10巻

 まさか、本当にこんな事が起こるなんて―――

「以上の事柄を以って、あなた方を逮捕状に従って逮捕する。そして現行犯でも」

 引っ越してから一度も敷居を跨がなかった家に始めて入った時—――それは両親の逮捕の光景だった。無理を言って付いてきたが、来てよかったと思う。

 ――――こんな呆けた顔、もう二度と見れない。

 続々とオーダーの背広達が、法務科の人間達が二階やリビングに乗り込んでいく。

「ま、待て!なんの権利があって!?」

「許可証のない銃火器の所持、無免許での銃火器の売買、輸送。以上の疑いの元、あなた方にはオーダーから裁判所へ逮捕状が請求されています。そして、ただいまそれが是認されました。大人しくするように。武器商人に対しての発砲は、こちらにとって、軽いものなので」

 久しぶりに会った父親は、少しだけしわと白髪が増えていた。だが母親は、それほど変わった印象は無く見える。共通点は、どちらもいい身なりをしているという事。本当に、こんな事で『この生活』を成り立たせていた。

「あ、あれは会社が!」

「あなたは、その会社の出資者だ。あなたと同じ株主は、現在全員オーダーに逮捕されています。個人でも取引をしておいて、自分だけ逃げられると思わないように。聞かせて貰います、これはなんですか?」

 ヒーがテーブルから持ち上げたのは、大きな銃だった。あんな重そうな鉄とカーボンの塊を軽々持ち上げるなんて、やっぱり、ヒーはオーダーなのだと理解する。

「それは護身用に!」

「M1911A1。軍用拳銃であり、日本国内ではほぼ流通していないモデルの筈です。威力が高すぎる為、素人が簡単に撃てるものでも、ましてや販売できるものでもありません。この特別な銃砲刀剣の所持許可証はありますか?」

 私では理解できない事が起こりつつある。あのヒーが背広を着て、銃を目の前でバラバラにする。最後には、呆気に取られた両親に手錠をかけようとしている。

 そして、背中で私をかばってくれている。

「べべべ、弁護士を呼べ!でなきゃ何も話さないからなっ!?」

「あなたには弁護士を付ける権利があります。どうぞ」

 手錠を持ったままのヒーが、もう片方の手でスマホを差し出した。

「じ、自分ので」

 慄きながらも自分で取り出したスマホへと指を滑らせた瞬間、ヒーが簡単に奪い取った。

「証拠品として預からせてもらいます」

「いいから!渡―――」

「次、私への暴行をした場合、公務執行妨害でも検挙されます。ご理解の程を」

 父親が襟を掴んだ瞬間、ヒーの手が腕を掴んだ。見えなかった。本当に、浮き出たように手が唐突に表れた。いつの間にか手錠は腰に戻され、強大な拳で両親を制している。

「どうぞ」

 掴んだ手にスマホを渡して、椅子に座らせる。

 鋼のようだった。あの噴水でのヒーとは別人のように、頼もしくて、嬉しかった。そして、周りに指示をしていく姿にも―――私の心が躍っていく。  

「二階にも発見」

「地下にも、膨大な数です」

 続々と運ばれてくる木箱を見て、恐ろしくなった。片手で握る大きさの銃ではないのが、私でもわかった。映画やテレビで見るような、本当に人を殺せる鉄塊だった。

 なのに、ヒーは手袋をして、そんな多くの凶悪な銃が入っていない木箱の中の一つをつまみ上げる。それは重厚な万年筆か何かに見えたが、違う。あれは、弾丸だ。

「50口径。決まりです。送って下さい」

 言葉遣いこそ柔らかで、命令ではなくお願いという仮面を被っている。だが、ヒーは、この中の誰よりも怖い。周りの大人達が、目の前の多くの銃よりもヒーの機嫌を損ねる事を恐れている。

「あの施設に銃器を支給していたのは、あなた方ですね?」

「な、なんの――」

「武器の類は、分散して供給するのが鉄則。一箇所抑えられただけで、干上がるような迂闊な真似を、あの『先生』がする訳がない。—―間違ない。尻尾を掴めた」

 私にはやはり何のことかわからない。だけど、周りの背広が、ヒーの言葉を起点として、一様に空気が変わった。まるで、ヒーの言葉を待っていたように。

「後はそちらで、俺は当事者として呼ばれただけなので」

「話は聞いている。助かった、素直に礼を言おう。後は好きなように」

「契約は成立です。その時は、お願いします」

 一番背が高い背広のひとりと何かを話したヒーは、現場の指揮権を渡したようだった。ヒーの後ろにいた背広が、背の高いオーダーの指示で動き始めた。

「手錠は君がしろ」

「了解しました」

 未だに何が起こっているのかわからない様子の母親は、ヒーが近づいても、微動だにせず、手錠を掛けられてようやく正気に戻った。

「あ、あなた、もしかして」

 母親の声を無視して、ヒーは父親に手錠を掛けようとする。

「ま、待て、まだ弁護士に」

「手錠を掛けたままでも、できるでしょう?」

 情けない最後の頼みを無視して、ヒーは手錠を掛けた。

「—―そ、そうだ!お前!確か、シズクの!」

「何か?」

「シズクを殺そうとした奴だ!!」

 そう高らかに叫んだ父親は、周りの背広達に嬉々として続ける。

「こいつは、私の娘を殺そうとしたんだ!証拠不十分とかで、少年院送りにも、ならなかったが、私はこの目で見た!このガキは、私の大事な娘を!!」

 壊れたように、同じ事を言い続けるが、誰も相手にしない。そんな世迷言に構っている暇はないと言わんばかりに、続々と木箱をリビングに運び入れてくる。

「このガキは!!」

「どこにそんな証拠があるの?」

 外で待っているという約束を破って、姉さんが入ってきてしまった。

「ねぇ教えて、どこにそんな証拠があるの?」

 両手を拳に変えた姉さんが、足音を立てて、ヒーの隣に並ぶ。

「それに、この目で見た?—――あなたは、あの時から家にいなかったでしょう?だから、私はヒジリの家に行ったんだよ。誰もいない家よりも、楽しいって思ったから」

 私は、最近まで知らなかった。あの家には、姉ひとりしか長く住んでいなかったと。たまに帰ってきては、親らしい事をしていたようだが、仕事と言って、数か月帰ってこない事も、珍しい事じゃなかったそうだ。

「これ以上何か言ったら、本当に公務執行妨害でも逮捕されるよ。もう、いいでしょう‥‥もう、大人しくして。私は、もう知ってるから。ツグミを売った事も、知ってるから」

 姉さんが、優しく抱いてくれた。私が怖がって、なかなか狭められなかった距離を、一息で縮めてくれた。だけど、両親の顔が、浮かない。

「ツグミ?‥‥あ。おお!ツグミか!そうか、大きくなったな!」

「よせ。もう終わった」

 姉さんが一切の呼吸をしないで、スカートから銃を取り出した。なんの躊躇もなく引き金に指をかけた瞬間、ヒーが銃口に手のひらを押し付けた。

「‥‥退けて、でないと撃つから」

「好きにしていい」

 本気で撃つ。そう思った時、姉さんの肩に顔を埋めて、私は「ダメ」と止めた。

 私の頭を押さえていた姉の手が緩くなり、髪を撫でてくれる。

「—―わかった。‥‥戻ってる。後でね――」

 最後に私をヒーに任せて、姉さんは出て行ってしまった。

「姉さんは、優しいの」

「‥‥ああ。本当に、昔から優しいな」

「うん」

 もう一度、ヒーの背中に隠れて深呼吸をする。今一度対峙する。

「ツグミ!大きくなったな!そんな危ない奴の傍にいたら、危険だ!早くこっちに、それで説明してやってくれ!—―私達は許されて、こうしているって」

 おぞましい、汚らしい、汚らわしい。こんな顔をした人達の家に、私は帰りたがっていたのか。こんな人達の為に、私は――夜の準備をしていたのか――。

 両親共に、手錠をされたまま手招きをしてくる。その手が、私には直視出来なかった。ヒーの背広で顔を潰して、息を乱す事しか出来ない。

「どうしたんだ!?早くこっちに来て、こいつらに説明してやってくれ!!!私達は、お前をやったから、オーダーに許されたんだって!!!」

「その事は、もう撤回されました」

「—――?」

「司法取引は、撤回されました」

 もはや声も出ないのか、息遣いだけが伝わってくる。

「あなた方と取引をしたオーダー本部の人間は、二か月ほど前に起訴され、実刑判決を受けています。今回は、司法取引無効の宣告及び、取引内容の確認にも参りました。—―ツグミの心身の売却ってのは、どういう事だ‥‥?」

 ヒーの眼前にいる両親が震え上がった。周りで捜査している背広達も、時が凍り付いたように動かなくなった。

「奴隷契約のつもりか?それとも、ただ所有権を譲ったつもりだったのか?」

 母親が過呼吸となって、テーブルに倒れ込んだ。

「しかも、最初はシズクまで売ろうとしてたな?何が私の娘だ?何か月も親が帰ってこないシズクとツグミの痛みが!お前達にわかるかっ!!!」

 スマホを落とした父親が、ついに倒れ込む。人とは思えぬ形相で床に唾液を晒し、見上げてくる。

「—―俺から言える事は次で最後だ。ツグミとシズクは、俺が貰う。以上だ」



 過去と現在の『シズクの家』に行ってみたが、何も見つからなかった。当然でもあった。シズクだって、一年に数える程しか帰っていなかったとしても、家にあれだけの銃器があれば絶対に気付く。そんなシズクを長年欺き続けていた理由が、ここだった。

「別荘か‥‥いや、もうほとんど家に近かったんだろうな」

「そうかもね。‥‥私さ、実はわかってったんだ。引っ越した家に、家具はあるけど、家を使ってる形跡が少ないなって。—――張りぼてみたいだなって、思ってた」

 法務科所有のワイルドハントの中で、今も中で捜査が行われている別荘を眺める。そして、ここはとても別荘とは言えない立地にあった。

「—―すごいよね。こんな所に、家をもう一つ持ってるなんて。私の目も、節穴だったって事かな?‥‥見ないように、してただけか‥‥」

 超が頭につく高級住宅街。大人しく貯蓄だけしていれば、ここまで強硬手段に出る事もしなかったのに――いや、いずれこうなっていたか。実際、現行犯で逮捕するしか、手っ取り早くツグミを保護する方法はないのだから。

「どうして、こうなっちゃたんだろう‥‥。本当に、昔は優しいお父さんとお母さんだったのに――どうして、こうなったんだろう‥‥」

「‥‥数えるぐらいしか、武器商人を許された職業はいない。‥‥誰も手をつけてない部門だから、みんな手を出すんだろうな」

「‥‥うん」

 国内で銃の需要が高まっている訳ではない。だけど、潜在的に、銃を求める人間が一定以上いてしまう。それは護身だけでなく、買い揃えたい、強く見られたい、など多岐にわたる。イサラもナイフや銃のコレクターであり、俺も自然と武器を集めてしまうので、その感情は、否定できない。

「‥‥家にいなかったんだよな?」

「そう、だよ。‥‥君と疎遠になる前からかな?二人とも、あまり家にいなくなったの。最初の内はさ、それでも週末とかは家にいたんだけど、段々、家に帰ってこなくなって――多分、この家を買ってたんだろうね」

 今はまだわからないが、この家を使って商談をしていたのだろう。こんな高級住宅街で武器の売買なんて生臭い事をしているとは、誰も考えなかったに違いない。

「ツグミが帰ってくるのに、旅行って言って家からいなくなったのは、私たち娘よりも、武器の商談の方が大事だったんだろうね」

 そんな事はない。そう、言える訳がなかった。

「見た?あの目‥‥私達よりも銃の方が大事って顔だった。—―ツグミの顔を、完全に忘れてた。自分達の身代わりにしたツグミの顔を、忘れるなんて‥‥信じられない‥‥」

 顔を振って、前髪で顔を隠してしまった。声をかけるべきかもしれないが、今はその時じゃない。

「ツグミに会ってくる。一人で平気か?」

「—―ありがと。ツグミもつらいんだから、ずっとヒーを独占しちゃダメだね‥‥行ってきて」

 シズクの頭に口を付けてから外に出る。外は野次馬の一人もいない。自分達は関わりたくないのだろう。もしくは、身に覚えがあるのかもしれない。

 ツグミのいる車両に向かっていると、被疑者である両親が、それぞれ一台ずつワイルドハントに乗せられていた。顔色を推し量る気にもらないが、何も感じない訳じゃない。

「バーベキュー、昔してたんだよな」

 もう戻れない過去を、走馬灯が頭の中で再演してくる。俺と『成育者』、そしてシズクとツグミの『両親』の計7人で食事に行った事もあった。『家族』での付き合いを持っていた。

「‥‥どうでもいいか」

 何に目がくらんだのか、事実の程はわからない。だが、二人の『両親』は社会的に許されない組織や個人と金銭で繋がりを持ってしまった。そして、その関係を全力を持って隠蔽しようとした。娘を一人売り払う事で。

「入っていいですか?」

「構いません。私は、少し外に出てきます」

 スーツ姿の人形は、それだけ言って席を外してくれた。俺は人形が座っていた運転席に座って、後ろのツグミが映るようにミラーを操作する。

「喋れるか?」

「水が飲みたい」

「待ってろ」

 ここに来る時、ダッシュボードに入れた水があったので、ツグミに渡す。

 ツグミは蓋を開けると、半分程飲み切って、返してきた。

「‥‥ありがとう‥‥ございます‥‥。これから、あの人達は、どうなるの?」

「このまま逮捕され、オーダーが執り仕切る留置所に送致、勾留、取り調べを受ける。そこで立件する容疑が固まったら、起訴されて裁判所に送られる。‥‥調べないとわからないけど、一発で実刑判決もあり得ると思う。—―覚悟しといてくれ」

「—―詳しいですね」

「本職だし、これぐらいは授業で習うだろう?」

「ああ‥‥そう、だったよね‥‥」

 心ここにあらず。今のツグミは、魂が抜けているようだった。

「私、これからどうしよう――」

 自分に言い聞かせているようだった。それに俺に訊いた所で、結局自分で決めるしかない。

「しばらくは報道されないだろうけど、それでもいつか知られる。‥‥恨んでくれ、俺は、ツグミの居場所を奪ったんだ」

 シズクに続いて、ツグミまで、俺は奪ってしまった。シズクはオーダーだから、親がどうであろうと気にする奴なんていない。だが、ツグミは違う。

「学校の方には、もう連絡が行ってる。‥‥結構、厳しい所なんだよな?」

「‥‥そうですね。ヒーに連れていかれたって、誰かが先生に話したみたいで。そうしたら、あの後呼び出しを受けました」

 少し大胆が過ぎたかもしれない。しかしチャンスは一度しかないとわかっていたので、無理にでもツグミと話す必要があった。にしても、呼び出しか。

「なんか、罰でも受けた?」

 俺がネガイと同じ部屋でよく寝泊まりしているのは、もはや教導の連中にも筒抜けとなっている。なので今更とやかく言われはしないが、ツグミの学校は清く正しい生徒しかいない。だから、

「男性との付き合い方を教えて欲しいって、言われました」

「‥‥それは罰か?」

「罰も罰。私だって、ヒーとしかしていないのに、夜の作法を教えてくれなんて、いわれて、—―ああ、大勢の前で、話してしまいました」

 ツグミが、甘い声を出した瞬間、窓ガラスが叩かれた。

「ちょっと!ツグミに何したの!?」

「シズクにしかしてない」

「シズクにしか?」

「ま、待って!まだ、私ともしてないでしょう!?」

 シズクが慌てて助手席に乗り込んでくる。そして、いつかの姉のようにツグミが顔を座席の間から突き出してきた。

「へぇー仲が良さそうかなーって思ってけど、ついにそういう関係になったの?」

「そ、それは‥‥その――」

「話を戻す。『両親』の財産は、ふたりの物になる。この家も含めてな」

 しばらくは捜査という名目で法務科の管理下に置かれるだろうが、いつかは二人の内、どちらかの名義となる。未成年の二人は、これで日本有数の高級住宅街の土地の持ち主となる。

「でも、これは犯罪で、建てた家じゃ」

「だとしても、全て没収されることはない。銃火器とか、装飾品の類を除けば、家も家財道具のほとんどもふたりの物になる。—――決めておいてくれ。どうするか、将来の事も含めてな」

 ふたりだって、ずっと見ないふりなんか出来ないって、わかってる筈だ。そんな事ではいけなって思ったから、無理をして一緒に来たんだ。だから、俺も覚悟をしなければ、ならなかった。

「これは決まりだから言っておく。ふたりの両親が関わっていた組織は、反社会的勢力で、規模も並大抵じゃない。用意されてた銃器の類は、脅しじゃない。人に向ける為に用意されてた、本物の兵器だ」

 ふたりの様子は、対照的だった。シズクは、それを楽に想像できたようで、無言で窓から外を眺め、ツグミは、肩を抱いて理解を拒んでいた。

「続ける。あの二人が逮捕された以上、芋づる式に、販売に関わってた連中も逮捕されるだろうが、それでも全員が逮捕される訳じゃない。結論から言う、シズクとツグミは、残った連中に恨まれる可能性がある」

「‥‥理不尽だね」

「ああ、理不尽だ。だけど、それが人間だ。いつ自分達の首に縄が掛けられるやもしれない状況にした『両親』を恨んでも、もう牢屋の中だ。だったら、恨みをぶつける相手は限られる」

 逆恨みというのは、不思議と、まっとうな人生を送っていた人間でも起こす癇癪の一つだった。振られた相手の彼氏彼女を殺すなど、普通に起こる事件であり、体裁を一番と考える連中にとって、今の状況は顔に泥を塗られるのとほぼ同義だ。

 しかも、決して公に出来ないヒトガタに関係する組織なら、尚更だ。

「‥‥なんで、私達は、何もしてないのに――」

「所詮、それが人間だ。簡単な数字さえ理解できない人間が、この世にいくらでもいる。—―必ず来るぞ。怖がらせるつもりはない、これは事実だ」

 ツグミにとって理解できない事実の連続が、今日一日で何度も起こっている。だが、受け入れてもらうしかない。ツグミは、もう一般的な生活を送れなく成りつつあった。

「—―どうすれば、いい?」

「現状を説明する。まず、シズクはオーダーの一員。オーダーを相手に襲ってくるような奴は、もう軒並み逮捕されてる。それに、普段はオーダー街で暮らしてる以上、表面上は無事な生活を送れる」

「‥‥うん、ある意味だけど、オーダー街って、一番安全なの。—―何度か、テロみたいなのも起こされるけど、大きな病院もあるしね」

「で、問題はツグミだ。ツグミは、オーダー街の外の連中だけじゃない、オーダー本部にも目を付けられてる。はっきり言う。今一番危険な状況にいるのは、ツグミだ」

 本当に、理不尽だ。ツグミは、何も悪い事などしていないのに、多くの組織から手を出されている。『両親』と関係のあった組織に、オーダー本部、更にツグミはオークションの品として出品される予定でもある。かなりきわどい立ち位置だ。

「‥‥私、何か間違えたんだ、よね――。ヒーの顔を見て、正直になっちゃった。でも、一番危険な状況に、自分を置いたのって、私自身だね‥‥」

「俺を信じられないか?」

 伏し目がちだったツグミが顔を上げて、ミラー越しに顔を見つめてくる。

「何か、方法があるの‥‥?」

「あるから、ツグミは、今ここいる。最初は、余計な事をするなって、オーダー本部の下っ端に名指しで指摘されたんだ。だけど、もう遅い。—―もう、法務科が逮捕した」

 スマホを出して、ツグミに画面を見せつける。

「覚えてるか?」

「—―っ!この人!」

 スマホの画面には、オーダー本部にすくっていた『ネズミ』の残党のトップが映っていた。ツグミの話を聞いて、法務科の立場と今までの実践を全て使って、調べ上げた顔がこれだった。

「こいつから言われたんだろう?家族の為に取引に応じろって。—―やるじゃないか、条件をつけて、向こうに飲ませるなんて」

 ツグミの出した条件は、二つあった。一つ目は、シズクには、絶対に手を出さない事。例え失敗しても、自分に後の事も任せる事。二つ目は、自分を監視しない事。もししたとわかったら、全てを『警察』に話す。取引を持ち込まれた事も含めて。

「オーダー本部相手に、二つも条件を付けて、仕事を受ける奴なんて、そうそういないぞ」

 心底そう思う。ツグミは、オーダーでもない、ましてや法務科でもない立場で、なんの後ろ盾も無い中で、オーダー本部と対等に交渉をしていた。しかも、まだ13歳の時に。

「お陰で、相手の特定が早く済んだ。一般人を使ってでも、手柄を上げたいのに、『警察』に話すと言っても、平気で飲み込む奴なんて、オーダー本部にはまずいない。こいつは、俺の敵だ」

 『カエル』一味と手を組んでいた流れ者ども。こいつは『ネズミ』だった。

 元々どこに所属していたのか、興味もないが、オーダー創設時に解体された省庁の部署のどこかにいた連中。オーダーの恨みを持ってこそいたが、過去の暮らしを忘れられなくて、手柄を求めていた汚いネズミたち。

「オーダーにとって、『警察』てのは敵でもライバルでもない。獲物だ。獲物の名前が出てきても気にしない奴なんざ、間違いなく裏切り者だ。ツグミのお陰で、また褒められたよ」

「で、でも‥‥なんで、もう二年も前の事を――」

「忘れたか?シズクは、ツグミと同じくらい天才なんだ」

 多少バレてもいいから、やってくれ。それはわざと騒ぎを大きくしろ。だが、シズクは、そこを理解してくれなかったから、本当にバレずに終わらせてしまった。

 その結果、バカな連中がそのまま残していた記録が手に入った。

 防犯カメラもつけないで、外の子供を招き寄せて、二時間も同じ部屋に滞在する。しかも場所はオーダー本部。ならば、そこで記述された記録には、これ以上ない程の信憑性がある。

「シズクの情報を元に、法務科にそれを渡して、これはどういう事かって、問いただしたら、奴らは、何したと思う?」


――――――――――――――


「は、話は終わりだ!さっさと出ていけ!」

 今生で一度も銃など握った事の無さそうな、脂身まみれの身体。吐き気がする。

「そんな二年前の出来事なんて、ただのでっち上げだ!」

「なら、二年前の記録を渡して下さい。保管期間の定めは、もう無くなっているので、ある筈ですよね?」

 パンツスーツの人形は、後ろに背広の俺や病み上がりのマトイを引き連れて、オーダー本部に訪れていた。

「それに忘れましたか?オーダー本部は、法務科から資料の提出を求められた場合、即日、用意しなくてはならない。—―いいからは早く用意して、外で待っている捜査員たちに手首を晒しなさい。あなたに、もう逃げ場はない」

「う、嘘だ‥‥」

 本当に生身の人間が出した声だったのか。蚊が呻くような音だった。

「嘘?」

「あ、あんな子供と取引など、する訳がないだろう?」

 ツグミをあれだけ脅しておいて、そんな言葉で片付ける気か?

「ああ、嘘だ!あのガキにも、疑いが掛かっていた!だから、」

「彼女は、もう何年も家に帰っていないと、入手した書類は書かれています。しかもこれはオーダー本部から発見され、情報部のマークが印字されている正式な捜査結果です。そんな彼女に、どんな疑いが?」

「お、親子だぞ?どれだけ仲が悪くても、こうして取引には応じている!あのガキにも後ろめたい事が」

「この捜査結果には、そんな内容、一切述べられていません。—―さて、次は?」

 逃げ場が無くなっているのがわかったのか、一階ロビーであるここをおもむろに見回し始めた。バカな奴だ、逃げる気か?

「そして、取引内容にも違和感があります。これでは、まるで人身売買のようではないですか?」

 連絡しておいたオーダー本部の連中が、エレベーターやエスカレーターを完全に封鎖した。後ろを振り向いた『ネズミ』は、愕然としている。先に裏切ったのは自身のくせに。

「しかも、どうやら、あなたは『警察』とも深い関係がおありのようで――まだ、続けますか?」

「チクショウがっ!!!」

 脂身だらけの身体で、人形や俺ではなく、マトイに突進していった。だが人形の真横を駆けている時、人形のつま先で足がもつれて、マトイに被さろうとしてきたので、杭を頬に打ち込む。そして、マトイの膝が胸に突き刺さった。

「う、気持ち悪い‥‥」

 吐きそうな声を出して、突き刺した膝をすぐさま抜いたマトイは倒れ込んでくる身体から逃れた。

 そして、外で待機していた法務科が逃走の現行犯で逮捕しに乗り込んでくる。

 また、他の『ネズミ』の連中にも目星を付けていたのか、野次馬の中にいる数人を取り囲んでいく。助かったという表情をしていた奴らは、軒並み絶叫を上げていた。

「これでオーダーに巣くっていた害虫を、完全に排除できます。よくやりました、褒めてあげます」

 人形相手というのが、物足りないが、それでも優しく頭を撫でて貰えるのは悪くない。—―うん、悪くない。

「これで一つ目の条件は達成されました。よってオーダー本部持ちであった捜査指揮権が、こちらへと移行します。まさか、本当にオーダー本部すらも跪くかせる事になるなんて‥‥あなたは、一体、何を目指しているのですか?」

 人形から感じる目には、疑問というよりも、期待が含まれていた。

 何もバレていない時に、オーダー本部へと法務科の名前を使って、巣くっている害虫の名前を伝えた。そして、排除の打診をして、この事を直属の上司であるイミナさんに伝える。お陰で、双方から疑われる事無く、力を借りられた。

「あなたの恋人です」

「狙われてしまいましたね。マスター」

 脂身に突き刺さった膝を、マトイが自身の布で拭いながら、伝えてくる。

「そのようですね」

 だが、その目には、マトイすら気付かない色香が、にじみ出ていた。



――――――――――――――――――――――――――――



「ダッサ、逃げようとするなんて‥‥」

 その清楚な見た目に似合わず、意外と世俗的な言葉で不快感を露わにする。しかも、あの肩の抱き方は寒気を感じているのだ。確かに筋肉を脂肪で覆った重戦車、強靭な関取を思わせるオーダーは恐ろしいが、あの男性は体臭と脂肪の塊でしかなかったのを思い出す。

「これで、オーダー本部から目をつけられる心配もない」

 かなり手間がかかったが、それ相応の意味はある。少しばかり、あの時の恩や謝罪をオーダー本部に求めたところ、嫌々だろうが頷いてくれた。

 でなきゃ殺してたが。

「まぁ、そもそもヒーの身内ってだけで、手を出される事もなかっただろうけど」

 シズクが余計な事を言ったせいで、ツグミが首を捻ってきた。

「あの、そんなに法務科の立場って、すごいの?周りの人、みんな法務科なのに?」

 それは俺も驚いていた。知らなかったが、今この場にいる法務科の人間は、優に20人はいる。確かにかなりの大物ではあったが、それでもこれだけの人員必要か?

「ヒーはすごいんだからね!法務科からスカウトされて、今やオーダー本部からも引き抜かれそうになるぐらいだし!」

「なんで知ってるんだ?」

「また侵入したから。一回入ることさえできれば、あと簡単なもんだよ?私専用の扉と鍵をオーダー本部内のサーバーに」

「程々にな。法務科じゃなくて、オーダー本部がいつか来るぞ」

 雉も鳴かずば撃たれまい。このままシズクに全てを話させると、どこからか嗅ぎ付かれそうなので、慌てて止める。だが、シズクは気にした様子もない。

「平気平気。バレないって♪あんな鈍足どもが、私を捕まえるなんて不可能だから!あの程度のサーバーすら自分で管理出来てないんだよ。穴の開け方なんて、オーダー本部職員の数だけあるから!」

 まぁまぁ辛辣な事を言っているが、シズクの言っている事はわからなくもない。

「そうかもな。結局、誰がいつ侵入したのかも、わかってないみたいだし」

 『ネズミ』関係で、今はそれどころじゃないのかもしれないが、だとしても違和感がある。—――まるで、わざと泳がせていたような‥‥。

「どうかした?すごい怖い顔してるけど‥‥ごめん、調子に乗り過ぎた?」

「全然。この後の報告書とかの提出が面倒そうだなって思っただけだけだから」

 顔に出てしまっていたようだ。シズクが心配そうに顔を覗き込んでくるので、シズクの手を取って、頬に付ける。—―――大きく深呼吸をする。

「ダメだよ‥‥ツグミもいるのに、甘えるのは、帰ってからね‥‥」

「今じゃだめ?」

「ダメ」

 シズク自身も物足りなさそうに、手を引いていく。もう少しシズクに頼りたかったのに。

「ふーん、姉さん、随分ヒジリに甘くなったよね。ついに可愛いって、認めたの?」

「‥‥そうかも」

「‥‥私だけのヒーだったのに‥‥」

 恍惚な表情をしていたシズクは、ツグミの座席すら貫通する視線を受けて正気に戻る。

「わ、私は別に!」

「でも可愛んでしょう?昔は、そんな事は無いって言い張ってたのに」

「ヒーが可愛いのは、昔から!」

 話が長くなりそうな上、先ほどからドアの前にパンツスーツの人形が立っていたので、二人に聞こえないように声をかけて外に出る。今日は熱帯夜だ。冷房が恋しい。

「ついてきなさい」

 人形に指示されるがままに、『両親』の家に入る。中は先ほどとは別の家のようで、床やテーブルには段ボールや木箱、そして家具の扉が全て開け放たれていた。

「彼女たちの様子は?」

 パンツスーツの人形が、背中を向けながら聞いてくる。廊下を歩くたびに足の付け根が揺れているのがわかる。

「どこを見ているのですか?全く‥‥それで?」

「疲れ切っているようでした。今日は、多くがあり過ぎたので」

 隠してこそいたが、ツグミは、車の座席から一歩も動けないでいた。足が震える上、俺やシズク以外とは誰とも話したくないようだった。

「俺が送ります。ツグミの学校には、そう伝えて下さい」

「わかりました。では、今度はこちらの用に付き合ってもらいます」

 廊下を歩いていた人形が、指で階段を差してくる。俺が先頭を歩き、後ろを人形が付いてくる。俺にしか見えないものがあるという事か。

 階段を登り切った所で、見えたきたのは、また廊下だった。もう既に幾人もの法務科の構成員が足を運んでいるようで、床にはスリッパの足跡を埃が作り出している。

「あの部屋です」

 指を差して教えてくれた部屋に、一目散に向かう。何故なら――この家は、『先生』とも繋がりがあったからだ。そして、オークションにも。

 部屋の扉は周りと同じ、普通のドアノブだったが、質感だけが違う。

「トラップ‥‥」

 ドアノブに見立てているが、これはただの飾り。捻れば毒針か電撃が流れていたかもしれない。

「そこの部屋は、私達の管轄になりました。ですから、壊しても構いません」

 逆に言えば、壊してでも開けろという事らしい。俺が。

「あなたがやったのなら、法務科もオーダー本部も何も言いません」

 今回の首謀者である俺には、証拠品を壊すという権利があるらしい。

「なら、遠慮なく」

 まずは、ドアノブを調べて、どこかに針が出るような穴がないか調べるが――何もない。しからば、電撃だ。見た目は木製の扉だが、もしかしたら、中は鋼鉄が挟まれているかもしれない。何も考えずに、ぶち破る事はしないほうが良さそうだが、面倒だ。

「怖いもの知らずですね。手間が省けて、何より」

 飾りのドアノブを杭で叩き落とし、向こう側のノブも壊す。廊下の突き当りにある為、これは押して開く構造だと踏み、残った扉に全力全体重で蹴りを叩き込む。

 重いドアは想定通り、自重を支えきれなくなり、部屋の内側に倒れ込んだ。

 ドアを踏みつけて中に入る。そこは、思った通りだった。

「杖だ‥‥」

 ヒトガタ達の武器である、腕に直接装着するタイプの杖がそこにあった。

 だが、同時に期待外れでもあった。

「これだけですね」

「‥‥そうのようで」

 部屋には、標準的な杖から、あの『先生』や『ハエ』が使っていたタイプまで、ありとあらゆる杖が、店の陳列棚のように飾ってあった。ここで商談をしていたようだ。魔眼を持っている俺達は、一々調べなくても、一目で部屋の中を確認できた。

「—―これで、オークションに関わる人や物は、彼女たち以外いない。これは異端捜査部の長としての命令です。彼女たちを、今度こそ守りなさい」

 今度こそ、と付けた。ならば、俺は今度こそ守らなければならない。もうサイナやカレン、そしてマトイを守れないという失態は犯さない。だが、ひとつ気になった。

「部?課では?」

「聞いていなかったのですね。これまでの秩序維持への貢献が、認められた結果、部に昇進しました。マトイから聞いていませんか?」

「‥‥聞いた、気がします」

「あれだけ二人でいて、何をしたいたのですか?—―答えなくて結構」

 時間があればマトイに甘えていた。そう答えようとした時、口を指で塞がれた。

 呆れた声を出した人形は、手を振って後ろに控えていた人形を呼びつける。

「この部屋は私達が捜査します。何もありませんが。そして私からあなたに言いたい事が。武器を集めるのも程々に、私達の部署だけ力を持ち過ぎていると指摘されています」

 俺が奪ったり、授けられた武器の類は、全てこの人が管理している。

 だけど、そんなに量があっただろうか。

「でも、あるのは刀と杖程度では?」

「あとガトリングに、鎌に、改造猟銃。中でも、『総帥』の鎌はアメリカ支部から返還の請願がされている程。せめて誰かに渡すという分散化をしなさい」

「なら、あなたやマトイが使って下さい」

「集めるだけ集めたら、もう興味がないと‥‥。いいでしょう、私とマトイで好きに使わせてもらいます。そして、然るべき人員にも」

 吹っ切れた、というよりも諦めた、といった感じに胸を張って伝えてきた。

「これ以上は引き止めません。彼女たちを送りなさい。外にマトイもいますから、好きに連れて行きなさい。以上」

 



「マスターは、なんと?」

「マトイを好きにしていいって」

「いつも通りですね。ならば、私もあなたを好きにします。おいで」

 外にいるマトイを乗ってきた改造ワイルドハントに連れ込んで甘える事にした。Yシャツ姿のマトイに倒れ込んで、胸に顔を乗せて頭を抱き締めて貰う。

「マトイー疲れたー褒めてー」

「よく頑張りました。ここ数日のあなたの行動力には、マスターも私も、驚いていました。私も鼻が高い。私のあなたが活躍して評価されている姿を見れて」

 いつも通りにふたりだけの時のマトイは、甘々で、全身で俺を包み込んでくれる。

 しばらくマトイの体温に甘え続けていたら、背中を軽く叩かれた。

「はい、そろそろ時間です。お仕事に戻って」

「でも、まだマトイに」

「私なら逃げません。今晩は、あなたの部屋に誰もいませんから二人きり。だから。ね?」

 甘々なマトイだが、今の時間は、法務科としてここにいるようで、厳しい事を言われた。

 仕方ないとマトイから立ち上がって、手を引いて外に出る。外は法務科の人間達が変わらず慌ただしく歩き回っている。額に汗をかいた姿は、やはり違和感がある。

「なんで、こんなに人がいるんだ?」

 ただでさえ、人が少なくて、人員の保護が叫ばれているあの法務科が、ここまでの人員を差し向けてくるなんて、正直非現実的な光景だった。

「それだけ、今回は失敗出来ないという事です。オーダー本部から簒奪した事件ですよ?もしここで被疑者を見逃してでもしたら、法務科の信用は地に堕ちます」

「—――本当に、それだけか?」

「ええ、それだけですよ。ふふ‥‥」

「ならいいさ。愛してる」

「私も愛してます。ふふふ‥‥」

 確実に裏があるようだが、今興味を持った所で仕方ない。どちらにしろ、俺はツグミとシズクを守る以外の選択肢は無いのだから。

「と、いうのは冗談。実はこの家の前の持ち主に関して、面白い事がわかったのです」

「愛してるのは‥‥冗談‥‥?」

「泣かないで。それは本心です。私を信じて、私はあなたの伴侶ですよ?」

 本気で泣きそうになってしまった。もし、マトイに捨てられたら、俺は、もう――

「ごめんなさい。でも、あなたも悪いんですよ。そんな、いじめたくなる顔をしているのだから。—――帰ったら、どれだけ、愛しているか、教えてあげますね」

 耳元で囁いてくるマトイを信じる事にした。

 シズクとツグミが乗っているワイルドハントに到着すると、シズクが後部座席に移動して、眠っているツグミに肩を貸していた。

「眠ったか?」

 出来るだけ音を出さないように、運転席に乗り、マトイが助手席に乗ったのを確認したところで、エンジンを始動させる。

「うん、ツグミの寝顔、久しぶりに見た、かも‥‥。‥‥ずっとつらかったみたい」

「そうか‥‥」

 二年前の日から今日に至るまで、毎晩、どんな気持ちでベットに入っていたのか。俺には、想像もできない。必ず、もしかしたら明日かもしれないという死刑宣告を受けたツグミの心は、どれほど痛んでいただろうか。

「これから帰るぞ。どこか寄るか?」

「うんん。真っ直ぐ帰って‥‥大丈夫、ツグミとは、ゆっくり話せたから。それに、明日も一緒にいられるし」

 気を遣たつもりだったが、お節介だったか。

「なら、行くか。ベルトはつけろよ」

 声に従ったシズクが妹にベルトを装着させる。本当に、仲の良い姉妹になれたんだと思うと、目を逸らす事しか出来なかった。

 可能な限り車体を揺らさないようにゆっくりと発進、住宅街を走った。街灯こそあるが、店など一軒もない暗い街でのドライブは物悲しさを感じさせる。帰り道そのものに。

「ねぇ」

 そんな道中、シズクが声を発した。

「どうした?」

「あの、君を襲ってきた人の事、何かわかった?」

「‥‥いいや。どうやら、オーダー本部からの差し金じゃなかったみたいだな」

「うん‥‥私も、入り込んで調べてみたけど、何もわからなかった」

 オーダー本部とはイネスの件で少しばかり争った為に、手の内を知られていると思っていたが、向こうは違うと言い張っていた。嘘の可能性も勿論あるが、あの男は、本気で俺を殺そうとしてきた。だがオーダーは総じて、殺人を禁止している。

「‥‥警察」

 マトイの呟きに納得してしまった。

「でも‥‥あり得るの?」

「殺人も辞さない。もしくは、隠し通せる権力を持っている公権力そのもの。この国で、暗殺などという行いを隠蔽できる組織は限られてきます」

 警察なら暗殺も出来る、という認識がおかしいのは重々承知している。だが、実際、秘密裏に人身を造り黙認、隠蔽が気付かれた時、発砲をしてきた連中を俺達は知っている。

「私達は、どうやら本当にこの国を敵に回したようです。そんなに『ハエ』を逮捕したのが気に入らなかったのでしょうか?」

「確か、身柄の引き渡しの要請が来てるんだよな?」

「ええ、マスターも嘆いていました。こちらは暇ではないのに」

 マトイが苦虫を噛み潰したよう顔をしている。実際、苦虫を噛み潰さないとならない状況なのだろう。あの『ハエ』は、あまりに多くに関わっている。なのに、いち政党が捜査を阻んでいる。税金を湯水のように使い、国選弁護人を悪用して数十人も弁護士を雇っている。

「ただ弁護人達も悪評を気にしてか、続々と降りていますから、起訴は時間の問題ですね」

「そこだけが救いだな。—―あいつは、今どこに?」

「ただの人間に戻った彼なら、法務科が懇切丁寧に、保護していますよ。‥‥忌々しいですが、あの『先生』の手を借りて、普通の人間に戻せました」

 司法取引の結果だった。今後一切のヒトガタを用いた犯罪に関わらない、そして法務科の首輪を受け入れる代わりに、牢屋に入らなくとも良い。

「ふざけた話だ‥‥」

「私も同意見です。しかし、彼女の腕は代えが効きません。オーダー街の病院にいるヒトガタの専門家も、今は保護したヒトガタに手がかかりきりですから」

「‥‥施設のヒトガタに関わらないだけ、まだいいか‥‥」

 総数30人。決して多い数だとは思わない。むしろ、30人しかいないのかと思った。あの施設の規模で、たったの30人だ。しかもこれはおおよその数ではない。綺麗に生き残っていたのが、この人数だった。

