたネガイと一緒にサイナが待っている工房に戻ろうした時、ふと気になった。

「聞いていいか?」

「ん?な~に?」

 怖いぐらい機嫌のいいシズクに首だけ振り返って聞く。

「俺って、どんな証拠品として送られるんだ?」

「そんなの決まってるじゃん」

 シズクが木箱へ指を差した。

「オーダーの見つけた証拠品だよ」

 まさか、本当に死体?

「刀剣の類だよ」



「いいですね~」

 決行前夜、仮面の方の膝の上で英気を養っていた。

「資料館ですか。古美術品?というのがあるのですよね?」

「はい。石像とか絵画も少しだけあるそうですけど、今回行くのは大半が古文書とか絵巻物らしいです」

 そもそも資料館は、ある分野で価値があると判断された資料を保存して研究、そして展示が目的なので美術館とは展示目的が違う。だが、それでも構わないらしい。

「私は、全っ然っ構いません!!しっかりその目で見てきて下さいね」

 やはり、この目を通して見えているらしい。

 薄々そう感じていたが、正しかったようだ。

「あ、でも、明日は出来るだけ最速で終わらせる予定なので」

「構いませんよ。後でゆっくり吟味します。一瞬、目に入れるだけで十分です」

 一体どういう風に見えているのだろうか。

 気になるが、聞いてもはぐらかされるだろうから聞かない。

「それに探す品がなかなか面白いですね。—―ぜひ、手に取ってみて下さいね」

 あの像の事を言っているのだろうか。

「あれが、欲しいですか?」

「私が?」

 急に空気が変わった。だが、怒っている様子ではない。

 不意の質問に驚いた仮面の方は、僅かに唸りながらも撫でる手を止めなかった。

「そうですね。面白い品ではありますが、私の趣味とは違うかもしれません。あなたは?」

「俺もそうですね。なんというか、怒られそうですが、つまらないって感じました」

 今度は急に笑われた。

 だが自分の所感を現した言葉が嬉しかったようで、撫でる手が加速する。

「やはりあなたは私の宝石です。あなたには本質を見抜く力があります。そうです、あれは人間だけでは作れない———つまらない物」

 人間だけでは作れない?

 つまりは人間以外が関わっているという意味だと咀嚼する。

「あの、それは一体」

「教えません」

 寝返りを打って見上げた時、仮面の方の様子が変わっていた。

「‥‥あの」

「はい、約束通り。少しだけ大人になりました」

 声が低く大人びている。優しげだった丸みを帯びた目元が若干吊り上がっている。

 そして、いつの間にか頭を乗せていた足や見上げていた胸が—―大きく実って、

「ふふ、この私も好みですか?」

 黒いドレスを内側から引き裂きかねない程に膨れ上がった胸が、その身を包むカップから溢れ落ちそうになる。僅かに息を詰まらせた仮面の方は、やはり息苦しいと感じたらしく背中に腕を伸ばし何かを解いた。

 その瞬間、本来の質量が解放される。

「ずっと見てますね」

 完全に隠れてしまった顔を、胸の影から出す形で覗き込んでくる。その度に、揺れ動く胸元から目が離せない。

 持て余す劣情が止まらない。今も胸に当ててられている手に手を重ねて、仮面の方を見るたびに早く鼓動する心臓を捧げるように押し付ける。

「—―早く」

「聞こえませーん」

 唾液が吹き出てくるのがわかる。

 深紅の瞳と水紋のような髪から、普段以上の艶やかさを感じる。

「あれ、起きるんですか?ふふ‥‥」

 仮面の方の足から起き上がって、振り返る。

「どうしました?目が怖いですよ」

「‥‥先に謝っておきます」

 ゆっくりと仮面の方の肩を押して、覆いかぶさる。被さった事で見える物もあった。腰から下の肢体がベットの硬度に負けて広がっていた、臀部すらも膨れている。

 また、普段でさえ拳一つ以上はある胸部が抱き着こうとする我が身を拒む。

「私はどうなってしまうのでしょう?」

 変わらないものもあった。

 笑いかけてくれる目元は、何も変わらない優しくて意地悪な恋人だった。

 仮面の方もゆっくりと服の内側に手を入れて、背中まで腕を入れて脱がしに掛かる。拒んでいた胸をドレス越しに、強引にでも押し潰して迫ろうとした瞬間———唇に指がつけられた。

「もう少しゆっくりしましょう。私も我慢しますから」

「—―無理です」

 唇につけられた指を外し心臓につける。そのまま口に入り込む。

 普段はこちらの舌の方が長いのに、まるで届かない。仮面の方の舌が長くて太くて口蓋も何もかもを貪られた。

 口の中が温められてしまって、一気に眠気が襲ってくる。

 だけど、まだ足りない。仮面の方の腰を抱いて逃がさず、お互い無防備に攻め合うがまるで歯が立たない。心臓を掴まれていなのに、身体が熱くて———眠ってしまう直前に、唾液が糸を引いた状態で舌を引き抜かれた。

「もう終わりですか?」

「‥‥少し休憩させて下さい」

「頑張って下さいね」

 大人になっても仮面の方は優しかった。無遠慮な俺を胸の中で休ませてくれる。

「普段以上に可愛いですね。人間の幾人かが年下を伴侶に選ぶ理由が分かった気がします。ふふ‥‥」

 膝を下腹部を押してくる。

 胸に頭を入れているのに、膝が下半身に届いていた。

 背が高くて、僅かに汗で吸い付いてくる肉付きがいい仮面の方に包まれている感覚は、全身で食べられているようで背徳的だった。

「身も心も、私の勝ちです。少しだけお話しましょう」

 優しく胸の中にいる頭を撫でてくれる。下半身も足で挟まれて身動き一つとれない。もう、反撃の手立てがない。

「あの像の答えは言えませんが、ヒントを一つ」

 自分のコレクションを愛でるように、頭を撫で続けてくれた。

「察しの通り、あの像には人間以外の力が関わっています」

「‥‥暖かい‥‥」

 身体が大きくなっても、心臓の音は変わらない。この優しい鼓動は、俺の物だ。

「困りました。可愛くて、もう食べたくなりました。私を魅了するのも程々に。では続けますね、あの像は人間を模っているように見えますが、それは少し違います」

「人間じゃないんですか‥‥」

「人間ともう一つ。ただ所詮は小物で、もう力の大半は失ってしまったようですが」

「‥‥失った?」

「はい、長い時間をかけて、崩れてしまいました。眠るには早いですよ」

 耳の中に指を入れて背筋を震わせる音を聞かせるが、その震えも仮面の方の身体によって吸収される。柔らかいのに、決して崩れない身体が全てを受け止めてくれる。

「しっかりと聞いて下さい。私に負けたのですから、私のおもちゃになって下さい」

 少し前に負けたのがよほど気がかりだったようだ。

 自分の身体におぼれていく姿を見て、心拍が徐々に早まっていくのがわかる。

「あの像は人間の欲望を形とした物。自ら欲しておいて、危険なものだとわかったら、誰かに売り渡したいなんて」

「売る?保管とか目の届く場所に置くのではないんですか?」

 ソソギやカレン、それに俺とサイナは、捨てるに捨てられなかったから、オーダー街で様子を見られていたのに。

「捨てるでは足りないんです。誰かに渡して、その誰かが受け取らねばなりません。人間はやはり愚かです。神と崇めたものとの繋がりを捨て去ろうとするなんて‥‥ふふ、それでもあなたを作り出した成育者達よりは、賢い選択ですね」

 耳に入れている指はそのままに、息を吹きかけてくる。また眠気が――。

「‥‥シズクは、なんでそんなものを?」

「秘密です。でもこれだけは覚えておいて下さい。—―シズクさんに渡してはいけません」

 身体の柔らかさは変わらないのに、心拍が変わった。

「シズクには、ダメなんですか?」

「はい、シズクさんにはダメです。あなたとネガイさん、サイナさんなら構いません」

 俺達なら構わないとは、この法則には貴き者の血が関係している。

「いい目です。はい、あなたの想像通りです。あなた方なら向こうが逃げ出します」

「逃げる?」

「—―口が滑りました。あなたが普段以上に可愛いからですよ。本当に、可愛くて、美味しいですね――」

 蜘蛛の巣に囚われた羽虫と言うのだろうか。それとも美しい声と肌で男達を海中に引きずり込む人魚か。全身で貪られる感覚は錯覚ではなかった。静かにゆっくりと、身体が仮面の方に沈んでいく。一体化して行くのを感じる。

「どうしました?」

 愚かな肉塊を食しながら、深宇宙の顕現とも呼べる恋人が微笑みかけてくる。

「気持ちいいですか?」

「—―バラバラに、なりそうです」

 ようやく、少しずつだけど身体が吸収されていく。

「はい。約束通り、バラバラにしますよ。一片たりとも残さず、私の中で」

「‥‥口」

「なんですか?」

 このまま微睡むの悪くない。むしろ、とても心地いい。眠るような死が、快楽を約束してくれる。でも、俺は—―。

「‥‥あなたに、口で食べてもらいたい‥‥」

 沈んでいた身体が浮き上がるのがわかる。

 溶け合っていた肌と肌が分かれるのがわかる。

「—―二度目です。もう、止まりませんよ」

 語尾に迫力を滲ませていた。途端に無言と成った仮面の方に抱き締めたまま寝返りを打たれ、上を取られる。当の自分は見下ろされた事により下腹部で自由を奪われ、揺れる肢体に目を奪われた———そして、ふと影によって隠された目元へ視線を向ければ、猛獣が血に興奮するが如く、目元が鋭く深紅に輝いていると気付く。

「‥‥普段より、美味しそうなのはなぜでしょう」

 舌なめずりをし、胸の中央に指をつけた。

「身体が成長したからでしょうか、一回では足りません。—―何度も頂きます」

 手始めに胸を両手で開く————直後に胸骨を放り投げた。

「いつもより、真っ赤に見えるのはなぜでしょう」

 胸を盃にした血の酒を手ですくい、呷っていく。

「—―美味しい」

 喉を潤し終えた後、未だに動いている心臓を見つめているのがわかる。

「綺麗なのに、可愛らしさが勝っています。‥‥こんな気分は初めてです」

 腹より下に移動し腰と腰を擦り合わせる。そして、ゆっくりと腹を捌いていく。

「何もかもが可愛らしい。そうですか」

 口周りについた血を腕で拭って笑いかけた。

「私、もしかしたら――」

「もしかしたら?」

「あなたを恋人として選んだ理由は――可愛かったから、かもしれません」




「まずい状況だ‥‥」

 深夜なんのだから出迎える人も、出迎えられる人もいないだろうと高を括っていたのに———現実世界で存在する事象全てに普遍的事実、例外が発生するのだと察した。

「—―足音がある。2人いや、3人」

 このマスクは防音性を持っている。

 謳い文句をそのまま信じるならば、全力で歌っても聞こえない。実際、俺が目覚めた時、誰も来なかったので信じるには値する。

「そこに来そう‥‥?」

「‥‥いや、途中で止まった。—―入った」

 ドアノブとドアを開ける音、そして一人が笑いながら入室を促し、足音が全て一つの部屋に収束する。

 絨毯越しだが、ヒールの音は感じられなかった。全て男性しかも一人は杖をついているようだった。高齢か障害かはわからない。だが、一人は商人、一人は客。

 だとしたら、一人は――。

「—―ボディーガードがいるな。いい腕だ、足音に無駄がない」

 あまりにも滑らかすぎる足取りのせいで、足音が絨毯の吸収されていた。衣服の衣擦れの音でどうにか確認できる程度だった。

「無駄にやり合おうとしないで。あんたの仕事は」

「わかってる。このまま撤退する」

 気になるがどうでもいい。それよりも、俺が心配しなければならない事がふたつある。

「匂いはどうにかなる。だけど、素直に通らせてくれるか‥‥」

 いい腕の持ち主は、いい耳の持ち主と相場が決まっている。

 ただの人間に負ける気はしないが、時間を取られるのは許されない。

「‥‥シズク、ここから空調は操作できないか?」

 扉の近くにある退出用パネルに空調を操作する機能が搭載されていた。厳重過ぎる電子ロックが仇となった。容赦なくパネルにスマホを押し付ける。

「待って、今見てみる」

 例え毛足が長い絨毯だとしても、多少の足音は聞こえる。実際俺には足音もかろうじて聞こえたのだから、向こうにも聞こえるだろう。

「空調ですか。でも、急に音が鳴ったら気付かれませんか?」

「その時には、俺はもう消えてる。匂いも消してな」

 腰に差したアルコールボトルを触ってそう自分に言い聞かせる。

「‥‥いけそう。ここの空調、一括で操作してるみたいだから端末一つで操作できる。でも、私もネガイさんに賛成。少しづつ上げていくから。待ってて」

 シズクの通告通り、空調が少しだけ上がった。廊下の空調も同時に上がったようで、扉の向こうが若干騒がしくなった。

「3分待って」

「了解。3分後に連絡する」

 一旦、壁に背中をつけてしゃがみ込む。

 動き始めてまだ1時間も経っていない。だが、敵地のような場所への潜入は、常に危険と隣合せな事もあり気に休まる暇も無く、休められる場所も知らない。肺と心臓がじわりじわりと握られている状況はストレスが加速度的に増していく。水と酸素が足りない。

「苦しいですか?」

「‥‥少しだけ。そっちは平気か?」

 ネガイとの会話のお蔭で心が静けさを取り戻してくれる。

「はい、サイナがサンドを用意してくれたので、皆で食べてます」

「余裕だな」

「あなたの分もあります。あとで食べさせてあげますね」

「どうやって?」

「口移しでもいいですよ」

「約束だ」

 ネガイが積極的に落としに来たので、乗ってみる。

「強気ですね。約束です」

 冗談かと思ったが本気だったようだ。でも、それは無理だった。

「俺がそっちに戻れるのは明日の朝だから、だいぶ先だけど」

 朝一で送り返される予定ではあるが、もうしばらくネガイとは離れ離れなのは変わらない。人肌が恋しいとは違う、ただ二人の距離が離れたように感じる疎外感を覚えた。

「では、朝に一緒に食べましょう。二人きりで――」

 耳元で囁かれているようだった。すぐ隣を見れば、ネガイが肩を枕にしている幻影が見えてしまうのではと願うが、やはり自分は一人、冷気に晒された獣が一匹だけだった。

「‥‥ねぇ、これいつまで聞かされるの?」

「ずっと聞いててくれ」

「はい、ずっと聞いてて下さい」

 大きなため息の3重奏が聞こえてくる。

「悪かった。あとどれぐらいだ?」

 しゃがんでいた足腰に血を通して、力を込めて立ち上がる。

「あと10秒。—―準備して」

 ドアノブを握って、ゆっくりとわずかに開ける。先ほど見せたシズクとの合作の準備をする。人間のスタート姿勢とは少し違う。姿勢は限りなく前へ、倒れ込むように。

 身体とドアを支える手は片手だけ。もう片方にはスマホを握る。

「5」

 膝と足首に力と血を

「4」

 スマホを握る指は充血する

「3」

 目に血を込めて狙いを定める

「2」

 心臓が焼けるような血を身体中に流す

「1」

 血管が焦げてしまう。早くはやく――

「行って!」

 わずかに開けていたドアと壁の隙間を一瞬で通り抜ける。

 一歩目で絨毯の中央を踏む。

 人間からすれば、俺は別の空間から突然現れたように見えるだろう。

 二歩目で出口間際のパネルまで到達。

 すかさずスマホを押し付ける。心拍と心拍の間で、開錠が成功する。

 三歩目で外に出る。そして扉とドアの間に手を入れて、ゆっくりと引き抜く。

 無言でアルコールボトルを被って、カーペットクリーナーの匂いを消し去る。

「—―成功」

 返事も待たずに階段の手すりに足をかけて一気に上の階層へと飛び、階段を上り切った所で通信を再開する。息を整えるまでもなく釘を刺しに掛かる。

「シズク、もう一つの条件覚えてるか?」

「君以外が、あの像に触れないこと。覚えてるって」

 俺とネガイ、サイナ、と言うと勘づかれそうだったから俺以外と伝えていた。

「でも、なんで?詳しく話してないけど、なんでそんな条件を?」

「あんな不気味な像を俺のシズクに触らせたくない。ダメか?」

 サイナの歓声が聞こえた。

 そして数瞬送れて理解したシズクが正常な呼吸ができなくなるが、過呼吸になりながらも声を絞り出す。裏声の甲高い声ではあったが、この癖は消えていないと懐かしくなる。

「私!?私‥‥いつから、君の」

「シズク、今はオペレーターとしての役目を—―あとで話があります」

「う、うん!!わかった、あとで話‥‥話?」

 スピーカー越しから聞こえるネガイの声に一抹の不安と寒気に駆られるが、それは帰ったからで十分であり、今はシズクに代わりに叱られて貰おうと密かに笑みを浮かべる。

 先程の回廊へ意識を回し始める、カメラは誤魔化すことが出来ても人の目は誤魔化せない。監視の目がただの人の目であったならば、構わず破壊していたというのに。

「これから回廊に侵入する。予定外の巡回は無いか?」

「うん、無さそう。警備員は全員外にいる」

 ここの警備システムは基本的に監視カメラで賄われている。将来的に警備員という仕事も人がいらなくなると聞いてはいたが、それはすぐ近くまで来ているようだ。

 オペレーター陣の確認に頷き、一歩前へと進み出そうとした瞬間だった—―—―階段から足音が響いた。一人分の、それも4階という最下層からじゃない—―真下から聞こえた。

 ここで事を構えるのは得策ではない。影すら見せるべきではない。

「—―実行する」

「うん――急いで」

 行動を脳内で反復、実行に移す。

 扉を僅かに身体が差し込める範囲で開き、ボイスレコーダーを取り出しカメラに向ける。

 そのまま縮地を使い、一気に扉から弾かれる。

 今晩だけで6秒という時間、監視カメラが飛ぶことになる。だが、シズク曰くサーバー側が僅かなノイズとして処理し対処する。プログラムが独自に処分してくれると事だった。

 回廊を越え、侵入を試みた扉のパネルにスマホを押し当てて開錠を任せる。

 —―—―—―その直後だった。階段に繋がる扉からドアノブを捻る音が聞こえた。

 けれど、その頃にはもう扉の内側に潜んでいた。

「‥‥誰もいません」

 無線機のノイズが聞こえた。

「思い過ごしだったようです。‥‥ええ、了解。戻ります」

 声からして30代前半。

 低い声だが、まだ青さが残る。病院の医者の方が凄みと経験を感じられた。

「—―いい腕だ」

 扉を閉じながら投げた言葉は、ここにいるであろう誰かに向けた言葉か。それとも扉の裏で心臓を抑えている俺に対しての言葉か。何方であろうと背後は振り返られない。

 化け物が恐れる唯一の人種。紛れもないプロであった。

「‥‥鞘に戻る」

「—―気を付けて」

 シズクの声を聴いて自然と笑みがこぼれる。

 マスクと顔がこすれて自分は笑ったのだと確認した。

「イノリ、気を付けろ。—―本職がいる」

「わかった。私も出来るだけ早く帰還する」

 立ち上がりながら、イノリにも伝える。

 顔も見ていないが、彼がボディーガードであるのなら雇い主の近辺警護が仕事として最優先である。だから見逃した。この資料館よりも、自分の主の身が重要と判断したのだろう。

「‥‥案内を再開するね。廊下の右側にある扉に入って」

「わかってる。けど、ありがとう」

 今の精神状態では、正常に判断できないと思われたのか、シズクはわかりきっている案内をしてくる。ここから先は、シズクの声に大人しく従おう。

「右側だな。確認した。開錠頼む」

 真っ直ぐに廊下を歩いてスマホをパネルに押し付ける。開錠が成功した結果、ロックが外れる軽い音が聞こえる。安堵したのも束の間、低い新たな男性の声が響いた。

「誰だ?」

 急いでしゃがみ込んだ途端に「誰が開けた?」と声を掛けられる。問われて返事をする筈もない自分はセオリー通りに扉の裏へと隠れる。

「‥‥見てくる」

 緊張を匂わせる声の持ち主が足音を立てて、自分を鼓舞するかのように警棒にもなる重量を兼ね備えたライトを持つ腕が扉の内側から伸びた。そしてオペレーターの声も止まる。

「誰だ!?言っとくが、これは俺たちが先に目をつけた物だ!!誰にも渡さねぇぞ!!」

 廊下中に声を放ちながら扉に手をかけた。腰の杭に手を伸ばした時。

 部屋の内側から新たな弱々しい声が聞こえた。

「なぁ、やっぱやばくないか‥‥」

「今更何言ってんだ、どうせ俺もお前もいなくなるだろが。他の奴らがやったことになるだろうよ」

 腕の骨程度ならば安易と粉砕出来るライトを持った腕が扉に戻っていく。

「でもよ、普段だって保管庫でホコリ被ったやつしかやらねぇのに、ここで無くなったら流石に」

「だから今日なんだろう。しかも、オーダーが内密に預けた刀だぞ。外に売り飛ばせば、絶対バレねぇよ」

 シズクが言っていた「あの資料館に寄贈したら物が無くなるって噂があるの」と。盗賊の正体が判明した。犯人は警備員達だったようだ。しかもせっせと今夜も仕事で予定らしい。しかし、何よりも耳を傾けなければならない、『オーダーが預けた刀」とは。

「マズイよ‥‥バレちゃう‥‥」

「だよな‥‥」

 そんな都合よく、オーダーが預けた刀が俺以外にいる訳がない。

「この間のこともあって、俺ら警備員が目を付けられてるのに‥‥」

「どうせ学芸員の連中だって、同じようなことやってるだろう。じゃなかったらなんの為に、こんな所で働いてるんだ?」

 さて、どうすべきか。だが、事実として自分は不法侵入の現行犯であり、棚に並んび目に入った古美術品の値段が気になったのだから説教など出来ない。しかし、自分の尺度で物を語る愚人は許せない。皆しているのだから自分も。自分だけではない皆しているの類だ。

「‥‥それもそうだな。でも、これなんか軽いんだけど?」

「マジかよ!一本しか入ってねぇーって事は、相当高いんじゃないか!?」

 聞いた試しもない尺度だ。軽ければ高いとは、一本しか入ってなければ高いだと。

 だが、ここで開けられる訳にはいかない。何も入っていない。しかもひと一人分の形跡があると判明すれば、彼も自分も面倒な事になる。

「やるしかないか‥‥」

 腰の杭に手を伸ばして、ドアノブに手をかける。

「見られないように」

 ネガイから承認を得た事で、一気に血が目に昇る。

 長い年月を掛けて世に出た過去の歴史や土くれから宝石以上の価値を生み出した職人や芸術家、そんなただの人間では同じ地すら踏めない時間や偉人達の――人類の至宝を、金としか見れない俗人には、化け物の一撃が相応しい。

「始める」

 そう呟いて、ドアノブを捻った時。

「ちょっと!!何してるんですか?」

 声色が違った。だが、イノリの声だった。手伝ってくれるらしい。

「そこから離れなさい!!」

 ヒールらしき音を立ててイノリが近づいてくる。

 イノリの少し大人びた声を受けて一人が、情けなくうめき声を出したが、一人は違った。

「文句あるのか?」

「それオーダーのですよね?オーダーに通報します」

「やってみろ。オーダーは金がないと動かないだろう?」

 知らないらしい。オーダーは緊急の通報には近くのオーダー所属の人間が招集される。

「どうせお前達だって、やってるんだろう?」

「そ、そうだ!俺らだって――」

「そこで逃げればよかったんだよ」

 イノリを恐れて下がってきた奴の背中に杭を叩き込む。隣人が自然に倒れ伏して行くのを見据えたもう一人がふり返ると同時に、杭を鳩尾に投げつけて、声を潰して杭に膝を突き入れる。倒れてくる警備員の襟を掴んでゆっくりと寝かせる。

「助かった」

「いいのよ。こっちも仕事だったし」

「‥‥そういう事か」

 白衣を着て、ヒールを履いたイノリと一緒に二人を運んで腕に手錠をかける。

 イノリの言っていた「私が調べてたのは、そこで働いてる職員の数とシフト程度」とは無くなる古美術品の窃盗犯を捕まえる為だった。それにシズクの時間切れもこういう事か。

「こいつらがやってるっていうのは、すぐわかったけど、証拠がなかったの」

「普段はホコリを被ったって言ってた。悪知恵だけはあったみたいだ」

「悪っていうか猿よ。しかも、想像を超えたバカ」

 言いながら、イノリはスマホの画面を見せてくる。画面には、俺がさっきまでいた保管庫とは別の保管庫だった。そして画面中央には急須らしき茶器がある。

 急須の見た目をした茶器から白いまばゆい光沢が放たれいる、恐らく銀製だ。

「こんなわかりやすく高い骨董品を用意してたのに、わざわざあんたの木箱に目をつけるなんて、オーダーって、ずいぶん舐められてるのね」

 心底鬱陶しそうに溜息を吐く姿は、やはりイノリは美人なのだと気付かせる。美人の一挙動一挙動は、総じて溜息を吐きそうな程に美しい。どうやら前々からここに潜入していた。道理で、回廊に繋がる扉を開けれる筈だ。少しばかりの権限を譲渡されていたらしい。

「あんたはこのまま木箱の中で寝てて。私はこいつらをオーダーに引き渡すから」

 相当に恨みがあるらしく、足元で転がっている警備員二人を足で突いている。

「その服、」

「これは仕事用だから汚せない。欲しかったら自分で用意して」

 白衣を着込み、ワイシャツをしっかりと上まで締めている。黒くなった髪と大人びたメイクをしたイノリは新鮮だった。正直、最初会った時とは別人のようだ。

「それに、あんたが言ったんでしょう。プロがいるって」

 白衣のポケットに手を入れながら顎で木箱を指してくる。

「‥‥それもそうだ。これから最終段階に移行する。あとは任せた」

 最後に二人に任せる確認を取る。瞬間的な襲撃であったが、残る僅かな高揚感に語尾が強めてしまう。だからオペレーターが恐る恐るといった感じに問い掛けてきた。

「—―怒ってる?」

「怒ってる訳ないだろう。あとでな」

「うん!!」

 通信を終了して木箱に近づく。この木箱は意外と寝心地がいい。木の香りに包まれながら、眠る感覚はなかなかに得難い。欲を言えば、綿に変えて欲しい。

「ほら早く。手伝ってあげるから。これ以上いられると邪魔なの」

 イノリに急かされながら横になる。気を使ってくれたのか、それとも本当に邪魔なのか上から紙屑をかけてくれる。胸のあたりで一旦、蓋を置かれた時、言うべき事を思い出した。

「あの像には触るなよ」

「聞いた聞いた。それが仕事の条件だってね」

 めんどくさそうに言い捨てられたが、イノリは約束を破ったことはないと知っている。安堵の呼吸をしながら木の香りの肺一杯に詰め込み身体の熱を溜め込む。

「おやすみ」

「‥‥おやすみ」

 そして心拍を操作して呼吸を減らす。そうする事で睡魔が襲ってくる。最後に、イノリから見せて貰った試しのない柔らかな笑顔と、マスク越しの頬につけられる手に頼りながら目を閉じる。



「起きて下さい。もう朝ですよ」

 まぶたを開けると、光に眼球を焼かれた。勝手にまぶたが閉まってしまう。

「あ、眩しいですね。待ってて下さい」

 まぶたから感じられる光が消えて、ようやく目を開けられた。見覚えがある天井だったと、我ながら苦笑いをする。あるに決めっている。毎朝、見る天井なのだから。

「ネガイ‥‥どこだ‥‥」

「大丈夫、ここにいますよ」

 声と同時に上がらない手を握ってくれる。

「起き上がれませんか?」

 優しく呟かれる声に、無理をしてでも応えようと肘でベットを突くが骨が重すぎて持ち上がらない。短いスパンで心拍を減らした弊害だと悟る。まったく身体が動かない。

「‥‥夢?」

「現実ですよ。でも、無理そうですね」

 ネガイが頬を撫でながら、語りかけてくれる。

「あなたは仕事を見事に完遂させました。今日は休んで下さい」

「‥‥皆は」

「向こうにいます。呼びますか?」

「‥‥その前に、約束を」

「ふふ、はい」

 呆れたように笑われながら、約束の接吻を受け取る。惜しむべくはサンドが含まれていない事だが————甘くて柔らかなネガイの口を、唇で感じとる。

 木箱の中も悪くないと思ったが、比べ物にならない。この唇の方が優しく包み込んでくれる。頭を撫でくれる手は、紙屑とは比較にもならない。

「待っていて下さい」

 細められた黄金の輝きは、俺を置いて部屋の外に行ってしまった。追いかけようにも足がまるで動かない。身体全体が眠りについている。

 たった数分でまた微睡んでしまう頭蓋に、心配そうな声が届く。

「おはよう‥‥元気?」

「‥‥シズク?」

「そ、そうだよ。君のシズク‥‥」

 ゆっくり近づいてくる声の持ち主が、手を伸ばして顔を撫でてくれる。

「すごい冷たい‥‥怖いぐらい冷たい。寒い?」

 この問いに「少しだけ」と答えて、自分の姿を悟る。シズクの手が温かいと思ったが、紛れもなく真実だった。長く眠り過ぎた所為だ。また自分は死にかけている。

「仕事は?」

「終わったよ。続きは、また今度頑張ろう。今は寝てて」

「‥‥イノリは?」

 返事はなかった。だけど指の腹を軽く押し付ける手を軽く握る。ドアを開ける音がしなかった事で、既に部屋の中にいたのだと理解した。見守ってくれていた。

 シズクとは別の手を握った手は、シズクと同じで温かかった。

「こんなに冷たくなるなら言って。最初怖かったんだから。死んだんじゃないかって」

「‥‥結構、無理させちゃたね」

 言わなかった俺が悪い。そして、ここまで長時間やったのは久しぶりだった。自分でも驚くほど身体中が寒い。全身の血管から熱の欠片を一切感じない。

「ちょっと‥‥驚かせたか」

「ちょっとじゃないから。いいから早く寝て」

 相変わらずイノリは容赦がない。辛うじて開けていたまぶたに手を乗せて、無理に閉められる。そんなつもりはなかったのだろうが、これは恋人の眠らせ方だった。

「‥‥報酬の前払いが欲しい」

「いいよ。ヒーは何が欲しい?」

 本当に心配させたらしく、今生の別れのように手を両手で握ってくる。

「—―手、握ってて」

 必ず来ると予想していたのだろう。先ほどの空気を一変させた二人が密かに笑う。

「眠るまでね。言っとくけど、高いから」

 イノリが手を握ったまま、耳元にしゃがんだ。

「イノリ‥‥」

「うん、なに?」

「触ってないよな‥‥」

「触ってない。安心した?」

 答えられるほどの時間はなさそうだ。だから手を握って答える

「あのね。私、どうだった、かな。上手く出来てた?」

 シズクが変わらず、心配そうな声で聞いてきた。寂しがりやも相変わらずだ。

「‥‥よかった。またね。ヒー」

 手を握って返事をした。その時、報酬として、シーが口で払ってくれた。



「少しだけ無理をしてしまいましたね」

 銀の椅子に座った仮面の方が話しかけてくる。過去に挟んだ銀のテーブルは、よくよく見れば違うデザインだとわかった。端々が鎖が絡まるように仕立て直されたそれは、この方の創作意欲と共に今の心証を現して見える。 

「あの時とは違う意味で生気がないですね」

「ここまで短い時間で使ったのは、初めてかもしれません」

「そうですよ。私は知ってます」

 手で口元を隠しながら笑ってくれる。

「皆は本当に無事でしたか?」

 そこだけが気がかりだった。あの本職とは顔も見てはいないが、それなりの腕だと感じられた。オーダーかどうかはわからないが。

「心配性なのはあなたもですね。はい、皆さん無事ですよ。むしろイノリさんの依頼成功祝いをしてたぐらいです。だからふたりとも、あなたに尚更申し訳ないようですね」

 そういう事か。二人の様子がおかしかったのは。

 自分達が遊んでいる時に、俺は死にかけていたと思ってしまったのかもしれない。

「気にしなくていいのに」

 でも、そう言われても自分が許せないだろう。ふたりとも優しいから。

「イノリとシズクには、強めに触るなって言っておきました。触ってませんよね?」

「はい。あなたとの約束を守って誰も触ってませんよ」

「‥‥よかった。それで、あれは」

「言いませんよ♪」

「‥‥可愛い」

 笑顔のままで首を傾ける動作が、あまりにも蠱惑的だった。

「ありがとうございます。でも、言いませんよ♪」

 頑なな石像を思わせる姿勢に、諦めて話を変える事とした。

「俺の感想を聞いて下さい。あれは特別な力を持っているようには見えませんでした」

「まぁ、そうですね。あれが力を得るには手順が必要ですし、何よりただの人間相手でないと力が発揮できません。人間やヒトガタからも離れているあなたには、ただの像ですね」

 人間には効果があるとは。一体あれはなんだ?

