8巻 改訂版 月に抱かれて 前編

「目覚まし、早過ぎないか‥‥。‥‥サイナ?何処だ?」

 早めの目覚ましに殺意を抱きつつ、一緒に眠りに付いた筈の―――

 昨夜の記憶通りに胸の上で眠っていたサイナの髪へ手を伸ばすも、あの滑らかさも体温の温もりも感じられなかった。疲れ切ったお互いが、上下そのままの位置でまぶたを閉じ、眠りに付いていた筈だった。

 まさかと思い、転げ落ちてはいないかと起き上がり、左右の床にも視線を走らせた。

 途端に心が砕けかけた。何時も居てくれると信じ切っていたサイナが、幻の様に消えてしまった。

 あの夜は夢の筈がない、確かにサイナの肩を抱き締めて、血を感じ取ったのだから。レンズの合っていない瞳の血管に、無理矢理血を貫通させ部屋中を探す。だけど、サイナは何処にもいなかった。

「サイナ‥‥!」

 布団を蹴り飛ばして寝室から飛び出る―――!!

「サイナ!どこだ!?」

「は、はい!」

 肩を大きく出したスウェットを着たサイナはソファーに座り、コーヒーを両手で口に押し付けていた。唐突な己を求める声に、狼狽えながらも応えてくれた。

「ど、どうしました?」

 大きく見開かれた琥珀色の瞳。白い肌を晒した細い腕。全て昨日と今日に、俺を『受け入れてくれたサイナ』だった。

「———何にもなくて良かった。隣、いいか?」

「はい‥‥。どうぞ」

 許可を得た所で無言で隣に座り、テレビを眺める。天気予報や朝の血液型占いを流れるなかで、訝しみながらもサイナはコーヒーから口を離して話し掛けてくれた。

「どうしたんですか?目覚ましが早いの、嫌でした?」

「‥‥ちょっとだけな。それと朝はサイナと起きたかった」

「ん?甘えん坊ですね♪次は私が起こしてあげますから♪」

 察したようにサイナが両手で自身の太腿を叩き、こちらへと暗に告げてくれる。

 遠慮なしに自分もサイナの温かな足を枕とした。柔らかな脂肪が包む白い腿に頬を受け止められ、魔が差して頬擦りしてしまう。昨日あれだけ甘えたというのに、まだ足りなかった。それに優しく前髪を撫でてくれるものだから、尚更サイナが愛おしくて止まらなくなる。儚さなどまるでない。あるのは自身の肉体こえに自信を持った人魚姫。

「そんなに甘えて。可愛いヒジリ。怖い夢でも見ましたか?」

 甘い声が聞こえる。寝起きの耳にとっては、二度寝を誘う魔性の音程だった。

「逆だった」

「逆?」

「サイナを守らないとって思う夢だったよ」



「いいえ。サイナさんには、私の血の一滴も流れてません」

 銀の椅子に黒いベルベットのカバー。銀のテーブル。相変わらずセンスが良い。持ち帰りたいぐらいだった。されど、色彩のないゴシックな内装の中で唯一浮き上がる容姿から目を離せない。数ある豪奢な芸術品にも一切劣らない宝石ホシそのものだった。

「確かに私と彼女は似ています。それにイネスさんとも」

 胸に手を当てて、そう、断言した。

「しかし私の血を持っているのは、あなただけ。私はあなた以外のヒトとは話すことすら困難です。ネガイさんとマトイさんの時は記憶を楔とした上で可能になった、。あなた達ならいざ知らず、ただの人間如きに私は姿すら見せません。それに―――」

「それに‥‥?」

「私の血に耐えられる存在は、あなただけです。他の人間達では触れることは出来ても、身に宿すことは不可能です」

 椅子に座り、斜めに重ねた足の上に手を置いた。上品な上に可愛らしい。

「だから、私の血がだとわかっていても、サイナさんが顔を理由に狙われることはありません」

「良かった‥‥。ふたりとも俺より強いけど心配だったんです。あのハエは強いとは思わなかったんですが、総帥と同じレベルが居た場合、俺1人じゃあどうにもなりませんから」

「安心して下さい。あの人間ほどの使い手は、そうそういません。ふふ」

 可愛い。目元は仮面で確認できないが、口元が緩んだ時に見せてくれる。そして隠すように口に手を当てる仕草が更に愛くるしい。

「あの姿を見ても、驚きませんでしたね。如何でしたか?」

 ヘルメットを被った蝙蝠ハエのような姿を言っているのだろう。確かに不気味ではあったが、何故だろうか。

「あー、不気味ではありましたが、なんででしょう。弱い奴だなぁーって、漠然と」

「私の血のお陰ですね」

 記憶の中でも比類する者が数える程もいない————膨れ上がった胸部を張って自信あり気に微笑んだ。時折はしたないと、身を引く仮面の方だが、やはり無自覚だ。

「私の血を直接含んだから力量が測れたのですよ。けれど、無くとも問題無かったかもしれませんね。でも、お守りってそういう物って聞いてます」

「‥‥なかなか真理ですね」

「あ、褒めてくれましたね。ありがとうございます」

 今のは褒めたに入るとは。。仮面の方が喜んでくれるのなら、それで良い。

「あれは結局何だったんですか?貴き者とか真の神とか、そう言ってましたけど」

「勘違いも甚だしい。やはり、人間は人間ですね。あれが神の訳ないのに。あの程度で神と言われているなら、地球の神とは随分と小物ですね。ふふ、実際、人間の崇める神など―――なのですかね?」

 だいぶ辛辣なことを言っている気がする。たまに思うが、この方は口癖のように小物という。

 だけど、それは真実なのだろう。この方以上に力を持った存在を俺は見た事がない。マトイの師匠に総帥、どちらも俺よりも遙か上にいるが、それでも

あれについては、人間の延長線上にいる存在だと思って下さい。そして、あれは決して特別な存在ではありません。幾らでも湧いて出てくるまさしく―――ハエ程度の存在。ただ、数だけ多いのが目障りです」

「イネスと女の子たちの血を使ったとか言ってましたが、あれは本当なんですか?」

「血を使っての交信自体は、それほど珍しくはないですよ。だけど、呼び出す存在の選択を誤ったようですね」

 血を使った交信に。呼び出す存在。また新しい単語が増えてきた。だけど、聞いたとしても話してくれないと想像できる。

「もしかしてですけど、いいですか?」

「はい、なんでしょう?」

「俺はを、そしてあなたから頂いたを使って交信したんですか?」

 ―――心臓に火を与えた。この方は出会った頃、そんなことを言っていた。

「正解です♪」

「可愛い‥‥」

 遂に口に出てしまった。

「ありがとうございます。このドレスになったら綺麗よりも可愛いという感情を持つようですね。はい、あなたは自身の血と貴き者の血を使い、こうして私と交信しています。切欠は私、コンタクトも私、でも、これらの道筋を作り出しているのは――――あなた自身」

 謎がまた増えた。この方と夢の中で交信しているとしたら、この俺の血は一体。

「俺の血は、一体なんですか?あなたと話せるぐらいの力を持った貴き者なのに、あんなに簡単に俺に殺されて。それに目の女達にも身体を奪われて」

「疑問が尽きませんか?でも、教えません。大丈夫、答えはあなたの中に。目も心臓もあなたの物、そしてあなたは私の物。どうかこれだけは忘れないで、恐れないで下さい。あなたの存在はあれら人外にとって、恐怖以上の畏敬の念を抱かせる。構わずなぎ払って。形ばかり恐ろしく見えても、それは見た目だけの幻、あなたの世界にいるのは――――あなたを除いて

 褒められて嬉しい8割、内緒にされて不満2割。

「はい、どうぞ」

 愉悦を絵に描いた表情と成った仮面の方は、机を地面に溶かし手を広げた。仮面の方への思い10割に変換された所で、遠慮なく下半身に抱き付き膝を枕とする。

 優しい仮面の方が、いつも通りに頭を撫でてくれる中で静かに口を開いた。

「だけど、人間にはそれが理解できない。外見だけでも似ている宝石に、は―――価値を求めてしまう。願望を押し付けてしまいます。私も同じですね。私もあなたに期待して、火と宝石を与えてしまった。どんな結果になるか、楽しんでいました」

 何も知らないから、楽しめるか――――まるで娯楽だ。

「あなたは化け物です。でも、化け物は人間がいなければ産まれません」

「そう、ですね。人間達の無知と狂気がなければ、ヒトガタなんて生まれませんでした」

 創造主、一神教の神、事実上5日で世界を創り出した存在。それを信じるかどうかは関係ない。人間という種族は、もう生まれている。

 俺達、ヒトガタにとっての主とは人間だ。人間がいなければヒトガタはいない。だからイネスは人間に仕えて、感謝していた。

 自分を

 だからと言って、創造主が全てにおいて正しかったとは言えない。アダムとイヴは知恵を持ち、原罪を持った。

 アダムとイヴの行いを悪としたから人間を堕とした。しかし、それは創造主のエゴだったのではないか。自分が創り出した存在が言いつけを破り、責任を押し付けあった。更に言ってしまえば―――

 自身の責任を人間に押し付けて、創造主は人間を見限った。

 それは狂気だ。そして、無知だ。

「どうか細心の注意を。あなたの敵は、人間の悪性。好奇心と探究心、狂気です」

 人間の狂気が敵。あの男は話にも出ていなかったサイナを次と言った。

 サイナを狙ってここまで来た。

 まさしく狂気だ。

「ヒトガタは人間の狂気から生まれました。だから俺は化け物として、生まれました。大丈夫。俺は、人間よりも強いです」

 人間は自らの罪には勝てない。悔い改めるという言葉があるように、罪は人間を苛む。そうあるべしと、人間は世界を律した。

「俺は人間の罪そのものです。人間が作り出した化け物に、人間は勝てません。‥‥やるべき事は―――わかりました」

 甘えていた足から離れ、仮面の方の手を取る。跪いたままで見上げる。

「サイナを守ります。人間がサイナに触れるなら、人間の狂気で、俺は人間を始末します」

 仮面の方は何も答えてくれない。だけど、

「仮面が‥‥」

「‥‥消えちゃいましたね」

 夜空で瞬く星々のように、仮面が散っていった。

「よく聞いて下さいね。これが、私の初めてです」

 手を引いて逃げ道を奪われる。そんな事をしなくても、逃げたりなんかしないというのに————この方が望むように。

「やっと決心が付きました。私は、ずっとあなたから逃げていました。でも、ようやくあなたへの想いを言えます」

 真紅の瞳に、水紋のような髪、そして纏う黒いドレス。それら全てに、俺は魅了された。だけど、今は違う。

 全ての感情を、全ての意識をに向けてくる。いつも俺を受け止めてくれる仮面の方が、受け止めて欲しいと、そう言っている。

「私は、あなたのことを―――愛しています。ようやく言えました」

「‥‥俺もです。あなたを、愛しています」

「ありがとうございます。さぁ、いきましょう。エスコート、お願いしますね」

 銀の椅子から立ち上がった仮面の方は、ベットを視線で指した。




「これが‥‥」

 マトイが確認していたタブレットには、昨日のハエが映っていた。まるで信じられないものでも見る様に絶句し、口元を抑える仕草には普段の冷静さは見当たらなかった。声を掛ける隙さえ無い緊張感が途切れ、ようやく車内の空気が緩和した時、マトイは口を開いた。

「信じがたいですね。マスターは何と?」

「確か、人間の階段をあえて踏み外してるとか。驚いた様子ではあったけど、なんとなくあれがいるのを予想してたみたいだった。マトイはどう思う?それ見たことあるか?」

「話せません。‥‥ごめんなさい」

 法務科のマトイとして話せないのか、それとも魔に連なる者として言えないのか。どちらにしてもマトイに話す権利は無いらしい。

「気にしないでいい。これからそれを聞きに行くんだから。ネガイはどう思った?」

「雑魚です」

 急所を抉られたサイナが吹き出すように笑う中、ミトリが愛想笑いをして場を和ます。だがネガイは止まらない。

「あれぐらいでしたら私1人で充分でした。見た目だけのハエですね。薄気味悪い」

「違いないですね♪」

 だいぶ口が悪いが2人に同意見だった。だが、あの飛び上がりは異常に映った。

「映像通り。対象は橋のワイヤーを軽々超える羽を作り出して、ゲートを飛び越えて行ったんだ————だけど羽が飾りみたいに見えた。なんていうか、羽ばたくっていうか。空間を掴むっていうか」

「企業のキャッチコピーみたいですね♪」

「笑うなよ。でも、そう見えたんだ。やっぱり、撃ち落せばよかった」

 とは言ったが、あの飛び方には違和感を覚えた。羽ばたいてはいたが、あれで空を飛べるとは思えない。目算での質量や骨格、そしてそれを支える羽の大きさ、風切り羽もない中で―――全てがミスマッチだった。

 実際に見たから信じざるを得ないが、どう見てもあれで飛べるとは思えない。背中や腰にワイヤーでも仕込んであったと言われれば、信じてしまう。

 だけど銃で撃たれるのは嫌がっていたから、自力で飛んでいたのは間違いない。

 ゲートの職員さんとマトイの師匠がいなければ、落下させていた。

「そもそも、いつの間にゲートからデータ取ってきたんだ。交渉でもしたのか?」

 サイナが用意していた映像は、ゲートに設置されている監視カメラのものだった。

だから、つい軽はずみに冗談半分でと交渉したのか、と聞いてみた。

「シズクさんに、少し払ってお願いしました。だから詳しくは私も知りません、シズクさんの人脈には感謝です♪」

「‥‥また、借りができたな」

 特務課による映像流出を突き止めて、タダで教えてくれた上に今回の映像。毎回申し訳ない。例え幼馴染だとしても、無料でさせていい仕事内容ではなかった。

「何か礼でもしないと。シズクって、今何か欲しがってそうだった?」

 金銭であれば、それなりに払えるがシズクはそんな物は欲しがらない。自分で幾らでも稼げるからだ。

「あ、言い忘れてました」

 何か思い出したらしいサイナが、満面の笑みにとなった。

「今回の件、あなたが関係していると知らせた所。近い内に手伝って欲しい事がある。って言ってました。いいですよね?」

「‥‥ああ、いいぞ」

「ありがとうございま〜す♪私のわがまま、いつも聞いてくれますね♪大好きです!」

 どうやら映像以外にも―――ようだった。

「そろそろですね。サイナ、どこかに止められますか?」

「は〜い♪お待ち下さいね」

 行政区に入った時、ネガイがサイナに声を掛ける。俺とマトイは法務科に、ネガイは病院に用向きだった。

「ミトリ、実習頑張って下さい。迎えに行きますから。あとサイナを任せました。向こうでは、イサラに任せて下さい」

「うん、任せて。何かあったら、すぐ連絡するから」

 サイナが狙われている可能性がある、と朝に話した結果だった。

 学校に着くまではミトリが、学校ではイサラが。誰にも伝えていない第三者視点としてイノリにも護衛を頼んでいた。少し足元を見られたが、二つ返事で請け負ってくれた。

 しかし、守られる事に慣れていないサイナは若干申し訳が無さそうだった。運転を買って出たのも、何かをしていないと落ち着かないのだと睨んでいる。

「有難いって思っておけ。皆んな、サイナが心配なんだから。それと、無くすなよ」

「な、失くしませんよ!あれに、どれだけ価値があると思ってるんですか!?」

 あの宝石を渡していた―――不思議と、あれを持っている時のミトリは怪我一つしていなかった。だけど所詮はお守りだ。持っていても、持っていなくても、変わらないかもしれない。仮面の方が言った通り、お守りとはそういう物。

 モーターホームは病院の前に止まり、ハザードランプを付ける。

「到着で〜す。お気をつけて♪」

「助かった、行ってくる。帰りは迎えに行くから、待ってろよ」

「待ってますね。恋人が迎えに来てくれるって‥‥いいものですね」

 ハンドルから手を離したサイナが両手の指を合わせた。赤らめた横顔の頬が年相応の色を覗かせてくるものだから、端的に言って愛らしかった。

「帰りは俺が運転がする。助手席に慣れておけよ。後でな」

 車両から飛び降りた瞬間、肌を包む湿気が気になった。

 早朝、乗る前から気付いていたが、今日は深い曇りで空気が湿っており、あまり気候がいいとは言えない。早速、冷房の効くサイナの隣が恋しくなったが我慢しようと律する。

「では、私も病院に行って来ます。私だけなら面会可能なんですよね?」

「はい。ただし、武器の類は全て厳禁です。持ち込みはできますが、余程のことがない限り抜かないように」

「いつも通りということですね。大丈夫、少し話すだけです。終わったらロビーにいますので連絡して下さい」

 打ち合わせとも言えないルール説明を2人がしている間に、モーターホームが去っていった。サイナが心配だが、自分も人のことを言える立場じゃない。俺が狙われた可能がある以上、俺も自分の身を守らないといけない。

「そう言えば、聞いてませんでしたね」

 病院に向かっていたネガイが振り返る。

「私があなたに相棒パートナーとして申し込んだら、あなたはどうしてましたか?」

「‥‥俺の相手はサイナだ。もう、決まってた」

 正直に言う。ミトリへの初恋と同じように、サイナと組むのは最初から決まっていた気がする。最初に会った時間は、シズクとイサラが取り持ってくれた。

 それから2人きりで会って話すようになって気が付いた。サイナとなら、どんな仕事でもできる。手先でも、腕でも、財力や人脈でも、サイナなら安心して頼れる。

 これはの感情だ。

「‥‥そうですか」

「ああ、それに。ネガイは相棒じゃなくて伴侶だろう。愛してる」

「私もです。あなたをずっと愛してます」

 軽く一歩踏み出したネガイを見た瞬間、腕を広げる。広げた腕に一瞬で間を詰めたネガイが飛び込んで来る。

「私がいない時に、あなたは怪我をしますね」

 誰にも気付かれていないと思っていた――――側頭部の跡。いつの間にかハエにつけられた傷に気付いていた。髪に手を伸ばして傷を確認してくる。

 ネガイは純粋に心配してくれるのに、怖いぐらい整った顔、黄金の瞳、膨れた桃色の唇、それら全てに魅了されてしまう。ネガイと会うたびに、同じベットで起きるたびに、改めてネガイに一目惚れをしてしまう。

「俺は弱いんだ。ネガイがいないと、いつも勝てない」

「あなたが言ったことです、私はあなたの伴侶。2人で勝てばいいのです。何かあったら、呼んで下さい」

 側頭部の傷を撫でながら、片目に手が移り、名残惜しそうに指が離れていく。

「ネガイも。何かあったら呼んで。なんでもするから」

 離れていくネガイの手を掴んで、恋人の繋ぎ方をする。

「ありがとうございます‥‥。また後で」

 指を離した瞬間、影すら残さない縮地を使って去っていった。残ったのはネガイの温もりだけだった。

「あなたはこっちです」

 自然とネガイを追い掛けて、病院に向かっていく足をマトイに止められる。

「ようやく最近落ち着いてきたと思いましたが、これですか。まったく。私も構って下さい」




「法務科異端捜査課所属マトイ、並びにヒジリ。ただいま到着しました」

 マトイに誘われるままに目を閉じた瞬間、瞬きの時間で眠りの世界に導かれていた。数歩のふたりだけの時間に勤しみながら、あの裁判所のような部屋に足を踏み入れる。そして知らなかった。俺の所属は異端捜査課と言うらしい。覚えておこう。

「はぁ、知らなかったという顔ですね」

「すみません。今後、覚えておきます」

「当然です。自分の所属すら言えないオーダーなど———今はどうでもいい」

 この人も何かというと眉間に手をつける。マトイの仕草は師範から影響されたのだろう。

「マトイには、昨日の件を話しましたね?」

「それに、あいつの映像も」

「結構。無駄な時間が省けて効率的です」

 マトイの師匠は祈るように指を組んで机に肘をついた。

「質問を許可します」

「昨日はワザと逃したんですね?」

「正解です」

 嘘をつく必要がないからか、簡単に教えてくれた。逆にここまで二つ返事だと、何か企んでいるのではと勘ぐってしまう。

 マトイやこの人。今でこそ敵ではないと感じ取れるが、最初はどちらも敵だった。そして必要が有れば————俺を刺せる人物達。夢の中にいる現在、現実の肉体はマトイの手の中にある。更に言えば、法務科に預けている。殺そうと思えば――――楽に殺せるだろう。

です」

 満足気に頷いた法務科の魔女が手を差し出した。手に従って振り向くと、黒い革の2人分のソファーが用意してある。

「楽にしなさい。オーダーの関係とは、本来はそうであるべき。無条件に味方だと思わないように」

 何も言わないマトイと2人で腰をかけて体重を預ける。

「昨夜のことは褒めてあげます。私の期待通りの働きをしてくれました。瀕死のあれは、真っ直ぐに帰って行きました」

 あの程度の雑魚を追い立てただけで、褒めてくれるなら楽なものだった。

 —————けれど、続けての言葉はなかった。

「あいつの帰った場所は?」

「言えません。私達が向かいます。だから、あなた達はに、聖女の血を追いなさい」

 今回の呼び出しは『任務を忘れるな』という釘を刺す意味があったようだ。そして――――『手を出すな』という意味も。

「危険な場所なんですか‥‥。あいつが逃げた場所って」

「あなたに聞く権利はありません。他に質問は?」

 俺が行っては邪魔だ。そんな事はわかっている。この人の人形1人に勝てない俺がいても何も出来ない。体調や人間関係で左右される不安定な俺など。

「マスター、このヒジリは襲撃を受け、そして襲撃を命令した首謀者の拠点を見つける手筈まで整えました。その間、彼は何も聞かされいないのに全力で法務科のオーダーとして取り組みました。せめて一言頂けませんか?」

 法務科としての空気を纏うマトイがあの自身の師匠に物申した。

「‥‥いいでしょう。よく聞きなさい」

 高い背の持ち主が、高い位置で椅子に体重をかけて頭のヴェールを揺らす。

「場所は伝えません。私達が向かう地点はヒトガタが関係していると踏んでいます」

「‥‥あれが逃げたからって‥‥なぜ、そう言えるんですか?確かにあいつはヒトガタに命令して病院を襲わせた。だけど、あれはただ単にヒトガタを雇っただけかもしれないのに」

 あんな人種がヒトガタという種族に好んで関わるとは到底思えない。ヒトガタであるからこそわかる。あれはヒトガタを見下している。

「当該人物の衣服の変化、あれはヒトガタの技術だからです」

「‥‥あれが、ヒトガタ‥‥?」

「ヒトガタかゴーレム、もしくは新しい技術。どれにしても間違いなく、ヒトガタが関わっていると法務科は判断しました。私も同意しています」

 ヒトガタは、人間にとって便利だから人の姿をとっている。そう自動記述は言っている。

 確かに、あのスーツはゴーレムというにはだった。

 この人が行う、人形に乗り移って操作している時よりも自由に見えた。この人や総帥が使っている人形はあくまでもゴーレム。自由自在なに見えて、可動範囲は敵を攻撃する、といった短調な命令しか受け付けられていない。

 だが、あの液体は使用者の意識だけではなく、まるでOSのように液体自身が意思を持っているかに見えた。理由は、俺やネガイに使ってきた尾の一振り。では思いつかない攻撃方法。そしてではあり得ない行動を。

 まだ、それだけじゃない。切り落とした時に痛みを感じていた。身体の一部のように。

 知らないはずの身体を使えていた。あれはゴーレムじゃない。身体の一部として、受け入れていた。

「人間とヒトガタの―――」

「そこまでです。そこまでわかっているのなら、自身の任務を完遂させなさい」

 人間とヒトガタの融合。そう言おうとした瞬間。後ろから人形に口を抑えられる。

 聖女と処女の血は良かった。そう言っていたはずだ。簡単な話だった。あいつは―――を身体に取り込んだ。スーツからだと思っていたあの液体は、自身から流れていた。抑えられた口が離された時、大きく息を吸う。

「‥‥血の聖女を抑えます」

「結構」

「そして俺からも話があります。マトイも聞いてくれ」

 ソファーから立ち上がって、一歩前に出る。

「あの方から話を聞いてきました」

「話しなさい」

「あのハエは血を使ってどこかと交信。とやらを呼ぶ出そうとしたようですが失敗しました。でも、あの言い方だと、あの男は、それに気付いていないようでした。‥‥多分、呼び出す筈の神の姿を、そもそも―――」

「勘では無いにしても、見た目が似ている存在を間違えて呼び出した。こうですね?」

 この話をある程度予測していたらしく、自らの答えと合わせているようだった。

 カレンを誘拐した宗教家達と、あいつとの繋がりはわからない。だけど似た間違いを犯したようだった。

 カレンは、自分達の崇める偶像と似た見た目に変装してワザと捕まった。自分達の求める機能を、カレンが持っていると勘違いした。そして、あいつも間違えた。

 呼び出そうとしたが、ただ見た目が似ているだけの雑魚を呼び出してしまった。

 そもそも呼び出そうとした存在の特徴すら、ロクに知らなかったのだったから、失敗して当然なのかもしれない。

「‥‥わかりました。他には?」

 聞きながら更に椅子に体重をかけて、肘掛けに腕を置いた。やけに疲れているようだ。

「同じ見た目の物には、同じ価値を求める。人間は自分の願望を押し付けるって」

「‥‥彼女は、今どこに?」

「彼女?」

「サイナという子です」

「今は‥‥オーダー校の工房にいる筈です」

「都合がいいですね。私も彼女を監視します。以上です、下がりなさい」

 流れるように命令された。振り返ってマトイに確認を取ろうとするが、彼女は今も法務科の顔を浮かべている。法務科からの命令に付き従うマトイは、「行きましょう」と、すぐさま立ち上がってを引いてくる。どうやら、やるべきが決まったらしい。

 だけど、がある。

「いや、待った。まだ話がある」

「私も暇ではありません。時間をかけないように」

 ドルイダスも、もう自分の用は無いと言った感じに椅子から立ち上がる。マトイとドルイダスから抗い難い空気を感じる。遊びが無い、ただ法務科の任務の為だけの歯車。親子や姉妹と言うよりも、鏡写しのようだった。

「――――を認めてくれて、ありがとうございます。俺、マトイの為に生きます」

 目隠し越しの紫が見開かれた。 

 その瞬間。後ろのマトイに飛び付かれ床に倒される。

「‥‥ごめんなさい、私、忘れていました。そうですね、これは最初の挨拶だったのに―――あなたの事‥‥」

「大丈夫、勝手に始めてごめん。でも早いなら早いだけ良いって思って。また、泣かしちゃったな」

 頬の涙を指で拭いながら声をかけると、普段はしない涙を浮かべながらの満面の笑みで応えてくれる。

「いいえ、いいえ!私、嬉しいんです。やっと、私達‥‥」

「俺はマトイの恋人になれたんだ」

 目の前の師匠には目もくれず胸の中で泣いてしまう。普段は決して折れない刀剣のような美しさと妖艶さを持ち合わせる彼女だと言うのに、今は儚くて脆い少女の顔を浮かている。

「私、伴侶になれましたか?」

「ずっと前からそうだろう。‥‥愛してる」

「私も‥‥」

 倒れたままで抱き合っていると、床の大理石の冷たさも気にならなかった。

 だが、マトイと分かち合っている体温を差し引いてもなお、徐々に徐々に床と部屋全体が冷たくなっていくのがわかる。きっと実際の温度は変わらない。でも、確かに背骨が凍り付いていく感覚を覚えていく――――。

「マトイ」

「‥‥はい。大丈夫、もう泣き止みましたから」

 涙を拭きながら笑みを浮かべた。

「立てるか?」

「立って?」

 上にいるマトイは気付かないらしい。周りの人形達と、ドルイダス本人が近付いてきていることに。

「マトイ、俺は、マトイの為なら死ねる」

「そんな事言わないで‥‥私はもっとあなた一緒にいたいのに‥‥」

「俺もだ。俺も、もっとマトイと一緒にいたい。だから早く起きた方が良さそうだッ!!」

 マトイを抱き抱えて、突き刺すように下されてくる黄金の槍を蹴り弾く。

「チッ!!忌々しい!」

 人形ではなく、突き刺そうとしてきた本人が舌打ちをする。

 槍を蹴り飛ばした勢いを使って、人形達の足やローブを縫うように滑って逃げる。

 勢いが死ぬ前にマトイを抱き上げながら起き上がると、マトイも首に手を回して楽に起き上がる手伝いをしてくれるが、決して降りる気はないらしく鎖骨に口をつけをしてくる。

「目覚めの補助をしようとしているのに、なぜ逃げるのです!?」

「死ぬ方にも権利があります!!」

「あなたは私の物です!私の好きに砕かせなさい!!」

 いつもの余裕は完全に消え去った。黄金の槍を投げ捨てて、人形に渡された黄金の剣を両手に持ち上げる。人間の持てる殺気でも重量でもなかった。

 巨人が身構えた、圧倒的な威圧感を受ける。

「マトイ‥‥」

「頑張って応援しています」

 鎖骨から首に舌が這わされる度、背筋が震えていく程にマトイが欲しくなる。

「舐められるのが好きですね‥‥。それに、縛られるのも‥‥」

「舐める?縛る?」

 頭をヴェールを取り去り、長い黒髪を晒す。

「そうですよ、マスター。この人は縛られるのが、好きで好きで、夢の中でなければ跡が付くぐらいの―――」

「首を出しなさい!!」

「ああ、そうでした。首を絞められてするのも、好きでしたね」

 一昨日の夜を思い出して、悶え楽しんでいるマトイは戦力外だ。この部屋には、もう何度か来ているからわかる。この部屋から逃げるには死ぬしかないと。

 自力で死ぬか、殺されるかをしなければならない。アルマや総帥の夢との違いはわからないが、この人の夢も、『仮面の方』の夢と同じく死なないと出られない。

「大人しくしなさい。痛いのが好きなのでしょう?」

「好きなわけじゃない!!」

「嘘ですよ。だって、どんなにキツく縛っても‥‥真っ白になるぐらいに‥‥」

 ダメだ。色情魔にでも憑かれたマトイが三日月の夜を暴露していく。そして、その度にドルイダスが無表情になっていく。

「もう結構。マトイの夢はどうでしたか?」

「‥‥どうって‥‥」

 滑るように、迫り来る白いローブの裾や長い黒髪、それに黄金の剣が煌びやかに煌めく。

「夢での時間はそれはそれは楽しいでしょう。何もかもが夢なのだから、全てが行える」

「はい、なんでもしましたね。‥‥どこででも、しましたね‥‥」

「もういいマトイ!止まれ!」

 いつの間にか壁代わりのカーテンの裏から幾体もの人形が現れて、逃げ場を奪っていた。

「あなた達の関係を止める程、私も話がわからない訳ではありません。ですが」

 ドルイダスの目隠しを人形が外し、黄金の剣の切っ先を向けてくる。

「爛れた無責任な関係は許せません。夢での体験は、そのまま精神に焼き付く。現実の肉体には影響がないからと言って、何もかもが許されるとは思わないように、夢の恐ろしさ、ここで刻んであげましょう‥‥。マトイ!離れなさい、その男には自分の責任を」

 急に正気に戻ったように、マトイが発言する。

「このヒジリは夢の中でも節度を持っていました。決して乱暴しないで、私に対しては現実と同じ接触をしてくれました。初めての経験をこの方と出来て、私は幸せでした」

 首に回している手で肩を叩いてくる。静かに下ろし、2人でドルイダスを見詰める。

「このマトイ、人を見る目はマスター譲りと自負しています。彼は化け物ですけどね。マスターも、彼が気に入ったからここに何度も通している、違いますか?」

「法務科の上司として、ここに通しているに過ぎません。それ以上の意味はありません」

「しかし、それ以外の意味はお有りでしょう?」

「‥‥何が言いたいのですか、マトイ」

「マスター、あなたは夢にを通す事すら嫌っていましたね。気付いていないとお思いでしたか?そして、彼を通す意味も―――」

 黄金の剣を向けたままのドルイダスへと、マトイに手を引かれる。

「私、嬉しかったのですよ。マスターが人形とはいえ、外で歩いていると知って」

「話しましたね」

「すみません‥‥」

 溜め息をついたドルイダスは黄金の剣を後ろの人形に渡し、元いた椅子に戻って行った。

「座りなさい。手荒なマネをした事、謝罪します」

「さぁ、座りましょう。私のマスターは優しいって知っているでしょう?」

「‥‥わかった」

 先ほどの殺気が嘘のように鎮まった空間で、手を引かれたままにソファーへと戻る。

「マトイとの関係を今更とやかく言う気はありません。しかし、だからと言って何もかもを許す気はありません」

 目隠しはしないままでヴァイオレットの眼球を向けられる。まだ二回しか見ていないが、やはり美しい。瞳を中心点に筋が伸びて、眼球にいくつもの部屋を作っている。その上、部屋の中にアメジストを欠片を流し込んだような輝きを放っている。

「‥‥覚えておきます。絶対にマトイを、二度と傷付けたりしません」

「言い切れますか?」

「言い切れます」

 顔に掛かる前髪を掻き上げて、人形に持たせていたヴェールで髪を纏める。

「マトイはあなたを襲い、傷付け、殺した。何度もあなたを騙し、苦しめた。法務科のイミナとして断言します。マトイはこれからもあなたを傷付ける。そして、それが法務科の任務として行われる可能もある。それでもあなたはマトイを信じますか?」

「俺もオーダーです。それに、俺は人間じゃない」

 マトイは法務科のオーダー。

 いつ行方不明になるかも、いつ過去の人になるかもわからない、あの法務科の。

「人間にとっては、マトイはように見えるかもしれません。だけど、マトイは俺の為に血を流してくれました。マトイは俺を信じて自分の血肉をくれました」

 隣のマトイの手を握って、呼吸を合わせる。

「人間にはわからないかもしれませんが、マトイは俺を傷付けた事は、。後は俺が勝手に苦しんでいただけです」

 マトイは一度ネガイを襲い、傷付けた。苦しかった何もできない自分は、自分で自分を傷付けながらネガイを救う事しか出来なかった。

「だから俺はマトイの事を信じられます。マトイが俺を愛してくれるように、俺はマトイを愛しています」

「何も考えていないのですね―――やはり化け物」

「ありがとうございます。俺を、人間って呼ばないでくれて」

「‥‥そう。立ちなさい」

 今度はこちらからマトイの手を引いて立ち上がる。

「マトイには、人間では不釣り合いだと思っていた所です」

「俺は人間ではありません」

「そのようですね」

 意味もなく髪のヴェールに触れた、そう思ったがそれは違った。自然と零れてしまった――――笑顔を隠したのだとわかった時、あまりの美しさに心が揺れ動いた。

「マトイ、私が言った事を忘れていませんね?」

「彼が許すまで側にいます」

「それは変えなさい」

「では、どうしろと?」

「好きにしなさい」

「はい、好きにします」

 顔を伏せて大きな溜め息を付いた。だが上げた瞳には、呆れの色と共に興味深いものを見るような色が混ざっていた。諦めた、そういうべき感情なのだろう。

「マトイを守りなさい。そして、マトイのわがままにも付き合いなさい。私だけでは手が足りません」

「喜んで。次、来るときはケーキを持ってきます。その代わりに」

「代わりに?」

「寝かせて下さい。さん」

「‥‥ふふ、私を口説きますか。その時は膝を貸しましょう。以上です。死になさい」

 魔眼を使い、身体を縫い止められる。動けない無防備な背中を貫通した黄金の剣が胸から生えてきた。



「バイクが恋しいですね」

「いいのか?かなり暑いぞ」

「風を切って走る感覚は好きでした。あの風が懐かしいです」

 マトイとは行政区で別れ、ネガイとバスに乗っていた。

「なら、いい加減買うか」

 ずっと悩んでいたが、やはり1000cc以上と決めた。

 そして長時間の運転にはシートの厚みが必要となる。硬過ぎても柔らか過ぎても腰に負担をかける。最低条件としてダンデムシートが必要となる。ネガイには出来る限り快適な時間を楽しんで貰いたい。

 また絶対条件としてタンク容量だ。20L近く有れば東京中なら一度も給油しないで済む。

 安定した力強いトルクが必須条件なので、選べるバイクは大型の1000㏄となる。

 デザインは運転席を守るツアラータイプ一択だ。絶対に事故は起こしてはいけないが、もしもの時の為、これ以外選べない。

 その場合、ninjaやGSX、もしくはヴェルシス。どうしたものか?