「私達を襲った相手って、あの施設関係者って事は、有り得ない?」

 鳥肌が立った。そうだ、その可能性も有ったのだ。

「—―気付かなかった」

 完全に見落としていた。だが、マトイはそれに頷かなかった。

「可能性はありますが、あれほどの規模の施設が解体されたのです、しばらくは大人しくしているかと。しかも、直接手を下す襲撃など前例がありません」

「ん~そっか。そうだよね。あの人は、なんて言うか、研究者とかそういう雰囲気じゃなかったし」

 意外と二人が普通に話している光景に、新鮮さを感じる。

「ふたりは、昔から話してるのか?」

 ハンドルを操作しながら、サイドミラーを確認する。

「んーん。イサラのお見舞いに行った時、知り合ったの」

「イサラさんと同じリハビリ室でしたから。ただ、彼女はもうしばらく入院らしいですね。ソソギさんよりも、重症だったので」

 特段、何も言ってくれなかったが、結構苦しかったのかもしれない。白い病院着姿のイサラを思い出しながら、静かにブレーキとアクセルを踏んでワイルドハントを運転し続けた。

 そして、いつの間にか、シズクも寝息を立てていた。

「彼女には?」

「ツグミには話してない──—―話せる状況に置きたくない」

「そう。あなたが選んだのなら」

 このまま、オーダーに関わり続けたら確実にツグミにも話す機会が生まれる。その時、きっとツグミなら受け入れてくれるだろうが、同時に無用な傷も与えてしまう。

「ただでさえ親が秘密裏に武器商人なんてしてたのに、その武器がオーダーと殺し合った。しかも、卸してた相手が世界規模で倫理観が壊れたテロリストなんて――」

 ツグミが、どの程度まで知っているのかは知らない。だけど、誰も教えていない以上、知る手がかりはない筈だ。

「けれど、覚悟しておいて」

 マトイが、後ろを眺めながら告げてくる。

「彼女は、もはや元いた場所には戻れない。もう一般人にはなれない。一時のあなたのような、ただの人間の振る舞いを、この世界は許さない。—―きっと、その事すら、彼女は理解してる。だから、その時は必ず来る。私から言うか、あなたが言うか、それとも肉親から言ってもらうか、決めておいて」

「‥‥マトイは、どうすべきだと思う?」

「私は、ただあなたの求めるままに。自信を持って、あなたの選択は、これまでずっと正しかった。‥‥どうか、迷わないで。そして、彼女にも正しいあなたでいて」

「‥‥俺も、マトイの求めるままにいよう。—―信じていいか?」

「はい。私を信じて。—―あなたの恋人を、信じて」

 ゲートが見えてきた。そして見覚えがある受付の係員さんが指示灯を使って、ワイルドハントを止めてきた。




 ゲートを通過し、寮へと真っ直ぐに帰って来ていた。暫くの間、ツグミは学校を休みオーダー街で生活を送る事と成る。ツグミ自身、もうすぐ夏休みだから、学生生活に影響を及ぼす事もないだろうと受け入れてくれた。

「起きたか?」

「うん、軽く寝たお陰で、もうバッチリ!」

「ゲームのやり過ぎで、短い時間しか眠れないんだろう。ツグミと一緒に体内時計を直せ。それと、ふたりが待ってる」

 スマホを渡して、シズクと目元を擦っているツグミに教える。

 シズクは待ってましたと言わんばかりに、車から飛び降りたが、ツグミの顔が晴れない。

「‥‥あの、お二方ともオーダー、ですよね?」

「この街にいるのは、大半がオーダーだ。—―怖いか?」

「‥‥少しだけ」

 ツグミが初めて話したオーダーが、あんな奴じゃあ、オーダーに不信感を持って仕方ない。だが、そこはどうにか我慢してもらわねばならない。

「ちなみに言っておく、待ってる二人は俺の身内。家族だ」

 そんな話は始めて聞いたからか、ツグミの頭から疑問符が浮かんでいた。

「え、家族?」

「遠い親戚って、ところ。だから信じてくれ。シズクの友達でもあるから」

 ツグミを保護する事となったのは、シズクと俺だけじゃない。何かあった時ように、どんな相手でも、叩きのめせるソソギ。また今後の仕事で、必要な技術を教えられるカレンもだった。

「オークションが始まるまでの10日間、カレンから技術を盗んでくれ」

 この俺にでさえ、ものを教えられたカレンだ。ツグミであれば、カレンの出す及第点も難なくクリアできるだろう。

「あの、ヒジリさんも、一緒に部屋まで」

「悪いが、この時間じゃあ、女子寮には入れない。大丈夫、オーダーの女子寮だぞ?この国で一番安全で危険な場所だ」

 念のため、ネガイとミトリ、そしてサイナも待機している。この戦力なら、守るどころか殲滅すら可能だろう。

「おやすみ。また明日な」

「‥‥はい、また明日。—―朝、来て下さい」

 返事をする前に、ツグミは車から降りてしまい、長い金髪がなびく後ろ姿をつい眺めてしまった。

 ツグミの後ろ姿が、見えなくなった所で、マトイに頬を引かれる。

「年下が好み?」

「年下も、好み。戻ろう」

 ワイルドハントを操作して、オーダー街行政地区に戻る。この車を返さないといけない。そして、夕飯が恋しくなってきた。

「強くていい子ですね」

「ああ、昔から、ツグミはいい子なんだ」

「でも、抱えやすい子のようですね」

「‥‥そうだな」

 ツグミは、本当に一人で戦っていた。オーダーという巨大な組織に、家族という強力な関係を人質に取られて。そして最後は、商品として競売にかけられる所だった。

 ――――並みの精神力じゃない。

 そこに、マトイのスマホが鳴った。

「ネガイです。入寮を確認、真下の部屋で待機を続けます」

 頼んでおいた確認の連絡をしっかりと行ってくれた。だが、それだけでいい筈なのに、ネガイとマトイが私語を始めた。

「聞きましたよ。彼がツグミさんを説き伏せたと、そんな術、一体どこから?」

「いつも通りですよ。最初は攻めるのに、途中から失速して、最後は相手方に飲み込まれるという、普段の彼です。音声があるので、後で聞きますか?」

「はい、今後の参考にします。ふふ‥‥きっと、可愛いかったのでしょうね」

「ふふ‥‥聞けばわかりますよ。こうやって、みんなを落としたのかと、改めてわかりますから」

 なかなか終わらない連絡と、色香を携えたマトイの瞳を向けられて、冷や汗と共に、この後、俺はどうなるのかとという期待ばかり先行していた。




 一度、ゲート近くの駐車場に戻り、人形の一人に我らが部署の備品であるワイルドハントを返還した。そして用意してあったヘルメットをマトイに渡す。

「身体は、平気か?」

 本当は、マトイこそもうしばらく休んで欲しかったが、オーダー本部を相手にすると言ったら、退院日を繰り上げて、仕事に参加してしまった。

「平気です。それに、私は軽い脳震盪程度。あなたとの約束はありますが、ずっとベットの上では暇です。まぁ、あなたとなら、ずっとベットも上でも、構いませんが」

「平気って事か。安心したよ」

 先にラムレイに、跨り、マトイ後ろを勧める。

「やっとあなたの後ろに乗れましたね」

 ヘルメットを装着したマトイが背中にパンツスーツ越しの肉体を押し付けて、腰を長い足で挟んでくる。血が燃え盛っているのではないかと思うほど、マトイの身体が熱かった。

「捕まってろ。それと、慣れないうちは運転中に無理して喋るな。舌、噛むぞ」

 静かなエンジンの立ち上がりを身体で感じてから、スロットルを回す。一人の時は気にも留めないが、二人分の重量があっても、この全くパワーが下がらない一回転目の車輪には頼もしさを感じる。

 ラムレイは、真夜中の街に相応しい静かな音のままマフラーを震わせる。例え、電気とガソリンのハイブリットだとしても、この静かさには一種の恐怖心を覚えた。

「このバイク、ありがとう」

 赤信号になった時、背中に投げかける。

「もう何度も聞きましたよ。でも、あなたが喜んでくれるなら、マスターにお願いした甲斐がありました。しかも、スポンサーにまで、なってもらえるなんて」

 このラムレイは、マトイがイミナさんにお願いした事から始まっている。しかも、日本オーダー支部技術開発部門という費用など気にも留めない連中がスポンサーとなってくれている。段々と、俺は、マトイの望んだ通りのオーダーとなってきた。

「スポンサーか。具体的に、何をすればいいんだ?」

「定期的な走行情報の提出。といっても、このバイクにはGPSがつけらているので、呼び出しがかからない限り、勝手に向こうが収集するらしいですが」

 赤信号から青になったので、発進させる。周りには誰もいないが、堂々と信号を破る訳にはいかない。その上、GPSまで設置されているとなれば、話は別だ。

「美味い話には、裏があるな。これは俺への首輪か?」

「さぁ?どうでしょうね。ふふ、でも、今更あなたに首輪を付けようなどと、誰も思ってもいないかと」

 舌を噛むぞと自分で言っておいて、自然と話しかけてしまう。改めて視線を前へと向け、視界の隅にある真後ろから近付くヘッドライトに気を回す────そして、気付いた。

「マトイ────布を使って捕まってろッ!!」

 言い終わるや否や、マトイは命令通り、俺の身体と自分の身体を布で結び付けた。

 迫り来る車両を躱すべく、スロットルとクラッチを操作、そしてハンドルを握った状態で体重を真横に落とし、アスファルト寸前にまで車体を倒す。

 躱した車が過ぎ去る寸前────右のクラッチを離す。エンジンが止まらない程度に力を車輪に浸透させ、最短でラムレイを立て直す。次いで方向転換。過ぎ去りつつある車に並ばせる。その時には、スロットルから手をM&Pへと移動させていた。そして、マトイも。

 ふたりで並走する車両、レクサスLSのボディーにM&Pとベビーイーグルの40S&W弾を放ち続ける。防弾性なのは百も承知だが、確実に跡が残るように撃ち続ける。

 最後にM&PからM66を抜いた所で、レクサスLSはその馬力を用いて無反動で回転、鮮やかなドリフトを繰り出す。刹那の間、ラムレイと対峙をしたが逃走を始めた。

「追って!!」

 マトイの指示の元、ラムレイでスロットルをM66を握ったまま全力で回し、排気ガスを浴びるように追いかけ続ける。

 レクサスLSは、確実にゲートに向かっていた。だが、もう遅い。

「法務科です!!ゲートへと向かう不審車両を確認!」

 マトイが身体は布に任せて、ゲートへと連絡を終わらせた。

 ここからゲートまでは、ほんの数分で到着する。しかも、今度こそ挟み撃ちが出来る、これ程、楽しい時間もない。

 容赦なくスロットルを操作して、レクサスLSを事故らせるように近づく。

 窓を開けて、M1911を覗かせて放ってくるが、当たる訳がない。二台のスピードはどう見ても100キロは軽く出ている。拳銃の弾が、100キロ越えの車体を追える訳がない。ただの人間ではな。

「そのまま逃がさないで!」

「言われなくても!!」

 一瞬スロットルから手を離し、M66を宙に置く。スロットルが戻る前にクラッチから離した左手で、M66を取り、前方に向ける。そして、格の違いを見せてやる。

「貰った」

 星に呼びかけ、空から狙いを定める。車体を透過して、奴のバックミラーへと向けられている目線を確認する。次に狙うであろうラムレイのタイヤへと向けられる銃口の位置を特定。窓から覗かせているM1911が置かれる空間へとM66の銃口を先に合わせて、撃ち落す。

 慣性の法則に従って流れてきたM1911をマトイが自身の布で受け止める。

 また、M66も。

 眼前まで迫りつつあるゲートに対してレクサスLSは、全くスピードを緩めない。逃走に全てを振り切る走行に目を細めてしまう。通報したのがほんの数分前だった所為だ、未だ装甲車の準備に穴が視認出来てしまった。

「まさか‥‥っ!?」

 マトイが声を出した。その瞬間にはわかっていた。星ではわからない、人間の思想が。

 僅かに曲がったと思った、その時レクサスLSの片輪が浮いた。そのままオーダーの装甲車と装甲車の間を縫ってゲートへと突貫しようとしたが、装甲車がタダでは許さなかった。

 エレベーターの扉のように、装甲車の車体が閉まっていき、レクサスLSの上と下の車体を削り取り、スピードの4割近くを奪う。だが倒れる寸前となってもレクサスLSは止まる気配がないまま、ゲートへとタイヤを回していく。

「逃げられると思うな」

 声を荒げる必要は、もうなくなった。M1911とM66をマトイへと任せた時、腰から杭を引き抜き、一歩先に到着する予定の足元へと離していた。

 慣性に従い、杭はその場にコンマ数秒残る。そして、俺はそこには前輪ではなく後輪を到着させた。ブレーキを、全力で握り、グリップを操作。二人分の重量と車体全体を使って、後輪のホイールに杭を当てる。その瞬間、杭は真っ直ぐに飛ぶ。

 噛みつくように、突き抜けるように、杭はレクサスLSの後輪に突き刺さり、回転を阻害した時、レクサスLSは、破片をばら撒きながら横転した。

「封鎖完了!!」

 聞き覚えのある声が響いた時、ゲートからけたたましいサイレンが鳴り響き、ゲート職員たちがテーザーガンやワイヤーフックを手に持って、横転したレクサスLSを取り囲んだ。

「ここにいてくれ」

「わかりました。これを」

 任せていたM66を受け取って、歩きながら空の薬莢を地面にばら撒いて装填を始める。

「お世話になります」

「お世話します」

 低い背にはまるで似合っていないライオットシールドを手にした職員さんを越えて、横転している車両へと近づく。

「出て来い。生きてるだろう」

 そう聞いた瞬間、ドアを蹴り破ってあの時の男が這い出てきた。

 俺とシズクを襲ったスーツ姿の男だった。背丈は190cmに届くだろう大男の手の甲から血が流れていた。確実に、俺が原因だ。

「あの銃はこっちで回収した。返してやろか?」

「好きにしろ。得物は選ばない主義だ」

 あれだけ使いこんだ跡があるというのに、強情な奴だ。今までずっと最前線で共に生きてきたのが、すぐにわかる程だったのに。

「あんた警察の人間じゃないよな?なんで、それに乗ってるんだ?」

 レクサスLS、センチュリーから代わった公用車の一台。高レベルの静穏性と頑丈さが求められる要人輸送車の試験をクリアした、高級なセダンだった。

「誠に遺憾ながら、俺の身分を保証してくれているのが、この国では警察となっている」

「傭兵でもないだろう。しかも、オーダーでもない。誰だ?」

「それを語る自由を、俺は持っていない。理由は察してくれ」

 見た目は日本人だと思ったが、この短髪の黒髪は染めているのか?

「警察相手なら、この場で叩きのめすつもりだったが、他所の人間なら話は別だ。大使館職員に連絡して、身分を証明してもらえ。それまではオーダーが保護する」

「ここまで痛めつけておいて、保護か」

 親指で、後ろで横転している車を差してくる。どうせ警察の車両だ、気に留める必要はない。

「本当なら、その首でも取るつもりだった。試すか?」

 星はまだ俺の呼びかけに答えてくれている。タイマンであっても、集団であっても、全員血塗れに出来る。

「‥‥怪我か病気か知らないが、完治して何よりだ。ローマにしてくれ」




「まさか祓魔師だとは‥‥想像もしていませんでした」

 奴が選んだのはローマ教皇庁大使館だった。それを聞いた瞬間、マトイが眉をひそめながら「まさか」と呟いていた。また、これで今日二回目の溜息だった。

 詳しくは知り得ないが、腰に差している『魔女狩りの銃』の出所の可能性があるらしい。

「俺、もしかして、まずい事した?」

「いいえ。祓魔師を暗殺者のように送り込む方が問題です。バチカンには強く抗議しなければ。ただ、向こうはオーダーではないので気にも留めないでしょうが」

 大人しく手錠を受け入れた男は、そのまま行政地区へと輸送された。

 だが、マトイ曰く明日にでも解放されるだろうとの事だった。それほどまでにバチカンの祓魔師とは政治的に特異な立場との事だった。男性が悠然と佇んでいた理由も納得する。

「詳しく聞かない方が良さそうだな。奴は、何をしに来たんだと思う?」

 マトイとふたりで用意した夕飯は、夏野菜とシーチキンを使った冷製パスタ。軽く入れたシーチキンの缶詰の汁が、パスタに良く絡み、オリーブオイルや塩といった調味料をほとんど使用しなくとも問題はなかった。むしろ芳醇な煮汁がかき消されてしまう恐れさえある。

「私にもわかりません。ですが、資料館にいた人物と同じ。そしてあなたを敵と言ったのならばオークションの関係者と考えて間違いないかと」

 マトイが念を押してきたので、それで間違いないようだ。だが、同時に謎も浮かぶ。

「どこから話が漏れたんだ。シズクと出掛けた日なんて身内しか知らないのに—―—―身内が俺を売る理由も、今のところ見当もつかない」

 資料館潜入に関わった身内が『俺を売った可能性』を否定はしないが、それでもわざわざそんな事をする理由がわからない。だから、多分違う。

「あの男から聞き出そうにも、もう無理かぁ」

 マトイから、大きいシーチキンの塊をフォークで向けられたので無防備に口に含む。

「もしここで私が毒でも含ませていたら、どうする気だったの?」

「マトイの世話になって、風呂と布団の支度をしてもらう」

「二度と目が覚めない毒だったら?」

「夢に出てやる」

「楽しみにしていますね」

 口を付けたフォークを、マトイは朗らかにひと舐めしてパスタに刺した。

「祓魔師はバチカンの命令でしか動きません。命令内容は死しても守りきり、命令遂行の為なら命を捧げる。ある意味において法務科とも似通っていますが、主義が違います」

 法務科の主義とは、どこまで行っても秩序維持。オーダー本部の『ネズミ』を逮捕したのだって、秩序維持にとっての弊害だから下しただけだ。必要がなければ、何もしない。

「バチカンの為?」

「はい、としか言いようがありません。彼らの行動はいつも不可解です。彼ら自身にしかわからない暗号や隠語、あるいは宗教儀式、そういった憶測や妄想でも使わなければ説明ができません」

 説明しているマトイ自身が頭を抱え始めた。心に詰まるものがあるようだ。

「マスターなら何か知っているかもしれませんが、忙しい人ですから。向こうから接触しない限り教えてくれないかと。ただでさえ、ここ数日の――—―せっかくの二人きりなのに、愚痴や仕事の事ばかり。こっちに来て」

 頭を振って笑顔を作ったマトイに従い、呼吸の届く隣へと移動する。

 長い黒髪を従える漆黒の麗人に、自分は持ち合わせるべき言葉を向けられなかった。数回数秒もの呼吸を行い、時間を与えてくれた恋人にようやく顔を向けられた。

「悪い。退院早々に巻き込んで。退院祝いだって出来てないのに」

 肩に手置いて声をかけるが、結局これしか繰り出せなかった。気に掛けられなかった。

「いいえ。もうお祝いなら受け取りました。起きた時、あなたの顔が真っ先に見えましたから。私、またあなたに救われたの」

「あれは‥‥あれは、ミトリにそろそろ目を覚ましそうだって言われたから—―—―」

 公園に設置されていたテント内のベットで手を握るしか出来なかった。僅かに感じる血管の脈動と震える瞼に全神経を集中、ただ祈るしか望められなかった自分に、目を微かに開けてマトイが笑いかけてくれた。

「救われたのは俺だ‥‥。あの時の俺は、まともじゃなかった。マトイが笑ってくれたから、あの夜にもう一回頑張れたんだ」

 ずっと心残りだった。サイナとカレンを救い。『ハエ』や『先生』を捕まえても、心は晴れなかった。何もかもを取りこぼし、無用な怪我を負わせてしまった皆んなの顔を見れなかった。だけど一瞬、ほんの一瞬だけ、マトイが見せてくれた笑顔に救われた。

「謝らないで。あれは私の腕が足りなかったから起こってしまったの。私も、頑張るから。だから私を信じて。私はあなたの伴侶。どうか、あなたの半身を信じて」

 肩に置いた手を握ってくれた。白い手が、尚更白く染まるまで力を込めてくれる。

 ようやく与えられたこの痛みが、ただただ愛おしかった。

「‥‥マトイ」

「人間が嫌い?」

「‥‥信じて、愛して、いいのか?」

「ええ、信じて。だから、ミトリの事も愛して。ただの人間の事なんて信じなくていいから」

 矛盾などしていない。この身体の中身を正体を知っているのに、手を貸している人間達は、もはや人類の反逆者だ。まともな人間ではない。ならば—――信じられる。

 人類を裏切ってくれた背信者達に、自分は救われ続けていた。

「‥‥ミトリに謝らないと。怒ってるよな」

「さぁ?でも、待っていますよ。直接言ってあげて。さもないと私が怒ります」

 心臓を一突きにされた。そのまま肺を両断する恐ろしくも美しい刃の笑みに安堵した。誰かの為に作られた表情に確かな絆を感じた。2人の心配する必要は本当に無さそうだった。

「わかった。じゃあ、今から」

「今はそう言いましたが。今日は私の時間です」

 いつの間にか、重ねていた手の手首に布が巻き付いていた。こんな事をしなくても逃げたりなんかしないのに。

「まずは夕飯を済ませよう」

 そう言った当のマトイは手首から布を解いてくれない。むしろ徐々に腕に巻き付いていき、ついには肩にまで届き上半身の自由を奪われた。

「ドキドキしてます?」

「‥‥少しだけ」

「楽しんでくれて何より。聞きましたよ。ツグミさんに最後まで食べさせて貰っていたと」

 フォークに巻いたパスタをマトイが、差し出してくる。迷わず口に入れて咀嚼する。

「長い入院生活で、少しばかり暇で。あなたもずっとはいてくれませんでしたし。なのに、こんなに楽しそうな事をしていて。ふふ‥‥仲間はずれにされた気分でした」

 もしかしてマトイは怒っているのだろうか。怒っているのだろう。

「どうすれば許してくれる?」

 次から次へと差し出されるパスタを口に入れていると、マトイがフォークをまたひと舐めして、見つめてきた。

「なんでしたか?そう、スタンガン。あれが最近のお気に入りだと聞きましたよ」

 否定したいところだが、昨日もネガイに使われたので、違うとも言えない。

「ネガイの部屋にある」

 マトイに見下ろされながら、電撃で気絶できる。そう思うと、心の底から‥‥ベットが恋しくなる。

「もうみんなの部屋にあるのでは?」

「‥‥かも、な」

「なら、私の寝室にも用意しておきましょう。さぁ、立って、夕飯はまたあとにしましょう。‥‥私も、我慢できそうにありません」

 マトイの肩と背中に手を付けたままで、立ち上がり、マトイの部屋に向かっていく。扉を開けた時、まず最初に目に入るのは、マトイの私物らしい年季の入った調度品である棚やアンティークの数々、いつの間に入れたのかと不思議ではあるが、考えない事にする。

「ここで待っていて」

 ベットエンドに腕を括り付けられて、身動きが取れなくなる。俺を残して、マトイが部屋から出ていってしまい、一抹の不安と、興奮が、同時に苛んでくる。

 なかなか帰ってこないマトイへ、今か今かと心臓が身体を置いて飛び出しそうになる。今すぐ、マトイを見つけて抱きしめたい。

「マトイ‥‥」

「はい、お待たせしました」

 戻ってきたマトイの姿に、少し冷や汗をかいた。

「懐かしいな」

 あの時、救護棟で俺を待ち構えていた姿に、似ていた。だけど、少し違う。

「デザインを変えてみました。ほら、例えば」

 聖別であるベールこそしていないが、ドルイド僧の姿というよりも、シスター服に近い。そして、むやみに深い足元のスリットから覗く普段よりも赤い足から、目が離せない。その上、下に何も着ていないのが、シスター服に浮き上がっている胸元で分かる。そんな、かなりきつそうなシスター服へと、手を伸ばしたくなる。

「気に入りましたか?」

「‥‥はやく、解いて」

「そんなわがまま、私が許しましたか?」

 いつもの優しいマトイの声なのに、目つきがまるで違う。罠にかかった哀れな獲物を前にした捕食者の色をしている。実際、これから俺は、マトイに食べられる。

「いい顔ですね。その顔に免じて、解いてあげます」

 手首の布がほどけた瞬間、マトイに跳びかかろうとしたが、それを見越していたマトイは一歩下がり、空振りになった俺に、黒い得物を突き出してきた。

 本当に、心臓が止まるかと思った。

「大丈夫、スタンガンです」

 安堵した瞬間、胸を焦がす痛みと全身の筋肉が溶ける脱力感に襲われる。痛みに耐え、しばらく身を晒し続けるが、ついにベットに背中から倒れ込む。そして、マトイは突き付けたまま上へと跨る。

 もはや自分は、ただの獲物だった。マトイという女主人に見染められた哀れな奴隷でしかない。

「私という恋人の厚意を忘れて跳びかかろうとするなんて、あなたには罰が必要ですね。怖い怖い、二度と私に逆らえなくなる窒息するような罰が。だから息なんて許しません。その身で感じなさい」

 充電など一切気にせず、胸へと電撃を浴びせられる。

 まぶたを閉める事さえ忘れ、マトイの漆黒の瞳を見つめ続けた。楽しげに、サディズムに柔らかな腰を擦り付ける姿に絶頂の間際を覚えた瞬間だった─────快楽が一瞬で止められる。

「いい顔。今日は夢は使いません。現実のあなたをいじめるとしましょう。どう?嬉しい?」

 言葉を吐き出す為の筋肉すら動かせない。肺に使う電気信号を、うまく操作できない。

「無視ですか?」

 急に不機嫌になり心臓を掴まれる。肺どころか心臓さえマトイの物となった。

「気持ちいいですよね?気持ちいいって言って。ほら、早く」

 せめて唇だけでも、その形にしようとしても、まるで言う事を聞かない。だけど、腕だけは動かせた。胸につけている両腕を掴んで、更に引き入れる。

「あははははは!そうですよね!?これが良いんですよね?よくわかりました。あなたが痛いのが好きって事が。もっと早くあなたをいじめればよかった!」

 声高に叫んが、深く大きく深呼吸をして先ほどのサディズムな瞳をやめてしまった。

「ごめんなさい。痛かった?」

 慈愛に満ちた顔に戻り、見た目通りの優し気なシスターと成って顔を近寄らせ、柔らかな身体を押し付けてくる。ネガイと同等の谷間がシスター服の上からでも感じ取れた。

「痛かったですよね‥‥。ごめんなさい、許して」

 別人になったように、マトイはスタンガンを枕元において、唇と舌を差し出してくれた。ずっと触りたかった、柔らかくて滑らかなシスター服を抱きしめ、温かなマトイの口の中へ入る。入れた瞬間にわかった。マトイも、待ち望んでいたのだと。熱せられた舌と唾液で絡み付き、布越しの下腹部を合わせる。

「平気。どうだった?」

 引き抜いた時に零れ落ちた唾液が水溜りをつくる。それをマトイが、サイドテーブルにあるちり紙で拭きとってくれた。傍らには既にゴミ箱が用意され、自分の部屋の用途は、それ以外無いと告げて見えた。

「嬉しそうでしたが、同時に想像以上に痛そうでしたね」

「あれぐらいがいいんだ。マトイも試す?」

「‥‥少し怖いので、今日は見学だけで」

 怯えた表情をしたマトイを見た時、心に魔が差してしまった。

 マトイを抱いたままで、寝返りを打ち、そのままもう一度口に入る。目を閉じないマトイと至近距離で見つめ合っていると微かに笑った。柔らかな修道服の生地を握り締め、受ける衝撃に構えた。

 そして、俺が望んだ通り、首にスタンガンを充てる。だけど、それはもうシズクにされて慣れていた。

 首へのスタンガンで、気絶か動けなくなると思っていたらしいマトイは、驚いた表情こそしたが、電撃を放つ玩具を止めなかった。しばし、電撃の快楽に耐え忍び余韻を味わっていると、悔しそうに紡ぐ。

「負けた気分です」

「始めて、勝ったな」

 そう言ったものの、首へのスタンガンにより、体力を丸ごと奪われてしまい、マトイの胸で休む事になった。倒れ込んだ頭をマトイは肺のふくらみで受けめてくれる。

「‥‥疲れました?」

「ちょっとだけ。でも、少し休めば、元に戻るから待っててくれ」

「よかった。私も物足りないと思っていたので。それに、あなたにベットで負ける訳にはいきませんから。楽しんで下さいね、今晩は、私の時間です」

 身体中にマトイの布が巻き付いてくる。そして、服を脱がしてから身体を撫でられる。興奮を煽る様に肌を愛撫する布は、柔らかいシスター服の生地を用いられている為、同時に眠気をも誘われる。

「理性など捨てて溶け合いましょう。そして、私を喜ばせて。あなたは、私の物」

 頭が眠り始めた所為で、心のタガが外れていくのがわかる。マトイの手と吐息を頼りに、口へと辿り着く。溢れ出る唾液の湖に舌を投げ入れて、柔らかな足に手を伸ばした。





 起きた時、誰かの顔が見れるというのは、幸福だ。それが恋人の顔であったなら、何よりも嬉しいだろう。そして、そんな恋人と朝一で愛を確かめ合う事が出来るのは、至福の時間だ。

「続けたい」

「ダメですよ。ツグミさんの迎えはどうするんですか?」

 白い肌を晒し何も身に着けていないマトイは、手から生み出した黒い布を羽織って部屋から出て行ってしまった。俺は、夜中、ずっとマトイに遊ばれていたので、起き上がる気力がまだ湧きそうになかった。

 しばし、目を閉じて微睡みを楽しむ。だが、そんな時間をスマホに破られる。

「どうした?」

「あ、一応報告ね。昨日は何もなかった。ツグミも落ち着いて、眠ってくれてる」

 シズクからの報告を聞いているとYシャツを羽織るマトイが湯気を放つカップを、二つ持ってきてくれた。時間を見れば、まだ6時。サイドテーブルに置きながら足を組む姿に見惚れながら言葉を絞る。

「意外だな、こんな朝早く起きてるのか」

「え、あ、うん‥‥そう!私、ずっとゲーム」

「心配か?」

 ずっとゲームをしていた。そう言い出しそうになったから、止める。

「‥‥ちょっとだけね」

「平気だ。そこにはみんながいる。逃げるだけじゃない、反撃だって出来る。ゆっくり」

 寝てくれ。気を使って昼間まで休んでくれと言おうと思ったが、

「姉さん、まだ!?私一人じゃあ、もう防衛線を!」

「説教だ。待ってろよ」

 お淑やかに笑っているマトイから、コーヒーを受け取りながら伝える。

「ち、違うから!朝早く起きて、暇だから」

「せっかくここまで8時間かけて辿り着いたんだよ!また負ける気!?」

 スマホを切って溜息をつく。だが、隣に座っている黒髪の恋人に頬を突かれた。

「私達だって眠ったのは夜明けだったでしょう?」

「そうかもだけど、ツグミは」

「姉妹で仲良くしたい。それだけでは?」

「‥‥そうかもな。それだと、いいな‥‥」

 そう思う事にしよう。あのふたりの中がこじれ始めたのが、一体いつからなのか、もうそれはふたりでもわからないだろう。だから、これからは、普通の姉妹であって欲しい。ただ徹夜でゲームは少し問題だ。俺も人の事を言えないが。

「私はこれから、マスターの元に向かいます。あなたは、ツグミさんの所へ」

「ああ、わかった」

 そうは言ったものの、Yシャツ一枚で隣にいるマトイを見て理性的でいられる筈がない。それにマトイ自身も、わざと足を組んで腿の柔らかさ、深い谷間を見せつけてくる。前のボタンを止めていないから尚更朝日に灯された白い肌が艶かしかった。暗い夜ではわからない、肌の光沢に魅入られる。

 まずはカップをサイドテーブルに置いて見つめる。そしてマトイもカップを置いてから両手を広げてくれたのを確認して、有無も言わさずYシャツを毟るように跳びかかった。



「なんで一緒になってやってるんだ。止める側だろう」

「そう?私は、むしろ一緒に遊んで緊張をほぐすべきだと思ったのだけれど」

「‥‥それもそうか」

「なんで、ソソギが言うと、納得するの!?」

 不思議と、四人とも寝不足さを感じさせない受け答えが出来ていたので、それでよしとしたつもりだが、シズクには、それがソソギへのひいきに見えたらしい。

 俺の膝に自然と跨って、肩や頭を叩いてくる。やっぱりシズクって、腕力ない。

「わかったわかった。一旦降りろ。ツグミに見られてるぞ」

 肩に手を置いて、伝えるとシズクは意外と素早く隣のソファーに降りた。

「姉さん‥‥そんなに積極的になってるなんて‥‥前は、二人きりの時にしか、そんな事しなかったのに‥‥」

 5人分の朝食を、この部屋のキッチンで準備するなどキャパシティに無理な話だと思っていた。この疑問を解決したのは、カレンが運び込んだ巨大なホットプレートだった。

 ホットプレートをテーブルに設置し、コンセントの準備を整えて電源を入れる。慣れた手付きで、カレンとソソギが卵やパンの準備していく光景は工場のようだった。最短で、最善な利益をもたらすこの調理方法は、ふたりにとって望ましいのかもしれない。

「昨日はよく眠れたか?」

「‥‥はい!よく眠れたました!」

「そうか、ならそのクマはなんだ?」

 慌てて洗面所に向かうツグミの背中を見送って、カレンを見つめる。

「これから、しばらくツグミの世話を頼む。いい子だろう?」

「うん、人間とは思えないぐらい、すごいいい子。レアドロップも――とにかくいい子」

「‥‥まぁ、いいか」

 カレンもソソギも、俺では会得出来ない技術を持っている。カレンは勿論、ソソギも、特別捜査学科からスカウトを受けた程の逸材。これから必要になる、見られているが、疑われない技術をツグミに教えられる数少ない講師だった。

「悪いな。ソソギも病み上がりなのに」

 焼けてきたパンをひっくり返して聞いてみるが、ソソギは頬を膨らませた。

「まだ早い?」

「でも、私が頼まれているのは、これだけ。そのオークションにも、乗り込むつもりだったのに‥‥どうして?」

「さっき言っただろう。ソソギは病み上がりだ。無理はさせられない。言っとくが、マトイも病み上がりだから、今回は休んでもらう事になってる」

「‥‥あのマトイが、引き下がったのなら‥‥私も、そうする」

 あのマトイという言い方は相当だ。あのソソギにここまで言わしめるとは、一体どんな方法で、マトイは二人を仕事に誘ったのだ?気になるが、聞かないでおこう。

「それで、ツグミを守る方法は、あれで本当にいいの?」

 シズクが心配そうに聞いてきたが、実際の所、アレしか術ないと思っている。100%とはあり得ないとわかっているが、ツグミを守る方法としては最善だと自負していた。

「アレしかないって思ってる。ツグミには話したか?」

「最初に話した時、驚かれたけど、それなら大丈夫って言ってた。‥‥私も、オークションのやり方に従うしかないとは思ってるけど、それまでツグミに」

「ツグミは、大事なお客様で、大切な品だ。傷つけるような真似、もしオークションの運営側がした場合、全員消される。そこの潔癖さは、信用していいって思う」

「‥‥わかった、納得してみる。‥‥ねぇ、やっぱり私が」

「声色に体型、それに体重、あと、目の血管。若干だが違うだろう?バレたら、シズクどころかツグミまで危ない目に会う。それに、ツグミはそうなって欲しくないから、ここまで来たんだ。それでもやるか?」

 シズクがカレンの身代わりとなって、出品される。まず最初にシズクから、そう打ち明けられた時、戸惑ったがなるほどと思った。けれど、それは出来ない。

「納得してくれ、とは言わない。だけど理解して欲しい。それとも、俺とツグミが信用できないか?」

「ツグミにも手を出すんじゃないかって、心配ならある」

 カレンがつま先を踏みつけ、シズクが肘を脇を刺し、ソソギが楽しそうに眺めている。

「し、仕事中は」

「仕事中は、ですか。私ならいつでもいいよ」

 戻ってきたツグミは、顔のクマがきれいさっぱり消えていた。

「ヒーなら、乱暴な事しないって知ってるから。むしろ乱暴な事されたいんだよね?前みたいに」

 ぐりぐり、ぎりぎりと二人のお仕置きが、徐々に強くなっていく。

「ふーん、前っていつ?」

「乱暴な事って、どんな事?」

 結構痛いお仕置きに声を出せず、ツグミとソソギに視線で助けを乞うが、気の合うらしい二人は、隣同士に座ってホットプレートの食材に手を付け始めた。





「ツグミさんの様子はどうですか?」

 オークションが始まる来週まで、ツグミはカレンとソソギによって、出来得る限りの技術を学ぶ事となった。シズクも側にいるらしいが、どれ程役に立つか。

「筋がいいらしい。やっぱり、ツグミはシズクよりもああいうのが得意みたいだ」

 ツグミの真剣さが伝わってくるようだった。足元を見ずに階段を降りるという一歩間違えれば、骨折でもしかねない危険な訓練を、ツグミは望んで行っていた。

「でも、大丈夫なんですか?その‥‥ツグミさんをオークションにかけた人は、学校の関係者なのに‥‥長くツグミさんがいない事がわかったら」

「あくまで、ツグミは親の事件に対しての聞き取りって事で、保護されてる事になってる。それに――そんな事、向こうは百も承知だ」

 あの方が言っていた『蛇』という人間であろう者が、どのような人物なのか知らないが。その『蛇』とやらは、ツグミを売り払う事で、身の安全を目指している。ならば、この状況は願ったりだろう。そう‥‥まるで、こうなる事を想像していたように。

「ツグミの身の安全は、俺が保証する。もう二度と、奪われたりしない。それよりどうだ!?」

「はい!すごい楽しいです!!」

 背中に捕まっているミトリが、大きく声を上げた。

 ここはオーダー街にあるサーキット場。ここでは普段、車両運転の練習や新車両の実験を行っていた。そして、今日俺とミトリが来た理由は、後者だった。

「全然揺れませんね!!それに風が気持ちいい!!」

 意外とスピード狂なのか、ミトリは今まで見た事がないテンションで声を荒げている。

「そうだろう!?俺も!ここまで何にもないと!楽しくてしょうがないッ!!」

 耳元のマイクに従って、クラッチを操作、ラムレイの能力を最大限に引き出しダンデム中の最高速度で車両の安定性を維持する。そして実験は、成功したようで、マイクから「congratulation!!!」という声が聞こえてきた。努力の礼を言いたいのはこちらの方なのに。

「もう一回りしたら戻るぞ!!」

 最後にライダースーツに、もう一度風を浴びせる為、大きくサーキットを回って、ミトリと共に声を荒げる。ダンデムでの運転は、なかなか前例がなかったらしく、激しく喜ばれた。



「最高でした!!次はいつ?」

 ネガイに話しかけるような訊き方で、次の日程を聞いてきた。

「次は来週だ。それまでは外の高速を走るしかないな」

 流石にオーダー街で飛ばして、マトイの世話になる訳にはいかない。溜息をついて笑ってくれるマトイの姿も、見てみたい気もするが、後が怖い。

「次も、付き合わせてもらいますね!!」

 もう行くことが、決まったような言い方だ。必ず自分が誘われていると確信している。

 サーキット場での試験運転は技術開発部門の望み通りの計測結果となったらしい。これもパフォーマンスの内の一つなのか、手を叩いて出迎えてくれた。そしてミトリにも称賛を送ってくれた。

 今はお互い、少し分厚いライダースーツを脱いで、制服に着替え終わっていた所だった。そして休憩室で飲み物片手にミトリの感想を聞いていた。

「怖くなかったか?」

 時速にして約150キロ。高速に乗っている時の車であれば、たまに見かける速度だが、バイクで、しかもダンデム中ではまず出せない。今日はラムレイにベルトで二人の身体を巻き付けていた為、出す事を許された速度だった。