「あれを巡って、人は死んでいますか?」

「いますよ」

「‥‥即答ですね」

「はい。事実ですから」

 本当に俺以外の事となると無頓着というか娯楽の一つらしく楽しそうに微笑んでくれる。

「それは手順の一つですか?」

「秘密でーす♪」

 これ以上は無理そうだ。もうヒントもくれないだろう。それに聞いたところで俺自身が理解できない。あの像には力がある———ただし人間に対してのみ。そう言ったが、それはあの「ハエ」のように人外の力なのか。それともあの像を巡る人間の抗争の渦中にいるという意味なのか。その辺がわからなければ、何一つ理解できない。

「でも、昨日は良いものを見せて下さってありがとうございます。お蔭で楽しめました」

 一瞬程度しか展示品や保管品は見えなかったが、それで十分だったようだ。

「何が気に入りましたか?やっぱり源氏物語ですか?」

「源氏物語ですか‥‥!はい、私は実際に読んでいたのでとても楽しめました」

 実際に読んでいた?—―考えない事にしよう。

「あーそれ以外は?」

 そう聞いた瞬間、仮面の方は手を前に出してきた。

「これ以上は、今日はやめておきましょう」

 天井の星空を見て、仮面の方はやめてしまった。

「私にも伝わるぐらいの慈しみを感じます。これには引き下がらなけばなりません」

 椅子から立ち上がった仮面の方が、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 それに応える為に、自分も立ち上がった。

「今日は、あまり話せませんでした」

「そんな顔をしてはいけません。シズクさんが待ってます。それに、私はいつもあなたの眠りの隣にいます」

「‥‥ありがとうございます。わかりました、シズクと話してきます」

「はい。どうか元気に話しかけて下さい。ずっとあなたの隣にいますから」

 両手を握って笑いかけてくる。

 少しの間疎遠だったシズクと最近になってまた親しくなれたんだ。

 もうシズクと別れる訳にはいかない。

「おやすみなさい。そして、これは私からのお願いです」

 手を引いてくる動きに従って耳を預ける。

「人間に期待しなくてもいいんです。でも、シズクさんや、あなたの恋人達は」

「俺はやっぱり、人間は嫌いです」

「‥‥そうですね」

「でも」

 抱き締めて持ち上げる。

 仮面の方は少し驚いた声を出したが腕に腰かけながら、頬を撫でてくれる。

「俺は人間という種族そのものに絶望するほど、見放してはいません。俺はシズクを愛しています」

 一人ぼっちだったのは俺だけじゃない。寂しがりやなのは、俺だけじゃない。

「アイツを泣かせる訳にはいきません。シズクは、俺の恋人です」



「起きた?」

 耳を撫でながら聞いてくる。それが気持ちよくて。シズクに負けた気分になる。

「これが、気持ちいいんだ。私の勝ちだね」

 つい声が漏れてしまった。弱点だと気付いた幼馴染が尚も得意気に誇らしそうに続けてくる。薄い耳の皮に這わす指に慰撫され、自分の顔がふやけていくのがわかる。

「あは。可愛い顔。じゃあ、次はどうしよっか」

 いつかのマトイのように、枕元に腰をかけた時の振動と香りが顔に伝わる。甘い香りであるのは間違いないのに慣れ親しんだもう一つの自分の匂いを感じる。

「まだ君が起きた事、誰も知らないんだけどさ。どうする?」

 弱っている俺を久しぶりに見て、楽しくて仕方ない。そう声に書いてある。時たま見せていた、足を組んで余裕を感じさせる動作のシズクに引き寄せられるのがわかる。

「見てるね」

 見せてるんだろう。そう言いかけた時、唇に指を押し付けられた。

「何されたい?」

 幼い時のシズクは消え失せていた。

 今いるのは成長した仮面の方と同じか、それ以上に心をくすぐってくる女性だった。血の気が通った健康的な足に自然と目が動く。そしてふっと笑われる。長く付き合いがある所為だ。視線で何を考えているのかを読まれている。そして差し出すように肉を見せられる。

「私の足に触りたい?」

 白い肌に微かに灯っている血が眩しい。仄暗い部屋の中で虫が光に吸い寄せられるように、動かない手がシズクの血を求めて蠢く。寝具の反発に負けた目の前の四肢が筋肉と薄い脂肪とに分かれ二段に崩れている。触れてしまえば、きっと虜となる。

「でも、ダメ。こう言われると————やっぱり興奮する?」

「シズク‥‥」

「な~に?」

「もっと、俺をいじめてくれ‥‥」

 高笑いが聞こえる。隣に人がいるのも気にしない高い美しい響きが。

「いいよ。もっといじめてあげる」

 声色が変わった。捕食者が死に掛けを弄び犯すかの如く、下腹部に馬乗りとなる。そして胸骨に手を突き出し、体重を掛けて折ろうとする。肺が縮まる。首を絞められるよりも手の感触が強い所為だ、深い快楽の坩堝に引きずり込まれる。

「いいんだ。そんなにいいだ。死んじゃうかもよ?」

 顔を覗いてくるシズクの目がおかしい。赤みがかっただけの瞳が、あの方のように深紅に輝いている。

「‥‥まだ、死なない」

「まだ余裕なんだ。いいよ、あげる」

 口が口で塞がれる。鼻で呼吸しようにもシズクの香りに吸い寄せられて呼吸に意識が向かない。またシズクは最初から目を開けていた。身体が動かないのは寒いからじゃなかった。シズクの目に縫い止められていたからだ。

 唾液と息を吸いつくすように、シズクが舌をで口腔を貪り熱に絆されていく。舌がこんなに長いなんて知らなかった。口だけに留まらない、柔らかくて粘液を直接纏っている舌で喉まで突かれる。内臓を抉られていると気付いた。

「はい。終わり」

 舌を引き抜かれた瞬時、繋がっていた唾液が開きっぱなしだった口に崩落する。危険な中毒性のある薬を舌で飲まされてのだろうか。シズクの真っ赤な口から目が離せない————舌なめずりした時に零れた体液すら欲してしまう。

「そんな顔しても終わり」

 胸を砕こうとしていた手を離し、腰の上からも早々に降りてしまう。引き寄せて犯したい——激情に駆られるが、腰から降りた瞬間には元の幼くて自分にしか見せない赤い笑顔を浮かべるシズクに戻ってしまう。

「顔すごいよ。私もだけどね。あはは‥‥」

 そんな二面性、悪魔と天使の顔を持ち合わせる彼女に完全に心臓を掴まれた。

 照れくさそうに、唾液と汗だらけの顔をウェットティッシュで拭いてくれる、感触が残る唇は念入りに上唇と下唇の間まで。だが目はまだ深紅に輝ていた。

「‥‥君の口、柔らかくて、美味しくて」

「好き?」

「‥‥好き、かも」

 唇を拭いて唾液をたっぷり含んだウェットティッシュを、シズクが自身の唇で挟む。物足りないと言いたげに吸い尽くすような音を響かせるが、「—―本物の方がいい」とウェットティッシュを投げ捨てもう一度被さる。

 けれど完全に脳が覚醒し、興奮で血が全身に行きわたった自分は胸に宿った本能のまま、今もか弱い幼馴染のままでいるシズクを貪ると決める。

「手、動くようになったんだ」

 力任せに乱暴に背中へと腕を回し、体重を掛けて寝返りを打つ。

 立場が逆転した。腕の中にいるシズクは恐怖で声も発せられない、なのに自分から恐る恐るに頭に腕を回す。乱暴に扱われる物のように消耗されるのを望んでいた。

「私、何されちゃうの?乱暴されちゃうの?」

「ああ。乱暴する。少し早いけど、ご褒美、貰うぞ」





「どうぞ」

 ネガイから渡されたミネラルウォーターに口をつける。

「悪いな。開けてもらって」

「できないなら、できないって言って下さい。血が出るまで挑戦しないで下さい」

 ミネラルウォーターのボトルは、なかなかに難敵だった。結局ネガイにボトルを。イノリに指の治療を頼むに至ってしまった。手の挙動がおかしいと血と痛みでようやく理解する。

「起きて早々元気だねー。まぁ、誘ったシズクもシズクだけど」

「シズクさん、結構いじめっ子体質だったんですね。卓越した高笑いでした♪」

「卓越って何!?せめて慣れてるって言って!!」

 シズクがイノリとゲームをしながら叫んだ。今度は上から見下ろすゲームで、三人称視点には親近感がわく。だが卓越という言葉が流せないシズクは更に続ける。

「それに誘ってきたのはヒーの方で!私は」

「でも、可愛くていじめたくなったんでしょう。弱ってるアイツを見て」

「—―ち、違うから!!」

 誤魔化すようにゲーム画面に戻ってしまった。

 そうか、弱っている俺を見るといじめたくなる—―いい事を知った。

「でだ、仕事はどうなったんだ?」

 サイナから受け取った新聞を読みながら聞く。

 新聞には、あの資料館でたびたび古美術品が消えていた事や、潜入していたオーダーに逮捕された窃盗犯の略歴が掲載されている。しばらく資料館は閉鎖。館長や運営部門の責任者は全員知らなかったと証言している。

「‥‥あの地下の話はない」

「上手く隠しているようですが、それも時間の問題ですね♪」

「資料館はオーダーの管轄になりました。オーダーが現場を取り仕切り始めてしばらく経ってから、ようやく警察が到着していました」

 オーダー街以外での捜査は基本的に警察とオーダーが合同、とは言えないが協力関係で捜査を進める。だが実際はオーダーも警察も捜査の主導権を握りたがる。

「オーダーに主導権が渡ったのか」

「当然でしょう。警察だったら、わざと逃がすじゃん」

 イノリがつまらなそうに言った。

「それに忘れたの?あの養護施設の運営には警察も関わってたって」

「‥‥そうだったな」

 養護施設を抑える時に抵抗したのは地元の住人だけではなかった。あの土地を管轄している警察もオーダーに対して発砲し、それがニュース映像に流れてしまった。

「少年兵を育てる施設で備蓄された武装は警察からの横流し品。それがバレるとマズイから警察は口封じにオーダーを殺害しようとした。世間の認識はそれで固まってるみたいね」

「まぁ、実際その通りだし。言い訳したらしたらで他の容疑もバレるから、受け入れるしかないんだろうな」

 警察も一枚岩ではないが所詮は行政の組織だ。

 ただの一部署の犯罪を全ての警察機構が被らされるのは嫌だろうが、渦中の「ハエ」は警察側にもパイプを持っていた。これは好都合であり、これ以上行政側に疑いの目を向けられるぐらいなら警察を身代わりにしようと政府は考えたのだろう。

「イノリ、あの施設は」

「サイナから聞いたから。それにマトイからも。施設は少年兵を育てる場所」

「悪い。それとありがと。また組んでくれ」

「許してあげる」

 イノリにとって譲れない信念に触れる施設だった。だが何も言わずにイノリは助けてくれた。結局俺も人を利用しないと戦えない弱者だった。

「じゃあ、話を戻すぞ。あの像は今どこにある?」

 新聞には潜った地下の事や、侵入した保管庫の事は何も記されていない。

「まず君が眠ってた時の話をするね」

 シズクとイノリがゲームをやめて挟むように座る。なぜだろうか、ふたりとも露出した腕が触れるぐらい近かった。しかも髪から漂う香りに意識が解かれる。

「ダメ寝ないで。えーと、イノリが潜入してた理由はわかるね?」

「窃盗犯を捕まえる為。現行犯で」

「そう私はあの二人を捕まえるように、大学側から頼まれてた。だから寝ないで」

 大学側も寄贈された美術品や骨董品が度々消えるのを看過できなかったようだ。もしかしたら、これは財団内の派閥争いの側面もあったのかもしれない。

「逮捕の準備って言って、しばらく資料館を歩かせて貰って手に入れた情報をシズクと解析、盗品が保管されてる場所を見つけたの。ここまでいい?」

「ああ、そこであの地下保管庫に潜入か」

「潜入って言っても常に人はいるし、オーダーって知られちゃマズイから業務の振りをしながらだから思うように動けないし、散々だった‥‥」

 肩から力を抜いて、椅子に体重を預けながら話し続ける。出会った頃のような無気力な姿につい笑みを浮かべると、不思議に思ったのか愛らしく首を傾げた。

「どうしたの?まぁ、いいや。その情報を元に君には潜入を頼んだの」

「そこはわかった。だけど、それぐらい自由に動けたなら何故俺なんだ?法務科て言っても、本当のプロのイノリなら出来たんじゃないか?」

 法務科の立場は日本国内ならば絶対的な捜査権を持つ。それが官邸であれ省庁であれ退けの一言でとりあえずはどこにでも侵入可能。

 だがやはり強力な権限を振り下ろすには周りを納得させられる理由が必要だった。一見自由そうに見えて、法務科とは法に雁字搦めで意外と自由ではなかった。

「でも法務科って名前は大きいし、場所のこともちゃんと話すから待ってて」

 濁すような言葉と共に手に手を重ねる。

「ダメ、かな?」

 こんな技を一体どこから仕入れてきたんだ。シズクの上目遣いはこの化け物を殺せる。そして向かいにいるネガイからも殺人的な視線を受ける。

「だけど、これは答えろ。期日ってのはオークションにも関係してるな?」

「うん‥‥」

 シズクの言葉からして、少なくともあの資料館にはもう関係がない。

 随分足と手が早い連中だ。あの晩のうちに全ての古美術品を移動など不可能だが、それでも大半は別の場所へと。オークションの会場に移動させられたのか。

「そのオークションには、人もかけられるのか?」

 イノリが関わっている以上、この可能性が浮上する。僅かに語気を荒立てて聞いた時、肩を震わせたシズクはなおも押し黙ったままとなる。

「どうなんだ?」

「‥‥可能性はある、うんん、かけられる事になる」

 重ねていた手を握って上目遣いなどではない、真っ直ぐな瞳を向ける。

「だからお願い。法務科の立場として、私の恋人として、私を助けて」

 赤みがかった瞳に何が映っているだろうか。自分の肉体を捧げる代わりに、願い叶える神だろうか。それとも言葉を知らない化け物の理性無き瞳だろか。

「—―恋人としてか」

「うん」

「いいぞ。全て奪ってやる。シズクもな」

 そう言った瞬間、恋人が肩に頭を乗せてきた。

「あはは‥‥言っちゃった。王子様、待てなかった‥‥」

 昔から言っていた。必ず王子様が来ると、だからその時の為に頑張るんだって。ヒトガタである俺とは似て非なる思想。だが、救いを求めるのは人間の特権だった。

「化け物でよかったのか?」

「いいの。どうせ、どんな王子様でも君に負けるし霞んじゃうから」

 選ばれる努力をできるのは人間だけだ。ヒトガタでは辿り着けない。

「あのーそろそろいいですか?」

「今は取り込み中」

「刺しますよ?ふたりとも」

 腰のレイピアから音が鳴った瞬間、シズクと共に真っ直ぐに椅子に座った。



「そっか。シズクも」

「うん」

 イノリとシズクがゲームをしながら話していた。

「でも、私自分で言ったの。ヒーのいるオーダーに行きたいって」

「‥‥強いね。シズクは、私なんかよりも、ずっと強い」

 シズクも望んでここに来た訳じゃない。だけどシズクはこの街を選んだ。

 シズクは天才過ぎた。誰もが手を伸ばしながら、誰もが恐れた。

「うんん、そんな事無い。私はヒーがいないと、何も出来なかった」

 ボタンを押す勢いやテンポを全く変えずに、二人はコントローラーを操っている。

「それにやっぱり私は運がよかったの。ここは私を受け入れてくれた」

「‥‥シズクは強いよ。最初から自分で選んで、みんなから頼られて————それにあいつにも選ばれて。私なんか」

 これ以上は聞いていけない。そう思ってキッチンに移動した。

「シズクは」

「シズクも捨てられた。だけど、あいつは自分からここを選んだ」

 化け物って言われた、シズクの背中に隠れている中等部の時に聞かされた話だった。外にある最上級の進学校でも、シズクの資質を扱い切れず家に帰した。

「‥‥かっこいいです」

 だから、シズクは言ったそうだ。俺のいるオーダーに行くと。

「ああ、シズクこそ王子様だよ」

 幼馴染である天才は、この化け物に取っても王子様だった。ひとりでは歩くことすらままらない、泣き続ける自分の手を引いてくれた。

「シズクは、俺なんかよりも、よっぽどかっこいいんだ」

 昼の準備をしているネガイとサイナの手伝いをする。

 今日のメニューはシズクのリクエストだった。

 何度か部屋に遊びに行った時に出されたメニューである固めのオムライス。ケチャップライスを鼻歌まじりに作り続けるサイナが、「こういう固い綺麗なオムライスって久しぶりですね♪」と上機嫌に述べた。

 昨今、半熟卵が好まれる世であるのは否定しない。事実として自分も好みの類であるのだから。けれどあまりにもオムライスと言えば半熟という思考は些か短絡的やしないだろうか?自分は半熟卵オムライス勢力に異議を唱える。

「外だと柔らかい奴ばっかりで、なかなか見かけなくて残念なんだよ」

「そうなんですよね~。ほんとに高いお店に行くとありますけど」

 この中でネガイの次に資産を持っているサイナがそう言うと、もはや嫌味にも聞こえない。金持ち過ぎるというのも恐ろしい。

「何度か食べさせてもらったんですよね?」

 と、薄焼き卵の準備を終えたネガイが問い掛けた。隠し事でもないので一言「ああ」と返すと、「‥‥私の手料理よりも先ですか」と、腰のレイピアが鳴いた。

「シズクとはここ昔から付き合いだ。小学校の頃も何度か、ご馳走になってた」

「‥‥あ、言ってましたね」

 なんというか、パブロフの犬と言うのだろうか。ネガイのレイピアが鳴ったら何かしらお仕置きの覚悟をしなければならない。冷たい身体で冷や汗をかいている俺を横目に、サイナは鼻歌混じりにケチャップライスを作り続ける。

「でも、よくシズクさんのご実家は許しましたね。オーダーなんかに入学したいなんて」

「最初は止められたよ」

 サイナが狼狽えるも構わずに、シズクは続ける。

「あなたみたいな、運動が全くできない子が行っても怪我するだけって。まぁ、しばらくはそうだったけど。変わろうか?」

「い、いいえ~」

 正直驚いたし、今も恐ろしい。俺とネガイにも気づかれずに真後ろを取った。

 もしシズクがナイフでも持ってたら三人とも刺されていただろう。

「ここだけの話、市街地でのマラソンの時なんて、こっそりヒジリに担がれてたし」

「え、それマズイんじゃ?」

「何も言われなかったよ。目的地に真っ先についたからかな?それに二人で飛んでたから、ほとんど見つからなかったから」

 懐かしい話だ。中等部二年の時だったか。

 オーダーには伝統とも言うべき悪習がある。その中の一つ、オーダー街内に設置された無人の市街地で執り行われる、マラソンと銘打たれた体力作りの行事が存在していた。だけど、それはただのマラソンではない。

「飛んでた?」

「うん、ヒジリに抱っこされながら」

「—―—―飛ぶってそういう意味ですか」

 今度はレイピアが鳴らなかった。だが視線でわかる。呆れられたらしい。

 当時、俺はシズクを抱えながら無人の市街地の壁や建物の屋上を走っていた。だから真っ先にとは言わないまでも、シズクを抱えながらだがタイムとしてはトップに食い込む順位だったと覚えている。

「やっぱりそんな事してたんですね」

「あーやっぱ、噂になってた?」

「なってました!」

 サイナが怒るように腕を上下に振る。頬を膨らませる可愛げある憤怒だが、当の本人として決して流せない、自分の美学に反する無法であったらしい。

「私達が走りながらルートを考えている間に、二人ともゴールしてるんですもん!どれだけ最短距離を走っても全く二人のタイムに届かなくて、車両でも使ってるんじゃんかって!!」

 御機嫌斜めになってしまわれたサイナは、木べらを持った拳を何度も振り下ろしてくる。駄々をこねる仮面の方と瓜二つに見えた。

「フリーランニング、パルクールって言うんだっけ?すっごい気持ちよかったよ。今度、サイナもやってもらえば?」

 簡単に薦めるが、腕の中にいるシズクの案内を頼りに走る市街地はだいぶ危険であった。最初のうちはシズクも体力があったから持たれやすくしていたが、途中から完全に眠っていた。腕から滑り落ちそうになる身体を何度救った事か。

「—―約束ですよ?」

「いいけど、やるとして」

「約束ですよ!」

 真面目に走っていた自分がバカみたいだと感じたサイナが鋭く脇を抉った。

 ————相変わらず、いい腕だ。骨を潜るように放たれた拳が見事に体幹を奪った。崩れ落ちるように、倒れる身体をシズクとサイナが慌てて立て直してくれるが、一度手放した意識が身体から這いずるように浮き上がる。

「ご、ごめんなさい!!忘れてました!!」

「しっかりして!!どれだけ貧弱なの!?イノリ!!」

 明滅する意識の中で、ネガイとイノリの大きなため息が聞こえた。




「家の人、なんだって?」

 例えシズクの部屋だとしても、始めての女子寮というのは緊張した。

「君とは話すなって」

 差し出された麦茶でひび割れた喉を潤す。けれど止まらない罪悪感に吐き気と肋骨が縮まるのを感じる。あれだけ一緒に過ごしたシズクと一分一秒でも一緒にいるだけで、内臓から血が溢れ出る気分だった。シズクを呼び声すら自分の内側から発せられた音なのかと、酷く小さいもの。我ながら醜い声だと悟った。

「うん。もう知ってるから。ヒジリが、どんだけ危ないかって」

「‥‥なら、なんで」

「決まってるじゃん。ヒーが心配だから。これ」

 小さいテーブルの上に置かれた楕円形の皿。上には薄い卵が乗っている。

「いい匂い。美味しそうだよ」

「ありがと♪」 

 まだ段ボールだらけで、それ以外何もない無色の部屋。そんな中でシズクが出してくれたオムライスが唯一部屋を飾っていた。時計の秒針だけが響く世界で、自分達は無言の食べ続ける。ケチャップの酸味と卵の甘みがまだ正気だった頃を思い出させる。

「よかったのか。ここで‥‥」

 オーダーは身寄りがない。もしくは困窮している家族の為に来るような場所だ。額面上の言葉だけを信じれば、しっかりと教育をしてくれるらしい。

 けれど、本人達の感覚としては人買いとさほど変わらない。

 ここは後がない子供達がくる場所。

「シズクなら、もっと」

「ここが良いって、私が言ったの」

 それ以上言わせないと言いたげに被せた言葉と共にテレビをつけて、バラエティーを流し始める。感情の機微など感じない、普段のシズクのままで「それとも、私と会いたくなかった?」と容赦なく心を抉り去った。

「—―ごめん」

 スプーンを置いて謝ったが、やはりシズクは何も変わらない様子で顔を見つめた。

「俺、シズクを」

「うん、殺そうとしたよね」

 あの息苦しさを思い出す。

 そんな俺を、シズクはベットの隣に座って背中をさすってくれていた。

「あの時聞いた話。私は信じてる」

「‥‥なんで、信じられるんだよ」

 当時はまるで言葉になど出来ていなかった。回らない口に止まらない激情の数々。悲しんでいるのか憤慨しているのか自分自身でもわからない言葉の濁流をシズクは、静かに擦りながら聞いてくれた。

「目に操られた。それ、私も同じだから」

 何も変わらない優しくて自分なんかよりも、よっぽど大人なシズクが立ち上がって隣で背中を擦ってくれた。つらいのは彼女自身もだというのに、誰よりも隣にいてくれた幼馴染は、なおも慰めてくれる。

「うん、泣いていいよ。つらかったんだよね」

 いっその事何処までも拒絶してくれれば、自分は救われたというのに心を読み取った悪魔のように隣に甘くて柔らかい言葉をかけ続ける。

 つい魔が差してしまった。甘い薬のような呟きに名を呼んでしまう。

「ん?なに?」

「おれ、人間が怖いんだ」

「そっか」

 否定も肯定もしないで、ただ受け入れてくれる。

「なんで‥‥こんな‥‥こんな所にいるんだよ‥‥」

 つい数か月前まではシズクと成績を争って、同じクラスの友人達とずっと遊んでられたのに。きっとこれからも友人として、ライバルとして一緒に暮らすと思ったのに———俺もシズクもここにいる。オーダーという先のない人間の一員と成っている。

「何がいけなかったんだ」

 ただ人間の求めるままに今の今まで振舞っていたのに。

 痛くて、怖かったから少しだけ抵抗しただけなのに。それだけで家から捨てられた。もう、誰も俺を見てくれない。このまま処分を待つしかないのか。

「ずっと、ずっと‥‥俺は頑張ってたのに‥‥」

「うん、知ってるよ。ずっと隣で見てたもん」

 オムライスとスプーンに涙がこぼれて溜まっていく。

 でも、シズクは取り上げない。変わらずにスプーンを差し出し続ける。

「君が変わって皆が君から離れて行っても、君は君だったよ。ずっと頑張ってた」

 要らないと顔を振った瞬間、涙で汚れる事も気にせずに頭を抱擁してくれる。

「‥‥実はさ。私もなんだ」

「シズク‥‥?」

 顔を上げた時、涙が降ってきた。

「私もね。捨てられたの」

 シズクの涙は、温かった。

「私ね。勝っちゃいけない人に勝っちゃたの」

 シズクは頭が良過ぎた。いい服を着て、綺麗な言葉を話す大人達さえ恐れる程に———誰もシズクの事なんて見てなかったからだ。シズクを囲んでいる大人達は、誰もシズクの髪すら見ていなかった。誰もシズクの事なんか、褒めてなかった。

「私ね。入学前のよくわからない授業を受けたの。私頑張って思った事を話したの。でも、それがダメだったの‥‥」

「なんで、なんでダメだったんだ?シズクなら、シズクなら頑張れば」

「うん、でもダメだった。私、頑張り過ぎて、偉い人を怒らせちゃったみたい」

 なんで笑えるんだ。

 なんで、笑ってられるんだ。なんで、そんな顔をしていられるんだ。





「美味い」

「美味しい」

 隣にいるネガイと二人して声が漏れた。

「ケチャップライスがいいんだよ」

「でも、後をシズクさんに任せたら、途端にいい香りがしてきてました‥‥」

 サイナも料理はできる人なのに、ここまでのケチャップライスは食べた事は勿論、作った事もないので目に見えて肩を落とした。しょぼくれたウサギに見えた。

「———すごい」

 イノリにいたってはほぼ無言で食べている。受けるであろう質問である「卵の焼き加減絶妙です。これは親からですか?」とネガイが感嘆の声と共にシズクに聞くが、予想通りに首を振る。これは誰にも習わずに磨き上げたレシピだった。

「これは私とヒーで作ったレシピなの」

「二人で?」

 正面にいるシズクの答えに、ネガイが首を傾けながら聞いてくる。

「ああ、小さい頃、どっちの‥‥まぁ、俺とシズクだけになった時に」

 油断して口から、あの人間を親と言いそうになってしまい、慌てて止める。

「うん、夏休みの時なんだけど、朝ご飯とか、昼とかも一緒に食べてたの。ちょうど、今のネガイさんとヒジリみたいに」

「そういう事でしたか」

 ネガイが興味深そうに聞いている。

「最初のうちは、焦げたり張り付いたいりして、焦がしケチャップライスのスクランブルエッグ乗せになってたな」

 見た目はとても褒めらたものではなかったが、あれもなかなか味自体は悪くなかったと心底思う。見た目は酷かったが。

「うんそうそう!!朝も昼も夕飯もオムライスにして、何度も卵買いにいったよね!」

「ああ、店員に顔を覚えられて、これでいい?って卵渡されたな」

「結局二人して5回は買いにいったよね。でさ、お米使い過ぎて怒られて」

 昔話に花が咲いて仕方ない。あの時の俺とシズクは一緒にいるのが当然だった。学校でも一緒、家でも一緒、勉強も一緒。友人というよりも家族に近かった。

「小学校前からの知り合いだったんですよね?」

 ネガイが最近になって顕在化した謎を聞いてくる。

「多分、そうなんだけど、不思議と覚えてないんだよな」

 ランドセルを背負う前からシズクとは遊んでいた記憶があるが、具体的にそれがいつなのか、まったく覚えていない。

「ずっと一緒にいるのが、普通になり過ぎていたんですか」

「そうかもな。うん‥‥ずっと隣にいるのが普通だった」

 もうこの事には答えが出ている。気にしない。俺はずっとシズクの隣にいた。ランドセルを背負っていようがいまいが関係ない。

「シズクは、幼馴染みで、隣にずっといてくれた恩人だ」

 俺の答えを聞いて、ネガイが微笑んでくれた。ネガイとシズクは、出会ってまだまもないけど、同じ所がある。2人とも、この化け物の恩人だった。

「幼馴染み、羨ましいです」

「—―—―ああ、良いものだ」

 微かに、ほんの微かに、イノリの方に首を回してしまった。

 その瞬間、イノリは目を閉じて、スプーンを置いた。

「じゃあさ、ふたりは喧嘩とかしなかったの?」

 特に深い意味が無さそうに聞いてきた。

「喧嘩か‥‥何度かしたな」

「え、したっけ?」

「したした。ほら、ボールの投げ方の」

 そう言った途端に、ネガイとサイナが思い出したらしく、それぞれ両手を叩く。

「もしかして—―—―話したの?」

 僅かに頷いて返した瞬間だった。

 酔いでも回ったかのように顔を真っ赤に染めたシズクが、立ち上がってスカートに隠されていた拳銃を抜く。それは小さな手にも収まる小型化されたSigシリーズ。SIGP228。SIGP226の軽量小型にして弾数が増加された13+1発のマガジンを持つ多能な兵器であり、アメリカ軍ではM11の名称で制式採用され、FBI、SATで使用されている名銃。

 俺が—―—―贈った銃だった。

 平常とは言い難い顔色のシズクが数日振りのシズクサイレンを上げて、銃口を向け続ける。だが隣のイノリが引き金の内側に指を入れる。コンソールとコントローラーしか持てないシズクは指の力も持ち合わせていなかった。

「静かにして。なんていうか、ヒジリと一緒にいると毎回騒がしくなるわね」

 イノリに諭され、隣のサイナに水を渡されるシズクは尚も顔を赤く染めるが、嫌々ながらも大人しく座席に戻る。宥める相手が見つかって何よりだと安堵する。

「シズクは、結構感情的なんですね」

「感情的じゃないとこ、見た事ないんだが」

 二人に宥められてようやく呼吸が落ち着き、水とオムライスで精神の安定化を更に図る。

「なんで、勝手に話すかな?」

 不満げに見つめてくるシズクと、謝れ、と目で指示してくるイノリ。

 そして宥めはしたが、面白がっているサイナ。三者三葉だ。

「悪かったよ。話の流れでな。それに今も似たようなもんだろう」

「‥‥そうだけどさ」

「それより。その銃、使ってくれてるんだな」

 懐かしい。中等部三年で、まだオーダー校内の射撃場でしか発砲を許されなかった頃からのものだった。最近中々抜いてくれないから、別の銃を使ってるのかと思っていた。

「渡した時は、手に馴染まないとか言ってたのに」

 手の小さいシズクでも使えるように、少しだけ見栄を張って選び、自分の銃より先に購入したのを覚えている。

 固くて冷たい銃が乗せられた小さくて柔らかいシズクの手が痛々しかった。

 そして、諦めてしまった。シズクも、オーダーの一人に成ってしまったのだと。

「もう1年以上前だよ。しっかりと手に馴染ませたから!」

 ようやく機嫌が直ったシズクは、自慢げにSIGP228をスカートの中に隠した。

「そうよねー。私が付きっ切りで一か月以上教えた訳だし」

 だが横からのイノリの呪詛のような言葉で顔が再度赤く染まった。

「も、元から少しは出来てたでしょう!?」

「銃の使い方はわかってても、腕の筋肉が想像以上に無くて銃口が跳ね上がるし、筋肉をつける為の腕立て伏せすらできないんだもん‥‥。こんなに運動ができないなんて――—―」

 イノリが遠い目をしながら嘆いている。やはりと思った。

 あのシズクが、あんな前衛に出てくる訳がないと思っていたが、イノリから射撃を教わっていたとは。改めて、イノリの付き合いの良さが理解出来た。

「な、なんでよー!私だって頑張ったじゃん!」

「そうね――うん、シズクは――頑張ってた‥‥」

「死んだみたいに言うのはやめてーー!!」

 自分のお人好しさを思い出して疲れたようだ。肩を揺らして訴えるシズクに生暖かい目を向けて口元を歪ませている。全てを悟ったイノリの笑顔は神仏に通じそうだった。

「アルカイックスマイル~♪」

「私の方が先に天寿を全うしたのね――—―嬉しい」

 俺もシズクも、イノリには世話になりっぱなしである。

 いつか改めて礼をお供えしよう。そう、心に誓った。




「もう少し浸かりますか?」

「ああ、もう少しだけ‥‥。でも、これ以上いると眠りそう」

 三人が帰ったのを見計らって、二人で湯舟に浸かっていた。湯船の前方で浸かっているネガイが見返りながら、心配そうに呟いてくる。

「寝ちゃダメですよ。でも、不思議と私も眠りそうです」

 そう言う割には、確実に意識的にネガイが背中を預けてくる。甘えてくるネガイに頼って肩に頭を乗せさせてもらう。後ろから抱擁すればする程、ネガイの完成された肉体を感じる事ができる。背は自分よりも数回りも低いのに、豊満な身体に腕が沈んでいくのがわかる。

「—―—―冷たいですね。全然、温まってないですよ」

「そんなに?」

「はい。本当に死体みたい」

「‥‥俺は、死なない。ネガイを残して行ったりしないから」

 思い出させてしまった。マトイと二人で俺を殺した時の記憶を。

 だから安心させようとさら強く抱き締めた。そして肩を抱いている手に手を重ねられる。

「これが、普段あなたが求めている熱です。痛いですか?」

「‥‥少しだけな」

 火傷でもしそうだった。皮膚を抉る熱を少しだけ緩めてくれる手に心地良さを感じていた時、ネガイが首を回して耳を口に含まれる。そのまま、しばらく舌で耳を慰撫される。

「氷みたいです」

「大丈夫。これも少ししたら治るから」

「少しって、いつですか?」

「‥‥わからない。でも」

「言わせてもらいます。あなたは、あの時と同じくらい死にかけています」

 軽い言葉だったが、この意味の重さを誰よりも知っているのはネガイだった。

「みんなと話し合いました。あなたの冷たい身体がこのまま続くようだったら、あなたは作戦から離れさせると。気付いてますよね?あなたは、弱くなってる」

 言われるまでもない。これはオーダーに限った話じゃない。求められるパフォーマンスができなくなった人間、機械は排除させる。そして同じ機能を持った新品を加える。

 合理的で、正しい判断としか言えない。

「確かにあなたの言う通り、しばらくすれば治るかもしれません。でも、それの弊害で侵入時と同じ動きが出来なくなっているのなら、あなた以外に頼る事となる—―—―」

 情け容赦ないネガイの言葉に、身体が更に冷たくなっていくのがわかる。

「‥‥怒ってますか?」

「怒らない。ネガイは正しい。それに、俺の為に言ってくれてるってわかるから」

 ネガイの体温に頼る為に、回している腕に力を籠める。

 ネガイはいつだって俺の為にいてくれた。情けない弱い俺を守ってくれていた。

「自覚もある。目の女達を殺した直後か、それ以上に弱くなってる」

 冷たい身体の中から凍えた内臓を感じる。血が足りないのではない、ただただ熱がない。これは、と熱を注がれた程度でどうにかなるものじゃない。

 俺という受け皿を修復しなければならない。

「大人しく少し休むさ。一緒にいてくれるか?」

「ふふ‥‥仕方ない人ですね」

「前みたいだ」

「前みたいな私は嫌いですか?」

 今度は耳ではなく首を吸ってくる。そして、俺に自分の喉を見せつけてくる。

 白くて、血の気があって、柔らかくて――—―噛み応えがある。もう既に知っている。

「好きに決まってるだろう。もっと、俺を見てくれ‥‥」

 今度はこちらの番だった。ネガイを逃がさないように引き寄せて、鬱血させる為に全力で吸い付く。水だけでは表現できないどろりとした唾液の音を浴室に響かせた後、ようやく首に噛みつく。噛みつかれたネガイは化け物の頭を撫でて、更に引き寄せる。

