6巻 改訂版 流星の裁定

「‥‥眠い‥‥」

 時は夕刻少し前、自分は赤く腫れあがった背中を天井に向けて、ベッドにうつ伏せで倒れていた。傍らには手を薬塗れにした天使が一人、呆れ顔であろうその少女は、自分を部屋へと運び込んだ後、長い時間をかけて治療を終えた所だった。そんなミトリがチクリと棘を刺す。

「いつも寝てますよ。毎回新しい怪我までして、そんなに私に甘えたいんですか?」

「好きで怪我してる訳じゃないけど、怪我しないとミトリに世話をして貰えないな‥‥」

「困った患者さん」

 傷の痛みさえ我慢すれば、愛しいミトリの治療を受けられると知った自分は眠気を理由に欲望を吐露してしまった。だけど自分がここまで狂った原因の一つはミトリでもあった。

 何故、どうしていつもミトリの手を受けると眠くなるのか。遂に意識が朦朧としてきた。

「最初はただのデモだったのに。オーダー省から追求されたのが、余程嫌だったみたいですね」

 優し気でありながらも、芯のある声で呟いたミトリへ声を掛けようとした時だった。

 玄関の扉の鍵を開ける音と同時に、ミトリと俺を呼ぶ声がした。

 対して「あ、こっち」とその声にミトリが応え、声の持ち主を寝室に連れて戻った。背を向けたまま、自分は視線を向けずに足音の持ち主へと質問を切り出した。

「あいつらは、どうなった?」

「テロを指揮したとして議員はその場で逮捕。これはオーダーの自作自演だ、だそうです」

 一工程で全てを知らせてくれたのはネガイだった。

 依頼斡旋室から緊急案件として連絡と命令が下り現場のゲートに駆けつけると、オーダーに対するデモ抗議が執り行われていた。

 それ自体は特段不思議な光景ではないのだが、もうすぐ選挙があるからか、前の内閣にいた議員が先頭に立ち、旗を振り役として、日本から出て行け!と至極個人的な意見もうそうを論じて叫んでいた。

 オーダー省の新しい法案が気に食わないのもあって、満面の笑みでデモを指揮していた。

 仕方ないので、デモの安全な誘導や過激な言動を始めた参加者を取り締まろうとしていた矢先。デモ車がゲート目掛けて突っ込んで来た。

「いくらオーダーが嫌いだからって、やり過ぎです」

 ミトリが背中の傷に薬を塗り込んでくれる。

 ゲートに激突したデモ車はゲートを越える事こそ無かったが、その場で横転。破片やガソリンを撒き散らして炎上。その上、運悪く飛んで来たタイヤが俺の背中に直撃した。

「マトイさん、怖いぐらい怒ってましたよ。それに、あなたに感謝してました」

「‥‥いや、あれぐらい。マトイなら避けられた」

 思わず身体が動いてしまったが、むしろ邪魔をしてしまったと胸が締め付けられる。

 飛来したタイヤの進行方向にマトイの背を見つけたから守ったは良いが、この様だった。

「今マトイは、法務科に当時の現場説明。治療科は、あなたのように怪我をしたオーダーとデモ参加者の救護。マトイとサイナに感謝しましょう。あなたとミトリを車に乗せて寮まで帰っていなければ、いつまでもあなたの治療は始まらなかったかと」

「うん‥‥。怪我をした時、オーダーの治療は一番最後って決まってるから」

 本来ならばルール違反だが、サイナはマトイの指示で倒れた俺とミトリを連れてジープでオーダー街を疾走。寮まで運んでくれた。

 守る者と守られる者のルールとして、一般人を優先して治療するのはオーダーの医療に携わる者の役目でもある。

「‥‥火傷ですか」

 背を見据えたネガイの言で疑いが確信に変わった。皮膚を削るタイヤ痕から感じる痛みは、熱せられた鉄の印でも押し当てられていたようだった。

「うん‥‥。でも、これぐらいなら傷も残さないから」

 傷の治療を終えたミトリが、最後に傷跡が直接空気に触れないシートをを貼ってくれる。

「どうですか?まだ痛い?」

 傷跡全体にシートを貼ってくれているが、服が擦れると更に痛むと感覚で察する。

 「まだ少しだけ痛い」と呟いても、ネガイが手を使わない理由は明白だった。

 これは自力で治さなければならない傷だからだ。目や脳と違い、この程度の傷で手を乱用しては俺が本格的に怪我を恐れなくなってしまう。傷が癖になってしまう。

「そろそろ夕飯の支度を始めましょう。ミトリは今日休みですよね?食べて行って下さい」

「ありがとう。私も手伝うから」

 当人達は、さほど気に留めていないが、この部屋の家主は本来自分だった。

「‥‥少しは、動くか」

 Yシャツを羽織り取り敢えず立ち上がる。背骨こそ問題はないが、背伸びでもした瞬間に肌がひび割れていくような感覚がした。背中全体にかさぶたが出来ている。

「怪我人は大人しく。お風呂に入って汚れを落としてきて下さい」

「あ、湯船に浸かるなら、ゆっくり。シートは簡単には剥がれないけど擦ったりしないで」

 ミトリはネガイと話していると、いつもの話し方から変わる。壁こそ感じるが、自分にとってミトリは優しく敬語で話してくれる少女だった。

「そんなに長居しないように気をつけるよ」

 寝巻きを回収し、脱衣所に向かう。制服を脱いでハンガーにかけて、肌着を洗濯機に放り込む。風呂場に入り、シャワーを浴びて、湯船に浸かる。

 男の入浴方法などこの程度、それはヒトガタでも変わらない。

「‥‥だいぶ痛むな」

 シートは自分の役目を果たしている。水は通さず、湯の熱だけ伝える。だけど、この熱が今の俺にとって耐えがい温度に感じる。浴室リモコンを見ても、せいぜいが40度、普通だ。

「シャワーだけにするか」

 特別風呂に思い入れがある訳じゃないが、いつもの習慣を乱されると気分が曇る。

 腕や足の汚れは勿論、炎上した時に受けた煤を髪から洗い流し、全身くまなく洗い流す。

「‥‥オーダー反対か」

 結局の所、自分もオーダーは嫌いだ。そういう意味では同じなのかもしれない。

 法務科の仕事を受けはしたが、それだってマトイがいるからだ。オーダー本部から逃げ出した時なんて、これ以上無いほど快感だった。

 あのゲートに突っ込んで来たデモの参加者と、どう違う?そう問われれば、俺は答えられない。気持ちがわかるから。

「‥‥出るか」

 身体を洗い終えて、衣服を整えてからリビングに戻ると、

「お、いい匂い。トマトか?」

 キッチンからトマトの豊潤な香りが漂っていた。

「はい、今日はトマトを使った煮込みハンバーグです」

 いつの間にひき肉を買ってきていたのだろうか?最近ネガイとの食事が多いから冷蔵庫の中を確認していなかった。ネガイがハンバーグのソースたるトマト缶を開けてハンバーグを煮込み、ミトリが玉ねぎのスープを作りながら、パスタを茹でていた。

「ネガイとミトリのお陰で、ここ最近夕飯が豪華だ」

 棚から適当に三人分の食器を出して食卓に並べていると、

「冷蔵庫に野菜があるので適当にちぎって下さい」

「勝手に使って、すみません。トマト缶とパスタ、それに玉ねぎも」

 ミトリが申し訳なそうに言うが、漂ってくる香りだけで払ったの食材代は帳消しになっていく。

「謝らないでくれ。俺一人だとハンバーグとかスープを作るなんて余裕無いから」

 ミトリが休みでネガイが来ない日は度々、ミトリの世話となっていた。

 冷蔵庫からレタスをちぎってボウルに入れて水で軽く流す。あまりにも簡単すぎるサラダだ。もう少し手を施したい。

「ハムは‥‥」

「ハムは、そこに」

 冷蔵庫を開けて買ってあった筈のハムを探していると、横からミトリが指を差す。

「お、あった。すごいな、覚えてたのか?」

「はい、前に来た時」

「何故、あなたが知らないんですか?自分の冷蔵庫なのに」

 蓋をして、後は待つだけになったネガイが呆れたようにため息をついている。確かに、知らなさ過ぎだった。包丁とまな板でハムを切っていると、もうひとつの違和感にも気付く。

「この包丁も見覚えないけど、ネガイのか?」

「違いますよ。それは」

「私のです」

 もうスープが完成したミトリが、パスタを湯切りしながら教えてくれた。

「えっと、もしかして、知らずに?」

「ちなみに玄関マットも、お風呂場のハンガーも、私達のでは無いですよ。マトイか、サイナですね」

「いつの間にか、本当にシェアハウスになっていたのか。まぁ、いいか」

「いいんですか‥‥」

「どうせ、ここに来るのは身内だし。帰ってくれば誰かいるのは‥‥いいものだ」

「‥‥そうですね。はい、そう思います」

 サラダボウルに細く切ったハムをボウルの中に入れると、それだけで見映えが良くなった気がする。

「そう言えば、サイナは?」

 タイヤの直撃を受けて、しばらく意識が朦朧としてた所為か、サイナがいない事に気付かなかった。

「サイナでしたら、マトイに呼ばれてどこかへ行きましたよ。あの場にはサイナもいたので、現場の説明に加わったんだと思います」

「後で様子を見に来る、って言ってましたけど。‥‥遅いですね。ハンバーグも人数分用意したのに」

「お邪魔しま〜す♪」

 時計を見た時、丁度サイナの声がした。2人分の足音も聞こえる。

「目が覚めましたか?」

「ああ、マトイは平気だったか?」

 マトイとサイナが玄関の廊下を通ってリビングに入って来た。

「‥‥すみませんでした」

 額に汗をかいたマトイが深々と頭を下げる。

「俺がやった事だから。それにミトリと俺だけ逃してくれたのはマトイとサイナだろう?」

「‥‥最低限の事しか出来ませんでした。ミトリさんがいないと、何も」

「俺は平気だから。取り敢えず、座ってくれ。話があるんだろう?」

「いいえ、違いますよ♪本当に顔を見に来ただけですよ」

 後ろから顔を出したサイナが嬉しそうに知らせたくれた。

「現場の説明が終わったら、一目散に私を連れて、帰る帰るって」

 つい先ほどの言動を暴露され、マトイの顔が徐々に赤くなっていく―――こんな姿を見た事がなかった。ある種、新鮮ではあったがネガイが立ちはだかる。

「サイナ、そこまでですよ。それ以上マトイをいじめたら夕飯は無しです」

 助け舟によってサイナはネガイに泣き付き、マトイはミトリに連れられて椅子に座った。隠してこそいるが、今も肩で息をしているマトイの髪をミトリが梳かし始めた。

「助かりました。ルール違反をさせてしまいましたね‥‥」

「いいえ。マトイさんの判断は正しかったです」

 1ヶ月前まであまりいい雰囲気ではなかった二人が、今や頼み励まされる関係となっている。救われた自分が間に入れる訳もなく、無言で二人を眺める事しか出来ずにいた。

「夕飯の抜きは無しにします。その代わり、準備や後片付けに付き合って貰います」

 ネガイの命令でサイナはいそいそと夕飯のハンバーグを皿に盛り付けて、二人で食卓まで運んでくる。自分も何かすべきと思ったが精々サラダボウルを運ぶ事しか、やはり出来ない。

「‥‥傷はどうですか?」

 視線でミトリに許可を取り、上着を脱いで背中を向けると、「‥‥火傷みたいですね。痛みますか?」と触れるか触れないかの境界線で温めてくれる。

「ついさっきだから。でも、すぐにミトリが見てくれたから、そんなに痛まない」

 慣れた時シートの上から手を当てて傷口を温めてくれていると、もう一つ手が増えた。

「ネガイか‥‥気持ちいい‥‥。‥‥眠くなってきた」

「あ、二人とも止めて止めて、寝ちゃうから」

 ミトリが慌てて、二人も手を止める。あと数秒で眠りにつく所だった。

「寝ないで下さいね。せっかくネガイが作ったんですから」

「わかってるって。‥‥まだ寝ないから」

 ミトリに手伝って貰い、脱いだ甚平を着直してようやく夕飯を始める。マトイとミトリが並び、向かいに俺とサイナが並ぶ。そしてお誕生日席にネガイが座った。本当に、いつの間にこんな大所帯になったのだろうか。

 それに美味だった。このトマト缶、酸味が強かったから扱いに困っていたが、ハンバーグと一緒に煮込みと酸味がまろやかになり、寧ろ甘みが増した気がする。

 それに玉ねぎのスープも。玉ねぎの甘みをベーコンとコンソメ、それに塩胡椒だけで、ここまで引き出してるのかと感服してしまう。

「結局、現場はどうなりましたか?」

 粉チーズを大量にかけているネガイが、箸で食べているマトイに聞いた。

「‥‥未成年以外のデモ参加者は、全員逮捕。そしてあの突撃は運転手の独断によるもの、と法務科は見ています」

 全員逮捕か。妥当だろう。これで野放しにしては、突撃しても許されるという前例を作ってしまう事になる。厳しく取り締まった法務科は正しい。でなければ、怪我をした本職のオーダーや、オーダー校の生徒が納得しないだろう。

「俺以外にもかなりいたな」

「重軽症含めて、デモ参加者は12人、オーダー側は5人。双方の中で一番の重症者はあなたです」

 総計17人の負傷者を出したテロ。死人が出ていないのは救いだが、かなりの規模の事件となってしまった。猶予判決は出るだろうが、間違いなく有罪となる。

「運転手はどうなったんだ?」

「人の心配ですか?」

「今どこにいる?殺してくる。マトイに怪我をさせようとしたんだ。首の一つでも削がないと」

「冗談と受け取りますね。車両から死体は発見できず、運転手は目下のところ捜索中。ブレーキとアクセルに細工をして、自動的に激突を起こしたようですね―――見えない所からでないと、何もできない卑怯者らしいやり口‥‥」

 最後に個人的な意見を含んでしまい、慌てて前髪を触り、誤魔化した。

「この事態を受け、行政区のゲートはしばらく閉鎖が決定しました。現在の所、閉鎖期間はゲートの修復が完了するまで、が予定です」

「‥‥そうですか」

 ミトリが、ネガイの方を見て呟いた。

「しばらくは、オーダー街から出る方法も限られる事になります」

 機械的な文章を、法務科のマトイとして話し始めた。

「緊急の場合を除き、車両は勿論、徒歩にヘリコプターや船舶、そして航空機を使っての移動も制限されます」

 移動制限と言われれば、類を見ない緊急事態と感じる気もするが、ゲートの完全封鎖という件を抜けば、やはり珍しい事でもない。依頼や単位もこの時期なら焦る事も無いし、しばらく土日は暇だという程度の認識に過ぎない。

「仕方ないですね。約束はまた今度です」

「うん。また今度ね」

 ふたりが目を合わせて確認と取り合った。外に出る約束をしていたようだ。

「うー‥‥せっかくの休みが‥‥。工房の掃除でもしますか‥‥」

 サイナが寂しそうにハンバーグを食べている。思い出してみれば、サイナは休日はよくよく外出、オーダー街から出ていた。

「サイナ」

「‥‥なんですか?」

「外でいつも何やってるんだ?仕事か?」

「よくぞ聞いてくれました!近くあなたにも話そうと思っていたんですよ!」

 トマトソースがかかったパスタを吸って、自信あり気な顔になった。

「実はですね。私、外で色々な新商品の発表会に出入りしてまして♪有名ブランドから、マイナーな薬品まで」

 聞かなければよかった。そう思っても、もう遅い。自分でも知ってるようなブランドのなどの話を始めた。

 どうやら、それらを参考にして自分と懇意にしてる装備科と金儲けを考えているらしい。もう既に俺の数倍の財産があるというのに。

「‥‥そのチケット。余ってますか?」

「あ、行きますか?丁度ここに4人分‥‥」

 サイナがそう言った瞬間、掴み取りのように、3人が新商品発表会の入場チケットを掴んで制服にしまった。

 あまりの速さに、思わず声を出してしまった。ほんの瞬きの間の出来事だった。

「‥‥そんなに貴重なのか?」

「はぁ〜男の人って、どうしてこうも興味が無いんでしょう」

 サイナを筆頭に他の3人も呆れた視線を向ける。譲れない美学が、そこにはあるらしい。

「単純に考えて下さい。私達がみーんな、可愛くて綺麗な服を着ていたら、嬉しいでしょう?」

「‥‥確かに」

 サイナの言葉で理解した。

「ご理解頂けたようで、何よりで〜す♪」

 なるほどと思った。イノリが言っていたように、ダサいのは皆んな嫌だ。ならば、女性向けの可愛らしい防弾製の服を用意すれば、安全性はあるがダサいオーダー製の服に袖を通している女子は嫌でも飛びつくという、消費者心理についた経世済民だ。

「まぁ‥‥それも、まだまだ、だいぶ先ですが‥‥」

 しょんぼりしながら、スープの玉ねぎを食べ続けている

「医薬品の搬入はどうなる予定ですか?」

「それについては心配いりません。ゲートが破壊されても、船舶による生活必需品の運送が滞る事は無いので。ただ、個人的な輸送品については予定と前後すると思います。場合によっては、自分でゲートまで取りに行く可能性も」

 ミトリからの質問に、マトイが答えた時、ため息が出そうだった。

「そっちの方が確実かもな。ゲートから連絡が来て、自分で取りに行くって事か」

 昨今問題の受け取り時に人がいないという事が起こらないのは、それはそれでありな話かもしれない。

「‥‥そうですよね‥‥」

「‥‥何かあったのか?」

「あ、いえ‥‥。その‥‥」

 僅かに顔に陰を落としたミトリは、それ以上は何も言わず歯切れが良くなかった。

 しばらく、そんな話をしながら5人での夕食は続き、後は片付けだけとなった。姦しいとは、この事か。女子の会話についていけない俺は一人でソファーに座って、テレビを見る事にした。

「‥‥眠い‥‥」

 今日楽しみにしていたある詩人の半生を追う特集も、自分ひとりしか楽しめない事もあり録画して後で見ることにして、今はバラエティ番組を適当に流している。だが、これも場面展開が早過ぎて、なかなかにはついていけない。結局、明日の天気予報に変えてしまう。

「眠いですか?」

 ネガイ達と話していたミトリが、隣に座ってきた。

「‥‥ああ‥‥」

「膝を使っていいですよ」

 提案に甘えて横になる。ただ、このソファーでは俺の足が大きく溢れてしまう。

「一年の時と比べて、大きくなりましたね。いつの間にか背も超えられました」

「そっか‥‥。前は同じぐらいだったな‥‥」

 中等部に入学した時は、ほぼ同じ背の高さだった。今は頭一つ分以上、俺の方が高い。

「でも、甘えん坊な所は変わりませんね」

 面白がって頬を突いてくる。こういう年相応なミトリも、なぜだか懐かしく感じてしまうのは、既に3年以上の年月を共にしているからだろう。

「実はですね。あなたの薬を注文していたんです」

「‥‥ごめんな。心配かけて」

「いいえ。実際はオーダー街にある薬だけで充分です。早く傷を治して欲しかっただけですから」

 いち早く、復帰させようとしてくれていた。本当に、ミトリは優しくて、

「‥‥好きだ」

「もう‥‥皆んなに言ってるでしょう?」

 頬を膨らませて、鼻を摘んでくる。ひとしきり俺で遊んだ後、やっと鼻を離してくれた。

「覚えてますか?あのレクリェーション」

「‥‥少しだけ」

 だいぶおぼろげだが、最後の最後までミトリにおんぶに抱っこだった事はよく覚えている。当時を思い出すと、ミトリに申し訳ない恥が浮き上がってくれる――――ろくに喋れない、一人で歩けない、帰りたがる等のダメさの極地を体現していた。

「‥‥あの時は」

「いいんです」

 目に手を置いてくれる。

「あの時のあなたは、ここに来たばかりだった。それでいいんです」

 あの時は、まともな精神状態ではなかった。成育者に捨てられて、始まりつつある自動記述の事実にどう向き合えば良いのか、わからなかった。目の痛みも相まって、生きてる気分になれなかった。

「‥‥聞いていいですか?いつから、私を?」

 いつから、私を好きになったのか?

 わかりきった話。だけど、今思うと、あの時の感情は恋だったのかどうか、明確に言語化は出来ない――――だけど、はっきりとミトリを好きだと分かったのは、ミトリの首を絞めた瞬間だった。それと同時に、病院に入院する前からなのも間違いない。病棟から逃げ出しミトリの顔を見た瞬間、安堵したのを覚えている。けれども、病院に移動させられて毎日様子を見に来てくれた日々、あの時は感謝と同時に恐怖も感じていた。なぜ、ここまでしてくれるのかと。

「わからない‥‥‥今も人間が嫌いなんだ」

 腹に置いてあるもう一本のミトリの手を、心臓の前で抱き熱を受け取る。

「もう、これは変わらない。最近まで生まれた事も後悔したし、呪ってた。なんで生み出したんだって」

 談笑を続けていた食卓の3人も、静かに話題を止め静かに耳を傾けているのが空気でわかる。

「人間は嫌いだ。捨てる予定だった俺が自殺したのに、身体を治療して呼び戻して‥‥。また、捨てて‥‥」

 ミトリの手がどこまでも冷たく成る。心臓の上に置いた手で胸が火傷しそうな程、凍えていく。

「‥‥でも、好きだ。ミトリを心の底から‥‥」

「人間なのに、ですか‥‥」

「人間じゃないと、俺は、ミトリを好きになってなかったと思う」

 俺の中身を探し回っても、これ以上の言葉は見つからなかった。

「‥‥ミトリこそ、いつから、俺が?」

「‥‥秘密です」

 その声は狡かった。自分は、自分の中を全て曝け出して答えを引き出したというのに――――抗議として、ミトリの手をかじる事にした。

「あ、もう‥‥。美味しいですか?」

 想定した答えと違った。

 イノリは指を吸われても気にせず、むしろ更に数本口に入れる。

「‥‥しょっぱい」

「女の子の指を吸っておいて、それが答えなの?」

 口の中と同じ温かさとなった指を使い、唾液など構わずに舌に触れられる。

「‥‥ミトリ」

「どうしました?口が回ってませんよ」

 舌を引っ張られて、声が出せない。でも、迫っている危機を伝えなければならなかった。具体的には後ろの3人。

「ここでしたいですか?ネガイがいますよ。後で隠れてしましょうね。あなたの部屋に行きますから。それとも、あなたが来ますか?」

 ミトリの目がおかしくなってきた。焦点は合っているのに、他の何も見えない、捕食者の目だ。こんな積極的なミトリ―――いや、元からミトリは積極的だった。

 指を引き抜かれて口が寂しくなったがしかし、ミトリの為、延いては俺の為に、無視して叫ぶ!!

「ミトリ!にげ」

「遅いですよ」

「重ッ‥‥!?」

「重いとか言わないで下さいね。あなたの彼女です」

 ミトリに膝枕されている状態の俺の腹、跳びあがって座ってきた―――せめてミトリだけでもと思ったが、それも遅かった。引き抜かれた指の代わりに、サイナの指が飛び込んでくる。舌を引っ張られて声を発せられない。

「初めて吸ったのは私の指ですよね。そんなにミトリさんのは美味しかったですか?」

 更に頭上の肘掛にマトイが座って髪を垂らす。眠気を誘う花のいい香りが顔を覆った。

「あなたの為に、この香りにしてきたんですよ。それなのに一言も無しでミトリさんとですか。ふふ‥‥」

 冷たいマトイの視線が降り注ぐ―――俺はここまのようだ。

「ネガイ!降りて、死んじゃう!」

「大丈夫ですよ。私を上に乗せて死ねるなんて、本望です」

 今の発言は、相当だった。ミトリが固まって、動けなくなる。

「サ、サイナさんも!」

「ミトリさんも、知ってますよね。この方は苦しいのが好きだと」

「‥‥はい」

 違う!と抗議しようにも、身体はネガイに、口はサイナに、視線はマトイの髪で邪魔されて、何一つ伝えられない。

「マトイさん‥‥」

 最後の望みをかけてミトリはマトイに泣きついた。意識が遠くになって行く俺にとっても‥‥マトイが最後の頼みとなった。

「ここで彼が気絶したら、今晩はミトリさんの物ですよ」

 意識を失う間際、最後の最後でミトリがにやけたのが瞼に焼き付いた。




「痛っつ‥‥」

「あ、起きました?」

「‥‥ここ、どこだ?」

 ミトリの声はするが、部屋が暗くてどこかわからない。いや、自分の慣れ親しんだベットだった。マットレスのコイルと薄い掛け布団の手触りには覚えがある。

「あの、その‥‥本当に気絶するとは、皆んな思ってなくて‥‥」

「‥‥俺は、死んだのか」

「死んでません!気絶だけです!」

 頭を逸らしてミトリの顔を覗こうとした時、頭の氷枕に気が付き、大人しく頭を預ける事に留める。

「‥‥皆んなは?」

「もう寝ちゃいました」

「薄情だな‥‥」

「薄情のレベルでは無いのでは‥‥マトイさんが、これをって」

 思い出したようにミトリが、ポータブルセーフを渡してくれた。

 そういえば、渡したままだったのを忘れていた。しかし、受け取ったポータブルセーフをどうしたものか?と置き場に困った為、取り敢えずは枕元へと移して切り上げる。

「少し話してもいいか?」

「あ、はい。いいですよ。何を話しますか?」

 ベット脇に椅子まで運び込んで、目覚めるまで看病をしていたらしく。椅子に座ったミトリが月明かりを背後に、目が合ったと同時に朗らかに笑い掛けてくれる。

「‥‥そういう所が勘違いされるんだよ」

「勘違いですか?えっと、それは‥‥」

 ミトリ自身知らないのは勿論。そもそもあれが告白だと思っていないようだが、この魔性の微笑みで看病された男の大多数が好意を抱き、多くが告白にまで発展する。

 あの光景は、もはや慣習となりつつあった。

 美人で優しくて献身的な上、誰から構わず魔性の微笑みを向けるものだから男の多くが須く誤解した。そして期待と確信を胸に打ち明けるが、やはりこの笑みで玉砕してしまう。

「よく言われなかったか?好きです、とか」

「あ、よく言われますよ。皆んな私に感謝してくれて、治療科としてやり甲斐を感じます」

 心の底から嬉しそうに笑っている―――この顔に一体何人が膝を折ったのか。

「もしかして、それって、私の勘違いだったんですか‥‥」

「いや違う違う。‥‥うん、皆んなミトリが思ってる以上に感謝してるんだよ。本気で」

「そうなんですか?だったら、嬉しいです」

 これで良い。ミトリを泣かせる訳にいかない。

「聞いていいか?ミトリは最初、俺の事どう思った?」

「どう、ですか‥‥」

 困らせてしまったようだ。膝に手を置いたまま目をつぶらせてしまう。

「あ、別に無理して」

「そうですね‥‥。放っておいたら、そのまま消えてしまいそうな印象でした。影が薄い訳じゃないんですけど、常にどこか遠くを見てるような感覚でした。心ここにあらず、それが第一印象でしたね」

「‥‥格好悪い」

「格好悪かったのは、あなたの行動です。人と話せない、目線は常に下か上、私が話しかけても一言二言、すぐに帰りたいと言い出す。あの時は困りました。どう、コミュニケーションを取ればいいのか、わかりませんでした。‥‥人と話してる気分じゃ無かったんです」

 これでもかと言う程、あの時の嘆きをぶつけてくる。過去の仇をここで取られるとは思わなかった、小声で「‥‥ごめん」と返すと、笑いながら身を乗り出して前髪を撫でられた。

「あの時に、その言葉が出れば良かったですね」

「—————今のミトリの心境はどうなんだ‥‥なんで、俺なんだ?」

「私が好きになった理由ですか?ほんの些細な事です。あなたの言う所の、つまらない話」

 前髪を撫でていた手が頬に移る。下目蓋すれすれを親指で押え、更に唇の端を引っ張る。

「すごい目ですね。そんなに私が欲しいですか?」

 ミトリが裂けるような笑顔で問う。それに「‥‥したい」と答えると、待ち構えていたように「困りました。患者さんに、そんな事を言われては」と焦らして、唇だけ触り続けるが、決して口の中には入れない。

