7巻 改訂版 無貌の愚者

「どうでした?」

「何が?」

 サイナとふたり、モーターホームにて食事を取っていた。お互い、ベーコンと野菜を挟んだサンドイッチにコーヒー。簡素だろうか?早朝の重い胃には相応しかった。

「ネガイさんとの初仕事です」

「どうだったって‥‥、サイナもいただろう。見ての通りだよ」

「いや〜、あなたとお付き合いしていると、退屈しませんね♪」

「褒め言葉だよな?‥‥ああ‥‥眠い」

 依頼報告書で徹夜した所為だ。車内での仮眠だけでは足りなかった。

 ネガイの初めての外での仕事。本当なら今日作成しても良かったが、どうしても今日は開けておきたかった。

「なんで不良があんなの持ってるんだよ。3Dプリントだって、もっとポップな見た目だろう‥‥」

「前にあなたが追い出した不良の方々、かなりの勢力を持ったまま解散したせいで、今は東京中の不良やギャング達があちこちで抗争―――群雄割拠な時代に突入しているらしいですよ。でも、まさかあんな精巧な拳銃を自己で製造しているとは」

 永久凍土が溶けていくみたいだ。溶けた凍土から動物の死骸や温室効果ガスが漏れ出すように。

 作られていたのはニューナンブ。警官の標準装備として数えられているリボルバー拳銃。の、コピー。

「あの工場は法務科が閉鎖したそうですよ」

「当然だろう。もし誰かが忍び込んだら本当に殺人が起こる。‥‥まぁ、どうせ殺し合うのは似た物同士だろうけど」

 既に閉鎖されていた工場を、個人が買い上げて夜な夜な何かを作っているから見てきてくれ。そして、その警備に若い男達がいて怖い。

 そんな依頼表を見て、俺とネガイに、サイナ、イサラの4人で工場の確認をしに行ったら、案の定、拳銃の密造に密売の現場だった。

「拳銃一つ作るだけなら数千円程度で済む。中には数百円でも。あの様子なら既に数十丁は売られてる」

「あの見た目なら警察の横流し、と言っても信用できます。考えますね、精巧な見た目なら嘘をついてもバレないですか」

「まだ酒でも密造してる方がマシだ。そのまま孤島の牢屋にでもブチ込めばいい。いい食事付きで」

「後は、サメとかワニが必要ですね♪勿論嘘の」

 あいつらは―――あまりにも大規模過ぎた。よく今までバレなかったと感心してしまう。あれだけの規模ならば、資金源も近く割れるだろう。ただ、

「資金源の捜査は査問学科預かりか‥‥」

 サンドを噛みちぎり、コーヒーで流し込む。ネガイとミトリの料理で舌が肥えてしまった。と行くラーメンも塩分が濃いと思ったが、このサンドもかなり塩が濃い。なによりも、コーヒーが甘い。

「悪いな。昨日も忙しかったのに、付き合ってもらって」

「いいえ、私はあなたも相棒ですから。マトイさんから指名でもありましたし。膝はいいですか?」

「後でな。今サイナに甘えたら、本当に寝る。‥‥やっぱり、少しだけ」

 同じソファーに座っているサイナの膝に頭を乗せる。スカートをたくし上げて自身の腿を勧めてくる仕草には、我慢出来なかった。

「‥‥頭撫でて」

「はいは〜い♪目はいいですか?」

「‥‥そこまですると‥‥もう‥‥寝る‥‥」

「頑張って起きていて下さい。今日は迎えなんですから」

 今待っている場所は法務科本部の前。つまりはの迎えに訪れていた―――。

「マトイさんが連れて来られるんですよね?」

「ああ、その筈。本当なら正式な護送車で寮まで戻る手筈だったけど、俺に気を使ってくれたな‥‥」

 マトイと共に法務科所属になっている自分、またサイナもそれに類する扱いだった。法務科3人での移動という事で、今回は特例となった。

「イサラさんは無理って言ってました。今は私の工房で寝てますよ」

「‥‥そうか」

 顔を見せれない訳じゃないだろうが、色々と複雑なのだろう。カレンを予定だったなんて知らなかったのだから。

「ソソギには、少し説教が必要だ‥‥」

 ソソギとカレンとの間で、どのような話合いがあったのか、俺にはわからない。

 どちらかが死なないと、もう主には会えない。それはどうしよもない事実なのだろう。

 決して他人事とは思えない。ネガイに会ってなかったら、自分もそうなっていたかもしれない。

「‥‥、サイナ」

「はい、ここにいますよ」

 考えが伝わり、無言で目に手を当てた。

「正直になりましたね。目はどうでした?」

「悪くなかった。でも、‥‥もう少し待っててくれ。すぐにを超える」

 星を使わない俺ではマトイの腕を一本も避けられない。9mm弾は避ける事が出来たが――――それ以上は多分避けられない。

「あんまり、活躍出来なかった‥‥」

「そんな事ないです。あなたがあそこにいた不良や職員達を全員引きつけたから、2人が背後を突けたんですよ。私の方こそ、車からカメラで工場の中を確認する事しかできませんでした。大丈夫、自信を持って下さい」

 あそこにはもう既にトラックに大量の銃器が載せられていた。時間が無いと判断し、自分が工場の入り口でトラックを足止め。

 背後からネガイとイサラが突入。時間が無いにしても、もう少しまともな作戦があったに違いない。

「あの作戦だって、あなたがあの場で思いついたんですよ。それを実行して、成功した。非の付け所の無い作戦でした」

「‥‥良かった」

「はい、あなたは少しずつ、成長してます」

 そう言いながら車両の主は、ボタンを操作し車内のカーテンを全て閉ざした。光が閉ざされた暗い車の中は一見不気味とも映るが、自分と彼女から見れば全く別の雰囲気を醸し出される。頭を預けているサイナの腿が熱を帯びる、温かな手先が緊張と期待で冷たく震えていく。

「ご褒美、欲しいですか?」

「‥‥欲しい」

 仰向けに答えた時、サイナの口が近付いた。甘い吐息を迎える為、そして唾液が滴り落ちる舌を出迎える為、上半身を浮き上げながら舌先を伸ばす。そして琥珀色の瞳を瞑りながら、しかして完全に琥珀が消え去る寸前に車体が叩かれてしまった。その瞬間サイナの身体は跳ね上がり、胸が顔にバウンドする。強烈な一撃に目が冴え、急激に身体が覚醒する。

「入ってもいいですか?」

「あ!は〜い。どうぞー♪」

 サイナ共々起き上がり緊急事態を想定して取り決めていた形に、ソファーの両端へと逃れる。

「‥‥何してたの?」

「朝食で〜す‥‥」

 この答えに、さほど興味はないと言いたげないソソギ、次いでカレン。最後にマトイが乗り込んだ。車両側面へと備えられている三人掛けのソファーだが、総計五人は流石に窮屈だとサイナは急いで運転席に戻って行った。その背中を追いかけてマトイが一言告げる。

「私は助手席に行きますね」

「大丈夫か?流星の使徒との傷、まだ‥‥」

「もう平気ですよ。今更車椅子も使いませんし、でもありがとう。気にしてくれて」

 助手席に行くにはレバー類を超えなければならない。天井はそれなりにあるが、それでも身体中の筋肉を著しく使わないと跨げない。けれどそんな心配など無用と前髪を揺らして笑いかけるマトイに、また見惚れてしまった。出迎える様に差し伸ばされたサイナの手を取って、助手席に納まった。そこでようやく、自分は彼女達に話し掛けることが出来た。

「大丈夫だったか、2人とも」

「ええ、大丈夫」

「‥‥はい」

 ソファーの真ん中にソソギが座り、両端を俺とカレンが埋める形に成っている後部座席にて、自分は出来る限りソソギに触れないようにと端によるが、ソソギはむしろ肩を寄せ付けていた。

「あ、適当に食べていいぞ」

 いつも床に隠している机の上には、ボトルコーヒーやサンドイッチの類いが幾つか置いてあった。少し買い過ぎてしまったな、と思いながら勧めるとふたりはいそいそと手に取った。

「ありがとう」

「‥‥頂きます」

 そして、ふたりの食事がひと段落つくのを見計らって、口に出す事にした。

「—―――人と同じように、扱われたか‥‥?」

 人間のふりをして来たヒトガタではない、ヒトガタの家族として聞いてみた。

「平気だった。しっかりとプライバシーもあって、食事も出た。栄養バランスが取れた良い食事を貰えた。運動だって出来た――――外の情報だってニュースと新聞で伝えてくれた」

「そうか‥‥」

 ソソギは、サンドイッチを食べる手を止めて、こちらへと視線を向ける。

「そう、平気だった。ちゃんと人と同じ扱いをしてくれた。だけど、今日の朝食は出なかった。ふふ、あなたが会いたがってるって言われたから、早く釈放されたの。嬉しい?」

「嬉しいに決まってる。‥‥銃はどうなった?」

「没収された」

 思い入れがある筈の銃を奪われたのに、もう興味がないと言わんばかりにコーヒーに手を伸ばした。次の言葉を湿らせる為ではない、ましてや呑み込む為でもなかった。

「あれはカレンと一緒に作ったんだろう?良かったのか」

「捨てるべき物。それだけ」

 ほのかにコーヒーの香る息を放ちながら上を見る。鋭い流し目が、美しかった。

「カレン、怪我は平気か?」

「うん。傷は特別に―――見て」

 カレンが手の平を開いて見せてくれた。驚いた。切り傷が無くなっている。マトイの足のように、その痕跡すら消え去っていた。

「本当に特例の特別です。法務科のお一人にお願いしました。カレンさんが特別捜査学科でなかったら、到底許されない越権行為でした」

 助手席に行く前に持っていったコーヒーを飲みながら、そう伝えた。

 もしかしたら、かなり際どい事をしてくれたのかもしれない。被疑者の傷を治すのならいざ知らず、その後の生の為にもと、気を使った処置なんて―――。

「出血も大丈夫。あなたが診てくれたから、平気です。元から傷も深くなかったから、すぐ元に戻れると思う。‥‥少し声を出したい」

 軽く喉に触れながら響かせるように声を発した。

「そうか、特別捜査学科だと声楽も授業のひとつだったな。歌が得意なのか?」

「得意って程じゃない、かな?ただ好きなだけ。早く戻って変声とか発声の練習とかしないと忘れてしまいます。ソソギの銃と同じで私にとっての武器が声だから。もっと磨きたい」

 カレンとは喧嘩―――否、俺自身カレンを刺そうとしてしまった為、どう話すべきか慣れない脳の部位を絞っていたが、心配は取り越し苦労だった。

 自然と目を合わせて、話せていた。

 安堵して改めてカレンを見つめると、首を傾げ、肩を縮こめる等の仕草に可愛らしさを感じた。そして、「これも学科で習った事です。私を家族と思って油断しましたね?」と捕食者の面持ちを浮かべる姿に、今までにいないタイプだと思った。オーダーの男ならば、誰もが恐れる特別捜査学科を体現した笑顔―――この微笑みで、何人を堕としてきたのか。堕ちていった男達に同情してしまう。

 バックミラー越しのマトイの視線を感じなければ、危なかったかもしれない。

「聞いていいですか?」

 普段俺がよく使う言葉で、カレンが聞いてきた。

「どうして私に落ちないんですか?大体の男性はこうすれば私から視線を外せなくなるのに――――どうして私の思い通りにならないの?」

 残念というよりも、冷静に分析しているようだった。こうやって自分の武器のレパートリーを増やしていくのかと思い知らされる。

 大半の男性の好む顔は、誰が見ても美人と言える顔。子孫を残すという命題にとって、誰が見ても美人の女性と子を作れることはそれだけ、今後の子孫にアドバンテージを残せるからだ。その子も高い確率で誰が見ても美人の可能性がある以上、そういった本能や遺伝子に刻まれたルールは綿々と続いていく。

「どうしてなんでって、言われても」

 返答に困っていると、マトイから助け舟と共にバックミラー越しの笑顔が届いた。

「気長に持って下さい。私もなかなか私に落ちない彼には困ったものです。どれだけ時間と手間をかけて落としてきたか。いつかお教えしますよ」

 そんな落とされた本人でも知り得ない情報を掴んでいた恋人に慄いていると、ソソギが「視線‥‥」と呟いた。惚けている自分は、マトイの顔から目を離せていなかった。

「マトイさんみたいな、大人の雰囲気が好き?そうなんですね。参考にします」

 カレンが納得したように、サンドイッチに戻っていった。

「カレンには気をつけて」

「ああ、気をつける」

 今は、まだカレンに堕ちていないかもしれないが、両手でコーヒーを飲んでいる姿に見惚れてしまっている自分がいる。小動物的な仕草に目を盗まれているとわかった瞬間、振り向かれた―――震えそうだった。

 軽い微笑みだけで、心臓を貫かれた。

「カレンは、一度決めたらやりきる子だから。今のターゲットはあなたみたい」

 よくある事なのか、楽し気に囁いてくる。

 その囁きが聞こえていない筈がないというのに、先ほどの視線をカレンはもう向けてこない。これが追い掛けたくなる衝動なのかと、得心が入った。

 この手は、前に使われた事があったから。

「マトイ、助かったよ‥‥」

 前の座席に向けて、声を届かせる。3人はなんの事かわからず、頭に疑問符が見えた。

「良い予習になりましたか?」

「それに、いい教訓にもなった。何か食べる?」

「なら、そこの果物のサンドを」

 この中で1番高いフルーツサンドを一目で見抜いていたらしい。

「それで、、そろそろ話して欲しいんだけど?」

 助手席に指定されたフルーツサンドを持って向かう。サイナにもコーヒーを渡す為に。

「なんのことですか?」

 フルーツサンドを受け取ったマトイが、面白そうに笑顔を向けてとぼけている。

 最初の仕事から数えて、もう3ヶ月以上経っている。あの時も最初は俺とサイナ、次にマトイとソソギ。そして最後に―――。

「カレンだろう。あの時、誘拐されていたのは」

「‥‥気付かれてましたか」

「気づいたのは最近だ。少し前まで全く考えもしなかった。‥‥サイナ」

「は〜い♪では指定通りに」

 向かう先はオーダー街から外に出る為にある橋だった。橋のゲートの前に駐車場が用意されており、立地上かつでもあるので、日本の法律とオーダーの法のどちらも手が出しにくい不可侵の領域と言える。

「ネガイとはどうでした?」

「皆んなそれだな。法務科が来たんだから、もう聴いてるだろう?」

 3人であの場の人間を全員拘束。工場で缶詰にして、法務科の到着を待ったのだから、マトイが知らない筈がない。

 けれど振り返って聞いてくるマトイの顔は、友人の心配をする少女の物だった。

「それでも、教えて下さい。彼女の初仕事はどうでした?」

「ネガイは張り切るって感じじゃなかった。俺とかイサラの話を聞いて、現場では大人しく従ってくれたよ。私は経験が殆どないから色々教えて欲しいって―――規模の割に無傷で終わったのはネガイのお陰だ」

 ネガイの特技の一つを初めて知った。縮地のスピードのまま、ほぼ無音で動ける歩法によって銃器密造の写真や売買の現場を押さえられた。

「詳しくは報告書を読んでくれ。間違いなく、今回のエースはネガイだった。俺が保証する」

「良かった。楽しそうでした?」

「‥‥マトイに言われたのを参考って言って―――髪を貶した奴を転がしてた。セオリー通りに膝立ちにして両手を頭の後ろで組ませて、大人しくさせてたら。剃り込みの一人がネガイの髪を貶したんだ」

 涼しい顔で受け取ったネガイが、無言のまま鞘で滅多打ち‥‥傷がつかない程度に遊んでいた。

「俺も止める程じゃないと思ったし、途中でイサラとサイナが止めたから大丈夫だ。まぁ、不完全燃焼で不満そうだったけど」

 あの後のネガイはしばらく不機嫌だったが、やはり女子同士では通じるものがあったらしく、イサラとサイナが全力で鎮めてくれた。

 ネガイとイサラの仲を心配していたが、空振りに終わってよかったと思う。

「それはそれは。私も参加したかったですね」

「私もです。女性の髪を貶すなんて、万死に値します」

 カレンが後ろからマトイに共感した。

 特別捜査学科として、譲れない物があるようだ。

「程々にしろよ」

「程々にって‥‥あの場で1番怖かったのはあなたでしたよ」

「‥‥だけど、俺は何もしてない」

「確かに何もしてなかったみたいですけど―――あの目はやめた方がいいかと。心に傷を負った方々がいましたよ。髪を貶した人と私語を始めた人を連れて行って、」

「すり傷程度もさせてない」

 法務科が到着するまで、あの場はオーダーで自分達が締め付けなければならない。

 私語を始めるひとりが生まれると、それらが伝播、集団心理で強気に―――暴力的に言うとこちらを舐め始める。それは、絶対的に避けなければならなかった。

「だからって、暇潰しに杭でダーツを始めるのはどうかと‥‥。マンターゲットを貫通するレベルの投擲を法務科が来るまで続けて、しかもその杭を拾わせに行かせるなんて‥‥。私は勿論、イサラさんも引いてましたよ。何も言えないレベルで」

「‥‥わかった。今度から程々にするよ」

「そうして下さい。大人しくさせる為に多少の脅しは必要ですけど、何も言えないレベルに追い詰めたら、私達の仕事に差し障ります。あなただって、始末書が増えるのは嫌でしょう?」

 脅した気は無かったが、マトイとサイナに軽く怒られてしまった。どうやら人間はあのレベルで心に傷を負うらしい、覚えておこう。

「その時はマトイに書き方を教わるか」

「はい、引き受けます」

 鏡越しで軽く目を合わせて笑い合っていると、「ネガイさんと、付き合ってるんじゃなかったんですか?」とカレンが背後から口にした。自分はソファーに戻りながら、疑問に答える。

「ああ、そうだけど‥‥」

「なんか、マトイさんともそういう関係みたい。さっきもサイナさんと遊んでたし」

「見られてましたか‥‥」

 見られていないと確信していた自分はうめき、サイナは嘆くように声を絞り出した。

「怒られないんですか?」

 この場面だけ切り取れば、自分はカレンに叱られているのは間違いない。けれども、ソソギを挟んで向こう岸から問い正すカレンの目は、ただただ純粋な気持ちで疑問を投げかけているのだと訴えかけている。目を広く開きながらする、その顔は無垢な少女そのものであり、それだけに気まずかった。

「ソソギも最近はあなたの事ばかりだし。程々にしては?」

「カレン、彼はそういうヒトガタだから。私達だけの物にならないの」

「別に私は‥‥」

 ソソギがカレンの頭を撫でて笑いかける。この光景は恋人と言うよりも姉妹のそれだと気付く。

「この人は私達と同じヒトガタ。けれど別個体である以上、全ては知り得ない。サイナ、少しいい?」

「え?あ、はい、なんでしょうか?」

 ソソギがサイナに話しかけた。

 車内に緊張感が走った。何故ならばサイナの脱税を見逃し、次は無いと脅した本人だったから。

「近く、銃器を新調したいの。後ででいいから話を聞いて貰える?」

「勿論です♪お任せください♪だけど―――お客様をお待たせなんてしませ~ん。ヒジリさん、タブレットのお渡しを」

「おう」

 一度座ってソファーから立ち上がって、モーターホームの奥にあるサイナの旅行鞄の中を漁る。「このシルバーでいいのか?前と色が違うけど」と運転席に問うと「はい、それで〜す♪」と持ち前の美声を轟かせて頷いてくれた。

 確認を終えた自分は拾い上げたタブレットを持って隣へ戻る。

「ここが起動ボタンで、ここに検索したい事を入力すると―――」

 使い方をレクチャーしながら、ソソギの姿を眺める。

 あの時は目しか見ていなかったが、だった。ヒトガタは皆こうなのだろうか。カレンも相当だった――――いや、これよりも少ししか変わらないネガイやマトイ、それにサイナが現実離れしているのかもしれない。

「どこ見てるの?」

「‥‥悪い」

 視線で気付かれてしまった。見てないと言うべきなのに、この声と視線に逆らえない。一瞬だけ顔を背けた時————「肩貸して」と肩に顔を乗せられる。

 髪が艶やかで誘われる香りに鼻を荒くしてしまい、軽く笑んだソソギの頭に自然と顔を向けてしまう。

「刃物を見せて、あの肥後守も‥‥捨てたから」

 ふたりで同じ物を持っていると思ったが、送られた時に渡された品だった。

 ソソギが操作しているタブレットの画面に刃物の一覧が映し出される。

 スクロールしていくとピッケルに近い物すら紹介される。誰が買うのだろうか?そう思って眺めていると斧なども売られている。この辺は初めて見た気がする。

「へぇ、面白い。サイナ、これを鋳造してるのは」

「ええ‥‥皆さんと同じ方です」

 皆さんと同じ、そのをここの全員が汲み取れた。

「工房を貸してくれたヒトガタか」

「それに、手も貸してくれたのも同じヒトガタ」

 ソソギのカービン銃と、俺の杭。どちらもヒトガタの手で造られ、ヒトガタ同士の殺し合いに使われた―――を経験したふたりにとって、それは日常だったのだろう。

「いい出来だ、ってまた言っておいてくれ。また頼むとも」

「は〜い。きっと喜びますよ♪」

 そう言うとソソギも笑ってくれた。どんなヒトガタなのか、気にならないとは言わないが無為に訊く必要もないとわかっていた。

「これ、欲しいんだけど。どうやって注文するの?」

「あ、なら。ここをタッチして。数を選択して」

 タブレット画面を指差しながらソソギの長い指の行き先を見届ける。初めて使う者は総じて戸惑うサイナとシズクお手製アプリを説明しながら、客人たるソソギに接待を続ける。

「そうそう。そこのカゴのマークにスライドさせて、それで、」

 ここ最近、サイナと仕事をしているせいで何度か接客の真似事をしていた。お陰でこのタブレットの機能も人に教えられる程となった。

 けれど、ついタブレットを操るソソギの指に意識が引かれてしまう。ここまでつぶさに見た事無かったが、やはり美しい。

 指が長くて少し赤い。銀の指輪が良く似合いそうな造形を持っている。

「ふふ、板についてきましたね♪」

 唐突にサイナの声が耳に届いた。

「本当か?」

「そうですよ。いかがですか?将来、私と組んで仕事を続けるのも悪くないって思いませんか?勿論♪マトイさんと法務科に所属しながらですが♪」

 許可を取るように、或いは抜け駆けでもするように隣の法務科の使いの声を掛ける。

「ええ、私も、その将来を目指したい―――初めて見ましたが、本当に手慣れてますね?」

「そうか。マトイには何も売って無かったな。後で」

「はい、後で私にもお願いしますね」

 マトイは何が欲しいのだろうか?そもそもマトイが何かを買う姿さえ見た事をなかった。

「ありがたいですよ♪あなたが接客すると、女性のお客様がなんでも買って頂けるんです♪」

「そうなのか?」

「そうですよ!お陰様でサイナ商事、始まって以来の売り上げを伸ばしています♪」

 心底自分の商品が売れて嬉しいのか、幸せそうにハンドルを撫でながら運転している。

「なんで俺が接待すると売れるんだ?」

「ネガイさんとの一件で、あなたの名前が知られてまして。‥‥まさかの指名なんかも!—――まぁ、指名料を頂いてるんですがね♪」

 幾らも貰っていない当人に対して、そう告げてきた。手が足りないから絶対来て接客をと何度か呼ばれていたが、そのカラクリを見透かした気分だった。

「お代はさっき払いました♪また眠りますか?」

「‥‥頼む」

 サイナに甘えられるなら、それもいいかと納得してしまう。

「私にも見せて下さい」

 気付かなかった。カレンがすぐ近くに立っていた。

「危ないぞ。ソソギの後で見せるから、座った方が」

 息を呑んでしまう。

 膝の上に滑るように乗ってくる、急いでカレンの背中に手を回して身体を固定すると、柔らかい足の付け根に、胸が突き出て―――目をどこに向けてもカレンの魅力から逃れられない。黒いセミロングの髪がカレン自身の肩にかかって、緩やかに扇の形を作っている。

「あんまり驚いた様子ではなさそうだけど―――ふふ、触りたい?」

 最近はネガイやマトイにされているから、確かに多少は耐性があった。

 けれど特別捜査学科のカレンとして、上に座ってくる『魔性の女』にはなんの抵抗も出来ない。心臓の高鳴りが止まらないのに、血の気が引いていく。

 触れたいのに、触れたら壊れてしまいそうな繊細さ、単一の宝石では作り出せない職人のガラス細工の如き輝きがあった。

 カレンが怖い―――こんなにも、簡単に心を掴めてしまうのかと、心臓と背骨が凍り付いていく時間を音として感じている。

 更に、驚いている俺を無視して、カレンが首に手を回してくる。

「目を見て‥‥好きですよね‥‥」

 呼気が顔の撫でていく。息を越えた先には、緑の瞳。

「綺麗だ‥‥」

「良かった。もう飽きたのかと‥‥」

 さっきまで強気だったカレンが、急にしおらしくなってくる。

「落ちて、‥‥私に」

 耳元で囁かれた。さっきまで感じていた足や肩の重みを感じなくなってきた。カレンの色香に脳を麻痺して―――どこまでも落ちて、吸い込まれていく。

「私は本気ですよ‥‥。あなたが欲しい」

「‥‥そうやって、俺で遊ぶのか‥‥」

「遊ばれるの、好きでしょ?」

 マトイを参考にしてきたと、頭のどこかで理解した。少女像を捨てて大人の香りを矛として選び、耳から離れてもう一度目を見せてくる。

 美しかった。鮮やかな血を感じる緑だった。

「まだダメ」

 指で口を止められ、自分から求めていたのだと気付かされた。

「欲しい‥‥」

「私の物になって‥‥」

「そう言えばいいのか‥‥?」

 簡単だった。俺はもう既にネガイとマトイ、あの方の物だ。カレンの物になっても、何も問題は――――問題は―――。

「‥‥眠い‥‥」

「え、あ、待って!?」

 柔らかい。カレンが胸で受け止めてくれた。目も温かくなってきた。

 もう耐えられない。カレンの体温がトドメとなった。

 徹夜の報告書に、ふたりを出迎える為の準備。そして――何から話そうかと怯えていた所為で、体力と精神をすり減らしていた。




「眠い‥‥」

「もう少し頑張って。話を聞くだけでいいので」

「手、置いて‥‥」

「後でね」

 軽く寝たせいで、さっきまでの比でないレベルで眠かった。

 漠然とわかるのは、マトイの膝で横になっている事。頭の頂点と胸の上に手を感じる。温かい体温だけではない、少しだけ冷たい手に意識を手放せなくなっていた。

 完全に眠らせない程度に、起こしておくつもりらしい。

 ぼやける視界の隅に、机の裏が見える。だから、ここはサイナの車のソファーで、マトイと机の間にいるとわかった。

「サイナは‥‥」

「ここにいますよ♪」

 三本目の手で前髪を撫でられる。

「もう少し頑張って下さい。終わったら帰りましょう」

 返事をしようにも空気が声にならず、目も閉じてしまう。もう目を開ける事すら出来なくなっていた――――催眠術でもかけられたかのようだった。

「見ての通りです。彼はあなた達に会う為に必死で報告書を作成していました。彼で遊ぶのは程々に」

「‥‥はい」

「この辺りで留めておきます、私が焚き付けた部分もありますから」

 更にカレンの声も聞こえた。マトイの声色に凄みを感じ、叱られているようだった。疑問に思っているとマトイの手が頭から離れる。机の上の何かを掴んだようだ。

「話はさっきの通りです。あなた達には、私達と仕事をして貰います――――それまでに準備を」

「ええ、わかった。私も、気になってたから。のかって」

「それを調査するのも、今回の仕事です。何事も無いといいのですが‥‥」

 机から硬い音が鳴った。コーヒーでも置いたのだろうか。

「‥‥聞こえてる?」

 マトイから、声が降ってきた。

「‥‥聞こえた。あれってなんだ?」

「後で話すけど、あなたには法務科として仕事をして貰います。ここの5人で」

「‥‥、後始末か?」

「はい」

 胸を撫でながら、制服の中に手を入れてくるマトイに軽く心臓を掴まれてうめき声を出してしまう。けれど、それは痛みによる拒絶ではないと知っているマトイは、愛でるように心臓の表面を指で撫で続ける。

「‥‥気持ちいい‥‥」

「ふふ、良かった」

 熱い心臓を冷たい手で撫でられ、届けられる血さえ冷やされる。もはや冷房無しに生活出来ない気候で、身体中が冷えていく感覚は快楽でしかない。

 このまま寝てしまいたい。

「‥‥この車で?」

「それは時と場合によるかと。でも、運転手はサイナです」

「任せて下さい‥‥。追うも、逃げるも、心配無用ですよ‥‥♪」

 もう一度、サイナが前髪を撫でていく。更に目に手が置かれた、マトイの手だ。

「もう無理?」

「‥‥寝かせて」

 目と心臓の手が温められ、布団に包まっているように錯覚し始める。それにサイナに前髪辺りを撫でられて、唯一残っていた理性が解けていくのを感じた。




 あの方ではなかった。ここはだった。

 コーヒーの香りが漂っているが、ネガイの実験室でもない。流石に担がれたら起きる―――柔らかい物に頭を置いていた。マトイか?サイナか?‥‥わからない。

「ごめんなさい‥‥」

 声が降ってきた。かなり近くだ。

「カレン‥‥か‥‥」

 目を開けるが、真っ暗だ。もう夜か?それとも、

「手、か‥‥」

「離しますか?」

 心配そうな声だ。

 気絶したように眠ってしまったから、起きるまで安心出来なかったのだろう。

「‥‥そのままで、皆んなは?」

「ソソギの武器の新調と教導に復帰の手続きをしないといけないから、一度オーダー校に戻ってきました」

 声だけで美人とわかる。それだけではない。手のきめ細やかさで、確証を得た。

 特別捜査学科の生徒に膝枕とは、命がいくつあっても足りない事をしている。

 また金がいくらあっても出来る事でもなかった。

「‥‥大丈夫。気絶したんじゃない。カレンも俺の血を取った時いたのか?」

「血を取ったのは私だから‥‥」

 少しだけ、少しだけ、首が気になってしまう。もうそんな事する筈ないのに―――2人が帰るべき場所は、オーダーだというのに。

 近い内に法務科と査問科が、2人の元いた場所に踏み込むだろう。血なんて奪っても意味がないとわかっているのに――――いまだ、怯えている自分がいた。

「怒ってますか?」

「怒って欲しい?」

 その問いに答えないカレンの足から起き上がると、まだまだ午前中だと日の傾きでわかった。同時に窓の外の光景で生徒駐車場とわかり、急いでカーテンを閉める。

 見つかったら、噂となり、カレンの為にならないと悟った。

 周りに何人か生徒がいたが、総じて忙しいそうに車両の整備や掃除をしている声に、安堵する。

「ごめんなさい、私、舞い上がってました。家族ができたって、思って‥‥」

「俺も嬉しいよ。だけど、ソソギがいただろう。舞い上がる程なのか?」

 肩の鳴らし、軽く伸びをしながら振り返る。

「それでも、ずっとソソギだけだったから。‥‥他の誰かに‥‥その‥‥」

 歯切れ悪く終えたカレンの心根は知っていた。マトイやサイナと一緒にいた俺を、独占したかった―――カレンも、家族が欲しかった。ソソギと一緒に、傍にいるヒトが欲しくて、寂しかった。つぶさに理解出来る。自分も、同じ感情を持ち合わせているから。

「俺だってネガイが誰かと一緒にいたら、寂しく感じる」

 眠気覚ましに、誰も飲んでないブラックコーヒーを開けて口を付ける。

「結構苦いんだな。悪い‥‥俺がふらふらしてるせいで‥‥」

「んーん‥‥。オーダーなら一箇所に止まれないって、わかってるつもり」

 首を振りながらカレンは、視線を逸らした。想像して言ったふらふらとは違ったが訂正すると、余計カレンに心配をかけると思い踏みとどまる。

 そして僅かな沈黙を破ったのはカレンだった。おずおずと問われる。

「聞いて‥‥いい?」

「ん、なんだ?」

「‥‥捨てられた時って、どうだった?」

「つまんないし、かっこ悪いぞ」

 もう一度コーヒーを飲む。慣れてきた喉が、この苦さを受け入れ始める。

 同時に、意外と踏み込んでくるカレンから間髪入れずに「聞きたい」と返された。

「わかった。少し話そう」

 苦いコーヒー片手に美人と車の中で、過去を話す。これだけなら、誰もが羨む光景かもしれない。でも、内容が失格だ。お互いが、お互いを傷付けてしまう、褒められたりも、自慢出来るような話にもならない。

 だから、ありのままを話せる。

「前に話したけど、俺は成育者を本当の親だと思ってたって。あの時は、訳も分からず、捨てられて―――つらかった。友達も家族も徐々に失って、心が砕けた気分になった」

 もう忘れ始めたあの時の感情。

 周りの空気が冷たくて、鋭くて、どうしようもないぐらい、ひとりだった。

「オーダーなんて、行き場の無い最後の最後の子供が送られる志願兵の訓練場のイメージだったのに。言われるままに、1人でここにバスと電車を乗り継いで来たんだけど、知ってる街並みから、徐々に知らない街並みになった。それであの橋だ。三途の川でも渡ってる気分だったよ。もう、俺は戻れないのかって。想像通りに成った‥‥2人は、どうだった?」

「私達は目隠しをされてここに来たの。でも、元からあの研究所の外に出る事は無かったから、寂しいとか悲しいとは思わなかった」

 これが本当のカレンの話し方だった、少しだけソソギに似ている。

「目隠しは、怖いよな‥‥。俺も前にマトイにされた」

「‥‥うん、怖いし、嫌だった」

 帰り道を分からせない為に捨てるやり方だ――――本当に成育者達にとって、ヒトガタは実験対象でしかない。愛着など持つ訳がない。

「俺もだ。どこに行くのかわからなくて、怖くて仕方無かった。マトイを信じてるけど、それでも知らない場所に行くのは嫌だし怖かった」

「—――私にはソソギがいた、2人で手を握り合ってた。1人だったら、耐えられなかったと思う」

「同じだな―――俺もずっとマトイにしがみついてた。途中、1人で歩いてって、言われたけど、無理言って付いて来て貰ったり。最後の最後まで手を握って貰って」

「‥‥子供みたい。この学校についてからは、どうだったの?」

 呆れたようにカレンが笑い、今度は何かを期待しながら聞いてくる。

「つまらない話しかないぞ。それにカレンとそんな変わらないと思う。慣れない一人暮らしに、知らない同級生、ろくにやった事も無かった金のやり取り。手を何度も切って覚える銃器の扱い。意外だったのは、割と座学、普通の授業があって普通に学生をやれてる事」

「それだけ?」

「どんな期待をしてたんだ?」

「だって噂だったり、それにいつも見てたから。あなたが女の子と歩いてる姿‥‥あの治療科の子とか、イサラさんに、サイナさん、それに他の女の子とも歩いてた」

「まぁ、シズク繋がりでしか話せる奴がいなかったから‥‥」

 そもそも当時は、人と話せる余裕が無かった。そのせいでミトリには散々迷惑をかけてしまった。それにシズクにも気に掛けて貰わなかったら、未だにネガイとしかまともに話せてなかったに違いない。

「そっちはどうだった?」

「んー、よくわからない流行に巻き込まれてた」

「‥‥病気か?」

「あ、そう言うのじゃないの。知らない?人間の男の子達の間で流行ってみたい」

 不思議そうなカレンの顔は、純粋そのものだった。

「いや‥‥、わからない。どんなのだ?」

「えーと、私とかソソギに話しかけて、どれだけ話せるかの時間競争。長いと勝ちみたい」

 意味がわからない。一体なんだろうか?どれだけ注意を引かせられるかの競争だろうか?確かに、注意を引かせるという技術は誰でも出来て、誰にでも有効な手ではあるのだが―――。

「結局、私達にも意味がわからないで中等部を卒業したの。外ではこういうのが流行ってるのかな?って思って」

「‥‥人間は不思議な事してるな。前からそうだけど、なんの目的があるのか、あやふやで曖昧だ。あれも、人間らしさって所か?」

 当時、他の男子生徒と話せなかったのは、話が合わなかったのもあったが、こういう事だったのだろう。流行りに乗れていない俺との会話は、人間にとって苦痛だったのかもしれない。なかなか同性の友人が出来なかった理由がこれだったようだ。

「だけど、もう少し早くヒトガタ同士で集まってれば、俺が1番長く話せてたかもな。ソソギともカレンとも、もっと早く―――家族になれてた気がする」

「‥‥うん、私ももっと早く会いたかった。ソソギもだと思う‥‥家族が欲しかった」

 心が縮まっていくのがわかる。ついさっき眠ってしまった時は、カレンの独走的な意思を感じたが、今はしっかりと会話ができている。

「今度はこっちから聞いていいか?昔の俺って、どう見られてた?」

「それこそ、常に女の子が周りにいる感じだった。‥‥ソソギとは違う意味で、男の子達は近づけなかったと思う」

 女の子と一緒にいる方が楽しいと思われていたようだ。確かに、サイナにイサラ、ミトリとシズクらと話している時間が大半だった。

「ソソギとはって事は、ソソギも近づかれなかったのか?」

「うん。今も不思議。周りの男の子達と比べて背が高かったからかな?」

 勉学も戦闘も出来る万能、背も高くて絶世と言っても過言ではない美人なソソギは周りから見て近寄り難かったのかもしれない。本能的に強者の風格を持っているソソギを、恐れていた可能性もあるが。

「私は、どうだった?」

 少しだけ上目遣いで聞いてきた。たったそれだけの仕草に、脳へ直接スタンガンでも受けたようだった。

「‥‥ソソギの隣にいたなぁ‥‥ぐらいしか‥‥」

「ふーん」

「悪い‥‥」

 この返答に口を尖らせて、前を向いてしまった。

 もう少し気が利いた事を言えれば良かったが、下手に嘘を言うと勘づかれると思い、言えなかった。

「‥‥ねぇ、だったんだって?」

「‥‥ああ」

「その‥‥って私達と同じだった?」

 少しだけ言葉が足りない―――いや、カレンが気を使ってくれていた。

 2人は、物心つく前からヒトガタとしての生き方しか知らなかった。だが、俺は違う。俺は家と言われる生育プランの中で育った。

 俺と2人とでは、帰りたい気持ちが別なのかもしれない。2人は役に立ちたいから。でも俺はホームシックのそれだ。

「多分、だろうな。俺は主の為って言うよりも、寂しかった」

「‥‥そう、なんだ‥‥」

「最初は何度も家に電話したよ。なんでだって‥‥、でもな、電話一本取らないんだ」

「‥‥ひどい‥‥」

「‥‥俺も、そう思った。もう俺はいらないのかって」

 カレン達はなぜ捨てられたのか知っていた。俺はなぜ捨てられたのか知らなかった――――つらいのは、どちらかなんてわからない。

 あの時の孤独感や無力感、それを2人も感じたのだろうか。そして俺以上にカレンは、無力感を覚えてしまったのかもしれない。

 自分はソソギに守られなければ、生きていけないと―――心にそう刻んでしまったから、俺の血を奪った。奪おうと提案してしまった。

「ソソギから聞いたか?俺にはシズクが、幼馴染がいた」

「うん。聞いた。‥‥少しだけ運動が苦手って」

 やっぱり、ソソギも運動が苦手な奴だと覚えていた。

「私にはソソギがいたみたいに。あなたには幼馴染がいたんだね‥‥」

「‥‥いや。‥‥俺は最初、シズクとどう話していいか、わからなかった」

 言いながら目を閉じて、意識を閉ざしてみる。カレンの顔も、息遣いも全てを自分中から一度消す。1人じゃないと、話せない。

 だから独り言のように呟いてしまった。

「え、何で、だって。仲が良かったって」

「今はな。昔に戻れた。でも、俺は学校で再会したシズクが、怖かった」

「怖い‥‥?」

「俺はあいつにテストで負けた。今思うと、本当に小さな事だよ。‥‥この学校に入学してすぐに自動記述が始まった、が捨てられた理由なんてを探せばすぐ見つかる。成育者の指示に逆らったから、捨てられたって」

 もうコーヒーで誤魔化せなくなった。飲み切ってしまった。

「自慢じゃないけど、それなりに頭には自信があった。そんな俺に勝ったんだから、シズクとはもう会わなくていい。あいつは俺なんかとは比べられないぐらい上に行ったんだ。そう思ってた」

 シズクには、進学校からいくつも誘いが来ていた。

 口には出して無かったが、休み時間の度に知らない良い服を着た大人がシズクを取り囲んでいるんだ、嫌でもわかる。

 アイツは選ばれた人間で、俺はアイツの影によって作られた失敗作だと感じた。

「‥‥ほっとしてたんだ――――酷い事言ったから。もう会わなくて良いんだって」

 コンプレックスと言うのか。それとも罪悪感か。シズクのせいにしないと、立ち上がれなかった。布団から出られなかった。

「だけど、そんなあいつとは1番無縁な所に来たって‥‥思ってたのに、シズクもここいた」

 沢山の新入生達の中を通っていたら、誰かから肩を叩かれた。振り返るとシズクがいた。

「‥‥どう話していいか、わからなかった。シズクのせいで、俺はここにいる。なのにシズクもここにいる。だったら、俺のあの苦しみはなんだって‥‥。何で‥‥、俺はここにいるんだって」

 恐ろしかった。シズクを殺せと言われたのに、殺せなかった。憎からず思っていたシズクを、殺せるほど憎んでなどいなかった―――ただただ、シズクが怖かった。

「もう考えなくていいって。シズクとは、もう縁が切れたから、ずっとシズクのせいにしてられるって‥‥そう思ってた」

「弱いのね‥‥」

「‥‥そうだな。俺は、弱い、それに卑怯者だ」

「私みたい‥‥」

 目を開けてしまった。

「私も、ソソギに頼らないと生きていけなかった。聞いたよね、私は死ぬつもりだったって」

「‥‥ああ‥‥聞いた」

「酷いの、私。‥‥ソソギに殺してって、お願いしてた」

 カレンが自分の身体を抱き始めた。

「‥‥私、もう限界だったの。‥‥もう死にたいって、思ってた」

「主か‥‥」

 ヒトガタの存在理由は、主の為に全てを差し出し、主の望みを叶える。それが出来ないのなら、もう意味はない。

「主もだし、ソソギにも‥‥。最初から知ってたの。私のせいでソソギは、捨てられたって」

「よせ‥‥」

「聞いて。私は、ソソギの為って言って、死んで逃げようとした。私は‥‥、ヒトガタをやめたかった‥‥」

 カレンは笑っていた。真っ直ぐ前を見て、泣いていた。

「酷いよね‥‥。1番ヒトガタの在り方に拘ってたのは私なのに、ヒトガタとしての使命を全部、ソソギに押し付けて、逃げようとしたの‥‥。自分が弱いから、強いソソギに頼らないと、私は耐えられなかった。‥‥1人じゃ、何も出来なかった‥‥。死ぬ事も‥‥」

 死んだ時は、2人がいた――――あれが幻覚で無ければ、手を握ってくれた。

 死から戻ってくる時も、あの方がいた。

 本当の孤独を自分は知らないのかもしれない。無力感という手錠と重りも。

「ソソギは、優しいか?」

「うん‥‥。ずっと優しい、あそこにいた時からずっと‥‥」

 俺がシズクと遊んでいる時も、2人は震えていたのかもしれない。いつ自分が捨てられるかも、わからない牢獄の中で。

 でも、震えていたのは、きっと―――カレンだけじゃない。

「1人は怖いか?」

「‥‥怖い」

「俺もだ。‥‥話しとく、俺はネガイとマトイに殺された」

「殺された‥‥?」

「気絶なんて話じゃない。救護棟で2人に血塗れにされた」

「嘘つかないで。あなたなら、逃げるとか‥‥」

「必死に抵抗したよ。やめろって、叫んだ。‥‥でもな、ふたりはやめなかった。‥‥死ぬ時はひとりだった―――最後まで傍にいてくれたのかもしれない。でも、‥‥寒かった」

「だ、大丈夫‥‥!?」

 ああ、ああぁぁぁ‥‥、寒い‥‥、怖い、もう死にたくない。あの方の手以外で、死にたくない‥‥!