「もっと、噛んで下さい‥‥」

 望み通り。血こそ流れないが、確実に跡をつける為に唇と歯でネガイに喰らいつく。

「私に夢中ですね‥‥いいんですよ。もっと溺れて下さい」

 どこまでもネガイは俺を受け入れてくれる。どこまで沈んでも底がわからない。

 暴れるようにネガイを求めても、まるで足りない。息をするもの忘れて、味わい続ける。このネガイの手の上にいる感覚が、何よりも嬉しかった。




「長く入り過ぎましたね」

 風呂から出た後、首元に痕を残したネガイの膝の上に横になりながら涼んでいた。ソファーに寝転がっている身体を冷房が優しく撫でてくれる。

 そしてネガイもパジャマ越しに胸を撫でてくれる。

「ほかほかですよ。赤ちゃんみたいです。いい傾向ですね」

「ネガイも、だいぶ熱いぞ」

「私は元から体温が高いんですから、普通です」

 身体の外側は風呂で。内側はネガイによって温められた。だけどまだ足りない。熱を受け取る器も完成していない上、自力で熱を生む為の機関もまだ休止している。

 やはり休むしかなさそうだ。

「調子はどうですか?」

「—―—―まだ、足りない」

「そうですか。なら、もう少しゆっくりしましょう。今日は誰も帰ってこないようです」

 撫でる手を緩めずに、足で受け入れてくれる。

 ここ最近忙しかったせいで、こんなにもゆっくりとしたネガイとの時間は久しぶりだった。ネガイもそう感じているようで、いつもより撫でる手がゆっくりとしている。

 上から聞こえてくるネガイの息遣いが、温まった耳を包んでいく。

 もう、いつ眠ってもおかしくない。

「眠いですか?」

「少しだけ‥‥」

「頑張って。もう少しだけ、この時間を楽しませて下さい」

 そう言いながらネガイは手を止めてしまった。そして熱を注いでくる。

「留め、刺してどうする‥‥」

「我慢しているあなたを見るのも楽しいんです。私の手を求めてきたあなたは、いつもそんな顔をしていました。どうか、まだ眠らないで下さい」

 手の熱を操作して眠る寸前になったら、熱を緩めてくる。本当にギリギリのラインの上にいる俺で遊んでいる—―—―狂いそうだ。求めている事の逆をネガイは与えてくれる。

 そんな嬉々としていじめてくるネガイが—―—―—―狂おしくて愛おしくて仕方ない。

「まだダメですよ。でも、いい顔ですね。もっと見せて」

 ここは夢なのか、それとも現実なのか、わからなくなってきた。

 もう腕も上がらない。もう目を開ける事すらできない。ただ溺れる事しかできない。

「そう、そのまま溺れて下さい。何も考えないで微睡んで。私の中は気持ちいいですよ」

 歪んだ愛情で狂った笑みを浮かべる恋人から逃れる術を持ち合わせていなかった。あれほど整った顔で、女神の如き微笑を湛えていたネガイの姿は、もう見る陰もなかった。

 真横に引き裂かれた顔が美しい。気の迷いで胸を引き裂く慟哭が瞳を歪ませている。

「我儘を言って下さい。この私を求めて下さい。あなたの全てを知っている私に」

 甘美で蠱毒的な呟きに抗える筈もなかった。口を衝いた言葉は「いじめて」だった。聞いた瞬間、舌舐めをする。この日、俺は眠りと現実の世界に、長く滞在する事となった。

 俺とネガイだけしか触れる事の出来ない微睡みの世界の中で、聞こえたのはネガイの甘くて深い吐息だけだった。




「あはは‥‥怒られちゃった‥‥」

 シズクとの夕飯中、シズクの家族から連絡が届いた。しばらく団欒と話していたというのに、ある事実を告げた瞬間、家族からの怒鳴り声が聞こえた。だから切ってしまった。

「なんで、話したんだ‥‥」

 使っていたフォークを下ろして、俺まで強い言葉を投げかけてしまった。

「なんで、俺と同じ部屋にいるなんて――—―」

「でも、事実だし。仕方なくない?」

 シズクがここに来たいと言った時、家族から反対されたと言っていた。そんな喧嘩別れに近い離縁をしたというのに、ついさっきまでのシズクは本当に嬉しそう家族との会話を楽しんでいた。なのに、シズクは余計な事を言った。

「ほら、まだまだあるから食べちゃおう!」

 フォークを持ち上げたシズクは、何事も無かったように食事を再開した。

 今日はシズクが用意してくれていたミートソースのスパゲティ。挽肉とトマト缶とパスタ。それだけのシンプルな材料だが、何も余計なものが入っていないからこそ、誰にでも作れて、量があり、二人で食べるのに最適な料理だった。

「君は、嫌?」

「‥‥嫌なんかじゃない。でも」

「私は気にしてないよ。君も今は落ち着いてるし。何より」

 そこで止まってしまった。シズクを見つめると、精一杯の造り笑いを浮かべていた。

 俺から話して欲しいって事だと推察した。だから、今日誘ったのだと悟る。

「シズク。話があるんだ」

 俺もフォークを持ち上げて食事を再開。シズクからパルメザンチーズを受け取る。

「実は私も。科を決めたんだね?」

「ああ。探索科にした。シズクは情報科か?」

 スパゲッティを吸いながら、シズクは頷いてくれた。前々からそう言っていたから驚きはしなかった。話の中にイサラとサイナの話も飛び出る。二人も当初の志望通り、制圧科に調達科だった。

「皆、バラバラだね。‥‥もう、同じ授業、取れなくなるのかな?」

「普通の座学はクラスで受けれるって言ってただろう。そんなに変わらないと思うぞ」

 中等部は皆一様に同じ授業を受けさせられて、総合的な視点や柔軟な思考、そして実践的な行動力を培い、自分の得意分野を探すという教養科と呼ばれるものに所属する。

 一応は選択授業はあるが、それでもほとんど同じメンツでの授業だった。

「でもさ、志望した科によってクラス替えさせられるって言われたじゃん。私、一人でやっていけるかな?」

「そもそも。シズクとここにいる連中のほとんどは比べられないぐらい差があっただろう。情報科って入科試験があるんだし、むしろ気が合う奴が集まるんじゃないか?」

「‥‥そう思う?」

 昔からそうだ。シズクは一人ぼっちが嫌いだった。このままでは情報科はやめると言い出しかねない。実際、もうそのつもりのようだ。

「私、やっぱり不安なんだ。君みたいに人を抱えて走れる訳じゃないし。聞いたよ、みんなから誘われてるって。卒業訓練もその後も」

「誰から聞いたんだよ」

「サイナとかイサラ‥‥わかってるの。君の後を追いかけた所で、すぐ限界がくるって。ずっと君に頼ってる訳にはいかないって。—―—―どうすればいいかな?」

 この問いの答えなんか既にシズクの中にある。わかりきった事を聞いてくる。

「情報科で腕を上げろ」

 自嘲気味に微かに笑った。答えを言われて、悲しくて苦しい。でも、これが答えだ。

「情報科が嫌なら別の選択だってある。スカウトが来てるんだろう?特別捜査学科から」

「‥‥知ってるんだ。—―—―断ったよ」

「本当に来てたのか」

 冗談のつもりで言ったのに当たってしまった。俺が心底驚いていると顔を真っ赤にしてティッシュ箱や椅子のクッションを投げ付けてくる。

「よせって。ホコリが舞うだろう」

 大盛りのスパゲッティを守る為に身体を乗り出すと、今度は両手で頭を叩いてくる。

「なんで!なんで!なんで!知ってるの!?」

 収まる所を知らないシズクの怒りの矛先たる自分は「落ち着けって!冗談のつもりだったんだ!」と消火を試みるが全く効果が期待出来ない。それどころか「なんで冗談でも当てるの!?」と更に問い正される。その瞬間、自分達だけの秘密を口にしてしまう。

「モデルになら、そんな話もくるんじゃないかって—―—―」

「一回しかやってないもん!」

 以前、シズクと一緒に散策していた街でスカウトをされた。シズクは断りはしたが、名刺をもらい悪くない気分になってしまったので数枚の写真は許してしまった。

「それに!君も撮られてたじゃん!」

「どう見てもシズク目的だっただろう?」

 一瞬の隙を突いてスパゲッティごと身を引く。わざわざ缶詰めからミートソースを作ってくれたのだ。台無しにさせる訳にはいかないと身体で守り続ける。

「私より、枚数撮られてくせ――—―ごめん」

「謝るなよ。俺が振った話だ」

 振り上げていた腕を下ろして俯いてしまう。シズクが悪い訳じゃないのに。

「—―—―おじさん、なんだって?」

「悪目立ちだ。二度とするなって」

 シズクと写真を撮られた数週間後、どこの雑誌かホームページか知らないが掲載されたらしい。それを見たあの人から連絡が来てしまった。もう、諦めていたのに。

「‥‥ねぇ」

「いつか、帰るよ。帰って、縁を切る」

「わかった‥‥。それでね。まだ話があるの」

 なかなか暗い雰囲気から脱せない中、シズクが真剣な表情でチーズをかけている。

「なんで笑うの!?」

「笑ってない‥‥」

「ほら笑ってる!真面目に話そうと思ったのに!!」

 このままでは他の部屋に迷惑だと考えて、先に俺の用を済ませておく。急いで逃げるように玄関へと走り、入室と同時に隠して置いておいたケースを運んでシズクに渡す。

「悪かったって。これやるから機嫌を直してくれ」

 見た目は灰色でアタッシュケースよりも小さい箱。そして中身は7割が緩衝材となっている。そろそろ買い揃えておけと言われていたオーダーの証。

「銃‥‥いいの?」

 アタッシュケースを受け取ったシズクは中を開けずに抱きかかえる。

 可愛い。不覚にもそう思ってしまった。小動物的な愛らしさをシズクから感じた。

「ああ、世話してもらってる礼だ。それなりにいいものだから、すぐに壊すなよ?」

 自分の為に貯蓄していた財産だったが、仕方ないと納得させる。高等部に入ったら直ちにサイナにローンで用意して貰おうと心に決める。僅かな後悔こそ持ち合わせていたが、

「ありがとう‥‥嬉しい‥‥」

 そう呟いて、笑みを浮かべるシズクに膝を折ってしまいそうだった。邪念など消え去る程に。今のシズクは愛らし過ぎた。オレンジの髪の中から頬を染める幼馴染が。

「うん、本当に嬉しい。—―あのね」

 ケースを抱えたままで顔を見え上げてきた。でも、すぐ背けてしまった。

「うんん。なんでもない。あ、聞いたよ!君が毎日どこかに行ってるって。ねぇ、誰に会いに行ってるの?女の子?中等部?それとも高等部?年上が好きだったりした?」

「誰でもいいだろう。それが話なのか?」

 誤魔化しながら二人で食事を再開する。少し冷めてしまったが全く気にならない。やはりシズクの料理は、美味しくて――――懐かしかった。




「調子はどうだ?」

「好調ですよ。あなたは違うようですね。ネガイから聞きました」

 病室で本を読んでいたマトイは既に点滴をつけてなく、今の俺よりも血の気があって見えた。しかしベットエンドに視線を向ける松葉杖が立てかけられているのが目立つ。

「俺は平気だから。すぐに治るよ」

 ベットに椅子を持って近づき、横になっているマトイを覆うような位置にあるテーブルに見舞いの品を置く。朝早く外で購入した果物の盛り合わせだった。

「いい香り。ありがとうございます。でもどうして?」

「果物好きだろう?」

 さくらんぼを食べていたマトイを見て気付いた。あの時からマトイはたびたびフルーツ系の菓子を好んで食べていたと。ようやくマトイからのヒントに気付けたと自信を持ちながバスケットの中で紙に包まれた柑橘系の果実を一つ手に取り、そのまま紙越しで皮を剥く。

 剥いた瞬間、柑橘系の酸味と果糖の香りが病室に充満する。芳醇な果実の香りを鼻腔で楽しむマトイが。まだかまだかと上体を起こして手を覗きに来る。

 待望の果実が剥き終えた時、差し出すように皮を開き果肉を晒す。

「食べていいですか?」

「もちろん。足りなかったらまた買ってくるから」

「嬉しい。いただきます」

 一つ摘んだ果肉を、横髪をかき上げながら口に入れた。

 知恵の果実を取ったのはイブとされている。実際にはわからないし、次いでアダムも手に取ってしまった結果、同罪とされ下界に落とされた。だが、もし俺とマトイが同じような立場でマトイが誘ってきたのなら――――俺は迷いなく実を手に取るだろう。

 知恵を持っていようがいまいが関係ない。マトイが望むなら、それに従うまでだと。

「美味しい‥‥」

 だが当のマトイは果物に夢中で食べ続けている。

 買ってきて張本人はこの自分だが、今も食されている果物が羨ましい。

「あなたもどうですか?」

「ああ、いただくよ」

 手から直接、口で実を受け取り咀嚼する。—―美味い、夢中になるのも頷けた。外の有名店で買い付けた甲斐がある。慣れない果物も店の勧めるままに購入して正解だったようだ。

「美味い。気に入った?」

 そう問い掛けた時、既に新たな果肉を口に入れていたマトイは強く頷いて応えてくれる。相当気に入ったようだ。食事の時は常日頃からマナーを重んじていたが、好物は別だった。

「いくらでも食べられそう。でも、あまり食べると怒られるので、この辺りで」

 柑橘を食べ終えたマトイは、バスケットの中の果物を手に取ってすぐ近くの冷蔵庫で保冷する。中に果物以外の送り物が入っているのが見えた。あの形状はシュークリームだった。

「あの人も来たのか?」

「ええ、制服を着たマスターがお見舞いに来てくれました」

 なんでもないように言うが、あの人と今回の事件の関係をマトイは知っているのだろうか。住民が反乱でも起こしたように襲ってきたあの戦場と呼ぶべき場で、法務科はただ無力だった。相手が民衆だったというのも関係しているが、それでもあまりにも――――。

「実は後ろにいます」

 慌てて立ち上がって振り向くと、花瓶を持った女子生徒が佇んでいた。

「楽にしなさい。今日は休暇で来ています」

 そう言われても大人しく座る気にはなれないので、花瓶を受け取ってベットを越えた先にある窓辺に飾る。そして立ち続けて視線をバイオレットの魔眼に向けた。

「まぁ、いいでしょう」

 先ほどまで座っていた椅子に腰掛けた上司が静かに視線を合わせる。

「まず最初に、よくやってくれました。あなたには私からも法務科全体からも感謝の言葉が届いています。聞きますか?」

「その言葉はソソギとイサラ、ネガイに送って下さい。三人は法務科でもないのに前線で戦ってくれたんです。俺よりも三人が相応しい」

「わかりました」

 これも癖なのか、両手の指を組んでスカートの上に置いた—―――やはり、やはり美しい。確実に過去の自身を参考に作り上げたであろう未成熟ながらも模した年齢に合わせて完成された顔と肉体が、バイオレットの魔眼にも一切劣らない美しさと妖艶さを放っている。

「ふたりとも、どうかしましたか?」

「いいえ何も」

「————そうですか」

 今の師弟としての短い会話で全てを悟ったらしいマトイが、はにかみながら頷いた。

「では、三人に言葉と謝礼を預けておきます。そして、あなたには確認しなければならない事があります」

 椅子に座ったままだが、身体中から威圧感のような物が流れてくる。

 法務科のイミナとしての空気をまとっているのがわかる。

「あなたはこれからどうしますか?」

「それは法務科に聞きたい。法務科とあなたは、これからどうする気ですか?」

「容赦がないですね」

「人間ではないので」

 相手が民衆だったから発砲や武力行使を思い留まった。そう言えば聞こえはいいが、あの場にいたのは現代的な拠点を持たないテロリスト達だった。

 テロをするには金と人員が必要。だが、それを隠し持つには場所と金と人員がまた必要となる。よって現代では拠点を持たない、テロリストと一般市民の間にいるような曖昧な空間にいる事が基本となっている。法務科と謳いながら、その境目に気付いていなかった。

「あの施設が怪しいとわかった時には、もう法務科の人間を向かわせていた筈です」

「その通り。そして私達法務科の所属は住民の違和感に気付けなかった――――私達の失態によって、あなたの恋人が誘拐された。だというのに結局またあなたに頼った。最初から最後まで、人間じゃないあなたに頼らざるを得なかった」

 もし有るのだとすれば法務科としてのプライドは灰と成っているだろう。この化け物どころか、終いにはオーダー校の生徒にまで頼らざるを得ないレベルの切迫した状況となってしまった。

「あまりマスターをいじめないであげて。あの時、マスターと法務科の主力は別の所で戦っていたの」

 その瞬間、イミナさんがマトイに魔眼を使った。

 だが、受けたマトイは気にした様子もなく微笑みのまま停止している。

「聞きませんよ。あなたは俺の期待に応えられなかった」

「私は、あなたを裏切った。言い訳をするつもりもありません」

 停止しているマトイの肩に手おいて魔眼の主を睨みつける。動かないマトイは人形というよりも、身体を別の誰かに預けているように見えた。乗り移られているようだった。

「久しぶりに使われましたね」

 魔眼を解かれたマトイは、むしろ楽し気に微笑んでいる。

「平気か?」

「大丈夫。どこも痛くありません」

 肩に置いている手に手を重ねてくる。白い光沢でも放っていると勘違いしそうな綺麗な手だった。もう何度この手に甘えたことか。

「法務科がどうするか。その問には、こう答えます。あの『ハエ』と『悪魔』の立件にしばらく手を割く事となります。あなたも知っての通り、あの『ハエ』の家は権力の塊のようなもの。彼を逮捕したと発表したところ、方々から多くの手が介入し始めました」

 嘘偽りない言葉だと感じた。あの『ハエ』は、個人でやっているとは到底思えないレベルの計画を実行していた。ヒトガタという人形ではできない、多くの権力が垣間見えた。

「あの施設の維持費は今わかっているだけでも、国家運営に関わるレベルの金額が動いていました。それだけではありません。土地の入手経路にヒトガタに関係する貴き者達の血の仕入先、そして今まで精製してきたヒトガタの居所全てがまだわかっていません。しかも、よりにもよって警察から移送の申し出まで来る始末‥‥長い仕事となるでしょうね」

 なぜだろうか、後半は限りなく愚痴に近い――――言わないでおこう。

「サイナが言ってました。あの家には隠さなければならない事が山ほどあるって、バレるとマズイ事を率先してやってきた結果だって。もし、あの家が倒れる事になったら、今まで家に寄り添ってきた寄生虫どももこぞって守りに入るだろうって」

「今がその時という事ですか‥‥。聞き取りをしたいのに、隠れて逃げてばかりの羽虫もいる上、特務課を使って証拠を荒らしにくる害虫がいる訳です――――忌々しいっ!」

 相当腹に据えかねているようで、整った顔立ちを歪ませて嫌悪感を露わにしている。

 思ったよりも日々の労務に苦労されているようだ。これは、いじめ過ぎたか?

「マトイ‥‥」

「ふふ‥‥マスター、折角の休暇ですよ。どうか笑って下さい。このマトイはマスターの笑顔を望んでいます。そして、あなたの恋人も」

 肩に置いてある手が凍り付いていくのがわかる。

「知らないと思っていましたか?」

 いつもの優しいマトイの顔のままで笑い掛けられる。今のマトイも恐ろしいが、そう言われたイミナさんから背筋が凍り付く冷気が放たれるのがわかる。

「—―――なぜ、知っているのですか?」

 底冷えしそうな声に身震いしてしまう。

「まさか」

「まさか、当たっているとは――――マスターも若いツバメが好みのようですね。甘えん坊な彼はどうでしたか?」

 カマをかけたのか、実際に見ていたのかわからないのが恐ろしい所だった。

 だが、わかる事もある。今、この場は完全にマトイが掌握した。

「マスターマスター。このヒジリは私の物です。彼が欲しかったのはわかりますが、せめて一言いただけませんか?」

「‥‥あれは、必要な措置でした。そうですね?」

 頷いてその通りだと伝えるが、まるでマトイは意に介さず囁くような笑い声をやめない。そして俺でも気付いた。今、イミナさんは重大な失敗をしたと。

「欲しかった、それは否定しないのですね」

 イミナさんが肩を震わせたのがわかる。そして、マトイもイミナさんも冷気を止めた。

「そろそろ素直になってもいい頃だと思います。ヒジリは人間ではないのですから、彼にもっと素直に頼って下さい。この化け物も、そう望んでいますから」

 もう一度、マトイが顔を見上げてくる。

「マスター、あなたは昔から優しかった。自分の色香で彼を誘惑して操るという方法は、あなたには似合いません。彼に頼みを聞かせたいのなら、愛を捧げて下さい」

 ゆっくりと顔を上げたイミナさんが見つめてくるが、何も言わずに立ち上がって踵を返してしまった。病室の出口まで行った所で壁に手を付けた。

「私も結局、そこの化け物を傷つけた。でも、それは恋人だから許されたのでしょう?なら、もう私にはこのやり方しか残されていません」

 それを最後に出て行ってしまった。

 マトイと顔を合わせて、微かに頷く。



「私を追いかけてどうするのですか?それに向かいに座ればいいでしょう、なぜ隣へ?」

「また逃げられては嫌なので」

 病院に併設されたカフェテリアへ引き込んだ結果だった。法務科の長は窓に面した壁側へと収まり、自分は壁となって通路への逃げ場を奪っていた。同じソファーに座って自分から離れるべく、壁に肩を寄せて体重を預けるその人は、見るからに機嫌が悪く、運ばれてきたコーヒーにすら一切手を付けない。仕方ないと諦め、口を滑らせるべく店員へとケーキを注文する。

「なぜケーキを‥‥?」

「約束したじゃないですか、次会う時はケーキを持ってくるって」

 それに対して「忘れました」と告げた長だが、ようやくとコーヒーに手を付け始める。未だ壁に寄りかかり顔も向けてはくれないが、幾ばくか機嫌が改善され溜息を一つ付いた。しばしの静寂を共に過ごしていると、自然と横顔を眺めてしまう。溜息一つで息を呑む程、震え上がる程の美貌を見せつけられる。

「いいのですか?折角のマトイとの時間を」

「マトイからは許可をもらってきました」

「‥‥本当に、使い魔のようですね」

 その後も、ケーキが到着するまでしばらく無言の時間が経過した。

 だが、決して悪い雰囲気ではなかったと思う。テーブルに肘を付けて外を眺める長は口角が微かに上がっていると窓に映っていた。到着するケーキのスポンジを見て、尚更笑みを浮かべる。

「それで、私に何か?」

「俺からの答えがまだだです」

「—————そう、それで?」

 銀色のフォークで、ショートケーキを切り取っていく。開けられた桃色の唇が、車での記憶を呼び起こす。身体も精神も上の女性の中に飛び込む感覚は、自分の奥深くへと刻み込まれた。

「催しましたか?」

 ケーキを一口食べたドルイダスは、僅かに舌を覗かせて問い質した。

「‥‥少しだけ」

「わかりやすい子‥‥それで、あなたの答えは?」

「前に話した通りです。俺はこれからも法務科を続ける」

「あなた一人にも適わない組織に頭を下げるのですか?」

「まさか————俺は、そもそも人間に期待なんてしてません」

 フォークを置いて、もう一度コーヒーに口を付ける。少しの間だけ、遠い目をしたが、すぐさま元の冷酷な瞳へと舞い戻る。マトイがいつも気に掛けている理由が、自分にもわかった気がした。この人は自分など歯牙にもかけない強靭さを持ち合わせているのに、とても脆いと感じた。

「そのようですね。では、あなたはどうするのですか?私とマトイがいるからと言って、あなたの恋人達を利用した法務科に留まるほどの理由があるのですか?」

「さっきも言った通り、俺は人間にも法務科にも期待なんかしてません。でも、利用してやるだけの価値はあります。これからは、法務科の立場を勝手に使わせてもらいます」

 怒られる。そう思った瞬間、この人から想像もできないほど高笑いが聞こえた。

 周りの客や患者、それに病院の職員が見るなか、なかなか笑いを止めてくれない。

「ふふふ‥‥いいでしょう。好きにしなさい」

「言われなくても」

 間髪入れずに返した回答に法務科の長は諦めたように微笑み、「まさか、もうそこにたどり着くなんて‥‥」と顔を振る。その単語の意味がわからず、自分は自然と口を衝く言葉を発した。

「もう?」

「言ってしまえば、私もマトイも、その中の一人だという事」

 自分の中で得心が入った気がした。何度か、マトイが独自で動いていると思っていたが、あれは、マトイが言っていた通り、本当に独断での行動だった。もっと早く気付けばよかった。

「やはり、あなたも人間ではないのですね」

 フォークを手に取って、ショートケーキへの進行を再開した。

「イミナさんも、人間ではないのですね」

 イコルの事を言っているのだろう。イコルとはギリシャ神話に登場する神や不老不死者に流れる血であり、ガソリンとも言える液体。かのゼウスが、寵姫の一人でありヨーロッパの語源とも呼ばれるエウローペーに送った銅製の人形に流れる血もイコルと呼ばれている。

「————いつか、いつか、私の事を話します。それまで待っていなさい」

 意外と早くショートケーキを完食したイミナさんは、肩に頭を置いてきた。

 この人も、やはり人形だと痛感する。ヒトガタ達と同じくらい豊満だった。なだらかな曲線を描く首から胸元の光景には、むしろ、年齢が上であるからか、サイナ達よりも、更に――。

 漂う甘い香りに絆されていると周りに見えないように、口で首筋を慰撫される。

「どこを見てるのですか?」

「‥‥あなたの」

 少しだけ舌を出して、首の表面を舐められる。

「いつも見てましたね。私自身も、この人形も。もしかして年上は、好み?」 

「—―———はい」

「いい事を聞きました。‥‥時間です、道を開けなさい」

 最後にソファーから立ち上がった時、周りに見ていようが関係なく口で口を吸われた。ショートケーキの苺の風味と生クリームの甘みを残した口が中毒となった。去っていく腕を引いてもう一度求めたところで、魔眼を使われ、ひとりで置いて行かれた。




「あは!すごい!本当に見つけてきたの!?いくらした?」

「聞かない方がいい」

「なんで?」

 マガジンが抜かれた軽いブレン・テンを抱えているイサラに掛かった経費の一端を見せてみる。ブレン・テン購入の依頼という名の命令を受けた俺は、シズクに頼んでオークションで落としてもらっていた。

「嘘‥‥オークションの会員になるだけで、こんなにかかるの‥‥?」

 冷や汗をかいているイサラに顔を背けながら答える。

 誠に遺憾ながら、この会員証明書一枚で都内高級ホテルの5泊分以上掛かっている。しかも、ガンオークションは特に本当のコレクターが数多く参加していたらしく、シズクから計上された経費を見せられてサイナに泣きついたぐらいだった。

「これは――――家宝にしようかな?」

「イサラの好きにすべきだ。だけど、しばらくは大事にしてくれ。それだけで授業料一年分以上かかってる‥‥」

「—―――まぁ!それは良いとして!」

 誤魔化すように、抱えていたブレン・テンをサイドテーブルの中に入れて笑みを浮かべう。多くの友人を持つ社交心の塊のような対応に、心と懐が救われる。

「で、どうなったの?なんか怖いぐらい綺麗な先輩がさっき来て帰っていったんだけど。あの人も法務科の人間って言ってたけどさ、あんまり詳しく教えてくれなくて」

 想像通りだった。

 あの人にも立場がある。しかも、一部署を束ねる程の立場を持った人が、本来部外者であるイサラに対して聞かれたから答える、とは出来ないだろう。

「取り敢えずイサラとソソギが始末した女と、あのデカい『ハエ』は逮捕された。しばらくかかるだろうが、起訴するつもりらしい。俺も、この程度しか知らないんだ。強いて言えば、あの施設の閉鎖は間違いない」

「そう、だよね。ねぇ、あそこからヒジリも生まれたの?」

 いつか問われる質問だと思っていた。だから用意していた回答を送る。

「わからない。でも――」

 あの『先生』によって俺は精製された。これは本当に誰にも言っていない。

「でも?」

「あそこから生まれたヒトガタは相当いる。俺と同型機がいても不思議じゃない」

 少しだけ嘘を吐いた。俺の同型機など、まずいない。

「ふーん、そっか。—―――この話は無かった事にするね。私は大人しく普通のオーダーに戻るや」

「そうした方がいい。あんまりヒトガタに詳しいと法務科から呼び出しが来るぞ」

「それってスカウト!?」

 自分と同じくながらく金欠だった為だ。心底嬉しそうに目を凛々と輝かせているがイサラだが、必要以上に近づけさせない為に現実を伝えておく。

「余計な事言ったら逮捕するぞって呼び出しだ。実際、俺もそうな感じだった」

「うぅ~現実は甘くないか。ヒジリみたいに法務科で稼ごうにも、毎回こんな怪我してたら身が持たないし~」

 そう言う割には、もうだいぶ調子は良さそうに見える。顔色なんか俺よりも確実にいい。こんなにも点滴が似合わない入院患者もいないだろうと確信出来る。

 また、思い出したように次の質問を振られる。

「あ、ソソギはなんだって?」

「オーダーを続けるってさ。でも、しばらくは大人しく休養をするって」

 カレンとソソギとで出掛けた最後にそう言われた。あのソソギを以ってしても受けた傷は深かったのは考えるまでもない。隠してはいたが常に足を引きずっていたのだから。答えを聞いたイサラは満足気に頷いた。だけど、真っ先に気に掛けるべきは、

「イサラこそ身体は大丈夫なのか?いつ頃、退院になりそう?」

「それは身体との相談によるかな?これでもあの事件一番の怪我人だし」

「—―――苦しいのか」

「もう!そんな暗くならないでって!ほら、こっち」

 猫にでも提案するように、スペースを明け渡しながらベットのシーツを叩いた。大人しく従ってイサラの隣に座った時、点滴がついたままの腕に肩を抱かれる。

「ほら。心音だって一定だし、暖かいでしょう?」

 目を閉じて身体を預ける。受け取った当のイサラは俺を引き込んで横になる。胸の上に頭を乗せて、柔らかな心音と体温を感じ取る。耳朶を叩く音が心地良かった。筋肉質だとしても、柔らかな脂肪に覆われた少女の身体に蹲る。

「‥‥暖かい」

「ヒジリは冷たいね。一緒に寝たいぐらい♪」

 冗談で言っているとわかりきっている。でも、少しだけイサラの胸に甘えてみる。

「何かあったの?誰かにいじめられた?」

「‥‥いいや。ちょっとだけ無理をしたみたいなんだ」

 詳しく聞いては来なかったが、頭と背中を撫で続けてくれる。

「ちょっとだけ、疲れた?」

「かもしれない。‥‥今さ、このまま期限までに体温が戻らなかったら、仕事を外れもらうって言われてるんだ」

 何も言わないでなだめてくれるが、イサラはわかっている。俺が言われた事が、正論だと。求められた機能を発揮できない人員に居場所なんて無いと。

 無言で撫でていた手を止めて、やはり無言で手を握られる。

「全力で握ってみて」

「わるい。これが全力なんだ」

 日常生活で求められる身体能力は徐々にだが戻ってきた。だが普段のオーダーとして、化け物として求められる力には遠く及ばない。弱々しい手に「これじゃあ満足できないかな?私はもっと力強い方が好きなの」と手を離さないで、体温を分け与えてくれる。

「まぁ、甘えん坊なヒジリも好きだけど。このまま私にいじめられてみる?」

「いじめて‥‥」

 この無気力は二回目だった。

 未だに『目の女達』に操られていた頃よりも弱いのに、更に弱くなってしまった。あの方は何も言わなかったから平気だとは思うが、所詮それは自分への言い訳だった。失われてしまった大切な物を忘れようとしているのと変わらない。

「‥‥ねぇ」

 手を握ったまま、イサラは胸の上下させながら告げてくる。

「もしかして、寂しいの?」

 言葉が生まれなかった。ただイサラの身体に顔を埋めるしか出来なかった。

「—―――自分の居場所が、無くなったって思ってる?」

「そうじゃない。そうじゃないけど‥‥少しだけ、怖いんだ」

 折角シズクが頼ってくれたのに、このままでは仕事から離れなければらなくなる。しかも、これは自分で起こした失態。調子に乗って、心臓に無理をさせた代償だった。

「呆れられたんじゃないかって」

「シズクから言われた?」

「‥‥勝手に、そう思ってるだけだ」

 少しだけ繋いでいる手に力を籠める。なのにイサラの握力に負けてしまう。

「弱いね。見た事ないぐらい弱い」

「呆れたか?」

「うんん、やっぱりって思った。ちょっと待ってね」

 自分から言わなかったが、上に俺を置いて熱くなったのだ。病院着の胸元の紐を外して、年上不相応ながらも身体の骨格に相応しい谷間を晒した。自分のサイズに合う物は少ないと言っていた通り、スポーツタイプのバンドだった。

「可愛くないけど形がくっきりで好みでしょう。えっとね、なんでやっぱりって思ったかって言うとソソギもそんな感じだったから。多分だけどヒトガタって波があるんだと思う」

「波?」

 遂、何も考えずにオウム返しをしてしまう。だってあり得ないと思ってしまったから。

「そう。ヒジリの血を奪った時とか、ここに運ばれてる時とか、ソソギ、今のヒジリぐらい弱くなった時があったの。多分、カレンさんよりも弱くなってたと思う」

 あのソソギが?目を使わなければ俺は、素手のソソギにも敵わないのに。そんなソソギが、カレンよりも弱くなる?理解できない。

「冗談だろう?」

「冗談じゃないよ。救急車に乗せられる時なんて、カレンさんに肩を抑えられただけで、全く動けないって感じで。血を奪った時なんて軽く押したぐらいのつもりだったのに、倒れ込んじゃうし」

 イサラの言葉が脳に染み込んだのがわかる。ヒトガタは精神が不安定になれば弱くなると。人間の比ではないレベルで、身体機能の一部を損失したように動かなくなると。

 俺は精神的に不安定になると、目が見えなくなる。

 だが、それはイレギュラーな弊害。ヒトガタの不調として正しいのは、今の俺のような状態なのかもしれない。身体が凍り付き運動性能を著しく失う劣化を起こす。

 そして、この不調をソソギも体験して短いスパンで治せているとしたら―――。

「やる事は決まった?」

「決まった。悪い、面倒くさい事させたな。ちょっと行ってくる」

 イサラの胸から起き上がって、離れようとした瞬間。改めて、目が胸元に引き寄せられた。慌てて目を胸元から離すと、今度は強気なイサラの顔がそこにあった。

「私に見惚れた?」

 少しだけ悔しくなった。なんで、こんなに――――年上っぽいのか。

 未だに肩に乗せらている腕に身を任せて、胸から口に覆いかぶさる。

 ネガイと同じぐらい柔らかいのに少しだけ厚みがある。それに舌が太い。容赦なく口の中を蹂躙してくるイサラの舌を押し留めようと真っ向から争うが、歯が立たない。大人しく口も預けた瞬間、唾液の波が舌と共に流れ混んできた。

「すごい‥‥全部飲んだの?」

 せめてもと届けられた唾液を飲み干した時、イサラが頭を撫でてくれた。

「うんうん。頑張ったね。じゃあご褒美に、もう少しだけ胸を貸してあげる♪」

 言われた通り、もう一度だけソソギの胸に戻って深呼吸をする。少しだけ汗ばんでおり肌に張り付く柔らかな胸の厚みを呼吸の度に感じ取る。甘い香りがする女の子のイサラから抗い難い、生物としての本能を思い出してしまう。

「で、シズクにはなんて?」

「さっき言った通りだ。このまま弱かったら、仕事を下りてもらうって」

「それ、シズクが本心から言ってるって思う?」

 顔を上げて、イサラを見上げる。

「ここ最近は何かって言うと、ヒジリヒジリって言って。ここにお見舞いに来た時なんて、ヒーが頼ってくれたとか、誘った仕事をヒーが受けてくれたって報告したぐらいなんだけど?」

 結局、シズクも俺も不器用だっただけ。言いたい事もろくに言い合えないだけだったのだ。シズク相手だと、俺は昔に戻ってしまう。ついシーに良い所を見せたくなる。

「二人して手間をかけたな。—―シズクに見せてくる」

 今度こそイサラから起き上がる。俺がいなくなった瞬間、イサラが自身の胸元を抑える。そして名残惜しそうに顔を撫でてくれる。その仕草が情事の終わりに見えた。

「期待通りに化け物として振舞ってくるよ」




 ネガイから今日はミトリの部屋に泊まると連絡が届いた。どうやらサイナもそれに参加するらしく、お泊り会と名付けていた。これが女子会というものなのか?ヒトガタの雄である俺には、一生かけても解決できない永遠の謎であった。

「それで、平気なのか?」

「平気。私もヒトガタだから怪我とかはすぐ治るの」

 何故?そう問いたくなるほど、息が掛かる距離にソソギが座っていた。詳しくは聞いていないが、いつの間にかソソギは1人部屋から4人部屋へとカレンと共に引っ越していた。だというのに、ソソギはこの広い部屋の性能を全く活かせていない。

「どうかした?」

「ソソギ‥‥それ、は、部屋着なのか‥‥?」

「そう。見慣れておいて」

 ソソギが身に着けていたのは浴衣であった。白い深い谷間を見せつける、谷間から漂うソソギ自身の香りに絆されながら、マトイから聞いたのかと頭の何処かで想像する。朦朧としながら視線を逸らし、カレンへ向けるが、ほぼ同じ物で身体を包んでいる。

「恥ずかしい?」

 声で視線を戻させたソソギが浴衣を着崩し下着は付けていないと強調する。更に球体のような胸を取り出し、襟を掴み上げて股関節近くまで晒そうとした寸前—―—―手を抑える。

「‥‥後で確認する。でも、今は着替えてくれないか?」

「ふふ‥‥わかった。待ってて」

 わざとらしく大きく開かれた谷間を見せつけてから、ソソギはカレンの手を引いて脱衣所に入っていった。本来ならばこの時間、女子寮には入室禁止だが、ソソギの手引きによって侵入してしまっていた。こちらに来ないと話さないと言われたので、苦肉の策だった。

「‥‥マズイよな」

 俺の部屋よりは狭いが、それでも十分広い。

 ネガイやシズクの部屋には、何度か入っていたが、ソソギとカレンという例え家族だとしても最近親しくなった間の女子の部屋にいると思うと――――瞳が開いていくのがわかる。自然と家具の配置や、置いてある品々の配置を目に読み込んでしまう。

 だが元々、家具や私物が少ない二人が一緒に住んでいるとしても部屋は殺風景だ。しかし、それを補っても余りある香りが鼻をくすぐってくる。

「いい香りだな‥‥」

 頭が朦朧としてきた。

 危ない花でも栽培しているのかと思ってしまう程、急激な眠気が襲ってきた。

「着替えた。これでいい?」

「ソソギ、これでいいの?」

 振り返って、二人を見た時、意識が覚醒した。

 二人して長いYシャツのようなものを着ている。下半身には何も履いていないのでは?と思うほど白い足が晒されている。先ほどよりも布の面積は少ない上、少し動いただけで、下半身の全てが見えそうで、ある意味先ほどよりも危険な姿だった。

「ほら、気に入ってくれてる」

「みたいだね。へぇ‥‥こういうのも好きなんだ」

 ソソギは黒で、カレンは白。天使と悪魔をイメージしているのかもしれないが、どちらも悪魔のように成熟した肉感的な四肢を持っていて、天使のように清楚で穢れを知らない無自覚な淫靡さだった。絵になる—―――むしろ絵にしたい。

「これしか部屋着はないの。これでいい?」

「‥‥いい」

「よかった。選んだ甲斐があった」

 選んだ?これとあの浴衣しかないんじゃなかったのか?