「どうしました?」

「ん?費用は、どうしようかって思って」

「バイクって、そんな高いんですか?あなたの口座には、もう1000万近くありますよ」

「‥‥え?」

「知らないんですか?法務科の仕事の入金に、度々サイナがやっている商品開発の初期投資の配当金とかです」

「人の口座で空売りでもしてるのか?なんでネガイが知ってるんだ?」

「サイナから習ったからです」

 ネガイなら俺が怒れないとわかって教えたのか。説教が必要だ。

「勝手に使えない。まぁ、元々サイナに相談する予定だったし、いいか。因みにだけど、1番預金が多かった時って、幾ら?」

 なんとなく気になった。空売りなんかしてるんだ。確実に、1000万以上の額が俺の口座を常に流れているのだろう。

 今はたまたま1000万が可視化できているが、それも一時的に違いない。確実に数日経ったら、目減りしているだろう。

「1000万よりも上に行った事も下回った事も無い筈です。サイナもそう言ってました」

「‥‥恐ろしい奴を相棒にしたな」

 心底そう思う。金を握られているということは、その気になればサイナは俺を干上がらせることが可能となる。

「前から気になってましたが、お金、そんなに使わないんですね」

「そもそも使える金が無かったからな。まぁ、それでももしもの時にって思って貯め込んでたから」

 1年分の授業料は、決して安くない。

 事実上、授業料はオーダーを続ける為のに近い。

「でも、最近の高い買い物って言ったら、ホーネットだ」

「もうんですよね?良かったんですか?」

「気に入ってたけど、そんなもんだよ。あれも元々は別人が乗ってたんだし、また別のオーダーが乗るだけだ」

「‥‥愛着とは違うんですね。‥‥不思議です、なんとなくわかる気がします」

 つり革を掴んでいるネガイが、窓からオーダー街を眺めた。思い当たる節があるのか、無表情の中で何かを思い出しているように見えた。

 横顔だけでわかる―――ネガイの人離れした容姿が頭へと刻み込まれていくのを。

 髪や目の色、そして立ち振る舞い。それらで構成されるネガイという麗人が、脳が求めている。

 ネガイの血にも、貴き者の血が混じっている可能性があるらしい。

 人外めいた――――違う、人間では得られない美貌を持っているネガイの、ただ隣にいるだけで、心が静けさを保ってくれる。

 美とは暴力だ。圧倒的な格上の力の持ち主の前では、誰もが跪く。

 自分も、その1人だった。

「病院ではどうだった?少し話せたか?」

「はい。三人と話してきました。三人とも落ち着いている様子でしたよ。私達があれを追跡し排除したので病院側も厳戒態勢を解いた様子でしたから」

「‥‥そう、だろうな」

「あなたの事も聞きました。私とあなたの関係を知っていると言う医者に謝罪されました」

 律儀だ――――同時に理解した。

 俺に言うことを聞かせられるのは、恋人達だけという噂が浸透しているのを。

「あの病院も、所詮はオーダーのいち組織だ。職員の心情なんて露とも思ってない。それに患者の事も」

「私も、そう思いました。何かあった時の為ののような気がしました」

 ネガイの観点は正しい。いっそ冷酷なまでに、あの医者の立ち位置を見抜いている。

「あの先生も、オーダーだからな。必要があれば、また患者を売る。‥‥仕方ないって、言えば仕方ないけど」

 勝手に歩き回ってこそいたが、血塗れで死にかけていた数日後の俺にカエルを差し向けた。あの病院は面会謝絶という概念など、持ち合わせていないらしい。

「あの病院には、二度と入院したくない」

「しない―――ではないんですね。嫌いなのに、どうしてですか?」

「あれでも一時は俺を受け入れて守ってくれたから。恩義が無い訳じゃない。‥‥入院するような怪我をしなければ良いだけか」

「そうですね。後もう一つ。ソソギとも話してきました」

 一瞬だけ目を閉じたネガイが、空気を変えるように声色を変えて切り出した。

「こちらは、今のところ何もないから安心して良いと。それから、イネスの移送先は私もわからない、だから今度はイネスを迎えに行って、との事です」

「どんな様子だった?」

「嘘をついている様子はありませんでした。だけど、様子はありました」

 ソソギも、何かを天秤にかけると決めたらしい。信用する相手を測り始めたようだ。

「そう言えば、ネガイは何を話しに行ったんだ?」

「‥‥少し気になったことがあったので‥‥についてです」

「決めたのか?」

「話を聞いただけです。それに、どうやら査問学科は私には合いそうに無いです。ソソギもそうだったようで、いつも一人で捜査していたと。‥‥査問学科とは、法務科への最短ルートらしいですが、やることは結局、集団での役割分担。集団での行動は嫌いです」

 ソソギもそういった毛色の持ち主だとは思っていたが、あの査問学科でも孤立しているとは。エリート過ぎるというのも疲れるのだろう。

「ソソギのことはどうだ?一緒に仕事はできそうか?」

「はい。身のこなしでわかります。ソソギは信用できます」

「なら、それでいいんじゃないか。査問学科に入るかどうかは置いといて、ソソギと仕事をして査問学科ってどんな場所か考えれば」

「‥‥そうですね。すみません、私、焦っていたのかもしれません」

「大丈夫。ネガイなら望めば査問学科からスカウトが来るだろうし、別に兼科とか転科を絶対しないといけない訳じゃない」

 初仕事を通して、数日しか経ってないネガイも色々と思うところがあったのかもしれない。焦燥感と使命感を持ち合わせた結果、何かしなければと突き動かされた様だ。

「査問学科の授業を何度か取ったことはあっても、仕事をしたことは無かったので、興味はありました。でも‥‥はい、まずは普通の仕事に慣れてから決めてみます。マトイとも、あなたとも色んな仕事をしてみたいです。付き合ってくれますか?」

 つり革を掴んでいない手を、不安気に掴み確認を取ってくる。

「許可なんて取らなくていい。俺も、ネガイと一緒にいたい。幾らでも誘ってくれ」

 満足気に微笑んでくれる。

 細められた目元、微かに色付いている頬、そして手の脈動。全てが頭を蕩してくる。ネガイという概念は、俺の心に深く巣食っている。

 まごうことなく暴力だ。間違いなく傷痕だ。決して癒せぬ、二度と治せぬ不治の病。灰色の脳細胞ならぬ、灰色の髪で俺の心を暴いてくる。

「ん?」

「どうしました?」

「‥‥チャットだ。邪魔しやがって、折角のネガイとの時間なのに―――シズクか」

 スマホをポケットから出して、届いたメッセージを確認すと、「周りを見て」と一言。なんの話だ?と首を捻っていると、ネガイが手を引いてくる。

「‥‥見られてますね」

「あー‥‥そういう事か」

 。俺とネガイは、混んでいるから立っていたのだと。

 隣や後ろ、目の前の座席からも、もはや面白い物を見るような目付きじゃない、何故か、哀れな物を見るような視線を感じる。軽く視線を逸らして、後ろの座席に目線を移すと、目を合わせないようにしているシズクがいた。



「少しは周りの反応に気を配って、節度を持てば?」

 前にリュックサックを抱えたシズクが、再度注意してくる。

「最初の内はさ、皆んな面白がってたけど、途中から呆れてたよ」

 階段を降り、工場棟地下の工房区画に張り巡らされている廊下を歩く。

 階段なのは普通のエレベーターは混み合って乗れなかったから。他にも資材用エレベーターでも工房に入れるが、乗り心地が良くない。地面に鉄板でも敷いているのか?と思う程に振動を直接伝えてくる。乗ればわかる、あれは何度も乗っていると、感覚が麻痺して歩き方がしばらくおかしくなる。

「ねぇ、聞いてるの!?」

「ああ、聞いてる聞いてる。慎みを持つなり、場所を選ぶなりすればいいんだろう」

「‥‥そうだけど、それは今でもあるからね」

 今もネガイと手と繋いでいる事を言っているらしいが、従う気は無い。

 浅い区間である地下一階に行くのなら階段で充分。それより下は、工房主の同伴が必要となる。つまりはサイナとシズクのような人間が必要。

 だが、サイナの工房は地下一階の誰でも自由に入れる場所にある為、一々許可を取る必要もない。

「シズク、その荷物は何ですか?すごく重そうですが」

「これ?うーん、今度使う機材、って感じかな?詳しくは言えないの。ごめんね」

「いいえ、気にしないでください」

「‥‥手伝って欲しい仕事って」

「覚えといてね。近く、手伝って貰うから」

 シズクの専門は、本来オペレーション。複雑に入り組んだ建物の案内を迷いなく指示して、目的地、脱出口に導く事が仕事と言える。

 オペレーションに必要なのは、空間認識能力。地図だけで、段差や階段、扉に人員、それらを全て見抜き、第三者の視点で潜入班に現場を報告しなければならない。ただ、同時に冷静さも併せ持つ必要があるのに、シズクはそこが‥‥。

「大丈夫、もう何度もシミュレーションしてるから。失敗なんかしないしない」

「‥‥信用してるぞ」

「疑ってるね!なら、その時が来たら見せてあげる。私がどれだけ凄いのかって」

 跳ねるように一歩前に出て、振り返ってくる。リュックサックを抱えたままで、口角を上げてくる。

「じゃあ、私はここで。仕事があったら誘ってね」

「はい。頼りにしてます」

「ありがとう、後、美味しく食べるね」

 ネガイと軽く挨拶をしたシズクは、工房の一室に入っていった。

「シズクも工房を持っているんですね」

「ああ、俺とかミトリが使ったヘッドセットも、ここで造ったみたいだ」

 手先が器用で、頭が良い。しかもそれを使って法の縛りを一部無視して金を稼げる。シズクという技術者にとって、オーダーとは天職なのかもしれない。

「シズクは―――」

「聞かないでやってくれ。アイツは家族と話し合ってここに来た。だけどシズクにとっても、ここに来たのは望む所じゃない。シズクにとっても、オーダーは居場所なんだ。向こうが話すまで、放って置いてやってくれ」

「‥‥そうします」

 シズクは捨てられた訳じゃない。だから―――アイツは望んでここに来た。

 

「シズクはいい人です」

 止まっていた歩みを再開しながら、ネガイが話しかけてくる。

「相談に乗ってくれたのは、チョコレートのことだけじゃないんです。情報科やゲームの事、それにあなたの事についても。シズクにはお世話になっています」

「‥‥いい友達だな」

「はい。初めて自分から話しかけて作った、友達です」

 詳しくは聞いていないが、ミトリとの関係はミトリから話しかけてきた事で始まったらしい。

「次の依頼には、私も参加します。シズクとも一緒に仕事をしてみたいです」

「なら、そう伝えておかないと。きっと喜んでくれるぞ」

 少しずつ、少しずつだが、ネガイが自分の世界を広げている。だったら俺も、自分の世界を広げる努力をしなければならない。

 ネガイの望みは外の世界を知る事。俺はそんなネガイに外を教えたい。ならば、俺も外を知っておかねば、ネガイを案内出来ない。




「今日はどうだった?」

「平和でしたよ〜♪」

 工房に入ってみたら、ミトリから代わったイサラとサイナが工房で寛いでいた。

「ミトリと一緒に監視してる時も、何もなかったから、現在報告する事はないかな?」

 イサラはソファーに座り自慢のボウイナイフを布で拭いて、水分や油分を取っている様子だった。依頼通り、サイナの警護をしていてくれた。

「言いつけ通り、ずっとここにいましたよ~。それに外に用がある時は、絶対に一人にはなりませんでした。褒めて下さ〜い♪」

 作業台近くの椅子に座っているサイナが両手を振ってアピールしてくる。その幼くて可愛らしい仕草に、心を奪われてしまい、つい笑いかけてしまう。

「ありがとう、俺のわがままを聞いてくれて。暇じゃなかったか?—―――これ」

 今日買ってきたのは、一つ一つ袋詰めされたシュークリームだった。最近、甘い物ばかり食べている。

「待ってました♪」

 薄いタイツのような指先を持つ手袋を外して、受け取ったシュークリームの袋を開け始める。

「イサラにも」

「ありがと。言ってなかったけど、シュークリーム、好きなんだ。本当だよ」

 サイナに渡し、ソファーで寛いで刃を整えていたイサラに渡す。次にネガイ。

「イサラ、少しだけ質問があります。いいですか?」

「勿論いいよ。何何?ヒジリの失敗でも聞く?」

「はい。聞きたいです」

 恐らくは制圧科の話を聞きたかった筈なのに、イサラの言葉巧みに誘導されている。

「嘘は教えるなよ。そっちの失敗も話すからな」

「大丈夫大丈夫。私、嘘は言わないから」

 オーダーらしい事を言われてしまい、止めるに止められなくなった。

 諦めると同時に、サイナの耳元に近寄ると、口元を猫のように上げた工房主が甘い香りのする髪をかき上げて、耳を晒してくれた。

「‥‥悪い、サイナも話を聞いててくれ。学科の話を聞きたいらしい」

「お任せを♪あなたは?」

「ちょっと廊下で電話して来る。外にいるから、何かあったら教えてくれ」

「そこまで、をされなくても‥‥。いいえ、ありがとうございます。頼りにしてますね♪」

 シュークリームを片手に、サイナは2人の会話に入っていく。微笑ましい光景ではあるが、こちらにはやる事がある。

 扉を開けて、廊下に出ると、

「問題は?」

「追って来る車も、人影も無し。後、指定通りに上も見張ったけど、問題無し。盗聴の類もオールクリア。報告書いる?」

「いいや、大丈夫。朝から悪いな。ずっと付けてもらって。前金だ、食べるか?」

「‥‥貰っとく」

 報告を済ませたくれたイノリに、袋を渡す。

「まさか私に、尾行を頼むなんてね。私の専門は潜入なんだけど」

 部屋の中から笑い声や、歓声が沸く。何を話せばあんなに盛り上がるのだろうか。

「それと、言われた通りサイナの様子も探ったけど、ずっとあんな感じ。多分気付かれてないから、演技って事は無いと思う」

 シュークリームを食べながら、知らせてくれる。

「あんた自身の目から見て、どう見える?何か違ってたりとか」

「‥‥警戒はしてるみたいだ。守って欲しいみたいだった」

 俺は―――と言ったのに、サイナは外で警護だと思った。勘でしかないようだが、何かが迫っていると感じているのかもしれない。

「守るのは自分でしなさいよ。私は、監視に徹するから」

「任せた。それと、紫の目の生徒、知らないか?」

「何?また口説く相手でも、見つけたの?」

「その生徒もサイナを監視するって言ったんだ。‥‥信頼はできるけど、何か気になる動きをしたら、報告してくれ」

「‥‥紫の目ねぇ。見たことないけど、了解。追加で払って貰うから」

「好きにしていいぞ」

 少なくとも口座に1000万はある。多少減っても、サイナもネガイも、気にも留めないだろう。

「でさ、空から襲われる可能性って何?ドローンでも飛んでくるの?」

 口周りのクリームを舐めとって聞いてくる。

「あー、なんて言うんだろう」

 あれを言葉で伝えるには、なんと言うのが最適か。

?」

「はいはい、わかった。言えないのね」

「嘘じゃないからな」

 信じてないと言った風に一蹴し、シュークリームに戻っていった。嘘ではないのだが、あの映像を見せていい許可を取っていない。

「あんたも大変ね。病院での襲撃、巻き込まれたんでしょう?それともあんた狙い?」

「‥‥否定はしない。だけど、肯定もしない。想像に任せる」

「あ、そう」

 どう受け取ったか知らないが、俺絡みだとわかったらしい。

「‥‥どこか、隠れられる場所とか、無いの?」

 シュークリームを食べ終わり、残った袋を向いの壁にあるゴミ箱に入れた。そのまま、こちらを見た状態で壁に寄りかかる。

「少し前、私が針で治した傷なんて、整形手術でもしないと治らないんでしょう?」

「‥‥まぁな」

「病院で何してたか聞かないけど、治療部のやってる施設を襲うって、よっぽどよ。相手はそんなに大きいの?」

「‥‥言えない」

 つい、下を向いてしまう。

「いくらあんたが法務科でも、死ぬ時は死ぬのに、そんな相手とやり合わないといけない?もう、どこかに隠れれば?」

 イノリが言っていることは正しい。相手は一時、日本を牛耳っていた人間の血縁者だ。敵として、これ以上無いほど大きな血。

 日本の中でなら意図的に大きな影響を及ぼせる存在。それは自然現象を自在に起こせる神の一種とさえ言えるのかもしれない。

 どこかに隠れて過ぎ去るを待つのが、賢い選択―――だが、それは散々、自称神達の使った卑怯な真似だった。

「どこかって、例えばどこだ?」

「‥‥私と一緒に来る?」

「イノリと?」

「何、不満?」

 手を後ろで組んだイノリが、睨みつけてくる。膝を突き出すような仕草のせいで、スカートが少しめくれた。

「私となら、どこへでも逃げられるし、隠れられる。‥‥それに、好きなだけ一緒にいれる‥‥悪い話じゃない、よね‥‥?」

 前屈みになりがら、頬を染めて聞いてくる。

「た、例えばさ。オーダーから少し離れて‥‥家族のフリとかしてさ‥‥、それで、その‥‥本当の‥‥」

「‥‥悪い。出来ない」

 イノリとの生活は、きっと楽しい。2人で生活をしたら、そのままずっと平和にいられるかもしれない―――だけど、俺は

「‥‥そう、そっか‥‥。何本気にしてんの、冗談に決まってんじゃん」

 今度は不機嫌そうに目線を外してくる。

「俺がいなくなったら、サイナが狙われて、サイナを守れる奴がいなくなる。俺はここでサイナを守らないといけない」

 あのハエはまた来る。俺かイネスの所には勿論。その上、確実にサイナを狙いに来る。また、とわかる。

 だったらその時、俺は絶対にサイナの隣にいないといけない。サイナと一緒に、あのハエを、壊さないといけない。

「ネガイともいたい。悪い、俺はここでやることがあるんだ。いないと、いけないんだ」

「ふーん、そっか。いいんじゃない、それで。うん、サイナっていい子だし」

「サイナと話してたな。いい子だろう?」

「‥‥知ってる。あんたが寝てる時とか、話してくれたから。あんたの事とかも‥‥」

「何話したんだよ?」

「なんでもいいでしょう。それで、あんたはどうするの?」

 前屈み気味だったイノリは、背筋を伸ばして聞き返してくる。

「変わらない。俺はここでサイナを守る。サイナは俺の相棒だ。俺はサイナの隣にいたい」

「‥‥勝手にすれば」

 向いにいたイノリが、足音を立てて隣に戻ってくる。

「こっち向いて。渡す物がある」

「なんだ?」

 見上げてくるイノリの指示に従って、顔を真っ直ぐに向ける。その時、ネクタイを引っ張られた。

 甘い。イノリが甘いのか、クリームが甘いのかはわからない。でも、人越しのクリームが癖になりそうだった。されるがままで、呆然としていると、最後にイノリは舌を軽く舐めとってから口を離した。

「‥‥何か言うことは?」

「甘かった‥‥」

「バカ‥‥」

「イノリの側にもいたい、でも、」

「今はサイナなのね。‥‥またね」




「面白そうですね。武器のレビューですか」

「はい、しっかりと使用感覚のメリットデメリットをレポートすれば、場合によっても永久的な貸し出しも可能となるそうですよ♪オーダー製は基本的に高いので、今回みたいにリースかレンタルでもしないと、お試しでは使えないんです。どうですか♪」

「‥‥試してみたいです。いいですか?」

「勿論♪」

 防弾服を例外にすれば、オーダー製の武器や車両は基本的に高い。

 材料費を完全度外視したような価格で買い、全てをオーダーという行政が開発、商品化している。よって信頼性こそあるが、消費者であるオーダーのことは何も考えていない額を押し付けてくる。

「俺にも見せてくれ」

 ソファーでひとり寛ぐイサラへと声を掛けると「ん?はい」とタブレットを渡される。そのままイサラの隣へ座り、改めて眼前の二人の様子を探った。ネガイとサイナは丸椅子に座って2人で一つのタブレットを操作している。意外と乗り気なネガイに、サイナは色々と勧めていく。

「コルセットみたいですね」

「見た目はそうですね♪が、しか〜し、これは重量300gで大半のマグナムの貫通を防ぐのは勿論、衝撃をも防ぎきります」

「‥‥欲しいですが、意味が無いですね。私なら避けられます」

「本当ですか?これを見ても?」

「‥‥これ、買えますか?」

 一体何を見せたのだろう、レンタルどころか買うと言い始めた。それほど目を奪われるデザインをしているのだろうか?センスの悪さには定評のあるオーダー製への勢いとは思えない程、ネガイはタブレットを操作して詳細を眺めていく。試しに、隣のイサラへも意識を伺う。

「イサラも何か借りたい物とかあるのか?」

「ブレン•テン」

「10mm弾だろう、似た物なら探せばあるんじゃないか?‥‥悪かったよ。どうにか探し出すから」

「期待して待っててあげるね」

 盗人猛々しいとは、この事かもしれない。破壊したのは確かに自分であるが、襲撃してきたのはイサラである。だというのに、この満面の笑みには少しばかり不満であった。しかし、同時に若干やり過ぎたとは感じていた。罪悪感にも届かないまでも胸に残る微かな爪痕に、一抹の申し訳なさを抱いていた。

「急がないでいいよー。そっちは何かあるの?」

「あー、取り敢えず見て考えるか」

 オーダーからの事務的なニュースメールには、商品名称に用途、それと写真が数枚、後は希望小価格が書いてある。だけだった。

「‥‥宣伝下手だな」

「広報のセンスが無いんだろうねぇー。あ、でも、オーダー省からの命令でしょう、下手な宣伝したら怒られるんじゃない?」

「役人のつらいところだな。頭の出来とセンスの良し悪しは関係ないなんて」

 適当にスクロールしていくが、正直めぼしいものはない。そもそも欲しい物が無い、という点がある。

 現在、防護服、拳銃、刀剣、薬などは満ち足りている。強いて言えば、スマホといった情報機器だが、それもシズクから借りてしまえば良い為、切迫して欲しい物はない。

「‥‥なんか、つまんない?」

「かもな。今んところ欲しいのも無いし。ブレン•テン以外に何か無いのか?」

「んーと、私はこれかな?」

 タブレットを奪い操作するイサラの姿からは自慢の一品でもあるかの様だった。口元に残るクリームを舐め取りながら、迷い無くすらすらと画面に指を走らせ「これこれ」と見せつける。

「車両?車も貸すのか?」

 映し出したのは車両の一覧だった。基本は装甲車だが、デザインに凝ったセダンタイプの車両も用意されていた。得意気に見せたにしては、普通のチョイスに顔色を確認すると、尚もイサラは強気な笑みを崩さなかった。

「車の貸し出しなんて普通だよ――――もね」

「ちょっと、見せてくれ」

「ふふん、興味持った?」

「いいから」

 今度はこちらからタブレットを奪い、画面上方のメニューを開く。サイナのモーターホームにも匹敵する車両から、二人乗りを念頭に置いたスポーツタイプ。多くの補助器官が搭載された多目的バスなど、一般ではまず目に出来ない支援用車両が踊っていた。その中でも、とりわけ自分の目を惹かせる車体が黒く輝いていた。純銀のエンジンを囲う黒のボディーに巨大な眼球、眩く輝く排熱器官はまるで牙だった。

 巨大なタイヤからは強者の威圧感すら覚える。おおよそ、現行の単車の中でも紛れもなく異端な生まれを誇る、怪物がいた。

「‥‥ラムレイ」

 オーダー製のオートバイ。オーダーにも許される、オーダーしか跨がれない合金の怪物だった。

「どう?」

「‥‥いいな―――現物が無いから、なんとも言えないけど‥‥か」

「そう、4気筒。どっちがいい?」

「‥‥迷う所だけど、並列だな」

「へぇー以外。V型って言うと思った。いいの?2種類あるから、どっちでも選べるのに」

 4気筒には2種ある。並列とV型。単純にパワーが出るのはV型でありトルクも安定して、ハンドリンクの取り扱いは楽かもしれない。けれど、サウンドが俺の好みじゃない。パルス感も、車種によって変わり、若干だが、じゃじゃ馬感が生まれる。そういった暴れ馬は、もう求めていなかった。

「素直に言うことを聞いてくれるバイクが欲しいんだ。もう、1人で乗る訳じゃないから」

 並列4気筒は無個性だと言われている。だけど、それこそが個性だと自分は知っていた。安定したスムーズなトルク、回転が上昇するに当たり、強力なパワーを期待できる。

 力だけで言えば、V型にも負けていない。その上、良いデザインだ。服についてはドラムと言わざるを得ないが、このオートバイのデザインには本職を雇った趣きを感じる。YAMAHAの流れを汲んでいるのか、2つのヘッドライトがいい面構えをしている。鋭い目が睨みつけ、鳥肌を立たせる。

「ツアラーで1300ccか。いいぞ、欲しい。おお、専用のダンデムシート付きで30Lときた――――

 結局俺もネガイと同じことを言ってしまった。

「レンタルじゃないんだ。やっぱ、法務科ってそんな稼げるの?」

「毎回死んでるけど」

 冗談じゃない冗談を言って、「え、死ぬって?」と軽くイサラを混乱させる。今はイサラよりも気になる項目があった────0の連続の始まり、つまりは価格を確認する。

「500万。買うか」

「買うの!?」

「ネガイ、サイナ〜、買っていい?」

 ソファーから立ち上がって2人の膝にしなだれると、何か買ったらしいネガイが機嫌良く頭を撫でてくれる。顔を見上げて顔色を伺い、この好機を逃す手はないと決断する。

「どうしました。何か欲しい物がありましたか?」

「これが欲しい」

 受け取ったタブレットを眺めるネガイだが、価格はわかるがエンジンやタイヤと言った専門分野の何処を見ればいいか、わからないらしく、サイナに回して頭を撫でるのに専念してくれる。二人とも、難しいと顔で表してはいるが、悪くない感触だった。このまますんなり購入を許可してくれそうなぐらい。

「バイクですか、よくわかりません。このバイクは凄いんですか?」

「ああ、何処まで行ける。それに快適で、ホーネットよりも揺れないし、乗り心地も良いと思うぞ。風も受けられる」

「それはいいですね。届いたら何処に行きますか?」

 良かった、ネガイは乗り気だ。

「そうだな、旅行は―――まだ無理かもな」

「ふふ、そうですね。まだ忙しい時期が続きそうですね」

「次の仕事が決まったか?」

「ええ。サイナとミトリ、マトイとの仕事です。これは女生徒しか受けられないそうです」

「頑張ってきてくれ‥‥」

 仲間外れ感がある。あれだけ一緒にいるのに、何故だろうか。ネガイと壁を感じる。

「大丈夫、半日で終わる仕事です。終わったら一緒に遊びに出掛けましょう」

 慰めるような手付きで頭を撫でてくれる。良かった、俺に飽きたのではなかったようだ。

「今日は一緒に眠りましょう。冷房をつけながら一緒のベットは気持ちがいいですよ」

「ああ、そうしよう。‥‥ネガイ」

「はい、なんですか?」

「‥‥好きだ」

「私もです。毎日言ってくれますね」

 柔らかいネガイの足と、柔らかいネガイの手に挟まれて満足だ。もうここで眠ってもいいかも――――、

「いい所なようで恐縮ですが。これをご確認下さ〜い♪」

 サイナが頭を突いてくる。

「ん、どうした?」

「こちらをしっかりと読んで下さいね♪」

「えっと?」

 一度ネガイから起き上がってタブレットを受け取る。サイナが指で示してくる項目には日付けが書いてあった。

「えーと、‥‥未定?」

「はい。これは開発途中で、現在データ収集を専用企業に求めているらしく、発売日は未定です♪」

「‥‥レンタルは?」

「不許可で〜す♪膝は必要ですか?」

 無言でサイナの膝に倒れる。ネガイよりも肉付きが良くて、胸に開いた穴を埋めてくれる。

「はぁー、焦って損した。だったのは俺か‥‥」

「か、から、空売り!?えーと、なんの事でしょうか〜?」

「口座については好きにしていいから、何かあったら連絡くれー」

「空売りなんて、そんな危ない取引しませんよ〜。はいっ!あれはんですから、そう、セーフですっ!」

 白々らしい嘘、とも言えない告白をしてくる。今更何を言った所で聞く訳ない。それに、サイナなら最悪の事態は起こさないだろうと敢えて気に留めない。

「今何時?」

「えーと、正午ですね。お昼に行きますか?」

「イサラ、もう少し付き合ってくれ」

「いいよー。今日は一日空けてるし」

「なら行くか。皆んな、学校にまだ用事はあるか?」

 サイナの膝から立ち上がって、手を引いて起こす。それぞれに顔を眺めるが、皆一様に首を振ってくる。

「あ、なら行きたいお店があるんですけが、どうですか〜♪」

「因みに何処だ?」

「外で〜す♪」

 視線だけでネガイとイサラに意見を伺う。どちらも首を横に振った。

「言ってみただけなので‥‥大丈夫です‥‥」

 期待していた店だったらしく、サイナは頭を下げて、肩を落としてしまった。悪いとは思うが、そうも言っていられない。

「悪い、我慢してくれ。せめて仕事が終わるまでは」

「は〜い‥‥」

 頼るように隣のネガイの肩に頭を置いた。ネガイもそんなサイナに肩を貸している。2人ともそれぞれ違う美人だからか、やけに絵になる―――

「オーダー街でもそれなりの店はあるだろう。イサラ、何処かないか?」

「自分で言っておいて、私に聞く?まぁ、いいよ。案内してあげる。その代わり奢ってね!!」

 言うと思っていた。イサラも学費は自腹組だったからだ。懐事情は推し量れる。

「いいぞ。折角だしシズクも呼ぶか。少し付き合ってくれ」

「‥‥うん、わかった。行こう。2人は先に車に行ってて。少し遅れるかもだから」

「わかりました。サイナ、立って下さい」

 項垂れながら「無念ですー‥‥」と呟くサイナに肩を貸して2人は出て行った。扉の前にいた筈のイノリの姿は確認出来なかったのだから、直ぐ近くにいるのだろう。

「あの2人、いつの間にあんなに仲良くなったの?」

「いや、俺も知らない」

 自分も少し気になっていた。最近になってからか、それとも実際は前からなのか知らないが、とにかく仲が良く見える。

「前なんか、工房が襲撃されたって泣き付いてきたのに。なんでか知ってる?」

「俺にもよくわからないけど、そう言えば呼び捨てになってるな。まぁ、いちいち聞く事でも無いし、いいか」

「‥‥喧嘩とかしないの?」

 イサラと部屋を出て、一緒に歩いているネガイとサイナの背中を追う。

「2人とも、いい関係なんでしょう。サイナはともかく、ネガイさんは怒ったりしないの?」

「‥‥そこそこな」

「何かあっても助けられないからね。あの子達すごく良い子だよ、裏切ったりしないようにね」

「裏切ったりなんかしない」

 即答で答えた事に面食らったらしく、イサラが一歩離れた。

「へぇー、言い切れるんだ。なんで?」

「ネガイもサイナも、俺を守ってくれた。それに、救ってくれた。2人に裏切られることも、俺が裏切ることも起こらない」

「‥‥なんか、かっこいいじゃん。でも、ほどほどにね。ヒジリが、人間のルールは理解しといて」

「そうだな。ありがとよ」

「どういたしまして、ふふん」

 得意気に一歩前に出て、振り返ってくれる。イサラも、俺は人間じゃないと認識してくれた。

「ミトリも誘うか?」

「ミトリは今日、忙しいらしいので救護棟で昼食を取るそうです」

 ネガイが顔だけ振り返って答えてくれた。今日は休日の筈なのに、治療科はやはり忙しいようだ。

「なら、シズクだけでも誘うか」

 シズクもシズクで忙しいだろうが、余程の事が無い限り断る事はないだろう。口では不機嫌を装う事はあっても、シズクもシズクで付き合いがいい方だった。

 廊下の突き当たり、エレベーターに乗り込む2人を見送りながら手を振る。

「じゃあ私達は先に車に戻ってます。流石にオーダー校の、それも駐車場で襲ってくることはないと思いますが。警戒しながら行きます」

「ああ、気をつけてくれ。シズクを誘ったらすぐに行くから」

 扉が閉まるまで視線を逸らさず、最後の最後まで監視を続けた。そして2人を完全に見失った瞬間、イサラが「ねぇ」と声を掛けてきた。

「どうした?」

 返事を返しながら、一緒にシズクの工房に向かう。真っ白廊下は清潔感こそあるが所々に落ちているネジや鉄片が生々しい。これらは全て銃身の修理道具や銃身自体だった。薬莢が落ちていない所は褒められるが、地下一階でこれなのだ。これより下はどうなっているのか想像に難くない。

「シズクとは、そういう関係じゃないの?」

「そういうって、どういう意味で?」

「ネガイさんとかサイナみたいな関係」

「その心は?」

「つまらないこと聞くなよ」

 心底そう思う。シズクとは、そういう関係になることは無い。

「知ってるの?シズク、結構人気だよ」

「だろうな。見た目が良いし。シズクの前でも、そんな事聞くなよ」

「‥‥わかった。そこは空気読むから。つまんない事聞いたね。忘れて」

 シズクの工房の前に到着した時、丁度会話が終わった。

「シズクーー、いるかー?」

 工房の扉を軽く叩いて確認する。

 何も返ってこないが、作業をしているらしくコンソールを叩く音は聞こえてくる。

「音楽でも聴いてるのか?」

 スマホを取り出して電話を掛けた時、中から盛大な音が飛んできた。

 椅子から転げ落ちたと判断する。

「な!なに!?」

「昼行かないか?」

「昼‥‥え、ええ!いいよ!!」

 それだけ言って通話が切れたが、何かを隠しているような、突貫的に掃除でもしているような音が聞こえてくる。

「仕事中?」

「だったかもな。悪い事したかも」

 未だに音が鳴り止まない。電子音のような物に、何かを蹴り飛ばして転がしたような音などなど。前に入った時はそこまで部屋が荒れていた感じではなかったが、最近になって物が増えたらしい。

「一応、ここ工房なんだけど。いいのか?完全な私物の持ち込みって」

「そりゃ、そういう事の為の部屋だし、サイナだってそんな感じじゃん。お金払ってるんだから、いいじゃない?」

「それもそうか。シズクーー、手伝うかーー?」

「だ、大丈夫!!今、そっちに行くから!!」

 長くなりそうだ、そう思い壁に寄り掛かった所、イサラも隣に寄り掛かる。

「でさ、話って何?」

「ん?あー、何かおかしな物を見ても他言無用って話だったんだけど、まぁ、その程度の話だよ」

「ふーん。長くなりそうだし、私先に行ってるから。あと、私は忘れっぽいから心配しないで。サイナは任せて」

 踵を返したイサラが背中を向けながら手を振った。改めて本当に頼りになるオーダーだ。イサラを雇ったソソギとカレンはいい選択をしたと心底思う―――――もう敵になりたくない。

「俺だけだから、入っていいか?」と聞くとか細い声で「いいよ」と返されるので、軽い調子で「失礼するぞー」と片手をポケットに入れて中に入る。

「‥‥何やってんだ?」

 工房内は足の踏み場も無いレベルでコードの束が床を占領していた。

 よくこれでヘッドセットを作れた、そう評してしまう。机の上は数枚のタブレットが独占している上、6つのディスプレイが壁を支配している。そんな部屋の中にいるのはコードに絡んだシズクだった。こんな状況でなければ囚われのなんとやらに見えそうだった。

「何に見える?」

「そうだな。コードの長いラプンツェルって所か?」

「‥‥なんか、身の危険を感じるんだけど」

「なら、自力で王子を探すんだな」

 コードをかき分けてシズクの元にどうにか辿り着く。ラプンツェルは髪を梯子代わりにする筈なのに、コードは寧ろ邪魔をしてくる。まるでいばらだ。

「これ、全部どこに繋がってるとか、わかってるのか?」

「当然じゃん。全部自分で配線したんだから」

 シズクの髪や顔に、それと制服に絡まったコードを外して、最後に脇の下から持ち上げる―――――シズクを持ち上げて下ろした時にわかった。

 思ったよりもシズクは成長していた。胸が重力に従ってしっかりと揺れた。

「こ、これでいいか?」

「悪くないけど、もう少しデリカシーを持ってくれない?普通に髪とか制服とか触ってくるし」

「助けてやった化け物に、それか?相手が王子じゃなくてよかったな」

「‥‥やっぱりデリカシーがない。それに私は化け物じゃなくて王子様に来て欲しいの!」

「でも、ラプンツェル呼びは悪くなかったんだろう。髪、長くなったな。行くぞ」

「‥‥うん」

 シズクの手を引いて外に出る。

 懐かしい、シズクを遊びに連れ出す時は、いつも俺からだったのを思い出した。

「なぁ、シズク」

「どうかした?」

 真っ白な廊下は、どこか病院のようだった。だけど、それ以上にどこまで同じ光景の廊下に――――懐かしさを感じる。シズクとふたり、手を繋いで渡る今に。

「俺達って、?」

「急にどうしたの?」

「少し気になっただけだ。覚えてるか?」

 少なくとも10年はシズクと付き合いがある筈だ。

 男性型のヒトガタは短命とされている。だがソソギと自動記述の信用すれば10歳まで生きているヒトガタは、その後人間と同じ程度には生きられる。今更寿命とやらに不安を感じている訳じゃないが、それでも過去の自分が

「‥‥会ったのは、小学校だった筈。だけど―――、」

 手を握ったままのシズクが答えてくれた。

「それよりも昔に会った気がする。俺もだ」

「うん‥‥。ランドセル背負う前から、君と話してた気がする。一緒に遊んでた記憶もある」

「いつ頃か、覚えてる?」

「‥‥わからない、なんでだろう。‥‥記憶が抜けてるみたい」

 異常だ。あのシズクが記憶が抜けてると言った。当時どころか、今も天才と言われているシズクが、覚えていないなんて。

「その時、俺とシズク以外もいたか?」

「ねぇ、なんで、なんでそんな事聞くの?」

「俺は人間じゃない。わかってるよな?」

「わかってるけど、それがどうしたの?」

 俺は男性型のヒトガタ。そして家というプランの中で成育された実験体。少し前からおかしいとは思っていた。今まで、俺の変わりなどいくらでもいるから捨てられた、そう思っていたが、だとわかった。

 だというのに、人間は

「その時、ソソギとカレンもいたんじゃないか?」

 あの2人との出会いは中等部だった。だけど、ここ数日のやり取りで分かった。確実に、俺は2人に会っていた。呼び起こされる記憶や経験が、心の内に在った。

「‥‥わかんない。‥‥でもさ、それっておかしくない?だってさ――――ごめん、2だって、私知ってるの‥‥」

「悪戯っ子め」

 2人が連行される前に、俺のスマホでも盗聴していたのだろうか?俺が相手だと遠慮なく、何でも盗み聞くのは、悪い癖だった。

「なら説明はいいな。2人は研究所から連れて来られた。だけど、俺はシズクとも、ソソギとカレンとも会っていた気がする」

 一緒に遊べる訳がない。2人から直接聞いた訳じゃないが、恐らく外を自由に歩くなんて、出来なかった筈だ。なのに、俺は覚えている。むしろ消えていた小学校入学前からの記憶が埋まったようで、快感すら覚えている。

「おかしいよな。シズクとならまだしも、ソソギとカレンと一緒に遊べる訳ない。‥‥聞いていいか。シズク」

 引いていた手はそのままに、足を止めてシズクへと振り返る。

「シズクと一緒に遊んでた俺は、?」

 ここまで生きている男性型のヒトガタを、手放す訳ない。ソソギは絶対をつけて念を押していた。

「‥‥そんな事考えてるの?」

「‥‥変、かな?」

「呆れてるの!ほら、行こう!」

 今度はシズクが、手を引いて前を歩いてくれる。

「君が今何を考えてるのか、私にはわからない。でも、くだらないって事はよくわかるよ」

 肘を伸ばしたシズクは、力を込めて握っているから手と手には一切の隙間がない。

「確かに小学校に入る前の記憶があやふやで、と一緒遊んでたかどうかなんて覚えてない」

「懐かしいな。

「それで呼ばないでよ。ヒー」

 頬を膨らませて睨んでくるシズクも懐かしい。それに、オーダー入学直後に戻った気にもなってくる。

 シズクとミトリの背中に隠れていた当時は、シズクがいなければ1人で出歩けないぐらいだった。

「でもね。君と一緒に遊んでた記憶は確かにあるの。ランドセル背負ってようが、背負って無かろうが関係なくあるの」

「でも、それは――――」

「君だった」

 いつの間にかエレベーター前に突き当たっていた。不機嫌そうなシズクは無言でボタンを押す。

「いい?君との時間を私は持ってるの。君もでしょう?」

 降りてきたエレベーターに、シズクが手で引き込んでくる。

「でも、君はソソギとカレンさんとの記憶も持ってる。私は当事者じゃないからわからないけど、ヒトガタ同士には繋がりがあるんじゃないの?」

「‥‥繋がり?」

「人間とヒトガタの深層心理は多分違うんだと思う。人間が共有する無意識の海とは分けられた、ヒトガタの間で共有された精神世界。君達だけが内包するがあるんだと思う。君が言ってた2人を見た瞬間に同胞の意識を持ったって、そういう事だと思う」

 シズクの言葉に、思い当たる節があった。イネスの力だ。

 人間と違ってヒトガタは同じ感情や意識のまま生き続ける。ヒトガタのテレパシーは、ヒトガタだから行使出来る力だ。

「俺と意識を同化した別個体がいたって事か?」

「私はそう考えてる」

 顔は見せてくれないが、握る手は離さないで答えてくれる。

「それに、仮に私が一緒に過ごしてきたヒーが、どこかの段階で今のヒジリに変わった所で、何か問題?」

 正直恐ろしくなった。その可能性を伝えてくるシズクにも、その可能性を考えていた自分にも。

「‥‥シズクは怖くないのか?」

「何が?」

「俺は、もう死んで、別の新しい個体に変わってるかもしれないのに」

 シズクが、わざとらしくため息をついた。

「本気で言ってる?」

 前髪を整えながら振り返って、睨んでくる。背は俺の方が高いのに、見下ろされている気分になってくる。

「もう君は私の前でるんだよ。あの時に、別の個体に変わったって言われても、私は不思議じゃないって思ってる。それに言わせてもらうよ。あんな経験を一緒にしたは、1しかいない。君の幼馴染は私なの」

「‥‥ごめんな。

「それが嫌だったから、自分を殺したんでしょう?」

 登るエレベーターの音は届かず、不機嫌なシズクの言葉だけが耳に届く。

 目を逸らすたびに、シズクが手を引いて前を向かせてくる。強気なシズクには、勝てた試しがない―――――思い出した。病院で、泣いている俺の背中をさすってくれていたと。

「こんなに一緒に経験してきた幼馴染を、君は疑う?君は、私との時間を、疑うの?」

「‥‥違う」

 喉が掠れた。

「聞こえないんだけど?」

「疑わない。シズクとの思い出は、俺の支えだ」

 シズクを引き寄せて、病院のベットの時のように抱き合う。

「シズクとの思い出は、俺の記憶だ。誰のものでもない。俺の物だ」

「わかった?私も、君との思い出は私だけの物って思ってるから。‥‥まさか、私が王子様役をするとは思わなかったけどさ」

 つい笑ってしまう。俺が自分を殺した時、シズクが助けてくれた。あと数分数秒でも遅ければ、俺は――――いやかもしれない。

 男性型のヒトガタが貴重だとしても、俺の同型機がいるかもしれない。だとしたら、ここにいる俺は、一体何番目なんだ?