 2人の声が聞こえる‥‥!ネガイが無表情に、マトイが笑いながら―――バラバラにされる。心臓を抉られる。血を奪われる。光さえ感じなくなる。寒い‥‥怖い、嫌だ。

 嫌だ―――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――やめろ、やめろ、

「やめろーーっ!!」

「落ち着いて!息を吸って!」

 カレンの声が現実に引き戻してくれた。

 息を吸って、自分の姿を確認する。目が見えない。手の感触で頭を抱えているのがわかる。汗が止まらず、涎を垂れ流し、急に叫んでしまった所為で喉が痛んでいる。

「大丈夫‥‥、平気‥‥」

「そうは見えない‥‥、怖いぐらい震えてたよ。治療科の人、呼ぶ?」

 心配そうな声が前から聞こえる。膝をついて顔を覗き込んでいるのか、息が顔にかかっているのがわかった。自分の顔を隠すように、他所へ向く。

「見るな、汚いぞ」

「いいから、顔を向けて」

 カレンが布を顔に押し付けてきた。

「どうしたの‥‥?」

「見ての通り‥‥俺は、1人で震える事すらできないんだ‥‥」

 ただ記憶を呼び起こしただけでこの様だ。1人で死を待つなんて、不可能だ。到底耐えられない。狂って、自分が何者かもわからずに死んでいく。

 周りの人間達を巻き込んで、死に狂うしかない。

「‥‥何か飲む?」

「もうコーヒーは無いだろう?」

「うんん。まだある。‥‥どうしたの?」

「どこだ?」

 カレンの息が消えた。立ち上がったのか、声が上から降ってくる。

「もしかして、見えない‥‥?なんで‥‥」

「大丈夫、少し経ったら見える―――傍にいて」

「‥‥うん。ここにいるから」

 顔に何かが当たった。手だ、爪を感じる。手を伸ばし、ゆっくりと触れる。

 これだけで呼吸が楽になった気がする。背筋を伸ばして、天井を眺めてみるが、今回のは酷かった。普段よりも光が見えない。光をほぼ感じない。

「これ、飲める?」

「どれだ?」

 触れている手が引かれる、肘を伸ばしきった所で手に硬い物が当たる。ボトルの感触だとわかり、力を入れて、凹んだ音を鳴らせる。

「待って、開けるから」

「いや、大丈夫。それより腕を掴んでてくれ」

 この声に従ってくれた手が、ゆっくりと手首まで滑る感触がした。

 しっかりと手首を掴まれているのを確認しながら、両手でボトルを身体に固定。キャップの溝と手の平を合わせて捻って、開ける。

「‥‥ここは、机か?」

「そう。そこに置いていいから」

 キャップを開けた手を上げて、ゆっくりと下げる。さっきと変わらないなら、に机があった筈だと判断し、手に何かが当たるまで下げ続ける。

 目で見えていた世界よりも、深く手を下げた所でようやく掴んでいるキャップに机に当たり軽い音を立てた。

 キャップを離し、ボトルを再度両手で持ち口に付け終わった時、頭を上げる。

「‥‥甘い。砂糖多過ぎないか?」

「それは微糖です!しっかりカロリーの計算はしています!」

 掴まれている手首に力が篭る。そこにも譲れない物があったようだ。

「本当に、死んだ事があるの‥‥?」

 答えたくない。いずれは誰しもが通る終わり。その上オーダーなら、それは常人よりも早い、すぐ隣にある同時に存在する横軸の世界。常に、そこの住人はこちらを眺めている事だろう。

「‥‥私、死にたくない‥‥」

「‥‥やっと言ったな。それでいい。死は誰でも怖いんだ‥‥人間でも、ヒトガタでも、化け物でも―――殺されるなら大切な人にされたいなんて思うなよ。俺は、好きな人に殺されてもこの様だ。それに、死の痛みは人に感染うつる」

「‥‥でも」

「ヒトガタの生まれは捨てられない。でも、生き方は捨てられる。ソソギも同じだ」

「でも‥‥、ソソギは」

「ソソギは優しかったんだろう?多分、ソソギも1人になりたくなかったんだ。でないと―――カレンを救う筈がない‥‥ごめんな」

 手首に力が入る。熱が篭ってきた。

「ソソギも、怖かったのかな‥‥ひとりに耐えられなかった‥‥?」

「多分な。カレンを殺した後は、狂わないと耐えられなかったと思う。ソソギが大事なら、死を背負わせるな―――」

 ネガイもマトイも、俺を殺した時から苦しんでいた。2人から見れば、俺はに過ぎないというのに――――心が傷ついた。狂う寸前だった。

 だけどソソギは違う。自分で殺し、自分で凍らせたカレンの亡骸を抱えて、元の場所に戻らないとならない。その時、そこにいるのはもはや『ソソギ』じゃない。

 だ。

「‥‥こんなに、苦しんでるのに‥‥。人間が好きなの?まだ、好きでいられるの‥‥」

「‥‥嫌いだ。嫌いに決まってるだろう。人間も、俺を苦しめたオーダーも、こんな痛みを与えて産んだ世界も―――滅んでしまえばいい。消えてしまえばいい」

 掴まれている手首の一本から熱が離れたとわかった瞬間、目元を拭かれる。優しく、ゆっくりと、まぶたを傷つけないように施される慈悲に息を止める。

「泣かないで‥‥」

「‥‥遂に家族にまで言われた。少しだけ、照れくさいよ」

「いいの、私達は家族。他人なんかじゃない。だけど、私でいい?今のあなたの隣にいるのが、この私でいいの‥‥?」

 カレンの誇りと武器は自身の容姿だった。

 だというのに、どれだけ美しくても、どれだけ輝いていても、今の俺にはその光が届かない。。触れる事だって出来る。

「‥‥少し寝たい。カレンに傍にいて欲しい」

「うん、うん‥‥!待ってて、今そっちに行くから」

 起きた時と同じ構図。カレンは俺の手首を掴みながら、隣に来てくれたのが温もりでわかった。隣に軽やかに座ったのが、音と降り注ぐ香りでわかった。

「頭を置いていいよ。少し休もう」

 ゆっくりと、手首を引かれる。体重をかけ過ぎないように慎重に頭を下ろす。見つけた、カレンの足だ。

「‥‥眠い‥‥」

「寝て。起こしてあげるから」

 マトイとサイナの真似なのか、胸に手を置いて、前髪を撫でた。特別捜査学科のカレンにここまでして貰っているというのに、まだ足りない、まだして欲しい事があった。

「目に手を当てて‥‥」

「‥‥こう?」

 手が目蓋に当たる。熱を留められたように、温かくて包まれたように感じた。

「‥‥カレン」

 車の外から足音が聞こえる。

 皆んなが帰ってきた。知っている人達の足音は、子守唄となる。

「‥‥おやすみ」

「おやすみなさい‥‥」




「ドレス、お変わりになったんですか?」

 真紅から漆黒の姿となった。黒のドレスになった事により、大人なイメージを持たせてくると同時に胸元に花がついていて、少しだけあどけなさ、幼さを感じる。

 黒なのに可愛いらしさを感じ、真紅とはまた違う仮面の方のイメージと合致した御姿だった。

「‥‥素敵です」

「ありがとうございます。ふふっ」

 新しいお気に入りなのか、胸を張って得意げに微笑んでいる。

「どうして急に」

 玉座には上がらず、仮面の方を見上げる。

 それは決して不愉快などではない。新たな仮面の方のこの姿を、下から眺めるという新鮮さに、心が躍っていた。

「そろそろ飽きてきたので、イメージを戻してみました」

 自分のドレスに手を当てて、スカートの部分を少しだけ引っ張ってみせてくれた。赤いドレスと違い、スリットが若干入っている。

「前は黒だったんですか?」

「はい、黒でした。あの真紅はあなたの為に新調した色でしたが、今回のはいかがです?」

「何を着ても素敵です。あの真紅は、年上の魅力がありました。胸元の花がとても可愛らしいです。それなのに黒という所がまた大人っぽくて、ドレスがより輝いています」

「良かった‥‥。少し挑戦した甲斐がありました。前と比べて、かなり変わったので」

 ヒールも黒だ。立ち上がった時に輝く髪の宝石も今回は種類が違う。黒いヴェールに備わっている宝石も全て黒。オニキスや黒真珠を思い起こさせるそれは、光に当たると一際輝く。

 ヴェールは両方の耳元から後頭部を通って繋がっていた。

 最後まで自身の姿を自慢—――自分の姿に自信を持ちながら、ゆっくりと降りて目線が同じ高さになった時、ふわりと笑った。普段から優しく、自分の身体に誇りを持っている方が更に悠然と笑むのだ、圧倒的な格の違いに震え、また触れてみたいと邪な感情に囚われる。

「このドレスも気に入って頂けましたね。して、今日はどうしましたか?ご機嫌ですね」

「あなたもです。本当に、美しい‥‥」

 完全に同じ位置となった時、仮面の方を見下ろす角度となった。そこで改めて気が付いた。赤のドレスの時は髪を巻いていたが、今日は後ろに流している。

「髪型も変えられたんですね」

「あ、わかって貰えました?」

 流石にここまで変えられたら、目を使わなくても気付く。だというのに気付かれたのが、よほど嬉しかったのか、くるりと一周して髪を靡かせた。漂う香りに絆されながらも、黒いドレスと黒い花、それらをまといながら舞う姿に、完全に見惚れてしまう。

「綺麗です‥‥」

「ありがとうございます。また褒めてくれましたね」

 感謝の言葉を口にしながら、もう一度笑いかけた。ドレスを変えると気分が変わるのか、いつもよりも上機嫌で、愛らしかった。近寄りがたい空気もありながら、抱きしめてしまいそうになる感情を再度覚え、自然と伸びる欲望を振り払って声を掛けた。

「今日は、ドレスのお披露目ですか?」

「それもひとつでした。けれど、真っ先に褒めて頂けたので、ドレスに関しては十分です♪そして少しだけ私の話を聞いてもらえますか?」

 合図でもした途端に床から机と椅子が迫り上がった。いつもと違って、黒い大理石、マットも黒。赤い絨毯から黒いマットが生えてくる様子に、湧水でも見ているようだった。

「どうぞ。かけて下さい」

 まずご自分で座られてから勧められた。安全だと伝えたかったらしい。勧められるままに、手に合わせて座って顔を見つめ、自分から切り出す事とした。

「お話ですか?」

「はい、あのに関してです‥‥ソソギさんとカレンさんについてです」

 予感はしていた。ヒトガタの中でもふたりは異質なタイプだ。

 詳しくは聞いていないが、ふたり以外にも多くのヒトガタが一緒に生活していたと―――寝床に食事、衣服など、人間の子供を養育している以上の額が投入されていたに違いない。

 それなのに‥‥ソソギの言葉を借りると、廃棄処分をされそうになった。俺と違う意味での使い捨ての消耗品扱い。あり得ない、有り余る金が注ぎこまれているというのに。

「そうです。ご存知かと思いますが、ヒトガタに通っている血は人間とは違い、貴き者と呼ばれる異形の者達の血肉です」

「ふたりも俺のように狙われるのでしょうか?」

「大丈夫、安心して下さい。確かにおふたりは特別なヒトガタではありますが、あなた程ではありません」

 その声を耳にしながら安堵する。もし俺のように血を狙われる事があったなら、ふたりも外に出れなくなる所だった。

「よかった‥‥。その為に?」

「いえ、もう少し続きます。あなたに質問があります」

 自分の膝に手を当てていた仮面の方が、身を乗り出してくる。

「ヒトガタに求められた存在理由は―――なんだかわかりますか?」

「俺達ヒトガタが生まれた理由は誕生種を達成する為。俺は究極の人、ふたりは確か‥‥究極の門とか‥‥」

 確か、そう言っていた。だけどソソギもカレンも詳しくは知らないようだった。

 俺も自分の誕生種については詳しく知らない。自動記述が、教えてくれるのは誕生種の名前だけ。

「そうです。人間では成し遂げられない事象を成す為に生まれたのがヒトガタです。成し遂げられない事象を誕生種と呼び、ヒトガタに与える。ヒトガタの存在意義は全てここに集約される―――ではなぜ、ヒトガタ自身へ詳しく誕生種について教えないのか、理由はわかりますよね?」

「教えて不要な感情持ってしまっては不都合だからです」

 聖女は自分の誕生種を知っていそうな様子だったが、聖女もまた違う場所で育ったのだから、俺達とはまったくプランなのだろう。

「あなたの究極の人は‥‥そうですね、話す御神体とでもいうのでしょうか、あなたを通して異界の向こうと会話をして、知識や技術、そして異界の存在を呼び出すのが最終目的でした―――忌々しい、私の物になってからも目指すなんて‥‥滅ぼして欲しいんですかね」

 さっきまでと打って変わって強い言葉を使われた。でも、不思議と違和感はない。

「究極の門とは、なんですか?俺の《人》と違うようですが、門を通して交信をすることを望んだのなら、寧ろ俺の方こそ究極の門と呼ぶに相応しいのでは?」

「‥‥それは話せません。でも、究極の人は話せます」

 想像通りだった。

 この方はヒントこそくれるけど、答えそのものはあまり教えてくれない。

に求められた役割は人間では届かない知識を持った、世界を越えた。知識を得た世界がどのような世界なのかも含めて、知識を告げさせる。あなたをにしたかった―――私も人間達の言葉を理解しきれない部分もあるので完璧では無いのですけどね」

「‥‥人智を超えた千里眼ですか――――出来ていたかもしれませんね」

「そうです。あなたには、との繋がりがありました。それはどの世界にも通じる。愚かな人間は、自分達が夢見た究極の人に最も相応しいあなたを棄ててしまった。しかも未だに夢を見て探求を続けている。夢は夢と覚めればいいものを」

 可哀想に。今更戻ろうなんて夢にも思わないが、哀れとしか表現できない。

「哀れですね。だけど、どうして俺にそんな話を‥‥?なにが迫っているんですか‥‥」

 困らせてしまった。目を閉じて、何か思案している。

 次の言葉が紡がれるまで、しばし静寂の中、仮面の方を眺めていると、

「一つ、お願いがあります――――私の血を飲んで下さい」

「血を?」

 面を喰らい、同じ言葉を繰り返し、オウム返しをしてしまう。この方には何度も飲んでもらっていたが、こちらがのは、初めてだった。

「はい、いいですけど、なぜですか?あなたの血なら、もう俺の中に‥‥」

 だからこそ、ソソギとカレンは俺の血を狙った。この方の血を求めて―――。

「私はあなたの為という理由で干渉する事は許さていますが、他の方々の為には血の一滴も流す事もできないんです」

「‥‥えっと‥‥」

「御守り、と思っておいて下さい」

 仮面の方は、指を口元に持っていき、噛み切った。

「さぁ」

 噛み切った指を向けてくる。切り裂かれた指先から、真っ赤な牙のような血が顔を覗かせていた。穢れを知らぬ仮面の方の血に、意識が吸い込まれていく。

「‥‥失礼します」

 差し出された手を支えて、指から流れる血を舐めとる。温かい、それに指が冷たくて熱い舌を冷ましてくれる。

 血が流れているのは指の腹なのに、爪も舐めてしまう。鋭くて、小さくて、固い。

「‥‥ありがとうございました」

 舐めていたこちらの方が、心臓の鼓動を早めている。いまだ口の中に、指があるようで何度も口中を舌で舐めとってしまう。

 マトイ、サイナ、ミトリとついで、指を舐めるのはこれで4人目だった。

「今はこれ以上できる事はありません。だから恐れずにおふたりと関わって下さい」

「これから起こる事が、わかるんですか?」

「‥‥私にもわからない事はあります」

 全ては否定しなかった。だったら、進むしかない。恐れずに。この方を信じて。

「‥‥分かりました。法務科の仕事を受けてみます。見ていて下さい」

「はい、頑張って下さいね。あなたには私の加護がありますから」

 加護と言いながら、両手の指を胸の前で組んでくれる。更に、仮面と髪を揺らすように顔を傾けて笑顔を向けてくれた。

 これ以上ない程の激励と援護を受けてしまった。恐れるなんて感情は、無礼だ。

 そう感じ、自分の血に誓った矢先だった、視界が揺れを感じる。

「ふふ‥‥眠いですか?」

 言われた通り、急に眠くなってきた。さっきまで、まだまだ起きていられたのに。

「私の血は熱かったですね。立てますか?」

 自力でふらふらしながら立ち上がり、すぐ近くの床から迫り上がってきたベットに寝転ぶ。ボヤける視界に黒いドレスが写る。

 先ほどまで気に留めなかった深いスリットが視界に納まる。

 白い腿が鮮やかな黒によく映えているのを見た瞬間、それらの色が混同していく。

「大丈夫‥‥。私の血を直接飲んだから、身体が驚いてるだけです」

「‥‥熱い」

「はい、待ってて下さいね」

 仮面の方が上に跨って、Yシャツのボタンを丁寧に外してくれる。上着を全て剥ぎ取られ終わった時、身体に当たる空気が心地よく感じた。

「今日は残念ですけど、心臓を潰せません。だからゆっくり寝て下さい」

 仕方ない。この方がそういうのだから、そう言い聞かせて目を閉じるが、寝るには物足りなかった。

「‥‥寝かせて、下さい」

「分かりました」

 隣に添い寝をして、胸を叩いてくれるので、あやされている気になってくれる。

 息を吐いて、強張っていた身体の筋肉を手放すと、耳元から声が聞こえた。

「♪♪♪♬、♪♪♪♫」

 子守唄なのか、耳を通って脳を溶かしてくる。手のテンポと唄が身体中に優しい刺激を与えて、傍にいると伝えてくれていた。

「‥‥おやすみなさい」




 ソファーで寝転がりながら窓のカーテンを少しだけ開ける。太陽が空の頂点一歩手前で輝いている。もう少しで昼だった。

「‥‥カレンは、いないのか‥‥」

 ソファーから起き上がって車内を見渡す。机の上には飲み切ったコーヒーのボトルが二つ、確かに片方は微糖だった。

 足の裏がムズムズする。頭が血を流せと命令してくるから、心臓から血を流して頭に届ける。そうすると、自然と欠伸が出てしまう。

「ああ‥‥サイナ?マトイ?」

 モーターホームの扉を開けて、外に出ると―――違和感を感じた。

「誰もいない‥‥。学校じゃない」

 渡されている鍵を使ってドアをロックして再度周りを見渡すと、頭の中にある景色のひとつに該当する物があった。ここには、以前一度だけ来たのだと思い出す。

「この工場。あの時のか‥‥」

 腰の杭とM&Pに手が伸びる。

 モーターホームは―――カレンを救出する為に準備していたあの時と同じように工場の入り口前に置かれていた。

 あの時と違うのは工場の門に、立ち入り禁止のテープがかかっている事だった。

 工場の門を超えて中に入って振り返ると、塀には弾痕が残っていた。弾丸は引き抜かれたようだが、つい数か月前の応戦と追跡の跡は、決して消えていなかった。

「‥‥どこだ」

 M&Pを抜いて、スマホを見ずに操作する。サイナに連絡するが、返事が来ない。マトイにはしない、高い確率で2人は一緒にいる筈だからだ。

 サイナが出ないという事は、出れない場所にいるか、出る余裕がないという事。

「あの時は、確か」

 ここは工業系の工場だった。元からそうなのか、あの不良達のように途中から変えたのか知らないが。

 記憶を引っ張って、地下に続く道を探し出す。工場の中に入り、昔は常に動いていただろう機械類が置いてある天井の高い広いエリアを通る。それから直接つながっている通路を歩き、鉄板やパイプで作られた棚の置いてある倉庫に到着する。

「‥‥埃に、足跡が3つ。女性で年齢は十代後半」

 靴の幅が狭い。21、19、18。ソソギ、サイナ、マトイと考えて間違いない。カレンがいないのは戦闘向きではないからだ。学校に残ったか、もしくはどこか遠くで3人のオペレーションをしているのかもしれない。

 モーターホームにいないのが気になった。

「‥‥ここか」

 探すまでもなかった。地下への扉が開いている。

 誤って閉まった時用なのか、どこからか持ってきた鉄パイプで扉を固定してあった。そして、コードも――――恐らくライト用のコード。目線だけでコードを宿るとサイナの車に積んであった発電機だとわかった。

「行くか‥‥」

 酸素不足は恐らくないだろう。見た目は狭く息が詰まりそうな地下への階段だが、当時はここに少なくとも10人近くが出入りしていた。防災上、数十分で換気ができなければ許されない規模の地下だった。

 それに――――誘拐してきた子達が窒息していた。

 銃を上に向けて、腰のライトをつけながら地下へ進んでいく。

「‥‥怖がる必要なんてないだろう」

 ソソギとマトイ、それに完全武装のサイナがいる以上。並み以上の武装集団がいても逃げられる。いや、逃げられるではない、確実に返り討ちに出来るだろう。

「‥‥息苦しい」

 地下に着いた。やはりコードは明かりだった。床に三つの置き型LEDが置いてある。これもサイナの道具だった筈だ。

 地下は真っ白の壁、そして三方向に続く廊下がある。右手には女の子達が収監されていた部屋。左手には呪具の数々。

 真っ直ぐ進むと、祭壇があったのを思い出す。ただ、祭壇に進む前にある右手の扉には保安官の部屋、つまりは傭兵の控え室があると記憶が警告してくる

「‥‥」

 まずは収監されていた部屋に入った。

「無人‥‥当然だよな」

 3人が囚われているとしたらここだと思ったが、当然いなかった。

 呪具が置いてあった部屋に行っても何にも無し。あの時は槍だなんだかがあった筈だが、全て没収されたようだった。

 それは傭兵の控え室も同じで、入った事は無かったが、机と給湯器ぐらいしか無い。本当に控え室だったのか、武器の類は回収されたのか、ただただ殺風景だった。

「残るは、ここか‥‥。入るぞー」

 一応銃を持ったまま祭壇に入るが、案の定だった。

「あ、起きましたね♪」

「おはよう」

「おはようございま〜す♪」

 アタッシュケースを持ったサイナが一歩一歩跳ねて近づいてくる。その度に揺れる胸から視線を外せないでいると、挑発するように片目を瞑って、胸を腕で隠してしまう。

「また見てますね♪お加減はいかがですか?」

「まずまず。だけど、起こしてよかったのに―――」

「起こすまでもないと思いまして」

 マトイの声が聞こえたが、姿が見えない。

 この祭壇の部屋は、絵に描いたような正四角形。

 真ん中には舞台のような台座が設置され、数か月前はここを囲むように金の蝋燭受けやよくわからない数珠のような物などなどが置いてあった。

 記憶の限りでは。台座の上には豪奢な椅子があったが、見る影もない。

「どこだ?マトイ‥‥」

「大丈夫、ここですよ」

 壁にかかった黒いカーテンの裏から、マトイが切り裂くように飛び出てきた。

「何かあったのか?」

「いいえ何も。何もないのを確認しに来たんです」

「何も‥‥?ソソギは?」

「ここ」

 ソソギもマトイと同じようにカーテンの後ろから姿を見せた。少し髪の毛に埃が付いているのが、どことなく抜けている印象を持たせてくる。

「異常は無かった。やはり拠点を変えたか、もう解散したのだと思う」

「私も同意見です。まぁ、ここは既に何度も法務科が入ってますから、あれ以降誰も入っていないのはなら何も無いに決まっていますね」

 マトイが髪を靡かせるように頭を振り、カーテンから離れる。

「あなたも見る?ここ、隠し扉があるの」

 ソソギがカーテン越しの壁を叩いた、だが音が妙だ。鉄板でも叩いているような甲高い音が聞こえる。しかも、ただに鉄板ではな。やまびこのように音が返ってくる。

「ああ、見てみる」

「では私も一緒に~。見張りの交代です♪」

 サイナがそう告げると、示し合わせていたようにふたりは俺が入ってきた扉近くの壁に隠れるように背をつける。

 ふたりに目配せをして、叩かれた壁に手を当てると―――自然と壁が奥に動いた。

「張りぼてだ。呪具に金をかける財力はあったのに、ここは手抜きか?」

「中を見て下さい。費用が底を付いた理由が分かりますよ。サイナは残った方が、」

「いいえ、私も行きます。何かあったら大変ですし」

「‥‥気をつけて。下には何も問題はありませんが、彼らの残した物があります」

 マトイの声が背中に届く。どうやら、あの事件にはらしかった。扉に入る前、ソソギに視線を向けて、カレンの行方を聞いてみる。

「カレンがいなかったけど、どうした?」

「カレンなら学科の説明に行った。特別捜査学科が怪我をしたら逐一説明しないとならないから。安心した?」

 演技だったとしても、一度カレンは誘拐されてここに連れて来られた。

 ここまで戦力が揃っている以上、また誘拐されるなんてあり得ないが、それでも気になってしまった。ソソギの過保護さが移ってしまった。

「‥‥安心したよ。行ってくる」

 扉はやはり軽い。防火扉のような仕様で、足元に扉を一体化していた壁が残っている。それを越えて中に入ると、深い地下へと続く階段が現れた。

「また階段か‥‥」

「同感ですね♪私が先導しま〜す」

 階段へ溜息を吐いた時、サイナが躍り出るように一足先に階段に足を付ける。軽く振り返って微笑んだサイナは、アタッシュケースに付けられているライトをつけて、階段を照らし出した。

「う~ん、終わりが見えません‥‥エレベーターが欲しいですね‥‥」

「設計者の顔が見てみたい‥‥ここに来るまでも、かなり降ったのに―――どれだけ人間の足腰に期待してるんだよ」

 泣き言を言っても仕方ないと言い聞かせて、サイナと共に下り続ける。空気穴が天井にこそあるが、既に地下4階近くは下っているというのに、未だ底が見えない。

 「深いな‥‥」「深いですね〜」と、どうせ2人が出て来たのだから、安全に決まっていると気が抜けた会話を投げ合ってしまう。

「今日、ネガイさんはミトリさんとでしたか?」

「ああ、今日はミトリと出かけてる。明日は2人もだったな‥‥」

「は〜い、そうですよ♪私とマトイさんも含めての女子会です!参加したいですか?」

「いや、やめとくよ。ネガイには好きに遊んで欲しい。俺とも、友達とも」

 心底嬉しかった。ネガイが友人達と外で普通に遊び歩く姿を見たら―――泣いてしまうかもしれない。

「顔がにやけてますよ〜♪」

 顔なんて見えないいない癖にと思ったが、事実なのだから仕方ない。ミトリやサイナ、マトイと共に街を散策しているネガイを想像しながら、下り続けると、

「待った。天井を見てくれ」

 いつの間にか、天井は細いコードと太いパイプがいくつも絡み合い、地下の底へとその身を伸ばしているようだった。もしくは地下から腕を伸ばし、這い上がって来ようかとするようで、どちらにしろ無機的な素材から感じられるとは思えないぐらい、

「—――変わる。俺が前だ」

 サイナと場所を交代して、腰のライトとM&Pを構える。

「ただのパイプですよ?それに、マトイさん達が見たんですから誰もいませんって」

「だろうな」

 人間には、この空気がわからない。この地下から漂っているような腐敗臭を。

 この自分にしかわからない、誘い込まれる香りが階段の道行きを先導し、それに従うようにコードとパイプが天井で絡み続けている。やはり生物の内臓を巡っていると感じた。

「なんか、不気味ですね」

 怖い訳では無いようだが、この異質な空気を感じ取り始めたらしい。

 工場から降ってきた階段と同じか、それより数段超えてた時、扉が見えた。

 階段を降りている最中の壁はコンクリートだったのに、扉の周りだけ時代がひと回り違う無機質の白の壁に変わる。

 その上、最新の施設で使われているような眼球認証の電子ロックの隔壁だった。

 ハザードマークでも板金されていれば、危険な実験をしている研究所の一室にも見えていた事だろう。

 先導していた天井のコード類は扉の少し前で天井に埋まり、扉を超えて、向こうの部屋まで続いているらしい。

「お値段的な意味で、お高いですね。この扉」

「見たことあるのか?」

「少しだけですけどね」

 扉に軽く触れてみる。埃が付かない素材なのか、チリ一つ付いていない。ざわつきすら感じない隔壁には傷一つなく、どこか人間の肌の艶めかしさを感じる。

「開かない。どうやって開けるんだ?」

 扉を押したり、指紋認証に手を置いてみるが、何も起きない。

「ちょっと待って下さいね。マトイさんから教えてもらってますから。そうそう。そんなあなたの困った顔が見たかったんですよ♪」

 ご機嫌なサイナが肩を叩いてくる。

「いじめないでくれ」

「ふふ〜♪はい、ごめんなさい♪交代で〜す」

 開錠を任せて、降りてきた階段を眺める。

「‥‥なんで、エレベーターがないんだ。毎回降るなんて、手間だろう‥‥」

「時間稼ぎの為だと思います。ここに降りてくるだけでかなり時間がかかりましたので、オーダーに踏み込まれた時の為にワザとエレベーターを設置していないんだと思います。古典的ですけど、現実的ですね。どこかのお城にもこうやって時間を稼ぐ階段があったそうです」

「‥‥時間を掛ければ隠せる物―――持ち逃げされてるのかもしれないな」

「恐らくですけどね」

 振り返ってサイナの様子を見ると、スマホを取り出して眼球認証に押し付けていた。

「‥‥それ、俺でも出来たんじゃないか?」

「恋人のスマホは見ない方がいいですよ〜。きっと、」

「きっと?」

「もっと私を好きになりますよ♪」

「‥‥まだか?」

「もう!はい、開きました」

 扉が起動して、電子音と共に扉のロックが音を立てて解除されていくのがわかる。

「‥‥一体いくつロックがあるんだ」

「軽く20個ほどかと?ロックを一つ一つ開けるぐらいなら、扉に開けさせた方が早いですね」

 当然と言えば当然な事をサイナが言ってくる。

 ようやく最後の鍵が開き、重い分厚い扉の向こう側が見えてきた。

 その瞬間、扉を開けた当人たるサイナがアタッシュケースを持ち上げて、急いで俺の背中に戻ってきた。怯えるように後ろで震えているサイナが、ポツリと呟く。

「なんか、嫌な予感がします」

「俺もだ。いい予感はしない‥‥」

 サイナの背中で庇いながら、扉を越える。

「‥‥なんでしょう、ここ」

 扉の向こうはエアシャワー室だった。

 部屋中に幾つもの穴が開いている光景は、不気味の一言に尽きる。に監視されているかのような趣には、無機的で感情がないからこそ、冷徹に心を見透かしてくる寒気を感じた。

「待ってるか?」

「行きます行きます!さぁさぁ!!早く行きましょう!!」

 腕を引いて率先して前に出るサイナに連れられながら、一度に何人が入れるのだろうか?そんな無意味な感想を持ってしまう程に広いエアシャワー室を通り過ぎる。

 次の部屋に繋がる両開きの扉を、サイナが蹴り飛ばすように開けた時、

「‥‥うっ」

 怯えを通り過ぎ、嫌悪感にむせ返ったサイナが腕にしがみつき、目を閉じた。

 両開きの扉を抜けた先はコードとパイプだらけの部屋。

 天井やガラス床の下を埋め尽くすようにパイプを張り巡らせ、コードもぶら下がっている。人体の一部である腸を人工的に無機質に作り出し、部屋中に這わせている。そんな見た目の質感に、うめき声を出した気分がよく理解できる。

 そして、部屋の中央には子供1人分の大きさのガラスの容器が設置されていた。まるでかのような光景に、ひとつだけ思い当たる事があった。

「‥‥なんなんでしょ、ここ――――早く出ませんか?」

「そうか、ここだったのか」

 サイナの声にも反応すべきだとわかっている。

 だけどヒトガタの血が、このガラス容器が、それをなかなか許してくれなかった。

 隣のサイナが「どうしたんですか?」と心配そうに見上げてくる瞳に視線を向けて、すぐさま「出よう」と告げる。

「あ、はい!そうしましょう!」

 ヒトガタの血を振り切ってサイナを持ち上げる。振り返らず、真っ直ぐにエアシャワー室へと戻り、一切の余裕も持たせずに階段へと戻る。

 その間、サイナはアタッシュケースを抱きしめて、目を閉じていた。こういうは嫌いらしく、息すらしていなかった。

「帰ったら、俺が昼を用意する。期待して待っててくれ。それに、イサラも誘って行こう。帰り道に甘い物を買ってもいいし、どうだ?」

「は、はい!そうしましょう!期待して待ってますね♪」

 無理をして声を張っているのは明白だった。降ろしたサイナが、普段通りに愛らしく微笑んで、跳ねながら胸を揺らして誤魔化すので―――もう一度抱きしめて、声をかける。

「ここの事は忘れていい。もうここに連れてなんて来ないから」

「‥‥はい。そうします。ここはなんなんですか?」

 その質問の答えは、既に思いついていた。マトイも知っていたのだろうし、ソソギに至っては―――身に覚えがあった事だろう。

「ここは異質だ。本来はこんな場所じゃない。もう少し清潔で潔癖症の筈なんだ。事なんてないから。だから、怖がらないでいい」

 ヒトガタが持てる最初の記憶は―――時。

 ここはそれより前の段階、試験管の中に貴き者の血を注がれる工程。

「ここはだ。帰ろう、帰って休もう」

 サイナの手を引いて、階段を登る事にした。







「ソソギは知ってたのか?」

「話しだけは聞いてた。でも、あんな見た目の部屋だとは思わなかった。どう思う?」

「‥‥あそこはきっと、偽物だ」

「ええ。ただ形を真似ただけの場所。失敗しかしてないでしょうね」

 運転席から、助手席のソソギと話していた。

 サイナは気分が晴れないようで、後ろでマトイと楽しげに話している。を作りたくないらしく、次の話題が途切れないように続けていた。

 階段を登り切ったところでマトイとソソギに、目でサイナの様子を伝えて一目散に車に戻った。強制的に後部座席に乗せたサイナに代わり、今は俺が運転していた。

「私が生まれた場所は―――」

「後にしよう。サイナ、何が食べたい?」

「あ!う〜ん、そうですね‥‥。パスタとかどうですか?」

「いいぞ。部屋に帰る前にケーキでも買いに行くか?」

「賛成で〜す♪」

 ようやく気分が晴れてきたサイナの前で、話すべき内容じゃなかった。

 次いでソソギに問うとカレンと一緒ならと返され、マトイは二つ返事で頷いた。間髪入れない言葉には、確実に強く止めなかった自分への叱責、サイナを慮っての贖罪なのだろうと察した。よってこれからカレンを迎えに行く運びと相なった。

 昼の時間より少し遅いブランチとなるだろうが、悪くない時間になる。今日は寝てばかりなので、現在はそれほど空腹ではなかった。そう思う事にした。

 そして今も腹の奥で渦巻く先ほどの光景を呑み込み、ソソギに声をかける。

「法務科はどうだった?」

「法務科では、あなたの話を良く聞いた。聞きたい?」

 法務科で話されてるような内容とは、あまり聞く気にならなかった。しばらく無言でハンドルのみを操作していると、ソソギが噴き出すように笑った。

「聞かないの?」

「聞きたくない。法務科でされてるで俺の名前が出るなんて。ろくでもないに決まってる」

 その言葉に同じように失笑したマトイとサイナをミラー越しで睨みながら運転し、再度黙ってしまった俺にソソギは挑発的な声色で話かけてくる。

「じゃあ、勝手に話す。あなたに言うことを聞かせられるのは恋人達だけ」

「なんの話なんだ?」

「オーダー本部も、法務科も、本当はあなたに首輪でもかけたいのだけれど、そんな事をしたら復讐されるから出来ない。流星の使徒の総帥を1人で撃退したのでしょう?あなたの評価、私みたいな部外者の耳に届くようになったの。そして、そんなあなたが無条件で頼みを聞くのは恋人達だけ。こんな話」

「どこの誰が、そんな話を?」

「さぁ?」

 長い髪を揺らして誤魔化してくる。誰かは知らないが、見当はついているらしかった。

「まぁ、いいか。流星の使徒は知ってたのか?」

「私達がいた研究所にも、来たことがあったから」

「大丈夫だったのか!?」

 あっけらかんと息を吸うように返答をしたソソギの言葉に、危うくハンドル操作を誤る所だった。だというのに、隣の家族は何でもないように続ける。

「私達は被害者、実験体みたいな存在だから何もされなかった。だけど、成育者達の数人は連れて行かれたみたいね。最後まで姿を見せないでいた人がいたから」

 本当になんとも無かったと言わんばかりだった。

「—――聞いていいのか?それ、大体何年前だ?」

「正確にはわからないけど、それでも10年は経ってない筈」

「11年前を境に、流星の使徒は日本に訪れていない」

「そう。私とカレンがいた所は日本じゃなかったのね。‥‥どうでもいい事ね。具体的にどこにいたか話せる記憶もあるけれど、聞きたい?」

「いや、どうでもいい事だ。ソソギはケーキ好きか?」

 ああ、本当にどうでもいい事だ。どこで生まれていようが、俺とふたりはヒトガタで家族だ。以上、が、どうでもいい。

「好きよ。私とカレンも、初めてケーキを知った日から、‥‥ずっと好き」

 ソソギの声が、官能的な色に染まった。ただの吐息と共にという言葉を出しただけなのに身震いしてしまう。

 まず耳からソソギに惚れ直した。ついで嗅覚—――ソソギの髪と吐息の香り、それらを鼻で感じながら、身震いしていた。

「だけど、カレンは素直じゃないから素直には好きとは言わないと思う。でも、きっと喜んでくれる。法務科の中にいる時も、欲しいって話してたから」

「用意しておけば良かった。法務科では、自由に話せたのか?」

「ええ。1日で決められた時間だけだったけど、ゆっくりと話せた。これからの事も―――」

「これからの事か。オーダーはどうするんだ?」

 恐る恐る聞いてしまった。選ぼうと思えば、普通の人の生活だって送れる筈だからだ。オーダーを辞めて、一般人に戻る人は決して少なくないから。

「そんなに気になる?大体、心配しないで―――だから。研究所の情報を話してしまった以上、もう私達の帰る場所はオーダーしかない」

「———後悔してるか?」

「私はしてない。気になるなら、カレンには自分で聞いて」

「ありがと、話す理由をくれて。‥‥何から話せばいいか、わからなかったんだ」

「カレンも似た事を言ってた。大丈夫、カレンは待ってくれるから」

 同い年なのに、ソソギの手の平にいるような気分になった。だというのに決して悪い気分ではないから不思議だった――――過去に、こういった経験がある訳でもないのに。

 運転席からの眺めは単調だったが、オーダー所属のモーターホームには誰も近付いて来ないものだから、運転が楽で楽で仕方ない。

 このままカレンを迎えに行ってから、ケーキ屋に向かう行路に乗る。オーダー街には、なぜか洋菓子の有名店が出店しており、休日はいつも女子生徒達が並んでいた。

 それどころか、本職の大人のオーダーやオーダー大の学生も並ぶ。

 甘い物に貴賎なし。年齢も関係なかった。

「そろそろオーダー街だ。このまま学校でいいか?」

 行政区に入るから、念のため聞いたが、誰からも返事が無かった。

「じゃ、行くか」

 ソソギは出てきたばかりで、サイナとマトイは話しに熱中していて、そもそも聞いていないようだった。




「いつも通りね」

「いつも通りだ」

「いつも通りですね」

 車と食材を任せて、ソソギ、俺、カレンでケーキを買いに店舗に入ったところだった。ここは喫茶店も併設されている大規模な店舗で、ケーキを買うだけなら本来は苦労しない。だけど、今は休日の昼少し後だった。

「私達の番まで残ってるかな‥‥」

 カレンの心配はもっともだった。前にネガイと来た時は、残りはシュークリーム一つだけだったので、ふたりで分け合う程だった。

「5人分だと、ちょっと心配かもな。イサラは来ないんだろう?」

「ええ、誘ったけど、今日はやめとくって。気を使わせてしまったかも」

 ネガイとの関係や、ソソギへの心遣いといい、イサラはイサラで、申し訳ないと思ってくれているようだった。

 、とは言わないが、それでもここまでかしこまられると壁を感じてしまう。次に会ったなら、無理にでも付き合わせると心に決める。

「イサラとは―――今度話そう。今は向こうも時間が欲しいだろうから」

「‥‥そうね。そうだと思う」

 同じ視線の高さで、前に並んでいる女子生徒達の頭越しにショーケースを眺める。蛇腹状に並んでいる列は中々減らなかった。時間ばかり過ぎていくようだった。

「俺が並んでるから、2人は休んでていいぞ」

「気にしないで下さい。しばらく部屋の中ばかりだったので」

 前にいるカレンが清楚にそう答えて、また前を向いてしまった。

 意味がわからなかったが、カレンの後ろ姿を見て、意味が汲み取れた。トレーニングとして、かかとを上げて背筋を伸ばしていた。

 美しい立ち姿だ――――正面から見れば真っ直ぐな芯で、横から見ると緩やかなS字。また、内側から持ち上げられたスカートに目が惹かれる。

 同時に、という発言で思い出した。人間の美は人の目に触れられないと向上しない。そんな話を過去に聞いたのを、頭の片隅で覚えていた。

「‥‥カレンは、いつから特殊捜査学科なんだ?」

「ふふ、誤魔化しましたね。卒業訓練の時には入学が決まってたの。でも、本格的に始めたのは高等部入学から」

 自身の身体に目線を向けられる事に、拒否感どころか寧ろ誇らしさ感じているカレンが、ネガイと重なって見えた。

「すごいな‥‥。スカウトか?」

「そう。その時にソソギも誘われたんだけど、ソソギは断ったの」

「その時にはもう査問学科から誘われてたから。ふふ、当然の結果だけど」

 2人が評価されて誇らしいのは間違いないが、申し訳なさも同時に感じていた。

「あなただって、マトイから誘われていたのでしょう?そんな顔しないで。ありがとう、私達のために所属を変えてくれて―――後悔はしていない?」

 横顔を撫でながら、聞いてくれるソソギに視線と共に返す。

「‥‥してる訳ないだろう。あの程度で2人の為になれたなら、後悔なんてしない」

 顔に添えられているソソギの手に手を重ねる。冷たくてきめ細かで、銃の傷がある手が心地よかった。

「聞いていいか?」

「カレンみたいね。何?」

 トーンの高い声で返事をしてくれた。

「聖女の話、知ってるか?」

「ええ、少しだけだけど、話したから知ってる。彼女の事は、彼女自身から聞かせてもらった。特別なヒトガタであるのは、彼女自身も自覚してたけど―――私達も、同じ扱いを受けていたかもしれないって思った―――あなたはどう思った?」

「俺も同じだ‥‥他人だとは思えなかった」

 ソソギもカレンも、ヒトガタとしての使命を全うしていれば、聖女のような実証実験の歯車になっていたかもしれない。

 俺は生活の中で、成育者達の望むようなヒトガタに自然と成長させる。ソソギとカレンは、恐らく聖女のように実験の消耗品として。

 どちらかが救われるかなんて、考えたもくない。

「少しだけど話せたなんて、知らなかった。よく法務科が許したな?」

「法務科から頼まれたの」

 同じ種族同士で話して欲しかったのか。または同性なら尚更心を許すと思ったのか―――合理的な聴取のやり方だ。模範通り、セオリー通りの尋問だ。

「‥‥何を、聞き出せって言われたんだ―――言える範囲でいい」

「いいえ、良好な関係を作って欲しいって言われただけ。心配しないで、健康状態も精神も問題はなさそうだったから。とても元気そうだった‥‥」

 まずと思わせたかったようだ。

 聖女とは数回しか話していないけど、見ず知らずの人間に無条件で敵意を持つとは思えない。彼女は本当に人間の為に生きていた。。ならば、人間に敵愾心を持たせるような不用な考えは持たせたくないだろう。