 だが、質問をする機会は失われた。二人が挟み込むように座ってきた所為だ。

 先ほど感じていた花のような香りとは比べものにならない強い濃厚な香りに囲まれているのがわかる。全力で星に呼びかければ漂っている香りが可視化できそうだ――――。

「どうしたの?」

「どうしたんですか?」

 二人に耳元で囁かれて、もう一度意識が飛びかけた。頭が安定しない。

 そんな揺れ動く頭をソソギが、血管が浮き出る白い胸で受け止めてくれる。

「もうしたくなった?—―――カレンに見られながらしたいの?」

 耳元どころか耳の穴に直接吹き込んでくる声に頭蓋骨を揺らされる。ソソギの声に興奮している自分がいる一方で胸と香りが揺りかごとなり、眠りに誘われている自分もいる。

 だけど、そんな微睡みから拾い上げられる。カレンが肩をゆすってきた。

「しっかりして!」

 ソソギの胸から漂っていた香りを振り切り、顔を上げる。

「残念‥‥」

「ソソギは夕飯の準備をしてて!」

 ソソギからカレンの胸に移動したのがわかった。冴えるような美声を発するカレンが意識を現実世界へと引き入れてくれた。

「わかった。カレンと話していて――――後でね」

 満足そうに笑ったソソギはキッチンに向かって行く。何を作っているのか、なんとなくわかってきた。トマトの香りがしている上、米を炊いているのがわかる。

「‥‥ソソギ、いつの間にあんなに大胆になったの‥‥」

 胸が発声と同時に揺れているのが、振動として伝わってくる。イサラとソソギを超える胸の持ち主であるカレンからも甘く欲情させる香りがする。だけど、それは同時に眠りへと苛まれる。

「起きて。話があるってさっき言ってたよね?」

「—―――うん‥‥」

「なんか、可愛い‥‥」

 俺をゆすり起こそうとしていたカレンが更に胸に引き込んでくる。引き入れられ、態勢を崩してしまいカレンに頼るしかなくなったので腕をカレンの背中に回す。その結果、更にカレンに甘える恰好になるが、受け入れてくれる。

「そう、あなたもこうなったんだ‥‥。目は見える?」

「‥‥見えてる」

「なら大丈夫、安心して。あなたは今、ヒトガタとしての体質に慣れていないだけ。多分だけど、私達があなたの自動記述を完全なものにした所為」

 やはり、この状況はヒトガタとしての『波』を受けたのが原因か。

「カレンも、こうなったのか?」

「私も何度かある。だから、平気。あなたも慣れるから。ご飯まで、横になろう」

 カレンに手を引かれて、どこかへと案内される。そこで倒れ込んだ先は普段使っているサイズよりも小さめのベットだった。そして倒れ込んだ俺の頭をカレンが撫でてくれる。手慣れていると感じた。

「ソソギにも?」

「うん。自分一人だと耐えられない時は、二人でこうしてる」

 俺とネガイのような関係を、カレンとソソギもしていたようだ。目が見えなくなる時は俺はいつもネガイに頼っていた。二人もそこは同じだったようだ。

「体質って言ってたな‥‥これは、普通?」

「そう。普通の事。私達がいた研究所でもよくあった。だから安心して眠って‥‥」

 優しい吐息混じりの声に耳を捧げて目を閉じる。少し冷たい手が心地いい。

「‥‥いい香りだな」

「わかった?これ、お気に入りなの」

 目を閉じているからわからないが、たくし上げたYシャツから香りが一段階強くなった。大きく息を吸って、カレンから漂う花の香りに鼻も預ける。

「ふふ、私が欲しい?」

「欲しい‥‥」

 撫でてもらっていた手を引いてベットへと引き込む。胎児のように丸まった俺の頭をカレンが胸で抱いて撫でてくれる。どこか遠い土地の民謡のような鼻歌を子守歌にしてくれる。

「やっと私に堕ちてくれた。それとも素直になっただけ?」

「そう、かも‥‥」

「喋らないでいいよ。私の匂いと声、身体を楽しんで」

 ソソギはもちろん、ネガイと比べても華奢で可憐な肉体なのに、二人よりも身体は成熟している。受け止めてもらっている大きな心臓が頭を温めてくれる。

 恐ろしい。これが特別捜査学科のカレンなのか。毒でも使われように、身体が動かなくなる。なのに――――気持ちよくて仕方がない。あの方に食べられているようだ。

「このまま眠って。眠らないと、今のあなたから抜け出せないの」

 もう半分以上眠りの世界へと導かれている頭に、カレンの体温が拍車をかけてくる。そして留めとばかりに頭に口を付けてくれた。その時。

 —――これは、おかしい――そう思った。

「ふふ、これが私の力。イネスには遠く及ばないけど、あなたを眠らせる事は出来るの。どうか、私の中で眠って下さい。あなたが望むなら、何年でも、何十年でも」

 カレンに口づけをされた瞬間、頭から熱が止まらなくなった‥‥。

「カ、カレン‥‥」

「怖い?」

 もう顔を上げる力も残っていない。なのに、頭だけじゃない、身体中から熱が放たれていくのがわかる。身体中から血が噴き出ているような感覚を覚える。

 だけど、決して不快じゃない。むしろ、何かに包まれているような――。

「大丈夫。あなたは起きたら、私の物になっているだけ」

 どうやら、俺は――触れてはいけない神に触れてしまったらしい。

「痛いのが好き?怖いのは嫌?でも、平気。それも全部私からあなたへの贈り物だから。だから、今は目をつぶって。私に全てを預けて――全部、あげるから」




「カレンの怖さがわかった?」

「お蔭で好きになったよ」

「ふふ、よかった」

 誇らしげなカレンがハヤシライスを口に運んでいる。完全にカレンの罠にかけられたようで、俺自身も満足できた。カレンの中での眠りは文字通り夢心地だった。

「調子はどうですか?」

 特別捜査学科としてのプライドをかけて俺を堕としたカレンが胸元を見せてくる。

 —―危険だ。上を見ればカレンの胸で下を見ればソソギの足、しかもソソギがいたずらをしてくる。俺の腿に手を伸ばして、撫でてくる。

「かなり回復した。けど、俺はゆっくり食べたいんだ。後でな‥‥」

 ソソギの耳元に口を付けて囁く。俺が眠っているうちに入浴を済ませたソソギの髪から、甘い香りがする。その所為で、カレンに膝を蹴られるまで、耳に鼻を付けていた。名残惜しいので、ゆっくりとソソギから離れる。

「私が堕としたのに‥‥背が高い人が好き?」

「背が高い人も好きだ。—―ありがとな、寝かせてくれて」

 カレンのお蔭で本当に体調が良くなった。聞いた所、イサラの言っていた通り、ソソギもカレンも何度か『波』を受けていたらしく、この状態は普通との事だった。

「どのくらいで、これは終わるんだ?」

「それは、あなた次第。結局個人差によるものが大きいの。このヒトガタとしての体質は皆一様に持って生まれる。私とカレンは――そうね、肺を刺されたみたいに痛くなるの。ただ、やっぱりあなたはイレギュラーだと思う、目が見えなくなったり、身体が凍り付くぐらい体温が下がる症例は始めて見た。それが二つもある」

「大体一つなのか?」

 隣と正面にいるソソギ、カレンにそう聞いたら、軽く頷いてくれた。

 異常とまではいかないまでも前例がないって事か。二人に頼ってよかったかもしれない。俺はヒトガタの知識を持っていても、自覚がそもそも足りていなかった。

「この体質については自動記述を使えばわかると思う。けど、私達でも耐えられない時がある。その時は私達やあなたの恋人に頼った方がいい」

 ネガイやマトイにも頼った方がいいって事か。ネガイがしばらく俺の目や心臓を温めてくれたのは、感覚的にこの症例に気付いていたのかもしれない。

 改めて考えると、目が見えなくなる時と同じ気がする。

「カレンはこれの専門家なのか?」

 漠然としか覚えていないが、カレンの心拍に合わせて寒気が消えていく感覚を覚えた。前々から不思議ではあった。二人の階級であるアルファは容姿と戦闘力、それに知識がパラメータとして判断されると自動記述は言っていた。

 なのに、カレンは知識と容姿は振り切れているが、戦闘力が皆無だった。

 ならば、他に優秀だと判断されたものがあるのでは?と思っていた。

「専門って言ったら語弊があるけど。ヒトガタの『波』に耐えられないヒトガタを眠りに誘うのは得意分野だったの。だから‥‥その、モーターホームで、あなたを眠らせてしまって――」

 申し訳なさそうにしているカレンを、ソソギが楽し気に見つめている。実際楽しいのだろう。カレンは特別捜査学科という常に仮面を被らなければならない職種。

 素のカレンが見れて嬉しいようだ。

「この『波』は、眠れば抜け出せるのか?」

「一概にそうとは言えないけど、大体あってる。私はソソギと命令されたヒトガタしか眠らせなかったけど、みんなそうすれば治ってた」

 ここでも、俺のイレギュラーさが発揮されたらしい。

 だいぶ体調は良くなったが、それでもまだ本調子とは言い難い。

「これ以上は、私にもどうにもならないと思う‥‥ごめんなさい」

「謝らないでいいから。どうしたって、これとの付き合いは長くなるようだし、自力で抑える方法を見つけるよ。それより、このハヤシライス、すごい美味いな」

 先ほどからスプーンが止まらない。市販のルーも使ってるみたいだが、それ以上にトマトの風味がフレッシュでサッパリしている。いくらでも食べれそうだ。

 二人にそう伝えたら、隣のソソギが「よかった」と言ってくれた。俺が連絡したのが昼少し後だったから、急いで準備してくれたらしい。気を遣わせてしまったな。

 しばらく夕食は続き、ソソギとカレンに俺で、鍋いっぱいにあったハヤシライスと米が全て消えてしまった。お客様であるにしても、少し食べ過ぎてしまった。それとなくカレンとソソギに謝るが、二人ともなぜか誇らしげにお互い見つめ合っている。

「ねぇ?トマト好きでしょう?」

「うん、上手くいったね」

 どこからそんな話が漏れたのか知らないが、俺はトマトが好きだとなっているらしい。決して嫌いではないが、いつそんな噂が流れたのか、割と疑問だ。

「誰から聞いたんだ?」

「シズクから」

「シズクと話したのか?」

 意外な繋がりだ。一体どこで知り合ったんだ?

「ええ。あの施設の後に少し話したの」

 悪い意味ではないが、シズクとソソギは気が合うとは思っていなかった。

 ソソギはかなりトリガーハッピーな気があり、シズクは内向的なのに。

「礼でも言ったのか?」

「そんなところ。それで、あなたの好みを聞いてみたら、トマトが好きって教えられて」

 オムライスのケチャップの事でも話したのか?そんなにかけてたか?

「‥‥シズク、なんだって?」

「やっぱり喧嘩でもした?」

「‥‥いや、俺が期待に応えらてないだけだ」

 片付けを手伝いながら、誤魔化す。だが、皿を食器棚に戻していると、ソソギが濡れた手で抱き着いてきた。ソソギの濡れている手から鳴る音に、どこか妖艶さを感じて、動けずにいると、ソソギが耳元で囁てきた。

「シズクは、すごい人。本当に優しい人間だと思う」

「‥‥わかってる」

「なら、しっかり向き合って。きっと待ってる」

 腹の前で重ねられた手を握る。やっぱり俺はまだまだ子供だった。イサラにソソギ、二人から背中を押してもらわないと何一つ出来ない。

「—―ちょっと、電話してくる」

「ベランダは危険。私の部屋を使って。因みにさっき眠っていたのはカレンの部屋」



「きっ!聞いたよ!ソソギとカレンさんの部屋にいるんでしょう?」

 しばらくのコールの後、シズクがうわずった声で答えてくれた。後ろからネガイ達の声がする。お泊り会とやらにシズクも参加していたらしい。

「そ、それでどうしたののかな!?」

「のが多いぞ。少し話したい、いいか?」

 ソソギの部屋にはカワウソとペンギンの人形がそれぞれ一匹づつ飾ってあった。

 何もない殺風景な部屋の中にいる二匹が浮いて見える。—―シズクと俺みたいだ。

「話って‥‥その、やっぱり無理、だった?」

 体調の事を言っているようだが、もはやそれは些事だ。俺にはそんな事よりも優先すべき事由がある。

「明日、一緒に出掛けたい。いいか?」

 後ろからサイナの歓声が聞こえた。回線に割り込んで盗み聞きをしているようだ。どうやら、こうなる事は想定済みだったらしい。イサラかソソギから諭されたか?

「一緒に‥‥!?それって、デート的な?」

「デートだ。断る気か?」

 銃声かと思ったが、クラッカーだった。恐ろしかな今真下からも音がした。

 わかってきた。ソソギがここで話せと言った理由が。俺とシズクが会話する事は仕組まれていたようだ。喧嘩の仲裁のつもりか?

「デート、デート‥‥デート――」

 壊れたように、シズクが同じ言葉を繰り返している。

「いやか?」

「そ、そんな声で言わないでよ‥‥私にも、その準備があるし‥‥」

「いくらでも待つ。それでもダメか?」

 絶対に逃がさない。明日、絶対に俺はシズクと話さなければならない。そうしないと、またシズクとは疎遠になってしまう。また、離れ離れになってしまう。

「私が‥‥いいの?ネガイさんじゃなくて?」

「シズクじゃないと嫌だ。シーと行きたい」

 中等部どころか、小学校にでも戻ったような口調になってしまう。

 だけど、今、この場で、シズク以上にこの言葉の意味を知っている人間はいない。

「い、いいよ!!—―本当にいい‥‥?」

「構いませんよ。あの人をお願いします」

 後ろからネガイの声がした。ネガイから許可も下りたという事は、もう逃げ場はない。

「言ったな?逃がさないからな、覚悟しろ」

「‥‥本当に、私を、そういう風に見てるの?」

 嬉しさ半分、恥ずかしさ半分って感じだ。だけど、もうシズクはこの化け物の物だ。誰にも渡さない。誰にも、触れさせない。

「今更言うか?多分、俺はずっと見てたんだ。それにシズクが追いかけてた王子様とやらが来ないようにって、呪ってたんだぞ?」

「王子様が来なかった理由、今わかった気がする‥‥。君に睨まれたら、皆逃げちゃうんじゃん‥‥」

 シズクの不満そうな顔が目に浮かぶ。だが、こういう時のシズクの機嫌の治し方は心得ている。いつだってそうだった。シズクが不満な時、俺はいつも慌てて、

「オムライスでも食べに行こう」

「—―そ、そんな言葉に騙されないから!!」

 僅かに笑ってしまった、俺の声が聞こえたのか、慌てる声に拍車がかかる。

 でも、決して嫌がってない。いつものシズクに戻ってくれた。

「俺は好きだぞ。シズクは、オムライス、嫌か?」

「‥‥固い奴じゃないと嫌だから」

「俺もだ。固い綺麗な奴じゃないと嫌だ」

「‥‥ふふん♪よろしい!‥‥一緒に行ってあげる」

 息を吐くように、自然と許可をくれた。約束してくれた。

「ここから先は俺とシズクの時間だ。盗み聞きもほどほどにな」

「は、は~い‥‥」

 サイナの声と共に、一つのノイズが走り、消えた。

「やっと二人きりだな。そっちに行くか?」

「うん‥‥あ!ダメ!明日まで待って!」

 慌てて却下されて、少し寂しく感じた。それが返事である「そうか」に混じってしまったようで、先ほどとは別の種類の慌て方でシズクがフォローしてくる。

「べ、別にヒーを部屋に入れたくないとかじゃないんだよ!その、だって今ヒーがいるってわかったら、怒られちゃうし、それに、着替えも片付けも出来てないし!」

「俺は気にしないぞ。昔なんて休み中はどっちかの部屋で寝てただろう?」

「もう私は大人なの!見せたくないものぐらいあるの!」

 しばらく入っていないシズクの寝室には興味があったが、絶対にダメらしい。

 思えば中等部の時から寝室だけは許可してくれなかった。

「いい!?高校生の女の子の寝室は聖域なの!男の子は身を清めないと入っちゃダメなの!」

「そうなのか?ネガイとは何もしないでも一緒に寝るぞ?」

 少し挑発が過ぎたか、シズクから「それとこれとは別!」と叱られてしまった。

「あ、でも、昨日は一緒に風呂に入ったし、確かに身を清めたな」

「や、やっぱり入ってるの!?」

「二人しかいない時はたまに」

「私だって、一緒に入ってたよね!?」

「小学校の時だったか—―—―懐かしいな」

 シズクと手を繋いで歩いたり、勉強したり、遊んだり、風呂に入ったり、料理をしたり。それからいたずらがバレて怒られたり。生臭い、おぼろげな記憶が蘇ってくる。

「覚えてるか?初めてオムライスが成功した時」

 一体何度失敗を繰り返しかさえ覚えていないが、ケチャップライスを半熟の卵の中へ入れるという技を二人で編み出していた。重いフライパンを持ち上げて、テレビや動画を参考に苦心していたのを覚えている。

「覚えてる。私が出来たんだよね?」

「ああ‥‥それからはずっとシズクが作ってくれたな」

「私に負けた君が愚痴ったからじゃん。シズクの方が上手いんだからシズクが作ってくれって。覚えてる?」

「‥‥忘れた」

「本当~?」

 忘れている訳ない。シズクに勉強以外でも負けた日だった。それに成功したシズクがあまりにも自慢気に言ってくるものだから、悔しくなったのを覚えている。

「私は知ってるよ。あれからも練習してたって。今もしてるの?」

「‥‥いや、もうしてない。シズクが作ってくれた方が美味しいから」

 不器用な運動音痴が、今や情報科一年の期待の星で、男女問わず友達も多くて、しかも料理も得意。その上、誰もがふり返る美人になってしまった。

「もうシズクの得意分野で、勝とうとは思ってない。シズクは――—―強くなった」

「うん‥‥ありがとう。君も、かっこよくなったよ、本当に。小学校の時も中等部の時も、今も、ずっと私の憧れ‥‥」

 息を呑んでしまう。余りにも自然にさりげなく向けられた感情に、しばし言葉を失った。

 もはやお互い子供ではなかった。れっきとした恋愛を経験すべき大人。お互いが許可を出し合えば、今後の人生を左右出来る、波及する関係さえ作れてしまえる。

「俺は王子様じゃない」

 だからこそ、最後の確認を取った。誰よりも救済の夢に憧れていた少女へ。

「でも、私にとっては王子様だった。君がどれだけ変わっても、ずっと王子様に見えてた。でも、今は違う。紛れもなく、あなたは化け物。怖い怖い化け物」

 王子様ではなく化け物。人々の誰もが夢を見て、いつかは忘れる究極的な幻想と対極を成す姿がこの自分であった。人間という大きな括りから嫌悪され、忌避される明確な悪性だと断言する。—―—―誰よりも早く看破していたシズクは、迷いなく真実を口にした。

 ようやく自分は、自分という存在を憚る事なく見せつけられる気がした。

「シズクもだ。前は俺しかシズクの事を見てないと思ってたのに、今は特別捜査学科も認める美人だなんて。ちょっとだけ、悔しいな」

「ありがとう‥‥。‥‥あのね、その事で謝らないといけない事があるの」

 普段のシズクから空気が変わった。

「私、話したじゃん。特別捜査学科からのスカウトを断ったって。実はね‥‥君にもその話が来てたの」

「俺に?」

 特別捜査学科は、基本的には女子にのみ門が開かれた学科だ。だから、オーダーの男子達は、憧れて羨望の眼差しと共に夢を見る。

 だが、ひとつ例外という名の都市伝説がある。特別捜査学科に男子が紛れ混んいるという根も葉もない噂だった。だが、現実的に考えて、俺はあり得ると思っていた。

「うん。それでさ、やっぱり、私達にとってただの噂だったじゃん。だから、公にしない為にも、ヒーと親しい私から誘ってくれって言われたの。—―ごめん、勝手に断って」

 男性の中には異性を毛嫌いする人もいる。それについてはどうでもいい。人間の勝手だ。受け入れる受け入れないではない。だが、そいつの持っている情報や証拠を入手する時、そこをどうやって突破するかを考えたら、やはり同性の手が必要となる。

 もしくは、女性では確実に危険な目に合うと火を見るよりも明らかな場合もある。

「私ね、ヒーと約束したから情報科で頑張ろうって思ったの。最初は不安だったけど、高等部に入ったら意外と自由だったし。でもさ、特別捜査学科に入ったら、二度とヒーと会えなくなるんじゃないかって、思ったの」

 特別捜査学科に特別詳しい訳ではないが、それでもカレンを普段校舎で見かけないのだからわかる。そうそう他の科とは交わないのだと。仕事では他の科と協力するのが必須だとしても、本当に選ばれた人間としか合同で捜査をする事しか許されない。

「そう、だったかもな」

「‥‥そうなったと思う。—―怒ってる?」

「どう思う?」

「‥‥君がしばらく金欠で喘いでたのは知ってる。だから、怒ってる?」

「どうだろうな。俺にもわからない」

 もし、もしも本当に特別捜査学科に入っていたら、俺はどうなっていただろう。

 多分、ネガイとマトイとは、こうやって自由に会えていた。だけど、ミトリやサイナ、イサラといった一般的な科の人間とはここまで知り合えていなかっただろう。 

 そして、シズクとは更に疎遠になっていたかもしれない。

「もしもだけど、私と君がさ、特別捜査学科に、その、一緒に所属したらさ。‥‥私と一緒になってたかな?」

「なってたさ。確信出来る。だけど、シズクを辞めさせてたのも想像付く」

「‥‥そうかもね。特別捜査学科って、私みたいな、運動音痴じゃ」

「身重にそんな事させられない」

 スマホを落とした音がした。そして、慌てて広い上げてるが、声が声になっていない。

「そ、そそそ、そんな先まで進んでたの、かな‥‥?」

「シズクが、特別捜査学科として振舞ってきたら、真っ先に俺はシズクを押し倒してた。シズクとシズクの家族に挨拶に行ってただろうな」

 冗談ではなく本心でそう思う。中等部に入学してから、シズクは見違えるほど、美しくなった。赤いオレンジ色の髪に、シズク本来の大人びた顔付き。そして、この優しいけれど、空回りした性格。何も知らない俺を、シズクが自身の色香で誘ってきたら、真っ先に飛びついていただろう。

「い、今もそう!?」

「これでも、俺も少しは大人になった。これでも慎みって奴を持ってるんだぞ?」

「‥‥本当ー?ここにいるみんな君の恋人なのに?」

 心の中で笑ってしまった。盗み聞きはやめろと言ったら、三人は堂々とシズクを囲んでいるのか。そんな風景を想像してしまった。

「ああ、本当本当」

「本当に本当?」

「本当だって、信じてくれよ」

「どうしよっかな~?」

「本当の本当」

 二人して笑ってしまう。きっとまだ信じてくれてないだろう。でも、きっと楽しんでいる。

「やっぱりなんか身の危険を感じるんだけど。明日私をどうする気なのかな?」

「それはこっちのセリフだ。いつもシズクからしてきたのに。俺の方こそ身の危険を感じるぞ」

 やはりネガイがそこにいたらしく、シズクは慌てて謝っている。それにミトリやサイナ、そしてイノリの楽し気にだが、ドスの効いた声も混じっている。今晩は眠れそうにないな。

「じゃあ明日な。待ってろ、迎えに行く」

 シズクの返事も聞かないで通話を切る。試してに窓から真下を覗き込むと明かりがついた部屋から大きな音や声が聞こえてくる。

「ほどほどにしとけよ」



 部屋からリビングに戻った所、カレンとソソギはゲームをしていた。入った時からわかっていたが、前にシズクが持ってきていたゲーム機が二台用意してあった。そして、どこに隠してあったのか知らないが、モニターも一つ増えていた。

「そろそろ帰るよ。夕飯、ご馳走さん」

 帰って服の用意でもしなければ、そう思って玄関に向かった矢先、「泊まっていって」とソソギから声を掛けられる。

「今出て行かれて寮母さんにバレたら大変な事になる」

 端的に今の状況を教えてくれた。

 俺が思っていた以上に、女子寮の風紀は厳しいようだ。そして、一度ゲームを止めた二人は、ソファーから立ち上がって食卓に座る。やはり、人間とは違う。立ち振る舞いでそう思ってしまう。まるでマリオネットが立ち上がったようだった。

「シズクとはどうなったの?」

「聞いてただろう?明日会う事になった」

 俺の口から聞きたかったのか、ソソギは笑ってくれた。

「喧嘩は終わりそう?」

「終わらせてくる。あと今後の事も、少し話してくる」

 次いで詳しく話していなかった資料館の事や像の事、そして俺の身体が冷たい理由もまとめて説明すると、聞いている内に二人とも険しい顔になっていく。

「どうかしたのか?なんか、俺、マズイ事に関わってる?」

「わからない」

 一言だけで止まったソソギは、顎に指を付けて黙ってしまった。そんなソソギから代わりのように、カレンから疑問を口にされる。

 「その像の写真、ある?」

 と告られ、スマホを出して写真を呼び出す。それをカレンに見せた所、胸に手を当てた。

「‥‥ソソギ、これ」

「ええ、可能性はあるかも」

 二人の間でしかわからない話が進められている。つまりは、二人がいた場所に関係しているという事。ヒトガタに関係して可能性が高いという話だと予測する。

「この像は元々こういう形だった?」

「‥‥いや、違うと思う。途中で折れてるみたいだった。見た事あるのか?」

「これそのものかどうかはわからない。でも、似たものは知ってる。これは、私じゃない別のヒトガタの『誕生種』に関係してる」

 よりによって、ヒトガタの『誕生種』か‥‥。だが、違和感がある。

 あの方は「人が死んだ」とは言っていたが、「ヒトガタが死んだ」とは言っていなかった。あの方は、俺では知る事の出来ない事を教えてくれる。

 ならば、何故、人が死んでいる、と言ってくれたのか。

「詳しく知ってるのか?」

 ソソギとカレンに、聞いてみたが、どちらも首を振ってしまった。

 他人の事に構っている時間も余裕もなかったと言っていた。あの『先生』から身を守る事に全てを捧げなければならない環境では、他の誕生種を知る暇などなかっただろう。

「でも、気になる事がある。まず、この像はもっと大きいものだった。ワインボトル一本ぐらいの大きさはあったと思う」

 そう言って。ソソギは手で大体の大きさを示してくる。確かにワイン一本分の大きさ。丁度太さもそれぐらいだった気がする。

「そして、シズクが言っていた事も気になる。—―ここで疑念を持たせたくないから、話しておく。もし、ヒトガタである『ヒジリ』に今回の仕事を頼んだとしたら、シズクは私達以上にヒトガタを知っている事になる」

「俺達以上?でも、シズクは、普通の人間‥‥」

 シズクが普通?そんな筈ない。シズクは、普通の人間では太刀打ちできないからここに来たんだ。だけど――

「よく聞いて。もしこの像の事をシズクがどういうものなのか知っているなら、シズクはヒトガタの専門家と張り合える知識を持ってる。私達ですら知らない知識を持っているなら、シズクは‥‥私達が思っている優しい人間じゃないかもしれない」

 ソソギが覚悟を決めたように、話してくれる。本当に、心の底から苦しそうに。

「だから」

「明日、その事も含めて聞いてくる。だから、そんな顔しないくれ」

 ソソギがに手を伸ばして、顔を撫でる。

「シズクは頭が良いんだ。どこからか断片的な情報を手に入れて、辿り着いた答えなのかもしれない」

「でも、そんな事」

「有り得ないか?—―シズクに怒られるかもしれないけど、疑念を持たせたくないから話しとく。シズクは頭が良過ぎたんだ。一回の講演を聞いただけで、誰も気付かなかったその学問の矛盾を指摘できるぐらいに。だから、シズクは追い出された」

 ヒトガタとはまるで違う理由で、シズクは捨てらてた。理解できない言語を使い始めたAIを恐れた人間は実験を凍結させた。シズクのポテンシャルを恐れた人間は、シズクから逃げ出した。神の気まぐれで生まれた天才にして鬼才。それがシズク。

「シズクは、オーダーでないと居場所が作れないぐらいの天才。外の人間に恐れられたから、ここにいる。シズクはあの施設の近くに住んでたけど、関係なんて持ってない」

「‥‥言い切れるの?」

 つい、笑みがこぼれる。

「さっきソソギも言ってただろう。シズクは、優しい人間なんだ」

 俺の背中をさすってくれたのはシズクだ。俺にオムライスやパスタを作ってくれてのもシズクだ。そして、俺の話を最初に聞いて、最初に信じてくれた。

「だから、そんな心配はしなくていい。大丈夫、幼馴染の俺が言ってるんだから信用しろよ」

 伸ばしていた手をソソギが目をつぶって握ってくれた。

「—―お風呂、入ってきて。少し落ち着きたい」

 カレンに目配せをしてソソギを頼んだ。少しだけソソギは過去に引きずられている。あの施設での経験は、過去を思い出せるくらいに強力だったようだ。



 カレンとソソギの肌着や先ほど着ていた浴衣から出来る限り、目を逸らせて脱衣所から出る。湯舟からソソギとカレンの香りが怖いぐらい放たれていたので、長く入れなかった。長風呂をすると溺れてしまいそうだった。

「あ、ソソギは寝かせてきたよ」

 リビングで寛いでいたカレンも意外と暑がりのようで、入浴したての身体に強い冷房は心地良かった。

「ソソギはどうだった?」

「少しつらそうだった。初めてできた人間の友達を疑ったって」

「‥‥そうか」

「うん、だからちょっとだけシズクと話してから寝かせた」

 想像以上に、ソソギとシズクは親しくなっていたようだ。そんな親しい友人を疑う自分、疑わざるを得ない環境の二つに苦しめられていたらしい。きっと、本当に苦しかった。

「シズクはなんだって?」

「今度、オムライス食べよって。私も誘われたんだよ」

「いいやつだろう?」

「うん‥‥本当に優しくて、かっこいい人。人間であんなにいい人始めた会ったかも」

 成程、そういう繋がりもあったから苦しかったようだ。

 テレビに飽きたカレンは、先ほどのゲームを起動させてソソギが握っていたコントローラーを渡してくるので無言で受け取ってゲームを再開する。これは部屋にあったゲームだ。

「気に入ったか?」

「‥‥結構楽しい」

 やる事はシンプル。迫りくる昆虫型の敵を銃で倒すだけ。だが、迫ってくる敵の数が膨大なので、なかなか難易度が高い。ソソギの反射神経を持ってしても苦戦していたのがわかる。

「強い‥‥このショットガンじゃ、やれないか‥‥!」

「頑張って‥‥!もうすぐ終わるから!」

 しばらくゲームをした後、小休止の最中にカレンが自分の膝を叩いた。

 ならばと遠慮なく横になると、カレンが少しだけ大人びた表情を浮かべる。

「気持ちいい?」

「‥‥ああ」

「そう、よかった‥‥」

 特別捜査学科であるカレンとは、普段はあまり会う機会がなかった。こんな女子寮への時間外侵入というルール違反でもしないかぎり、カレンに甘える時間は許されなかった。

「最近、あんまり会えないから、今日は沢山甘えて」

「もう好きにしてる」

 寝返りを打ってカレンの腹部に顔をうずめると耳に触れられる。これも特別捜査学科から習ったのかもしれない。息を吹き掛けながら指でも慰撫してくれる耳が熱く火照り、五感全てがカレンの虜と成っていく。

「ねぇ。前に話したよね?昔あなたと一緒にいた気がするって」

「何か思い出したか?」

「そうじゃないんだけど‥‥」

 歯切れが悪いカレンの顔を見上げる為に、もう一度寝返りを打つ。

 真下から見上げるカレンの顔は、想像を絶して眩かった。本当に、顔自体が輝いているのでは?と錯覚するほどに。あの方が俺を宝石と形容したように、カレンというヒトガタは宝石だった。カレンの瞳であるエメラルドは『職人泣かせ』と言われる程に脆い石だった。よって、エメラルドは欠ける角を出来るだけ減らした丸いカットをしか出来ない。カレンの瞳はエメラルドそのものだった。

「私はあなたの記憶を持ってる。そしてあなたも持ってる。じゃあさ、私も幼馴染って言えるのかな?」

 その言葉に笑ってしまった時、カレンが拳を振り押してきた。だけど、カレンの太ももに後頭部がめり込んでいき、むしろ気持ちがよくなってきた。

「おかしな事を言ってるって!わかってるもん!」

 だが、拳の勢いが結構強くなってきたので、頭を上げる。

 しばらくカレンに肩を叩かせて、シズクレベルの体力を減らしたところで話しかける。

「幼馴染がいいのか?」

「‥‥私とソソギは、姉妹だし。それに、友達はいないから‥‥」

 なかなか悲しい事を言っている。特別捜査学科同士では友人は作れないのか?