「あの時、あなたは心臓を使ってメトロノームを完成させてくれましたね」

 救護棟でのマトイのように、馬乗りにされる。

「私、大変だったんですよ。学校中歩き回って、知らない先生や上級生に聞いて、帰りたいって言うあなたを引きずって」

「‥‥ミトリだって、途中で帰りたいって」

「中々見つからない上に、あなたですよ。帰りたいって思うのは当然です。周りが羨ましかったです。二人で手分けして探して、それなのに、私は自分一人でやってる気分でした。泣かないで下さいね。私が悪者になっちゃいますから」

 口では恨み言を言っているが、ミトリは笑顔のままだった。あの時の事は、もう笑い話になっているのだとしたら、幾ばくか申し訳なさが消えていく。

「でも、段々変わっていきました。空が暗くなっても、皆んな帰らず、私達と同じか、それ以上に苦労してました。喧嘩してるペアもいましたね」

「いたな。男子同士なんて、掴み合いもしてた」

 やはり恵まれてる。

 相手がミトリだったお陰だ。相手が悪かったら、一方的に殴られていた。

「もう見つからない、と思った時でした。あなたが保健室に行こうって」

「‥‥驚いたか?」

「いいえ。むしろ、保健室は調べてなかった、と思いました。でも、あなたは聴診器を持ってきて、これでいいって」

 相当訳がわからなかっただろう。俺しかがもう存在していた。

「いきなり私の手を引いて音楽室に戻って、なんでもいいから音楽をかけてくれって、もう私も疲れ切ってたので言われるままでした。もうここで音楽聴きながら、休んでもいいかなって」

 ミトリが自身骨盤と骨盤とを擦れてくる。いつの間にか寝巻きになっているミトリの身体は、制服の姿よりも柔らかい。

「それなのに数分聞いたら、もういいって。また私の手を掴んで、走り出して。周りからすごい目で見られてましたよ」

「あの時は、‥‥あれが正しいって」

「あなたは正しかった。先生方が酒盛り‥‥待ってる教室に入った途端に、メトロノームを持って来たって」

「‥‥意味わからないよな」

「はい、あなたが握ってるのは私の手でしたから。困りました」

 あの時の疲労感を思い出したようで、倒れ込んでくる。耳元で呼吸をされると、くすぐったくて身震いをしてしまう。

「何をするかと思えば、先生に聴診器を渡して前を開けて、心臓を聴いてくれって」

「俺って、おかしかった?」

「かなり。周りの先生方も、何をする気だって、お酒を置いて見てましたから。でもあれが正しかったんです。メトロノームを用意しろとは言われましたが、それ以外ではダメとは言われませんでしたから。聴診器であなたの心音を聞いていた先生の顔を覚えてます。これは離れ業だって、ずるいって」

 ミトリが身体をずらして、胸の上に耳を置いてくる。

「‥‥早いですね。私の所為ですか?」

「ミトリがいないと、こうなってない―――いいか?」

「もう限界ですか?」

 わざとか?と問そうにぐらい、身体を擦りながらよじ登ってくる。

「私からでいいですね?」

 何かを言う前に、唇を噛んできた。口を開こうにもミトリに噛まれているせいで、口を開けられない。それなのに、ミトリが唇を舐めてくる。

 一方的に奪われてる気分だった。

 鋭い歯の痛みは我慢して唇を開けた時、強制されていた我慢の跳ね返りに、仕返しとしてミトリを抱えて転がり逆に馬乗りになる。

 胸元をはだけたミトリは諦めたように両手を上げ、「‥‥私がしたいのに」と挑発を口にする。甘い声に誘われるまま、舌でミトリの強情な口を開き、後は好きなだけ熱と唾液を奪う事にする。決して歯を立てないで受け入れてくれた。

 よくこれで誰も起きてこない。ベットの足と床から大きな音がするのがわかる。ミトリも声を我慢もしないで、甘い吐息を聞かせてくれる。

「私、何がなんだかわかりませんでした。代わる代わる先生方があなたの心臓を聴いて、合格だ、なんて言われて。私の苦労はなんだったんだろうって。あなたから、ありがとうって、言われなかったら、私、途方にくれてました」

 好きなだけベットを揺らして所為で息を切らせてしまい、ミトリの胸の上で頭を抱き締められながら休んでいた。

「‥‥怒ってる?」

「もっと早くやってくれればとは思いました。でも、あそこまでメトロノームを探して無かったから、最後の手段としてやってくれたんですよね?それにちゃんと探さなかったら、点数は半分だったみたいですし」

 息を吹き掛けながら、話す言葉には凄みがあった。怒っているようだ。

「でも、知られたくなかったんだ‥‥」

 ミトリから起き上がって、ベットに座り込む。顔を見れなかった――――寝室の扉を眺めながら、息を整える。

「‥‥ヒトガタですか」

「心臓を好きに動かせるのは俺だけ、ヒトガタの俺だけだって、知ったから‥‥」

 自動記述は、憎らしい程に正確な情報を伝えてきた。お前は人間ではない、ヒトガタという人間の為に作られたホムンクルス―――人形だと。

 再度ベットが揺れ、ミトリも起き上がったのがわかった時には背中と肩に重みが圧し掛かっていた。

「あなたも、戦ってたんですね」

「ミトリよりも楽だったよ。決心さえ出来れば、すぐに終わる事だったから」

 首に巻きついている腕に手を添える。

「謝らないでくれ、俺も泣かないから」

 背中から心音を感じる。

「ミトリもだいぶ早いな。俺の所為か?」

「‥‥そうですよ。お陰で、眠れなくなりました。‥‥その、最後まで、ネガイとしたんですか?」

 急にそんな事を聞いてきた。してる時の声とは違い、口が震えているのがわかる。

「皆んな気にするのか、それ?—――耳貸して」

 肩にミトリは顎を乗せて、耳を近づけてくる。そっと、そこに囁く。

「‥‥そ、そうなんですか‥‥」

「これはもう聞かない。いいか?」

 小さくコクリと頷く姿に薄く密かに笑う。数分前の積極的なミトリと人が変わってしまい、年相応のミトリに戻った気がした。背中から離れていくのもわかる。

「喉乾いたな。それに小腹も」

「夜中のカロリー摂取は」

「ミトリはいいのか?」

「————私が決めますね。出かけますか?」

「ああ、コンビニまで行こう」

 深夜の食事という魔の囁きにはミトリも勝てなかった。二つ返事で了解して、提案までしてきた。いつの間にか床に落ちていたポータブルセーフと、ミトリの手を引いて皆んなの制服が置いてある脱衣所に入り、制服だけ持ってミトリを中に促す。

「制服で行きますか?」

 脱衣所から聞こえるミトリに、「一応、そうするつもり。ミトリは?」と聞き返すと、「私も制服です。それに、まだここに私服は置いてませんから」といずれは置く気らしい返答を受け取る。

 しばらく脱衣所から衣擦れの音が聞いていたら、制服姿のミトリが出てきた。

「ネクタイ、下手ですね」

「う〜ん、やっぱり苦手だ。やって」

 困ったような、嬉しいような声で「仕方ないですね」とネクタイを首に巻き付けてくれる。そのバランスの良さや、既に自分でやるよりもミトリの方が手慣れていると、よくわかった。ネクタイすらミトリがいなければ出来なくなっていた。

「皆んな寝てるから、バレないように」

「‥‥はい。勿論です」

 二人で靴を音を立てないで履き、扉から出る。

 この寮にはオーダーの生徒しか住んでないから深夜でも人の出入りがある為、消灯時間は無い。誰が出てきても止められる事も無い。

「夜なのに、もう暑いですね」

「ああ、そろそろ上着は着れなくなる時期だ」

 上着では汗ばむ熱気が風に乗って吹き付けてくる。夏の息吹が今か今かと訴えてくるのがわかる。ネガイではないが、恒常的な冷房の使用時間が近づいてくるのは、容易に想像がついた。電気代分も働かなければと、心に誓う。

 風を受けながら寮の廊下から空を見上げると、三日月が見えた。ミトリも、月に気づいたのか。声を漏らす。

「夜、男の人と2人きりって初めてです。あ、さっきのは除いて」

 月下の元、それなりにロマンがある言葉だったが、さっきまでの時間があったのを忘れていたらしい。

「‥‥初めての2人きりが‥‥私って、」

 下を向いてエレベーターに乗った時だった。ついさっきの自分を思い出してしまい恥ずかしそうに、ちらちらとこちらを見てくる。

「大丈夫だよ。俺は、あんなミトリも好きだから」

「‥‥それって、慰めてるんですか」

「ミトリって、結構」

「言わないでいいですから!!」

 エレベーターが下に着くまで、ミトリで遊んで困らせて着いた頃には顔を真っ赤にさせてしまった。

「帰ったら、お仕置きです。治療科式の」

 それだけ言ってミトリはエレベーターから飛び出た。—――治療科式のお仕置きとは、一体なんなのだろうか?ミトリへの興味は尽きない。

 寮の玄関近くで待っているミトリに追いつき、近くのコンビニへ歩みを向ける。

「何なら深夜でも大丈夫だ?」

「低脂肪のヨーグルト、春雨ヌードル、でしたら許してあげます。ホットスナックは却下です」

 やはり俺の考えがわかるらしい。唐揚げやチキンフライの夢は露と消えた。

「朝になったら、またご飯を作りますから、それまで寝て待っていて下さい。明日は休みですよね?」

「外に出れないなら、仕事も受けられないし」

 そう思うと、降って湧いた完全なる休みだった。これはオーダー街に住まう人間全てに降り注ぐ余暇であり例外はない。試しに「ミトリは?」と聞いてみる。

「私も休みです。明日は、ネガイと出かける予定だったんです。行けなくなちゃいましたけど‥‥」

「次の楽しみだな」

「———はい、待ち遠しくなりました。だから明日はずっとネガイと部屋で遊ぶ予定ですよ。映画とか見て」

 楽しそうに話しているが、確実に俺の部屋なのだろう。

「俺の部屋って、広いのか?」

「知らないんですか?あんなに大きい部屋、そうそう無いですよ。6人用の部屋なんて」

 自分以外の部屋というとネガイの一人部屋にしか行った事が無かったが、やはり広いらしい。確かに記憶の中で照らし合わせと、あの大きさには目を見張る。

「やっぱり、結構広いのか。だけど一人分しか払ってないんだよ」

「驚きました‥‥。私はてっきり、6人分———いえ、なんでもありません」

 少し前まで俺が金欠だったのを思い出したのか、ミトリは目線を外してきた。

 —――何も言えない。事実だから。

「‥‥法務科ですか。どんな感じでした?挨拶をして来たんですよね?」

 コンビニから寮までの丁度中間辺りでミトリが聞いてきた。

「ごめんなさい、言い難いですよね」

「悪いな。でも、思ったより悪い所じゃない」

 オーダー校へ帰還した時や、あの聖女へのエレベーター、それに今だってマトイは俺の為に動いてくれている。こんなに法務科が個人の為に動く事なんか、まず無い。恵まれていると断言できる―――けれど、ヒトガタとして試された。

 それを、俺は未だに許せていない。

「ミトリはどう思ってる?マトイの事とか」

「マトイさんですか?ネガイと同じぐらい大事な友達ですよ。マトイさんも、苦しんでたって、わかりましたから。‥‥本当に」

 真っ直ぐに前を向いて、語ってくれた。

「リハビリも、食事も、全部あなたに謝る為にしてた気がします。あなたがお見舞いに来る時は、いつもリハビリを早く終わらせてましたから。それにリハビリ後の汗はすぐにシャワーで流して‥‥マトイさんが、あんなに優しくて一途な人だと思いませんでした。ネガイみたいでした」

 ミトリの話を聞けて、安心した。

 それと同時にマトイは法務科だったと思い出した。ネガイの事も。

「聞いてくれ。マトイは、これからも法務科として生きていく。ネガイも、必要が有れば、また俺の敵になると思う――――覚悟はしておいてくれ」

 ミトリは何も言わなかった。けれど視線を一切緩めずに顔を上げている。

「だけど嫌わないで。2人とも、俺の為だったんだ。ずっと友人でいて欲しい」

「‥‥はい。私だって、わかってます。それに、もうマトイさんを嫌いになることも、ネガイを疑う事もありません。約束します」

「‥‥ありがとう」

 俺は、やはり人間ではない。自分を殺した相手を信じてくれ、と言ってしまえる。この考えは人間にとっては間違ってるもかもしれない。なら、俺ははっきりと言える。人間にならなくて良かった。この思考を正しいと信じている。

「誰もいませんね」

 先ほどからそうだ、周りを見ても誰もいない。公園のすぐ近くで、コンビニまであと数分だとうのに。明日は休日で、この時間ならば暇な生徒がスケートボードで遊んでいたりするのに、完全な無人だった。

「急ごう」

 ミトリの手をつかんで歩く。かなりの早歩きだが、ミトリは着いてきてくれる。

「止まって下さい。おかしいです」

 しばらく歩いてコンビニに向かっている筈なのに、公園から離れられない。

「‥‥ネガイに連絡します」

 ミトリがスマホでネガイに連絡を取り始める。

「あ、ごめんね。実は迎えに来て欲しいの。今は公園にね———ネガイ?」

 通話が切れた。スマホを操作し続けるが完全に連絡が取れなくなったのが、ミトリの様子でわかる。瞬時に頭を切り替える、救援要請は既に完了したから。

「ミトリ、銃を」

 M&PとH&KP2000を抜いて、背中合わせとなる。

 歩いてきた寮への道、向かう筈だったコンビニへの道をそれぞれ確認する。

「‥‥公園に入ろう。多分、呼ばれてる」

「危険です。罠に決まってます。ネガイには場所を言いました。すぐに皆んなが来てくれます」

 ミトリの言う通りだった。この状態で自分から罠に飛び込むなんておかしい。死にたいのか?そう言われれるだろう。

「まずは状況を確認しましょう。私達は寮からコンビニに向かっていた。道は間違えてない、そうですね」

「‥‥ああ。俺達がいた寮は、ここからでも見える」

 公園の中を話しながら確認する。公園と言いつつ、遊具なんてない。あるのは石田畳みと、ベンチ、それぐらいだ。

「寮に戻るか、ネガイ達を待つか。私はネガイを待つべきかと」

 この状況で歩き回るのは危険だ。ここから離れてしまったら、俺達を探しているネガイも巻き込み、二次被害を起こすかもしれない。

「‥‥わかった。待とう」

 上着を脱がなくてよかったと、心の底から思う。完全武装で誘い込まれたのは、不幸中の幸いと言える。—―――最悪、ミトリだけでも、逃す事ができる。

 そうすればネガイ達を呼んで戻って来てくれる。

 目に血を昇らせて、辺りをもう一度見渡す。街路樹になっている葉っぱの一枚一枚、街灯の点滅、遠くの寮の明かり。

 全ては正しい。いつもと同じ光景だ。だが、同時におかしさにも気付いた。

「月が」

「‥‥消えてます」

 空を見上げる。月が消え去り、空は完全な暗黒だった。

「どうなってるんですか‥‥」

 十中八九、夢に誘い込まれた。マトイと法務科に行った時のように、なんの違和感も無く。

「これを持っててくれ」

 後ろ手でポータブルセーフを渡して、銃を構え直す。

「‥‥これは?」

「いいから。それを持ってれば、助かる」

 ポータブルセーフに入っているのは、あの方の血を受けた宝石だ。並みの人外では、尻尾を巻いて逃げ出す。

「あなたは?」

「こういう事には慣れてきた。悪い、やっぱり公園に行こう」

「‥‥わかりました。行きましょう」

 脇差しを抜いて、ミトリを背中で隠しながら公園に入って行く。公園に入った瞬間、空気が重くのしかかり、肺の中が言う事を聞かなくなる。

「そんな‥‥見えなかったのに‥‥」

 俺にも見えた。ミトリの言う通り、公園に入るまで、見えなかった対象が。

「‥‥下がってろ。用があるのは俺みたいだ」

 ミトリを一歩下がらせて、銃を向けたままでに近づく。

「この夢は、お前か?」

「夢、そう思ってるのいるのですね。間違いじゃ、ありません」

 機械で作られた声のようだ。一つの声に何重にも違う声を重ねて、自分自身の声を消している。

「あなたを迎えに来ました」

 差し出された手には、細い銀の鎖が幾重にも巻きついている。

 この熱帯夜に暑苦しい黒いコート、黒い皮のボトムス。それに黒くてやけに古いポークパイハットとブーツ。コートの中から見えるシャツには、金具が光るベルトが巻きついている。恐らくこれは布だ。皮の質感は見て取れない。

「‥‥人間か」

 顔には白いポーカーフェイスの仮面。身長は俺よりも若干低いが、ほぼ同じだ。

 それに反して体付きが細い。筋肉もそれほどでは無いらしく、身長との関係で余計細く見える。

「こちらに。総師がお呼びです」

 総帥。一族や一門の長に使われる名称だ。組織がどれほどの規模かは知らないが、ここにいるのは、ひとりではない可能性がある。

 ミトリがいてくれるが、やり合うには不利だ。既に狙われている。

「‥‥身内がいる。時間をずらせ」

「まかりなりません」

 耳障りな電子音気味の声で返答に被せるように言って来た。絶対に逃がさないという、もはや殺気にも近い意思を感じられる。

「さぁ、こちらに。私が連れて行きます」

「—――簡単にはいかない。そう思ってのだろう」

 伸ばしている左手とは逆の右手で杖を持っている。確実に仕込み杖。杭よりも長い。

「‥‥二度目です。こちらに」

 俺の胸を突き刺すように手を差し出してくる。中指に指輪をしてあり、腕から伸びる銀の鎖を繋ぎ止めている。

「せめて身内をここから出してくれ」

「あなたが私の手を取れば、解放すると約束します」

 話し合いに応じる気は無さそうだ。ただ総帥とやらの命令に従ってるだけらしい。決定権は無いという事だ。

「‥‥帰れ。俺に用があるなら」

 問答無用で肩に杖を振り下ろしてきた――――だが、軽い。

 聖女の二刀の方が重量的にも重かった。

 振り下ろされた杖を腕に仕込んだ杭で防ぎ、至近距離で仮面を覗く。あの方のとは比べ物にならない程、質素な仮面。シンプルがベストと言う人間もいるが、俺はもっと装飾や模様があった方が好みだった。

「俺を殺したら、連れて行けない」

「この程度で死ぬとは思ってない」

 ポーカーフェイスの仮面は、さっきまでの口調を変えて大きく後ろに後退した。

 後退した所で杖の先端をゆっくりと向けて、狙いを定めてくる。

「所属を言え」

「不要だ。お前は、ただこちら側に来ればいい」

 ネガイよりも遅い突きで、肩を狙って来た。

 向かってくる突きに身を乗り出して距離を縮めながら半身になって避ける。横目で視線を合わせてくるポーカーフェイスの仮面を見送って無防備な背中へ脇差しで斜め下から振り切る。

 見えない筈の脇差しをポーカーフェイスの仮面は、突きの勢いを使って地面に杖を刺し、逆立ちをして逃げ去った。

 未だに衰えない突きの勢いと、逆立ちの勢いを使って俺から更に離れるが、奴が着地したと同時に40S&W弾を2発ばら撒き、立ち位置を見誤させる。

 ポーカーフェイスの仮面を、俺とミトリの十字の中心点に移動させる。

「終わりです。止まって下さい」

 右手のM&P、ミトリのH&Kを向けて、十字掃射の構えを取る。

「仮面を外せ。法務科に引き渡してやる」

 新体操の選手のような動きだった。均等の取れた肉体と今の動きに裏付けされた体幹が見事だった。美しいと言わざるを得ない。

「‥‥見境がないとは、本当らしいな。その目で、私のどこを見た?」

「全部だ‥‥」

「はぁー‥‥」

 ミトリの呆れるような息を無視して、M&P向けたままで脇差しを戻し、3人を待つ。ここは術の世界だ。ならマトイの専門であり、速さならネガイ、そして武器の追加ならサイナの分野—―――逃げ場を失わせるには、十分だった。

「総帥とやらの事を聞かせろ。近くさせて貰う」

「自分から訪れくれるのか?迎えに来た意味が無かったな。死にたいのか?」

「よく言われる」

 点滅していた公園の明かりが一度消えて、煌々と辺りを照らし始めた。

「‥‥早いな。お前のか?」

「ああ、俺の身内だ。因みに法務科でもある。諦めろ、今なら」

「そろそろ、時間だ」

 声が変わったと同時に手でポーカーフェイスの仮面を外す―――鳥肌が立った。

「‥‥青」

 白い肌に金の睫毛、そして青い瞳。若い女性だった。

 青い目の発症は黒海周辺の個体が起こした突然変異では?と発表されている。ヨーロッパ、東ヨーロッパ、そして中東でも見られる劣勢の遺伝とも言われている。ただ、この輝きは決して劣勢など言われる類いでは無い。夜でもわかる明るい青が心に突き刺さる。

「では―――行こうか」

 電子音が消え、見た目よりも高い声で青い目の女が呟いた。その時、青い目がミトリを捉えた。

「‥‥ミトリ!」

 先ほどの攻防が児戯にも感じられる、比べ物にならない速さ。振り下ろされた杖は、戦闘機が空気を裂くような音を上げてミトリに迫る。

 後の事など無視して、数瞬でミトリの前に出て腕の杭で杖を防ぐ。

 同じように振り下ろされただけの杖は、肩と肘に多大な衝撃を与えて、そのまま俺の胸から腹を撫でた。

「—―――っ!?」

 声にならない雄叫びを上げて、受けた腕を使い、銃を腰に戻す動作のまま脇差しを居合のように抜き出す――――青い目の杖を後方に弾き飛ばす。

 だが、この行動は狙い通り想定通りだったらしく、腕に仕込んだ杭のようにを引き出して、胸を切り裂く段階に踏み込んできた。

 聖女の時のように、杭を仕込んだままの右腕を両のナイフの中心点に入れて、ナイフの軌道を変える。

 右腕の表面を切り裂かれる感覚を無視し、脇差しを青い目の女の胸に突き入れる。

「はっ!遅い遅い!」

 最初に脇差しを避けた時と同じく、しなやかに身体を捻ってまた後ろに飛び退き、突き出された脇差しから距離を取ってくる。

「どうした、終わ――」

 ああ、いいな‥‥。お前、‥‥欲しくなった。‥‥この目に焼き付けよう。

 右腕を振ってワイヤーを繋げた杭をに放ち、首を動かせる。

 着地と同時に眼球すれすれを狙った投擲が来るとは思ってなかったのか、目を見開いて全力で首を振って避けた。

 だが、後を追いかけるワイヤーの所為でこめかみに鋭い傷が走る。

 首を振る事は目で予測していた―――縮地を使って、青い宝石に肉薄する。

 脇差しをもう一度振るい、柄頭を青い宝石の脇腹に叩き込み、後ろに弾き飛ばす。

 いい体だ、硬くて柔らかい筋肉に一瞬で力を通したな?程よい衝撃とあばら骨が脇差しを通して腕に伝わるのがわかった。

 脇差しを振った事により、引き戻し途中のワイヤーに腕の動きが伝わり、青い宝石の首に巻きつきそうになる。

 青い宝石は、そこで首を下に向けてワイヤーを避ける。その結果ポークパイハットは、ワイヤーにより外れて宙を舞う。

 脇腹への一撃が効いたらしく、更に下がり二本の刃を投げ付けてくるが、その投擲では俺は殺せない。

「撃ったのか‥‥?」

 左手で抜いたM66で二本の刃を弾き一歩前に出ようとした時、青い宝石は、自分のコートを投げつけてきた。

 諸人であれば一瞬視界を失っただろうが―――この目は、青い宝石がコートの裏側に隠し、脱ぐと同時に引き出した物が見えていた。

 確証を得た。脇差しでコートを貫くつもりで突き、青い宝石が向けてきた獲物の切っ先に合わせる。

「っ!」

 視界を失ったのは向こうの方だった。俺ごと貫くつもりで放った切っ先から、鉄を突いた以上の手応えを受けるとは思わなかったのだろう。

 想定外の手応えを受けて、手首に痛みを感じた青い宝石を更に後方に弾き飛ばして膝をつかせる。

 腕にコートがかかった時、青い宝石の獲物が姿を現した。

「‥‥美しい‥‥」

「この価値がわかるか?いい目を持っている」

 手首休ませる為、地面に置くように持っていた物は、つるぎだった。包帯を巻いた剣、それが本来の武器なのだろう。

 長さは75cmから80cm。確実に真剣だ。ようやく顔を出した月の輝きを受けても決して揺るがない刃を持っている。

「銘はあるか?」

「それは、私だけの物だ。誰にも教えない」

「‥‥残念だ」

 剣を褒めらたのが、気に召したらしく、引き裂いたような笑顔から木漏れ日が差すような輝きが目に灯った。

「銘は教えられない。だから!!」

 膝をついたままの状態で両足をバネにし、回転しながら胴を切り落しにかかる。それに応え―――もう一度突きを放とう、としたが、腕も足も動かなかった。胸から腹にかけても一撃が今になって効いてきたからだった。

 選択を見誤ったのは俺の方だと、向けられる刃に映る自分の顔でわかった。避ける時間はもう無い―――最悪、腕の一本でも、

「貰ったっ!!」

 もう引き返せない刃が迫ってきたと同時に、レイピアの切っ先が飛び出した。

 正確な突きは一切の音すら発さずに、青い目の剣の勢いを完全に殺す。

「誰だ!?」

「恋人です」

 細身のレイピアとは思えない、細身の身体とは思えない勢いで剣を押し返す。

 頭に血が昇った筈の青い目の女は、顔色を変えてネガイの切っ先から逃げる。

 その理由はネガイの指が見えたからだろう――――青い宝石が元いた場所に向けて、ほんの一瞬遅れて、22レミントンマグナムが、真っ直ぐに発射される。

 ネガイは外れた弾丸など気にもせず、逃げた青い目の女に向けて切っ先を使った薙ぎ払いを放つ。

 確実に向こうの方が重量がある、けれどネガイに振り下そうとしていた剣が弾かれ一瞬完全に無防備となる。

「もらいました」

 なんの躊躇も無く引き金を引いて銃声を轟かせる。

「‥‥!!」

 苦痛を声に出す事すら出来ない。だが青い目の女はマグナムを受けたのに、そのまま身体を捻り背中を向けて公園の外へと走り去る。

「悪い判断です」

 ネガイはその背中に更に突きを放つ構えをしたが、やめてしまった。

「‥‥逃げる背中に、攻撃をしてはいけない。そうでしたね」

 これも外に出る上で必要な事だと、教えていた。

 ネガイが追い払ってくれた事で力が抜け、膝をついてしまった。そんな俺にネガイと、ミトリは肩を貸してくれる。

「サイナの車が近くにあります」

「頑張って、私達も手伝いますから」

「ああ‥‥、頼む‥‥」

 制服が切れていないのだから出血は少ない――なのに火がついたように、熱い。

 右胸から右の腹にかけて、自分でも触れられないような痛みが駆け抜けている。それに、肩にも負荷をかけてしまった。

「悪い‥‥動けない‥‥」

 もう自力で足を出す事すら出来なくなった。限界だ。

「わかりました。ここで待ってて下さい。ネガイ」

「はい、待ってます」

 地面にミトリとネガイが上着を置いて、その上にネガイの膝枕で寝かされる。横になった耳にミトリの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。

「見えますか?」

「‥‥ああ、見える。足、大丈夫か?」

「平気です」

 ネガイに汗を拭かれて、ようやく深呼吸が出来る。

「‥‥また、助けられたな‥‥」

「気にしないで下さい。‥‥あなたを助けられて、良かった。‥‥痛いですか?」

「‥‥そのまま、手で」

 傷を制服越しに手で温めてくれる。本当なら服が擦れるだけで痛いのに、ネガイの手なら受け入れられる―――眠気すら感じ始めるが、これはいつものとは違う―――完全に毒の、