「でも、少し残念そうだったかも‥‥」

 カレンが会話の中に入ってきた。

「生命活動に何の問題はなくても、あの子は今血が足りない身体だから、外に出れないって言われたみたい」

「それはつまらないだろうな‥‥」

「うん、つまらないって。だから近いうちに会いに行って、喜んでくれるから」

 ソソギの手から今度はカレンの手に変わった。低い位置からの慰めは新鮮だった。いつも見下ろされてたから。

「ああ‥‥わかった。じゃあ、その時はふたりも―――」

「絶対に1人だけで行って」

「‥‥ヒトガタだからか?」

「違います!そう望んでるからです!」

 頬をつねられる。あ、結構痛い。

「‥‥ソソギ、助けて」

「今のはあなたが気付くべきだった。カレンからの鞭として受け取っておいて」

「‥‥なんか、楽しんでない?」

 カレンの不機嫌な顔も、ソソギの楽しそうな顔も、—―――ずっと昔から知っている気がする。

「不思議。前もこんな事した気がする‥‥」

「‥‥私も」

「俺もだ‥‥」

 驚いたような顔をして、カレンが頬を離してくれる。

「ねぇ、聞いていい?」

「ん?なんだ?」

「男性型のヒトガタって、あなた以外もいるの?」

「俺以外のヒトガタは2人が初めてだ。どうして?」

「‥‥男性型のヒトガタは、生まれないから」

「生まれない?」

 カレンからの言葉に、混乱して自動筆記が起動しなかった―――いや、に、設定めいれいされているのかもしれない。

「‥‥詳しく聞かせてくれ。男性型のヒトガタは―――」

「私から言う。男性型のヒトガタは長生き出来ないの」

 言葉に詰まってしまったカレンを庇うように、ソソギが代わりを買って出た。

「あなたは16歳まで生きてるなら大丈夫。でも、知らない?」

「‥‥ああ、わからない」

 ヒトガタ同士で、この噛み合わなさ、どうやら自動記述に関係しているらしい。

 恐らくだが、俺と2人は違う場所で生まれた。当然、使われた血も違う。備わる自動記述に差異があるのは、不思議ではなかった。

「それについても後で聞くか‥‥。お、だいぶ進んだぞ」

 蛇の尻尾に並んでいた筈なのに、今は蛇の胸辺りにまで進んでいた。ショーケースを眺めると、まだまだ在庫はありそうだった。

「何がいい?少し前に稼いだから、好きなだけいいぞ」

「いいの?なら‥‥」

 意外、という訳ではないが、ソソギが率先して前に出てショーケースに指を差した。

 ホールで切り取った形ではない真四角のショートケーキは、一つひとつ手作業でパティシエが作り上げた高い完成度を放っている。

 生クリームが柔らかそうで、苺の色も形もいい。苺は冬の果物なのに、まるで見た目に陰りがない――――美しい。苺に何か塗っているのか?天然では出せない光沢を苺自身もまとっている。

「私‥‥、これ!」

 カレンが差したケーキにも苺が用いられている。だが、スポンジじゃない。タルト生地を使っている。

 これは、芸術的だ。タルト生地を上に苺が乗せられて、上からカスタード、生クリーム、そして頂点に苺。

 タルト生地の上を無駄にしないで余す事なく使われている、パティシエの腕が高いと立証された。それなのに、見た目としてシンプルで可愛らしさを捨てていない。これもまた美しい。

「よし。なら俺は‥‥」

 どれを選ぼうとかと躊躇してしまった。だけど、迷う必要などないと思い出した。

「残り、一つずつ」

 マトイにサイナ、それにネガイとミトリ。ショーケースには丁度人数分の種類が飾られていた。出来る事ならば、イサラにも買って行きたかったが、もう一度学校に戻るには時間がかかる。

 だから、もう一つだけ、個人的に包装して貰う事にした。

「それとシュークリーム」

「甘いの好きなんですか?」

「好きだぞ。やめた方がいい?」

「いいえ‥‥。私も好きだから」

 カレンが満面の笑みで答えてくれた。選ばれたケーキ達よりも、カレンの顔が輝いて眩しく映っていた。決して比喩ではない、光を放つカレンに塵となりそうだった。

「あ、でもコーヒーは甘過ぎるって」

「コーヒーはブラック派だ」

「‥‥大人っぽい。私もソソギも甘くないと飲めないのに‥‥」

 意外な真実を聞いた所でようやく先頭近くになった。今日は運がいい、狙っていたケーキ類が軒並み残っている。

「どうぞ。またお越し下さい」

「ケーキ、好きなんですか?」

 見覚えがある人がいた。だが、実際のあの人よりも背が低くて女生徒の制服を着ている―――コスプレ感、とは言わないが実際の自分よりも若い年齢の人形を持っているとは思わなかった。目隠しをしていたらもっと早く気付いていただろう。

「人違いです」

「言ってくれれば、俺が」

「人違いです。いいですね?」

 ほんのりと青紫色を宿した瞳で睨み付けてから、颯爽と店外に出て行った。

「知り合いなの?」

「ああ、そんな所」

「‥‥すごい美人。あんな先輩、特別捜査学科にいたかな?」

 カレンが対抗意識を持ってしまったようだ。確かにカレンの魅力とは違う大人な雰囲気を持っていた。実際大人なのだから、当然なのかもしれないが。

「そうそう表に出てこない人だから、探そうと思わない方がいい。ほら、選ぶぞ」

「あ、うん―――ソソギ‥‥」

「もう、ソソギはケーキしか見えないみたいだな‥‥」

 張り付くようにショーケースへ腰を屈めているソソギの後ろ姿を、カレンと2人で眺め、つい口元を緩めてしまった。



「豪華ですね‥‥!」

「たまにはな」

 後ろから抱きついてくるサイナの口に、中心が赤く染まったままのローストビーフを一切れ入れる。味見第一号となったサイナは、朗らかに頬を緩めて咀嚼を続ける。

「どうだ?」

「美味しい‥‥!仕事前から仕込んでいたのは、これだったんですね♪」

「ミトリとネガイから習って、少しだけ手間をかけてみたんだ」

 2人が戻ってくるとわかった日から考えていた。出迎えにはどんな料理がいいか?と。

 その結果、ネガイの提案を選ぶ事とした。その時には、先日の仕事が決まっていたから、ぶっつけ本番となってしまったが、なかなか見た目も味も良く仕上がった。

 それなりの値段を払って買った牛のブロック肉は、値段以上の仕事をしてくれている。

「悪いな。結局手伝わせて」

 隣にいるマトイに話しかける。作り終えたミートソースをマトイは、一口だけスプーンですくい上げて差し向けてくれたので、何かを言われる前に口に含んでみる。

 トマトの缶の酸味と挽肉の旨味がお互いの邪魔をしていない。それどころか、トマトの酸味がさっぱり感を出していて挽肉の味が後を引かない。ネガイのハンバーグとはまた違う旨味が生まれている。パスタによく絡みそうな味に頬が緩んでしまう。

「どう?」

「‥‥美味しい。もう一口食べたい」

 さくらんぼの時を思い出し、次をねだってみる。

「はい」

 もう一口分のスプーンを向けてきたが、隣のサイナが飛び込むように奪っていった。マトイもその光景に好ましかったのか、大人しくサイナの成すがままとなった。

「こっちも美味しいですね♪」

 気が済んだらしく上機嫌で、ソソギとカレンがいるリビングに戻って行くサイナの後ろ姿を眺め、マトイに視線を戻す。

「そんな残念そうな顔をしないで、すぐに食べれるから」

 また顔に出ていたようで、マトイが慰めながら背中を撫でてくれる。そんな優しいマトイに、お返しをしなければと思い聞いてみる事にした。

「マトイも食べるか?」

 切り分け終わったローストビーフを視線で示す。既に完成しているソースの小瓶と共に机に運ぶだけとなっているローストビーフは、我ながら良い赤に染まってくれていると自慢できた。

「あなたの指で頂きますね」

 マトイもさくらんぼを思い出したらしく、制服のズボンを撫でながら、舌舐めずりをしてくる。

 舌の感触を思い出しながら指でローストビーフを摘まみ、マトイの真っ赤な口に運ぶと、当然のように指ごと吸われる。艶めかしい音と指を奪われかねない程の強い吸い付きに背筋を震わせていると、最後まで淫靡な音を立てて指を返してくれた。

「‥‥美味しい‥‥。ふふ、舐めるんですね」

 何も考えずにマトイがしゃぶっていた指を、口に運んでしまっていた。

「‥‥マトイ」

「鍵は持っているでしょう。‥‥後で来て」

 頭が熱されたように真っ白になり、気が付いた時にはマトイを抱き寄せてしまっていた。数分にも満たない時間、マトイの肺と体温と髪の香りを感じていると、

「あとは私がしますから。話して来て下さい」

「‥‥ああ、任せる」

 マトイからの気遣いを無駄にできない―――そう言い聞かせて、未だ冷めやらぬ心臓の熱を押さえつけながら、三人の待つソファーに行く。

「そこです!そこ!!」

「この蟻、硬いですっ!」

「蜘蛛の糸が痛い‥‥。‥‥逃げ切れないなら!」

 サイナの指示の元、ソソギとカレンの2人でゲームをしていた。

 シズクが持ってきたゲームとは違うが、ゲームという物に興味を持ったネガイが買い揃えたゲーム機の一つだった。

 また。このゲームソフトはミトリが勧めてきた物で、2人でたまに遊んでいる。

「モニターもゲーム機も、もう一つずつぐらい買うか?」

「あ、いいですね♪お安くしときますよ〜♪」

「そん時は頼む」

 1人掛けのソファーに座りながら、3人の座っているソファーを眺める。少しばかり窮屈そうだが、それどころではないらしい。

 肘掛けに肘をつきながら拳を作り、頬を乗せてリラックスの態勢に入ると、自然と眠気が脳をくすぐってくるのを感じる。欠伸すら生まれない瞬間的な眠りに、

「‥‥もう無理‥‥眠い‥‥」

「寝ちゃダメですよ!」

 負けそうになっていると、立ち上がったサイナが飛ぶように膝の上に乗ってくる。

「‥‥眠い」

「逆効果でしたか‥‥。でも、ダメです!」

 先程のカレンのように頬を引っ張ってくるが、眠気には敵わない。少し暑い気温を冷房で慰められ、サイナの体温を感じ取っている今の状況は、布団に包まっているようだった。更に、サイナの美声が耳元から聞こえてくる。

 これ以上の至福はそうそうない。幾ら払っても払い足りない。幾らでも払える。

「‥‥大丈夫、わかってる―――ゲーム面白いか?」

 眠気覚ましに背もたれに寄りかかり、2人に話しかける。

「うん。面白い。今度買いに行きたい」

「そうね、これは欲しい。あなたはやるの?」

「ああ、やるぞ。だけど、」

 2人がやっているゲームはシューティングゲーム。迫りくる虫を銃で全滅させる内容で、虫が割とリアルでコメディーとホラーの間にあるようなゲームだった。

 ミトリとネガイは気に入ってやっていて、たまに誘われていたが、自分がメインにやるのは別のゲーム。

「俺はこの辺。ダンジョンが作りこまれててゴシックホラーで、」

 せっかくサイナが渡してくれたというのに、2人は話す半分どころか3割程度でゲームに戻ってしまった。

「‥‥良いゲームだよな?」

「私には難しいジャンルですね♪」

 何度も死ねて、何度もやり直せる。それに銃声が良くて、武器の重厚感も気に入っていた。

「まぁ、いいか―――」

「寝ちゃダメです!」

 両頬を引っ張られて、ようやく眠気に拮抗できる。だけど、そう遠くない未来に眠ってしまうだろう。

 2人のゲームコントローラーが出す規則正しい操作音。それに、汗をかいた事により香ってくるサイナの香水。

 むしろ、率先して眠らせるようとしてくるのはサイナの方だった。

「‥‥サイナ。寝かせて」

「だからダメです!怒っちゃいますよ!おふたりも何か言って下さい!」

「私が添い寝する?」

「違います!!」

「ふふ、冗談」

 目を開けられない。ソソギがサイナをからかっているようだが、その光景も能わない。

 興味深い事に、ソソギはかなり積極的、挑発的だった。しかもこの妖艶さは年齢以上の賢智を感じられた―――年上に誘われているようで、手の上に収まってしまいそうになっている自分がいる。思わず、手を伸ばしてしまいそうになる。

「その役目は私ですよ。ほら、起きて」

 足音もしないでマトイが後ろから話しかけつつ、目元に冷たい手を置いてくる。

「‥‥気持ちいい‥‥」

「良かった。起きれる?」

「‥‥ああ、起きるか」

「やっと起きましたか‥‥。私が準備しますので、この甘えん坊をお願いしますね―――もう、だからダメですって!」

 どこかに行こうとするサイナを引き留めようと抱き締めるが、するりと抜けられてしまった。

「抱き枕にする気ですか!?私を困らせないで下さい!ほら、起きて!」

「‥‥大丈夫、もう起きた。助かったよ」

 サイナに手を引かれ、ようやくソファーの魔の手から這い出る。

 こうやってたまにソファーで寝てしまう事を鑑みると、どうやらこのソファーは化け物を捕らえる為に作り出されたらしい。なんて恐ろしい罠だ。魔女の紡ぎ車もかくやと言ったところだ。

 ただ、寝てしまってもこうやって起こしてしまう人間がいることは、設計者も考えていなかったようだ。

「そろそろ昼にしよう。一旦、切り上げてくれるか―――聞こえてるかー?」

 ふたりを誘って食卓に向かおうとするが、当の本人たちは心ここにあらず。既にその身も心も、モニター内に捧げ、ただただ無言で銃火器コントローラーを巧み操る兵士の一員となっていた。

「ヒトガタって、皆こうなんですか?」

「みたいだな‥‥」

 そう嘆きはしたが、サイナ曰く、ふたりを引き剥がすのは、眠りかけた俺を夢の世界から引き上げるのよりは、楽だったと言われた。




「美味しい!このソース、自分で作ったの!?」

「て言ってもネガイとミトリに教えてもらったんだけどな。ソソギはどうだ?」

「すごく美味しい」

 全力で美味しさを表現しているようだが、言葉足らずだった。だが、ローストビーフに伸びる手が止まない事が何よりの証拠だと、何よりも実感できた。

「マトイも凄いな。この短時間でこんなに美味いだなんて‥‥」

「食材が良かったんですよ。あなたが景気良く買ってくれたお陰です」

 マトイが作ってくれたボロネーゼに手が止まらない。チーズをかける事も忘れて食べ続けてしまった。

「どうだ?少しは消えたか?」

「はい♪もう綺麗サッパリ!」

「じゃあ、仕事について聞きたい。今回もサイナは運転メインでやってくれるか?」

「勿論で〜す。どんな場所でも送りますし、迎えに行きますよ♪」

 あの光景は正気の人間にとって、到底だっただろう―――それは人間だけではない。ヒトガタたる自分にとっては、自身が生まれた膣をそのまま見せられたに近い景色だった。

「マトイも大丈夫か?」

「私は先に写真を見たので、ある程度は耐性がありました。ごめんなさい」

 フォークを置いたマトイが、深々と頭を下げた。それを受け取ったサイナは、慌てて両手を振って、

「あ、謝らないで!私が無理に着いて行ったんですから!私の方こそ、マトイの指示に従うべきでした‥‥!」

「いえ、私がもっと、」

 と言い合いが始まってしまったので、終わらない謝罪に終止符を打つ。

「そこまでだ。それで、今回の仕事とあののは間違いないんだな?」

 半分近く減ったローストビーフをトングで掴んで確認する。中は、しっかりと赤いままで、熱も確かに伝わっているのでブロック肉からは血の流れていない。

「俺とサイナが救出した子はカレン。マトイとソソギ、それとカレンであの宗教団体に潜入捜査をしていた。ここまではいいな?」

「はい。私は彼らに誘拐される事で自分の役割を果たすつもりでした」

 査問学科と特別捜査学科だからこそ出来る調査方法だ。イノリと同じか、もしくは更に危険な状態に身を差し出す作戦を実行できるのは、一年ではふたりだけだろう。

「—――聞かせて貰いたい。無事だったんだよな?」

「うん、大丈夫。あなたが何かされる前に助けてくれたから。平気」

 大丈夫だったとは言い難い光景だった。台座の上に設置されていた椅子に座らせられ、自分達の神と崇める偶像の服を着せらながら、頭に袋を被っていた。

 それらだけではない。手首は締め付けられ自由を奪われていたのを思い出す。

「‥‥悪かった」

「えっと‥‥なんでですか?」

「最初は、家出とか友達の家にいるんだろう思ってたけど、誘拐されてたなんて‥‥」

「‥‥ふふ、私のこと心配?」

 自分の技術で人間を騙し、作戦通りに誘拐された自分を誇らし気に差したカレンに、ソソギが視線を向ける。

「カレン、彼は本心で思ってくれてるの。正直に話してあげて」

「あれは全部演技だったから大丈夫。怪我もしてないし、しっかりと診断も受けて、薬物も使われてないって、結果もあるから」

「‥‥そうか」

 ああいった潜入は、特別捜査学科にとって日常であり、あれらが主体となっているのだろう。だが、正体が明らかとなったスパイが、その後どう扱われるか、誰もが想像できるだろう。その時、その状況を抜け出す為に、やるべき事だって―――。

「あなたが暗くなってどうするんです!?—――三人はどうして、あの事件に関わったんですか?」

「マトイから誘われたの。私達がヒトガタだと知っている、今回の事件はヒトガタが関わってる可能性があるから手を貸して欲しいって。それでカレンが潜入して、後から私とマトイが現場を押えるつもりだったの。‥‥謝らないといけない事がある」

 ソソギが立ち上がって、頭を直角よりも下げてきた。

「あの組織の動きが想像以上に早くて、誰かを利用する必要があった。あなた達が受けた依頼は私が出した」

 ある程度だが、察しはついていた。

 と、邪魔者として俺とサイナを排除しようとしたマトイ、同じチームだというのに、まるで噛み合っていなかった。

「‥‥特別捜査学科である以上、危険な目にある事は想定していた‥‥。でも、カレンからの報告で緊急事態だと考えたから‥‥」

が聞いて良かったですね。少し前の私でしたら、法務科に告発しているところです」

 口ではこう言っているが、法務科の空気を纏わないでくれている。本心ではあるようだが、蒸し返す気がないのも、推し測れた。

「大丈夫。俺も気にしてない。カレンを救う為だったんだろう?」

「‥‥あのままでは、何かが起こると思って―――私の一存で依頼を出して、あなた達が受けた」

に細工したのか?」

 マトイが咳払いをしながら、指で脇を刺してくる。

「いいえ、あなた達が受けたのは偶然。でも、運がよかった。噂通りの仕事をしてくれて、とても助けられた」

「また噂か‥‥。次は一体どんな噂なんだ?」

「運び屋と猟犬の話は聞いてたから。命令されるままにどこまでも追いかけて、奪っていく。だから安心して任せられた」

「猟犬?」

「そう、猟犬」

 なかなかソソギが座らないから、カレンに目配せをして肩に手を置く様に促す。

「‥‥誰だ、そんな名前つけた奴?」

「さぁ?」

 今度は本当に知らないらしく、首を傾げた。軽くマトイやサイナ、カレンを眺めるが、皆んな知らないらしい。

「どうでもいいか。元々あの組織は何をするつもりだったんだ?俺は最後まで詳しく聞けてないんだ。話してくれないか?」

「争いの無い世界、が目的だったようですね」

「—――相変わらず、人間の思考は難解だ。あいつらの差す所の争いって所か‥‥」

 無理やり少女達を誘拐して、何が争いのない世界だろうか。

 しかも、自分達のやっている事が世間一般の犯罪だとわかっていたから、あの傭兵達を雇っていた。やはり人間は嫌いだ。自分の目的が全てにおいて至上命令だと思い込んでいる。

「理解できないって顔ですね」

「マトイもだろう。世界平和と誘拐と、どんな関係があるんだ?」

「それが不明でして、何を聞いても、祭壇の製作、まずはマチ、と言っているだけ‥‥。逮捕される前から全員廃人になっていましたので‥‥はぁ‥‥」

 溜め息をついてパスタをすするマトイの顔も、また美しい。垂れないように髪を抑えている事により、横顔がよく見える。

「マチって、都市のことか?」

「不明ですが、それしか思いつきませんね。祭壇という意味もわかりませんし、正直手も足も出ない状況が続いています」

 また溜め息をついてしまった。マトイがここまで頭を抱えてしまっているのなら、あの人にもわからないのだろう。そもそも理解できる範疇の外なのだろうが。

「まぁ、そこはいいや。聞いたところでどうせ理解できないし、狂人共を理解してやる必要もない―――本題に入りたい。?」

「‥‥本当に寝てたんですね」

「何が起こった?」

 サイナの視線が痛かったが、無視する。

「なんだと思います?」

「ヒトガタを3人も呼ぶ必要があるなんて、そうそう無い。理解できない事があったんじゃないか?」

「半分正解です。でも、半分足りません」

 半分足りない。ならばただの人間の思考では追いつけない世界、流星の使徒達のような狂人達の思想に触れなければならない。

 同時に、自分達ヒトガタが求められた理由がそこにある。ヒトガタに関係した狂人達の世界だと想像すると、思い当たる節があった―――。

「もう半分は人間の狂気のルール―――血の聖女か」

 人間の欲望とヒトガタの欲望が交わった事件。成育者たる人間の命令を受け入れて、自分の命を削っていったヒトガタがいた。

 そのヒトガタは削れていく命を惜しみながらも、人間の為、延いては死の恐怖から逃れる為に、血を流していた。

「はい、正解です。今回ソソギさんにカレンさんの早期解放が叶った理由がこれにあります。法務科のマトイとして命令を伝えます、ヒトガタの力と頭脳、思想を使い成育者たる学究の徒達の無力化、逮捕。同時に血の聖女を行方を探し出し確保せよ」

 ヒトガタである俺達は成育者に捨てられた。また俺達もヒトガタを捨てた。だが、生まれは捨てられない。

 ヒトガタの記憶を消さない事が仇となったな、人間‥‥。

 お前達にんげんの狂気が俺達を苦しめたように、お前達の狂気が形となって、今度はお前達に襲い掛かる―――この化け物の手によって―――。



「眠い‥‥。もう、限界‥‥」

「よく頑張りましたね。好きなだけ甘えて」

 サイナが二人を送って行った瞬間、ソファーでマトイの足を枕にして、夢心地となっていた。

「‥‥マトイ、目に‥‥」

 そう願うや否や、マトイが僅かに口元を隠しながら手を置いてくれる。冷たくてきめ細かな手に、顔を押し付けるように求めていると、猫の頭を撫でるように手を捧げ続けてくれる。

「皆んなが帰ってくるまで軽く寝ていいですよ。それとも少し話しますか?」

「‥‥そうだな。少し話そう」

「でも、起きないんですね」

 流行っているのか、マトイも頬を摘んでくる。痛いのに、優しくて、甘美だ。

「最近、ネガイとはどうですか?」

「‥‥知ってるだろう」

「そうですね。夜は大体一緒に寝ていますものね。ネガイがいない時はミトリとも‥‥」

「‥‥忙しいのか?」

 最近、夜にマトイはいなかった。朝と昼は一緒にいてくれるが、放課後にはすぐにどこかに行ってしまう。

「少しだけですけどね。でも2人が解放されたので、しばらくゆっくりできますよ」

「‥‥また、助けてもらったな。流石に、、ふたりが逮捕された時と解放が決まる時、手を回してくれたんだろう‥‥法務科内の立場は平気なのか?」

「知りませんでしたか?あなたが活躍してくれているので、私とマスターの部署の評価が上がり続けているの」

 目蓋に重ねている手を動かして、前髪や顔を撫でてくれる。

「オーダー本部も法務科もあなたのことを評価しています。ただ――流星の使徒の総帥を退却させた事を境に、恐怖も覚えているようですけどね」

 薄い笑いが頭上から降ってくる。

「笑いながら言うことなのか?」

「言うことよ。それほどまでに、あなたが成し遂げた事実は大きかった」

「総帥か‥‥。だけど、あれは総帥の本気じゃなかったと思う‥‥」

「わかるの?」

「‥‥ああ、わかる」

 目を閉じて思い出す。首を動かすタイミング、踏み込みの浅さ深さ、脇差しや武器類の威力や尺を見誤れば、俺の首は飛んでいた。はあの数分で何十、何百とあった。

 戦場で偶然など祈りたくないが、勘や運によっても救われていた。

「‥‥総帥は、あの身体を見誤っていた。多分、使い慣れてないんだと思う―――でないと、俺が生き残る訳ない」

 直接あの鎌で斬られた訳じゃないのに、今も感じる。あの冷たい刃が手招きをして、常に待ち構えているようだった。

「だとしても、あなたはあの場で生き残った。それは紛れない勝利です。誇って。私の恋人を、もっと自慢させて」

「次の仕事も成功したら、褒めてくれる?」

「はい」

「もっと、好きになってくれる?」

「はい、約束です」

 流すように、当然の事のように間髪入れずに返事を返してくれたマトイから起き上がって、笑い合うと―――僅かに親愛だけではない、妖艶な、普段いじめてくる顔を黒髪越しに覗かせて来た。

「そろそろ帰って来てしまうかもしれませんね‥‥?」

「すぐに終わらせよう‥‥」

 両手を両肩に付けて押し倒すとが、自身の黒髪で口元を隠してしまい。目元だけで笑いかけてくる。

 艶やかな髪の付け根を指で引いて、口元を晒させた時、返事も受け付けないで貪った。

 湿った温かな口内に、懐かしさを関してしまう。同時のマトイも数日分を取り返すように積極的に飲み込んでくる。引きちぎりそうな勢いで舌に舌を絡ませてくる。

 頬の裏側も滑らかで傷一つ無い。それを確認する数秒の間、マトイの唾液を飲み込む度に、マトイに溺れている―――意識がマトイに沈んで、混濁していく快楽を楽しみ続ける。

「‥‥眠い?だけど頑張って、私はまだ足りないから」

 背中を抱かれて、逃げ場を奪われて、息継ぎをするタイミングすら奪われる。酸素を吸い込める空気がマトイの体内からしかない所為で、息を吸う為にマトイを求めてしまう。

「‥‥布は、使わないのか?」

「それは夜になったら。もしかして―――期待してたの?」

「‥‥少しだけ」

「わかりました。———後で、縛ってあげますから」

 吐息と共に、ますますマトイに溺れてしまう。止まらない唾液を携えて、マトイとそのまま重なる。唾液が止まらないのはマトイも同じだった。

 口と口が触れた瞬間、お互いの口元から唾液が飛び出してきた。それが唇の潤滑油になり、更に奥まで滑りやすくなる。

「交代です」

 起き上がったマトイが、今度は上に乗ってくる。

「先程の話、どう思いますか?」

「‥‥混血の話か。できるだろうけど、やっぱり意味が無い」

 上に乗っているマトイと両手の指と指を組む。細くて白いだけじゃなくて、冷たくて心地いい。

「2人と同じ意見ですね」

「ああ、それに混血って言ってもクウォーターだ。4分の1じゃあ、ヒトガタが作れるかどうかすら怪しい」

 純血の聖女の血と人間の血を混ぜた物を飲ませて、身体に馴染んだ頃合いを見計らって少女達から抜き取る。

 単純な数字の上では4分の1の濃さだが、実際は更に薄いだろう。とても、貴き者の血の代用品にはなり得ない。

 ならば、別の使い道があるのだろうが、今は手探りすら出来ない。自動記述も何も答えてくれない。それはふたりも同じだったようで、答えは出なかった。

 あまりにも法則を無視した誕生種に、理解が追い付かなかった。

「若い女の子達を中心に流行ってた。イノリと確認したから間違いない‥‥」

「はい、病院に運び込まれた子達は皆んな若い子達でした。そして、皆一様に聖女に会った、救われた、と言っていた―――もう知ってますね」

「‥‥人間と夢の中で交信をして、究極の血に至ろうとした、か‥‥。聖女に直接合わせてくれるって話だけど、出来るのか?」

「その予定ですよ。彼女は今も病院にいます」

「また行くことになるなんて‥‥嫌だなぁ」

「病院が?何故‥‥?」

 腰を滑らせて、座っていた体勢から横になり完全に身体を重ねてきた。身体の上で器用に滑っているマトイの身体を腕で固定して、頭を胸に乗せる。

「俺を売ったからだよ」

「‥‥そうですね」

「‥‥悪い。マトイに言った訳じゃないんだ。でも‥‥消えないんだ」

「いいえ、その怨嗟は消さないで。どうか人間を恨んだままでいて――――私は、そうやって救われた」

 今も覚えてる。あの医者はガットフックを向け、あの看護婦どもはサイレンサーを装備し、用意していた。発砲しなかったかどうかは誤差だ。あいつらは俺を捨てて、売り払い、あのカエルを手引きした。

 しかも、サプレッサーがあるという事は、往々にして患者に襲い掛かっていたという事だ。到底、心と傷を癒す場とは思えない。

「‥‥ああ、殺したい」

 自然と口から産まれた―――わかりきっていた。本気で始末しようと思えば、始末できただろう。本気であった筈がない。

「誰を?」

「‥‥人間を」

「私も人間ですよ」

「でも約束した。一緒にいてくれるんだろう?だったら、マトイは殺せない――――もしかして、おかしい事言ってる?」

「いいえ、何も。なら他の人間も

「どうして?」

「私と、二度と会えなくなります」

「‥‥それは、嫌だ」

 人を殺すと二度とマトイと会えなくなる。それが人間のルールであり、オーダーの掟だった。それだけは避けたい。

 だけれど、そうなったならば、この手で人間の世界を壊せばいいのではないか?裁く者も裁く法も、須らく切り刻めばそれで事足りるのではないか?

「そして私は

「しない。殺しは無しだ」

 もっとも避けるべき事由があった。

「そうして下さい。あの病院はどこまでも、どこよりも中立です。いくらあなたでも、問題を起こそうものなら拘束されます」

「本当かそれ?」

「オーダー本部と治療庁生命室、つまりは治療部トップが取り交わした契約が、あの事件以来発足されました。オーダーの治療部が運営しているあらゆる医療施設は、全ての組織から命令権を行使されない。完全な治外法権が生まれました」

「今まで無かった方がおかしいだろう‥‥」

「まごうこと無く、その通りですね」

 マトイが胸の上で溜め息をついた。声だけではわかる、美人は何をしても美人だった。胸の上のマトイの背中を抱きながら顎を上げながら息を吐く。

「‥‥まぁ、いいか。なら安心してもよさそうだ」

「安心して会いに行ってきて下さい。それと、私達は明日外にいますので、何かあったら連絡を。もしくはマスターへ」

「俺、あの人の連絡先知らないんだけど‥‥」

「後で――――失礼」

 机の上に置いてあったマトイのスマホに着信が届いた。だけど、着信音でそれがチャットだとわかり、届いたチャットを確認したマトイが微かに笑いながら見せてくれる————重なってままでスマホ画面を2人で見る。ネガイからだった。

「遅くなるので、先に寝てて下さい―――ふたりきりだ」

「ふたりきりですよ」

 急激に身体中が熱くなった。それに呼応するように、マトイの血流も早まっていく。Yシャツ越しの身体はこんなにも柔らかいのに、決して形は崩れない。

 相反する性質を持つ身体が、更に内側を焦がす熱を感じた。

「どうしますか?」

「全部しよう‥‥」

「私は初めてですから、リード、お願いしますね」

 確かに経験はあるのかもしれないが、それを使いこなせるとは到底思えない。

 今はただ、マトイとの時間を楽しみたい。マトイと一緒になりたい。それだけしか思い浮かばかなかった。

「‥‥風呂、入らないと」

「今日は、汗をかきましたからね」

 2人でソファーから起き上がって、Yシャツを脱ぐ。重なっていたせいか、それともマトイとの時間を求めているからか、暑くて仕方なかった。

 同時に、上半身の傷を隠すために着ていたスポーツタイツも脱ぎ捨てて、手を差し伸ばす。

「行こう‥‥」

 上半身だけだが裸になったことにより、更にマトイが愛おしくなった。手を掴んでくれたマトイと共に脱衣所に向かい、鍵を閉める。

 恥じらいや誤魔化しの微笑すら浮かべないマトイの方が、明らかに優勢だった。普段通りの余裕ある風格に、安堵しながら息を吸うと、こんな事を言われた。

「1人で脱げますか?」

「‥‥脱げない」

「困りましたね‥‥」

 ネガイやミトリよりも洗練された小声が、耳をくすぐってくる。

 脱げないという言葉は事実だった――――今はただ立つことで精一杯でしかない。

「大丈夫だから、任せて‥‥」

 この答えを待ち望んでいたように、こちらの胸に手を当てた瞬間、Yシャツの中からあの黒い布が這い出てきた。

「怖くなんてない。すぐ、気持ち良くなりますから」

 布が身体中を這い回り、ズボンや肌着などを器用に脱がしていく。片方だけではなく、マトイ自身も脱がされていく。

 柔らかくて滑らかな布だった。それらが身体を撫でていくのだから、痛みも恐怖心も生まれない。快楽しか感じない。だから「気持ちいい‥‥」と言った時、マトイが隠すように笑った。

「脱いでしまいましたね?」

 お互い生まれたままの姿で向き合う。

 美しかった。制服の上からではわからない腰から臀部にかけての膨らみが強欲に目を奪ってくる。それだけではない、腕で隠している胸元も腕から溢れるような質量を誇っているのが、髪や腕越しでもわかった。

 重力に負けつつあったとしても、美しい形を維持し続ける、一目で魅了された。足元のズボンからつま先を抜き出し、手を引いて風呂場に入る。

「座って、私が洗いますから」

「‥‥いや、一緒に浴びよう。マトイも早く流したいだろう?」

「私と浴びたい―――素直なヒト」

 自分の胸に引き寄せる。お互いの汗で、お互いの肌が張り付く感覚に一抹の心残りを感じながら、壁タイルに備えてあるシャワーのハンドルを回した時、飛び出した湯は一瞬で浴室内を湯気で充満させ、ふたりだけの霧のカーテンを作り出す。

「‥‥熱くないか?」

「いいえ、とても良い——」

 足元とマトイの腕から生み出された布が身体中に再度這って、汚れと汗を流すために身体を撫でてくる。

「いつもこう入ってるのか?」

「普段は自分の手でしてますよ。あなたが離れてくれないから、行使しているんの―――それとも私の手で洗って欲しい?」

「‥‥いや、今はこのままで‥‥」

 黒い布が入り込む隙間を無くすつもりで、白い肌を抱き締める。

「どうかした?」

 シャワーが湯を吐き出す音と、身体に流れた水滴が床に落ちる音が響く。

「‥‥行きたくない」

「怖い?」

「あの病院が嫌いだ。正直に言う―――あの人間達の顔を見たら、血が見たくなるかもしれない」

「でも約束したでしょう?」

 明日、ソソギとカレンの三人で聖女の元に行く。そこで血の聖女、並びにヒトガタとしての話をすると約束した。

「私がいないと、不安?」

「‥‥不安なんだ。自分で自分を止められるか、わからない」

 急にマトイが笑った。思わず、「マトイ?」と聞いたが、彼女の笑みが浴室で反響するばかりで、それ以上の答えは出なかった。戸惑っていると、シャワーのハンドルが布で操作され、湯が止まってしまう。

「まずは、ゆっくりと入りましょう。さぁ、まずはあなたが」

 手を引かれて湯船に誘われる。促がされるまま、普段ネガイと入る時のように、自分が先に入り、後から背を向けたマトイが湯舟に沈んでうなじで話かけてくる。

「恋人達の噂、実は私も知っていました」

「どんな噂なんだ?一体‥‥」

「ソソギさんが話した通り、あなたに命令出来るのは恋人達だけ。私とネガイ、それにミトリにサイナ」

 自身の首に長い髪をまとめたマトイが、振り返ってくる。見返り美人とはマトイの為にある言葉だったと悟る――――違った、マトイは常に美人なのだから、当然だ。

「命令か。マトイからんだけど。人間には、そう見えてるなんて。俺が、勝手にやってるだけなのに」

 横顔を眺めながら、声を漏らしてみる。

「実は私もそうです。命令されてみたい?」

「内容による、いや、マトイの命令ならなんでも」

 マトイの命令なら問題ないと確信できる。

 多少の危険があろうと、無用で望まない痛みを意図的に与える策謀は、もう張り巡らされないとわかる。

 ネガイもミトリもサイナも、皆んな、この身を案じてくれている。命令の一つや二つで返せるとは思えない大きな恩義を受け取ってしまっている。

「なら明日は私の許可も無しに暴れないこと。いいですね?」

 強い口調で命令してくるが半笑いで下された。命令という行動が、楽しいらしい。

 こんな楽し気で従い甲斐のある命令は初めてで、興味深かった。

「わかった。暴れる時はマトイの許可を貰う」

「そして、もし命の危険に晒された場合は例外です。殺しをしなければ、なんでもして下さい」

「なんでもか?」

「なんでも」

「心強い言質だ。聞いていいか?マトイは法務科だと、どんな立場なんだ?何度か、法務科の人間に命令してたから気になってたんだ」

 実力者でもあるマトイは、魔に連なる者としての知識を併せ持つ重要な構成員なのだと漠然と思っていたが、どうやら―――言葉だけで片付けられる人員ではなさそうだった。使徒との一件以来、その特異な立場は更に未知数となっていた。

「私ですか?そうですね、マスターの助手といったところ。強いて言えば、専門家?このような所かと。特異かもしれませんけど、説明するほどではありませんよ」

 口ではこう返すが、これも言いたくない内容のひとつだったのだと理解した。

 しかもマトイほど強力な術者はそうそういないと、昨今ようやく気付いた。

 実体験を元に知った『誰でも殺す流星の使徒』を、たったひとりで何人も撃破していたのだから。。総帥と殺し合ってる俺の背中を守り続けていた。

 それだけではない俺を眠らせる術を思い付き、実行に移せた理由はネガイの能力だけで無く、マトイの技術も有ったから可能と判断したに違いない。

 ならば人材難と言われている法務科の中でも、それなり以上の立場を与えられているのも頷ける。

 な立場とは、口で言うほど簡素なではないだろう。

「俺と一緒にいて平気なのか。マトイは法務科として問題無いのか」

「何も問題ありません。元々、私はあなたの監視役としています。忘れましたか?」

「忘れてた」

「あなたこそ、私と一緒にいていいんですか?」

 この質問の答えなど、とうの昔に回答していた。

 何度目かの言質を求めるいじわるながらも、覚悟を改めて呼び起こす声に自分は必ず頷いている。顔に影を作りながら返す意思に、マトイは更に問いかける。

「どうして?」

「マトイが好きだから。マトイはどうだ?俺の隣にいるのは、どうして?」

「私もです。あなたが好きだから此処にいる。だから人間を殺さないで、私の為にも」

 考えるまでもなかった。

 マトイが好きだったから、喜ばせようと奔走していた。

 同時に知らなかった。

 この化け物が頼みを聞いていたから、マトイは隣にいられたのかと―――ならば、もっと早く素直になればよかったと後悔してしまう。

 早く法務科に所属すれば、マトイともっと一緒にいれたというのに。

「マトイを好きになってよかった」

 後ろから抱き締めて、耳元に顔をうずめながら目を閉じる。

 黒髪の恋人は我慢をしろとは言わない。化け物だと理解しながら、化け物でも許されない境界線を教えてくれている。そのことが嬉しくて仕方ない。

 好きな人に自分のこと知られている。

 それはこの上ない、心の快楽だった。

「眠い?」

「少しだけ。マトイは?」

「平気です。もう少しだけ一緒に浸かっていても?」

「俺も、もう少しこのままでいたい」




「‥‥マトイ」

「どうしました?」

「もう少し、その‥‥」

「自分の部屋ではいつもこうですよ。慣れて下さいね」

 1人掛け用のソファーに肘を付く挑発的な姿勢と、蕩けるような目蓋を細めた蠱惑的な視線で心臓を射抜いてくる。

 風呂から上がったマトイは自身の布を身に付けたが、ほとんど隠せていない。

 強いて言えば、最低必要な部分だけ隠せている。

 黒い帯状の布をストールのように首から流し、胸を覆っているがそれだけでしかない。下半身は自身の足を組んで隠しているが、やはりそれだけ。

 ローマ人やケルト人の湯上りをイメージさせる姿は、生まれたままの素肌に自信を持っているから、何も恥じる物なく人に見せていられる。

「それに、もう散々見たでしょう。お風呂とソファーでは感じるものが違いますか?」

 自身の肘をついている拳の小指を口に入れた。

 その一挙動一挙動から目が離せない。

「夢‥‥」

 そう呟いた時、ドルイダスの弟子が薄く笑った。

「正解です。どうですか?」

 足を組み直し、向けられた爪先を見てしまう。

「‥‥夢には種類がある」

「一つはマスターの夢のように、世界を創り出すもの。もう一つは私のように、現実と夢の間を曖昧にするもの」

 恐らくだが、アルマが使った物は後者。そして総帥は前者。

 前者は強制的に自身の世界に相手を引き入れて、自分に有利な場所を作り出すのだろう。圧倒的なアドバンテージを即座に得られる。

 そして後者の方は夢であり、暗示でもある。最初に対象を惑わせて、完全に暗示にかかったところで自身の夢に引き込む。

 終わりは二者共に同じと言えるだろうが、始まりと過程が違う。

「どちらが強力かはわかりますね?」

「‥‥マトイの師匠の夢」

 向けられた爪先から目が離せない。

「そうです。しかし、マスターや総帥程の力を持った人間はまずいません。大多数が後者だと思って下さい」

 最初の暗示にかからなければ問題無いとは到底思えない。既に幾度となくマトイやアルマの2人から掛けられている。けれど、一度でも誘い込まれればただただ無力でしかない。なんの前触れもなく掛けられては、どうすることもできない。

 精々が終わった後に気付くかどうかだが、それすら見抜けないかもしれない。

「—――まだまだ実力も経験も足りないみたい」

 そう正直に吐露した所、どこか嘲笑うと同時に心底嬉しそうに口元を歪めた。

「三人は、まだかかるようですね」

 急に立ち上がったマトイが隣に座る。

 上から見下ろすと、マトイの肢体の艶やかさが目に焼き付いてしまった。布で隠している胸元から慌てて顔を外すが隙を突かれ、口を舐め取られる。

「‥‥しますか?」

「したい‥‥」

「でも、まだ早いから我慢して。きっと終わった直後、私は冷静になれないから。皆んなが寝静まってから来て‥‥」

 抱かれた腕が胸に誘われ、手首が熱を発する下腹部で挟まれる。

 柔らかい筋肉を白い脂肪で包んだマトイの肢体の不安定さ、そして決して崩れる事のない確かな女性の形が腕の肌に刻まれ────僅かな恥部の体毛が肌をくすぐる。

「—――ここを触ったのはあなたが初めてです。ふふ、ダメ」

 触れて握ってしまった体毛の奥底から、漂った香りに理性が絆される。本能のまま飛び掛かろうとしたところを、マトイの布によりソファーに縛り付けられる。

「私は逃げません。けれど順序があります。私が許可を出した時だけ、私に触れなさい。私がしたい時だけ、私としなさい」

 締まらない程度に首を絞め、動かない口に口付けをさられる。

「いいですね。その顔‥‥」

 サディスティックな色香を纏うマトイが、何も身に付けていない下腹部で薄い生地の寝巻の下半身を押さえ付ける。色香に惑わされている心臓の余波が、身体中を駆け巡っているというのに、マトイは次を始めてくれない。