「幼馴染じゃなくてもいいだろう」

「だって、幼馴染って特別な気がするの‥‥。シズクがあなたの事を話す時とか‥‥」

 自分の足を抱え口元を隠して見つめてくる。諸人ではたちまち恋をする視線だった。

「正直なところ、この俺とシズクとが幼馴染だっていう証拠はないんだ」

 急な話にカレンが面食らったのがわかる。

「俺さ、実は自殺した事があるんだ。だから、この『身体』の俺があの時の『身体』を持った俺なのかは、わからないんだ」

「—―冗談、だよね?」

「まさか――本心でだ。膝、貸して」

 カレンにそう伝えると、もう一度、カレンは足をくれた。

「俺な。成育者からシズクを殺せって、言われたんだ。‥‥成育者からすると、ただの暇つぶしだったんだろうけどな」

「‥‥あんなに、仲が良いのに?」

「そんなもの関係ない。カレンは会ったんだから、俺の成育者がどういう人間かは想像出来るだろう」

 『家族』と思っていた人達は、ただの一度だけでも、反抗した俺を許さなかった。

 誰も帰ってこない家で、一人でオムライスを練習する時間は、本当に狂いそうだった。

「でも、シズクを殺せって言われたのと、自殺するのと、どう関係してるの‥‥」

「なんとなくわかるだろう。シズクを殺したくなかったから、もう自分を殺すしかないって思ったんだ」

 久しぶりに家へと呼んだシズクは、本当に嬉しそうだった。

 どこでどうやって、どこを狙うか。寸前までそんな事を考えていた俺は、シズクのオムライスで、全て捨ててしまった。あの時の感情は、一体何だったのか。

 正気に戻ったのか?狂気に堕ちたのか。それとも――自覚したのか。

「やっと楽になれる。そう思って目を閉じたのに、生き残ったんだ」

 シズクが助けてくれた。あの状況では、そうとしか思えない。

「起きたらシズクが隣にいて、頭を撫でてくれてた‥‥」

 これもカレンの力なのか。口から言葉が漏れ出てしまう。

「—―怖かった。もうシズクの顔を見ないで済む、もう何も考えないで済む。なのに、俺は救われた。シズクに、救われたんだ」

 もう一度、カレンの腹部に顔をうずめて、涙を吸わせる。

「死にたかったの?」

「死にたかった。でも、一人は怖かった」

 結局俺は、あの時から何も変わっていないのかもしれない。

 自分で死ぬのは怖い。他人に殺されるのも怖い。なのに、人に看取って欲しい。

「あなたは、間違ってない。私も同じだから。私も、死ぬのは怖い。ソソギからも殺されたくない、だけど、一人は嫌。死ぬなら、誰かに見ていて欲しい」

 触れるか触れないかの間で、カレンは慰めてくれる。そして微かに伝わるカレンの手が眠気を誘ってくる。

「部屋に行こう」

 カレンに軽く身体を叩かれ、起き上がる事にした。そして手を引かれてカレンの寝室に移動する。先ほどは気付かなかったが、ここにもカワウソとペンギンの人形があった。

「今日は私の番」

 シズクの言葉に従って、先にベットに横になる。掛け布団と共に、被さってくる華奢で肉感的なカレンを受け止める。カレンの身体を俺とは比べものにならないぐらい熱くて、舌は桁が違った。冷たい口の中をカレンの暖かくて、慣れ親しんだ舌が温めてくれる。

 頬の裏側から歯茎の端まで、全てを舌と唾液、吐息で愛でてくれる。

「泣き止んだ?」

「‥‥どう見える?」

「まだ、弱くみえる。私よりも、小さくて、細くて、冷たい」

 暗い布団の中で、目元から流れていた涙をカレンが拭いてくれた。もう一度カレンに口を明け渡して腰を抱きしめる。細くて、柔らかくて、いつまでも抱きしめたくなる。

 押し付けられる胸も柔らかくて、下に何も身に付けていないのがわかった。

「この事、ソソギに言ったのか?」

「言った。だから三人だけの秘密になってる」

「オーダー校には言えないな‥‥」

「ふふ‥‥特別捜査学科って、実は恋愛禁止じゃないの。‥‥こういう経験も必要だって、言われたこともあるから」

 意外ではないが、少しだけ恐怖を感じた。

「大丈夫、夜伽の授業なんてないから。安心して、私の初めては全部あなた」

 この言葉が、本当なのか、どうか。俺にはわからない。もしかして、この言葉も特別捜査学科として習ったものなのかもしれない。そう思うと目の前で身体を預けてくれるカレンが一層恐ろしくて、一層—―蠱惑的に見えた。

「俺から、いいか?」

 カレンを抱いてまま、寝返りを打とうとしたが、口元に指が付けられる。

「ダメ。今日は私から。やっと、あなたが私に堕ちてくれた記念日だから」

 首、そして耳に噛みついてくる。

「刻み込むから。この部屋から出るまでに教えてあげる。あなたが誰の物かを」

 甘い温かい息を吐きながら、耳から流れる血をカレンが、吸い始めた。



 『ラムレイ』を近場の地下駐車場に止め、待ち合わせの広場にて待ち続けた。若い層向けの店が立ち並ぶ中、腰に拳銃や警棒を下げた自分は何処まで場違いであった事だろう。

 結果、慣れない土地の長居でストレスから周りから見られている気さえした。

 だが、どうやら、それは気のせいではなかったようだ。

「あ、ごめんなさい」

「い、いいえ」

 今の完全に確信的だった。顔を撮ろうとした。

 先ほどから、前を通る人通る人からスマホのシャッター音が聞こえる。仮にも法務科の一員である顔を出来るだけ取られたくないので寸前で顔を隠したが、一体何なんだ?

 顔を伏せスマホを取り出し、シズクに向けて『助けて、一人はつらい』とメッセージを送る。内臓に多大なストレスを感じながら再度顔を上げた時、答えが目の前まで迫っていた。

「あはは‥‥お待たせしました‥‥」

 斜めに革の小さいバックをかけた令嬢が屹立していた。

 そんな令嬢が不思議そうに腰を折って、顔を覗き込んでくる。

「どうかしたか?」

「一昨日、あんなに死にそうな顔だったのに、なんか、別人みたい‥‥」

「シズクと一緒にいるからだろう」

「そ、そうかな?うん、そうならいいかも‥‥」

 お互い久方ぶりの私服での外出だった。と言っても俺は普段の防弾性の黒いタイツに白いYシャツ。その程度。だが、シズクは大きく違う。

「どう、かな?」

 恥ずかしそうに、だが、自慢したそうに軽く一回りして自分の姿を見せつける。

 肩が大きく晒すワンピース状の純白の服から視線を逸らせない。静粛で清楚、なのに隠されている筈の胸部が浮き上がりシズクが動く度に後を追って震えている。

 誰をも魅了する肉体を恣に振り乱す無垢で淫靡なシズクに対して、邪な感情が芽生えた。

「ちょっとだけ、冒険してみたんだけど‥‥気に入ってくれる?」

「—―—―綺麗だ」

 思わず吐露した言葉を聞いて、小さくはにかも姿が愛らしくもあったが、同時に痛々しかった。自信無さげに自分の肩を抱いているシズクは、まるで自分の姿が理解できていない。

「シズク」

 力み過ぎて肩が震えている。失敗した、自分に似合っていないのだと暗い赤い顔で後悔し始めたシズクの肩に手を置き、自分の内に発生した感情を明確に伝える。

「怖がるな、凄く似合ってる。本当に可愛いから、絶対に嘘じゃない」

「‥‥本当?」

「シズクが美人に成ったから特別捜査学科に選ばれたんだ。誰もがシズクの美しさを理解してる。だから自分の美しさを信じてくれ。何度でも言える、シズクは綺麗になったよ—―——―羽織る物を買いに行こ。そのままだと焼けるぞ」

「—―—―覚えてるの?」

「前に痛がってた。ちゃんと覚えてる」

 手を繋ぎながら伝えた言葉は、実は建前であった。先ほどから男女問わず、辺りの視線を独占しているシズクを守りたくなった。この美しいシズクを自分の物だけにしたいと愚かな気持ちを抱いてしまう。待ち合わせ場所に先に来ておいて、よかったと心底思った。

「ふふ、やっぱり優しいね」

 自然とシズクの手を握る事ができた。少しだけ大人びたシズクが、静かに従ってくれる。

「気に入ったか?」

「うん‥‥君を選んでよかったって思う」

 腰の銃や刀剣をふたりで揺らして道を歩いていると、先ほどまでシズクに邪な視線を送っていた人間共が恐れをなしていく。

「‥‥すごい見られてるね」

「シズクだからだろう。ここでいいか?」

 シズクの手を引いたまま、ブティックの一つに入ろうとするが、シズクは首を振った。

「平気。ここに来る前にしっかり対策してきたから。それに、羽織るものならあるから」

 そう言ったシズクのワンピースを見てみるが、腰やバックには羽織るものらしきものは何もなかった。首をかしげていたら、シズクが手を引いて先導役を買って出る。

「平気平気!それに、この程度の視線、私は気にしないから!」

 急に元気になったシズクが、意気揚々と高いヒールサンダルを鳴らして歩いていく。白い令嬢であるシズクの後を追って歩くと、甘い香りがしてくる。

「初めてだな。シズクが香水つけてるなんて」

「あ、気付いた?でも、私だって何度かつけてるんだよ。これは塗るタイプだけどね」

「サイナから買ったのか?」

「‥‥そこもわかるんだ。実はね、ソソギとカレンさん、皆んなに助けて貰ったの」

 詳しく聞いた所、昨日俺が電話してくるのは予定通り。今のようにふたりだけで出歩くのも想定済み。よって、俺からの連絡が来るまで、全員でシズクのファッションを見繕っていたらしい。成程と納得してしまった。

 シズクの私服はどちらか言えばスポーティーで制服以外ではあまりスカートも履いていなかった筈だ。そんなシズクが白いワンピースを身に着けてくるのが、意外ではあった。

「似合ってる、よね?」

「似合ってないって思ってるのか。俺が保証するから」

「君の顔って正直――—―ありがとう」

 振り返った赤い顔が愛らしく仕方ない。よって、隙を突いてシズクの隣へと躍り出た。僅かに驚いた表情をしたシズクだったが、諦めて腕を組んでくれた。

「これからどうする?」

「ん?そうだな‥‥」

 数ヶ月前にイノリが案内してくれた街のすぐ近辺であった。けれど、この街は昼間こそが顔のようで人通りも多く、店も健全で人々の顔の晴れやかであった。街の指定はシズクからだが、シズクも指示でここにいるようだった。

「少し歩くか。もうちょっとシズクと散策したい」

「‥‥そんなに、私に抱きつかれていたい?」

「そんなところ。ダメ?」

「許してあげる♪」

 お互い歩き慣れない街を歩くというのも、悪くないものだった。

 そして気付く。二人で歩くとこの街の居心地は良かった。客引きもない、タクシーが道を占領していることもない。歩いている人間も、一瞬こそシズクに目線が行くが軽く睨んでやったらすごすごと引き下がってくれる。だいぶ傍若無人な事をしているが、仕方ない。

 今日のシズクを断りもなしに見る方が悪い。

「尾行されてるな」

「え、そう、なの‥‥またあの黒服たち?」

「違う違う。身内だ」

 良い腕だ。恐らくイノリの指示の元、数人で別れて尾行している。

 サイナの『コンパス』は曲がり角で出来るだけ視覚から逃れている。その上、イノリが率いる斥候部隊は一度目を離すと完全に街に溶け込んでしまう。

 人間や店に紛れ込んで一定の距離を取ってくるので、無視をするしかない。

「心配されてる、のかな」

「みたいだな。—―いい友達だ」

「うん‥‥。私、オーダーに入ってよかったって思う」

 顔を上げて微笑んだシズクの赤い顔が眩しかった。赤みがかった髪を太陽の光に晒した容姿に、この化け物はたじろいでしまった。いつの間に、こんな大人びていたのだろうか。

 清廉な心からの笑みだというのに、目元や口元が鋭く伸びている。丸みなど失った妙齢の幼馴染に邪な感情など浄化されてしまった。

 後ろの恋人達には悪いが、今日の俺はシズクの物だ。敢えて、全力で無視させて貰おう。




「いい雰囲気ですね。こちらサイナ、完全に見破られてま~す」

「‥‥まぁいい。これも想定済み。あいつを尾行できるなんて、思ってもなかったし。プラン、プランの意味もないか。尾行を続ける。サイナはそのまま、離れてて」

「了解で~す♪」

 まるで真剣さが足りないけど、サイナはしっかりと自分の役割を守ってくれている。あいつが選ぶ事はある。間違いなく、サイナの位置取りは一級品だった。

「あの‥‥やっぱり、止めた方がいいのでは‥‥」

「今更何言ってるの?あんただって、乗り気だったじゃん」

 ミトリが弱気な事を言い始めた。尾行で迷いや躊躇いは大きな隙とタイムロスになる。本当ならここでコンパスに戻れと言いたいけど、そうも言っていられない。

「これは、そう、シズクの身を守る為なの。体調が戻ってきて、そんな気になってるかもしれないヒジリを見張る為でもあるの」

「‥‥私でもそんな気になってくれるかな‥‥」

 ダメだ。そう思った。

「ミトリは車に戻って。この街で尾行を続けるには、この人数じゃ飽和してる」

「う‥‥わかりました。撤退します‥‥」

 人間、向き不向きがある。その事をとやかく言うのは時間の無駄だ。しかし、しかし、今のミトリは自分からアイツを誘いに行きそうな雰囲気を持っていた。

 これは尾行であってハニートラップではない。

 けれど、呆れるほどにあの人外ならば、喜んでわざと引っ掛かるだろう。

「もう視線も向けてきませんね。完全にシズクに夢中になったようです。ふふ、今晩のお仕置きの激しくなりそうです」

「無表情で、ほんとかどうかわからない事言わないで」

「冗談です。—―動きました。映画館に向かってます」

「‥‥違う、映画館の可能性もあるけど、あそこは――ホテル‥‥!」

 あの映画館は高層ホテルと一体化している。しかもあそこは個人情報には国を超えるレベルでセキュリティーが高いと有名なホテル。逃げ込むつもりか。

「‥‥なりふり構わず、シズクを落とす気ですか。やりますね」

 この子は、アイツの一番のお気に入りではなかったのだろうか。サイナも相当だったが、ネガイが一番この状況を楽しんでいる気がする。実際楽しいようでスマホでホテルのレストランを調べている。

「なるほど、そういう事ですか。約束を果たすつもりですね」

「約束ってなに‥‥まさか――」

 身重にするとか、そういう――

「行きますよ、私も興味があります」

「え、あのちょっと!そんな、シズクとアイツのなんて‥‥」

「いいんですか?」

 なぜ、この子はこんなに大胆なのだろうか。足の速さは相当なものだと知ってはいるが、足の速さと精神的な距離の詰め方は関係しているのだろうか。

「きっと、シズクが喜んでいる風景が見れますよ」

「‥‥あなたは良いの?あなたの彼がシズクに夢中になってる姿を見ても」

「ん?そうですね‥‥確かに、気になる所はありますが、それだけです。あの化け物はそういう化け物です。私の言う事は全て聞いてくれますが、私は彼に首輪をつけたい訳じゃないんです。それにあのヒトには私達がいなければなりません。シズクは気付いています」

 一瞬、楽しそうな顔をしたが、すぐに無表情に戻ってしまった。だが次瞬で、

「何故でしょう。イノリとは初めて会った気がしません。前にどこかで会った事がありますか?」

 と、笑いかけてくれた。

「‥‥もしかして、会ったかも」

「そうですか。じゃあ、私達も幼馴染と言えるかもしれませんね」

 この子がアイツの一番最初の恋人らしい。

 潜入学科を辞めた私にも、聞こえてくる化け物と恋人達の噂。始まりがこのネガイというのだから、この噂は噂などではない。真実だったというのが、よくわかった。




 この街が待ち合わせ場所だと言われた時から、ここに来ようと思っていた。

 ここなら間違いなく、シズクを喜ばせる事が出来る。そう確信していた。

「‥‥いきなり、ホテルに、なんて‥‥」

「ここのレストランはオムライスが有名って前に聞いてな」

 シズクの手を引いて、ホテルの廊下を歩く。ここのレストランは宿泊客以外にも開放されているという事は調べがついている。よって、遠慮なくシズクと入店できる。

「なんか、こういうお店、久方ぶり‥‥」

「ああ‥‥前に、みんなで行ったな」

「うん――怒った?」

「全然。もう、過去の事だ。今更興味もない」

 シズクの家族と俺の『家』とで行ったレストランも、いい店だった。

 だが、ここも相当な物だった。入店したら、待たせる事なくスタッフがどこからともなく現れて、店の奥へと案内してくれる。そして案内してくれたのは、しっかりと肘掛けがついた柔らか過ぎず、堅過ぎない個人用のソファーだった。

 店内に流れているBGMもクラシックで、落ち着いている。

 真っ先に用意してくれたのは、ただの水だったが、これすら高級に感じる。

「‥‥オーダーでも、入れたね」

 小声でシズクが言ってくるが、そこは高いホテルに寄生しているのだから問題ないと思っていた。

「職業に貴賎はないからな。俺なんて、人間でもないんだし」

 この場で、俺とシズクしかわからない内容で笑い合う。

 近くにいた良い服を着た紳士淑女の方々が、なぜ子供が入って来たのかと、だいぶご立腹になったが、軽く座り直した時に腰のM&Pや刀剣、そして手錠を見せてやったら、咳払いの元、静かになった。

「驚いてるね」

「身に覚えがあるんだろう。むしろ何もないと思うか?」

「言えてる」

 皆が皆、犯罪に関わっているとは思わないが、探られて痛くない腹の持ち主など、この場にいるような高額納税者の中にいない筈がない。どうせ、何かしら持っている。

「‥‥ダメだな。最近行政の人間ばかり逮捕してる所為だ。なんでも怪しく見える」

「あはは。うん、私も。みーんな、怪しく見えるや」

 このホテルやレストランだってそうだ。どうせ入ってくる金と出ていく金、そして貯めている金の合計を合わせれば、どこかで齟齬が起きている。

 企業が大きくなると往々にして、そういった結果的な不祥事が起こってしまう。

 このソファー一つ取ったって、額面上の『支払った額』と『仕入れた額』が変わっているだろう。それもまたビジネス、経世済民だと言えば、聞こえはいいが。

「この水差しもきっと高く計上されてるだろうけど、もしかして――やめとこ」

 そんな気は一切なかったが、シズクの声で周りの『獲物』達が数人逃げてしまった。

「そうだぞ。ここにいる人達が犯罪なんか起こしてる訳ないだろう。それにあれだ『忖度』を強制して、罪を被らせるような卑怯な真似も」

「うんうん。そうそう。私、何疑ってたんだろう」

 更に咳払いと急なスマホの取り出しで、数人が出て行ってしまった。

 俺とシズクに視線で喧嘩を売った罰だ。

 だが、ここの店員は良い教育をされていた。何事も無かったようにメニューを渡し、水を注いでくれる。悪い事をした、少なくとも、店側の人間は関係ないようだ。

 目的のオムライスとサラダ、スープを注文し、チップとしてメニュー下で現金を渡す。

 チップという文化はとても面倒だ。日本は元から、その上欧米ですら廃止している店が多いと聞く。だが僅かながらの申し訳なさを金で拭えると思うと悪くない。

「どうかしたの?なんか、店員さんが、笑顔になったけど」

 わかりきった事をシズクが聞いてくる。これもある意味では買収というのかもしれない。

「ここの店員さんは、サービスがいい。それだけだろう」

「うん?そういう話?」

「そういう話」

 注文の品が届くまで、もう一口、水を飲む。

 周りから人間が消えてしまい。ここ一帯だけ予約席のようになってしまった。

「ねぇ」

「ん?どうした?」

 コップを下ろして、聞き返す。

「私達さ、その‥‥どう、見らてるかな?兄弟とかに、見らてたりしない、よね‥‥」

 さっきまでの強気なシズクから、幼くて、懐かしいシズクに戻ってしまった。

 笑顔にもならない。ただ、この可愛いシズクが、俺の幼馴染で、俺の――

「シズクは俺の恋人だ。しっかり、そう見られてる」

「—―—―恋人、うん!恋人だよね!」

 『恋人』という単語はシズクにとっても特別だった。それは王子様と同義だから。

 いつも言っていた、私は王子様を待つと。私を救ってくれる王子様が必ず来るって。でも、結局その機会も—―—―俺が奪ってしまった。

「結局、何もかも奪ったな。王子様にもなれなかったし‥‥」

 先ほどの店員さんが、無言でサラダとスープを運んでくる。

「いいの。だって、なんとなくわかってたから。君といると、こうなるって」

「怒らないのか?」

「怒る訳ないじゃん。それとも怒られたい?」

 つい、本当につい――—―頷いてしまった。でも、シズクは席から立たなかった。

 何事も無かったように、運ばれてきたスープを眺めている。

「私も同じなんだ。最初はヒーを守らなきゃって思ったの。だけど、本当は私はヒーを、言い訳とか理由にしてここに来たの。だから、本当は違う――—―」

 最後に運ばれてきたのは、俺とシズクが待ち望んでいた固い綺麗なオムライス。

 黄身と白身の混じり具合が均等で、シミ一つない綺麗な焼き加減。

 既にかかっているケチャップが化粧に見えてくるほどの、『美人』だった。

「私は――君の隣にしかいられなかった」



「美味しかったね。また来ようよ」

 オムライスもサラダもスープも平らげた所で、デザートのケーキが届いた。

「こちらはサービスです」

 そう言って下がった店員さんの後ろ姿をふたりで見つめる。

「本当にサービスいいね」

 チップが気に入ったのか、それとも周りの紳士淑女を出て行かせたのが良かったのか、店員さんが御機嫌にショートケーキを置いて行ってくれた。

 フォークできめ細やかな生クリームの山と生地の層を切り分けて、口に入れる。先ほどのオムライスも卵の甘みとケチャップの酸味とが絶妙なバランスの上で旨味を作り出していたが、こちらも負けていない味のバランスが成り立っていた。

「柔らかい‥‥」

 ケーキなのだから当然だ。だが生地やクリーム、そして苺といった食材一つ一つに口当たりがよくなるような手間暇かけているのがわかる。苺から酸味やえぐみは一切感じない上、口溶けの良い甘いクリームもしつこくない。だが印象に残る強烈な甘みを舌に残していく。

 一口で中毒になった。『ホテルに寄生したレストラン』という表現は撤回しなければならない。

「お昼は済んだし、次はどこ行く?」

 ショートケーキを食べているシズクが、首を傾けて聞いてくる。

「そうだな。次は」

 言葉が止まってしまった。次も一緒にどこかへ行けるというシズクの期待した眼差しに、頬が緩んでしまう。卑怯なぐらい可愛い。ショートケーキを突く姿が、特段愛らしくて。

「私に見惚れた?」

 強気なのに、改めて自分の使った言葉を思い出し顔が赤くなっていく。

「次は—―—―」

 ここのホテルがいい。そう、頭の片隅で逡巡した時だった。肩を掴まれて無理矢理に振り替えさせられる。心の亀裂から滲み出る殺意を押し殺し、見下ろす声の主に視線を向ける。

「いい所で会ったじゃないか?」

 肩を掴みながら、スマホでどこかの誰かに呼びかけていると気付いた。

「ええっと、知り合い?」

 —―—―誰だ?茶髪で金のメッシュ。前髪で片目を隠している。着ているスーツの表面の照り返しで、いい親の元に生まれたというのが良く分かった。いい身なりだ。

 なのに、それを全て台無しにするように、大きく胸を開けている。

 端的に言えばダサい。いや、これはアイデンティティの一つなのか?

「どなたですか?」

 正直に聞いた。こんなファッションで、バカ息子丸出しな子供。一度叩きのめしたのなら嫌でも覚えていると思うが思い出せない。しかし、舌打ちをした少年は怒りを声に出す。

「いい気になるなよ‥‥?あの時は、酔ってただけだからなっ!!」

 絶叫しながら手元のフォークを奪い、床に叩きつける。

 耳元で叫ばれたとしても、オーダーが手元の刃物を奪われるという失態を犯してしまった。

「‥‥まだダメか」

 奪われた手を眺める。ここに来るまでの運転は、『ラムレイ』自身に頼り切りだったのを今思い出した。今の握力は、本来の三分の一程度といったところ。指すら細く見える。

 そして手を見つめていた俺が気に食わなかったらしい金メッシュが、襟を掴んでくるが、向こうの握力と腕力も思ったより無かったようだ。まるで、俺を持ち上げられない。

「くそったれ!!おい!立てよ!?」

 一瞬店員や店内の客が動こうとしたが、止まってしまった。

 どうやら、この少年はここの常連らしい。来るたびに何かしらやらかしているようだ。

「後にしてくれ先約がいる」

 無言で足元のSIGP228に手を伸ばそうとしたシズクを、視線で抑える。

「なに俺の事無視してんだよ!?」

 酔っているのか、ラリっているのか知らないが、正気とは言い難い絶叫を放つ。肩を掴まれながら、甲高い声を聴き続けるのは不快で仕方ない。

「ぶっ殺されたいのかよ!?」

「—―後にしろ」

 試しに店員に視線を投げてみるが、逸らされた。—―諦めて殴られろという話らしい。

「それで、あの女は?」

「誰の事だ?」

「お前の女だ!」

 瞬時に首の産毛が総毛立つ視線を感じる。シズクの冷たい視線が、この化け物を射抜いた。脳細胞の全てを稼働し、たった今食したオムライスを炉心しんぞうに焼べる。しかし、一向に思い出せない。

「どの子か思い出せない訳?」

「それで、その女に何のようだ?」

「お前共々ケジメつけさせてやるってんだよ!!まぁ、そこの女でもいいけどな」

 シズクが鳥肌を立てたのがわかった。つい腰に手が伸びてしまう。

「動くなよ?今日は、こういうのも持ってるんだからよ?」

 大きく開けた胸元に手を入れて、わずかに拳銃らしきものを覗かせた。

 口の中だけで舌打ちを響かせる。目に血を通し、本物の拳銃だとマガジンに詰まった弾頭で理解する。それはM1911。

 アメリカ軍から「1発でも、敵の動きを止められるだけの威力がほしい」という要望の元、製造され、.45ACP弾という強力な弾丸を放つ事ができる拳銃。

 また、日本でもコルトガバメントの名で知られている。

 ただし見えているグリップの様子が違う。

「カボット・ガンズか――」

 M1911を専門に製造しているメーカー。そして銃の高級メーカーと言われている。芸術的なデザインと芸術なまでの相場を無視した価格で知られている。

 金メッシュのグリップには琥珀を使われていた。

 一体いくらなのか、考えるのも馬鹿馬鹿しい。

「ビビったか?お前みたいな。ただのオーダーが買える代物じゃないんだよ!」

 だがM1911は余りある射撃時の反動で、肩や手首が外れるという事故が多発する玄人向きの拳銃。人ひとり程度も持ち上げられない人間に撃たせる訳にはいかない。出来うる限り、穏便に済ませるべく「落ち着け」と静かに告げる。しかし、それは理解されなかった。

「今更ビビッてんじぇねーぞ?」

「—―—―それから手を離せ」

 もしここで遊び感覚に引き金を引き、銃口を跳ね上げさせてしまえば死人が出る。

 レストランの人間達はまだ気付いていないが、一般人が多くいる日常のひと時に銃声一つでも鳴り響けば、収拾不可能な混乱が巻き起こる。直後に誰もが我先にと出口へと殺到する。その時、たった一人でも転べば幾人もの連鎖が起こる。そして真下の人間が圧死する。

「欲しいのかよ?土下座しろ」

 状況がわかっていない金メッシュは、自慢げに肩を離して床に指差した。

「それから、その女は寄越せよ。上でみんなで遊んでやる」

「気が変わった。出るぞ」

「うん、行こう行こう」

 土下座も話にならないがシズクを渡せなんて言う戯言を、正面から相手をしてやる必要はない。無視した店員も知った事でもない。ここで暴発しようが、死人が出ようがどうでもいい。勝手に人間同士で死に絶えればいい。

 そして、一瞬でもシズクと部屋を借りようと思った事を反省する。

 先に立ち上がって、シズクに左手を預ける。楽に立ち上がる為に体重をかけさせる。

「なんか、いいね‥‥」

「これから毎日でもいいぞ」

「それは、ちょっと恥ずかしいかな?」

 軽く牽制しあいながら立ち上がったシズクが、軽く腕にしがみついた。いつの間にか高くなってしまった背を見上げるシズクと見つめ合いながら、お互いに微笑み合う。

「無視してんじゃねーって言ってるだろうが!?」

「いい加減にしてもらえない?」

 首だけで振り返ったシズクが、はっきりと言葉にした。

「こっちはここで食事を楽しんでただけなの、あなたみたいな人に構ってる暇はない。わかる?もう一度言うね、あなたに用はない。それに、嫌い。行こ」

 ここまで怒ったシズクは一度しか見た事がない。そして、成長したシズクは怒ると必要最低限な事しか言わなくなるのがわかった。怒らせないようにしようと心に誓う。

 腕を組んだシズクと歩調を合わせて、出口に向かっていると—―—―

「ただのオーダーが‥‥調子に乗ってんじぇねーぞ!!」

「痛っ!」

 シズクの髪を掴んだと、声が空気を震わせて気付いた瞬間—―—―右腕が意思を持つように勝手に動いた。

 組んでいる腕を抜いて、シズクの肩を支える。一瞬シズクを腕力で浮かせた。

 引かれている髪の猶予ギリギリまで後ろに回転し、肘に体重と勢いを乗せる。二人分の体重で金メッシュの頬を抉り飛ばし、髪から手が離れたとわかった瞬間シズクを抱き寄せる。

「大丈夫か?」

 胸の中で、シズクが微かに頷いてくれた。

「てめぇ‥‥こんな事して、ただで済むと思ってんのか!!」

 倒れながら、金メッシュはついに抜いてしまった。

 周りから叫び声や悲鳴が次々と上がる。カボット・ガンズが作り上げた芸術品と言える域にまで達したM1911は、向けられるだけで身震いする銃身の光沢とグリップデザインを持ち合わせている。

「殺してやる‥‥!俺は殺しなんて、怖くねぇんだよっ!!俺は、許される歳だ!!」

 起き上がりながら、歪んだ顎で叫んだ。

 魅力的な武器だった。そして、掴んでいる持ち主を嘆くように輝いている。

 妖刀と言われる刀は人を惑わせる。なぜなら血を吸った刃紋の姿は、何度見ても飽きないほど、美しくからだ。だが、あいつは違う。銃を持つ事で、己の凶暴さの足元を固めている。銃を言い訳にしてる。

「ぶっ殺してやる‥‥殺してやる!!」

 撃鉄に指をかけて、親指でセーフティーを外したのがわかった。

「俺をコケにしやがって――—―お前のせいで、俺は笑いものになったんだ!!」

「‥‥だからなんだ?」

「俺の女達はみんな消えた!だから、そんな髪した女でもいいから、寄越して死ねってんだよ!!」

 抱えているシズクが、一瞬、ほんの一瞬、呻き声を出したのがわかった。

 次瞬で、金メッシュの鳩尾に警棒状態の杭を飛ばす。シズクを抱きかかえたままで縮地を使い、全力で靴底を杭の握り先端に叩き込む。使い手が彼方に飛んで行き、自由になった空中のM1911を掴み、銃口を向けて、引き金に指をかける。

 さっきまで俺達が使っていたテーブルに突っ込んで金メッシュは、残ったショートケーキを頭から被って、動かなくなった。

「シネ」

 あのスーツに、アラミド繊維が用いられているいるか知らないが、知った事じゃない。殺す、俺が決めて、俺が実行する。数回指を引けば終わる。だが、

「だめ」

 胸に直接響く音が、シズクの口から鳴った。

 ゆっくりとM1911を下ろして、深呼吸をする。化け物からオーダーに戻る。

 店員に視線を向けるが、まるで動かない。何が起こったのかわかっていないようだ。

「オーダーを呼べ」

 声に怒りがこもってしまい、数人いる店員が萎縮したが、大人しく一人がバックヤードに引っ込んだ。数分でオーダーが来るだろう。

「後は任せた。上で休んでくる」

 あと数秒で泣いてしまうシズクを胸に抑えたままで、出口近くにいたイノリとネガイに声をかける。

「あの、ごめん、助け」

「平気だ。それに、あそこで動いたら、他の客に着弾してただろう」

 イノリの謝罪に返事をして、鹿撃ち帽を被ったネガイに視線だけで答えた。



 部屋は簡単に借りる事が出来た。サイナが事の顛末を聞いて、自分の名前で予約してくれていたらしい。サイナに伝えてくれたイノリに感謝しないとならない。

 シズクと部屋に入って、テレビの前に設置されたいたソファーに座る。

 限界に達したシズクが、胸の中で静かに泣いていく。

「‥‥ごめんな。確実に仕留めておけばよかった」

 窒息しない喋れない程度に顎を砕けばよかった。一般人だと手加減をしてしまった。

 俺の声が届いた筈のシズクはいつまでも泣いていた。もしかしたらほんの数分だったかもしれない。でも、この数分が永遠に感じられる。

「泣かしちゃったな、シー」

 小さいシズクの頭と、細い腰を抱いて、体温を分け合う。

 少し落ち着いたシズクが、大きく息を吸って約束を口にする。

「ねぇ‥‥私の髪—―変?」

「シーの髪は綺麗だ。変なんかじゃない」

 ふたりの約束を間髪入れずに果たす。

「‥‥ふふ、ありがとう。また聞いちゃったね」

 離した顔をもう一度、胸に押し付けてくる。シズクの勢いに大人しく従って、ソファーに横になる。上に乗ってくるシズクを抱きしめて、お互いの肺のふくらみを楽しむ。

 何度か、こういう事があった。愚かな人間は、シズクを貶す時、いつも髪の事を言ってくる。その度に、シズクは泣いていた。そして、その度に、俺に訊いていた。

「シーの髪は、いつも綺麗だ」

「二回目‥‥。私の髪、好き?」

「シーが好きなんだ。ずっと、好き」

「ミトリさんが、初恋なんじゃないの?」

「でも、約束しただろう。シーが馬鹿にされたら、必ず隣にいるって。—―俺は人間が嫌いだ。だから、好きな人間じゃないと隣にいないって、決めたんだ」

 本心から、そう思った。シズクが好きだ。きっと、ずっと前から、シーの髪を追っていた。

 俺の言葉に納得してくれたシズクは、身体を預けてくれる。

 心地いいシズクの身体と体重を全身で感じながら、心臓を休める。

「シズク、そろそろ教えてくれないか?」

 そう聞いた瞬間、シズクの身体が固くなった。

「仕事を続けるかどうかは、別にしても。俺には聞く権利がある筈だ。違うか?」

「—―どういう意味?」

「俺、思い出したんだ。シズクが言った、『俺』じゃないといけないって意味」

 シズクは、『俺が法務科だから頼った』、というニュアンスの言葉を使った。

 だが、それだけでは無いのは明白だ。全ての証拠が揃っているのなら、マトイと俺を頼ればいい。だが、シズクは、俺だけに頼った。

 ならば、ヒトガタに関係がないシズクが、俺に頼る理由は限られる。

「ヒトガタにも、法務科とも関係がないシズクが、俺個人に頼ったって事は――シズクの家関係の仕事って事だろう?」

「‥‥容赦ないね」

「人間じゃないからな。そういう事も含めて、俺を選んだんだろう」

 今更人間の立場や立ち位置を慮って、仕事を選ぶというな面倒な人間のルールに従ってやるつもりはない。そして、それを支える立場も持っているのが、この俺だ。

「法務科としての立場と、容赦なく人間を襲える。そこは必須条件だった。それと、一々面倒な詮索をしないで済む過去を知ってる俺が、都合がよかった。違うか?」

「‥‥初めてのハニートラップ、失敗しちゃった。‥‥怒ってる?」

 離れようとしたシズクを逃がさないように、抱きしめる。顔を上げたしたシズクが、加速度的に赤くなる。

「あ、あったかいね‥‥」

「これはシズクのせいだ。じゃあ、答えろ。詳しくな」

 当てている下腹部の感触が、慣れないのか、なかなか言葉で出てこない。

「どうした?」

「こ、このまま話せって事なの‥‥?君も結構、いじめっ子だね‥‥あとで、痛い目に会わせるから。覚悟して」

 呼吸を整えたシズクが、覚悟を決めて見つめてくる。

「君の言う通り、これは私の個人的な仕事です。そして、同時に私の過去に関係した仕事です。‥‥も、もう無理、お願いだから離して‥‥ダメ、なの?」

 更に強く抱きしめる事で、答える。

「うー‥‥わかった‥‥、このまま頑張る‥‥。えっと、まずあの資料館は、ていうか、あの資料館を経営してた財団の中に、盗品のオークションに関わってる組織とは別口の組織の関係者がいるの」