「眠って下さい。起きたら、朝ごはんを用意しますから、一緒に食べましょう。その後はシャワーです」

 身体中が熱い。傷に良くない物が入り込んだと自覚できる程に、傷が熱い。

「ネガイ!彼は‥‥」

 ミトリの声がすぐ近くから聞こえる。きっと心配をしている。

「‥‥ミトリ、何か言ってます」

「え?あ‥‥、わかった‥‥」

 口が動いているとわかったのか、ネガイがミトリに伝えてくれる。

 使える体力の全てを使って、口を動かした。ネガイとミトリは、それを正確に受け取ってくれる。

「治療を頼む。起きたら、ヨーグルト‥‥。はい、任せて下さい。私、待ってますから‥‥」

 ミトリが、目に手を当ててくれる。ああ、よかった―――しっかりと、伝わった。



「傷の具合は?」

「‥‥血は止まりました。この人の自己治癒力は異常です。でも、まだ熱が」

「‥‥わかりました。私はもう一度法務科に連絡します。彼の世話を」

「はい、任せて下さい。この人にも、頼まれましたから‥‥」

 冷たい枕と冷たいシートが頭を挟んでいるのがわかる。それに汗を拭き取ってくれている手も。

「救護棟には連絡しましたから、先生がもうすぐ来ます」

 声が聞こえる―――この優しい声の持ち主を、この体は覚えている。

「‥‥また、あなたに‥‥」

「いいえ、違います。これは私の責任です。マトイさんもネガイも、サイナさんも自分の出来る事をしてくれました。後は任せて下さい。絶対に、これ以上悪化させるような真似はしません。マトイさんも、少し寝て下さい。昨日から動き続けてますよ」

「‥‥ありがとう。私にまで、気を使ってくれて。連絡が終わったら、少し休みます。何かあったら起こしてね」

「うん。おやすみ」

 2人の穏やかな声が聞こえる。

 ああ、ミトリは、ネガイ以外にも、こんな話し方ができる友人が出来たのか。いつまでも、眠っていられない。起きて、ミトリに。

「‥‥ここは安全です。皆んないますから。ゆっくり眠っていて下さい。起きたら、ヨーグルトです」

 忘れてなかったのか。本当に、ミトリは―――




「向こうの俺は、どうですか?」

「今のあなたと変わりませんよ。‥‥痛いですか?」

「‥‥痛いし、痒いし、熱いです」

「目が覚めても、掻き毟ってはいけませんよ。ミトリさんや皆んなが一生懸命に治療をしていたんですから」

 こちらの俺には傷は無かったが、傷があるような痛みを感じる。

 ベットに寝転がり、仮面の方の手で傷口を冷やして貰っていた。

 この手が気持ち良くて仕方ない。だが、本当ならこのまま氷漬けにしてもらいたいぐらい、身体が熱い。

「‥‥あれは、なんだったんですか?」

「言えません。でも、あなたの身体をここまで傷付ける事が出来る武器です。貫かれないように気を付けて下さい」

 この身体には、貴き者の血とこの方の血が流れている。だとしたら、あの武器は貴き者やこの方に。

「私にとっては、あれらの武器はただの棒切れです。ただ、あなた自身の血にとっては厄介ですね」

 また、ヒトガタの血が原因だった。この方の血の足を引っ張ってしまっていた。

「そんな顔はしてはダメですよ。自分を呪ってはいけません。そんなあなたを好きになったのは何方でしたか?」

「‥‥皆んなです。すみません」

「いいえ。思い出して頂けて、私は嬉しいです‥‥。ネガイさんのお陰で、もう少しで毒気が消えます。それまで私とお話ししませんか?」

 傷口を撫でながら、笑いかける。優しくて残酷で、いつも俺を想ってくれるこの方への思いが止まらない。心の底から、愛してしまっている。

「‥‥はい。俺も、もう少しここにいたいです‥‥」


                ・

「The road not taken。日本語で言うと選ばなかった道。ロバート・フロストの詩です」

「興味深いですね。人間にとっては草が生い茂っている方が美しいんですか」

 そうだ。誰もがフロストは道の中ほどで折れた道ではなく、草が生い茂る誰も歩いていない道の方が美しいと感じただろう。

「では、もう一度。黄色い森の中を」

 フロストの詩を聞けば聞くほどに、フロストは踏み荒らされていないように見えた道を好んで通ったと感じるだろう。

 だが、そうでは無い。フロストは詩の中でこちらも劣らず美しい、そしてどちらも踏み荒らされていると言っている。

 この詩は限りなく、フロストの人間に対しての皮肉が含まれている詩だ。

「‥‥待って下さい」

「どうしました?」

 音読を止めて、仮面の方は自らの星を見上げて、熟考に入られた。考えをまとめる為に、俺の髪を触ってくる。

「おかしいです」

「どこがですか?」

「だって、さっきまで私はこの詩人の方は、どちらの方が踏み荒らされてないかを基準にしていた筈なのに。劣らず美しいって」

 やはり、この方も人間では無い。人間にとっての美しさ、という物を外観的に捉えてはいるが、実感を持っていない。

 だから、すぐさま矛盾に気付ける。

「そうです。先が見えていない道も、草が生い茂った道も、どちらも美しいんです」

「ん?でも、じゃあなぜ草の生い茂った方が、むしろよさそうって。‥‥草が生い茂った方を選んだんですよね?」

 そうだ。フロストは、どちらを選んだか、なんて言っていない。ただ、俺も草の生い茂った方を選んだとは思っている。

「恐らくはそうです。二つを見比べて、踏み荒らされてないであろう方を選びました」

 だが、ここからフロストの皮肉は始まる。

 実際にはどちらも同じように踏み荒らされていた。これに気付いたのは道を歩いる途中か、それとも歩き終わってから気付いたのか。

 それは正確にはわからない。だが、この詩はフロストが42歳の頃の詩だ。恐らくは歩いている途中で気付いたのだろう。

「それなのに、美しい‥‥。たまたま選んだだけですか?道が消えてる方にも、草が生い茂っていたら、そちらを?」

「正解です。たまたま、偶然、選んだだけです」

「‥‥なるほど‥‥。宝石と同じですね。私も、気分によって愛でる方を選びますから」

 吐息と共に呟きながら頭を撫でてくれる。今日愛でると決めたのは俺であるらしい。

「人間は見栄っ張りです。誰も選んでいない方を選んで、自分をよく見せようとします。実際には、どんな道にも先人がいるのに」

「あ、だから、実際にはどちらも踏み荒らされている、なんですね。‥‥詩というのも、いい物ですね」

 もしかしたら、どちらの道を選んでも、同じ所に辿り着いたかもしれない。

 でも、自分はこの道を選んだからここに辿り着いたと、ため息混じりに言わないと、人間は自分を自慢できない。

 誰を犠牲にしてでも。

「でも、つまらないですね。私なら、何度でも道を戻って確認しますのに。人間は振り返る事をしないのですか?」

「‥‥そうですね。可能性を捨て去った人間は、この道が正しかったと思わないといけないみたいですね」

 俺は、生きると決めた。ネガイとマトイ、そしてこの方に守られながら、自分で決めた。やはり、俺は恵まれている。人が見れば、俺は受け身で楽だと言うかもしれない。だけど、この道は死の恐怖を引きずってやっと歩ける道だ。

「自分が選んだ、自分しか歩けない―――そう思わないと、俺は‥‥」

「自分と人間の道を重ねてはいけませんよ。あなたには選ぶ権利は無かった。必死に生きた結果が今です。どうか誇って下さい」

 最後にまた叱られてしまった。そうだった―――俺は、ただ生きたかった。

「‥‥俺の事、褒めてくれますか?」

「勿論です。あなたは私の自慢の宝石です。誰にも渡しません。誰にも傷を付けさせたりしません。‥‥いい時間ですね」

 もう毒気とやらが抜けたのか。仮面の方が目に手を置いてくれる。

「今日は寝て起きて下さい。快楽は向こうで」

「‥‥残念です。楽しみにしていたのに‥‥」

「これ以上引き止めては、ミトリさんに悪いです」

 仮面の方も、名残惜しそうに目蓋を撫でてくれる。‥‥急激に眠くなってきた。

「‥‥ミトリに、会って来ます」

 そうだ。俺は、またミトリに世話になった。今度こそ、言わないといけない。あの時は、有耶無耶になってしまったのだから。

 だからこそ、今度は言わないといけない―――ミトリに、礼をしなくていけない。

 起きたら、やらないといけない事がある。好きな人に言うべき事がある。

 これは、なんて‥‥、温かいんだ‥‥。

「ミトリさん、ずっと待ってますよ。おやすみなさい」



「‥‥ミトリ」

「起きましたか?」

 あの夜と変わらないで、隣にいてくれた。また、ベットの側に椅子を置いて。

 カーテン越しの日差しが温かい。背筋の寒気も、傷の熱も少ない。生きてると実感出来る。

「‥‥ありがとう。いてくれて」

 ミトリが立ち上がって前髪を撫でてくれる。優しい手だ。ずっと、俺の世話をしてくれた、ミトリの手だ。

「愛してる」

 起きたら何を言おうか考えていたのに、どんな言葉をかければ一番ミトリが喜んでくれるか、まぶたを開く寸前まで考えていたというのに―――気遣いよりも、己が欲望を優先してしまった。

「‥‥私もです」

 哀れで恥知らず化け物に、栗色の目が向けられる。

 もはや限界だった。太陽を背にしたとしても、まるで陰りを見せないミトリの微笑みと、柔らかな慈愛を形にした手で首元を撫でられてしまい。

 眠り以外の選択肢が、消え去ってしまった。



「吐きそう‥‥」

「急に起き上がったら、そうなりますよ。もう」

 ミトリに胸を擦られ続け、どうにか胃酸の逆流を止める事に成功した。

「傷はどうですか?」

「‥‥まだ少し」

 大部分は取れたが、身体の奥の痛みが抜けきっていない。本当に毒でも使われたかのように、不快な吐き気に背骨を掴まれたままだった。

「‥‥あれから、」

「今は休んで下さい。今、反撃に行くなんて言ったら、私、泣きますからね」

 吐き気など撲殺しかねない言葉を口にされてしまった。ミトリの泣き顔なんて見たくない。ミトリにはずっと笑っていて欲しいというのに。

「‥‥悪かった」

「いいえ。謝るのはこっちです。足を引っ張ってしまって」

「違う。俺の方こそ、大人しくネガイ達を待ってればよかったんだ。この傷は、俺の責任だ‥‥」

 腹の傷を触ってみると、やはりまだ熱い。脳に響くような鈍痛がまだ続いている。

「ごめんな。怖かっただろう‥‥」

「‥‥はい」

「‥‥あれが俺の世界なんだ」

 あの世界に慣れてきてしまった。夢と欲望の世界の中だというのに、あの青い目が欲しかった。命のやり取りに恐怖を感じなかった。

 あの場にネガイが来なければ、腕の一本を無くしていた。それどころか、ここでこうしてミトリの顔も見る事も出来なかった。

「ミトリ、あの」

「こんな事で、あなたを嫌ったりしません」

 擦る力はそのままに、叱るようにも、ミトリ自身を奮い立たせるようにも、

「よく聞いて下さい。あなたの出生を聞いた時、私は、あなたを人間の尺度で考えるのを止めました。魔眼にヒトガタ、それに仮面の方。どれも私とは縁遠い物です。あなたに関わらなければ、一生知らずに生き続けたと思います」

 そう断言するミトリは、麗しかった。俺自身も、言わざるを得ない状況になったから話しただけだった。きっと誰に聞かれても、墓場まで持って行っただろう。

「でも、もう私は関わってしまった。マトイさんからも言われました。この事は生涯の秘密にして欲しいと、あなたの事も、私達を襲った彼女についても」

「何か、教えられたのか‥‥?」

「言えません。マトイさんからの許可が無ければ。私も、オーダーですから」

 受け答えができる程度には容態が安定してきた俺から手を離して、自分の椅子に腰を下ろした。

「‥‥どうすれば、聞かせてくれる?」

「決まってます。体力を戻して下さい。あなたは丸一日、眠っていたんです。もうすぐ日曜日ですよ」

 カーテンを大きく開き、外の景色を見せてくれる。ついさっき見た朝日の筈が、もう既に完全なる夜となっていた。ほんの瞬きの間が、昼夜を入れ替えてしまった。

「‥‥見たいテレビあったのに‥‥」

「ネガイと私で借りた映画に録画した物がありますから。それで我慢して下さい。待ってて下さい、今ヨーグルトを持ってきますから」

 夢幻の縁にあった俺の言葉を覚えていてくれた。怪我人の為、椅子から立ち上がったミトリは言葉だけを残し、すぐさま寝室から出て行ってしまった。

 すぐ帰って来てくれるとわかっていても、背中を見送るのは一抹の寂しさがある。

「‥‥いくら何でも、ミトリに甘え過ぎだろう―――スマホは‥‥」

 サイドテーブルを手だけで漁って、上に置いてあったスマホを握る。

「‥‥っ。まだ‥‥、ダメか‥‥」

 握ったスマホを持ち上げようとしただけで、腕に亀裂でも入りそうな痛みに指が麻痺する。病院の時と違い、本当の怪我で動けなくなるのは久しぶりだった。

 動かない指は無視して、手のひらでスマホを持ち上げ、顔の上に運ぶ。その時、盆の上にヨーグルトを置いたミトリが戻ってきた。

「あ、寝る前にスマホを触ったら、寝付きが悪いですよ。没収です」

 サイドテーブルにヨーグルトを置きながらスマホを奪い取り、自分の制服に入れてしまう。

「スマホは朝になってからです。まずは食べて下さい。起き上がれますか?」

「‥‥ああ、やってみる‥‥!」

 痛みは胸から腹にかけての痛みだけじゃない。背中のタイヤ痕も、起き上がろうとする俺を苛む存在となった。

 腹筋に力を入れ、手でベットを押して、頭を前に突き出し、前屈みになる。入院の経験によって培われた技術だ。

「手伝いますか?」

「いいや、この程度は自分でしないと――」

 身体の前後が、命令してくる。すぐに横になれ、と。背中と腹を焼きゴテでも当てられている気分となるが、どうすることも出来ないのだから我慢するしかない。

 身体を伸ばしても痛み、折っても痛い。けれども空腹にはどちらも敵わない。

 今の俺の敵じゃない。

「‥‥美味い。高かったんじゃないか?」

 ガラスの器に入っているヨーグルトをスプーンですくって、食べてみると、いつも俺が食べてる物とは出来が違った。甘くてきめ細かな、手の込んだ発酵食品だった。

「はい、速達で注文した逸品です。サイナさんに頼んでゲートまで取りに行って貰ったんですよ。それに、これもあります」

 ミトリが自身あり気にポケットから出してきたのはチューブ入りの薬だった。

「火傷のか?」

 昨日の夕食の時に言っていたものなのだろう。いち早く復帰させる為の隠し玉。

「はい。これは私のイチ押しです。食べ終わったら背中とお腹に塗りますよ。‥‥それと、この薬、少しだけ痛いので―――お覚悟を。大丈夫です、そんな痛くないですから。食べ終わったら呼んで下さいね。私は皆んなに連絡してきます」

 このヨーグルトは、ミトリなりの計らいだったらしい。ひとすくい、ひとすくい、噛み締めて食べ続け、慈悲深く痛みすら与えてくれる天使ミトリの背を見送る。

「明日から、どうするか‥‥」

 流石に白昼堂々と襲ってくる事はしないだろうから、平日になれば一般授業は受けに行ってもいい筈だが、念の為、外出するなら誰かと一緒でなくてならない。

「‥‥取り敢えず今日は寝てるか」

 少しだけだが、腹が膨れて気分が良くなってきた。それにこのヨーグルトは、いい物だ。毎日食べたい。

 ヨーグルトを食べ終わり、決心がついた時―――慈愛のミトリを呼ぶ。

「ミトリー、薬を頼むー」

「はーい、わかりましたー!」

 救急箱を抱えたミトリが扉を開けて入ってくる。救急箱の上には、あの慈悲くすりが置いてあった。ミトリイチ押し、という事なので信用して薬を受ける事にし背中を預ける。

「‥‥こっちも、まだまだ傷は残ってますね」

 ゆっくりと背中のシートを剥がしてくる。皮をめくられているみたいで、なんとなく妙な気分になる。

「はい、じゃあ塗りますね」

 背中に、ミトリも冷たい手が触れた時、気持ちいいと一瞬思ってしまった。

「痛った!?これ薬じゃねぇの!?」

「あ、ふふ‥‥そういう言葉遣い、初めてですね♪」

 何がどう嬉しいのかまるで理解できない。少なくとも、ミトリはひとり楽しく薬を塗り続けてくる。塗った時が痛いどころか、塗り終わった後の肌を突き刺すような痛みも、なかなかに耐えがたい。言葉を失ってしまう程に。

「まだ半分ですよ。もう少し頑張って下さいね」

 こんだけ痛がっているというのに、ミトリは寧ろ楽しそうに塗ってくる。今もそうだ、心底楽しそうにクスクス笑っている。

 背中を塗り終わった時、さっき剥がしたシートを貼り直してくれる。空気に触れないお陰で突き刺す痛みもだいぶ治まったかもしれない。

「はい、前を向いて下さいね」

「こっちは火傷じゃあ、」

「これは火傷以外にも効く抗生物質です。はい、横になって下さい。大丈夫、すぐ終わりますから」

 塗り終わった瞬間、有無も言わさぬミトリに寝巻である甚平を背中にかけられて、肩を掴んでベットに転がされる。その迷いの無さたるや、抵抗する患者はよくよくいるのだと訴えられているようだった。

「大丈夫ですよ。すぐ終わりますから、因みに下まで傷があるので、脱がしますね」

「そ、そこは、自分でやるから‥‥」

「もう散々脱がしてますよ?大人しくしてね」

 甚平の下の紐を解いて、ミトリはなんの躊躇もなく下を剥ぎ取ってきた。

「‥‥こういう事って、習うのか?」

「必要が有ればしてますよ」

 治療科としての意地と誇りなのか、下着の内側まで薬を塗ってくる。あれほど痛かった薬も、ここまで塗られると、慣れてきてしまった。それに背中よりもミトリの手を強く感じられて―――柔らかい手で直接触れられている所為で安心感が生まれ、

「‥‥気持ちいい」

 ミトリの手の温度のお陰で、痛みも引き始めた。

 その言葉に赤く染まった顔で、はにかんだミトリは黙々と薬を塗ってくれる。

 けれど、改めて胸から腹を見たミトリは、苦しそうに笑ってしまう。

「‥‥青いですね」

「‥‥打撲だ。仕方ない」

 自分の身体を見るのが怖かったが、見てしまえばどうという事はない。

 例え、身体の右半分が青く腫れ上がっていても。それが足の付け根にまで届き、傷の先端部分にミミズが這っているように見えても。

「傷が、残るかもしれません」

「俺の性別は男だ。オーダーをやってる男の身体に傷があっても違和感なんて無いだろう。‥‥もう終わりか?」

 ミトリは手を身体から離して、チューブの蓋を閉め始めた。

「はい。終わりです。後で皆んなが様子を見に来ると思いますが、寝ていてもいいですよ。何かあったら、呼んで下さい」

 言いながらミトリは、甚平の前を閉めてくれる。塗られている時にミトリの熱を受けてしまい、半分頭が眠り始めていた。

「‥‥疲れました?」

「少し‥‥」

 一瞬、俺の髪を触ろうとしてミトリは、直前で手を止めてしまった。

「薬だらけでした。ゆっくり眠って下さい‥‥」

 手を使えないミトリは困った顔のまま、口で口を塞いでくれた。やはりミトリも、寝かしつける力を持っているようだ。

 急激に眠気が襲われる。だが、口に溶けるこの感覚は、何度経験しても、蠱惑的で―――抗えなかった。



「痛たっ!」

「痛くないでしょう?髪ぐらい細いんだから」

 見た事の無い細い針を使って、身体を刺してきた。この指でとんとんと、繰り返し針を刺される感覚は初めてだ。

「‥‥あの、免許は、今持ってますか?」

「いらないでしょう?人間にするなら必要だけどね」

 隣でミトリが不安そうに救急箱を抱えてイノリに聞くが、身も蓋もない事を言い放つ。事実なのだから仕方ないが、もう少し柔らかく言えないのだろうか。事実だが。

「それより、暇なら私の汗をどうにかして、この部屋暑いのよ」

「は、はい!今すぐ!」

 初対面でも全く物怖じしないで遠慮無しにミトリへ冷房をかけろと言っている。そうか、もうすぐ6月だった。夏服の用意をしなければならない。

 イノリは額に汗をかきながらも針を使ってくれる。この場合は鍼と言うのだろうか。朝一で傷を診てくれたイノリの手によって、体には10本以上の細い鍼が刺さっていた。

「派手にやられたわね。負けたの?」

「‥‥ああ。負けた」

「そう」

 ネガイが来なければ、連れ去れていた。やり合いでは僅かに優っていても、向こうの目的は勝つ事では無く、連れ去る誘拐———————完全な敗北だった。負傷と毒により自由を奪われていたのだ、ネガイが駆けつけなければ腕が無くなっていた。言い訳なんか出来ない。試合にも勝負にも、負けてしまった。

「あの、その傷は」

 ミトリが救急箱を抱き締めて、イノリの背中に何か言おうとした時、

「どうせ、また口説こうとしたんでしょう」

「また?」

 救急箱が軋んで、悲鳴を上げた。

「ミトリ、悪いけどシズクを呼んで来てくれ」

「もういるから。‥‥真っ青だね」

 シズクが、寝室に入って身体を眺めてくる。

「どんな感じ?」

「‥‥見ての通りだ。休みに悪いな」

「私はイノリについて来ただけだから。それに、ミトリとも少し話したかったし」

「私ですか?」

「そ、ちょっとこっち来て。ヒジリの事任せたよー」

 シズクがミトリを連れてリビングに戻っていく。聞かれたくない事なのか。それとも気を使ってくれたのか。どちらにせよ、命拾いしたのは、間違いない。

「シズクとは幼馴染だっけ?」

「ああ、いい奴だろう?」

「‥‥うん。よく話しかけてくれるし、昨日は泊まりに来てくれた。‥‥悪くないわ、表側も」

 鍼を指で叩きながら答えてくれる。

「で、誰にやられたの?」

「‥‥他言無用が前提だ。だけど、マトイから口止めされてないから言うぞ。白い仮面の金髪碧眼の女、多分俺達と同い年ぐらいだ」

「やっぱり口説いたの?」

「何か知ってるのか?」

 イノリの冷たい目を無視して、強引に聞き出す。そんな無茶な突撃を繰り出した俺の顔を見て、イノリは大きく溜息を吐き、呆れ顔のままで知らせてくれる。

「これも他言無用よ。最近、オーダー街に幾らか組織が入り込んでるって話があるの」

「‥‥本部と法務科が許してるのか、そんな事を」

「本部はどうだか知らないけど、法務科は正確な情報でしか動けないの。こんな噂にすらなれない話であの法務科が右往左往する訳無いでしょう。この前のクラブでの事件なんて、よくあのマトイが動いたなって思ったぐらいなんだから。潜入学科には、こんな都市伝説がゴロゴロあったって事」

 ただの噂話にすらなれない都市伝説に、あのマトイが動く訳が無い――頷くしかなかった。

「その中に白い仮面の話もあるの。黒い帽子に、黒いコート」

「そいつだ‥‥」

「都市伝説にも、たまには真実があるみたいね。そいつの情報が潜入学科にあるってマトイに教えとくから」

 汗を自分のタオルで拭き取って、イノリは一息ついた。

「ここからは喋らないで、痛くなるかもだから」

 息をひとつ呑み込んだイノリは、その後一言も喋らないで、新しい鍼を取り出して刺し始めた。鋭い眼光を携えたイノリは、全神経を尖らせ汗が止まらない。

 その過程で―――上着を脱いで、あのパーカーも着ていないイノリはYシャツ一枚となる。そこに想像以上に汗をかいていたシャツが、自然と透けていた。

「何?私は黒が好きなの。どんな下着でも私の勝手でしょう?」

 視線に気づかれていた。

「気付いてるなら、どうにか‥‥」

「見なければいいじゃん。後は―――」

 刺した鍼はそのままに、自分の持って来たバックを漁り始める。

「そのまま動かないで。しばらく時間を置くから」

 しゃがみ込んで何かをし始めたが、俺はベットの上なので何も見えない。気になるが、鍼が刺さったままなので言いつけ通り大人しくしておく。

「下着、そんなに気になる訳?そんなに私が好き?」

「‥‥好きに、決まってるだろう‥‥」

「なら死なないで、いずれ好きになってあげるから―――下着、似合ってたでしょ」

 生き残らないとならない理由が、ここにもあった。イノリがここまで言ってくれるのだから、絶対に生き残らなければならなくなった。

「‥‥そろそろ抜くからじっとしてて」

 言いながら、イノリは鍼をゆっくりと抜き始める。ただ、抜くのに順序があるらしく、簡単に抜くものから、時間をかけて抜くものまで多種多様なやり方をしてくる。

「はい終わり。どう?」

「‥‥身体が熱い」

「そうよ。筋肉の血行をよくして、痛みを取ったんだから。身体が軽いでしょう?」

「‥‥ああ、本当によくなった‥‥」

 イノリの言う通り、本当に身体が軽くなった。痛みの根本が抜けた感覚がする。何よりも腕が上がる――――痛みが確実に減った。

 起き上がって身体を触ってみるが、呼吸すら楽になっている。

「言っておくけど、それはあの治療科の子があんたの傷を治療してたからだから。でないと、ここまで結果は出なかったからね」

 背中でそう言い放ったイノリは、刺した鍼を円筒のケースにまとめて入れていく。

「すごい‥‥。助かった、ありがと‥‥」

 まだ驚きが収まらない。胸や腹を深く押すとまだ痛むが、それでも自分でもわかるぐらいに身体の血行がいい。この身体から溢れるような熱は、毒のそれとは違う。

「あっそう、良かったじゃん。でも、調子に乗って歩き回らないように」

 仕事は終わった、と言わんばかりにイノリは外に出て行き、入れ替わりにミトリが入って来た。

「‥‥良かった‥‥。調子はどうですか?」

 ミトリが胸や腹を触ってくる。まだ傷は青いが、濁って滞っていた血が抜けていく気がする。

「いい感じだ―――もうひと眠り出来そうだな‥‥」

「寝過ぎですよ。何か食べますか?」

「ああ‥‥それに少し歩きたい‥‥」

 甚平を被って、手を引かれながらリビングに行くと、イノリとシズクがソファーに座っていた。

「大分治った感じ?」

「ああ、だいぶ良いぞ。‥‥何やってるんだ?」

「ん?ゲーム」

 シズクとイノリは、コントーローラを持っていた。この部屋で、見覚えのないゲームだった為、また誰かが持ってきたのだとわかった。

 2人の後ろを通って食卓に向かうが、ゲーム画面にも見覚えが無い。

「あのゲームは、シズクさんが持って来たんですよ」

「‥‥やっぱりなぁ」

「何よー、別にいいじゃん」

 テレビに映っている映像には、銃を持ってゾンビを撃ち殺す探索ゲームが見える。わざわざここでやるのがそれなのか?という問が、喉まで差し掛かってしまう。

「イノリ、後ろのは私がやるからクランクやって」

「わかってるけど、こっちもう体力限界だから一度回復させて」

「オッケー」

 抑揚の無い声が2人から聞こえて来る。

 昨今、ゾンビゲームが人気のようだ。俺は映画でしか関わった事が無いが。

 ゾンビの頭を撃ち抜く音をバックに、小さい鍋が置いてあるコンロにミトリが火をつける―――この鍋も見た事が無い。

「今は‥‥8時か」

 イノリの鍼は大体3〜40分で終わったようだ。もっと時間が経っている思ったが、そうでもなかった。時計を眺めがなら食卓に座ると、この食卓も、最近やっと存在意義が出てきたと感慨深くなる。最近までデカくて邪魔だと思っていたというのに。