「君は君。もしかしたら、あの時に代わったかもしれない。だけど、それからの君は、間違いなく、私の幼馴染だよ」

 シズクの赤みがかった髪に頭を埋める。懐かしい、何かもが懐かしい。俺が泣いた時は、いつもこうやって慰めてくれた。

「安心した?ヒー?」

「‥‥安心したよ。シー」

「ふふん♪よろしい」

 背中を撫でて、更に慰めてくれる。

「じゃあ、ご飯に」

 シズクが離れた瞬間、そのまま固まった。

 とっくにエレベーターの扉が開いていたようだった。そして、レイピアを鳴らすネガイの姿と、したり顔のイサラ、それに、

「ごゆっくり〜♪」

 片手を差し出すように、続きを促してくれるサイナだった。




「焼肉、実は初めて行きます」

「え、そうなの?じゃあ、私がレクチャーしてあげる」

「私も久しぶりです。焼肉の楽しみは、ただお肉を焼くだけじゃないんですよ♪」

「そうなんですか?焼肉以外にも、メニューがあるんですか?」

 後ろの席では、ふたりがネガイに、焼肉のレクチャーや心構えを説き始めた。

 運転席と助手席の自分達は、モーターホームを運転しながら、無言で真っ直ぐに前を見続ける。時たまシズクがこちらを見てくるが、全て無視している。

「シズクはどうですか?」

「え!?私は!?」

「はい、したことはありますか?」

「し、したって!?う、うん!あるよ!!」

「おぉー‥‥シズクも経験済みですか。そこのヒジリとですか?」

「ヒ、ヒジリ、ヒーと!?ま、まままさか!!」

 何を勘違いしているのか知らないが、そう問われたシズクが天井まで頭を届きそうなぐらいに、飛び跳ねている。

「シズク、単純に焼肉を外でやった事があるかどうか、聞いてるだけだ。ああ、俺とシズクとでも行ったことあるぞ」

 ミラー越しにネガイに答えると、ネガイは頷きながら隣の2人とまた話し始めた。

「落ち着けよ」

「そ、そ、そうだよね!?私は、落ち着いてる、大丈夫‥‥」

 到底そうは見えないし、聞こえない。信号待ちでシズクの顔色を窺うと、顔が青くなったり赤くなったりと点滅している。

 正直、あまり具合が良さそうには見えない。

「ダッシュボードの中、水があるから飲んでいいぞ」

 目線で場所を指示すると、シズクは震える手でダッシュボードのペットボトルを取り出した。

「‥‥よく知ってるね」

 蓋を開けてしばらく飲み続ける姿に見惚れてしまう。喉を鳴らして飲む姿は艶やかで悔しいが、シズクは美人だった。口と喉に滴る水が艶かしい。

「そこそこ乗ってるし、その水は俺が入れた奴だから」

「へぇー、え!?」

「自分で開けたからわかるだろう。それは未開封だ。子供か?」

「ほっといてよ!君みたいに、毎日ネガイさんと!!‥‥ネガイさんと‥‥」

 そこで言い淀んでしまった―――いや、おかしいのは俺だ。シズクに言われた通り、少しは抑えるとしよう。

 真っ赤で固定された顔色のシズクは、黙ったまま下を向いてしまった。俺が原因ではあるが、久しぶりにシズクと親しく話せて、悪い気分じゃなかった。

「悪かったよ。誰か、シズクと代わってくれないか?少し疲れたみたいだ」

 長い信号待ち中に後ろに投げかける。その結果、隣にネガイが隣に座った。

「楽しみか?」

「はい。でも、大丈夫です。皆んなと、あなたがいますから」

 焼肉デビューのネガイが、両手をスカートの上に置いて微笑んだ。ネガイは、そもそも外食というものを、ほとんど体験してなかったらしい。家の教育方針だったのか、それともあまり家に両親がいなかったのが理由か、ファミレスも俺と出会うまでいったことがなかったと言っていた。

「今日は俺の奢りだ。好きにしいいぞ」

「いいんですか?」

「ああ。任せろ」

「‥‥私のわがまま、いつも聞いてくれますね。大好きです」

 ネガイを見つめ合ってから、信号が変わった瞬間にアクセルをゆっくりと踏む。

「‥‥なんかさ、私が隣だった時と随分違くない?」

「座ってろ、危ないぞ」

 光を失った目をしたシズクが、運転席と助手席の間から顔を突き出す。それは仕方ないと受け止めて貰うしかない。ネガイが隣に座ってくれたのだ、少しばかりいい所を見せたい。

「私の時なんか、折半だったのに」

「それは中等部の時だろう。今日は俺が持つから、機嫌直してくれよ」

「‥‥これから、何か頼む時はネガイさんを通すから」

 軽く笑えない呪詛を残して、引き下がってくれた。ネガイからの頼みは断らないと、多くに知れ渡っている―――何処から漏れたんだ?

「あ、シズク、頼みたい仕事ってどんな内容?」

「それは追々決めるから、今は言えない。準備が出来たら話すから。それに何か別の仕事してるんでしょう?」

 ソファーに戻ったシズクは後ろのサイナ、イサラと話し始めた。

 追々決めるという事は、おおよその目的はありはするが、手段を考えているという事だろう。

 一体何をさせられるか知らないが、あまりいい予感はしない。チョコレートのお返しとして、強制的に働かされた事を思い出す。

「楽しみですね」

「焼肉か?」

「両方です」

 ネガイはシズクを高く評価しているので、シズクとの仕事を楽しみにしていた。

「まぁ、つまらない仕事じゃなさそうだな」

 ハンドルを操りながら、答えると、ナビから電子音が響いた。イノリからだった。

「ネガイ、悪いけど」

「はい。この人とは、一度会った事がありますね」

 俺の部屋で遊んでいた時、挨拶でもしたらしく、何も疑問に持たずにコールボタンを押してくれた。

「どうした?」

 それを聞いた瞬間、車内が凍り付き、各々の役割を果たす準備を始める。

「‥‥こっちからは確認出来ない。どのくらい距離がある」

 ミラーをいじって聞き返す。

「50m。3台後ろの白いワゴン。数人は乗ってる」

「シズク、見えるか?」

「確認出来た」

 指示するまでもなく、後ろに積んである双眼鏡でオペレーションの範疇である観測を担っていた。続けて「総数は?」と聞くと無表情な声で正確な情報を告げてくれる。

「5人は乗ってる。服装は全員背広。胸部が膨らんでるけど、銃火器は確認出来ない。恐らく防弾だけど、デザインに見覚えがないから独自開発の武装だと思う。腕章なし。ピンなし」

 所属を隠しているのか、それとも、本当に何もないのか。。後ろ盾を無いと宣言しているようなもの―――使い捨ての傭兵ごろつきに過ぎない。

「顔は?」

「全員アジア系の男性。確実に成人」

「その双眼鏡はカメラが仕込まれてる。顔を撮って情報科に問い合わせろ」

「了解」

 淡々と粛々と従ってくれる。

 決して簡単ではない、複雑な作業を聞き返す事なく全うしてくれている。

 本当に腕が上がった。焦りを感じさせない無表情な声色が、車内全体を引き締めてくれる。

「イサラ」

「わかってる。サイナは守るから」

 ミラーで一瞬だけ確認したイサラは、ボウイナイフと―――FNブローニング・ハイパワー。ベルギーのFNハースタル社の集大成と言われ、9mm弾が世界各国の軍隊、警察の標準的な弾種と言わせる要因となった傑作を見せてくれた。

 と決めたようだ。

「イノリ、今何処にいる?」

「言えないけど、近くにいる」

「了解した」

 これ以上の通信は奴らに傍受される可能性がある。更に、可能性の話をするならば、既に傍受されている事もあり得る。

 もし二重尾行をしているイノリを、ターゲットにされた場合、第三者視点を失ってしまう。これ以上の情報と時間は望めない。

「通信を終わらせる。無事でね」

「‥‥そっちも無事でな」

 返事もなく、通信を切られた。イノリも身を隠すと決めたらしい。

 車両に乗っているのは、間違いない上、街の景色に溶け込んだイノリを探すのは至難の業だ。イノリは自分の仕事を全うしてくれている。

 だからこそ、次も向こうからの通信を待つしかない。

 だが、どうするか―――ここはオーダー街だ。やり合うならば、。仕留めるならここだ。

 外に逃げられるような、不様は、もう晒さない。

「サイナ。マトイに連絡して運転の交代を」

「‥‥気を付けて下さい」

 恐らく最後の信号待ちに差し掛かった時、サイナにハンドルを任せる。その瞬間、腰のレイピアを鳴らしながら「私も」と推す声に首を振る。

「ネガイはサイナを守って欲しい。俺一人なら幾らでも逃げられる。それに、誰でも――――

「後ろの人間が、可能性を言っているのですか?」

「可能性の問題だ」

 ここはオーダー街。オーダーが住む魔窟。仕事内容によっては人攫いもする。実際、自分もカレンを攫った事があるのだ。なんの躊躇もなく細い腕を砕く勢いで拐って行くだろう。

 よって、あれがオーダーであるのならば――――

「サイナを攫うような秩序、俺は許さない。全員、今日で廃業させてくる。適当でいいから曲がって路地に入ってくれ」

 M66とM&P、それから刀剣の最終確認をする。

 ハンドルを任されたサイナは、大人しく路地に入ってくれた。

「もしプロなら―――初めてのやり合いになる。危険だと思ったら逃げるから。気にしないで」

 揺れる車の中で、助手席のネガイの肩に手を掛ける。動くなという意味、そしてネガイを感じたいという意思に縋りつく。

「焼肉、準備をしてますから。楽しみに待ってます」




 モーターホームから飛び降りた時、直ぐ様ワゴンも路地に入ってきた。

「‥‥あいつらか」

 目を使って、ワゴンに乗っている人間を確認する。総数5人。防弾スーツ。銃火器はここからでは断定できないが、胸元の形状から拳銃は確実に仕込んである。

 そして、俺の姿を確認した時―――

「いいだろう‥‥ぶっ殺してやるっ!!」

 左手でM66の連射をフロントガラスに向ける。1発目2発目はフロントガラスの角度に沿って空に消えていくが、3発目からはガラスに突き刺さった。止まらない357マグナムの456弾目が、ガラスの3発目を押してガラスを突破。

 計4発の弾丸は運転手の胸を抉り、ワゴンは路地の壁に火花を起こさせる。気を失ったか、死んだか知らないが、いい姿だ―――。

 だけど、そこで止まるような素人にんげんはしない。

「シネ」

 直進する車両へ、一歩踏み込みながら――――全力で右腕を振り、杭を助手席に発射する。

 ――――銃撃を受けて、急いで屈んだ事が幸いした助手席の獲物にんげんが、くいを目視する。だが、その瞬間―――ガラスを貫通し、破片をまき散らしながらシートに突き刺さるくいには、ただ頭を再度下げしか術がなかった。

 頭を上げる事を許さない。ハンドルを修正させる事も許さない。車内にいないで、車を操作する事に成功。もう何度もやった来ただった。

 運転手どころか、人間の操作を失ったワゴンは、壁に乗り上げて横転、そのまま底を晒した。

 横転したワゴンはルーフと地面を擦り、ガソリンでも漏れたら一息に起爆するような火花を起こし、しばらく距離を稼ぎ、この化け物の眼前で止まった。

「俺からサイナを奪おうとした、罰だ」

 この化け物から、宝を盗もうとした。

「ただの人間が図に乗りやがって」

 横転した時に、窓ガラスという窓ガラスは全て砕けている―――

 脇差しを抜いて助手席の近く、力任せに扉をこじ開ける。

「おい、生きてるか?」

 中に入っていたのは、瞳孔が開ききった背広だった。前にも、こんな光景を見たが、どうでもいい。

 脇差しを使って、シートベルトを切り裂き、ルーフに落とす。呻き声を上げるという事は生きているという事だ。

 襟を掴んで、引きずり出して、車体に押し付ける。

 頭から血を流しているが、軽傷だ。そもそも気にしてなんかいない。

「お前、法務科か?」

「ち、違う!!」

「なら何処だ?」

「言えなっ!?」

 唾を飛ばしやがったから、脇差しの頭で胸を殴ってやった。大丈夫、まだ3人もいる。

「法務科じゃない、か――――」

 後部座席に移動して、ドアと車体の間に脇差しを差し込む。

 あの人の事だ。サイナを誘拐して、囮にする可能性も考えたが、この程度の雑魚を使いに寄越すわけ無い。

 あの人形の一人でも送り込めば、俺は簡単に無力化できる。確実に、あの人形一体の戦力は俺を超えている。

「次だ」

 ドアをこじ開けて、次の獲物を取り出す。



「全員、吐かなかったか」

 念のため運転手も叩き起こして聞いてみたが、吐かなかった。

「教育されてたのか、それとも本当に知らないのか?」

 胸に仕込んであったのはH&KP2000だった。警察関係者かと思ってが、それにしては、やる事が直接的過ぎる。

 ナンバーは一般車両だが、どうせ偽造だろう。こいつらの立場がどの程度か知らないが、それでもヒト一人轢き殺したらどんな立場であろうと、裁かれる。

 端的に言えば、馬鹿過ぎた。

「どうしようかな?」

 全員のスーツを脱がして、スマホや拳銃を全て回収したが、正直飼い主に繋がりそうな物はなかった。

「強いて言えば、これか」

 手にあるH&Kを見つめる。

「‥‥SP御用達か」

 今でこそ、ミトリが鹵獲しているから好きな時に見せてもらえるモデルだが、そうそう簡単に手に入る物じゃない。

 確実に警察関係者の横流し品だ。もしくは行政側の人間だから支給できるぶき。少なくとも、タダの人間が用意できる類じゃない。

「それに、このワゴン。どこの車種だ?」

 ひっくり返ってはいるが、恐らくはベンツだ。だが見覚えがない。これも飼い主から用意された車両だとしたら、相当の財力だ。こんな使い捨てどもに配るような品じゃない。それこそ、自由に金を無制限に引き出せる立場―――自身の金として、公的に徴収できる地位。

「‥‥サイナ」

 確実にあのハエの手先だ。

 モーターホームにいた顔ぶれで、追われるような立場は、俺かネガイ――サイナ。

 だが、ネガイを追うことは、まずない。何故なら、ネガイは省庁たるオーダー本部が公式に謝罪、保護すると決めた深窓の令嬢。

 ネガイを狙うということは、オーダー全てを相手にする事になる。そこまでの馬鹿は、そうそういない。

「俺は、法務科で――――血の価値を知ってる人間なんて、ほとんどいない」

 あのハエがいい例だろう。本当に俺の血を知っていたら、顔だって絶対覚えてい

る筈だ。

「‥‥狙いは、サイナだよな。でも、なんでだ?」

 元々あのハエは、俺かイネスを狙ってオーダー街に入り込んだ。実際襲ってきたのだから、これは間違いない。

 地面に並べてある人間達を並べても、何も思いつかないが、なんとなく見てしまう。

「サイナの話をしたのは、アイツ個人の話じゃないのか?」

 まるで、アイツはであるかのように語った。

「イネスか俺を連れ去るのに、失敗したから、サイナを狙ってるのか?」

 その場合、病院で狙ったのは、イネスの可能性が高い。

「‥‥顔、だよな」

 二人の顔は、あまりにも似ている。この目を使わなければ、見比べなければ差がわからない程の精密度で、顔の造形が似ている。

「あの顔に、なんの価値があるんだ」

 嫌な予感しか浮かばない。あの二人の顔は、『仮面の方』の顔にもよく似ている。

 あの方に価値があるとすれば、この星一つよりもあるだろう。あの方が言っていた、同じ価値を求めるとは、こういう事なのか?

「似ているものに、同じ価値を求めるか」

「仕事はどうですか?」

「準備に入ってます」

「結構」

 モーターホームが過ぎ去った方角から現れた、制服を着た紫色の目をした女子生徒に背筋を伸ばして、応対する。

「そこの彼らは?」

「あなたの差し金では?」

「だとしたら、私は長生きできないでしょうね」

 魔眼に魔眼で答える。赤熱化するかのように、輝き始めたアメジストの魔眼に、血の魔眼を持って、見つめ返す。

「あなたのものに、無為に手を伸ばす事の意味を私自身は理解しているつもりです」

「他の部署の可能性は?」

「ありません」

 俺の視界から逃れ、自分の視線から俺を外すように、すぐ隣を通過していく。

「この件は全て私に一任されています。そして魔女と使い魔の話は知れ渡っていますから」

「また新しい名前がついたのですね。それって、どういう意味なんですか?」

「そのままの意味。私は恋人達の中に含まれず――――、そう言われています」

「法務科って、名前付けるの好きですね」

「どうか、それを言わないように。考えないようにしているのに。これは私個人の意見―――法務科は、あなたに名前をつけて正体不明の化け物ではなく、名前を付けて首輪を付けていると思い込みたいようです」

 つい舌打ちと悪態を突いてしまった。

 法務科とオーダー本部が共に名前をつけた理由がそれか。

「俺に、をさせない為ですか」

 人間らしい愚かで短絡的な行いだ。『ヒジリ』という概念に名前を付ける事で、『ヒジリ』はどういう存在かを明確にさせたいとは。馬鹿らしくてつまらない。

 あの方からの加護を受けているヒジリを、人間達が理解出来ると思っているなんて。

「そこの人間達は法務科わたしたちが保護します。あなたはサイナという子を追いなさい」

「‥‥あなたは知っているのではないですか?」

「質問を許可しましたか?」

「これは俺の身内の話です。あなたがオーダーであるのならば、この問いには答える義務がある」

「‥‥都合がいい時だけ人間のふりをしますね。何が聞きたいのですか?」

 実際の本人よりも少しだけ高い声で、やや不満そうに許可を下した。

「サイナとイネス、2人を。2人の顔にどんな価値があるのですか?」

「私に狂人の、それも肉親に暴力を振っていた人間達の思想を教えろと?」

「例え狂人だとして、狂人には狂人のルールがあります。それに、俺にとってサイナは天秤に掛けるまでもなく、優先すべき事由です。答えて下さい。サイナをこのまま振り回す訳にはいかない」

 サイナを救えるのは俺だけ。それはこの人から言われた。だったら、俺は全力でサイナを守る。

「こいつらがゲートと通過できる訳ない。あのゲートの職員は優秀です」

 今でこそ、スーツを脱がされて気絶している間抜けだが、完全なる戦闘のプロ。

 は違う格好だったとしても、この車で大人が5人も乗っているのだ、確実にゲートの検問に引っかかる。

「こいつらを通す許可を出したのは、あなたではないのですか?」

「―――に差し障るので、言えません」

 決定した。この人は、サイナを囮にした―――だが、その前兆を、この人は教えてくれていた。

「こいつらがオーダー街に入ってきたのは、俺とマトイが挨拶をしていた時ですね?」

 この人は急に、サイナの話をした。そしてとも言った。

「あなたに感謝します」

「―――なぜ?」

「俺がいなくても、あなたがサイナを守るつもりだったのでは?」

 私も監視するとは、サイナに危機が迫っていると教える意味であり、同時にサイナを守るという個人の意識でもあった。

「サイナの元に戻ります。あなたは?」

 鹵獲したH&Kとホルスターを一つずつ持って、横転しているベンツから離れる。

「私は、この人間達の身柄を法務科に」

 逆に、アメジストの魔眼を持った女子生徒はベンツに近付いていく。

 最悪の事態がまだ頭をよぎる。

 一歩一歩離れていく俺と女子生徒の間合いは、少しずつ、一突きで息の根を止めるに相応しい間合いへと推移していく。

「俺は期待に応えられましたか?」

 最後に振り返って聞いてみる。あの先生には、出来なかった事を聞いてみる。

 だが、法務科のドルイダスは振り返っていなかった。

「私の期待通りの仕事をしてくれました。褒めて上げましょう」




「いやー良い所で会えたなぁ!」

「でも、いいの?僕達まで」

「いいよ。好きに焼いとけ」

 ワゴンの制圧はものの数秒で終わってしまい、しかも路地での時間の大部分は、あの人との会話程度。それも10分ぐらいだった。

 だから、ネガイ達と合流してそのまま焼肉に直行したのだが、こいつらがいた。

 高いだけはあった、個室でソファー付き。しかも、かなり広くて、二つのテーブルが設置されていた。

 女子と男子で別れてテーブルの上で、肉を焼く。本当は、ネガイと焼きたかったが、仕方ない。

「どんどん注文しろ、時間が迫ってる」

「任せとけ!俺も、今週の飯は、ここで済ませるつもりだ!!」

 どれだけ金がないんだ?そう思ったが、口には出さなかった。何故ならば、自分も法務科に所属する前は、似たような物だったからだ。

「そっちは、今日仕事だったのか?」

 タレか塩か、どちらにすべきか考えながら網の上でトングを操る。やはり、少し値が張っている事はある。肉が一切張り付かない。

「そんなとこ。でも、組んで仕事してた訳じゃないんだよ。たまたまそこで会って、お昼を一緒にって話してたんだ」

「そこで、お前さんが女子引き連れてここに入って行くもんだからよ。これはご相伴にと―――」

 整備科は焼いている肉から、隣で歓声でもあげるように、時間を楽しんでいるネガイ達に目線を向けた。

「肉は好きなだけ食べていい。だけど、仕事だとしても―――人を燃やすには時間がかかる‥‥」

 焼けて落ちていく油が、煙と共に火柱を立てる。色がいいカルビはみるみる内に、白くなっていく。

「本気だぞ?」

「わかった!わかった!冗談だから、流せよ‥‥」

「俺も冗談だ。ほら、焼け始めたぞ」

 頼んだ白米の到着が遅いが、仕方ない。まずはタレを楽しんで、次に塩を味わう。いい塩だ。伊達にテーブル一つに5種類の塩が並んでいるわけではなさそうだ。

 藻塩がなかなかに、気に入った。

「で、なんで僕達まで?」

「‥‥これだ。見覚えは?」

 鹵獲したH&Kをテーブルの下から渡す。受け取った拳銃を2人はソファーの上に置いて、隣に見せないようにしてくれる。

「‥‥これをどこで?」

「路地で襲われた。それ以上は聞かないでくれ」

「‥‥なら、そうしようかな」

「こいつは‥‥」

 見覚えがあるのか、襲撃科も整備科も、肉から一瞬で銃から目が離せなくなる。

 襲撃科も整備科もスマホで写真を撮って、どこかへと送り、それぞれ直ぐに返信が返ってきた。それぞれいいバックアップを持っているらしい。

「SPが使ってるモデルに似てるけど、違う。日本人の手に合うようにパーツが揃えられてる」

「ああ、間違いなくこいつは、国内でチューニングされてる。もしかしたら、国内で製造されてる可能もある――――しかも、既製品のどれとも被らない」

「密造か‥‥」

「あり得ると思う」

 ゆっくりと拳銃をテーブルの下から返してくれる。国内で秘密裏に製造されているなら、これ以上の情報は望めない。

 市販されているのならば、割り振られた番号等である程度の配備されている部署を探れるが、私兵に渡しているものなら、それは‥‥。

「相当危険な仕事、してるみたいだね」

「‥‥いつの間にかな」

 ようやく到着した白米を受け取って、肉と一緒に口に入れる。

「大丈夫なのかよ?不良が馬鹿みたいに作ってるパイプとか3Dプリントとは訳が違うぞ。組織だって、それなりの立場の奴が作って配備してるんだろう?日本でそんな事が出来る奴、数えるほどしかいねぇぞ」

 肉に戻って、小声で会話を続ける。焼けていく肉のお陰で隣には聞こえていない。

「‥‥詳しくは言えない。だけど、俺が攻め込む訳じゃない」

 それは法務科のプロに任せるしかない――――その時こそ、サイナの家は、完全に息の根が止まる事となる。

「聞けてよかったよ。まだまだ頼むぞ」

 テーブル端にあるタブレットを持ち上げて、次の皿を頼もうとした時、

「自分で姿隠せって言っといて、わざわざ呼ぶ?」

 イノリがタブレットを奪って、隣に座ってきた。

「仕事中の食事も、経費の一つだ」

 イノリの分は既に払ってあった。始まってまだ10分も経っていないから、まだまだ余裕で食べられる。

「ふーん、金払いがいい雇い主は嫌いじゃないよ。どこまでなら注文していいの?」

「全部いいぞ」

「‥‥悪くないじゃん」

 気に入ってくれたらしく、タブレットからあれやこれやを注文し始めた。

「2人には、前会ったよな?」

「よろしくー」

「‥‥はぁ」

 一切視線も向けずに、これだ。イノリらしいと言えば、イノリらしい。

「大丈夫大丈夫。実は一緒に仕事もしたから」

「そうなのか?」

「おう。隠れた実力者って、最近名が知られてるぞ」

 意外、ではないか。実際潜入学科は実力者しか入れない。しかもその中で、マトイが見つけ出すほどの逸材。

 表に来ても問題なくやっていけるに決まってる。シズクともいい関係を築けていた。

「有名なのか」

「あんた程じゃないけどね」

「‥‥褒め言葉だよな?」

「勿論」

 注文が終えたイノリは、テーブルの元あった場所にタブレットを戻す。

「‥‥でさ、言いたい事あるんだけど」

 顔を隠すように、頬杖をついて叱りつけてくる。

「普通、車が直進してきたら避けるとかしない?それを弾丸だけで迎え撃つなんて。しくじったらアンタも、車の人間も死んでたよ?わかってる?」

「わかってた。だけど、あれが最適解だった。それに、大人しくなっただろう」

「‥‥はぁー。ねぇ、この人って、前からこうなの?」

「うん、昔からそんなに変わらないかな?卒業訓練でも似たような事されたからね」

 襲撃科が普通の事のように言った。

「そうそう。事故らない程度に、100キロで飛ばしてた車を追いかけて、追いついて、しかも車両を奪って逃げるんだ。やられた側の人間としては、正直、何されたかわからないぐらいだったぞ。てか、また似たような事したのかよ?」

 箸を止めずに、聞いてくる。

「ノーコメント」

「路地裏で突っ込んでくる車両を、弾丸だけで横転させたの」

「いつも通りだね」

「いつも通りだな」

 自分と一緒に諫めて欲しかったらしいが、イノリの手は頬から額へと移動した。

「‥‥こっち側も、物騒ね」

「単純だろう?」

「あんたがね」

 注文した皿が続々と届きテーブルに並べながら肉を焼いていると、イサラから席替えの提案が上がる。というよりも襲撃科や整備科と話したかったようで、2人を拐って隣に連れて行ってしまう。無論、席の移動をしたのは当の一人だけではなかった。

「前に話しましたよね?」

「うん、話したよ。ネガイさん、だよね?私はイノリ、よろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

 丁寧なネガイのお辞儀に、イノリは慌てて同じようなお辞儀を返す。良家の出身にのみ許された初対面の挨拶を不意打ちに受け、翻弄されている姿を初めて見たかもしれない。

 イノリと共に自分達は席を変わらず、対面にネガイとシズクが座る。

 ふと、隣を見れば席変提案の張本人であるサイナとイサラが、隣の席で2人に何かしらを買わせようと勧めているのが垣間見えた。容姿のレベルが振り切れている2人に勧められて整備科は悪くないように、何も考えていないとわかる得意げな顔での頷きを繰り返す。一瞬で何かを購入したらしい。

 あんな話を毎回聞き入れているから、いつも金欠なのではないだろうか。

「何か注文する?」

「はい、やってみます」

 いつの間にかネガイがイノリからタブレットを受け取っていた。あれだけの巨大なアームやデスクトップPCを操作出来ていたネガイが悪戦苦闘している姿に、心の中で応援して事の次第を見守る。そして、少しだけ時間が掛かったが、確かにネガイは注文を終える。

「出来ました」

「レベルが上がったな」

「はい。皆んなから習いましたから」

 自分だけで出来たのが余程嬉しいらしく頬を染めて笑みを浮かべる。白い頬によく映える桃色のそれが愛らしくて愛らしくて自然と手を伸ばしてしまい、おずおずと握り返される。

「あー場所変わろうか?」

 シズクからそんな提案を受けたので肯いて席を変える。しかし、目の前に座っているネガイが目を合わせてくれない。何故だと思うと、横や下を見ながら自分の髪を触っているのに気付く。

「どうした?」

「‥‥いえ。その‥‥」

 ネガイが口を隠した。らしい。

「大丈夫。俺はいつも通り一緒に食べたい。この辺とか、もう焼けてるぞ」

 焼けた肉を提供して、口臭のことを忘れさせる。

「‥‥はい。ありがとうございます」

 まだ口が気になるらしいが顔を上げて笑ってくれる。顔を赤くして上目遣いのネガイも幼く見えて、また可愛らしい。

「あなたも、どうぞ‥‥」

「ありがと。一緒に食べよう」

「‥‥はい」

 口を抑えながらでも、ネガイは次の肉を食べてくれる。食べるたびに見つめてくれて――――お陰で箸が止まらない。

「帰ったら消臭スプレーでも使おう。食べてると気付かないとけど帰ったらわかるから」

「あ、そうですね。はい、そうしましょう。ふふ、また新しい事を教えてくれましたね?」

 首を少しだけ傾けて頬を染める。焼肉一つでここまで感謝してくれるネガイが、可愛くて仕方ない。後でミントのガムでも買ってくると決めた。またデザートとしてミント系のアイスも頼むとも決めた。