「羨ましかったの。隣の部屋から声が聞こえて。何度混ざろうと思ったか」

 布で作った刃を使い、甚平の上も下も、下着まで切り裂いてくる。

「でも、夜は1人の物」

 冷たい刃を首の血管に沿わせた。

「それに、こういうのは2人だけでしたかった。やっとあなたで試せる」

 身を一度引いて自分の小指を口に入れる。

 動けない相手と動ける自分という異常な光景に興奮してるのが、息遣いで分かる。

 自身の布をストールから浴衣に変更し、下腹部を隠した。そして咥えていない方の、自分を慰み始める。

 普段、清楚な側面しか覗かせないマトイの艶姿に血管が焼け付き始める。

 早くマトイの中に入りたいと、心臓から腕が伸びそうなほど鼓動している。

 だけど、音が聞こえた。

「何か言いたい?」

 首の布を軽く緩められた。

 さっきまで喉を絞められたいたせいで声が出ない、しかし―――息を振り絞る。

「‥‥早く」

「我慢できない?」

「後ろだ!マト」

 鳩尾に鞘が飛んできた。

「お見事ー♪」

「こ、こういうのも、好きなんですね」

「マトイに頼んで縛ってもらいましたか?」

 鞘によって、一気に視界が暗くなった。

「そうです。彼の頼みです」

 途切れ行く意識の中、流石にこの状況では無理なのではないか?という心の声をマトイに届かせようとしたが、当然届く筈がなかった。それどころか、「遂にここまで来ましたか。覚えておきましょう」とネガイが冷静に言うものだから、ミトリとサイナが静かに喉を鳴らす。どうやら、そこまでアブノーマルな癖の持ち主だと思われていたらしい―――。

「マトイ、ケーキはどこですか?」

「冷蔵庫にあります。待って下さい、今お茶を」

「わ、私も手伝います!」

 いつの間にか帯を結んだ浴衣姿のマトイには何も言わずに、三人で食卓に行ってしまった―――俺の布をそのままにして。

「サイナ‥‥」

「は〜い♪」

 傍に立っている可能性に掛けて、サイナへ呼びかける。

「‥‥眠い」

「助けてじゃないのが、あなたらしいですね♪」




「ごめんなさい。どうか淫靡な私を許して」

「わかった。許すよ‥‥」

 裂かれた甚平を捨てて着替えた深夜。気付かれないようにマトイの部屋に鍵を刺し込み、有無も言わずにベットの艶姿のマトイに抱きついた所だった。

「その浴衣」

「浴衣?ああ、これですか。これも普段の部屋着の一つ、気に入った?」

「綺麗で似合ってる。普段はその姿でいて‥‥」

「覚えておきましょう」

 褒められて本心から嬉しかったのか、素直に頷いてくれた。

 この姿は事実、美しい。浴衣の間から覗くマトイの足が白く艶やかで、特に美麗さを感じた。爪先から脛、ふくらはぎから踵まで全てが白く輝き、更にうなじも―――マトイの後ろ姿から目が離せなかった。

「‥‥ああ、眠い‥‥」

「今日はここまでにしますか。‥‥ふふ、さっきの気分も無くなりましたし」

 頭を抱えられて横になった事により、薄い浴衣の生地越しの膨らみを謝礼代わりに弄ぶ。締め付ける物もなく、形の整った巨大で柔らかい谷間に頬を当てる。心をくすぐる香りに目を閉じて、しばらくの間、心音も楽しみ続けた。そして、言葉を選びながらも、昼頃の出会いについてを知らせる。

「‥‥あの人に会った」

「あの人?マスターですか?」

「ああ、人形にケーキ‥‥」

「まさか‥‥ゴーレムでケーキを買っていたの‥‥?」

 割と驚いた声を出したマトイが、震える声で聞き返してくる。

「‥‥あー、いや多分違う。三人で外に出た時、制服姿の」

「制服‥‥!?」

 ダメだった。どうにか誤魔化そうと思ったが、何を言っても墓穴を掘ってしまう。

「‥‥話して、あの人は人形で何をしていたの?」

 体温と香りを餌に、暗示を受け入れたつもりだったが、まだまだ本気ではなかったようだ。マトイの顔に目を向けたら、視線を外す事が出来なくなり、喉すら勝手に言葉を紡ごうと震えていた。

「話してくれたら、もっと好きになってあげます。だから、全て話して」

「あの人自身よりも、若い人形がケーキを買いに来てた‥‥」

「それで?」

「制服を着てた‥‥」

「‥‥そう。そうですか」

 自分の胸の更に引き込んで、頭を撫でくれた―――なぜだろう、先ほどよりも撫でる手に力がなく、どこか悲しんでいるように感じた。

「悪い、見ない方が良かったよな」

「ふふ、謝らないで。私は嬉しいんです」

 想定していなかった返答と、悲しみではない、祈りが届いたかのようなすすり泣く声に困惑してしまい、ただマトイの背中に腕を伸ばす事しか出来なかった。

「あの人の元に、いつから弟子入りしてるんだ?」

 浴衣越しの肺の震えが収まった時、そう訊いてみた。

「弟子入り‥‥。正確に言うと弟子ではありません。結果的に弟子としてあの人の世話になっていますけどね」

「言いたくないか?」

「少しだけ」

「ごめん、言わなくていいから‥‥」

 マトイの胸から、移動して胸で抱きしめる。

「オーダーには色々な理由で流れついた人がいます。私もその中の1人というだけ。卑怯ですよね。私はあなたのことをよく知ってるのに、あなたは私を待ち続けてくれる。あなたを好きになって良かった、本当に私のことを、思ってくれてる」

「マトイも、俺のことを考えてくれてるだろう。マトイから貰った命なんだ、マトイのために使いたい」

「独占欲ってこんな気持ちなんですね―――自分でも怖いぐらい、あなたが好き。ひとりにしないで‥‥」

 震えていない―――誰も、震えてなんていない。

 自分は、殺されるまで本当の孤独を知らなかった。だけど、マトイはきっと。あの暗い寒い風の中を、風除けもなしに灯もなしに、ひとりでただ流される感覚を、この黒髪の恋人は経験した事がある―――だから、この小さい肩と細い腰から、想像も出来なかった力を今も伝え続けている。

 だから、この震えを止める為に、腕に力を入れる。

 だから、誰も震えてなんていない。

「私も同じですね。ネガイが私に強く当たってた時期、覚えてる?大丈夫、今は喧嘩なんてしてません。本当に、心の底から信じていますから」

 腕の中で笑いかけてくれる。

「最初は私自身も何故あの子が私に冷たいのか、わからなかった――――でも、今ならわかります」

 腕の中から頭を引き寄せて、舌で唾液を舐めとって自身の口を濡らした。

「あなたを独占出来なくて、嫌だったんだって‥‥」

「‥‥わかるのか?」

「勿論‥‥だって、私も同じだったから‥‥」

 いつの間にか浴衣を消したマトイが、自分の足で足に巻きついてくる。屋上でも同じ事をされたと、思い出していた。

「いつもあなたといるネガイが羨ましかった。私に会いに来てくれても、それはネガイの合間合間だったから‥‥バイクだって、そう‥‥。あなたの送り迎えで登下校する、を見て‥‥悔しかった‥‥」

 ここから逃がさない言うつもりなのか、布が身体に巻きついて、寝巻きを脱がしてくる。

「だから、私はしてはいけないことをした。‥‥ネガイから、あなたを奪いたかった。私の物にしたかった‥‥」

「‥‥俺はマトイの物だ。どこにも行かない」

 出会ってまだ3ヶ月程度の時間しか経っていない。そう長い期間ではない、そう思っていたのは自分だけだった。

 いつも余裕があり俺で遊んでいたマトイは、どんな目で見ていたのか。

 最初の事件以来、俺の隣にいつもいる姿をどんな感情で見ていたのか、考えもしなかった――――素直に人間を辞めれば良かったのだ。

 そうすれば、マトイを苦しめることはなかったというのに――――。

「気付かなかったんです‥‥。ネガイが私に冷たかったんじゃなくて、私がネガイに酷い態度を取っていた‥‥」

「もういい」

 身体に巻きついてくる布を力だけで捻じ伏せる。そのままマトイにしがみつく。

「もう終わった‥‥、俺は生きてる。マトイのお陰で俺は生きて、ここにいる。‥‥俺も早く全部言うべきだった。ヒトガタも目も、気持ちも全部—――。初めて会った時から、ずっとマトイを追ってた‥‥」

「‥‥本当?」

「この気持ちが、嘘の筈がない――――俺の方こそ、マトイを誰にも渡したくなかった。‥‥マトイが人気だって聞いて、怖かった‥‥」

 容姿と性格、そして偶に見せる笑顔、それらで俺は既に殺されていた。

 マトイを自分の物にしたかった。だけど、誰もがマトイに想いを寄せていると聞いて、怖くなった。誰かに奪われると、もう既に奪われているかもしれないと思うと、怖くて仕方なかった。

「誰にも渡さない。マトイは恋人だから‥‥」

「‥‥はい。私はあなたの恋人です‥‥」

 自然と震えが消えていく。

「‥‥お互い、何も着てませんね。それにベットの中で‥‥」

 冷房の音とマトイの呼吸だけが聞こえる。

 —―――だ。これから起こることを予感し、駆け巡る血の衝撃を、自らの心臓で準備をしているように。

 細い手が身体に触れてくる。胸から腹、腹から下腹部へと。

「‥‥熱い‥‥。ネガイもミトリも、こうやって‥‥」

 冷たいマトイの手が触れてくる。

「‥‥怖いか?」

「少しだけ‥‥でも、」

「でも?」

「この部屋は私の中です」

 その意味がわかったが、慌てる必要はない。ゆっくりと部屋中を眺め、景色が変わっているのを確認する。

「‥‥綺麗だ」

 ガラスで造られたドームの中に、ベットだけがある。真上には三日月が輝いていた。

「ここが私の世界です。男性を入れるのはあなたが初めて‥‥。それに、ここは私の夢ですから――――ふふ‥‥」

「‥‥平気なのか?」

「平気です」

 耳元で囁いてきたマトイの言葉は、甘美でインモラルな誘いだった。知恵の樹の実を手に取るように、唆してくるイブのようだった。

 だけど―――――その囁きには、屈する訳にはいかなかった。

「‥‥いや、使おう」

「どうして?」

「マトイにばかり苦労はかけられない。その時は俺から誘う。だから、。恥ずかしくない、胸を張ってマトイを出迎えてみせる」

 冷たい束縛に強張っていた身体を抱き締めて、お互いの呼吸を合わせる。身体に突き刺さる爪さえ甘く感じ始め、ようやくマトイの肺が膨らんだ時、

「‥‥ありがとう‥‥私、待ってますね‥‥」

 マトイの涙を見たのは、これで二度目だった。




「顔つきが変わった気がするけど、何かあった?」

「何も」

「そう」

 強いて言えば、マトイを泣かした。そして鳴かされた。

「そっちは大丈夫だったのか?久しぶりに寮に戻ったんだろう」

「これと言って、特には。強いて言えば、冷蔵庫が‥‥」

「ああ‥‥」

 察しがついた。1ヶ月は経っているんだ。その上、気候はもう夏に入っている。生ものなど、軒並み―――考えるもおぞましい、形状し難き物と化しているだろう。

「‥‥私の部屋のも」

「‥‥手伝おうか?」

「「お願い!!」」

 自分が入院している時は、ミトリやサイナが交代で部屋の面倒をみてくれていたから、苦労などしなかったが――――やはり俺は恵まれていたと感謝する。

「法務科の人間達!!部屋に入ったなら、始末ぐらいしてくれてもいいのに!!」

「本当に‥‥、なんであれを放置できるのかしら‥‥。これだから人間は‥‥」

「人間には理解できないんだろうな‥‥」

 人間に対して溜め息が止まらない。

「それは帰ってからにしよう。この時間なら、間に合うだろう」

 今日の予定は聖女に会いに行き、話しを聞くだけだった。まだ太陽が中天にいない朝、午後の予定として組み込めば、女子寮の入場時間まで余裕で間に合うだろう。

「聖女にはもう伝えてあるんだよな?」

「手筈は病院側が整えているらしいので、向こうの指示に従うしかないみたい」

「嫌だなぁ‥‥」

 カレンが答えてくれたというのに、心底行きたくない。でも、聖女には会いたい上、顔を見せたいからと、自分を律する。

「話は聞いてる。怪我人のあなたに職員が」

「そう、患者に銃を向けるような人間だ。‥‥オーダーらしいって、言えばオーダーらしいけど―――出来る限り、あの医者とは顔を合わせたくない。そうだ、2人も入院したのか?」

「1日の検査だけ。大丈夫、銃なんて向けられなかったから」

「‥‥良かったよ」

「もし向けられてたら、どうしてました?」

 少しだけ挑発するように、運転席を覗き込んでくるカレンに、「シートベルト」と言って座るように促すと、不服だと両手を振る動作で座席に戻る。

「質問に答える。もし向けられていたら、あの人間達の腕でも引き千切ってやるよ」




「これ、なんの時間だよ‥‥」

「手続きと言えば、なんでも許されると思っているのね」

「暇ー」

 両膝で放杖を突いていたカレンが、少しだけ幼く呟いた。

 病院に入り、受付で法務科の鍵を見せたところ、意外と段取りよく案内してくれたが、今はエレベーターの前で待ち続けている。

 これで近くにソファーがなければ、外の車で待っていた所だ。サイナのコンパスはシートの座り心地が良い。

「‥‥まだ9時か」

「早く出発して正解でした‥‥。午後に到着してたら、どうなってたか」

「日付まで変わったかもしれないな―――あ~眠い‥‥。待ってるから適当にコーヒーでも飲んできていいぞ」

「うんん。私も待つから大丈夫」

「私も平気」

 やはりふたりもヒトガタだった。こうしたという命令には、本能的に従ってしまっている。自分もうそうだが、口では文句を言いつつ動く気にならない。

「‥‥やっぱり、懐かしい気がする。前にもこんなこと―――あり得ないよね」

「ええ、あり得ないと思う。ここまで彼と話したことは、なかった筈だから。だけど‥‥」

「俺もだ。前にも、こんな事が気がする」

 カレンもソソギも同じことを考えていたようだ。俺が提案して、2人に勧めるが、2人はそれを断り隣にいる。

 この情景には覚えがある。昔、同じことをしたと、血が伝えてくる。ヒトガタとしての血が何かを教えてくる。

「‥‥2人以外のヒトガタは、どうなったんだ?」

「‥‥わからない。まだあそこにいるのか、それともオーダーに来てるのか‥‥。もしくは―――気にしないで。私も気になってたから」

 一瞬暗い顔をしてしまい、ソソギに慰められる。気を使われるべきは俺ではないのに。

 『廃棄』。ソソギからも聖女からも聞いた言葉。その言葉が指す意味を、考えたくなった――――だけど、カレンはそうなる予定だった。

 決して他人事ではない。オーダーに来なければ、俺もそうなっていただろう。ヒトガタに選択肢は与えられないのだから、ただ身を捧げるしかない。

「‥‥聖女のことは、どこまで聞いてる?」

「実証実験中だったって聞いた。私よりも更に上の階級‥‥ヒトガタにとってのエリート中のエリート、そう言えると思う」

「‥‥手間かけて悪い。だけど、について、聞かせて欲しい。集団で比較をされているヒトガタには、人間みたいに階級が存在するのか?」

「構わない。もうどうでもいいことだから」

 ソソギが座り直して見つめてくる。

「まず第一に、階級と呼ばれるランクは、ヒトガタの生まれで大方が決まる。私とカレンは上級のアルファと呼ばれる階級にいた」

「使われる血で決まるのか?」

「そう。下級のガンマ以下のヒトガタもいたけど、研究所の雑用とか直接的な実験に関わらないヒトガタもいた―――ランクによって、扱われ方も変わる」

 ソソギは足を組んで、顎に手をつけた。

「私達アルファのヒトガタは、それ以外の下級のヒトガタとは、ほとんど関わらなかったの。食事とかも、別の場所だったから。‥‥そもそも、それほど気に留めたこともなかった。私達は、いえ、あそこにいたヒトガタ達は皆んな、毎日廃棄の恐怖に脅かされていたから、皆んな自分のことばかり」

「おかしいですよね。あんなに辛い場所だったのに‥‥帰りたいなんて思って、あなたに」

「2人とも、まだ帰りたいか?」

 それ以上の言葉を遮りながら、問いただす。

「いいえ。もう帰ろうなんて思わない」

「私も、もう平気」

 ヒトガタである二人が、そう断言してくれた。研究所と成育者への未練は断ち切れたという証だった。

「ならいいさ。‥‥ダメだ、眠い」

「帰りは私が運転する?」

「‥‥頼むかもしれない」

「任せて」

 急にソソギが膝の上に手を置いてきた。

「‥‥何かあったのか?」

 ソソギの手に手を重ねる。

「聖女の話は知ってる。同一個体が全て廃棄されたことも。だから彼女は今も廃棄の恐怖に脅かされてる。私達は慰めることはできても、救うことは出来ないの」

 手を裏返して、ソソギと指を握り合う。

「彼女と話してあげて。血の聖女も、自動記述のことを忘れてもいいから―――彼女を安心させてあげて」

「‥‥わかった。仕事の話は任せる」

 ソソギの握力が、更に強まった気がした。



「‥‥あー、病院食はどうだ?」

 何から話せば良い物か、終ぞ思いつかなかった自分は、月並みな質問を投げかけてしまった。出会ってそうそうつまらない話題を振ったというのに、聖女はその名の示す通り、優雅に笑って言葉を返してくれた。

「美味しいですよ。意外とお米の形が残っていて、しっかりと食事ができています」

 初めて聞かれたのかもしれない食事の感想と共に、口に手を携えて上品に笑った。

「気に入ってくれて良かった。俺のお蔭だぞ?」

「そうなんですか?」

「固形の食べ物がないと味気ないから変えた方が良いって、提案したんだ」

「本当ですか‥‥!ありがとうございます。あなたのお陰ですね」

 ミトリよりも濃い長い茶髪を揺らして頭を下げてくれた。長い入院期間で、髪を整えて貰っているのか、艶やかな髪色が日光によって更に際立っている。

「そうなの?」

 隣のカレンが聞いてくる。

「ああ、ここから出る時に、」

「嘘をつかないように。彼女は食道に異常が見つからなかったから、普通の食事なだけです」

 点滴を取り替え終わった看護師さんが、暴露して去っていった。

「‥‥嘘をつかれてしまいました」

 1時間ほど待たされながらも、ようやく聖女に会う事が出来た。

 聖女が入院している階は訳あって、一般患者が出入りできない特別な階層。

 面会手続きは、オーダー本部直々の許可が必要との事で、時間がかかるのも理解出来た。オーダー省も国家機関である以上、手続きに時間が掛かるのも頷ける。

 そう思うことにした。

「元気そうだな。身体はどうだ?」

 軽い気持ちで、そう訊いた瞬間—――聖女は唸りながら窓の外を眺めてしまtった。長い沈黙に、血の気が引いて行く。次の呼吸、言葉を待ちながら喉が震えてしまった。

「何か、まずいのか?」

「‥‥外に出たいです。窓から外を見るしかできないのは、退屈です」

 あの地下室にいる前は、どこにいたかは知る術もない。ほとんど外の風景など見た事もなかっただろう――――そんな聖女が外に興味を持ってくれた。

 少しずつだが、が解け始めている。

 聖女の部屋は一人部屋なのに、計4人が入っても問題ないぐらい広かった。だけど、決して殺風景ではなく、自分が描いた絵画が所狭しと飾ってあった。

「まずは血を造ってからだ」

「先生みたいなこと言いますね」

「先生?‥‥ガットフック?」

「あ!ご存知ですか?優しくていい先生ですよね。あの人間達はオーダーだったのでしょうか?無理に私の病室に入ろうとした人達を追い出してくれたんですよ!」

 つい数か月前は、『あのカエル』を案内したというのに、相手が違えばここまで態度が変わるとは――――正直、あの医者には会いたくない。

「‥‥患者にあのガットフックを向けたりは?」

「え?していませんよ」

「看護師がサプレッサーを向けてきたりは?」

「‥‥されていないです。‥‥されたのですか?」

「された」

「サプレッサーは向けていない。ガットフックは、君が武器を向けてきたからだ」

 扉を開けて、第三者が入ってくる。つい先ほど点滴を変えたサプレッサーの看護師を控えに、無遠慮に話しかけて来た。殺されないとたかを括っているのだろうか?

 その思考が、一言の舌打ちとして空気を震わせてしまった。

「聞こえているぞ。あの時はすまなかったな」

「当時は失礼しました」

「その節はどうも、誰が話しかけろと言った?‥‥?」

 過去、カレンへと向けた化け物の殺気を全力で含めた視線と、見せたことのない悪態で、2人を威嚇する。手放さないと決めていた正気が、血を見たいという衝動に塗りつぶされていく――――ヒトガタの三人すら身を引くほどの殺気を向けられた医者は、後ろの看護師を庇って前へ出た。

「君は下がりなさい」

「いいえ。残ります」

 淡々と点滴を取り替えて出ていったから許したというのに、わざわざ話しかけたきた――――視界の隅で大人しくしていればよかったものを。

 自然と腰の杭と脇差しに手が伸びてしまう。だけど、最後の理性がそれを阻害した。を思い出し、腰を上げるに留める。

「彼女の容態を診に来た。邪魔はしない」

「‥‥終わったら呼んでくれ。外で待ってる」

 聖女に軽く歯を見せて、医者と看護師の隣を抜ける。

「次は殺す」

「安心していい。彼女には何もしない。君にもだ」

「裏切り者に二言はないか?これだから人間は嫌いだ」

「構わない。私は患者を守るだけだ」

 背中同士の話を終わらせ外に出ると、舌打ちをしながら扉の近くの壁に背中をつけてみる。病院の匂いは独特だ。消毒液と人間の油脂の臭いが混ざっている。そんな中を病院食を乗せたワゴンが通っていく。聖女は毎日シャワーを浴びれているだろうか。病院の匂いは嫌いだ。こんな匂いを、聖女には慣れさせたくない。

「終わった。入って構わないぞ」

 無言で医者の声に背中を離した時、後ろの看護師も無言で扉の前を開けた。

「‥‥聖女の身体は平気なのか?」

「問題ない。まだ気になる部分もあるが、それもじきに消える。以上だ」

 それだけ告げた医者は、廊下に足音を立てながら去っていった。

 軽くノックをして「入ってもいいかー?」と軽い調子で許可を求めた所、「どうぞ‥‥」という恐る恐るという手間をかけさせてしまった声が返ってくる。

「悪いな。つまんないもの見せて」

「いいえ‥‥、先生から聞きました」

 座っていた椅子に戻り、聖女の顔に苦笑いを返してみる。

「まぁ、色々あってな。それより」

「それより?」

「人間と同じ扱いをされてるか?」

 聞きたかった。ソソギもカレンも、法務科に逮捕されはしたが、それでも情状酌量の余地があり、記憶にある非人道的なヒトガタの研究所の存在を明かす事も可能—――結果、ここに来るまでの記憶に価値があると法務科は司法取引を認めた。

 だけど、聖女にはがあるのかどうか、わからなかった。

「これからどうなるんだ?—―――外での記憶、ほとんど無いんだろう」

「‥‥そうですね。私には、外の知識はあっても記憶はありません。まだ、わかりません」

 。あの方に、そして

 顔の造形と体付きに声、それぞれを細分化してみれば全く同じという訳ではない。だというのに、赤の他人というには、

「あなたと、おふたりに勧められた通り、私もあの実験室の事は全て話ました。‥‥本当に、全てです」

「‥‥大丈夫か?」

「大丈夫、とは言い難いかもしれません。皆んなの顔を思い出してしまいました。私だけが生き残ってしまいました。そして、あなたの血に‥‥」

「それじゃあ、ダメか?生きたかったんだろう」

「‥‥はい。私は生きたかった。でも、ヒトガタとしては死にました」

 聖女の純粋な血を汚してしまった以上、純血を求められた聖女は、ヒトガタとしての幕はもう降りてしまった。

 二度と再演が求められる事はない。

 もはやヒトガタとして求められる事はない。成育者達は危険を犯してでも、聖女を取り返しにくることは、

「ヒトガタとして命を捧げられれば、私は本望でした。でも、廃棄だけは、嫌だった‥‥」

「—――あなたとカレンが受けそうになった廃棄は同じなのか、私にはわからないけど、結果は同じ。過程が違うだけ。だけど、もうあなたはヒトガタの生き方には戻れないから、廃棄されることも無い」

 残酷と思うか、慈悲深いと諦めるだろう。ソソギの言葉は紛れもない真実だとわかっている聖女は、ただ耐えるしかなかった。

「未練があるか?」

「いいえ。私がどう考えようと、ヒトガタとして求められることはあり得ません。わかっています、わかってるんです‥‥」

 未練はない、とは言わなかった。必要とされるならば戻りたい。

 あの時のソソギとカレンと心理状態に、酷似した目をしている。

「名前」

「え‥‥?」

「名前聞いてなかっただろう、教えてくれないか?」

 急にそんな事を聞かれて目に見えて狼狽、混乱させてしまった。

「不便だろう?それに、聞きたい」

「‥‥ないんです。ずっと番号で。聖女って、初めて付けられた名前だったんです」

 下を向かせてしまった。だけど、これはだった。

「なら、名前欲しくないか?」

「‥‥聖女で充分です」

「それはただヒトガタの名前だ。そんな名前、捨てていい」

「‥‥傲慢ですね。どんな名前がいいですか?」

 僅かに笑んだ顔を向けてくれた。興味を持ってくれた。

 実験で1人になるまでふるいに掛けられていたヒトガタならば、名前はないと想像していた。

 聖女1人しかいない以上、判別をする意味も、個性を与える理由もなかった。

「なんて呼ばれたら、嬉しい?」

「そんな理由でいいんですか?名前って、将来の為に考えて」

「せっかく人間から解放されたんだ。人間のルールで名付ける必要もないだろう?」

「‥‥なるほど。皆さんは名前をどうやって決めたんですか?」

 ソソギとカレン、俺に――――自分以外の個体に意見と提案を求めた。

「私達のいた研究所にはヒトガタが多くいたから判別の為と、精神的なケアの意味も含めて決められたんだと思う。名付けた人間は嫌いだけど」

「だから勝手に名付けられた、でも、カレンって気に入ってるの。響きがいいから。名付けた人間は嫌いだけど」

「俺は人間と生活するってプランだったから、嫌でも必要だったみたいだな。名付けた人間は嫌いだけど」

 わかった事は、三人とも人間に名付けられた。同時に名付け親たる人間の事を、三人とも嫌いだということ。

「人間が嫌いですか———」

「ああ、嫌いだ」

「嫌い」

「大っ嫌い」

 俺、ソソギ、カレンの順で答えた。これがヒトガタの呪縛から解放されるという事なのだろう。そう捉える事にした。

「‥‥名前、そうですね」

 長い茶髪をかき上げて、窓から外を眺める聖女の横顔の美しさを無言で見届けてしまう。横顔から感じ取れる真っ直ぐな視線は、初夏の気候を携えた空を差していた。

「イネス。私の好きな画家と同じ名前です」

 部屋の絵画を見て思い当たった。

 ジョージ・イネス。アメリカ風景画の父と呼ばれる画伯。

「男性の名前ですけどね」

「いい名前じゃないか。それにフランスだと、女性でも普通の名前らしいぞ――――そう、純粋って意味の筈」

「純粋。今の私からかけ離れた意味ですね。でも、決めました。私はイネスです」

 真っ直ぐに、聖女を捨てたイネスはブラウンの瞳を向けてくる。

 地中深くに埋まっていたなんて、認められない。この輝きは日の目を見るべきだ。

「じゃあ、イネス。質問するぞ、人間は好きか?」

 そんな質問に、イネスは笑いかけ、形と色のいい唇で答えた。

「嫌いです」

 法務科としてここにいる以上、本来はイネスへの聞き取りを行う事を期待されていたのかもしれないが、新たな同胞と共に今も目の前で涼やかに笑っているイネスに、水を差す訳にはいかなかった。

「不思議です。肩の荷が下りて、もう自由な筈なのに、私はまだ焦っています」

「外に出たい?」

 カレンが聞いた。

「当面の目的はそうです。だけど、外は安全な場所では無いようですね」

 外への興味はあるが、同時に怯えていた。そもそもイネスの外の知識は、からしか集めていないからだ。

 外の負の部分しか知らないイネスにとって、外とは未知であり、それなのに危険があることだけは知っている。そんな恐ろしい場所、怖いに決まっている。

「大丈夫、私が守るから」

「ソソギさん‥‥、ありがとうございます。でも、私は何も知らないんです」

「何も知らない?私達、ヒトガタは皆んなそうだった。カレンと一緒に人間の振りは大変だった」

「そう。私とソソギは、本当に何も知らなかった。だから、2人で頑張って人間の真似をしたの。だから平気、イネスにもできるよ」

「‥‥外に出る事、外の人間の方々が許してくれますか‥‥?」

 踏ん切りがつかない訳ではない。寧ろ今すぐにでも飛び出して行きたいが、が、今までの扱いを変えるかどうか、気掛かりのようだ。

「イネス、提案がある。ここに来る前から、言おうと思ってた事なんだけど―――オーダーに所属してみないか?」

「オーダーに‥‥?」

「不思議か?あれだけやり合えるんだ。腕がいいなら、オーダーは人でもヒトガタでも誰でも受け入れるぞ」

「‥‥オーダーも嫌いです。わ、笑いましたね!」

 布団を握りしめて不満を伝えてくる。初めて、年相応のイネスを見た気がする。

「因みにだけど、俺もオーダーは嫌いだ。俺を売ろうとした連中だぞ、嫌いになって当然だろう」

「そ、そうでしたね。嫌いに決まってますね‥‥」

 オーダーとして自分を捕らえた者の言葉を聞いて、思いの外、驚いているようだ。

「オーダーって組織は、便利だぞ。人間を叩きのめせば金が貰える。それに、人間を利用できる。その上、金になる」

 だいぶ極論だが、間違っていない。

「そうそう。単純な人間の男を騙せば、なんでも聞き出せて、いい気分になるし」

「好きだけ銃が撃てる。しかも、殺さなければ、なんでも許される」

 想像以上にふたりもオーダーの立場を理由していたようだが、別に構わなかった。どうせ相手は人間達。どうなろうと知った事ではない。

「でも、人間は大事な‥‥」

「散々、人間に利用されて捨てられたんだ。次は人間を利用してやればいい。それにヒトガタが人間を利用しちゃいけないルールなんてない。あったとしてもそれは人間のルールだ」

 だいぶ無法者なことを言っているが、これらは全て人間自身が差し向けてきた事だ。何が起こっても因果応報と受け入れ―――自分の中でと身に覚えを思い出す事となるに違いない。

「考えておいてくれ」

「いいですね。ふふ、オーダーいいかも。はい、どこの科がいいか考えておきます」

 その気になってくれたようだった。科によっては資格が必要だが、イネスならば入学さえ出来ればすぐにでもスカウトが来るだろう。

「気分はどうだ?」

「‥‥悪くない、ふふ、言ってみたかったんです。はい、楽になりました。ありがとう、私、頑張りますね」

 姿勢が悪かった所為だ。

 イネスが胸を張って声を発した瞬間、確かに。やはりヒトガタは豊満だった。カレンにもソソギにも見劣りしないこれは、ヒトガタの特性なのだろうか?苦し気に歪む光景から、目を離せなかった。

「‥‥あまり見ないで、その‥‥」

 同時に、この胸や身体を庇うような恥じらう姿からも目が離せない。身体は成熟しているというのに、恥じらいを持つ魔性の色香が、イネスの端々から訴えかけてくる。

「私のことは飽きた?」

 急にソソギが膝の上に乗ってきた。カレンが乗ってきた時のような股で足を挟む座り方と共に、ソソギの胸と首が視界を覆う。

「‥‥いい匂い‥‥眠い‥‥」

「ふふ、可愛い」

 甘い香りに包まれた事で、緊張感が抜けて、ソソギの胸に顔をうずめてしまう。

「ソソギ‥‥」

「ん、なーに?」

「‥‥眠い‥‥」

 カレンよりも体格の違いでより質量を感じる。ソソギの肉体が身体にのしかかり、脈拍や血の熱、柔らかい足の根本が身体をくすぐってくる。

 その上、ソソギは言わなくても頭を撫でてくれる。頭にかかってくる呼吸の暖かさが丁度よくて目蓋が熱く重くなり、胸からも甘い香りがしてくる。

 こうなるとことを想定していたのか、谷間から特に離れがたい香りがしてきた。

「ソソギ!」

「ここは病院。静かにね」

「なら、ここでしないで!!」

「‥‥そ、外のヒトガタは、こうやって繁殖するんですか‥‥!?」

 カレンがソソギを引き剥がしてしまった。去って行くソソギを抱き締めようとしたが、その手すらもカレンに叩かれて、排除されてしまう。

「‥‥寝たい‥‥」

「こ、こちらに」

 誘われる声に従ってベットに倒れ込むと、イネスは猫でも撫でるように頭をさすってくれた。あの二刀を振り回していたとは思えない程、柔らかい手により頭がほぐされた自分は、無様とは思うが、猫が伸びでもするように全身の筋肉を伸ばしてしまう。

「如何ですか?」

「んーそれだけなら」

 カレンのお許しが出た。ならば、遠慮なく眠ろう―――。

「イネス。少し話があるの」

「‥‥あ、はい。話?」

 熱心に撫でてくれていたイネスは、心理的には大型犬の世話でもしている気分だったのだろう。頭を撫でていたせいで、ソソギへの反応が若干遅れた。

「彼に血を分けて欲しい」

「‥‥血を‥‥そうでしたか。やはり‥‥」

「カレンも手伝って。彼の自動筆記には鍵がかかってる」

「あり得るの‥‥?」

「だから試してみたい。成功すれば、これだけで今日の目的の大半は、達成できる」

 眠らせて、何かをしようと前々から相談していたようだった。

「眠い?」

 近付いてきたソソギが、背中を撫でてくる。

「‥‥眠い」

「寝ていい。でも、その前に仰向けになって、手伝ってあげるから」

 身体とベットの間に手を入れて、ミトリに看護されていた時のように抱かれる。たったそれだけで腕に力が入っていない身体を、易々とひっくり返される。

「そのままで」

「わかった‥‥」

 ソソギとの抱擁から抜け出せない。温かくて柔らかい身体に、離れがたい香り。

 ヒトガタ同士の抱擁だからだろうか。それとも、ソソギの母性によるものだろうか。熱を放つ筋肉の量が、並の女性よりも比較的多い身体は暖かく身体を覆ってくれる上、柔らかい女性特有の薄い脂肪の膜が、身体の表面に張っていて肌に吸い付いてくる。

 細いけれど抱き心地がいい腰に腕を伸ばす。催眠剤でも含まれているような香水の香りが、麻薬のようで――――手放す事が出来ない。

「‥‥寝たい」

「まだダメ。もう少し頑張って。準備できた?────いいえ、最初は私から。‥‥口を開けて。そう、そのまま」

 言われるままに口を開いてしまった。一瞬にも満たない後悔、違和感が脳内を駆け巡った。例え親しい間柄だとしても医者でもないソソギの言葉を信じていいのかと。

「‥‥頑張って」

 鉄の味が口中に広がった。

「———あ、熱い‥‥ッ!」

「耐えて。カレン」

「うん。大丈夫、すぐ終わるから」

 口の火傷などというレベルではない。身体中が拒絶反応を伝えてくる。

 と叫んでいる。

「助けて‥‥」

「大丈夫、寝ていいから。そう、頑張って」

 もう一滴。鉄が口に差し込まれる。

「抑えて―――」

 

 慌てて舌で口中を調べるが、何もない。なのに、舌も火傷しそうな程、熱い。

 

 3人は俺に血を与えている。だけど、同じヒトガタであろうと、いや、寧ろ別の貴き者の血を飲まされる状況を、身体自身が拒絶反応を使い、危険だと再度伝えてくる。

 だというのに、この身体がの血を、無理に呑み込んでいく。

「イネス」

「はい‥‥、今」

「もう無理だ‥‥やめてくれ―――」

 今の声だけで、喉が裂けそうだった。早く水を飲んで血を薄めたいというのに、ソソギとカレンが、無理やり口を開かせて舌を掴み上げていた。

「すぐ終わります。寝かせてあげますから。‥‥舐めて」

 舌を噛もうと構わない。もう耐えられない。指の拘束を振り切り口を閉じようとした寸前に指が入り込んできた。

 その瞬間、咄嗟に自然と指を追い出そうと、舌で舐めてしまった。




「よく頑張りましたね」

「‥‥熱いです‥‥」

「ゆっくり寝て下さい。ふふ、熱い熱い‥‥」

 冷たい仮面の方に肌に抱きつく。お互い裸のままなのに、そんな気分にならないのは、今の体調のせいか。

「如何ですか?私の身体は気持ちいいですか?」

「‥‥好きです」

「そればかりですね。ありがとうございます、私も好きですよ」

 服とビロード、そしてベルベットの敷布など無用。今は大理石のベットに一糸纏わぬ仮面の方、それ以外求められなかった。

 汗の香りなど一切しない。死体のような冷たさしか感じない。だけど、心音と血の脈動は感じ取れる。冷たい血で身体を冷やし、伝えた熱を奪って己が心臓に運び入れ、また冷たい血で身体を冷やしてくれる。

「俺はどうなったんですか?」

「自動筆記の知識量が増えた。それだけです。その熱はことによる余波です。大丈夫、すぐ目が覚めますよ。だけど、ヒトガタ3人分の知識を一度に受け継いだことにより、あなたの血はしばらく冷却期間を求めます。少し休んで」

「‥‥正気でいられますか?」

 ヒトガタの自動筆記を怖がることなんて今までなかった。でも、3人分の知識を一度に受け継いだなど――――恐怖は並みではない。

 ヒトガタの知識が、理解できない狂気に姿を変える、それはよくある事だった。

「正気?おかしなことを聞きますね。今までが耐えれらたのですから、平気です」

「‥‥そうなのですか?」

「ただの人間やヒトガタでは、今までのあなたの経験と知識など受け継いでもしたら、その場で発狂しますよ。あなたが、耐えられます。それに、それらの知識は普通のヒトガタならば、一般的な知識です。今まで無かった方が異常です」

 前々から自分はソソギ達とは違う、ある方向に向けて作り上げられたヒトガタだとは思っていたが、を目指し、鋭意化し過ぎる性能のみ求められていた――――の知識など、不要と考えたのだろう。

「‥‥熱い」

 仮面の方を胸と腹の上に乗せたままで仰向けになる。

「ソソギさんが怖いですか?」

「――いいえ。俺を半分眠らせたから、これだけで済んだ、そういうことなのでは?」

「その通りです」

「‥‥起きたら、礼を言ってきます。ソソギもカレンも、イネスも俺の為に血を流してくれました。恨んでなんかいません」

「成長しましたね」

「好きなだけです。それに、家族ですから。ありがとうございます」

「私にも?」

「あなたが血を飲ませてくれたから、この程度で済んだんですよね?」

「う〜ん、そうとも言えます?本来の目的ではありませんでしたけど、あなたが喜んでくれるのなら、血を流した甲斐がありました」

 どうやらそもそもの目的ではなかったようだが、間違いなく、今この方のお陰で楽になっている。そう確信できている自分がいた。

「俺の自動筆記には欠落があったんですか?」

「欠落というよりも、あなたには権利が無かった」

「権利?」

「ヒトガタの自動筆記は、できません。今まであなたはヒトガタではありましたが、それ以上に特別な血が身体の大部分を占めていました。人間達は、あえてヒトガタから遠ざけることで、誕生種を達成させようとしていたのです」

と判断したってことですか?」

「そう思ったのでしょうね。悪くない考えですが、所詮は人間の浅知恵。扱いきれなくなったあなたを恐れて捨てた、それが結末です」

「恐れた?俺を?—―――俺は成育者に逆らったから捨てられたんですよ‥‥」

「逆らうには力が必要です。中身は違うとしても、その身を包むヒトガタの身体と本能が逆らうなんて、人間達は思わなかった、だからあなたを恐れた」

 頭を抱く身体の力が、更に強くなる。冷たいアイアンメイデンに抱かれるような恐怖と、そこに行けば必ずがあるとわかっている所為で、深く飛び込んでしまう。

「‥‥家に誰も帰ってこなくなったのは、俺がいくら話しかけても無視したのは、俺が怖かったから。‥‥勝手ですね、勝手に作って、勝手に怖がって、捨てて」

「本当に身勝手—――でも、それが人間です。自ら命を断とうしたあなたを見て、尚更恐れた。あなたに関係するものは全て捨ててでも、あなたの痕跡を消したかった。そもそもあなたを扱おうとする事が間違いです。まぁ、それが人間の限界でもありますね」

「‥‥人間が怖いです」

「大丈夫、そんな人間とでも恋はできます。愛を形にすることもできます。だから、恐れないで」

 冷たい手が胸に入り込んできた。氷のように冷たい爪の1枚1枚が、鋭い痛みを与えてくる。

「‥‥もっと‥‥」

「足りませんか?」

 引っ掻いてきた。

 そのまま仄かに心臓の傷から湧いてきた血を―――血を塗った指を引き抜く。

「‥‥美味しい」

「まだありますよ」

「また、私を誘惑する気ですか?」

 仮面越しの目蓋が細くなった。笑ってくれているとわかった時だった、違和感に気付く。

「‥‥仮面、薄くなりましたね」

 ドレスを変えてから色も赤から黒となっていた仮面だが、全体的なデザインは大きくは変わっていなかった筈だ。

 だというのに、その仮面は軽く握れば折れてしまいそうな程、薄い物に変わっていた。そう伝えた所、仮面の方は驚いたように血濡れの指で仮面に触れる。

「‥‥意地悪ですね」

「意地悪?」

「そうです、意地悪です。そういうことを面と向かって言ってはいけません。あなたには気遣いが――――」

 一息で仮面を奪って、口を塞ぐ。この不満気な仮面の方も可愛らしかった。そんな愛らしいこの方が、少しだけ年下に見えていじめたくなってしまい、舌を飲み込むつもりで無呼吸で続けるが、凍るような舌と唇に競り負けてしまう。

「‥‥冷たい」

「今日の私は冷酷ですよ」

 唇が冷たいという意味で言ったが、違う意味で受け取られた。

「向こうの俺はどうなっているんですか?」

「教えませーん。今日は冷たくすると決めました!」

 そう言いながらも、上から降りない。どこまでもこの方は俺の為を思ってくれる。冷たい肌を通して、この方の優しさを感じた。

「困りました」

「困って下さい、私をいじめた罰です。今日はいじめて上げません」

「‥‥それは‥‥残念です‥‥」

 冷たい肌が吸い付いてきて身震いしてしまう。仮面の方の腹から下腹部にかけての傷一つ無いなだらかな肉体が、腹部に擦りつけられて――――つい腕を背中へと回してしまう。抱き枕のように求められた事に唇を尖らせるが、それがまた愛らしくて愛らしくて。冷たい血が流れる首の動脈へと口付けを施して痕を付ける。

「何もしてないのに‥‥。あなたには何をしてもご褒美になってしまいますね」

 眠気が襲ってきた。先ほどの冷たい手が身体に入り込んだせいで体温の芯を奪われ、標高の高い山の風が過ぎ去ったように首元から熱が逃げていく。

「ひんやりしてますね。‥‥うん、気持ちいい‥‥」

 遂には仮面の方も眠そうにつぶやいた。

「でも、もうすこしお話がしたいです‥‥」

「俺もです‥‥」

「何か聞いて下さい‥‥」

 仮面を奪い取った事で表情がつぶさに確認できるようになった。まぶたを薄く開いている仮面の方の頬と髪を撫でてみると、「ふふ‥‥」と笑いかけてくれる。

「可愛い、ずるいくらい。—————俺は猟犬と呼ばれていたそうです。俺の血と何か関係が?」

「その人間はセンスが無いですね。あなたが猟犬?そんな筈がありません。それにあなたは猟犬を統べる者ですらありません。まして、エラ持ちでもありません」

 寝ぼけているからだろうか、普段よりも饒舌に自身の知識を語ってくれる。

「あなたは私の宝石で星です。不服ですか?」

「誇らしい―――ありがとう、愛しています」

「‥‥良かった」

 もう限界なのがゆっくりとなった呼吸で察した。寝息すら愛おしい。

「一緒に寝ますか?」

「いいですね‥‥、うん‥‥いいです‥‥」

 二言目には寝息を立ててしまった。この人の寝姿を見たのは初めてだった。

「空が‥‥」

 辺りが暗くなってきた。天井の空が深淵のように星々の光を閉ざす。本来の深宇宙の色はこれなのかもしれない。暗くなった大理石の上で試しに仮面の方の髪を撫でてみると、どうやら悪くないのか口元が綻んだ。