「ネガイは?」

「皆んな、現場説明ですよ」

 ミトリが鍋に卵を落としながら答えてくれた。

「忘れてた‥‥ゲートの事件からまだ二日しか経ってないのか。2人はいいのか?」

「私達は現場にいなかったからねぇー。ドローンでは見てたけど、あ、そこ!気をつけて!」

 ゾンビに忙しいのか、シズクはそれなりに反応してくれるが、イノリは完全な無言だ。

「忙しいみたいだ‥‥」

「ですね‥‥」

 キッチンに立っているミトリと、顔を向けて笑い合う。

「そろそろ出来ますよ。鍋敷きは上から2番目の左にあるので出して下さい」

 もう勝手知ったる他人の家らしく、どこに何があるのかよくわかっているみたいだ。ミトリに言われた棚の引出しから鍋敷きを取り出し、食卓の上に置くと、その上にミトリが小さい鍋を置いてくれる。

「私達はもう食べたので、どうぞ」

 蓋を開けた瞬間、いい湯気が立ち込めてきた。

「たまご粥かぁ‥‥懐かしい」

 昔—――昔、作ってくれた人がいた。

「頑張って食べて下さいね。昨日から何も食べてませんから」

「‥‥ありがとう。頂くよ」

 卵と三つ葉の色合いが美しい。それを覆い隠すような白い湯気もまた神秘的だ。

 美味い。少量の塩気のお陰で米の味が舌でよく感じられる。それに、これは鳥ガラの出汁か?いい香りだ。

「‥‥‥‥」

「あの‥‥。味はどうですか?」

「‥‥美味しい」

 それしか口から出なかった。舌が火傷する勢いでかき込んでしまう。でも、止まらない。口を開く時間すら惜しい―――口に放り込み過ぎて、息を吐いていると、

「あ、熱くないですか?お水です」

 ミトリの手から受け取った水を飲み干して、また、たまご粥に戻る。

「—―――ありがと、美味しかったよ」

「ありがとうございます‥‥。でも、もう少しゆっくり食べて欲しかったですね‥‥、あまり消化に良くないので‥‥」

 また困らせてしまった。ミトリは困った笑顔で鍋を流しに持って行く。

「‥‥眠い」

「またそれ?」

 イノリの声が後ろから聞こえて来る。ゲームがひと段落したのか、2人して食卓に座った。

「‥‥おう」

「何も言ってないから。もう寝ぼけてるの?」

 呆れたようにイノリは肘をついて、ぼやいてくる。確かに、昨日はずっと寝てたいたのだから、少し頑張って起きているべきだった。

「‥‥もう少し起きてるか。2人は気があったのか?」

「まぁ、そんな所」

「ゲームでか?」

「ち、違うから!?」

 イノリが焦って否定してくるから、当たりらしい。昨日シズクが泊まったと言っていたけど、多分ゲームだったんだろう。

「あ、聞いて聞いて!」

「ん?どうした?」

 未だ、熱を発し続けているたまご粥を胃の中で楽しんでいると、シズクが肩を揺らしてくる。お陰で更に眠気が―――、

「君の動画を拡散した奴がわかったの」

「ようやく尻尾を出したか。腹ごなしも済ましたし、準備は整った―――それで、どこにいるんだ?話つけてくる。後、ミトリ、俺の装備はどこだ?」

 恐らく脱衣所にあるであろう制服を取りに行こうと、椅子から立ち上がる。

「何、ただの散歩だ。すぐに終わらせてくる」

 だが立ち上がった瞬間、シズクとイノリから肩を押さえつけられる。

「‥‥なんのつもりだ?」

「何じゃないでしょう!?君、なにしに行く気!?」

「‥‥。話し合いだ」

「その間は何!?」

「ああ‥‥うるさい。こっちは寝起きなんだ、血圧の上げ下げは止めてくれ。俺はただ、血を浴びに行くだけだ。そう、血を浴びに行くだけだなんだ」

「寝ぼけた事言ってないで、話を聞いてて。後で寝ていいから」

「‥‥長いのか?」

「あんたによる」

 仕方ない。肘を突いたままのぶっきらぼうでもイノリだ、さっきの鍼のお礼に大人しくしておかねば。

「‥‥ソファーに行っていいか?少し休みたい」

 今の体調で、この直角の椅子は少しつらい。もっと言えばもう横になりたい。

「いいよ。こっち」

 イノリに手を引かれて、さっきまで2人が座っていたソファーに座らせられる。

 全体重をソファーにかけて、手足を投げ出し力を抜きながら、天井を見上げて目を瞑る。このまま寝てしまいたい。

「‥‥ミトリ」

「はい。ここですよ」

 隣にある1人掛け用の椅子に座ったミトリが手を握ってくれる。ミトリの指から感じる血管と心音が心地良くて仕方ない。

「‥‥俺が寝る前に話してくれ」

「結論から言うと、ヒジリの動画は世界中で売られてる」

「‥‥ 盗撮した物を勝手に売り買いか。これだから人間は嫌いだ。全員の首でも削ぎに行くか‥‥それで、主犯は何処の誰だ?」

「最初に売ったのはオーダー本部。あんたを逮捕しようとして、逆に捕まった連中ね。特務課って名前もあったかな?」

 それは、殺すのはおろか、会いに行くのも不可能だ。逮捕、拘留している法務科と正面からやり合うのは得策じゃない。

 何よりマトイに怒られる。それだけは嫌だ。

「一体どんな連中とつるんでるの?そんなに死にたいの?」

 シズクが呆れたように聞いて来た。

「‥‥俺にもよくわからない。勝手に、人間共が俺に近いてくる。死にたいのはむしろお前達だろう‥‥」

 ただ生きられればよかっただけなのに。どうしてこうも、邪魔をするのか。

「‥‥よくわかった。やっぱり人間は嫌いだ」

 目を開ける気にもならない。人間の世界の何を見ても嫌悪してしまう。

「で、どうするの?」

「どうもしない。今は休暇中だ」

 背もたれが優しく頭を受け止めてくれる。ただソファーで寝ると風邪を引くと、前にミトリから言われたので立ち上がる事にした。

「調べてくれた礼だ。俺は名前がついてる、オーダー本部と法務科の二つから‥‥ベットで休む」

 2人の声を無視して目を閉じたままで寝室に逃げ込む。どうせ見えないからだ。

 手探りでベットを探すが、手よりも脛の方が先にベットを探し当てた。

「痛っつ‥‥」

 脛の痛みを我慢して、ベットに倒れ込む。イノリの治療とミトリの鍋で身体が火照り、眠気をコントロール出来る。

 このまま目を閉じて忘れてしまいたい。けれど、そんな事を許してくれるなんて慈悲深い真似、この世界が許す筈がない。いつもそうだ、人間は自分の都合で評価を下し、行き先を勝手に決める。我が物顔で、それが正しいと言い張り続ける。

「‥‥どうしたいんだよ。お前達‥‥」

 選択肢なんて無かった。聖女の嘆きが、理解出来た。なぜこうも、世界は勝手なんだ。

「そんなに‥‥、ヒトガタが嫌いか‥‥?」

 その通りだ―――なぜなら、俺のようなヒトガタは、生きる予定が無かった存在だ。正しい人間の営みでは生まれなかった生命だ。

 突然、星が降って来たような生まれ方じゃない。人間達から望まれて生まれてきた筈なのに、間違って生まれてきたんじゃないのに。

「‥‥疲れた‥‥」

 誰も彼もが、まやかしの命で遊びたがる。

 欲望のまま求めて、自分の正当性を謳いながら人間が狩りにくる。

 それが叶わなければ、最後に呪詛を残していく――――放っておいて欲しいという嘆きは、人間の声にかき消されてしまう。




「今何時だ‥‥?」

 うつ伏せの状態で手を伸ばしてスマホを確認すると、もう14時だ。せっかくの日曜日を無駄にしてしまった。

「‥‥いつからここはサロンになったんだ‥‥。知らない声もするな‥‥」

 身体が重い。起き上がる気分にもならない。ただ、リビングから大勢の声がするのは、よくわかる。ゲームでもしているのだろう。

「‥‥どうでもいいか」

 サイナの声とシズクの声がよく聞こえてくる。2人がいるなら、何か無くなっていても後で勝手に戻ってくるだろう。気にしないくていい。

「‥‥ネガイもいるのか。‥‥来て欲しい」

 ネガイに来て欲しいとチャットを打って、待つ事にした。

「彼の顔を見て来ますね。起こしませんから」

 数秒でネガイの声が聞こえてきた。そして、扉を開ける音も。

「どうしました?」

 入ってくると同時にネガイは扉を閉めて、ベットに近寄ってくる。

「嫌な夢を見ましたか?」

 ミトリの椅子に座って、顔を眺めてくる。

「‥‥ネガイ」

「はい」

「‥‥俺は、どこでなら邪魔をされずに生きていける」

「何かありましたか?」

 優しい笑みを浮かべながら、頭でも撫でるように背中を手で温めてくれる。

「俺の動画が、拡散されてたって知ってるか?」

「シズクから聞きました」

 撫でていた背中の上に、ネガイが横になってきた。

「それをやったのは、俺が追い詰めたカエルの一味だった。オーダー本部で逮捕される直前に売ったんだろう」

 復讐をするどころか、罪に問うのも難しくなった。

 アメリカのような罪を加算して総合的な判決を下す法廷ならいざ知らず、日本の法廷では一つの罪でしか判決を下す事が出来ない。

 二重三重の罪に問えるにしても、あまりにも時間がかかる。何よりもなぜ俺がそんな人間のルールに従わないとならないのか。

 俺のことを人間扱いもしなかったというのに――――

「‥‥俺は、ネガイと一緒にいたいだけだ。でも、皆んな俺の邪魔をしてくるんだ‥‥」

「‥‥」

「俺がヒトガタだからか?それとも、皆んな死にたいのか?」

 目が熱くなってきた―――血が見たい、血に酔いしれたい。あの女でもいいから、刃が肉に食い込む感覚を味わいたい。

「‥‥人間の好奇心には、もう疲れた」

 あの女も、恐らくは動画を見て来たのだろう。俺の事を動画以外でも調べて尽くしておけばあの夢を知っている事に、いちいち反応などしなかった筈だ。本当に、ろくに知りもしないで、必要だから、なんとなく襲って来た。その程度に過ぎない。

「こっちを向いて下さい」

 背中から離れたネガイは、寝返りを打つように呟いた。

 ネガイに従ってうつ伏せから仰向けになった時、黄金の瞳が覆いかぶさってくる。

 温かい唇だ。舌なんかこのまま噛みちぎってしまえるぐらいに柔らかい。でも、それではネガイを傷付けてしまう。

 しばらく好きなだけ口を中で遊ばせて、今度はこちらが舌で確認する番となった。

 火傷しそうな程に熱い、火傷しそうになるほど熱せられた舌が絡みついてくる。ネガイになら、このまま噛みちぎられてしまっても―――何もかもを捧げられる。

「—――いいですか?」

 口を離した所で、唾液が伝ったままで話しかけてくる。

「私は、あなたの事をもっと知りたいから今しました」

「もう全部知ってるだろう?」

「いいえ。全部は知りません」

 再度、覆いかぶさってくる。ずっと枕元に手をつかせるのはつらいだろうと思い、ネガイを隣に横たわらせる。

「‥‥私はもっとあなたの事が知りたいんです。あなたはどうですか?私の事を知りたくないですか?」

「‥‥知りたいに決まってる」

 吐息が顔にかかってくる。

「私のこの感情は、おかしいですか?」

「‥‥おかしくなんてない。嬉しいぐらいだ、もっと知って欲しい。でも―――」

 ネガイには知って欲しい。俺の好きな物や、やりたい事、それに嫌いな事も。

 だけど、それは人間全員に教えてやる必要は無い。いつも人間は自分勝手に、好きなように思い込んで好きな時に捨てる。

 そんな俗物に、教えてやるだけ時間の無駄だ。

「それはネガイだからだ。俺は、ずっとネガイと一緒にいたいだけなのに‥‥」

「私もです。あなたが遠くに行ってしまって、二度と帰って来なくなったら、嫌です」

 言いながら、自身の胸元で頭を抱きかかえてくれる。抵抗する力などある筈がない。ゆっくりとした慣れ親しんだ心音が、脳そのものを奪い取っている。

「この感情は、あなたの人間を惹きつける力によるものが始まりです。知ってますよね?私があなたの目に興味を持った理由を」

 目のコピー。それを使って、ネガイはオーダーやこの世界に復讐しようとした。

「私は、あなたの外側に惹かれたからあなたの側にいた。それと、あなたに手を出してくる人間とは、どう違いますか?」

「‥‥やめてくれ。ネガイは、違う」

「聞いて下さい」

 耳の付け根に指を入れて、かかっている髪を退かしてくる。

「同じです。私も、あの襲撃者も。あなたが欲しいから、皆んなあなたに興味を持つから近付く―――」

「‥‥皆んな、ネガイみたいに優しくない」

「私はあなたを利用しようとして近付いたんですよ。何も変わりません」

 きっとネガイの言ってる事は正しい。マトイもサイナも、皆んな俺が使えると思ったから、近付いた――――あのカエルと同じなのかもしれない。

 近づくだけの価値があったから、手を出してきた。

「私もマトイも、あなたが使えるから手を出した。その結果、傷を負った。あなたは何も間違っていない。私達は、もっとあなたを知るべきだった。‥‥ヒトガタとしてのあなたも、目の化け物としてのあなたも」

 耳に当てていた手を移動させて、頭が更に引き込まれる。

「‥‥怖くないのか。そんな俺が」

 ネガイの心音が早まっていくのが伝わる。一体何を覚悟しているのか、何を恐れているのか―――明白だった。己が抱きかかえている物が、ただただ化け物だからだ。

「怖いです――――同時に、今のあなたは私の恋人です。人間では無い生き物を恋人にしたのですから、もっとあなたの事を知らないといけない。何か間違ってますか?」

「‥‥嬉しい」

 こぼれ出た返答を聞いて、鼻で笑って頭を撫でてくれる。

「だから、あなたはもっと自分の事を教えて下さい。面白半分に近付いてくる人間達を始末していいんです。それが、あなたという化け物を知らしめる最大のアピールになりますから。そうすれば興味本位で近付いてくる人間を減らす事が出来ます」

「‥‥始末か。殺しはダメだろうな‥‥」

「当然です。マトイに怒られますよ。手間がかかるって」

 2人して笑ってしまう。マトイなら、そう言いそうだ。

「それに私もあなたに近寄ってくる人間は、できるだけ少なくしたいです」

「‥‥血の事か」

 マトイから言われていた事だ。が悪意を持った第三者に渡ったら、この街から一切出る事が出来なくなる。

「そうです。もし、あなたを襲ってくる人間が多いと、私との時間が減ってしまうので。外での旅行もまだですし」

 その通りだ。俺ももっとネガイに外を見せてあげたい。

「‥‥わかった。俺は人間を排除しよう。ネガイとの時間の為に」

「はい、そうして下さい。私も手伝いますから。‥‥続けますか?」

 夜にだけ見せる妖艶で官能的な瞳と舌舐めずり、で耳を震わせてきたネガイに顎を上げられる―――その顔には、夜にしか見せない艶麗の輝きを纏っていた。



「これは、こうか」

「そうです。手堅く行きますよ」

 知った顔も知らない顔も幾らかいる中で、シズクが買ってきたパーティーゲームをしていた。ネガイを膝の上に置いて、2人でコントローラーを持ちながら。

 意外と面白いと思ってしまう。余裕があれば購入を検討してもいいかもしれない。

「‥‥あのさ」

「お、ベストスコアだ。いいんじゃないか、これ?」

「周りの目を気にしてよ!!」

「なんだよ、急に」

 シズクがコントローラーを奪ってテレビの前に飛び出した。

「さっきからイチャイチャ!それに‥‥盛り上がったからって、ベットをあんだけ揺らして‥‥」

 シズクの顔がどんどん赤くなる。肌の色が薄いから、血が上っていくのがよくわかる。

「ドアに耳を当ててたのはお前達だろう?ここは俺の部屋なんだから、好きにしていいだろう」

 隣のミトリや、食卓にいる知らない女子生徒にも視線を向ける。それだけで、皆んな押し黙ってしまう。

「‥‥ねぇ、ミトリ‥‥いつもこうなの?」

「‥‥はい」

「はぁー‥‥」

 ミトリからの返答を聞いて、シズクが大きなため息をついた。もう諦めたのか、1人掛け用のソファーに座って、こちらを睨んでくる。

「せめて声をどうにして。‥‥その、かなりきつかったから」

「声なんか出して無い。ずっと2人でしてたんだからな」

「言わなくていいから!!」

 流石にネガイも、この人数で聞かれたとわかったら、途端に恥ずかしくなったのか髪で顔を隠してしまった。

 試しに髪をブラインドのように開けてみると、更にネガイは髪を引っ張って顔を隠してしまう―――いくら何でも可愛すぎるだろう、その反応は‥‥。

「でだ、なんだこの人数」

 ネガイ、ミトリ、サイナ、マトイ、イノリ、シズク、イサラ、それに知らない顔が2人、いや違った、1人は情報科の生徒だ。

「皆んな暇だったそうです。この部屋がここまで狭くなるなんて、思いませんでした」

 髪で顔を隠したままのネガイが、そう答えた。まるで自分の部屋のように。

「6人部屋はそれだけ貴重って事ですよ。それにここを1人で使ってたなんて」

「て言っても、ここに越してきてまだ2か月も経ってないけど‥‥だいぶ物が増えた」

「‥‥すみません」

 ミトリが困ったように謝ってくれる。自分のその中の1人だとわかったらしい。

 にしても、物が増えた。

 リビングの見渡すと知らない家具が増えているのがわかる。テレビ台の上の置き時計、皆んなが当然のように履いている見知らぬスリッパ、壁掛けのカレンダー、コートや帽子をかける枝が生えている柱、などなど。

「あれ?あんな机あったか?」

 リビングの奥にある見覚えがない1人用の白い木の机、作業台のようで色々な工具が置いてある。

「サイナが持って来ました。この部屋には武装を整備する場所が無いからと」

「夜中には、やるなよー」

 食卓のサイナは手を振って答えてくれた。恐らく、、としか思っていないに違いなかった。

「ま、いいか」

「いいんですか‥‥」

「言っても聞かないし、どうせ皆んな鍵持ってるんだろう?」

 考えるまでもない推理は当然のように的中。皆一様に黙ってしまった。今更何か言う気にもなれない上、事実として、『目』を自分の物に出来た現状、この部屋は無用の長物として扱っていた。これだけ人が集まれば、この部屋も文句は無いだろう。

「それでさ。いいの?」

「何がだ?」

「その、動画の事は」

「どうしようも無いんだろう。なら、自然と消えるまで待つよ。ありがとな、教えてくれて」

「‥‥なんか、慌てて損した気分」

 シズクが怒ったように足を組んで背もたれに寄りかかった。だいぶ思い詰めさせてしまっていた。

「礼はするよ。何がいい?」

「‥‥車」

「外、出ないだろう。ひきこもり」

「私はね!!しっかりと朝日を浴びて!!」

「ミトリ、外に出るから付き合ってくれ。ネガイはシズクの相手をしてくれ」

「わかりました」

「は、はい!」

 ネガイを膝から下ろして脱衣所に向かう。後ろでシズクが色々言っているが無視だ。車もどうせ決まった場所に行くだけの足でしかない。

 脱衣所の扉を閉めて、ミトリと話す。

「コンビニ行くから付き合ってくれ。昼間なら平気だろう?」

「‥‥そうですね。ゆっくり行きますよ」

 昨日今日のほとんどを寝て過ごしてしまった。身体を動かさないと、血の廻りが悪くなる。せっかくイノリが鍼で血行を良くしてくれたのだから、少しは汗をかいた方がいい。

「‥‥っ」

 Yシャツを着る為に腕を上げるが、身体が異常を知らせてくる。腕は上がるようになったが、それでも痛みが抜けきらない。いまだ身体は麻痺していた。

「手伝いますか?」

「‥‥頼む」

 ドアを開けて入って来たミトリにシャツを渡してしゃがむ。ミトリが肩にシャツを置いて、袖を通すまで持っていてくれる。

「‥‥痛いですか?」

「少しだけ‥‥」

 Yシャツを着て、次は下を脱ぐ。脱いだ寝巻きをミトリが次々回収して洗濯機の中に入れていく。

「そろそろ新しいパジャマを出して下さいね。ずっと同じでは清潔じゃないですよ」

「それもそうだな」

 夏用の寝巻きはまだ幾らかあるが、これからも人が来るようなので、それなりに人に見せれる物を選ばないとと決心する。甚平姿など、本来他人に見せる物ではない。

「ゲートが復旧したら外で服を買わないと。今度、一緒に行くか?」

「いいんですか‥‥?」

 軽く聞いてたみただけなのに、ミトリが驚いたように聞いてくる。

「ああ、いいぞ。と言うよりも、見繕ってくれ。自分で選んだら結局似たような物ばっかり買っちゃうんだ‥‥」

「はい!任せて!」

 着替えを見詰めながら、満面の笑みでミトリは答えてくれる。最後にミトリはネクタイを締めて、上着を着せてくれる。

「ここまでミトリに頼った生活をしてると、本当にダメになりそうだ‥‥。いい加減、ネクタイは締めれるようにならないと‥‥」

「ふふ‥‥あなたは前から―――ふふ、はい。自分でネクタイは締められるように、なって下さいね」

「善処しないと―――じゃあ、行くか?」

「はい」

 ミトリの隣を通ってドアノブを握り、

「ほら、出るから、退け」

 ドアで聞き耳を立てている連中を退かす。

 声が聞こえた瞬間、数人が廊下を走るのが聞こえた。振り返ってミトリを目を合わせる。

「そんなに興味があるのか?人間って」

 さっきのネガイとの情事を聞いていた張本人に聞いてみるが、答えはなかった。




「いい天気だな。これなら午前中から歩いてればよかった」

 金曜日の夜と同じ道を歩いてコンビニへ向かう。夜中と違って周りには私服や制服の生徒が幾人もいた。

「これなら襲って来ませんね」

「ああ—―――ずっと部屋の中はダメだ、息がつまる‥‥」

 伸びをして太陽の光と外の空気を身体に取り込む。別に部屋の中が嫌いな訳ではないが、一日に一度は外に出ないと気持ちが悪くなる。

「‥‥肩、上がりませんね」

「まぁ、まだ1日しか経って無いから。でも、明日にはもっと上がる気がする」

 腕を伸ばして背伸びするが、自然と傷を負った方の腕は上がらない。だとしても、だいぶ痛みは抜けた気がする。

「イノリさん、凄い人ですね‥‥。治療科でも無いのに、あんなに‥‥」

 手を前に揃えているミトリが暗い声を発した。

「イノリは、ああいうのの専門家だ。自分と比べるなよ。それにイノリが言ってけど、ミトリが俺の傷を診てくれたから、ここまで結果が出たって。俺も、ミトリがいなかったら今歩けてないってわかってるから。この傷の事だけじゃないから」

 未だに暗い顔をしているミトリの手を引いて、早歩きでコンビニに進む。

 周りの目が気になるが、今は無視だ。元気になった姿を見せないといけない。

「だ、大丈夫ですか?」

「見ての通り、いい感じだろう?」

 首だけで振り返ってミトリに目を向ける。良かった、笑ってくれている。

 もうほとんど走る勢いでミトリの手を引いていく。ミトリも、それに答えてスピードを早めてくれ、あっという間に公園まで到着してしまった。

 やはり、男子生徒がスケボーで遊んでいる。

「ああいうの、好きですか?」

 公園の前でミトリが聞いてくるから、自然と足が止まってしまう。

「よくわからない。やってみれば面白いかもだけど、いまいち興味が持てなくて。向こうも本とか興味無いだろうし、それぞれじゃないか?」

 そう思う事にする。俺の好きな物は、きっと同年代には理解できないだろう。

「ミトリはどうなんだ?何か趣味とか」

「私ですか?うーん、そうですね‥‥」

 振り返って聞いてみるが、ミトリは考え込んでしまった。視線をスケボーをしている一団に持って行くが、答えは出ない。

「今は、わかりません」

「そうか。‥‥少し休みたい」

「あ、はい。疲れましたか?」

「少しだけ、それに風を浴びたい」

 公園に入って自販機で水を買い、ベンチに座る事にした。

 軽く見渡しても、やはりというか当然、遊具など無い。そもそもここは遊具で遊ぶような子供が来る区画ではない。

 ここに来るのはオーダー校の中等部や高等部の生徒。中には来年度から入学予定の小学生もいるが、それでも遊ぶような事はしないだろう。

「気温が高くなってきましたけど、苦しくはないですか?」

「‥‥いい感じだ。眠くなってきた」

「寝ないで下さいね。またサイナさんを呼んでは迷惑ですからね」

「大丈夫、冗談だよ」

「冗談に聞こえません。だから膝も貸しません」

 少しだけ期待していたが、読まれていた。自分自身もここでミトリに迷惑をかけるつもりはなかったけど。

「ミトリ、なんでオーダーに?」

 少し気になってしまった。

「つまらない話ですよ」

 その前口上を、勝手に使われてしまった。

「‥‥そうですね。私は、ここしか逃げ込める場所が無かったんです」

 オーダーになる人間は、多かれ少なかれ問題を抱えている。中には親がいない、もしくは親を支える為に働いて仕送りをする――――もう一つは、親から逃げる為。

「‥‥ごめん」

「そんなつらい話じゃないですよ。もっとつまらない話です」

 言いながら、ミトリが肩に寄りかかってきた。

「私の家は、皆んな普通なんです」

「普通?」

「そう‥‥普通です。たまたま親が医者をやっていますけど、兄も姉も、普通です」

「親が医者か。それは普通じゃないんじゃないか?」

「私にとっては普通ですよ。周りの皆んなも、医者に社長、後は弁護士に官僚でしたから」

 知らなかった。ミトリはサイナと同じように上流階級の人間だったのか。

「もう勘当されるんですけどね。だから、帰れる場所も、今はオーダーしか無いんです。‥‥不純ですね。あなたやネガイに比べると」

「‥‥俺だって同じだ。成育者に捨てられて、帰る場所はここしかない。俺はオーダーに隠れてるんだ。‥‥不純だ」

 スケボーに乗った男子生徒が何かしらの技をしようしたが、ボードを掴み損ねて、転がってしまった。

「あ、行ってきますね!待ってて下さい」

 ミトリは転がった男子に走り寄り、擦りむいた顔を確認し始めた。遠くからでもわかる程にこめかみから血を流している。

 仕方ない、そう心の中だけで呟いて、駆け寄ってミトリに止血剤等の薬を渡す。

「じっとしてて下さい」

 手早く傷を洗う為に、ペットボトルの水とガーゼを使い、傷にギリギリ触れない程度に周りを拭いていく。

 それが終わったら、これも手早く薬を塗ってシートを貼っていく。

「終わりました。今度は気をつけて下さいね。お大事に」

 男子生徒が何か言おうとしたが、その顔に笑顔を見せただけのミトリに腕を引かれて、ベンチに戻される。視界の隅に入れた男子生徒は、血の涙でも流すのではないか、と思わせる顔で睨みつけていた。

 こうやって幾人もの男子の膝を折っていったと、改めて思い出す。

「薬、ありがとうございます」

「思ったより血が流れてたから、見過ごせなくなっただけだ‥‥」

 ベンチに座っても、ミトリは腕を離さないでお礼を言い続けてくれる。この光景を恨めしそうにも、憎らしそうにも見ていた治療された男子生徒は、仲間に連れられて公園の外にあった車に乗り込む。