「別の組織か、どんなだ?」

「それが、—―具体的には私にもよくわからないだけど、どうやらあの像に、関係してるみたい。あ、あの像は、一時的に資料館の古美術品と紛れ込まされてたみたいで、ダメ‥‥動かないで‥‥!」

「シズクが動いてるんだろう?」

「違うのに‥‥。つ、続けるね。君が言った通り、あの像が出品されるオークションには、人も出品される‥‥でも、それは正確じゃない。あ、あの像の付属品として、懸けられるの‥‥」

 シズクの話も気になるが、たまに出すシズクの声が艶っぽくて、心臓に心地いい血を流してくれる。

「付属品?あの像がメインって事か?」

「—―うん」

 硬かった筈のシズクの身体が震えだした。

「‥‥どうした?」

 シズクの腰にある腕を、肩と頭に移動させて、心音を聞かせる。

「—――君の言う通り、これは私の過去を知ってる君じゃないといけない仕事です。出品されるのは、あの像と人間。あの像を使って、どんな事をするかなんて、私にはどうでもいい。でも、像と一緒に女の子が出品されるって事は」

「大丈夫。その前に止める。その前に全部奪う」

 シズクは善人だが、見ず知らずの赤の他人の為に、ここまで手間暇を、そして自分を捧げるような事はしない。そんなシズクの過去に関係しているという事は――、

「妹か――」

「うん、ツグミの事、なんだ――」



 シズクには妹がいた。名はツグミ。シズクと同じとまで言わなくても、少なくとも周りを大きく引き離す頭脳を持っている『筈』の女の子だった。そして、シズクよりも濃い金髪の持ち主でもあった。

 だが、シズクと遊んだ経験がある俺でも、ツグミとのそういった経験は少なかった。夏休みといった長期の休暇のごく限られた時にしか家にいなかった。

「最近話してるのか?」

 長い沈黙の後、スマホを取り出したシズクが答えた。

「うんん。もう――そうだね‥‥2年以上話してないかも」

「‥‥そうか」

「そっちこそどう?私より、ツグミと仲よさそうだったじゃん」

「—―いいや。俺も、もう5年は話してない」

 ベットの上で、シズクと吐息を交換しながら、話していた。だが、思いのほかシズクの体力があり、シズクを上に乗せたままで小休止を取っていた。

「ふふふ‥‥また勝った。ベットでは、私の方が大人だね!」

「そうかもな‥‥吸って‥‥」

 大人しくシズクに首を吸わせて、柔らかい腰と背中に手を回す。

「でも、まだツグミは中学校だろう。なんで大学、それに、確か女子校に行ってただろう。あの大学は共学だったなのに」

 ツグミは全寮制の女子校に行っていた。そして、小中高大という完全なエスカレーター式で、外に出る事はほとんどないとツグミ自身が言っていた。

「それは、本当の所は私にもわからない。これはほんと。—―信じて」

 首元から離れたシズクが見つめながら、口と舌を差し出してくるので、信じる事にした。

「でも、検討はついてる。あの大学を運営してる財団は、ツグミが通ってる学校を何度か、視察に行ってて、見つけた優秀な生徒を大学に招いて講義をしてるらしいの」

「中学生相手にか。後一年で高校生だけど、やっぱり、ツグミも頭良いんだな」

 昨今、日本でも飛び級という制度について検証や視察、検討をしているらしいが、制度化まではまだまだ時間がかかるだろう。だが、話の流れかすると、もしかしたら、ツグミは飛び級の第一人者になるかもしれないのか。

「うん‥‥ツグミは頭が良いし、私なんかよりも人間なんだ‥‥」

「比べるな。それにオーダーに来てよかったって言ってただろう。今更外に行きたい訳じゃないんだろう?」

「‥‥当然じゃん!あんな人間共の都合になんか、今更合わせたりしないから!」

「その意気だ」

 起き上がったシズクが、俺の上に腰を掛ける。

「じゃあ、なんであの像とツグミが関係してるってわかったんだ?」

 ツグミは持ち前の優秀さにより大学に招かれた。

 大学を運営している財団の中には、違法なオークションを生業にしている犯罪組織、そして像に関係している正体不明の組織がいる。ツグミと像を出品しようとしているのは、後者の組織。

 ここまではわかったが、そこから先、ツグミと像の関係がわからない。

「‥‥リストを見たから。私が、ここに来た理由。—―覚えてる?」

「オーダーに来た理由か—―覚えてる。人間から怖がられたから」

「正確には、勝っちゃいけない人に勝ったから。対談中の公開質問で恥をかかせたから。‥‥うん、君の言う通り、怖がられたって言うのが正しいかも」

 甘えるように口に迫ってくる。頭を押さえて逃げ道を奪うが、舌と唾液に負けて眠気が迫ってくる。

「いいよ、溺れても」

「‥‥どこで、こんな‥‥」

「どこで?眠ってる君で練習したから。ふふ‥‥」

 ベットの上のシズクには一度も勝てていない。どうにか起き上がろうとしても口で縫い付けられて、肩がベットから離れてくれない。

「でも、もう少し頑張って。偶然なんだけど、私を家に追い返した教授が今いるのが、君が忍び込んだ大学なの。‥‥最初、イノリの方から私に頼ってきた、手伝って欲しいって」

「あの盗人たちを逮捕するって話だったか」

「そう、だから、私達はまず最初に、大学の方を睨んだ」

 あの盗人たちがあそこまで、堂々と窃盗をしていたのは確かに違和感があった。

 まるで資料館と大学が黙認しているかのようだった。

「もしかしたら、あの警備員たちは捨て駒で、大学側は被害者を装っているんじゃないかって思って。実は、相談して一度だけわざと偽物をあの二人に盗ませた事があるんだけど、そこで分かった。二人の盗んだ品を買って、そこから海外のオークションに、もしくは盗品ってわかってても欲しがる人に売りつけてる組織がいるって」

「それも、財団の中にいるっていう犯罪組織か」

「でも、そこはもうどうでもいい。イノリと私で、もう法務科に報告書を提出したから、あと数日もしないで逮捕される。だけど、もう一つの組織は、それだけじゃあ逮捕されない。そして、これから始まる違法なオークションは参加者が数人消えた程度じゃあ、止まらない。規模が大きければ、大きいほど、止める事は出来ないの」

 シズクの言う通りだった。元々の規模が大きければ大きいほど、関わる人間の数が増えていく。違法だとわかっていても盗品を求める人間は必ずいる。そして、そんな人達は更に犯罪者予備軍を呼び、予備軍も引き返せないレベルになった時、おのずと全力で隠蔽に走る。これはオークションに限った話じゃない。一度でもいい思いをした奴は犯罪の中毒になる。抜け出すには、社会的な死と同意義な批判を受ける事になる為、まずしない。

「あの像を求めてる人間とシズクを追い出した人間は同一人物?」

「うんん、私を追い出した人間は出品者—――あの像とツグミを売る側の人間」

「‥‥大学の『教授』が人身売買か‥‥」

 あの方が言っていた事はこういう事だったのだろうか?

 捨てるでは足りない、受け取る側がいなければならない。ツグミを付属品として出品したのは、像だけでは買手が少ないと思ったからか?

「リストって言ったな。公開されてる表でもあるのか?」

「‥‥さっき話したもう一つの組織って‥‥ごめん、知ってたの。実は結構大きい新興宗教の傘下で‥‥」

 先ほどはわからないと言ったが、肉体的な距離感が近づいたせいか、シズクが話そうとしてくれる。

「悪い、言い難いなら」

「いいの聞いて。—―実はね、ツグミも信者の一人らしいの」

 ツグミがか‥‥。久しく会っていないから、何とも言えないし、個人の信教に入り込むつもりはないが、身内の自らを犯罪者に売るような行為は認められない。

「私を追い出した『教授』の名前が大学にあるってわかった時、少し調べてみたの。何か関係があるんじゃないかって、そうしたらさ、その宗教の人間で、近々行われるオークションの出品者でね‥‥それでね、出品者リストの名前と‥‥一緒にね、ツグミの名前が」

 滴り落ちてくる涙を無視して、シズクの口を塞いで、舌を絡ませる。余計な事をいう根本を断つ。しばらくシズクの舌を感じてから、口を離す。溶けたシズクの顔が、欲情を駆り立てる。

「好き勝手にされるのも、いいね‥‥ドキドキしちゃった‥‥」

 無理して笑顔を作っているのがわかった。いつもの懐かしさを感じるシズクの表情ではなかった。

「よくわかったから。だから、もういい。もう決めたから」

「‥‥いいの?私、まだ話せてない事、あるかもしれないのに‥‥」

「その都度教えてくれ。シズクのタイミングでいい。言わなくてもいい」

 ここまで聞いて降りるという選択肢は無い。何より、シズクを泣かせてしまった。

 よって、引き下がる訳にはいかない。

「俺のやる事はどこまでも変わらない。奪って、運んで、逃げる。得意分野だ」

「—―私、絶対失敗できないの。何があっても、きっとツグミを優先するよ」

 試すように、そして、本気の眼差しで俺を射抜いてくる。シズクも、やると決めたら徹底的にやる化け物だ。自己の犠牲は厭わず、ただ自分の目的に自分の才能を捧げる快楽主義者だ。だが、それでは俺には届かない。俺の欲望には遠く及ばない。

「そうしてくれ」

「‥‥っ、いいの?私、君を振り回して、苦しめてるんだよ。挙句の果てに、役に立たないって思ったら、代わりを探して、—―直接言う勇気もないから、ネガイさんにお願いしたぐらいなんだよ‥‥そんな、私でも、信じてくれる、の?」

 シズクは自分自身へとまくしたてるように、責めていく。

「わかったからいいんだ。そんなに、自分を責めるな。シズクは悪くない。悪い筈ないんだ。シズクは、ただ家族の為に頑張っただけなんだ。—―辛かっただろう」

 頭を撫でて、シズクの顎を俺の肩につける。

「シズクは、ずっと優しかった。オーダーに来たばかりで、自分だってつらいのに、ずっと俺の面倒を見てくれた。‥‥俺を利用して、辛かっただろう。だから、正直になっていいんだ。‥‥任せろ、シズクの為なら、なんでも奪うから」

 シズクは、何も言わなかったんじゃない。何も言えなかったんだ。

 ツグミの話は、もしかしたら、ツグミ自身が望んだ事かもしれないから。

 もしかしたら、俺達がこれからする事は、恨まれる事かもしれない。だが些事だ。

「人間の恨みんて、無視しろ。それが家族だったとしても。俺達化け物にはそよ風にもならない」

「‥‥あはは‥‥ツグミと、完全に縁が切れちゃうかも‥‥うん、でも決めたの。私、ツグミの為に、ツグミに嫌われるって。ツグミを止めるのは、正しいって思うから。君と同じ、化け物になる。‥‥だから、ツグミを奪って‥‥」

 耳元で、最後のハニートラップを仕掛けてきたシズクの声を聞きながら、

「‥‥ふふふ‥‥ふふふ‥‥ははは」

 急に俺が地の底から浮き上がる声で笑い出したため、シズクが慌て始める。だが、逃がさない。シズクの頭を抑えて、耳に口をつける。

「俺の心配する暇があるのなら、自分と自分の妹の心配でもしたらどうだ?」

「え、」

「ツグミを奪え、シズクはそう言いたいんだな?」

「そう、だけど‥‥あ、ダ、ダメだからね!!」

 もう遅い。ツグミとはしばらく会っていないが、ツグミもシズク同様、美人だったのは確かだ。ならば、この化け物が放っておく訳がないだろう。

「きっと美人だな」

「ダメ!!ツグミは、その、すごくピュアな子なの!それに、私、私がいるでしょう!?」

「冗談半分だ」

「それって、自分で言う事!?あ、ダメ‥‥」

 下腹部をシズクに押し当てて、快感を得てしまう。もう、このままシズクを逃がす訳にはいかなくなった。このまま、シズクを奪わないと、いけなくなった。

「わ、私でしたいの‥‥?」

「シズクとしたい。もう散々口ではしたんだ。もう、我慢できない」

 眠気と同時に邪な血が身体中を、そして押し当てている部位に血が集まっていくのがわかる。先ほどまで根でも生やしたように、動かなかった肩がベットから跳ね上がり、そのままシズクを押し倒す。そして腕を押さえつける。

「シズク」

 怖がってなどいない。これから、降ってくる快楽にその身を捧げているのが、呼吸で分かる。知らなかった、シズクも痛いのが好きらしい。

「シズクも持ってたよな、スタンガン」

 思い出したように、シズクが自らのスカートを指差した。取れと言いたいらしい。

 指示通りスカートに手を入れて、ようやく触れたシズクの足を撫でて甘い声を楽しみながら、温かい足の付け根近くにあるガンベルトに手を付ける。だが、そこには無かった。

「見つからない?目で探してみて」

「‥‥ああ。いいぞ」

 俺で遊んでいる時の官能的な声で命令を下した。つまり、この中には無いという事だ。なのに見ろと言ってくる。シズクが罠を張っているのがわかった。

 シズクから離れて、ワンピースから伸びている片方の足を肩に乗せて、中を覗く。スカートの奥にはオレンジの肌着と淡いふくらみを持った付け根、そして濃いシズクの香りがした。少し、ほんの少し、それらを見つめていると、首元へ連続的な激痛が走った。

「あははは!!本当に引っかかった!いいんだ、これでいいんだね!?」

 力が抜けて、動けなくなった俺はそのままで、シズクは俺から離れていった。

「ねぇ気付いてる?すごい無様でカッコ悪いよ。ヒー、すごい弱そう!」

 腹ばいになっている俺をひっくり返して、シズクが上に乗ってくる。だが、少しばかり電撃に慣れてきた俺は、シズクの腕を掴んで、スタンガンを胸に押し当てる。

「へぇー使って欲しいんだ」

「‥‥シズクも、どうだ?」

「‥‥結構痛い‥‥?」

「慣れれば平気。こっち」

 サディスティックなシズクから、普段の小動物なシズクに戻ったのを確認してから、ベットに引き込む。お互い横向きに抱き合いワンピースの胸元にスタンガンを挟む。

「怖いか?」

「うん‥‥」

 一度シズクの胸からスタンガンを引き抜いて、出力を最低に変える。そして、もう一度シズクの胸に戻しシズク自身に位置を整えさせる。口では怖がっているのに、シズクの目が変わっていた。あの方のように、目が真っ赤に輝いているのがわかる。

「シズク、やっぱり大きいんだな‥‥」

「うん‥‥。高校生に成ってからサイズが二つぐらい変わって‥‥気になる?」

「後で試したい事がある。だから、早くしよう」

 ベットに備わっている布団を被って二人で隠れる。昔のお泊まりを思い出す構図ではあったが、これはお互いの肌を楽しみ重ね合わせる檻を作る行為であった。柔らかくて豊満な身体を片腕で包み込み、押し付ける下腹で腹を突き刺す。興奮で息が荒く成っていくシズクの胸が上下し、飛び出たスタンガンを握り元の位置へと戻す。

「痛いかな‥‥痛いかな‥‥ッ!」

 電撃を今か今かと待ち望んでいるシズクのワンピースを上から脱がし、オレンジの下着を晒させる。突き出された胸を自分の胸板で潰しながら、スタンガンを握り直し口を吸う。

 舌と口の脈動で分かる。早くしろと。だから、俺はスイッチを押した。

「失礼しま~す!!」

「どう、平気?」

「ん?どこですか?」

 スイッチを押した瞬間、ドアを開ける音と共に三人が入ってきてしまい。つい、うっかり、指が動いてしまい――――――出力を最大にしてしまった。




「あ、気付きましたか?」

「‥‥えっと、私‥‥」

 気絶から覚めたシズクの声と、呼びかけたミトリの声が聞こえた。

「‥‥なんで、寝てるんだっけ?ヒーは?」

「シズクが起きるまで、外にいてって伝えました。まずは着替えましょう」

「あれ、服が、無い‥‥?」

 扉の外で、シズクの目覚めに安堵する。同時に、今の状況が理解出来ていないシズクの、頭を捻っている姿が目に浮かぶ。服を脱がされたシズクが、周りに頼りながら立ち上がる音さえ聞こえた。

「なんで、みんないるの?朝、別れてから、えっと」

「シズク、オムライスは覚えてますか?」

「オムライス‥‥うん、覚えてる」

 いまだ寝ぼけているシズクは、ここまで言っても思い出せないようだ。

 後から、詳しく思い出してしまうだろうから、誰も何も言わない。

「えーと、あれ、スタンガン‥‥」

「は~い♪こちらですね。初心者の方は、取り扱いにはご注意を〜♪」

「‥‥少し充電が減ってる?」

「まさか~♪こちら、昨日迷っていた商品で~す♪さぁ、お召し替えを!」

 中から衣擦れの音や、シズクの少し苦しそうな声が聞こえてくる。ベルトでも巻いているのだろうか、それともネクタイか?まるで子供の着替えが終わったような状況だった。

「‥‥あ、やっぱりカッコいい‥‥」

 カッコいい服か。シズクは元々、イノリと同等にモデル体型だった。すらりと伸びた手足と突き出された胸部に相応しいカッコいい服が、シズクには似合うだろう。

「こちらのワンピースは、私の方で回収しますね」

「ワンピース‥‥あれ‥‥私、ヒーと」

「いいから、ずっとあいつ待ってるから、早く迎えに行ってあげて」

 イノリの声に、シズクが思い出したのがわかる。未だに寝ぼけてこそいるが、足取りは確かで、ひと眠りした結果、今日会った時から続いていた緊張が解けたようだ。

「ヒー」

「ここにいるぞ。ゆっくり準備していいから」

「‥‥うん、ちょっとだけ、洗面台に行ってくるね」

 水場に向かったらしいシズクが、扉を開けたのがわかった。後ろからネガイの足音が聞こえてくる。

「終わりましたか?」

「ああ」

「体調は?」

「普段の二分の一って所だな」

 総計5人の男の子達が廊下に転がっていた。4人は意識がなく、1人は呻き声を上げて、腹を抱えている。無論、笑っているのではない。

 外に出た瞬間、レストランでシズクの髪を貶した金メッシュの取り巻きらしき連中に襲われた。こいつらも、俺の事を知っていたらしいが、やはり記憶にない。

「二分の一ですか‥‥全快にはまだ遠いですね」

 ネガイが心配そうに言っているが、この2日で、だいぶ回復したと自身では思っている。イサラとカレンとシズク、3人の体温を受け取って、ネガイが修復してくれた器に注いだ。もう後は、放っておいても勝手に回復するだろう。

「‥‥今日はシズクの物です。私からは」

「ネガイ、こっちに来ないか?少し話がある」

 俺の提案に、ネガイが無言で従って、部屋から出てきてくれた。そして、出てきた瞬間を狙い、ネガイを抱き寄せて、唇に噛みつく。扉は支えを失って、勝手に閉まり、オートロックがかかる。

 大人しく、そして積極的に口をくれるネガイを抱きしめて、続ける。

「‥‥温かいですね‥‥」

 口を離したネガイが笑いかけてくれる。

「明日には8割程度にはなってる。もう大丈夫、だから、今晩は一緒に眠ろう」

「ふふ、シズクがいるのに‥‥約束です」

 水場の扉と思わしき音が鳴っても、しばらく続けて、ドアノブの音がしてようやく離れる。

「お待たせ――これ、どうしたの?」

「あーよくわからないんだ。あれだ、インテリア的な?」

「こんな邪魔で悪趣味なインテリア、初めてみた。センスないね。またあとでね、ネガイさん。行こ」

 軽くネガイと笑い合ってから、腕を引かれる。嫉妬というのだろうか。

「私の日なのに、‥‥何話してたの?」

「あの銃は俺達の物になったって話だ」

「え、いいの?証拠品とか」

「嫌疑不十分で、自宅に帰されるってさ。結局、銃こそ抜いたけど、発砲もしなかったし、相手がオーダーだったからな、ただの小競り合いって事で済ませるそうだ」

 廊下を歩いて、エレベーターフロアに入る。俺とシズクが男の子たちを跨いできたのがかなり恐ろしく見えたのか、先にフロアにいた宿泊客たちが全く近づいて来ない。

「ただ、もう2度と銃の取り扱いは出来なくなる処分は喰らうだろうな。公共の場で拳銃を抜いて、守られるべき一般市民を動乱に堕としたって事で」

「‥‥なんか、甘くない?」

「そう言うなよ。俺達なんか、必要があれば、どこででも発砲出来るんだ。向こうからすれば、不平等って感覚みたいだし」

 いまだに転がっている男の子達を眺めながら、エレベーターに入る。

 誰も乗ってこないので快適ではあるが、腫れ物扱いで、少しばかり、腹立たしい。

「‥‥私達に銃を向けても、お咎め無しなのに、私達は理由が無いとダメなんだよね」

「ああ、だが、理由があれば発砲できる。殺さなければ、なんでもできる」

「‥‥それっていいかも。私もそうする」

 腕に絡まっているシズクが、頭を寄せてきた。シズクの甘い、懐かし香りが鼻孔に届いてしまい、少しばかり、ほんの少しだけ――心に魔が差してしまった。




 着替えたシズクの服装を改めて見てみる。夏仕様だが、しっかりと肘や腕を守ってくれるライダースジャケット、後、黒いデニム。バイクに跨る事を想定した装備だ。

 口元の唾液を拭ってホテルの外に出る。割とホテルでの滞在時間があると思っていたが、まだまだ日は高かった。

「じゃあ、次はツーリングでもするか?」

 シズクの姿を見て、試しに聞いてみる。

「‥‥始めてだね、君の後ろに乗るのって‥‥」

「そうだった?」

「そうだよ!」

 ホテルから駐車場までは、少しばかり距離がある。ただ、それもせいぜいが10分程度、日差しが少し気になるが、シズクはジャケットを脱がないで、腕を組んでくる。出来るだけ日陰を選んで歩くが、やはり、気になる。

「暑くないか?」

「脱いで欲しい?」

「少しな」

「ふふん♪でも、平気なんだ~、このジャケットね、見た目は分厚いけど、そうでもないんだよ。君のYシャツと同じか、それよりも薄いの」

 そう言われたので、試しにシズクの襟を触ってみる。‥‥少し驚いた。

「これ‥‥」

「わかった?これね、君が潜入の時に使ったスーツと同じなんだよ」

 こんな物まであったのか、もう少しオーダーの新製品には目を通しておこう。

 自分の服を自分の事のように誇らしげに語るシズクの笑顔が眩しくて、つい目元が細くなってしまう。そんな俺の表情を見て、シズクはますます気を良くしていく。 

「これを着てれば、私もヒーみたいに潜入できるかな?」

「もう少し体力があれば出来るかもな」

「あ、出来ないって言わないんだ‥‥」

「最近のシズクの体力には驚かされてるからな、特にベットの」

 シズクが慌てて、口を閉じてくる。そして、真っ赤な顔で首を振ってくる。

 そんな事をしていると、気付いたら、大型二輪を止められるビルの地下駐車場についた。なかなか大型二輪を止められる場所が無い中で、かなり広い穴場な場所だった。

「あれだよね!」

 腕から離れたシズクが、駆けていく。そして『ラムレイ』の上に跨って、手を振ってくる。だが、振っていた手を下ろして、指を――差してくる。

「後ろ!!!」

 シズクの指を差した方角、俺の真後ろに向かって、警棒状態の杭を突き入れる。

 突き入れた先には、黒い背広の男がいた。そして。俺の後頭部に振り下ろしていたグリップで、杭を防いでいた。

「運がよかったな」

 岩を掘ったような顔付きの男の声には聞き覚えはなかった。

「年下相手に不意打ちか?」

「お前の実力は、知っているつもりだ。不意打ちでもしなければ、確実に無力化できないと判断した」

 機械的だが、俺を試しているような口振りだった。この声、あの資料館の時の、

「だが、怪我か病気でもしたか?あの時とは別人のようだ」

「そんな所で、今は休暇中‥‥。用なら早く済ませろ――」

 刻一刻と腕に流れる血が弱まっているのがわかる。悟られないように、筋肉と骨で鍔迫り合いを続けるが、それもあと数秒で瓦解する。

「う、動かないで!」

「来るな!!」

 シズクがSIGP228を抜いたのがわかったが、自由なもう片方の腕で、ラムレイの後ろに隠れろと指示する。歯痒そうに声を出したシズクだが、隠れたのが音で分かった。

「それで、なんのようだ?」

 冷や汗に気付かれないように、心臓に一定の鼓動を命令する。

「敵になり得る奴は消せと命令された。真っ先に浮かんだのがお前だ」

「‥‥それは無駄だったな。俺はしばらく休む。他の奴らの所に行ってこい」

「貴様が最後だ」

 しくじった。脳裏に焼け付くような後悔の念は留まる事を知らない。顔どころか姿も見られていないと思っていたというのに。道中のシズクとの会話で気付かれてしまった。

「なんで、俺が敵だって思ったんだ?」

 心臓に血を流して、足に血を宿す。この体調では一定の心拍操作は出来ても、魔眼を起動するほどの血を流す事が出来ない。できるのは足に通すだけ。

「時間稼ぎか。無駄だ」

 ノーモーションで杭を押し返して、銃口を俺の首元に突き付けてくる。向けられたのはガバメント。あの金メッシュが使っていた物じゃない。隠せない傷がついた銃身から、この歴戦の猛者が、長い年月、信頼と信念をかけてきのだとわかった。

 俺のM66と同じであり、別の側面から一撃必殺の異名を取る大型拳銃だった。

「ほう‥‥」

 迷いなく放たれた弾丸を、銃口から発射される直前に首を捻ってよける。そして、弾かれた警棒状態の杭をパージして、奴の手首に向けて下から突き入れる。

「—―っ!」

 オーダーである俺が、殺しの動きをしてきた事に驚いたのか、俺から銃口を上げて、グリップでもう一度潰しにかかるが、杭は奴の親指を撫でて血の跡を宙に作り出す。そして、ガバメントと位置が変わった杭を逆手に持ち直して、奴の胸に振り下ろす。

「遅い!」

 杭が届くより先に、奴の膝が胸に突き刺さり、受け身を取りながら、後方に逃げる。だが、気付かれていた。

 ガバメントの.45ACP弾をもろに胸や腹に喰らい息が詰まるが、叫ぶ事は出来た。

「ラムレイ!!」

 起動音とエンジン音が同時に響き、周りの大型二輪を縫うように走ってくれた。ラムレイはシズクを置いて、俺の壁になってくれ、続けざまに放たれた弾丸も弾いてくれる。ラムレイが無くなり、一瞬、目が開かれたシズクだが、倒れながら手を伸ばした俺に地面を滑るように走りかけて、頭を抱えてくれた。

「立って!!」

 アイコンタクトで俺の考えが伝わたシズクは、俺を起き上がらせて、ラムレイの上に俺はM&Pを、シズクはSIGP228を握った腕を乗せて、マガジンが切れるまで引き金を引き続ける。遮蔽物があるとないとでは、大きく状況が変わる。

「チッ‥‥っ!!」

 襲撃者は、発砲をやめて、周りのバイクに隠れた。好機だ。

 最後に血を腕と内臓に叩き込み、シズクの脇の下に手を入れて持ち上げる。

 シズクを抱き上げて、背中で守り、ラムレイに跨ってスロットルを握る。

「逃がすか!!」

 周りへの被害など無視して、.45ACP弾を放ち続ける奴をこちらも無視して、シズクを身体で押しつぶしながら、態勢を低くくし、頭を身体で隠す。その結果、また数発背中に受けてしまった。バイクというただでさえ的が小さい上に、秒単位で遠ざかっている相手に当てる事が出来ている、やはり、相当な腕のようだった。

 駐車場から飛び出すように、逃げて大規模な道路へと合流する。

「追手は!?」

 押しつぶしていたシズクが声を上げてくる。ゆっくりと身体をあげて、ミラーで後ろを確認する。

「‥‥来てないな。サイナに連絡しろ。多分、みんないる」

「わかった。—―大丈夫?」

「‥‥正直に言っとく。限界‥‥」

 骨折こそしていない筈だが、奴の銃撃と、無理な血流を内臓に強いてしまった。

 身体の内外に負担をかけてしまい、恐らく身体中を内出血が起こしているだろう。

「‥‥どこかで休もう」

 シズクが声をかけてくれるが、それは出来ない。

「せめてサイナ達と合流してからだ‥‥」

 いつ飛んでもおかしくない意識の中で、今はシズクの声にすがって耐えるしかなかった。



「ゆっくり、息を吐いてください。そう、そのまま‥‥」

 ネガイとマトイの手に身を任せて、意識を固定する。

「眠らないで下さい。マトイ」

 寮まで持たないと判断した俺は、サイナの運転でマトイのいる病院に逃げ込んだ。その結果、今はベットに倒れ込んでいた。

「はい、私は腹部を。ネガイは胸を」

「わかりました。でも、背中にもまだ傷があります。手早く――」

 ネガイとマトイ、そして、ミトリに手を握られて、眠らないように目を開ける。

「呼吸が遅い‥‥マズイ!ネガイ!」

「少し冷やします‥‥苦しいかもしれませんが、頑張って下さい」

 ネガイの宣告通り、胸につけられている手が冷たく、そして、胸が凍えていくのがわかる。だが、お蔭で肺の動きが活発に、そして意識が取り戻せていく。

 またマトイの手のお蔭で、腹部にある内臓類から感じられていた違和感も消えていくのがわかる。石でも入っていそうだった腹部から、マトイが一掴みづつ石を取っているようだった。

「—―ダメ!起きて!!」

 二人の手とミトリの指示のお蔭で、身体が言う事を聞いてきたが、睡魔が襲ってきた。ミトリが頬を何度も叩いて、追い払ってくれるが、睡魔の方が勝ってきた。

「‥‥っ!—―マトイ」

「はい‥‥。仕方がありません――」

 ネガイと位置を交代したマトイが、胸に手を付けてくる。そして、付けていた手がゆっくりと胸に沈んでいくのがわかる。何をしているのかわからないミトリが、声をかけるが、ネガイがそれを静止する。

 その瞬間、自然と身体が跳ね上がり、一筋の血が口から飛び出る。

「マ、マトイさん!何を!?」

「だ、大丈夫、ミトリ‥‥落ち着け‥‥俺は平気だから‥‥」

 血で汚れた口を拭って、ミトリに声をかける。

「‥‥わかりました。でも、後で聞かせてもらいます」

 ミトリにはわかったのだろう。今の光景で、俺を殺した方法とは一体どういうものだったのか。だが、踏みとどまってくれた。

「ありがとう‥‥今はこの人を」

「‥‥はい!」

 噴き出て血をミトリが丁寧にふき取ってくれる。

 マトイの手によって、胸に詰まっていた血が消え去ってくれ、呼吸が一気に楽になり、意識も取り戻せた。あとは、ネガイとマトイ、ミトリに身体を預けて、意識に集中することが出来た。

 


「危なかったな‥‥」

「ええ、少しだけ」

 マトイに頭を撫でられながら、ネガイに胸を撫でてもらう。

「目はダメです。まだ起きていて下さい」

「‥‥残念だな」

「家に帰ってからです」

 俺が思っていた以上に危険な状態だったらしく、ネガイが強めに宣言してくる。

 そんな俺達をマトイが涼しそうに笑いかけてくるが、ミトリの表情が暗いままだ。

「ミトリ、あのな」

「外にシズクさんがいます。話してきて下さい。私も、話す事があります」

「‥‥わかった。あとでな」

 マトイの部屋にあった杖を借りて、ベットから起き上がる。ミトリは笑いかけてくれるが、重いものを抱えてしまったようだ。

「ミトリ、しつこいかもしれないけど、マトイは」

「わかってます。それに今回だって、あなたの治療の為にしてくれた。私だって、今更友達を疑うような面倒くさい事は言いません。ただ、何をしたのか、聞くだけです」

「—―ありがとう」

 ミトリの肩に手を置いて、ネガイとマトイにも軽く会釈をする。この三人の友情は、本当に今更、疑う必要はないようだ。面倒くさかったのは、俺の方だった。

 マトイの病室から出て、外の廊下で立っているシズクを見つけた。

「よう」

「‥‥よう」

「似合ってないぞ」

「‥‥ごめんね」

 言うと思った。人形のように固まっているシズクの手を握って、休憩エリアに向かう。自販機とソファーが並ぶ休憩エリアにはそれなりに多くの患者がいるが、ここはオーダーの病院なので、危険な話をしていても誰も気にしない。それどころか、みんながみんなそういった話をしているので、上手く隠せるだろう。

「何か飲むか?」

「うんん‥‥いらない」

「なら、座るか」

 シズクと一緒に中央から少し離れた、壁に寄りかかれるソファーに座る。

「‥‥ごめんね」

「何についてだ?」

「私、やっぱり、恋人にはなれないんだなって、思って‥‥」

 肩に倒れてきそうになったが、シズクは途中で止めて、壁に寄り掛かった。

「君の恋人達は凄いね‥‥。君の治療とか、搬送とか、みんな迷いなくやってさ。イノリだって、今、君のバイクを寮に運び終わったって、連絡がきて‥‥私だけ、何も出来てないだよね‥‥」