 再度天井を改めて見上げ、途方もない数の宝石の波濤に想いを馳せる。

 自分には、この天井がどこまで続いているのかさえも想像もできない。人間ではないこの方の宝石の蒐集には終わりがない。人間以上の欲望を持って、形ある宝石を集めている。だ。俺もこの中の一つに過ぎないのだから―――きっといずれ次を探すのだろう。

「‥‥捨てないで下さい」

 聞こえていない頬を撫であげて、そっと耳打ちをする。

「消えたくない‥‥」




「ソソギ‥‥交代する?」

「大丈夫、まだ疲れてない。それに、私の責任だから」

「うんん、やっぱり交代しよう。私の責任でもあるんだから」

 前髪を撫でる手がある。誰かの心音が心臓に伝わってくる。

「なら私が」

「あなたの身体はまだ本調子じゃない」

 まだ目が回っている。脳が上下に反転し、内側と外側が入れ替わったような気分は、まるで変わっていなかった。血の余波が、未だ渦巻いていた。

「大丈夫。それに、少しだけ彼を感じさせて」

「‥‥無理はしないで」

 離れていく。だが、すぐまた別の心臓が感じられた。

「本当に、こんな‥‥」

「もうやめてあげて。それは彼の物」

「‥‥はい。でも、このまま続けます。おふたりとも少し休んで来て下さい。特にソソギさんは」

「行こう、喉乾いたでしょう?」

「———起きたら呼んで」

 二つの足音が遠ざかっていく。

「人間が嫌い、ですか。嫌って当然ですね‥‥」

 柔らかい布がかけられると同時に腰に手を回され、引き寄せられる。後頭部にも手を添えられて、柔らかい物に顔を埋める。

「あなたは何者ですか?ただのヒトガタではないって、そんな話では片付けられない―――――この世界から逸脱している」

「‥‥目の話か?」

 イネスの胸から離れて、一度深呼吸をする。

「起きました?」

「ああ‥‥起きた‥‥」

 やはり見えなかった。目蓋は開いている筈なのに、何も見えない。

 カレンに続き、またしても光すら感じない。この状況は決して好ましいとは言えない。

「どれぐらい寝てた?」

「30分程度です」

「結構寝たな。ベット、ありがと」

 ベットから起き上がろうとした時、腕を掴まれた。

「見えていない、そうですね?」

「‥‥なんでわかるんだ?」

「無理に自動筆記の解除したのです、何かしらの弊害が起こると、予想はついていました」

「大丈夫、椅子に座るだけだから」

 そう告げても腕を離してくれないイネスに、頑固な一面を垣間見た気がした。仕方ない。そう言い訳をして、イネスの待つベットに大人しく戻ることにした。

「見つかったら、まずいんじゃないか?」

「私の許可が無いと、勝手に入れないようになっています。法務科と病院の方がそうしてくれました」

「監視カメラとかは?」

「壊しました――――冗談です、しっかりとプライベートが確保されていないのなら、何も話さないって交渉しましたから」

 そんな交渉の席に法務科が着いたとは。どうやら、イネスの話にはそれほどまでの価値があると判断したらしい。

「強かだな。いいぞ、人間との関係はそうあるべきだ、俺も似たようなことしたから」

「そうなんですか?」

「ああ、次、身内に手を出したら殺すって言った」

 イネスにとって胸にヒトを出迎えるのは、自然な行為だった。隣に横になった時、再度胸の中に引き込んでくれる。感触だけではない、正確な心音と、雰囲気という曖昧な感想でしかないとしても――――仮面の方とサイナと似ていた。

「すごいですね‥‥私もそんな風に言いたいです」

 そんな自覚はないだろうが、褒められているのか、貶されているのか、それとも馬鹿にされているのか、どれとも取れてしまうイネスの心意は考えない事にした。

「人間との生活に慣れれば、言えるようになるから」

 仕事でこういう言葉を使う時は間々ある。脅しは立派な交渉材料だ。なにより、。利活用しない手はない。

 銃の役目はただ撃つことだけではない。見た目だけで威嚇し、降伏させられる。とても楽だ。中途半端に学がある人間には1番効く。

「でも、あなたに反抗する人間なんて、そうそういないのでは?」

「いや、結構いるぞ」

?」

「俺なら勝てるって、思ってるんだろうな」

 やはり人間は愚かだ、自分の力を見誤っている奴ばかり。恋人以外の人間が化け物に勝てる筈ないのに。そんな奴らには、更なる威嚇だ。例えば1人だけ呼び出して仲間と分断させ、武器を見せつける。具体的には刃物。

 実際に人を斬った刃なんだ。ろくに人間同士で切った貼ったをしたことのない人間には、これ以上ない恐怖を刻める。

「オーダーに所属すればわかる、外の人間は緊張感が無いって」

「‥‥それは知っています。長く同化していたので」

「平気か?」

「大丈夫ですよ。です」

 何人の人間と同化したのか想像も付かない。あのクラブの地下、もしくはそれ以外でも血を飲んだ人間の心に触れてきた。

 。確かに、そうでもしなければ、正気でいられる訳がない。

「人間達から何もされなかったか?」

「血の奪われました。それだけです」

 特段驚く事でもないように告げたイネスに対して「忘れていい」と返した瞬間、むしろ此方を慈しむように頭を強く抱きしめてくた。

「酷い経験—――でも、素敵な出会いがあったのですね」

「読めるのか?」

「はい。私に残った力の一つです」

 サイコメトリーとでも言うのか、物に残った思い出、つまりは残留思念を感じ取る力を自力で使えるらしい。

「もう使うな」

「す、すみません。そうですよね、勝手に見られて、いい筈無いですよね‥‥」

 離れようとするイネスの腰に手を回す。

「それを使うのは程々に」

「‥‥怒ってませんか?」

「怒ってない。ありがとう、今のは読まないでくれて」

 怒っているか、どうかなんて心を読めばすぐわかっただろう。でも、使わなかったから勘違いをしている。

「俺はイネスと。でもさ、それを使ったら話すまでもないだろう?俺が言いたいのは、つまらないだろうって聞いたんだ。折角話せる許可があるのに」

 イネスといられる時間はもう残り少ない。また許可を取るのに何時間、何日かかるかもわかったものじゃない。

「イネスは嫌か?俺と話したくないか?」

「話したい‥‥です‥‥」

「なら、それは禁止」

 見えないままの目を細める。きっとイネスは驚いた顔をしているだろう。見れなくて残念だ。

「外に出たら何がしたい?」

 前にネガイに聞いた質問を繰り出す。何を聞かれているのか、一瞬理解出来なかったらしいイネスはおずおずと、しかししっかりとした願望を口に出した。

「絵が描きたいです。木々から見える木漏れ日という物を」

「なら、それが第一目標だ。試しに出てみるか?」

「えっ!?いいんですか!?」

 素直に正直に驚いた声を出したイネスに、尚更強く抱きしめられる。できるのなら、内緒でもいいから、外に出たいと声に書いてあった。

 しかし、身を乗り出して喜んだ本人が思い出したように「ダメ、ですよね」と苦笑いを浮かべてしまう。まだまだこれでは外の世界には躍り出れない。

「どうかな?」

「でも、先生が許して‥‥」

「あの医者は俺に借りがある。それに、俺は法務科としてここに来てる。絵は無理でも、少し木陰に隠れるぐらいはできるぞ。その程度のわがままなら、好きなだけ言ってやれ。無理だと言われたら、俺が、全員殺—――説得させるから」

「‥‥いいんですか?」

「まだ午前中だし、昼前の軽い散歩って言えば、大丈夫だよ。俺も何度かしてたから」

 起き上がって、イネスの手を引く。

「車椅子はいるか?」

「‥‥いいえ、もうリハビリをして、自分で歩けます。あなたは杖が必要では?」

「俺はここを毎日歩き回って、最終的に脱出したんだ。イネスがいれば大丈夫」

 少しだけ嘘をつく。血が熱いままの身体は、酷い風邪を引いている症状と同じだった。正直、真っ直ぐ歩く事さえままならないかもしれないが、嘘を突き通す。

「行こう、言い訳なら後で考えられる。俺の得意分野だ」

「‥‥はい‥‥はい!」

 心底喜んでくれてたようで、足元にかけていた布団を蹴り飛ばす音がする。

「よし、ならエレベーターに」

 イネスに手を伸ばし、温かいけれど怯えたような手を感じた瞬間―――ドアから爆音が聞こえた。

「伏せろっ!」

 イネスの身体に覆いかぶさって、背中を盾にする。

「‥‥人間ですか?」

「わからない‥‥っ!」

 爆音は数回流れて、唐突に止まった。爆弾の音というよりも、ドアを何者かが蹴破ろうとした音だった。それは何かがまだドア向こうにいるという事を証明していた。

「‥‥隠れよう」

 イネスを持ち上げて、ベットをマットレスごとひっくり返す。ドアからの襲撃者対策として壁にし、2人で後ろに隠れる。

 この体調では星は使えない。何より、今は自力で星を使うことが出来ず、先のネガイとの初仕事でも、星は呼び掛けに応じなかった。

 胸の内側からM&Pを抜く。M66では命中率が低い。この状況では慣れ親しんだ銃身だけで対抗するしかない。ベットの側面に手を置いて、越えようとした時、

「行ってはダメ!!まだ、見えていないんですから‥‥っ!」

 イネスに腕を抱かれた。ミトリに迷惑をかけた時の記憶が駆け巡った。、そう決めた。

「—―――ふたりを呼ぼう。悪い、これでソソギに連絡してくれ‥‥」

 後ろのイネスにスマホを渡す。ソソギの連絡先を探せるほどの視力すら取り戻せていない。

「‥‥ソソギ、聞こえるか?」

 耳に付けられたスマホに、声をかける。

「そっちは無事?」

「ああ、だけど、早めに救出に来てくれ。目が見えない」

「わかった。できる限り、早く行くから」

 そこで連絡を切り、救出を待つ事となった。

「‥‥何が起こっているんですか?」

「‥‥わからない。でも、相手が人間なら、相当腕に覚えがあるみたいだ。この病院に攻撃をしてくるなんて‥‥」

 オーダー直属の病院であり、治療科卒の拠点防衛のエキスパート達がひしめく砦。余程の無知か、余程の腕利きでないと、襲撃をしようだなんて考えないだろう。

 だが、今回のは後者の可能性が高い。ここの階に来れているのだから、並以上の結果を上げられている。

「内通者がいたのでしょうか?」

 並以上を軽々超えるイネスにとって、この状況は苦でもないらしい。

「‥‥いたかもだけど、それは後で―――平気なのか?なんか、余裕に見えるけど?」

「だって、これで二度目ですから。一度目はあなたですよ」

「悪かったよ‥‥」

「いいえ、一度目があなたでよかったです。それに今は、私を守ってくれてます」

 この状況を楽しめていられるのは、やはり実力者だからだろう。

「武器はありますか?」

「銃と刃物、どっちがいい?」

「刃物で」

 刃物を選んだイネスに脇差しを渡して、一度離れる。ようやく光を感じる程度には、回復してきた。

「あのドアが壊される可能性は?」

「院内の方であれば、すぐにでも。それ以外では難しいかと」

「‥‥余裕はあるってことか」

 気は抜けないが、それでも堅牢なドアが守ってくれていると思うと、だいぶ心が楽だった。

「‥‥ネガイがいれば」

 ネガイがいれば、この目もすぐに治るだろう。それにこの状況にも対応してくれる―――例えベットで横になっていたとしても、何事も無かったように颯爽と戻ってきてくれる。

「恋人ですね」

「ああ」

「‥‥好きですか?」

「愛してるし、ネガイも愛してくれる」

「‥‥素敵‥‥」

 ネガイの事を思ったからか、目が急激に回復していくのがわかる。白い扉がおぼろげながら、見えてきた。

 この目もネガイを求めていた。既に『目の女達』は消えたとしても、いやむしろ既に俺の現し身なのだから、同じことを考えるのは当然だった。

「‥‥っ‥‥また、」

「壊す気ですね‥‥」

 ドアを殴る音や蹴り破ろうとする音が何度も響く。イネスの言葉が正確なら、あのドアは人間の力では到底開けることはできない。だが、確実にドアが歪み始めた。

 襲撃者は腕利きではあるようだが、時間ばかり掛けている所為で、作戦が失敗しているのだとわかる。

 ろくに調べずに、もしくは、ろくにに、ここに来たのかもしれない。だが、決して安堵している暇はなかった。思考を持たない白痴の獣が扉に爪で襲い掛かっている状況は、こちらが檻の中に閉じ込められているようだった。

 イネスと共に、声すら発せずに身をかがめていると、スマホが呼びかけてきた。

 相手を聞く必要はなかった。風を蹴り飛ばす心地いい響きの中、鋭い吐息が聞こえてきた。

「‥‥どうした?」

「まずい状況‥‥皆んな同じ顔をしてる」

「‥‥同じ顔?」

「敵は‥‥ヒトガタ」

 ソソギの言葉は簡潔だった。

「‥‥イネスが目的か?」

「わからない‥‥でも、あなた達の部屋に近づけば近づく程、ヒトガタがいる。こんな数‥‥どこから入ったの‥‥」

「‥‥無理はするな、カレンを安全な場所に連れてからでいい」

 スピーカーの向こうで、銃声だけではなく、何かを削るような音が聞こえた。どうやら、ヒトガタ側も何かしらの特別な武器を装備してきたようだった。

「わかった。でも、あなたも気をつけて――――、殺しはダメだから。待ってて」

 通信が終わり、スマホを切る。傍らにいたイネスに視線を向けて言葉を使わずに問いかける。と。

「同じ顔のヒトガタ——―ガンマ以下の階級ですね‥‥」

「知ってるのか?」

「知ってます。そして、あれらは、」

 ドアノブが弾け飛んだ。

 時間がないのは重々承知していた。敵は敵だと、踏みとどまる気はなかった。だけど、同時にわかりきっていた、ヒトガタが誰かに言われるまでもなく、襲撃を仕掛ける訳がない。誰かの手足として、ここで扉を破壊しようとしていると。

「私がやります。あなたは援護を―――大丈夫。ヒトガタの闘い方は心得ています」

 脇差しを抜く音を立てて、イネスがマットレスの端に移動する。一突きで、終わらせるつもりらしい。

「‥‥3人いる」

「治りましたか‥‥?」

「完全じゃないけど‥‥これは俺の特技だ‥‥」

 扉の向こうで、聴き耳を立てている連中を退かす為に覚えた力だった。

 まさか、ここで役に立つとは思わなかった。

「‥‥限界だ」

 もうドアはくの字に曲がっている。破城槌でも持ち込んでいるかのような衝撃の度に、背骨が浮き上がる感覚を受ける。

 数回の衝撃後、ヒトガタの眼球のひとつがこちらを覗き込んだのも束の間、顔を離した直後に想像よりも細い、杖のような物の先端がねじ込まれる。

「あれはヒトガタの武器の一つ、トンファーに近い形状で重量を持った鈍器です。気を付けて」

 がその形を引き出してくる。トンファーよりも太くて腕に直接装着するような姿をしている。

 見方を変えれば、特殊な杖にも見える。ほとほと、杖には縁があるようだ。

「来ます‥‥っ!」

 直後、イネスは飛び出した。

 イネスが飛び出した瞬間、ソソギの言う通り同じ顔をした若い女性が、いや違う、少女たちが飛び込んで来た。

「遅いッ!!」

 脇差しの底を1人の鳩尾に叩き込み、そのまま叩き込んだヒトガタの後ろに回るように、滑り込む。

 滑り込まれたヒトガタが、と気が付いた瞬間—――勢いのままもう1人のヒトガタの背中、肺に裏拳を繰り出す。

 残りのヒトガタがトンファーを振り上げ、イネスを狙おうとしたが、トンファーの軌道は40S&W弾でずらされ、イネスには届かない。

 それを確認した瞬間、イネスは脇差しの峰でヒトガタの首を打って、無力化する。

 時間にして3秒程度、それだけでイネスはヒトガタを完全に無力化した。

「‥‥すごいな‥‥」

 冷たい風が耳元を撫でていく、「よくお前がイネスと正面からやり合えたな」と、嘲笑うかのようだった。本調子のイネスだったならば、首がいくらあっても足りなかっただろう。

「あなたのお陰です。もう迷いは断ち切れました」

 脇差しを持ったままイネスが振り返って、微笑んでくれた。だけど、倒れているヒトガタを背後に笑むイネスは、悲し気で今にも泣き出しそうだった。

「無事!?」

 銃を持ったソソギが飛び込んでくる。

「‥‥よかった‥‥」

「そっちも無事か?」

 ソソギが持っていたのは、レバーアクション式の銃、ヴォルカニック連発銃だった。前にソソギ使っていたM1793の銃身の先を切り落としたような見た目。

 知らなかった、恐らくS&W社製だろうが、ピストル型のモデルもあったなんて。

「外に看護師さん達がいるから、無事だった。外に出るからついて来て。見えないなら私が守るから」

「‥‥助かる」

「イネスも、私が前面に立つから、後ろを守って」

「わかりました」

 戦闘が終わり、血の熱が冷めてしまった。今は2人の顔の細部も見えない。きっとここが目でここが口なのだろう程度の識別しかできない。

「こっち」

 ソソギの背中を前に、腰を低くして廊下の外に出る。

 先程までと同じ匂いだが、空気がまるで違う。刺さるような冷たい風を顔に感じ、ここは既に戦場と化しているのだと理解できた。ぼやける視界の中ででもわかった。

「カレンは?」

「大丈夫、外で治療の準備をしてる。戻ったら、身体を見せて、治してあげるから」

「‥‥ああ」

 何故だろう、やはりソソギからは年上の感覚がする。

「後は自分達で――」

「ありがとうございます」

「彼を守ってあげて」

「はい」

 離れていく数人の足音が聞こえる。気づかなかった、あの時の看護師さんがいた。

「もうエレベーターだから大丈夫。目はどう?」

「‥‥少し、見えてきた」

 この階に降りる時に使ったエレベーターが目の前にある。ボタンが二つあるのもわかるが、ボタンの中の矢印がまだおぼろげだ。

「エレベーターでいいのか?」

「これは予備電源で動いて、外からこじ開けるには専用の機器が必要な特別製らしいの。だから、階段よりも安全」

「私も言われました。避難する時は、必ずこのエレベーターを使ってって」

 必ずとは、。このエレベーターは使った人を認識して、どこかに通告するシステムがあるのだろう。やはり信用できない、いつからか監視されていた。

「乗って」

 ソソギに腕を引かれて、乗ろうとした瞬間、銃声が聞こえた。

「気になる?」

「‥‥いいや。行こう」

 あの看護師もオーダーの一員。しかも、この病院に配属された拠点防衛のプロだ。何も心配する必要はない。屋内戦闘において、襲撃なら襲撃科、防衛なら治療科の右に出る者はいない。ここで、もたついている方が迷惑だと誰でもわかる。

「私が守るから、安心して」

 ソソギの手が頬に当たる。手を押さえてエレベーターに乗り込む。

 そんなに高い階じゃないというのに、自由落下でもしているような浮遊感を感じていた時、スマホが鳴った。画面が見えないから、向こうの息遣いで推理する。

 浅い呼吸には焦りを感じる。自分から声を出すべきだという意識があるのに、自身の呼吸と心理的な罪悪感が、それを許してくれない。

「‥‥カレンか?」

「‥‥見えないんだ、ごめんね」

「大丈夫、段々見えてきた」

 語尾に合成音が混じることもない。間違いなく、カレンのようだ。

「外はどうだ?」

「‥‥入院中でも皆んなオーダーなんだから、心配しないで。皆んな、自力で脱出してる。迎えに行く?」

「‥‥いや、自力で行く。2人もいるから」

「じゃあ、待ってるから、必ず来て‥‥」

「ああ、下で」

 スマホを切り、エレベーターの表示を見ようとするが、見えないという事を忘れていた。オレンジ色の文字らしいものは見えるというのに、未だに見えなかった。

「カレンはどう?」

「優しくて、かっこいい―――いい子だ」

「‥‥良かった」

「ソソギも、助かった‥‥頼りになるよ」

「‥‥ありがとう」

 スマホを握っていた手を掴まれて、ここにいると知らせてくれる。ソソギと手を握り合って、見えない顔に笑いかけてみると、もう片方の腕も掴まれた。

「私はどうですか?」

「頼りにしてる。ありがとう、守ってくれて。ひとりだと、手も足も出なかった‥‥。本当ならイネスは、のに‥‥いい格好、見せられなかったな」

「いいえ、あなたは私を救ってくれました。あなたは私の―――」

「私の?」

 ソソギが入ってきた。

「‥‥秘密です」



「こっち、歩ける?」

 ロビーに降りた時、カレンの声が聞こえた。

「‥‥どこだ?」

「ここ‥‥」

 2人に腕を掴まれている状態で、顔に手が当てられる。

「車、車に行こう」

 ソソギとイネスが腕から手を離した所に、今度はカレンが手を引いてくる。

「悪い、もう少しゆっくり」

「あ、ごめんなさい‥‥」

 足元が見えなくて、つまずきそうになってしまった。

「少し待ってて、車椅子を持ってくるから。カレン、イネス、任せたから」

 ソソギがそう言ったのを皮切りに、声が聞こえ無くなる。どこかに行ったらしい。

「座って、ここ、ソファーだから」

「外に出た方がいいじゃないか?」

「大丈夫、周りにオーダーがいるから。少し休もう」

 カレンから肩に手を置かれて、ゆっくりと恐る恐る座ると柔らかいクッションが身体を支えてくれてた。自然と安堵の息を吐いた所で、ゆっくり光を見上げる。だが、

「無事か?」

「あ、先生。はい、皆んな無事です」

「‥‥彼は怪我でも?」

「何も‥‥」

 突然の声に、誤魔化せる筈もない嘘をついてみる。

「‥‥私達のせいで、目が見えなくて、それで‥‥」

 カレンは慌ててながらも、正直に容態を話してしまう。聞かれれば答える、未だにヒトガタの血は抜けきっていない、いや、それだけではないのだろう。

 本心で、俺の心配をしてくれているカレンは、ただただ優しかった。

「大丈夫、すぐ治る」

 安心させようと、カレンがいるであろう場所に手を伸ばすと、下からすくい上げるように、カレンが両手で掴んでくれた。

「少しいいかい?」

 声と息が間近に感じる。

「いいって言うと思うか?」

「‥‥別の者を呼んで来よう」

「必要ないですよ、それより他の患者の所へ行って下さい」

「外の車は君のだな?後で向かうとしよう」

 話を聞かない先生らしき人影は、立ち上がってどこかに去っていった。

「‥‥悪い、でも嫌いなんだ」

「何もおかしくない。私だって同じこと考えてた」

 両手で掴んでくれている手に熱が篭る。

 あの先生は俺の身を真剣に診察しようとしていたとわかるが、一度刻まれた不信感は簡単には拭えなかった。――――。

「持ってきた。乗って」

「立てますか?」

 車輪の音を立てて、ソソギの声が戻ってきた。

「手間かけさせて悪い」

「気にしないで。それに、ここで転倒したら危険。ガラス片もあるから、酷い怪我をさせてしまい」

 三人に手を貸してもらいながら、車椅子に乗り込む。自分も駐車場まで歩けるかと問われれば不安であった上、足元すら見えない状況では、ただただ足手まといだった。

「まずは外に、車で休まないと」

「私が先導するから、ついて来て」

 カレンが車椅子の前に出てくれた事で、進行方向へ止まらずに進む事が出来た。

 だいぶ早いスピードで車椅子を押されているから、恐らくはソソギが押してくれているのだと考えていると、自動ドアを越えたのを音と気候で感じ取る。

「どのくらいの規模だったんだ?」

 アスファルトを車輪で越えながら屋内に出た事で、詰まっていた息を吐き出せた。

「私が見たのは、全部で5人」

「3人はイネスが対処したから、残りは最低でも2人か‥‥。でも、なんでヒトガタがそんなに?」

「ここにいるって事は、実験をしていた場所から保護されたヒトガタだと思う―――多分、この時の為の‥‥車の中で、詳しく話したい」

 それ以上は、ソソギもカレンも、あれだけ外に出たがっていたイネスさえも何も話さなかった。痛みすら感じさせる沈黙の中、何も言えない時間を過ごしながら車椅子に揺られていると、

「乗れる?」

 ソソギがそう聞いてきた。既にサイナから借りた車の前に止まっていたようだ。

「大丈夫、手足は動くようになったから。だけど頭は見ててくれると助かる」

 外の空気を吸えた事で、幾らか回復した身体で立ち上がると、いまだふらつきは消えなかった。見かねたカレンが肩を貸して、ソソギに手で頭を庇ってもらいながら、車の後部座席に乗り込む。

 カレンが準備してくれていたようで、中は冷房が効いて涼しかった。

 一息つけるが、ここで寝る訳にはいかない。

「隣、失礼しますね」

 イネスの声が、隣に座った人影から聞こえてきた。

「ソソギとカレンは?」

「大丈夫、前にいるから。カレンは」

 運転席から聞こえてくる声に顔を向けていると「隣、いい?」とドアを開けたカレンが乗り込んでくる。イネスとカレンに挟まれた事で、自然と一息ついてしまう。

「散々な目に合わちゃったね。あ、ごめん、びっくりさせた?」

「ああ‥‥、ごめん、次触る時は言ってから頼む」

「‥‥うん、わかった」

 急にカレンが膝を触れられた瞬間、予想外の刺激に腰を一瞬浮き上がらせてしまった。それにお互いがお互い驚き、怯えた指同士で手を繋ぐ。

「少し休んでいいか?‥‥疲れた」

 思えば起きてまだ30分も経っていないだろう。しかも目も見えない。その上、体温もまだ下がらない。体調として限りなくバットコンディションの極みだ。

 今日はもう歩きたくもない。だけど、まだまだ一日は長いのだろう。

「カレン、悪いけど、俺のスマホでマトイに連絡してくれ」

「そうだよね‥‥。報告しないと」

 カレンにスマホを渡して任せる。

 状況が状況だけに、何も報告しない訳にはいかなかった。なによりも、何も言わないで、今晩会って心配をさせる訳にはいかなかった。ネガイにも―――

「大丈夫、少し話すだけだ。‥‥マトイか?」

 数秒で、通話が繋がった。

「‥‥話は聞きました。大丈夫?」

「大丈夫、三人もここにいるから。帰ったら少し話すから、今日は任せてくれ」

「‥‥はい、良かった‥‥」

「心配ばっかりかけて、ごめんな。ネガイはいるか?」

 この言葉が聞こえたや否や、マイクから伝わってくる息が変わる。

「代わりました。平気ですか?」

 声が変わった。マトイとネガイの声を聞いた事で、安心してしまい眠気が襲ってくる。

「平気だ。そっちはどうだ?」

「‥‥そう、平気ですか―――こっちは楽しいです。ただ、ボールが入った飲み物があって。これがイマイチわかりません」

 恐らくはイモの飲み物だろう。

「あ、それから一緒に行った水族館にも行きました。カワウソが可愛くて、また人形を買ってしまいました」

「二匹目だな。今度はどこに飾る?」

 徐々にネガイの私物が部屋に増えていく。いつか寝室もネガイの私物で埋め尽くされてしまうのだろう。

「今度は———2人で考えましょう。それから、今度はあなたも一緒に行きましょう。今、新しい問題やクイズが迫ってくるんです」

「よくわからないけど、面白いのか?」

「面白いですよ。帰ったら、もっと詳しく話しますね」

「ああ、待ってる。後で」

「はい、また後で‥‥切らないんですか?」

「切るけど‥‥」

 なかなか連絡を断つ踏ん切りがつかない―――だけど、カレンとイネスの視線が痛くなってきた為、自己保存の原則に従って身を守る。

「‥‥帰ったら、話がある。またな」

 ネガイの返事も待たずに切る。

「仲がいいですね」

「仲、いいよね」

 ギリギリと、カレンと繋いでいる指が絞まっていき、笑顔のままで牙を覗かせるイネスの視線に耳鳴りが酷くなっていく。星々の圧力を一身に受けて圧殺される寸前で「話は終わった?」と、ソソギが助け舟を出してくれた。

「マトイはもう知ってるみたいだった、ソソギが話したのか?」

「私じゃない。話した人の見当はついてるけど、今はどうでもいい。それより、話すことがある」

「どれだ?」

 頭に浮かんでいる物は三つある。

 血を飲ませた理由、この後、この体はどうなるのか、そしてこの状況。

「まずは、今の状況から。ヒトガタが襲ってきた。これは知ってる?」

「それはわかる。実際に襲われたから、」

「じゃあ、あのヒトガタ達から、を持った?」

 言われなければ考えもしなかっただろう。あれはヒトガタだが、仲間意識という物を感じなかった。、別の種族、他の動物でも見ているようだった。

「持たなかった。そうね?あれはヒトガタではあるけど、植物に近い。見た目こそ人間とヒトガタだけど、根本的には違う。貴き者の血に耐えられなかった

「抜け殻?名前は?」

「無い。あるとすればエプシロン。人間の姿こそしてるけど、私達アルファ階のヒトガタと違う――――それと、近く活動停止になる」

「活動停止って‥‥。死ぬとか、言わないでくれよ」

「死ぬんじゃない。終了する、こうとしか言えない」

 言い方の問題でしかない、ソソギの言葉は完全に同意義だった。忘れていた訳じゃない。成育者達はこうやってヒトガタを使い捨てにする。

 本当に、自分は良心的な廃棄をされていたのだと、改めて気付いた。

「恐らくだけど、彼女達はイネスを狙った研究所か実験所が潜り込ませたヒトガタ———もう、息はしてないと思う。もう、誕生種を全うしてしまった」

 繋いでいるカレンの手が震え始め、隣のイネスも腕を掴んでくる。

「まずい状況だ‥‥」

 入院中のヒトガタが事件を起こした。例え命令による物だったとしても、スパイ活動や破壊工作をしてしまった。もう言い逃れは出来ない。今も入院しているヒトガタ達の扱いをオーダーが変えるだろう。そして、イネスへの対応も。

「少し、話してくる」

「目は‥‥?」

「だいぶ見えてきた。1人で行ける」

 また嘘をついてしまった。だけど、目の回復を待てるほど悠長な時間も無い。

「私も行くから、いいよね?」

「助かる。ソソギ、イネスを頼んだ。最悪、この車で逃げてもいい」

「そうならないように行くのでしょう?大丈夫、私は待ってるから」

「‥‥ああ、そうならないように行ってくる。後で」

 カレンが飛び降りるように、車から出た後を追いかけて真似をするように、日光に身を晒す。日差しが弱まってはいたが、夏の気温と湿度のせいでただ不快だった。

 スライムやジェルで作られた生暖かいコートでも着ている気分となり、車内に戻るか、早く病院内に戻るかしたい衝動に駆られる。

「誰を探すの?」

「あの先生。どういう立場か知らないけど、それなりに偉いんだろう」

 カレンより前に出て、病院着の入院患者や看護師、白衣の医者や研修医らしき緑の実習衣を着ているオーダー達の間を縫って歩く。

「‥‥なんか、皆んな‥‥」

「まぁ、普通なのかもな。これぐらい」

 スマホを触っているらしい者やタバコの匂いをさせている者、そして新聞に雑談、もしくは点滴の交換などを、。意外とは言わないが、結構余裕があるようだった。もしくは、待ち構えていたようにも見える。

「緊張して損したかも。やっぱり皆んなオーダーなんだね」

 自分が入院している間は無かったが、この程度の事件は日常的なのかもしれない。

 ドアを蹴破るような音が響いた時は何事かと思ったが、銃声が鳴らなかったのを失念していた。目が見えなかったせいで、わからなかったが、それほど大きな事件では無かったのかもしれない。

「‥‥見つからない」

「え、目の前にいます‥‥」

「目が見えないのは本当らしいね」

 白衣には気付いていたが、わからなかった。だが、丁度いい。

「話があります」

「その前に目を見せなさい、これが話をする条件だ。いいな?」

「わかりました‥‥」

「君は付き添いか?」

 恐らくカレンに話しかけた。声を俺よりも向こうに投げたのがわかる。

「はい。でも、いいんですか?」

「身内がいた方が冷静に話せるだろう。それに、こちらとしても第三者がいた方が話し易い。着いてきなさい」

 足音を立てて白衣が遠ざかっていく。カレンに振り返って「案内してくれ」と頼むと「うん、ゆっくりね」と頷かれる————自分では見えていると思ったが、人から見ればまだまだだった。ここで無理する訳にもいかないと、素直にカレンに頼る。

 少しだけ誇らしそうに胸を張ったカレンに手を引かれた。

 さっきと変わりゆっくりと前を歩いてくれ、本心で気遣ってくれていると感じた。

 白衣は駐車場をしばらく歩き、大きめな白いテントのような直角の物の前で止まる。

「‥‥車?」

「車だ。前に君が追い込んで、ぶつけた車体と用途は違うが殆ど同型機だ。ここでなら簡易的な施術もできる」

 なんとなく思い出してきた。

「ああ‥‥あのバスみたいな‥‥」

「因み言っておくが、あれは今も修理中だ」

「文句ならぶつけたカエルに、まだいるんですか?」

「精神鑑定で、別に移された」

「—――卑怯者がっ」

 立場を使って、無罪を勝ち取りに動いたようだ。ボケ面晒して名ばかりの精神鑑定でもしていたら、二度と喋れないように、本当の精神科に叩き込んでくれる―――。

「原因は君だ」

「元はあいつ自身だ」

「違いない。乗りなさい」

 バスの前側にある二つ折りのドアを開け、白衣の後ろ姿が消えていった。繋いでいる手に緊張感が走る。「‥‥どうする?」カレンからの相談に、

「ここで俺を害する気はないと思う―――だけど、念の為に策を張っておきたい。逃げる準備をしておいてくれ」

 警棒状態の杭を渡す。脇差しよりもはるかに使い易いだろう。

「腰にぶら下げといてくれ、威嚇にもなる」

 腰に杭を下げたカレンに手助けされながら、バスの中に入る。治療待ちの座席が左右に設置され、奥にもう一枚の扉が見えた。ここだけ切り取れば列車の内装にも感じる。実際、座席の天井近くに棚がある為、尚更列車に見えるだろう。

「私が前ね」

「気を付けてくれ‥‥」

「私もオーダーだから、怖くないよ」

 カレンも嘘をついた。きっとカレンは、俺やソソギよりも大きく人間を恐れている。廃棄処分を受けそうになった体験を持っているのだから、怖くて当然―――イネスよりも廃棄処分という恐怖を身に刻んでいると、震える手で感じ取った。

 カレンに手を引かれながら、腰の止血剤入れのナイフを撫でる。マトイを切り裂いた刃を―――。

「失礼します」

 中に入ると意外と広かった。ここだけ見れば本当に診察室のようだ。

「まずは座ってくれ」

「彼の隣に座ってもいいですか?」

「構わないよ。ただ、邪魔はしないように」

「カレンは邪魔なんてしません。あなたが何もしなければ」

 丸椅子に座ると、隣にあったもう一つの丸椅子にカレンが座った。

「失礼するよ」

 先生が目蓋に親指を当てて、眼球の裏側を覗いてくる。その後、ペンライトで眼球全体を照らしてくるが、意外なほど平気だった。

「反応が少し遅いな。—――これは、眩しいか?」

「‥‥少し」

「少しか。これと同じ症状は、何度か?それと、どんな時にこれが起こる?」

「症状自体は何度か。次の質問は法務科からの許可が無いと話せません」

「君も難儀な体質だな。長生きしなさい」

 珍しくないのか、呆れたような口調と呆れた言葉だけで、先生は聞き取りをやめた。

「詳しくは法務科に聞くとするか。だが、これだけは答えて貰う」

 見えない目でも感じ取れる強い視線を先生が向ける。しかし敵意は感じない。

「そうなった時、どうすれば治るんだ?」

「‥‥強いて言えば、放置です」

「本当か?」

 答えに被さるようなスピードで、聞き返された。

「はっきりと言おう。君の正体を私は知っている、ヒトガタだ、そうだね?」

 目蓋に手をやったままで聞かれた。

「聞いてどうするんですか」

「ヒトガタと人間の大きな差異はない。むしろ、全く同じだと言える。人もヒトガタも同じ治療法で治る、だが聞いておかなければならない。君は人間ではなくヒトガタだな?」

 医者としての矜恃なのか、真剣に答えてきた。人を治療する時とヒトガタを治療する時とで、何を優先するか違うのかもしれない。

「そうです。ヒトガタを知っていたんですね」

「君がそうだとは知らなかった。だが、ヒトガタについては私が研修医だった頃に関わった」

「‥‥関わった?」

「運び込まれてきたんだ。君のようにね」

 淡々と話した医者は目蓋から手を離した。きっとロクな話じゃない。聞きたくない。

「今は、どうでもいいです。俺の目に何か異常は?」

「眼球自体にはなんら問題はない。君は少し眩しい程度にしか感じなかったみたいだが、眼球の方はしっかりと光に反応していた。異常があるとすればだ。心当たりがあるんじゃないか。そちらのお嬢さんにも」

 医者の矜恃の次は医者の勘か、それとも今までのオーダーとしての経験か、カレンに声を向けながら訊いてきた。

「体質によって一時的に盲目と同じ症状になることはある。だが、それは多くの場合ストレスや心理的な圧力によるものだ。そこのお嬢さんが君に何か施したんじゃないか?心が現実を直視できないと判断させ、結果的に視力を失ってしまう程の何かを」

「カレンを責めないで下さい。これはヒトガタの問題です。それに自然と治るのは間違いありません」

「今も私の目がどこにあるか見えない君が、それを言うか?」

「あなたは知らないだろが、俺にとってこの状態は珍しくない。数時間後には治ってる―――」

「やめて‥‥」

 膝の上に造っていた拳に、カレンが手を添えてきた。

「———悪い、怖かったか。喧嘩しに来たんじゃありません。保護しているヒトガタの事で話があります」

 拳を解いて、指と指を繋ぐ。

「病院を襲ったヒトガタと、今も入院しているヒトガタは別者です」

「そんな事は知っている。それだけか?」

 今の言葉だけで、視界が少しだけ戻った。

「さっきも言ったが、私はヒトガタと関わったことがある」

 足を組み、両手を膝の上に置いている姿が見える。

「そもそも彼女らはここの入院患者ではない。エレベーター内の監視システムでも既に確認済みだ。同じ入院着で皆一様に同じ顔だが、ここの顔認証システムは並じゃない。彼女らがここに入り込んで来ることも予想済みだ」

「知ってて通したんですか‥‥?」

「ここはオーダーの病院だ。それに君もいたから問題ないと踏んでいた。当ては外れたようだがね」

 信頼していたとでも言うのだろうか。だけど、同時に幾つもの疑問が浮かび上がる。まず最初に脳を衝いた疑問は、なぜワザと誘い込むような真似を、

「怪我人だけじゃない、死人が出ているかもしれないのに、どうして?」

「私はこの病院の医者だ。誰であろうと患者は治す義務がある。そして、退院してからも外の環境で安全に暮らせるように計らうのは、オーダーとしての役目だ。特殊なヒトガタであるのなら、尚更住める場所は守らなければならない」

「イネスを守る為に、敵の姿を掴みたかった‥‥」

 カレンが呟いた。同じことを考えていた。

「だが、君は戦場になる危険な場所で目が見えなくなっていた。謝ろう、結局私は君のことを何も考えていなかった」

 先生が立ち上がって、深く頭を下げてきた。

「‥‥期待に応えられなくて、すみません」

 正面から見ることが出来なかった。

 深く長く頭を下げた先生は、立ったままで話を続けてくる。

「襲撃者である8人のヒトガタは保護した。全員、息をしている」

「‥‥嘘、あのヒトガタ達は。だって、」

「ここを襲い、彼女を奪取する、失敗したら自動的に心臓が止まる。だが、もうそのルールは消えた―――これは秘密だ。ここにはヒトガタの専門家がいる」

 何もかもが手の上だったようだ。

 カレンが信じられないように目を見開き、繋いでいる手の握力がより強くなる。

「人が悪いですね。俺を襲った時も思いましたけど」

「あの時の一件以来、この病院も制度を変えたんだ。この病院に手を出した者は、

 椅子に座り、再度足を組む。無礼とは思わない。これ以上ない無防備な姿だ。

「それで、何を掴んだんですか?」

「ヒトガタを8人保護した。今は眠いっているが、成育者達の話をなんとしても聞き出してみせる。そして、今あるのはこれだけだ」

 先生は白衣の内側からスマホを出して、画面を見せてくる。

「信じられるか?白昼堂々と襲撃を企てたテロリストが顔を晒しているなんて、いくらなんでもオーダーを舐め過ぎだ」

「ろくに考えもしなかったんですね」

 病院の駐車場に一台のワゴンが入って来た。そのワゴンから1人、スーツの男性が降りて病院を一瞥して戻ったところで、5人のヒトガタが降りて来る。

 残り3人は既に病院に潜入していたのだろう。

 カメラは助手席にもう一人の影を映したが、誰も降りて来なかった。どうやら、もう一人成育者がいるようで、こちらはを知っているようだった。

「もしくはバレても構わないという考えたのだろうな。ヒトガタの研究は、財力がいくらあっても足りない上、場所の確保も必須だ」

「社会的地位がある、もしくはそういった人間の後ろ盾がある」

「まだ確証は無いが、恐らくそうだ。今、に確認させ、顔の洗い出しをしている。さて、どうしてくれようか――――」

 この医者は情報部の名を軽々と言った。あんな組織を簡単に動かせるなんて、この病院というよりも、この人物は何者なんだという疑問が渦巻き始めた。

「どのくらい掛かりますか?」

 と話している間にスマホが震え、メールが着信したと気付いた。

 見せている画面を返し、送られてきたメールを確認した後、「ほう」と呟いた。

「なるほど、金ならあるようだ。この顔には見覚えがあるだろう?」

「—――はい、知ってます」

「私も驚きだ。まさか、元閣僚の親族とは」

 過去の政権の閣僚にして、日本オーダー発足の原因となった人物の親族。

 そして―――。

「これは大捕物が始まる予感がする。君達は法務科の仕事で、彼女に会いに来たのだろう?」

「はい、前の誘拐事件の捜査です。それと、もう彼女ではありません。イネスです」

「では、カルテにはそう記しておこう。だが便宜上彼女と言わせて貰う。失礼した」

 カレンが言い直しを求め、先生はカルテをひとつ取り出して、ペンで何かを書いた。カレンの一言で、名前を変更してくれたのだとわかった。

「その捜査にヒトガタが関係しているみたいだね?詳しくは終わった時、法務科に問い合わせるとしよう」

 法務科と繋がりがあるような荒事にも慣れているとは、流石としか評せない。

 ただ、未だに俺を売ったことは許せないが――――。

「これからイネスはどうなるんです?」

「何も変わらない。血を造り、身体を持ち治させて、病院から出た時の為にヒトガタではない人間の教育する。それだけだ」

「信じていいんですか?彼を売ったあなたを」

 カレンが強めに問い詰めるが、こんなことも慣れたと言わんばかりの様子だ。

「信じてくれていい。彼女はオーダーが保護すると決めた患者だ。誰にも引き渡さないと約束しよう、私もまだ死にたくはない」

「死ぬ?オーダーは殺人はしません。誤魔化してませんか?」

「誤魔化してなどいない。ただし、オーダーとしてではなく、彼女の同胞からそう言われた」

「そのデータは頂いても?」

 今度はこちらが被せるように言う。やはりオーダーという立場で面と向かって殺すは不味かった。今度言う時は殺す時だけにすると決めた。

「構わない。それと後で法務科にも送るとするよ。君の上司は知っているから、直接送らせてもらう」

 顔の広い人だ。医者というのは、それだけで人と出会う機会が多いのだろうが?だが、この人の人脈は異常だ。過去に救護棟の棟長の話もしていた。どうやらオーダー校の教員達とも懇意にしているようだ。油断ならない。