「人を治療するのが趣味なんじゃないか?」

 そんな光景を見て、漠然と聞いてみた。

「それって、私が怪我をする人を選んで側にいるって事ですか?」

「そういう意味じゃ、‥‥どうした?」

 掴んでいた手を絡ませて、逃がさないように、一息で折れるような腕の絡ませ方をしてくる。意識する間もなく行われた凶行に、困惑よりも先に疑問が浮かび上がる。

「‥‥言いましたよね。家族は普通だったって」

「‥‥ミトリは、普通じゃないのか?」

「はい」

 即答だった。

「‥‥人間じゃないか?」

「いいえ。私は人間です」

 残りの腕同士の指と指を絡ませた時、ようやく力が抜けていく。

「人間じゃなかったら、どうしてました?」

 試すように聞いてきた。

「そうだな‥‥。まずはミトリの事を知って、」

「知って?」

「‥‥好きになる」

「ずるいですね‥‥。相変わらず」

 繋いだ手を引いて、ミトリを膝に運ぶ。

「私の事、好きなままって、約束してくれますか?」

「つまらない事、聞かないでくれ―――俺はずっとミトリが好きだ」

「‥‥ありがとう」

 ――――やっと、この言葉遣いをしてくれた。

「私は死神なんです」

「死神‥‥」

 ヒトガタの自動記述を使う。

 死神とは生命と死を司る神。一般的に大きな鎌と傷んだ黒い布を身に纏い、そして完全な白骨の姿。中には馬に乗ってる姿や翼が生えてる姿の絵画もある。神という枠に拘らなければ多くの神話に登場し、聖書にもそれに近い役目を持つ天使が登場している。

「‥‥笑いませんか?」

「笑わない。死神は世界中にいるから―――病気として」

 例えばペスト。

 発症すると、リンパ腺が腫れ上がり、高熱に苦しめられる。そして身体中に青黒い斑点が浮き出て、さらに高熱に苦しめられ三日後には死亡する。14世紀に流行した時、世界人口を4億5千万人が3億5千万人にまで減少させた伝染病。

 紀元前430年のアテナに160年のローマ。そして17世紀から18世紀、そして今も現存する死神を体現したかのような存在。

 14世紀のペストが収まったのは、感染する生命を殺し尽くしたからだ、とも言われている。

 ピーテル•ブリューゲルの名画、死の勝利。

 白骨の死神が白骨化した馬に跨がり、死をペストという形に落とし込んで人間に振りかけている姿が描かれている。

 まさしく、あれこそが人間にとっての死神の代名詞だろう。

「病気ですか。確かに、私は病気を振り撒いていますね‥‥。あなたにも」

「死ぬような病気には罹った事は無いぞ」

「でも、死ぬような目には何度もあってます。私が側にいる時ばかり」

 私は死神なんです。その意味がわかった。

「‥‥それは違う。そんな考え捨てろ。ミトリはいつも俺を守ってくれただろう。俺が怪我をする度に」

 手を離してミトリを抱き上げる。軽いミトリを胸に引き寄せて抱きしめる。

「ごめん」

「‥‥どうして、謝るんですか?」

「怪我をした時しかミトリに頼らないから‥‥、ミトリは」

 栗色の髪に顔を押し付けて、ミトリの体温を確認する。

「治療科の名前に甘え過ぎてた‥‥。俺も、ネガイみたいにもっとミトリと一緒にいるべきだったのに‥‥ミトリに甘え過ぎてたんだ‥‥」

 ミトリなら、きっと平気だろう、許してくれる、そんな傲慢な考えばかりでミトリの事をまるで考えていなかった。知ろうとしてなかった。

「私は死神ですよ。怖くないんですか?‥‥考えないんですか?自分の怪我が私の‥‥」

「ミトリは、嫌か‥‥」

 ネガイも、こんな気分だったのか――――俺を利用して、傷付けて。でも、俺なら許してくれるって、そう考えた。俺も人間も勝手だ。自分の事しか考えてない‥‥。ただミトリを求めるだけ求めて、それ以上は考えていなかった。

「こんな俺が、ミトリを好きなったら‥‥ダメか‥‥」

「‥‥約束、守ってくれますか?最後まで」

「約束する」

 ミトリが腕の中で深呼吸をした。

「‥‥私の家は古くから病院を経営していました。あの病院は私の遊び場だったんです。兄と姉と、走り回って看護師さんに怒られた事もあります」

「家族との仲は良かったのか?」

「良かったんだと思います。ここに来る直前までは」

「‥‥続けてくれ」

 初夏という季節になってきた気候の中、外で抱き合っているのだから汗を自然とかいてしまう。だけど、湿ってきたYシャツもそのままにお互い、離れずに息を吹き掛け続ける。

「気付いたのは物心がついた頃でした。私は死神だって」

「何があったんだ?」

「病院の患者さんとして、お爺様の友達が入院していたんです。‥‥とても優しくて、厳しい人でした。昔、先生をされていたとか」

 ミトリが小さくなっていく、そんな気がする。抱えているミトリの体重が消えていく。

「両親に怒られた時に、兄弟喧嘩をした時、そんな時に逃げ込む場所があの人の病室でした。‥‥私の話を毎日聞いてくれたんです」

「素敵な人だったんだな‥‥」

「はい。紳士的で、真面目で、私の憧れでした」

「会ってみたかった―――」

「はい。私も紹介したかったです‥‥。本当に‥‥」

 カマをかけてしまった、言ってからそう気付いた。

「‥‥悪い」

「いいんです。小さい頃の私が出入りして一年程で亡くなってしまったので‥‥」

 ミトリと共に汗を流しているのがわかる。服の内側で汗が伝っている。

「お爺様も、あの人も、これが運命だったって言って。ありがとうって言ってくれたんです‥‥」

「‥‥でも、死神なのか‥‥」

「‥‥私が出入りを始めた頃は、自力で歩いたり、食事も出来てたんです。‥‥一緒に病院の庭を散歩したりしてました。でも、3ヶ月程経った時に、容態が急変して、数日昏倒状態が続きました。‥‥誰にも原因がわからなかったんです」

 1人になりたいのか。立ち上がって、空を見上げた。

「目が覚めた時、私の頭を撫でてくれたんです。‥‥怖くなりました。会った時とは比べ物にならない位、痩せ細ってしまって‥‥」

「もういい。もう、話さないでいいから‥‥」

 後ろからミトリを抱きしめる。

 3ヶ月で、そこまで病状が悪化してしまった。それが後9ヶ月続くのなら―――

「‥‥ありがとう‥‥」

「‥‥それは、運命だったんだと思う。ミトリが死神になる必要なんてない」

「‥‥それだけじゃないんです」

 ミトリが腕の中で振り返って、背中に手を回してくる。

「私が側にいると、皆んながなくなっていくんです‥‥」

「色‥‥?どういう意味だ‥‥?」

「‥‥あなたもその1人です。血が抜けて、真っ白になっていました。皆んな白くなっていくんです‥‥。死体みたいに」

「‥‥病院なんだから‥‥。その可能性だって‥‥」

「私が近づいた入院患者さんは皆んな白くなりました。元気な方も、重病人の方も、関係無く‥‥。看護師さんも‥‥」

 ミトリの腕の力が抜けてきた。離れさせないように、抱えている腕に力を、足りなければ骨で抱え上げる。

「‥‥俺の身体に血を戻してくれたのはミトリだ。もう白くなんてない」

「でも、あの日の夜に、あなたは私に会いました。‥‥マトイさんも」

「違う‥‥!マトイは!‥‥俺が‥‥」

 そうだ―――マトイを白くさせたのは俺だ。ミトリじゃない。俺なんだ。

「最初は、皆んな、私に良くしてくれたんです。嬉しかった‥‥、それが楽しくて、学校終わりはいつも病院に行ってました‥‥」

「言わなくていい‥‥っ!」

「何度か私と親しくしてくれる患者さんが、亡くなった時、皆んな私を怖がるようになりました。死神だって‥‥」

 ミトリの口を塞ぐ。乱暴に奪い去ったというのに、されるがままになっている。

「よく見てくれ!俺は、もう白くない!」

「‥‥あなたは知らないんだと思います。昨日のあなたは真っ白でした。今だって、白いです‥‥」

 確かな感情が込められた、その目の奥底から迫りくる恐怖に―――心臓だけではない、魂の尾をそのまま掴み上げられているように錯覚、否、錯覚などではない。

 水面の奥底から―――裁定を下すように、値踏みしているようだった。

「‥‥俺はオーダーだ。怪我をして、白くなるのは当然だ。ミトリの所為じゃない」

 底冷えでもしかねない程、何かの色に染まったミトリの顔を見返すが、ミトリは薄く笑っただけだった。

「オーダーなら怪我をする人も多いので、平気だと思って、逃げ込んだんです」

 こんな顔見たくなった。口が顔の端まで裂て見えた。

「ねぇ?私、死神—――」

 もう一度、ミトリを黙らせる。腕を腰に回してミトリの逃げ場を無くす。

 この時間なら誰かすぐ近くを通っても、おかしくない。見つかったら、ミトリも俺も噂になる。でも、今のミトリを許す訳にはいかない。

 ―――――ネガイと同じ位に、悲しい子だった。ミトリが笑顔の時、一体どんな気持ちで顔を向けていてくれたのか――俺は考えもしなかった。

「苦しいです‥‥。私を白くする気ですか?」

 やっとをやめてくれた。俺が困らせた時に見せる、呆れたような笑顔となってくれた。

「ミトリが白くさせたのは人間だけだな?」

「‥‥はい」

「俺は人間じゃない。ミトリを置いて、遠くになんて行かないから。約束だから‥‥」

「約束、していいんですか?」

 背中に回っているミトリの爪が、身体に刺さる。

「死神は気まぐれであなたを白くさせますよ。そんなに死にたいんですか?」

「俺はもう死んでる。それに人間の神に負けるような自由、俺は持ってない」

「よくわかりません」

「ミトリは知らないだろう?俺には仮面の方の加護がある」

 あの時と同じだったのだろう。月の光が差し込む廊下を、誰の目も気にせず、我関せずと駆け抜ける背中を。決して離さず、訳もわからず掴み続けられる腕を。

「本当に、あなたは不思議な人です。‥‥愛してます。どうか、私に殺されないで」

「俺も、ミトリを愛してる―――」

 ミトリの心音を感じる。死神なんかじゃない。ミトリは聖母のようだ。

「やっぱり、ミトリはピエタだ」

「そんなに母にしたいんですか?まず最初はネガイですよ」

 腕を解いた時、ミトリは手を取って自分の下腹部を触らせてきた。

「‥‥でも、いつか。いつか、そうならせてくれますか?」

「‥‥やっぱり、ミトリって」

「もう!あなたが言った事ですよ!ほら!行きますよ!!」

 腕ではない、手を握ったままで、ミトリは振り返らずに公園の出口に向かって行った。



「待ってるのって、眠くなる‥‥」

「いつも言ってますよ、それ」

 未だ部屋では宴が続いていた。けれど、宴と言ってもサイナが用意した装備の競売だったり、どんなデザインの服が着たいかの聞き取りという商売の延長線上—――端的に言ってしまえば、暇で眠気を誘われた。

 歓声にも似た会合の最中、ミトリを片方の膝の上に乗せてシズクが持ってきたゲームを始めていた。

 けれども、このゲームもなかなかに眠気を誘う。

 敵にダメージを与える為には敵から攻撃を避け続けてチャンスを待つ、という行動が必須であり、その時間が割と長い。

 お陰で睡魔からも襲われてきた所だった。

「なんで爆発でしかダメージを与えられないんだ‥‥。これだけ撃ち込んでんだから身体の8割は無くなってるだろう」

「まぁ、まぁ‥‥、ゲームですから」

 弾丸の恐ろしい所が全く活かせていない。9mm弾を生身で受けたらテニスボール1個分は身体を失うというのに。

 この怪物は数十発受けても普通に歩いてくる。俺よりも化け物だ。

「あ、チャンスですよ!怯みました!」

 ミトリの指示に従って、ドラム缶を撃ち抜く。

 このドラム缶の内容量からはあり得ない程の小さい爆発を真横から受けて怪物は立ち眩み、ビルから落ちていった。

「終わった‥‥。この主人公すげぇーな。あんだけ殴られても平気なんて」

 どうやらこのゲームで1番の化け物は、この主人公らしい。

「クリアです。お疲れ様でした」

「ミトリのお陰だよ‥‥。そもそも、このコントローラすら使いこなせてないのに‥‥」

 使っていたコントローラを裏返してみると、さっきまで使ってなかったボタンが所狭しと配置されている。

 プロ仕様、という謳い文句を背負ったこのコントローラは、自分にはボタンが多すぎて、何がなんだかわからない。

「ミトリはゲームとかするのか?」

「救護棟に泊まる日はやってますよ。休憩室に、なんでか最近のゲーム機が全部揃ってるんです」

 救護棟の運営責任者がどんな人間かは、一回しか聞いてないが、どちらかと言えば厳格な人のイメージだったのに。ストレス軽減という目的もあるのだろうが、治療科の中にゲームが好きな教員がいるのかもしれない。

「なら今度シズクの部屋に行ってみたらどうだ?アイツの部屋、100万位かけたパソコンがあるから」

「100万円ですか。触ってみたいですね」

 やはりミトリはお嬢様だったみたいだ。100万のパソコン、という言葉に驚きもしない。

「聞いていいか?治療科って、どうやって稼ぐんだ?」

「治療科ですか?救護棟からのお給料と、現場に急行した時の一時金と、それと個人で雇って貰うとかですね」

「個人で?」

 そんな雇い方があるとは、知らなかった。だが返答を聞いたミトリは不思議そうに見てくる。

「え、知らないんですか?私は今、マトイさんからあなた付きの治療科として雇われてますよ」

「‥‥知らなかった。マトイにも、いつも世話して貰ってるのか‥‥。治療科を雇うと、幾らぐらい掛かるんだ?」

「治療科の生徒1人でしたら、月々2〜30万です。だけど大抵は一週間の往診とかその程度ですね。一年や二年生、それと特別な技術を持った生徒ならまた変わります。これは他の科と変わらないかと」

「リアルな数字だ。ミトリは幾ら支払われてる?」

「そういう事聞いちゃ、ダメですよ」

 額を指で押してきた。これは、まずい―――今のミトリは可愛かった。

「マトイさんから言われたんです。私は、やはり一般のオーダーですから、あなたの側にいるといつか不都合な事が起こるって」

 具体的には言わなかったが、想定しているのはだとわかった。

「でも、、としてなら側にいても不思議に思われないって。外聞的にも、違和感が無いって」

「‥‥いいのか?一昨日みたいな事が、また起こるぞ」

 断言できる。あの女はまた襲ってくる。またあの夢に囚われる。

「なら、尚更私はあなたの側にいます。また怪我をしてもいいように」

「ミトリ‥‥?」

 急に耳を撫でてきた。狼狽えながら呼んだミトリは、耳を裏返してくる。

「気づきました?ここにも怪我してますよ」

 構わずミトリが耳の下を指で触ってくる。かさぶたが出来てるようで、硬いギザギザしたものを触る音が聞こえる。

「気づかなかった‥‥」

「私とネガイで見つけた傷です。やっぱり、気付いてませんでしたね。わかりましたか?あなたは傷だらけです。腕の傷も、もう忘れ始めてましたね?」

「忘れてなんか」

「もう一度言います。あなたは自分の傷に気付いてない。私が好きなら、自分の傷は把握して下さい。いいですね?」

「‥‥わかった」

「自己管理できない男性はカッコ良くないですよ。もっと私を好きにならせて下さい」

 昔から思っていたが、ミトリはいじめっ子だ。こういう理詰めで俺を責めてくる時とかは、いつも笑顔で、それはそれは楽しそうに心臓を鷲掴んで苦しめてくる。

「隣いいですか?」

「マトイか。いいぞ」

「失礼しますね」

 後ろからマトイの手が目を隠してきた―――内緒の話なのか、耳元に口を近づけてくるのが鼻息でわかる。

「あなたを襲った青い目の女性についてです」

「名前以外にも、何かわかったんですか?」

「ミトリさんには教えていましたけど、もう一度話しておきます。黒いコートに無表情の白い仮面に金髪、魔に連なる存在。だとしら、行き着く先は、使です」

「俺の名前とタメ張るぐらいダサい」

「冗談を言ってる場合じゃないですよ。イノリさんからの助力で潜入学科と情報部の資料を調べて、やっと確信を持てたんですから」

 目から手を離した瞬間、マトイはふわりとミトリとは逆の方の足に座った。

「‥‥隣って、ミトリに聞いてのか」

 マトイの肉弾戦は2回しか見た事を無かったが、ソファーどころか、俺の肉体すらこうもあっさりと跳び越えられるとは、想像していなかった。

「それで、その流星の使徒って、どんな組織なんですか?テロリストなんですよね?」

「いいえ。ただ、確かに今回の行動はテロ以外の何者でもないです。厳重に抗議しました」

 2人して特に何も感慨を持たないのか、当然のように話している。

「法務科から抗議って事は、公的な組織なのか?」

「オーダーアメリカ支部の一組織です」

 それは、遠路遥々ご苦労な事だ―――決して無視できない地名こそ並んだが、

「なんで、そんな遠くの組織が‥‥、しかも本当に公的な組織がなんで俺に?」

「それは不明です。抗議文の返事も来ませんし、完全に舐められてますよ。‥‥許し難い‥‥」

 恨み言を吐き捨てたマトイは、かぶりを振ってから問いかけてきた。

「あなたはどう思いますか?」

「‥‥俺の目か、血だと思う。総帥がお呼びって言ってたけど、アイツは部下の中でも権力を与えられていない方だ。どうしようもない程、強い感じじゃなかった。‥‥負けたけど」

 ああ、負けた。だけど、次は無い。あの目は俺の物にする。

「‥‥いや、違う」

「違う?」

 マトイが聞き返してきた。

「アイツは目が目的だ。俺の血の回収なら、とっくにできた筈だ」

 腕をまくり上げる。巻いてある包帯の下には、あの袖から飛び出した二本のナイフで裂かれた傷があった。

「この傷はナイフで裂かれた。いい切れ味だったよ―――なのに、拾わなかった」

「‥‥ナイフは回収しなかった。はどうしてあそこに落ちていたのですか?」

「俺に向かって投げてきたから、撃ち落としたんだけど、本当に消耗品みたいな扱いだった。ナイフだけだったよな?」

 もう一方の膝の上にいるミトリに聞くと、頷いて返してくれた。

「はい、あなたが血を流したのはあのナイフだけです。回収する素振りも見せませんでした」

 言いながら、腕の傷を撫でてくる。もう包帯が巻いてあるので、何も見えないが。

「必要があれば、傷を確認させてもらいます」

「ああ、わかった」

 ナイフの刃渡りと、傷の長さが正しいかの測定が必要だからだ。

「ミトリさんから聞きましたが、あなたにもお聞きします。まずは容姿から」

 そう聞いて、マトイはスマホを出して録音を始めた。これも抗議文を送る為の立派な証拠になるのだろう。

「少し待ってくれ‥‥。まずは、黒いコート、それと黒いボトムス、多分皮だった。それと杖」

 公園での姿は、こんな感じだった。歴とした証拠なので確実な部分を全て言う。

「こちらに、て言って手を伸ばされたんだけど、銀色の鎖が中指の指輪を使って、手に巻きついて見えた」

 目に焼きついている、言葉がスラスラと出てくる。

「背格好は、俺と同じぐらいに見えたけど、ブーツを履いてから、正確にはわからない。あ、あと仮面だ。無表情の」

「‥‥ミトリさんとほぼ一致しますね。これは使えそうです」

 期待に応えられたみたいだ。

「容姿はこんな所。目が青いとか、髪が金色だったとかも加えてな。次に武器について話したい―――」

 腕を組んで、頭の中を整理して、武器の表面の傷まで思い出す。

「まずは杖。仕込みかと思ったけど、結局抜かなかった」

 本当に訳ではないから、抜かなかった。そんな気がする。

「次に二本のナイフ、暗かったから色はわからないけど、多分無色だ。ミトリはどう見えた?」

「私も色は見えませんでした。だけど、暗い中でも光をよく反射してました」

 マトイが顎に手をつけて、何か思案している。恐らくは同じ魔に連なる存在だから思い当たる事があるのだろう。

「あと―――最後に剣‥‥。あれ、包帯だったのか?白い細い布が巻きついてた」

「‥‥剣ですか。長さは?」

「目算だけど、80cmはあった。ただ、見た目以上に軽いみたいで、軽々振ってた」

 女性差別をする気は無いが、正直見た目通りの重さなら、女性の腕ではあそこまで振り回せない。それこそ、ネガイの持っているようなレイピアが似合いそうな見た目だった。あれも力で編んだ物なのだろう。

「刀身は?何か、模様は?」

 模様?—――そう言えば、包帯の下に、

「‥‥あった。でも、あれは模様と言うよりも‥‥」

「文字、ですね?」

「‥‥多分、そう見えた。でも、見覚えが―――あれは‥‥」

 まるで同じ物を持っている、しかも、あなたも知っている、そう言わんばかりの。

「ミトリ、悪いけど」

「いいえ。ここにいます」

 何があろうと決して引かない強情なミトリもミトリなのだから、自分には抗う術がない。マトイも、そんな俺に薄く笑って背中からあの刃を引き出した。

「これですね?」

 見せてくれたのは、あの黒い刃だった。まじまじと見た事は無いが、やはり黒い刀身を持った短刀に見える—――そして、まさに文字と言うに相応しい模様、刀身に点字とアラベスクを混ぜたような文字が刻んであり、あの剣と重なる部分がある。

「あの剣と同じ文字なのか?」

「宗派によって、見た目も異なりますから、完全な一致は無いかと。でも、同じ物と思って間違いではないです」

 しばらく持って見ていたら、意外とミトリも興味があるのか、無言で触れてくる。

 試しにミトリに渡してみると、刀身に顔を反射させて遊び始めた。

「それは、私達の言葉でゴーレムと言います」

「‥‥これの銘か?」

「いいえ、そういったある特定の目的を文字として刻み、意味を持たせた物をゴーレムと呼びます」

 ゴーレムか―――ヒトガタの自動記述には該当しない。別の言い方があるのかもしれないが、類似品は見当たらない。もしくは、知ってはいけない知識にカテゴライズされている可能性があった。

「ネガイのもか?」

「秘密です」

 人差し指を口元に置いて、片目を閉じてきた。‥‥可愛い。

「魔に連なる存在なら、皆んな持ってる物なのか?」

「ゴーレムは貴重な物です。持っている人は限られます。ただし、人によってゴーレムの機能は多岐に渡ります。例えば、それは高い技術を持った方に作り出してもらった物なので、それと同ランクの物を持っている人はそうそういません」

 これこそ、さっきのパソコンと同じだ。高い物もあれば、手頃な物もある。人によって、求める能力が違うのは当然だ。

「その目を通して見た剣はどうでしたか?」

 ミトリが返した短刀を受け取ったマトイは、感想を聞きながら背中に戻した。

「‥‥いい物だった」

 あの輝きに心を惹かれた。月光に勝るとも劣らない、手招きをするような刃だった。

「私のゴーレムと比べてどうでしたか?」

「‥‥比べられる物じゃない。集められるなら、どっちも集めたい」

「だとしたら、その剣はゴーレムの中でも一級品と言えます。どんな意味が刻んでるあるのかはわかりませんが、傷を受けたのが杖で良かったと言えるかもしれません」

「‥‥やっぱり、そうか」

「はい。主武装でもない杖でここまでの傷を受けてしまった。だとしたら、剣のゴーレムで傷を受けてしまったら、数日寝込むだけでは済まなかったかったでしょうね。今回は私達がどうにかしますから、あなたは休んでいて下さい」

 想像もしていなかったマトイの言葉に、声が漏れてしまった。

「だけど‥‥俺の役目は生き残る事って」

「身を隠すのも、生きる上で重要です。それに法務科としても私としても、外部組織がこの街で好き勝手に動き回るのは我慢なりません。既に、これはあなた1人の問題では無く、国際的な事件に発展しました」

 マトイが毅然とした態度で、言い聞かせてきた。

 俺自身も、わかっている。マトイは正しい事を言ってると。

 オーダーの皮を被り人身を誘拐しようとした。その上、支部もを黙認している。オーダーの立場を使った犯罪は、どこの国でも重罪となる。

「私はこれから一度、法務科に戻ります。大人しくして下さいね」

「‥‥わかった。しばらく静かにしとくよ」

 僅かながらの不満があるが、マトイは俺の為に言ってくれてる。なら、それに従わないといけない。マトイを怒らせたくない。

「寝るか‥‥。少し疲れた」

 待ってました、と言った感じに2人が膝から降りる。2人して何かしらの打ち合わせをしてたようだ。

「1人で寝れますか?」

 自然に聞いてきた。

「‥‥寝かせて」

 マトイの視線を受けながら手を引いて、寝室に入る。

「何か話か?」

「流星の使徒についてです。まずは、横になって」

 調子に乗って、少し歩き過ぎた。それどころか無理してミトリを抱きしめ過ぎたしわ寄せか、もう腕が上がらなくなっていた。

「前を開けますね」

 ベットに横になった時、前を開けて身体の前半分を覆う、透明なシートを撫でてくる。

「傷はどうですか?」

「‥‥あまり順調では無いみたいですね。でも、一時よりは‥‥」

 扉を開けて、ネガイが入ってくる。

「‥‥あの方は毒気って、言ってた。俺のヒトガタの血が関係してるらしい」

 2人が傷に手を当てて、熱を注いでくる。

「毒気‥‥。‥‥流星の使徒について、説明します。彼らはのが目的の一族です」

「一族?」

「血族、と言っても間違い無いですね」

 マトイが傷を撫でながら、答えてくれる。

「‥‥奴らの直通番号を教えてくれ。俺は人間じゃないって、言うから」

「彼らにとっては、些細な問題です。前からそうでした」

「‥‥知ってるのか?」

 ネガイが会話に入ってきた。

「言いましたよね。私は処刑人の血筋だって。あの時代錯誤な武器とコートは昔、見た事があります」

「でも、ネガイのご両親は人ならざる者をって」

「人外に落ちかけた者も、対象でしたから。彼らとは、そういう意味では同業者と言えなくもないですね」

 ネガイのご両親が存命なら、挨拶に行く前に、殺しに来たかもしれない。

「彼らの武器は、人だった者を狩るのが目的です」

「奴らもオーダーなんだろう。なのに、殺すのか?」

「現代になり、オーダーの傘下になった事で、殺しは禁止になりました。狩るとは逮捕の意味でもあると思って下さい」

「‥‥逮捕以外の意味もあるのか」

「彼らは生きてさえいればいいと言って、何人もの人間を本当に動物のように、狩っていたらしいです」

 動物のようにか。人道に反する武器や罠を使って、皮や肉、それに骨も全部、奪っていたのかもしれない。

「そんな危険な連中、なんで野放しなんだよ。アメリカ支部だろ?全オーダー最強の人間が集まる場所なのに」

「彼らのやっている事をオーダーも再三止めるように通達したそうですが、決裂。これは闇に葬られた事実です、オーダーと流星の使徒間で戦争があったそうです。そこで、多くの流星の使徒たる一族は逮捕され、裁判では殺人、死体損壊、誘拐に違法薬物、そして虐待。それらの罪で、立件され、アメリカの慣習法に従い大半が懲役100年の刑を下されました。そして残った流星の使徒は完全にオーダーに下った」

「‥‥それの生き残りがあいつか」

 哀れとは思わない。事実として、俺はあいつの所為で死にかけた。

「今の生き残りは、オーダーの一員として、技術を提供してるそうです。人間は襲わず、ただ静かに暮らしながら」

「‥‥その生き残りが‥‥、なんの為に‥‥」

 やっと、眠くなってきた。

 ネガイとマトイの2人の手を受けて、ここまで起きてられるのは傷のせいだ。眠くなるにつれて、鋭い痛みが増している――――。

「‥‥不確定な事は言えませんが、もしあの場で連れて行かれたら、あなたも獲物になっていたかもしれません」

「‥‥俺を殺しても別に構わなかった訳か」

 あの不意打ちにも合点がいった。もしあそこで俺を殺していたら、あいつはどうする気だったのかと、謎だった。

「なんで、今更‥‥。今度こそオーダーに滅ぼされかねないことを、なんでだ‥‥?」

「血が騒いだ‥‥」

 ネガイが呟いた。

「‥‥厄介な血だ。話した事あるのか?」

「見ての通り、私も普通の人間ではありません。そんな私と母を狙ってきた彼らの目を覚えています。とても正気ではありませんでした」

「無事だったのか‥‥?」

「母と父が捻り潰しました」

「‥‥そうか」

「11年前?」

 マトイが思い出したように、聞いた。

「はい。大体それぐらい前でした」

「それで‥‥。11年前を境に彼らの日本への侵入記録は残ってませんでしたが、そういう事でしたか‥‥」

 その当時の流星の使徒の力がどの程度か知らないが、ネガイのご両親に勝てないと判断して逃げ去ったのか。

「‥‥俺はこれからどうするのが、2人としては1番良い?」

 マトイが呆然としてしまったので、なんとか眠りかけた脳を使って、語りかける。

「あの武器はどういった物なのか、今の私達には理解できません。ですが、確かな事は、あなたと流星の使徒を、もう会わせるような事態は避けなければなりません」

「同意見です。あの武器は、あまりに異常—――直接の戦闘は避けて下さい」

 2人が重ねて同意して来た。当然と言えば当然だった、俺自身、先の丸まった杖で撫でられただけでこの様だ。生き残る事を考えるのなら、隠れておくべきだ。

 それに毎回、出張って怪我をしては2人の邪魔になる。

「‥‥2人に任せる。‥‥もう、寝ていいか?」

 痛みがだいぶ減ってきた‥‥。このまま目を閉じれば、ゆっくりと眠れるだろう‥‥。

「はい、眠って下さい‥‥」

 ネガイが軽く微笑んで、目に手を置いてくれる。

「何かあったら、呼んで下さい。きっと、その傷は夜中に‥‥」

 ああ、知っている。傷や病気は、夜になるにつれて己が力を発揮する――――俺の目も、そうだった。



 痛みで目が覚めるのは、よくある事だった。

 昔からそうだ。風邪をひいた時は、頭痛で。肝臓にダメージを受けた時は、腹痛で。

 《《今日は毒だった)》。あの方が言った毒気というのは的確な表現だったのか、それとも、本当に毒だったのだろうか――――。

 弾丸に使われる鉛は、それだけでは人体に有害だ。戦場でも、不必要な苦痛を避けるべき、という人道的な観点から銅や真鍮などで囲まれて銃に込められる。

 別になんて理由だけではない。被せた方が貫通力が上がる、という現実的な効果の方を優先した結果、普及している理由でもある。

 けれど―――あの杖は人外的な観点など、露程にも思っていない。むしろ毒を被せて、対象の四肢を奪う事を目的としている。

 本当にに来た。

「見えない」

 布団の感触も冷房の風も感じる。だから自分は起きているとわかる。起きていてよかった、そう思ってしまう。夢でも、これが続くと。舌でも噛んでたかもしれない。

 もう誰の声もしない。きっと皆んな帰った。あの騒ぎが恋しくなるとは思わなかった。

「‥‥誰も呼べない」

 まさかマトイも、ここまで完全に目も見えなくなるとは思わなかったのだろう。いつも起きたら枕元に置いてあるスマホが見えない。手探りで触れてみるが、通信を行う画面までとても辿りつけない。仕方ない、そう思ってスマホを投げながら起き上がる。

「‥‥水‥‥」

 喉が渇いた。冷房では物足りない。

 服を脱ぎながら、無人のリビングに入る。

 足元にぶつかる椅子を蹴り飛ばし、なぎ倒す。

 今は、ただただ、水を浴びたい。

 ―――あの女が泣くかもしれないが、今はこの薄い皮すら邪魔だ。

 ―――足が覚えている床を歩く。少し歩いただけで、広い空間から狭い道を歩いていた。

 ―――床の質感が変わったが、これでいいと記憶が言っている。

 ―――女達の匂いが溜まっている場所を越えて、水を貯める場所に入る。

「‥‥どうやって。水?」

 なんで、ここで水が出ると思った?冷たい壁を撫でて突起部分に手が当たる。

「ここは‥‥どこだ‥‥?」

 頭が重い、頭に毒が回っている。脳が痺れている。

 これが目的だった筈だ。なのに今俺はどうすればいいのか、思い出せない。

 この金属をどうすればいい?