 だが、早いとは言っても、本場のバイクレースでは止まって見える速度でもある。直線距離の長い鈴鹿サーキットでのレーシングバイクが出す速度は軽く300キロに達する。それどころか、常に200キロ近い速度でカーブしていくので、150キロなど、余裕で追い抜けるだろう。やはり、ラムレイは民間で仕事をするオーダーの為に製造された汎用的なバイクなのだろう。

「全然!ヒジリさんの背中にいられたお陰で、何も怖くありませんでした。今日は誘ってくれて、ありがとうございます。お邪魔ではありませんでしたか?」

「全然。ミトリが後ろにいたお陰で、安定して乗れた。—―ありがとう」

「どういたしまして。‥‥それで、話って?」

 テーブルの向かいに座ったミトリは、真っ直ぐに背筋を伸ばしてくれた。

 だから、俺の目を背けないで、正面から言う。

「ミトリ、信じていいか?」

「—―はい」

「愛して、いいか?」

「はい!」

 頭を少しだけ傾けたミトリは、やはり聖母のように笑ってくれた。

「ふふ‥‥あなたから何度告白されても、ドキドキしちゃいます。そんなに私が好き?」

 挑発的な顔を、口角を上げる事で見せつけてくる。何度か見せてもらったが、やはりミトリはいじめっ子体質なようで、この顔に手慣れているようだった。

「そんなに好きだし、愛してる。迷惑?」

「いいえ。私も愛していますから。知りませんでしたか?」

 椅子から立ち上がって、手を差し出す。手を取ってくれたミトリは、隙を突いて腕を組んでくるので、頭に顔をうずめる。しばらくミトリと抱き合っていると、アナウンスが流れてきた。内容はラムレイの整備が終わったから取りに来いという内容だった。

「時間だけど。もう少しいよう」

「怒られちゃいますよ」

「なら、一緒に怒られて」

「仕方ないですね。本当に‥‥」




「あはは‥‥本当に怒られちゃいました」

 ミトリの申し訳なさそうだが、嬉しそうな声をマイクで聞く。

「向こうはスポンサーなんでしょう?程々にすれば?」

「うー‥‥はい、‥‥そうします。—―そろそろ時間です」

 見える範囲には10人もいなかった。いるのはハンマープライスやオークションの進行、能書きを伝えてくるやけに肌を露出したドレスを纏った若い女性に、それを隠すように、或いは品定めでもするような視線を送っている一階にいる中年達。または、代わりに競り落としにきたプロの代行入札者。そして、あの『祓魔師』の男と、杖を突いた男性。だが、あまり老けてはいない。装飾品としてのステッキに見える。

「いい?余計な品は見ないで。そこにあるのは大体が犯罪に関わってるだろうけど、それはあんたの仕事じゃないから」

 場慣れしているイノリの声があるというだけで、感じていた疎外感の8割近くを忘れる事が出来る。

「わかったら咳払い。‥‥そう、それでいいの」

 個人情報を出来るだけ見せないようにと、このオークションの場には全員が仮面を被っていた。そして直接声を出させないように、全員にタブレットを渡して、入札も好きな数字を入力すれば自動的に行ってくれる。おまけに、ここは、

「美術館ね‥‥しかも、一人一人に個人部屋まで配るなんて、自分達のしてる事がわかってないんじゃなの?」

 こんな会場が、この日本に存在していいのかと驚いてしまった。指定された一生涯関係ないと思っていたホテルに入ると、地下に案内され、そこから更に車で連れていかれるという情報遮断の徹底ぶり。サイナが用意してくれたGPSがなければ、どこに連れて行かれたか、わからなかっただろう。

「本当に、こんな金持ち、この日本にいるのね。そこは美術館であって劇場。しかも、国どころ企業の持ち物でもない。個人の持ち物。いいじゃない‥‥潰し甲斐がある‥‥」

 イノリが楽しそうに独り言をつぶやいてくる。車から降ろされた時、すぐに仮面を渡され、恭しく案内されたのが、この部屋だった。本当に美術館の一室のようで、壁には絵画や彫刻等が飾られていた。

「緊張しなくても大丈夫です!そこにはネガイやサイナさんがいます!」

 ある程度の検討を付けて戦力を分散していたのが功を奏した。ここは都内近郊の大規模な美術館。ツグミに会いに行った美術館も、相当だと思っていたが、ここは桁が違った。

 柔らかい毛足の長い絨毯に、落ちてきたらひとたまりもない巨大なシャンデリア。そしてロココ調とでもいうのか、植物や貝殻が壁に金で装飾され、足も猫のような丸いカーブを描いている。また、それぞれが座っている豪奢な椅子にも、同じような模様が金糸で縫われている。繊細すぎて、座るのをためらってしまう程だった。

「‥‥いいな」

 肘掛けを撫でて、この滑らかさを覚えようとする。この椅子だけで、一体どれほどの価値があるだろうか。ロココ調とは絶対王政がまかり通っていた時代のフランスの宮廷で開花したと言わている様式。マリーアントワネットが『ロココの女王』と呼ばれている事を見ると――いいや、やめよう。いつの時代も、権力者とは見た目で己が力を誇示するしかない哀れな連中なだけだ。

「しばらくは言われた通りにタブレットをいじってて。予定通りなら、ターゲットは後半の筈だから」

 イノリの声に従って、タブレットにインストールされているリストを見つめる。前半である品々は、盗品であるだろうが、割と普通の古美術品だった。それどころか、あの『像』とは比べ物にならないぐらい、この目を輝かせてくる。‥‥一つぐらい。

「言っとくけど、余計な真似はしないでね。捜査でもなんでも、許された金額はあるんだからね」

 忘れそうになっていた事実を、イノリの声で思い出す。今回のスポンサーは、法務科だけでなく、オーダー本部もいるのだった。これ以上、下手な金は使えない。



「いよいよ、あなたも有名人になってきましたね」

「前からだ。でなきゃあれだけ追いかけ回される事もなかった」

 場所の特定の為、俺とネガイも都内の指定された施設をラムレイで回っていた。オークションというのだから、行われるのは恐らく美術館だと踏んでいたが、回らされていたのはホテルと企業のビル。それに地下のライブハウス。なかなか見どころがある探索だったが、どれもこれも空振りで終わった。

「ここで最後ですね。—――終わったら帰りましょう」

 ヘルメット越しにネガイが空を見上げる。東京の空は星などほとんど見えないが、それでも一点だけ、夜を輝かせる月が見える。ある意味、直接見れる月の方が、太陽よりも、親しみを持ってているかもしれない。

「それとも、泊まっていきますか?」

「いいかもな。ただ、費用が‥‥」

 月から代わって、見上げたのは一つの高層ホテルだった。その中でも、ここは毎年有名企業や大物政治家の新年会等に使われる一般人では立ち入る事させ出来ないホテル。

 噂では、一歩入るだけで金が取られるという怪談すら流れている始末。

「必要経費として、オーダー本部に領収書を送りましょう。断る事はしないと思いますよ」

 自信があるらしいネガイは、夏服で薄くなったドレスシャツの胸を張ってきた。何か伝手があるのか。それとも、マトイから何か言われたのか。

「それもそうか。内部探索って言って、経費にするか」

 その後、ジェットバスとキングサイズベット、深夜のルームサービスと言った、夢のようなひと時を楽しんだ結果、夢のような額をそのままオーダー本部に送り付ける運びとなった。無言で何も言わずに払ってくれたが、後から小言を言われたのは、言うまでもない。




「お疲れ様でした」

「ただ座ってただけだよ。それに、目的は本当に最後だし。シズクは?」

「部屋で休むそうです。少し酔ったとか」

 オークション会場は美術館地下にあり、前半が終わった所で休憩兼立食会に参加する事と成る。念の為、着ていた蝶ネクタイのタキシードは部屋に置き、胸にポケットチーフを入れたフォーマルなスーツに着替えてから。

「確かに、少し乱暴な運転だったかもな。ファッションショーか‥‥三日間だったけ?」

「はい、三日間のファッションショーにして、美術館の大規模博覧会です。地下のカモフラージュのようですね」

 ネガイは中心から少し外れた丸いテーブルを独占して会場を見渡していた。

 この施設の何年か記念の祝賀会と銘打たれ、親密な関係の人間を呼んで盛大にパーティーを開催していた。しかも特別な客には渡り廊下を挟んで建設された別館のこの館で、宿泊施設が用意され、飲食が出来る宴会場も提供。それでも足りなければ近隣のホテルを借り切っているという手厚すぎる扱いだ。バカな人間達はこの特別扱い感に、簡単に騙されて、いい隠れ蓑となっていた。

「でも、大丈夫だったのか?」

「構いません。恥がなんだと思われても、どうせ、もう私には関係のない話です。父と母も、ここの人間と縁が切れて嬉しがっていると思います」

 支配人である人物は、ネガイを求めた人間達の一人らしかった。証拠こそないが、本人が断定していた。招待を求めた所、二つ返事で部屋を用意されるなど、自ら暴露している事に他ならない。しかし、ネガイをオーダー街に封じた一人など、この場で刺し殺しても不思議ではない。同様にサイナも。

「サイナは?」

「最後のお別れとかで、挨拶に行っています」

「容赦ない。流石だ」

 僅かにネガイと笑い合って、ノンアルコールのカクテルを楽しむ。

「やっぱりサイナも上流階級の人間なんですね。私では、あんなに上手く躱せません。何度か言い寄られても、全員サイナが追い払ってくれました。頼りになります」

「‥‥そいつら、どこにいる?殺してくる」

 武器こそ持ち込めなかったが、この素手がある。ただの一般人であれば4、5人は同時に絞め殺せる。

「大丈夫です。不思議と、みんな消えてしまったので」

 ここにいる人間の大半は、皆スーツやドレス。大半の女性は胸元や背中が大きく開いたイブニングドレスを纏っていた。だが、ネガイといった例外もいる。

「仮装も許可されるとは思いませんでした。お陰で、この姿でも遠慮なく歩けます」

 灰色の髪が良く映える、白い軍服を思わせる衣に身を包んだネガイが、愉悦に自身の服を撫でている。ネガイとサイナはその出自のお陰で、特別に一切の審査もなしに招待状だけで入れたらしい。よって秘密裏にだが、拳銃を持ち込んでいた。

「まだ撃つなよ?」

「まだ撃ちません。でも、形だけで人は脅せるものです。ふふふ‥‥」

 まだ銃なだけ温情だ。割と簡単にレイピアを抜くのだから。

 ネガイの姿も相当だと思ったが、この場にいる人間達も相当だった。ネガイのような軍服っぽい姿もちらほら、それどころか完全に鍵十字が印字された黒い軍服と軍帽すらいる。中には本当にどこかの貴族が使っていそうなつばの広い帽子も。時代も国も統一感がない。

「今日明日はまだ遊び感覚のようですね。本番は明後日かと」

「よく知ってるな。似たような所に来た事あるのか?」

「少しだけですけどね」

 気にした様子もないネガイは、一言、それだけ言ってカクテルに口を付ける。公的な場。いわゆる社交会に親しみを持てていると、その姿だけで想像出来る。

 やはり、俺は一番場違いのようだ。

「少し歩いてくる。先に部屋に戻っていてくれ」

「わかりました。遅くならないように」

 美術館内に用意されている部屋の鍵を渡して、テーブルから離れる。料理の香りにつられる振りをして、ろくに着替えもしないでふらついているオークション参加者へと這い寄る。

「今年の品はなかなかですなぁ。思わず、予定になかった出費をしてしまったよ。これだから計画性がないと言われてしまって」

「いえいえ、私も似たようなものですよ。それにオークションとは、そういう所が楽しいのですから。予定外の出費をしてでも手にしたくなるという演出、やはりここの支配人の手腕は目を見張るものがありますね」

 一応、ひそひそ話をしているようだが、まるで隠せていない。そもそも隠す気などないのかもしれない。

「見ましたか?あの、子供達を」

「ああ、見た見た。にぎやかしに呼んだのかな?であるのば、もう少し悔しがる姿でも見せてくれれば良いものを。ふふ‥‥まぁ、全ては私達、大人の物だがね‥‥」

 そう言って、一本どれほどの価値ともわからないシャンパンとワインを開けていく。どうりでおかしいとは思っていた。まるで予定調和のように、簡単に引き下がる姿に違和感を持っていた。前々から自分が欲しい物を仲間内で伝えあっていたようだ。

「さて、そろそろ時間ですね。今晩は、楽しみで楽しみで」

「君も中々だね。聞いてるぞ、あの事務所の女優が引退したのは、君が理由だと」

「まさかまさか。あの女が誘ってきたのですよ。それに、あなたも」

「はははッ!それはよしてくれ。私は被害者だ。そうだろう?」

 同様に話を盗み聞いていたサイナに目配せをし、両手を叩いて立ち上がった二人よりも早く会場から出る。ネガイが待っている部屋に向かう為、長い廊下を早足で渡っていると、廊下の壁に背をつけて腕を組んでいた男に前を塞がれる。

「殺されたいか?」

「改めて伝えておく。大人しくあの娘たちを渡せ」

「お前も、今晩が楽しみな口か?」

「‥‥私は聖職者だ。間違えないで貰おうか」

「初夜権を作ったのはお前達だろう。それにまがいなりにも聖職者なら銃なんか持ってんじゃねーよ。退け」

 肩をぶつけて横を通る。完全なる敵対行為に背へ声を掛けられる。

「後悔するぞ」

「そう言った奴は大体、言った奴が後悔してる。失せろ人間」




「取引か。それで、私にどんなメリットが?」

「ここから出してやる」

 イミナ部長に無理を言って、取調室に同伴させて貰っていた。微かな窓からの光こそあるが、一秒でも長くいたくないと思えるほど、息が詰まる灰色の部屋だった。だが自分が無事に出られると知っている男は、腕組みをして足を重ねている。完全に舐められていた。

「そんなものは取引にはならない。私は、そうだな、少なくともあと数時間でここから出れる。君に神の御業を説くつもりはないが、私は、バチカンの」

「その話はなくなった」

「何?」

 やっと腕組みをやめて、机に身を乗り出す。だが、まだ余裕ではあるらしい。

「あんたはバチカンから捨てられた。二度も俺を殺すのに失敗したあんたは、もうバチカンのエージェントじゃないそうだ。このままだとあんたは、不法入国に、殺人未遂、それと武器の不法所持に道交法違反、まだまだあるぞ。聞くか?」

「連絡をさせろ」

 強気な姿勢は崩さないが、顔付きが変わったのがわかる。焦りが伝わってくる。

「弁護士にならいいぞ。それ以外は禁止だ。証拠破棄の指示でもされたら大ごとだからな。これは世界的な常識だ。あんたはもう祓魔師じゃない。ただの犯罪者だ」

「‥‥それが主の望みなら、私は従うまでだ」

「因みに言っておく。バチカンは、死刑を望んでいるそうだ」

「‥‥あり得ない‥‥」

 俺を二度襲った男は、身体こそ震えていないが、眼球の奥にある血管で自身の困惑を伝えてくる。ようやく主導権を握れたと確証する。

「死はダメか?なら、取引に応じろ。お前が持っている招待状を、渡せ」

 敬虔な使徒であればあるほど、死という概念を嫌う。しかも、他人の手による死刑は、特別忌み嫌うと踏んだが、意外なほど簡単に掛かった。

「—―—―—―本当に、バチカンは」

「聞きたかったら、自分で聞くしかない。時間だ」

「‥‥場所は」

 椅子に体重を預けた男は、天井を仰ぎながら答えた。





 部屋の扉を叩いて入室の許可を貰う。取り決め通りに叩いた結果、ネガイは一声で鍵を開けてくれた。屋内のベットにて突っ伏しているシズクが、今も青い顔をしている。相当気持ち悪かったようで、サイドテーブルにあるコップの水がなみなみと残っていた。

「あいつ、どうやって入ったんだ?」

「招待状を複数枚確保していたようですね。紙だなんて、今時古風です」

「演出のつもりなんだろな」

 テーブル上のオークション招待状は、ほとんど白紙委任状のような見た目であった。会場の名前や時間、記載されているのはその程度。他には金の文字で作られた何かしらの模様。若干、ルーン文字にも見えるが、マトイ曰く違うらしい。

 首元のボタンを外し、シズクが寝ていない方のベットに座り込む。ネガイが持ってきてくれたタキシードに着替える為に、Yシャツとズボン以外を脱ぎ去る。

「やはり罠ですか?あまりにも順調に進み過ぎています」

「‥‥私もそう思う。誘い込まれてるみたい」

「そうだとしても、追い返す事は出来ない。もしここで客を追い出すような真似をしたら、自分のメンツに泥を塗る事になるからな。しかも、俺達は特別な客だ。追い出すメリットデメリットを考えたら、大人しくしている内は、何もしてこないだろう」

 これは予測ではなく事実だ。本当に最初から俺達を排除すべき敵だと思っているのなら、美術館受付、更にオークション受付の時にでも、さっさと弾いているだろう。

「同じオークションに参加してる奴が消えたら、次は自分も思うだろうから、強硬手段に出る時は、本当に最後の手段だ。こっちは仕事が終わり次第、そうするつもりだけど」

 着替え終えた後に鏡を見ながらネクタイを直す。忌々しいが蝶ネクタイな為、結んでもらえない。姿見と呼ばれる巨大な鏡で軽く自身の肩幅を確認し、タキシードの肩と揃える。

「ツグミは、無事かな‥‥」

「無事だ。最悪の時の為に、通信機も渡してる。8つも」

 用意できる小さい通信機は全て用意した。髪や耳に隠せるものから、肌に同化するパッチ状のもの、それからネックレスやイヤリング、それに、コンタクト。

「ツグミは、カレンが見込んだ逸材だ。—―—―すぐに終わる。シズクは休んでてくれ。後は頼んだ」

「はい、気を付けて下さい」

「‥‥ごめんね。少し休んだら、すぐ行くから」

 いくらすぐに会えるとわかっていても、商品として展示される妹を見たくはないだろう。それに、ここまでグロッキー状態では姉の方まで気に掛ける事となる。

 ひとり退室し、先程歩いた渡り廊下を使って本館へ向かう。道中数人とすれ違いながら、エレベーターホール到着時、誰も見ていないのを確認しながら仮面を被る。今回は監視カメラに映っても構わないので気にも留めず、早々に開かれたエレベーターへと乗り込む。

 だが乗り合わせた人間かは、僅かに顔を背けた。

「何見てんだ?」

「すみません」

「ふん‥‥腰抜けが」

 何故こうも胸元を大きく開けているのだろう。仮面を被っていても一瞬で気付いてしまい。本当にすぐ釈放されたのだと、未成年という特権階級に畏敬の念を抱いてしまう。

「チッ‥‥お高く留まりやがって、白髪の女め‥‥」

 一瞬殺そうかと思ったが全力で自分を制する。ここで殺人事件を起こす訳にはいかない。

「テメェも、高値吹っ掛けたのか?」

「それなりに」

 後半のオークションにも参加するには、ある権利と義務が必須となっていた。それは前半のオークションである程度、金に余裕があると示す事。端的に言ってしまえば、軽くオークションに参加する資産力。どれだけ自分が本気かを知らしめることが必要だった。

「いくらだ?」

「は?」

「いくらだって聞いたんだ!!なめてんじゃねーぞ!!?」

 胸倉を掴んだ金メッシュが威嚇するように叫ぶ。前半のオークション会場では大人に囲まれてあれだけ大人しかったというのに、人が変わったように壁に押し付けられる。

 こうやって主導権を取っているのであろう子供の喧嘩殺法。大声を上げて自分を鼓舞し、力任せに威嚇する。反撃をされた試しなどないようだ。その気になれば直ちに手首を捻り上げられるというのに。それともこいつ、酔っているのか?

「個人情報です。知りたければオークショニアーを通して下さい」

「クソ‥‥いいか?俺の邪魔はするなよ!?退け!!」

 最後に何故か知らないが、壁に一押ししてから出て行った。終わっている。その気になれば、このまま逮捕してる所だ。誰にも叱られずに生きてきたのだろう。

「平気?」

「殺していいか?」

 掴まれた襟を直しながらイノリに訊いてみる。

「まだダメ。やるならどさくさ紛れにやって。アイツの事、覚えてる?」

「シズクを貶した奴だ。まさか、もう釈放されてるなんて」

 シズクには休んで貰っていて正解だった。髪の色で勘づかれたかもしれない。

 エレベーターから降りて誰もいないのを確認。マイク越しにイノリと話す。

「そうれもそうだけど。‥‥本当に覚えてない?」

「イノリは知ってるのか?」

「アイツも哀れね。全く相手にされてない。全然、私も知らない。ただし、アイツがこれ以上邪魔するようなら、死なない程度に痛めつけていいから」

 ああいった手合いは、最後の最後で邪魔をしに来ると、経験上、俺やイノリは知っている。邪魔になる芽は早く摘んでおこうという事か。

「了解。その時は徹底してやる。何かあったら頼むぞ」

 それを最後の通信にしてオークション会場受付に入る。

「招待状を」

 この仮面を見ればわかるだろう、という言葉を飲み込んで胸ポケットに入れておいた紙の招待状を手渡す。一体どこを確認する必要があるのかと問いたくなる長い沈黙の後、「こちらです」と手で行先を告げられる。その先には、黒のベストと短いスカートを着込んだ若い女性が耳元にマイクをつけ頭を下げていた。長いお辞儀の後、背中を向けて案内を始める。

「俺は何番目ですか?」

「あなた様は一番です。どうぞ、何なりとお申し付けください」

 後半のオークションは、見せつけた額によって等級が決まるとの事だった。女性は前半に使っていたオークション会場の入口を通り過ぎ、会場の裏手側まで届いた時、ようやく歩みを止め目の前に現れた木製の両開きの扉を恭しく開く。

「ここを使っていいんですか?」

「はい、お好きなように。勿論、ここからオークションに参加が可能です。競り落とした品々を、そしてお望みならば私も愛でても構いません」

 本気なのか、冗談なのか。案内をしてくれた女性は丁寧な満面の笑みのまま、部屋の巨大なソファーを手で指し示した。更に部屋の最奥に鎮座しているベッドにすら。

「その時はお願いします。あとどれくらいですか?」

「あなたが今すぐに、と仰るなら、今すぐにでも。少しご休憩されますか?」

「‥‥時間通りに」

「かしこまりました」

 女性が軽く一礼をしてから退室したのを見送り、屋内に視線を向ける。

 部屋の様式も、やはりロココ調だった。しかも、一等級の部屋というのも本当らしく、どこかの貴族か、それこそ王族が使用していた部屋をそのまま移設してきたようだった。

 また壁には巨大なモニターがあり、試しにリモコンを操作すればオークション会場の様子を見渡せる仕様でもあると気付かせる。だが施設側の意思に反して、この設定は芳しくなかった。

「うわ‥‥すげえ怒ってる‥‥」

 あの金メッシュの声がこれでもかと、スピーカーから響いている。

「なんで俺が部屋じゃないんだ!!?あのガキはいないのに!!!」

 あの金メッシュも、失礼が出来ない上客なようで、どうにか男性スタッフの数人が宥めているが、それもそろそろ限界だ。少年一人のパニックが会場全体に伝播し騒然としつつある。遂には金メッシュの後ろにいる男性スタッフが、自身の胸に手を添わせた。

 恐らく自白剤だ。可及的速やかに、手段も選ばない地点まで到達したらしい。

「しばらく見るのも、面白いかも‥‥」

 リモコンを操作してカメラを操作、レンズには暴れている金メッシュを煩わしそうに見ている仮面は勿論、同じようにどうして自分が部屋ではないのかと問いただしている仮面も見受けられる。五十歩百歩。所詮人間だ。

「どうぞ」

 扉を叩かれた所で振り返る。そこには先ほどの若い女性スタッフが佇んでいた。

「申し訳ありません。現在、本会場内が混乱しているため、このままではオークションを再開できないと判断致しました。今しばらくお持ち頂けますでしょうか?」

「わかりました。しばらく待つ事にします」

「大変ご不便をおかけしてしまい申し訳ございません。では、失礼させて頂きます」

 モニターには、バチカンからの『祓魔師』が見えない。どうやら彼方が二番手であるらしい。祓魔師の動向は想定内ではあったが、この状況は正直想定外だ。イレギュラーが起きないとは思ってはいなかったが。

「状況は聴いての通りだ。待ってるだけでいいか?」

「了解。こっちも気長に待つや。シズクが復帰したそうだけど、少し話す?」

「いいや、ツグミに直接話してもらうから、それまではいい」

「ふふ、わかった。気長に待ってて。それと、そこの女の人に、絶対手は出さないように。いい?」

 最初は機嫌が良かったのに、途中から急激に機嫌が悪くなった。しかしイノリに怒られるのも久しぶりなので、もう少し話していたい衝動に駆られる。

「イノリにならいいのか?」

「私を口説く気?仕事中って、わかってる?」

「終わった時のご褒美が欲しい」

「そんなに私に構って欲しいんだ。面白いじゃん。考えといてあげる。—―—―冗談だから!本気にしないでカレン!」

 忘れていた。そこには—―—―—―、

「集中して!!なんの為に、そこにいるの!?」

 マイク越しに良く通る、透き通った声が大音量で聞こえてくる。

「冗談半分だから、そこまで本気にしないでくれ」

「それは声に出す事じゃありません!」

 身内の中で一番真面目なカレンに声を上げて叱られる。どうにかその場のイノリとミトリが荒れ狂うカレンを鎮める為に、ゲームの話を振り始めた。

「どうかされましたか?」

「いいえ、それよりまだかかりそうですか?」

「はい、誠に申し訳ございません」

 少し騒ぎ過ぎた。外から女性スタッフが声を掛けてくる。心の底から謝罪しているのが声色で感じられるが、この人は自分がやっている事をわかっているのだろうか?完全なる犯罪の共犯だというのに。

「ドリンクのご用意をいたしましょうか?」

「—―—―どうすべきだ?」

 マイクに向かって助けを求める。向こうには、対人コミュニケーションのプロがいる。

「不信感を持たせるのは避けるべき。受け入れて」

「お願いできますか?」

「かしこまりました。失礼します—―—―」

 扉を叩かずに女性スタッフが入室する。

 足取りから振る手の勢いまで、まるで違和感がない完全なる無防備な姿を晒しながら屋内を歩く。ドリンクサーバーの前に立った女性からコーヒーとカクテル、またはシャンパン等のどれか?と聞いてくるので、コーヒーを注文。

 直ちに湯気と共に、部屋中を焙煎されたコーヒー豆の香りが充満し始めた。

 数分間、無言の時間が続いた後、コーヒーカップと共にミルクポット、砂糖の入った容器を乗せた銀のトレーを運ばれる。たったそれだけの行為に何故だろうか、違和感を覚えた。

「さぁ、どうぞ‥‥」

「‥‥ありがとうございます」

 白いカップに注がれた黒い液体に視線を走らせ、コーヒーに映る女性の顔を眺める。

「どうされましたか?」

 不思議そうに長い黒髪をかき上げた女性が、再度コーヒーを差し向けてくる。

 何故だろうか。前にも同じ事があった気がする。これは—―—―。

「冷めてしまいますよ」

 沈黙という相手に不信感を与える行為を長く取ってしまっている。部屋中を蝕む緊張感に息が詰まる。だけど、この口から溢れてくる唾液は、苦いコーヒーを飲みたいからじゃない。この人の、この人形の息遣いを知っている。唇と口紅で絡み合った時間を思い出す。

「愛でていいんですよね?」

 マイクから息を呑む音がした。

「私を指名ですか?」

 隙を突き、カップを差し出した手を握って目を見つめる。そう、この反応には覚えがある。もはやカップなど放置する。この白い長い指と指を絡ませ、数秒の逢瀬を楽しむ。

「では、そちらに」

「ねぇ?入っていい?」

 扉を叩く音と共に、シズクの声が聞こえた。

「ああ、いいぞ。コーヒーをもう一つ」

「ふふ‥‥かしこまりました」

 学生の姿に甘える事は出来たが、本来の姿に近いドルイダスに迫った事はなかったので、少しだけ残念だ。鋼の冷酷さを持ち合わせながらも、同時に何処までも受け入れる、己が肉体で沈める妖艶さを隠し持つ年上の微笑みに心が屈服していた。

「何考えてるの?」

 ドルイダスが離れた瞬間、イノリの疲れたような声が聞こえた。

「俺の身内だ」

 被っている仮面の中だけに聞こえる声で呟き返し、同時に恐る恐る扉を開くシズクを出迎える為、素早く立ち上がる。不安そうな表情を携えていた幼馴染に手を差し出し、手を握らせて安堵させる。そのまま細い肩を抱きかかえソファーに座らせたシズクは、誰かに推奨されたらしく頭に白いターバンのような物を巻いていた。

「‥‥様子は?」

「まだ始まってない。とりあえず座ってくれ」

 コーヒーメーカーを操作しているドルイダスの後ろ姿を眺めながら、モニターの中に未だに映っている金メッシュを知らせる。呻くシズクが無言で手を強く握ってくる。

「やっぱり、あの人もこういう所に来れる人なんだね‥‥」

「みたいだな。少し外して下さい」

 シズク分のコーヒーを用意してくれた世話係ドルイダスに、そう言うと軽く一礼して扉に向かって歩き始めた。そして扉のノブに手かけた瞬間、僅かに目を紫に輝かせて出て行った。その時、邪魔だから出て行けと、暗に告げてしまったのだと気付いた。怒っていた。

「大人ってすごいね。あんなに綺麗な人、見た事ないかも‥‥」

 実際はもっと綺麗だ。そんな言葉が口を衝きそうになり、慌ててコーヒーで噤む。あれでも相当地味な姿を意識しているのだろうが、元々のポテンシャルを隠しきれていない。

「いつ始まるって?」

「未定だそうだ。正直、向こうもわからないんだろう。ここまで暴れる奴を受けいれて、古くからの客の気分を害してるんだ。‥‥今日再開するかどうかも、わからない」

 心底、あいつとは縁があると感じる。どうやら、過去に出会っていたらしい。

「調子はどうだ?」

 頭の白いターバンを奪って、隠されていた赤みがかった茶髪を晒させる。

「まずまず、かな?それで、どう?」

 髪を長く伸ばしたシズクは、ナイトドレスと呼ばれる少し露出が気になる服を着ていた。右肩と首が繋がるように薄い柔らかい布が肌を隠しているのに、左肩は、胸まで肌を晒している。全体的な色合いは黒。白いシズクの肌のお蔭で、非人間的な人形のような出で立ちに見えてくる。とりわけ髪の色だけが、色彩を感じさせる。

「ふふん♪夢中って、所?」

「シズク‥‥なんか、すごい大人っぽいな‥‥」

「知らなかった?私、もう半分大人だよ。言っておくけど、君にされたんだからね」

 自然とシズクの豊満な胸元に目が行くが、外した白いターバンで隠されてしまった。

「まだダメ。全部終わってから、いい?」

「‥‥ご褒美があった方が、やる気が出る」

「でも、ダメ。私が欲しいなら、私を喜ばせてみて。ツグミもね」

 ここまで鉄壁な理詰めをされてしまっては、もはや行動で示すしかない。

「‥‥わかったよ。まだかかりますか?」

「かかるようです」

 よく知る口調で返される。面倒な事になってきた。はっきり言って眠くなる。うとうとしていると会場カメラが途切れて、民放のテレビが流れ始めた。同時にネットサービスの動画も薦められる。

「2時間後、再開する予定です。部屋は好きにしなさい」

 確認の言葉も無く、普段通りの物言いに戻ったドルイダスが入室する。先ほどと出で立ちこそ変わっていないが顔付きがまるで違う。冷酷な法務科に舞い戻ったドルイダスが部屋を守るように背を扉に付けた。

「あ、あの」

「俺の身内だ。悪いけど、少し寝る。再開するようだったら起こして」

 成すべき事は痛いほど理解している。しかし、ツグミの身の安全を掛けた重要な局面だったというのに、この肩透かし感。一気に緊張の糸が切れてしまった。もう、無理だ。

 ソファーから起き上がって、部屋の奥に用意されていたベットへと向かうが、慌てて追ってきたシズクに腕を掴まれる。

「身内って何!そ、それに私一人残されても困るんだけど‥‥これからツグミの」

「二時間後って言っても、ツグミの時間迄はかなり掛かる。悪いが少し疲れた。横に成らせてくれ」

「‥‥ごめんなさい。私も、さっきまで寝てたんだし。うん、いいよ。ゆっくり寝てて」

 ベットに横になると、シズクは胸や前髪を撫でて寝付かせようとしてくれる。

「時間になったら、たたき起こしてくれ」

 胸につけらている手を握って目をつぶる。そして、シズクが昔寝付かせてくれたように、息を吹きかけてくれた。





「忌々しい‥‥」

 目が合った瞬間、そう言わてしまった。もう、泣き崩れるしかない。

「ご、ごめんなさい。あなたに言った訳じゃないんです。どうか、泣き止んで」

 玉座から駆け出した仮面の方は、泣き崩れた俺の頭をしゃがんで抱いてくれる。

 優しい言葉をかけてくれるが、一度流れ始めた涙は、なかなか止まらない。しかも、俺の恋人である仮面の方に、こんな言葉を面と向かって言わてしまい、ショックで立ち上がれなくなってしまった。

「泣かないで下さい。ごめんなさい、あなたに言ったのではないんです。お願いだから泣かないで」

 地面がせり上がり、柔らかなベルベットと自身の身体で頭を包み込んでくれる。

「‥‥本当に、俺の事じゃないですか?」

「本当です!あなたにあんな言葉、絶対投げかけません!約束しますから、笑って下さい」

 添い寝をするようにして胸で抱えてくれた。普段よりもテンポの速い心拍が徐々に静まっていくのを確認してから目を閉じる。この感情は母胎回帰と言うのだろうか、暗い瞼の内で自分の心臓もゆっくりと鎮まっていく。

「許してくれますか?」

 何も言わなくても、頭を撫でてくれる。本当に、俺の好きな事を全て知っている。

 しばらく仮面の方の手と心拍、体温を感じてから腰に腕を伸ばす。

「ごめんなさい。あの言葉は、あなたではなく人間に対して言ったつもりでした。心配させてしまいましたね」

「‥‥愛しています。愛して、くれますか?」

「愛しています。本当に、心の底から。安心しました?」

 腰と背中に回した腕はそのままに、更に仮面の方の身体に甘えて答えとした。何度抱かれても虜となってしまい魔性の仮面の方も、それで良しと了承してくれる。

「良かった。相変わらず可愛いあなた。少しだけお話をしませんか?勿論、このままで」

 頭と背中を撫でながら、言葉続けてくれる。

「忌々しいと言ったのは、あのーなんでしたか?えーと‥‥」

「金メッシュ?」

「あの胸を大きく開いた蛮族をそう言うのですか?では、そうしましょう。金メッシュに対して言ったのです。私もオークション初経験だったので、楽しみにしていたのに。あの金メッシュは折角の機会を奪っていきました。許せない‥‥」

 怒りで胸と肺が揺れているのがわかる。相当、ご立腹のようだ。

「オークションに参加した事はないのですか?」

「そうですね。私は欲しいものがあれば、捧げられる立場なので。何度か奪った事はありましたが、それは、もう飽きました。今は造ったり育てるする方が好きです」

「俺の事ですか?」

「はい。あなたとの愛を育むのは、とても興味深いです。それに、あなたは私の思いを受け止めてくれますから、とても楽しくて、嬉しいです。わかってもらえますか?」

 やっと落ち着くことができた。それでも離れる気にならない。

「甘えん坊でわがままで困ったお星様。心臓がゆっくりになりましたね」

 泣き止んだ目元をドレスで拭いて、仮面の方を見つめる。今更だが、改めて見ても美人はどこから見ても美人だった。いつの間にか投げ捨てた仮面下の優しく丸まった目尻と温かな言葉を紡いでくれる形の良い唇、柔らかな頬の色一つで忽ち恋に落ちてしまう。

「ツグミは無事ですか?」

「無事ですよ。同様のツグミさんは、あなたの心配をしています」

「俺を、ですか?心配されるべきはツグミの方では?」

「あなたはすぐに色仕掛けに掛かるので気が気ではないようですね。ふふ‥‥今みたいに」




 カレンとソソギの部屋にて、ツグミの特訓は続いていた。

「そう。そうやって上目遣い。それにゆっくりと撫でるみたいに手を握って」

 急に呼び出されたので、何事かと思い女子寮に飛び込んだが、カレンの指示の元、ツグミの実験台として選ばれたようだった。光栄な話だ、そう、これはとても光栄な実習だ。

「ごめんなさい、でも、異性の相手として選べるのはあなたしかいなかったから」

 隠せない不服を顔で表現してしまう俺のもう片方の手を、ソソギが慣れた手付きで握ってくる。だが、たったこれだけの仕草、手を握られるだけでこんなにも目が離せなくなる。

「ソソギさんには、勝てないようです‥‥」

「比べてはいけない。自分の武器を探し出して」

 ツグミにもっともらしい事を言うが、自身のYシャツの胸元を少し開けて谷間を見せつけている。少し、それは卑怯ではないか。しかし、武器というには凶器過ぎるそれをツグミは見逃さなかった。

「‥‥こう?」

「ふふ、そうそう」

 しかもそれを見たツグミも、真似をしてスカートから覗かせている足を僅かに持ち上げる。白い肌の奥底にある青い血管と、シズクよりも肉付きがいい眩しい四肢が目を焼く。

「むぅーでも、目に見えてそれをすると、むしろ警戒させる事があるから、やるのはこの人だけにして。でも、握り方は正しいから大丈夫。次のステップに行こう」

 それだけ言って、カレンはツグミを連れてキッチンに行ってしまった。

「ツグミはどうだ?」

 ソソギと二人きりになったところでお互い椅子に座る。手を握ったままで。

「カレンが言うには、もし彼女が中等部にいたら、必ず特別捜査学科からスカウトが来てたと思うって。私もそう思う。ほとんど初対面な私達の警戒心を解くことが出来ている。あれは天性の才能」

「みたいだな」

 キッチンから流れてくる声には、授業というよりも友達と遊びながら料理をしている少女達のソレが混ざっている。出会った当初に向けられた強い警戒心を持つカレンと、ここまで上手くコミュニケーションを取れているとは。流石は姉妹だと感慨に耽る。

 気になり、何を作っているのかとキッチンを眺めると腕を引かれ、耳に口を付けられる。

「多分、あなたが危惧した物は何もないと思う。彼女は、本当に一人」

「‥‥悪い。疑わせて」

「いいえ、あなたは正しい。ヒトガタの私達だからわかる。姉妹であっても、必要があれば騙すし、殺す。だから言える。彼女の味方はあなたとシズクだけ」

 俺やシズクにとっての最悪の事態とは何か?俺が死ぬ事か?シズクが死ぬ事か?確実にツグミが死ぬ事だ。だが、もし俺がツグミの裏切りによって死んだ場合、シズクはツグミを殺すだろう。だからどちらかが死ぬ事態も避けなければならない。

 そして、それに通ずる機会を生み出せるのは、ツグミ自身。もしツグミがマインドコントロールのような術中にかかっていた場合、自分でも気付かずに俺達を陥れるかもしれない。

「平気か?つらく、ないか?」

「私もカレンも平気。あの子は私達のような洗脳を受けていない。—―—―マトイも、暗示をかけて確認したから、大丈夫。彼女はまっさらなまま」

 信じていない訳じゃない。だけど、敵地に乗り込む計画を立てている今は、欠片ほどの心配事も排除しなければならない。そして、ツグミは5年ぶりに出会った未確認な対象。

「信じる為に疑う。何もおかしくない。自信を持って」

 泣きそうな顔をソソギの長い黒髪で隠す。

「髪が好き?」

「ソソギが好きなんだ‥‥愛してる」

「私も、甘えん坊で優しいあなたを愛してる。だから泣かないで」

 しばらくソソギと抱き合っていると、キッチンが静かになっていると気付く。だが、キッチンへと視線を向ける事が出来ない。今この時もソソギの体温に意識の奪われているから。

「—―――っ!ヒ、ヒトのって、こんなにドキドキするんだ‥‥」

「またしてる‥‥よく見て、あれがハニートラップにかかった男の末路だから」

 ソソギが鼻で笑いながら頭を撫でてくれる。きっと、今の俺は何よりも無様な姿をしているのだろう。





「予感は的中していますね。もしかしたら、彼女には予知の力があるのかもしれません」

 この方が言うと、これすらも冗談なのか、本心なのか分からなくなる。

「誰かから聞いたら、呆れられますね」

「それと同時に、やっぱりと喜ぶでしょうね。ツグミさんは、あなたで遊ぶのも好きなようですし。私もですが‥‥」

 頭を撫でながら、少し自虐気味に笑っている。

「さて、あなたからは、何か聞きたい事はありませんか?」

「シズクとツグミがあの『像』に触っていけないのは、わかりました。けれど、触れれば『何かが起こる事を知っている』人は数える程もいない。それなのに、なぜツグミはオークションに?」

「前にもお話しした通り、誰かが像を受け取らねばなりません。一部の人間はツグミさんよりも、像を優先しているようですね。それ以外の人間にとって、あの像で何が出来るのかなど、どうでもいいのです。ただ、今晩のつがいさえ見つける事が出来れば」

 競り落とす為の理由は、それぞれという事か。ならば、あの『祓魔師』がツグミどころかシズクすら求める理由は、一体なんなのか。

「あの祓魔師は」

「私にも理解できません。娯楽としてなら、狂った人間も尊いものですが、あそこまで落ちると、ただただどうでもいいです。見る気も考える気にもなりません」

 知らない訳じゃないが、心底面倒なようだ。

「同意見です。宗教は理解できません」

「ふふん♪流石私のあなたです。そうです、あれは、あなたにとってどうでもいいただの獲物です。邪魔こそしてくるでしょうが、理解してあげる必要はありません。遊んであげて下さい」

 望んだ答えを言えたようで、今一度、胸で頭を抱きしめてくれる。睡魔が襲ってきた、そろそろ限界だ。

「眠いですか?でも、もう少し頑張って、あの『像』について、伝える事があります」

「上位の存在、でしたね‥‥」

 もう背中や腰を抱く力さえ湧かない。

「本来、あの『像』に求められたのはシズクさんの方です。しかし、人間の都合でそれは排斥された。だから、最近まではシズクさんだけを求めていましたが、今は違います。シズクさんとツグミさんの二人を求めています。あの『像』は残る力の全てを使って、二人を求める。血と宝石を使って下さい。そうすれば――」






「起きて」

 肩を揺らされる。

「今日は再開しないって、部屋に戻ろう」

 甘い香りがする。果物のようだ。

「ねぇ!」

 高めの声が耳元で聞こえる。仮面を奪われたようで、温かな息遣いを肌で感じる。甘い香りはここから漏れ出ているようだ。

「まだ起きませんか?」

「え、はい」

 第三者の足音が近づいてくる。

「時間です。早くあなたの幼馴染を連れて部屋に戻りなさい。ほら早く」

 腕を掴まれて、無理やり起こされる。寝ぼけている目には顔が歪んで映る。

「いつもこうですね」

「はい‥‥寝起きはいつもこうです。知っているんですか?」

「何度か、彼にはベット代わりにされた事があります。全く、私を何と思っているのか。それで、どうすれば?」

 肩を掴まれて前や後ろに揺らされるが、頭に血が上らない。

「えーと、—―—―準備が出来ました。危ないので、手を離して下さい」

 シズクの声が聞こえた時、肩を掴んでいた手が離れていく。そしてそのまま前のめりに自然と倒れてしまう。

「‥‥それは、私でも使えますか?」

「出来ますよ。使ってみますか?」

 自分の体温でベットの布団が温められていくのがわかる。冷たい布団も心地良いが、やはり寝ている時の自分の体温が一番寝心地がいい。

「では――—―起きなさい」

 声も出なかった。ベットの上でのたうち回って酸素を求める。完全に目が覚めたというのにスイッチを切ってくれる様子がない。まるで、まな板の上の魚ではないかと、自分で自分を俯瞰した。冗談を言っている場合ではない—―—―—―!!!