「世間は狭いですね」

「全くだ。どうしてこうも、私の周りはまともな人間がいないのだ」

 まともじゃない人間のひとりである先生は足を組み直し、スマホを持ったままで大きな溜め息をついた。




「良かったのか。残らなくて」

「カレンがいるから平気。それに、あなたに運転させる訳にはいかないから。目はどう?」

「‥‥大体治った。だけど、運転は任せる」

 血の熱もだいぶ治まりはしたが、やはりまだ不安が残る。もしここで事故でも起こしたら、サイナに怒られる。

 ヒトガタ達の襲撃は失敗に終わったが、大事を取って二人はイネスの病室に泊まる事となった。よって着替えが必要となった為、カレンを残しソソギと共に寮を目指していた。

「聞かないの?」

「そうだな‥‥、?」

「カレンみたい」

 ようやくソソギが笑ってくれた。

 病院を出発してから一切お互い笑わなかった為、車内の空気が鋭かった。

「まずは、は3人と比べて差異があったのか?」

 昨日今日と話が噛み合わない事が多々あった。

 違う場所で育てられたから、という話が理由にならない、埋め合わせる事が出来ないほど、

「元々の話をする、あなたは自動記述のことをどれだけ知ってる?」

 ヒトガタはそれぞれ別の目的で造られる。何故なら、ヒトガタに求められる物は軒並み人間では実行不可能な役割だった。当然、そうでなければ意味がない。

 だったら、最低でも人間と同じか、それ以上のスタートラインが設定されていなければならない、それが自動記述。

「ヒトガタにとってのスタートライン。これが始まってようやくヒトガタの意味が始まる」

「そう、自動記述はヒトガタにとっての始まり。だけど、それだけじゃない」

「どういう意味で?」

「自動記述はヒトガタの証。人間では到達できない場所に行こうとしているのだから、ただの人間では理解し得ない知識を持っていないといけない。イネスから聞いた、あなたはゴーレムの事を知らなかったって」

「‥‥知らなかった」

「それはおかしい。ゴーレムはヒトガタという流れの原点と言ってもいい技術。ヒトガタが知らない筈ない」

 ソソギとカレンにとっての常識を知らなかった。やはり俺はヒトガタとして欠けていたらしい。

「それと男性型のヒトガタがいないことも知らなかった」

「なんでいないんだ?寿命の話はしてたけど、16年が境目なのか?」

「ヒトガタにはあなたの言う通り年齢の境目がある。個体によって違うけど、少なくとも10年生きたヒトガタなら、その後も人間と同じように生きられる」

 イネスのいる地下に入った時、仮面の方が言っていた。ヒトガタは長く生きると若干だが人間寄りの生命になると。

「でも男性型のヒトガタは1年と持たない。‥‥大体が2ヶ月」

「‥‥他人事じゃない」

 この記憶が作られたものでなければ、俺は少なくともシズクと出会ってからの10年間を生きてきた。

 2ヶ月前なんて、ネガイとギクシャクしている時。もう遠い過去だ。

「本当に俺以外いないのか?」

「まずいないと思う。いてもこうして出歩いたりはできない。何故、男性型のヒトガタがすぐ息絶えるのかは、私にもわからない」

 自分に関係ないとは思わない。

 だけど、同胞が倒れていったを振り返っても何も見つからない。

 俺は生きている。恋人も家族もいる。何も問題はない。

「じゃあ、オーダー校に入るまで、同年代の異性と話した経験は少ないのか?」

「少なくというよりも無かった。あの時は驚いた、男の子達が沢山いて信じられなかった。でも、今も信じられない」

「ん?何が?」

「あなたが隣にいる事。最初は何かの間違いだと思ったから。男性型のヒトガタなんて、私達がいた研究所だったら絶対に手放さない、だから二重で驚いた」

「絶対に‥‥。でも、俺は結構簡単に捨てられた。それに、男性型と女性型って、そこまで違いがあるものなのか?」

「わからない。男性型はほとんど歴史が無いから、少なくとも貴重って価値がある思う。‥‥家のプランだったとしても、あなたがどれだけ貴重か知らない訳ない。最初はオーダー校の作り上げた新しいヒトガタなのかと思ったけど、あなたはずっと学校内でも隠していたみたいだし」

「そう言えば聞いてなかったな。どうして俺がヒトガタだって、わかったんだ?」

 カレンの目の前で話している時はヒトガタの話なんてしていなかった。

 特別な血の話をしていただけで、それ以上は話していなかったのに、2人は俺がヒトガタだと見抜いた。

「俺はシズク以外、誰にも話してなかったんだけど」

「‥‥勘」

「冗談だろう」

「冗談じゃない。あなただって、私達がヒトガタだって聞いて、すぐ信じた。あなたも直感でわかった、違う?」

「‥‥そうかも」

 即答したソソギからは、さも当然のような空気を感じ、それが真実だと痛感した。

 知識としてヒトガタを知っているをしている可能性だってあった筈だ。なのに、俺は「私達はヒトガタ」という言葉を鵜呑みにした。なんの違和感も無く――――ふたりを同胞だと受け入れた。

 確かに俺も勘でふたりをヒトガタだと感じ取った。

「俺も、ふたりを見た瞬間思った。他人じゃない気がした。不思議だな、初めて会った時は思わなかったのに。ソソギはいつから?」

「私は初めてあなたに会った時から、感じてた。多分カレンも同じだと思う。学校であなたを見掛けると、カレンはいつも話してた」

「どんな話?」

「それは直接カレンに聞いて。きっと待ってる」

 まただ。ソソギに煙に巻かれた。

「早く言えばよかった‥‥。俺も2人も孤独感を感じないで済んだのに」

「なら、一緒に住む?」

 ソソギが提案してきた。

「外に出て、オーダーもやめて、ヒトガタだけで一緒に暮らすの。悪くないって、思わない?」

 ネガイやマトイ、ミトリにサイナ。恋人達に出会わなければ、その生活はあり得ただろうか。本当に、遅いか早いかの違いでがあった気がする。

「カレンと私、それにイネス。そしてあなた」

 きっと平和な生活が出来ただろう。誰に脅かされても、皆んなで対処すればいい。それを実行できる力は揃っている。

「皆んなで皆んなを守る生活。誰も身寄りがいないけど、いないから自由に暮らせる」

 目を閉じて想像してみる。

 オーダーの制服を脱いで、皆んなで好きな服を着て、好きな所にいく。

 だが、決して楽な生活ではない。オーダーという大きな檻の中で暮している今とは訳が違う。誰にも守って貰えなくなる。それに、

「‥‥いいや。俺はオーダーに残る」

「理由は?」

「恋人がいる。離れたくない」

 本心からそう思う。ソソギ達との関係は得難い暖かな繋がりだ。でも、俺にはオーダーという繋がりから始まった恋がある。

 捨てられない、捨ててはいけない、確かな想いがある。

「それに、ソソギも今更オーダーから離れられないだろう。もう銃が撃てないぞ」

「それはダメ。もっと撃ちたい」

 自然とソソギの足にあるガンベルトに目がいく。

「高いのか?」

 ソソギの拳銃はヴォルカニック連発銃を改良したヨーク連発銃。スミス&ウェッソン設立前に創設者の2人が開発したヴォルカニック銃を改良したレバーアクションライフルのピストル型。かなりの重量がある筈なのに、ソソギは見せつけるように、腿に装備している。

 初めて見るモデルだ。まさかと思うが、サイナのオリジナルではないだろうか?

 改造ならまだしも自作の銃など、一体いくつの審査をパスしなければならないか、考えるだけで溜息が漏れる。

 しかも、サイナにはあのケースがある。あれが見つかったら大事だ。

「あなただったら、タダでいい。でも今はダメ」

「なんでだ?撫でるぐらいは」

 正直興味深い。銃身の大きさの割りに銃口が俺のM66と然程変わらないように見える。その上、確実にオートマチック。

 レバーアクションはソソギの趣味なのか?だが、ここまで自由にカスタマイズできる物をS&W社が作るか?興味が尽きない。

「私、敏感なの。きっと我慢出来なくなる」

 その意味がわかり、つい伸ばしそうになって手を戻し、顔を下げてしまう。僅かに前髪越しからミラーを覗きソソギの顔を見つめると、顔上半分はそのままなのに、下半分は挑発的に牙を覗かせていた。

「わ、悪かった‥‥」

「そう、信号待ちでもダメ」

 赤信号に捕まり、車を止める。

 ソソギの言ってる意味がわかった。引き締まった白い足が銃の向こうにあったのに、気付かなかった。

 長い筋肉の筋が美しい。なのに、女性特有の柔らかそうな脂肪が足を包んでいる――――吸ってしまえば、跡が残るだろう。

「見るだけならいい。言われるまでもない?」

「‥‥かもしれない」

「正直者。呆れられるの‥‥待ってる?」

 吐息混じりの声を聞き、顔を上げた時、襟を掴まれた。そして、口も。

「‥‥これで許してくれる?」

「‥‥気にしてない。ありがとう、ソソギ‥‥」

「でも、謝りたかった。ごめんなさい、また私達はあなたを苦しめた‥‥」

 手を離した時、信号が青になった。音も出さずにソソギは車を発進させる。

「痛かった‥‥?」

「‥‥少しだけ」

 喉が裂けそうだった。もう一度あれを体験したら、また狂ってしまう。

 ナイフで喉を内側から突かれ、脳への電撃で強制的に覚醒させられているようだった。ソソギが寝かしてくれていなければ、しばらく目を覚まさなかっただろう。

「どうして、俺にあれをやったんだ‥‥?」

「‥‥あなたの自動記述を目覚めさせるため」

「でも、今まで不都合は無かったんだ。なんで今日?」

「イネスとはいつ次会えるかわからなかったから、それに、」

 僅かに言葉を迷ったソソギに自分は相槌を打った。「それに?」と此方が聞く形を作り上げた事で、覚悟を目に宿したソソギが静かに応えてくれる。

「これは私の勘。きっと今回の仕事にはヒトガタの知識が必要になる。仕事中に齟齬があったら危険だと思って――――」

「聞けてよかった‥‥」

「‥‥怒ってない?」

「怒ってない」

 イネスにも同じこと言われた。ヒトガタ特有の質問らしい。

「俺の為にしてくれたんだろう。‥‥もう、俺は怒れない」

 ネガイとマトイがしてくれた事と同じ。俺を生かす為に血を施してくれた。恨んでなんかいる訳ない、まして怒る筈ない。

「わかるんだ。きっと俺はソソギに感謝する時が来るって。その時の為にもう一度言いたい――――ありがとう。俺を救ってくれて」

「‥‥わかった。他にも分かったことがある。カレンがあなたの話ばかりしてた理由」

「法務科で?」

「いいえ、違う。カレンから聞いたの。あなたが助け出してくれた時、ずっと励ましてくれたって」

 確かに袋を被せられたカレンに声を掛けていたが、今思えば早く外せばよかった。

「早く取れば良かった‥‥余計不安にさせてたかもしれないな‥‥」

 あの場には銃声と共に、轟音を上げて追い掛けてくる車両が揃っていた。オーダーではない女の子に、あの光景を見せる訳にはいかないと思った。

「カレンは、銃は撃てるのか?」

「‥‥決して得意とは言えない。察して」

「覚えとく」

 卒業訓練で嫌でも撃てるようにさせるが、それでも不得意な生徒はいる。シズクなんて、その最たる例だ。

「カレンは、俺達の戦場には連れて行かない」

「そうして。カレンの戦う場所は決まってる。人身の掌握がカレンの戦い、どうかその時はサポートしてあげて」

「約束する」

 実際にカレンは危険な目に遭った。特殊捜査学科だから仕方ない、そんな言い訳は使わない。危険な目に遭うとわかっているのなら、サポートするのが自分達だ。

「今回もカレンはそういった仕事をするかもしれない。その時、私は側にいないかもしれない。だから‥‥お願い」

「必ずカレンの側にいる。だから、そんな事言うな。ソソギも側にいてくれ。カレンを残して、どこかに行く訳にはいかないのは、俺もソソギも同じだ」

 いくらソソギが査問学科だとしても、決して不死身じゃない。倒れる日がいつか来るかもしれない。それは自分自身にも言える事だった。

「荷物を持ったら、一度病院に帰るんだろう。部屋の掃除はどうする?」

「私と付き合ってくれるの?」

「え‥‥あ、いいぞ。部屋の掃除だよな‥‥」

 今のは効いた。急にしおらしく聞き返してきたから言葉通りに受け取ってしまった。

「まずは私の部屋を手伝って、次にカレンの部屋。カレンから許可はもらってるから大丈夫」

「詳しく聞いてないけど、そんなに酷いのか?」

「‥‥酷い。正直、自分の部屋なのに、入りたくないぐらい‥‥」

 この様子だと、近々クレームが届きそうなレベルで異臭を放っているようだ。

「緊張しないの?」

「まぁ、少しは。最悪、冷蔵庫ごと交換しないといけないかもな—――いや、別に電気は止められてなかっただろう。そんなに酷い状況なのか?」

「私だって女の子。女の子の部屋からあの臭いがするのは、許せないし耐えられない。わかった?」

「‥‥わかった」

「それと私が聞きたかったのは、女の子の部屋に入ることに緊張しないのか?私とふたりきりで、同じ部屋で過ごすのに――――ふふ、自覚した?」

 なぜだろうか、ソソギには手玉に取られてばかりだった。だというのに、今も僅かに口元を歪ませた顔を、晒すソソギの手の平に収まっている感覚には、快感すら感じ―――ネガイに会ってなければ、もしかしたらと、思ってしまっていた。




「‥‥これは、酷いな‥‥」

 冷蔵保存されている筈の卵から、何かが漏れ出している。

「知らなかった、黄身が緑になるんなんて―――」

 その上、牛乳の紙パックは変色して、持ち上げるだけで中身が吹き出しそうなほど強度が失われている。今も瞬きの内に破裂しそうなぐらい、ふやけていた。

「こう見ると、肉類って意外と」

「ええ、もう食べれないけど、臭いも見た目も傷んでない。牛乳と卵がなかったら、まだ食材として使えると思ったかも」

「それは危ないから、しっかり賞味期限を確認してくれ‥‥」

 ソソギが食中毒で入院なんてしたら、笑い話にもならない。

「さて、やるか。俺が始末するから、ソソギはカレンの部屋に行って荷物を」

「お願い…」

「ああ、任せろ」

 ソソギの部屋も普通の1人部屋だった。やはり、6人部屋大きさが異常に見える。

「雑巾とあるか?」

「それならお風呂に。着いて来て」

 冷蔵庫から立ち上がって、ソソギの後ろに着いていくと―――視線が吸い寄せられてしまった。後ろから見ても、やはり豊満だった。スカートを内側から傲慢と言っていい程に、持ち上げる肉感的な肢体が麗しい。

 玄関に繋がる廊下を歩き、ソソギが脱衣所を開ける。

「入って」

「‥‥いいのか?」

「意識してるの?」

「だけど‥‥下着が‥‥」

 脱衣所には下着類が干してあった。ネガイのも相当だと思ったが、ソソギのカップは拳一つ軽く入りそうで、そもそもデザインも扇情的で薄くて蜘蛛の巣のようで。下着として意義を成していないのではないか?そう唱えそうになっていた。

 同い年だというのに年上の女性の部屋で、見てはいけない物を見た気分となり、視界からそれを追い出す事が出来ずに固まってしまっていた。

「気にしないで。私は、恥ずかしくないから―――これ、自分で取って」

 一歩中に入ったソソギに指を差された方向は、衣服を掛けたりするラックだった。当然のようにソソギの衣服が折り畳まれて置かれている。

「下にあるから」

 普段と変わらない冷静なソソギの声に応える為、自分も意を決して脱衣所に入る。空気の断層ひとつ乗り越えただけで、甘い香りに包まれた。洗剤なのだろうか、薄いけれど、清潔感のある香りに呼吸を荒くしてしまう。

 ソソギの前を通ってラックの下に屈むと、床からもソソギの香りが―――、

「あ、間違えた。上だった」

 急にソソギそんな事を言ってきた。屈んだままソソギに振り返ると、白い足が目の前まで迫っていた。白い足の付け根のスカートからも甘い香水と共にソソギ自身の汗の香りが放たれる。生々しく、自分しか嗅げないむせ返しそうな下腹部の体臭を肺に大量に取り込んでしまい、頭が惚けていると一歩前に出たソソギのスカートの生地に顔を埋めてしまう。

「ほら、ここにあった。どうかした?」

 離れて顔を上げれば、見下ろしてくるソソギの八重歯が顔を覗かせている。

「足だけじゃ嫌?」

 片足を軽く上げて、中身が見える―――中に顔を入れてしまう寸前で止められる。跪いたまま、自力では動けなくなった。

「私はあなたの手伝いをしてるのに、別の事を考えてる?」

 スカートの内側からの香りだけではなかった。脛を隠す長いの靴下からも、少しだけ汗の香りがしてくる。汗とは無縁そうな涼しい顔をしているソソギの生々しい香りから逃れるべく、再度顔を上げるがソソギの胸が邪魔して顔が見えない。

 それを見た瞬間—―――

 足と胸を見上げながら立ち上がり、抱きしめると、耳元で声がする。

「‥‥その気になった?」

「—――なった、と思う」

「ベットに行く?それともお風呂で見せ合う?」

「今日じゃない」

 ソソギから離れて、肩に手を置く。

「‥‥私は異性に見えない?」

「見えるけど、今は違う」

 本当ならベットと言わずに、今すぐにでもソソギへ襲いかかりたいけれど、今のソソギには時間が無い。早くカレンとイネスの元に戻らなければならない。

「今日の襲撃で終わりの筈がないって、わかるだろう。それに俺ならでも大丈夫だから」

「‥‥でも、」

「ソソギのお陰で目の調子も戻った。それに今守られるべきなのは俺じゃない。イネスだ」

 今日の襲撃は、一見すればイネスを狙った犯行にも見るが、

 無論、イネスの血が未だに純粋だと成育者達は信じているのかもしれない。もしくは、変異していたとしても、まだ利用価値があると判断している可能性だってある。

 血の聖女。それは全てイネスの血から始まった。ならば、またイネスをに就かせることもあり得る。

「俺を狙っての犯行かもしれない。だから、ソソギは一緒に来てくれたんだろう」

「‥‥今日一日はあなたを眠らせるつもりだった」

「不安か?」

「‥‥わかるの?」

「勘、だったけどな。カレンをずっと守ってきたから、俺も同じに見えるか?」

「そうなのかもしれない‥‥私はずっとカレンと一緒にいて、ずっと守ってきた。‥‥私が守らなきゃいけないって、思ってた」

 カレンの言い方からして、それは紛れもない事実。廃棄されそうになる前からソソギはカレンの側にいた。

「俺も、守らないといけない?」

「‥‥嫌だった?」

 回している腕に力を込めて背中に回し、ソソギの胸を自分の胸で潰す。

「嫌な訳ない。嬉しいよ。ソソギは、俺の家族だ―――寂しかった、親だと思ってた人に捨てられて。ずっと寒かった‥‥」

「‥‥そう。私も寂しかった、ずっと必要とされてるって思ってた。でも、捨てられた」

 人間にはわからない感情。主への思いを消すには時間が掛かる。ヒトガタとして自覚があろうが、なかろうが――――漠然とした焦燥感、無力感に苛まれる。

「もう戻れないって、わかってた。あなたに負けてやっと認められた」

「怖いよな」

「‥‥怖かった」

 人間ではないヒトガタが外で暮らすには、あらゆる弊害が生まれる。人間との齟齬から始まる、差別感に孤独感。だから、振りをしなければならなかった。

「だから、カレンともあなたとも離れたくなかった。怖くて、怖くて‥‥」

「受け入れてくれ‥‥」

 ソソギの肩に頭を埋めて、一切の隙間も無くす。

「これが、ヒトガタの呪縛を捨てることなんだ。1人じゃない。俺もいるから」

「‥‥あなたに負けて、カレンとも離れた」

 静かに腕を伸ばして背中を抱いたソソギから、僅かな爪の痛みを感じる。

「ごめん。もっと早く迎えに行けばよかった」

「あなたは私達の為に身体を張ってくれた。それが聞けて、私は嬉しい。あなたを好きになれた」

「嬉しい‥‥俺もソソギが好きだから」

「やっと会えた時、私もカレンとあなたの話ばかりしてた。きっと、カレンと私はあなたに同じ気持ちを持ってる」

 柔らかい声と柔らかい髪に柔らかい匂い。自分は今、ソソギに包まれている。

「もう一度言って‥‥」

「‥‥好きだ」

 一度ソソギから離れて、もう一回だけ口を奪う。

「‥‥優しい‥‥」

「物足りない?」

「‥‥嬉しいの‥‥」

 誘惑するような態度を取っていた理由は、この部屋から逃がさない為。同時に謝罪代わりに。あの方に似ているのはソソギも同じだった。やはり、

「でも、」

「どうした?」

 ソソギが腰に手を回してきた。そのままゆっくりと床に寝かせられる。

「どう?見下ろされてるの好き?」

 マトイと同じように腰の上に乗られる。自分こそが捕食者だと宣言するように、一切の身動きを許してくるないソソギに、心身共に屈服してしまう。自然と手を伸ばし指と指を繋いでみるが、ソソギがおかしな物を見るように想定と違うかのような顔をしてくる。

「慣れてる気がする―――前にした?」

「‥‥した」

「そう、経験豊富なのね。昨日?」

「‥‥正解」

 質問に答えるたびに、小さくなっていく俺の様子が面白くて興奮するのか。ソソギは自身が下腹部を腰に押し付けてくる。下着一枚隔ているとは言え、同年代の中でも特別成熟した肢体の下腹部の柔らかさ、圧倒的な肉感性の快楽に息を漏らしてしまう。

「可愛い声。ここまでしても、したくならない?犯して欲しいでしょう?」

 熱を帯びている下腹部と脚で、拘束された自分はソソギの情夫となっている。息遣いで興奮しているとわかるソソギの目が徐々に狂っていく、血走っていくのがわかる。

「‥‥今日はダメだ」

「残念。でも、これだけは頂戴」

 腰の上のソソギが首元のボタンを外し、呼吸を楽にしてくれた。

「知ってる?私って、いじめられるの好きなの」

「‥‥知ってる。俺も、嫌いじゃない。いじめられるの‥‥」

 死ぬかもしれない状況をソソギは楽しんでいた。

 M1793を心臓に突き付けられているあの姿を思い出してしまう。あの時とは逆だった。今ここで首でも締めたら、きっとソソギは喜んでくれる。もっと、愛を告白してくれる。そして、俺も締められたら、それだけで―――。

「ヒトガタ同士、同じみたい。だけど、それだけじゃ足りない」

 胸を押し付けるように、ソソギがしなだれる。柔らかいのに重みがある。下着越しだとしても自由自在に形を変えられる感触に身体が強張っていると、楽しそうに笑んでから耳元に息を吹き掛けられた。

「‥‥鳥肌立ってる。これがいいの?」

「続けて‥‥」

「そう、素直になって。私も素直になるから」

 耳に噛みつきながら、息に侵入される。脳が震える。風だけじゃない、ソソギの温かな声も微かに聴こえている。首元で感じていた寒気をソソギの体温が打ち消してくれる。

「終わりか‥‥?」

「今は‥‥」

 息を吹き掛け終わったソソギが耳元の床に手を突いて起き上がった。

 重力に従って落ちてくるソソギの胸の感触を身体で感じながら、落ちてくるソソギの口を舌で受け止める。長い分厚い舌だったが、絡め方が直上的過ぎた。焦り過ぎている。

「—――やっぱり、慣れてる。私がいじめたかったのに‥‥。交代‥‥」

 腕を掴んでくるソソギの作法に従って、起き上がりながら倒れ込むように覆いかぶさる。

「‥‥大きいの好き?そう、好きなのね。皆んな見てくるから‥‥わかる」

 呼吸をするたびに、胸が震えている。

 上から改めて見ると凄い体型だ。胸は俺の顔よりも大きいのに、ウェストはソソギの顔と同じぐらい細くて小さい。だというのに腰はスカートを浮かすほどに成熟している。長い足から覗く白い腿が影となっていても、輝いて見えるのが尚更艶めかしかった。

「‥‥ふふ、凄い目。私が欲しい?」

 それらに見惚れていると、両手で顔を掴まれて促されるように口に落ちてしまう。

 深い口に入り込んで口中を舐めとろうとした時には、既にソソギの長い舌が絡み付いていた。一切の身動きどころか口を閉じる自由さえくれないソソギに唾液を垂れ流し続ける――――ヒトガタは性に対して貪欲なかもしれない。

 また被虐趣味だ。生まれによるものなのか、人間に捨てられる結果は恐れているのに道具として使われる過程は、むしろ喜んで受け入れている。

 として望んでいるヒトガタらしかった。

「キス、好き?」

 舌を離した時に、そう訊いて来たソソギの方こそ慣れていた。

「どうしたの、暗い顔して?」

「‥‥交代しよう」

 もう一度ソソギを胸の上に乗せ、背中を抱く。

「‥‥向こうで、人間に酷いこと、されなかったか‥‥?」

「私はされてない。カレンも。ずっと私の側にいたから」

「良かった‥‥」

 ソソギを強く抱きしめる。同様にYシャツを握りしめてくれる。

「人間は私達をそういう目では見ていなかったと思う」

 人間にとっては、これだけ美しいソソギとカレンも性の対象には見ることは無かったらしい。だが、それは当時の話でしかない。

「やっぱり人間にとって私達は実験体。誘われたことも無かった。‥‥だから大丈夫」

 何もされていない。ソソギの言葉を信じる事にした。

 2人の研究所はどういう場所なのか、ある程度だが検討がついてきた。24時間永遠と監視に実験、そして検査。寝る時間も入浴の時も、排泄の時すら、監視をしている。ヒトガタとは本来そうやって飼育する物だと、自動記述が伝えてくる。

 職員達は当時の2人の身体を2人以上に知ってるのだろう。人間は気が休まらない弱い生き物。

 相手が少女の見た目であろうと例外は無い。

「人間は嫌いだ」

「私も。だから、もう帰らない――――今人間達が向けてくる目を見ればわかる。きっと、酷いことをされる‥‥」

 シワになるぐらい強くソソギが掴んでくる。その上に、手を乗せる。

「帰らないでくれ」

「帰らない。約束するから‥‥」

 長い手足に整った顔立ち。綻ぶ表情を作り出せるようになった成熟し始めた肢体。人間達は絶対に放って置かない。ソソギの内に何が隠れているのかさえ忘れて求めるだろう。

「‥‥誰にも渡さない。ソソギは俺の物だ」

「そう‥‥私はあなたの物になった。誰にも、私を渡さないで。‥‥続けるのね」

 狭い脱衣所で転がり、ソソギにのしかかる。

 ラックにぶつかり上からタオルやYシャツ、下着類が落ちてくる中、2人で埋れながら唾液を交換する。イネスも時もそうだった、ヒトガタは唾液の量が人間より多かった。

 終わった時、お互いの顔や首が唾液塗れで共にシャワーを流すには十分だった。




「終わった‥‥。だいぶ臭いも消えたんじゃないか?」

 冷蔵庫掃除が終わり、机に用意してあった一杯の水を飲み干す。

「ソソギに褒めて欲しかった‥‥」

 お互いの制服や顔を整えて、それぞれの役目に戻っていた。既にソソギは自身の着替え類を持ち、カレンの部屋に足を運んでいた為、恐らくだが、もう病院に戻る途中だろう。既に着いているかもしれない。

「終わったら、鍵をって―――いいのか?」

 ソソギから貰った2つの合鍵を眺める。

「‥‥単車か。見たかった」

 戻りは自分の単車で行くから、気にしないで。そう言ったソソギは部屋から出て行った。知らなかった、ソソギも二輪を持っていたなんて、購入の参考に見せて欲しかったが、任された冷蔵庫掃除を優先する事にした。実際、割と無視出来ないレベルで匂いが酷かった。

 昨日、ある程度は掃除したらしいが、それでも酷かった。今日がこれなら昨日はどれほど酷かったのか。

「次はカレンか――――尚更いいのか?」

 貰った鍵は2つ。手の中で煌々と輝くソソギとカレンの部屋の合鍵を見つめる。

「特別捜査学科の鍵。見つかったら、なんて言われるだろう」

 端的に言えばカレンはオーダー校の宝。いずれオーダーの広報や窓口となる存在。そんな将来安泰な生徒の部屋に異性がひとりで入り込む。今の時間ならば、面と向かって文句は言われないだろうが、もし見つかったら後々後ろ指差されるのは必然だ。

「まぁ、行くか」

 鍵と相談していても始まらないし終わらない。背中で玄関に向かいながら消臭スプレーを部屋中にばら撒き、足元も見ないで行儀悪く革靴を履いて外に出る。と、真横から。

「証拠隠滅?」

「そんな所。今暇か?」

「どうかなぁ〜、何くれる?」

「あのケーキ屋のシュークリーム」

「任せて!誰を消すの!?」

 丁度外に出た時、イサラから声を掛けられた。まるで待ち構えていたような状況だ。

「残された状況証拠。匂いを消したい」

「なるほどね。形跡を消す感じかー。で、次はどこ?」

「カレンの部屋。行くぞ」

「え、マジ?カレンって事は特別捜査学科の」

「男1人と男女2人、どっちの方が安全そうに見える?」

 肩を掴んできたイサラに振り返って聞き返す。いつもの返答を待っているとその目は心底驚いている、らしくもない狼狽という心象を正しく伝えてきた。

「カレン、いるの?」

「いや、今はいない。部屋の掃除を請け負ったんだ。鍵もあるから行くぞ」

「‥‥へぇー、やるじゃん」

 大人しくついてくるイサラは、何を勘違いしているか知らないが、ぶつくさ何か言いながら背中を睨みつけてくるので無視を続ける。その内、痺れを切らしたイサラ自身が質問を繰り出す。

「カレンとソソギ、元気?」

「自分で聞きに行け、喧嘩した訳じゃないんだろう。ついて行ってやるから」

「‥‥なんか、負けた気分」

 不機嫌そうに吐露したイサラが急に手を繋いで走り出した。

「カレンの部屋はこっちだよ!!ほらほら急いでッ!!」

 振り返って八重歯を覗かせてきた上、ショート気味な前髪を揺らして目を細めている。きっと作り慣れてしまった笑顔を浮かべる姿に、僅かながら爪先の鋭い痛みを感じた。

 ソソギの部屋と同じ階にあるカレンの部屋は歩いて2分程度。無意味に走ったお陰で20秒で到着したが同時に汗を受け取った。見られて困る事、請け合いなので急いで扉を開けて瞬間—―――。

「うっ臭うな――――だけど、やらないと‥‥手伝えよ」

 雑巾の在り方は確認していた。脱衣所のラックの下とのことだった。今度は嘘ではないとも。研究所にあった自室と同じような間取りだから、同じ場所に置いたらしい。これはヒトガタの血とかは関係なく、もはや習慣となったのだろう。

「イサラは脱衣所で雑巾を」

「いいけど、なんで場所知ってるの?」

「ソソギに教えてもらった。ラックの下らしいから持ってきてくれ。俺は状況確認をする」

 ローファーを脱いで、玄関に置いてあったスリッパを自然と履いてしまう。自分の足を呑み込めないスリッパのサイズに、ここは改めて少女の部屋なのだと理解した。

「小さいね。だけどカレンさんのサイズじゃないから多分ソソギの。私だったらぴったりだったかも」

「なら、交換しよう」

 スリッパを渡して廊下を抜けると、違和感とさえ言えない光景を目の当たりにする。壁紙の四角形を一切邪魔をする物がない。家具と呼べるものが、備え付けの棚とテーブルにベット程度しかなかった。服さえほぼ視認できない。

「‥‥研究所か」

 ソソギの部屋も私物が少ないと思っていたが、カレンも同様だった。とてもじゃないが、16歳の女の子の部屋とは言い難い。

「イネスの部屋は、物が多かったのに‥‥」

 同じヒトガタでも生活様式がここまで違うと思うと、感傷的になってしまう。

「2人には自由はなかった。イネスも同じなのに‥‥」

「どうかした?え、ここがカレンの部屋?」

「‥‥みたいだ」

「何これ、ほんとに人が住んでるの?」

 後ろから雑巾を持ったイサラが入ってきた。

 一歩入って改めて見渡しても、やはりベットとキッチンの冷蔵庫ぐらいもの。壁際にしてあるテーブルと椅子を見つけるが、日常的に使っている形跡はなかった。ソソギの部屋で食事をとっているにしても――――。

「冷蔵庫の場所も同じか‥‥」

 私服類はクローゼットに保管してあるにしても、やはり物が異常に少ない。だけど―――なぜだろうか、不思議と

「なんかさぁ‥‥」

 急にイサラが、背中に体重をかけてきた。

、ヒジリの部屋と。あの、前の部屋にさ‥‥」

 自覚は無かった。だけど、背中に隠れているイサラの反応が答えだと悟る。

「ごめん、怒った?」

「怒る訳ないだろう」

 忘れていた。そうだ、中等部の時の部屋や、ネガイやサイナが出入りする前の部屋はこうだった。荷物は全て捨てられていたのだから、持ち運ぶ物などなかった。

 2人も同じだった――――何も持っていない状態でここに捨てられた。

 決しておかしな光景などではなかった。

「なんか、寂しいね‥‥よし!掃除しよ!」

 腕を掴まれてキッチンへと歩みを進める。1人部屋ではあるが、キッチンとベットが置いてあるリビングは分かれていた。キッチンに続く廊下に掛けてあるカーテンを、開けた時、

「う、ごめん。任せた‥‥」

「無理なら言えよ。背中、さするから」

「‥‥そうするかも‥‥」

 冷蔵庫を開ける勇気がどころか、中に入る勢いすら消えてしまったようだ。イサラの代わりに出て冷蔵庫の扉に手を当てる。

「離れてろ」

「大丈夫、ここにいるから」

 冷蔵庫如きで何を決心しているのだろうか。だが、ここで無駄話をしていても仕方ない。意を決して力を込め開けた時—―――

「‥‥ごめん、無理!」

 イサラは一目散に去っていった。正直、その後ろを追いかけたかった。

 そこは亡者が蠢く恐ろしき冥府の扉か。はたまた血生臭い息を吐く獣の口か。身の毛もよだつと言う形容詞が、ここまで相応しい心情もそうはあるまい。あと数秒の呼吸だけで正気を失ってしまうと安易と想像できる。

「卵、牛乳、豆腐、野菜に‥‥なんだ、これ?」

 もはや判別不可能な食べ物が保存してあった。青紫の苔が―――白い固形物から―――無言で扉を閉める。脳内の細胞を回転させ続ける、ある程度の順路を想定、仮定、想像する。

「‥‥よし」

「お、終わった?」

 一人撤退し、おずおずと青い顔をしたイサラが戻ってきながら尋ねる。この短時間で何か終わる筈も無いが、その問いには何かが終わっている事を祈るイサラなりの嘆願が込められて見えた。

「作戦会議だ」




「美味しい‥‥」

 作戦成功の報酬として受け取ったシュークリームを、イサラは割と丁寧にフォークを使って食していた。

「勇気あるよね。あんなのに触れるなんて‥‥」

「結局、なんだかわからなかったけど」

 思い出す事すら出来ない。目があれを脳に取り込まないと決めたらしく、あれの片鱗すら思い出す事も出来ない。

「結局、洗剤3本に消臭スプレー10本か。1人で買いに行ってたら、大変だったな。助かったよ、本当に‥‥」

 記憶はないが、あの手の感触が残っている気がする。粒々で、柔らかくて、中身が吹き出てきて‥‥。

「いいって、私は戦力にならなかったし‥‥」

 未だにお互い髪が濡れていた。に入ったからだった。

 だが―――艶やかな鴉色となったイサラは、なぜこうも色っぽいのか。

「あれは人智の外の何かだ」

 この化け物をもってしても、恐怖を抱かせてきた。ただの人間では耐えられなかっただろう。化け物でよかった。

「‥‥なんか、やっぱり悔しい。…これも美味しいし」

 半分食べ終わった所で、ストレートの紅茶で口を潤していく。 ネガイと買いに行った逸品だ、美味いに決まっている。

「背も負けて、戦闘でも負けて、おまけにこの様でさ」

「‥‥掃除、変わって欲しかったのか?」

「違う違う違う!!そうじゃないから!!」

「ならどうした?」

 香りも芳醇で、色も悪くない。当然、味も良い。

 ゴールデンドロップはイサラに渡したが、きっと気付いていないだろう。心の底では甘い物が欲しいが、それはまた今度と心に決めて、イサラの顔を見つめる。

「‥‥前にも話したじゃん。ヒジリはずっとシズクとかミトリの背中にいたって」

「そんなに、いたか?」

「いたいた。サイナとか私と出会ってからは、私達の後ろだったし。それが今は、皆んながヒジリの背中を追い掛けてる‥‥」

。俺ひとりだったら、とっくに死んでる」

「そういう所も。中等部の頃だったら、なんでも1人でやろうとしてた。それが今は、周りに気を使えて、それで、彼女もいて‥‥」

 なかなか残りのシュークリームを食べないイサラは、紅茶ばかり飲んでいた。

「‥‥これも」

「紅茶?」

「ネガイさんが、ヒジリを変えたの?」

「かもな。いや、そうだ。ネガイが俺を変えてくれた。言っとくけど、イサラにもだぞ」

「‥‥そっか、私もか。‥‥ねぇ、聞かなくていいの?」

 カップを置いて、見詰めてくる。

「私がふたりに手を貸した理由」

 真っ直ぐに見据えてくる。イサラも覚悟を決めたようだった。決して触れてはならない禁断の領域に、手を伸ばしてしまった責任を取る為に―――。

「ヒトガタの事は、どこまで聞いてる?」

「‥‥多分、全部。ソソギから聞いたから」

「なら、なんで手を貸したんだ。帰ったら、どうなるかぐらい察しはついただろう」

 自分でもコントロールできない感情により語尾を強めてしまった。瞬時に肩を震わせたイサラへ、続けて何かを発しようと、謝罪を口にすべきだと腰を浮かせようとしたが、イサラが「わかってる」と首を振った。そのままカップを両手で包み、天井を眺める。

「‥‥だってさ、帰りたい場所があるって、いい事だって思ったから」

「‥‥全部聞いたのにか」

 こちらもカップを持ち上げて、口内の濡らす。

「帰っても、いい事なんか無いって、私もわかってた。‥‥ソソギとカレンだよ、向こうに行ったら、何されるかわかるよ」

「なのにか?」

「私みたいな根無し草にはさ、帰りたい場所があるって、羨ましかったの。正しいって思った――――なら、

 悪意なんて無い。本当にイサラは2人の為に手を貸した。それがどんな結果になろうと、帰りたい場所に送り出そうとした。人間にとっては間違った事はしていない。

 オーダーからしても正しい行動だとわかる。

「私のした事、間違ってたかな?」

「全然」

 予想外の言葉だったのか、瞳孔を開いた。

「‥‥怒ってる?」

「いいや、ありがとう」

「なんで、お礼なんか‥‥」

「2人の為に、動いてくれたんだ。感謝してる」

 ほとんど同じぐらいの高さで、イサラを見届ける。

「俺の家族の為に、働いてくれて、ありがとう。本当に感謝してる」

「‥‥ヒジリを苦しめたのに?」

「それでもだ。おかしい?」

「‥‥全然。また負けちゃった‥‥」

 ようやく食べる気になったのか、イサラは残りのシュークリームに手をつけ始めた。

「前に言ったよね。成長した俺は嫌いかって」

「あー、車の中でか」

 サイナの車の中で言ったのを思い出す。確か、背が高くなったことに不満な様子だった。

「前は私の方が背も腕も上だったのに、サイナとの初仕事以来、ヒジリの話はよくされてて‥‥トップだった私は、周りと同じ扱いで‥‥」

「‥‥そんな事無いだろう」

「そんな事ある。それにトップだって思ってたのは私だけで、査問学科にスカウトされたのはソソギだったし‥‥」

 シュークリームを食べながら、イサラは続ける。

「別に悔しかった訳じゃないの。お金だっていっぱい稼げてるし、戦友だっている。でも、足りないの‥‥」

 もう一度紅茶を飲んで、息を吐いた。

「考えてくれた、あの話」

「どれだよ」

「私と組むって話」

 サイナから誘われたすぐ後だった、イサラにも同じ話を持ちかけられた。

「私、本気だよ。今も変わらない。やっぱり組むなら、ヒジリしかいないってしばらく依頼をやって思ったの」

 テーブルの向こうにいるイサラの背筋が伸びた気がした。

を見たからって、理由もある。でも、中等部での卒業訓練を組んだのがキッカケ。サイナもでしょう?」

「‥‥あの場所には、俺以外にも優秀な奴がいただろう。それに、ソソギと組んで俺をやったんだ。ソソギじゃ、ダメなのか?」

「‥‥単純な戦力だったら、ソソギ。でも、仕事をするなら、ヒジリ。これっておかしい?」

「おかしくなんてない」

 おかしい筈がない。

 オーダーの戦場で物をいうのは、確かに戦闘力だ。それと同様に大切な物は、

 シビアな戦場であればあるほど、一つ一つの工程は複雑に、そして目立たなくなる。また、重要な仕事が多くなる。

 それら全てを、

 それらを任せられる、信用できる奴が相棒という一心同体な枠に選ばれる。

「私だったら、なんでも出来るよ。サイナには負けるかもだけど」

「‥‥イサラだったら、きっと信頼できる」

 卒業訓練で感じた。相棒として一緒に依頼をこなすなら2人だ。ミトリやシズクじゃない。同じ立場で物を言える2人しかいない。

 そう感じた。

「‥‥わかってる。ダメなんだよね」

「もう俺にはサイナがいる。サイナも俺を選んでくれた」

 サイナはが手を引いて、選んでくれた。サイナには恩義がある。変えられない信頼も、持っていたい愛もある。

「サイナは相棒で、恋人だ」

「‥‥そっか」

 シュークリームを食べ終わったイサラが、思い立ったように立ち上がって、テーブルを周り、手を突き出してきた。

「相棒は諦める。でも、たまに仕事しよ」

「いいぞ。俺も誘うから」

 こちらも立ち上がって手を渡す。

「手、綺麗だな‥‥」

「‥‥前に聞いた。こんな傷だらけなのに―――私のことは、好き?」

「好きだ」

「それも前に聞いたっけ‥‥。ねぇ、他の話、しよ」

 急に手を引いて、片手で頭を押さえつけられる。声を出す暇も無く、口を重ねた。

 甘い。シュークリームの甘味がまだ残っている。その事を知っているイサラは舌と喉の奥に自身の舌を入れてくる。絡み付けて、舌の付け根を抑え付けられていた。

 どこに動かしてもイサラの舌の表面が味わえ、繋げている唇から、唾液も注がれた。

「—――これが私の初めて。甘いでしょ〜」

 イサラは唇の端から流れていた唾液を指で拭き取るが、それも舐めとったのを確認した時、今度はこちらから仕掛ける。だけど、軽く触れる程度に。

「‥‥優しいね」

「イサラは優しいからな。お返し」

「‥‥ねぇ、相棒はダメなんでしょう?」

「ああ」

「なら決めた」

 もう充分と言った感じに手を離して、玄関に向かって行く。

「‥‥私、相棒は諦めるけど、それ以外は狙うから。またね」

 廊下を通って行ったイサラは、玄関を開ける音だけ残して、颯爽と出て行ってしまった。呆気ない終わりだった。

 でも、俺の目には今もイサラの顔が焼き付いている。刻むだけ刻んで出て行った。

「‥‥甘い」

 後は、イサラが残していった口元にクリームを舐めて、余韻を楽しむことしか出来なかった。




「すみません、我がまま言って」

「いいよ。俺も物足りないなかったし」

 サイナの車を借りて、またあのケーキ屋に向かっている所だった。隣にはネガイ、後ろにはサイナがいた。

「後部座席って、新鮮です‥‥」

「自分の車なのに?」

「自分の車だからです!いつも私は運転席だったので〜」

 なるほど、それは確かに新鮮だ。俺もバイクに乗り、誰かの後ろにしがみつけば新鮮に感じるかもしれない。

「物足りない?イサラと分け合ったんですか?」

「少しだけだけど」

「‥‥許してあげます。イサラには借りがあります」

 腰のレイピアを鳴らして、判決を下してきた。

「イサラはどうでした?ソソギと話しましたか?」

「‥‥まだ、無理みたいだ。行く時は俺もついて行く」

「そうして下さい」

 ネガイはふたりの立場を考えてくれていた。ソソギはライバルとして、イサラは戦友として思う所があるようだ。

「あ、カワウソ。どうする?」

 忘れていた。カワウソの人形をどこに飾るか、話す筈だった。

「‥‥そうですね。折角ですから、同じ所に並べます」

 最初の一匹はテレビ台に飾られていた。同じ部屋にいる同族なのだから、すぐ隣で手を繋ぐように並べてあげればカワウソの人形も、きっと喜ぶ事だろう。しかし、カワウソの主たるネガイが困り顔で「でも、」と呟く。