「こうです」

 後ろからこめかみに何かが触れた。

「誰だ!?」

 振り返り様に金属を握っていた手を振るう。予想通り、首に触れた。

 細い首だ。楽に折れる。

「こうでいいんです‥‥」

 細い首は、俺の首を抱きかかえるように腕を伸ばしてくる。

「殺す気か?」

「水を‥‥っ、あなたに‥‥」

 首を握り潰すつもりで片手に力を入れる。だんだんと首が細くなっていくのがわかる。

 息も許さない。もう首には血管の脈動しかしかない。

 なのに、細い首は俺に両手を伸ばすのがわかる―――違う。頭の後ろに手を、

「冷た!?」

 急に後ろから、水がかけられた。

「どこだ!?なんだ!!」

 今どこにいる!?なんで、水が!?

「落ち着いて下さい‥‥。ここは、お風呂です‥‥」

「ミトリ?なんで、風呂に‥‥。首‥‥?」

 見えない目は使わず、感触だけで確かめる。首だった。それがわかった時、掴んでいた手から力が抜けていくのがわかる。首から手を離し、ミトリよりも早くしゃがみ倒れてくる身体を抱きかかえる。

「ミトリ?‥‥」

 ミトリが腕の中で、何度も咳をしている。

「落ち着いて下さい‥‥。もう大丈夫ですから」

 咳が止まったミトリは水を受けながら、顔に手を伸ばしてきた。

「見えますか?」

「見えない。ミトリだよな?」

「はい。もう熱くないですか?」

 —――ああ、思い出した。

 俺は、水を浴びたくて―――ここに、それで――後ろから―――っ!

「ごめん‥‥ごめん――――――なんで、俺は――――――」

「いいんです。良かった、戻ってくれて‥‥」

 水を浴びたままミトリを抱き締めて、鼓動を感じ取る。

「良かった‥‥息も、心臓も動いてる‥‥」

 背中に手が回ってくる。ミトリの手だ、この手に何度も、治療してもらった手だ。

「もう、剥いだんですか?ダメですよ」

 背中のタイヤ痕を撫でてくれる。薄くなった傷を慰撫してくれる。

「――――――平気です。私は、平気ですから、落ち着いて」

「また‥‥。俺は、またやった‥‥。ミトリに―――」

「謝りたい?」

 背中から移動した手が、ずぶ濡れの頭を撫でてくる。

「‥‥謝っていいのか。こんな俺が‥‥」

 平衡感覚が狂ってきた。今、座っているのか、それとも立っているのか、寝転んでいるのか、何もわからない。頭が回っている、ミトリしか感じない。

 この熱はミトリだ。この手はミトリだ。

「あなたはやっぱり、人じゃない‥‥」

「‥‥ああ、そうだ。俺は、やっぱり人じゃないんだ」

 うるさい筈のシャワーの音が、一枚壁を挟んで聴こえてくる。ミトリの声が、耳に宿る。

「俺、どうすればいい‥‥」

 人になんかなりたくない。でも、人だったら、ミトリを傷付けることも無かった。

 それどころか、あの襲撃だって無かった筈だ。

「どうすれば、ミトリを傷付けないで済む‥‥。俺は―――――消えた方が」

 髪を撫でていたミトリの腕が首に囲み、力が入る。そう感じた時には口が塞がれていた。

「本気で怒りますよ!?ふざけないで!!」

 口を外した時、ミトリが怒鳴りながら口に噛みついた。

「どうですか!?痛い!?」

 外す瞬間に、唇を噛み切られた。

「謝りませんよ!あなたが悪いんですから!!いいですね!?離して!」

 突き飛ばされた。風呂の壁のタイルに背中をぶつけ、床に転がる。

「消えた方が?本気で言ってるんですか!?答えなさい!!」

 傷を足で踏みつけて、床に縫い止められる。身動きどころか息すら満足に出来ない。

「消えたいなら、ここでしてあげます!!顔を上げて!!」

 顔を上げた瞬間、眉間に冷たい鉄が突きつけられる。

「なんの為に、私があなたの世話をしてる思っているんですか!?」

 頭蓋骨を突き破るように、銃口を押し付けてくる。

「さぁ、答えて!!」

「‥‥俺を、復帰させる為‥‥」

「そうです!!それと、あなたが大切だから!!」

 鼓膜が割れそうだった。狭い浴室でのミトリの叫び声が、耳をつんざく。

「でも、俺は‥‥」

「何度、私に恥をかかせれば気が済むんですか!?」

「恥‥‥?」

「もう何度も言ってますが、私もオーダーです!!自分の身は自分で守るつもりです!!」

「でも、あの時ミトリを」

「そうです!あなたが守ってくれなかったら、私はここにいません!!ベットで寝ているのは私の方でした!!」

 身体の傷など構わずに、ミトリは足で踏みつけてくる。

「しかも、技術ではイノリさんに!知識ではマトイさんに!それにあなたが頼ったのはネガイでした!!私を愛してるって言ったのは嘘ですか!?」

「ミトリっ‥‥、苦しい‥‥」

 傷焼けるように痛い、そう訴えかけても―――ミトリは足を外してくれない。

「私も苦しかったんです!!治療科で教えられるのは治療だけじゃありません!!戦場で荷物にならないこと!これもまず最初に習う事です!!なんの為に銃を持ってると思ってるんですか!?患者に向ける為じゃないんですよ!?」

 耳も身体にも、痛みが走っていく。しかも床の水が更に体温を奪っていく。

「何度私を困らせればわかるんですか!?」

「‥‥ごめん」

「それさえ言えば済むと思ってるんですか!?」

 数秒前までの獣性がなりを潜めていくのがわかる―――違う、自分よりも強い物に威嚇されて、身体が動かない。

「私よりもあなたの事情を知っているのは!!技を持ってるのは!!薬を持っているのは!!親しく話せるのは幼馴染の!そう自分を納得させて、あなたを看病してた!!なのに、消えたい‥‥?私を馬鹿にしてるんですか!?」

 ここ数日の溜まりに溜まった怒りが爆発させてしまった―――全部、俺の所為だ。

「はぁ‥‥はぁ‥‥はぁ‥‥。‥‥私が死神だって、教えても、側にいてくれるって、言ったじゃないですか。愛してくれるって、言ったじゃないですか‥‥。‥‥私を、1人にする気ですか‥‥」

「‥‥違う‥‥」

 今のは、違う‥‥。

 ミトリの足を手で退かさせて、立ち上がる。

「ミトリを、1人にする気なんて、なかった‥‥」

 壁に手をついて、見えない目を向ける。

「じゃあ、どんな意味で?」

 なおも、眉間に銃口を突き付けてくるミトリに対峙する。

「俺は、死ぬ気なんて無かったんだ‥‥。ミトリの前から、消えるべきかって、聞きたかった‥‥」

「それと、死ぬのと、どう違うんですか?」

 近寄る俺に、ミトリはなおも眉間に向けている銃口を使って、突き放してくる。

「ミトリを守りたかった」

「姿も見せないでどうやって?」

「俺が消えれば、ミトリは傷つかないで済むって‥‥」

「首の事ですか?それとも、あの夜の事ですか?」

「‥‥それに、俺が血塗れだった時も‥‥」

 あの時のミトリは、苦しそうだった。それに、ミトリは言っていた。あんな姿は、違うって―――――。

「‥‥覚えてるんですね」

「ああ‥‥」

 向けていた銃を下ろした。もうどちらもずぶ濡れだ。構わずに抱きしめる。

「‥‥俺は、どうすれば良かったんだ」

 誰かの側にいればいるだけで誰かを傷付ける。いつもそうだ。ネガイにマトイ、会う人会う人、皆んなを。それがそう問われると、。なぜならば、皆んな――――総じて自己の為、俺を消費したいから近付いてくる。ならば、求めた代償を与えるのは、不思議な事ではない筈だ。

 けれど、ミトリと話し始めたのはただの偶然だ。ミトリから話しかけて来た訳じゃない。でも、それからもミトリは話しかけてくれた。

「‥‥傍にいたかった。でも、俺は」

「ヒトガタですか?」

「ミトリが死神なら、俺は疫病神なんだ‥‥。どこに行っても、皆んな傷付いていく‥‥やっと見つけた居場所だったのに‥‥。やっと、俺を褒めてくれる人に出会えたのに、俺はそんな人を傷付けてるんだ‥‥」

「‥‥私がつらそうに見えましたか?」

「苦しそうに見えた‥‥」

「じゃ、なんで、そんな私があなたの側にいるんですか?」

「‥‥俺が好きだから。でも、俺は、‥‥ミトリを利用してる‥‥。好きだって言ってくれてる人を、苦しめてる‥‥」

 結局こうだ。俺は、ミトリが苦しんでるから消えたかった訳じゃない。苦しんでいるミトリを見たくなかったから、俺は消えたかった。

「全部、自分の為なんだ‥‥」

「‥‥傷が冷えますよ。お風呂に入りませんか?」



「お湯、すごい流れちゃいますね。ふたりで入ってるんだから、当然ですよね」

 湯船から三分の一近くの湯が流れてしまう。

「ネガイと入る時もこうですか?」

「‥‥」

「もう皆んな、知ってますよ。隠せてるつもりだったんですか?」

 狭い浴槽に2人で重なりできる限り足を伸ばす。

 ミトリの背中に触れている傷から、痛みなど感じない。

 柔らかくて、温かくて、滑らかで、それに加えて洗った髪から漂うシャンプーとリンスの香りも相まって、頭がクラクラしてくる。ミトリで幻覚を感じつつあった。

「‥‥あ、ダメですよ。寝ないで下さいね。まだ言いたい事があるので」

 腹と胸の上で転がり、腹這いとなったミトリが睨んでくる。

「‥‥前、隠してくれ‥‥」

 髪を洗う時は身体にタオルを巻いていたのに、湯船に入る瞬間に投げ捨てていた。

 今は、一矢纏わぬほのかに赤い肌をミトリは晒していた。

「その、ミトリ‥‥」

「じゃあ、これでどうですか?」

 背中に手を回してきた。力を入れて、身体を押し付けてくる。

 確かに何も見えなくなったが、だけど、ミトリの見えない部位が押し付けられ、血を感じ始めた敏感な部位が下腹部が触れているというのに、怒りもしないで、

「もう、そんなに私が好きですか?ネガイの気持ちがわかりました。呆れるって、こんな気分なんですね」

 溜息と共に、耳を触られた―――正気に戻った時、自分が何をしていたか、気付いた。

「そんなに吸われたら、耳、取れちゃいます」

 口の中に薄い軟骨があった。ミトリの髪に鼻を押し付けて、耳を口に含んでいた。

「続きは後で、いいですね?」

「‥‥もう一度」

「はぁー‥‥。なら、口を」

 耳を食べながらのわがままが伝わった。口から耳を引き抜いたミトリは、口どころか顔中、同じように首すら吸ってくる。勿論、耳にも――――。

「落ち着きました?」

「‥‥やっと」

「ふふ、よろしい」

 疲れ切ってしまったお互いが、お互いの肩に顔を乗せて休息を始める。

 ミトリの身体は湯よりも軽いのか、湯から浮き上がった臀部と背中が白く眩しい。

「‥‥お尻、好きですか?」

 一気に唾液が溢れてくる。

「‥‥そこじゃあ、子供は作れませんよ」

 目と下半身に血が集まっていくのがわかる。でも、

「‥‥今は、したくない‥‥」

 天井を眺めて、大きく深呼吸をする。

「‥‥話したい気分なんだ。付き合ってくれるか?」

「‥‥意気地なし。でも、いいですよ」

 肩の上から耳元で囁き、許可を伝えてくる。ミトリの髪が首をくすぐり、身震いしてしまった瞬間、また笑われる。肩の腕で頭を横にしたミトリが、楽しむように耳に息を吹きかけてくる。

「—―――ミトリは、俺を好きでいてくれるか?」

「約束します。あなたは?」

「約束しただろう」

 ミトリがもう一度回って、後頭部を見せてくれる。やはりミトリは人魚のようだった、自由自在に身体をお湯に沈めている。

 肩を抱くように腕を回した時、頭だけで振り返って、笑いかけてくれた。

 堪らないほど―――ミトリが欲しくなってしまった。に抱きしめて身体の柔らかさを感じ取り、甘い香りに酔いしれる。

「‥‥死神について、聞いていいか?」

 耳元で聞く。ミトリは、腕を伸ばして耳を撫でてくる。

「何が聞きたいですか?」

「‥‥死神は、誰彼構わず、襲うのか?」

「‥‥そうですね。私の家族でも、平気で連れて行こうとしていました」

 撫でている耳への手付きが変わった。指と指で耳を挟んで、擦ってくる。水気を含んだ指でから、誰かに口で愛でられている気分になってくる。

「‥‥気持ちいいですか?」

 なんの前触れもなく腿を撫でてくる。血が下半身に尚更集まっていくのがわかる。

「私には兄と姉がいました。仲が良くて、小学校に入ってからも、2人が私の面倒を見てくれてました、今も感謝してます」

 腿を撫でている手が、に触れそうになった―――手を掴んで、ミトリの身体の前に運び、両手でミトリの手をまとめ上げる。

「‥‥今はダメだ」

「‥‥はい、そうですね」

 その代わりなのか、ミトリは自分の背中を更に押し付けてくる。

「私の家は、両親とも忙しくて、あまり家にいませんでした。だから、私達兄弟は家政婦さんがいない日は3人で頑張って、料理に洗濯、掃除をしていました。‥‥2人とも、自分の勉強が忙しいのに、私の事を毎日気にしてくれました」

「兄弟って、そういうものなんじゃないのか?」

「かもしれません。でも、それでも私にとって、2人は大切な家族でした。勿論、両親もです」

 寄りかかるように頭を肩に置いてくる。

「家族で旅行に行って、久しぶりに皆んなでご飯を食べて、‥‥そんな、今思うと普通の事が、私には嬉しかった‥‥」

 まぶたをつぶって朗らかに微笑むミトリの思い出が、自分にも想像できた。それを振り払うように、一呼吸後には露と消す。最後には、誰もいない家で1人で食事を取っていたのだから。

「だから、私、今がすごく楽しいです。皆んなと食事が出来て。あなたは、どうですか?」

「俺もだ‥‥。俺も、楽しいよ。‥‥1人は、怖いから」

「はい‥‥私もです。1人は、嫌ですね‥‥」

 ミトリを抱きしめて、ひとりではないと教える。ミトリも応えてくれ、片腕を上げて、頭を引き寄せてくる。

「でも、急にですよ。最初に兄が倒れました。次に姉です。両親は最初、流行病では?と言って、2人を隔離したんです。私は、尚更病院の患者さんの元に遊びに行きました。‥‥そこで、お前は死神だって言われて」

 俺の腕を巻き込んで、ミトリは両足を抱えてしまった。

「それに―――私と会わないで、治療をしていた2人はすぐに良くなりました。あれだけ白い顔をしていたのに‥‥。私、嬉しかったんです。やっとまた会えるって、また遊んでくれるって、そう思って、両親の言いつけを破って、会いに行ったんです。‥‥でもそこで‥‥‥‥死んで欲しかった訳じゃないのに‥‥。また、殺しにきたのかって‥‥」

 再度、ミトリは身体を返して、顔を向けて、肩に顔を置いてくる。

「もう兄弟じゃないですけど、私は今も、2人に感謝しています」

 本当に、大切な家族だった。ミトリは必死にそう訴えかけてくる。

 やはり、ミトリは優しかった。勘当された理由に、2人の兄弟の事情があるのに、元気になってくれて、本心で嬉しいと思っている。ミトリの体質は、確かに死神かもしれない。でも、彼女の心は決して死神なんかではない、そう確信できる。

 ――――なのに、人間はそれが理解できない。ミトリの慈愛を理解できないなんて、人間はやはり愚かだ。嫌いだ。

「もうわかったから」

 この優しい死神を、1人にする訳にはいかない。

「‥‥私だって、離れたくて離れた訳じゃないんです」

「もういいんだ。俺が側にいるから」

「‥‥私は死神です。こうしている今も、あなたの命を蝕んでるかもしれないんですよ。‥‥また、色を奪いますよ」

「好きにしろ。俺が、ミトリの全てを奪うから‥‥」

「‥‥全てですか?」

「ああ、全てだ。ミトリの最初も最後も、全部、俺の物にするから。‥‥俺のミトリに、誰も触れさせないから」

 もう確信した―――あの時から、ミトリを、この天使を目で追っていた。振り向いて欲しかった。毎日話かけてくれるミトリに憧れていた。

「私を、捨てないでくれますか?」

「‥‥捨てない。誰にも渡さない。ミトリは、この化け物の物だ」

「‥‥私、囚われたんですね。怖くて、甘えん坊の化け物に。‥‥誰も、こんな化け物の物に触れようだなんて、思わないですね」

 頬に、熱い物が滴ってくる。

 ゲルダの涙は、カイの心に刺さった鏡の欠片を溶かした。

 だけど、それはカイが元は人間だったからだ。俺は、元から人間じゃない。もう、あの時の俺には戻らない。

 今はただ、ミトリの化け物になろう。

「言いたかった事がある」

「‥‥なんですか?」

「初恋はミトリだった‥‥」

 胸に仕舞い込んでいた激情を打ち明けた時、今度こそ、鼓膜が破れそうだった。

 両肩に手を置いて、仰反るように顔を見下ろしてくる。人魚に喰われる直前にも見えるが、その実―――ミトリは狙撃でもされたような、錯乱を起こしていた。

「だって、だって、ネガイが好きだって!?」

「‥‥もう少し静かに‥‥傷に響く‥‥」

「あ、はい‥‥。ネガイが初恋だったんじゃ‥‥?」

「‥‥知らなかったんだな‥‥。ミトリとメトロノームを探した夜に、好きになった‥‥。本心だ‥‥、嘘じゃない」

 あそこまで、世話をしてくれて、しかも何度も笑顔を向けてくれた。好きにならない方がどうかしてる。

 今ならはっきりとわかる。俺は、あの夜にミトリに恋をした。

 俺も、ミトリの笑顔に膝を折った男達の一員だった。

「初恋って‥‥、その、最初の好きですか?」

「‥‥人間の初恋とは、少し違うかもな。初めて、別個体に興味を持ったって事なのかもしれない。ああ、でも、やっぱり初恋だ。‥‥ミトリと、こうなりたかったから‥‥」

 許可も取らずにミトリの背中を撫でる。ネガイよりも肩幅があるのに、柔らかくて、触ってみると張り付くような肌をしている。

 初めてミトリの首を締めた時、初めて人間を好きになっていいとわかった。ネガイやマトイに、この感情を向ける事への罪悪感も恐怖も消えていったのを覚えている。

「人間を好きになっていいって、好きになってもいいんだって思ったのは、ミトリのお陰だ。‥‥人間の初恋は、ミトリだ」

「初恋‥‥。その、そうですか‥‥。私が、そうだったんですか‥‥」

 混乱させてしまった。何かを呟いているが、眠り始めた頭の所為で何も聞こえない。

「‥‥じゃあ、あの夜、別れた日に?」

「‥‥ああ。中等部の時からずっとミトリを想ってた」

「‥‥そんなに好きだったんですね。気付きませんでした」

「酷い人間だ」

「酷いって‥‥?」

「これだけ、好きだったのに‥‥、全然気づいてくれないで、平気で毎日話しかけるんだ。どれだけ、俺が苦しかったか知ってるか?」

「そ、そ、そ、それは‥‥、すみませんでした‥‥。でも!言ってくれれば!」

「言える訳ないだろう。はっきりと告白して、いつもみたいに振られたら、もうミトリと話せなかったよ」

 その光景を何度も見ていた。ミトリと話していると、横槍をするように男子が入ってミトリを奪っていくが、その数秒後にはミトリは笑顔で俺の元に戻ってくる。

 ミトリに一言二言返された男子は、数日学校に来ない。そんな光景を。

「‥‥もし、もしですよ!!」

「ああ‥‥」

 短め目の髪を振って、ミトリが聞いてくる。

「もし、あなたがネガイよりも先に、私に告白して‥‥。私がOKって言ったら‥‥、私とあなたは‥‥」

「ネガイよりも早く恋人だった‥‥」

「‥‥っ!」

「痛った!?」

 ミトリが急に頭突きを―――頭に振り下ろしてきた。つむじを使っての手慣れた頭突きに、脳が湯揺れて眠気どころか意識すら飛びかけた。

「ど、どうした?滑ったか?」

 頭突きを繰り出したミトリは、顔を他所に向けてしまった。

「ネガイに恋人が出来たのは、嬉しいです。でも、私だって‥‥」

「‥‥悪かった」

「‥‥もし、ネガイと私、2人に同時に会ってたら、どっちを先に好きになってました?」

「もしもの話はあまり現実的では無いから、好みじゃないけど―――ネガイだと思う」

「‥‥理由は?」

「ネガイには一目惚れだったから‥‥」

 あの黄金の目と灰色の髪。

 あれだけの造形美を見せられたのだから、一瞬でネガイの虜になった。

「後でも先でも、私はネガイに負けてたんですね‥‥」

「後でも先でも、俺はミトリを好きになってた。言い切れる」

 身体の端に寄っていたミトリを抱き締めて、中心に移動させる。

「あの日はどっちにしてもミトリと一緒だったとしたら、俺はミトリを好きになってた」

「‥‥ネガイが心にいても?」

「初恋はネガイになってたかもしれない。でも、やっぱり最初に告白したのは、ミトリだ‥‥、」

 湯の所為で口が滑った。咳払いで誤魔化そうと口に空気をため込むが、

「告白‥‥?いつ!?いつ、したんですか!?」

 と、一切の躊躇もなく詰問を振り返りざまにされてしまう。

「‥‥よかった。気付いてなかったんだな‥‥」

 ミトリの頭を胸に引き寄せて、ため息をつく。気付いてなくてよかった、そう心から思える。

「覚えてるか?メトロノームを見つけたって言って、ミトリの手を引いた時」

 だいぶ薄れている記憶だが、それでも、あの廊下から見た月は覚えている。

 使い古しで、文字通りの

「廊下を走った時ですか!?私、聞こえませんでした!?なんて言ったんですか!?」

「月が綺麗だ」

「わかりませんよ!?私、小学校卒業してまだ1ヶ月も経ってなかったんですから!!」

 それはこちらも同じだ。でも、わからなくてよかったと、今は思う。

 一世一代の初恋の初告白が、月と廊下を走る音にかき消されるあの感覚。それに呆然とついてくるミトリ。

 決して、悪い気分じゃなかった。

 だけど、今のミトリは大層ご立腹の様子だ。口を奪いながら、肩や耳を握ったり、引っ張ったりしてくる。

「言いたい事がまた一つ増えました!」

 舌が疲れてきたのか、俺から口を離して、見下ろしてくる。

「あなたは、自分の世界を人に言わなさ過ぎる!!訳もわからずに巻き込まれるこっちの身にもなって下さい!!」

「悪かったよ。でも、ミトリだって病院から逃げる時、なにも言って、」

 病院から逃げる時の事を言おうとしたら、ミトリが凄んでくるので、黙っておく。

「あなたが異質なのは私はもう既に百も承知です!!今更何を言われようと、受け入れてみせます!」

「‥‥俺が、化け物になってもか?」

「それはこっちのセリフです!!」

 口が開けないように、ミトリは1を作った指で口を塞いでくる。

「あなたこそ、どうなんですか!?」

 ミトリの話は、正直言って信じ切れてない部分もある。なぜなら、例えヒトガタでも、そんな力を持った個体は生み出せない。

 ただいるだけで、人を殺す。放射線を発するウランのような身体を持った生物など、いる筈がない。

 ヒトガタであれば、無意味だからだ。ヒトガタはただ主の為に奉仕する。なら、そんな危険なヒトガタに意識を与える筈が無い。危険だからだ。

 人であっても、無意味だ。そんな人間、子を残せない。遺伝の病気を除けば、生物として生きているのなら、誰彼構わずに殺す存在などいない。

「私の死神を信じるとして、あなたはどうしますか?」

「受け入れて、ミトリを好きになる」

「約束だからですか?」

「ミトリだからだ」

 もういい時間になった。傷の痛みを確かめる為にミトリを抱き上げて、湯船から出る。

「話は終わってませんよ!?」

 持ち上げられながら、ミトリは俺の側頭部を太鼓のように叩いてくる。微々たる痛みに笑みながら、ミトリを抱き上げ続けると、

「着替えますから、降ろして下さい。もう‥‥」

 諦めたのか、それともやっと自分の姿に気づいたのか、ミトリは自分の手足で、身体を隠し始めた。

 ミトリを降ろして、ずぶ濡れになった甚平は諦め、寝室にある薄いパジャマを取りに行こうとするが、

「待って!‥‥そのまま行くんですか?待ってて下さい。私が取りに行きますから」

 ミトリが急いで、今更隠すように自分の下着を履きながら言う。

 桃色か―――ミトリのイメージよりも、少しだけ色が濃い。だけど、赤い肌に赤めの下着姿のミトリから、美しさと同時に、に誘われる感情を思い出させる。神経を視界で震わせる魅了の力を感じた。