「いつもこう?」

「いつもこうで、ずっとこうなの‥‥」

 シズクとイノリが何か言っているが無視しよう。

「怪我はしてませんか?」

「見ての通りだ」

 前髪や側頭部の髪を上げて、

 実際、車どころか奴らからは指一本として触れられていない。だから気にすべきは車を横転させて気絶していたアイツらかもしれないが、どうでもいい。

 ネガイの負傷チェックが終わり、髪を下げる。

「背中に傷があるかもしれませんから、お風呂でも見せてもらいます。いいですね?」

「ああ、いつも通りだな」

「はい、いつも通りです。それで、敵はなんて?」

「それが何も話さなかった。それなりの教育がされてるのか―――もしくは、ただの傭兵だから、何も知らされていないのか」

 傭兵と言ってはみたが、やはりその可能性は低く感じる。

「PMCの可能性はないんじゃない?わざわざそんな国内では違法な連中を、オーダー街に派遣するだなんて。向こうだって、捨て石みたいな扱いはされたくないでしょう?」

「そうだよな。俺も同意見だ。それに、どう見てもそんな場数踏んだ感じじゃなかった―――イノリはどう見えた?」

「追跡には慣れてたみたいだけど、それ以外は素人レベル。全部膳立てされて、やっと仕事が出来るストーカーって感じ」

「‥‥公安ですか」

「今は特務課って言うらしい。まぁ、名ばかりの雑魚だよ」

 心底そう思ってしまう。心のどこかでそれなりの腕を期待していたが、あのカエルと言い、今回の襲撃と言い、到底強いとは思えない。

 病院から逃げる際は、万全の体調では無かったが――――あの程度なら、カエルを血祭りに上げてから、全員殺せばよかったと思う。

「マトイから連絡はあったか?」

「それが何にも。調べてみるって返事は来たけど、それだけ。マトイも忙しいみたいね」

「私にも何も来てません。あなたには?」

「‥‥来てないみたいだな」

 スマホを取り出して確認するが、チャットも来ていない。もしかしたら、自分のマスターと仕事をしているのかもしれない。

 現場に来たのは、あの姿だった。周りと同化する事でという事は、あの身体は戦力的に弱いのかもしれない。

 という事は、戦力として強い人形は、どこかへと向かわせている可能性がある。

「返事が来たらでいいか」

「それで、私も聞きたいんだけど」

「どうした?」

 隣のイノリが、『思い出し笑い』ように、『思い出し不満』な様子で目を細めてくる。

「また新しい子を見つけたの?」

「また?」

 口元を隠していたネガイの瞳が、急激に萎んでいく。一目でわかる。怒っている。

「怖いぐらい美人だったけど、あの人は誰?あんな先輩がいるの?」

「へぇ、年上も好きなんですか?」

「‥‥大人しく謝った方がいいよ」

 ネガイとイノリの間から、シズクが小声で謝罪を促してくる。

「あの人は法務科の人間だ。俺も、それ以上は知らない」

「それはわかるけど、それにしては親しそうに見えたけど?」

「詳しくはマトイから聞いてくれ。あの人は、俺は勿論、マトイよりも上の立場だ。俺から言える事は何もない」

 実際、俺はあの人の事を何も知らない。親しくはなりたいが壁を感じる。

「‥‥そう、そっか。ごめん、忘れて」

「‥‥法務科のですか。それは、言えませんね。聞いてすみませんでした」

 法務科の人間という言葉は、2人をしても引き下がるほどの立場だった。それほどまでに、オーダーにとっては特別な意味を持つ。

「気にしてないから、平気だ。それより、2人は前に一度話したんだろう。何話したんだ?」

 トングで肉を返しながら聞く。俺が原因では無い、いや原因であるからこそ、話の流れを変える事にした。

「イノリの事はどこまで聞いてるんだ?」

「前にあなたと仕事をしたって事と、鍼であなたを治療した事も聞きました」

 一瞬だけイノリと目を合わせる。潜入学科については言ってないようだ。

「ああ、少し仕事で知り合ってな。かなりの腕だから、頼っていいぞ」

「はい。シズクからもそう聞きました。情報科なんですよね?」

「そうだよ。ずっと情報科。あんまり表立って動く仕事をしてなかったから、顔は知られてなかったんだけどね。ネガイさんは?」

「私は分析科です。私も、あまり表立って動く事はしてませんでした。だから、私もイノリの事は初めて聞きました」

「‥‥そう」

 ――――2人は、同じ初等部で、少しの間だけ暮らしていた筈だった。

「いいのか?」

「何が?私はネガイさんとは出会ったばっかりだから」

「‥‥わかった」

「うん、私は気にしてない」

 イノリは言うつもりはなさそうだった。敢えて言えば、ネガイとイノリは――――いや、これでいい。

「じゃあ、改めて初めまして。情報科のイノリです。仕事があったら呼んで」

「分析科のネガイです。撃ち合う仕事があったら呼んで下さい。皆んな撃ちますから」

「え」

 分析科という場合によっては情報科よりも更に後方にいる生徒としてあるまじき自己紹介をされて、イノリは固まってしまった。

「ネガイは強いぞ。俺より上だ」

「えっと、そうなんだ。それは、頼りになるよ‥‥」

 流石潜入学科にいた事はある。一切顔に出さないで、ネガイの笑顔に、笑顔で返した。

「それと、ありがとうございました。私の彼を鍼で治してくれて。感謝してます」

「仕事として呼ばれたから、気にしないで。あなたの彼を治療した事は―――」

「ぐっ」

 何故か、肘で脇を刺してきた。

「どうしました?」

「‥‥次、何頼むかって考えてたんだ。ネガイはどうしたい?」

「ん?まだまだお皿はありますよ」

 テーブルの上にある肉を見つめてネガイが首を捻った。その動作も可愛いと思った瞬間、イノリが更に肘を刺してきた。

 指でないだけ良心的だが、‥‥結構痛い。

「良かったじゃん。こんなに美人で優しい子が彼女で」

 背筋が震えそうな冷たい小声でイノリが、呟いた。実際、背筋が震えた。

「でも、やっぱりありがとうございます。この人は、私の大切な人で、私の為に身体を張ってくれたんです」

「‥‥そっか。大事な人?」

 イノリは肘を止めて、ネガイに向いた。

「はい。前からも、これからも大事な人です」

 両手の指を合わせて、重ねるように答えてくれた。

「‥‥だから、その‥‥」

「うんん、そうだよね。大事な人なんだよね。私も、ネガイさんの大事な人を治療出来て、嬉しいよ」

「‥‥はい」

 2人だが、ここに来るまでほとんど話した事は、なかった。

 初等部での時間は、どのくらいなのか、その時2人は話したのか、どちらも俺にはわからない。だけど、それで良いんだと思う。

 ネガイもイノリも、当時の事は話したがらないという事だけ分かればいい。もう、サイナと同じ過去の痛みを思い出させない。

「治療費は、」

「それこそ気にしないで。私もこの人には守ってもらった恩返しでもあるから」

「恩返しですか?」

「そう、守って貰ったから」

「ぐっ!」

 テーブルの下からレイピアで刺される。まだ鞘であるのは疑いだからだと悟る。

「仕事って、どんな仕事だったんですか?」

 刺したままのレイピアで、腹に穴を開けるように捻る。掴んで止めようにも、一切手を緩めない姿勢には命の危機を覚える。それどころか、

「囚われの女の子を攫って、連れ帰るって仕事。仕事中に口説いてたよね?」

 セーフティーが外されたような、が鳴った。確実にレイピアだ。

 22レミントンマグナム。ミトリのダブルデリンジャーや狙撃銃にも使われている貫通力を持った弾丸。

 遠距離から対象を無力化する事を念頭に置いた運用をされているが、同時にマグナムでありながら、ぶれず、少ない火薬でも発射できるため、デリンジャーというコンパクトサイズの拳銃にも実装されている。つまりは、やはりマグナムなので、痛い。

「‥‥ネガイ、ここではよせ」

「何故ですか?痛いの、好きでしょう?」

「そうそう、痛いの好きだもんね?」

「‥‥好きな訳じゃない」

 段々と内臓がネガイのレイピアによって、縮められていく。その上、イノリが指で肋骨を刺してくる。

 こんなに苦しいのに、シズクは全く気にせずに、楽し気に肉を焼いている。絶対気付いている筈なのに。

「シズク‥‥」

「私、程々にしろって言ったよね。1発か2発は我慢すれば?」

 他人事だと思って、シズクは鼻歌混じりに網の上で、肉が焼ける音を楽しんでいる。

「それに、君が痛いのが好きって、皆んな知ってるよ。まぁ、私には関係無いけど」

 椅子に磔にされているような気分になってくる。ネガイは腹に、イノリは肋骨に。どちらも槍ではなかった。

「‥‥顔が青くなってきましたね?眠いですか?」

「眠いんじゃなくて、気持ちいいんじゃない?良いよね、あんたみたいな人は、なんでも気持ち良くて」

 2人して、笑いながら俺がこの状況を楽しんでいるような事を言ってくる。事実、気絶しそうなぐらい、痛いくて――――だが、

「‥‥ネガイ、イノリ、エレベーターではシズクの方からしてきた」

「シズク、話があります」

「したって、何!?シズクはそういう関係じゃないって、聞いたのに!」

「わ、私!?」

 ネガイとイノリの一瞬の隙を突いて、レイピアと指を腹と肋骨から外し、椅子から滑るように、離れる。

 外された事に気付いたネガイとイノリが、それぞれ我に帰った時、銃口を向けてきたので、

「サイナ!」

「は〜い」

「話がある、来てくれ!」

 一足で隣のテーブルにいるサイナの手を取る。

「駆け落ちですか♪」

「逃避行だ!」

「素敵ですね♪ワクワクします♪」

 サイナ以外の3人が歓声を上げる中、サイナの手を引いて、個室の出口に走る。

 ネガイとイノリは、自分を撃てないとわかっているからか、余裕な鼻歌を奏でながら背中を守ってくれた。




「さぁ、どうぞ。自分の家だと思って下さい♪」

 サイナは、こうなる事を初めからわかっていたようだった。

「小切手って初めて使った‥‥。ああいう使い方もあるのか」

 額を好きに書き込んで後から請求しろ。なかなか小切手とは便利だ。サイナがいなければ思い付かなかったかもしれない。

 サイナと逃げた先は、いつものモーターホームだった。最近、毎日のように乗っているせいか、実際自分の家のように感じる。

 ソファーに座ると、自然と軽く伸びをしてしまう。

「ああ‥‥眠い‥‥」

「寝ちゃダメですよ、私のボディーガードさん♪」

「寝ないよ。それとボディーガードだけでいいのか?」

 隣に座ったサイナが、肩に頭を乗せてくる。

「今日は私だけのボディーガードです‥‥。そして、恋人でもあります。そうですよね?」

 サイナへの答えとして、肩を抱いて引き寄せて頭に頬を付ける。

「‥‥幸せです。この時間が続けばいいのに」

「この時間はもう少し続く。だから大丈夫‥‥俺はずっとサイナの物だから」

「嬉しい‥‥」

 夏服になった事により、サイナの柔らかい腕がYシャツ越しに、強調される。

 細いのに肉感的でアンバランスながら絶妙な筋肉と脂肪のバランスにより、いつまでも触りたくなる。

「‥‥ふふ、私がそんなに欲しいですか?」

 顔を上げて、横目で見つめてくる。口の端が少しだけ吊り上がっている。

「だけど、それは帰ってからです。ここで始めたら、途中で止められませんよ――――では、私にも教えて下さい♪何がわかりましたか?」

 肩に乗せていた手を下ろして立ち上がったサイナが、床から机を呼び出した。

「これを鹵獲した。見覚えはあるか?」

 既に2人に見せたH&Kを机の上に乗せる。

 それを見たサイナは、一瞬だけ目が鋭くなったが、すぐさまいつも笑顔に戻ってくれた。指で銃を撫でながら、教えてくれる。

「はい、いいえ、で答えた場合。と言えます。これは私の家の人間が製造していたモデルです」

「国内製造か。許可は?」

「さぁ?だけど、これが配備されているという事は、今も作っているって事です。許可があるかどうかは、ですよ」

 銃を手に持ったサイナが、また隣に座った。

「武器製造をしている会社に、個人的なレーンがあるんです。当然、その個人レーンは、国のお金で運営していました」

「‥‥なんで、知ってるんだ?」

「昔、お父様が逮捕された時、オーダーの人がそんな話をしていたのを、たまたま聞いたんです。どうやら、それは今も健在のようですね」

 嫌疑が充分でなかったから、それについては起訴しなかったのだろう。

 。そして、会社側も沿動きをしたに違いない。会社としては、個人でレーンを買い取ってくれるような大口の取引先を失う訳にはいかなかったのだろう。

「‥‥俺が外された訳だ」

 あのハエが逃げ帰った先は、武器を製造している日本有数の会社と繋がりがある可能性があった。そこはPMCが確実に配備されているのだろう。

 よって法務科の腕利きでもなければ、物理的にも政治的にも生き残れない。しかも、そこはヒトガタにも関係している。法律どころか、倫理的にも決して触れてはならない場所。俺のような書類上の下っ端は外されるべくして外された。

「外された、ですか?」

「あのハエが逃げ帰った先への強行に、俺は外された。血の聖女を追えってさ」

「そうした方が良いって、私も思います。もし、私が出て行く時と同じ防犯がされているなら―――」

 そこで止まってしまった。

「言わなくていい。行くなんて言わないから」

 サイナの手からH&Kを奪おうとしたが、離さなかった。

「‥‥いいのか?」

「はい。これは私の物にします。いいですか?」

「いいぞ。初めてだな、サイナへの贈り物って」

「贈り物が拳銃って、オーダーらしくて良いですね。ふふん♪」

 一緒に鹵獲していたホルスターもまとめて渡す。実際、それなりの品なのでサイナは御満悦だ。

 受け取った銃を持ったサイナは立ち上がり、車の奥に積んであったアタッシュケースに入れる。

「もしかしてアタッシュケース、好きなのか?」

「はい!大好きですよ♪何故かって?それは勿論、持って逃げられるからです♪」

 手馴れた様子で、ケースの鍵を締めた。

「逃げるような商売も程々に。サイナを追い掛けるのは、骨が折れそうだ」

「いくらでも追いかけて下さい♪追い掛けられるのも。追い掛けるのも、私は好きですよ♪でも、1番は‥‥」

 アタッシュケースを机の上に置いて、足に飛び乗ってきた。

「隣が1番好きです。この車の助手席は、あなた専用ですから♪」

「‥‥ありがとう。俺に居場所をくれて」

 胸にサイナを押し付けて、目を閉じる。息遣いを感じながら、心音を聞かせる。

「‥‥サイナからだったな。俺を誘ってくれたの」

「はい、なかなか煮え切らないあなたに、少しだけ私もわがままになったんです。‥‥あの時からですね。私のわがままを聞いてくれるようになったのは」

 卒業訓練が終わり、撤収作業中の時だった。俺が散々小言を言われていた中に、サイナが入り込んで手を引っ張ってくれた。

 2人で車の中や、物陰に隠れて、やり過ごし、逃げ回っている中で、サイナが言ってきた。

「‥‥サイナ、後悔、してないか?」

「いいえ。あなたは私の思い描いた通りの方です。弱くなったとしても、それは変わりません。あなたは、私の初恋のままです」

「‥‥初恋?」

「知りませんでした?私の初めては、全てあなたに捧げてしまいました♪あなたはどうでした?私からの誘い、あの時は答えてくれませんでしたけど」

「‥‥嬉しかったさ。でも、俺は―――やっぱり、人間が怖かったんだ」

 今でこそ、人間が嫌いだと言えるが、ヒトガタとしての自覚が完全な物となった時、人間という種族が怖くなった。

 地球上に70億人はいる人間は、俺達ヒトガタを道具として扱っていると自動記述が示してきた。なによりも真実なが、ただただ恐ろしかった。

「あの時には、もうネガイへ会いに行っていたのにですか?」

「‥‥ネガイは、好きだった。でも、だからって、怖くない訳じゃないんだ」

 ネガイへの想いは、もう既に。卒業訓練時には、もうネガイに刺されて、一度死んでいた。

 それに気付いた時、ネガイも怖くなった。だけど、それ以上に、会いたかった。

「人間は怖いし、嫌いだった。でも、好きだった。おかしいか?」

「いいえ。おかしくなんてありません。‥‥やっぱり、私もネガイに負けていたんですね。あの時の、あなたの目を見てわかりました」

 離れようとするサイナを逃がさないように、抱き締める。

「ふふ、甘えん坊ですね♪」

「行かないでくれ‥‥」

「どこにも行きません。私は、あなたの隣にいますから」

 離れるのを諦めて、身体を預けてくれる。

「実を言うとですね。あなたの目を見た時、私も怖くなったんです」

 言いながらYシャツを掴んでくる。

「私が誘った時、あなたは私を拒絶した。―――私を、怖がったんです」

 。あの時、サイナからの誘いは、本当に嬉しかった。

 だけど、同時に、俺は人間の世界に入っていいのかと、恐ろしくなった。俺がヒトガタだとバレた時、人間は俺をどうするのか、俺をまた捨てるのかと、怖くなった。

「私は、あなたしかいないと思ったのに、あなたが私に向けた目は、少なくともではなかった」

「‥‥ごめん。でも、俺‥‥」

「なんですか?」

「もう捨てられたくなかったんだ。サイナからも拒否されたら、もう立ち上がれなかった」

 拒絶したのは俺の方だった。だけど、サイナの後ろには大勢の人間が見えた。

 人間という独善的で、冷酷で、生命なんてなんとも思わない、この星の支配者達が、確かに見えた。サイナから感じられた風格は、人間の本性そのものだった。

「ヒトガタって、捨てようと思えば、いくらでも捨てられるんだ」

 オーダー校にはヒトガタが4人いる。人間を4人捨てるには、相当の労力となる。だけど、ヒトガタが楽なものだった。

 肉親もいない。財産もない。文句も言わない。道端に捨てても、死ぬまでそこにいるだろう。

「‥‥俺さ、俺な‥‥、サイナとなら、何でも出来るって、何でも楽しくなるって、思ったんだ。だから、真っ先に車に乗せたんだ。でも、俺、人間じゃないんだ。人間に捨てられたから、ここにいるんだ。そんな人間が、俺を必要とした――――怖かった。俺が不要だって、思った程役に立たないって、そう思われたら、俺を捨てるんじゃないかって思って‥‥」

 俺を捨てて別の誰かと歩いて行くサイナの後ろ姿を想像したら、足が震えた。

 血が凍りついた。

「やっぱり弱いんだ。俺を好きだって言ってくれるサイナの事も、疑ってる。俺を置いてどこに行くんじゃないかって‥‥」

「弱い化け物ですね。想像以上です」

「ごめん、ごめん‥‥」

「謝ってばかりですね。で、あなたはどうしたいんですか?」

 いつかの復讐だ―――今のサイナの声から安らぎを感じない。

「そんな弱いあなたは、どうなりたいんですか?私の相棒ですか?それとも恋人?」

「‥‥サイナ」

「抱き締めても変わりません――――答えて下さい」

 膝の上にいるサイナを抱き締めて、サイナの頭に顔をうずめる。いつものサイナと何も変わらない。夜のサイナと同じ感触しか感じない。

 だけど、この声からは、一切の慈悲を感じない。

「私はあなたを愛しています。だけど、全てを許す訳でも、受け入れる訳でもありません。あの時、私に向けた目を、

 サイナからの誘いに答えを出せずに、時間ばかり過ぎていた時、サイナは無表情になった。

「人間が嫌い?それは私も同じです。あの時の私は、あなたがヒトガタだなんて知らなかった。でも、私、あなたとなら一緒にいられるって思ったんです」

「‥‥俺だって、同じだ。サイナとなら、ずっといられるって、信じられるってそう思った――――だけど、一歩踏み出す勇気がなかったんだ。人間の世界は、残酷で冷たくて、ヒトガタの事なんてなんとも思っていない。―――選ばれるのが怖がったんだ。でも、サイナを‥‥」

「誰かに奪われるのが、怖かった」

 容赦なく、心を見透かしてくる。

 俺はサイナからの誘いを断るわけでも、頷くわけでもなかった。言葉の上では。

 だが、サイナに向けてしまった視線は、完成なる拒絶だった。

 触れるのが怖い。話すのが怖い。目を合わせるのが怖い。そんな俺に、サイナは全てを積極的に行ってきた。

 俺もサイナも、捨てられたのは間違いない。だけど、サイナは自力で逃げ出せた。

 ―――――俺よりも、サイナは強かった。

「私、楽しかったんですよ。優しくて、強くて、私を褒めてくれて、信用してくれる。そんなあなたが。私を選んでくれた。だから私は、あなたを選んだ」

「‥‥ごめんな。俺、その時から弱かったんだ。サイナが思ってる位、強くなんかない―――新しい居場所をサイナが用意してくれたんだ‥‥。俺はサイナの隣にいなければ、見られなかった。サイナが

 当時から影の実力者だったサイナは、俺には眩しすぎた。ランキングを逆手にとって、あえて自分を目立たないポジションに据える事ができるサイナは、あまりに強過ぎた。

「サイナの期待に応えられなかったら、俺、捨てられるのと同じくらい嫌だったんだ。サイナを裏切りたくなかった」

「‥‥あなたは、私を裏切ってなんかいません」

「でも、俺は弱かった。サイナが求めてるスペック通りの動きを、俺は出来てない。結局、あのハエだって取り逃した。結局、サイナからの期待に何一つ応えられてない」

 サイナにとって、俺は紛い物だ。俺の価値を信じたから、サイナは手を差し伸べてくれた。でも、出来なかった。

「サイナ、後悔してないか。俺を選んで、全部捧げて、後悔してないか‥‥」

「‥‥少し、少しだけ、私の本心を教えてあげますね」

 肩を抱いている手に、指を絡ませてくる。

「私も、あなたが――――

 呟くように、貫いた。

「あなたも私のように人格が変わる時があった。私以外の前では見せないように徹底しているようでしたが、私には見せていました」

「‥‥怖かったよな」

 目の女達に操られている時だ。ネガイ以外には見せないようにしていたが、サイナの前ではいつの間にか、始まっている時があった。

 俺自身も、不思議だった。まるで目がサイナに引き寄せられているようだった。

「怖いのも勿論ありました。でも同時に私は、同じ人がいるって、安心しました。‥‥あなたは、違いましたか?」

「‥‥俺がサイナのを見たのは、初仕事だったから。少しだけ驚いた‥‥」

「そうですか。ふふ、でも、夜の私は好きなようでしたね♪」

 身体の内部の何もかもを奪われたあの脱力感は、嫌いじゃなかった。

「サイナ。俺は後悔してない。サイナを好きになったのも、サイナが隣にいてくれるのも、俺は、自分の好きで選んだ」

「では、どうしますか?私の化け物♪」

「決まってる。前に話した通り、サイナには、誰も触れさせない。全部、俺の物だ」

 ようやく目を開けられる。やっとサイナと向き合える。

「誰かの隣に行かないでくれ。俺は、サイナが隣にいないと、」

「何も出来ませんか?」

「全部殺す」

「ダメです!ダメダメダメ!!」

「なら、隣にいてくれ」

 膝の上にいるサイナの足を引いて、横にさせる。腕を枕にしたサイナの胸は上から見下ろしてもわかる程、Yシャツを押し上げている。

 このまま、サイナを喰いちぎりたい。だけど、決してサイナは生贄などでは無い。

「サイナがいないと、俺、暴れるぞ」

「甘えん坊なのか、駄々っ子なのか‥‥困りました。離れる訳にはいかないじゃないですか―――選んだんですね?」

「ああ、選んだ。弱かろうが、サイナが俺を拒絶しようが関係ない。誰にも渡さない」

 言い終わるや否や、サイナが腕を伸ばして首に巻きついてくる。

「最後の確認――――取れました。もう言質も取りましたから、引き下がれませんし、逃がしませんよ♪」

「逃げるなよ。俺は正真正銘の化け物だ」

「化け物とは人間の中から生まれるんですよ。つまりは、私も化け物です」

 枕にしている腕を上げて、サイナの頭を引き寄せる。頭から背中に移動させて、逃がさないとなる。

「足音が聞こえますね。どうしますか♪」

「見られていい」

 お互い目を閉じて、口を啜る。もし噛んだら、そのまま千切れてしまうようなサイナの唇と舌を許可も取らずに味わう。

 口遊びは止まらない。一度離して、サイナの首にも唇をつけて吸う。

「‥‥跡が」

「どうせバレてる」

 サイナの首に真っ赤な跡をつけて、もう一度口に戻す。先程とは口当たりが違う。溢れている唾液の味がまるで違う。

 それが、いつまででも吸い続けられる。サイナもいつまででも吸わせてくれる。

 口蓋に舌を這わせて、小休止をする。目を開けた時、丁度サイナも目を開けていた。微かに水分を携えた瞳に―――血が騒いだ。

 そして同時に、モーターホームの扉が開けられた。




「サイナ、その首‥‥」

「あ、ちょっとだけ打ち身をしてしまって。大丈夫です、明日には消えてます♪」

 首に巻かれた包帯を見つけたソソギが心配そうに呟く。確かに何も知らないで見ると、大怪我でもしたのかと思ってしまう。だが、サイナは包帯をどこか誇らしく見せつけている節さえ散見した。自分は髪をかき上げる、大人びた表情を造るサイナの後ろ姿、或いはうなじに魅了されてしまう。サイナとは、こんなもに大人っぽかっただろうか。

「なんと言うか、大人な感じに見える?」

「そうですか?ふふ、はい♪実はそこの彼と大人になりました♪」

 ソソギの視線から逃れる為に顔を背けるが、背けた先にはカレンが待ち構えていた。よって俯くしかなかった。

 ネガイやイノリから蜂の巣にされた翌日、マトイの指示により、ゲート近くの駐車場へとモーターホームで訪れていた。

 朝食として買ったベーグルがなかなかの美味だ。挟まれた分厚いベーコンとトマトとチーズの風味がクセになる。今後は贔屓にしようと縮こまりながら心に決める。

「そう」

「あれ、大人な反応ですね?」

 サイナが胸を張って誇らしく言ったというのにソソギは一言で流した。

「少し先を越されただけだから気にしない。私も彼に、半分だけ大人にされたから」

 カレンが下から見上げてくる。顔を上げてカレンから逃げる。

「え、いつですか?」

「病院が襲われた日。だから2日前」

「私と夜を過ごした日ですね♪」

 ソソギが上から見下ろしてくる。最後に真っ直ぐに視線を戻すと、サイナが笑っていた。

「マトイ遅いな」

「逃げられた‥‥」

 カレンがテーブルに寄りかかって横から見つめてくる。だが、実際マトイからの連絡が届いて時間が経っている。マトイがこの面子を呼び出したという事は、確実に絡み、しかもが恐らくヒントだった。

「一応話しとく病院で襲撃された日の夜、俺達で襲撃の首謀者と思われる奴を追いかけた」

「少しだけど聞いてる」

「なら結論だけ話す。法務科は、首謀者をオーダー街から逃して、拠点まで案内させた。そこに襲撃を仕掛けるつもりらしい」

「私も参加するの?」

「いや、俺達はあくまでも血の聖女を行方を追えって指示だ。襲撃は法務科の本職がやる」

 サイナは何も言わない。だけど、少なくとも、俺以上によく知っているはずだ。がどれだけ危険かを。

「いずれ知ることになるだろうから言いたい。病院を襲ったのは、独自で武器製造ができる企業のレーンを持ってる。敵は国営に関する仕事をしている」

「‥‥そう、漠然とだけど見当はついてた。あんな場所を、個人が持てる筈ないって―――外に出た時にわかった」

 ソソギの言葉にカレンも無言で頷いた。一体どんな場所だったのか、自分では想像も付かなかった。だから問い掛けなかった。もう2人はヒトガタの呪縛から解放されたのだから。

 無理に思い出させる必要はない。

「それと少しだけ補足です♪」

 どう切り出すべきかと口を開こうとした時、サイナが笑顔で口を手で抑え付ける、自ら口火を切った。

「襲撃の首謀者かつオーダー街から逃げ出した腰抜けは私の身内、兄です」

 カレンが瞬時に立ち上がろうとしたが、静かにソファーに戻る。確実に空気が一変した。殺気にも似た、けれどそれ以上の困惑を伝える表情のカレンの声が車内に響く。

「本当なんですか、それ?」

「本当ですよ。この目で見ましたから」

 口から手を離したサイナは、手についたオイルを舐め取る。

「今回の件は、間違いなく私の家が起こした事件です」

「‥‥そのことをマトイは?」

「知っている筈です」

 答えたサイナは、立ち上がって深く頭を下げた。

「ヒトガタを動員して起こした襲撃、並びに血の聖女、全て私の血筋によって引き起こされたものです。ごめんなさい」

 ソソギもカレンも、すぐに頭を上げろとは言わなかった。

 ヒトガタという種族を使って、自分は高みの見物に今も興じている人間の1人がサイナの血縁者。しかもイネスを苦しめながら血を流させ続けた組織の関係者。相手がサイナでなければ、きっとカレンもソソギも立ち上がっただろう。

「答えて。家とあなたは、まだ繋がりがあるの?」

「いいえ、もう縁を切っています。私は―――」

「サイナは家の人間から虐待を受けた」

 だから、代わりに立ち上がる。それが、ヒトガタの1人としての役目。そして、サイナの痛みを知っている恋人の義務。そう信じている。

「だから、サイナはオーダー街に逃げ込んで来たんだ。もう家とは関係ない。だから、サイナを信じてくれ」

 頭を下げたままのサイナから、呼吸すら聞こえてこない。

「‥‥2人とも、座って」

 カレンからの指示に従って一度座るが、サイナは髪を使って表情を隠してたままだった。

「ごめんなさい。私、今サイナさんの事を疑った」

「いいえ、おかしくなんてないです。あなた達が病院に行くのを私も知っていた訳ですから。‥‥話が漏れるとしたら、私ぐらいのものです」

「そうね。人間と私達ヒトガタは思考が違うとしても。私達がいつ病院に行くのかを、私があなたの立場だったら、聞かれれば答えたでしょうね。人員も武装も含めて」

 サイナから購入したであろうヨーク連発銃のピストル型を、テーブルの上に置いた。

「あなたから買ったこの銃、すごく手に馴染むの」

「‥‥ありがとうございます」

「だけど、これを用意できるのは、あなただけ。そして一昨日買ったばかりだから、まだ使い慣れてない部分もある。だから襲撃を起こすなら、今の期間が最善って事をあなたは知っている筈」

「ソソギ」

「静かに聞いて。これは私やあなただけじゃない、やっと容態が落ち着いてきたイネスの問題でもあるの。忘れた?」

 忘れてなんかいない。今もイネスは血が足りなくて本調子とは言い難い。ずっと外に出れなかった理由がこれだった。

 血が足りないという事は、それだけ免疫力が低いという事だ。風邪でもひいたら、感染症でも起こしかねない。

「ごめんなさい、でもヒトガタの視点しか持っていない私からすると、としてもそれでの」

 ソソギへ向ける自分の目の瞳孔が開いていくのがわかる。だが、カレンを横目で見ても、何も変わらずサイナを見ていた。

「だからサイナ、今のあなたを信じる事は、私にはできない」

「あはは‥‥そう、ですよね。はい‥‥それが正しいと思います」

「だから、聞きたい。顔を上げて、目を見せて」

 ソソギが身を乗り出して、サイナの前髪を上げた。

「あなたは、この人、――――彼は私達の家族。そんな彼の、あなたは何?」

 ソソギの横顔しか見えない。だけれど、実際に作り出された整い過ぎたソソギの鋭い視線を受け、サイナは固まってしまった。

「答えて」

「‥‥私は‥‥」

「言えない?」

 サイナが俺に視線を向けてくる。泣きそうな顔をして、助けを求めてくる。だけど、俺が言える事は少ない。

「サイナ。俺は、サイナを信じてる。相棒としても、それから‥‥」

「恋人としても‥‥」

「もう一回言って。あなたは彼の何?」

 逃がさないように、ソソギは両手でサイナの顔を掴んだ。

「あなたの口から言って。あなたは誰?」

「‥‥私は、です」

「そう」

 短い答えと短い受け答えが済んだ時、ソソギが椅子に戻った。

「私はこの人の事を信じてる。彼が選んだのがあなたなら、信じられる。カレンは?」

「‥‥うん、私も信じる。信じられる」

 ソソギは机の上に置いてあった銃を、戻して

「ごめんなさい。あなたを試した。ここで彼に助けをあれ以上求めたら、あなたを排除しなければならなかった」

「‥‥それでいいと思います。私も、弱いので」

 誤魔化しの笑顔すら浮かべないで、サイナは机のコーヒーボトルを手に取る。

 なんでもいいから、今の喉の渇きを癒したい。そう言っている気がする。

「もう家の事は聞かない。必要な時だけ話して。言いづらかったら、彼を通していいから」

「‥‥ありがとうございます。やっぱりソソギさん、優しいですね」

「ごめんなさい」

 長い足を組んで作った膝の上に、両手を置いてサイナに頭を下げた。ソソギは、見せたことない程、無防備な姿を取っている。

 サイナが銃を取り出せば、一瞬で頭を撃ち抜く事ができる角度を提供している。

「いいの?」

「ソソギさんは、間違ってません。これが私の秩序です」

「あなたは弱くなんてない。私よりも強い――――頼もしい」

「ふふ、ありがとうございま〜す♪」

 頭を上げたソソギとサイナが笑い合った。その姿を見ながら、カレンとも目を合わせて安堵する。

「でも、気を付けて」

「はい。でも大丈夫です。元身内であるとしても、私は撃てますよ♪」

「それ以上に法律は恐ろしいの。税金の計算はしっかりと」

 モーターホーム中にけたたましいサイナサイレンが鳴り響く!!

 俺もソソギも来るとわかっていたので、既に耳を塞いでいたが、カレンは防御しないで直撃したからか、ソファーで倒れ込んだ。サイレンが終わった所でカレンを起き上がらせて、首の位置を戻す。

「それと、まだある」

「う〜、まだですか‥‥」

「彼は大きな胸が好きなの。そういった女性には見境がないから見張っておいて」

「あ、それは知ってます♪夜も甘えてきたので♪」

 わざとか、そう思うほどサイナが胸を揺らしたせいで、机にぶつかり大きな音を立てた。すごい音だった、やはりあの胸は―――。

 カレンに頬をつねられながら、その光景を見ていると。

「あ、前から気になってたんですけど。ヒトガタって、皆んなそんなにんですか?」

「これが普通だと思ってた。私達のいた場所は皆んなこうだったから。自然とこれぐらいになった―――そう、やはりこれは大きいのね」

 ソソギも腕で自分の胸を持ち上げるようにして、自分の大きさを確認している。

「実はちょっとだけジェラシーを感じていたんですよ。ソソギさん、私よりも大きいから‥‥」

「そうなの?でも、カレンの方が私よりもサイズは上」

 まるで星の重力だった。一切の邪な考えも持ってていない瞬間だったというのに、吸い寄せられるように隣のカレンに目を向けてしまう。しかし、巨星と瞳を合わせる寸前でソソギに頬を指で摘まれ首を固定される。

「ふふ、わかりやすい人」

「はい、わかりやすい人です♪」

「はぁ、わかりやすい人‥‥」

 ソソギとカレンに頬をつねられて、サイナには鼻を掴まれる。

 一切身動きも口に動かせないでいると、モーターホームのドアが開かれた。乗ってきたのはマトイと紫の目をした女子生徒だった。

「‥‥マトイ、これはどういう状況ですか?」

「いつも通りです、マスター。どうか受け入れて下さい」

「‥‥私には理解できません」



 助手席に行こうとした時、マトイから肩を掴まれて隣を促される。ただし、隣に座ったのはマトイではなく、紫の目をしたイミナ課長だった。ここまで間近に横顔を見た事は無かったが、震え上がるほどに整い過ぎた顔だった。

 ソソギやカレンが至高の芸術家に作られた顔だとしたら、この人はような顔付きをしている。

 だが、マトイと俺に挟まれてイミナ先輩は、若干ご機嫌斜めで足を組んで、腕組みをしていた。サイナをはじめとして、ソソギとカレンが身を縮めているのがわかる。

「マスター、そんなに不機嫌にならないで下さい。年長者なのですから」

「‥‥最後の一文が気になりますが、まぁいいでしょう」

 腕組みをやめて背筋を伸ばしてくれる。それだけで身体から放たれていた圧倒的なオーラとでも言うべき空気が幾分か弱まった。

 人形越しでも、今の空気を送り込めるとは、一体どれだけ不機嫌なんだ。

「え〜と、この方は?」

「私のマスター、イミナ様です」

「先輩ですか?」

 そう聞いた瞬間、サイナは跳ねるよう車内の奥に用意してある旅行鞄の後ろへ逃げ込む。

「マスター」

「私は何もしていません」

 サイナが逃げ出した理由はよくわかる。容姿も雰囲気も、そして感じられる実力も規格外過ぎて、目を合わせる事ができないのだろう。

「話が進まないから手短に行く。サイナ、戻ってこい」

 サイナを旅行鞄から呼んで、手を引き膝に乗せる。震えながら様子を窺っているのがわかるが、本人は目線すら与えない。興味が無いのか、それとも目線を向けなくても見えているのか。どちらにしても、社交的とは言えない。

「この人は俺とマトイの上司で、マトイの師匠。今回少ない時間を消費して直接出向いてくれた。それだけ覚えて、話を聞いてくれ」

 軽く紹介とこの人との付き合い方と心構えを説いた時、

「マトイ以上に、私を敬ってくれますね。元からマトイはこうでしたが‥‥」

「はて、なんの事ですか?マスター」

 大きなため息を吐きながら眉間に指を付けた。苦悩している姿も美しいが、言わないでおこう。現実で殺される。

「‥‥怖い方ですか?」

 腕の中で縮こまっているサイナが震えながら聞いてくる。

 どう答えたものか、嘘は言えないけど、本当の事も言えない。よって見た通りを言う事にする。

「俺を法務科に入れてくれた人で、実際怖い人だ。基本的に法務科としての立場を優先する人だから、気を付けろ」

「その説明で合っています」

 この説明お気に召したようだ。ようやく話せる程度の圧力になってくれた。

「マトイ」

「はいマスター。今日は早朝に時間を頂きありがとうございます。総収を掛けた理由に、見当がついていると思いますので、単刀直入に――血の聖女の在り方に予想が付きました。けれど、場所を言う前に、昨日あった出来事を話しておきます」

 マトイが持っていた書類入りの封筒を、テーブルの上に広げて見せてくれる。

「至秘か‥‥」

 書類に書かれている文字を読んで、マトイとイミナさんに目で聞くが、2人とも構わずに書類を全員に見せてくれる。

 ここにが来た理由がわかった。

 法務科の至秘を見せるには、本来は相当の立場を持った本人がその場にいなければ、ならないらしい。

「念を押しておきます。これは他言無用。いいですね?」

 マトイが最後の確認をしてくるが、全員目線で肯定した。

「いかがですか、私が選んだ人員は?」

「‥‥認めるべき所は、認めましょう」

「では、早速始めます」

 ドルイダスのお墨付きを受けて、マトイは法務科の雰囲気を身に宿した。

「昨日法務科は、あのハエが逃げ去った方角を計測、測定、特定しました。そして、強制捜査を仕掛けました」

 マトイは具体的な時間と人員を示した書類を、テーブルの1番上に乗せて指で教えてくる。

 それぞれの部署名が書かれている中、異端捜査課の名に目がつく。やはりこの部署はマトイとイミナさん2人だけだった。

「昨日マトイが忙しかったのは、それが理由か?」

「はい。私は実行部隊ではありませんでしたが、マスターと共に現場の近くで逃げ出す人間達を捕らえていました」

 さも当然のように言ったが、相手は武器を自分でほぼ無尽蔵に作り出せる人間の本人達だ。本人が戦闘の素人でも、金で無尽蔵に人員を補給できる。

 その上、逃げる人間を捕らえるということは―――真っ先に逃げ出す、本当に逮捕すべき人間を狙って捕まえるという意味。

 マトイとこのイミナさんこそ、法務科の作戦の切り札だったに違いない。

「結果は?」

「貯蔵していた武器や車両、それに本来国の重要な役人以外、知ることができない情報が書かれた書類などを押収できました。ただ、逮捕できたのは拠点を守っていたPMCと病院への襲撃事件を起こした首謀者の親族と使用人。親族は40代の女性でした」

「ふふ、ついにお母様まで♪」

 楽しげにサイナが呟いた。

「もっと強く抱いてもいいですよ♪」

「なら、そうする」

 膝の上にいるサイナを抱き締め、頭に顔をうずめる。

「続けます。PMCはただ金で雇われただけの人間でした。武器の持ち込みが困難だったようで、武装は国内で製造した拳銃とサブマシンガン。H&K P2000そしてTMP。因みにTMPはクラブで使われていたものとは比べ物にならない出来でした。クラブでの経験を活かした改良版か、もしくは本来のグレードに戻して、配備したもののようです」

 マトイが次の書類を見せてくる。確かに外観はそれぞれの銃器だが、若干違う。

 書類を手に取ったソソギがため息を出す。

「‥‥本当に自己で生産していたのね。革命でも起こすつもりだったの?」

ともとも言えない規模でした」

「オーダー相手に、これではまるで足りない。重火器―――RPGとかは?」

「ありませんでした。銃器だけです」

 正直、あのハエの様子ではいつか革命でも起こしかねない雰囲気だったが、あの程度の規模では、何も変わらないだろう。

 世間知らずにも程がある。オーダーは世界秩序の担い手だ。オーダーに革命など、世界への宣戦布告にも等しい。本心だったとしたならば、あのハエは日本の名誉を貶めた―――滅ぼした愚か者として後世でも語り継がれただろう。

「ソソギ、俺にも見せて」

 ソソギから受け取った書類をサイナと一緒に見る。予想通りだが、ここで繋がりが出てくるとは、世間は狭いというか。

「馬鹿だろう、ソイツら。自分から、あのクラブの出資者だってバラしてる‥‥」

「私もそう思います。わざわざ同じ武器を用意して配備するだなんて。露呈しないと思っているのでしょうか?」

「人脈や財力はあっても、それは所詮他人のお金が始まりですからね♪あの家の人達は、基本的に皆んな、頭足りないんですよ♪」

「‥‥呆れた。皆んな、自分と同じくらい馬鹿だと思ってるのか?」

「本人達が底抜けに馬鹿なんですよ♪」

 抱き締めているサイナが、足を楽しげに振っている。お母様とやらにも、そして一部の使用人にも恨みがあるのは間違いなかった。

「だけど相手がばかで助かりました。隠すべき書類が全て放置されていましたから――――血の聖女の在り方は、恐らくここです」

 1番後ろの書類を、マトイが見せてくれた。それには、が写真付きで載っている。

「これ!?」

 書類を見た瞬間、カレンが手を伸ばした。

「病院というよりも児童養護施設の扱いです。のですね?」

 マトイはこの反応を予想していたらしく、カレンに身を乗り出して聞いた。だけど、カレンは首を振ってソソギに渡した。

「‥‥いいえ。ここじゃない。私達のいた場所のは、もっと大きかった。でも似てる気がする。ソソギはどう思う?」

「確かに似てる。でも、違う。あなたはどう?」

 ソソギから回ってきた書類を見た時、思った事があった。

「‥‥目玉?」

 ドーム状というよりも、球体状の建造物の一部を黒いレンズのような物が覆っている。大きさの程はわからないが最新型の義眼と言われれば信じてしまいそうな見た目だ。

 また、これは養護施設としての偽装に現実味を持たせる為か、大量の杖や車椅子が搬入されているのが書類から読み取れる。

「施設はともかくとして、この目玉みたいな物体が日本にあるのか?」

「それを探るのも私達の仕事です。見ての通り、大方の位置は記されてます。ただし航空写真では、それらしき建築物は発見出来ませんでした。しかし代わりに同地点にて養護施設が建造されています。今も運営されている表面上は真っ当な社会福祉施設です」

 もう一度書類を見てみると、確かに住所らしきものは記述されている。

 だけど、ここは――――。

「わざわざ住所まで‥‥。でも、なんでここに血の聖女があるってわかるんだ?」

「ここにはクラッチ杖のような型の医療用の杖が大量に搬入されています。そして、搬入されている物のは、これ――――間違いなく、ただの施設ではありません」

 最後に、マトイは書類ではなくスマホで写真を見せてくれた。

 これは見覚えがある。これで襲われた記憶もある。

「‥‥ヒトガタの武器か」

 トンファーのように腕に直接装着する杖。2日前にイネスが説明してくれた、ドアを破壊できる重量を持った兵器。真っ当な人生を歩めないオーダーでさえ、初見の武具であった。

「これは罠なのか、それとも本当に無能なのか。拠点への強制捜査の結果手に入れた書類、病院へ襲撃してきたヒトガタが使っていた杖、全ての情報がこの施設に集約されます。あなた方ヒトガタに期待されているものは、血の聖女の確保」

「それと、学究の徒の逮捕―――全員でいいんだな?」

「情けはいりません。全員、逮捕して下さい。勿論、生きてさえいれば十分」

 自然と、本当に自然と口が裂けてしまった。

「じゃあ、早速行く?」

 ソソギが聞いてきたが、まだ聞きたい事がある。

「あのハエは、見つかってないのか?」

「目下の所、捜索中です」

「なら、見つけ次第」

「殺さなければ好きにしなさい。やり方も、あなた達に任せます」

 マトイに任せていた説明が終わり、ようやく口を開いてくれた。

「血の聖女とヒトガタの関係については、今更説明しません。しかし、血の聖女の用途については説明します」

 急激に車内が凍り付いていくのがわかる。ソソギとカレンどころか、俺ですらも、血の聖女の具体的な使い方は知らないでいた。

 急に紫の瞳を向けられて、ソソギとカレンが動きを止めるが、力を使った様子じゃなかった。

「マトイ、彼女たちに映像は?」

「見てもらってます」

「では続けます。血の聖女とは、あれを呼び出す為の対価」

 血の聖女を使って交信、人知の及ばない存在を呼び出す。それだけを漠然と聞いてはいたが、やはり違和感がある。

 あのハエは呼び出すというよりも、しているようだった。あんな事が可能なのか?