「でも、どうした?」

「もう一匹買った時、次はどこに置くべきでしょう?」

 もう次を考えているようだ。近い内に、人形だけの棚でも用意しなければ。

「それは追々だな。どうだった、今日は?」

「走り周りました。ビルを下に上に、それに地下にも。結構、楽しかったんですよ」

 流行っていると聞いたアクティビティだが、具体的に何をしてきたかは教えてくれない。サイナに聞いたら、実際にやってみればわかります。としか、言ってくれなかった。

「帰ったら詳しく教えてあげます。きっとあなたも参加したいと言うと思います」

「楽しみだ。ゆっくり風呂で教えてくれ」

 対向車のライトに照らされたネガイが、少しだけ顔を赤く染めて頷く。両足を擦り合わせて恥ずかしげに「また私に触る気ですね。はい、一緒に入りましょう」と上目遣いで呟くものだから、心臓が高鳴っていくのを覚える。そして後部座席から顔を浮かび上がる。

「あのー私もいますよー」

「忘れてない忘れてない。サイナはどうだった?」

 不満そうに顔を出してきたサイナに、質問を投げ掛ける。

「皆んなで謎解きです♪」

「それはわかったよ。帰ってからでいいか‥‥」

「はい。帰ったらミトリとマトイが夕飯の支度をしています。皆んなで今日あったことを、話しましょう」

 やはり聞いているようだ。何より、朝に電話した時から勘付いた様子もあった。

「‥‥サイナ」

「はい♪」

 ずっと一緒にいたのだからサイナの耳にも届いている筈だった。

「それ、見といてくれ。それが病院に来た」

 親指で、後部座席に投げたあったスマホを差す。

「え〜と、あなたのスマホですか?」

「ああ。自分で話すか、俺から話すか、考えてくれ」

「わかりました。ごめんなさい‥‥」

「気にしないで下さい。私はなんとも思っていません」

 サイナが謝ってから、スマホにイヤホンを挿した。

「‥‥っ」

 舌打ちが聞こえた。サイナの物だ。

「‥‥なるほど」

 スマホを後ろのシートに投げたらしく、軽い物が跳ねる音がした。

「‥‥無理そうなら俺から」

「いいえ。私からお話します。そして、この事で私が仕事を降りることはありません。私を信じてくれますか?」

「信じてる」

「‥‥ありがとうございます」

 気にしていない訳がない。サイナがいいと言っても、例えマトイが許可を出しても―――法務科が良しと言うか、それが気掛かりだった。

「俺からも言っとくから、無理はするなよ」

 あの人への個人連絡の方法はマトイから教えて貰っている。緊急時にはサイナが望まなくて、決めなくてならない、選択を迫られる時が必ず来る。

 サイナをこの仕事から外すのは勿論—――――俺自身も仕事から離れて、選択を選ばなければならない時が。

「ありがとう‥‥でも、部屋に帰るまでは許して下さい。少しだけ時間を下さい」

「ああ‥‥わかった」

 普段の笑みは消え去り、ひとつ息を吐いたサイナは窓枠に放杖を突いて、外を眺め始めた。

 信号待ちの度にと、震えそうな感情に囚われる。

 美しい―――。

 流れるような鋭く細められた目に、対向車のライトが当たる度、サイナの顔が輝いていくのがわかる。前にサイナが俺に、「月に帰ってしまうのではないか」、と言ったのを思い出す。

 今なら、その気持ちがわかる。サイナこそ、本当に月に帰ってしまうのではと不安に駆られてしまう程の、月の住人だった。

「そろそろですね。私とサイナで行って来ます」

「任せた。サイナ、行けるか?」

「‥‥え、あ、はい♪私も甘い物、好きですよ〜」

 振り返って応えてこそくれたが、心ここに在らず。正常とは言えなかった。

「俺も好きだから、好きなだけ買ってきていいぞ」

 そう言って、サイナに財布ごと投げる。

「いいんですか〜?お店ごと買って来ちゃうかもしれませんよ♪」

「なら、俺とケーキ屋でも始めるか?」

「‥‥夫婦みたいですね」

 本気で返されると思わなかったサイナが、普段の饒舌さを発揮できないで胸に手を当てて指で遊び始めてしまう。心に余裕が無い事実が見て取れた。

「冗談言ってないで行きますよ」

「は〜い」

 我に返ったサイナ達を降ろすべく、コンパスを路肩に止める。この時間だからか、渋滞は起こっていなかった為、一息付けると思った。

「適当に止まってるから、終わったら呼んでくれ。‥‥サイナを頼む」

「はい。わかってます」

「お二人とも何を話してるんですか?」

 ヒソヒソと話していると、サイナが割って入ってきた。

「クーラーボックスでも、持ってくれば良かったなって」

「それなら後ろに有りますよ♪私に死角はありません!」

「助かるよ。後で」

 軽くじゃれあってから2人は車から離れていった。ネガイとサイナの後ろ姿を運転席から見送って、

「‥‥聞こえますか?」

「聞こえています。話はわかっています、彼女の様子は?」

 声に出して話すと、頭蓋骨に直接届くような声が聞こえてくる。マトイから教えて貰った交信方法だった。これがあれば、いつでもは言い過ぎだが、どこででもマトイの師匠と話すことが出来る。

 マトイの師匠は俺の上司でもある。この事を知らない訳がなかった。

「‥‥つらそうです。このままだと、サイナは‥‥」

 正直に答える。これは法務科の依頼だ。手を抜けない上、不安定要素は出来るだけ取り除かなければならない。例えサイナであっても。

「マトイからはあなたに一任すると言われています。どうしますか?」

「‥‥時間を下さい。見極めないと‥‥いけません‥‥」

「つらいのは、あなたも同じの様ですね」

 見極めるなんて、それらしい事を言ったが、要はサイナを試すと言っている。

 1番嫌いな言葉だ。

「マトイから聞きました。その子は運転も電子戦も可能な上、白兵戦が得意だと、本当ですか?」

「はい。サイナはなんでも出来ます」

「では、私は彼女の参加を推薦します。マトイやあなたがそう言う程の逸材、外す理由は無いのでは?」

 意外な言葉だった。この人なら、外せと断言するのではと、不安だったのに。

「法務科の仕事に失敗は許されない。使える物は全て使い、任務を全うしなさい。いいですね?」

「いいんですか?」

「現場の責任はあなたにあります。責任を果たせるのなら、やり方は問いません」

 鍵を握る手に力が篭る。

「サイナは強いんです。—―――きっと大丈夫」

「では、そうしなさい。以上」

 もう声は聞こえない。交信を切られた。

「‥‥今度、ケーキでも買っていくか‥‥」

 直接会う方法は知らないが、いつかまた会う日が来るだろう。その時が来たら、無理にでもケーキ屋に誘おう。そう決めた。

「‥‥あー、眠い‥‥」

 昼寝こそ出来たが、それも30分程度だ。ソソギやイサラと熱を交換してせいで、血が収まらない。一人では眠れなかった。

「暇だな‥‥」

 試しに車の画面をいじってみる。

 テレビを付けて、何か面白い番組は無いか見てみると。

「‥‥カエル?」

 テレビには過去の映像だが、あのカエルが映っていた。

「精神鑑定中‥‥」

 未だに病院のベットから出てこないカエルを、オーダーは正式に裁判で裁くと決め、起訴したと報道されていた。だが、

 ニュースキャスターが読むことを拒否し、多くの犯罪を判例を見ている自分ですら、あまりの訴状に目を離せなかった―――、ここまで正確に数多くの犯罪が露呈したのだと、誰もが思っただろう。

 カエルは俺以外にも多くの敵を作っていた、どころの話ではない。権力を傘に、あらゆる罪を隠し、己が欲望を満たす為、逮捕という名の無法を続けていた。

「‥‥今のままで、隠してたのか―――誰が、隠してた‥‥」

 強盗、拷問、賄賂、拉致、監禁、暴行、脅迫—―――正気とは思えない罪状の数々、それだけではない。

 取り調べとして被害を受けた人間達の中には、意識を失い、今も生死の境を彷徨っている被害者も、

 意識を保っている被害者達も入院中は当然、中には顔に傷をつけられて、整形手術が必要な程でもあった。同時に心に傷を負って精神病院で入院という名の—――取り調べで望んだ事を言わなかった人間達を拉致・監禁していたと、報道されている。

「なんで、こんな人間が選ばれるんだ‥‥」

 良い大学を出て、警察官僚になり、特務課に所属していたとキャスターは話した。特務課とは過去に公安と呼ばれていた部署。こんな奴らが公安にごった返していたとすれば、解体されて当然だ。いっその事、滅んでしまえばいい、と発言している。

 テレビには特務課に取材を申し込んだが、今も返事が来ていないと不服な様子だ。

「どうせ、コイツと同じことをしてるんだろう?」

 コメンテーター達も同意見だった。認めているからこそ、今の今まで問題とも思っていなかったんだろう、と。

「‥‥便利だな。人間は」

 テレビを消して、外を眺める。

「まだ帰って――」

 後ろからスマホのバイブレーションが聞こえてくる。

 サイナに渡したままなのを忘れていた。だが、こんなこともあろかと思い、既に車のナビとスマホを同期させている。

「サイナ?‥‥俺だ、どうした?」

「います‥‥」

「—――どこに?」

 腰の銃と杭を確認する。

 シフトレバー近くに置いていた脇差しを装備しながら、サイナの声に耳を傾ける。

「行政区に走って行きました!」

「すぐ行く!!」

 対向車がいないことを良い事に、アクセスとハンドルを振り切って無理矢理方向転換を行う。

「2人はどこに!?」

「そのまま走って下さい!!」

 その声に目を使った瞬間―――サイナとネガイが歩道を走りながら手を振っているのを見つけた。周りは何事か、と走る続ける2人を見ているが、そこはオーダーだ。誰も文句を言わずに寧ろ、道を開けている。

 2人の背中が近くなってきたが―――「そのまま走れ」、とは

 スピードを緩めずに後部座席のドアをスライドさせて開けた時、2人分の音が飛び込んできた。

「あの車です!!」

 サイナが後ろから指を差して示してくる。だが、貰ったデータとは違うクーペだった。データでワゴンだったというのに。

「違う車だぞ!いいのか!?」

「間違いありません!あのハエ、見間違いません!!逃がさないで!」

「任せろ‥‥!」

 アクセルを踏んで、一気に後ろに着ける。

「近寄り過ぎです!気付かれます!!」

「構いません!もっと追って!!」

 ネガイの叫びをサイナが無視しろと言ってくる。俺も、言われなくても追うつもりだった。逃す訳にはいかない。もう既にあいつはオーダーの病院に襲撃を仕掛けてきた首謀者だ。容赦する必要もなかった。

「このままだと行政区だ。行政区に行く理由なんて決まってる!!」

「ゲートですか‥‥!」

「ああ!準備してろ!橋を渡られたら、どうしようも無い!」

 オーダー街内での犯罪は全面的にオーダーに捜査権、逮捕権がある。だが外に出たら警察に半分の操作権を奪われてしまう。

 警察に持って行かれたせいで止められなかった犯罪は幾らでもある上、それはという理由で邪魔もしてきた。

 しかも、あいつは政府関係者。外に出られたら警察に保護されるような立場、同時に、法の支配を施す側の人間—―――確実に逃げられてしまう。

「ここで仕留める!やるぞ!!」

 タイヤを打ち抜いてでも止める。最悪、この車体で使ってでも。

「‥‥っ、気付かれましたね」

 クーペは左右に揺れて、どこに行くか誤魔化そうとしてくる。無駄だ、この道は結局は行政区に着く。それで誤魔化せると思っているということは、ろくにこの街の構造を知らない素人だ。サイナの言った通り、は俺達のターゲットだった。

「ネガイ、撃て!!」

「言われなくても!」

 Sigproを抜いたネガイは窓から上半身を出して、前方のクーペに発砲する。ネガイの9mm弾は吸い込まれる様に、後輪に刺さるが――――弾かれた。

 やはり当然の様に、あの車は要人警護をメインにした装備。ボディーは対戦車ライフルでしか傷を付けられず、車輪も鋼鉄製。弾丸一つ余裕で弾き返せる。

「チッ!!」

「レイピアはよせ!車の装備はわかった、戻れ!」

 腰のレイピアに手を伸ばしたネガイに叫ぶ。このスピードで風に煽られたら、ネガイでも吹き飛ばされてしまう。

「速い‥‥!」

 一体何を積んでいるのかと、舌打ちしてしまう。

 公道だというのに眼前のクーペは、轟音を立てながら離れていく。このコンパスも余裕で150キロは出ている―――だというのに、徐々に引き剥がされていく。

 速度を計算するのも無駄な程の改造が施されている。目算だけでも、一秒にも満たない時間で100m近くの距離を突き破り続けていた。

「サイナ、先回りは出来ないか!?」

「無理です!もう一本道‥‥仕方ありません!変わって下さい!!」

「はぁ!?」

「いいから早く!!」

 後部座席からシフトレバーを超えて、サイナが隣に座ってきた。

「スピードは緩めないで!行きますよ!!」

 このスピードで運転手の交代など、自殺行為だ。だけど、

「任せる‥‥!」

「はい!!」

 視線も合わせず、隣から感じる息遣いで心拍を計算―――心拍も呼吸を重ねる。二度目の言葉など不要だった。何故ならば、使がないからだ。

 心拍を計った瞬間、理解した。サイナは決して焦ってなどいない。むしろ、獲物を追いかける冷静な獣の如き心境―――狩りを楽しんでいたサイナの心に引き寄せられ、ハンドルとアクセルから恐れも抱かずに離れる。

 身体を横滑りにした瞬間、人を狩る覚悟を成していたサイナが車内で宙を舞った。

「私の番です‥‥。逃げられると思わないで!!」

 同じ車を運転していると思えない加速が始まった。あまりの異常なスピードに、あれだけ速かった前方のクーペが近付いてくるのがわかる。

 こちらも一体どんな改造をしているのかも、想像もつかない。こちらの方が排気量が多いと言っても、この加速は―――桁外れだった。

 ゲートに続く最後のカーブをクーペが曲がった時、サイナはコンパスでドリフトを行う。この車両、この速度では、だった。

 この重量でやれば確実に横転する、だが、サイナのハンドル捌きに迷いも憂いもない。あるのはただ獲物を追いかける獰猛な瞳と地面を毟りながら回転する車輪だった。車内からでもわかる擦り減るタイヤの音を聞きながら、病院の前を駆け抜ける。

「登って下さい!やれますね!?」

「ああ、やれる‥‥!!」

「何をする気ですか!?」

 ネガイがミトリと同じような事を聞いてくる。だけど、ネガイなら許可してくれる。そう確信できる。

「ネガイ、少し危ない事をしてくるから、ネガイも手伝ってくれ」

「‥‥死んだら、許しません。サイナ!!」

「ええ、ええ!!逃がさない!!」

 一段階、スピードが上がった。エンジンから炎が噴き出すのでは?と思うような轟音、モーター音が車内に木霊する。

 もうこの車内には安全な場所は無い。もうあの車には逃れる場所は無い。

 このオーダー街が――――だった。

 窓を開けて、上半身を乗り出し、窓枠に腰掛ける。もう橋は目と鼻の先。あのクーペは無理にでもゲートに突っ込むつもりだろう。

 ゲートはこの街の門であり、砦。そこを突っ切れるということは、やはりあの車内にいるのはじゃない。後から、どうとでも言い繕える立場であり、もしもの時は他人を犯人だと突き出せて、殺せる奴だ。

 それは、そのままサイナの―――

「やります!準備はいいですか!!」

 窓枠からルーフに上がり、M66を抜いた瞬間、ルーフを軽く叩く。

 こちらからの確認を取った瞬間、コンパスが再度ドリフトをした。ドリフトの寸前、コンパスから飛び上がって前方のクーペの真上に天地逆さまの体制となる。

 俺を宙に残したコンパスは滑りながら、クーペの真横を越え、側面を晒してクーペの行先を封じる。

 追突の危険も構わず、滑り続けているコンパスの後部座席のドアが開いた。

 後部座席の中にいるネガイのレイピアが車内から突き出され、クーペの側面を22レミントンマグナムと9mm弾が雨の様に叩く。

 宙を舞っている間、M66の357マグナムを後部ガラスに3発、天井を越え、フロントガラスに3発。それぞれ1秒、計2秒で終わらせる。

 ヒビを入れ、ハンドルを破壊し、撃ち終えた所で頭上を越え、クーペの行き先を封じているコンパスの後部座席に飛び込む。コンパスはそのまま横滑りをしながらクーペから一定の距離を保ち、

「終わりです!」

「終わりだ!」

 ネガイはレイピアとSig Proを、俺はを打ち尽くす。ジュラルミンケースに仕込んであるサブマシンガンの機構を、クーペに撃ち続ける。

 人間の身体など、一瞬で欠片にする熱量をジェラルミンケースから放つ続ける。

 サブマシンガンの弾丸は9mm弾。

 軽くて威力も有る弾丸だからこそ、世界中で用いられている弾丸を―――100発近く撃ち続ければ、これ以上無いとなる。

 フロントガラスを割る必要ない。既に白いヒビが入っているガラスを更にに白くさせればいいから、多くは当てない。当てるのはタイヤとフロント部分だけ。を落とせば自然とスピードは落ち続ける。

 フロントの装甲を足止めにして、タイヤを止めてやればいい。

 コンパスは止まらずに横滑りを続ける。タイヤがどれほど擦り減ろうと構わず、サイナはドリフトを続ける。

「落とした!!」

「了解!!」

 合図を受けたサイナはドリフトを続けながら、車を縦に戻す。縦に戻ったコンパスはクーペに後方を見せながら、スピードが落としていく。

 フロントを落とされ、100以上の弾丸の質量を受けたクーペは、ほとんど惰性でしか動いておらず、止まっているのと同じ程度のスピードしか出ていなかった。

「‥‥終わった」

「まだです。早く逮捕を」

「‥‥ああ。サイナは待機だ」

「‥‥お願いします」

 ジェラルミンケースを車内に残して車から降りる。ゲートの職員が何事かと出てくるが、鍵を見せて一蹴する。

「法務科です。通報を」

 一々懇切丁寧に教えてやる程の時間は無い。職員の返事を聞かずにクーペだった物に近付く。

 ガソリンなど漏れていない。確実に政府関係の車両だ。爆発なんて、絶対に起こらないような独特の構造をしているのが、剥がれた装甲からも見て取れる。

 それを確認しながら、レイピア、脇差しと杭をそれぞれ抜いてふたりで近付く。

「‥‥やってくれましたね」

 クーペの中から声が聞こえた。

「この車の価値、知ってますか?」

「税金だろう」

「否定はしませんが、それはという意味です」

 これだけでわかった。こいつはだと。

 降りてきたのは病院の映像にあったスーツ姿の男性は、役人の標準装備らしい紫のスーツを身に纏っていた。

 髪は油で揃えて、長い髪を後頭部から前頭部に巻き付けるように固めてあった。

 開けた場所だからこそ感じられないが、数歩近づけば、強い整髪料の香りにむせ返る事だろう。

「罪状はお前達が、もしくは凶器準備、それに犯罪教唆、犯罪幇助。後、人身売買」

「共謀罪は廃止となっていますよ。やはりオーダーの人間は知能が低い」

「‥‥これが元政府の人間ですか?」

「ああ、こんなのがいたからオーダーが設立された」

 文の意味すら理解出来ないようだ。

「私を誰だか、わかっていての襲撃ですか?」

「わかってるから止めた」

「これは国家に対する反逆ですね―――私を狙っての犯行!?その顔覚えた!!ただで済まさないぞ!!ガキ供が!?」

「品性もない。こんなのに私は囚われていたのですね‥‥」

 つい数秒前まで保っていた余裕は、怒りで消えたらしい。これが本性だというのか、スーツのネクタイを投げ捨てて歯を剥き出してくる。

 野生動物の威嚇だ。挨拶など不要だ、決して

「この場では、ヒトガタを使った襲撃事件の首謀者として逮捕する!!手を挙げて跪け!!」

「消えろガキ!!お前達になんの権利があって私のような人間を逮捕出来る!?お前達こそ跪け!!」

 ハエが懐からゆっくり出そうとしたのはHK P2000のグリップ。少し意外だった。

「お前、特務課なのか?」

「特務課?あんな犬畜生と一緒にするな!?リボルバーなんていうカビ臭い骨董品を触りたくないだけ!っ!?」

「使い慣れないなら持つな」

 装填済みのM66の早撃ちで、対象が抜いた瞬間を狙って手から奪う。前にミトリに見せて貰った射撃を実践した。

「今すぐオーダー街に戻るなら、ただの逮捕で許してやる」

「戻らないなら、弾丸で窒息させます」

「—―――調子になるなよ‥‥」

「調子に乗ったのはお前だ」

 一歩前に出る。血こそ流していないが、HK P2000を握っていた手を痛め、手首を握っている。

「俺かイネスか知らないが、狙った上でヒトガタを使い捨てにしたな?」

「はぁ?‥‥ああ、お前、資料のガキか‥‥」

「ろくに顔も覚えてないのか‥‥」

 顔ひとつ覚えきれずに襲撃とは、恐れ入る。ヒトガタなど、総じて人形―――人形などという玩具の顔など、どれも同じ。

 あのヒトガタ達は、優秀だった

「ヒトガタなんて使い捨ての消耗品だろうが?あんなのただの肉の塊だ、使われるだけ感謝してるだろうよ!!」

「‥‥テメェ、俺をヒトガタだって知ってその口か?」

 殺気を放ってしまう。あの先生に向けたものよりも、更に濃い鋭い空気を視線に乗せて。

「だからなんだ、お前達は俺に手出しなんて出来ない。くく、やっぱりヒトガタはただの肉だ‥‥な?」

 

「俺をただの人間だと思ってるんだろう?‥‥そんな目をしても無駄だ‥‥、俺は特別なんだからよ‥‥」

 奴は人間の筈だ。自身は気付いていないが、手足と唇が震えている。

 だというのに、この視線を受けながら、奴は呼吸を手放さず今も立ち続けている。

「‥‥あの感じ」

 ネガイが呟いた。

「まさか‥‥?」

 下がるほどの圧力じゃない。だが、確実に感じ取れる―――

「お前、人間じゃないのか?」

「言っただろう?俺はだ。お前達みたいなただの人間だ、ヒトガタだ、とは違うんだよ!!」

 紫のスーツの内側から、が溢れた。

「下がって!!」

 ネガイの叫び声に従い、全力で後方に飛ぶ。

 先程まで俺とネガイがいた場所は、黒い巨大な蛇のような何かが空間ごと抉っていった。

「ネガイ!」

「わかってます!すぐに戻ります!」

 ネガイがゲートまで、縮地で駆けていく。

「いいのか、お前の女、逃げたぞ?」

 それは、姿だった。

「‥‥その姿」

「初めて見ただろう?これがの姿だ」

 顔が無い。黒い液体が頭全体を覆い。目も鼻も口も見えなくなっていた。

「見ろ!この姿を!!これこそ、我らが求めた真の神だ!!」

 黒い液体に包まれた腕と足が、人間の倍に伸びた。その上、背中には2つの翼。

「ははははぁっ!!俺をただの人間だと侮ったのな?俺は特別なんだ、俺こそ神に選ばれた子なんだよ!!お前達みたいな、ただの量産品とは違う!!」

 もはや人間の姿とは言いがたい。

 スーツは跡形もなく消え、人間だった肌も色を失い、完全な黒となった。街灯を反射する艶めかしい肌が蠢き、それが筋肉に浮き出る血管のように束ねられる。

「お前達に感謝してやるよ、でこうなれた。良かったぞ‥‥処女の血に聖女の血、いい匂いと味だった‥‥」

 何もない顔を片手で撫でて、蛇のような尻尾は艶かしく、卑猥に慰撫し始める。

「次はお前の女—――‥‥。中身が無くなるまで痛ぶってや」

 M66を撃ち尽くす。

 見た目こそ人間では無いが、痛みは感じるらしい。357マグナムを受け、貫通した手や尻尾を庇うように身を引いた。

「痛っ‥‥!は、ははははぁぁぁ!!今のが最後の不意打ちだ!今ので仕留められなかった事を後悔しろ!!」

 貫通した手から吹き出したいた黒い血が止まり、傷痕も消えていった。それを見せ終わった時、踏み込んでくる。

「消えろ!!」

 今の姿を最大限に使った拳を、俺の胸に放つために翼を使って滑るように迫る。

 だが、もう遅かった。なぜならば―――星が

「なんだ―――お前、ただの雑魚か」

 杭を抜き、奴の拳に突き入れる。肉体は想像以上に頑丈で杭は表面で止まってしまった。だが、黒い血が溢れるように噴き出す。

「‥‥舐めるな、ガキが!?」

 拳を引いて、膝を打ち込む動作をした来た為、杭を引き抜き、打ち込んでくる膝に合わせて、肘で杭の柄を受け止めて、迫りくる膝に構える。

 膝よりも少し奥、腿の辺りに刺さった杭は、遺憾なくその貫通力を発揮してくれる。顔まで噴き出してくる黒い血が見事だった。

 痛みを感じているのか知らないが、無言で無傷の拳を振り下ろしてくる。

 振り下ろされた拳の付け根に脇差しを差し込み、貫通させ、切り落とす。

 人間とは思えぬ絶叫を上げて、下がろうとする――――だが、許せない。

 容赦など捨てた。

 逃げるへと杭を放ち、続け様に魔女狩りの拳銃を抜き撃つ。

 胸部に突き刺さった杭と、埋没した弾丸の跡からも黒い血が噴き出す。

「お、お前なんなんだ!?ただのヒトガタだろうが!?」

 追撃の為、踏み込む。同時に、後方から白銀の切っ先が空気を切り裂く。

「逃がしません!!」

 流星の如きネガイのレイピアは奴の腕を射抜き、そのまま引き金を引いた。

 既に拳を失っていた腕は中程から切り飛ばされ、人間の手が顔を見せる。ネガイはそのまま奴を超え、背中に向かって切っ先を使った真一文字の斬撃を放つ。逃げ場を失い、傷から黒い血を流し続ける奴は、こちらに向かって突進してきた。

 前方には杭により穴が空いたままの拳を、ネガイには尻尾を使ってレイピアと斬り結んだ――――かに見えたが、それも数秒で瓦解する。

 拳のすぐ下を潜り抜け、脇差しで横腹を切り捨て、レイピアは尻尾を切り飛ばし、もう片方の横腹を突き斬りお互いの場所を交代する。

 振り返り様に縮地を使い、奴の周りを回りながら魔女狩りの拳銃とレイピアの22レミントンマグナムを撃てるだけ撃ち尽くす。

 それを防ぐように身体に纏わせた背中の翼は穴だらけとなり、ヘルメットのような顔には人間の血が流れる。

「もう、もうやめてくれ!!」

 最後に過ぎ去りながら翼を脇差しとレイピアで切り落とし、M&P、Sigproでほとんど人間の姿に戻ったに向ける。

「お、お、お前達、なんなんだ!?人間じゃないのか!?ひっ!」

「殺す気ですか?」

「‥‥悪い」

 40S&W弾を奴のこめかみに掠らせてしまった。血が流れているが、別に構わない。もう傷だらけなのだから。

「選択肢をやる。ここで血を流すか、法務科で吐くかどっちか選べ」

「お、俺は何もしてないだろう!?全部ヒトガタがやった事だ!!」

「‥‥そうか」

「そうだよ!俺は何もしてない!俺は保護されるべき!」

「本当に何も変わって無いんですね」

 後ろから声が聞こえてきた。

「サイナ!助けてくれ!こいつらが俺を殺そうとしてくるんだ!」

「そのおふたりが本気なら、もう死んでますよ」

 撃ち尽くしたジェラルミンケースとは、違うケースを持ったサイナだった。

「‥‥平気か?」

「大丈夫です。あなたがいますから♪」

 近付いてきたサイナが、背中を撫でてから奴に近付く。

「素敵な格好ですね、お兄様」

「サイナ!俺は、お前になんでもしてやっただろう!?」

「そうですね。なんでもされましたね。私が嫌がっても―――ふふ、冗談です、お兄様を殺さないであげて♪」

 引き金を引く直前でサイナが銃に手をかける。だが、降ろさせない。

「お家はどうですか?皆んな元気?」

「あ、ああ!元気だとも。だけど、お前が居なくなって、皆んな寂しく」

「そうでしょうね」

 ケースを使って奴の顔面を殴る。

 殴られた兄と呼ばれた男は、溢れ出る鼻血を押さえて、アスファルトに伏せる。

ができる私がいなくなって、皆んなつまらないんですね」

 止まらず、サイナはケースで殴り続ける。

「そんな私の血が嫌いですか?そんな腹違いが嫌?あなたにつけられた傷、治るのにどれだけかかったか、わかりますか?」

「や、やめてくれ‥‥」

「私がそう言って、あなたはやめましたか?あなたは寧ろ喜んで続けましたよね?苦しかったんですよ、お風呂に顔を入れられるって。知ってますか?手錠の跡って、隠しにくいんですよ?」

 片手で軽々とケースを操り、呼吸を忘れた心臓で殴り続ける。

「止めてくれ!!君はサイナの彼だろう!?」

「ああ」

「なら」

 黙らせる、この声は聞くに堪えない。そう思ったから、腹に蹴りを入れる。

「‥‥ふぅ、満足♪」

「後は法務科に任せましょう。サイナ、戻りますよ」

「は〜い♪」

 レイピアとsigproを収めたネガイが、サイナと手を繋いで去っていく。

「先帰っててくれ。遅くなる」

「わかりました。遅くなり過ぎないように」

「ああ、新しいカワウソが待ってるしな」

 軽くネガイと冗談を言い合って視線を奴に向ける。顔を抑えたままでうずくまり、立ち上がってこない。

 残った黒い皮膚が儚げに風に乗って散っていく。やはりこれも魔に連なる何かのようで、散った皮膚が霧のように解けていった。

「お前には黙秘権がある。それと、無益な暴行を受けた場合、取調官を訴える行政裁判が起こせる」

 一応、誰にでも言わなければならないので、建前上の権利を告げていた。

「後、弁護士を選ぶ権利もある」

 ゲートの職員が近付いてきたが、手で止める。職員達も言いたい事がわかったらしく、テーザー銃を抜くだけ抜いて待機してくれた。

 ゲート間際での逮捕は割とある為、法務科に受け渡す為の施設もある。だが、ここまで異常な奴を収容する檻は法務科にしかないだろう。

「‥‥おい、お前、ま、待ってくれ!う、撃つな‥‥!」

「話しかけるな、次はコロス」

「オーダー‥‥オーダーに殺すって!脅されたぞ!脅されたんだ!!」

「聞こえましたか?」

「いいえ、何も」

 近くの職員に聞いてみるが、この通りだった。

「そろそろ法務科の人間が来るそうです。引継ぎますか?」

「いえ、大丈夫です。でも、ここで待機していて下さい」

「わかりました」

 視線を外さないで受け答えを済ませる。

 この人はネガイと初めて外に出た時、世話になった若い女性。ここ最近は、外に出る度に世話になっていた。

 今も目の前でうずくまっている男には、聞きたい事があるが、それは法務科に任せる。傷だらけだから、しばらくはあの病院だろうが。

 傷の回復が終わり次第、カエルと同じ末路を辿るに違いない。

 それどころか、ヒトガタを使って主導者でもある。高い確率でオーダーは実刑を求刑するだろう。次が無いように――――。

「来ました」

 法務科所属の護送車のヘッドライトが迫ってくる。また、後ろにはオーダーが開発したセダン、ワイルドハントが3台続いている。

 たったひとりに対して、過剰とも言える人員、装備だった。

「護送団ですね。この人は何を?」

「聞かない方がいいです」

「そうします」

 ネガイが通報した時点で、事の重大性に気付き、護送陣形を構成したのだろう。

「‥‥くくく、」

「誰が笑って良いって言った?」

「撃たないでくれ‥‥、だが、はははは」

 自身の喉の震わせを抑えきれなくなっている。恐怖で失禁するのと同じように、筋肉が麻痺して、自由を取り戻せていない。だが同時に、この下卑た笑いは癇に触る。

「あれは法務科の人間だ。言い訳は通じない、諦めろ」

「アイツらにはな‥‥」

 ――――風が流れた。

「撃て!」

 職員も違和感を覚え、この声に従ってテーザー銃を放つ。放たれた針と後を引くワイヤーが奴に迫るが、黒い液体に受け止められた。

 次瞬で魔女狩りの弾丸が液体に穴を開けるが、奴は既に空を飛んでいた。あまりにも非現実的な光景であり、あの姿ならば体重は関係ないのだと理解した。

「お前達が、ガキで助かったよ!!」

 完全には纏っていないが、徐々に液体が身体全体を覆っていく。

 。同様に、使—――――当たり所が悪ければ、落下して死んでしまう。

 職員は何も出来ず、苦虫を噛み潰したような声を上げた。

 だが、既にやはり自分にはどうでも良かった。

「ま、待て!?撃つな!!」

「死ね」

 遠慮なく撃たせてもらう。魔女狩りの弾丸は容赦なく奴の翼や腕を貫通していく。。簡単な話だった。

 ゲートを呼び越えようとしている奴を下から狙い撃ちにする。

 宙を飛んでいると、銃を防ぐ事は出来ないらしく、尻尾も操作できていない。だが、もう死ぬのだからどうでもいい。

 似た対象が現れた時の為、死に掛けの虫で遊ぶように観察を続ける。

 撃たれ続けて、高度が下がり始めた。そのまま、落下して欲しいと祈りながら、撃ち続ける。

「と、止まって!落ちたら死んでしまいます!!」

 職員さんが腰に抱きついてくるが、無視して撃ち続けていた時だった、

「撃ち方止め」

 声が聞こえた。

「殺せば、マトイにも私にも、

「‥‥丁度、弾が切れました」

「結構。あれは小物、別に譲りなさい」

 銃撃が止み、ほくそ笑んだ奴はゲートの外まで逃げて行った。その後ろを法務科の人間達が車両で追いかけて行く。

「あれは、生かしておけません。殺さないと‥‥」

「聞こえませんでしたか?」

「‥‥いいえ‥‥」

 銃を収めて、手を横に揃える。

「話があります。ついてきなさい。その方に挨拶を」

「‥‥ありがとうございました」

 職員さんから離れて、人形の後ろを着いていく。髪から漂う良い香りに、失いつつあった正気を取り戻す。視界が開けていく事で、何者にも崩される事のないS字の後ろ姿に、心を奪われる。

「乗りなさい」

 示された車両はワイルドハントの一台だった。リムジンで来るとは思っていなかったが、量産品も乗るのかと内心驚いた。

 指示に従って後部座席に乗った時、隙間を空けずに人形も乗り込んだ。

 ここまで甘い香りを常に漂わせていたか?そう記憶を辿っている内に、車内中に大人の香りに包まれ、再度正気を失う――――だから、遠慮なく足を枕にする。

「せめて、一言伝えてから甘えなさい‥‥」

 呆れたように叱る言と共に、頭を撫でてくれる。

「‥‥褒めてくれますか?」

「まだ褒めません。‥‥眠い?」

 今度こそ叱られたと思ったが、変わらずに撫でてくれる。

「‥‥大丈夫です」

「寮に帰る前に行く場所があります。軽く眠りなさい」

 寝なければいけない所、という意味だった。

「‥‥目に」

「仕方ない、会う度にこれですか」

 既に緩み始めた目に手が置かれた――――柔らかくて、ローブから漂ってくる甘い香りが緊張を解してくれる。発進した車が揺れる度に、人形の足に頭が沈む。

 髪を甘く梳く手と同様に、血が通った温かい足を包む柔らかい生地が、頭を撫でてくれる。

「全く、いつ私に落ちたのか―――寝る前に聞きます。あれをどう思いましたか?」

「雑魚」

「正解です。‥‥よく眠りなさい」

 囁くような声と共に、眼前に指を伸ばして何かの印を造り出した。



「確かにそう言ったのですね?」

 白のローブ下の豊満な身体に受け止められながら、呼吸を続ける。

「私に甘えるのもいい加減にしなさい」

「‥‥でも、好きです‥‥」

 美女の溜め息は、美しかった。

「目が覚めた瞬間、本当の私を見抜いた事は褒めましょう。しかし、先ほど言いましたね?一言、言いなさいと」

 目が覚めた時、見慣れてきた部屋のソファーだった。白いカーテンや白い大理石の床、そして人形達と本人。

 部屋に到着した時、ソファーで横になっていた

 それを人形が起こしたようだが、睡魔に襲われ続けていた自分は、次なる寝床を探し求めた。それがこの人だった。

 寝ぼけていた為、怖い物知らずと成った自分は、有無も言わさずこの魔性のドルイダスをソファーに押し倒し、胸に抱かれながら頭を撫でてもらっていた。

「まぁ、いいでしょう。それで?」

「はい‥‥、お前達が用意した血のお陰だと」

「‥‥話からすれば、ヒトガタが用意した血。血の聖女の事で間違いないようですね」

 思考を整えるように、肺を膨らませながら、頭を撫で続けてくれる。

「それと―――いえ、」

「言い難い事を言われました?」

 撫でる手付きが、一段と優しくなる。秘密を告白する前のように強張った身体を、胸に引き込んでくれた。

「‥‥聖女の血と、処女の血が、良かったと‥‥」

「もう一度言いなさい」

 即座に聞き返してきた。

「‥‥言いたくないです」

 イネスは苦しんで血を流していた。イネスの血を飲まざるを得ない子達もいた。

 苦しみ嘆き、自分の力の範疇を超えてがんじがらめとなった少女達の血を、アイツは娯楽として求め、消費している。

 ――――許せない。当事者達には、何ら落ち度も無い。あるのは彼女たちを追い込んだ環境。そして唆した人間達だというのに――――許せるものか。

「これは重要な事。話して‥‥」

「‥‥聖女と処女の血が良かったと、匂いと味が‥‥」

「もう結構。よく頑張りましたね。泣かないで」

 夢の中でも涙は溢れる。溢れた涙を、白いローブが受け止めてくれる。

「どうやら、彼らは‥‥人間の階段を敢えて踏み外そうとしているようですね‥‥」

 泣き続けている俺を、撫でて許してくれる。

「聞きました。あれはサイナという子の親族だと。違い無いですね?」

「‥‥そうです。でも、サイナは」

「それも承知しています。もう絶縁したと―――向こうから。‥‥虐待を受けていたとも」

 知らなかった。嫌われて嫌がらせを受けていたとは聞いていたが、虐待まで受けていたなんて、

 ―――俺は家族に幻想を抱いていたのかもしれない。嫌がらせと言っても、無視程度だと思っていた。でも、

「‥‥風呂に顔をつけられて、それで」

「止めなさい。それ以上、彼女を傷付けないで。あなたが守りなさい。良いですね?」

「俺、サイナに謝りたいです‥‥」

 自覚していなかった。何も考えない俺は、サイナに家族を話を振っている時があった。

 家族がいない自分だけが、

 ヒトガタだから何も知らない。そんなのただの言い訳でしかない。俺はサイナを傷付けた。だから、謝りたい。そして守らないといけない。

「‥‥でも、俺が触れていい話じゃないんです。俺はヒトガタ。人間じゃない‥‥」

 ローブを握り、ドルイダスに強く抱きつき続ける。

「なら、彼女をどうするのですか?」

 撫でる手はそのままに、聞いてきた。

「彼女は、あなたのなんですか?」

「‥‥恋人です」

「なのに何もできない?」

 怖くなってきた。今、サイナはどこにいるのか。

「彼女の身内はあなただけ、違いますか?」

 きっと1人だ。

「考えなさい。あなたが出来ることを。彼女に、何が出来るかを」

 サイナと出会った時、俺はシズクの後ろで隠れていた。

 シズクが選択授業でいなくなり、向こうから話しかけてくれるイサラもいなくなった。残ったのは俺とサイナだけになった。

 俺もサイナも、自分から話せなかった。なのに、なかなか席から立つ事もできなくて、目が合っては逸らす、合っては逸らすを続けた。

 その時に。立たないのではない、

 サイナも、ここに来たくて来たのではない。何かの間違いでここに落とされた。

「‥‥話は、今度でいいですか?」

「構いません。ゲート近くの監視カメラでも確認できます」

 サイナも1人だった。しばらくイサラやシズクと付き合っていく中で、サイナは現在の性格となった。過去の自分を捨てて、に生まれ変わった。

 中等部の卒業訓練が終わった時、サイナが提案した。

 私と一緒にいませんか?