「比べるなって、言っただろう」

「‥‥でもさ、あの人、たぶん君が私の仕事を受けなければ、襲って来なかったんでしょう‥‥」

 シズクは言った事は、違う。まるで的外れだ。

「シズク、それは違う。俺がしくじったから襲われただけだ」

 俺が本当に微かな音さえ出さなければ、あの男は襲って来なかった。シズクとの休日をもっとゆっくり楽しめただろう。もっとゆっくり、ベットにいられた――、

 いや――それすら怪しい。

「でも、私が、自慢した所為で、見た目の事とか」

「それも違う。俺はカメラなんかに見られてない」

 最初はそう思ったけど、それは違う。シズクやイノリがあれだけ入念に準備してくれていたんだ。監視カメラの端にも映っていなかった筈だ。

「どこでバレたのかはわからないけど、たぶんもっと別の理由だ。それに、あいつが俺を襲ってきた理由だって、わからないんだ」

「でも、あの時って」

「資料館で、なんて言ったか?」

 あの時とは別人のようだ。そう言ってこそいたが、具体的に、それがいつなのかがわからない。早とちりは危険だ。先入観で動くのは、三流の技だ。

 しかも、あり得ない選択肢を潰せるほどの情報が、今、手元にない。

「情報が足りない。あいつが資料館にいた奴なのは間違いないけど、敵になり得る奴は消す、としか言ってなかった。—―シズク、もしかしたら」

「あいつは、俺達をオークション参加者の一人、そう思っているのかもしれない。こう言いたいの?」

「‥‥ただの勘だけどな。もしくは、オークションを頓挫させる敵って思ってるかもしれない」

 金銭的な理由を考えれば、むしろ後者の方が妥当だろう。無論、アイツがいつ、俺を狙い始めたのか、誰から命令されたのかもわからないから、なんとも言えない。

 だが、これで明確に、わかった事が一つある。

「俺達はオークションを絶対成功させたい連中に、睨まれたって事だ。‥‥俺達は敵って思われてる。—――いいぞ‥‥」

 つい、牙が口の外に出てしまった。

「いいぞって‥‥これから、また狙われるかもしれないんだよ‥‥なんで、楽しんでられるの?」

「向こうから来てくれるなら、願ったりだ。‥‥シズク、俺の目的が生まれたぞ。—―復讐だ。俺を襲った奴も、襲えと命令した奴も、全員獲物だ。全員、コロス――」

 固く縮んでいた心臓が、急激に熱を吹き返してきた。

 復讐、なんて甘美な響きだ。そう、そうだ。この心臓は、血を求めていた。

 欲しかったのは、官能的な恋人達の血だけじゃない。争い、奪い、壊す、化け物の血も求めていた。目的が生まれた、俺も、奪う。俺も襲う。

「シズク、目的変更だ。オークションを破壊する。二度と開かれないように、全部奪うぞ」

「ほ、本気?だって、参加してるのは、ただの一般人じゃないんだよ‥‥!」

「ただの人間に、俺が負ける。そう言ってるのか?」

 壁に寄り掛かっていたシズクを抱き寄せて、目を見つめる。

 赤いけれど、完全な赤いではないブラッドオレンジの色を携えたシズクの瞳は、口とは裏腹に、まだ諦めていなかった。

「ツグミを今回、一度だけ救っても、何も変わらない。また同じ事をする。だから、根本から断とう。二度と、自分を売れないようにな。シズクはどうする?」

「私、は‥‥」

「俺に付き合うか?」

 そう聞いた瞬間、シズクの瞳が大きく開かれた。そして、見覚えのある赤い色に染まってきた。

「‥‥うん、やる。私も付き合うから。絶対、壊すから。だから、ヒーも手伝って!」

「ああ、任せろ。‥‥やっぱり、シズクは俺の恋人だ」

「—―うん!!」

 シズクの為なら、何でもできる。だけど、それだけでは足りない。依頼を完了すれば、シズクの身体が手に入る。だけど、それだけでは足りない。

 俺は、シズクの心が欲しい。

 全て、全て、シズクの全ては、俺の物だ。

「‥‥終わったら、しよう。—―用意しといてくれ」

 耳元でシズクにそう囁く、一瞬身体が震えたが、誰にもバレないくらい一瞬の口付けで許可をくれた。



 マトイの病室に一度戻り、事の顛末を全て話していた。

「‥‥オークション、ですか。それは、耳を貸して――」

 シズクに耳を求めたマトイは、言葉数少ない何かを囁いた。

「—―っ!そう、‥‥流石法務科だね、やっぱり知ってるんだ‥‥」

「多くは言えませんが、その件には法務科も多少は関わっています。そして、それは私では指も触れられない本当のトップシークレット、『至秘』に当たります」

 許可がなければ話すどころか、知る事すら出来ない闇にして、この国の深淵に位置する空間。法務科はこの国の闇を解体する為にあるが、闇は闇として処理せざるを得ないのが『至秘』だった。

「驚いているのは私の方です。シズクさんの能力は、聞いていましたが、法務科が数年かけて捜査していたくだんを知っているなんて」

「儀式?これはオークションじゃないのか?」

「自らの欲望の為、金銭や代わりのものを対価として示し、求めた時間を手にする。あなた方が関わろうとしている、いえ、関わっているオークションは、ただの競売ではありません。端的に言いましょう、密教における術具の公開にして、秘儀への参加です」

 マトイの語った内容は、矛盾していた。密教はそれこそ端的に言えば、信者だけが知る事ができ参加できる秘密の修行を行う事だ。

「密教と言ったのは例えです。しかし、このオークションは、並みの『闇』にいる人間では知る事も出来ない儀式。これは黒ミサに娯楽で参加していた地方貴族達と同じような人間を集め、そして、儀式への出資、スポンサー集めの側面も持っています」

「黒ミサ‥‥」

 シズクが吐きそうに声を絞った。

「私から言える事はこれだけです。これ以上、私の知っている事はありません」

 恐らく本当だろう。マトイは、あえて、自分でもどうなるか分からない死地へ人を送るような事はしない。

「ますます、壊し甲斐があるな。いる人間、全員ぶっ殺—―逮捕すればいいんだな?」

「正直言って、私もぶっ殺すという案に賛成です。信者の未成年を物として出品するなんて、—―マスターには私から伝えておきます」

 隠してこそいるが、今すぐにでも飛び出しそうなマトイの肩に手を置く。

「しばらく休んでくれ」

「‥‥私では役に立たない?」

「そんな事言わないでくれ。マトイ、愛してる。だから、怪我に怪我を重ねるような事はしないで欲しい。今のマトイに怪我でもさせたら、俺は本当に人を殺す」

「‥‥ふふ、仕方ないですね。では、今回はベットで待つ事にします」

 ゆっくりとマトイの身体を押して、ベットに横たわらせる。

「肩だけでいいんですか?」

 シズクがいるのに、マトイは入院着の胸元を少しはだけさせて、誘ってくる。

 だけど、そんな気にはなれないので、毛布を掴んで被せる。

「帰ってきたらな。入院中に身籠らせたら、イミナさんに怒られる」

 そう言ったら、意外と初心なマトイは顔を赤く染めくる。そんな気にはならないと思ったのに、この表情のマトイが可愛くて、つい、口を付けてしまった。

「ゆっくり休んでくれ、必ず帰ってくるから」

「わかりました。必ず、迎えに来てね」

 シズクの白い目が気になったが、しばらくマトイと見つめ合う事にした。




 部屋に帰った時、色々と驚いた。まずは部屋には和食のいい香りがしていた。

 次いで、誰かが風呂場にいる事。恐らくはミトリだ。そして、ネガイとイノリの二人がエプロンをしていた事。シズクは部屋で考えたい事があるというので、既に別れていた。

「サイナは?」

「シズクの部屋でやる事があると言っていました」

 カワウソがプリントされているエプロンをつけたネガイが答えてくれた。二人で何か作戦か計画を立てているようだ。また、ペンギンがプリントされているエプロンをしたイノリが、キッチンから手招きをしてくる。

「シズクなら平気だ。もうやる気になってる」

 答えながら近づくと、急に拳を振ってきた。何か意味があるのだろうと、肩で受けると、大きくため息をつかれた。

「普通避けない?」

「受けたかった」

「‥‥そう。体調が戻ったようで何よりね」

 雰囲気で分かったらしい。だが、まだ万全とは言い難い。

「三分の二って所だ。まだ完璧じゃない」

「それで十分でしょう。今のあんた、まともな空気じゃないんだけど」

 そんなまともな空気じゃない俺に拳を振えるイノリも相当まともじゃないが、言わないでおこう。怒られるのが目に見えている。

「ミトリの様子を聞いてきて下さい。あと少し完成しますから」

 今日のメニューは煮魚らしく、一足先にみんなが帰っていた理由がわかった。

 そして、俺と目があった瞬間、ネガイが鼻で笑う

「今晩まで待てませんか?我慢して下さい」

 一瞬振り返っただけで、ネガイは菜箸を掴んでしまった。イノリから脇に拳を喰らって、正気に戻った所でミトリの様子を見にいく。

「ミトリ、マトイとは話せたか?」

 脱衣室から浴室のすりガラスに声をかける。

「はい、話しました。—―平気です。マトイさんには感謝してます」

「俺も、もう面倒な事は言わない。マトイを信じてくれ」

 それだけ言って立ち去ろうとした時、ミトリがすりガラスを叩いてきた。

 振り返ったら、ミトリがすりガラスに手を付けていた。

「マトイさんと約束しました。マトイさんが入院中の間、私とネガイがあなたの怪我を診ます。まだ、痛む筈です。あれだけ酷い内出血を起こしていたんですから」

 すりガラスに近づいて、ミトリの手に手を重ねる。

「どれだけ止めても、やっぱりあなたは行ってしまう。全て終わった時、いつもあなたは傷だらけです。身体の傷だけならまだしも、心の傷は、もう数えられない」

「平気だ。俺にはミトリがいてくれるんだ。傷は残るかもしれないけど、怪我は必ず治る」

「‥‥正直に言って下さい。もう人間とは関わりたくないのでは?」

「—――そう、思うか?」

「‥‥私だったら、そう思います。‥‥人間は、あまりにも身勝手が過ぎます」

 すりガラスに爪を立て始めたミトリの手から、固い連続した音が鳴る。

「あなたは、いつも正しい事しかしてない。今回だって」

「今回は、俺が侵入したんだ。俺から手を出して、代償を払っただけだ」

「‥‥あなたは、それでも人を傷つけてない。なのに、人間は、平気であなたを殺そうとする。私は‥‥」

「ミトリ、自分が人間の代表でいる必要はない。ミトリはいつだって、俺の味方でいてくれる。—―俺は人間に、期待なんかしてない。人間なんて種族が、化け物やヒトガタを受け入れるなんて、欠片も思ってない。もう、諦めてる」

 すりガラスにつけていた手を下ろして、ミトリが黙ってしまった。

 だから、手を押して、浴室の扉を開ける。そこには、泣きそうで寒そうなミトリがいた。濡れているミトリを抱きしめて、耳元で囁く。

「でも、愛してる。ミトリの事も、みんなの事も。もう、手から零れ落ちる光景は、見たくないんだ。もう、悲しむ顔も見たくない。‥‥どうか、笑ってくれ」

 ミトリも背中に手を回してくれる。

「俺は、今回、シズクと契約してる。きっと、あの時とは別の意味で危険だ。でも、やってくることは決まってる。弱い人間は、不意打ちしかしてこない」

「‥‥その弱い人間の不意打ちのたびに、あなたは傷ついています」

「でも、俺が必ず勝ってる。よく聞いてくれ、俺は人間に負けた事は一度もない」

 ミトリを離して、涙を携えた目元を指で拭きとる。

「俺のやる事は決まってる。人間狩りだ。全員、俺にとって、獲物でしかない」

 本心からそう思う。もう、きっと強い人間がいるという幻想は捨てる。

 人間は弱い。この化け物を正面から見返す事が出来る人間は存在しない。

「だから、笑ってくれ。俺は負けない。土産に獲物の首でも持って帰ってくるから」

 冗談半分で捧げたこの言葉に、ミトリは笑って返してくれた。





「悪くないですね」

 スタンガンの充電を使い切った時、黄金の瞳で笑い掛けられる。ミトリと抱き合っている光景が見つかった瞬間、ネガイは静かにこう言った。

「お仕置きの時間に変更です」

 と。夕飯の煮魚の味がわからないほど心が躍ってしまい、イノリとミトリの後ろ姿を見送った直後、寝室へと服を脱ぎ散らかしながら飛び込んだ。

 そして長い情事の時間に、精も根も尽きてしまった。

「サイナにお願いして、少し強めを頼んだのですが、まだ物足りないようで何よりです」

 静かに告げてくるYシャツ一枚の恋人は、今も上に跨っていた。

「どうしました?静かですね?」

「‥‥終わり?」

「今晩はこれで終わりです。‥‥少し私も疲れました」

 お互いの体液がしみ込んでいるYシャツを脱ぎながら、更に被さってきた。

「スタンガン、悪くないですね。私も楽しかったです」

「そういう割に、自分には使わなかっただろう」

「あなたの反応が面白かったので、私は満足でした」

 さっきまでとは打って変わって優しく頭を撫でてくれる。

 しばらくネガイの吐息と手に身を委ねていると、再び起き上がって見つめてきた。狙いがわかった所で両手を広げると、口が振ってくる。柔らかくて慣れ親しんだ唾液と舌が、望んだ通りの味を差し出してくれる。

 もはや中毒だ。何度もお互いの肉欲を重ね合わせた結果、もはやネガイがいないと夜眠れないぐらいになってしまったのがわかる。ネガイがいないと劣情が止まらない。

「激しいですね。攻守交代ですか?」

「いや、俺も疲れたから、これで終わり」

 ようやく一息付けると、肺と心臓を休める為に大きく息を吸った時だった。

 見計ったように、或いはピロートークを邪魔するようにスマホが鳴る。

「‥‥シズクか」

 この時間だし明日でいいか、と思って最後の接吻を続けるが、なかなか止まない。

 傷一つない、白い豊満な臀部に手を伸ばして感触を楽しみ続けるが、尚も呼び出しのコールは止まらなかった。遂には痺れを切らしてしまったネガイが起き上がって、サイドテーブルのスマホを毟るように掴み上げる。

「はい、どうしました?」

「え、ネガイさん‥‥あ、ごご、ごめん!そ、その私知らなくて!」

「なんの用ですか?今忙しいんです」

 割と切れ気味の強めな態度で問い正すが、この時間な上に息も絶え絶えな声色のネガイにシズクが更に焦っていくのがわかる。自分だけはと、息を整えてから代わるが、流石にこの状況で誤魔化すことなど不可能だと判断。単刀直入に目的を訊く。

「俺だ。どうかしたか?」

「あ、その、忙しなら‥‥」

「すぐ終わるなら、そう言ってくれ」

「す、すぐ終わる!あ、でも、やっぱり大丈夫!」

 それだけ言ってスマホを切られてしまった。悪い事をしたかもしれない。

「やっぱり大丈夫だって」

 それを聞いたネガイが今度こそはと楽し気に身体を重ねてくる。感想や次の展望を話し合いながら二人のお互いの体温を分け合い、大きくお互いの香りを肺に取り込む。

 冷房を付けているからこそ、こうして密着していられるが、ネガイの身体には溶岩でも流れているような強い熱が感じられる。そして実際、ネガイの中は熱かった。

「‥‥明日、謝ります」

「俺も。一緒に謝るか」

 きっと、シズクも謝る為に連絡してくれたのだろうが、今晩は我慢して欲しい。

「ツグミ、でしたか。あまりシズクも話したがりませんが、どうしてですか?」

 やはりか、シズクは詳しく話していないようだ。

「そうだな‥‥明日、勝手に話した事についても、謝るか。風呂に入ろう」





 ツグミに関して、シズクが話したがらないのも、無理はなかった。

 今だからこそわかる。まだ小学生だったツグミが、なぜあれだけシズクに憎しみを持っていたのかが。なぜなら、ツグミは、シズクの身代わりにされたのを知っていたからだ。

「一昨日とは大違いですね。背中が温かいです」

 一昨日と同じように、俺に背中を預けてくるネガイを抱いて二人で一息つく。

「またしたくなりましたか?」

「ネガイもだろう。‥‥その前に話しておきたい」

「なぜ、シズクではなくツグミが選ばれたのかでしたね。元はシズクが行く筈だったって言ってましたが、なぜ、ツグミが選ばれたんですか?」

 ツグミが選ばれた。そう言うのがせめてもの救いのように聞こえるが、やはり違う。シズクが選ばれる筈だった席にツグミに納まった。これも違う。

「シズクを手元に置いておきたかったから」

 これが正解。シズクの才能に目がくらんだ両親が全寮制の学校に送るのを嫌がったから。

 だから身代わりのようにツグミが送られた。或いは捨てるように。

「シズクは頭が良いとか、そういうレベルじゃないんだ。—――天才、しかも『人間』の天才なんて低い話じゃない。神憑り過ぎてた」

 幼い頃のシズクは、本当に神のようだった。一を聞いて十を知るではまるで足りない。一を聞いて零を知る。万物の全てを知っているとは思わないが、それに通ずるレベルにはあったと思う。

「‥‥小学校の奴らは、気にも留めなかったんだけど、大人達は怖がってた。シズクを授業で当てると、そこからはシズクが授業を始めるんだ。絶対先生達は授業の中でシズクには当てなかった」

 小学校の頃なんて、どれだけシズクが異質だったとしても、テストで毎回100点を取る頭のいい子、としか同年代では感じなかっただろうが、大人は違った。

 スーパーコンピューターに、脳一つで挑むような感覚だったのだろう。

「でも、そんなに頭が良いのなら、シズクにもいい学校に入学させればよかったのでは?」

「そこは人間のエゴだ。可愛い子に、旅をさせたくなかったんだよ」

 自分達の手から生まれた天才であるシズクが、可愛くて仕方なかった。それはもう一人の娘であるツグミが視界に入らなくなるほどに。

「ツグミは身代わりなんだ。シズクが行く筈だった席に、無理やり納められた。‥‥シズクほど天才じゃなかったツグミは、両親に見放された」

 これは、ツグミ自身が言っていた事だった。『目の女』達によって狂う前の最後の夏に教えてくれた。そして、シズク自身も、頷いていた。

「‥‥両親はツグミの顔を、見たくなかったんですか?」

「シズク以外、何も見えてなかったんだろうな。—―ツグミが帰ってくる日も忘れるぐらいだったし」

 ツグミの迎えに行くと張り切っていたシズクが、駅までの準備をしていると、両親から「何をしに行くの?」と訊かれていた。

「自分の娘なのに‥‥なぜ、イノリもシズクも、外の親たちは娘に‥‥あなたも‥‥」

 ネガイの身体が急激に熱くなってきた。ネガイ自身も焼けてしまいそうな程に。

「言っただろう。オーダーに来る連中は、多かれ少なかれ理由を持ってるって」

「‥‥わかっています。私も、そうですから」

「みんな同じだ。それに愛されてない訳じゃない。‥‥ただ、興味がないんだ」

 これが答えだった。娘たちを愛してはいるが、心の中で順位をつけてしまう。その順位を付けている自分自身にも誤魔化す為に、忘れる事にする。

「シズクは、知っているんですか?」

「知ってる。ツグミに、直接言われたから」

 夏に、オムライスを作って待っていたシズクが、ツグミから糾弾されていた。必死で笑顔を作っていたシズクと、必死に涙を堪えていたツグミの光景を覚えている。

「誰が悪いとか、どうすればよかったとか、そういう話じゃない。ただ、ただ――疎遠になるしかなかったんだ。‥‥聞いたか?しばらく会ってないって」

「‥‥いいえ」

「そうか‥‥この事も、明日話さないとな。出よう」

 先に湯船から出て、ネガイの手を引く。ネガイも俺も、無言で身体を拭いて寝巻に手を通す。そして、何も言わないで寝室に戻る。寝室からはお互いの体液の匂いが残っていたが、続きをする気にはならなかった。ただ、抱き合って眠る事にした。






 ツグミも、わかっていた。シズクが悪い訳じゃないって。だけど、ぶつける相手である両親は、ツグミの事を忘れて旅行に行ってしまっていた。だから、せざるを得なかった。

 久しぶりに、本当に久しぶりにシズクとツグミが仲が良さそうに遊んでいた。

 俺も混ざって、一緒に外で出かけたり、ゲームをしたりしていた。

「ツグミもこっちにいればいいのに」

 俺も心底そう思ってしまった。絶対にツグミ自身もそう思っていた筈なのに。

 だけど、それは許してくれなかった。ツグミ自身が、許さなかった。

「なら私はどうすれば良かったの!?」

 最後の休み、最後にシズクの得意料理で送ろうと決めていた日だった。シズクは言わなかったが、あれだけ必死に練習していたのは、ツグミの為でもあった。

「私だって、姉さんやヒーとずっと遊んでいたい!!この家にいたいよ!!でも、今を見て!?お父さんもお母さんもいないじゃん!!私の事を忘れてるじゃん!!」

「ツ、ツグミ‥‥大丈夫だから、来年には、それにお正月にだって」

「いらない!!」

 シズクが一番うまく成功したから、これはツグミにと取っておいたオムライスを、ツグミが床に叩き落とした。ツグミも目の前にいたのだから、知っていたのに。

「あ、ご、ごめ」

「いいの。また、作るから‥‥」

「‥‥お昼いらない」

 それだけ言って、二階の自分の部屋に行ったが、泣き叫ぶツグミの声が聞こえた。

 目配せをして、オムライスを片付けようとしたが、シズクが腕を掴んできた

「‥‥私じゃ、喧嘩になるから。それに、私がやらないと」

「‥‥わかった」

 シズクからの提案は苦しかった。だけど、一番つらいのはシズクの方なのだと知っていた。妹を俺に任せるしかない事も、頑張って作ったオムライスを捨てる事も、シズクにとって、どちらも受け入れがたい事なのに。シズクは迷わず俺にツグミを任せた。

「ツー、大丈夫?」

「‥‥姉さんは?」

「今、ツーの分を作ってる」

「‥‥怒ってる?」

 怒っていて欲しい。そんな祈りを込めた声。

「怒ってない。それに、謝りたがってる」

「‥‥入って」

 ツグミがドアを開けてくれた。初めてツグミの部屋に入ると、そこは部屋では無かった。物置だった。

「見て、これが私の部屋なの」

 ツグミの使っているベットは辛うじて守られているが、床や机、壁に至るまで、全てが物で塞がれたいた。脚立や前に使ったバーベキューセット、そしてミシンや大量の段ボール箱。それだけじゃない。冬物の服も散乱している。

「ここ、ここね。毎年汚くなっていくの‥‥今年はベットまで、埃まみれだった‥‥」

 ツグミが壁に寄り添って説明してくれた。毎年帰ってくる度に、物が詰まれていっている事に。

「‥‥わかる?私に帰ってくるなって――違うね、もう忘れてるんだよね」

「‥‥シーと一緒に寝てたの?」

「うんん‥‥ここで寝てた。—―シーツも何年も変えてないんだ」

「‥‥片付けよう」

 適当に近くにあった段ボールに冬物を放り込んでいくが、まるで終わらない。床が見えてこない。だけど、せめてベットまでの道をと思っていたが、ツグミに腕を掴まれた。

「いいの。明日には、もういないから。今日まで我慢すればいいの‥‥」

 段ボールに水滴が当たるのがわかる。弾ける音と弾く音の両方がツグミの足元から聞こえる。

「なんでかな‥‥私、なんで、嫌われてるのかな?私、何もしてないのに‥‥何も出来ないのが、ダメなのかな‥‥」

 腕を離したツグミがホコリまみれの床を歩いていくが、床に隠れていた段ボールに足を取られて転んでしまった。そして、もう一度泣き出す。

「こっち!」

 ツグミが抵抗しようが関係なく外に引きずり出す。捻った足首を見て、急いで無言でオムライスを作っているシズクの後ろにある冷蔵庫から冷却シートを持ってくる。それをツグミの足に巻いていく。

「‥‥久しぶりに、」

「痛い?」

「ちょっとだけ、でも、久しぶりに、家で優しくされた気がする」

「ツー、シーはずっと優しいんだ。ずっとツーが帰ってくるのを待ってた」

「‥‥うん、姉さんは、いつも優しいって、知ってるよ」

 足を抱えて座っているツグミの隣に座り、同じ視線になる。

「優しいね。姉さんみたい‥‥」

 金に輝く髪を揺らして振り向いてくる。

 しばらく無言で見つめ合っていると、ふとお互いに笑い合ってしまう。

「あのね、私、姉さんが好き」

「うん、知ってる」

「そうだよね。でも、嫌いなの」

「‥‥うん、知ってる」

 ツグミがシズクに向ける視線のちぐはぐさは、わかっていた。憧れや羨望の眼差しでもあったのに、同時にひどく憎んだ醜い顔付きの時もあった。

「私、おかしいかな?」

「ツーは、間違ってないよ。シーは、なんでも出来過ぎるんだ」

「あ、学校でもそう?」

 ツグミの明るい眼差しに応えるべく、必死にシズクのすごい所やカッコいい所を話す。

 楽しそうに聞いていたツグミに、更に何か無いかと考えるが、もう何も無い。

「他には他には?」

「‥‥なんでもできるけど、体育が‥‥」

 ツグミが吹き出した。

「あーやっぱり、運動苦手なままなんだ。ボールなんて、投げられないよね?」

「知ってるの?」

「知ってるよ。だって、私は妹だもん」

 自分自身に言い聞かせるように、安堵した表情をした。

「‥‥うん、姉さんとは、いつか話す」

「その時は、一緒に話そう」

「つ、付き合ってくれるの?」

「いいよ。一緒にいるから」

「‥‥うん、ありがとう」

 立ち上がったツグミが、手を伸ばしてくれる。同じか、少し高いぐらいのツグミに、従って、起き上がり、手を繋いだままで、見つめある。

「ツー」

「ん?なぁに?」

「今日は、一緒に寝よう」



「ツグミさんとも幼馴染なんですね」

 ベットの上で仮面の方に甘えながら思い出していた。

「はい、ツグミとも幼馴染です。最近、全然会ってませんが‥‥」

「それはダメです。絶対に待ってますよ」

 この方が心臓に火をくれたのは、俺が10歳程度の時。それ以前の記憶は、あまり詳しく見ていなかったようだ。

「ダメ、なんですか?」

「ダメです!ツグミさん、あなたの事を待ち望んでます!」

「えっと、どうしてですか?」

「今の記憶を思い出して、なぜ、そんな事が言えるんですか!?」

 何故か怒っている仮面の方は、鼻や頬を掴んで、唸ってくる。

「それに、今あなたの目の記憶と照合して、改めて思いました。ツグミさんはあなたを待ってます。私が人間でないとしても、これだけは必ず言い切れます!」

 膝を立てて、俺の頭を足と腹筋で潰しに来るが、これが気持ち良くて――

「もう!お仕置きにならないじゃないですか!?どうして、あなたはこうも‥‥可愛いのでしょうか‥‥」

 膝を戻して仮面の方は、普段の甘やかしモードで、頭や胸を撫でてくれる。

 そして、ツグミが待っていてくれるならば、それは願ったり叶ったりだ。どうせ無理に連れ出す事になるのだから、少しでも、安堵感を与えてあげたい。

「ツグミは、どうして、自分を」

「どうして?そうですね‥‥一言ではとても言い表せません。そして、一言で表してしまっては―――無礼です」

 声色が変わった。普段の優しい仮面の方ではない、別人が顔を見せてきた。

 撫でる手つきもどこか、圧力を感じさせる。覚悟、という言葉が正しい気がする。

「よく聞いて下さい。私は、ツグミさんの事を知ってこそいましたが、人間の心の全てを読む事は出来ません。だから、推し量る事は出来ても、触れる事は出来ません」

 俺の胸を叩いて、起き上がってと指示してくる。それに従って、振り向いた時、仮面の方は口を強く結び、目を閉じていた。

「私は、どちらでも構いませんでした。ただあなたとあなたの恋人達が無事であれば。だけれど、このままではツグミさんは、あの像に触れてしまいます」

「触れたら、どうなるのですか?」

「—―言えません。だから、壊して下さい」

 笑みが零れてしまった。なんだ、簡単な事じゃないか。

「得意分野です。任せて下さい」

 そう伝えて、胸を叩いたが、仮面の方の表情が硬いままだった。

「‥‥あの像は、あなたと同じ上位の存在‥‥ですね?」

「認めたくありませんが、あの小物も、大きな枠組みの中の一つ、と言えます」

 驚いた、この方が、認めるなんて。

「前にお話した内容、覚えていますか?」

「もう崩れ去り、力の大半を失った。‥‥ツグミは、力を元に戻す生贄にされるんですね‥‥」

「はい‥‥」

 わかってきた。どうしてツグミが付属品として選ばれて、そして、あれだけシズクには渡していけないと言った意味が。

「あのふたりは、ただの人間ではないのですか?」 

「‥‥いいえ、ただの人間です。そう、本当にただの人間なんです。—――ただの人間だから、選ばれてしまった。‥‥彼女たちこそ、ヒトガタという模倣品を創り出してでも辿り着こうとして真なる人間。彼女たちこそ、『究極の人』」

 それは、俺の誕生種だった。そうか、俺は、シズク達のような特別な人間のイミテーションだったのか。

 驚きはしない。むしろ納得した。あれだけシズクに挑んでも勝てなかった理由がそれだった。そもそも勝てる筈がなかったんだ。俺は偽物だったのだから。

「その事をふたりは?」

「誰も知らない筈です。—―ツグミさんを唆した『蛇』以外は」

 やはり驚く事はしなかった。知らない筈がない。でなければツグミを選んだ理由がない。

「誰かに渡さなければならないって言ってましたね。なぜ、その『蛇』はツグミ共々像を売却しようとしているのですか?」

「危険だと判断したからです」

 そこで止まってしまった。だが、可能性の話として、推測できる事もある。

 危険だと思った、という事は、自らの手には余ると考えたからだ。シズクが家に帰された理由に、シズクの頭脳に恐れをなしたからというのと同じ意味だ。

「でも、これは言えます。シズクさんとツグミさんのふたりには、絶対触れさせないで下さい。その場合、相手はただの人間ではなくなります」

 この方は前に、この世界にいるのは全て人間だと言った。だが、それを今撤回した。同時に、この方はこう言っている。俺では勝てないと。

「約束、して下さい」

 両手を握って仮面の方が見つめてくる。本気で、俺の身を案じてくれているとわかる。

「—―可愛い」

「え?」

 仮面の方を押し倒して混乱したままの口を貪る。不意打ちにはこの方も弱いのは知っていた。何も言えずに、ただ息と声を漏らしている。そんな様子がまた愛らしくて好きだった。

「‥‥あ、あの」

 目を大きく開いている仮面の方のドレスのスカートをめくり上げて、片方の足を持ち上げる。膨れた下半身を覆う黒い下着を晒し、そこに下腹部を押し当て口を吸い続ける。

「あの!!私、今すごい真面目な、あ‥‥ですから!聞いて下さい!」

 いい加減怒ってしまわれた仮面の方は、天井の星を輝かせて俺の動きを止めてくる。

「確かに誘ったのは私ですが!!私の問に答えて下さい!—―約束ですよ、いいですね!?」

「約束します。シズクにもツグミにも触れさせません」

「はい!そうして下さい!」

「シズクとツグミに触れるのは、俺だけです」

「そう、その通り‥‥あれ?」

 一瞬の隙をついて、心臓に命令する。宝石の魔眼の拘束はそのままに、もう一度仮面の方に覆いかぶさる。もう諦めた仮面の方は、反撃とばかりに舌を絡ませてくる。

「ふふふ‥‥」

 目が深紅どころか、烈火の如く輝いた。舌が‥‥引き抜けない――。

「頂きますね」

 舌を絡ませたままで、仮面の方がそう呟いた瞬間。口中が火照り始めた。

 もう首を上げる体力すら無くしてしまい、顔ごと仮面の方に押し付ける。どちらの唾液かわからないぐらいになった時、ようやく舌を離してくれた。

「美味しい‥‥相変わらず、あまいですね。いくらでも食べれちゃいそうです」

 その甘いとはどちらの意味なのか、今の俺には考える余裕もない。

「ベットでは私が絶対に上です」

 俺を転がして、仮面の方が腰の上に乗ってくる。腕を伸ばして、両手の指を結んでみると、笑ってくれた。

「さっきまでは男性なのに、今は男の子ですね。ふふ‥‥身の程を知りましたか?」

 ぞくりときた。背骨が震えたのが、仮面の方にも伝わった事だろう。そして、心臓が見えている仮面の方には、今の俺の精神状態も見透かせている。

「ふふふ‥‥あはははは!いい顔ですね!?そんなに、怖い私が好きですか?」

 ゆっくりと倒れ込んでくる仮面の方が、胸を押し付けながら、肘を胸に刺してくる。骨が軋んでいるのがわかるが、そこじゃない。

「もう少し真ん中で」

「あ、はい、わかりました。‥‥今は私の番です!私の好きにさせて貰います!」

 この恐ろしい仮面の方も、俺のわがままはいつも聞いてくれる。口では不満そうな事を言いながらも、やはり俺の言う通りに肘を胸と胸の間に差し込んでくれる。

「‥‥気持ちいい」

「むぅー私の番ですのに‥‥いいでしょう!ちょっとだけ、本気です!」

 何をしても思った怖がり方をしてくれない俺に、業を煮やして我が仮面の方は、立ち上がって、目の前で徐々に成長して、大人の姿になってくれた。

 膨れ上がった胸部と黒いドレスを破りそうな臀部、そして、それを一切、気にも留めないでドレスを脱ぎ去った。仮面の方は、色々な姿で、俺の心を奪ってくれる。

「さぁ始めますよ。今日は、沢山頂きますから。覚悟して下さいね」

 そう言った瞬間、膝を折って倒れ込むように手を突き出した。俺の心臓を掴み、そのまま引き抜いた。口と胸から血が噴き出るが、それでは足りない。足りないから、手を掴む。

「もっと‥‥」

「ふふ、大丈夫です。今日はゆっくりとしましょう。教えてあげます。あなたが、押し倒した相手が誰なのか、この心臓に、刻み込んであげましょう」

 目の前で自身の心臓が潰される光景を始めた見た。心臓とは、どうやら弾けるらしい。そして、弾けた心臓は薄くなり、飲み込むように食べるのだと、今、知った。



 夢での余韻が抜けない俺は、隣で純白の谷間を晒しているネガイの眠っている口を求めた。覆い被さり、朝の鈍感な肌を重ね合わせていると、「口だけですか?」と問われる。

 従って、寝起きでしばらくネガイと睦合っていると腹立たしいことにインターホンが鳴り響く。無視してネガイと微睡んでいると、ついには扉を開かれ、大声で「起きてますかー!?」とサイナの声で現実に戻される。

「‥‥先に行ってきます。着替えて下さい」

 名残惜しくも仕方ない。真っ先に覚醒したネガイが、床に落としていたシャツを拾い、脱兎の勢いで部屋から飛び出る。誰にも見つからないように、隣の寝室に逃げ込んでいった。

「起きるか‥‥」

 昨日脱ぎ去った甚平を拾い上げていると、今度は外から扉が開かれる。

 開けた相手がサイナならば問題ないのだが、シズクだった所為だ。早朝からシズクサイレンに当てられる。うるさいと背中を向けて着替えていると、サイナに何事かと覗かれ、声を掛けられる。

「まだ着替えてましたか。ごめんなさい」

「そう思うなら、閉めてくれないか?」

「お手伝いしますよ♪」

 遠慮なしに入室するサイナが肩に甚平の上着を乗せて、前を結んでくれる。サイナの手が温かくて、うとうとしているとキツく紐を縛られて、息が詰まる。

「起きて下さいね♪」

「わかったよ。いい加減起きる」



 食後のコーヒーではなく、何故かチャイを受け取った俺はスパイシーな香りと味を楽しみながら、隣のソファーに座っているシズクから白い目と膨れた頬を向けられていた。やはり小動物的だ。