「質問です。血の聖女はヒトガタの人間の血が混ざった物です。だけど、なぜ今更ヒトガタがいる場所に運んでいるって判断したんですか?」

「あなたも見当がついているでしょうが、血の聖女は何かを呼び出す為だけの対価ではない。――――ここから先は、私の個人的な見解となりますが、恐らく事実」

 ドルイダスは自らの襟を触って首元を緩めた。

「血の聖女に使われている血の比率は圧倒的に人間の方が高い。一方で、使われているヒトガタの血にはがある。ヒトガタの血を受け入れる為に人間の血で薄めて、自らの身体に取り込んだ。あのハエは、交信の力を使い、彼方の生物と。そして自らの身体を改造するには、一部有機的なゴーレムの力が必要。よって、ヒトガタを成育、または精製可能な施設へと血の聖女を送った。私はそう考えています」

 やはり、あれはヒトガタを介して作り出した肉体。『あの神』と名称していたを呼び出す為に、ヒトガタを触媒として使った。

 本来、自分の意思を持って生まれる筈のヒトガタの身体を使って、自分を改造した。

―――こんな質問はしないように」

 カレンが口を開こうとした瞬間、先手を打って止めた。時間を無駄にしたくないようだ。

「ある意味において、あの力は、後天的なヒトガタの力と言えなくもない。自分の身体を改造して、人間では得る事ができない飛行の力を得てしまった。あの場に祓魔の所属がいたら、容赦なく撃ち落としていた―――」

「‥‥ですか」

「人によっては、そう見えていても、不思議ではないでしょうね」

 今思えば、そう見ていたかもしれない。黒い身体に黒い翼。もし角や槍でも持っていたら、まさしく悪魔の姿だっただろう。

「まぁ、実際の悪魔とは比べ物にならない程、弱いですが。‥‥余計な事を言いましたね。流しなさい」

 なかなかに興味深い事を言ったが、仕方ない。流すとしよう。

「あの黒い液体のような物は、召喚実験の成功例の一つ。しかし失敗でもあると、私は判断しています」

「えーと、なんで失敗なんですか?」

 サイナが俺に隠れながら、手を挙げた。

「わざわざ呼び出したのに、あれは弱い。はっきり言って呼び出す価値もない。精々が空を短時間飛べるようになる、価値と言えばその程度」

 それって、かなりの価値では?と思ったが、飲み込む。

「確かにけど、それだけだったな。上から狙撃でもしてくるかと思ったけど、拳と尻尾でしか攻撃してこなかった―――使ってきたのは体当たり程度。正直言ってヘリでも呼び出した方が価値があったって思う」

「ネガイとあなたが無力化したって聞いたけど、どの程度の強さだった?」

「映像の通り。はっきり言ってネガイか俺の1人でもいたら十分だった。ソソギなら素手でやれる」

「飛んだ時の速度は?」

「拳銃で、撃ち落とそうと思えば撃ち落とせた」

「わかった。やれそうね」

 足の銃を撫でて始めた。誰も言わないが、ソソギはの血がある。

「あのハエ以外にも、似たような、もしくは完全な成功例がいる可能性は?」

「ハエが他にもいる可能性はあっても、成功例はいないと踏んでいます。ここで説明できているのが、その証拠です」

「‥‥了解」

 急いだ方が良さそうだ。それに仮面の方も言っていた。あのハエは数が多いから厄介だと。1匹1匹は雑魚でも、数が増えると面倒だ。

「場所だけでも、今日中に見つけ出したい。今から行こう」

 呼応するサイナの「は〜い♪」を合図に運転席と助手席に移動する。

「弾薬の補充に、潜入に使う道具はこの車に積んである。部屋に戻る必要はないよな?」

 ソソギもカレンも、当然マトイも準備は出来ているだろうと確認を取るが、誰からもそんな言葉は聞こえなかった。

「私の用事はこれで済みました。何かあれば連絡しなさい。以上です」

 立ち上がったドルイダスは、マトイに先導されてモーターホームから出て行き、そのまま1人で駐車場に止めてあった車に乗ってしまった。サイナが肩を回して大きく息を吐いた。俺も初対面はこうであったな、と思い出す。

「‥‥すごい美人な先輩でしたね。あんな方も法務科にはおられるんですか?」

「あの人は、なんていうか‥‥あんまり人が好きじゃないみたいなんだ。でも、俺に仕事を回してくれる人だから、悪い人じゃない」

 後ろからマトイの笑い声が聞こえてきた。

「そうですね。マスターはあまり人が好きではありません。だから、人が少ないここに来て、直接説明してくれたのですよ」

 そういう事だったのかと驚かされた。法務科の中でも輪をかけて表に顔を出さない立場の人物がこの時間、この場に訪れたことに面を食らっていた

「では、出発しますね。まずは目的地であろう場所の近辺から。押さえます」

 言いながらサイナはモーターホームを発進させて、ゲートに向かっていく。周りの道を見て思ったが—————休みであるのに、外に向かう為の車両が少ない。

 その為に、

 適当に外を眺めていたら、ネガイから連絡が入る。

「ネガイか。どうした?」

「あ、もう外ですか?」

「あれ、俺、何か忘れ物でもしたか?」

「何も言わないで隣からいなくなったので、少し心配になりました‥‥」

「あー悪い。ぐっすり眠ってたから。今度行くときは起こしていくよ」

 同じベットで起きた時、ネガイは天使のようだったので、起こすには忍びなかった。納得しながらも僅かに不服そうなネガイが、またも愛らしかった。

「はい、お願いします。私もこれからミトリとシズクとイサラとで仕事なので。夜まで連絡が出来ません。————失礼します」

 話の区切り一歩手前で連絡を切ってしまった。これから出発するらしい。

「あ、言い忘れました♪私のコンパスも、今日は外で使いたいそうなので、レンタルに出してま〜す」

 示し合わせたように、誰も彼もが出払っているのだな。と頭の中で浮かんだ。

 ゲートに到着し次第、自分達の武装や車両を確認をして貰っている間暇だったので、世話になった職員さんと点検の時間潰しとして、しばらく世間話をする。

「これから外ですか?」

「はい、今日は遅くなるかもしれないです。もうすぐネガイも来るので、よろしくお願いします」

「はい、お任せください。ふふ、いいなぁー」

 夏なのに、ぴっちりとネクタイを絞めた職員さんが笑い掛けてきた。

「君みたいな彼がいる彼女さんが羨ましいよ。こうして挨拶までしてくれるんだもん。私も、外に仕事でいいから行きたいなぁ‥‥」

「なら行きますか?」

「え、いいの?」

「今日は無理でも、休みに2人で行ってみますか?」

「いいね!じゃあ、今度の―――」

 そんな話をしていたら、後ろからソソギに腕を引かれ、職員さんと会話を手を振り合って終わりとする。点検過程の書類サインを持ち主が施している最中、ソソギと共に車に乗ろうとした時だった。

「あの、いいですか?」

「どうしました?」

 カレンがマトイに、話しかけていた。

「あの人は?」

「‥‥私には、言えません」

「‥‥わかりました」

「ありがとう‥‥」

 短い会話の中で、何かを感じ取ったらしい2人は、そこでやめてしまった。




 天気予報では初夏と言いつつも、今日の気温は28度にまで上がると告げてきた。

 昨今、サイナの車やネガイと一緒に寝る時は、冷房が常時つけられているので、忘れてしまいがちだが、テレビやラジオでは常に水分補給を忘れないようにと謳うCMが流れている。

 実際、ここ数日で学校や福祉施設での脱水症の患者は、後を絶たないらしい。

 しかし、それら脱水症の原因の一部は、現代ではありえないような慣習によって引き起こされていた。

。死にたいんですかね?」

「前者はどうだが知らないけど、後者は殺したいんだろうな」

 電気代という観点を差し引いても、前者の行いは社会問題のレベルに相当する。

 今や生活必需品とされているエアコンは、国が率先して使用を推奨していた。

 ただ、それでも政府が電気代を下げるように電気会社に言わないあたり、多くの利権が渦巻いているのは、仕事柄、嫌でもわかっていた。政治とは恐ろしい。

「オーダーが脱水症で戦線離脱となる事も、この気温では珍しくありません。水分補給を忘れないように」

 マトイが冗談の声色ではなく、法務科の声で車内に呼びかけた。

「は〜い♪だいぶ近付いてきましたね」

 ナビを見ると目的地は住宅街の中央。更に少しだけ離れているが、でもあった。

 今だから思う。ここは、そういう場所だったのだと。そういう場所だからこそ、のだと。

「では予定通り。私とマトイさんは近くで待ってますから、3人で探索を開始して下さい」

「任せろ。サイナもマトイも、バックアップ頼むぞ」

 マトイは法務科からの連絡を受けなければならない立場な上、もしもの時は俺達に指示をすることもあるので、ここで参謀として待ってもらう事となった。

 サイナは言わずもがな、運転手なので、目的地が現在、ここから離れる訳にはいかなかった。

「カレンは大丈夫か?」

「私もオーダーです。この程度なら苦にもなりません!」

 自覚があるのかどうかわからないが、頬を膨らませて不満を態度と言葉で示した。

 正直、強がっているように見えるが、ここに土地勘がある。暑さから身を隠せる場所も知っているから、恐らくは問題ない。

 だがソソギを見て確認を取ったところ—————若干目を逸らしたのでカレンから目を離さないと二人で誓い合った。

「じゃあ、言ってくる。何かあったら連絡するから」

 短い確認を取って外に出る。三人のオーダーの登場に、奇異の目でも向けられるかと心構えをしていたが、特段、そもそも人影さえ見受けられない。

 まだ朝だからか、少しだけ寒気を感じる。そして日光も雲によって完全に遮断されている―――巨大なドームで囲われているようだった。

「まずは、どうする?」

「聞き込みって言いたいけど。囲まれたら厄介だ。それは最後の手段で行こう」

 面倒になったら予定を早めて適当に暴れて襲われればいい。俺もソソギも本調子な今、ただの人間やヒトガタから襲撃を受けた所で返り討ちにできる。マトイに怒られるかもしれないのが難点だった。

「まずは目的地に行ってみたい。頼むぞ」

「はい。任せて下さい」

 書類からは規模すら読み取れなかったが、ヒトガタの二人はこれに近いものを知っている為、任せる事と成っていた。更に今回カレンには柔軟性が求められていた。

 街中を観察しながら、目的地である住宅街の中央に向けて移動するが、やはり道端で誰とも出くわさない。

「人が少ない。皆んな避暑地にでも行っているの?」

「可能性はあるけど、まだその時期じゃない。行くんだったら夏休みだからもう少し後」

「詳しくのね」

「‥‥少しだけだけど」

 自転車でもつらかった坂道を軽く越えられる。足の長さや肺の大きさ。それら全てがあの時とは――――違うと示している。

「‥‥シズク‥‥」

「ん?どうかしたの?」

「いや、なんでもない」

 カレンからの声に我に帰る。坂道を越えた先にある分かれ道にも覚えがあった。

 このまま真っ直ぐ行けばシズクは住んでいた家がある。シズクは内緒にしていたが、シズクの家は中等部入学から少し経って、この街から引っ越したらしい。

 でも、まだ家はあるのだろう。

 背が高かった塀と、昔は低かった樹木がそれぞれ伸び縮みしている。

「怖いぐらい静かだね。ここはいつもこうなのかな?」

「‥‥どうだろうな」

 迷いなく進む足を、少し止めて迷うをする。

「どっちだっけ?」

「ここを真っ直ぐ」

「あーそうだよな。悪い」

 ソソギに振り返ってわかりやすい演技をしてしまう。いつ見知った顔が出てくるか、神経質になってしまう。

「本当に人がいない。どうなってる?」

 夢に落ちた訳じゃない。その場合、違和感を肌で感じる。ここは間違いなく現実だ。

「罠?」

「‥‥可能性はあるかもしれない」

 足を止めずに進むしかない。人が出てきて欲しい訳じゃない。でも、本当に人がいない訳がないと祈ってしまう。ここはシズクとの思い出の街。ここで一緒に遊んで一緒に手を繋いでいた、生暖かくて、冷たくて、俺を捨てた街。

 無人の街の筈がない。だって、ここは‥‥。

「落ち着かない?」

 後ろからソソギが話しかけてきた。

「少し前から周りを良く見てる。誰もいないのが、気になる?」

「ソソギも、俺の事を良く見てる―――2人に言わなきゃいけない事がある。止まらないで聞いてくれ」

 天気予報とは信用ならないものだ。28度という気温は何処へやら。首筋に冷たいものを感じる。しかし、それは自分が原因だった。

 あの場には俺の恋人と家族しかいなかったのに――――話せなかった。

 本当はに言うべきだった。きっと、あのドルイダスはこの事を知っていた。俺に話す機会をくれたのに、俺はそれを見ない振りをした。

 だけど、同じヒトガタの2人には話すべきと判断した。追い込まれてしまった。

「ここは、俺が住んでいた街―――」

 ソソギが早足で、真横に並んで顔を覗き込んでくる。

「‥‥ここに?」

「ああ。この道とか、毎日学校に行く為に歩いてた」

 通り過ぎて行く家々は何も変わっていない。だけど背が高くなったからか、やけに建物が小さく見える。少し変わった所も見つけた。シズクと競争した時に使ったゴールの目印である電柱が消えている。

「シズクと歩いた道だ。懐かしい‥‥」

 吹き通る風はやはり冷たい。だけど夏休みの時、シーと一緒に手を繋いで歩いていた記憶が確かに刻まれている。

「捨てられたって言ってたけど、帰ってきた事はないの?」

「捨てられてから、一度も帰って来てない‥‥」

 帰ろうと思えば、帰れた。もう俺は仕事と言って申請すれば、交通費やガソリン代などを払われる立場だ。それに依頼によってはこの近くでの仕事も探せばあっただろう。暮らしている時は知らなかったが、ここは日本有数の住宅街。報酬も弾んでいるに違いない。

「近くに家があるの?」

 遂にはカレンも隣に並んできた。

「あると思う。シズクがまだあるって、暮らしてるって言ってた。‥‥それに、

 考えないようにしていた。新たに用意された培養体は既に歩ける程になっていると。

「性別は?」

「聞いてないから、わからない。――――聞きたくなかった」

「‥‥少しぐらいなら時間は取れる。行ってみる?」

「ありがと。でも良い。もう帰ろうなんて思ってない。自分の生家かどうかさえ定かでない家で、あまり良い記憶も残ってない。だから見たくもない。俺を連中の顔でも見たら、殺したくなる」

 本心からそう思う。俺が苦しんでいる最中に、そのまま苦しんでくれと、俺を一切助けなかったあの人間達は、復讐の対象だ。

 顔を見た瞬間、理性が消え去るかもしれない。傍に同じように苦しんでいるヒトガタがいたら、俺は――――。

「そう‥‥。その家と今回の施設、関係はあると思う?」

「恐らくある。それに、ここは工場の近く。全く関係ないなんて事はまずない」

「なら行く?そこで、あの施設は何処にあるのか聞き出すとか?」

「拷問でもする気か?悪くないな――――」

「‥‥え?2人とも冗談だよね?ダメだからね!」

 しばらく無言になってしまったから、カレンが慌てて止めるがそんな気はそもそもない。

「さっき言った通りだ。わざと罠に掛かるのは最終手段。それなりに警戒度を上げる必要はあるけど、まずは目的地に」

「児童養護施設だったけ?見たことあるの?」

 カレンが顔を覗き込むように聞いてくるから、顔を向けて考えてみる。

「正直覚えてない。あったって言われればあった気もする。無かったって言われれば無かった気もする」

「はっきりしてよ‥‥」

「悪い悪い。だけど、あの時は話としても出なかった気がする」

 シズクや仲の良い連中と探検と称してこの近辺を歩き回っていた事もあったが、そんな施設見た覚えがない。

「でも最近出来た訳じゃなさそう。少なくとも運営は6年前から。それ以前は書いてない」

 ソソギがスマホで調べているが、なかなか役に立つ情報は見つからない。施設は巨大な箱のような見た目。ほとんど学校と寮を合わせたような運営をしている、との事だった。

 出資者はあのハエの家は勿論で、それ以外にも武器を製造している企業も関係している。認可もハエの家が後押ししたのだろう。

「対象は12歳まで。小学校卒業までみたい」

「なら、やっぱり俺がここにから出て行ってから始まった。そんな場所があったら確実に見に行ってる」

 絶対に行ってはいけない場所として教員達にきつく言いつけられていた場所もありはしたが、俺の記憶が正しければこの施設は該当しなかった筈だ。

 言われていたのは、あの工場近辺。それは良く覚えている。

「いるのは身寄りの無い子供らしいけど」

「行ってみればわかる筈だ」

「‥‥そうね」

 ソソギが言葉に詰まったのも当然だった。身寄りの無い子供達とは、十中八九ヒトガタの子供。教育とはヒトガタとしての在り方。つまりは、人間に仕えるとはどういう事かを教え込む夜伽の実技場。寮とは成育と監視。余計な感情を持たないように見張る檻。

 そして多くのヒトガタがいるという事は、確実に

「あなたは、どうする?」

「どうもしない。俺達は血の聖女とそれに関わった人間全員を逮捕する。それから先は法務科に任せよう―――これが俺達に出来る最善の手だ」

「わかった。私も同じ事を考えてた。全員救えるなんて思ってなかった」

 急にカレンが手を握ってきた。応えるように握り返す。

 比較とは優劣を決めて、優れていた方を選び取る取捨選択。優れていれば実験の素体として食い潰され、劣っていた方は捨てられる。双方とも時間の問題で処理されてしまう。

「カレン、」

「帰れなんて言わないで」

「俺がいる」

 カレンの手を引いたままで一歩前に出る。

「俺はカレンを捨てない」

 児童養護施設が見えてきた。あの中で行われている実験に興味は無い。だが、あそこはまさしくパンドラの箱だ。ならば、それを作り出したのは神でもある。

 中には人類が持ってしまったあらゆる悪性が詰まっている。欺瞞、嫉妬、悲嘆、非難、苦悩、そして復讐に愛欲。

 人間はそれらをヒトガタという器に注いで、欲望のままにヒトガタで享楽に耽っている。

 そんな箱を開けてはならないと思っているのは誰か?簡単な話だった。それはだ。

 自らの欲望の手綱を操ることを放棄して、隠す為に作り出されたピトスは、箱であり壁であり、最後の理性でもある。

「原罪を忘れてはいない。だけど一度手に取った果実を捨てられる程、俺も人間も進化してない」

 だが、俺は人間よりも後に生まれた種族だ。

「カレンも俺を捨てないでくれるか?」

 顔を向けて確認する。神の振りをして人間が作り出したイブに。

「捨てない。絶対に。約束するから」

 俺もカレンも主である人間に逆らった。だけど、そこに後悔はない。罪の意識など一切持っていない。在るのは主への反逆。自分を天使とは到底思っていない。だが、主である人間達は、創造物である俺達は傲慢であると思っているだろう。

 それでいい。この気持ちを、旧人類である人間になどに理解されたくない。

「だって、あなたは私の―――」



「あ、お忙しい中失礼します!!」

「‥‥。どういったご用件でしょうか?」

「初めまして!!私、実は近くの高校の新聞部の者でして。この施設の取材に――」

「成功した。始めて」

 ギリシャ神話においてパンドラとは人類最初の女性である。そして、パンドラとは神々が人間に対して贈ったである。イヴの材料はアダムの肋骨ではあるが同じ神の手で創造された部分は同じ、また罪や罰という点も同じと言えるかもしれない。

 だが、創造された目的が違う。

 パンドラはある意味において、人間への罰をとして生まれた。

 イヴはアダムに相応しい女性を作ると決めて、生まれたとされている。しかし、どちらも人間が愚かな結末を迎える点は同じだ。

 カレンが正面玄関からインターホンを押して、時間を稼いでくれている。

 ならば成すべきは決まっている。建物内の大まかな間取りを確認した後、あの球体を探し出し、血の聖女を見つけ出す事。

「解除成功」

 サイナから受け取っていたツールをスマホにインストール。それを使って裏口の電子ロックを開ける。工場の地下扉よりも簡易的ではあった。だが、この養護施設は、実は核の実験施設なのだ、と言われても信じてしまう程に厳重で強固な扉だった。

「これもサイナ特製」

「また必要があったら買わないと」

 この建物はまさしく箱だった。庭と言えるよな最低限の設備はあるが、それ以外の最低限必要な物は全て箱に収めた様子だった。

 同時に牢獄でもあった。逃げる者を決して許さないという意思の現れが、建物中に設置されている監視カメラで見て取れた。監視カメラに映る訳にはいかない。当たり前の事だ。

 だが一度しか潜入する必要がないのなら、映った所で構わないと思っていた。

 しかし、その短絡的な思考は捨て去る事となった。

「間違いない。あの子達はヒトガタ」

 庭で遊んでいるをしている子供達を見て、3人共そう思った。

 例え子供の姿とは言え、ここでヒトガタとしての教育をされている以上、拳銃の扱い程度できるだろうと判断した。

「破壊可能。凄い‥‥」

「サイナとシズクの合作だ。続けるぞ」

 監視カメラが誤作動を起こして電源が止まっていく。見た目はボイスレコーダーで、実際音も拾える。だが、それ以上の価値がある。

「EMP―――詳しく知りたかったら、お金を払って言われた‥‥」

 ふたりの手の中にあるボイスレコーダーは見た目以上に重い。その上、高い。

「壊すなよ。サイナに泣かれる」

 ソソギがサイナに注文していたのは武器だけで無かった。会議が終わり現場近くに着いた時、サイナから手渡された物がこれだった。試しに俺も欲しいと、言ったらあっさり貸してくれた。だけど笑顔で、「一日5万で〜す♪」と言われた。嗚呼―――高い。

 侵入時、最初に見えたのは白い廊下だった。そして、数m間隔で並んだ監視カメラ。

 監視カメラを破壊して走っていくと、ガラス張りの廊下に変わった。少なくとも、自分が思い描いていた施設とはかけ離れていた。

「あれ、ベットか?」

 廊下のガラスを越えた更に奥。もう一枚のガラスを越えた先にベットらしき白い担架のような物が並んでいた。

 頭に浮かんだものは、だった。

「‥‥ソソギも」

「アルファに選ばれてからは私とカレンも、カメラはあったけど、個室があった―――あれはアルファ以下」

 ソソギが要点だけ話してくれた。そして、容赦なく、あれは自分以下だと言い放った。




「聞いておきたい事がある」

 作戦実行の30分前。パンドラの箱周辺での質問。

「アルファとかガンマとか、そういう階級があるっていうのは聞いたけど、もう少し詳しく教えて欲しい」

 病院を襲ったヒトガタはエプシロンと呼んでいた。同じヒトガタなのに、を持たなかったのが、不思議だった。

「わかった。私とカレンはアルファって呼ばれてる。これはヒトガタにとって上級の位だと覚えておいて」

「アルファより下は、ベータ、ガンマ、デルタ、エプシロン。だけど、基本的にガンマ以下は生まれないの‥‥」

 カレンはそこで顔を背けてしまった。

「ガンマ以下は、もう生まれない。ガンマ以下を生み出した価値が低い貴き者の血は、使用されないから。それに‥‥ガンマ以下は生まれてもすぐに」

「わかった。言わなくていい。‥‥じゃあ、アルファとそれ以外って、どう違うんだ?」

 あのエプシロン級はまるで人形だった。生きているという雰囲気を感じなかった。

「アルファ、ベータ、ガンマは生まれた時は皆んな同じ。自動記述に照らし合わせてみて」

 ソソギが頭に触れてきた。

「目を閉じて」

 言われた通り、目を閉じる。仮面の方やソソギが権利、鍵だと言った理由がわかった気がする。

 自動記述にアクセスする。今までは本の書き出ししか読めなかったのに、今はページをめくる気分で、深層に触れる事が出来る。

「‥‥上から選ぶのか」

「そう。能力や知力、それに容姿も含めて、上位のヒトガタがアルファと呼ばれる」

「容赦ない―――見た目なんて、生まれた時の遺伝によって違うのに。それに、エプシロンだって、あんなに美人だったのに」

「そう。容姿は選んだ人間の匙加減で決まる。特別なマニュアルがあるのかもしれないけど、それはヒトガタにはわからない」

 頭から手を離したソソギは、足に装着している銃をスカート越しで触る。

「戦闘力も含まれる。私は戦闘力と容姿、それに知力でも選ばれた。‥‥そこだけ、少し自慢。酷い?」

「酷くなんかない。ソソギは強いし、美人じゃないか。誰が見てもそう思う」

 スカートを触っていたソソギの手を持ち上げて、見つめ合う。

「‥‥俺は、容姿も知力もなかった。戦闘力だって、借り物だった」

 ソソギやカレン、イネスと比べるまでもなく、俺は―――美形とは言えないだろう。そして知力ではシズクに負けている。

 力だって、仮面の方や瞳の女達がいたから、戦えていた。

 やはり俺は何も持っていない。

「‥‥俺は多分、アルファにはカテゴライズされてないから、家のプランだったんだ」

 持ち上げていたソソギの手が重くなってきた。

 俺は失敗だと判断されたから、外に売られた。大量生産の中の俺は、ソソギやカレンのようなオーダーメイドではない。

「やっぱり、すごいよな」

「何が?」

「2人とも、最初から特別な」

「ヒトガタに拘る気?」

 重かった手が軽くなった。逆に持ち上げられる。

「あなたが言ったこと。ヒトガタの生き方なんて捨てろ。あなたは違うの?」

「‥‥そうだ。忘れてなんかいない。つまんない事言ったな。忘れてくれ」

「手のかかる人」

 呆れたような声色で、頬を撫でてくれる。やはり、ソソギから年上の魅力を感じる。年上、好きかも―――。

「いつまで手を握ってるんですか?」

「ん?ずっと―――冗談」




「カレンは大丈夫なのか?」

 カメラを破壊して、走り続ける。見つけた部屋を片っ端から開けて手掛かりになりそうな物を探していくが、何もない。

 あっても精々がヒトガタの経過ファイル。成長スピードや体調についての記述のみ。はっきり言って、無価値だ。

「平気。銃の扱いや体力に問題があっても、カレンは特別捜査学科だから」

 探しているのは、血の聖女を使った。血の聖女はヒトガタの血にはなり得ないが、人間には特別な力を与える。

 だから、ヒトガタではなく、人間の経過や改造後のが述べられている記述を探しているが、何もない。

「カレンは平気。何かあった時の為に、サイナとマトイが待機してる、それにサイナから買った物もある」

 同じファイルを探しているソソギの視点が、だった。

 ソソギは部屋を数秒見ただけで、「ここを探して」と言って探すべき場所を指定してくる。それに従って目の力を使い、背表紙や書き出しを頭に焼き付けてからサルベージすべき箇所を探す――――ソソギの指示は正しかった。

 可能性がありそうな書類は、全てソソギが指をさした方向にあった。

 それでも、価値としては無に等しい。

「‥‥もっと深層みたいだ」

「‥‥みたい」

「ソソギ、いた場所と、ここは似てるのか?」

 過去に一度入った事があるよな足取りだった。別れ道になった時、ソソギが前に出てどちらに進めばいいか、教えてくれる。

 それに、シェルターのような扉に差し掛かっても、ソソギは迷いなく扉にスマホを当てて、解錠する。誰かがいるかもしれないというのに。

「似てる。私もここまで同じだとは思わなかった。この建築は、ヒトガタの成育にとって都合がいいみたい」

 同じ物を作るということは、同じ額が掛かるということだ。

 予算に土地の維持費。本来はそれらの観点から建築を始める筈なのに、ここはこの建物ありきで運営を開始していた。一体どれほどの意味が、この箱にあるのか、見当もつかないが、少なくとも檻の役目はあった。

「見て、内側にはノブが無いの」

「‥‥みたいだな」

 廊下を走りながらソソギが指を差した方向には、全面ガラスの檻があった。

 ガラスの檻の扉には、外からは開けるドアノブがあっても、中には無かった。

「ああやって経過を見たいヒトガタは閉じ込めるられるの。シャワーもトイレもあの中」

「‥‥いた事、あるのか?」

「当時は恥とかの感情は無かった」

 恥という当然の感情を失くさせていたのか、それともそもそも考えさせないようにしていたのか。

 どちらにしても、やはり人間は俺達を実験体としか見ていなかった。檻で監視して、成育過程を見ている光景が容易に想像出来る。

「ソソギ質問がある」

「誰もいないのは、私もおかしいって思う。だけど、

 隣では走っているソソギが、当然の疑問に答えてくれる。

「ここはヒトガタの経過を見る場所だから、経過を見たいヒトガタがいなければ、使われない。常にここで生活している訳じゃないの。敢えて言えば、ここはヒトガタの修理工場でもある。計測外や規定外の行動や数値を出したヒトガタは。

「具体的には?」

「計測外と規定外はヒトガタの能力テストで求められる以上、または以下の能力を示した時。求められる数値とは、誕生種を実行するのに、必要な能力。端的に言えば、人間に刃向かった時。あなたや私のような個体の事」

「捨てられるか、廃棄されるかを、ここで決めるのか‥‥」

「―――そう」

 出来るだけ足音を抑えてはいるが、人と同じ質量2つ分の足音は確実にフロア全体に響いている。

 だが、誰も出てこない。ここまで派手に監視カメラを破壊しているのに、警報一つ鳴らない。

「警備室や保安室はどこだ?」

「わからない。私達ヒトガタは、不要な所には、行かせてもらえなかった」

「なら、職員がいつもいた場所は?」

「わからない。ごめんなさい‥‥」

「気にするな。ソソギがいないと、俺は何も出来ないんだから」

 想像はしていた。余計な所に行って、無用な価値観を覚えてしまっては危険だからだ。

 ヒトガタは使い捨ての消耗品ではあるが、同時に自分たちの欲望を叶える、器になる可能性がある。危険な場所を出来る限り歩かせてたくなかったのだろう。ましてや、それがソソギのような貴重で優秀なヒトガタであるのなら、当然だった。

「世間話のつもりじゃないんだけど、ソソギはBプランだったんだよな。ソソギより上がいたのか?」

「いた。まだ生きているかは、わからないけど」

 ソソギが廃棄されずに捨てられたのは、本筋が失敗した時の為のサブとなるからだ。

 ならば、当然、本筋のAプランがいるだろうと思っていた。だが、ソソギはここでの動きや査問学科所属に裏づけされた戦闘力といい、非の打ち所がないように思える。そんなソソギを押して、本筋となったヒトガタがいるとは、思えなかった。

 もしソソギを超えるヒトガタが1人2人いる場合、撤退も加味した作戦変更を考える必要がある。

「そういう優秀なヒトガタは、一つの研究所や実験所に、1人はいるのか?」

「いないから、言わなかった。もしいたとしても、戦闘になる可能性は0って言える」

「なんでだ?」

。もし私を超えるヒトガタが、それこそイネスと同等か、それすら超えるヒトガタがいたら、怪我なんてさせられない。もし死亡でもさせたら、が起こる。人が死ぬだけじゃあ、済む訳ない」

 言われれば簡単な話だった。ここは戦闘部隊を作り上げている訓練所ではない。

 ここはヒトガタを使って、目的を果たす為のエデンの園。

 流血沙汰なんて、最も避けるべき事案だろう。

「それにイネスを見ればわかるでしょう。彼女ほどのヒトガタが、そうそういると思う?」

「‥‥そうか、いないからここまで大規模の施設が必要なのか」

「イネスがいた場所は、こことは違うと思うけど、そういう事。ふるいに掛けられるのは、自分たちが作り上げたヒトガタにから。イネスはまた違った選別をされたみたいだけど‥‥」

 それ以上の私語は慎み、足音のみを落とし廊下を走り続けた後。つい最近、確認した扉が立ち塞がる。そして―――まるで指示されたように、二人のヒトガタが唐突に白い壁から現れ、トンファー状の杖を構えて迫り来る。

 迎撃しようと腰の杭へ手を伸ばすが、ソソギに手で静止を求められ、瞬時にブレーキを掛ける。しかし、当のソソギはトンファーのような杖を持ったヒトガタへ止まらずに駆けた。

「弾丸は貴重なの―――素手で仕留めるっ!」

 トンファー型の武器で刺突を放つヒトガタの一撃を、ソソギは余裕で首のみで避け、拳を造らず、指をまとめた手刀を無防備なヒトガタの肝臓に突き入れる。

 息つく暇もなく、ヒトガタの1体が倒れる寸前、もう1体のヒトガタが突きを放つ。

「次」

 その光景に、にべもなく黒髪を靡かせ回避し、放たれた杖の中程を掴み止める。

「痛い、だけど我慢して」

 無警戒に顔を近付けたソソギに耳元で囁かれたヒトガタは、瞬時に顔を紅く染めるが、直後に白へと移行する。足のガンベルトから引き抜いていたヨーク連発銃のグリップを使い、背中を殴られたヒトガタが抱擁され、胸の中で気絶する。