「ほほう‥‥いいものですね」

「わかりますか?」

「ええ、ここまで反応が良いと、楽しいものです。あなたは、どうですか?」

 恐らく俺に訊いているのだろうが答える余裕がない。そもそも何故出来るのだと思ったのか。どうにか首元のパッドに手を伸ばして、胸に張り付いているシート共々全て引き出す。

「殺す気か!?」

 電極パッドとシートをベットに叩きつけて、叫ぶも二人とも涼しい顔だった。

「この程度では死にません」

「そうそう、死なない死なない。それより早く行こ」

 電極を回収したシズクが手を差し出して誘ってくる。渋々、手を伸ばしてベットから降り不満そうな顔のまま、言う事に従ってくれる俺を見れて、シズクは満面の笑みとなった。

「オークションはいいのか?」

「今日は取りやめだってさ。結局、一度もモニターは復活しなかったし」

 画面が黒くなったモニターへ指を差す。電源が切れたのかと思ったが、何か文字が書いてある。シズクに連れられて、寝起きでも確認できる距離に近づく。

「明日に変更か。よく参加者が許したな」

「ヒーが眠った後、実はひと騒動起こったみたいなの」

 そうなのか?と視線でドルイダスに尋ねる。

「モニターに映っていた少年が、拳銃を発砲したらしく、この部屋まで銃声が轟いてきました。‥‥はぁ‥‥気付かなかったという顔ですね。緊張感がないのか、豪胆なのか‥‥」

 目頭を押さえて頭を振り始めた。だが、きっとその時、俺は仮面の方と横になっていたのだろう。起きなくて当然だったかもしれない。

「明日に持ち越しか。何時から再開だって?」

「それについては、部屋から出てから聞きなさい。そろそろ怪しまれる時間です」

 手で髪をいじり、分け目を少し変えただけで、俺を案内してくれた女性スタッフに戻っていく。マトイも変装のような術を使っていたので、同じ術を使えても不思議ではないと気づいた。促されるままに仮面をシズクと共に装備し、一等室から外へと出ると、何故か扉の前にいた女性スタッフの方々が皆一様に整列し頭を下げていた。

「今晩は誠に申し訳ありませんでした。次はこのような事が起きないよう、細心の注意を払いますので、どうかご容赦ください」

 代表するかのように、後ろのドルイダスが頭を下げてくる。そして示し合わせたようにシズクが「今晩は残念でした。明日もこの部屋で待ちますので、準備の程を」と言って、俺の腕を取り、頭を下げている女性スタッフの間を歩いていく。

「いいから従って」

 マイクからイノリの声が聞こえてくるので、大人しくする。

 廊下の角を曲がり、頭を下げている女性スタッフの姿が見えなくなった時、シズクが声を出した。

「緊張した‥‥どう?私も少しは演技、出来るでしょう?」

 実際示し合わせていたようで、シズクは小声で溜息を吐いている。

「取り敢えずは作戦会議。部屋に戻ってから、詳しく話すね」

 エレベーターホールには、もうオークション参加者らの仮面は見当たらず、俺とシズクを待っていたらしい男性スタッフがはエレベーターの扉を開けて待っていた。

「この度は大変失礼いたしました。明日、準備が整い次第、係の者がお迎えに上がりますので、それまではごゆっくりなさって下さい」

 若過ぎず、老い過ぎてもいない。そして、高い背丈からは威圧感というものをまるで感じない。心の底から申し訳ないと思っているという感情が伝わってくる。

 これが人に仕えるという職種の責任者か。俺では到底真似できないプロの世界だ。

「何時ごろになる予定ですか?」

「現在、今日と同じ時刻に再開する予定でございます。変更がありましたら、その都度ご報告させて頂きます」

 多すぎない簡潔な言葉という短い時間を使って、説明を終え、エレベーターへと手で進めてくる。仮面内のイノリの声に従ってシズクと共に乗り入れる。最後に深々と頭を下げてから扉が閉まっていった。

「‥‥息が詰まるな」

「右に同じー‥‥」

 シズクと壁に寄り掛かって仮面を外す、シズクは同時に白いターバンを頭から外して2人分の仮面をターバンの中へと隠した。

「これを明日も続けるのか‥‥窒息でもしそうだな‥‥」

「文句言わない。ツグミはもっと大変なんだから。—―一日伸びちゃった訳だし‥‥」

「—―そうだな。戻ったら、作戦会議の前に何か食べるか」

 つい数時間前に、立食会に参加していたが、ああいう場での食事は食べた気がしない。

「ルームサービスなんて、あるかな?」

「あるんじゃないか?あの料理全部ケータリングって事はないだろうし」

「‥‥それもそっか。‥‥ツグミ、ちゃんと食べてるかな?」

 今の時間にはもう会えている筈だったツグミから、意識が離れないようだ。別の事を考えさせる為の食事の提案だったが、逆効果だったか。

「暑い‥‥」

 慣れない仮面にターバンで、顔周りの体温が上がったシズクはハンカチで汗を拭っている。

「先にシャワーを使ってくれ、適当に注文しておくから」

「ありがとう‥‥割と限界だったの‥‥」

 少し前だったら、同じ部屋のシャワーなど使える筈がなかったが、もう昔以上の関係となった俺とシズクは、一々狼狽えないで同じ部屋で寝食が出来るようになっていた。






「延期?厄介ですね」

「想定外だが、俺達のやる事は変わらないし、変えられない。一日変わったが、明日ツグミと合流してこのオークション関係者を全員逮捕する。手筈は整ってるな?」

 サイナが持ち込んだタブレットに映るイノリの顔へと手を振る。

「勿論。そう伝えてくれって、さっき言われた。見えてる?」

「おう見えてるし聞こえてる。通信状況も良好だな」

 部屋に戻った時、ネガイとサイナが部屋中を改造していた。持ち込めるだけ持ち込んだ通信機器や弾薬、そして監視カメラ。部屋に誰が出入りしたか、確かめる為でもあった。

「圧倒的に一般人の人数が多いからですね。はっきり言って無防備です」

 二人部屋とは思えない広さの部屋にある巨大なテーブルを、持ち込んだ機器が占拠していた。その中の一つであるタブレットPCから発せられる赤い光で作られた仮想キーボードを操作し、宿泊用の別館と美術館本館の見取り図、仕入れてきた情報をネガイが見せてくれる。

 一般フロアである美術館の入館口でもファッションショーを行っているので、警備員の人数こそかなりのものだが、流石に堂々と武装している訳でなく、青い警備服を着用し、ライトと警棒が合体したマグライト、そして無線といったごくごく普通の警備員標準装備。

「背広が幾人かいましたが、最悪の事態にならない限り銃の類は使用はしないかと。写真を見て下さい」

 タブレットPCに映させたファッションショー会場の写真は、想像以上に人間がひしめき合っていた。青や白のライトに照らさせたランウェイの周りで、指定された椅子にお行儀よく座っている人間達。確かに、ここで銃声を聞かせる訳にはいかない。混乱が混乱を呼び、この人数が全員出口へと殺到したら、死人すら出るだろう。

「これだけでなく、まだまだ人がいます。写真では取れませんでしたが、立ち見の人も沢山いました。それに、同時刻の二階や三階では、別ブランドのショーも行っていました。木を隠すなら森だとしても、ここはまるで山です」

 自身の仕事を完璧にこなしたネガイが、振り返りながら更に続ける。

「これはこちらにとって不利です。現実的に考えて、拘束をこの人数全員に施すのは一時的にだとしても不可能です。手間がかかりますが、やはり主催者側の人間を秘密裏に仕留めなければなりません」

 ネガイが何でも無いよう言うが、それは仕事の数が倍へと増える意味を示していた。

 俺の成すべきはツグミの保護とオークションの破壊。主催者の逮捕とは違った。

「‥‥俺は、」

「わかっています。あなたはまずツグミとシズクを護衛して下さい。ツグミの証拠が手元に揃った時、法務科が突入してくる手筈です。—―大丈夫、私を信じて」

 ネガイに手を引かれて、スカートの上で握り合う。

「サイナの時からですね。あなたが自分一人で全てを終わらせようとしているのは」

「—―—―ネガイの事は信じる。絶対に信じていない訳じゃないんだ。だけど」

「あなたは間違ってません。ここまで辿り着いたのだって、全てあなたの実力です。‥‥だけど、言わせて下さい。—――寂しいです」

「‥‥ごめんな」

 椅子に座っているネガイを抱きしめて、肩に頭を乗せる。

「シズクと料理をしている時、どうでしたか?私にはすごく楽しそうに見えました」

「‥‥楽しかったさ。それに疲れた俺を慰めてくれたネガイの事、もっと好きになった」

 抱きしめているネガイが、背中と頭を撫でてくれる。

「嬉しい‥‥私も、やっとあなたが振り向いてくれて、とても嬉しい‥‥。—―気付いて下さい。あなたは、やはり人間から離れています、最近のあなたは、それを自ら望んでいるようでした。人間が嫌いなのは当然だとしても、私を、人間を愛する事は忘れないで。でないと、また私は一人になってしまう。—―あなたがいないと、私は」

 顔こそ見えないが、ネガイはきっと無表情なままだ。けれど、そんなネガイが語った言葉も無表情な訳がない。無碍にして言い訳がない。

「‥‥今更全ての人間を信じる気にはならない」

「わかってます。私も同じですから」

「だけど、それで愛さないなんて理由にもならない事を、忘れた訳じゃない。俺は、人間に甘えてもいいのか?」

「好きなだけ信じて下さい。好きなだけ、私に甘えて下さい」

 肩を叩いてくるネガイに従って、一度離れる。

「いい顔になりましたね。私のヒジリとは、その情けない顔をするものです」

「ネガイも、泣きそうな顔してるぞ。情けないな、お互い」

「私達は完全な人間ではないんです。人間のような強さを持つ必要はありません」

 手を取り合って笑い合う。少し離れていた距離を縮められた気がした。




「お、これはなかなかイケるぞ」

「これですか?—――確かに。帰ったら、作ってみましょう」

「ねぇ」

 ネガイを膝の上に乗せて、ミートパイを食べる。ネガイの手から分けられたパイを食べると同時に指が口に入ってしまう。だが、遠慮なく指も舌で味わう。

「ふふ‥‥美味しいですか?」

「美味しいよ。まだまだ足りない」

「甘えん坊ですね。まだまだどうぞ」

 口から引き抜かれた指をひと舐めしたネガイが、チーズが乗せられたクラッカーを手に取る。

「美味しいですが、バランスが整ってないですね。サイナ、ジュースを下さい」

「は~い。この野菜フルーツジュース、甘くて美味しいですよ。シズクさんもどうぞ♪」

「‥‥ありがと、それでさ」

「良い香りだな。カレーまであるなんて」

 あるだけ注文してみるものだった。立食会の残りかもしれないが、4人で夕飯とするには立派過ぎる料理の数々だった。カレーにミートパイ、それに果物の盛り合わせ、鮮やかなトマトとチーズが乗せられたクラッカー、その他諸々。朝まで残るかもしれない。

「食べてみるか?」

「頂きます。—―バターですね。もう少し辛くても、いいかも?でも美味しい、私も頂きますね」

 意外と辛党なネガイからの評価は、なかなかだった。気に入ったらしくサイナからよそってもらいスプーンを手に取った。

「あのさ!!今の状況わかってる!?」

「わかってる。わかってるから、こうやって腹ごしらえをしてるんだろう。‥‥大丈夫、正気だ」

 不満そうなシズクだが、自身も空腹だったようで、大人しく料理の口へと運んでいる。サイナから受け取ったカレーが気に入ったようだ。

「食べながら聞いてくれ。今日のオークションは不測の事態により延期になった。明日の同時刻に再開の予定らしいが、それも変更になるかもしれない。明後日まで続く長丁場の覚悟をしといてくれ。弾薬は足りてるか?」

「問題ありません♪毎日300発使っても、お釣りがきます♪」

「よし、武装の場所は確認できるか?」

「うん、出来てる。案内しようと思えば、今すぐにでも出来る。ツグミの近くにある」

 それはツグミの居場所も特定できているという事だった。口の中に発信機を隠す技術をカレンから習っていたが、成功したようだ。

「使わないに越したことはないが、少なくとも俺とネガイの武装は必要になるだろうから、今晩にでも取りに行く。ツグミの様子もな」

「あ、これ牛肉ですね♪どうぞ」

 サイナの箸によってもたらされた牛肉のソテーを口に含む。歯を当てるだけで、繊維が切れていく快感に感動すら覚える。

「ちょっと!真面目にしてよ!でない私が行くからね!?」

「わかった。真面目に行こう。俺達が使ってた部屋、覚えてるか?」

 ネガイを膝の上から降ろした所で、俺もジュースを口に運ぶ。

「覚えてるけど、あそこがどうかしたの?」

「高い確率で、ツグミの居場所に繋がってる」

 恐らく、それを伝える為に、競り落とした品を愛でるという表現を使ったのだろう。であるのならば、紛れ込ませた武器の回収も可能となる。

「どうして?」

「あの部屋は『品』を愛でる為の部屋でもある。なら、最短距離で連れて来れるように、建造されてるに違いない。仮面を被った世間に顔を見せたがらない連中なら、尚更だ」

「‥‥ただ寝てただけじゃないんだ」

「寝ることも、仕事の一つだ。見直した?」

「‥‥ふふ、考えといてあげよう、かな?」

 ようやく真面目に話をしている俺を見て、少しは落ち着いたようだ。潜入など、ほとんどやった事のないシズクにとって、例え俺達がいたとしても気が休まる暇が無かったようだ。

「今晩って、言ったけど、本気で今からするの?」

「ああ、今からしてくる。全部の武器の回収は、出来ないかもしれないけど、ツグミの様子を見てくる。もし、今晩で仕事が終わったら、明け方に始めるぞ」

 俺の言葉に、サイナとネガイが微笑んだ。隠しきれない闘争心をくすぐられたのか、牛肉のソテーに手が伸びていく。

「覚えておいてくれ。オークションの参加者も主催者も、俺達の障害物じゃない。ただの獲物だ。敵はいない。追い込んで捕らえる。ここからは、狩りの時間だ」




 背中から、うずめられる顔と内臓が飛び出しそうになるぐらい強く絞められた腕の感触が伝わってくる。苦しいかと思いスピードを緩めるが、腕の強さは変わらない。だが、顔を上げたのがわかった。小声で何かを言っている。

「どうした?」

 ヘルメットのマイクに向かって、話しかける。

「怖いか?」

 自分から乗りたいと言ったが、無理をしていたのは明白だ。

「もう少し待ってて、止めるから」

「‥‥はい」

 作戦実行の二日前、ミトリとバイクの試験運転に行く直前、偶然その事をツグミの前で話していた。楽しみにしていたミトリは、興味を持ったツグミに意気揚々と先週の試験や準備について事細かに話した為、それが更にツグミの興味を掻き立てた。

「私も行ってもいいですか?」

 今日はカレンの特訓も休みで、シズクにオーダー街を案内してもらう予定だったらしい。その延長として行きたいと言ったが、違い理由があるのは確かだった。

「外で運転するのと違って、普通に100キロは出すぞ。いいのか?」

 怖がらせるつもりはない。ただ事実を伝える。

「身体中にベルトとか巻き付けるから、安全だと思うけど、それでも結構」

「私は、ダメですか‥‥」

「—―行こう」

 ミトリに背中を押されたのが理由ではない。ツグミが拳を握って下を向いたのが理由でもない。ただ、乗りたいと言っている人間がいるのだから、それに応えるべき。そういったただの義務感だった。

 ツグミを降ろして、次にミトリを乗せる。もう慣れた手付きでバイクスーツ中に設置された金具やベルトを俺やミトリ自身、またラムレイへと接続していく。

 念のため、整備の人間達がベルトの様子を見てくれるが、『clear』と言ってくれた。

「待ってろ。すぐに戻ってくる」

 返事も聞かないで発進させる。きっとあのまま待っても、何も言わなかった。

「‥‥あの」

「今日はすぐに終わらせよう。嫌か?」

「ふふ‥‥全然‥‥じゃあ、もっとスピード上げて下さい!」

「よしきた!」

 ラムレイのクラッチ変更に、妙な振動や浮遊感など一切感じない。求めるように、求めたままに、欲しいギアを提供、スピードを現実へと形にしてくれる。

 ミトリが腕を腰に回してくれる。先ほどのツグミのように腹や胸に回されると意外と苦しいのがダンデムの弊害だった。

 告げた通り必要最低限な回数を駆け抜けたところで、ピットインをする。ピットの端にあるベンチで俯いているツグミと何か話しかけているシズクを見つけるが、整備の人から渡されたアンケート用紙に『受けた違和感』や『運転中の快適性』についてを書き込むことを優先する。次回の試験レースの説明を受けていく。

 アンケートも説明も終わったところで休憩となった。次は一人だけの運転と言われた。

「どうだった?」

 ベンチのツグミへと問いかけるが、返事はなかった。

 シズクが肩を揺らして、足元にある俺の影に気付いたツグミが慌てて立ち上がる。

「あ、あの!」

「おう」

「‥‥迷惑、でしたね」

「そう思うか?取り敢えず昼に行こう。近くにレストランがある」

 シズクとミトリにそう言いながら視線を向けると、無言で頷いてくれた。

 ミトリが女性更衣室へとツグミを連れていく中、自然とシズクが男性更衣室へと入ってくる。

「俺なんか、覗いてどうする」

「の、覗く気なんてないから!!」

 立ち並ぶロッカーの壁に隠れて、声を打ち上げるように叫んできた。

「早くしてよ。誰かが入ってくるかもしれないから」

「なら手伝ってくれ」

 そもそもこのスーツは脱げにくくなっているので、着替え一つでそれなりの労力を必要とする。

「う‥‥わかった‥‥」

 まさかこんな事を了承するとは思わなかった。だが、シズクは顔を真っ赤に腫らしながらロッカーの影から出てきた。そして、脱ぎかけのスーツに手を伸ばしてくる。

「因みに聞くけど‥‥この下って」

「ああ‥‥一応下着は着てる」

「あ、なんだ。じゃあ平気」

 前に俺の着替えで叫び声を出したのは背中を向けてこそいたが全裸だったからか、そんな事を思っていると、シズクは自然と上着の金具やベルトを外して脱ぎやすくしてくれる。

「はい、バンザーイ」

「‥‥ちょっと、恥ずかしい、かもな」

「前はこうして脱がしてたじゃん」

 言われた通りバンザイをするが、もう俺の方が高い背丈にシズクは手が届かない。少ししゃがんでからシズクに任せるが、それが気に食わなかったらしい。

「なんか、負けた気分なんだけど‥‥」

「この状況でか?俺の方がとっくに負けた気分だよ」

 上着をシズクに奪われて、下半身は下着があるとはいえ、今度は普通にズボンのベルトを外されて脱がされる。上半身の傷を見られたが、シズクは何も言わなかった。

「君は負けるのが好きだからいいんでしょう?でも、そんなヒーに負けたって思うが嫌なの」

 脱がされたスーツをロッカーのハンガーに掛け、制服へと手を伸ばす。

「そんな負けず嫌いだったか?」

「ヒーは知らないかもだけど、私は常に君に勝ちたかったんだから。もう運動は諦めてるけど、それ以外では、まだまだ私が勝ち越してるから」

「だろうな‥‥」

 小学校の時から数えると、もう一生かかってもシズクには勝てないだろう。勉強や友達の数、それに精神的な部分まで、一度もシズクに勝てた試しがない。

 負けるのが普通になっていた。

「‥‥ねぇ、もしかして怒ってる?」

「‥‥わからない」

 そんな事を言ってくるシズクがYシャツを肩にかけてくれる。シズクに抱かれたままで腕を通したのに、今も至近距離で見つめてくる。だから魔が差してしまった。

 シズクを抱きしめて、ロッカーへと胸で押す。逃がさないように。

「見られたらどうするの?」

「見られたいんじゃないか?」

「‥‥私は君と違うから、静かにしよう」

 これ以上声を出させないように、自分から口を塞いでくる。やはり俺よりも手慣れた舌使いで、こちらの舌の根本を差してくる。もうこうなると息以外何も出来なくなる。

 しばらく、シズクにされるがままにされていると、不意に足の力が抜けた。そのまま膝立ちになってシズクのスカートに顔を押し付けてしまう。

「ふふ‥‥腰が抜けちゃった?」

「‥‥いつの間に、こんな技を覚えたんだ?」

「さぁ?でも、練習相手は君一人しかいないから。安心した?」

「‥‥負けた気分も、悪くないぞ」

「この状況で言う?今のヒー、すっごくかっこ悪いよ」

 床に寝かされて、目を真っ赤にさせたシズクが腰の上に跨ってくる。そのまま首を掴まれて逃がさないように唾液を直接注いでくる。同時に飲み込んでいく。

「美味しい‥‥あ、嘘だからね!」

 あのシズクが、こんな官能的な事を言うだなんて、それだけで、唾液が止まらなくなる。

「俺の‥‥美味しいか?」

「‥‥なんでだろう。君の口が、最近美味しくて仕方ないの。もしかして、危ない薬でも仕込んでる?」

 上から俺を見下ろしたまま、唇や胸の間を指でくすぐってくる。

「それはシズクもだろう。シズクの口、怖いぐらい気持ちいい‥‥」

「ふふ‥‥やった、勝っちゃった」

 数秒前まであれだけ大人の色香を漂わせていたシズクが、幼い頃の笑顔を見せてくれる。なんのしがらみも憂いもない、ただただ純粋な笑顔を向けてくる。

「機嫌が直って良かった。ツグミはなんだって?」

 立ち上がろうとしたが、シズクの指がそれを許してくれない。丁度鳩尾の部分の指で刺して、動きを止めてくる。

「思ったより怖かったって。やっぱり最初は普通の公道で始めるべきだったって」

「そうだろうな‥‥最初から100キロは異常だ。—―悪い事したな」

「全然。むしろツグミにはいい薬だったと思うよ」

「なんでだ?あれだけ怖がってたのに」

 跨ったままでシズクはYシャツのボタンを留めてくれる。しかも鼻歌まじりに。

「ここに来てから、ツグミ焦ってたの。少しでも役に立ちたいって思ってたみたいで」

「‥‥それは悪い事か?」

 向上心があるのは、良い事だ。俺なんて、やりたくない事は是が非でもやらないのに。

「悪い事なんかじゃない。だけど、あれは――死に急いでるみたいだった」

 ボタンを全部留めた所で、シズクが立ち上がって手を伸ばしてくれる。シズクへと手を伸ばして立ち上がるが、俺より先にズボンを奪って、しゃがんでくる。

「はい、肩に手を乗せて」

「‥‥それは、ちょっと」

「恥ずかしい?それが嬉しんでしょう?」

 決して退く気はないとばかりに、シズクはズボンを広げてくる。仕方ないと諦めて、シズクの肩に手を乗せる。そしてズボンへと足を入れる。

「ふふ‥‥子供みたい。‥‥これで私をいじめたんだよね?」

 膝辺りまで上げた所で、シズクが俺の下半身を見つめてくる。今日はどうしたのか。あれだけ色恋には下手だったシズクが、こんなに積極的だなんて。

「ねぇねぇ」

「‥‥もう許して」

「まだダメ、ねぇ、痛いの好きなんでしょう?」

「好きな訳じゃない‥‥」

「なんでもいいよ。ねぇ、これにスタンガン当てたら、どうなる?」

 身の毛もよだつ事をさも楽しそうに言ってくる。実際楽しかったようで、青い顔になった俺を眺めて薄っすらと笑った。笑っている膝を撫でて、更に遊び始めた。

「あはは!ごめんね。怖かった?」

 ズボンを一気に上げて、ベルトを結ばれる。そのまま立ち上がり未だ膝が笑っている俺を抱きしめてくれた。このシズクならやりかねないが、同時にシズクを抱きしめたくなった。

「冗談冗談。ほら、行こう」

 どうせすぐ戻ってくるのだからと、スーツを丸めてロッカーに投げ入れる。シズクと手を繋いだ状態で更衣室から外に出て廊下を渡り、一度休憩室へと足を運ぶ。

「怒った?」

「‥‥怒ってない」

「ごめんなさいって、怒らないで。またいじめてあげるから」

 男性にとって、あの発言がどれほどの事かわかっていないシズクはいつもの感覚で話しかけてくるが、許す気にならない。—――でも、条件を付ける

「‥‥あとで」

「後で?」

「膝枕‥‥」

 シズクが吹き出して笑うが、手を握って伝える。

「わかったから、元気出して。後で甘えていいから」

「今したい‥‥」

 手を更に強く握って廊下を走る。転ばない程度に走っているつもりだが、徐々にシズクが重くなっていく。言いはしないが、やはり運動不足だ。無人の休憩室に着いた所で、ベンチにシズクを座らせ、了解を得ないままに足を枕にする。

「ど、堂々としてるね。前は隠れてしてたのに‥‥」

 驚いた声こそ出したが、シズクは俺のまぶたを撫でてくれる。自然と顔が緩んでしまう。

「どう、許してくれる?」

「‥‥少しだけ許すよ。だから、続けて」

「また勝った‥‥♪」

 シズクの勝ち負けにはどんな線引きがあるのかわからないが、むしろこれは折れたシズクが負けていないか?

「気持ちいい?」

 しかし、シズクが息を吹きかけながら撫で続けてくれるので、どうでもいい。

「‥‥気持ちいい。—―—―死に急ぐって、」

 目を開けた時、シズクは笑顔のままだが、光が当たる角度の所為で悲しげにも見えた。

「ツグミ、すごい頑張ってるの。カレンさんにも言われたんだから、このままオーダーになれば銃の経験はなくても特別捜査学科からスカウトが来るだろうって」

「ツグミには、安全に暮らして欲しいよな」

「‥‥変かな?」

「全然。何もおかしくない—―—―だけど」

 言いかけたところで、シズクに口を塞がれる。

「わかってる。わかってるから。ツグミも、もう‥‥こっち側に来ちゃったって‥‥」

 オーダーの庇護下にいながら法務科にも保護されている。しかもオーダー街で二週間近く生活している。確実にツグミの名前と顔がどこまでも知られているだろう。もう、今までのように一般人としての生活は望めない。ならば、俺のように選ばなければならない。

「ツグミが選ぶ事、わかってるの。多分、このままオーダーに来る。—―—―あの子も隠れたり、逃げたりする事なんて、もう選べないって、わかってると思う」

 塞がれた口のまま、目を閉じる。

「眠いのね‥‥そっか、眠いか」

 手で顔を温められるだけで眠気が襲ってくる。けど、まだ眠る訳にはいかない。シズクの手を握り返し、頬へと移動させる。柔らかい手が震えているのが痛々しかった。

「外すの?」

「シズクはどうして欲しい?」

「私が気にしたって—―—―—―」

「またツグミを一人にするのか?」

 撫でていた手が止まった。

「もうツグミは元の生活には戻れない。わかってるだろう。ここで暮らすしかないって」

「‥‥ひどいね。はっきり言うなんて」

「人間じゃないからな。それに忘れたか?嫌われたても良いから、ツグミを守るって決めただろう—―—―—―俺がいる」

 シズクの手を取って心臓につける。鼓動を教えて俺が正常だと伝える。

「俺は決めた。ツグミを守るって、逃がさないって。シズクはどうだ?」

「‥‥私は」

「答えてくれ。シズクは、ツグミをまた危険な目に、一人で遭わせたいのか?」

 シズクが考えている事の一欠片も俺には計り知れない。だとしても毎晩どころか、毎時間毎分、ツグミの心配と、今後の妹の将来の事を考えているのが今の表情だけで分かる。

「—―—―違うから、そんな訳ないから。私は、ツグミと仲良くなりたい。ちゃんと姉さんになりたい。おかしい?オーダーに引き入れるって決めたのに、嫌われたくない仲良くなりたいって――—―—―私、変な事言ってる?」

 見下ろしてくるシズクの顔の頬に手を伸ばすと、看取るように手を握ってくれる。

「おかしくなんてない。シズクは正しいよ。ツグミも、きっと同じだ。俺も同じ気持ちだから。‥‥お願いだ、ツグミの傍にいて欲しい。もう、ひとりにする訳にはいかない」

 やっとツグミにも家族が出来た。長い時間、少しずつ蓄積された関係がやっと家族や姉妹という形に昇華された。ツグミもそれを選んだからここにいる。

「それと、嫌われてもっていうのは、もう無しだ」

 伸ばした手を耳につけて、シズクに甘い声を出させる。

「ツグミとは仲良くしろ。それで許すから」

 ゆっくりと目をつぶったシズクが、無言のまま頷いた。

「負けちゃった。こんな格好のヒーに負けるなんて、‥‥でも、悪い気分じゃなから。ありがとう‥‥私のヒー」

 開かれた眼からは、もう迷いは断ち切れているのがわかる。これからは、きっと今まで以上に過保護になるのだと、嫌でもわかる。ツグミに言い寄るには、シズクを越えなければ。

「ねぇ」

「取り込み中。話なら、後でな」

「‥‥姉さんを姉さんって呼ぶ気にはならない?」

「それもいいかもな」

 その瞬間、シズクの肘が鳩尾に振ってきたのは、予想外だった。





 最難関であると想定していたオークション会場フロアへの侵入を試みてから、まだ5分しか経っていなかった。客人用エレベーターでは地下への入力は受け付けないと断定していたので、今は別ルートで地下へと向かっていた。

「あの部屋にはコーヒーメーカーと果物があった。だったら、あるに決まってる」

 ケータリングを運ぶ為の階段や業務用エレベーターが必ずあると思っていた。

 運ばれてきたワゴンを取りに来るよう連絡を送り、部屋の前に放置する。勿論、発信機を搭載させながら。運ばれた先は俺達が宿泊している別館の地下フロア。どうやら、そこから立食会の会場や隣にある本館地下のオークション会場へと運ばれていたようだ。

 ワゴンが運ばれたルートをタキシード姿で歩み、ワゴンが運ばれた先、それぞれの階にも設置されているスタッフルームへと侵入。成功した。

 見張りとしての警備員は勿論、入っていったスタッフすら見当たらない。毎回必要な時だけ、該当するフロアへと派遣されるようだった。

 スタッフルームでさえこの大きさなのかと、心の中で吐露してしまった。また、入った時に見えたのは長く大きな机。部屋の両端にはエレベーターにそれぞれ男女のマークが描かれた更衣室の扉。そして机の上には宿泊している人の名前が載ったファイルが無防備に置かれていた。中を開けると、俺の招待状の持ち主であった『祓魔師』の男の名前に特殊なマークが印字されていた。ネガイやサイナには無い。

「どうでもいいか‥‥どうせ偽名だろうし」

 丁度いいと考えて男性用更衣室へと入る。当然、中は無人であったが、目的の品は見つける事が出来た。スタッフ用の制服。

「丁寧に三種類のサイズまで。着替えるけど、いいな?」

「急いでね。ワゴンは止まってけど、すぐ動くかも」

 シズクに急かされるが、ここで大きな物音を出す訳にはいかないので、落ち着いて着替える。

「タキシードはここに置いて行く。誰か回収に来れるか?」

「私が行きます」

 ネガイからの応答を確認して、使ったロッカールームの番号を伝える。

 更衣室から出る前に鏡でベストやシャツが歪んでいないかチャックする。エレベーターの前で俺に頭を下げた人に制服が歪んでるだなんだ言われたら、殺したくなる。

「準備完了。‥‥かつらが痒いし、メガネが揺れる」

「我慢して」

 必要最低限の変装としてサイナに頼んだ代物だった。人間とは、意外と目元や髪型を変えるだけで、バレなくなる。そもそも、誰が忍び込むなんて知らない訳だし、知らない奴が知らない奴に変装した所で意味などないかもしれない。

「取り敢えずはワゴンのある地下に降りる。次からは返事をしないから、指示を頼むぞ」

 マイクを耳元につける。スタッフの幾人かも同じように耳元にマイクを付けていたのだから、怪しまれる事はないだろう。

 スタッフルームにあるエレベーターのボタンを操作する。向かう先は地下一階。すぐに開いたエレベーターの中には女性スタッフが二人乗っていた。ここでまごつく訳にはいかないので、一息で飛び乗る。

「何階ですか?」

「地下へお願いします」

「はーい」

 若い短髪の女性スタッフの一人が代わりに押してくれた。無理に話題を振らないで、というカレンの指示の元、エレベーターの隅で固くなる。

「あ、聞いた?あの地下の奴」

「聞いた聞いた。なんだっけ?親睦会?中止になったんでしょう?」

 どうやら、同じスタッフでも知ってる人間と知らない人間がいるようだ。

「それがさ、なんか銃でも持ち込んでたみたいで」

「嘘!?‥‥それ、本当なの?」

「だって、皆言ってたよ。銃声が聞こえたって」

 俺に聞こえないように、小声で話しているが、自然と耳が傾いてしまう。

「その人、もう逮捕されたの?」

「それがね‥‥実は、撃ったのはまだ子供で、しかも支配人の身内らしいの。やばくない?」

 意外な事実が判明した。そうか、あの金メッシュ、血縁者だったのか。

 どうりであれだけ傍若無人な振る舞いをしてもつまみ出されなかった訳だ、あんなに怒り狂っていたのも、身内である自分を一等級の部屋に案内しなかったからか?