「頬袋か?」

「‥‥違うもん」

「—―大丈夫、もう起きてる。ツグミの事をネガイに話した」

 俺が完全に起きているとわかったシズクが、小さく頷いた。

「うん‥‥私も、サイナとイノリに話した。だから、平気」

 平気とは到底思えない。クッションを抱きかかえたシズクは、目に涙を溜めだした。何か声をかけるべきだ、だが、それは出来ない。

「‥‥これは私が逃げてきた所為だから。だから‥‥何も言わないでね」

「何も言わない。でも、何か言いたくなったら、いつでも言ってくれ」

 シズクの前にあるチャイを勧めて、二人でテレビを見つめる。

「夏休みみたいだね」

「後もう少しだな。まぁ、休み中はずっと仕事だけど」

「ネガイさんとの旅行も?」

「ああ」

「‥‥いいな」

 刺激的なチャイを飲み切った時、テレビのチャンネルを変える。

「ツグミと行ってこい」

「受け入れてくれるかな‥‥。私、いい姉じゃなのに‥‥」

「ツグミはシズクより大人だ」

「それってどういう意味!?」

 言葉通りの意味を聞き返しながら、抱えているクッションが投げ付けられる。だが、やはり腕力が皆無なシズクの投クッションの威力も皆無だった。ぽふ、という音を立てて膝に落ちる。

「ね、寝起きだから力が出ないだけ!」

 言い訳をしてくるシズクを眺めてから、クッションを眺める。―――懐かしかった。

「ツグミは、年上の俺よりも、大人らしかったな」

「—―うん、私よりも大人っぽかった、かも‥‥」

 俺とシズクのクッションの投げ合いを呆れて見ていたのは、大人達じゃない。ツグミだった。しかし、クッションの流れ弾に捉えられた時、誰よりもムキになって参戦したのもツグミだった。

「二年前に会ったんだよな?どんな様子だった?」

「‥‥実はね、家で会った訳じゃないんだ」

「そうだろうな‥‥」

 最後に会った日に、幼い子供であった俺ですら、もう親との関係は修復できないと悟ってしまったぐらいだった。夏や正月にも顔すら見せに来なくて、当然なのかもしれない。

「‥‥ツグミとは、オーダー街ゲートで会ったの」

「本当か?」

 これには少し驚いた。

「私、驚いて、声を掛けたんだけど、ツグミは反応してくれなくて。それに、あんまり元気そうじゃなくて。‥‥また、怒られるかな?って思って、追いかけられなくて」

 声を一度でも掛けられたのだから、相当の勇気を持っていたのがわかる。今のシズクの環境は、ツグミにとっても望む所ではないだろう。

「‥‥今から考えると、ツグミ、助けて欲しかったのかなって、思うんだよね」

「ツグミ、素直じゃないからな」

「うん‥‥やっぱり、私、いい姉じゃないんだよね‥‥。せっかく来てくれたのに、外に出ていくツグミに、声しか掛けられなくて」

 シズクが間違っていたのかは俺にはわからない。だけど、気になる可能性が生まれた。

「二年前か。少し、調べてくれ」

 もしツグミが本当に、オーダー街へ訪れていたならば、ただの観光の訳がない。ツグミは、シズクと同じぐらい―――強かだ。

「調べるって」

「ツグミが、何もしないでオーダー街から来る訳がない。それに二年前って事は、中一だ。あのツグミだぞ。今の俺よりも大人になってる」

「‥‥何をしてたか、—―誰と会ってたか、調べろって事?」

「ああ、相手が法務科だったら、マトイが連絡をくれるだろうが、相手が本部だったら、少しばかり、大胆にいかないと情報を得られない。いいから、調べてくれ」

 状況が刻一刻と変わってきた。もしツグミがオーダーと関わっているのなら、それは恐らく―――司法取引、もしくは、囮捜査。

「バレてもいいって、相手はオーダー本部、省庁なんだよ。バレたら、マズイんじゃない‥‥」

「なら、バレないように」

「‥‥ふふ、無茶言うね。いいよ、影も残さないで終わらせてあげる」

 シズクの口角が吊り上がる。本気でやってくれると悟った。

 もしツグミが、オーダー本部と何かしらの契約を交わしたのなら、俺とシズクを襲撃したあの男は、オーダー本部所属の人間の可能性がある。であるならば、俺と一戦交えた機会も、どこかであるのだろう。

「オークションはいつ始まる予定だ?」

「予定通りなら、二週間後」

「なら、ツグミに直接会ってくる」

 この返答は予想外だったらしいシズクが、可愛らしく呻く。

「ま、まって‥‥ツグミに?」

「驚く事か?もしツグミが、オーダーと契約、組んでるなら話が早いだろう。欺いてでも、何をしてるか吐かせる。—―もう、俺達は決めたじゃないか。嫌われても、実行するって」

「—―わかった。でも、君一人じゃダメ。私も」

「シズクは遠くで聞いててくれ。相手が身内の方が警戒される」

 容赦なく、そこは伝えておく。契約相手として、シズクを尊重する。

「‥‥酷いね」

「ごめんな」

「でも、正しい。それに優しいから許してあげる」

 シズクの頬に手を伸ばして頬を撫でる。シズクもそれに応えて手を握ってくれる。

「それと、短期だけど俺は科を兼任することにした」

 立ち上がって、スマホを取り出す。

「何か必要な技術があるの?」 

「そんな所。見つからない潜入はイノリのお陰でそれなりに出来るけど、見られながらの潜入は苦手でな。—―カレン?俺、特別捜査学科に入れないか?」





「ツグミ」

 周りから浮くように、そして周りを大きく引きはがすように、カバンを足の前に揃えているツグミを発見した。できるだけ偶然を装い、できるだけ静かな驚きを伝える。

「え‥‥うそ‥‥なんで‥‥」

 振り返ったツグミの周りにいた女子生徒も口々に何かを囁いていくが、それも想定の範囲内。『目』を使っているからこそわかる。これは懐かしい顔を見て驚いている心拍じゃない。秘密にしていた事実が明るみに出る今を恐れている者の心拍だ。

 ツグミの顔が青に染まっていく中、更に声をかける。

「約束を果たしにきた。話したい事がある」




 シズクの工房で、ツグミの通っている女子校の行事予定表を受け取りネガイと眺めていた。意外と外部への課外活動が多くて、しかも自由時間というものもある。

 ただし、今月の課外活動は今回のみなので、チャンスは一度しかなさそうだ。

「話す機会は一回だけか」

 ネガイに予定表を渡しながら呟く。キーボードを操作しているシズクは、視線を向けないで頷いた。

「見ての通り。来週、ツグミは都内の美術館の見学会に参加する。話すチャンスがあるとすれば、その日だけ。—―私は、ここから声を聴いてるから、二人で話して」

「シズク、全部終わったら、三人で話そう。ツグミだって、そう望んでる」

「—―うん。すごいよね‥‥私よりも、ツグミの事に詳しいんだから‥‥」

「姉と妹の関係って、そういうもんじゃないか?幼馴染の俺を信じろ」

 ネガイがくだんの美術館の外観や構造をタブレットで見せてくれる。確かにホームページには、この一日は一般開放していないと載っている。

「でも、どうやって入るんですか?」

「恐らくだけど庭は閉鎖してない筈だ‥‥ほら」

 ホームページには、しかし書きで、迷宮のような庭やパビリオンには進入可能と述べられていた。ここを見た瞬間に思い出した。朝のテレビで公共の庭としても、親しまれていると言っていた。夏場には避暑地としても好まれていると。

「すごいですね。カレンに習ったのですか?」

 これを知ったのはたまたまだが、実際カレンからの指導がなければ、聞き流していただろう。特別を演出するには、特別を知らなければならないと言われていた。

「ああ、そんなところ。明日か今日にでも二人で行ってみよう」

「はい、下見は重要です」

「二人で入り込めるところ、探すだけじゃないでしょうね?」

 シズクの視線が痛い。場合によってはそうせざるを得ない時もあるだろうが、そんな直接的な行動は、出来るだけ避けたい。そして、ネガイの視線が怖い――

「場所は庭だ。二人で隠れられる場所なんてあるかよ」

「‥‥前に見せながらしてた人が言う?」

「見てたのも聞いてたのも、そっちだろう。そんなに人のが見たいか?」

 そう言うとネガイは髪を顔を隠して、シズクと、あと何故かサイナも呻く。

「まぁ、いい。どっちにしてもそもそも場所がどこかも知らないで内緒話なんか出来ないんだ。連れ込める場所を見つけるつもりで、行くぞ」

 





 緑の蔦で日光を遮られたパビリオンにて、ツグミと改めて対面する。

 顔付きはシズクと同じで実際の年齢よりも少しだけ大人びて見える。しかし肌や髪の質感で、幼さも感じ取れる。隔世遺伝というのだろうか、やはり金髪と言うに相応しい色合いをしている。

「私より、大きくなったんですね」

 見上げながら聞いてくる。そういうツグミは、シズクと同じくらいなので、150後半と言ったところ。丁度平均の背丈に見える。

「中等部三年か。ツグミも大きくなったな」

「はい。もう、そっちは高校生ですね」

 本当は、もっとツグミと今の話をしたい。もっと、ツグミと思い出話をしたい。でも、見上げているツグミの顔で、そんなものは望んいないのだと理解する。

「内容はわかるな」

「久しぶりに同年代の男の子と話しますね。ちょっとだけ、緊張します」

 これも想像していた。ツグミであれば、ハニートラップを仕掛けてくる事もわかっていた。シズクよりも熟練した笑顔で、見上げてくる目には演出された憂いの色が混ざっている。

「オーダーの話ですよね。姉も、あなたを追いかけて、オーダーに」

「面倒な駆け引きはなしだ。オーダー本部から法務科に、俺に乗り換えろ」

「—――。なんの事ですか?」

「俺は今、法務科に所属してるプロのオーダーだ。これは幼馴染としての話じゃない。ツグミ、今日はツグミを口説きにきた」




「ダメダメです」

 想定はしていたさ、想定はしていたよ。うん、でも、ダメ過ぎるそうです。

「好色家であるあなたなら、少しは経験があると思っていましたが、ここまでとは‥‥。あなたでは特別捜査学科の敷居を跨がせる訳にはいかせません。私が、特別に指導して、ずっと同じ部屋で、二人の――いいえ、授業を進めます」

 徐々に目の色が変わっていったカレンだが、顔を振って色香を振り払った。

「予定変更です。あなたには、罠を見抜く講座をします」

「ふふ、あなたは好色家なのね」

「‥‥違うからな」

 ソソギ相手に、手を握ったり、椅子を引いたりしてなんとか良い男性像を押し付けるという授業をやっていたが、時たま見せるソソギの視線や足、そして胸元に吸い寄せられては、カレンから鉄拳を受けていた。

「少なくとも、その目に見えてのハニートラップにわざと引っかかるという精神を正さなければなりません!また見てる!」

 浴衣姿のソソギが少し裾の部分を持ち上げて誘ってくるが、どうにか手で抑える。

「‥‥まぁ、いいでしょう。ソソギも勝手な事しないで」

「カレン、これは彼の武器。いじめたくなるというのは、得難いもの」

 カレンから代わってソソギの目の色も変わり始めた。

 試しにこの顔をカレンに向けると、カレンも目の色が変わり始める。

「‥‥確かにそうかも—―ダメダメ!ベットに誘い込めば堕とせるなんて、慢心はダメ!いつも私に負けてるのに!」

「そう、いつも負けてるのね。ふふ‥‥負ける事が出来るというのは、やっぱり武器だと思うのだけれど?」

 不真面目を演出をしていたソソギの言いたい事がわかってきた。俺に、わざと敵の手に堕ちろと言っている。

「でも、それは‥‥」

「今の彼を見て、もう全快した彼相手に勝てる人間はまずいない。私達の家族を信じて」

「‥‥でも、罠を見抜いたり、身を守る技術は学んで貰うから。私に頼ってきたんだから、絶対、それだけは覚えて貰うから!」

 出会った中で、一二を争う真面目なカレンの講義は進んでいく。

 最初に、『特別』という概念を学ばされた。『特別』とは作り出せる演出だと。

「例えば、名指しをして連れ出す。これだけで『特別』は作り出せる。そして、連れ出す事ができたら、それで『特別』の導入には成功してる」

「連れ出す事は、導入でしかないのか?」

「導入でしかない。そして導入を確固たるものにしたいなら、言葉が必要。約束とか、契約とか、それと、名前とか。そこから更に二人だけがわかる特別な概念、幼馴染とかがあるなら、導入としての及第点を、勝手に作り出してくれる」

 なるほど、特別とは排他的なものなのか。確かに、ネガイやマトイも、相棒や伴侶という言葉に拘っていた。

「そして、そこから先に行くためには、見た目が必要」

「俺じゃあ無理そうだな‥‥助けて、ソソギ‥‥」

 ソソギの足にしなだれて甘えてみる。柔らかな腿の肌に吸い付かれた頬が心地いい。そして当のソソギも楽し気に頭を撫でてくれるが、首根っこをカレンに捕まれて、姿勢を正される。同時に頬を撫でるソソギが視線を合わせてくる。

「自信を持って、あなたの容姿は特別捜査学科が選んだのだから」

「見た目って言ったけど、容姿だけじゃないの。場所の事でもあるの!」

「場所?」

「そんな情けない声出しても、答えばっかり教えてあげない。まずは自分で考えて」

 もうカレンが場所と言っている以上、それが答えなのではないか?

「いい店とか?」

「バツ。それだけじゃダメ」

「いい品?」

「さんかく。まだ足りない」

「‥‥二人きりで、特別な品で、排他的、二人しかわからない‥‥約束の話とか?」

「及第点、でも、正解。見た目は、万人の目に見えるものだけじゃない。演出すれば、相手が望む通りの姿かたちに見せる事が出来る」





「プ、プロのオーダーの話じゃないの!?」

 言葉遣いが素に戻った。警戒心を解いてくれたのだと第一段階成功を噛み締める。続いて更なる言葉を掛け、逃げ場を奪い畳み掛ける。

「約束しただろう。必ずツグミを迎えに行くって、ふたりでシズクと話そうって。‥‥忘れたか‥‥?」

 これは俺でも覚えていた約束なのに、ツグミは覚えていないようだ。

 これは演技でなく、本心から悲しんでしまう。

「そ、そんな顔しないで。大丈夫だから、ヒーとの約束、私も覚えてるから!」

「‥‥よかった」

「—――っ。変わらないね」

 今のツグミは心臓を押さえながら平静を装うとしているが、眼球の脈動でわかる。この時間を楽しんでいると。警戒心を完全に解かせる事に偶然だが成功した。

「私を口説くって言ったけど、その、口説くって、どういう意味‥‥?」

 長い金髪の先を指で回しながら視線を逸らした。緊張しているというのは事実のようだ。

「そのままの意味だ。ツー、俺と組もう」

「出来ない、って言ったら、どうする?」

「ツグミを攫う」

 遠くにいる女子生徒たちが歓声を上げるが、両手を振りながらツグミが追い払いに行く—————油断していた。もしオーダーの件が露呈した場合、内密でに会いに来た意味が無くなる所だった。冷や汗を隠しながら、戻ってきたツグミの手を握って、ネガイと見つけ出した隠れ家、迷路状になっている庭園の奥にある噴水広場に向かう。その間、ツグミの手が火傷しそうなぐらい熱くなる。

「あ、温かいね」

「夏だしな」

「‥‥うん、夏だしね‥‥」

 噴水広場には、やはり誰もいなかった。丁度影となっており目を使って周りの生垣を透視するが、やはり誰もいない。好都合だ。

「そ、それで、その‥‥ここで、私を口説くの、よね‥‥?」

 手を握っているツグミが、上目遣いで自然と俺の手に口を付ける。

 ————―押し倒したい衝動に駆られるが、数日前、ネガイとそれを行い、危うく見つかる所だったのを思い出し、どうにか踏み止まる。

「座ろう」

 手を引いて近くのベンチに座る。大人しく従ってくれるが、未だ顔を見せてくれない。唇を隠すように髪を伸ばしている。

「昼、まだだっただろう?」

「‥‥うん、ヒーに連れて来られた所為だよ。それは?」

 片方の手を占領していた保冷バックが気になるようだ。

「気になるか?」

「大人っぽい言い方。なんか、手慣れてない?」




「下手」

 これだ。そんな事はわかっていたさ。だってオーダーに来て以来一度も作ってないんだし。なにより、自分で作るより、ネガイやミトリ、シズクに作ってもらった方が美味しいし、嬉しいのだもん。

「まぁでも、ケチャップライスは許せる味になったかな?」

 キッチンを夥しい数の卵の殻が埋めていた。悲しかな、全て俺が使ったものだ。

「でも、スクランブルエッグを作れ、なんて誰が言ったけ?」

「‥‥もう一度、やってみる」

「そうして。ツグミにこんな見た目のオムライス、食べさせる訳にはいかないから」

 普段は、なにかしら小言を言ってきても俺のわがままを聞いてくれる優しいシズクでも、オムライスの事となると話は別のようだ。しかも、ツグミの為とあらば鬼にもなる。

「もう少し平べったければ、細切りにしてそうめんや冷やし中華の具材にするのですが、これでは‥‥」

「うん‥‥料理、下手じゃないと思ってたけど、得意不得意があるんですね‥‥」

 ネガイとミトリから哀れみを向けられ、心臓が縮んでいく感覚を覚える。

「ミトリ~ネガイ~助けてー‥‥」

 膝を折って二人の腰に抱きつく。二人のスカートにしがみ付きながら顔を擦りつければ、二人は楽しそう頭を撫でてくれるが、シズクは許さなかった。首根っこを掴んで立たされる。悪戯をして首の皮を掴まれた子猫を思い出す。

「ふたりに甘えるのはあと!ふたりも、あんまり甘やかしちゃだめ!」

 シズクに叱られて、もう一度フライパンを握る。わざわざこの為に購入した新品のフライパンが光り輝いている。自分はまだまだやれると訴えているようだった。

「それで、なぜお料理教室を?」

「次の仕事で使う為なんだけど。難しそうなんだよね‥‥」

「やっぱり、シズクが」

「ダメ」

 間髪入れずに向けられた言葉には冷酷な覚悟が備わっていた。ナイフで心臓を刺された気分となり、息を呑む迫力にミトリが一歩引いたのを確認したネガイが、

「詳しくは私から話します。こっちに」

 と、リビングに連れ戻ってしまった。せめて二人から声援を受けられれば、その気になるが、シズクはそれすらも許してくれなかった。

「はい、集中!卵なら沢山あるから、成功するまで続ける!」

 カレンと同等に厳しいシズクの料理教室は、学校を休んで朝から始めたというのに、その日一度もミトリやシズク自身にも甘える時間を許さないで終了。

 シズクからのお許しが出た瞬間、ネガイに泣きついて一日を終えた。



 弁当箱から出した薄焼き卵を見て————ツグミが息を呑む。

「懐かしい‥‥」

 弁当にオムライスを入れる為、深夜に保冷バッグや弁当箱などをネットで探し回り、早朝に届くように指定。まだ夜も明けていない時間から準備に取り掛かった。

 諸々の努力を方々に掛けたが、効果のほどは目に見えていた。

「姉さんのオムライス。これ、姉さんが?」

「俺だよ」

「うそ。あ、ごめんなさい。怒らないで」

 ツグミが驚くのも無理はないが、反射的に否定されたので少しだけ不機嫌となる。

「結構頑張って作ったんだけど?」

「ごめんなさいって、ムキになるのも変わらないね。‥‥姉さんは?」

「今日はいない。でも—————会いたがってた」

「‥‥それ、前にも同じ事言われたね」

「覚えてるのか?」

「あなたとの思い出は、数える程しかないから。‥‥うん、覚えてる」

 膝に弁当箱を置いたツグミが、受け取ったスプーンの先端をケチャップの中央に差し込む。やはり姉妹だと思った、シズクも同じように食べていた。

「美味しい。でも、ちょっとケチャップが濃いかも」

「シズクにも、そう言われたな。シズクの味、覚えてるか?」

「うん。帰るたびに食べてたから。帰るたびに毎日、食べてたし」

 俺達だからわかる。表面上は似通った卵の焼き目を付けられても、このオムライスよりも、シズクの作ってくれるオムライスの方が美味しいと。

 しばらくの間。二人で噴水のせせらぎを聞き届け、生垣から零れる木漏れ日を楽しみ、オムライスを食べているとツグミがスプーンを落としてしまった。

 こうなる事も想定していたので、もう一本のスプーンを出そうと保冷バッグを漁るが、その拍子に俺も自分のスプーンを地面に落としてしまう。

「俺はいいから、ツグミが使ってくれ」

 清潔なスプーンを渡して、落としてしまったスプーンをバッグに放り込む。

 受け取ったスプーンを使って、ツグミは一口食べ、もう一回オムライスをすくうと、こちらに向けてくる。

「さぁ、どうぞ」

「顔、真っ赤だぞ‥‥」

「そっちだって。昔はしてた、よね‥‥?」

 無理をしているのは明白だ。差し出しているスプーンが徐々に震え始めたからだ。このままでは、またスプーンを落としてしまうのも時間の問題。

 だから、口を付けることにした。

 口の中に入れた瞬間、一瞬スプーンが震えたが後は大人しく任せてくれる。

「今度は、こっちが」

 何故か負けた気がしたので、少しだけ攻める事にする。ツグミからスプーンを奪って、俺が手を付けていたオムライスをすくって向けると躊躇もしないで口に含んだ。  

 同時に向けられる上目遣いに——————心臓が高鳴った。

「‥‥ふふ、また私の勝ち。ヒー、私に勝った事ない、よね?」

 大人しくスプーンを渡す。そうするのが正しいと思ったし、もう一度、ツグミに食べさせて貰いたくなった。

「どうしたの?私に、甘えたいの?年上なのに?」

 年下である筈のツグミが僅かに背筋を伸ばしただけなのに、抗いがたい雰囲気に肩幅が縮こまる。僅かに覗かせる八重歯に目を離せない。

「あはは、ごめんね。いじめちゃった」

 姉も同様だが、妹も俺に対しては偶発的ないじめっ子だった。姉妹の双方に隠れながらも何度かいじめられていたのを思い出す。そして、甘えさせてくれていた事も。

「お口を開けて、もういじめないから」

 ツグミがもう一度、オムライスをすくってスプーンを差し出してくれる。

「美味しい?ふふ‥‥私を口説きにきたのに、本当は、私に甘えにきたの?」

 ツグミの目の色が変わっていくのがわかる。

「ツグミ、あのな‥‥」

「はい、口を開けて。話は食べ終わってから。もう自由時間だから、ずうっと一緒にいられるよ」




「ツーこそ、なんか手慣れてない?」

 工房で待つという約束だったが、予定を変更して正解だったかもしれない。

 ヒジリが、早朝からオムライスを作っていたのは、作戦の通りだったが、接触の仕方を具体的に、どうやってツグミをこちらの協力者にさせるのかについては教えてくれなかった。

「なんか‥‥ドキドキしちゃいます‥‥」

「それは危ない感情ですよ♪戻ってきて下さ~い」

 ミトリが顔を赤く染めて、頬に手を当てている。そんなミトリをサイナが肩を揺らして、正気に戻そうとしている。だが、今、ミトリが想像している事を、私も少し想像してしまった。ヒーが奪われる感覚、少しだけ、悪くないかも――。

「これは、作戦通り、ですか?負けてません?」

 だが、ネガイさんの方は、特段気にした様子もない。恐ろしいほど冷静で、無頓着だった。

「い、一応作戦通りだと思う、かな?実際ツグミも警戒心を解いてる訳だし‥‥」

「う~ん。でも、この感じじゃあ、むしろツグミさんに腰砕けになっているように見えるんですが?その辺りどうでしょうか先生?」

「も、問題ありません。これは、あの人だから出来る作戦です!」

 当のカレンさんは、こう言っているが、このままでは、ツグミに堕とされるのは時間の問題な気がする。

「流石シズクの妹ですね。あの人をまるで恐れないで、手綱を引いています。オーダー本部と個人で取引をしたという事実は伊達ではないようです」

「それ、褒められてるのかな‥‥、オーダー本部と直接話してたのは驚いたけど、‥‥本当に久しぶりに会った幼馴染のオーダー相手に、こうやって、いじめに来るなんて」

「流石シズクの妹です。姉妹して、あの化け物の喜ぶ事をよく知って」

「言わなくていいから!」

「ふふ、今晩のお仕置きも、激しくなりそうです‥‥」

 助手席にいるネガイさんの影から、邪悪な空気が漏れ出していたのがわかった。気にしていないなんて、私の目が節穴だった。楽しげに、今晩を待っている。

「ふふふふ‥‥」

 車内にいるネガイさん以外の顔が引きつっていくのがわかる。

「帰ったら、まずは褒めてあげましょう。好きなだけ、甘えさせてあげなくては」




 二人でオムライスを、食べ終わった所で、肩にツグミがしなだれてきた。

「慣れてないだろう?」

「いいの。あなたで慣れるから。嫌?」

 女子校のお嬢様であるツグミが、こんな技を知っているとは思わなかった。シズクと同じように、腕を取って、胸に沈めてくる。Yシャツと肌着が邪魔で仕方ない。

「感触を楽しんでるよね。私も大きくなったんですよ」

 耳の中に、息を送ってくる。くすぐったいのに、ツグミの次の言葉が待ち遠しい。

「こっちを見て」

 ツグミの操り人形のようになった俺は、命じられるままに顔を向けると、ツグミの赤いオレンジ色の目が眼前まで迫っていた。

「されるって、思ったよね?」

 耳ではなく、唇を息でくすぐってくる。

「ツグミ‥‥」

「ダメ」

 唇を近づけた所で、指を間に差し込まれた。

「直接会いに来たのだから、わかってるよね?私は、オーダー本部との契約がある」

「‥‥それは、自分を売ってでも、やらなきゃいけない事か?」

「—―改めて、そう言われると、‥‥怖くなりますね‥‥」

 この震える肩は、演技ではない。そう確信できる。最後に会った時、一緒に眠った時、ツグミは同じように震えていた。そして、そこで言われた。もう家には帰らないと。あの言葉、決して冗談なんかじゃなかった。

「色々と訊きたい事がある。まず、どうやってオーダー本部なんかと繋がりを持てたんだ?」

「‥‥向こうから接触してきたんです。—―本当に、あの両親は何をしたのでしょうね」

 マイクの向こうにいるシズクから、息を呑む声がした。

「司法取引か‥‥」

「と言っても、私自身、もう何年帰ってないので、未だに聞けてないんですけどね」

 わかっていた。想像はしていた。オーダーでもない個人が、オーダー本部の官僚共とただで直接会談できる訳が無いって。できる理由があるとすれば、取引、契約の類。

「なんでしたっけ?あー最初は、君には選択肢があるって言われたんだった、かな?」

 ベンチに座ったまま、ツグミは足を振って空を見上げた。

「オーダーらしいやり口だ。手を貸さないと、家族を逮捕するって言ったのか」

「‥‥うん、わかるよね」

「わかるよ。俺も、売られた事があるし。次だ、一体、何年前から、オーダーと契約してた?」

 シズクが調べた結果、少なくともデータ上残っていたのはツグミが中等部一年の頃。やはり二年前に、ツグミはゲートを通って、オーダー街に訪れていた。

「それは言えません。言ったら―――」

「シズクも逮捕されるか?」

「‥‥酷い。知ってて、聞いたの?」

「誰でもわかる。家族が逮捕されるって事は、シズクもそう扱われるって事だ」

 オーダー本部とツグミの繋がりに関しては、司法取引の線が濃厚だと踏んでいた。ツグミ自身が、何かをした可能性も考えていたが、その可能性は限りなく低いと思っていた。

「—―甘えん坊な所は、変わってなくても、オーダーなんだね。うん、私が協力しなかったら、姉さんを逮捕するって。‥‥もう、日を見る事は出来なくなるって――」

「‥‥ツグミ、改めて聞く。俺と組め」

「無理だよ‥‥」

 ツグミ自身、もう演技なのか、わからなくなった涙をこぼして、俯いてしまう。

「オーダー本部って、検挙が出来る省庁なんだよ‥‥。知ってるでしょう?そこの官僚が逮捕するって言ったら、必ずされちゃう。—―私、知ってるの。オーダーは本気になれば、誰でも逮捕できるって」

 この言葉は、正しかった。オーダー創設時、この国にのさばっていた権力者達の悉くをオーダーは逮捕した。相手が大臣でも国家防衛に関わる企業の社長でも、警察の官僚でも、関係なく逮捕して、今も牢屋に繋いでいる。

 権力者相手に、綺麗な手を使っている暇などない。例え子供相手でも、脅して売る、そうでもしなければ、捕まえるべき対象を取り逃がしてしまう。

「私、あの親が嫌い。もう向こうは私の事を忘れて、気にも留めてないだろうけど、やっぱり嫌い。あんな親の為に、自分を売るしかない私自身も、大っ嫌い」

「ツー、そんな事、言っちゃダメだ」

 首を振って、ツグミの言葉の一部を否定する。

「‥‥わかってる。私、すごいおかしい事をしてるって、大っ嫌いな人の為に、自分を捨てるなんて」

「そうじゃない。そうじゃないんだ」

 泣きじゃくるツグミを引き寄せて、太陽色の髪の顔を埋める。

「親が嫌いなのは仕方ない。今更好きになれなんて言わない。嫌いなら忘れていい」

 初めてそんな事を言われた。そう、ツグミの血流が伝えてきた。

「俺だって、自分の『親』が嫌いだ。自分で逮捕して、鉛玉をぶち込んだんだから」

 マイクの向こうから、一切の音が消えた。みんな薄々勘づいていたからだ。俺が答えを言ってしまった。親殺しならぬ親逮捕。人間にとって、罪深い事をしたかもしれない。

「‥‥ふふ、私も、そうしたかった」

「今なら間に合う」

 離れようとするツグミをきつく抱いて、心音を感じ取る。

「ツーよく聞いてくれ。これから俺は、ツーを苦しめる人間を、全員壊しにいく」

「—―本気で言ってる?」

 初めてツグミが、本心で聞いてくれている気がする。

「決めたんだ」

「‥‥それがオーダー本部でも?」

「言っただろう。それとよく覚えておいてくれ、法務科は、相手が何者でも逮捕できる」

 ツグミを離して、イミナさんから渡されている鍵を見せる。

 なんの事かわからないだろうが、これは俺の所属している部署の証だと伝える。やはりというか、当然、外の人間からすると、法務科とは所詮オーダー本部の一部署程度だと思われているようだった。だが、少なくとも、俺は違う。

「俺は、何でもできる。本当だ。人間相手なら、負ける事はない」

「‥‥ふふ、カッコいい事、言うね‥‥。でも、現実は」

「ツグミの親でも逮捕できる」

 辺りが凍り付いたのがわかった。そして、

「‥‥本気で言ってるの?」

 ツグミ自身の心臓も、凍り付いたのがわかった。

「言っただろう。俺はツーを苦しめる奴を全員、壊しに行くって。相手が肉親でも関係ない。俺は――親を撃った。もう、引き返せない所にいる」

 最初会った時のような遊び感覚は消えていた。本当に、光を見つけ出した顔をしている。今まで、ずっと光を待ち望んでいた。そうツグミの目が語ってくる。

「ツーが親を嫌いなら、俺にとっても願ったりだ。嫌いな奴を逮捕すれば、好きな人を守れるなんて、こんなに最高な事は無い」

「冗談、だよね?」

「今更冗談なんて言わない。ツー、俺と来い。俺と、一緒にシズクに会いに行こう」

 立ち上がって手を伸ばす。ツグミにとって、今の俺がどう見えているだろうか。救いの手を差し伸ばしてくれる救世主か。それとも、親を捨てて楽になれという甘言を使ってくる悪魔だろうか。ただ、実際は違う。

「ツー、俺は正義感なんて持ってない」

 伸ばしかけた手をツグミが止めた。

「俺は、ただツーが欲しいだけだ。ツーさえ手に入れば、後はどうでもいい」

「私が‥‥」

「ツグミ、どうか気づいてくれ。ツグミは――美しくなった」

 止まってしまった手を引いて、無理に立ち上がらせる。元々、待つ気などない。

「誰もが、ツグミを欲しがってる。オーダー本部も、ツグミの容姿がいいから、逮捕するなんて脅しを使ったんだ。ツグミ、売られるっていうのは、本当につらい。もう二度と、人間を信じられなくなる」

 一度体験したからこそ言える。俺は、もう人間に期待することも、信じることも出来ない。あの方に嘘をついてしまっていた。俺は、やはり、人間が嫌いだ。

「‥‥私は、もう誰も信じてない」

「シズクにも、そう言えるのか?」

「違っ‥‥!」

 ようやく年相応に顔を見せてくれた。幼馴染のツーの顔を覗かせてくれた。

「それでいい。誰も信じられなくても、シズクだけは、信じてくれ」

「‥‥。姉さん、私の事、何か、言ってた?」

「会いたがってた。それに謝りたいって言ってる」

「—―怒ってる?」

「怒ってない。シーは、ずっと優しい。だから、シズクが大切に思ってるツグミを、傷つける訳にはいかない。—―気付いてくれ、シズクはずっとツグミを愛してる」

 もう一度、ツグミを抱きしめて、噴水の音だけを辺りに響かせる。

「‥‥私を口説きに来たって言ったのに、姉さんの為に来たみたい‥‥」

「ツグミを口説くなら、シズクも口説かないといけない。‥‥ツグミも、シズクが大切だろう‥‥」

「うん――親よりも、私よりも、姉さんが大切。—―ふふ、やっぱりヒーはすごい。二人きりで、抱き合ってると、なんでも正直に話しちゃう、よね」

 完全に幼馴染のツーに戻ってくれた。だから、単刀直入に目的を語る。

「オークションの関係者を全員逮捕するのが、俺の目的の一つだ」

 ツグミと抱き合ったまま、ベンチに座って一度離れる。

「それにツグミの身の安全。絶対に、ツグミの身は守る。だから、手を貸して欲しい」

「はい、ここ」

 自分の膝を叩いてきたので、遠慮なしに頭を預ける。

「昔は姉さんがいない時は、こうやってたね」

「‥‥してたな」

「してたよ。—―もしかして、姉さんにも?」

「‥‥してた」

「姉さんと話す事が増えたね。どうしたの?続きは?」

 耳元のマイクから、シズクの唸り声が聞こえてくるが、ツグミの足に集中する。

「‥‥具体的には、シズクから聞いてくれ。—―そろそろ時間らしい」

 唸り声と共に、ネガイから時間を知らせる声と共に、「話があります」という死刑宣告が届いた。—―何が待っているのだろうか。

「それと、渡すものがある」

「起き上がらない所も変わらないよね。これは?」

 ツグミにポータブルセーフを見せて、中身を見せる。ハンカチにくるまれた青い宝石を見せた時、ツグミの目が大きく開いた。

「これを預けとく」

「え、え‥‥。これは、その‥‥約束、みたいな‥‥?」

「お守りみたいなものだ」

 宝石をポータブルセーフに戻して、ツグミに向ける。ツグミは一瞬迷ったが、おもむろに手を伸ばして受け取ってくれた。

「無くすなよ?」

「無くさないよ!!」

 ツグミが大声で叫んだ時、辺りがざわついてきた。ついに見つかったらしい。ツグミも俺も、時間切れだ。

 でも、最後に久しぶりのツグミの上で甘えられるので、容赦なく転がる事にする。

「見られてるのに‥‥どう説明すればいいんですか?」

「任せるよ。好きなように言ってくれ‥‥気持ちいい‥‥」

 ツグミを困らせてしまったが、そんなツグミは考えた結果、俺の頭や胸を撫でて、甘えさせてくれた。

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