「終わった。どうかした?」

「‥‥杖、奪って行くか」

「そうね。私達でも使えそう」

 銃を戻した手で慣れているように、ヒトガタの杖を渡してくれる。

「付け方わかる?」

「‥‥やってみる」

 受け取った杖は間違いなく、病院へ襲撃を仕掛けたヒトガタの武器であった。外観はクラッチ杖に近い。と言うよりも、見た目は病院等で使用される杖とほとんど変わらなかった。

 見様見真似で肩近くの輪に右腕を通して取手を触ると、自然と輪が締まるのがわかる。

「これは対人制圧用。出力はそれほどでもないけど、受けたら肋骨は確実に折れるから。扱いには気を付けて」

 ゾッとする内容を口にしながら、杖の長さを調節する。試しに自分も真似をしようと足掻くが、使い慣れない武器の扱いに四苦八苦してしまう。見かねたソソギが口にする。

「掴んでる部分にボルトがあるから押して長さを調節して。長過ぎると使い辛いから───下手ね」

 言われた通りにボタンを押し込むが、杖はトンファーと同じ大きさへ、もう一度押し込みと腕以上の長さへと変貌して言う事を聞いてくれない。よって母性の塊であるソソギに、

「‥‥ソソギ、教えて。一人じゃ無理みたい」

「初めては皆そう。恥ずかしくないから任せて」

 小さく頷いた黒髪の美女が、真横で手を取って教えてくれるが自分には扱えなかった。諦めたようにソソギ自身がボタンを押して調節を施し、耳元で「これでいい?」と終えてくれる。不器用ではない方なのに、何故だろうか。

「これも自動記述が上手く使えない弊害か」

「あなたが下手なだけ。外したかったら取手を離して、腕を振って、簡単に外れるから」

 杖を装着していない方の手を引かれ、ソソギと共に扉の前へと躍り出る。

 間近で見れば確信出来る。これは間違いなく、工場の地下で見たものだった。大きさや清潔感は若干異なるが、それでも万人が見れば万人が同じだと答えるだろう。なによりもだった。

「何があると思う?」

「わからない。私もこの扉を開けるのは2回目」

 受け取ったツールを起動して、眼球を向けるパネルにスマホを押し当てる。

 ロックが解錠される音も、数もほとんど同じだった。あのハエが出資している企業が扱っている扉なのだろうが、もう少し頭を使うべきだ。一度解錠されたロックをそのまま流用しているなんて、どれほど慢心しているのだろう。

「私が」

「いや、俺が開ける。後ろを見ててくれ」

 最後のロックが解除されたのを確認し、終わりに自力で分厚い扉を押し開けた時――――やはり同じなのだと確証を得る。出迎えられた部屋の壁中に、空気が放出される孔が設置されていた。工場も不気味だったが、こちらは輪をかけて不気味で生々しかった。

 空気孔の中央、人間の眼球を彷彿とするカメラが共に備えられている。入室した瞬時に、眼球型のカメラの視線を一身に受けた。

 ヒトガタに救われたと心底安堵する。サイナは勿論、マトイにもこんな感覚を味わせたくなかった。この全身を監視されている不快感は、人間であれば耐えられないだろう。

 背後で見張りを行っていたもう一人のヒトガタに「いいぞ」と指示を送り入室を許可する。

「────あの工場に似てる。でも、何故こんなにも天井が高いの?」

 高い天井により声がよく響いた。また響いた声で理解する、ソソギもだいぶ不気味だと思っているようで声の語尾が僅かに震えていると。

 目算では軽く4mは超えている。だというのに扉の高さはせいぜいが2m程度。アンバランスに感じる。恐らくは、視覚的な違和感も感じるからこそ、この不気味な気配が強いのだ。

「行こう」

 簡潔に伝えたソソギの手を引いて、出口へと向かう。

 脱出しようとする背中を追うかの様に、カメラが――――眼球を向けてくるのが音でわかる。そんな無機的でありながらも命令通り動く、生々しい音にまばたきの想像するした。

「‥‥5分待て?無理だ、開けろ」

 扉を開けられるという事は、施設管理責任者と同等の権限であるとOS自身が判断を下したらしく、画面に従って権限を行使した結果、開閉ボタン一つで開ける事が叶った。

 開くと同時に、今度はソソギが飛び出すように手を引いた。

「平気か?」

「平気。‥‥また、ここを通る?」

「確実にな」

「‥‥気が滅入る」

 吐き捨てるように言った後も、ソソギは手を引いたままで歩き始める。エアシャワー室を通った後もガラス張りの白い長い廊下のままだが、先ほどと予想通り様子が一変していた。

 そして、これも工場と同じだった。

「精製施設か」

「‥‥私もここまで大規模なのは初めてかもしれない」

 ガラスなのかどうか知らないが、大小様々な透明な筒の中にはが満たされている。液体は下から吹き上げる泡によってかき混ぜられ、中で蠢く赤い肉塊を揺らしていた。

 ソソギが言っていた意味が、今更ながらわかった気がする。

 ソソギもカレンも、こうやって生まれた。この肉塊が人の身体になるまで筒状の試験管で見つめられていたのなら、2人がどれだけ美しくても邪な目で見られることはないだろうと。俺も、元々は、こんな姿だったというのに────。

「ここで毎日、生まれてるのか────」

「毎日ではないにしても、少なくとも1週間に一度のペースで生まれてる」

「‥‥生命って、軽いな」

 踏み出すべき足が重くなる。皆同胞だとしても、母胎から無理に引き出した胎児を想像してしまう。────こうして眺めていると、あの肉塊達は同胞とは思えなかった。

 物としか目には映らない。

「‥‥伏せて」

 言われる前に伏せていた。廊下のガラスの向こう側に―――人影を確認した。

「‥‥成育者たる学究の徒、だったか?」

「そう、逮捕の対象。だけど、今じゃない」

 ガラス壁の向こう側にて、背を向ける白衣が三人もいた。白衣はスマホとタブレット片手で、肉塊を包んでいる筒を囲んでいた。何か話しているようだが、ここからは聞こえない。

「顔だけでも撮影したい。見張っててくれ」

「わかった。でも、乗り出さないように」

 ソソギに指示を出し、少し距離を取らせた。

「また、会ったな」

 ――――この声は、誰にも聞こえない。もしかしたら、頭の中で思っただけなのかもしれない。だけど、それ以上は求めない。必要もなかった――――誰かに聞かせたかった訳でも、言い聞かせたかった訳でもない。

 片手でスマホを取り出し、撮影に移行する。

 筒を囲んでいる白衣は全員男性だった。内二人は経過観察でもするように筒を眺め、自分達の主任らしき、もう一人の男性へと意見を伺う。数度も中央の男性へと顔を向けたが為、運良く撮影は容易に進む。

 だが、残り一人は常に背中を向けていた。

「‥‥あの時も、背中だったな」

 後ろ姿でわかる―――

「なんで、ここにいる。あんたは俺を捨てたのに」

 男性型のヒトガタは貴重。

 ならば、任せられた人間は優秀だと判断されたからこそ、成育者と成れたのだ。ここでヒトガタ相手に働いていても不思議じゃない。そもそも俺を養っていたのだって、自らの野望を満たす為なのだから、ここにいても尚の事不思議じゃない。

「新しいヒトガタがいるんだろう。なんで、ここにいるんだ。逮捕されるだろう‥‥」

 家にいるヒトガタは寂しくないだろうか。心細くないだろうか―――怖くないだろうか。

 もはや俺にとってはだった。背中だけで、あの人だとわかる。

 だけど、俺はここにいる。

「‥‥こっちを向け‥‥そう、そのまま‥‥」

 背中を向けている白衣は、背後のステンレス製のワゴンへと手を伸ばした。上に置いてあるスマホを手に取りたいらしい────そうだ。こちらを向け。ダメだ、向くな。

 向かないと、オーダーとしてここに潜入した意味がない。

 振り向くな、顔を見せたら撮影してしまう。

 また、お前はヒトガタを捨てる事になる。お前にヒトガタを捨てさせる事となる。

「‥‥終わった。行こう」

「見せて───上手く撮れてる。行こ」

 ソソギからのお墨付きを得て、撮影を終了とした。そのまま伏せて―――のように、背中を向けたままで廊下を進んで行った。

 白衣の人間達を後にし。新たな扉を抜けた時、光景がまた一段と不可解となった。

「また雰囲気が変わったな」

「これはプラネタリウムっていうの?」

「前にネガイと行ったけど、こんな感じだった気がする。‥‥それだけじゃないみたいだ」

 次の部屋はドーム状で、すり鉢の教室を思い出す。極め付けに舞台も用意されていた。

「―――今時は、なのかもな」

「私達の知識は足りないって事?こんな設備、初めて見た」

「という言うよりもジェネレーションギャップ。俺達は、もう1世代前の古いヒトガタかもしれない」

「‥‥なぜか、不快」

 言い知れない怒りをソソギは感じているらしく、頬を膨らませて投影機に近づく。

 部屋の中央には、天井に星を映し出す小さい地球のような投影機が設置されている。投影機がなければ―――にとって違和感なく受け入れられただろう。やはり俺達は第一世代のヒトガタなので、もしかしたら今の世代にとっては、この光景は普通かもしれない。

「少し調べるか?」

 薄暗い部屋の明かりを探すが、見つからない。これ以上明るくするには、別室の設備が必要なのかもしれない。

「いいえ。全部終わったらすればいい。それよりも、今は調べたい事がある」

 とは言うが、ソソギ自身もこのドーム状の部屋が気になるらしく、辺りを見渡した。

「聞いていいか。なんで、。早く釈放される交換条件としてやるべき仕事だったのか?」

「‥‥ふふ、やっぱり

 振り向いたソソギは、罪悪感とも後悔とも取れる感情を併せ持つ儚い笑みを浮かべた。

「いつからそう思ってた?」

「いつから。そう聞かれてると答えにくいけど、強いて言えば―――病院で眠らされた日」

「そう、その間、ずっと私はあなたに見逃されていたのね」

 違和感は最初からあった。あの法務科が、簡単に今までの前例を覆してまで2人を早期解放するとは思えない。しかも、護送を俺とマトイという2人に近しい人員に任せた。

 本来なら、二人とは無関係な職員に監視しされ、寮まで送り届けられていた筈だ。

「怪しいと思ったのは、病院でだけじゃない。マトイにもだ」

「‥‥作戦失敗」

「マトイは『血の聖女』を探し出せと言ったが、実際には向こうからの接触を待つしかなかった。俺がカレンに眠らされた時、何か取引をしたんじゃないか────俺を騙す代わりに、俺の自動記述を完全な物にするとか」

 マトイの足の上で眠っていた時、ソソギは「私も、気になっていた。本当にあれで終わったのか」と言っていた。

 だけど、あの時、誰もカレンが誘拐されていた時の仕事だとは言わなかった―――勘違いをしていた。後の行動も含めて―――4人に誘導され、自分の中で作り出した錯誤だった。

「工場に行ったのも、俺の勘違いを補強する為だった。それと、ここを下見する為に」

「‥‥そう。私達はあの日、ここに来た。でも、潜入は今日が初めて」

 多分、ソソギは嘘をついていない。ここまで来て、騙す必要はない。

「この養護施設への潜入は元々決まってた。だけど、偶然早期に潜入を強行する理由が『あの書類』によって生まれた」

 潜入とは何日も掛け、実行する日取りを決める。いくら成功例が生まれるのを避ける為とは言え、即日決行させる事はまず無い。

「法務科にとっても、これは想定外の出来事だった。マトイの師匠が直接出向く程の事態になるぐらい」

「それは私にもわからない。でも、あなたの言っている通り。遅かれ早かれ、潜入は私達で実行していた。きっと法務科という強い組織の後押しと許可を得てから」

 法務科がハエをわざと逃す作戦を考えたのは何時なのか。

 そんな事を俺程度にはいちいち話さないだろう。だけど、間違っていない。

「もう一つ。工場への捜査は、養護施設の下見の為だけじゃない―――工場に行った理由は、あの扉の事を知ってたからだな?」

「あの工場の扉は予行演習でもあった。サイナとマトイが用意したこのツールは、ここのロックにも通用するか、試す必要があった」

 静かに後ろ手に組んだソソギが目を閉じる。

「それと『終わった』。これはどういう意味だ。何に対しての言葉だった?」

「‥‥怒ってる?」

「どうかな?」

 目を瞑っているソソギの頬に触れてから耳を触る。薄くて柔らかくて、噛みちぎりたい。

「私を食べたい?」

「その前に聞きたい。法務科とどんな取引をした。カレンを置いてどこに行く気だ?」

 耳から手を離そうとした途端、ソソギがそれを許さず両手で掴んで耳元に当てる。

「私とカレンは、全部話したの。私達がいた研究所の事も、私達がどんな事をしたのかも全部。向こうでされた事も、話した」

「‥‥俺には言ってくれないのか?」

「言いたくない。それとも―――言わせたい?」

 耳に当てられている手が、震えたのがわかる。

「私の目が欲しい?」

「‥‥欲しい。でも、それは後だ」

「本当に後でいいの?」

 飲み込まれそうな唇が艶やかで艶やかで。なのに初心な少女像を瞳が伝えてくる。

 褐色の瞳が仄かに涙を含んでいる所為だ、震えているのがよくわかる。揺れる瞳と震える眼球がソソギを一回り大人に変えている。同時に、手を奪う様に耳へ当てているソソギは、紛れもなく少女だった。

「‥‥ここでしたい?私は、今したい」

 声を聞く度に。この目を見つめる毎に理性が消えて行く。唾液が止まらなくなる。

 けれども────言うべき事は忘れられなかった。

「謝る為に誘うな。俺は怒ってない。でも、仲間外れは嫌なんだ」

「ごめんなさい‥‥」

 ようやく謝ったソソギが、寧ろほっとしたように耳から手を離してくれる。

「ソソギとカレンの頼みを、俺が断るって思ったのか?」

「‥‥でも」

「ソソギ、よく聞いてくれ」

 両手を肩に置いて、逃げ場を奪う。

「俺は、ソソギもカレンも愛してる」

「‥‥それは、家族として?」

「そうだ。だけど、それ以上にも、なりたいって思ってる」

 俯いている顔を見上げるように、手を離して屈む。

「ソソギとの時間は、俺にとって特別だった。ただの待ち時間でも楽しかったんだ」

 病院でソソギとカレンと、一緒に待つ時間すら愛おしいかった。ずっと体験出来なかった、もう二度と手に入らないと思っていた家族のとの時間は特別だった。

「2人との時間を過ごせるなら、なんでもできる。相手が人間でも怖くない」

「‥‥本当に?」

「ああ。誰でも引き裂くし、誰でも壊す。言ってくれ、俺は誰を消せばいい?」

 冷たい手を取って跪く。

 仮面の方以外に、これを初めてするのがソソギとは思わなかった。

「私、卑怯者なのに‥‥」

「それは俺も同じだ。‥‥これは内緒で―――カレンも同じ事を言ってた」

「‥‥初めて聞いた。‥‥そう、カレンも、あなたにしか言えない事があるのね。カレンに負けられない」

 下を向いていたソソギが手を引いて、引き上げてくれる。立ち上がった瞬間―――舌を噛んできた。手放すように、手渡すように舌を預けて鋭い歯の感触を味わう。

「痛い?」

「気持ちいい‥‥」

「ずるい。今度は私にもして」

 鋭い刀剣のような目を細めて、笑ってくれた。

「約束する。次は、こっちがソソギを食べるから。それで、法務科とはどんな取引をしたんだ?」

 あの法務科との取引とは―――十中八九、司法取引。法務科がそんな取引に応じるとしたら、余程の事だ。

 早期解放や監視の免除、イネスとの再会も含めて、ただ元いた場所の事を話すだけでは足りない。それこそでも取ってくるような手土産が必要だろう。

「研究所から出る時に見た光景とか、思い出せる物を全部思い出して、法務科に伝えたの」

「本当にそれだけか?」

「そう。それだけ。でも、私達の証言が決め手になって研究所の場所が特定された。だから、もう無い。法務科が滅した」

「すごいな‥‥」

「そう。全部話したら、数日で滅ぼしてくれた」

 法務科は、この国の中であれば超法規的な行為を誰が相手であろうと行使できる。

 それがどんな繋がりがある組織や集団であろうと、法務科が仕留めると決めたら、誰も止める事ができない。それこそ、相手が人間以外であっても。

「それが功績という事になって、法務科が早期の解放を許してくれた―――それと、今回の捜査への参加も必須だった」

「そこだ。―――血の聖女絡みだからって、なんでソソギとカレンなんだ?」

 コミュニケーションの問題で、イネスとの間に2人が必要だったと言われればそうだったかもしれない。だけど、やはり2人を解放してまでを図った理由がわからない。

「ソソギもわかっただろうけど、早期に血の聖女を奪取したいなら、マトイの師匠がいれば数時間で終わる」

「私もそう思う。あの人がいれば、1日と掛からない」

 サイナの家に強襲したように、拠点への攻撃は人員が必要、それは潜入でも同じだ。なのに、法務科はたった3人のヒトガタに頼った―――

 あのハエの戦力は大したことないとしても、法務科は本職を出さないで、2人を頼った。それはなぜだ?

「言いにくいかもだけど、話して欲しい。ソソギは、何を知ってるんだ?」

「‥‥実は私達は、ここと関係がある」

 急にソソギが、こちらの胸辺りに手を付けてきた。

「この施設に関係する―――開示された情報の中に、私とカレンは覚えている事があった。さっき言った通り、私達がいた場所は、もうない。だけど、

「逃げられたのか」

「いいえ、強制捜査をする前にどこかに出向させられたみたい。それがここ」

 強制捜査をした時に得た情報を元に割り出したのか。相当の執念だ。余程捕らえれなかったのが、腹に据えかねていたようだ。

「じゃあ、ソソギとカレンは、そいつを探す為に?」

「‥‥私達の仕事はそうだった。血の聖女がここに運ばれたって言うのは、私がマトイに頼み込んだ言ってもらった嘘」

「マトイの演技にまた騙された。血の聖女については、イネスから聞いたんだな?」

「‥‥そう、ふふ。イネス、真っ先あなたの事を話すの。あなたに救われて幸せだって。その時に、血の聖女について教えてもらった」

 言いながらソソギが、胸を撫でてくる。これにどんな意味があるのか、知らないが、やけに上機嫌だ。止めるに止められない。

「よくあのマトイが、そんな交渉に着いたな」

「だから、私達はイネスに頼ったの。って。あなたが言った事なのに、わからなかった?」

「冗談のつもりだった」

「嵌められた‥‥」

 胸に付けていた手を拳にして、押し付けて回転させてくる。端的に言えばグリグリ、まぁまぁ痛い。

「その飛ばされた奴って、どんな奴なんだ?」

 あの法務科が、今までの前例を捻じ曲げてでもふたりに頼るという事は、余程の相手なのだろう。

「一時だけど、私達がいた場所の。顔写真も撮らせない――――徹底した人だった」

2ってことか」

「そう。だから、法務科は私とカレンに直接逮捕しろって言ってきた。それは、私達にとっても好都合だった」

 胸から手を離したソソギが腕を掴んで、耳元に口をつけてくる。

「予行演習は成功した。ここへの潜入も、問題なく成功。でも、私ではここが限界だった」

「‥‥どういう意味だ?」

「私では、

 悪魔。それは、人間のことだろう。

「悪魔に何をされた?」

 爪と牙が伸びていくのがわかる。

「‥‥カレンを廃棄処分にすると言った」

 悪魔と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。

「悪魔か。そいつは、今どこに?」

「あの女は――――ああ、ここにいる‥‥」

 

「ソソギ?」

「あ、あぁ‥‥」

「‥‥いるのか?」

 悪魔とは神を中傷し、人間を誘惑する。そして契約した人間の魂を地獄へと連れて行き、永劫に苦しめると言われている。

 だが、なぜそんなのだろうか。なぜ、のだろうか。

 ソソギは舞台の方を見て、固まってしまった。だが、ゆっくりと指を上げていくのがわかる。

「いい物見せてもらっちゃいましたね」

 高い声だった。一文字一文字が耳朶を叩く度に、ソソギが震えていくのがわかる。

「でも、久しぶりにあった先生に、悪魔なんて酷ーい。影で皆んなが、言ってたのは知ってたけど、実際に言われると凹むなー」

 悪魔が何故いるのか。それは人間に悪性を教える為、神が創り出したのか?それとも、天使が堕天した姿なのか?

 もしくは特定の宗教を広める為、他宗教や土着の神を悪魔と見做したからなのか。全ては、神のみぞ知るだろう。

 だが、。それも

「わざわざ、あなたに目をかけて、時間もお金も人も沢山掛けてあげたのに―――言っちゃうんだ」

 振り返った舞台の上には、杖をついた白衣の若い女がいた。

「それに、その位置―――なんか、見下ろされてるみたいじゃん。増えるしか能のない

 凍り付いたように動かなくなったソソギを座席に座らせ、M66を抜く。

「でも、私嬉しいかも、こんなにかっこいい彼氏さんが出来て。今日はその挨拶かな?」

 ソソギが、悪魔と言った理由がわかった。

「どうも始めまして。そこのソソギちゃんの成育者だった先生だよー」

 人間の悪性が形となった笑顔だった。焦点のあっていない瞳、白過ぎる歯と白過ぎる肌。それらを覆い隠すような漆黒の髪。

 不気味な程、完成された肉体を持ったそこにいた。

「どうしたの?久しぶりに会ったのに、もっとおしゃべりしよう?あ、それとも先生と遊ぶ?」

 広げられた手の美しさに目が惹かれるが―――違和感がある。

 顔と手の骨格が合致していない。

「もしかして先生ってわからないかな?ごめんね色々から、わからないかー」

「‥‥ヒトガタを解体ばらしたのか」

「あ、わかった!?そうそう、ヒトガタって見た目はいいから厄介だよね。我慢しても我慢しても、欲しくなっちゃうの」

 悪魔など生温い。これは、だった。

「今のチャームポイントは、この髪と足かな?どう?ソソギちゃんをイメージして、用意したんだよ?」

 短いスカートを持ち上げて、見せてくる足は血の気を感じない程に白かった。

 同時に、まるで機械のような動きだった。

「ダメだよ、彼氏くん。先生がいくら綺麗だからって、そんなに見つめちゃー。あ、それとも先生に乗り換える!?じゃあ、ソソギちゃんはかな?」

 ―――足場にした座席が背後で跳ね上がる。座席を砕き、肢体への過負荷を代償に得た砲弾の勢いで舞台に着地する直前―――眼球に鮮血を込め、悪魔の取り得る可能性を掴み取り杖を振り上げて、首を狙う。

「そんなに先生と遊びたい?」

 舞台に着地寸前、M66の連射を見舞って、白衣の上から身体全体を骨折させ、全体重をかけた突きを『先生あくま』の首に放つ。

 ――――だが、座席に設置させている肘掛けが、自分が弾き返されたと。

「そんな若いだけの突撃なんてされたら、先生困っちゃうな?」

 首筋に寒気を感じ、全力で杖を床に叩きつけてその場から逃げ去る。それと同時に357マグナムの最後の連射を放つ。

「凄い早撃ちだねー。それでソソギちゃんを落としたのかな?」

 確実に肺に357マグナムを3発叩き込んだ筈なのに、『先生あくま』は気にした様子もなく、白衣の下の腕に装着していた杖で―――舞台からの突きによって座席を吹き飛ばしていた。

 杖で体勢を整え、M66をホルスターに戻し、P&Mを抜き向ける。

「沢山武器があるんだね。いいよ、沢山の武器を持ってる男の子は夜に強いよ」

 こちらが今付けている杖よりも数世代先の代物なのか、それとも『先生あくま』専用にカスタマイズされた代物なのか、見た目がまるで違った。

「人の物欲しくなちゃう子?悪い子だね。先生と一緒!」

 射出される杖は同じでも、『先生あくま』の杖は、射出される杖を囲むように2本の細い杖と幾つもの金属の輪が備えられていた。

 自慢しているのか、面白がって杖を何度も腕の中に出し入れしている。

「どう?どう!?これ、いいでしょう?」

 下段の座席の左部分を丸ごと消し飛ばした威力の杖を、笑顔で振り回して操っている―――今も行っているだけでも、どれだけの衝撃が肩と肘、腕を襲っているだろうか。到底、正気とは思えない。

「これねー開発まで大変だったんだよー。威力を調整する為に、お金が掛かっちゃって。あ、でも私エコだから。ちゃんと、分割したヒトガタにしか試してないんだよ!」

「‥‥。それは―――」

「やっと喋ってくれたね。貴重な貴重な男の子♪」

 やはり足に不自由なのか、杖をついて歩いてくる。だが、先程の刺突から見ても―――この距離なら、確実に心臓を捉えられる。

 舞台に逃げるか。だが、隙を見せた瞬間、あの杖で脇を抉ってくる。それは座席に逃げ込んだ所で、変わらない。

「‥‥お前が、カレンを―――」

 俺に問いに『悪魔せんせい』は、答えなかった。

「ヒトガタを廃棄した理由は、自分の為か?」

 杖をついて、背筋を伸ばす。『先生あくま』はソソギよりも背が低いからこそ、あの杖を主武装として使っていると仮定する。

 背が低いとは白兵戦において致命的だ。顔を狙えない、頭を狙えない、上から拳や武器を振り下ろせない。

 その為のあの杖なのだろう。伸縮可能な長物は、それだけで価値がある。突ける、斬れる、払える、薙げる、打てる、放てる。

「隙が無い‥‥」

 しかも常に床に杖をついているから、体勢を崩すことも難しい。

 やりずらい難敵だ。

「何、言ってるのかな?」

 理解出来ない。そんな顔をした。

「だって、ヒトガタって、んだよ。なら、廃棄されるのも、でしょう?」

 この人は間違っていない。

「‥‥あなたは、人間なんだな」

 今まで会ってきた人間達と、何一つ違っていない。

「うん、人間だよ」

 杖を上げたとわかった瞬間、俺を串刺しにする為―――『先生あくま』が踏み込んできた。だが、

 突き出される金属光沢を放つ杖に映る―――歪んだ自分の顔が見える。整った顔立ちの『先生あくま』とは対照的に、歪んだ化け物の姿だった。

「‥‥っ!でも、甘い!」

 抉られる寸前で避けた俺に、『先生あくま』は薙ぎ払いを仕掛けてきた。片手平突き――――

「凄いね‥‥よく、耐えたね‥‥」

「‥‥あなたは、人間だ」

 迫ってくる横薙ぎを、腕の杖が耐えた。杖は砕かれて、塵のように床に落ちていく―――腕に痛みはない。杖は自分の役目を全うした。

 だが、杖は人間とヒトガタの為に作り出された。

「なら―――お前は、勝てない‥‥」

 目が合った瞬間、『先生あくま』は全力で床を突いて、後方に逃れた。

「君、ほんとに、ただのヒトガタ?」

「‥‥違う」

「え?」

 P&Mを向けて、引き金を引く。

 、40S&W弾はソソギの横顔を凪いで、座席に穴を開けた。

 その瞬間、ソソギの目に光を灯った。

「起きろ」

「‥‥でも、私は」

 肘掛けにしがみつくように、ソソギは顔を背ける。

「よく見ろ。お前の前には、?」

「ねぇ、私を放っといて何をっ!?」

 眼球を向けずに、突きを放ってきた『先生にんげん』を蹴り上げて、片足で飛び上がる――――そのまま、勢いを殺さず、舞台まで

「あれは悪魔か?」

 舞台に着地したと同時に、もう一度問う。

「‥‥あの悪魔は、私達を材料としか見てなかった。私もカレンにも、毎日、目を向けて‥‥」

 きっと生きた心地がしなかっただろう。だというのに、それでもヒトガタの思想を捨てる事が出来なかった。帰りたかった、そう言っていた。

「怖かった‥‥でも、私達には、そこしか居場所がなかった‥‥。‥‥あのまま居れば、カレンは廃棄された。カレンは、‥‥」

 ソソギは、カレンを守ったからオーダーに捨てられた。

 カレンは選ばれてしまった―――あの人間に。

「そうだ、よ‥‥。カレンちゃんは可愛かったから、まだ早かったけど、私の物にしようって決めたのっ!!」

 舞台の壁から奥行きを踏み付けて、『先生にんげん』が飛び込んでくる。今度は最初から、薙ぎ払いを仕掛けてきた。

 だが、それはごく低い位置からだった。

「その足!貰っ―――」

 迫ってきた杖を全体重で踏み付けて、床に固定する。

 見た目通り―――らしい。

「引っ込んでろ」

 杖を捨てる前に、P&Mの連射をマガジンが無くなるまで背中に浴びせる。

 の中身が、一体何で出来ているか知らないが、それでも人間だった。

 しばらく続けたら口から血を吐き出した。それでも続けて、カエルが潰れるような声を出させ続ける。

 ようやく杖から腕を抜き出した時、一歩踏み込んで――――もう一度舞台の奥に蹴り飛ばす。

「よく見ろ。あれは悪魔か?」

 ソソギが、つもりだった理由がこれでわかった。生きていなけば、新鮮でなければ移植できない。

 あの『先生にんげん』がどれほどの技師でも、死んで腐敗してしまったカレンの身体を、自分の物には出来ない。

「あれは悪魔じゃない。ただの人間だ。ソソギの足元にも及ばない」

 這い出てくるように歩いてきた『先生にんげん』は自らの腕を抑えている。折れたか、それとも、ああ―――どうでもいい。

「君、君‥‥調子に乗ってんじゃねぇーよ!?」

 舞台の床を蹴り付けた時、

「蜂の巣だぁ!!」

 先程の杖よりも太い、ミニガンのような姿だったが―――それも壊れた。

「‥‥え、動かない?」

「造形がなってない。ガトリングの構造をそのまま使ったな?」

 床から飛び出て瞬間に、杭を投げて銃身を固定したが、頭からの血が、片方の目を汚している『先生にんげん』には見えなかったようだ。

「ま、待って‥‥お願い、待って!?」

 ミニガンを模した杖を落とし、『先生にんげん』は腰を舞台に落としたまま、這いずって逃げていく。

「これが悪魔か?」

 ソソギの方を見て聞くが、両手を口に当てて何も答えない。

 仕方ないとマガジンを入れ替えて、もう一度ソソギのすぐ横に40S&W弾を通す。我に帰ったソソギは、止まっていた息を咳をしながら取り戻す。

「よく見ろ。これはただの人間だ。悪魔は、這いずって助けを求める訳がない」

 悪魔とは、だった。

「悪魔がヒトガタの身体を使って、美しさを求める訳がない」

 悪魔と契約したかのようなカレンの容姿に、ただの人間が嫉妬した。

 人間を堕落させる魅了の力を持ったカレンに、この人間は落とされた。決して人間では触れる事の出来ない、神ですら見逃してしまった絶世の美女に、ただの人間が敵う訳がない。

「動くな」

「や、やめて!!」

 ただの人間の頭に、銃口を突き付ける。

「頭は改造してないのか?」

 振り返るように、涙すら忘れた眼球を向けてくる。やはり、コイツもただの人間だ。あのハエと変わらない。

?人間の思考が、そんなに惜しかったか?」

「あ、あんた何者なの!?ただのヒトガタじゃないの!?」

「ヒトガタであり、オーダーであり、化け物だ。が、俺だ」

 ただの人間の胸を踏み付けて、胸骨から音を響かせる。

 口から泡を吹いているが、無視する。どうせまともな構造をしていない。この程度なら問題ないだろう。あったとしても、俺の知った事じゃない。

「ソソギ、こっちだ。来てくれ」

「‥‥私は」

「大丈夫。このより、の方が強い」

 そう笑い掛けて、重い腰を上げさせる。ソソギは胸に手を当てて、ゆっくりと一歩一歩、下段の座席へと降りてくる。

「そ、ソソギちゃん‥‥早く降りてきて、先生‥‥くるしっ!」

「―――?」

 踏み付けながら装填していたP&Mの弾丸を肩に見舞う。この白衣の材料も、一体何なのか知らないが、相当の防弾性を持っているらしく、衝撃すら吸収して、弾丸を弾き返しているのがわかる。だから、

 ゆっくりと降りてきたソソギは舞台端の階段を使って、登り、すぐ隣にまで歩いてきた。

「‥‥こんな人間を、私達は怖がってたの?」

 ソソギが見下ろしている『先生にんげん』は、きっとソソギとカレンの頭の中にいる『先生あくま』とまるで違うだろう。

 頭から血を逃し、その血が片目を潰し、片方の腕は折れていて、一切動かない。

 踏まれている胸骨を庇う力すら残っていない上、自分の口から溢れている泡や唾液を飲み込む事すら出来ない――――無様で哀れな姿だった。

「悪魔との契約は高くついたな。お前はオーダーが逮捕する」

「あ、ははは‥‥知らないの?私は人間を殺した事はないから、司法取引ができるんだよ‥‥?」

 ヒトガタはまだ公式に新しい種族とは見られていない。つまりは人権を認められていない―――動物や植物と同じ扱いになる。それは、これからも変わらないだろう。

「残念でした〜‥‥私の勝ち‥‥。あなた達には、いつか、必ずっ!?」

「好きにしろ」

 P&Mの銃口を『先生にんげん』の眉間に向けて、ソソギに渡す。

「‥‥でも、殺したら」

「誰も見てない」

「‥‥いいの?」

「好きにしていい。隠す方法はいくらでもある」

「わかった‥‥なら、これも」

 ソソギはP&Mとヨーク連発銃を抜いて、今も倒れている『先生にんげん』の顔に向けた。

 汗腺を埋めているのか、一滴の汗もかかないが―――焦りながらも笑顔だった顔が、どこまでも震えていく。

「ま、まって!!あなた達オーダーでしょう!?殺しなんかできるの!?」

「俺達はヒトガタだ。人間のルールに従う義理はない」

「いいの!?私を殺したら!もう生きていけないよ!?」

「お前が言ったように、ヒトガタを殺したところで殺人にはならないかもしれない。だったら罪にはならないかもしれないだろう?、いくらでもいる」

 今更、全力で足を退かそうとしてくるが、力対力では、化け物の方が他称悪魔よりも上らしい。

「お前は知ろうとしなかった。自分がが、どんな災厄を生み出すか考えもしなかった」

「‥‥そう。あなたは自分以外見なかった。あなたに向けられる目が、一体どんな目なのか、考えもしなかった」

 この『先生にんげん』は全て好奇心のままに、箱を開いた。美の探究という人間ならば誰であろうと、憑りつかれる悪魔に

 この人間は、。いつ自分が悪魔との契約の対価を支払うか、パンドラの箱を開けた代償をいつ払う事になるかを。

「お前の希望はお前が見捨てた。諦めて朽ちろ―――ただの人間。お前の目の前にいるのは、人間の災厄だ」

 舞台を二丁の銃声と、止まらない金切り声の木霊が、幕を下ろした。




「良かったのか?」

「冗談のつもりじゃなかったのね。‥‥頼もしい」

 継ぎ接ぎだらけの人間が、失神してしまったので、白衣を脱がして手錠をしていた。

「どうだった?」

「‥‥全部終わった―――そんな気分」

 最後に一度だけ視線を向け、ソソギは舞台から降りた。

「あんたがパンドラとは思わない。だけど、そこまで美を求めた理由は、人間の世界が原因なんだろう」

 哀れだ。頭から流した血を拭き取れば、確かに美しい。だが、それも全てヒトガタから奪い取ったパーツなのだと知っている。

「ヒトガタに憧れた人間か。ヒトガタを踏み台にした人間と、いい勝負だったよ」

 最後にそれだけ言って舞台から降りる。残されたのは災厄に翻弄された、人間ただ1人だった。

「行こ、あの球体を探したい」

 降りた所で、ソソギが腕にしがみ付いてきた。

 ――――サイナを超えるが腕を挟み込んでくる。

「ふふ、私が好き?」

「‥‥好き」

「私のどこが好き?」

 目が細められ、端が緩やかにカーブしている。顔は刀剣の美しさを感じさせるのに、身体は間違いなく女性の身体付き。だというのに、成熟した身体を持ったソソギは同時に、こんな事をしている自分に、一抹の恥ずかしさを感じているらしく、顔が赤い。