「でも、なんで、そんな事知ってるの?」

「それがね。あの子、ファッションショーのモデルとかスタッフに声を掛けまくってて、私も誘われたの。あんな子供の言ってた事だから、無視してたんだけど、支配人の身内って口説き文句、嘘じゃなかったみたいね」

 目的の階に着いた時、二人は降りていった。

「面倒な事が続きそうだな‥‥」

「言えてる‥‥イノリはどう思う?」

「別にー‥‥ただただ迷惑って、感じ‥‥。強いて言えば、バカって、本当に死ななきゃ治らないのかなって?」

 会った事がある俺達は揃って溜息を出す。

「‥‥厄介だな。まだうろついてるのかもしれないのか‥‥」

 地下へエレベーターが着き、自然な動作で外に出る。ここには絨毯が引かれておらず、代わりにヘリンボーンの床にはゴム製の車輪の跡が残っていた。

「そのまま右手に行くとワゴンがある。その階を探索してみて」

 言われるがままに取り敢えずは歩いてみる。客室にあった絵画や石像は見受けられない。そもそもの扱いとしても、ここはスタッフ専用のフロアのようだった。

 深夜、という事もあり、通る扉の前から寝息や笑い声が聞こえてくる。業務中ではあるようだが、宴も明日明後日で終わる。緊張感が途切れる時間という事らしい。

「調理配膳室‥‥ここか‥‥」

 一つの扉の前には立て札が設置されていた。関係者以外立ち入り禁止とも。

「なら、もう一度辺りを探索してみて。多分オークション会場に通じる廊下があると思う」

 シズクの声に、マイクを一回叩いて了解と伝える。

「これは確実。地下へは限られた人しか入れない。だから、オークションに関わる人間しか入れない、渡り廊下に通じる厳重なロックがされた扉がある。それは見つけてみて」

 辺りを見渡して、もう一度歩き始める。誰かに見られている訳じゃないが、これ以上停止していたら、不自然だ。

 何度か扉から出てくるスタッフを見かけるが、皆一様に本館で行われていたオークションについてを話題にしていた。ずっと秘密裏に行ってきた行事がここまで広まってしまった以上、来年からは行えないだろう。させる気もないが。

「今左手にある壁にない?そこが一番本館に近い」

 マイクを一度叩く。

 見つけた。関係者以外立ち入り禁止などではない。一切の立ち入りを禁止するという文字と共に、入室した際の安全は保証しないという文言も添えて。

 無言でドアノブ近くにある認証装置をスマホで送る。

「かざして」

 スマホをかざした瞬間、扉から鍵が外れる音がする。ノブを掴んで、中へと滑り込む。

「気を付けて、そこは見取図にもない、抹消されてる空間だから」

 止まらずに歩みを進める。無人であるが、初めて入ったと思われれば、撃たれるかもしれない。ベストの中は強化アラミド繊維のシャツだが、それ以外は何もない。完全な丸腰だった。

 廊下には絵画が飾られていたが、様子がおかしい。

「わからない‥‥」

 見た事がない様式だった。王冠を被ったクマや、それにひれ伏す動物達、そして曼荼羅図のような模様だけが描かれたゼンタングルと呼ばれる絵の数々。やはり、どれもこれも見た事がない。同じようなものすら知らない。これはまるで――—―。

「アトリビュート‥‥宗教画か‥‥」

 ヨーロッパの美術館には、キリスト教やギリシャ神話を元にした美術品が多く展示されているらしい。そして、それは開かれた美術館という場所にありながら、狭い人間にしかわからない、人によっては無価値な絵だと言える。

 宗教画とは、そもそもの知識、ペテロや鍵の関係、目隠しと剣と女神といった事前知識がなければ全く理解できない。よって限られた価値を持っている。

「‥‥どうでもいいか‥‥」

 ここで知識の紐を手繰り寄せる必要はない。ツグミの事に専念しなければ。

 天井を眺めると、途轍もなく高いのがわかった。そして天井にも宗教画らしき、革や動物の頭、そして草花を身につけた人間達が描かれている。明かりは壁から取っているらしく、床というよりも、天井を際立たせるような造形だった。

「似てるな‥‥」

 あの方のソラには決して届かないが、似通ったところが随所に見受けられる。

「‥‥まさか、ヒトガタ?」

「ヒトガタ?嘘、いるの?」

「いや‥‥いない。大丈夫、なんでもない」

 もしイネスがここにいたら驚いたかもしれない。この回廊はあの部屋にもよく似ていた。

「近くに武器の反応がある。ツグミの反応も」

「ツグミのところに—―—―—―」

「ダメ、先に武器の方に行って。ツグミのところから武器じゃ、二度手間になる。行って」

「‥‥わかった。武器へ案内してくれ」

 シズクから提示された選択肢を選んだ時、マイクから高い電子音が流れた。瞬時に臨戦態勢の構えを、音を聴いた者全員が取るのを想像させり。これは緊急事態を知らせる音。

「真横に扉は無い!?ツグミの所に行って!!」

 指示に従い、真横の巨大な絵画を見据える。頭に草花の冠を戴いた裸婦画の額縁を撫でると、僅かに絵画が揺れたのをこの目が気付いた。何も知らずとも、開くのだと理解する。

「隠し扉—――—―」

 壁から引き剥がすように絵画を引く。絵画どころか辺りの壁ごと剥がれ、防災扉のように床近くの壁は残る黒い穴が生まれた。穴に飛び込み、扉を閉めながら駆け出す。

「真っ直ぐ走って!」

 飛び込んだ先にも廊下があった。見た事のない絵画が並び、ロココ調の壁や赤い絨毯が引かれている。アンバランスだ。絵画と廊下の様式がちぐはぐで異常な切り貼りに頭が混乱していく。咽せ返る狂った芸術のグラスタワーの中を縫い、廊下の果てへと到達する。

「そこに扉は無い!?その先から――」

 立ち並ぶ絵画の最奥。巨大な湖の上に佇む、羽を生やした妖精と思わしき姿をした少女が描かれる絵画が壁となっていた。だが、穢れを知らぬ純白の丁度等身大の少女の胸元に、黒い汚れが手の形となって浮き出ているのを眼が知らせる。

「‥‥これは、開くのか?」

 少女を押し倒すように胸を押した瞬間、これも扉なのだと手応えで理解する。ほぼ同時に男の雄たけびも聞こえ、妖精の少女の姿をした扉を蹴り開け中へと転がり込む。

 そして金メッシュに腕を掴まれたツグミが、必死に扉へと逃げようとしている姿を視認—―—―ツグミの背中を抱き—―—―金メッシュの鳩尾に鋭いつま先を叩き入れる。だが。金メッシュは吹っ飛んでこそ行くが、無言でゆらりと立ち上がるだけに留まった。

「あの人‥‥おかしい‥‥」

 腕の中にいるツグミは、ペンライト台のスタンガンを手に握っていた。一度使ってしまえばそれだけで終わる使い捨ての武器だが、成人男性でも昏倒させる代物の筈だ。なのに、奴は平気で迫ってくる。反吐の出さず、肩を揺らす姿は人間的とは言えない。

「下がってろ」

 ベストを脱いでYシャツ一枚となる。

 瞬時に薄暗い部屋を目で完全に見通し、対象が取れる全行動を測定、脳内で反推、あらゆる可能性を否定する。あくまでもただの一般人である何も話してこない顔は、ただただ邪悪に歪んでいるだけだった。ツグミ以外、何ものも見えない。これから行う事への期待以外何も考えられない。なのに笑い声一つ上げない。異常だ。

「殺さないように」

「相手による」

 容赦などしない。ツグミに触れていいのは、俺だけだ。夜のツグミを見ていいのは、俺以外いない。だから、初手で肘を眉間に叩き込む。

 痛みは感じるのか。それともただの反射か。縮地を使った肘を受けた奴は鼻から血を流して仰け反る。なのに、倒れないで頭突きでもするように跳ね返ってくる。

「今ので倒れるべきだった」

 跳ね返ってきたところで、指先を肋骨の中に滑り込ませ肝臓へと直接指を突き入れる。痛みは感じているようで、腕を掴んで自身に突き刺さる指を引き抜こうとするが、それが徐々に弱まっていく。最後には白目を剥いて倒れ込んでくる。

 受け止めるつもりなど毛頭ないので、顔面から倒れさせる。盛大に鼻血を床へと晒すが無視して既に外されていた奴のベルトを抜き取り、腕を後ろ手に縛る。

 安全を確保した所で、充電が切れたスタンガンを持ったツグミが裸足で近づいてくる。

「死んだの?」

「どうかな?興味ない。悪い、怖かった、よな‥‥」

 完全に縛り終えたところで、金メッシュを引きずって扉の外へと放り投げる。

「全然。アイツが来る前にヒーが近づいているって、姉さんに言われたの」

「ごめん。もう少し早ければ、俺が先だったのに」

「平気だよ。それに私が悪いの。カレンさんから扉は簡単に開けてはいけないって言われたのに簡単に開けたから。スタンガンって、いいね。次はもっと強いのが欲しいよね」

 どうやら扉が開いた瞬間、一度電撃を食らわせたようだった。

 ツグミに手を引かれて、過ごしている部屋を案内される。俺とシズクが使っていた部屋と同等規模の部屋を一人で使っていた。しかもベットは天蓋付き。世に言うお姫様の部屋とは、こういう部屋なのかもしれない。

「そこに座ってて」

 指定された椅子に座ってテーブルに腕を置く。

「今、お茶でも入れるから」

 そう言って、キッチンでもあるらしく、部屋にある扉を開けて出て行った。

 見渡す限りロココ調だが、やはり飾られた絵画に違和感がある。まるで似合っていない。ここまで外れてる感があると、わざとなのか、ただただセンスがないのか、わからない程だった。

「‥‥血、どうにかするか」

 思い立った時、目の前の水差しが目に付いた。

 水差しを手に持って、鼻血の跡へと流し、血を浮き上がらせる。そして胸ポケットに入っていたハンカチーフを使って、血を拭き取る。タイルに近い材質だったので、綺麗に拭き切れた。ハンカチーフは汚れたが。

「お待たせしました」

 先ほどの事などなかったかのように、花や草木が描かれて、縁を金で沿ったトレーやポット、カップをツグミが持ってきてくれた。想像以上に肝が据わっている。

「平気か?」

「少し驚いたけど、平気。それにアイツ、知ってるし。何度か見かけたから」

「女子校なのに?」

「そっちじゃなくて、大学の方で。親が偉いのか知らないけど、大学に勝手に入り込んでて、誰に対してもあんな感じで」

 口では平気そうに装っているが、気にしていない訳がなかった。ポットを持っている手が震えないように、時間をかけて注いでいる。

「代わるよ。座っててくれ」

 シズクと話せるマイクを耳から外して渡す。受け取ったツグミはマイクを大事そうに両手で耳に当てた。

「うん‥‥平気。ヒーが守ってくれた‥‥だから、平気‥‥」

 静かに話しているツグミから受け取ったポットを傾けて、カップに注ぐ。火にかける時間が少なかったようだ。紅茶の香りが浅い。色も薄い。

「ありがとう‥‥そうする。大丈夫だから、何ともなかったんだから」

 マイクのスイッチを切ったらしく、テーブルの上に置いた。

「‥‥びっくりしちゃって」

「驚いて当然だろう。よく、使えたな」

 使い切ったスタンガンを奪って、新しいスタンガンを渡す。念の為予備も含めて計3本。これの威力は折り紙つきだった。なんて言ったって、カレンが『先生』を仕留めたのは、これを使ったからだ。

「シズクはなんだって?」

「今晩はヒーに一緒にいてもらいなさいって。いいよね?」

「いいぞ。明日も明後日も、一緒にいるから」

 シズクと似た顔付きであるが、少し違う。シズクよりも若干目が大きくて、瞳の色も少し濃い。何よりも髪の色が大きく違う。薄いブロンドという言葉で言い表せない。まごう事無く、黄金の髪。

「少し話さないか?」

 紅茶を啜って伝えると、ツグミは大きく頷いてくれた。

「何から話してくれる?」




「またオムライス?あれだけ教えてあげたのに」

「いいだろう。また好きになったんだ」

 サーキット場近くに併設されたレストランの客足は、良く言えばまばらだった。普段のサーキット場は車両の運転練習で使われている為、数多くの生徒や本職達が毎日足を運んでいるが、今日は貸し切りという事もあり、レストランは閑古鳥が鳴いていた。

「それにツグミだって」

 小声で注文していたメニューがバレていたとわかったツグミは加速度的に顔が赤く染まっていく。そんなツグミに対して申し訳なさそうに笑顔を向けるミトリが、

「あれぐらいでは、聞こえてしまいますよ。ごめんなさい」

 と、容赦なく事実を伝える。

「でも」

「耳を使うのは必須訓練。聞こえなかったとしても口の動きで分かる。こっちに来たら最初に学ぶ事だから覚えておいた方がいいぞ。カレンから聞かなかったか?」

「‥‥少し習いました」

 メニュー表で口を隠しているから気付かれないと思ったのか、少しばかりオーダーらしい所を見せられた。しかし、ツグミにとって最も重要なポイントは別にあったらしい。

「姉さんも?」

「うん‥‥怒った?」

「いいえ、やっぱりみんなオーダーなんだなって、驚いただけ。私も出来るようになるよね?」

 恥と思わず、悔しさの方向へ持っていった。これは、良い傾向だ。

「慣れれば誰でも出来る。銃の扱いも」

 一世代二世代前の拳銃は、ほとんど鉄の塊で鈍器と大差ない重量だったが、昨今は樹脂フレームの方が一般的となっている。勿論、構造的に金属を使っている部分もあるが、今は本当に誰でも使える汎用性がある銃の開発が理念に置かれている。

 誰でも、人を撃てるのと同じように。軽い手応えで容易く、生命を奪えてしまう。

「あの、みんな人に向けて、撃てるの‥‥?」

「撃てるよ」

 シズクが率先して言った。

「私は親でも撃てる。ヒーは、撃ったから」

「‥‥本当?」

「ああ、本当。親を的にして撃ち方の指南もしたからな」

 カレンはあれでなかなか筋が良かった。相手が人間だ、という所が良かったのだろうが、ソソギと長くいた事はある。引き金に指をかけるのを、恐れていなかった。

「銃が怖いか?」

「少しだけ」

「それでいい」

 自然と顔を上げたツグミの視線の先。対岸にいる俺達三人は、みんな笑顔だった。

「撃つのが怖いなんて普通だ。撃つような状況、無い方がいいに決まってる」

「だけど‥‥親も撃ったって」

「不思議か?銃を撃たざるを得ないなら、撃たれるような状況に置かれる事でもある。誰も気にしてないけど、誰が使っても撃てば殺せるし、撃たれれば死ぬ。自然の摂理として」

 銃を持つ者の責任なぞ、持っている当人達はまるで考えていない。全てを理解してしまえば、誰一人として街へと出歩く事すら出来なくなる。自分の指先一つで、世界を変える事が出来てしまうから。その事を理解してる奴など、人間にはいない。

「恐怖は消せないけど、すり減らす事は出来る。撃ち慣れる事で」

「‥‥今みたいな訓練?」

「その通り。わかってきたな」

 それぞれが注文した料理が届き、昼食を始める。やはりツグミはケチャップが乗った部分の中央をスプーンで抉った。シズクの真似が自然と染みついている。

 しばらく無言で食事を続ける。こう見ると、やはりツグミは年下だ。幼さというよりも指摘したくなる無防備さを感じる。シズクとミトリに視線を向けると、微笑んで頷いてくれる。

「結構美味しいね。姉さんもここで食べた事あるの?」

「数える程だけど、何度かあるよ。皆ここで免許を取ったから」

 嬉しそうに免許証をツグミに見せるがシズクだが、それには一体どれ程の価値があるだろうか。

「どう?私、ちゃんと運転出来るんだから」

「ペーパードライバーだけどな」

 それを伝えた瞬間、シズクがすねを蹴り上げてきた。革靴でのつま先は涙が出る程痛い。

「私だって、運転しようと思えば出来るから!!」

 免許証を持っているのだから、それは出来るだろうが、事故を起こさないで安全に運転できるかどうかは別の問題だった。しかし、妹に自慢出来る状況を甘受したいらしいシズクは意気揚々と胸を張る。

「今度、車借りて外に買い物に行こうよ!私の運転で!」

「‥‥ヒーの運転がいいや」

「私もです」

 ツグミとミトリがそれぞれシズクの運転を拒否した時、再度俺のすねを蹴り上げられたのは永遠の謎となった。




「そうだ。私、ヒーが運転してる時、眠ってたよね‥‥あーあ‥‥残念‥‥」

 ぬるくなってしまった紅茶を啜りながら、そう嘆いた。

「また乗せる機会があるだろうけど。そんなに残念だった?」

「残念に決まってるじゃないですか!私、姉さんと違って初めてのヒーの運転だったのに‥‥」

 シズクに自慢でもされたのか?俺の運転にそんなにも価値は無い。

 だが、背中にネガイを乗せてバイクを運転している光景を、ミトリやマトイが羨ましかったと言っていたのを思い出した。俺が運転する車両に乗る、という事実が大事なようだ。

「そうだな、ここから出る時は法務科の護送車だろうし、学校に帰る時だって、別の車両だろうし。しばらく俺が運転する事はないかも」

 ツグミは今夏の仕事が終わり次第、多くの偽物の車両を紛れ、元いた女子校へと帰還する運びとなっている。俺が運転する機会など、もう数える程もないかもしれない。

「その間に姉さんは、また私から距離を離すんだよね‥‥」

「シズクはずっとオーダー街にいるぞ。仕事で何度か外に出るかもだけど」

「ヒーとの距離って事!」

 言っている意味がようやく把握出来た。実際の距離ではなく心理的な話だった。

 それは仕方ない。シズクとは一線こそ越していないが、もう既に肉体的に重なっている。肉体の距離感と心理的な距離感は比例する。これは実体験で確認済みだった。

「やっぱり姉さんはずるいよね。私の物も欲しい物も、全部自分の物にするんだから。あれだけは嫌い。自覚してくれれば、私だって、もう少し素直になれるのに」

 一人、目を虚にしながらシズクへの恨みを吐露し続ける。鬱積している不平不満が想像以上に溜まっているようで、他人が目の前にいる状況だというのに、なかなか留まる所を知らなかった。最後に疑問を投げ掛けたツグミが、一息で紅茶を飲み終える。

「なんであれだけ気付かないのかな?普段はなんでもわかるのに‥‥」

「なんの話だ?」

「ヒーと二人きりになってる時!気を利かせて、少し待ってあげたのに、お礼の一つも言わないんだもん。ヒーに目を付けたのは私が先なのに」

 当時は想像もしていなかったが、確かに、あんなに都合よくツグミが現れる筈ない。そう納得した瞬間だった。瞬時に見抜いたツグミに視線で射抜かれる。明確な殺気を併せ持つ視線は刃の如し、首元に突き付けられた視線から逃れるべく、目を逸らしてしまう。

「もしかしてヒーも?」

「‥‥ごめん」

「ふーん。こっちに来て」

 立ち上がったツグミに連れ去られ、天蓋付きのベットへと引き込まれる。ベットに座ったツグミは膝を叩いて「ここに横になれ」と伝えてくるので、過去を思い出しながら恐る恐る頭を預ける。柔らかな太腿が頭を受け入れ、心地良い圧で締め付ける。それがあまりにも気持ち良くて、自然と残る膝辺りに手を伸ばして感触を確かめてしまう。

「初めて男の子に触られちゃった。姉さんより、やっぱり私の方が成長してるよね?」

 顔を見上げれば、自信が決してハッタリではないと痛感する。シズクの顔を見上げた時と違って、胸の影により顔が見えなかった。その上、頭を支えている足も肉厚で柔らかく、血が溜まる感覚とは一切として無縁だった。

「夏場しか出来なかったけど、毎日してたんだから、覚えてるよね?」

 大きく、そして温かくなった手で胸と顔を撫でてくれる。緊張の糸が切れてしまい、睡魔が襲ってくるが今晩は寝ないと決めていた。ツグミを守る為に。

「どう?姉さんも相当だけど、私の方がいいでしょう?—―──姉さんでも、これは出来ないでしょう?」

 焦って見えたのは、その実ツグミは一人戦っていたからだった。自分の中で作り上げられた完璧なシズクの幻想と、何も出来ないという自分とを争わせている。シズクと自分を比べた所で意味などないのに、だけど、それをせずにはいられないと暗示していた。

「シズクは未だに運動はダメだぞ。ツグミみたいになんでもできる訳じゃない」

「でも、姉さんは得意分野なら本当に何でもできる。私みたいに出来る出来ないなんて小さい話じゃない‥‥私しか出来ないって思った囮だって、ヒーが来なければ危ない目に遭ってた。私、結局誰かに頼らないと、何も出来ないの。意味がない‥‥」

 それこそ意味がない。実際ツグミのお陰様で、このオークションに侵入する糸口を掴めた。ツグミがオーダー本部よりも俺達を選んでくれたから、ここまで辿り着く事ができた。

「それは違う。俺はツグミがいなければ、ここにいない。ツーが欲しいからここにいるだけだ。囚われてる他の子達の事なんて、ただの義務感だ。どうでもいい」

 今の発言には、驚いたのか。撫でる手が一瞬止まった。

「囮が出来てない?そんな訳ない。悪かった。ツーは俺の期待に応えてくれたのに」

 ツグミの頬に手を伸ばして、目を閉じさせる。

「私、期待外れだよね‥‥」

「誰もいない部屋で、二日間も待たせた。悪いのはこっちだよ。ツグミを救いたいなんて言っておいて、また一人にさせた。—―──期待外れで悪かった」

 ツグミは全力を以って、この作戦に応えようとしてくれた。なのに、俺はツグミに頼り切りで、あと数秒でも遅ければ傷を負わせていた。まだオーダーでもない、年下の少女の両肩に余りにも重荷を背負わせ過ぎた。ひとりの人間として、気に掛けるべきであった。

「何が法務科だ。結局俺は、自分の都合しか考えてないんだから。‥‥怒ってる?」

「‥‥寂しかった」

 胸を撫でる手つきは変わらないが、ツグミの足が冷えていくのがわかる。

「うん、怒ってる。やっと姉さんにも、ヒーにも会えたのに、こんな部屋で待つしかないんだもん。アイツ、暇つぶしに殺しておけばよかった」

「その時は俺に言ってくれ。溶かし方も隠し方を教えるから」

「うん、その時はお願い」

 本気だという事が息遣いでわかる。心拍も安定していて、先ほどの事はただの出来事としか捉えていない。—―──やはり、ツグミは。こうなる事を

「‥‥聞いていいか?」

「久しぶりに使われたね、それ。なぁに?」

「こんな目に遭うって、想像してたのか?」

「そうだよ。考えたし、想像してた‥‥準備もしてた。心の準備をね」

 ツグミの頬に伸ばした手を用いて、髪をハープのように爪弾く。月の淡い光に灯され煌々と輝く姿からは神聖さを。愛欲の神にも似た艶姿からは一種の中毒性すら覚えた。この輝きを独占したい、自分の物にし慰撫しなければ心臓から腕が伸びてしまう。

「話したよね。私が自分から出品されのを選んだって。オーダーに言われたからってのも勿論ある。けど—―──元々は姉さんを連れて来いって言われたから」

「‥‥そうか。それをシズクには?」

「言ってない。ヒーにしか、話してない」

 シズクを一度追放していながら必要と成ったから呼び寄せる。考えたくないもが、ツグミを大学へと招いた理由はシズクを呼び寄せる為だったのかもしれない。

「姉さん、怒るかな?」

「怒ると思うか?」

「多分、怒ると思う。—―最初の夜にも怒られたし」

「なら、俺も怒るぞ。ツグミは俺の物だ。自分を売るような事、認められない」

「ふふ‥‥怒られちゃった‥‥」

 白い肢体から起き上がって肩を押す。天蓋付きのベットのカーテンを引いて光を遮断する。完全には光を消す事は出来ない、よって、押し倒す影が生まれる。

「うわぁ‥‥すごいね‥‥私が作ってるんだよね‥‥」

 カーテンに映った己が影を見て、ツグミが感嘆と羞恥心を声に乗せる。扇状に広がった髪の中心、興奮に顔を朱色に染める姿は扇情的で、自分の足と腕で恥部を隠そうと身を捩る行為には、秘密を暴かねば、何もかもを奪わねばと理性が音を立てて崩れ去る。

「私、ずっとヒーを待つ気だったの。でも、オークションの事を聞いた時、それは諦めちゃった。きっと、すごい年上かアイツみたいな─────」

 それ以上言わせたくなかった。何より、今は俺以外見て欲しくなかった。

「‥‥優しいね」

「久しぶりだからな。覚えてるか?」

「覚えてるよ。始めて、男の子と一瞬に眠った日だもん。ずっと、覚えてた」

 両手を広げて受け止めてくれるシズクに再度落ちる。シズクと同じ口の大きさなのに、唾液の味が全く違う。シズクよりも、酸味があって大人の味がする。部屋中に響き渡る粘液の音。しんとした貴族令嬢の部屋に似つかわしくない、或いは相応しい生々しい音が耳に残る。手を伸ばし、頭を抱き締め魂ごと引き抜こうと、こじ開けようと求め続けた後。

「最初はね。よくわからないけど、『教授』から呼び出しを受けたの。学校もこんな事は稀だって言って、私に行きなさいって勧めたの」

 甘い髪の香りがまだ顔に残っていた。軽く噛まれた舌を引き抜いた時、ツグミは自身の唇に余った唾液を舌で舐め取り、先程までの情事を気に求めずに言葉を続ける。

「私、嬉しかったんだよ。初めて人に認められたって。腕なんか振っちゃってさ。そこで年上の学生さん達に混ざって、勉強だったり講義を受けたりして。私を特別扱いしてくれた。姉さんに成った気分だった‥‥わかってるよ。どれだけ頑張っても、私は姉さんにはなれない。張りぼてにしかなれないって。それでも、夢みたいな日々だったの。私、『教授』の言う事なら、何でも信じられた。—―ヒー以外で、始めて私を褒めてくれた人だったから」

「俺が待たせたからなのか‥‥」

 ツグミの上で腕を立てて被さっていると、頭を抱いて胸の中へと引き入れてくれる。

「そんな顔しないで。私がヒーを信じられなかったのが悪いの。必ず来てくれるって、思ってたのに、私は結局、ヒーを待てなかった。さっき扉を開けたみたいに」

 例え、いつまで待っても俺はツグミの迎えには行かなかっただろう。シズクに誘われない限り、ずっと俺はツグミに会わなかった。記憶の片隅に追いやっていた。

「一人ぼっちは、怖いな‥‥」

「うん‥‥すごい怖い‥‥。だから、私は離れられなかった‥‥」

「今はどうだ?」

「—―─ここで聞くの?」

 最後の選択の時だと自覚したのが語尾でわかった。今、ここで俺を気絶させれば、ツグミは『教授』の求めるままに振る舞える。オークションに出品されて、別の誰かに落札される。そうすればツグミは最後まで、『教授』に必要とされるだろう。

「私、スタンガン持ってるよ。そんな私に訊くの?」

 腰に隠していたスタンガンに手を伸ばし、首に突き付けた。躊躇せずに一息で行われた荒事に気付かれぬように微笑む。もう、ツグミはオーダーに足を掛けていると。

「怒ってるよ。私を忘れて、姉さんと仲良くなって。忘れられた私は姉さんと『親』を守る為に頑張って頑張ってあなたを忘れた。なのに最後の最後で、今更会いに来て、迎えに来たって。今までの努力は、なんだったの?」

 左側の動脈ではない。声を潰し、激痛に気絶させる為に喉奥へと移動させた。

「私、ずっと一人で頑張ってきたんだよ。勉強だって運動だって。この身体と髪を見て、私は捧げられる人の為に、自分を磨いてきたの。ヒーが必ず来てくれるって、私を救ってくれるって、そう思って頑張ってきた。でも、ヒーはまた姉さんの物になってる」

「‥‥そうだ。俺はシズクの物だ」

「だったら、なんでここにいるの?」

「ツグミの物でもあるからだ」

 スタンガンを強く握り締め、銃口と同じ扱いで距離を取れと命令を下す。目を見ればわかった、ツグミは激怒していると。少女の我儘では無い、一個の生命として奪うと告げた。

「じゃあ、ここで殺してもいいんだね?私の物って事は、ここで奪ってもいいだよね?」

 本物の殺意だった。武器を扱う手が全く震えていない。全身の血管が沸き立ち、温かな脈動が心地良い─────刻み込まれた本能の一つ、敵対者が現れたと血が脳に報告する。金メッシュへとスタンガンを浴びせた時も、こうだったのだろうと頭の隅で想像する。

「約束したよね?姉さんと話す時は付き合ってくれるって、もうそれは終わったから、もうヒーはいらない。ここでヒーは殺せば、姉さんは悲しんで何もできなくなる。私は、姉さんを越える事が出来る。そうだよね?」

「本気で、そう思ってるのか?」

 突き付けられていたスタンガンが、手から落ちた。

「怖いか?」

「違う‥‥ヒーじゃない‥‥あなた、誰?」

 恐れ後退りするツグミの肩を掴み取り、乱暴にベットへと縫い付ける。強姦魔の姿と成った自分は本能のまま、金の髪に顔を埋め耳に噛み付きながら息を吹き掛ける。ツグミから怯えた声が漏れるが、それが更に化け物の持つ心臓が昂らせる。

「シズクは俺が死んだ程度じゃ動じない。必ずツグミを追い詰めて、直接手を下す。忘れたか?シズクは、『親』に銃を向けられる。殺せるんだぞ?」

 ツグミの首へ吸い付き歯型を残す。更に指で片方の耳を撫で、奥へと突き込む。強者を気取っていたツグミは怯える声を発しながらも、時折甘いか弱い女性の声を響かせる。

「まだ甘いな。俺達は化け物だ。人間の尺度で語るなよ。返事は?」

「はい‥‥」

 あの方が俺の心臓を好む理由が理解出来た。この想いは、心臓でも取り出さなければ、留まる所を知らない。心臓すら自分の物にしなければ我慢できない。

「俺を殺す?試してみるか?」

 手から零れたスタンガンを拾い上げて、ツグミの手に握らせる。

「やってみろ。殺してくれないか?」

 今のツグミの姿からは、会った時に感じた清楚で積極的で、それでいて大人びた空気は一切感じない。ただ食べられるのを待つだけの獲物でしかなかった。口の端から滴る唾液に、ふやけた頬。開かれた胸から感じる心拍。触れるだけで柔肌を覆う肌がめくれ上げ、心臓を晒しそうで――──望んでいるのがわかった。奪われる時を今か今と待ち望んでいる。

「こ、ころすの?」

「さっき言っただろう。殺せるって」

 先ほどの覚悟は消え去っていた。俺の顔から目を離せず、貪られる寸前の自分に興奮し、内腿を擦り合わせて自慰行為を始める。なのに、スタンガンを離す度胸も持てていない。為されるがまま、言われるがままの良い獲物だった。本当に――─喰い甲斐がある。

「無理‥‥できないよ‥‥」

「なら、殺してやろか?」

 スタンガンを奪い取り胸へと差し込んだ。シズクよりも豊満で、シズクよりも嫋嫋たる胸は、いくらでも形を変えられた。手を容易く呑み込む谷間を大きく、力任せに開き底へ鉄塊を突き入れる。そのまま胸骨を貫通、心臓ごと押し潰すつもりで充てがう。

「痛いよ‥‥死んじゃうぐらい苦しいの。酷い、ヒーまで乱暴するなんて‥‥」

「これから、今よりも痛くなる。覚悟しろ、二度と味わえない痛みだ」

 舌舐めずりをしてしまう。カーテンの中であるベットの上が、ツグミの汗と愛液の匂いで充満し、更に俺を化け物へと誘っていく。もはや、今晩は人間の振りなどできない。

「ツー、良く聞いてくれ。そうすれば痛めつけてやるから」

「‥‥早くして‥‥」

「ツグミはもうオーダーになるしかない」

「—―─そうだよ、良くわかってるから」

「いや、わかってない。オーダーになる事の意味を、ツグミは理解してない」

 ただ腕っぷしが強いでは足りない。ただ銃が撃てるでは足りない。見た目を武器として、それを研げるだけでも足りない。必要な事は、奪う覚悟。良心の呵責を無視できる悪心。

「自分の為に、人を殺せ。人を踏み台にしろ。シズクは俺を騙して、これに関わらせた。俺はシズクが欲しいから、オークションに関わった。ツグミはどうだ?」

「‥‥私には選択肢なんてなかった」

「本当か?オーダー街に来たことがあるのに、シズクや俺に助けを求めることを考えつかなかったのか?」

 荒い呼吸は静止し、吹き出していた汗は止まってしまった。

「じゃあ、どうすればよかったの‥‥?」

「騙して、頼れば良かった。もしくは人間らしく自分の身だけを守ってればよかった」

「‥‥そんな事をしたら、姉さんが」

「シズクを信じられないのか?」

 ツグミはいつも優しかった。その優しさは、何年も会ってないシズクを取り囲み、嫌いな筈の『家族』すら守っても有り余る程だった。薄汚い人間は、そこに付け込んだ。守りたいという善心を揺さぶり、良心を痛め付けられたツグミは奪う心を忘れてしまった。

「ツー、シーは最近まで、ずっと王子様が来るのを夢見てた。だけど、ツーの為にその夢を諦めて俺を選んだ。ツグミのやろうとしてた事と全然違う。何かわかるか?」

「‥‥自分の為?」

「そうだ。どこまで行ってもシーは自分の為にツーを守ろうとした。嫌われてもいいから、ツーが傷つくのを嫌がったんだ。これは優しさでもあるけど、欲望でもある。気付いてくれ、自分がやるべき事を思い出して。ツーは、何がしたい?」

 欲望のまま、本能の赴くまま、シズクはツグミを求めた。これは姉妹愛とも言えるのだろうけど、それだけでは言い表せない。限りなく自己中心的な感情。

 ツグミに足りなかったのは、自分という天秤だった。清廉潔白過ぎる善性が仇となり汚い人間達の食い物にされた。見た目通り、ツグミは恰好の獲物にされた。

「私のしたい事‥‥」

「このままでいいのか?」

 誤魔化し、逃げるように横に振っていた視線が真っ直ぐに変貌する。視界に収められた化け物の身体が震えるのが分かる。この目、顔を作れるツグミはただの肉ではない。獲物であって良い筈がない。捕食者として覚醒すべきだった。ようやく、目覚めてくれた。

「このまま、ただ人間の都合で振り回されていいのか?」

「いや‥‥」

「聞こえない」

「いやに決まってる!!」

 ベットのカーテンが揺れる程の声だった。

「私、もう限界!人に振り回されるのも、人の点数を気にするのも、もうつまらない!楽しくない!私は美人で、頭もいい!人に捧げる為に持って生まれたんじゃない!これは、私しか持ってない武器!!全部私!!これって変?自分の為に自分を使って、自分で評価するって、おかしい!?」

 スタンガンを払い退け、腹筋を使って起き上がったツグミにより逆に押し倒される。髪を振り乱す姿、掴んでいる肩に爪を立たせ、叫ぶ姿は人間ではなかった。呪縛から解放された誇り高い獣だった。人間というちっぽけな肉塊を貪る頂点捕食者と生まれ変わる。

「おかしくなんてない。人間は利用するしか価値のないただの獲物だ。ツグミを使っていい権利なんかない。利用して捨てろ、逃げ惑わせて、最後に踏みつぶせ!ツグミには力がある!ただの人間じゃ持てない力がある!俺を使え、自分を使え、命令しろ。ツグミは、何が欲しい?全部奪ってきてやる」

「全部!私を苦しめた人間を、全部奪て!私の足元に連れてきて!私が壊すから!」

 叫びながら口を奪った。乱舞に、唇を噛みちぎる様に施された接吻は、自己の快楽の為。

「前払い。これでやってくれるよね?」

「いいぞ。でも、まだ足りない」

「いいよ。私の為に動いてくれなら、全部あげる。誰かに奪われるんじゃない。私が選んであげる。だからヒーも私を選んで。私の為に自分を捧げて。何かも奪い取って上げる」

 語尾に近付くに連れ、先ほどの獣性を飲み込み、髪をかき上げた瞬間見えた顔は別人のようだった。しかし、今も真っ赤に輝ている瞳とワンピースのようなパジャマを上から脱ぎ、シズクを超えるサイズの谷間を恣に曝け出し、そのまま倒れ込んで馬乗りに首を噛んだ。

「いいよね?噛んでいいよね?」

「もう噛んでるだろう。—―いいぞ」

 このまま皮を剥がされる。だが、その寸前でツグミはやめてくる。肩や耳、舌に至るまで全てに歯を添わせれる。歯形だらけになった俺を見下ろして、鼻で笑う姿は女神のそれだ。

「これでヒーは私の物。もう姉さんの物じゃない。この夜だけなんて思わないで。ふふ‥‥セーフワードを決めておかなくちゃね」

 口を口で塞ぎながらYシャツのボタンを外された。強引に腕を掴まれと思った途端、立ち位置を変える様にツグミはベットへ寝転び、自分の身体を抱かせる。上から見ると、圧巻だった。シズクも相当な上、ソソギとカレンという二人を知っているのに唾液が止まらない。

「良い顔。その顔、前にも一度見たかな?私との初めて、覚えてる?」

「あの時は、ここまでしてない」

「でもキスが気に入って、何度もせがんで来たじゃん。‥‥可愛かったよね」

 何も知らない俺は、ツグミと最後の晩を過ごした。埃まみれの部屋で一緒にベットに入り、抱き合いながら目をつぶった。その時だった、ツグミがしてきたのは。

「ねえ」

 上に乗っている俺を胸に引き寄せて、甘く囁く。

「あの時、こういう知識があったら、私達どうなってたかな?」

 難しい質問だ。あの時の俺は、三人の中で一番知識が無かった。ただただ純粋にシズクやツグミの肌が恋しいから二人に甘えていただけだった。

 だが、もしあれ以上の快楽を知識として、本能として知っていたなら、俺は――、

「—―目を合わせられなかったかもな」

「ふふ‥‥男の子だね‥‥。そういう所も、姉さんと私が――まだ、姉さんとはしてないんだよね?」

「‥‥してない」

「なら、私が先。大丈夫、部屋に用意してあるから」

 そう言って俺の背中を叩いて退いてくれと伝えてくる。カーテンはそのままにベットから離れた。カーテン越しに灯りを消して、小さなスタンドライトだけを点灯させせた。動いているツグミの影が見える。そして、一歩一歩近づいてくる影も。

「開けるよ」

 カーテンを開けた時、ツグミは何も纏っていなかった。

 部屋に灯る淡い光の中で浮かび上がる傷一つない、彫像のような白い肌に青い血管が浮き上がっている。ベットに乗り出した時に揺れた、白い肌の中でも際立つ薄い桃色の胸が、その身の柔軟さを伝える。揺れる肢体は服により締め付けられていたのだと、本当の姿は女神像すら屈服させる神聖さと淫靡さを持ち合わせていたのだと宣言して見えた。

「これを見せるのも久しぶりだね。今度、前みたいにお風呂にも入ろう」

 隠すべき部位すら曝け出すツグミに、何の躊躇もしないで服を脱がされる。

 自分も誰にも触れられた事のない純白の素肌の手を伸ばし、小さく悲鳴を響かせる。

 冷たい肌の奥底にある心臓を求めて手を沈ませるが、負けず嫌いなのはツグミも同じだった。逆光となっている顔でもわかる程の強気な舌舐めずりをするツグミは、シズクと同じく上着と下着まで奪う。何も身に付けず、為すべきは最後の一線と成った瞬間だった。

「すごい傷だね」

 シャツを開ける途中から、胸から下腹部に掛けての傷を見て少し目を細めていた。

「傷は苦手か?なら、着たままでも」

 そう言った瞬間、ツグミが押し倒される。数度も様変わりする立場に昏倒し、柔肌を思わせるカーテンを眺めていると、無言で傷を舐めるツグミと目が合った。

「ツルツルしてるね。すごい美味しくて、舐め心地がいい‥‥」

 背筋が震える。この感覚は始めてだった。牙を剥き、獲物を嬲る姿は抗い難かった。

「覚えておいて、これが私の初めて‥‥」

 身体中が唾液まみれと成り表面がてらてらと濡れそぼった時、ツグミが被さった。唾液越しの肌が柔らかくて熱砂を思わせる滑らかさな上、腹に合わさった白い下腹部は傷一つない。顔に押し付けられる甘い香りを携える胸の先端を唇で弄び。興奮が止まないツグミが充血した下腹部を股で挟み込み、絶頂寸前にまで扱われる。

 長い抱擁、豊満な胸部と臀部を握りしめ、固まっていた両肩すらも解きほぐした時だった。背中を抱いて、お互いの感触を楽しみ、花を散らす準備が整った瞬間――─けたたましい電子音と共にマイクが震えた。僅かに無視をしようかと、再度ツグミと舌も合わせるも、理性が優った。

「無視は出来ない、よね‥‥」

「‥‥すぐ終わらせてくる」

 裸足どころか全裸のままでテーブルに走り寄る。

「俺だ。何かあったか?」

「あ、ツグミ、もう寝た?」

「私なら起きてるよ」

「‥‥なんか、怒ってる?」

「別に?」

 背中に抱きついてきたツグミから、割とドスの利いた声が流れてきた。その声にシズクどころか俺までも声が震える。少し間が悪いと思ったが、ツグミはそれだけでは言い表せないものを抱えたようだった。早く済ませろと胸を押し付け、吐息を耳に吐き付ける。

「えっと、今メールが来たんだけど、明日、同じ時間に開始するってさ。だから、そろそろ帰ってきて――」

「あー、こっちで過ごすつもりだったんだけど」

「そうそうまだ危ないし!」

「‥‥それもそっか」

 ツグミと俺が必死にそう訴えかけたところ、シズクは渋々だが受け入れてくれた。二人で安堵して改めてベットに行こうとしたが、マイクから、

「じゃあ、明日の夜までご褒美は待っててね‥‥」

 何も付けていない脇にツグミの膝が刺さる。—―いい蹴りだ。

「また明日ね」

 乙女な声でマイクを切られ、ようやくと思い振り返るとツグミはワンピースを既に着た後だった。その冷たい後ろ姿たるや、膨れ上がっていた身体が縮んでしまう程。そしてここまで冷たい目を受けるのは久々だった。振り返ったツグミは腕組みもせずに密かに笑う。