 サイナは望んでいたではないか―――俺と一緒にいる事を。オーダーとして組む事を――――なのに、俺はサイナの過去に興味を持ってしまった。

 サイナに対して、

 脇差しを抜き、首に当てる。

「すみません。汚します」

「それが最短の一手です。起きたらすぐに帰りなさい」

 短い確認を取り、首筋を刃で切り裂いた。痛みを感じている暇もない。

 死ぬ瞬きすら遅い。今はただただ、サイナに会いたい。

 会って、サイナに――――。




「あわわわ‥‥!」

 目が覚めた時、既に寮の前だった。ワイルドハントから一目散に部屋に向かう。

 エレベーターなど待っていられない。街灯や壁のパイプを伝い、飛び越え、足場にして、自分の部屋のベランダに乗り込む。

 開けた時、部屋にはサイナしかいなかった。

「ど、どうしましたか!?窓から、それに急に‥‥」

 声が出なかった。サイナを見つけた瞬間、ただサイナを感じたくなった。サイナの細い腰を引き寄せて口を奪い、肩に顎を乗せる。一連の動作の最中、為されるがままとなっている琥珀色の瞳を睨みつけて、ようやく俺は叫んだ。

「サイナ!」

「はい!?」

「愛してる‥‥」

 謝るという目的は達成できていない。だけど、今はサイナから離れられなかった。

「悪い、俺、ずっとサイナと組んでたのに、サイナを苦しめてた」

「‥‥違います。私が何も言わなかったんです。それに、私は」

「何も言わなかったのは俺の方だ。知らないなんて言い訳で、サイナのこと何も考えてなかった。自分勝手で、何も考えてなくて。悪かった、やっぱり俺はダメなんだ‥‥」

「‥‥また、泣かせちゃいましたね」

 サイナが、泣いて震え始めた背中を庇ってくれる。。

「サイナは、つらかったのに‥‥俺、自分ばっかりだった」

 家族の話なんて、サイナは聴きたくもなかっただろう。それなのに、俺はヒトガタの立場で出来た家族を誇っていた。何も考えずに、自慢しかしていなかった。

「‥‥俺、俺さ」

「はい♪」

「サイナが好きだ。会う度に、そう思ってる」

「知ってます♪」

「さっきの車の中でも、」

「私の横顔に見惚れてましたね♪」

「‥‥サイナは、俺の事、ずっと見てくれたのに‥‥。俺はサイナのこと‥‥」

 入院した時だって、サイナは連絡をしたら朝一で駆けつけてくれた。

 銃や刀剣、それに制服、おまけに仕事どころか生活も支えてくれた。ずっとサイナに頼り切っていた。もうサイナがいないと仕事一つできないぐらいなのに、俺はサイナの事を、何も知らなかった。知ろうともしなかった。

「サイナは俺の恋人だから、サイナの為ならなんでもするから!」

「本当に?」

「ああ。だから、俺の側にいてくれ‥‥。サイナがいないと、何も出来ないんだ」

「‥‥じゃあ、じゃあですよ‥‥」

 撫でていた手が、ゆっくり身体を締めてくる。

「もし、私が、誰かに―――」

「全部壊すから。全員殺すから。サイナに触れる奴、皆んな消すから‥‥」

 マトイとの約束に違反するかもしれない。でも、俺はサイナが傷付くのは見たくない。サイナには、

「約束です‥‥。いいんですね?」

「約束する。だからサイナの事、もっと知りたい。もっとサイナを好きになりたい」

「‥‥私もです。私も、自分の化け物の事、もっと知りたいです‥‥」

「許してくれるか‥‥呆れないで、怒らないでくれるのか‥‥?」

「怒ってません。それにあなたは私の為に、もう命を懸けてくれました。あなたを愛しています。化け物め♪」

「俺も愛してる‥‥。月に帰らないで‥‥」

 胸を潰して抱き合う続ける。やはりと思った。俺が仮面の方に一目で惚れたのは、。サイナとあの方の関係はどうでもいい。でも、サイナがあの方のように1人でいるのだとしたら―――それは許せない。側にいたい。いなければならない。

「皆んな、そろそろ帰ってきますよ。ばれちゃいますよ♪」

「‥‥バレると、嫌か?」

「もうバレてますよ」

 振り返ろうとして身体を離した瞬間、サイナの口が迫ってきた。




「逃げられた?」

「‥‥悪い‥‥」

「いいえ、法務科がその場にいながら逃げられたのなら―――」

 足を組んだネガイが、何かを思案し始めた。

「マトイ、どう思いますか?」

「恐らくは、そうです。私にも言わなかったなんて、よほど秘密裏に進行したかったのでしょね」

 2人でシュークリームをフォークで食べながら、何かしら思い当たる物があったようで、お互い頷き合い始める。

「怪我はしてませんか?良かったら代わりますよ?」

 ミトリが隣に立って話しかけてきた。

「‥‥代わらなくていいぞ。あーでも、湿布を頼めるか?」

 洗い物を一旦切り上げながら、そう頼む。

「少し手足に無理をさせたみたいなんだ」

「わかりました。まずは傷を見せて下さいね」

「私もお手伝いしますね〜♪」

 ミトリの後ろ姿を追いかけていると、後ろからサイナが手を引いてくれる。

 今も何やら話しているネガイとマトイの話にも興味はあったが、専門家たる二人の邪魔はしてはならないと、リビングに戻る。

 救急箱を用意しているミトリの姿を見ると、身体が痛みを思い出したように、急に熱を帯びる。筋肉が熱を持ち、己が体温で火傷でもしそうになる。

 ダイニングを通り、テレビとゲーム、そして2匹のカワウソがいるリビングのソファーに座る。

 座った瞬間、今日一日の疲れが湧いてきた。脛辺りから身体の中身が溢れ出る錯覚に陥る―――そうだ、午前中は病院の事件、昼は冷蔵庫の掃除、夜はゲートでの交戦があったのだから、疲れて当然だった。

「痛みますか?」

「眠いかな?」

「‥‥後で♪」

「待ってる」

 サイナと耳元同士で確認を取る。そんな事をしているとミトリが薬類を取り出す。

「じゃあ、上着を脱いで下さい」

 指示に従って上着を脱いで、身体を預ける。

 鬱血の具合を確認したミトリは広範囲に湿布を貼り、サイナが上から包帯を巻いていく。手馴れているのは自分が怪我ばかりする所為だ。いい加減、自分の傷は自分でどうにかするべきだが―――背中の傷はどうにもならない為、今も両腕に包帯を巻いてくれる2人に頼ってしまう。

「タイヤでも殴ったですか?」

 ミトリに言われて思った。確かに分厚いタイヤを殴り、突き刺したような感触だったかもしれない。

「そんな所。カレー、美味かった。また食べたい」

「はい。またマトイさんと一緒に作りますね」

 天使のような笑顔だった。優しくて献身的なミトリが、可愛くて仕方ない。

「あ、サイナ」

「は〜い♪」

「改造も程々に」

「なんのことですか〜」

 違法かどうか知らないが、サイナが運転した瞬間—――エンジンの馬力がひと桁上がった。一体何を燃料にしたら、あんなスピードになるのか。想像も出来ない。

「まぁ、いいや。それと仕事までに弾の補充が欲しい。財布渡したままだろう?好きに使ってくれ」

「お任せを〜♪」

 気の抜ける声だ。気持ちが良くて、寝てしまいそうになる。

「カワウソ、3匹いたっけ?」

「寝ぼけてますね♪しっかりと2匹ですよ〜」

 視界がぼやけてきた。眠気か疲れか、あるいは両方か。どれにしても完全に燃料切れだ。もう立てないが自分には仕事がある。

「さて、戻るか。助かったよ、ありがとう」

 湿布と包帯が終わった所で、立ち上がって伸びをする。

 テーピングを施された腕は肩からの命令に従って、下手な電子機器よりも繊細に動いてくれる。ミトリとサイナの治療の腕に驚き、振り返って感謝を伝えた。

「怪我ばかりですね」

「オーダーだからな」

「そればっかりですね。いつでも頼ってね」

 無自覚に首を傾げる行為はミトリの得意技だった。子犬のような仕草に、何度も心を奪われてしまう。だけど、そんな内心に気付かないミトリに背中を向けられる。

「流石ですミトリさん♪洗練されてますね~!」

「えっと‥‥?はい、怪我をしたら頼って下さいね‥‥?」

 無自覚に、小悪魔な手管を使いこなしているミトリに救急箱を任せて、ダイニングに戻る。その頃にはふたり共シュークリームを食べ終えていた。

「あ、洗い物なら済ませました」

「悪いな、気付かなかった」

 マトイの隣に座り、礼を言う。

「それで、何かわかった事があるか?」

「恐らくですが、法務科はその男性をワザと逃したのだと

 珍しくマトイが不確実な様子で答えた。

「空を飛べるような奴をか?なんでわざわざ、見逃したら二度と発見できないだろう」

「通信車、覚えてますか?あれで衛星を操作して地球外から観測している、正確なことはまだ言えませんが、多分、合ってます」

 俺の目と同じような使い方を、あの通信車を使ってやっていると言った。確かにワザと逃す程度のはできるだろう。

「‥‥ああ、そういうことか。逃げ道を作ってやったのか」

「はい。私はいませんでしたが、その男性が瀕死の状態であったのなら、真っ直ぐに――――自分の拠点に逃げ帰るのは当然かと」

「そうですね♪あのハエなら必死に自分だけは生き延びる為に逃げるでしょうね。まぁ、拠点が受け入れるか、どうかは知りませんが」

 サイナはハエと言ったが、この手法はどちらかと言えばハチに使うやり方だった。

 民家近くに出没するスズメバチのような危険な存在の巣を探し出す為、一匹だけ捕まえる。捕まえた一匹の後ろを着いていけば自然と巣に案内される。

 オーダーが自身の拠点へ直行などしたら、仲間や自分の計画に気付かれる可能性があるから絶対にやらないが―――あいつは素人だ。しかも保身の為になんでもする様子にも見えた。確実に誰かに助けを求めるだろう。

「その辺りも、一度法務科に問い合わせないといけませんね。サイナ、私にも弾丸の補充を」

「は〜い、レイピアの整備はどうしますか?」

「お願いします。それと弾丸は彼と一緒でいいので、近く届けて下さい」

「了解でーす」

 それは俺の口座から弾丸代を捻出するという意味だが、どうせ俺の口座はネガイとサイナが管理している。本当にようなことはしないだろう。

 そう思っていると、腰に下げていたレイピアを受け取ったサイナが残弾を数え始める。知らなかった――――そのレイピアは、リボルバー式だったのか。

「それと」

 隣のマトイが顔を向けてきた。眼光でわかる、これは法務科のマトイだ。

「今回の件で聖女への面会は当分の間、制限されます。例えあなた方、ヒトガタ同士であっても変わりません」

「—――当然の処置だ。狙われたのがイネスか俺かは、ともかくとして武器を持った集団の襲撃を受けた要人を、そのままにはしないのは不思議じゃない」

 オーダー本部や法務科にとって、法務科の所属になっている俺が狙われるのは望む所だろうが、イネスは別だ。

 イネスが今後どのような立場になるか、まだわからないが、重要な証言者であるのは間違いない。

「あの病院のままか?」

「明日まではそうですが、それから先は言えません」

「それもそうか。どうか、良くしてやって欲しい。それと聖女じゃなくてイネスだ、もう名前がある」

「では、今後そのように」

 変わった。昔のマトイだったら、名前のことなど気にも留めなかっただろう。

「血の聖女でしたか?」

「ああ、ネガイには少し話したか」

「はい、ヒトガタと人間の血を混ぜた何かだと。あの、誰でしたか?えーと、ハエ?」

「ハエです♪」

「ハエと関係しているんですか?」

 ついさっきまで刺したり撃ったりしていた相手の事を、もう忘れたようだ。サイナもサイナだが、ハエと聞かれて肯定した。

 だが確かに、あの姿はハエだった。

 でも、何故だろうか。

 あの姿を見た瞬間、一瞬だけ何かを気がした。

 だけど、あれから感じた訳では無かった気がする――――形で思い出したような感覚だった。過去にどこかで、あの姿など見た事なんてない筈なのに。

「‥‥そうみたいだ。聖女の血について言ってたから、関係者なのは、間違いない――――次は殺すか」

 マトイが咳払いをしてきた。

「死なない程度に」

 言った自分が思うのも、なんだが、それもそれで殺人を肯定していないだろうか。

「血の聖女については、これ以上聞きません。ソソギは元気そうでしたか?」

「武器も新調して、調子は悪くなかったと思うぞ」

 悪くなかった。だけどとも言えそうになかった。あまりにも1人で抱え込み過ぎて、自分1人の腕だけでは足りないようだった。

「今日はカレンと一緒に、イネスの病室に泊まるって。気になるなら、明日迎えに行くか?」

「そうします。でも、少しの間、私だけにして下さい」

「‥‥わかった、時間を作る」

「すみません。でも、話したい事があります」

 2人だけで話したい事がある。ならば、邪魔をしてはいけない。

「なら、ネガイが病院に行っている間、あなたは私と法務科に。私はマスターと話したい事があります」

「私は一度工房に戻りますね」

「ミトリは明日、治療科で実習があるそうです」

 それぞれやる事があるようだ。明日は1人寝になりそうで、心細い。

「そういえばミトリは?」

 救急箱を片付けていたミトリは既にリビングにいなかった。辺りを見渡してもどこに居ない。

「玄関の音はしなかったから、大丈夫か」

 眠気に勝てなくなってきた。だけど、まだ眠れない。サイナとの約束がある。

「部屋で休んでるから、好きにしてくれ」

 目蓋が、重く熱くなってきた。皆んなが寝静まるまで、どうにか耐えないとならない。サイナとの時間が待ち遠しい。

「はい。今日は皆んなでゲームをします」

「皆んな?マトイもするのか?」

「知りませんでしたか?嗜む程度に、私も遊戯には心得がありますよ」




「総額のトップはサイナ。ホビーショップで適当に買いましたが、なかなか面白いですね」

 4人で何かしらのボードゲームをやっていた。金貨や銀貨、そして鉱山に物件、それらの総額で勝者を決めるルールらしい。

「サイナさん、強いですね‥‥私なんかダブルスコアで負けてる‥‥」

 風呂上がりのミトリが甘い香りをさせながら、残念そうに言った。

「勝ちはしましたが、途中から楽しむというよりも、効率重視になってしまいました‥‥。私ももっとサイコロとかで運で遊べばよかった‥‥。でも、サイコロだとネガイに負けて、下手に金銭を手放すとマトイさんに総取りされて、心臓に悪いです‥‥」

 ゲーム中にどれだけストレスを感じていたのか、サイナが普段から大きな胸を、更に大きく膨らませて深呼吸を始めた。

「私とネガイは、ほとんど同じですね。私もムキにならずにミトリみたいに、自分の土地にお金を使えばよかった」

 マトイは新しい遊び方を見出し、次の一手を模索しているらしく―――深呼吸から過呼吸になったサイナの顔が青くなっていくのがわかる。

「もう一戦です。次は効率重視でいきます」

 ネガイの発言を聞いた3人は、それぞれのカードを山札に戻していく。

「あなたも‥‥。もう、寝ていますね」

 声や音から状況を推測できても、もう目が開かない。

「朝の襲撃や夜の抗戦で、だいぶ疲れが溜まったようですね。寝かせてあげましょう」

「そうします」

 見ていた番組が終わり、ニュース番組に代わっていた。だが、内容は何処どこの動物園で赤ちゃんが生まれたとか、そういう内容。余計に眠くなる。

「サイナ、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「恋人の口調が移ってますよ♪何ですか?」

「中等部の彼は強かったんですか?」

「おーと!いきなり本題ですね♪」

 楽しげなサイナが立ち上がって自室に戻った。だがすぐに戻って、席に着いた。

「強かったか、と問われれば強かったと言えます。こちらをご確認して下さ〜い♪」

「‥‥ランキング?」

「こんな物あったんですか?知らなかった‥‥」

 ネガイとミトリが驚いた声を上げる。マトイは知らない訳がないので、静かだ。

「このランキング結果は、そのままドラフトランキングに反映されると思って下さい。実際、この通りになりましたから♪」

 サイナが持って来たのは、強者ランキング。だがその内訳は中等部の生徒が作り出すのだ、単純に腕っぷしが強いかどうかしか測れない。

 だけど、から見れば、あれは何よりも正確だった。噂ではオーダー側もあれを見て、スカウトを決める、と言われる程に。

「‥‥5位ですか。ソソギとイサラが1位2位ですね」

「3位は襲撃科の異端児と言われてる、まぁどうでもいいですね~。とにかく、上から5番目に近い実力を彼は持っていたんですよ♪—――と、言いつつ」

「これは表に出ている戦闘技能だけで計算したランキングですから、私も知らない実力者がいるかもしれませんね」

 サイナとマトイがランキングの陰と陽を話す。

「だけど、これは彼が目の奴隷だった時のランキング。今は参考にもなりません」

 違いない。俺はもう10位以内にもいないだろう。それにネガイやマトイがいる現在、3位以上は総代わりしているかもしれない。

「ドラフトって言いましたね?各学科のスカウトとかですか?」

「それもありますが、それ以上に生徒にとっては組む相手を選ぶ為の指針が、大きな意味を占めてます。特に卒業訓練とかですね♪」

「そういう意味ですか。なら毎日、あの人は誘われていたのでは?」

「誘われてましたね♪毎日知らない女の子がひっきりなしに♪」

「チッ!」

「勿論、男子生徒にも、ごめんなさい!怒らないで下さーい!!」

 情報を小出しにしたサイナに、ネガイが何かをしようとしたが、不発に終わったらしい。命拾いしたサイナが、椅子から飛び降りて後ろに隠れる音がした。

「ぐっ具体的には言えません、誰と組もうとしたか等の情報は、オーダー校の暗黙の了解に抵触しますので‥‥」

 下手に言えば、何故かサイナにネガイの八つ当たりが飛んでくるからだ。

「でも、ずっと断ってましたよね。私もなんで?って聞いても、話してくれなくて」

「あの時には、もうネガイの所に通っていたみたいで~♪すぐいなくなる彼には本命がいるのだろうと、専らの噂でしたよ♪」

「‥‥そうですね。あの人は、毎日私に甘えに来ていました。毎日来て、仕方なく――」

 見る見るうちにネガイの機嫌が良くなってきた。ネガイとの距離感をサイナもわかってきたようだ。

「それで結局、あの人はサイナとですか?」

「私とイサラ、そしてシズクさんとで参加しました。と言いつつ私達の代の卒業訓練はその場その場での対応能力を見られていたので、個としての活動はほとんどなく、大半がチームとしての動きが求められる物でした。だから、寝食を共にして、一緒に寝ると私に甘えてきて♪」

「‥‥チッ‥‥」

「嘘じゃないんですよ♪」

「だと思います」

 口元から血が流れそうだ。内臓を胃酸が溶かしていくのが、わかる。

「あ、聞いて事があるの」

「見境なく甘えてくる事ですか?」

「それは知ってるからいいの。その時ですよね、猟犬と運び屋の名前が付いたのは」

 ミトリが思い出したように言った。

 ミトリも知っているというのに、知らないのは俺だけだったようだ。

「最終訓練での話ですね。私も当時聞きましたが、あれは本当?」

「それは、その〜」

 サイナが言葉を濁らせたのも理解できる。あれは―――今思えば。だけど、それは向こうも同じだった。

「本当のようですね。どこまで追いかけて、奪うだけ奪って、邪魔者は全員倒して、引き離して、逃げる」

「あは♪」

 いつもの誤魔化しも、マトイ相手にはキレが悪い。

 誤魔化せたことなど、一度もないのが、この技の評判だが。

「私は治療科に入学が決まっていたから、話しか聞いてませんでしたけど、どんな訓練だったんですか?」

「輸送係と防衛係、そして襲撃係と探索係に分かれての模擬訓練。荷物を運ぶか、奪うかだけの話でした」

「‥‥大変そうですね」

 そう、大変だった。

 俺達の担当は探索、運んでいる車両を発見次第、襲撃に報告。当時シズクが襲撃への報告やっていたから、他のグループよりも報告を確実に多く伝えられた。

 最初の内は楽ではあったが、あまりにも上手く事が運び過ぎて―――2日目は、防衛が

「本当にあの時は大変でした‥‥。私達は探索だったのに、防衛側が私達を狙い撃ちにしてきて!お陰で私の車両は傷だらけに!!」

 車両を盾にして、模擬弾の雨を4人で避けていたのを思い出す。例え先端を取り除いた弾丸でも当てれば痛い。本当に痛い。

「え、輸送係じゃなかったんですか?だって運び屋って」

 ミトリが違和感を言う。

 確かに話の流れがおかしい。猟犬の話ならばまだしも、運び屋の名前を聞けば、誰もが輸送を思い浮かべるだろう。

「だから奪ってやったんですよ!輸送側の荷物、ぜーんぶ!で、逃げました♪」

「そ、それはいいんですか!?」

「因みにですが、言い出したのは、あの甘えん坊です。あいつら、ただじゃおかない。全部奪ってやる。って」

「言いそうですね‥‥だから猟犬ですか‥‥」

 呟くように理解したミトリと、同時に猟犬の命名の真実を知った。

 当時の防衛側がサイナの車両を狙い撃ちにしている間に、輸送の車両を追いかけて回していた、が自分にとっての体験だったが、どうやらそれが猟犬—―誰かからの命令に見えていたようだ。

 訓練場所は山岳と街中、1日目は山岳、2日目は街中で。

 2日目のオーダー訓練街は山岳と同等以上に追いかけるのに、向いていた。輸送係の車両を見つけ次第、追いかけ回して痺れを切らして降りて来た所を襲う。

 そのまま車両ごと奪う――――

「どこかに消えたと思ったら、輸送車両に乗ってきて、中を見たら輸送物があって、もう何がなんだか‥‥」

「変わらないですね。私の時もそうでした‥‥」

 ミトリが恨み言を言ってくる。だけど、仕方ないと。ミトリの時もサイナの時も説明する時間がなかった。裁断すべきは、

「で、私に言ってきたんです」

「反撃の時間、とか?」

「サイナ、俺と一緒に逃げよう。って♪」

「「「‥‥はぁ‥‥」」」

 大きなため息が三つ聞こえた。

「当時は、駆け落ちに誘われているのか思いました♪」

「嬉しそうですね‥‥」

「そんなこと無いですよ♪ふふん♪後は野となれ山となれ―――逃げる輸送車両を追いかけて、邪魔する防衛をなぎ倒して、奪ったら逃げて。どうやって奪ったかは秘密です♪後々、小言は言われましたが、あの時は教導から何も言われませんでした。しかも、いい点数を頂いて、皆んな満足でしたね♪」

 1番最初にイサラから誘われたのは、あのすぐ後だった。

 最初はノリと勢いの冗談だと思っていたが、もっと真面目に取り合えば良かったと今は思う。

 当時は幾人かからルール違反とも言われたが、戦闘で負けて、防衛目標を奪われて、奪え返せないという三重の失態を犯している連中に言われる筋合いはない。

「ですから、彼が強かったか?と問われれば強かったとはっきり言えます。間違いなく、あの人は私の見込んだオーダーです」

「あの人を最初に見込んだのは私です」

「でも、最初に応えてくれたのは私です♪」

「わ、私には、何も言わなくても応えてくれました!」

「期待に応えてくれている回数は、私が1番多いですよ」

 ああ、もう無理だ。サイナを待とうと思ったが、いい加減限界だ。起きたらでサイナの部屋に行こう。‥‥きっと、褒めてくれる。



「サイナー」

「は〜い♪ここですよ〜」

 柔らかい。それに暖かくて、石鹸の良い香りがする。

「石鹸か?」

「わかりますか♪少しだけ値が張りましたが、お客様商売の私には、これぐらいは必要なんですよ。ふふ、味まで直接楽しめるのは、あなただけですけどね♪」

 サイナの寝室に紛れ込んだ深夜。美声を響かせる自分だけの商人は、肩を大きく出した胸を強調するような黒いスウェットを着込んでいた。数日前からこの服を着ていたサイナに、速く飛び込みたかった。サイナなら受け入れてくれる、何も無くともと確信していた。

 そう傲慢で愚かな思想に囚われてしまう程に、この姿は蠱惑的で誘惑的だった。

「今日は疲れたんだ‥‥」

「お疲れ様でしたー♪よしよし、今日は頑張りましたね♪」

 ベットの中で薄いスウェット素材に身体を包んでいる身体が、頭を受け入れてくれる。

 布団も、普段自分が使っている夏布団とは手触りからして違う。滑らかで薄くて冷たくて、それでいて身体に張り付くような不快感も無い。

 睡眠という内向的な快楽と、身体を重ねるという外向的な享楽を余す事なく楽しめる。

「今日は好きなだけ甘えて下さいね♪を叩きのめす機会をくださったこと、心の底から感謝していますから」

「でも、逃したんだ‥‥ごめんな‥‥」

 またあれが姿を見せるのは。その時は、きっとサイナもいる。

「それもまたオーダーの仕事ですよ♪それに、どうやら法務科の作戦だったようですし、私は気にしてませんから♪」

「次は‥‥」

「期待して待ってますね♪‥‥冗談ですよね‥‥?」

「冗談だ」

「う〜冗談に聞こえませーん‥‥」

 豊満でどこまでも沈み込める胸と、毎日ケアをしている手触りも見た目もいい手に挟まれて満足だった。その上、甘い声と甘い吐息で、脳を解いてくれる。

 満足するまでサイナの心音を聞いてから顔を上げると―――

 「

 と、尋ねてきた。文言だけではない。と、のどれもから既視感を覚える。

 —――部屋から反響してくる声にすら、覚えがあった。

「今日はこのまま、サイナに甘えたい」

「いつも甘えてますけどね♪」

 否定出来なかった。実際、車内で時間さえ有れば、いつも甘えている今日この頃だった。

「あ、少しだけ言いたい事があります!」

「甘え過ぎた?」

「ネガイさんの事です!」

 迫るような勢いで、顔を掴んでくるサイナの言葉に身に覚えがなかった。

 最近は仕事を一緒にしたり、三食も常に一緒にいる。誰もいなかったら一緒に風呂に入って、寝屋を共にしているのだから―――特に険悪な空気は無い筈だった。

 もしや―――俺との時間に飽きた―――?

「いくらなんでもネガイさんと一緒に居過ぎです!朝、同じ部屋から起きてくる2人を見るこっちの気も考えて下さい!」

「‥‥怒ってる?」

「というよりも、慎みを持って下さい!あんなに体液塗れでエッチな匂いをさせて!!」

 頬を赤く染めて膨らませたサイナが、頬を引っ張ってくる。伸びている頬が、痛みで危険信号を送ってきている。だけど、この痛みは―――甘く艶やかで、頭を蕩かせる。

 痛みを楽しみ始めている自分に危機感を感じ始めるが、サイナの柔らかい指に手を添えて目を閉じてしまう。

「終わりか?」

「痛いのが好きなのも、程々に‥‥お仕置きになりません‥‥」

「好きな訳じゃない。本当に好きだったら、この包帯とか、湿布も頼まなかっただろう」

「痛み以上に、私やミトリさんに甘えられるのを選んだだけでは?」

「‥‥そんな訳ないだろう」

「なら、もうしません♪」

 手を離したサイナが、自身の胸を抱くように腕を十字にして、拒絶の構えと取る―――その姿に、急激に心細くなる。包まれていたいというのに、独りぼっちになってしまった。

「‥‥サイナに、甘えたい‥‥」

「ふふん♪正直ですね。好きなだけ、来て下さいね♪」

 最近はマトイどころかサイナの手の上でも遊ばれている。相手は人間だというのに、決して悪い気分にはならない。恋人という関係だからか、それとも―――。

「‥‥どうしましたか♪」

 サイナの。違う、サイナの

「オーダーは楽しいか?」

「楽しいですよ。あなたは?」

「俺もだ、サイナもいるから。‥‥だけど、やっぱりオーダーは嫌いだ。人間も。変だよな、楽しいのに嫌いって」

 腕を開いてくれた胸に甘え続ける。そんな矛盾だらけの自分に応えてくれる姿が愛おしい。快楽も痛みも与えてくれるサイナが、ここにいてくれるのが何よりも嬉しかった。

「おかしくなんてありません。私も同じです」

「‥‥聞きたくない」

「ありがとう、でも、私はオーダーの所為でここに来たんです。オーダーが私の血を調べてしまったから」

「苦しくないのか‥‥ずっと、内緒だったのに‥‥」

「一度あなたに少しだけ話した時から、過去として折り合いはつけてます。どうか聞いて下さい。私の物語を――――」

 寝物語を語るように、優しく頭を撫でてくれる。

 どこまでもサイナに落ちていく感覚に溺れていると、一本の糸に釣り上げられたかのような声に意識が奪われる。

「私には、小さい頃に決まった運命がありました。財界の家に嫁ぐという宿命が。そこで、男の子を産むという使命も――――」

 もう過去として折り合いをつけている。きっとそれは正しい、きっとそれは間違ってない。でも、それはサイナにとって、

「だけど、急にオーダーの職員が私の家に踏み込んできました。‥‥怖かった。何をされるのかと震えていました」

 自分の家を占領された。そこまでしなければならないような事件を、家の当主は起こしてしまった。警察がとなり誰も手出し出来なくなった時、支持率が低下――内閣は解散、そして与党の分裂。

 その時、オーダーが発足した。オーダーの目的には権力者の検挙も含まれている。数年掛かりの捜査の結果だったのだろう。

「その時まで知りませんでした。私はだって‥‥。いいえ、わかっていました。だってお母様とお父様の私への態度が、お兄様と違ってましたから。お父様にとって私は汚点だったんです。捨ててしまったら。自分の子だと知られてしまうから――――私を拾った」

 人生の汚点。、それらが全てが汚点ならば何故人間は自ら汚点を作り出すのだろうか。

「でも、あの日までは皆んな良くしてくれました。使用人さんも執事さんも、皆んな優しかった‥‥」

「‥‥たまに聞いてた、家の話は‥‥その人達だったのか」

「はい。私がここに来る時なんか、内緒で車を出して安全に送ってくれました。それに荷物まで‥‥感謝してます」

 勝手に決めつけていた。

 、そうのだろうと決めつけていた。だけど、それは家族じゃない別人だった。

 血の繋がらない長い時間を過ごした人達との絆は、きっと家族と同じか、それを超える。それは人間でもヒトガタでも変わらない。

「でも、からは守ってくれませんでした。寧ろ手伝う使用人もいました。‥‥痛かった‥‥血が漏れ出して‥‥」

 胸を潰すつもりで抱きしめる。それでもなお言葉を紡ごうとする口に重なる。

「‥‥言わなくていい」

「‥‥私、汚れてるんです」

「それは過去だ。今のサイナの話じゃない」

 もう一度サイナの舌と絡み合う。熱くて柔らかくて蕩ける小さい口の中を吸い尽くす。言葉を全て奪い取り、声を発する為の息すら奪い捨てる。

 だけど、サイナは止まらなかった。

「叫んでも誰も助けてくれませんでした‥‥千切れるんじゃないかって、思って」

 背骨を潰すつもりでサイナを抱き締める。声を出す余裕を完全に奪う。

「苦しい‥‥」

 その声に正気に戻ってしまった。意識とは反して身体が勝手に離れてしまう。

「本気なんだ。サイナ、愛してる。俺はサイナと一緒にいたい」

「‥‥私の様子が違う時、見たことありますよね。あれは家の血なんです。‥‥あの男達と同じ血なんです」

 運転中や戦闘の時に見せた事がある、サイナの

 ネガイの狂ったような怒りで耐性があった自分でも、初めは背筋が凍った。

 そして、それは敵も同じだった。あの傭兵達もサイナの狂った声に。その心は、二度と戦場に立てない程に傷つけられた。

「私、自分の血が嫌いです。私を産んだ人間も‥‥私を痛めつけて、苦しめて、それでいいって言った人間が!!」

 言葉を噛み切るように、容赦なく首に噛みつかれた。

「あ、ご、ごめんなさい‥‥」

 謝り離れる少女を引き寄せて、頭を首と肩の間に押し付ける。

「俺も同じだ」

 同じ様に首に吸い付く。

「‥‥同じですね。私達」

「同じだ。勝手に生み出されて、苦しめられて失敗作だと捨てられる。俺もサイナも、身勝手な人間に作られたオーダーだ」

「オーダー‥‥ですか?」

 サイナを抱きしめて膝の上に乗せた。蕩けるように柔らかい女性特有の脂肪が、下半身を圧迫していく。サイナの肢体は誰よりも成熟くしていた。受け入れる身体を持ち合わせている。

「俺は本気だ。サイナに触れる奴は全部壊す、全員殺す。全て消すから」

 重なったまま、未だ怯えている少女に声を掛け続ける。

「でも、サイナはそれでいいか?あのハエも、俺は消す」

「‥‥あの人は、もう家族なんかじゃないです」

「そうじゃない」

 サイナは意味がわからないといった感じに首を傾げる。

始末していいのか?」

 意味がわかったのか、シャツを掴んできた。

「二度と表に出れないようにアイツを壊す。でも、それだけでいいのか?サイナも、もっと壊したくないか?」

 サイナの武器はあのジェラルミンケースだけじゃない。車両も、人脈も、そして、

「‥‥いいんですか?私も参加して、今回は訓練じゃないのに」

「殺さなければいい。マトイにも、そう言われた。俺は壊す。何もかも。サイナの敵は俺の獲物だ」

 ふたりで結んだ――――それも今日限りで、解き放つ。

「全部奪う。俺達は、全部奪われたんだ。今度は、化け物のやり方だ」

 涙を流している筈がない。サイナのベットに潜る時から、既に決めていた。自分達は何もかも奪われた化け物。そして人間に作り出された化け物でもある。ならば

「サイナはどうする?」

「‥‥決まってます。私も、化け物になります」

 誓いの口付けはここに――――人間から化け物に変わった少女の誕生は、この化け物の腕の中で。化け物の血は伝播する。だが、それは切欠でしかない。

 全ては人間の行い。化け物は1人でには生まれない。求められた役目として、俺達は化け物となる。奪う奪われるの関係は、今日この時間、この寝室で逆転する。

「参加させて貰いますね♪大丈夫、ちゃんと手加減ができるようになりましたから♪」

 彼女の強みは容赦を極限まで無くした猛攻。息をさせる隙すら奪い去る人工的な真空の空間。狼の如く備えられた体力に常人がついていける筈がない。自分でさえも敗北したのだから。

「狂っているのは私の専売特許ですよ♪あなただけの物じゃないんです!。ではでは、ちょっと待ってて下さいね♪」

 再度、今度は軽い口付けを交わした後に、サイナがベットから離れていく。

 そんな恋人がもぞもぞと楽しげに背を見せながら何かを旅行鞄から持ち出した。

「ドキドキしませんか♪」

「――――スタンガン」

「大丈夫、しっかりと調節されたです♪きっと満足しちゃいます♪」

 手の中で玩んでいたのは、リモコン台の大きさのスタンガンだった。面白いぐらいに、青い光が瞬いている。初めての刺激だと、やはり興奮している自分がいる。その証拠をまじまじと見つめるサイナが、口を引き裂く笑みを浮かべる。

「きっと痛いですよ〜でも、すぐに出しちゃダメですよ〜♪」

 ゆっくりと布団の上から、両足の間に膝を差し込まれる。もう逃げられないと悟る。

「使いますか?使って欲しいですか?私に、いじめられたい?」

 上半身の寝巻きのボタン一つ一つを外していく。ゆっくりとスタンガンを持ったサイナが迫る最中、自分は萎縮して怯えてしまい、早く早くと待ち望んでしまっている。

 声を軽減する為、サイナは自身の唇に指を入れて、甘い唾液が溢れる指を口に差し込まれえる。心を落ち着かせる為、指の腹を舐め続け、爪の鋭い形をふやかせる。

「使って欲しいってことですね。噛まないで下さいね♪」

 前触れはなかった。迸る雷光が自分の肌に消えたと気付いた瞬間、下腹部が熱く滾っていく。数秒以上も続く胸を焼く痛みに耐えているというのに、笑みを浮かべて膝で痛めつけられた局部から不快な粘着音が響いたのが、頭にも伝わる――――痛い――――痛い痛い痛い痛い!!ああ、でも、脳が足りない叫んでいる。足りない、まだ足りない。もっとサイナに殺して欲しい――――身体全体が揺れる。内臓に流れる血液が躍るように飛び跳ねている。血管が沸き立つのがわかる。視界が瞬いていくのも。

 だけどサイナの体温も、

「あはは♪いい反応、もっと見せて下さいね♪はい〜♪2回目で〜す♪」

 電撃は未だ続いていた。身体をスタンガンで撫でられる。胸に当てられているスタンガンが身体の中身を焦がす――――声どころか息も出来ない。首でも絞められたように肺と喉が言う事を聞かない。電撃の痛みと窒息の苦しみが、同時に襲ってくる。

 魚のように跳ねる俺を見て、瞳を真紅に染めたサイナも止まらない。着ていたスウェットを下着ごと脱ぎ捨ててお互い肌を晒す。

 月明かりに照らされたサイナの肉体は赤くてピンクで、なのに大半が白い。死に掛けをなじる子供のように、全身で肉欲を体感しているのが自身の下腹部に伸びる手で証明される。

「冷房、足りませんね♪」

 一度スタンガンを止めたサイナは腰の上に乗り、さっきまでスタンガンを当てていた胸に手を置いて撫でてくれた。サイナの手も熱い。俺自身よりも、真っ赤な血が流れている。

「‥‥続けて」

「そんなに気持ちいいですか?」

 問いに答える為に腹筋だけで起き上がり、攻守を逆転させる。サイナを力任せに押し倒してスタンガンを奪い取り、そして谷間に押し付ける。スタンガンが完全に消えてしまう深い谷間の底を突いたのが、手応えでわかる。

「‥‥どのくらいにする?」

「さっきまで、。足りませんでした?」

 あれで最大とは―――人体へのダメージをできる限り減らしたようだが、刺激として物足りなかった。

「そうだな‥‥もう少し強くてよかった、かな?」

「あんなに、跳ね上がってたのにですか?わがままですね♪私にも最大で♪」

 スイッチは押さずに、スタンガンのメモリを最大まで指で上げる。一つ上げる毎に固い音がスイッチから響く。同様にサイナの瞳孔が開かれていく。呼吸が荒くなり、無理やり広げた胸が揺れていくのがわかる。震えているサイナの身体を抑えつけて、自分も下半身の衣服を脱ぎ去り、サイナの物も引き千切るように脱がす。そして肌触りのいい下着を脱がした時、完全な闇ではないからこそ眼球に焼き尽いた。

 黒く染まったそれに、粘着力のある液体が絡まっている。それらを隠すように手で抑えつけるサイナの両手首を頭の上で拘束する。

「そんなにまじまじと見るなんて————さ、流石に恥ずかしいのですが!!」

「散々、手と足、胸でも遊んだだろう」

 もう我慢出来ない、遊ばれるのも限界だ。出会う度に挑発されてきた自分は、もう自分をコントロール出来ない。サイナの肉に入り込み、快楽を貪る時間しか考えられない。

「‥‥熱いですね。興奮してます?」

「サイナもだろう。‥‥ゆっくり」

「はい、ゆっくりで‥‥」

 口を塞いで正解だった。

 スイッチを入れた瞬間、暴れ出すサイナの声と唾液を受け止めるには、こうするしかなかった。




「満足です♪」

「それは‥‥良かった‥‥」

 何もかも奪われた。この脱力感を、こちらの世界で――――しかも仮面の方以外から味合わせられるとは思わなかった。いや違う。ネガイとの夜は毎晩こうであった筈だ。

「充電切れちゃいましたね。あなたのも干からびちゃいましたし」

 青い電撃を放っていたスタンガンは、役目を終えて一足先に眠っていた。

「どうでした?私、結構上手かったのでは♪」

「もう満足‥‥サイナと重なれて楽しかった‥‥」

「正直物には、ご褒美です♪」

 心地よい声を響かせながら耳を撫でてくる。手の擦れる音が頭に響いて、身体が刺激に負けて震えていく。

「まさか一箱使い切るなんて。処分に困っちゃいます。そんなに電撃って興奮するんですか?」

「サイナだって、自分から使ってただろう。俺も、もっと欲しかったのに‥‥」

「もうスタンガンは無しです!言って下さい、最大威力があんなに痛いなんて」

「そうか?もう少し、強い方が良かったんだけど―――」

「死にたいんですか?」

 久方振りに言われた、言葉だった。

「自分で用意してなんですが、これがおもちゃとして流通してるなんて‥‥外の方々は意外と痛いのが好きなんですかね?」

 寝返りを打つが、胸で顔が見えない。

「それ、どこで買ったんだ?」

「え〜と、待って下さいね」

 スマホを手に取ったサイナが、胸の上でスクロールを始めた

 知らなかった―――置く事が出来るなんて。

「‥‥このサイトですね」

 目的の画面に行き着いたスマホを渡される。確かに大人の、本来は成人済みにしか窓口が開かれていないサイトの画面であった。だが、サイナの示した項目はデットな―――

「‥‥これさ。まぁ、いいや」

 スマホをサイドテーブルの上に乗せて、もう一度サイナにのしかかる。

「どうしました、寂しくなっちゃました?」

「少しだけ」

 黒いスウェットを着直したサイナは微笑みながら、胸に寝かしてくれる。

「なぁ、」

「なんですか?」

「あの銃だけど…」

 指を差して、武器類がまとめてある机を示す。

「どこで手に入れたんだ。ハエにも効いてたし、それに、あの銃は」

「私がここに来る時、家から持ってきた物です」

 胸を越えて、サイナの頭を抱き込む。

「これから、もっとサイナの事、考えるから‥‥」

「はい♪私のこと、もっと知って下さいね。私も次のいじめ方を考えておきますので―――だから、少しだけお喋りを。あの銃は、この街に逃げる時、持ち出せた物の一つです。

「‥‥サイナの家って、とも繋がりがあったのか?」

 確かに閣僚や大臣クラスの家ならば、ネガイのご両親と同じような仕事をしている人間達とも、繋がりがあるのかもしれない。

 そう思考を飛ばした時だった、ある考えが口を衝いた。

「‥‥サイナって、ネガイの両親と」

「会ったことはありません。でも、想像通りの関係ではあったのかもしれませんね。私の家はネガイのご両親に頼んで、邪魔者を消すことも頼んでいたかもしれません」

「‥‥前にネガイが言ってた。最後は‥‥そういう仕事をしていたって‥‥」

 時の権力者の邪魔者を消す――――それもこの国を守るために必要な事だったのかもしれない。

 でも、それはただの人間の欲望、

 思い通りにならない人間は殺す。自分に媚びを売らない人間は消す。そうやって一時期の権力者は力に溺れ、今は牢屋にいる。

「物心ついた時には、お爺様は既に牢屋でした。そして関係していたお父様も、私の小さい頃に逮捕されました。‥‥お父様は、いつも必死に『私はこの国にとって必要な貴人、絶対的な王であるべきなんだ』って―――お兄様もそれに感化されて、毎日言ってましたね、俺は特別な人間だって」

 サイナの兄にとって、血が全てだったのだろう。純血こそが至上。だから、を、許せなかった。

 ――――やはり人間は嫌いだ。自分達で造り出しておいて、知らなかったと言い訳をしながら、同族を傷付ける。

「人間は‥‥嫌いだ」

「私もです。人間なんて、大嫌い‥‥」

 心の底から人間が嫌いだ。サイナの顔にはそう刻んである、だが、やはりサイナの顔は月の住人のような美貌を携えている。

 美しい。ネガイ以外の人間がここまで何かを恨む顔が出来るなんて。

 ああ、一つの感情を、体現しているようなサイナは、蠱惑的だ。

 人間の感情は伝播する。それは、惹きつけられるカリマス性を有するからだ。

 感情とは人間の脳内分泌物に過ぎない。だけど、それらを他の存在に届けられるのは―――と呼ぶべき人間の御業だ。

 特に怒り、悲しみ、嫉妬、これら強い感情は力を持つ。力に魅せられた人間は武器を造り出した。そして武器を使うのは人間だ。

 であるならば、強い感情を武器にした人間には、人を惹きつけるカリスマ性とでも言うべき力が宿る。サイナはそれの体現者だった。

「だから、私、嬉しいんです」

「俺は人間じゃない、ヒトガタだからか?」

「表面状はそうですね。でも、それ以上に、あなたは化け物です。化け物を好きになれて、嬉しいんです‥‥あなたは私の物」

 同じ事を、仮面の方にも言われた。あまりにも似過ぎている。ここが夢の世界だと言われても不思議じゃない。

 半分の人間の血の筈だ。

 だけど、もう半分のサイナの血とは一体、何者なのだ―――。

「じっと見詰めてますね♪また惚れました?」

「‥‥そう、かも」

「胸が好きですね♪いつも見てますよね」

「‥‥胸だけじゃない。サイナが好きなんだ」

 腕の中のサイナに、目を閉じながら最後の口付けをする。

 サイナとの夜が長過ぎた所為だ―――朝が近付いて来ている。、サイナの魅了も鳴りを潜め始めた。

 月が太陽に追いかけられ逃げていくように、サイナへの欲望はサイナ自身によって消された。

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