 恥じらいに慣れていない―――ソソギ自身気付いていないが、腰が少しだけ低くなっている所為で、目線に下に行く。

 それは、Yシャツから溢れるだった。

「言うまでも無いみたい。でも、それは今度」

 自分で迫っておいて、ソソギは腕から逃げるように、離れていった。

「カレンから学んだの。離れるのも技の一つだって」

 背中を向けたソソギが、流し目で教えながら、去っていく。

 座席の下段を登り切った所で、スカートに影を差したソソギが振り返る。

「行かないの?それとも、覗く?」

「‥‥次はこっちからだ」

 ソソギの背中を追い掛けて、投影機のある踊り場に登った時で手を引いてきた。

「吹っ切れたか?」

「ええ、もうあの人間に怖がる必要はない。襲ってきても、私達には化け物がいる。‥‥私も恋人達になれる?」

「もうなってるだろう。行くぞ」

 ソソギの手を引いて、プラネタリウムが設置されている部屋から出る。

 また白い廊下が続いているが、それもあと少しで終わりらだった。短い白い廊下の先に、見覚えがあるエレベーターが設置されていた。

 甲鉄の壁だった。

「‥‥あの部屋は、ヒトガタを経過の説明する部屋でもあるけど、用途はそれだけじゃないみたいだな」

 舞台の上でヒトガタを紹介するのに、あのプラネタリウムは必要ない。

「あの人間が、ここに呼ばれた理由‥‥それは多分―――」

「ヒトガタと人間の融合。もしくは血の聖女を、人体に流し込む時に生まれる弊害を出来るだけ軽減する為」

「私もそう思う。あそこで人間の経過を説明、実証もしていたみたい。‥‥改めて聞きたいの。あれは、強い?」

 エレベーターの扉の前に着いた時、ソソギが聞いてきた。

「あなたは、あれを雑魚と呼んだ。それはあなたの彼女さんも?」

「ああ、ネガイも雑魚って言った。不安か?」

「‥‥私とあなたの実力の差は、多分相手によって変わる。私はあの悪魔には、手も足も出なかった。だけど、あなたは無傷で勝った」

 得意不得意な相手がいるのは誰であっても変わらない。ソソギは、元々中距離での戦闘を得意としていた。

 ネガイや俺のように、血飛沫を浴びるほど接近した白兵戦は専門外だった。

「あなたは自分を卑下しているけど。‥‥これ、どうやって開けるの?」

 ソソギが首を捻って、エレベーターを触ったり叩いたりし始めた。少しだけ、見えてしまう。

 なるほど―――サイナが工場で扉を開けるのを渋った理由が

「‥‥聖女の血」

 その声に反応して、エレベーターの扉が開いた。

「‥‥早く言って」

「悪かった」

「‥‥でも、あなたにいじめられるの、悪くない‥‥またやって」

 相当だとは思っていたが、ソソギもソソギで。ついさっきのやり取りにより、ような仕草をしていた。

 そんなソソギの仕草を無視して、エレベーターに手を引いて連れ込む。

「その杖、持って帰るのか?」

「そう、これは良いもの」

 ソソギの片手には、『先生』から回収した杖が装着されていた。あのガトリングも欲しかったらしいが、却下した。

「威力の調整もできるし‥‥。何よりも、この杖、本当に私の身体をイメージして作ったみたいで、手に馴染むの」

「‥‥ソソギをイメージして、とか言ってたな」

 ソソギに似たパーツを持ったヒトガタを解体して、繋ぎ合わせた身体に合うようにカスタムされた武器が、

「そのハエ、だった?」

「そうハエ」

「そのハエは常に空を飛んでるの?」

「常にって訳じゃなかった。むしろ、地面スレスレを滑るみたいにして飛んできた。油断はしない方がいいけど、余裕で避けて迎撃できる速度だった」

 一つしかない階層のボタンを押して、扉を閉める。

 オーダー校でやりあった時の俺と、今の俺とではだいぶ強さが変わっているだろうが、それでもソソギは、ネガイが認めた相手だ。

 仕留めきれない事はあっても、まず負ける事はない。

「カレンは平気か?」

「さっき、マトイからメールがあった。カレンは無事回収したって」

「それで、次はどんな作戦があったんだ?」

「もう無い。私達の役目は、あの悪魔を逮捕する事。もう手も縛ったから。私達の役目は終わり」

「なら、俺の役目に付き合ってくれ」

「ええ、勿論」

 こちらを見ずとも、ソソギの覚悟が伝わってくるのがわかる。手から伝わる脈動が、ソソギの意思を教えてくれる。

 咄嗟にソソギの横顔を見た時、また

 美しい顔は、何度見ても飽きない。豊満でしなやかな四肢を持ったソソギは、それを余す事なく見せてくれる。

 少しだけ膝の関節を曲げている足は、白くて、筋肉質で、手が伸びそうになる。

「我慢して。終わったら、私をあげるから」

「‥‥ソソギ」

「ダメ。それに、カレンとも約束してるの。初めてはって」

 それは、2人と一緒に褥を共にできるということか―――ソソギとカレンと、混ざり合うことが、許されるのか。

 想像しただけで、心臓が高鳴る。が開いていく。

 だがオーダーという理性が、化け物という獣性と本能を塗り潰していく。

 傲慢にも、2人との関係が許されるのは、唯一俺だけだ。他の誰もが羨む契りを、俺は1人で

「すごい熱い。私の中に入りたい?」

 自分の熱で火傷でもしそうだった。深く深く落ちていくエレベーターと共に、理性が深淵に消えていく。

「‥‥?」

 押し倒すように、エレベーターの壁にソソギを押し付けて、口をこじ開ける。

 ソソギは拒絶と許可の間を、歯によって表現する。自分の歯で貞操帯を作り出し、入り込んでくる舌を傷付ける。

 けれど―――そのまま構わずに、ソソギの口蓋を味わう。そのまま唾液を飲み込み、歯と歯をぶつける。

 口だけでは足りなかった。ソソギの片足を持ち上げて、下腹と下腹を擦り付ける。ソソギも俺の背中を抱いて、

「脱ぐ?」

「‥‥そこまでしたら、仕事を忘れる」

「そう、残念。‥‥でも、私はまだ休養を取る訳にはいかないの―――私の部屋に用意してあるから、

 耳元で囁いてくるソソギが手玉に取るように、言い終わった時、耳を噛んできた。

 頭を振り、耳から血が流れる事も無視してソソギの口を吸い続け、暖かい舌と絡み合う。

「もう、終わり?」

「そろそろ着きそうだから。服、直してくれ」

「‥‥少し、不完全燃焼‥‥でも、遊ばれてるみたいで、良かったかも‥‥」

 お互いのYシャツを直して、唇を拭く。想像以上に垂れていたようで、首元までお互いの体液が絡んでいた。

 エレベーターは、あの時の計測通りに服装を直し終わった瞬間、軽い電子音を立てて開いてしまった。心臓時計が憎らしい。

 降りた先には、があった。

「これか‥‥」

「そう。でもやっぱり、私達の所にあった物より、少し小さい」

 待ち受けていたものは十分巨大なだった。やはりレンズが瞳に見えて、巨大なのように見える。

 

 目の女達を殺した後、女達が殻にしていた巨大な結晶を眼球の形にした。

 あれは俺の夢の世界でしかない。だから、他の人間が知る筈ない―――だけど、あれを作った時、懐かしさを―――、

「血の聖女を探そう」

「本当に血に似てる。そういう話だった。間違いない?」

「あれはイネスの血から生まれたんだ、血そのものだ―――だけど、今ここにある筈の血の聖女と、俺達が回収した血の聖女が同じ見た目かどうか、それは正直分からない」

「わかった。だけど探すしかない事も、わかってる」

 ソソギと共に球体に近づきながら部屋を見るが、ここもドーム状だった。巨大なプラネタリウムというよりも、

「星でも、観測していたの?」

「もしくは、宇宙線か?」

 球体は、見方を変えればハワイ等で使われている観測所に似ているかもしれない。

 それを裏付けるように、レンズが向けられている天井は、空まで吹き抜けになっている。どことなく、巨大な望遠鏡の構造を持っている様に見える。

「あの中?」

 ソソギが指を差して、球体を示してくる。そう踏んではいるが、無い可能性も考えていた。

「ここに無ければ、外に運び出されてる。その時は、マトイとサイナが回収してる」

 マトイとサイナが外で待機している理由がこれだった。

 外に出る車両を発見した場合、襲って中身を奪う。俺とサイナの特技だった。

 足音を立てて、近付いていく。ここで囲まれる事はないだろうと判断した。

 ここで、血の聖女を使ったが行われている手術室兼儀式場ならば、ここは聖域だ。そこに弾薬どころか、硝煙のひと摘みでも混入させたくなだろう。もし、ここでやり合う事を選んだのなら、向こうは本当に守るべき物を背にした、背水の陣となる。

「ここまで戦力らしい戦力はいなかったな」

「‥‥成育者達らしい。この施設を破壊してしまうのを恐れているのね。自分達はという考えが、抜けないみたいね」

 ここは今や、数えるほどしかない、貴重なヒトガタの成育と精製が可能な施設。

 出来る限り傷を付けたくないらしいが、取らぬ狸のなんとやら。ここを奪われる訳がないと思い込んでいるのだろう。

「いや、ここを失ったら―――行く所がないから、現実逃避でもしてるんだろう」

「ふふ、そうかも」

 2人して、まだ見ぬ狸の皮を想像して笑ってしまう。狸狩りか、ムジナ狩りになるかは知らないが、追い立てるのは楽しいだろう。

 散々、こちらがやられた事だ。追い掛けられる側の焦燥感こうふんを感じて貰おう。

 球体は近づけば近づく程、巨大になって行く。球体を支えている足は工事現場の車両か戦車のベルトを無くした履帯のようだ。

「入るか」

 球体に備わっている階段を上がって、丸みを帯びた扉を開ける。どことなく近未来感がある。丸い扉とは、意外と開けやすかった。

 中は不思議なぐらい―――普通だった。

 普通の手術台が横たわり、奥には血の聖女らしき液体が詰まった大きめの透明な筒が、多くのパイプに繋がれていた。これも工場で同じような光景を見た。

 あそこは、でもあったのかもしれない。

「‥‥血の聖女を確認した。ソソギ、一緒に写真を撮ってくれ」

「わかった。100枚ぐらい撮る?」

「いいな。一眼レフでも持ってくればよかった」

 杖を入り口近くに立て掛けたソソギと、2人で手術室を撮影し続ける。

 酸素タンクに、メス。あと血管を掴むために先端が丸まったハサミのようなトング。場所がここでなければ、普通の手術室の見えただろう。だが、天井がレンズになっている所為で、月明かりが差し込み、不気味さを演出していた。

「これが、血の聖女‥‥少し減ってる?」

「あのハエが使ったんだろうな」

 スマホを両手で持ったソソギが首を捻っている。確かにソソギが指摘した通り、筒の5部の1程度が開いている。

 あのハエ一体の為なのか、それとも別の実験をしたのか。興味こそあるが、今は知る必要はない。知りたければ後でいい。

「ハエ、いなかった‥‥」

「見たかったか?」

「試し撃ちがしたかった」

 足のヨーク連発銃をスカート越しで、惜しそうに撫でて、見せてくる。

 ネガイがソソギに拘ったのは、このトリガーハッピーの見抜いたからかもしれない。ネガイも若干そうなのだから。

「写真はどうだ?俺は終わった」

「待って‥‥終わった。じゃあ、マトイに連絡?」

 ソソギがスマホを耳につけて確認してくる。だが、すぐに耳から離してしまった。

「圏外‥‥」

「だろうな。その為のこれだ」

 透明なカバーが被された受話器を取る。カバーのお陰で、指紋が付かない。そこだけは礼を言ってやるとしよう。

「あ、サイナか?」

「は〜い♪」

「血の聖女は確認した。現物はここにある。すぐに法務科に連絡してくれ。それと―――

「あ‥‥。悪魔って、なんですか?」

「言った通りだ。俺とソソギで始末した」

‥‥」

「俺と近しい人間を選ぶなら、もう少し発声時の観察した方がいい」

 サイナの美声を間違えるほど、この耳は甘くない。

「‥‥『先生』は、もういないの?」

「――代わるから、ソソギに聞いてくれ」

 ソソギに受話器を渡して、話を促す。他人が言うよりも、ソソギというが話した方が、安心出来ると判断した。

「カレン。もう終わったの―――法務科の仕事は、全部終わった。これで私達、自由になったの。うん、やっとやっと終わった‥‥もう、あの手に怖がる必要はないの‥‥彼が、私達の家族が、全部終わらせてくれた‥‥」

 ソソギの目から涙が溢れた。

 受話器を耳に当てているソソギの腕に、涙が伝って、床を濡らしている。

「うん‥‥もう帰らなくていい。私達の帰る場所はオーダー街。‥‥そう‥‥わかった。伝えるから、‥‥大丈夫」

 崩れるように、ソソギは受話器を持ったまま、座り込んでしまった。だけど、受話器だけは離さなかった。

「‥‥ちゃんと帰るから安心して――――カレン?どうしたの?」

 咄嗟にソソギから受話器を奪って、耳に当てる。

 

 そして、モーターホームに何かが激突するような音と、何かが炸裂するようは爆発音が聞こえた。

「戻るぞ!!」

 緊急事態だと悟ったソソギは、座り込んでいた足を跳ね上げて、扉まで一瞬で間合いを詰め―――杖を腕に装着しながら扉を開け放った。

 だが、ソソギは一瞬、そこで固まってしまった。

「‥‥腕、どうしたの?」

「ん?外したんだよ」

「そう」

 そのままソソギは、階段から飛ぶように消えた。自分もソソギを真似て、最短距離で、階段を無視して外に飛び出る。

 飛び出た時、眼下に見えたのは―――ソソギが腕に装着した杖で、刺突を放っている光景だった。

「今度はソソギちゃんが相手!?なら、余裕で勝てるかな!!」

 刺突を放たれているのは、手錠を片方にぶら下げたまま、ソソギと同型機を腕に装着した『先生あくま』だった。

 放たれた刺突へ鏡写しの刺突で迎撃し、もう片方の腕に持っている―――過去にソソギが使っていたM1793によく似たカービン銃を、胸に向けた。

 その時―――ソソギが銃口を蹴り上げ、重量を持った弾丸が天井に突き刺さる。

「知ってる!?あの天井だけで、ソソギちゃん1000体分以上のお金が掛かってるんだよ!?」

 蹴り上げられた銃口は、そのまま頭を狙う鈍器となった。

 だがソソギは、切っ先で鍔迫り合いとなっていた杖を突き上げ回転し、振り下ろされるカービン銃を避けて、カービン銃と『先生あくま』諸共に薙ぎ払った。

 身長の関係で、『先生あくま』は呆気なくソソギに弾き飛ばされる。

「あなたは可愛い物が好きだから、身長を伸ばさないと言った。‥‥行って」

 階段から飛び降りた瞬間―――M66を抜こうとしたが、それは却下され、俺はそのまま着地する。

「‥‥帰って来てくれ」

「わかってる。カレンをお願い」

 家族を背にエレベーターまで走った。ここでふたりで逃げ込めるとしたら、あの鋼鉄製のエレベーターだけだ。だけど、ソソギはそれに構わずにと言った。ここであの『先生あくま』を仕留めると――――ソソギが決めた。

「死ねぇぇ!!!!」

 高い声の絶叫とは、なぜこう身震いしてしまうのだろうか。不気味だからか、それともヒトガタの遺伝子に、あの『先生あくま』という名の人間が、恐怖の対象として刻み込まれているからだろうか。

 逃げるようにエレベーターに飛び乗った時、杖と杖、そして同時に重い強力な銃弾が放たれた音がしたが、それはエレベーターの壁によって阻まれた。




「何処からこんなに!?」

 白い廊下には、ヒトガタや白衣を着た人間達が銃を構えて待ち構えている。

 エレベーターの壁に身体を寄せ弾幕から身を隠すがキリがない。オーダーよりは銃に慣れている様子ではないが、ただただ数が厄介だった。

「鬱陶しい―――時間がないんだよっ!!」

 姿勢を低く保ち滑り込む。ヒトガタと白衣の人間に肉薄しヒトガタの1人―――杖を装備した腕を掴み上げる。そのまま周りにいる白衣とヒトガタを杖の回転でまとめて薙ぎ払う。

 掴み上げられたヒトガタは動転し過呼吸となる。

「悪いな。俺の所為にしとけ」

 掴み上げたヒトガタの首を杭で打って気絶させる。やはりヒトガタは軒並み美人だ。気絶した姿も絵画のようだ。武器にしたヒトガタをせめてと思い、舞台があるプラネタリウムの部屋まで抱えて座席の一つに座らせる。

「―――マトイ!サイナ!」

 スマホで呼びかけるが、返事はない。外からの増援は望めそうにない。

「‥‥ッチ!俺1人か!!」

 出来るだけ流血は避けたかったが、

 杭を腰に戻し―――脇差しを抜き放つ。

 暗い部屋であっても、その輝きは失われない。血と首を手招きするかの如く、美しい刃紋を覗かせる。銃ももう迷っている暇はない。P&Mの40S&W弾はここで使い切る。

「‥‥殺しはなしだ。だけど、腕の一本は我慢しろよ!!」

 扉を蹴破って、白衣とヒトガタが待つ白い廊下を駆ける。

「ドケッ!!」

 陣頭指揮をとっている白衣を着た戦闘職の胸に、40S&W弾を3発噛み付かせる。

 倒れていく戦闘専門の人間を見ながら、呆然としているヒトガタの腕を捻り上げて、もう一度杖で周りの人もヒトガタも関係なく薙ぎ払う。

 運良く杖を逃れた白衣が薄気味悪い笑みを浮かべ―――拳銃を向けた時、を見て絶叫をあげる。

 構わず、そのまま脇差しを引き抜いて走り去る。未だに後ろから絶叫が聞こえてくるが、無視する。

 エアシャワー室から出た時、やはり待ち構えていたヒトガタと白衣に、心の中で舌打ちをする。

「‥‥時間がない‥‥」

 モーターホームが襲われて、もう5分は経っている。

 マトイもサイナもいるが、車両ごと横転させられた場合、全員気絶か戦闘が困難になるほどの負傷をしている可能性がある。襲撃者は、十中八九―――あの『ハエ』だった。が頭にチラつく。

「あいつは法の元にいる人間‥‥何をやっても許される‥‥!」

 無駄な想像をしている余裕はない。だけど、エアシャワー室の扉を叩く弾丸の雨の中、身を晒せるほどの空間もない。

 ソソギは下で戦ってくれているのに―――なんて無様だ。

 弾丸が怖くて、表に出れないなんて。

「落ち着け‥‥俺には、何がある‥‥」

 状況を思い出そうにも、手持ちの武器の中に手榴弾のような、まとめて敵の目を逸らせられる、弾けさせられる武器はない。

「人手が必要だ‥‥。だけど、ここには‥‥」

 スマホにチャットが届いた。

「‥‥尾行か!!」

 盾としていたエアシャワー室の扉から飛び出た瞬間、陣形を組んでいた人間とヒトガタが――――

「この武器いいねぇー!!揃え甲斐がありそうかも!!」

 その声を聞いて、一気に走り出す。

「刃物じゃなくてもいいのか―――?」

「私の専門は白兵戦で、これも接近戦用だからいいの。こういう長物は初めてだけど、気に入った!」

 がヒトガタの杖を装備して、敵陣形の真ん中に立っていた。

 同時に、つい数秒前まで銃弾を放っていた敵の山の上に、イサラは立っていた。

 とまで言われた戦闘狂が、自慢のボウイナイフと共に―――道を作っていた。

「外は大混乱だよ。気をつけて」

「そっちもな。まだまだ敵がいる!下でソソギがやりあってる!」

「望む所だね!!」

 イサラと背中での会話を済ませ、ガラス張りの廊下を駆け抜ける。

 廊下には、イサラが単身で制圧した人間とヒトガタが倒れ込んでいた。何人か血が滴っていたが、死んでいないようなので見なかった事にする。

 イサラが撃破した人間とヒトガタを踏破して、施設の外に出た時―――外は真夜中で、外灯の光が目を焼くが、それが気にならなかった。

 外は大混乱。その意味が一瞬でわかった。

「‥‥やっぱり、この街は‥‥」

 この施設を守るように重武装科が前面に出て、その後ろを襲撃科、制圧科、普段まず前線に出ない狙撃科が―――と撃ち合っていた。

 向こうには警察官の姿をした人間すらいた。恐らく、本物の警察官だった。

「あ、こっち!」

「なんでお前がいるんだよ!」

 屈みながら進んでいると、シズクがものだから、押し倒すように地面に伏させる。

「ちょっと!何する気‥‥!?」

「撃たれたいのか!?せめてメットでも被ってろ!!」

 重武装科を盾に、シズクに説教をしていると―――すぐ隣にシトロエンと思わしきSUVが止まった。

「やぁ、乗っていくかい?」

「マジで車買うつもりだったのかよ!?」

「言ったじゃないか?このC5エアクロスはいいよ。魔法の絨毯って、これの事を言うんだね。まぁ、ハイドロをやめてしまったのが」

 恍惚な表情で、レザーに覆われたハンドルを撫で始めたので、シズクを抱えて中に飛び込む。

「防弾製か?」

「ちょっと!無理矢理!」

「勿論だよ。あと、新車だからシートは汚さないようにね」

 シズクを膝の上に置いたままの状態で、会話が終わるや否や、襲撃科は車を発進させた。向かってくるシトロエンに街の住人達が逃げ惑う中、襲撃科は鼻歌でも歌うように車道を爆走させる。確かに、このシートは良かったかもしれない。

 だが、シートの感触を楽しんでいる時間もないぐらい、シズクが抵抗してくる。

「いいから、捕まってろ!舌噛むぞ!」

「あとで、何か奢ってよ!?」

 膝の上で踊るように跳ねるシズクが、首に抱き付いてくる。

「サイナ達は!?」

「直接見た方がいい―――あまりいい状況とは言えない。刻一刻と状況が変わってるから、僕も安易に話せない」

 冷静だが、同時に焦りを見せないように諭してくれる。しかし、その言葉を噛み締めて吟味する前に、恐怖を覚えるレベルで―――加速する。

「お前もかよ!?」

「あ、言ってなかったけ?この車も、しっかりと不法改造サイナカスタムだよ」

 今更何を言ってるんだ、と言わんばかりの様子で更にアクセルを踏み続ける。

 カーブ直前になっても一切ブレーキを踏まないで、片輪で走行でもするつもりかと疑ってしまうスピードでカーブに突入する。

 当然、。勿論、

 首にしがみついているシズクが浮き上がりそうになるので、お互い抱き合いながら慣性に対抗し続ける。

「いやーやっぱりそういう関係だったんだね。あれだけ一緒にいるんだもん。皆んな言ってたよ?」

 このスピードと縦揺れでも、お構いなしに話している。確かに、異端児だと言われてはいたが―――ここまで狂人だとは思わなかった。

「そろそろ着くよ。ミトリさんによろしく」

 胃の中の物がスピードで全て引っ込んでいる状態での急ブレーキにより、中身を吹き出しそうになる。が、何とか踏み止まり言葉を交わす。

「‥‥もう二度と乗らない、助かった。またな‥‥」

「うん。またね」

 シズクを抱えたままで飛び降りる。窓から外を眺める必要もなかった。外の光景は想像通り、体感で気付いていた。ここは公園だった―――

 軽く見渡すだけで公園の入り口を重武装科が守り、園内はテントが大量に設置されていると確認出来る。簡易型ではあるが大規模な拠点は、それだけで非日常性を覚えた。

「あ、マトイさんの意識が戻りました!!」

 Yシャツの前に白いエプロンにも似た白衣を纏ったミトリが駆け付けて来る。同時に抱えているシズクの様子を見て更に慌て出した。

「撃たれたんですか!?」

「撃たれてはいないけど、前に出過ぎた。悪いけど、シズクを頼む」

「‥‥君の所為でしょう‥‥」

 ミトリに肩を支えられたシズクに一瞬だけ目をやっただけで、急ぎミトリが走ってきた方向に駆けると―――が椅子に座っていた。

 その姿を見た瞬間、膝掛けに置いてある手を握って跪く。マトイは辛そうな顔のまま、微かに笑って頬を撫でてくれる。

「無事でしたね‥‥良かった‥‥」

「平気なのか?」

「‥‥ええ」

 酸素を吸いながら話してくれるマトイの顔色は、決して優れてなどいなかった。

「私、またあなたを利用して―――」

「いいんだ。血の聖女は見つかった。ソソギ達のお陰で自動記述も、完全になった。全部マトイのお陰だ」

「‥‥ふふ、私のわがまま、また聞いてくれましたね」

「幾らでも言ってくれ。マトイが笑ってくれるなら、俺はなんでも出来るから」

「‥‥ありがとう‥‥」

 握力が消えて、マトイは目をつぶってしまった。

「マトイ‥‥」

「意識が戻った時、あなたが来るまで眠らないと言っていたのです。少しだけ、眠らせてあげて」

 後ろから声をかけられて振り返ると、紫の目をした女子生徒が立っていた。

「話があります。着いてきなさい」

「‥‥わかりました」

「そうです。、あなたが出来る事はありません」

 少し前に、ネガイから同じ事を言われたのを思い出した。このままマトイの手を握っていたところで、何も変わらない。

 立ち上がりながらマトイの耳元に口をつけて、

「‥‥目が覚めたら、迎えに行くから。待っててくれ」




「結論を言います」

 ワイルドハントを改造したらしい車内は、思いの外広かった。

 天井こそ立ち上がれないが、それでもセダンの車の高さで、横幅は2人が向かい合って話すのに十分過ぎる程のスペースを持っていた。

「サイナ、カレン、両名は誘拐されました」

「‥‥俺、守れませんでした。隣にいるって、約束したのに」

 拳を作る力すら湧かない。サイナもカレンも、マトイも、守れなかった。約束したというのに、誓ったというのに、『あの人間』は何もかも奪って去って行った。

 全部―――取り零してしまった。

「はい、あなたは守れなかった。そして、私も、‥‥情けない」

 紫の目を強く閉じて、唇を噛んでいる。

「私達は、あなた達からいつ連絡が来てもいいように、すぐ近くで待機していました――――何があってもいいように」

 何があってもとは―――確実にとわかっていた。

 だからここで責めるべきか?そこまで、自分は愚かには成れなかった。いっそのこと、狂ってしまえれば良かったというのに――――決して、責められなかった。

 自分達だって、と想像していたのだから。

「‥‥誘拐したのは、ハエですね?」

「弱々しい声ですね。はい、あなた達がそう呼んでいるハエで間違いありません。私が、

「‥‥わざと、襲わせたんですか‥‥っ!」

「結果的に、そうなってしまいました―――ごめんなさい。人間は、こういう種族なの‥‥」

 謝りながら、伸ばしてくる手を弾いた。

「答えて下さい。サイナとカレンは、何故連れ去られたんですか?」

 俺が手を拒否するとは思っていなかったのか、弾かれた手を胸で抱いて、俯いてしまった。だけど、それもほんの一呼吸半で振り切り、前髪を整えながら呟いた。

「元々、『カレン』は誘拐される予定でした」

 カレンは、誘拐される予定だった?その言葉には、ある大きな意味が含まれる。

「特別捜査学科としてですか?」

「そしてヒトガタとしてもです。彼女の知識と経験は、代えが効かない。だから、彼女は了解した‥‥」

 一度、あの宗教団体に誘拐された経験と、ヒトガタの自動記述の知識を頼られたようだ。

「その事をソソギは?」

「私にはわからない。他言無用と念を押しはしましたが、2人の関係を考えると、知っていた可能性もあります」

 知らない訳がなかった。何故ならソソギは―――「。その時、私は側にいないかもしれない。だから‥‥お願い」と俺に頼んでいたのだから。そこで、俺はなんと言った?「。だから、そんな事言うなよ。ソソギも側にいてくれ」こう返したではないか。

 こう誓ったではないか―――ソソギは知っていたんだ。知っていたのに、俺と一緒に施設の地下を潜ってくれた。────俺を守ってくれていた。

「‥‥知っていたと思います」

「そう」

「俺、ソソギからカレンの傍にいてくれって、言われたのに‥‥血の聖女を追ってました—――功績を求めていたんだと思います。法務科として、マトイとサイナに褒められて、ネガイの自慢の恋人でありたい‥‥思って」

 守りたい人達を誰一人として守れていなかった―――考えないようにしていただけだった。法務科を言い訳にして、血を流す事しか考えていなかった。

 きっと、法務科としての役目を果たせば、皆んなが救われると思ってた。

 ――――法務科に飼い慣らされていた。

「‥‥カレンは元々誘拐される予定だったって、何故ですか?特別捜査学科は、他の科と組まないと―――」

「その役目は私達が全うする予定でした。私の筈だったんです‥‥」

「‥‥逃げられた」

「その通り―――まさか、この街の住人達が襲いかかってくるとは、想像もしていなくて‥‥私の人形達は、今も孤立しています」

 未だに公園の外からは発砲音が聞こえる。抗戦が開始されてからどのくらいの時間が経っているのかわからないが、ただの一般人が本職のオーダーやオーダー校の学生と、ここまで長時間撃ち合える筈がない。訓練された便衣兵ゲリラだった。

 待ち構えていたんだ。武器を揃え、要塞を化したこの街で罠に誘われる―――法務科を、そして俺達を。罠にかかってもいいなんて甘い考え、捨てるべきだった。この事をマトイに、連絡すべきだったんだ。

「‥‥俺の責任です‥‥」

「違います。私達は、この日の為に、数日前からここを観測していました。今日の違和感は、私達が真っ先に感じ取るべきでした」

 断言する声に、ドルイダスの人形は息を呑んだ。

「俺はこの街で育ちました―――俺を育てた人間も、今日施設で見つけました。‥‥街全体で、あの施設を守ってるんじゃないかって‥‥頭の中で」

「その可能性も含めて、私達が考えるべきでした。には、私自身も‥‥」

 銃声が鳴り止まない。それもすぐ近くから―――通り過ぎる甲高い音ではない。確実にこの拠点が狙われるが、迫ってきていた。

「カレンを誘拐させて、どうする気だったですか?それに、何故、サイナまで‥‥」

 外の事は気になるが、ここで話を聞かなければならない。ここで口を割らせなければならない。

「まず順を追って説明します。法務科とソソギ、カレンの両名間の間で締結された契約は、あの児童擁護施設への潜入及び強制捜査の理由となる非人道的な実験や研究の撮影。また、2人が『悪魔』と呼んでいた研究責任者の無力化、逮捕」

「そこまでは、ソソギから聞きました」

 本当に血の聖女については、偶然だったようだ。

 ある程度の予測は立てていたのかもしれないが、それでも法務科にとっては不意打ちとなった。

「俺は今回、血の聖女が関わっているから矢面に出された、マトイからそう聞きました。これを理由に使のも、法務科の命令ですか?」

「‥‥あなたを本件に関わらせるようにと言ったのは、私が始まりです」

 俺をかまでは、教唆していなかったようだ。

「何故ですか?」

「あなたがヒトガタだから、それに、この街にはあなたが適任だと判断したからです」

「‥‥俺の生まれを知っていて?」

「肯定します」

 この街は、俺を捨てた。家が捨てたんじゃない。この街全体が、俺を捨てる事を選んだ。そんな俺を、この人は選んだ。

「‥‥土地勘がある方が、役に立つって思ったんですか?」

「そこもあります。だけど、もしあなたがあの施設に潜っていなければ、今回のを許さなかったと私が判断しました」

「—―――んですね‥‥」

「あなたには、あなたにしか出来ない仕事、悪魔を処理する仕事がありました―――だけど、あなたの言う通りです」

 これは信用していたになるのだろうか、信頼していたに当てはまるのだろうか―――違う。俺の予想外の行動を避けたかった。しかもそれだけではない。

「俺の近くに置くのが、怖かったんですか?」

「法務科は―――」

。答えろ」

「‥‥私にとって、あなたは首輪をつけてでも、飼い慣らさなければならない戦力でした。ふふ‥‥」

 バイオレットの輝きを携えた少女は、目線を外して、自虐気味に笑った。

「私の部署は、マトイが加入するまで、。部署とは名ばかりな区分でした―――ふふ‥‥私の人形は、並み以上の力を持っているけれど、それでもやはり生身には敵わない。現場での柔軟な行動と緻密な計画への対処なんて出来なかった‥‥見かねたマトイが、私の手足となってくれていた――」

 あの人形一体だけで、魔に連なる者の力を行使出来るというのに、それでは足りなかったというのか。

「そんな時でした。マトイから、あなたの話が来たのは‥‥。最初はが―――あなたは、法務科や私の期待を大きく超える。しかも、あなたは特別過ぎる血を持ち、規格外の存在の加護まで受けていた‥‥」

 疲れ切った顔から見せる白い歯に、流される視線—――少しだけはだけた胸元から覗かせる鎖骨の造形が無自覚に

 この人の事をどう見ればいいのか、もう俺にはわからない。怒りや恨みを向ける敵として見るべきか、それとも、この感情を満たす為の‥‥。

「最初は、私自身半信半疑でした。マトイからの報告を聞いて調べた結果、あなたは―――『ヒトガタの肉体』で『魔眼の力』を持っているとわかった。それだけであなたを法務科へ、として引き込むつもりなんてなかった―――だけど、。あなたの血も‥‥」

「俺を利用できるする気でしたか?」

「‥‥今思えば、私はそうしたかったから、あなたを誘惑した。私の身体一つで全て納めてくれる、あなたは都合が良かった」

 再度浮かべる笑みに、。同年代では出せない、魔性の笑みを浮かべられる度に、血が、心臓が、眼球が疼く。

「今回の誘拐計画が成功していたとしても、。それはそのまま法務科からあなたへの不信感に繋がる。だから、あなたには気付かれないように―――必要があった。—――これは私の独り言です。

「‥‥なんで俺を。散々良いように使ったのは、あなた達だ。オーダー本部も、法務科も、俺で何度も遊んだだろう‥‥」

「ええ、その通り‥‥。人間の誰もが、あなたを求めて、あなたを御したかった。でも、化け物の手綱を引ける人間は限られている」

 法務科は俺を疑っている、その意味が俺にはわからない。

 だけど、この人とマトイがのかはわかった。

 俺を飼うと決めた時から、この人の部署の。俺に手綱をつけて、自身の身体を餌に―――に仕立て上げる。

「でも、それもこれで終わり。あなたは自由です。マトイも連れて行きなさい」

 立ち上がるように促すが、

「‥‥次は俺に何をさせたんですか?」

 確実に『この眼球』を見た。

 決して目を見たのではない。『この力』に期待した。

「それに、その前に聞きたい。カレンはどうして誘拐された?何故、サイナまで」

「‥‥まさか口頭で至秘を語る時が訪れるなんて、私もいつ間にか―――のですね」

 シートに身を投げ出していたドルイダスの人形が、座り直して首元を整えた。

「端的に伝えましょう。『カレン』は『サイナ』の格好を真似て―――。だから本来は予定でした」

「—―――カレンに発信器でもつける予定だったんですね‥‥でも、失敗した。カレンとサイナを入れ替える筈が、それを見越したハエに誘拐された。2人共誘拐した理由は?」

 確かにどちらも群を抜いて美人だ。だけど、誘拐とは1人を運ぶだけでも、相当の労力が必要となる―――しかも相手があのサイナなら。

 なのに、カレンまで連れ去った。

 元々2人を誘拐するのだったなら話は別だが、カレンとハエを繋ぐ関係はない。

「それと、どうしてサイナが誘拐されると分かったんですか?」

「‥‥これを見なさい」

 言いながらドルイダスの人形は、2枚の写真をテーブルの上に置いた。

 写真にはそれぞれ1人の女子生徒が写っていた。一枚にはサイナ、もう一枚にもサイナ―――

「サイナとカレンですか」

「どちらがどちらか、分かりますか?」

「目でわかります。それに、胸の―――」

 そう言った瞬間、眉間に指をつけて大きくため息を吐いた。

 元々2人の目は色が違う。カレンはグリーンだが、サイナは琥珀色の暖色系。

 出来る限りサイナの色に近づける為、若干褐色気味なカラーコンタクト―――ソソギの色と混ぜて、サイナの琥珀色に近付けているのが、となった片方のサイナの目から見て取れた。

 思えばカレンとソソギの目を混ぜたら、サイナの色になっていたのかもしれない。

「‥‥そう正解です。まさか一瞬で見破れるとは‥‥」

 相当自信があったのか、それとも自分も騙されたのか見抜いた事を驚いている。

「これでわかりましたか?」

「サイナとカレンの見分けがつかなかったから、どちらも誘拐した―――だけど、結局は同じ疑問が浮かびます。何故サイナなんですか?それに、イネスも。この顔にどんな意味があるんですか?