「姉さんと約束してたんだ。へぇーそれで私ともね。毎晩相手を変えるって話、本当なんだねー。まぁ別にいいけどね。姉さんとそういう仲だって、わかってて誘った訳だし」

 言いながらベットの下から無線機取り出した。通報されるのかと思い冷や汗が噴き出る。

「取り敢えず隠れてて。今から、外のアイツをどっかに持っていってもらうから」

 ツグミの指示通り、キッチンに隠れながら着てきた服にもう一度袖を通す。ツグミの部屋に入ってきたのはあのドルイダスだった。奴から受けた事や事の顛末を大まかに脚色して話し、すぐに帰ってもらおうとしたが、明らかにこちらに向かってくるのが足音でわかる。

「夜這いをするのも程々に。因みに私の部屋は別館の三階にあります」

 それだけ告げると、今度こそ用は無くなった部屋から出ていった。

 顔を背けて、出来るだけ申し訳なさそうに出るが、ツグミは先ほどよりも冷たい眼光を放ってくる。あまりにも寒い‥‥冷房が効きすぎているようだ。

「年上が好み?すごい美人だったね?」

 マトイを怒らせた時と同等の寒気がする。そうか、例えオーダーではなくとも、この寒気を放つことが出来るようだ。美人の不満な顔も、美しいのは間違いないが、怒られるたびに毎回この首元に刃物を突き付けられる感覚を受けるのは、身体に悪い。

「姉さんが嘆いていた理由がわかった気がする。ほら、こっちにきて」

 諦めた。そんな形容詞が相応しい声をあげて、手を差し出してくれた。

「また何があるかもわからないし、今日は起きてよ。オーダーの事、色々教えて」





「眠い‥‥」

「ごめんね、寝ずの番をしてくれたんだよね」

「‥‥そんな所」

 目の下のクマは仮面で隠せるが、声色は誤魔化せないので、心配してくれる優しいシズクは腿を使って横にしてくれる。こうなったのは、シズクが原因でもあるのに。

 ツグミの部屋で一夜を明かした俺は、イミナさんに頼んで一等級の部屋へと続く隠し通路で案内してもらい、タキシードをシズクに持ってきて貰っていた。

「ツグミはどうだった‥‥やっぱり、怖がってた?」

「気にしてないみたいに振舞ってたけど、警戒はしてた。‥‥そっちはどうだった?」

「こっちにはネガイさんもサイナもいるんだよ。安全に決まってるよ。ほら外して」

 仮面を奪って顔を撫でてくれる。この優しい年上の空気をまとったシズクはどこまでも俺を甘やかしてくれる。もう、このまま眠ってもいい気がしてくる。

「そろそろ起きて。やっと作戦を実行できるんだから」

「わかった。コーヒーでも飲むか‥‥」

「自分でして下さい。それと私にも一つ」

「私もー」

 シズクから起き上がった時、試しに女性スタッフ姿のイミナさんを見つめてみるが、冷たくそして容赦なく命令してきた。命令し慣れている人から言われると自然と身体が動く。言霊と呼ばれる力は、その言葉を発する声と姿の持ち主によって比例するようだ。

「あの何分?」

「10分前。そろそろね。やる事はわかってる?」

「誰よりも上に高い額をつける。クローズドオークションではあるけど、予算を全てを見せつければ、取り敢えずはバチカンの奴ら以外は全員下せる」

 クローズドオークションとは出品者以外、誰がどのくらいの額を付けたのかわからないオークション。場合によってはオークショニアーすら知られないので、必ずツグミを競り落とすには予算の全てを捧げなければならない。

「全て使っていいんですね?」

「構いません。全て終われば、彼女を出品した売り手を逮捕しますから。全額回収できます。実質かかる金額は人件費だけです」

 頼もしい事を言ってくれる。それは青天井という事だった。

「それにこんなオークションにまともに付き合う必要は――失礼」

「いいえ。私も同じ事、考えてましたから。懇切丁寧に払ってやる必要はありません」

 言葉が過ぎたと思ったドルイダスの人形は、謝罪の言葉を使おうとしたが、シズクがそれを静止した。隠していたがシズクも、相当腹に据え兼ねていたようだ。

「それと、そのタブレットを解析して、向こうの額がわかるようにしたよ。どのくらいまで払えばいいか、こっちには筒抜けだから、安心して」

 いつの間にしたのかと、目で聞くが、シズクは笑みを浮かべるばかりだった。



 やっと、始まる。

「では、ここでお待ちください」

「失礼します」

 若い女性スタッフの一人が、私をオークション会場近くの個室へと案内してくれた。どこかにヒーと姉さんがいる。そう思うだけで、心臓が大人しくしてくれる。そしてこの胸にあるもののお陰で、もう何も怖くない。『教授』に売られるのも、怖くない。

「入るぞ」

「ここは他人は入れないって」

「私は他人ではないじゃないか。失礼するよ」

 小太りの男性が入ってくる。『教授』だ。

「綺麗なドレスだ。きっと、いい値を付けてくれるよ」

 部屋の中央の椅子に座っている私に近づいて、笑いかけてくる。この笑顔が仮初だなんてとっくの昔にわかっていた。だが、私にはこの顔に頼るしかなかった。

 姉さんの為という理由を言い訳にして。

「君には申し訳ないと思っているよ。でも、よく決断してくれた。君は私の研究室の中で一番の学生だ。その身を賭して学術の礎になってくれるのだから」

「‥‥これで姉さんは」

「ああ、約束しよう。君のお姉さんは、これで自由だ。例え私に恥をかかせたとしても、君の貢献により、その罪は消えたと、そう言えるとも。きっとお姉さんも感謝しているよ」

 しゃがんで手を握ってくる。何が学術の礎だ、何が罪だ。全て、こいつの都合じゃないか。全て嘘じゃないか。—―私もバカだった。オーダーの一人に、個人的な復讐が出来る人間なんて、この国にはいない。私の世界は、ただただ狭かった。私の見たもの全てが、現実だと思っていた。『教授』も『ネズミ』も小物だった。

「そう、では、これであなたと私は、もう」

「ああ。君と私は、これで無関係だ。君が残してくれた金銭は、必ず人類の為になるよ。では失礼するよ。私も、オークションの参加者、買い手でもあるのでね」

 高笑いをしながら、頭を撫でてくれる。私は、『その手』すら視界に入れる。

「これでお別れだ。どこかで会ったら、また私の学生となってくれ」

「はい、さようなら。もう会わないあなた」

 私の言葉に満足気に頷いて、外へと出ていった。

 顔は勿論、着ていたベージュのスーツに黒い革靴、髪型、指紋、背中。全てをコンタクトに捉えた。言い逃れが出来ないように、言葉も引き出した。

「‥‥どうですか?」

「完璧」

 カレンさんとの通信を終えて、一息をつく。私の仕事は、これで終わり。後はヒーが私を選んで、迎えに来てくれるのを待つだけ。それで、終わる。

「待ってるから」



 オークション開始の電子音が鳴った。長い講釈を聞き終えた時、一際強く心臓を高鳴らせ、指先と眼球の血管に鮮血を通す。モニターに映っている進行役の動きが緩慢な物へと映る。一秒を細分化し、ひと挙動すら見逃さない。必ずツグミは、俺の物にする。

「落ち着いて。ツグミの番じゃない」

 ツグミは自身を売り払った『教授』を安心させて証言を引き出し、顔や音声等の証拠も入手したらしい。ならば、もうツグミの仕事は終わった。

 ここから先は、俺達の仕事。

「彼女の身柄を安全に確実に確保するには、オークションに一度付き合うしかない。そして証拠品を集めるには潜入しかない‥‥トロイの木馬を一度に見せられている気分です」

「なら、人間は何年経っても変わらないって事ですね。どこまで行っても所詮ただの人間だ。何も考えてない」

「言えてる。あれだけ長く保護したツグミを、何も調べないで迎えに行くなんて」

 ツグミを学校に帰したのはつい3日前。そこからツグミは、『教授』の使いと名乗った連中に車で運ばれた。運ばれた先は深い地下だったらしくGPSも届かなかったが、それは想定済みだった。

「見つからないなら、案内させればいい。知られちゃマズイ事ばかりやってるから、ろくに重要人物の名前すらも確認できない。隠蔽体質の欠点だ。自分の能力を過信し過ぎたな」

 オークションは粛々と進んでいく。モニターとタブレット内において、盗品や盗掘と思わしき古美術品、時計や宝石、掛け軸に食器、そして刀剣といった品々が流れるように、競り落とされていく。

「‥‥次」

 一等室に緊張が走る。握っているタブレットに熱が籠る。

「続きまして、栄光の手、ハンズオブグローリー、今回の商品は手だけでなく、腕も含めてのご出品となります。切断こそされていますが、勿論全体が揃っております上、付属品も」

 タブレットを操作して、全額をぶち込む。

「では‥‥え、あ。いえ、では入札を開始いたします」

 入札開始と共に、50億を叩き込む。酷く非現実な額であるのは重々承知している。だとしても圧倒的な数字は、今日この限り於ける最強の概念となり得る。この数字こそ法務科から許された額の最大限度。一切の妥協なく一撃で仕留める感覚で指を扱った。

「向こうは?」

「‥‥嘘‥‥」

 シズクがノートPCを見て固まる。

 まさか、という言葉を一息に飲み込む。瞼を閉じる暇すらない、唾液を嚥下する時間すら惜しい。今も固まっているシズクの手を掴み取り、正気を取り戻させる為に叫ぶ。

「額は!?」

「‥‥50億」

 絞り出すような声と共に、シズクは口元に手を当てる。気が飛びそうな言葉ではあったが、あまりにも異次元な状況に自分は『慣れ』にも近い安寧を感じ始めた。

 向こうは国の代表として競り落としに来ているのだから、その程度の予算、確保していて当然、むしろ極々普通の事だった。しかもバチカンは世界中にいる十字教徒の総本山。審判の日に社会の秩序が反転すると信じて疑わない心を持ち合わせている彼らにとって、金とは所詮手段の一つなのかもしれない。

「なら、倍額で」

 そう入力しようと途端、シズクに手を引かれる。視線を向けろと、命じられるままにノートパソコンを覗き込む。多くの数字の羅列と見知らぬ単語が散乱する中、此方の資金たる5を頭とする0の連続の真下、そこにはこちらと同じく5を頭とする数字が並んでいた。

 だが、シズクが指差した物は数字ではなく末尾、貨幣の種類を示すたった一つの文字。

「これ、$だよね‥‥」




「どう責任を取るつもりだ?」

「これが済めば、必ずや神は私をお許しになるでしょう」

「‥‥そうか」

 もう、引き下がれない。あの『レヴァナント』に二度も遅れを取っている。バチカンには数えられない失態を見せつけている。これ以上は、神に誓って、無様は見せられない。

「バチカンは私の死を望んだ。ならば、私はそれを越えなければならない。これは聖戦です。必ずや、神は私を許し、手を貸して下さる」

「‥‥好きにしたまえ。私は上で休ませてもらう」




「50億ドル?」

 あり得ない数字だ。国家予算なんて生易しい数字じゃない。アメリカの原子力空母とほぼ同じ価格だ。バチカンは、確かに世界最強の国の一つと数えられる事はあるが、それは国や世界に対しての額だ。個人の為に、ここまで身銭を切るなんて想定外だ。

「‥‥5000億‥‥あり得ない‥‥」

 つい、吐きそうな声を出してしまった。仮にそれを超える額を出したとしても、何も支払わずに、終わる。そう二人は言った筈だった、なのに目が揺れる。

「8000億です、やりなさい」

「‥‥いいんですか?」

「先ほど言った通り。それにもはやこれに付き合う必要はありません。見なさい」

 指で差されたモニターに視線を向けると、会場の舞台にいる進行が息を出来ずに倒れ込んでいくのが見えた。カメラを操作すれば、会場にいるスタッフや昨日の責任者らしき男性が慌てて外に飛び出ていく光景すら見受けられた。

「これは現実ですが、現実から遠くかけ離れた時間。心が折れた時、あなたを信じたものの全てが奪われる。—―—―—―やりなさい、責任の追求など恐るあなたではないでしょう」

「了解—―—―ッ!!」

 言われた通り8000億を打ち込む。

 その瞬間、またしても会場を映すカメラが途絶え、扉を叩き割るような激しい音が響いた。狂気すら感じさせる全力の殴打に対して武器に手が伸びるが、手で制したイミナさんは至って冷静で、ゆっくりと立ち上がり扉を叩く主に対応する。

「何かありましたか?」

「何かじゃない!?そこを退け!!」

「ここは一等室。選ばれた者しか入れない特別な部屋、しかもこの時間はオークションという神聖な時間。お客様はオークションの再開を望みです。支配人様に逆らう気ですか?」

「そんな事お前には関係ないだろう!?」

 何が起こっているのか、想像もできないらしく地団駄を踏んで子供の癇癪を起していく。

「私は、支配人様と契約しております。あの方に逆らう気ですか?」

「クソっ!!どうなっても知らねぇからな!!」

 昨夜の紳士的な応対とは似ても似つかない暴言、悪言を俺やシズクという客がいる部屋に吐き捨ててから走り去って行く。まるでチンピラだ。あれが男性の本性なのだと辟易する。

「全く‥‥これからだから人間は――—―契約などしてないというのに」

 心底煩わしいようで、隣に戻った年上の麗人はコーヒーを口に付けて吐き捨てる。頂点を恣にする天上の美人が浮かべる苦虫を噛み潰したような表情は身震いする程、麗しかった。

「あの‥‥あの方って?」

「あなたは妹の心配をしていなさい。それで向こうは?」

「‥‥変わらず50億ドル、いえ変わりました。倍です」

 向こうもこちらの額を知っているのか?それとも、走り去ったスタッフから入れ知恵を受けたのか。どちらにしても、向こうはこの国で逮捕権や捜査権などない。よって、そろそろ限界だろう。国一つ売っても足りない額になっている。

「私にやらせて」

「いいぞ」

 タブレットを預けて自分もコーヒーに口を付けると、シズクが更に額を吊り上げたらしく、再度扉を叩かれる。もはや蹴り破る勢いだ、ここで交戦の可能性も視野に入れなければならない。視線でイミナ部長に確認を取るが、やはり首を振られる。

「無視して構いません。彼らが何をしようとあの扉は突破できない」

 既に、白い布を使ってドアノブを固定したドルイダスは、足を組んでひと息をついた。

 モニターが復帰した時、倒れた女性に代わり、見覚えがある人形が進行役を行っていた。どうやら、法務科が間に合ったらしい。

「このままオークションは進行。全ての品々を一度落札させ、立件するための証拠、人身売買の記憶を取る事にしました。上で行っているファッションショーも含めて、今晩で全てを終わらせるものとします」

「‥‥そうですか。そうした方が確実ですね」

 あまり褒められたやり方ではなかった。罠にかけるように、敢えて犯罪を起こさせる。そして、それを罪状として数える。このやり方は、犯罪の教唆、幇助といった犯罪の手助けを行うのと、ほぼ同義だった。

「—―汚いやり方なのは重々承知しています。しかし、ここにいる資産家達は、軒並みあらゆる手段を使って、己が至福を肥やし、葬ってきた人間。情けなど無用です」

「汚いなんて思いません。自分がやってきた事がそのまま帰ってきてるだけです。全部、人間達の行いです。興味もありません」

「結構」

 なかなか終わらないオークションに、会場がざわついてきた。だが、それは身の危険ではなく、熱狂的な空気だった。それこそ『黒ミサ』とでも言うべき、異常な雰囲気に包まれているのがわかる。

「この期に及んで楽しんでいるなんて。人間は救いようがなくて、何よりだ」

「そうだね‥‥みんな、この空気を楽しんでるんだよね。—―—―最低」

 シズクはテーブルのノートPCや膝のタブレットを操作しながら、無表情のまま落札価格を上げ続ける。もはや探るまでもない、考えずともわかる。向こうはこちらの手の内が見えていると。シズクと同じ技術者か、運営側に結託した奴がいるようだ。

「もう邪魔させない。私にツグミを返してもらうから‥‥!」

 タブレットを一時放置しノートPCに何かを打ち込み始めた。最後に強く叩かれたキーボードに応えるようにモニターから電子音が鳴り響く。

「ハンマープライス。最終落札者様が決定しました」

 タブレットを拾い上げて覗いた時、「Successful bid」の文字が見えた。

「向こうを無理矢理辞退させたの。このまま続けてたら取られてたかもしれないから」

 最後まで競っていた『祓魔師』の男のタブレットを遠隔で操作したのか。確かにまともに相手をする必要などないのだから、こうしても良かったのだ。上品に従い過ぎた。

「じゃあ、これで」

「そう、安全にツグミを確保できる。言い逃れが出来ない証拠を持った、私の妹を」



 何故だ。何が起こった?

「まだ時間はあった筈だ‥‥私は、辞退などしていないのに‥‥」

 だが、確かに画面にはDeclineの文字が浮かび上がっている。丁度1000億を入力しようとした時、壁のモニターから落札の声が聞こえた。

「—―私は‥‥」

「お前は負けたのだよ」

 声のする方に目を向ける。

「私はまだ!」

「いいや、お前の負けだ」

 力が抜ける。お前の負け。この言葉が、ここまで骨身に染みる事があるなんて。

「バチカンが、負けたのか‥‥」

「いいや違う。お前が負けたのだ」

 思わず顔を上げる。見下ろされている視線から一切の慈悲等感じない。ただ冷酷に、弱者を見つめる裁定者の顔だった。その顔は、私のような選ばれた者だけの‥‥

「言っておいてやろう。お前は思い上がったのだよ。祓魔師でもないお前は、みだりに神の力を唱え過ぎた。これは神からの罰ではない、人間の罪だ」

「バチカンは‥‥これから、私をどうする気なのですか‥‥」

 去って行こうする背を追いかけ、言葉を投げかけた時、振り返って杖を向けられた。

「何もしない。お前にはほとほと愛想が尽きた。これでは『流星の使徒』の代わりなど、いつまで経っても出来ない。真似事すらな。もうお前にかまけている時間はない。ここで自身の運命を受け入れよ」

 何故だ。私は、全てを捧げてきた。神の為、延いては、バチカンの為、私は。

「老婆心として聞いておいてやろう。エクソシストとしての役目はなんだ?」

「神の為、悪霊を払い、敵を殺しつくし」

「やはりお前にはエクソシストの名は与える事は出来ない。時代は変わるものだな。お前が散々追いかけ、最後まで失敗したあの『レヴァナント』の方が、エクソシストの名を名乗るのに相応しいのかもしれん」

 何も考えられない。私は、ただ、命令通りに任務を全うしていただけなのに。

 何故このような侮辱を受けなればならないのか。これが、『祓魔師』に選ばれた私に言い渡す最後の言葉なのか――認めない。

 認めてなるものか。私は、選ばれし――、



 何も言わないでツグミとシズクは隣同士で座っていた。

 ただコントローラーを持ち、モニターに映る敵を倒す為に。

「‥‥‥‥」

「許してあげて下さい。これが二人にとっての」

「家族の間に割り込むつもりはありません。ただしあなたから言っておきなさい」

 何となくわかっていた。この人は、ツグミに興味があった訳ではないのが。

 あのハンズオブグローリーが目的だろう。

「私はこれで――『教授』、と名乗る男性から会見が望まれているそうです。直接手渡したいと。付いてきなさい」

「‥‥鍵は絶対開けるなよ」

 もう二度と失敗しないだろうが、念を押しておく。ゲームをしながらだが、シズクとツグミも後頭部を見せながら頷いた。一等室から出れば、野次馬らしき仮面の男達が扉の前で待ち伏せていた。

「ほう‥‥本当にあの子供が‥‥いい親御さんを持っているようだな」

「しかも目的のものを競り落とした瞬間に、即手元に呼び寄せるとは‥‥くく‥‥ご相伴に預かりたいものですな‥‥」

「試してみてはどうだ?あの部屋にいるのだろう?」

 汚らしい声と言葉を仮面で受け止めて、人間の皮脂の匂いの中を通っていく。馬鹿な連中だ。自分が競り落としたものが必ず手に入ると、しかも今晩には愛でる事が出来ると、本心で思っているようだ。

「他の子は‥‥」

「保護しています」

 一等室の前から離れ、無人のオークション会場へと入る。

 ツグミの後にもオークションは続けられ、付属品扱いとして同時に出品されている女の子達の競りも全て終わった所だった。

「あの年齢と見た目で、少女を求めるなんて。自分の姿を鏡で見た事がないのでしょうね」

 結構辛辣な事を言っている。

 オークション会場の役割は閉会式を残すのみだった。通年のプログラムは知らないが、他のオークション参加者は時間を見計らって自室や指定された部屋に行けば、自分の競り落とした品々が待ち受けているらしい。それも、夢幻と消える訳だが。

「質問があります」

「その前にこちらへ」

 オークション会場の檀上に手を引かれて上がり、いわゆる上手側に連れ込まれる。カーテンで隠されていた廊下を歩いていると、一つの扉の前で人形が止まる。

 調度品の数々は一等室よりは質素だが、それでも充分豪華で銀行の応接間のような内装。二つのソファーに一つのテーブルだけの落ち着いた雰囲気は、なかなか悪くない。

 勧められるままに座り一息つくと、人形が膝の上に座ってきた。

「何か?」

「また触ってもいいですか?」

「後にしなさい。栄光の手についてなら、今は話せません」

 柔らかくて同時に筋肉もある足を目の前で組まれる。倒れる訳がないが、念の為に背中に腕を携えると、やはりかと言いたげにドルイダスの人形が嘆息をする。

「そんなに触りたいのですか?若いからは理由になりません。時と場合を選びなさい」

 充分隣に座るスペースがあるというのに、尚も上に座り続ける。何か意味があるのか?

「俺達呼び出されたんですよね。なのに待つんですか?」

「あなたの背格好は向こうに知られています。子供だと思って、侮られているのですよ」

「‥‥コロス」

「それは全てが終わってから。来ます」

 立ち上がって迎え入れるのが正しい対応なのだろうが、人形が上にいるので立ち上がれない。そして、そもそもそんな心遣いをする気もなかった。

「いやー失礼するよ」

 舐められている。確認もしないで入ってきやがった。

「ん?おお、これはこれは」

「どうぞお掛け下さい。これについては申し訳ありません。この方からのお申し付けが」

「いやいや構わないよ。君も物好きだな。こんな場を用意してくれるだなんて」

 何を言っているのかわからない。こんな場、とは一体何を指しているのか。

「まずは品を渡すとしよう。では、頼むよ」

 柔和な表情を浮かべながら背後に声を掛けた時、一度ノックをした女性スタッフが木箱を運び込んで来る。そして役目を終えたスタッフの一礼に、やはり優し気に感謝を口にした。

「うむ、ありがとう」

 木箱をテーブルに乗せて出て行ったのを見計らって『教授』は、向かいのソファーから白い手袋を付けて箱を開ける。そこには見覚えがある『像』と『手首』が入っていた。確かに、このつまらない像は腕と同じ長さだった。

「確認をしてくれないか?」

 膝の上にいるイミナ部長代理人形が木箱を受け取り見せてくれる。貼り付けたパッチが記憶通りの位置に貼ってある。ツグミの位置を追跡するつもりで行った潜入が、こんな所で役に立つとは思わなかった。

「本物ですね」

「おぉ‥‥わかるのかね?いい鑑識眼を持っているようだ。結構結構」

 この舐めた態度が、一々癇に障るが仕方ない。

 一度木箱を返したところで、『教授』は木箱を元に戻し、慣れた手付きで紫の布で包んで渡してくれる。腕を伸ばそうとしたが、それも人形が受け取り抱えてしまった。

「ははははは、スタッフの一人を手なずけるとは、なかなか昨晩は忙しかったようだね。では、始めようか」

「え、何を」

 立ち上がった『教授』は腰のベルトに手を掛ける。その意味が分からず狼狽かけた時、「申し訳ありませんが、それはできかねます」と膝の上で人形が言い渡した。

「‥‥できないとは、どういう意味だね?私は、君たちのスポンサーの一人なのだが?」

 先ほどの柔和な表情は消え失せ、舌打ちをしながら問い出される。だが、そんな『教授』を挑発するように、人形は肩と首に手を伸ばしてくる。

「君もそのつもりで上に座らせているだろう?わかったら頷きなさい」

「‥‥いいえ。この人は、俺だけのものです」

「—―だからなんだ?」

 声から圧力が感じるが、嫌味でもなんでもなく、ただただ浅い。膝の上に乗っている人形の方が数千倍は恐ろしい。

「そこの女は私のお陰で働けている。つまりは私の所有物だ。わかったらさっさと」

「失礼します」

 人形を抱えてソファーから立ち上がり、そのまま外へと向おうとするが肩を掴まれる。

「そうかわかった。君が連れている子のいる部屋に案内してくれるという事だね」

「可哀想だな。あんた」

 そんな言葉を使われた事もないようで掴んだ手が緩み、その隙に外へと逃げる。

 直後に中からテーブルでも蹴り飛ばしたような音が聞こえた。

「私はあなたのものですか、ふふ‥‥」

「同時に。俺はあなたのものですよ」

 軽い人形を降ろして壁に押し付ける。一度、呼吸と唾液を存分に奪ってから離れると、口紅が移ってしまったようでナプキンで拭われ、温かな息遣いで耳元で囁かれる。

「片割れは私が預かります」

 人形が布と木箱を僅かに開き、手を入れる。引き出した時には白い繭のようなもの――布に包まれた大きさ的に手の方を回収していた。

「奪われるような事が起こりかねません。その時の為、分割して持っておきましょう」

「信頼してくれるんですね」

「それ以上のつもりです。失礼」

 手にした品を自身の服の中に入れて木箱を渡して去っていく。確信できた。この後ろ姿は、上で行われているファッションショーの、どのモデルよりも優美で軽やかで美しい。




 シズクとツグミと共に別館の客室に戻り、入手した箱を見せる。決して触らせないが。

「ふーん。これが私よりも格上なんだ。でも、なんで触っちゃダメなの?」

「法務科の捜査で使うからな。指紋でも付けたら、怒られるぞ」

「‥‥それはつまらないね。わかった、絶対触らない。火事になっても触らないから」

「そうしてくれ」

 冗談で言った事に対して、俺が本気で答えたから、面食らったようだった。

「そんなに、大切な物?」

「火事で置き去りに出来るもの。そこは察してくれ」

「—―わかった」

 経験上、よくわからないものを運べという仕事を、何度かしている。決して中を覗かないように、と言われると人間は開けたくなる衝動に駆られるが、それはオーダーでは自殺行為と完全に同義だった。

「オーダーになるなら、まずは指示に従うように。好奇心は人を殺す。忘れるな。みんな、そろそろ夕飯の時間じゃないか?後で合流する」

 最後まで何が起こるかわからないので、部屋の武装はそのままにしている。そんな中で、今回の事件のあらましを記述しているネガイ達に頼む。

「わかりました。後で来て下さい」

 ネガイが先頭に立ち、シズクとツグミと中間、しんがりをサイナという陣形を自然と造り、外へ出ていった。足音が聞こえるなくなるのを確認した後、扉の鍵を閉めてから一息入れる。そして、出ていった四人と代わるように、扉が叩かれる。

「来たか‥‥」





「急な訪問で失礼する。君とは、少し話すべきだと思ってな」

「—―—―あの『祓魔師』は?」

「彼がそう名乗ったのか。彼は置いてきた。捕まえるなり、野に放つなり好きにしなさい」

 杖こそ突いているが、やはり老衰している様子ではない。ただ見た目通り、日本人ではないので、実年齢が正直わからない。よく見れば、初老と、言えなくもないのかもしれない。

「アイツは司法取引の上で釈放されています。捕まえるなら、別件で逮捕するしかありません。そして俺は今忙しい。雑魚にかまけてる時間はないから、勝手に連れ帰ってくれ」

「なるほど、アイツが認める訳だ。やはり人間ではないようだ」

 アイツとは誰だ。彼、とは違うのか?

「急に訪ねて何の用ですか?見た通り、奪う気なら、腕の一本でも覚悟しろ」

「腕一本の為に、代わりの腕を渡すほど私は酔狂ではないつもりだ。今更、信じる気にはならないだろうが、こちらは神に仕える者。奪うや殺すとは、無縁であると、この場だけでいいので信じて欲しい」

 煙に巻こうとしている可能性も捨てきれないが、あの『祓魔師』よりは、話が出来そうではある—―—―そもそも、彼方の行動の全てが不可解だった。罠であれ本心であれ、得られる物があるのなら、慣れない演技に興じるのも悪くはない。

「いいでしょう。何か飲みますか?」

「‥‥ふふふ。ああ、任せた」

 ソファーから立ち上がり背中を見せる。目の前に、木箱を置いたままで。

 目に見えての罠だ。罠など熟知しているであろうバチカンの人間に、マトイやイミナさんから施された技を見せ付ける—―—―信頼の証として。

 部屋の端に用意されたコーヒーメーカーを起動、発せられる芳醇な焙煎の香りを楽しむ。

「いい香りだ」

「コーヒーでよろしいでしょうか?」

「ああ、構わんとも。それと、すまないが、砂糖を用意してもらえるか?」

 わざわざ何か仕込む可能性が高い物を指定した。向こうも乗ってきたのだとプラスに考え、しばし時間を無言で過ごす。香りが部屋中を漂い、緊張感を和らげてくれる。

「お待たせしました」

 白磁のカップとポット、シュガーポットを銀のトレイに乗せて、目の前に差し出す。

 視線を向けずにコーヒーの用意をしながら、改めて木箱の様子を確認する。位置や角度、更に包んでいる布のしわを見ても何一つ変わらない。息すら吹きかけていないようだ。

「あの暗殺者よりは、話せるようですね」

「褒め言葉として受け取っておこう。頂くよ」

 2人分のカップの用意が終わり、俺がソファーに座るまで時間を置いてから口を付けた。当然、砂糖は入れなかった。ならばと俺も、今更面倒な駆け引きはしない。

「シズクとツグミ、それとこの腕は渡さない。以上だ。飲んだらとっとと失せろ」

「私もそうしたいのは山々だが。そうも言っていられない。得に、君にはな」

「—―—―俺の何を知ってるつもりだ。二回も暗殺に失敗しておいて」

「その通りだ。私は、君の事を何も知らない。だが君に関わるものは知っているつもりだ」

 彼らの行動理念がわからない。俺という不確定要素の塊である存在を、まるでそもそもの目的であるかのように語った。あの暗殺者は俺を狙ったというのに、今はあの姉妹を求めている。しかし、この男性は俺に用がある素振りを見せている。

「単刀直入に聞こう。君は、これが何か知っているのか?」

「知らない。だけど、高価だとは知っているつもりだ。それと、法務科が求めている」

 イミナさんにこの『腕』の写真を見せた時、二つ返事で手を貸してくれた。だが、それだけだった。具体的にこれが何なのかは教えてくれない。が、俺は興味もない。

「もしくは、ハンズオブグローリーって事だ。死人の腕なんだろう?」

「正確には、生きた人間から切り落としたものだ」

「そうか。だから、なんだ」

 相当無礼を働いているが、向こうは二回もこちらを殺しに来ている。礼儀正しく年上として敬ってやる必要はない。何か吐き出すかと思いきや、男性は他人事のような顔をした。

「何も言わないなら良い。面倒だから言っておいてやる。お前達は、もう用済みだ」

「容赦がないな。まぁ仕方がない。だが、こちらにはある。コーヒー一杯分は付き合ってもらうぞ。—―—―—―君が保管しているのだろう?総帥の武器を」

 意外な単語が飛び出てきた。あの大鎌の事を言っているようだ。

「答える義理はない」

「君が勝利したあの老人は、君が下すまで、この半世紀一度として敗北を喫した、いやそもそも敗北と言う苦渋を舐めたこそさえない筈だ。この意味がわかるか?あの流星の使徒が、負けたのだ」

 饒舌に、罪でも責めるように言い放った。自分で気付いていないのだろうか、男性の眼球が血走っている、興奮さえ感じ取れる。平気で人を殺そうとした連中の言葉とは思えない。

「何が言いたい?それとこの腕と、何が関係している?」

「その腕は総帥が切り落とした。あの鎌を用いてだ。なぜ、そんな事をしたと思う?」

 接触してきた流星の使徒の目的は、俺を一族に引き入れる為。なぜ、引き入れようとしたのか。それは流星の使徒の存続が危ぶまれたからだ。それ以上は知らない。

「狂人共の考えなんか知るか。それに、今は大半が牢屋なんだろう?」

「‥‥そうだ。流星の使徒の大半は、今や牢屋だ。例外は、あの老人のみ」

「まるで、見ていたみたいだな。流星の使徒とも関係があるのか?バチカンは」

「必要があればな。そして、今がその時だ」

 突いていた杖を見せられる。—―—―知っている。あの文字は—―—―。

「今すぐ降ろせ」

「すまない」

 杖を足元に置いて謝罪の言葉を向けられる。しくじったと思った時には遅かった。

「だが、これを知っているという事は、君は—―—―」

「そちらで考えてくれ。興が乗った、話を続けろ」

 カップにコーヒーを更に注いで、言葉を促す。

「流星の使徒の存在理由は、人類にとって不要な存在の排斥。君になら、わかるのではないか?総帥に狙われていながら、生き延び、反撃が出来た君ならば」

 総帥は、仮面の方の事を知識として知っているようだった。そして、漠然とだが、あの方は危険な存在だと指摘した上、そんな仮面の方と、夢の中で接触している俺に刃を振るってきた。あれは、殺すに足るか、試しているようだった。

 上位の存在と、俺と同じように話しているようだった。

「‥‥いいや、わからない」

「それなら、それでも構わない。今はな」

 流星の使徒の目的が、人類にとってな不要な、危険な存在を狩る事だとして、やはり俺には関係ない。俺は人間ではないのだから。敵は敵だ、同情など持つ筈もない。

「これはあの総帥が切り落とした危険な存在って事はわかった」

「ならば」

「尚更、バチカンには渡せない。当然だろう」

 こう言われるのは想定済みだったようで、ソファーに体重を預けて息を吐く。

「もっともだ。君の目には、私達バチカンは危険な存在に見えている」

「こう言われるのはわかってただろう。話はそれだけか?」

「‥‥君の血が欲しいと言ったら?」

「今晩には、あんたは消えてる。連れの『祓魔師』共々な」

「やりかねない目だな。なるほど、あの老人が敗北する訳だ。君は、人間ではないな?」

「答える義理はない。それとも身に覚えでもあるのか?」

「‥‥時間を取らせて悪かった。その『腕』は朽ちるに任せれば、それで終わる。失礼」

 灰色の紳士服を纏うバチカンの男は、足元の杖を拾い上げて無防備な背中を晒しながら扉へと向かって行く。こちらへのケジメのつもりか、それとも侮られているのか。

 杖を突いた紳士を扉まで送ると、ノブに触れながら動きと止める。

「最後に言っておく—―—―—―」

 ソファーに座っている時とは、纏っている空気が明らかに変わった。杖を突く初老の男性から立ち込めていい殺気ではない。言葉の余韻にすら身を竦ませる重みを感じ取り、殺気と言葉の両者さえ視認化出来そうだった。—―—―だとしても、総帥には届かない。

「コーヒーじゃなくて紅茶派だったか?」

「次は私が淹れるとしよう。—―—―あの愚か者は『祓魔師』ではない」

 誇りだ。この男性の理念は途方も無く鋭く犯し難い。この眼は、あらゆる事象を見渡す、だとしても全ての過去と未来を見通せる筈もない。この眼を使っても尚、理解出来なかった理由がまさにそれだった。見る事能わない、見るには理解できる頂きに到達しなくてならない。振り返った男性から感じ取れたのは怒りでもある、だが、それ以上に—―—―。

「気を付ける」

「‥‥最後に醜い所を見せたな。今度こそ、失礼、」

 ノブを捻った瞬間、マズルフラッシュが紳士の胸に炸裂した。

「私は『エクソシスト』だ」

 音が違った。ガバメントの音なんかじゃない。もっと重い轟音。

 倒れ込んできた男を受け止めて扉を蹴り閉める。入り込むのが目的ではなかったのか、大人しく銃口を引き戻し鍵を閉めさせた。暗殺だ、自身の同胞を始末しに来るなんて。

「馬鹿者が‥‥」

 紳士服に貫通の後は見受けられない。だが、白い歯と唇から溢れるように血が流れている。貫通しなくてよかった。そう思ったのは間違いだったかもしれない。

「デザートイーグル――」

 ソファーに引きずるように運び寝かせる。

 あれは恐らくだが、デザートイーグル。だが、見た目が違った。長い銃口が特徴的な10インチバレル仕様。標準的な6インチバレルよりも安定性を求めている、ならば、用いられた弾丸も想定が付く。そして、それは正解だったと、視認できた。

「50アクション・エクスプレス弾—―確実に殺しに来たか‥‥」

 胸にめり込んでいた弾丸は軽く親指を超えた鉛の塊だった。

 50AE弾は、世界中に生産、現存している弾丸の中でも最強クラスと称されている。それは向ける相手が人間ではないからだ。アメリカで生息するグリズリーを討伐する事を念頭に置かれた兵器。

「目を閉じるなよ。死ぬぞ」

 服の前を開けて、中を確認する。胸の皮膚が螺旋状に抉れ、その中央は周りの胸骨と比べて弾丸分、肉が消え去っていた。熱で溶かされたように、あるいは食い散らしたように。

「私は‥‥いい‥‥。この程度では、死なない――行け、目的はわかるだろう‥‥?」

 アイツは、元から俺を狙ってこそいたが、その真意は違った。シズクを害する事。その障害として、俺を狙ってきた。アイツ自身の口からは、聞いていないが、まず間違いなく、奴の狙いはシズクとツグミだった。

「—―俺は、あんたを信じていない」

 ソファーの上で、空気が漏れるような音をさせて、見つめてくる。

「だから、あんたを放置できる。腕も勝手にしろ」

 



 扉を透視。誰もいないのを確認した後、蹴り破り飛び出し、全体に繋がる無線機で呼びかける。

「バチカンの人間が仲違いを始めた!一人は撃たれ重傷!もう一人はデザートイーグルを持って逃走した!!」

 この無線機には、この作戦に関わった人間、全ての耳に届くよう設定されている。

「繰り返す!!殺しをできる人間が別館の部屋から逃走!!」

 聞き返してくるような素人はいない。皆が皆、荒事に精通したプロだった。

「ツグミとシズクは保護しています。あなたは――」

 ネガイ達がいるのは本館にある立食会会場。バチカンの人間同士、どんな理由で仲間割れを始めたか知らないが、今の奴はまともではない。一般人が通るような所で弾丸を放ち、しかもそれは極めて殺傷が能力が高く、人間を襲う獣へ向けて発射する弾丸。正気の沙汰ではなかった。

「そこから逃げろ!!」

 遅かった。ネガイの声の向こうから悲鳴と共に銃声が響く。だが、あれは先ほど聞いたデザートイーグルの音ではない。もっと聞き慣れた音だった。

 直後にネガイから苦悶の声がした。だが、撃たれたのではない。人間の波に飲み込まれたのが、人々の悲鳴で気付かせる。そして、無線機から耳鳴りのような音が届く、落とした拍子に踏み潰された。

「イノリ!!」

「わかってる!!」

 駆ける足音が聞こえる。既に美術館にこそ到達しているようだが、それでは足りないとイノリ自身も現場へと疾走を開始している。けれど─────。

「でもダメなの!!誰とも話せない!人の声に紛れて何も聞こえないの!!」

 エレベーターを待つ時間すら惜しい。エレベーターホールに到着し、併用されていた非常用階段の扉に突進する、だが、ここまで情報が届いていないのか、それとも客人の保護の為なのか。扉はロックされたままで、びくともしない。

「—―—―やるしかないか」

 邪魔な人間を肘で叩き飛ばし、エレベーターの扉に張り付きこじ開ける。真下には定員オーバーを知らせる音が鳴り響いているエレベーターが見えている、引き返すタイミングなど、最初から無い。

「‥‥20m。行ける」

 周りからの悲鳴を振り切って、飛び降りる。そして、杭を壁に突き刺し、火花を散らせながら、エレベーターの真上に落ちる。下からも上からも悲鳴を轟かせ、エレベーターの天井に設置されている点検用の扉を開けて、