「‥‥待ってて下さい。ベットでしましょうね」

 下着姿のままのミトリが、動けないでいた耳元でそう呟いた。

「‥‥ごめん。我慢できない」

 ミトリの腕を掴んで、脱衣所のドアを開ける。ミトリが来る時につけたのか、廊下には明かりがついていた。

「見つかったら、どうするんですか?ネガイに言い訳できませんよ?」

 聞いた事のないミトリが発する悪戯っ子な声に、首を振る。

「許してくれる。ミトリとの仲は、もう知られてる。ミトリも言ったんだろう?」

「‥‥知ってますよね。言いました、私も恋人になりましたって‥‥そうですよね?」

 ドアを開ける寸前、部屋の前で問うてきた。

「‥‥そう思ってた」

「‥‥良かった。初めての恋人があなたで―――真っ赤ですね‥‥」

 まじまじと見つめてくる。ミトリの内腿を擦るような仕草に目が焼けていく。目蓋を閉められない。赤く染まりつつある目が、ミトリの所作の全てを知らせてくる。

 冷房の効いていないリビングの風すら涼しく感じる。身体中が熱くて仕方がない。

 それはミトリからもだった。手を握っているからわかる。お互い、どちらもが火傷しそうな熱を帯びている。

「顔を上げてくれ‥‥」

 ミトリが目を見つめ返した。

「俺の初恋が、叶ったよ‥‥」

「‥‥これから、夢の続きですよ。‥‥私が教えますね」

「した事あるのか‥‥?」

「‥‥勉強したことがあったので‥‥」

 いじけるように、下を向いてしまったミトリの顎を持ち上げて、口を濡らす。

 目を閉じたミトリの乾いた口がじっとりと濡れてきた。最後には舌舐めずりをしてしまう。

「‥‥持ってますか?」

 ―――残っているか、確認すらしていなかった。オーダーとは言え、自分は未成年だった。どこも売ってなどくれない。

 しかも、こんな夜にレジに持って行ったら、通報される。

「大丈夫です。私が持ってますから‥‥。秘密にしておいて下さいね」

「‥‥いつも持ってるのか?」

「この部屋にいる時はいつも」

 気恥ずかしそうな表情を浮かべているというのに、腿を撫であげてくる。神経を直接操られているのかと錯覚してしまう位、鳥肌が立つのを感じる。

「私が全部してあげますから。全部、私に下さいね。‥‥ネガイから取っちゃうかもですね」

 足を股に挟んで、下腹部を擦りつけてくる――――淫靡な雰囲気と淫乱な仕草をしたミトリが上げた時、その異常性に気が付いた。

「‥‥ミトリ」

受け入れてあげますから‥‥」

 腕の引かれて、耳元に囁かれる。

「どんな事でも、してあげます。あなたが望むのなら、どこででも、呑み込んであげますから‥‥」

「ああ‥‥」

 幻覚かどうかなんてどうでもいい。今は、一刻でも早く、ミトリに貪られたい。全部奪われたい。

 胸から腹にかけて、傷から血が流れ出しているような疼きを感じる。だけど、今晩、血を流すのは俺じゃない。

 ミトリの身体を抱き寄せて、ドアを静かに突き開ける。

 暗い部屋だ。少し前まで、俺が寝ていたのだ、明かりなんかつけてない――――それに、つけるつもりも無い。

「私が上ですよ。いいですね?」

 ミトリが背後に逃れたとわかった瞬間、ベットに仰向けに倒される――――。吐息を感じる。それによく知っている呼吸だ。

「ミトリ、待って」

「もう止まりませんよ。やっと、私の物にできるんですから。‥‥食べちゃいますね」

 ミトリがベットに足をかけたと同時に、の布団に包まっていた、何かが跳ね上がる。

「何ですか‥‥?今日したいんですか?‥‥いいですよ。傷を負った男性は、子を残したくて‥‥」

 跳ね上がったネガイは、腹に全裸のままで馬乗りになった。寝ぼけているのが、わかる―――後ろにミトリがいるというのに、ネガイは細めた目で舌なめずりをして、

「ネガ」

 身体を押し付けてきたとわかった瞬間、口を塞がれる。あらゆる欲望、五感と意識が灰色の麗人へ向いてしまう。上にいるネガイを抱きしめて――角度を調節した時、

「待って待って待って!?何で!?」

「なんでミトリが‥‥?」

「なんでじゃなくて!?」

 後ろのミトリがネガイの肩を掴んで、腹から引き離そうとするが、ネガイが根を生やしたように離れない。

 素肌同士の所為で、体温をに感じて―――眠気が襲い掛かって、何かを叫んでいるミトリの声すら遠くから聞こえてくる。

「大丈夫ですよ。彼は、一度じゃあ我慢出来ませんから。初めてのミトリでは、一回目では耐えられませんよ。二回目からの方が、ゆっくりと」

「なら、私は二回目を」

 マトイの声が聞こえてきた、目に手を当ててくれる。

「ま、マトイさんまで‥‥」

「言った筈です。するのなら平等に、さっきまで一緒に入っていたのに、それ以上先に」

 叫び声が聞こえるが、それもやはり遠くから聞こえる。

「‥‥もう‥‥寝ていい‥‥?」

「もう‥‥!はい‥‥。どうぞ、眠って下さい‥‥。おやすみ」

 最後にミトリの声が聞こえた。



「ミトリー」

「はーい」

 寝室からミトリを呼ぶ。

 ドアを開けて入って来たミトリは、Yシャツの上にエプロン姿だった。

「どうしましたか?」

「悪いけど、少し手伝ってくれ。腕が上がらない」

 着替えは用意出来たが、自力では着る事も、脱ぐ事も出来なかった。

「‥‥寝起きだと、力が入らなくて‥‥助けてくれ」

 様子を確認したミトリは、手早く寝巻きを脱がせてくれる。

 業務的な手付きだというのに、全身を撫でられるように感じる。人に服を脱がされる感覚に、快感を感じている事に、かぶりを振って眠気を払う。

 ミトリの世話になっているのに、邪な感情を持ってしまう自分に喝を打っていると、ミトリはYシャツやズボン、それにネクタイも巻いていた。

「‥‥ミトリ」

 感情を振り払う前に、すぐ近くにあるミトリの顔を覗いてしまった。

 昨日の事を思い出し、心臓の鼓動に合わせて自分の瞳孔が開いていくのがわかる。

 この血が巡っている感覚も心地いい。

「したい?」

 とろ火を頬に携えてミトリが、息を吹きかけてくる。

「したい‥‥」

 返事を待たずに、ミトリの口を味わう。

 まだ今日は何も口にしていない喉をミトリの唾液で潤す。ミトリもそれに答えて、口移しで唾液を飲ませてくれる。

「終わりです」

 胸を押して、離してくる。

「もうご飯の時間ですよ」

 朝日を受けて、軽やかに寝室から出て行くミトリの後ろ姿に、が見えた気がした。



「死神と、あの赤い眼。あれは、関係しているんですか?」

 膝の上いる仮面の方に聞いてみる。

「赤い眼は幻覚です。ミトリさんは、ですから。それにも」

 胸に寄りかかりながら、仮面の方が答えてくれる。

「‥‥ミトリの目は、あなたの物と―――」

 ミトリの真っ赤な目と、この方の目を重ねてしまった。あまりにも似過ぎている。確かに、俺は見た、ミトリの目の中に星があるのを。この方の血がミトリにも巡っているとしたら、ミトリの死神は、この方の血と関係しているのではないだろうか。

 この疑問を聞こうとしたが、仮面の方が心臓を掴んで、質問を止めてくる。

「‥‥俺は、どんな事があっても、ミトリもあなたも、愛します」

 今も身体に入り込んで、心臓を掴んでいる腕に手を重ねて、応える。

「であれば、誰にでも秘密があると理解して下さい」

「わかりました‥‥」

 なら、何も聞かない。このまま、この方の手を受け入れる。それだけでいい。

 愛でるように、心臓を撫でてくる。表面の血管によって作られているシワすら愛おしそうに指でなぞってくれる。

「気持ちいいですか?」

「‥‥はい」

「良かった‥‥」

 腕を背もたれにしながら、胸に甘えてくる。

 いつもの愛らしさとは別の魅力を感じる。今はただ、側にいて欲しい、そう言っているようだった。

「ミトリさんとしたかったですか?」

「‥‥いつか、したいです」

「私とは?」

 顔を上げて、聞いてこられた。

「私なら、をつけなくても、いいんですよ」

 心臓を握っていない方の手で、撫でてくる。

「‥‥しませんか?」

 身体中の血が二ヶ所に集まっていくるのがわかる。見上げている空の星屑達の一つ一つの欠片すら、手に取るようにわかる程に。

 この方の身体は、もう何度か見せてもらっている。

 上半身も、下半身も、肉体美という一つの世界の究極的な答えの一つと呼ぶに、相応しい姿をしている。

 それに、この方が満を持して作り上げた身体だ。きっと外だけじゃなくて、内側も―――。

「私も、あなたの受け入れてたいです‥‥」

 身体が熱い。心臓を掴んで、俺の血をコントロールしているのか、血管が焦げ付く熱い血が身体中を巡っている。

 仮面の方の身体も、怖いぐらい熱かった。こんな身体に、入り込んだら、どれほどの快楽に導かれるか―――夢のような体験ができる。そう、確信できる。

 でも―――今は、違った。

「もう、秘密は聞きませんから‥‥」

 仮面の方の髪に顔を入れて、頭皮の熱を唇で感じる。

「ミトリと自分の為に、自分を捧げるのはやめて下さい‥‥。俺の好きなあなたに、そんな事、言って欲しくないんです‥‥」

 青黒い水紋を作り出す髪に、涙を零してしまう。

「いつか、俺の方から誘わせて下さい。その時が来るまで、自分を大切にして下さい‥‥」

「‥‥はい。待ってますね」

 心臓から手を引き抜いて、胸の表面に手を当ててくれる。

「‥‥私の誘いを断った存在は、あなたが初めてです」

「怒りましたか?」

「‥‥いいえ。むしろ、あなたの事を、更に好きになりました。‥‥愛しています。私の星よ‥‥」




「今日はずっとここですか?」

「当然です。ネガイさん達の姿を見て、私も羨ましかったんですから」

 普段以上に甘える仮面の方が、俺の膝の上に座ったままで胸に仮面を擦り付ける。その姿は猫を想起こそさせるも、どちらかと言えば肉食獣が死にかけの獲物を弄ぶ行動に映って見えた。どちらにせよ猫のソレだった。

「それで、今日は何が聞きたいですか?」

「ゴーレムについてです」

 恋人達も自動記述も、俺が理解できるほど詳しくは教えてくれなかった。で、あれば、この方に聞くより他にない。自分の一言が来るのを把握していた仮面の方は、僅かに口を開くもすぐに言い淀んでしまった。これは、自分が触れてはいけない世界なのかもしれない。

 だけど、自分は既にその一端に触れてしまっている。ならば、聞かなければならない。

「ゴーレムとは、そもそもなんですか?」

 マトイのあの言い方だと、武器に文字を刻印するのは、の一つに過ぎない、そんな感じだった。

 もう既に確立された手法なのだろう。もっと言えば、魔に連なる存在が生まれる前からある。自分達の力を、より洗練化させる為に、ゴーレムを使っているきらいが見受けられる。

「‥‥ゴーレムの起源は、人造人間です」

 苦し気に、そして諦めたように言い放ったそれに、自分も重く応えた。

「‥‥ホムンクルス‥‥」

「その通り、ゴーレムは、ホムンクルスのプロトタイプにして、人間の手足として求めて作られた奴隷の一種です」

 人間は変わらない。昔から、自分の言う事を聞かせられる手足を求めている。それが正しい文化として、今の消費文明が成り立っている。最後に要らなくなったら捨てる。本当に正しい世界だ―――。

「なら、マトイの短刀とか、あの剣には意識が?」

 人間のように血肉を持っていなかったとしても、意識が無いとは言えない。俺だって人間の姿で生まれてなければ、意志の疎通を計れなかった可能性があるのだ。

 他人事じゃない。

 日本には100年経っても、形が変わらずに使い続けられた物には、神や精霊が宿り、付喪神になると言われている。物に意識が無いとは言い切れない。

「人間の姿をしていないので、もし意識があっても私にはわかりません。だから、その事とは分けて考えて、この場ではただの便利な道具として考えて下さい。あなたに振るわれた武器ゴーレムの数々には、あなたの血を―――人外を苦しめる力を持った文字が刻まれています。普通の人間には何の意味どくもありません。ただの武器、その程度です」

「あなたにも?」

「むぅ!前にも言いましたが、あんな物、ただ棒切れです!あなたの血が100%私の血でしたら、傷なんか負いませんでした!」

 逆に言えば、で済んだという事だ。宝石と血を施されていなければ、更に酷い傷を負っていたのかもしれない。

「ありがとうございます。また、あなたの血に救われましたね」

「そうです!!わかってもらえたようで、何よりです!!—――では、続けますね」

 不機嫌な気分を、胸に仮面を押し付ける事で収まり、気を取り直してくれた。

 けれど、愛らしい行動こそ取っているが前上から見ると吸い込まれそうになる豊満な胸元だった。本当に谷と呼ぶに相応しい物を、ドレスで整え胸の前で踊らせている。先ほどから視線を外せなかった。

「武器として使われているゴーレムは、自然現象の一つとして考えて下さい」

「自然現象‥‥、雷とかですか‥‥?」

「そうです。太陽の熱で水が蒸発して、蒸発した水が雨を降らし、降った雨が緑に命を与える。こういった得に理由のない自然現象を人為的に作り出して、武器にしています。だからこそ、ゴーレムはとても強力です」

「‥‥そうみたいですね」

 身をもって知っている。確かに、火を起こす気分で、雷でも起こされ、それを人体に振るう事ができるのなら、易々と致命傷を与えれる。与えられて、当然だった。

「ただし、ゴーレムは一つの事しかできません」

「‥‥文字ですか」

「はい。ゴーレムのできる事は、刻まれた文字を実行するだけ、あなの世界で人間型のゴーレムが衰退した理由がこれです。どれだけ高性能な肉体を用意できても、一つの事しかできないのなら、それでは意味がない。だからこそ、いくつも携帯できる武器のゴーレムが生まれました」

 まるで見てきたような言い方だ。或いは、本当に原点に近い非創造物に触れた事さえあるのだろう。

「ゴーレムを持ってるんですか?」

「あなたに渡した脇差しも、ゴーレムの一種ですよ」

 知らなかった。そうだったのか。道理でイサラが困っていた筈だ。あれは、表に出てこない技術で作られた一品なのだ。恐らくは類似品さえ、公にはならず隠され続けた技術の一端に近いのかも知れない。

「でも、あれに文字は刻まれてなかった筈ですが」

「あれを作り上げたのは、狂人です」

 この方を持して狂人と言うか。一体どんな人物なのだろう。

「ええ、あの者は狂人でした。型だけで、世界を体現し、決して刃こぼれさせないなんて―――時間という生命の文化に対する反逆としか言えません」

「でも、形あるのものは、総じて崩れてしまう筈です」

「星の輝きという概念がこの宇宙から消え去らないのと同じです。あの刃物は、世界の理に割り込んでいます。この世界があるのなら、あの刃物が存在する。あの刃物が存在するのなら、世界が存在する。人間一人が触れていい世界の果てを超えて更に、先にある物です」

 壮大過ぎて、ついていけない。

「話が逸れましたね」

 わざとらしく咳払いをして続けてくれた。

「ゴーレムという物がどういう物か、わかりましたか?」

「‥‥文字によって、持てる力が違う。それは自然現象にして、世界との契約?」

「はい、その通りです。でも、所詮はただの人間の技術です。あなたの目とは比べ物になりません」

 褒めてくれるが、正直この目を上手く使いこなせている気がしない。

 目を使いこなせていれば、ミトリへの攻撃にももっと早く気付いただろう‥‥。そうすれば、ここまで追い詰められる事も無かった‥‥。

「不安ですか?」

「‥‥少しだけ」

「‥‥目を向けて」

 静かに呟いた仮面の方は、自身の輝く顔を覆う仮面を外し、血に染まった眼球を晒した。

 何度見ても魅了される究極の星であった。欲望のままに全てを欲し、無自覚にも悉くを値踏みするそれは、自分が今まで触れてきた物の中で、最も純粋で恐ろしき美貌。取り憑かれた心は、瞳を欲した。

「あなたは、やはりその目の使い方がわかっていないようですね」

 けれど、その目を曇らせ、不満気な顔をさせてしまった。

「どうすれば、使えますか‥‥」

「見たい物を選んで下さい。ただ、それだけです」

 それがよくわからない。

 俺が見たい物とは、なんだ?勝利した自分の姿か?それともネガイと同じベットで寝ている光景か?見たい物を選び取る目と言われても、自分が何を欲しいのかわからない上に、見た事の無い物をどう選べいいのか、まるでわからない。

「少しだけヒントを」

 口付けをする直前ぐらいまで、顔を近づけてきた。

「その目は、見たい物を選べる。だから、こう考えて下さい。見たくない物も選べる」

「それは‥‥」

「安心して、私を信じて。あなたの敵は、世界の敵です。思う存分、目を使って下さい。世界がそれを肯定します」



「どうしました?」

 ぼんやりと、ミトリの顔を見てしまった。

「‥‥いや、なんでもない」

 誤魔化して、朝食の白米にありつく。

「ネガイとマトイは?」

「お二人でしたら、法務科に。あなたを襲った襲撃者の情報を報告に行ったみたいですね。あなたは動けないから、と言っていましたよ」

 サイナがさも当然のように、隣に座りながら答えてくれる。

 相当の心配と面倒をかけてしまったみたいだ。帰ったら、何かお礼をしなければ。

「そうだ。ゲートはどうなったんだ?」

「まだ修理中ですねーと言うか、外から入ってくる人間をできるだけ制限したいみたいです。常に重武装科が張ってますよ」

 重武装科の奴らからすれば、降って湧いた仕事だと、喜んでるかもだが、週明けでもゲートの閉鎖をしているという事は、今後数日は外で何があってもオーダー街の力を外に出さないと判断した、という事だ。今、守るべきものは、オーダー自身だと裁定を下したのだろう。

「‥‥しばらく暇だ」

 ミトリが作ってくれた味噌汁をすすって、呟いてみる。

「仕方ない、と言ってしまえばそれまでですね。まぁ、外の人間自身がやった事ですからね〜。今は何があっても、私達ではどうする事はできません。自分でどうにかして頂かないと」

 やけに攻撃的だった―――いや、温情的だった。サイナ自身に向けられたに比べれば、救いの聖女のようにも感じられるほど、優しかった。

「あ、サイナ。俺の制服って、どうなってる?」

「切られた腕の部分は、もう変えましたから、問題なく着れますよ。念の為、もう1着の制服も用意してありますから、ご心配無く♪」

「助かるよ」

 一安心だ。これで問題無く学校に行ける。

「‥‥その前に、俺学校に行っていいんだよな?」

 大人しく、と言われてもずっと部屋の中では単位に響く。あの二人が動いているのだから、近く安全になるだろうが、不安はなかなか尽きなかった。

「はい。いいらしいですよ。でも、常に誰かが側にいるのが条件です」

「送り迎えは私とミトリさんが、学校の中では適役がいるとか、知ってますか?」

 恐らくイノリだろう。学校の適任者と言われたら、他に該当者がいない。

「ああ、知ってる。わかった、一人にならないように気をつけるよ」

 満足してくれたのか、二人とも食事に戻った。

「‥‥ゲートは、オーダーの自作自演か」

 食卓の部屋に置いてあるテレビからそんな声が聞こえてくる。そんなふざけた事を言い続けている元議員に、キレた別のコメンテーターが馬鹿みたいな戯言を言うな、と叫び、周りの幾人もが同調して、自作自演と言った元議員を非難している。

「どうやったら、あれを自作自演って言えるんでしょう‥‥」

 ミトリが苦い顔をしている。

 もうタイヤの傷は大分良くなっているから、俺自身気にしなくなっていたが、こう言われると、いい気分にはならない。

「あ、この方、確か前の誘拐でも、オーダーの自作自演って言ってましたね〜」

「前の誘拐って、ふたりが関わった事件ですか?」

「はい、あれもオーダーの自作自演で、オーダーの支持率を上げる作戦だとか、なんとか。オーダーを議員か何かと勘違いしてるのでしょうかね~?」

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、なんだろう」

「‥‥そうだ!この人!」

 ミトリが思い出したように叫んだ。

「ああ、選挙中に支持してもらってた企業が、オーダーの立ち入りを受けて裁判沙汰―――記者会見でも、だったから、地元からも見離されて落ちた奴だ」

 この程度で落ちたのなら、結局落ちていただろう。

「そんな計画を立てられる程、オーダーは暇じゃねーよ。そもそも、どこのオーダーがそんな事考えて実行するんだよ。金にもならないだろう‥‥」

 リモコンを操作して、別の番組に変えるが、どこもゲートに突っ込んだ車の事件をやっている。

「つまならない‥‥」

 もう朝食も終わっているので、食器を流しに持って行き、洗う事にする。

「あ、私がやりますから」

「いいよ、少し腕を動かしたいから」

 言いながら、流し台を独占する。ミトリには朝食どころか、数日分の世話をして貰っている。これくらいは、やらなくてはいけない。

「今日はサイナの車か?どっちだ?」

 モーターホームなら、横になって行ける。何よりも、ミトリに甘えられる。もし違ったとしても、コンパス内で甘えているかもしれない。

「アステリオスです」

「アス‥‥?」

 なぜ、ここで迷宮の牛男を―――?

「モーターホームの名前です。知りませんでした?」

「今知ったよ。‥‥助かる、横になって行けそうだ」

 



「‥‥なんで、イサラまで?」

「たまたま、サイナの車を見つけたからね。同乗させて貰ったの」

 サイナが運転するモーターホームの後ろの席で、イサラと共に座っていた。

 最初は助手席に座ろうとしたが、ミトリから狙撃でもされたら大変だ、と言うことで後ろに座らせされた。

 それに、事実としてイサラは、あの剣の対処だって出来る。心強いか?と問われれば、全力で頷ける。

「てか、なんで腕吊ってんの?昨日してなかったのに」

「‥‥まぁ、少し傷が悪化して」

「腕の傷は、しっかりと治さないと。ミトリに怒られるよ」

「もう怒られたから‥‥」

「あははは!流石ッ!!」

 こういう軽口を話せる相手がいるだけで、缶詰状態の治療生活の身からすれば、精神安定剤となってくれる。身近な友人がいるというのは良いものだ―――それが人間であっても。

「イサラはゲートの事件の時、近くにいたのか?」

「いたよ。て言っても、私はゲート入り口側にいたから、ヒジリの怪我についてはよく知らないんだー。なんか凄い音がしたって言うのはわかったけど、離れられなくてね」

 両手を頭の後ろに組みながら足も組んで、大きく伸びをした。

 すごい脚線美だ―――筋肉が程よく盛り上がって、美しい筋が幾重も見える。

 その上、前に抱きつかれた時知ったが、イサラの胸はサイナ並だった。寧ろ筋肉のお陰で、しっかりと制服の上からでも形が見て取れる程に、胸部の形が整っている。

「そっちは平気だったのか?」

「こっちも色々あったよ。爆発音がした後に、テロだなんだって言って、無理にでもテレビ関係の車が入り込んできそうになったり、なんか見計ったみたいに警察の車両が突っ込んできたり」

「警察の?」

「そう、しかもパトカーとかじゃなくて、機動隊を乗せた護送車。なんか、変な感じだったかな?まぁ、オーダーからの命令で、救急車以外は誰も通さなかったんだけどね。すごい睨んでたよ。あんなに警察って、仕事熱心だったけ?て思うぐらい」

「‥‥そっちも忙しかったんだな」

「まぁーね、ヒジリ程じゃないみたいだけど」

 何かを確認するように、イサラが俺の全身を首を上下に振って見てくる。

「背、伸びたね」

「急にどうした?」

「前は、私の方が高かったのに。なんか、負けた気分」

「成長期だからな、もっと追い抜かすんじゃないか?」

 確かに、今、俺はイサラを座りながら同じ目線で話せている。

 オーダー中等部で初めて会った時のイサラは、あの年齢の女の子としては、日本人離れした背を持っていたが、それもこの年齢になると、俺と同じか、若干低い程になってしまった。それでも周りと比べると、高く見える。ソソギといい勝負と言えた。

「なんかさぁー、会った時はシズクかミトリの後ろに隠れてばっかのイメージだったのに、今は寧ろミトリとかシズクがヒジリの後ろにいる気がする。私もいつかそうなっちゃうのかな‥‥?」

 少しだけ寂しいと言わんばかりに、イサラは組んだ足に肘をついて、嘆いてきた。

「イサラが後ろに隠れる光景って、想像できないな。成長した俺は、嫌か?」

「嫌って訳じゃないけど。なんか遠くに行っちゃた気がするの。いつの間にか彼女も作ってるし、しかもあんな美人の」

「‥‥ネガイとの距離感には、気を付けろよ」

「大丈夫大丈夫、それなりに話してるから。昨日だって、皆んなで夕飯食べたし」

「夕飯を?皆んなでどこかに行ったのか?」

「あ、本当に知らないんだ。あの部屋でホームパーティーしたんだよ」

 知らなかった。寝ている時に、そんな事をしていたなんて―――起きなくてよかった。

 いくら大半が身内だとしても、全員女子の席には、気まずくて座れなかっだろう。

「何話したのか、とか聞かないの?」

「聞いても、俺にはわからない事だらけだろう?」

「ヒジリの好きな事とか、話したんだよ~」

「‥‥誰が言い出したんだ?」

「私がネガイさんに聞いたの」

「‥‥勘弁してくれ。で、ネガイはなんて言ったんだ?」

 もうイサラはこういう性格だと知っているから、今更とやかく言う気もない。でも、ネガイなら、きっと余計な事は――

「キスと膝枕と、後は組み敷かれるのが好きだって――――結構、いじめられるのが好きだったんだなんてね‥‥」

 違った、ネガイは寧ろ自慢するのが好きな子だった。

「‥‥別に、いじめられたい訳じゃ」

「嘘ですよ」

「はい、嘘です♪」

 更に余計な事を、ミトリとサイナが言ってくる。

「違うからな!!」

 腕を組んで、イサラに向かって叫ぶが、珍しくイサラが乾いた笑いを向けてくる。

「ま、まぁ、趣向は人それぞれだから、そういうのが好きな人はいると思うよ。でも流石に、3人に組み敷かれて、針を刺されるっていうのは、ちょっと理解できないかな?」

「サイナ!!」

 密告者の1人である運転席に向かって叫ぶ。

「ごめんなさーい♪」

「俺はしたくてした訳じゃなかっただろうが!!それにはあれは、痛み止めであって!」

 あの3人が勝手に暴露したようだ―――しかも望んでやったような言い方をしたようだ。あんな目に遭うとわかっていたら、使わなかった。もしくはどうにか自分だけでやっていた。—――次は、必ず起きて止めようと強く心に決めた。