「‥‥顔についても、当然気付いていましたね―――元々、そのつもりです」

 イネスが襲われた理由は分からなくもない。聖女としての力に、まだ期待を捨てられない愚かな人間がいるかもしれないからだ。

 だけど、サイナは。なぜヒトガタでもないサイナが求められるのか、いくら答えを出そうにもそれに比例して疑問が山のように浮かぶ―――だけど、姿を考えれば、有り得ない話じゃない。

「サイナ並びにイネスを求めた理由は、あなたの言う通り、姿です。あの容姿には、見た目以上の価値がある」

 サイナとカレンの写真が置いてあるテーブルに、更にイネスの写真まで乗せた。

の話は知っていますか?」

「なんですか、突然‥‥知ってますけど」

 レオナルド・ダ・ヴィンチ作『受胎告知』。それは、新約聖書の中のエピソードの一つ。聖告とも言われ、処女マリアの元に天使が降りて彼の人を妊娠したと告げる出来事とされている。

 この天使とは聖書において、神の言葉を告げる天使、ガブリエルと呼ばれる。

 また、この名前は「神の人」という意味でもあると言われていた。

「彼女の家は、

「サイナの家は教徒だったんですか?」

「いいえ。そして聖書の受胎告知の話とは、若干ながら違います。彼女の家が受けた告知は、。彼女の家にオーダーが踏み込んだ時、それが発覚しました。ただ、それを告げたのが誰なのかは、もう調べようがありません」

 サイナはと言っていた。

 誰にそんな話を告げられたか、知らないが、結局は自分達が望んでサイナを産んだ―――だというのに、

 やはり人間は嫌いだ―――自分達の都合で生まれさせたサイナを、痛めつけて、傷まで負わせた。最後にはオーダー街に逃げさせるほどに―――殺せばよかった。

「ここからは彼女、サイナ本人も知らない話です―――彼女は、‥‥」

 ドルイダスの人形は、呼吸でもするかのように告げてきた。

「—――あり得ない」

「事実です。彼女の血の半分は人間。ただしもう半分は―――あなた方ヒトガタと同一の抗体を持っています」

「でも、ヒトガタの血は‥‥」

「はい。ヒトガタの血と人間の血は似通っている部分があります。人間にとってヒトガタの血は珍しい血液型程度の認識です。だけど、それでは説明が付かない程、あなた達ヒトガタと―――更に言えばイネスとサイナの血は似ている。双子のように」

 怖いぐらいに耳鳴りが頭を苛んだ。後頭部をハンマーで殴られた時と同じぐらい―――意識が宙に去っていく。

「気をしっかり持ちなさい。話はまだあります」

 倒れないように、頬に手を当ててくる。当てられた手に頼りながら手を重ねて、深呼吸をする。何もかもが理解できないが、それで現実を拒否するなど出来なかった。

「続けます。サイナは、人間とヒトガタのハーフであり、ハイブリット。人間の思想とヒトガタの思考を、あなたよりも明確に持ち合わせている—――恐ろしい話です。あなたの周りには、

 仮面の方の血を受けた俺と、ソソギとカレン、それにサイナ―――全員、人間ではなかった。新しい種族がこんなにもいた。

「‥‥サイナがヒトガタの計画の元生まれたのならある筈です。ヒトガタの生まれた理由にして果たすべき役目、が‥‥あいつらは、サイナに何をさせたいんですか?サイナのは、なんなんですか?」

「究極の鍵—――役割はを開ける事。そう聞いています。意味は、わかりますね?」

「‥‥俺の目と同じ役割ですね」

 この目に潜んでいた女達は、目を扉にして『遠い世界』から侵攻しようとしていた―――あの方からそう聞いている。

「なんで、そんな事を?どうせ何も知らない連中が、外に行ったところで、意味なんかないのに」

「外の世界に行く。それしか頭にないのでしょうね」

 あのハエは、自分の姿を真なる神と言った。ならば、その神とやらに会いに行く気なのだろう―――なんの為に?理解できない。

「つくづく人間とは、理解できません」

「同意します‥‥」

「あなたも人間では?」

「‥‥そうですね。私も人間でしたか‥‥」

 一瞬頬杖を突こうとして途中で止めた。

 身体が女子生徒だと、自分の意識も身体に引きずられるようだ。

「先程も言った通り、サイナ、イネスは双子と言えてしまう血を持っています。しかし、敢えて言うならば、サイナは天性、イネスは後天的。何故ふたりを求めたかは、これで推測が出来ます」

 サイナが生まれた理由は、ヒトガタと同じように

 そして、イネスがサイナと同じ容姿を目指して作られたのは、—――更に言えば、

「イネスはサイナのBプランだった。同時にサイナの誕生種を補助するのも、イネスの役割だった。

「私と同じ結論ですね。やはり、あなたもそう思いますか」

 イネスがあのクラブで捨てられたのは、サイナ共々オーダー街で回収するつもりだったのか。決して見通しが甘いとは言えなかった――――現実にしているのだから。寧ろ見通しが甘いのは、俺だった。

「サイナと血の聖女をどう使えば、究極の鍵なり得るかは、今の私からは言えません。確証がない―――」

 言えないのか、それとも言いたいくないのか。ならば、俺のやる事は、決まった。

「私が話せるのは、これで終わりです。居場所については、私達も特定できていません。だから、

「目を使え、そういう事ですか‥‥」

 言われずとも、使うつもりだった—――だけど、その心意は伝えておかねば。

「‥‥これは、です。絶対に――

「構いません。今更、法務科の首輪をあなたに掛ける人間は誰もいない。—―――これは私個人の頼み。どうか、彼女達を救って‥‥」

 先ほどよりも短い銃声が聞こえてきた。全くと言っていい程、だった。車外に出れば、既に公園は戦場と化している可能性がある。

「外の事は、外のオーダーに任せましょう。彼らを学生と侮っていましたが、特務課の有象無象を適切に処理した腕前を見て、。オーダーの将来は安泰のようですね」

「‥‥法務科もです―――」

 もう我慢できない。先程から挑発するように、誘うように自身の身体を揺らしているドルイダスが、視線を受け入れるように仄かに鼻で笑った。

「俺は人間が嫌いです。それは、オーダー本部も法務科でも変わりません―――今更、。だけど、人間には価値がある」

 晒すようにまばたきもしないバイオレットの瞳、充血した首筋、Yシャツの胸元のボタンを壊すような肢体の膨らみ。人形が揺れるたびに―――後を追っていた。

「私にも価値があると?」

 2人分の椅子に背をつけて、腕を伸ばしてくる。

「法務科は続けます。でも、もう首輪と鎖には囚われない。人外のやり方に従ってもらう」

 邪魔をするテーブルの足元を蹴りつけて、床へ収納する。

 壁が無くなくなった事で、理性を消え去ってしまった。腕に頭を預けて、胸の中に引き込まれる。身体全体で押し倒すように、押し潰すように身体を重ねる。

 ソソギとカレンと同等か、それ以上だとわかる血管を顔で感じ取る。

 顔を押し付けながら、胸を越えて首筋に吸い付く。人形は汗をかかないのか、ただの肌だけだった。だけど、。声を漏らす人形は確かに興奮している。

「目を使うには、血が必要です。あなたから

 ソソギにしたのと同じように、片足を掴み上げて背もたれまで持ち上げる。抵抗しないどころか、自身の力で足を操るドルイダスの人形にを押し当てる。

「好きにしなさい。この身体は――――いまだ清い血です。そして、これはマトイには秘密にして‥‥私は痛みも、嫌いではありません‥‥」





「あなたはどうしますか?」

 目が覚めた時、膝の上に重みを感じた。

「これでも、

 普段見上げている階段を、見下ろしている。

「人間の期待に応えてきたあなたは、期待した人間に。あなたは、ただ恋人達との日常を望んでいるだけなのに」

 顎に指を添えられて、顔を操られる。

「どこまでも人間とは愚かで無自覚です。自分達の欲望を満たす為に、生命を生み出し、刈り取る。その時生まれる には、まるで気付かない」

「それが人間です。俺は、元々人間に期待なんてしていません」

「本当ですか?」

「本当です――――けれど、愛せます。彼女達も愛してくれます」

 腕を上げて、仮面の方の頬を撫でる。

「イネスは、余分な生命だったんですね」

「そうとも言えます。サイナさん1人で、全てを成すことが出来ると判断されれば、彼女達は生まれる事はありませんでした」

 そしてされる事もなかった。

 イネスのあの苦しみは――――無用で不要な物だった。無駄な感情だった。

「それはあなたにも言えます。元々人間達が、で潤す事が出来れば、ヒトガタは生まれていません」

 ヒトガタは、人間では到達できない地へと赴く為に、生み出された船であり先導者だった。深淵を歩く為に使い潰す松明の一振り、火花のひと塵にも過ぎない。

 だけど人間は自身が目指す最果てにさえ、その手足が届けば後はどうでもいい。それまで消費してきたいのちは、歴史の中に消してしまう。

「人間の欲望によって生まれたのがヒトガタです。このことは、あなた自身が1番知っている筈です」

「—―――はい、わかっています。だから俺は、あなたにも遊ばれた」

 試しに頬を摘んでみる。代わりに耳を摘まれた。

「私に悪戯ですか?ふふ、食べちゃいますよ?」

「食べて下さい。あなたが振り向いてくれるなら、俺はなんでも捧げられます」

 掴んでいた手を離して、耳を摘んでいる手に移す。そして、胸に押し当てる。

「潰して下さい」

 目を閉じて痛みを求める。人間への怒りも失望感も、痛みで紛らわせられる。サイナに何度か頼んだことだった――――この方からの痛みを求めていた理由が、今ここに至ってようやく解った。同じ形を持つ二人に、同じ価値を求めていたのだ。

「ふふ――――いいえ、しません。まだ出来ません。自分の身体を差し出すのは、やめてくれって言ったのはあなたですよ」

 膝から降りた仮面の方に手を引かれる。その手に従うように────求めるように玉座からゆっくりと降りる。硬質の床を心地いい足音を立てて、降りていく仮面の方の背中を追いかける。背中が大きく開いた黒のドレスに目を奪われ、肌を覆い隠すように伸ばされる深い黒と青の髪に手を伸ばしてしまいそうになる。

「あなたの視線だけで狂いそう‥‥それとも、私を殺したいですか?」

 裂けるような口元と、血が満ち満ちとした眼球を向けてくる。

「言った通りです。俺はあなたに殺されたい。あなたが冷たくなって眠ってしまったら、俺は――――」

 その先を言おうとした瞬間、仮面の方に指で唇を塞がれた。

「大丈夫、わかってますよ。あなたは私に力を振るえない。私も愛してますから」

 楽しげに、跳ねながら、台座を降り切った仮面の方を追い掛ける。

「サイナとカレンは、

「そう聞きますか。さて、どう答えましょうか?」

 いつも通りに仮面の方は指を鳴らして、床からベットを生み出した。

「まずは座りましょう。こちらです」

 手を引いたままでベットに腰掛けた。そのまま胸を広げて受け入れる体勢を作ってくれるが、隣に座るに留める。

「まさか‥‥—――今度は少し大人な体型になってみますね」

「期待して待ってます。そのまま俺を殺して下さい」

「勿論♪見る影も、痕跡が味しかなくなるくらいに、バラバラにしてあげますから」

 少しだけ空いた間で手を握り合って、見つめ合う。

「では、あなたの質問に答えます。いいえです」

「どの程度のいいえ、ですか?」

 この方は、いつか知る事になるものは教えてくれない。だけど、俺が知る事ができない事は教えてくれる。

 だから、のか、聞かなければならない。怪我やストレス、そして、今の倫理観を―――。

「膝を擦りむいています。カレンさんは悪態を吐きながら、空腹を訴えています。それはサイナさんも同じですね」

「2人の服装は?」

「それは言えません」

 朗らかに話してくる。この方にとって俺以外のヒトガタや人間の危機的状況とは、ただの娯楽でしかない。だが、

 自分が望まない最後は、決して許さない。

「このままいると、2人はどうなりますか?」

 制限時間が少ないのは重々承知している。だから、どの程度なら時間に余裕があるか、聞かなければならない。この質問に答える為、仮面の方は玉座を眺めて考え事を始めた。小さい口を閉じて一点を見つめる横顔は、麗しい。

に、2人共々囚われてしまいます」

 思わず笑みが浮かぶ。

「ありがとうございま―――」

「そして、化け物を虐めて、そのまま化け物の初めてを」

「もういいっ!大丈夫です!」

 止まらず未来予知でもするかのように、続きを始めたので慌てて押し倒す。

「いいんですか?—――こういう事ですね!?楽しみは取っておくって、こういう事なんですね!」

 倒されたまま、髪をベットに晒したままで両手を叩いて頬につけた。最近、詩に楽しみを持っていた仮面の方は、石造や絵画とはまた違う想像の発展を楽しんでおられる。自分が教えたのだから止めるに止められないが、世俗に染まり始めている。

「そ、そんな所です。それと、もう一つ俺はあなたに聞かないといけない」

についてですね?」

「‥‥知っていますか?」

 仮面の方の背とベットの間に腕を入れて、抱き締めながら起き上がらせる。倒した事への反撃か、それともただの目の前に有ったからだろうか、軽く耳を噛んでから離れてくれる。

「あなたの究極の人と似通っている部分はありますが、が違います」

 俺の究極の人は、血と眼球を使って、外の世界からの使者を招くのが目的だった。成育者達はこの体に彼方からの来訪者の通った外の世界を見通すに近い能力を持たせようとした。いわゆる受け身の姿勢だった。

「アプローチが違うって事は、こちらから外の世界に?」

「はい。でも、それにはあなたの彼の者との結びつきと同程度の力が必要です」

「サイナとイネスの血では不可能って事ですか?」

「不可能、とは言いません」

 驚いた‥‥。まさか、サイナの力を使えば、外の世界に?

「しかし、人間達が思い描いているような世界には。精々が別の分岐を歩んだ世界を、垣間見る程度です。ただ、それでも人間達にとってはこれ以上無い程の成功となるでしょう。成功は期待を生み、期待は欲望を生む。いつか向かうの世界に行くことを望む事となる」

「‥‥可能、なんですか?」

「人間が滅ぶ、少し前ぐらいになれば、可能かもしれませんね」

 想像以上に途方もない世界の話だ。人類滅亡の前に、別世界に逃げ込むだなんて―――逃げ込まれた側からすれば、まるでと映るだろう。

「ふふ、それはどうでもいいですね。人類の滅亡なんて、いつかは来るものです。興味もありません。話を戻しますね」

 話しを続けながら、天井に目向けた瞬間。仮面の方の膝に流星のように

「究極の鍵については、このぐらいとします。それに――――あなたも自分の求めている物の場所がわかったようです」

 落ちてきたのは―――、

「さぁ、あなたはどうしますか?」

 決まっている。

「何も守れなかったあなたは、何処へ行きますか?」

 ああ、そうだ。結局は何も守れなかった。サイナもカレンも、マトイも。化け物は自分の城を離れた代償として、自分の宝を蹂躙され、奪われた―――ならば、決まっている。

「復讐だ────誰も許さない。全員殺す。人間は、皆殺しだ‥‥誰であろうと」

 腕と肩の血管が疼く。首の動脈の血流で首が跳ねる寸前だ。余波で眼球も弾け飛ぶ。

「いい目です。流石は私の恋人。では、どうしますか?」

 仮面の方の膝に置いてある物をどかして、肩を押し倒す。

「決まってます。あなたの血を貰う。俺に、力を―――」

 その瞬間—――手が胸を貫通した。

 真っ黒なドレスを真っ赤に染め上げるが、止まらずに腕を受け入れ倒れ込む。

 仮面の方を中心に、赤いベルベットを鮮血に染めていく。白い大理石を朱に染めていく。

 周りの白い石像を血で灯らせる。

「喜んで。好きなだけ私を貪って下さい―――私も好きなだけ、食べますから‥‥」

 最後に見えたのは─────最初に引き抜いて愛おしそうに残しておいた俺の宝石を飲み込む、仮面の方の食事だった。




「間違いありませんか?」

 毛布で腰を隠しながら、確認を取られる。

「必ずいます。この目で見ました」

 Yシャツのボタンを止めながら答える。

「あそこには今‥‥」

「血はあの施設にしかありません。それに、今聞きましたが、イサラとソソギが撤退するほどの人員が中から溢れていると」

 隣で横になっているイミナにスマホを渡して、チャットを見せる。

 Yシャツのボタンを一つも留めずに、肌着を晒している所為で目を向けられない。それに、あの毛布の下は――――、

「‥‥あなたがそう言うのなら、信じましょう」

 スマホを返す為に上体を起こした時だった。胸が重力に従って下に落ちそうになるが、紫の下着が抗う。カップの中で溢れるそうになる胸の行き先に目が行って、スマホを受け取る手を伸ばせない。

「はぁ‥‥。あれだけ好きにしておいて、まだ足りませんか?色を好むのも程々に。マトイにも、そんなに求めているのですか?」

「‥‥マトイとは、まだ‥‥一度しか‥‥」

「一度?まさか、挨拶に来た前日ですか?」

 相当言いにくい事なのに、口が軽くなってしまう。

 身体を重ねた所為だ。肉体的な距離感と精神的な距離感は比例する。この人への気持ちが固まった自分がいる。

「‥‥マトイの言う事は、本当だったようですね」

「マトイ?マトイが、何か言っていたんですか?」

「‥‥夢の中でも節度を持った対応をしてくれた。あなたの前でも言っていたことです」

 褒めてくれたのか、それとも今までの時間の感想なのか、推理する事は出来ないが起き上がって肩にしなだれてくる今が、その答えだった。

「終わった後、あなたは数分ですが眠りました。自分のやる事は決まりましたか?」

 息を耳に吹きかけてくすぐってくる。

「最初から決まっています。復讐だ—―─奪い返す。サイナとカレンは――――俺の物だ───」

 血が溢れる。血管が焼ける。心臓が生まれ変わったように、熱を身体中に届かせる。歯茎を通う血管も、爪の奥に隠されている血流も、全てが跳ね上がる。

「ついさっきまで、私としておいてそれとは。許し難いですね」

「それ、マトイに何度か言われました。始末を付けて来ます‥‥」

「帰った暁には話があります。そして外に渡す物が。しばし待っていなさい」



「まだ、目が覚めないんです」

 真っ先に向かったのはマトイの居るテントだった。椅子に座っていたマトイはベットに移され、腕と頭に巻かれた包帯を晒している。外傷も目立つ上、自分には内部の損傷も見えていた。布を使って致命傷は避けられたとしても、骨折は免れていなかった。

「サイナの車は?」

「‥‥です。真横から爆撃されたか、追突されたかわかりませんが、何か重量を持った攻撃を受けたみたいで‥‥」

 ミトリが首を振って答えてくれた。目線で指し示してくれた方向には、覆い隠すようにビニールシートが被された車がある。あの車体を見間違う筈がなかった。

「‥‥でも、流石はサイナさんの車です。RPGではないにしても―――ごめんなさい」

 俺に謝った訳じゃなかった。マトイの腕を撫でながら謝っていた。

「ネガイは?」

「前線で戦闘中です。一度撤退しましたが、今はソソギさんとイサラさんとで、一緒に前線を押し返しているそうです――――ごめんなさい。マトイさんから、あなた達のモーターホームを尾行して、何かあったら加勢するよう頼まれていたのに――――まさか、民間人だと思ってた人達がいきなり発砲してくるなんて、それに車両で道を塞がれて‥‥」

「それも計画の内だったんだろうな‥‥」

 あの住宅街は、本道は広いが入り組んだ路地も多い。そんな路地から飛び出るように、車両で壁を作られたのなら、手も足も出なかっただろう。

 市街地戦において、土地勘という経験は恐ろしい武器となる。

 身を隠せて、襲撃するに相応しい物陰を一つでも知っていると、それだけで部隊は瓦解する。襲撃によって3〜4分でも時間を削られれば、それだけで撤退を余儀なくされる。場合によっては、撤退すらできない。

「怒ってますか?」

「怒る訳ないだろ。怒られるのは、俺の方だ。‥‥マトイを、守れなかったんだから」

 マトイの前髪を整えて頬に触れる。冷たいが脈動は正常。マトイの為に生きると言っておいて、この様だった。後から来て、こんな簡単な検査しか出来ていない。前髪を整える程度で満足してしまっている。

「怪我、してませんか?」

「平気、どこも怪我なんてしてない。—―――俺からの頼みを聞いてくれ、マトイの側にいて欲しい。目が覚めた時、ひとりにする訳にはいかない。行ってくるから‥‥」

「‥‥気をつけて」

 最後にミトリと抱き合って、耳元で囁く。

「いつも通り、朝には終わる。待っててくれ」



「おう、作戦会議は終わったか?」

「ああ、少し長引いたけどな。乗っていいか?」

「いいけど、気を付けろ」

 ビニールシートで覆われたモーターホームの近くには、整備科が立っていた。

「引火とか?」

「まずねぇーよ。この車を知らないのか?オーダーが誇るアステリオスだぞ。まぁガソリンは抜いてあるけどな」

 前にサイナがそんな事言っていたのを思い出す。モーターホームについては、よく知らないが、乗り心地と運転のしやすさは最上位だった。

 軽く整備科に会釈をしてから乗り込む。扉はどこかへ飛んでいったか、無理矢理こじ開けられたかわからないが、既に影もなかった。

「‥‥サイナ」

 運転席を眺めて呟くが、あの声は聞こえない。

 中のソファーは正常を保っていたが、床は剥がれ、机もひしゃげ、窓ガラスの大半が砕けていた。サイナがよく使っていた旅行鞄やアタッシュケースは床や壁に固定されていた為、問題ないようだが

「—―――贈り物。あるとすれば‥‥」

 あの方がこちらに届けておくと言った品。だが見通した様子では、車内の何処にもない。何故か、あの方は何か送る時にいつもサイナ経由で通す。

 だから、ここでは?と踏んだが見当たらない。

「ソファーに無し、壁と床にも無し。‥‥天井も、無いか」

 あれだけの長物。すぐ見つかると思ったが、車内の暗さを引いても、やはり何処にも無い。

「‥‥無くてもいいか。‥‥喉乾いたなぁ」

 呟きながら助手席に収まる。横転したようだが、ソファーとシートはほぼ無傷。守る為に造られた分厚いクッションは、己が役割を果たし誇らしく鎮座していた。

 いまだ形を保ったままの助手席からダッシュボードに設置されているグローブボックスを開けて、半分程減っているペットボトルを見つける。

「‥‥まぁ、いいか」

 シズクの唾液がついているだろうが、無視する。

「シーとの間接キスなんて、昔散々やったんだ‥‥今更だろう。甘い‥‥そうか、シズク、シュークリーム食べたばっかりだったか‥‥」

 唇の甘みを拭って、もう一度飲む。

「‥‥行かないと」

 呟いて覚悟を決める。すぐここに戻ってくる。少し離れるだけだ。だけど、

「あ――――!!!」

 サイナサイレン並みの悲鳴を不意打ちで受けた結果、天井に頭を打ち付ける。

「そ、それ!?私の!?」

「あーそうだけど?言っとくけど、元々は俺のだ」

「だからって、普通飲む!?」

「俺は飲むぞ。欲しいなら、渡すけど?」

「い、いらない!!」

 運転席の間から後ろのシズクに投げつけるが、すぐに帰ってくる。だが、下手過ぎてひび割れた運転席のフロントガラスに飛んでいく。

 あれだけ教えたというのに、これだ。これで良く体力テストとか合格できると関心する――――教員も諦めているのだろう。

「下手くそ」

「う、うるさい!!それより、なんで飲んでるの!?」

「喉が渇いたからだ。シーが飲んでたからじゃない」

 シズクサイレンがなかなか止まない。外から整備科が覗いてくるが、手を振って心配無用と伝える。

「とりあえず、ソファーにでも座れよ。それで何か用か?」

 叫ぶ疲れた所で、話し掛けた。まだ言いたいことがあるようだが、実際疲れたようでソファーに座って肩で息を始める。

「で、なんだ?」

「‥‥君、平気なの?」

「それはこっちが聞きたい。シーは平気か?」

「‥‥ちょっと、ショックかも――――小学校の時はずっとここで暮らしてたんだもん。夏休みの時なんか、毎日ヒーとこの公園で遊んでたし‥‥ここの人達とは、毎日挨拶してたのに‥‥今は、無言で撃ってくるんだもん。‥‥前から、そうだったのかな?」

「さぁな」

 血の聖女のせいだ。そう言いたいけど、

 あれは直接飲まなければ意味がない。例えばな話、蒸発させて空気中に散布したり、水道水に混ぜたりする可能性もなくはない。

 だけど、操るにはイネスのような特別なヒトガタがいなければ行えない。他のヒトガタがやってる可能性もあるが、それはまず有り得ないし、もはやどうでもいい。

「わかってるのは、ここの連中はオーダーに発砲した。なら、オーダーが逮捕する」

「‥‥容赦ないね。やっぱり、人間が嫌い?」

「それもあるだろう」

 オーダーとして当然な事をとして使ってしまった。

「前線にいただろう。射撃苦手なのに、なんであんな所にいたんだ?」

 情報科の生徒が、あんな場所に出てくる事はまずない。ただでさえシズクは、射撃が苦手で運動不足なのに。オペレーションだって、もっと遠くから、更に言えば頑丈な車両の中で行っているだろう。理解できない。

「‥‥それは‥‥言いたくない」

「どうしたんだよ?」

 割れたミラーをいじって、後ろのシズクに話し掛ける。

「シズク、約束だ。もうあんな前線には出るな。出るんなら、せめて俺とタメ張れるぐらいになってくれ」

「む、無理だよ!だって、君は」

「言っとくが、俺はイサラが来なければ、未だにあの施設から出て来れなかった」

「‥‥でも」

 ぽつりと呟いたシズクは、俯いて静かになってしまった。

 ―――

「ありがと。シズクが言ったんじゃないか?イサラに施設に突っ込めって、違うか?」

「‥‥そんな、そんな事しないから‥‥」

「でも、言わせてくれ。シズクのお陰で、俺は生きて帰って来れた。俺はシズクに救われた。これじゃ、ダメか?」

 シズクの方向に映していたミラーを戻して、真っ直ぐに前を向く。

「俺、そろそろ行ってくるよ」

 叫び声に折られた覚悟がやっと直ってきた。だが、助手席から立ち上がろうとする俺の肩に、音もなく近付いてきたシズクが手を乗せる。

「‥‥皆んな、撃つの?」

「必要があれば」

「私も撃つ」

「気持ちだけでいいよ。前も言っただろう」

 乗せられた手を引き寄せて、シズクの顔に顔を近付ける。今すぐにでも溢れそうな目を指で拭う。

「帰ってきたら、背中をさすってくれ――――帰ったら、また一緒に遊ぼう。シー」

「‥‥うん、待ってる。ヒー‥‥」

 少しだけ、ほんの少しだけ口を近づけて、シーの唇に唇で触れる。

「‥‥キスって、甘いんだね」

 目と鼻の先にあるシーの笑顔を見て、心臓が高鳴った。

 肌が白いシズクの顔に赤みが差していく。未だに震える唇を手で隠す仕草が、初々しくて、幼くて‥‥。

「シー」

「何、ヒー?」

「もう一回しない?」

「もう終わり!」

 言い終わる寸前で、シズクに顔を突き飛ばされた。普段筋肉とは無縁なシズクの突き飛ばしは、想像以上に威力があり、後頭部をガラスに打ちつけてしまった。そして跳ねるようにシフトレバーに頭をぶつけて‥‥ぶつけて‥‥。

「ちょっと!ダメダメ!起きて!!」

「だ、大丈夫‥‥。起きてる。それより、助かった」

 言っている意味がわからないシズクは、首を捻るながら後頭部をさすってくれる。背中の前に頭を撫でられてしまったが――――悪くない。

 それに、あの方のが見つかった。運転席の下に隠されていたを。

「それ、刀?」

 起き上がった俺の手に握られている黒い鞘を見て、シズクはそう聞いてくる。

「の形をしたって所か?」

 おかしくなったと思ったのか撫でる手を一切やめてこない。やっぱり、悪くないかもしれない。やさしく「ここが痛いの?」と吐息を漏らすように呟くシズクの献身に、頬が緩んでしまう。

「それ、使えるの?」

「わからない。だけど、俺しか使えない」

 シズクの肩を押して助手席から立ち上がる。右手の鞘がやはり気になるのか、指で突いてくる。脇差しと違って、それなりの重量がある。叩っ斬るという行為が、これほど待ち遠しい事もないだろう。

「‥‥殺しはダメだからね。‥‥ねぇ、どうしたの?」

 シズクの熱と刀の脈動を受けて、血流が止まらない。手が震えてくる――――とは、こういう事か‥‥。

 この刃は妖刀だ。この化け物と同等だと認めてやろう。腰の脇差しも、同胞に会えて喜んでいるのが熱でわかる。

「怖いの?」

 震えが見えているらしい。だけど、それは違う。

「ネガイさんもイサラもいるんだよ。それにソソギだって、君は頑張ったんだよ。私と一緒に待ってても誰も、」

 振り返って、シズクの唇をもう一度味わう。シズクも背中に手を回して受け入れてくれた。

「‥‥ここで、するの?」

 今まで見た事のないシズクの艶っぽい顔に、血の気が騒ぐ。だけど、今じゃない。

「帰ったらな。それと―――、」

 耳元の髪を指で上げて、耳たぶを触る。

「シズクの髪、俺はずっと好きだった。この色を誇ってくれ。俺が認めたんだから」

 シズクの赤みがかった頭髪は、小学校の頃に何度かいじめの対象となった。無知な人間達は、シズクの髪の美しさに気付かなかった。

 いじめに関わったのは、男子だけではない―――――女子もだった。

「オーダー校はどうだ、どうした?」

 耳をくすぐるように、息を吹きかける。足腰が揺れ始めるシズクを支える為に、腰へ刀を持った腕を添える。

「オーダーは、楽しいか?」

「‥‥うん、楽しいよ―――誰からも、怖がられない。皆んな、私を頼ってくれる」

「良かった。それと、イノリを頼むぞ。いい奴だろう?」

 シズクのいつの間にか育っている胸部に、胸板を押し付けて押し潰す。

「‥‥この状況で、他の子の事話す?—――い、いい子だよ。だから、続けて‥‥」

 最後に耳を舐めてから、シズクを抱き上げてソファーに寝かせる。そのままもう一度、口を吸う。酸味から甘味に変わったシズクの唾液を吸い上げて、唾液を垂らす。

「‥‥気持ちいい」

「俺もだ。またしよう。でも、その時はもう少し周りを見てしないと」

 シズクを十分味わった後に、腕を引いて起こし去り際に――――。再度のシズクサイレンを背中に、

「見るのも程々に―――」

「は、はーい‥‥」

 外に出た時、情報科の女子や治療科の女子に自粛を促して去る事にした。




「なんか、あったのか?女子らから離れてどっか行けって言われたんだけどよ?」

「シズクの調子が悪くてな。少し中で休んでるんだ。しばらく、あそこには近付かないでやってくれ」

「そういう事か。任せろ、近付く野郎供も排除してやる」

 いい奴だ。本当に、いい奴なのだけど―――どうして、こうも極端なのだろうか。

「俺は空気が読める男だ。空気が読めるって、モテるよな?」

 肩を両手で叩いて聞いてくる。

「なんで俺に訊くんだ?正直わからないけど、モテるかどうかはともかくって思われると思うぞ」

「それ‥‥モテるに入るのか?」

「あはは、入る入る。それに、この拠点設営時の防衛で君が見せた勇姿は、中々に好評だったよ。先輩達も手放しに褒めてたから」

 後ろから襲撃科の異端児が褒めてきた。気を良くした整備科は振り返って異端児の肩を叩く。

「そうか!そうか!俺にも、ついに遅かった春が!!」

「うん来る来る。重武装科の人達が、君を引き抜きたいって、言ってたよ」

「男にモテてどうするんだ――――!!っ!?」

 うるさいから腰を鞘で突く。思っていた以上に手応えがある。一体Yシャツに何仕込んでいるのかと、問いただしたくなる。鉄板でも突いたような感触がした。

「叫ぶな。落ち着いた男の方がモテるんじゃないか?よく知らないけど」

 異端児も、突かれた整備科すらも、刀に目がいく。

「それ刀?そんな長物の保有許可、大変だったんじゃないの?」

「まぁ、そこそこな」

 そもそも、これはこちらの世界の物ではないので、どこかの鍛冶屋や職人の判がある訳じゃない。よって許可も何も取れないが、追々イミナかマトイに頼って許可証を貰うと決めていた。面倒な事になったら、面倒だ。

「来ましたね」

 改めてスカートを履き直したイミナが、近付いてくる。自分はいい加減慣れたが、他の2人はその例ではなかったようだ。

「こ、この方は?」

「すげぇ‥‥美人‥‥」

「わかってる思うけど俺の上司だ。仕事以外で矢面に立つ人じゃないから失礼の無いように」

 帰ってきたスーツ姿の人形達を携えている風格に、先程とは打って変わって、凛々しさを感じる。先程までの妖艶さ蠱惑さのかけらも感じない。

「‥‥勝手に開けましたね。それでもオーダーですか?」

「開ける?」

 俺じゃなくて、後ろの2人に対して言ったようなので振り返って聞くと、

「あ、あの、お名前は?」

「勝手に開けましたね?」

「す、すみません!」

 首でも飛ばすような勢いで頭を下げるが、体育会系なという整備科のやり方に、イミナのこめかみに青い物が通った。

「‥‥私も暇ではありません。時間は十分ですね。すぐにそれに乗って行きなさい」

 整備科が背中で隠していた物を指で差す。だが、今だに頭を下げているが、度々顔を上げて腹立たしい視線を送ってくる整備科に、手を上げて後ろのスーツの人形へ指示を下そうとしたので、異端児が慌てて退かす。

 そこにあったのは、黒いカバーに覆われた単車—―――確実にバイクだった。

「—―――‥‥」

「この仕事が始まる前に、マトイから連絡がありました。あなたを利用するのなら、法務科も誠意を見せるべきだと」

 カバー越しでもわかる。星を使わなくてもわかる。これは、このフォルムは‥‥

「—―――

「そう!あのラムレイなん」

 異端児が遂に整備科の頭をグロックで殴って気絶させた。そのまま、手を振って去っていく。

「‥‥邪魔が入りましたね。あなたがそれを望んでいる、マトイから聞きました」

「はい‥‥これは、欲しかった。でも、いいんですか?これはまだ実験段階だって」

「ただの運転には、もう支障は無いと。それに近く試運転の情報提供をオーダーにも求める予定だったらしいです。‥‥勝手ですが、あなたの能力や運転の経歴を製造側に提供した所、。それは、

 法務科所属の自分のバックに、あの技術開発部門がスポンサーとして立ってくれたという事だとすぐさま理解した。一体、どれだけ肩書きが増えているのだろうか。

「褒めてくれますか?」

「褒めてあげます。よく、ここまで人間世界で地位を確立しました」

 気持ち朗らかに笑んだイミナが隣に立って、頭を撫でてくれる。

「‥‥気持ちいいです」

「それは何より。では、仕事の時間です―――最後に私からも、口を開けなさい」

 撫でていた手をやめと終わった瞬間、唐突に指を口元に突き付けてくる。

「噛んで血を飲みなさい。一時ですが、力となるでしょう。‥‥覚悟しなさい。これはと呼ばれる――――別世界の証」




 シート越しに車体全域を並列4気筒が突き上げる。しかし、決して乗り手に歯向かう獰猛性など覗かせない――――無個性で従順。それがV型との違いだと言われている。それは水のように滑らかな機動を約束してくれる。

「いい子だ‥‥オーダーから生まれたとは思えない」

 持ち替えた左手の刀を、バイクに沿うようにぶら下げる。アクセルレバーだけでシフトチェンジを続けるが、それは今回だけとする。あまりやるとパーツが傷むからだ。

「初戦で悪い。だけど付き合ってもらう――――オーダーで生まれた自分を呪うんだなっ!!」

 アクセルを数度も回して、エンジンから馬どころかのような音を轟かせる―――!!!一気に最高スピードとギアに持っていく。

 受ける風が規格外に増えるが、それも軽減できている。そして小回りも出来る。

 オーダーの装甲車と装甲壁が道に置いてあるが、ラムレイはそれを縫うように駆け抜けていく―――!!!

 ツアラータイプのメリットがこれだった。だが―――それだけではなかった。

「は。ははははあっ!!!」

 笑いが止まらない。

「そうか、これがイコルか!?これが、神の血か!!」

 身体全体を黒い鋼のような硬度を持った布が覆っていた。マトイに被せてもらった時と同じか、それ以上の力を感じる――――このまま車体から投げ出されたとしても、傷一つ負わないと確信出来る。人間とは次元の違う化け物に、神でさえ破壊できない血の通った毛皮が、人間の鉛玉が効く筈がない。

「シズク!出番だ!!」

「オッケー!任せて!—―――防衛点アルファに告ぐ、アルファに告ぐ、前線の3科、並びに狙撃科、すぐに道を開けるように。そこに」

 布で隠れたヘッドギアから、静かに、しかして芯の通った迫力ある声が響く。

 通信機越しにそれを聞いたオーダーと、聞いていないが異常事態だと分かったオーダーが装甲壁より――――相対する白いセダンを壁にしてTMPやH&K P2000、ニューナンブを発砲する住人を無視して道を開けて行く。

 ――――姿

 黒いバイクと一体化した黒い毛皮の持ち主は、

「死にたくなかったら‥‥さっさと退けよ!!人間が!!」

 装甲車に囲まれた道を縫い、装甲壁を乗り越えて、更に前線にいる勇姿達を見る。

「戻ったのね!!」

「戻ったね!!」

「戻りましたね!!」

 ボウイナイフ、杖、レイピアを抜いたオーダーがいた。この姿でも、俺だと分かってくれた。この化け物を受け入れてくれた。

 装甲壁を越えて最前線にいた恋人達を眼下に、鞘のままの刀を振り上げる。

 そして、首に巻き付かせるように右肩に乗せた同時に―――

 ラムレイは強大な蹄鉄で踏みつけるように白いセダンを踏み潰す。だが、化け物も止まらない。住人達は恋人達を越えて—————踏み潰されたセダンすら越えて迫ってくる—————化け物へ背を向けて―――

 ?もう遅い。

 既に奪ったというのに―――

「逃げてんじゃねぇぞッ!!」

 一振りで4人の住人達を薙ぎ飛ばす。飴をくれた人の家へ、まとめて叩き込む。

「散々お前達が、俺達にやった事だろうが!?」

 薙いだ刀と共に、回転を加え重量を活かした二度目の薙ぎ払いを、住人達の背に向ける。

 。区別も差別もしない、生きているかどうかで判断する。

 腰が抜けていようが関係ない。命乞いをしていようが構わない。

 ソソギもカレンも、サイナも死んでいったヒトガタも、皆んなそうやって奪われた――――皆んなそうやって死ぬしかなかった。

「次はお前達だ!!受け入れろ!!この化け物を!!」

 逃げる背中にM66を連射。強力な357マグナムは誰一人逃がさず喰らい付く。

 背中や肩に血しぶきを上げ、呻き声を発しながら倒れる人体を跨いで肉薄する。

 この化け物は人間の欲望キョウキそのものだ。

 人間が作り上げた狂気が、人間に牙を剥く。全ては人間の罪だ。受け入れろ。

「ラムレイ!!」

 オペレーションシステムが声に反応し、セダンを踏み潰したラムレイの車体が隣へと舞い戻る。エンジンが嘶きのようにも、獲物を狙う吐息のようにも聞こえた。

「今夜は狩りだ。の始まりだ!!」

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