「退けッ!!オーダーだ!!」

 M&Pを持ちながら下の人間を踏みつけて、エレベーター内に降りる。

 周りから助けてくれだの、殺されるだの色々言われるが、全て無視する。銃から逃れてきたのに、真上からも銃とレイピアが現れて完全に恐慌状態となった集団をかき分けて、会場に続き渡り廊下を走る。

「シー!!!」

 渡り廊下には銃を持ったシズクとサイナが背中で、走ってくる客を守っていた。だが、それは正確じゃなかった。誰かを探しているようだった。

「ヒー!ツ、ツグミと――」

「わかってる。俺が探しに行く」

 振り返ったシズクの肩に手を乗せてから走り去る。

 想像はしていた。これだけの人数が集まる中、運よく、誰もはぐれないなんてあり得ないって。

 本館へと走り込むと、既に立食会会場ではネガイとドルイダスの人形が、男性スタッフ達と交戦と繰り広げていた。スタッフが持っていたのはやはりガバメント、そしてTMP。

 イネスの元で使われていたものと同タイプだった。

 しかしネガイとドルイダスの人形は銃口を物ともせず、己が拳と脚、布で造り出した薙刀で圧倒していた。2人の動きについて行けず、オークション会場にいたスタッフらは引き金を引く事すら出来ずにいる。

 混乱する状況下で、俺はレイピアをスタッフの一人の喉へと投げた。

 投げ込まれたレイピアをスタッフが倒れ込む前に受け取ったネガイは、銀と赤で装飾された鞘で、残りのスタッフ達を掃討していく。人形は言わずもがな、ヴェールで造られた薙刀を用いて、スタッフの顎や後頭部、そして向けられる弾丸をその身に受けても物ともせず、攻め込んでいく。

 どちらも人間離れした動きだった。

「様になってきましたね」

 縮地を使って最後の一人は意識を失わない程度に、警棒状態の杭で突き飛ばす。

 細分化した視界を更に切り取り、一枚ずつの写真に変える。転がり、倒れ込む地点を目の中で逆算し場面を作り出した。目の予想に従い先回りした場所で、倒れたスタッフが握るガバメントを手諸共踏みつけて、叫び声を上げさせる。

「ツグミは!?」

「—―─いいえ、私は見ていません」

 ネガイとドルイダスの人形は、どちらも首を振った。

「ツグミはどこだ!?」

 踏みつけているスタッフの一人に叫ぶが、目を逸らして何も答えない。

 そんな態度が更にイラつかせた。よって、踏みつけている手の指、一本に体重をかける。この程度では死なない。だが、紛れもない断末魔を上げて、勝手に意識を途絶えさせようとしてくる。だから、胸を突き上げるようにつま先で蹴りつけ、息を吹き返させる。

「し、知らない――嘘だ、嘘だ!もう、やめて!」

 もう一本の指にかかとをめり込ませた所で、甲高い声を上げて認めた。

「下だ!!オークション会場に連れていけって」

「誰に言われた!?」

「主任だ!!俺はただ雇われただけだ!これ以上は何も知らない!!」

 主任か―───―この名前に、ひとりだけ該当する相手がいる。

 そして、その主任とやらに命令出来る出資者のひとりも。

「俺はツグミの救出に行ってくる。ネガイは」

「私も行きます。失態の責任は取らせてもらいます」

「ああ、行こう。手を奪われないように」

 ドルイダスの人形へは最短の言葉だけで、ネガイと駆け出す。もう、時間がない。

 オークション会場へはエレベーターで行くしかない。だが、そんなルート、既に電源を落とされ塞がられているだろう。よって、

「別館まで行くぞ!!」

「‥‥わかりました。確かに、エレベーターでは逃げ場がありませんね」

「ああ、無理に下まで降りたら、蜂の巣にされる」

 先ほどと同じ方法でも行けるだろうが、下にも同じ装備を持った連中がいた場合、一ヶ所からしか入り込めない俺達に向けて、ただただ発砲し続ければいい。

 エレベーターという狭い空間では、避けれる場所がない。

「シズク!聞こえるか!?」

 ついさっき、過呼吸になるほど焦っていたシズクへと呼びかけて、要件を伝える。

「これから昨日入った回廊に向かう!ロックを解除する準備を!!」

「わ、わたしじゃ‥‥もう‥‥」

「ツグミが死ぬぞ—―—―—」

 息を呑み、数舜後には吐きそうな息遣いも聞こえる。

「俺も死ぬ。それでいいのか?」

「—―嫌」

「なら、済ませておけ」

 通信を切り、隣のネガイと片目だけで合図をして、一歩下がらせる。

 もう一度M&Pを抜いて、未だにエレベーターホールで並んでいる連中を威嚇しようとするが、その必要はなかった。そこには法務科の手によって整理された集団が壁を作って俺達への道を空けていた。

 一人の法務科の腕によって抑えられているエレベーターに乗り込んだ瞬間ボタンを押し、腕が抜かれたエレベーターは地下へと運ばれる。耳元のマイクから僅かなノイズが走り、聴き慣れたドルイダスの声が届いた。

「別館地下の制圧は終了しています」

「やっと仕事をしてくれましたね」

「この程度で褒められるなんて――—―あなたは、本当に人間に期待していないのですね」

「期待外れに慣れ過ぎた。それだけです」

 ネガイと共に装備を確認する。だが、正直言って火力がまるで足りない。

 あの弾丸を片手で撃ってきた。恐らく、あれこそが奴の主武装。銃の腕については、エージェントの名を与えられていた以上、並み以上であると思われる。

「奴は50AE弾を扱える。武器を取りに行く」

 こうなる事までは想定していなくとも、ほとんど丸腰で拳銃だけではツグミを守りきれない、オークションも解体出来ないと踏んでいた自分達は、シズクの使った手を真似て運び込まれる品々に自らの武装を紛れ込ませていた。無論、イミナ部長に頼み込んで無理に運び入れていた。

 そして倉庫の片隅に鎮座していた武器搭載の木箱はツグミの部屋から戻る過程で発見出来た。宛名と送り主は無名だったが、送り状には処理済みと、書いてある木箱なんて。

「俺が入っていたと、知ってたのか」

 誰にも聞こえない程度の声で呟く。

「私は先に会場に入ります。あなたは」

「危険だ、一緒に」

 だが、ネガイは首を横に振る。

「混乱した犯人の心理は、当人にもわかりません。可及的速やかにツグミの安全を確かめるべきです。それに、私にはこれがあります」

 腰のレイピアを鳴らして、一歩先に踏み込んだ。

「あなたもそうですが、私もです。人間に負けた事なんて、一度もありません」

「—―—―そうだな」

 ネガイの腰を引き寄せて、耳元で囁く。

「ご褒美は終わってからです。私もその方が興奮します」

 腕から回転するように逃げるネガイの後を目で追って、笑ってしまう。

 エレベーターから降りると、そこは確かに制圧が完了していた。恐らくは死んでいない連中が廊下の端で寝転び、両手首を手錠で繋げられている光景が廊下の隅々まで見渡せる。

「来たか」

 背の高い法務科の一人が迫ってくる。

「扉の話は聞いている。開けられるか?」

「どうだ?」

 無線機に向かって聞くが、返事がない。

「—―—―開けられます」

 ツグミが囚われていた回廊に続く扉へと走る。制圧専門の法務科の人間達も後ろに続いてくるのを足音で確認する。シズクから返事が返ってこないが、行くしかない。

「シズク、出番だ」

 頼れるのはシズクだけだ。一度、この扉を開ける事が出来たシズクに、頼るしかない。

「できるよ。私」

「頼りにしてる」

「うん、任せて。今度こそ、離さないから」

 無線機から深呼吸の音が聞こえる。準備が整ったのだと判断する。

 昨日と同じように立ち入り禁止の文字が書かれた扉の前に到着次第。モニターにスマホを押し付ける。—―—―ほんの数秒で開いた。

「私達は階層の制圧を行う。終わり次第、救出にも手を回す」

 悪手だとは、思わなかった。シズクの救出中に邪魔をされる訳にはいかない。

「任せます。—―—―ネガイ」

「はい。先に行ってます」

 短い会話の後、俺は廊下を走るネガイと法務科を背中に、裸婦画の額縁を外す。中にはやはり誰もいなかった。もし待ち構えていたならば、入室と同時に発砲されていた。

「武器の場所は変わらないか?」

「昨日のまま、誰も触ってないみたい」

 本当なら自分の分も出すべきだったが、時間と手間を考えて持ち出せたのはレイピアだけだった。油断した、無理にでも『杖』だと嘯いてオークションに挑むべきだった。

 ツグミの部屋は回廊の突き当たり。そして倉庫があったのは、右の奥。

「そのまま真っ直ぐ」

「大丈夫。冷静だ。任せてくれ」

「ふふ‥‥うん、任せたから」

 縮地を用いて瞬時に目的の扉、絵画の前に到着する。求めて迫ったというのに、目の前に現れた絵画は不気味の一言に尽きる。

「—―—―気味が悪い」

 ツグミが使っていた扉は、清らかな少女の絵だったのに、この絵の少女は趣味じゃない。

 体型や背格好、それらは何も問題がないのに、目がいくつかの文字で塗りつぶされるように描かれている。笑っているのか、怒っているのか。もし笑っているとして、それは何に対してなのか。表情が読めない。それだけで、これだけ嫌悪感を持たせてくるとは、やはりこの宗教画は、俺の趣味じゃない。しかも、

「う、やっぱりここか‥‥」

 今度は胸ではなく、両目を押す事で開いた。感触が生々しくて鳥肌が立つ。

 中に入ると、少しだけ安堵感を覚える。資料館で侵入した倉庫と似た部分がある為、一度しか入った事がないが、外の絵を忘れられて幾ばくか心が落ち着く。

「昨日と同じなら」

 そう呟いた瞬間、脇を抉るように、『杖』が迫ってきた。

 突き込まれた『杖』を一歩前に出て、紙一重で躱し、攻めてきたくせにむしろ態勢を崩している奴の脇に肘を叩き込む。だが、肘の勢いは固い胸骨に阻まれる。

 弾けるように離れ、改めて対象を確認する。

「どうだよ?」

 俺の真横にあった棚が今の一撃で崩壊した。今もドミノ倒しのように棚が崩れ、積載してあった品々が床に落ちる。粉々に砕け、あるいは傷づいていく。だが、そんな光景を眺めて、自慢げに『杖』を付けた腕の指で挑発をしてくる。

「これ、いいな?お前が奪った銃と交換してやるよ」

「バカが‥‥」

「あ?」

 あの『杖』はヒトガタの武器。イサラは、戦闘に特化したヒトガタと比べても遜色しない身体の持ち主だから使えたが、ただの人間が振り回せるものじゃない。慣れない衝撃に、骨格が悲鳴を上げるのは、時間の問題だった。

「死にたくなければ、それを外せ」

「バカなのかな~?死ぬのはお前ですよ~?」

「優しいうちに言う事聞いておけ。離せ」

 だが、あの威力は折り紙付きだと理解している。誤って直撃でもしたら、ツグミの救出に支障をきたす。そして、時間もない。だが――壊すには惜しい。

「俺が、お前に負けたから、どんな人生だったかわかるか?一緒になって負けた連中は、みんな逃げやがった。残った俺は減っちまった小遣いで、手下を買うしかなかった。俺が強ぇからすり寄ってきた女達は、みんな消えた。戻ってくるように言っても、どいつもこいつも、テメェが怖いっていって、誰も俺に寄り付かない」

「どうでもいいだろう。お前が弱いから、消えたんだろう?」

 時間がない。どうしたものか。だが、こいつを放っていくのは不安だ。

 このしぶとさ、手錠を掛けても正確とは言い難い。はっきり言って、面倒だ。

「調子に乗ってんじゃねーぞ!!!!!今の状況わからなのかなー?俺は、元からお前より喧嘩も強い!金もある!!わかるか?俺は選ばれた人間。今までは武器が無かっただけだ!!だけど、こんな強い武器があれば、みんな俺に跪く!!」

「仕方ないか――」

「お?大人しく、ぶっ殺される気に」

「お前を壊す」

 一歩目に影を残す。

 野生の勘、もしくは本能で恐怖を感じたのか。無言で杖を突き出すが、もうそこにはいない。

 二歩目で音を残す。

 振り返りざまに腕を振るうが、目に見えないものを捉えられる筈もない。

 三歩目で――——腕をもらう。

 悲鳴こそ上げるが、知った事じゃない。

「外れただけだ。何も問題ない」

 全力で『杖』を振った瞬間、腕と肘の筋肉は限界となった。ただでさえ、ろくに鍛えていない腕なのに、『杖』に振られながら身体から離すように、振るった結果、肘が外れた。その瞬間を狙って屈んだ状態で、外れた肘に杭を打ち込む。それだけ。

 外れた腕を抱えて涙を流し、のたうち回るが、杖を外すには肘を多少なれど曲げるしかない。仕方ないが、このまま放置して、自力では動けないようにするしかなかった。

「これは、ダメか‥‥慣れた武器だったのに」

 残った腕で助けを求めるが、それに構う暇はない。何より興味がない。

 口から泡を吹いていなから、問題なしと判断して、倉庫の奥へと走る。足元の開け放たれた木箱にあるハードケースの鍵を開けて、必要最低限の武器を取り出す。

「マズイ。武器が少ない」

 腰にあるのは杭。そして木箱には脇差しとM66。そして魔女狩りの銃。

 猟銃はソソギに渡してしまい。二本の鎌はマトイとイミナさんに渡った。他にあるのは、イネスが使っていた双刃だが、それもどこかへと渡ったらしい。

 あの刀はないかと、木箱の中を漁るが、やはりない。無意味に紙くずを漁るのは、もうやめる。心許ないが、この状態で行くしかない。

「—―———奴はバチカンの人間。確実に、魔女狩りを持ってる筈だ‥‥」

 あの銃は、俺に対しても致命的なダメージを与えてくる。例え服で防げたとしても、掠っただけでも、俺は無力化。最悪死にかねない。

「やるしか、ないのか‥‥」

 死が怖い。他のオーダーに訊けば、笑われる概念かもしれない。けれど、それは一度も死んだことがないからだ。一度でも、あれを体験すれば、もう戦場には立てなくなるだろう。脆弱な人間ならば、特に。

「俺は人間じゃない。だから、人間には負けない――行こう」

 心臓に手を当てて呟く。また、流星の使徒の時ように苦しむのかと、恐ろしくもあるが行くしかない。そう、奮い立たせて足に血を送る。だが、

「なんだ、あれ?」

 目に血を通す。

「‥‥剣、なのか?」

 棚にあった一本の鉄塊が目に付いた。

 それは鞘に納められた剣だった。だが、役に立たない。ネガイのように細身のレイピアであれば、現代の戦闘でも十二分にその立場を示してくれるが、普通の剣では、役に立たない。そう振り切って視線を逸らすも、やはり心の中で違和感を覚えた。

「なんで、矢が?弓もないのに」

 剣と一緒に置かれていたのは矢筒だった。しかも、鉄とカーボンで作り出された強力な代物。もし、ここに弓があったのならば、ライオットシールドすら余裕で貫けるだろう。だが、無いものをねだっても仕方ない。

 弓矢は現代でも、ボウガンという形で、猟で使われている。それは単純に質量が理由だった。遠距離攻撃の威力は、重さ、速度、接触面で決まる。

 驚きだが、いくら鋭かろうが、重さがなければ、威力はほぼ皆無となる。必要なのは速度と質量。いくら鋭い小石でも、重い瓦礫には敵わない。それは銃でも同じ。

「‥‥これ、本当にただの剣なのか?」






「このままで、いいの?」

 誰に言うでもない。誰に問うでもない。ただ、自分の為に。

 ヒーの部屋に、サイナと共に戻った時、ミトリとイノリが知らない人の救護をしていた。そして私達が入ったと同時に救護班の人達が来て、その人を連れていった。ミトリは付き添いで、イノリとサイナは地下の応援に行ってしまった。

「私、このままで、いいの?」

 扉を開ける事には成功した。ヒーからの連絡が途絶えてから、何も帰ってこない。その事を無線機でみんなに話したけど、みんな、自分の仕事に忙しくて、まだ誰も行けていない。ヒーなら大丈夫。みんなそう言った。私だって、そう思っている。

「だけど、これって、いい理由じゃない?」

 テーブルの上にある紫の布に包まれた木箱を見つめる。

 ツグミが攫われた理由は、わからない。いくらツグミが欲しいからって、こんな状況を造り出してでも、求める程なのか。男性の欲望とは、ここまでなのか?あり得ない。ヒーであればあり得るけど、ツグミを求めるには、きっと他の理由がある。

 そして、それはきっとあの『腕』にある。でなければ、最後まで、あんな到底払えるとは思えない額で食いついてくるとは思えない。だったら、私は――。

「ごめんねヒー‥‥でも、私。最初に言ったよね。何よりも、ツグミを優先するって」

 




「いません」

 外の人間達は法務科任せて、オークション会場に入った時、拍子抜けしてしまった。誰もいない。使われたいたらしい高い椅子は並んでいるが、それだけ。

 強いて言えば、白いクロスが敷かれたテーブルが、中央に残されているだけ。

「高い天井です」

 腰の武器から手は離さない。足音も逃さない。けれど、何も聞こえない。嘘を言われたかと思うが、この場で誰もいないのはある意味恐ろしい。罠だったようだ。

「‥‥あの男は?」

 不遜に、足音を立てて入ってきた両開きの扉とは違う扉から男性が入ってきた。何度か、私やサイナを見張っていた男性だった。だが、違和感がある。

「そんなに目、窪んでいましたか?」

「あの男はどこだ?」

「もうすぐ来ますよ。武器を持って」

 眉目秀麗、とは言わないが、少なくともこんな顔付きではなかった筈だ。もっと目鼻立ちがはっきりとした顔だった。なのに、今は能面のように、目が細くて、窪んでいる。

「‥‥チッ。あの雑魚も、私を無視するのか」

「雑魚?散々、彼に逃げられ、最後は哀れみを受けておいて、何を言っているのですか?」

「私は!!一度も、あの『レヴァナント』には負けていない!!」

「いいえ。あなたは何度も負けています。しかも、それは毎回不意打ちだと聞いています。シズクと共にバイクで逃げられ、ひき逃げをしようとした時は、寧ろバイクで追いかけられる。最後は、横転して、情けをかけられ逮捕。しかも、バチカンに泣きついて」

「違う!!バチカンは、バチカンは私が必要だから!!」

 駄々っ子のように、床を踏みしめて叫んでくる。手に持ったデザートイーグルが気になるが、この精神状態では、まともに撃てるとは思えない。けれど、決して暴発はさせない。あの人が一度でも退却した理由がわかった。この人は、強い。

「バチカンは私が必要だから、死刑の求刑などという嘘を使ったんだ!!でなければ、私が解放される訳がない。私は、確かにバチカンからの働きかけで」

「そう。あなたはバチカンからの働きかけで、解放された。けれど、それの始まりは『レヴァナント』」

 会場にマトイの師匠が入ってきた。

「本当、何も聞いていないのですね。かの『レヴァナント』は、あなたを許すと言ったのです。バチカンも、それに応え、あなたの身柄を改めて求めた」

「嘘だ!!あの男は、私を殺そうとして、アイツが『エクソシスト』の位に納まろうと、私からエクソシストを奪おうとした!!」

 何を言い出したかと思ったが、やはりわからない。もう正気ではない。

「聞いた通りですね。あなたは、自分を正しく認識出来ていない。あなたはバチカンのエージェントではありますが、エクソシストではない。そして、自分自身だと思っているエクソシストは、別人。ここまで自己の同一化が進むなんて‥‥そんなに、エクソシストの名が」

「何を言っている!!?私は、確かにエクソシストだ!ここに、証拠の――ここに」

 そう叫んで懐を探るが、何も出てこない。

「普段は、ここに」

「ええ、先ほど司祭の元に来た男性は、丁度あなたの今触っている所から銀の十字を取り出しました。—―——―もう諦めなさい。あなたは、エクソシストではない」

 話している最中だが、ツグミの身が心配だった。挑発するように、事実を伝えている女性に視線が集まっている間に、確実に仕留められる位置まで移動する。

「そして、バチカンからも通達がありました。あなたは、もはや聖職者でもない」

「—―—―今、なんと言った?」

「聖職者ではない。あなたを、完全に破門とすると」

 呆然。そんな形容詞が、ここまで相応しい姿もないだろう。

「破門?私が、異端だと?」

「そこまでは知りません。しかし、あなたは紛れもないテロリスト。もはや身柄の受け渡しも求めない。あなたはこの国の法によって裁かれる。バチカンがそう望んでいる。時間です—―—―」

 最後の言葉の意味を理解される前に、踏み込む。狙いは右腕。容赦はしない。

 串刺しにさせてもらう。

 一歩踏み込んで影と音を落とす。—―—―眼球の動きすら遅い、肺の収縮すら見飽きる。

 二歩目で、先端を皮膚に当てる。玉のように流れる血を目撃する。

 だが、三歩目で、違和感を覚えた。腕を捨てた。

「魔女狩り‥‥この私に、」

 完全に右腕を捉えた。筋肉と骨を突き刺し、貫通させた。けれど、

「問題ありません。この私は‥‥」

 レイピアを抜き、一息で駆け寄る。倒れる寸前、腰に手を当てて、支える。

「構わないと言ったのに‥‥」

「あなたの活動が、ここで停止すると、あの人が泣いてしまう」

「‥‥マトイからも、言われましたね」

 ただの弾丸では、傷一つ付かなかった人形の腹部から、血が噴き出ている。私でも微かに見えるだけだった。左腕の袖から飛び出したあの人が使っているものと似た形の拳銃から、弾丸は発射された。

 今も向けられているので、恐らくそうだと判断できる程度。

「一度退きます。手傷は負わせました」

 それにあの弾丸は私にも効いてしまう。もし掠りでもしたら—―—―。

「私のヒジリを殺戮者にする訳にはいきません。退きます」

 肩を貸して、向けられている銃口が外れるように、斜め斜めに弾け飛ぶ。苦々しい声と当たらない銃声はそのままに扉へと駆ける。相手が例え人形だとしても、この軽さは腹立たしい。しかし都合がいいと思い込む事にした。何よりタイミングが良い。この状態では、扉を開けるには、手間がかかっていた所だ。勝手に開いてくれる。ならば、後は投げ込むだけ。

「覚えておきなさい。ふふ‥‥」

「そんな顔には見えません」

 彼の胸に抱かれた人形は、同性である私にしかわからない微かな笑顔を浮かべた。

 


「‥‥後で、迎えに行きます」

「好きにしなさい。私にも果物を用意して」

「了解です」

 腹部を抑えている人形に、血止め薬を渡して、横たわらせる。いまだ銃撃が続いているが、もうこの階層の7割は、来るついでに射てきた。いい練習になってくれた。

 ネガイと共に、剣を携えて会場に入る。右腕から流れる血を気にしないで、無理に腕を上げて二丁拳銃の構え、俗に言うアキンボをしてくる。非現実的な構えだが、やり慣れているとしたら、屋内の白兵戦では、無類の強さを誇る。

 残弾の内に、殺せるという自信の表れだった。

「‥‥なんだ、その武器は?」

 答える義務も、義理もない。だから、逆に問う。

「—―—―魔女狩りか」

「そうだ、これこそエクソシストのみに許された」

 つがえる。そして離す。

 弓の初速はせいぜいが時速200km。秒速に直すと60mと言ったところ。9mm弾の半分程度しかない。だが、弾丸は初速を超えると、目に見えて減速する。当然威力も。勿論、弓でも前者は同じだ。しかして、威力は逆に、跳ね上がる。

 黒い魔女狩りの銃の銃口を射抜く。冷静であれば余裕で避けれるだろうが、1秒にも満たない、瞬き一つで、矢継ぎ早に3射が届く。

 弓の長所は、ただ威力が高いだけじゃない。その真価は、拳銃よりも発射が速い事。一秒の間に、三本の矢を放つことが可能な程、反動が皆無である。

 左肩、左腕上部、銃口。同時にではなく、コンマ数秒を開けての掃射。

 短所も当然ある。それは繊細である事。心臓の運動一つで、狙いが外れてしまう。

 だが、そんな短所、俺には無いに等しい。心拍など、呼吸を止める気分で止められる。

「目で追うべきじゃなかった。そう思わないか?」

 腕を守る為に、銃を捨てた。魔女狩りの銃は、後ろの壁に矢で打ち付けられる。

 強弓の一撃は、数センチの鉄板であれば貫ける。10mm以下の防弾ガラスであれば、当然のように貫ける。ただの装飾である木材であれば、紙同然だ。

「すぐに病院に行け。親指が恋しいだろう?」

 銃口を射抜くと同時に、奴は転がり、避けた。だが、真っ赤な血の跡を残しながら。確実に切り裂いた。爪は砕け、骨すら露出している。ピンク色のそれは、紛れもなく切り裂かれた筋肉だった。

「—―なんだ。それは」

「見ての通り」

 見せつけるように、弓を剣に戻す。そして、もう一度、真っ二つに分かれた刀身を開いて弓の形に戻す。この金属音が心地いい。鋏のような構造が美しい。手首に伝えてくる振動から、歯車を動かす時のような噛み合った快感を感じる。

「‥‥流星の使徒」

「多分な」

 見覚えはない。だが、刀身に刻まれている文字には見覚えがある。

「異端が‥‥そんな蛮族な武器で、私に勝てると!?」

 両腕を負傷しているとは思ない足取り。だが、足音が思い描いていたものよりも、雑音が多い。そして、冷静でないとは言え、擦り出される音が、大きすぎる。

 10インチバレルのデザートイーグル。弾丸は50AE弾。全うに受け入れば内臓や骨が粉々に砕けるだろう。当然、受ける反動も、腕が砕ける衝撃。そんな兵器を片手で向けて、引き金に指をかける。だが、人間には――気づかない。

「チだ」

 零れている血に引き寄せられる。ネガイの縮地とは違う。欲望のまま、求めるものの為、血が沸騰する。燃えるように熱い酸素が、心臓を通して、眼球に流れる。

 弓から剣へと戻した得物を使って、真下からバレルを切り落とす。

「邪魔だ!」

 血を流した左手の裏拳で頬を殴りつけてくるが、勢いが足りない—―怖がったな?

 距離を取れない、取れば貫かれると思ったエージェントは、ろくに動かない親指を使って、首を掴んできた。血を押し付けるように、肉を食わせるように。

「逃げるべきだったな」

 真後ろからネガイの切っ先が、空気を切り裂いて迫ってくる。

 一手遅かった。レイピアは、なんの躊躇もなくデザートイーグルの銃口を貫き、奴の腕まで串刺しにする。一瞬のひるみを使って、手から逃れ、ネガイ共々左右に逃れる。

「倒れるか、続けるか。どちらでもどうぞ」

 答えよっては、次瞬で殺す。ネガイのレイピアは、輝きでそれを保証してきた。

「‥‥ふざけるな。私は!!エクソシストだ!私は、異端の化け物を狩らなければ、ならない!!」

 最後の武器だ。背中から取り出した得物は、ネガイが使っていた十字のエストックに近い見た目をした短剣。銀で装飾されたそれは、一目でわかった。俺やネガイが受けていい代物ではないと。

「これはエクソシストにのみ、支給される祝福された権杖けんじょう!!お前達、人外を狩る為に、私は授かった!!私は、ただのエージェントなどではない!!エクソシスト!」

 両腕から血を流し、叫ぶ姿は、到底聖職者とは見えなかった。いるのは、幻想に憑りつかれたただの人間だった。ようやっと、確証を得る事が出来た。

「お前、資料館にいた奴じゃないのか」

「混乱させる気か!?エクソシストである私は、そんな所に行っていない!!」

「—―そうか」

 ならば、俺が恐れたあの声と足音は、別人の。それこそエクソシストの物か。

「お前、エクソシストになりたかったのか?」

「私は既に!!」

「いや、お前じゃない。俺が望んだ使い手は、お前ではなれない」

 残念だ。そして、安堵した。こんな、不意打ちしか出来ない奴を、俺は恐れたのではなかったのか。

「罠に不意打ち。そのやり方、否定しない。ただの人間なら、仕方ない」

 長い直刀を片手で向ける。腰の矢筒には触れない。

「弱い人間。狩りをするのなら、それも仕方ない」

 この弓矢だってそうだ。元は戦争の為かもしれない。だが、確実に、獲物の息の根、そして動脈を切り裂く為に改造された鋼鉄製の弓矢は、紛れもなく、狩りの為。

 対象は人間であった者。ならば、俺も狩りをしよう。

「だが、それが人間だけの特権だと思うな。逃げてみろ。—―お前は、獲物だ」

 眼前の男以外、何も見ない。周りが血に染まる。星が答えてくれた。宝石が応えてくれた。見えるのは、張り裂けそうな心臓のみ。だが、喰らう気にはなれない。

「人間は、遊びで狩りをするのだろう?なら、俺もそうしよう」

 一歩踏み込む。短剣が振るわれる。だが、先ほどの男のような愚は犯していない。

 二歩目で背後を取る。その時には、弓に変形させる。

 三歩目は、踏み込まず、跪く。肩に弓を担ぐように、即席のトリスタンを作り上げる。そして、そのまま弓を引く。狙いは、わき腹。内臓は傷つけず、血を流させる。

 弓の勢いに弾かれた人間は、射抜かれたわき腹を庇いはするが、身体を横滑りさせながら離れていく。丁度、車が横転した時のように、血の跡を作っていく。

「私を、祝福も受けずに、殺す気か?」

「煉獄でもどこへでも行ってくれ」

 口で弱気な事を言いながら、短剣を投げつけてきた。弓の状態のまま、それを弾く。そして、返答として、投げつけてきた手を射抜き、床に縫付ける。

 骨が削れているのか、それとも完全に筋肉が割かれたのか、残っている手で射抜いている矢を引き抜こうとするが、あまりの痛みに出来ずにいる。

「ツグミはどこだ?」

 弓から剣に戻し、首元に突き付ける。だが――目を晒した。

「死にたいのか?」

 手を射抜いている矢を踏みつけて、左右に動かす。その所為で、血だまりが徐々に広がっていく。だが、気にしたところで仕方ない。それに、腕一本でも動かせるのならば、また不意打ちをしてくるかもしれない。

「この国では――拷問を!!」

「拷問の技術は、お前達の専売特許だろう。それに、暗殺を企て、実行したお前に、言える事か?殺されない選択肢を与えているだけ感謝しろ」

 後ろからネガイに、腕を引かれた。矢から足を離して、問いかける。

「ツグミの居場所はどこだ?ここにいるんじゃないのか?」

「‥‥お前は、知らない。我らエクソシストの、エクソシストの任務は、何よりも!!」

 面倒くさい。これが宗教に頭も何もかも売った奴の末路なのか。

「無駄です—―それに、ここから行ける場所は限られています。行きましょう」

 腕から、手に移動したネガイの手に従って、未だに自分はエクソシストだと喚いている奴を無視する。

「どこにいると思う?」

「あなたこそ、ツグミを連れていったのは、誰だと思いますか?」

「『教授』――、たぶんだけどな」

 十中八九、ツグミを連れていったのは、あの『教授』だ。どうやら、あの人間は、ここの支配人らしき人物と知己らしい。であるならば、このオークションに法務科が介入したとわかり、何もかも知っているツグミを連れて逃げようとしているのかもしれない。だが、同時に疑問が浮かぶ。—――何故、ここなんだ。

「この階層から、逃げられる場所は、もうない。それに、こいつがいるって事は」

「ツグミはまだここにいる。この人間は、ツグミとシズクを狙っていたそうですね」

「ああ、あの『教授』とこいつの目的は、一致した」

 ツグミを連れ出す事。片や、もうツグミを殺してでも口封じをしたい人間と、俺を殺してでも、ツグミを求めた人間。目的が、合致してしまった。

「だけど、殺してはいないと思う。こいつは、俺を殺そうとしたけど。シズクを殺そうとはしていない―――しくじった‥‥」

 天井や壁、辺りを眺める。カメラは発見できないが、確実に

 ネガイの手を引いて、オークション会場の外に出る。そこには、同じ顔をした人形に治療を受けている人形が横たわっていた。

「一等室へは!?」

「先ほど、制圧は完了して誰もいないそうです。行きなさい。道はわかりますね」

 二つ返事で許可を貰い、何も聞かないで従ってくれるネガイと共に、駆ける。

 もし、あの光景。自分の盾であるバチカンのエージェントが負けた光景を目にしたとしたら、確実にツグミの口を封じにかかる。油断した――。

 この階層で反抗していたスタッフは、既に法務科が制圧していた。発砲していたスタッフ達は皆一様に跪き、両腕を頭の裏で組まされ、廊下に並んでいる。

「シズク、聞こえるか!?」

 あの精神状態では、もう関わらせない方がいいと思ったが、なりふり構っていられなくなった。急いで、シズクへと連絡するが、返答がない。

「ダメか‥‥」

「どうしたのですか?」

「オークション会場は監視できる、俺達が勝った姿を見らてたかもしれない」

 一等室には、ツグミが監禁されていた部屋のある回廊に直接行ける道がある。

 だが、確実にそこは、封鎖されている。追ってくる俺達を足止めする為に。

「場所の特定は?」

「逃げ場は一つしかない。ツグミの部屋だ」





「チクショウが!!!おかしいと思ったんだ!?あんな額、あのガキに払える訳ないって!!」

 銃声が聞こえた瞬間、人が大量に押し寄せてきたのを思い出した。

「しかも、よりによってオーダーだ!?ふざけやがって!!」

 元から、裏表がある人だとは思っていたが、ここまで嫌悪感を露にするのは、初めてかもしれない。だけど、なぜ、この人と私は、今同じ部屋にいる?思い出せない。

「せっかくの金づるが――クソ!!」

 ベットで横たわっているのはわかる。この天蓋は、昨晩ヒーと見た筈だ。

「どうしてくれる‥‥あの方に、あの方に――私は――クソっ!!」

「『教授』?」

 音が鳴った。だが、鳴ってから気付いた。それは、ベットを蹴り上げた音だと。

「お前、お前のせいだ!!お前が、自分から売られるなんて、言わなければ!!」

「‥‥私は、姉を、あなたが襲うって」

「そんな証拠どこにある?—―チクショウが!!」

 今度は叩かれる前にわかった。私の頬を、拳で殴ってきた。血の味がする。

「こんな事してる暇ねぇんだよ!!なんで、この私が、殺しなんてしないといけない。毎回、下っ端にやらせてた事を!私は、ずっとまっさらなままでいたのに!!」

 これは、薬なのか?それとも、この腹部からの痛みは、拳か?それとも銃か?

 痛みで思考が組み立てられない。何より、こいつの顔が醜くて。腹立たしい。

「こんな所じゃあ、死体も隠せない。どんな言い訳をすればいいんだ!?—―そうだ、おい」

 襟を掴んでくる。そして、笑みを浮かべて、持ち上げられる。

「ここで舌を噛んで死んでくないか?」

 溜息が出る。

「そうだ、君が勝手に死んでくれれば。私は、何もしないで済む。ツグミ君、君は優秀な生徒だ。そうだろう?君は、私の為に自分を売ると言ってくれたんだ。最後のお願いだ。ここで、死んでくれないか?さぁ――」

 柔和で優しい表情。この顔から、始めて姉の事が語られた時、私は背筋が凍り付いた。恥をかかせた君の姉は、なんの贖罪もせずに消えた。であるから、君のお姉さんには謝罪をしてもらいたいんだ。そう、丁度、都合がいい事に、オークションというものがある。こんな感じだったか?

「どうしたかね?君は、私の為、恥をかかせた姉の為、死なないといけない。わかるだろう?」

「—――わか」

「おう、そうだ。もう一度言ってご覧」

「わかるかよ。離せ」

 掴んで襟に力が溜まっていくのがわかった。その瞬間、ベットから私は投げ出される。床の固い感触と、もう一度、血の味を感じ取る。

「ふふ、ふふふふ――」

 興奮し過ぎて、声も出ないようだ。

「ふざけるな!!誰がここまで育ててやったと思ってる!?」

「少なくともお前じゃない」

 ちぎれた襟を押さえて、胸元を隠す。見ていいのは、私のあの人だけ。

「—―色気づきやがって、親にも売られた分際でよ!!」

 倒れている私の胸を、つま先で蹴りつけようしてくる。でも、それは習った。

 つま先を腕で迎え入れて、脇の下に先端を逃がす。インパクトを外された『教授』は態勢を崩す。この時、私は完全に成人男性を手玉取れる。

 つま先を抱えたまま、寝返りをうつように、ひっくり返る。容赦なく足首を捻り上げる。悲鳴を上げさせてもまだ足りない。一度破壊した足首を更に回転して体重で押しつぶす。『教授』の膝でテントを作るように、布団に巻き付くように、この足は私が貰う。もう、歩かせない。

 私に拳を振るってくるが、その度に、足首どころか、膝まで痛めていく。

「クソガキがーー!!オーダーへは、取り調べだけじゃなかったのか!?」

「オープンキャンパスの一介ですよ。『教授』」

 悲鳴が心地よく感じる。振るわれる拳は空を切り、まるで届かない。

「私、来年にはオーダーにいる予定です。その時は、面会にでも行かせて貰いますね。差し入れは、何がよろしいですか?」

 掴んでいる足から音が鳴る。骨が軋んでいる。私が、この音を出させている。

 私は、自分の為に、初めて戦っている。

 そして、ドアの開く音がした。

「ヒー!」

「‥‥おう!!遅かったな!!負けたようにと見えたぞ。早く、このガキを!!」

 心臓が止まりそうだった。

「くく‥‥面会だったか?それは無理そうだな!!私は、誰にも、逮捕されない!」

 背中越しの足音が迫ってくる。腕の力が抜けて、『教授』の足を離してしまった。その瞬間、固い靴底をぶつけられて、息が詰まる。姉さんが用意してくれたドレスを、汚してしまった。

「何をしている?」

「見ればわかるだろう!!さぁ、殺せ!!そして私を!!」

 足音を立てて、私に迫ってくる。目と閉じる。殺されない。殺される程痛いかもしれない。だけど、私にはあの人がいる。だから、大丈夫。

 だけど、背広の男は、私を無視した。通り過ぎた。

「聞こえなかったのか?この娘は、バチカンが保護すると」

 上半身だけ、起き上がる。そこには、両腕から血を流す男性が、『教授』を持ち上げていた。何がなんなのか、私にはわからない。『教授』もわからないようだ。

「よせ‥‥!私は、君の協力者だろう‥‥!そうあの方から言われた‥‥!」

「違う。私は、全てバチカンの為、エクソシストとして、この娘を保護する」

 保護。その言葉には、安心感こそ感じるが、私が想像している事とは、絶対に違う。思い出したからだ。この人に、私は気絶させられた。この人に、連れ去られた。

「動くな」

 背中を庇いながら動いたせいで音が鳴ってしまった。

「もう一度眠りたくなければ、そこにいろ」

「—―出来るんですか?今のあなたに」

 襟を持ち上げていない方の腕の手は、開かれたまま、拳を作れていない。

「‥‥素人が」

「違います。私は、もう素人じゃない!!」

 立ち上がって、叫ぶ。

「私は!!もう素人なんかじゃない!!私は、本物!!本物のツグミ!!もう姉さんの後ろは追いかけない!!」

 背中に血が溜まっていくのがわかる。口の端から血が流れているのもわかる。

「私はここにいる。もう、誰にも――」

 襟を掴まれていた『教授』は離され、地面に激突する。だが、薄気味悪い顔を見せてくる。その理由がわかった時—―つい鼻で笑ってしまった。

「おかしくなったのかな?これで、私は、お前を殺せるんだぞ?」

 意気揚々と出してきたのは、拳銃だった。もう、見慣れている。

「さぁ。こっちに来なさい。もう痛い目には合わせないから」

「—―大人しくしておけ」

 向けられている小さい銃を横目で見て、当人にはわからない小さい溜息をついた。

 だけど、ここで反抗して、また撃たれるのは嫌だ。実際、肋骨に違和感がある。

「わかりました―――約束して下さい」

「約束しよう」

 『教授』の銃を、背広の男が一息で奪い、背広の男に近づいた時、再度扉が開けられる。やっと来てくれた。




「—―ツグミ」

「遅いよね?」

 そう言ったツグミの顔は、血で汚れていたが、晴れやかだった。

 だが、背後にいたエージェントの男が、後ろの『教授』にツグミを投げるように渡した。

「取引、か?」

「無用だ。私は、これからバチカンに保護される。もうすぐエクソシストの仲間が、来てくれる。時間を稼げれば、それでいい」

 奴の手には、デリンジャーが握られていた。コルト25オート。ジュニアコルトの名で知られている25口径を6+1発装填できるデリンジャー。

「‥‥ツグミをどうする気だ?」

「知れた事。バチカンに連れていく」

「どうしてもか?」

「私は、エクソシスト。バチカンからの命令は、絶対だ」

 一度負けて冷静になったか。まとっている雰囲気が、先ほどとはまるで違う。

「お前はツグミを殺せない以上、ここで籠城をする事になる。負けるのは目に見えてるぞ」

「私は、負けない。バチカンは、エクソシストは負ける筈がない」

 話にならない。状況がわかっていない筈ないのに――やはり、息の根を止めるしかない。

「—―ツグミを傷つけたのは、誰だ?」

「私と、そこの男だ」

「‥‥そうか。コロス理由が、出来たな」

 ネガイも、もう止めなかった。ツグミの状況を見たからだ。

 口から血を流し、ドレスは引き裂かれ、背中か腹を殴打されたらしく、庇って呼吸している。捕虜に対しての暴行。拷問。しかも、それが俺のツグミであるならば、コロスしかない。弓を展開させて、矢を番える。

「俺は聖歌を知らない。自分で歌ってろ」

 弾速はこちらとほぼ同等。だったら、既に番えている俺が先に、放てる。

「ダメ!!」

 あと指を数ミリ離すだけで終わる。その時、腰に誰かが抱き着いてきた。

「殺しちゃダメ!!」

「シズク‥‥」

「違うの!!あの人じゃない!!ツグミに血を流させたのは、あの人じゃない!!」

 矢は番えたまま、止まる。だが、向こうも決してジュニアコルトを降ろしてこない。

「—―些事だ。私が、気絶させ、連れていった」

「‥‥そこまでツグミを傷つけたのは、そこの奴か?」

 向けていた矢を『教授』に向ける。丁度眉間に突き刺さるように。だが、エージェントの男が、前に立ちはだかり、邪魔をしてくる。

「そう!!私は見てた!!ツグミの目で!!」

 コンタクト――か。回収してからも、ツグミは付けていたのか。

「殺す相手が決まった。退け」

「殺人は、我らにのみ許された業だ。許されない」

「なら、お前事貫く。動くなよ。ツグミに当たる」

 星に呼びかけて、一直線に貫通する箇所を確認する。しかし、シズクが前に出た。

「これが欲しいんでしょう!?ツグミと交換して!!」

 シズクが持っていたのは、紫の布に包まれた木箱だった。

 後ろのネガイに視線を向けるが、シズクを下がらせない。むしろ、俺の肩に手を置いてくる。首を振って、止まれと伝えてくる。

「お願い!私は、絶対、もうツグミに怪我をさせたくないの!!」

 ここからは見えないツグミの表情を、星から確認する。—―従うしかなかった。

「—―わかった。そっちはどうだ?」

「いいだろう。ただし。中を見せろ。そこのお前がだ」

 顎で指示した来たのはシズクだった。正気か?こいつは、知らないのか?シズクとツグミの血について。

「わかった」

 シズクが二つ返事で、紫の布を解いた。

「大丈夫。覚えてる」

 それだけ言ったシズクは、木箱を蓋を開けた状態で、エージェントに近づいていく。俺達との中間辺りについた時、エージェントは像を眺め、何を確認した知らないが、頷いた。

「本物のようだな。離せ」

 木箱から視線をツグミを掴んでいる『教授』に変える。

「ふざけるな!何を勝手!」

 大きな手には不釣合いな拳銃をこめかみに付けて、脅しに入る。『教授』は顔を真っ青に変え、大人しくツグミを離した。ツグミは、ゆっくりとシズクに近づいていく。まだ、緊張は解けない。この距離なら、ネガイの縮地の間合い。そして、エージェントはツグミとシズクを殺せない。しかし。あの『像』には、力がある。

 二人を、『究極の人』へと押し上げる力が。

「姉さん‥‥」

「平気。みんないるから」

 ゆっくりと、ゆっくりとだが、二人が近づいた時、

「そこで止まれ。像を持って戻れ」

「—―!」

「それはおかしいです」

 俺が声をもらす前に、ネガイが声に出した。

「そこでツグミが、戻ったら、そちらはツグミと像を手にする事になる。フェアじゃありません」

「フェアでないのはそちらだ。それには手首から上が無い」

 エージェントの言葉は正しかった。

「その状態で、交渉に立っているのだ、譲歩すべきはそちらだ」

「‥‥ちっ!無理やり誘拐しておいて!!」

 ネガイの拳辺りから骨の軋む音が聞こえる。ここまで殺気を携えた舌打ちは、始めてかもしれない。

「—―武器を捨てる。俺が代わりに」

「ダメだ。素人の妹の方でなければ、この話は無かった事にさせてもらう」

 ツグミが拳をつくり、強く目を閉じた。

「‥‥わかった。私ならいいのね?」

「よせ!」

「平気だよ。私だって、チームのひとり。プロだもん」

 素人と言われた瞬間、ツグミの顔付きが変わった。少し前に、シズクが言っていた言葉を思い出した。—――死に急いでいる。この状況は、まさしく、そうであった。

「ツグミは怪我をしてる!!私が!!」

「次は無い。急げ」

 シズクは木箱で両手がふさがっている。応戦は難しい。ネガイか俺であれば、撃たれても、避ける事が出来る。そして、『腕』を掴んでも問題ない筈。

 血と宝石を使え。この状況で、ツグミに宝石を持っているか確認する術はない。下手に声を出せば、ツグミどころか、シズクまで、奪われかねない。

 だったら、血を使うしかない――。

「‥‥ネガイ」

 後ろ手に腕と一本の矢を差し出す。

「‥‥わかりました」

 ゆっくりとツグミがこちらに歩いてくる。シズクは、ツグミを迎える為に、一歩前に出た。シズクの持つ木箱へとツグミが手を伸ばす。待っていた。この場にいる全員が目を奪われるその瞬間を――!!

「「痛っ!」」

 ツグミとシズクの腕に一陣の血が舞う。そして、ほぼ無音のそれは、エージェントと『教授』の間を突き抜けて、壁に突き刺さる。その時、ようやく理解する。

 俺が二人を射たと。そして、ツグミは反射的に、掴んでしまった『腕』を持ち上げて、自身の傷にそれを当ててしまう。この時を、待っていた。

 縮地を使い、シズクとツグミの間に割って入る。その瞬間、ジュニアコルトから25口径という反動が小さく威力が低い弾丸が眉間に向けて発射される。だが、そこに、俺とシズクのこめかみからレイピアの切っ先が、縫うように弾丸目掛けて突き出される。火花を確認するより前に、ツグミの背中を抱き、剣を弓の形に変えながら、後ろに跳び、片膝をついて、構える。

 シズクは、自分の周りで何が起こっているのかわからないらしく、呆然としている。ネガイもそんなシズクの腰を抱いて、後ろに跳ぶ。空中に放り出された木箱をエージェントに蹴りつけて、一瞬だけ、隙を作る。

 ツグミを抱きながら、番えていた矢を放ち、ジュニア・コルトを破壊する。今度こそ徒手となったエージェントは、後ろの『教授』は無視して、走り出した。

「追わないと!!」

「前を見ろ」

 腕の中で叫ぶツグミを抱きしめて、頭を固定する。俺の目線の先を見せる。

 そこには、先ほど俺が射た矢に腰が抜けて、倒れている『教授』だった。

「まだ、ここに敵がいる」

「—―うん」

「どうすべきだと思う?」

 身体を預けているツグミが、腕を握ってくる。二人で立ち上がり、見下ろす。

「殺す」

「正解」

 その声に正気に戻った『教授』は、腰が抜けたまま、後ろに逃げていく。

「私は、外で待ってます。シズク、二人をお願いします」

「ありがとう。大丈夫だから。私もちゃんと手伝うから」

 ネガイがシズクを離して、部屋から出て行った。しっかりと扉を閉めて。

 シズクがSIGP228を抜いて、『教授』に銃口を向けた状態で、近づいてくる。ツグミは近づいてくるシズクに、腕を潜って抱きつき、シズクもそれに応える。

「怪我、させちゃたね。うん、でも、頑張ったね」

 指でツグミの血を拭って、肩に頭を乗せる。

「—―私、恰好良かった?」

「うん‥‥私なんかよりも、恰好良くて—―自慢の妹。だから、私も最後まで、恰好良くさせて貰うね」

 シズクの眼球から光が消えた。両親に銃口を向けた時と同じだった。

「止める?」

「止めない。出来ないなら、俺がやる」

「そっか」

 俺も矢と番えた状態で、答える。ツグミはシズクの腕で抱かれたままで、『教授』に顔を向ける。

「教授、覚えてますか?私の姉を」

「あ、ああ‥‥覚えているとも!!そうか、そうか!!あの姉妹が、こんなに大きくなるなんて」

 大手を振って近づいて来ようとした『教授』の足元に、シズクが発砲する。再度腰が抜けた『教授』は、いよいよ腰が言う事を聞かなくなったらしく、立ち上がる事さえできない。

「嘘。私の顔、覚えてもいないでしょう?だけど、恨みだけは覚えてる」

 凍りつくような、冷たい声と視線だった。床の弾痕から、冷気が発生している気になってくる。

「顔も覚えてないのに、恨みだけで、ツグミを脅して――聞いたよ。私を学生たちを使って襲うって言ったんでしょう?」

「い、言ってな」

「誰が答えろって言ったっけ?」

 今度はこめかみすれすれだった。

「ツグミ、よく見てて。私は強いから」

「うん、よく見せて、姉さん」

 弾丸が消えるまで、シズクとツグミは抱き合ったまま発砲を続ける。何度死を覚悟したのか、俺ですらわからない。途中からただ遊ぶように二人で引き金を引き始めた。その光景が――微笑ましくて、つい笑ってしまう。

「あ、見てヒーが笑ってる」

「ちょっと!ツグミのどこ見てるの!?」

 ツグミのちぎれた襟の中を、自分の身体で隠しながら言ってくる。

「いや、絵になるなって思って――弾丸は足りるか?」

「んー、M&P貸して」

 この時間がまだ続くのかと、掠った腕を抱いて震えている。

 シズクにM&Pを渡すが、思ったより重かったようで、ツグミ共々倒れそうになる。危ないと思い、二人を離して、シズクを抱き寄せる。

「いいか?」

「‥‥うん」

 シズクと2人でグリップを握りあって、足や腕を狙って紳士服に掠らせる。

 香水を付けているシズクのうなじから漂う香りに、上から見下ろす胸元を眺めて暫し呆然としていると、ツグミが腕引いてきた。

「私の時間は?」

「う~ん、流石に免許を持ってないからなー、いや、今更か」

 次にツグミを腕の中に入れて、二人で撃ち続ける。もう死んだ気でいるらしく、『教授』の反応が良くない。

「つまらないんだけど?」

「おっと」

 紳士服に掠らせるのではなく、完全に髪の毛を狙った。耳元から鳴り響き音に、小さい悲鳴を上げる。

「あは!!見て、聞いた?」

「聞いた聞いた。だけど、こめかみは練習してからな。でないと」

「でないと?」

 腕の中で挑発的な笑みを浮かべて、見上げてくるツグミが、可愛くて仕方ない。

「楽しみがすぐ終わるぞ」

 今度こそ発狂したように叫んだ。そんな声に姉妹は楽しそうに声を上げて手を叩いて笑い始める。



 大人しくミトリの治療を受けるツグミに対してシズクが声を掛け続ける。背中を強く蹴り飛ばされたようで、僅かに呼吸に乱れがあったツグミだが、それも時間によって回復できる程度であったらしい。念の為、衣服を脱いで診察するとの事で自分は締め出されていた、

「私、やっぱりしばらく入院だよね」

「うん。あ、でもそんな長くならないから安心して。姉である私が毎日行くから!」

「毎日は、ちょっとなー」

 そんな反応にシズクが泣きそうな声を上げる。

 手錠を掛けるまでもなく気絶した『教授』は法務科の人間により連れて行かれ、部屋にはツグミの治療をする為のミトリを含めた3人のみが残っていた。

「はい。骨も内臓も損傷はしていないと思います。意識も安定してますし。しばらく検査等で入院するかと思いますが、それも1週間かからないかと」

「じゃあ病室にゲーム‥‥冗談だから。だ、大丈夫だから。そんな目で見ないで‥‥」

 ミトリが無言で怒っていると空気でわかり。その上、軽い雰囲気だったシズクの声から怯えを感じる。だが盗み聞きもこの辺で終わりだった。警護も不要となる。

「担架が届いたぞ」

 扉を軽く叩いて、迎えが来た事を伝える。

「あ、はーい。‥‥どうぞー!」

 ミトリの許可を得て救護隊員の二人が入っていく。そしてものの数分でツグミを乗せた担架と付き添いのシズクとミトリが出てくる。過ぎ去る直前、短いやりとりの中で「お見舞い、きてよね」と伝えられ、「差し入れはゲームか?」と返す。

「ふふ‥‥待ってるからね」

 ツグミとシズクに笑われ、頬を膨らませたミトリに視線だけで怒られる。軽く手を振って三人を見送り、警護としてネガイとサイナが連れ添っていく。残るのは俺一人となった。

「さて」

 振り返って、美しい少女の絵画を見つめる。

「‥‥どんな手を使ってもか」

 あの方が言っていたどんな手とはなんだったのか。考える暇がなかったが、倉庫で伸びている金メッシュを見て思い出した事があった。ツグミを襲った夜、アイツは正気には見えなかった。

「さっきは言葉は使えてたけど、あの雑魚があんな大胆な真似をするか?」

 絵画の顔に触れて目を見つめる。

「煽ったのは誰だ?唆したのは誰だ?『蛇』とは誰だ?どう思う?」

 ここから見える目が不気味な少女の絵画へと振り返る。そして、扉が開かれる。

「あんた言ってたな。あの腕は切り落とされたって」

「ああ、言ったとも。それがどうした?」

「その腕は、あんたのか?」

「—―まさか。私は前の持ち主だ」

 上着を脱がした時、気付いた事があった。この人物の片腕からヒトガタの血を感じた。扉から現れたのは杖をついた灰色の紳士、バチカンの人間だった。

「あんたが『蛇』か?」

「さてな。それは私にもわからない。もう過ぎた事だ」

 『蛇』という単語に反応したという事は、バチカンは『蛇』を知っている。

 だが、不意打ちで胸を撃たれるのも計画の内でなく事故であったようだ。苦しげに肺を押さえる仕草で呼吸している。痛々しいとは思うが信用はしないので、弓を構える。

「‥‥武器を降ろしてくれないか?」

「なら。杖を離せ」

「これがないと、私は歩けないのだが?」

「歩く必要があるのか?」

 指を離し番えていた矢で杖を弾く。溜息をついた紳士はしゃがみ込むが、それすら演技に見える。撃つ撃たれるの関係など彼方も日常であったようだが、拳銃の弾丸とは比べ物にならない殺傷能力に鋭い眼光は向けたままで跪く。

「何が聞きたい?」

「ツグミがオークションに出品されるよう、唆したのはあんただな?」

「どう答えたものか‥‥」

 時間稼ぎをしようとしたので、袖を射抜いて地面に固定する。

「—―ああ、そうだとも。私は腕とあの少女が欲しかった。これで充分かな?」

「それはバチカンの命令か?」

「それを答える事は出来ない。私も祓魔師を敵に回すことは避けたいのでね」

「ならばシネ」

 喉元に向けて矢を発射する。だが、それは弾かれる。さっき俺が弾いた杖によって。悠然と佇んでいたのは長いコートを纏い、フードを被った人間らしきそれだった。

「死ぬ気もないのに、ツグミを買おうとしたのか?」

「人間を買うという意味を私はよく知っているつもりだ。バチカンに来れば、彼女は正しき修道女になっていたとも。家族にも会えるよう手筈を整える気もあった」

 矢を引き抜かれた紳士は、背に低いコートの何者かに肩を貸される。

「ただ、彼女にとっての幸福を決めつけていたのは事実だ。謝罪しよう」

 土下座なんて文化が無い地域の人間が頭を下げてくる。向こうにとって、大きな意味を持つ動作だったとしても自分の内に灯った狂わんばかりの怒りには微風にも満たない。

「人間のルールに従う気はない。謝罪をしたいなら、ここでシネ」

 縮地を使って踏み込み、全力で剣を叩きつける。だが、袈裟斬りによる必殺の一撃はコートによって阻まれる。なんの変哲もないただの手で受け止められる。

 殺気の類を感じない。だが、それがあまりにも恐ろしかった。全力で後ろに下がり、元いた空間に指が突き出されるのを視界に収める。完全なる認知外からの空白の一撃だった。

「逃げられたな」

 楽しげに呟く紳士が、現れた第三者に声を掛ける。

 血が凍りつくのがわかる。確実に、今ので心臓を抉られていた。あまりにも自然な動作の殺人に血が操作できない。首に冷たい息吹でも向けられたようだった。

「申し訳ないが前に出てくれないか?」

「殺す気か?」

「殺す気があれば、君は既に死んでいる。大人しく従う気はないか?化け物君?」

 俺が何か答える前に、コートが近づいてくる。そして、心臓に手付けくる。

 身体中が冷える。まるで反応出来なかった。死の恐怖が、身体中を縛っている。

「—―」

「そうか。どうやら、認められたようだぞ」

 心臓に付けられた手を離される。そして、手を出される。

「こちらの挨拶だ。受けてくれないか?」

「‥‥」

 何が起こっているのかわからない。だが、無意識に手を出してしまう。

 握ってくる手は、冷たかった。血の気が通っている気がしない。

「君には感謝しよう。いい刺激と言葉を貰った。残念だが、目的は果たせてしまったので、私達はここで失礼するよ。—――まさか、腕どころか宝石一つ見つからないとは。さて、どう報告したものか」

 ふと、顔を上げると灰色の紳士の後ろに男性が立っていた。逃げ去ったエージェントじゃない。綺麗な逆三角形の均等が取れた身体を持った人間。くすんだ金髪と日本人では出せない濃いブラウンの瞳だった。

「では、失礼するよ。あの愚か者の処分は任せてもらう。また会おう」

 恐らくあの男性がエクソシスト。祓魔師。持っている空気が知っている人間のどれとも当てはまらない。総帥にもドルイダスとも違う。

 祓魔師の人間に連れられて灰色の紳士が背を向けて去っていく。だが、

「‥‥‥‥お前は行かないのか?」

「‥‥‥‥」

 未だに手を握っているコートは、何も言わない。背格好は俺よりも少し上、なのに手が男性のそれとは違う。もっと細い。なのに、籠められる力が、女性でもない。

「満足するまで、そのままにしてやってくれ」

 それだけ言って、二人は回廊の外へと出て行ってしまった。

 なのに、やはり動かない。恐怖が麻痺してしまった。その上、このフードが腹立たしくて仕方ない。

「‥‥あんたも、祓魔師なのか?」

「‥‥」

「日本語、わからないか?」

「‥‥‥‥」

「なら、聞き流していい」

 これも向こうの文化なのか?満足するまで、とは、一体どれほどだろうか。血の気を感じないと思っていた手が俺の体温で温められていくのがわかる。

 生ぬるさに、一抹の不快感を感じるが、引き抜く事が出来ない。

「なぁ、バチカンって、どんな所だ?」

「‥‥‥‥故郷」

「住んでるのか?」

「住める」

 バチカンに住める人間は、せいぜいが600人前後だと聞いている。その中の一人だと思うと、特別な階級の人間なのだと判断できた。

 こいつは、術者だった。頭に直接言葉を伝えてくる。

「あなたは」

「俺?オーダー街」

「どんな所?」

「言うよりも、行った方が早い。頼めば、誰でも入れる」

「‥‥」

 怒らせてしまったか。だが、言葉で説明するには、少し難しい。一行政や省庁が取り仕切っている街など、理解し難いだろう。百聞は一見に如かず、行った方が早い。

「核とか、持ってなければ、誰でも入れる」

「—―私には難しいかも、しれない」

「そうか‥‥大変そうだな」

「—――そう、大変だと‥‥思う」

 冗談で言った言葉に、本気で返されると。言葉が続かない。だが、そろそろ、

「なぁ。まだ終わらないのか?」

「‥‥‥‥」

「俺の血を理解しようとするなら、やめとけ。円卓にかけられて、殺されるぞ」

「—―気付いて?」

「俺の血は特別だからな。バチカンに言われたなら、やめろ」

 ようやく手を離した人間らしき何かは、自分の腕を抱いた。

「‥‥理解できなかった」

「無駄な事をしてるみたいだな。バチカンは」

 少し挑発的な言葉を使ってみるが、気にした様子もない。

 コートの傍を通って、回廊から出ようとするが、再度、頭に投げられる。

「血が直接欲しい」

「それは許せません」

 コートが怯えたように、身をすくめた。あの方だった。

「聞いた通りだ。俺の血は、あの方の物」

 





「お疲れ様です。ふふ‥‥」

 今回は、単純な殺し合いではなかったから、だいぶ気を使った。という事で、遠慮なしに仮面の方へ甘える為、無言でベットに連れて行き、胸の上で休ませてもらう。

「今日はいつも以上に動物のようですね。理性はどこに捨ててきましたか?」

「そんなもの元々持ってません」

「あは!そうでしたね。はい、それでこそ私の星です」

 楽しそうに髪を撫でてくれる。

「また助けて貰いましたね」

「私が使ったのは、言葉だけです」

 少し疲れたと言って、仮眠を取らせてもらう事にした。報告も兼ねて。

「血を使いましたが、あれで正しかったですか?」

「勿論。ふふ‥‥まさか、直接血を撃ち込むなんて‥‥あはははは!!」

 突然に、大声で笑われたので、胸と肺が揺れてしまい、バランスが取れなくなる。

 そのまま仮面の方から落下して、ベルベットに受け止められる。

「ふふ‥‥ごめんなさい。でも、まさか――あんな事をするだなんて。ただの支配層にとって、あんなにも恐ろしい事はないでしょうね。全く、楽しくて仕方ありません」

「なにか、まずい事を‥‥?」

 恐ろしくなり、横になりながら抱いてくれている仮面の方の身体に顔をうずめる。

「まさか!あんな小物、放っておいていいのですよ。私にとっても、あなたにとっても、些末な事であるのは、変わりませんから。‥‥ふふ、何を心配する必要がありましたかね。最初から、血を塗ればよかったのに。私も、残酷さでは、あなたには届きませんね」

 よくわからないが、とにかく褒めて下さっているのはわかった。

「しかも、なかなか面白いものを拾いましたね」

 あの剣と弓が揃った武器の事だろうか。他人からみれば、完全に盗んだ訳で、あれもイミナさんに没収されてしまった。

「やっぱり、あれも危険な物ですか?」

「そうですね‥‥あなた以外では、使えないでしょうね。ふふ‥‥使えないから、あそこでホコリを被っていたのですけどね。—―あなたの言う通り、危険な代物です。あまり他人に触れさせないように」

 あの腕のような代物かと思ったが、それよりはマシらしい。気になるが、手元にないのだから、調べようがない。それよりも、気になる事がある。

「‥‥ツグミは、その」

「直接聞いて下さい♪女性の肌に、傷をつけるなんて、怒られてもしかありませんよ」

 つまりは怒っているという事か。—―仕方ない。差し入れに、気合いを入れるか。

「ふふ‥‥しかし、いつかはおふたりとも血を混ぜる事になると思いましたが、ふたり同時にだなんて―――これで、一体何人の人間や小物たちが嘆くでしょう」

 俺のやった事がそんなに楽しいのか、普段以上に強く抱きしめてくれる。血を感じさせてくれる。

「『究極の人』でしたね‥‥なんで、二人が」

 元からそうだったのか、それとも幼少期に俺と一緒にいたせいか。どちらにしても、もうどうでもいいではある。もう二人の血は、俺が上書きした。

「運命とは不思議なものですね。偶然であれ、必然であれ、あなた方三人が一堂に会してるなんて、ますます、あなたが愛おしくなりました。磨けば、磨くほど、あなたは輝いてくれる。ふふ‥‥今日は、どう磨きましょうか?」

 ぞくりとした。首筋を撫でられる感覚は、新鮮だった。

「あ、髪に触るなんて」

 普段まとめている髪を、隙をついて解いてみた。

 女性の髪とは魔性だった。首筋を見せるようにまとめいた髪が、横になっているにもかかわらず、背中の半分ほどまで達する。そして、それが水紋のように、星が瞬く天井のように輝いている。

「ネガイさんとマトイさんにもしていましたが、髪が好きなのですか?」

「‥‥そうかもしれません」

 差し出された髪を撫でてみる。枝毛や取っ掛かりなど一切ない、永久に触っていられそうな気分になってくる。改めて驚いた、髪の一本一本まで、輝いている。

「ふふ‥‥おもちゃにされている気分です」

 怒られると思って、慌てて手を離す。

「もういいんですか?構いませんよ」

「いえ‥‥もう大丈夫です」

「いい判断です。今日、ずっと私の髪で遊んでいたら――ふふ、その時に考えましょう」

 自分ではなく、自分の髪に夢中だった俺が、内心不服だったようだ。

 髪を頭にもう一度まとめた仮面の方は、両手で背中を抱きしめてくれる。それに応える為、抱き合ってから、耳に吸い付く。

「くすぐったいですね。今日は、いたずらっ子の気分ですか?」

 しばらく、耳を晒してくれるので、遠慮なく耳に唾液を絡ませる。

「美味しい‥‥」

「初めて言われました。私の身体を味わうなんて、あなたが始めてですよ。では、次は、私の番ですね」

 吸い付くではない、食いちぎられた。酷い耳鳴りがする。

「痛かったですか?でも、ほら」

 無くなった耳元に、息を吹きかけた瞬間、血が沸騰するように熱くなる。仮面の方は、そんな大部分がなくなった耳をもう一度口に含み、口の中で造り直してくれる。

「さぁ、治りましたよ」

 元通りになった耳を、舌で教えてくれる。

「次はどうしましょうか?」

 言うまでもない。耳を口にしながら、触っている部分がある。心臓に指で跡をつけてくる。

「そこは、もう少し‥‥」

「もう少し?」

 舌なめずりが聞こえる。耳たぶを舌で撫でてくる。口から零れた唾液が顔をつたってくる。甘い香りが鼻に届く。甘い味を舌で舐めとる。

「強く」

 耳から口に舌が移動した瞬間、胸骨ごと握り潰される。そのまま、血管を引きずりだして潰した心臓を掲げて、未だに繋がっている血管を、力任せに引きちぎり、完全に身体から分離する。

「あ、今一度死にましたね?仕方ないですね、特別です」

 穴が開いた胸に、一条の光が天井から落ちてくる。落ちてきた星が、胸を埋める。

「‥‥俺」

「折角食べるのですから、新鮮さが必要です。そのまま待っていて下さい」

 潰されたもう動かない心臓から滴る血を飲み干し、心臓だったものを丸呑みにする。何度も咀嚼して、口元に残った鮮血を舌で舐めとる。

「うん♪美味しい‥‥やっぱり、私は真っ赤な血が好きです。もしかして私の為に、美味しくなってくれてるんですか?」

「—―かも、しれません」

「流石私の宝石です。やはり、そうでしたか」

 俺を美味しいと言ったのは、シズクもだった。—―俺が美味しい理由、それに思い当たる節があった。

「俺の中には、沢山の血が混ざっています。それが」

「ふふ‥‥そうかもしれません。そうですね、これは、少女たちの味かもしれません」

 オークションに関わっていた男達と同じだった。美しく、瑞々しい少女たちは、誰もが求めている。愛でる為、遊ぶ為、苦しめる為。これらは全て、味わう事。

「そう思うと、もしかしたら、私はあなたから恋人達を奪っているのかもしれません。怒りますか?」

「—―少し、嫉妬をしますね」

「嫉妬ですか?」

「俺を味わって欲しいのに‥‥」

 寝返りを打って、仮面の方から離れる。

「ご、ごめんなさい!!そんなつもりでは!?」

「いいですよー俺よりも、女の子の方が美味しいですよねー」

 ツグミの気分がわかった気がする。確かに、これは、楽しくない。

「あなたが一番美味しいですから!!」

「‥‥美味しいって言ったの、俺以外の血が混じってからですよね」

「そ、それはそうかもですけど‥‥でも!!あなただから、食べたいのであって!」

 ここまで慌てる仮面の方も珍しい。けれど、少しだけ不満になった俺は胸の中を晒したまま、仮面の方から離れる。だが、後ろから抱きつかれて、そのまま倒される。

「ごめんなさいごめんなさい!!怒らないで下さい!!せめて、今日は食べさせて!!」

 この方らしいと言えばらしいが、本能の赴くままに俺の血を求めているのが、言葉の端々から受け取れる。—―俺も人の事を言えないか。

「わかりました。今日は許します」

「よかった‥‥」

 血の香りがする大きなため息を、俺の肩に頭を乗せたまま吐いてくる。

 仕方ないと思い、肩に仮面の方を乗せたままで、ベット中央まで這いずる。

「まさか私が許しを請うだなんて――今日は始めてが沢山です」

「言いながら、‥‥首を噛みますか?」

「だって――美味しくて‥‥」

 頭が寒くなってきた。代わりの心臓は鼓動しているが、流す血が少なくて、言うことを聞いてくれない。

「ふふ‥‥やっと大人しくなりましたね!逃がしませんから、覚悟して下さい!!」

 一度俺から離れた仮面の方は、ドレスを脱ぎ去って、背中に跨ってくる。

「私を心配させるだなんて、なんて罪深い」

 背中から胸にある宝石を撫でてくる。背中に唾液がかかるのがわかる。

「こんな気持ちにさせた罰です。今日は、一度死んだら、それで終わりです」 

 首を捻って、真っ赤に焼き付くような色をした眼球を見つめる。

 自分も素直にはなれなかった。贈り物一つ渡せない。

「実は」

「今日は食べられる気分じゃないですか?」

「贈り物があります」

 そう言った途端、首を捻り、目から顔へと血の行方が変わった。

「私にですか!?それは、それの‥‥なんですか!?」

「直接渡させてもらって、いいですか?」

「勿論です!」

 背中から降りた仮面の方は手を差し出し、ベットの上で正座でもするように待ち望んでいた。

 先ほどからコロコロと変わる表情の煌びやかさ、あどけなさに愛嬌を感じ、尻尾でも有ればくねらせているだろうと想像する。妖艶な表情から一変し、プレゼントを待ち望む姿は仔猫を思い出した。

「久しぶりの贈り物です。一体それは?」

 少しばかり誇らしく胸元から取り出してしまう。こちらに来る時の服装は、眠る時に準ずる。よって、タキシードのポケットに入れていたが、どうやら成功したらしい—―弓剣と共に見つけた立体的なひし形オニキスを。正確には金でできた枠の中にオニキスが嵌められている物体。まさしく宝だ。

「—―これは」

 渡した宝石を見つめる仮面の方は、瞳を大きく開いた。

「すみません。目に付いたので、持ってきてしまいました」

 大方盗品だろうと思い、咄嗟に奪ってしまった。しかも剣と一緒に埃を被っていたので、問題ないと思ったが、よくよく考えれば危険な行為をしてしまったかもしれない。

「あの‥‥どうですか?」

「ふふふ‥‥そう、そうですか。これを私に。ふふふっ‥‥」

「—―───怒ってますか?」

 この方は、非人道的な行為をとがめる程、人間らしくないと思っていたが、違っただろうか。

「いいえ。気に入りました。まさか――──いいえ、そうですね。あの弓があったからこそ、これに気付かなかったのですね。そうですか、あの腕を求めた理由は、こういう事ですか。人間も面白い事を考えますね。久しぶりに、私らしく振る舞うべきでしょうか?」

 不適、というよりも不穏な笑みを浮かべて宝石を手のひらに乗せる。

 その時、天井がひと際輝き、手のひらのオニキスが天井へとひとりでに登っていく。その光景は、非現実的だった。だが、こうやってソラを作っていったのかと思うと、どこか歴史を感じさせてきた。一つ一つ丁寧に、この方の手で選ばれた宝石のみが星となった。そう考えるとロマンがある光景だ。

「ありがとうございます。やっぱり、あなたの目は狂ってませんね。いえ、むしろ狂ってなければあれを見つけ出すなんてこと、不可能だったかもしれませんね」

「えっと、褒めて?」

「はい、勿論褒めてますとも。あなたの事、ますます好きになりました」

 目を細めて、首を少し傾けてくれる。その仕草が、愛らしくて。

 そのまま、もう一度仮面の方に倒れ込んでしまった。

「意地悪なあなた。あんな物を受け取ってしまっては、なんでも許してあげたくなるに決まってます。—――今日は、あなたが私を食べて下さい。満たされるまで、いくらでも――♪」

 大人しくその言葉に従う事にした。胸から溢れる血を塗りつけて、口に入り込む。本当に今日は、俺の求めるままに身体を預けてくれる。

 それが、また、可愛らしくて、いくらでも身体を捧げる事ができた。




「マズイんじゃないか?」

 背後のツグミが無言で首を振る。背中に押し付けられたヘルメットが左右に振られるので悟った。

 女子校の制服のままでは危険との事なので、中にスパッツを履いているらしい。何故、わざわざ報告するのかは預かり知らぬが、サーキット場での経験が活きており、多少も物怖じせず座席に座れている。

「よく知らないけど結構厳しいんだろう。オーダーの、しかもバイクで送るなんて後々怒られないか?」

「どうせ来年にはオーダーにいるんだから。気にした所で、仕方ないよね?」

 有無も言わさぬ圧もさる事ながら、周りの生徒達からの不審な目も内臓に直接ダメージを与えた。ここ一帯はツグミが通っている学校の敷地周辺であり、歩いている人間の大半がツグミ同様学校の制服を纏っている。その上、大人も学校関係者であるのは間違いなく、正直居心地が悪い。通報でもされかねない。

「どこまで行けばいいんだ?」

 アジサイは既に消え始め、木々の青々とした緑が通りになびいている。

 長い壁だ。どこまでも続く壁は、全てツグミの通っている学校の敷地であった。

「校門まで。因みに本気です。そう、本気も本気!折角ですから、みんなに勘違いさせます!!」

 少し前まで入院していた我がお姫様はシズクとの別れをオーダー街で済ませ、俺に馬車になれと指名した。どう知り合ったのかは知らないが、これは正式な法務科のオーダーであると、マトイからも指定される始末。よって自分には拒否権など無く、真に仕事の最後と相なった。

「ほら、見られてるし、スマホでも撮られてる」

 楽しげに微笑むツグミが周りを説明する。だが、今の自分はヘルメットを被っているので顔を見られる事はないと高を括る。しかし不思議だ。ここ最近、外に出る度に写真を勝手に取られている。あまり、気分のいいものではなく、法務科としての活動に障害が生じるかもしれないと不安でもあった。

「卒業まで、本当に大丈夫なのか?」

「勿論。この学校の警備はオーダーが携わってる。それに何かあったら来てくれる、そう、だよね‥‥?」

「何かあったら呼べよ。完全武装で来るから」

 腰の武具を揺らして答えると、少し余裕が生まれたツグミは肘で銃に触れた。セーフティーがかかっているから別に構わないが、少し前まで、触る事もしなかった武器への距離感が近すぎる気がする。

「人の物に触るなら、許可を得てからな」

「独占欲みたいな?」

「それで怪我でもされたら持ち主の所為になる。責任を取れるようになってから触るように。いいか?」

「大人っぽいね。‥‥いいかも」

 本人は気にしていないようだが、ヘルメットを背中に押し付けられると割と痛い。

 僅かに天を仰ぎ見れば日光は苛烈が、吹き付ける風のお陰で同時に涼しさを覚える。そもそもの風の温度よりも、受ける時の速度によって体感温度は大きく変わる。風速1mで体感として1度変わると言われるのが、よくわかる。────流れる光景へ視線を向ければわかる事もある。完全に人間しかいない。

「みんな武器とか持たなくて、怖くないのかな?」

「下手に持つよりもいい。弱い武器持って調子に乗ると、本当の強者に負ける。わかるか?」

「‥‥わかる気がする。付け焼き刃で武器の扱いを習っても、結局役に立たなかったから‥‥」

「‥‥ごめんな」

「いいの。怪我も治ったし。怖くなんてなかった」

 役に立たなかったのは俺の方だった。結局、三度も間に合わなかった。

 付け焼き刃の守りたいなんて覚悟、なんの意味もなかった。何度もツグミを傷つけた。やはり、俺は人間ではなかった。ツグミへの、人間への理解が足りなかった。

「私を関わらせた事、後悔してる?」

 答える事が出来ない。校門が目前に迫ってきた。

「答えて」

「—―───次は、間に合わせてみせる」

「約束してくれる?」

 赤いレンガと鋼鉄に造り出された巨大な門、それは守られるべき淑女に開かれた学舎への入り口だった。可憐に足取り軽く、同級生達と進み行く彼女らは硝煙と流血には無縁な生活を送る。そう然るべきだ、だって─────オーダーは見捨てられ、行き場を失った者達が最後に送られる墓場なのだ。

 自分はそんな世界に、ツグミを引き摺り下ろしてしまった。目が合ったから、美しかったから、欲しくなったから。そして恋をしてしまったから。そんな世俗的で陳腐で独占欲に塗れた感情にツグミも応えてしまった。ブレーキに力を与え、ゴム製のタイヤと地面との間に摩擦を起こす。

 停止したラムレイの背後、守られるべきツグミは降りてはくれなかった。ヘルメットすらも。

「今度こそ、約束果たしてくれるよね?顔を見せて」

 何事かと制服の少女達が取り囲む。監視カメラまでもが設置されている状況、警備員たるオーダーがツグミを迎える為に待ち構える。そんな衆人環視の最中、人々の視線など意にも返さないツグミはようやくヘルメットを外すも、背中からは降りてくれなかった。

「ヒー、私は決めたよ。オーダーに行くって。また私を一人で思い上がらせる気?」

 赤い橙色の瞳に射止められる。それは余りにも残酷な行為だった、心から滲み出る痛みに身体は痺れ、鋭い切っ先すらも生温い凶悪な言葉を首元へ突き出す。────許された言葉は知れていた。

 応えるべく、自分もヘルメットを外した。周りから歓声など聞こえない。固唾を飲んで待っている。

「また私を待たせる気?」

「—―──いや。待たせない。俺も決めた。必ず迎えに行く。だから、」

「だから?」

 ラムレイから降りたツグミの目は無感情だった。だけど、確かに見上げる顔は自分を待っていた。

「ツグミも、腕を磨いてくれ。ただ待つんじゃない。俺を迎えてくれ」

 その時、堰を切ったかのような歓声が上がった。ツグミに口を奪われた。

「これで退学処分でもされたら、ヒーの所為だから。私を迎えに来てね」

 それだけ言うと、ツグミは校内へと駆けていってしまう。周りからツグミへ群がるように、少女たちが声をかけていくのが見て取れる。そして、俺も逃げる理由ができた。校門前にいた警備員が、無線機で何かを話し始めた上、俺にも少女達が声をかけ始めた。

「あの!!会長とは、一体!?」

「前にツグミさんを口説きに来た方ですよね!?ついにそういう関係に!!」

 面倒な上、警備員が方々から走ってくるので、ラムレイに跨って、化け物は逃げる事にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る