「まぁまぁ落ち着いて、ほらこっち」

 イサラに腕を引かれ、足の上に頭を置いてしまう。

「‥‥これもネガイからか?」

「皆んなからかな?こうすると、大人しくなるって。違った?」

 俺の扱い方が、一人歩きしている。

「‥‥学校まで、このまま」

 イサラの手を取って、目に乗せる。

 想像以上に筋肉質の足であったが、それでもイサラは女の子だった。柔らかい筋肉を包む、更に柔らかい薄い脂肪が頭を優しく受け止めてくれる。

 それに車の揺れに合わせて、跳ねる俺の頭を、心地いい反発力で弾いてくれるこの感覚は、初めてだった‥‥。



「そんな不機嫌で、どうしました?」

 午前の授業が終わった時、いつもの実験室にネガイから呼び出されていた。

 ベットで横になっている俺の枕として、ネガイが自分の足を使ってくれている。

「‥‥別に、俺は組み敷かれるのが好きな訳じゃないぞ」

 ネガイの手を受けても、どうにも機嫌が治らない。何よりも甘え足りない。

「その話ですか。でも、私にいじめられるのは、好きですよね?」

「‥‥好きな訳じゃない‥‥」

「なら、そういう事にしておきます」

 またネガイに手玉に取られてしまい、独り相撲をしている気分になってしまう。

 勝手に話した詫びなのか、寝かさない程度に前髪や胸を撫でてくれる。こうやって、ネガイはいつも俺を宥めてくれた。

「勝手に話したのは、謝ります。でも、あなたの自慢をしたかったんです‥‥」

 穏やかに、語りかけるように謝ってくれるネガイが、嬉しいとも気恥ずかしいともを吐露してくれた。不満に思っていた自分が、小さく感じる。

「許してくれませんか?」

 散々俺を宥めてから、これだ―――本当に、ネガイはずるい。

「‥‥わかったよ。これからも、よろしく」

「ありがとうございます。愛してます」

「俺も」

 ネガイの足から起き上がって、隣に座る。

「あなたを呼び出した理由の結論から言います。流星の使徒の行動を、アメリカ支部は知らなかったそうです」

「独断で行動してるって事か?」

「はい。アメリカ支部も、まさか日本支部がここまで大きく抗議してくるとは思っていなかったらしく、急いで捜査結果を送ってきたそうです。向こうにとっての法務科と査問科を合わせた捜査局の印が押してある捜査書なので、信用できるかと」

「‥‥やっぱり、大事になってるみたいだな」

「当然ですね。アメリカ支部が配下のオーダーを使って、日本のオーダー街にテロを仕掛けた可能性があるとして、円卓にアメリカによる疑惑として持ち上げたので、」

「円卓!?」

 ネガイの口から出た言葉に、思わず叫んでしまった。

「事は、それほど重大です。あなたの事情を抜いても、円卓にかけられていたでしょうね」

 オーダーにとって、円卓とはそれぞれの国の裁判よりも重い―――鋼の掟だった。

 オーダーに加盟している国ならば、絶対的に従わなければならない判決、究極的な治外法権と言ってもまだ足りない。

 国の法律のような物など些事として扱われ、円卓の結論に従わなければ、国際的に全オーダーの排除対象として見られる。

 それが自国だとしても、オーダーならば、その国をとして処分しなければならない。

「‥‥いつの間に」

「流星の使徒による襲撃であると法務科が判断、査問科も、それを追認し、オーダー本部が了承、その結果が円卓です。昨日の夜中ですよ。私とマトイが帰ってきた時には、もうアメリカ支部から正式な謝罪が届いたそうです」

「‥‥俺が寝込んでる時に、ありがとう。2人の証言が決め手になったんだろう?」

「そうとも言えますが、最終的な決め手はあなたの武器についての証言です」

 武器か、やはりあれらの武装は、特殊だからこそ、使い手が限られていた。

「流星の使徒については、法務科と査問科、情報部、オーダー本部があと数日で本腰を入れて捜索するそうです」

「見つかるのも時間の問題か―――、マトイが逃がす筈ない‥‥」

 この街で、今言った組織から逃げられるような場所は存在しない。ずっと夢に籠もっていたとしても、マトイのような特殊な力を持った捜査官がいる。

「一息つける―――」

 肩の荷が降りた、そんな気分だ。

「‥‥ネガイは、どう思う?」

「あなた狙った理由ですか?‥‥前もこんな会話しましたね」

 マトイが襲ってきた時を彷彿とさせる状況であるのは、間違いなかった。

「あの時は、あなたの目を目覚めさせるのが目的でしたね。でも、今回は純粋にあなたの目を狙ってきた。違いは明白です」

「俺の目を奪いにきた‥‥」

「そう言えるかと」

 ネガイが自分の髪を指を使って遊び始めた。

「もし仮に、あなたの目をくり抜いたとしても、その目は言う事を聞きません。あなたの血が鍵になっていますから」

 ならば、俺の血も持ち去ってしまえばいいのでは?そう思ったが、あの襲撃者は、血には目もくれずに戦闘を続行してきた。

 全く知らずに襲ってきたのか、それとも、本当に単純に俺の目をとして求めたのか。人を殺して身体を解体するような人間だ。まともな訳がない。

「総帥が呼んでるって、言ってた。流星の使徒の総帥でいいのか?」

「現在の総帥が、どんな人物なのかは、法務科がアメリカ支部に捜査を依頼しています。すぐにわかると思いますよ」

 なら、これは待つしかない。

 死体から抜き取った人骨に布や装飾品をつけて、飾るという古くからの趣味とでも言うべき行動を取る人間達がいる。

 そんな趣味を持っていると解ればすぐにでも、アメリカ支部が動くだろう。

「今は総帥の事を考えても仕方ないか‥‥。あの襲撃者は、どのくらい強いと思う?」

「次、会えば殺してみせます」

「そうじゃなくて、どのくらいの腕を持ってた思うって?聞いたんだ。最悪、俺1人でもやれると思うか?」

「‥‥腕は確かでしたが、ソソギに比べて、実戦経験が乏しく感じました。恐らく、同じ相手とばかり試合をしていた―――もしくは、一撃で仕留めて来たのでしょう」

 舞台での一戦以来、ネガイはソソギがお気に入りらしく、再戦を待ち望んでいる。ネガイの御眼鏡に適うとは、ソソギはやはり強かった。

「あなた1人でも、勝つ事が出来るでしょうが、その時、あなたも倒れていると思います。やはり、あれらの武器は異常です。正面からやり合うの私かマトイに任せて下さい」

「ミトリがいても、やめた方がいいか?」

「全力で戦える場所を用意できれば、完勝を目指せると思います。でも、危険な賭けにはミトリは乗りません。それに、ミトリには何かあったら、あなたを連れて逃げるように言っています。正面から戦う事だけが戦場じゃないと、ミトリは知っていますから」

 心の底からミトリを信じているネガイは、彼女の能力を正確に知り尽くしていた。

 戦闘力は、自分と比べれば高くないと知っているが、ミトリの現場を知る力—――危機察知という生きる上で、最も必要な能力をミトリは持っている。

 俺自身も知ってるミトリの能力だった。確かな治療と、正確な洞察、冷酷な判断、治療科としてという役割を体現している才能の持ち主。

「あなたは自分の傷を治して下さい。後の事は、他のオーダーに任せましょう。やっと、これであなたの側にいられますね」

 大きく息を吐いて、ネガイが肩に頭を乗せてくる。

「‥‥久しぶりに2人きりですね」

「‥‥ああ、久しぶりだ」

 久しぶりと言っても、先週は同じベットで眠っていたのだから、決して久しぶりではなかった。けれども、ここ数日の休養を鑑みれば―――懐かしく感じられる体温だった。

「‥‥腕が治ったら――しませんか?」

「今したい」

 首から腕を吊っている布を外して、ネガイを押し倒す。

「‥‥午後はどうするんですか?」

 試すように、蠱惑的に聞き返したネガイは、自分のネクタイを投げ捨てて、頭を自分の胸を抱き寄せてくれた。

「なら、早く終わらせよう」

 ネガイのYシャツに埋まりながら、上へ上へと顔を運ぶ。

 到達点の口元が見えた瞬間、舌に甘えた。長い無呼吸の時間を過ごし、一回目が終わった所で、ネガイの口から離れる。

「‥‥もう、終わりですか?」

 興奮だけではない。肺を長く酷使した所為で、押し付けている胸板を突き放すように、自身の胸の膨らませているネガイは、唾液すら飲み干せなくなっている。

 苦しそうなネガイから起き上がって第一ボタンを外し、呼吸を楽にさせる。

「‥‥熱いです」

 第一ボタンでは足りないと、自分の2番目3番目とボタンも外しいく内に、ネガイの目と同じ色の下着が見えてくる。

 ボタンを一つ一つ外す度に、ネガイの香りが鼻を通ってくる。それらを目と鼻だけで感じ取るだけでは、足りなくなった――――外し途中でも、構わずにネガイの口に入り込んでしまう。

 熱くて、柔らかくて、どこまでも受け入れてくれる。もうネガイの口の形を覚えている上、ネガイも俺の舌を覚えている。

 どう吸えばずっと離さないでいられるか、知り尽くしているネガイは唾液を奪いながら、自分の唾液を飲ませてくれる。

「‥‥ミトリとは、どこまでしたんですか?」

「‥‥一緒の風呂に入った」

「そこまでですか?」

「ああ‥‥」

「気をつけて下さいね。ミトリは、積極的ですから」

 昨日のミトリを思い出すと、ネガイの心配が的中していたとわかった。

「でも、ミトリを受け入れて下さいね。あの子は、寂しがり屋です。‥‥死神としても」

「‥‥知ってたのか」

 隣で横になって、息を整える。

「ミトリが、あなたと恋人になったと聞いて、話す時が来たのだと思いました」

「‥‥ネガイは信じてるか?」

 ネガイは目を瞑って、天井に向いてしまった。

「友人の話は信じたいです。でも、友人のそんな話、信じたくないです」

 苦しそうに吐露しながら、ネガイは自分の目に腕を置く。

「‥‥俺も、わからない」

 死神の話が真実だとして、その場合、俺はミトリをどうすればいい―――どこかに隔離なんて真似、絶対にしたくない。

 ミトリを傷付けるような事は、死んでもしない。

「‥‥ネガイは、ミトリの身近な人が白くなったのを見たことあるか?」

「‥‥あなたを除いて、見た事ありません。ミトリ自身も、オーダーに来て白くさせた人は、あなただけだと言っていました」

 ただの勘違いならいい。けれど、ミトリは家族から勘当されて、オーダーにまで来てしまっている。

 ミトリがまだ話していない死神と呼ばれる由縁があるのではないだろうか?

 到底、聞き出す気にはならない。

 今のオーダーの生活を楽しんでいるミトリに、水を差す気になれない。

「ゲートが直り次第、ミトリと出掛けるんだろう?どこに行くんだ?」

 ミトリに、自分の死神を忘れさせればいい。もしであったとしても、誰も殺させなければいい―――もしくは、俺が引き受けてしまえばいい。

「ん?秘密です‥‥。気になりますか?」

 ネガイが隣の俺に振り向いた時、胸と唇が揺れた。

「すごい目ですね‥‥。‥‥欲しいですか?」

 待ち受けている官能的な笑みを見ながら、予鈴を耳にする。

「‥‥終わりですよ」

 もう止まらない。

 艶やかな吐息を吸い込み、予鈴を聴きながら、三回目を始めた。




「やり過ぎです‥‥ミトリが包帯を持ってきてくれるまで、どこにも出れなかった私の身にもなって下さい」

「最後は上だっただろう?俺だって、肩の噛み跡が痒くて仕方なかった」

 午後の1時間目をすっぽかしたながらも、傷の治療の為だったと言って誤魔化し、2時間目は真面目に出席。一日の予定を終えた自分達は、これからサイナの車に戻る所だった。

 悪態を付くネガイは自分の首の包帯を確認、残された痕を擦っていた。

 そして最近、灰色の少女は癖の様に、相手方たる俺の耳や肩を噛み始めた。耐え難い快楽に気を失わない為にと、必死に喰らい付く姿は嗜虐心と快楽を覚えるも、最初は確かに心地いいが、終わった後は痛かったり、痒かったりするので止めるのだが、なかなか聞き入れてくれない。

「サイナは駐車場です。今日はミトリも一緒に帰る約束をしています、待ちましょう」

 そう言って腕を取るネガイに「そうだな」と告げ、二人で救護棟を後に空を見上げる。季節は変わり始め、昼は長く、太陽は未だ建材であった。その為、弾丸や薬を搭載したブレザーの役割を、別のどこかへと移送させなければと思う、今日この頃だった。

「‥‥帰ったら、夕飯の準備をしないと」

「はい。今日は皆集まる予定ですので準備をすべきです。ミトリも実習はないそうなので、そろそろ」

 そんな会話をしていると、慌ただしい足音が救護棟より響き、振り返った時にはミトリが慌てた様子で扉から飛び出していた。そして「お待たせ‥‥!」と声も荒いミトリは、

「どうした?そんなに慌てて—————」

 疑問を問い掛けても「いいから!早く!」と、返答もままならず手を引き、自然と走り出してしまう。駆け抜けながら揺れるブラウンを前に、ネガイと顔を見合わせて取り敢えず合わせ事とした。

 事情は知らないが、ミトリがここまで急いでるのだ。拠無よんどころい理由があるのだろう。そう思う事にした。

 救護棟から生徒駐車場へと続く緑道をしばらく駆けた所で、やっとミトリは止まるも。

「‥‥!」

 振り返ったミトリに睨みつけられた気がしたが、視線の先は俺とネガイの更に背後―――救護棟に向けられていた。そこで胸に手を当てて、心底安堵したように大きく息を吐く。

「‥‥良かった、追って来てませんね」

「何が、どうしたんだ?」

「え?あ、その‥‥と、取り敢えず、行きましょう!」

 いまだ落ち着かないミトリに、また手を引かれてしまう。隣に視線を送り、隣へ行くようネガイに頼み込み自分は後ろを歩くに留めた。

「どうしたんですか、何かありましたか?」

 隣で耳を貸す友人に応えたミトリは、俺の手から離し耳打ちを始める。

 ただ何故か度々こちらを見ている。耳打ちを聞き終えたネガイが初めて声を発する。

「そういう事ですか、口を滑らせましたね」

「どうしよう‥‥あの‥‥、ごめんね‥‥」

「何かあったのか?」

 2人だけの会話なら口を挟む気は無かったが、言葉が不穏だった為、介入する。

「大丈夫ですよ」

 それだけを告げたネガイが、隣へと戻ってくる。

「治療科所属の女生徒達による噂話です。すぐに消えます」

「そうなのか?」

「は、はい!そうです!!」

 ネガイの言が正しいのか聞き返した所、ミトリが全力で肯定した。少し驚いた。あのお淑やかなミトリの急な大声に、周りの生徒も驚いて、自然と注目の的となってしまう。

「わかった‥‥そう言うことなんだな‥‥」

 これ以上聞くな、と叱られた気分になってしまい、なんとなく次の言葉が出てこなくなってしまった。

「急ぎますよ。サイナが待ってます」

 なんの予備動作もなしに、ネガイがミトリの手を引いて走り去ってしまった。

 2人について行くべきなのだろうが、どうやら、ミトリもネガイも、2人で話したい事があるらしく、逃げるような速さで駆けて行く。

「‥‥なんだったんだ?」

 仕方ない、そう言い聞かせてゆっくりと歩き始める。

 2人にハブられて、少しだけ寂しいが、女の子同士だけで話したい内容があるのだろう。きっとそうだ。そう思うことにしようと、自分を律する。

「‥‥夏服、準備しないと」

 上着はもう限界だ。同時に、腕の傷も隠したいから長袖は外したくない。

「だけど‥‥長袖の夏服って、変なんだよな‥‥」

 オーダーの制服で、長袖の夏服は珍しくない。

 中等部でも着ている奴は多くいた。でも、正直ダサい。

 デザイン性のあるYシャツを、サイナに頼んで用意して貰うべきだろうか。前に見せて貰ったボタンを入れる穴に、青い繊維が使われているシャツがあった。あれは、なかなか良さそうだ。

 それとも、薄いタイツのような物を着て、その上に半袖のシャツを着るのも良さそうだ。強化アラミド繊維のタイツが確かサイナの―――サイナばっかりだった。

「俺も、いいお客様になってきた‥‥」

 算盤を振っているサイナの姿が目に浮かぶ。

「‥‥でも、サイナが喜んでくれるなら、多少足元見られてもいいか。車で待ってるみたいだし、相談を――――」

 周りから人の気配が消えた。

 あれだけ憎らしかった降り注ぐ日差しからも、熱を感じなくなった。

 あの方の夢では、死ねば現実に戻って来れた。マトイの師匠の夢でも、恐らく死ねば戻れた。

「‥‥マトイが見せてきた夢みたいだ」

 現実と夢の間。白昼夢を見せられてる気分になってくる。

 あの女の夢に誘い込まれた。

「‥‥」

 脇差しを抜き、首にかかっている包帯を切り捨てる。M66も抜き、右腕の杭を確認する。

「どこだ‥‥?」

 ここはマトイが襲撃した場所よりも手前側、まだ駐車場が遠くに見える場所。もう2人の姿は見えない。

「‥‥誰もいない‥‥」

 もっと早く気付くべきだった。校内だと思って油断した。

 あの時から、俺は成長してないのか――――また、マトイに襲われでもしたら、そこで俺は死んでいるだろう。けれど、今回は二度目だ。しかも―――、

「‥‥出てこい」

 確かにいる、という確証があった。それと同時に自分からも感じられた。

 手が震えている。

 また同じ場所をあの杖で撫でられでもすれば、完全に動けなくなる。それどころか、あの剣で斬られれば、ひと呼吸の暇もなく目を閉じてしまう。

 林に囲まれている状況で、あの杖と同じ印が刻まれた矢を用いられ、それを察知できなければ―――毒を使われた獲物のように自由を奪われる。

「‥‥」

 目を使って林中を眺める。

 あの方が言っていた事をイメージする。この目は見たい物を選べる。なら、

「‥‥そこか」

 M66の二発を、左斜め前の木から覗かせていた腕を貫くつもりで発砲する。

 やはり、元から狙わせるつもりで木から出していたのか、腕が隠れてしまい弾丸が更に遠くの木に吸い込まれる。

「本当に、いい目だ。総帥が求める理由が良くわかる」

 今度は真後ろから聞こえてくるが、振り向かない。まだ同じ場所にいると、目が伝えてくる。

「この学校は俺より強いオーダーが何人でもいる。さっさと帰った方が、身の為だ」

 遠距離の武器を持っていないのであれば、二丁で距離を取るしかない。

「身の為?それは、お前に返してやろう。腕が痛むんじゃないか?」

「‥‥お陰様で」

「‥‥手荒な事をして、悪かった」

 予想しなかった謝罪に、心底驚き、何か裏があるのでは?と勘ぐってしまう。

「‥‥なんのつもりだ?」

 銃から手は離さない。対象の心証を惑わせて、警戒を解かせるのは、腕の強弱関係なく誰もが使う戦法—――武器のひとつだった。

「本心だ。‥‥あそこまで、お前を痛めつける気は無かった。本当に、ただ話したかっただけだったのに‥‥」

「あの杖は、なんのつもりだったんだ?」

 あの杖は天敵以外の何者でも無い。

 高い確率でを殺せる毒針を持っていたのに、傷付けるつもりは無かった、と言われてもとても信用出来ない。

「‥‥身を守る為だ。お前も、銃を持っているだろう‥‥」

 否定出来ないし、もっともな理由だ。だけど、

「あれはもうやめてくれ。‥‥本当に、つらかった‥‥」

 毒を使われるのは、オーダーであれば想定内だ。解毒の術だって学んでいる。けれど、だからと言って毒を使われても構わないと、常に心構えがある訳ではない。

「毒を使うのは、もう金輪際やめてくれ‥‥。誰も信用出来なくなる‥‥」

「‥‥わかった‥‥」

 狩りをする時に毒など使わない。折角の獲物に毒が回っては食い物にならないからだ。だけどこの人間、確実にとした。

 しかも苦しめて。

「毒だけじゃない。用があるのは、俺だけの筈だ。恋人を狙わないでくれ―――」

「‥‥誓おう」

 その言葉に、武器を持つ手に力が入る。話せばわかると、思ってしまった。少なくとも何も考えていない訳じゃない。理性と倫理観を兼ね備えていると信じてしまう。

 だけど、生まれと育ちは捨てられない。勝つ為には、手段を選ばないという意思も、同時に感じられた。

「改めて聞きたい、なんの用だ?」

 銃は戻さない。彼女がを立てたのなら、として話さなければならない。武器を向けるは、礼儀だった。

「大人しく私について来い。悪いようにはしない」

「俺をバラす。そうだろう?俺は使徒にとって、いい獲物だ」

「バラす?まさか、私はお前を一族に加えたいと言われて来たんだ。殺すつもりなど、毛頭ない」

「尚更、お断りだ。俺は恋人の物。何処かの一族の末席に加わる気なんてない」

「‥‥我らはもはや、私を含めても片手で数えられる程しか人数がいない。末席などではなく、お前には3番目の席を用意した」

「他の奴を選べ。わざわざ日本まで来て、悪いが、俺の血を受け継がせる相手はもう決まってる」

「あの灰色の女か?」

「そうだ。ネガイも、頷いてくれた―――」

 いまだ木の影から姿を見せない襲撃者は、こちらの答えを聞いた瞬間、考える素振りも一切見せず、呼吸でもするかのように提案してきた。

「では、あの女も、我らに加えよう」

「—―――見境が無いのはそっちも同じみたいだな」

 完全に没落してしまっている。流星の使徒達がどのような思想を持っているか想像も出来ないが、貴族に近い考えを持っているように感じた。

 そんな彼女達が、外からの血を選別するどころか、力の強弱だけで欲している。もはや後がない。そう告げたようだった。

 信念や主義を曲げてでも生き残る道しか残っていない―――その道しかないのなら、どちらにしても、もう遅い。

「俺にはもう家族がいる。もう、裏切れない」

「私にもいる。大切な人達だ。もう、裏切れない」

 どちらも、退けない理由は家族だった。

「俺の事はどこまで知ってる?」

「強い人間だから、血を混ぜたい。そう言われた。それ以上は知る必要がない」

 自分よりも血族の為という理念の元、余計な雑念は自分の中で生まれないようにしている。理性もある倫理感もある、だけど、それを呑み込んだ理由が、だった。

「‥‥どうやって、血を混ぜる気だ?」

「こちら側に来れば、教えてやる」

 単純に子を成すという話では無さそうだ。

 人間から外れたとしても、元は人間の身体を分解していたような凶族。今までだって、どうやって血を受け継がせてきたのか、見当もつかない。少なくとも、真っ当な人間の営みとは違うのだろう。

「俺の身体は法務科の所属になってる。血が欲しければ正当な方法で求めろ」

「‥‥私に、オーダーを信用しろと?」

「これが現代のルールだ。俺達、人間から外れた存在も、世界には従わないと生きていけない。お前も人間の消費文化の中で生きている。何かが欲しいなら、対価を払え。俺は生きる為に、力を払ってる」

「‥‥そうか。お前も」

「毒を盛って、半殺しにした相手に同情してどうする?何も考えたくないんだろう?」

 冷たい態度をとってしまった。でも、間違ってるとは思わない。

「私も人間だ。考える事だって出来る。‥‥もっと、お前を知るべきだった」

 やはり、正しい人間だった。生まれが違えば、肩を並べていたかもしれない。

 決して、ただの人形でも、暗殺者でも無い。本能が、そう告げてくる。

「‥‥恋人が大切か?」

「ああ」

「あのブラウンの子は恋人じゃないのか?」

「恋人になったよ。でも、灰色の子とも、黒髪の子とも恋人だ」

「—――どこまでしたんだ?なんで笑うんだ!?」

 年相応の子だと思い、ふと笑ってしまった。アメリカ出身と聞いていたから、そういう事はむしろ俺達よりも進んでると思ったのに。

 意外と信心深いのかもしれない。

「皆んな聞くからだよ――――わかったか?もう聞くなよ」

「‥‥は、はい‥‥」

 ワントーク高い声が、林に小さく木霊した。

「アメリカ出身だって聞いたけど、そうなのか?」

「‥‥と、言っても、私はほとんどアメリカにはいなかった。発祥がアメリカというだけで、それ以降は寧ろヨーロッパだ――――いや、発祥だって、あやふやだ‥‥」

 長い時を過ごしてきた所為で、正しく伝わって来ていない。没落は、既にしてしまっているようだった。

「ヨーロッパか、観光目的なら悪くないな‥‥」

「お前がこちら側に来れば、いくらでも案内してやる。フランスでもイギリスでも、イタリアでも、バルト三国も案内出来る」

 ヨーロッパ全体を転々としているのか、それともアメリカから、ヨーロッパに渡った時に、一族が分裂して各国に散ったのか。

 単純に生き残る、という目的の為ならば、賢い選択だ。どこかで戦争が起こっても、一族が世界中にいれば、血が途絶える事は無い。

「ヨーロッパ初心者なら、まずどこがいい?」

「フランスがいいな。あそこは、ヨーロッパ有数の排他的な土地だ。あそこで長く暮らせれば、並の差別には耐えられる」

 フランス革命時に、市民の為にいる筈の教会が支配者側にいた、という歴史がある。

 当然と言えば、当然だ。当時の司祭は間違いなく特権階級の人間。土地や富を奪われては、今までの生活が出来なくなる。そんな生活が出来て来た理由は、カトリックという立場で政治に関わり、金と権力に溺れた結果だ。

 最後にはフランス市民から弾圧を受け、撤退した。それ以来、外部からきた組織や人間には手酷い差別をせざるを得ないという自然な空気が漂っている。おのずと宗教にも徹底した政教分離の制度が整っている。頭や顔にターバンやヴェールを巻くという行為を、街中では禁止するというぐらいには潔癖症だった。

「‥‥差別を、されてきたのか?」

「少しだけね‥‥。‥‥お前はどうだったんだ?」

 本来の言葉だった。だけど、それに当人は気付かないまま、また仮面を被ってしまう。

「俺の周りは、受け入れてくれた。皆んないい人間だ」

「‥‥羨ましい」

「お前こそ、この学校に来ればどうだ?どいつもコイツも訳ありな連中だ。差別される理由も―――隠れるぞ」

「‥‥本当?」

「本当だ」

「‥‥土地を追われたり、弾圧を―――」

「されない。そんな事をしてる奴は大抵、雑魚だ。雑魚はこの街では暮らせない。いるのは皆んな、プロだ。差別とかいじめなんかしてる暇は無い。お前の腕が有れば、寧ろ皆んな頼りにくる」

「‥‥私、昔ね。生まれで、」

「そんな事は言わなくていい。ここは、そういう奴が来る場所だ。隠していいんだ、どんな事でも受け入れてくれるから――――どんな理由があっても、生きられる」

 迷っているのか、肩が飛び出したとわかった瞬間、またすぐに木の影に隠れた。

「流星の使徒なんかやめて――――オーダーになれ、お前の腕があれば、」

 日本の古い怪物に、鬼と呼ばれる存在がいる。

 虎の褌に、金棒、そして二本の角。総じて軒並み恐ろしい存在と言われている。

 これは平安時代に、確立した姿だ。丑と寅の方角の間を鬼門と呼ばれるようになった為、そのような出立ちだと、当時の人々に恐れられた。それが現代の鬼のイメージとして固定された。

 鬼とは元々はおぬが転じたもので、決まった姿を持っていない正体不明の怪物。

 であればこそ、化ける力を持ち、見目麗しい人間に化ける事ができる鬼もいたとも言われている。

 鬼の存在した証として、骨や住処が発見されているが、鬼の正体は人間に流れ着いた外国人だったのでは?と言う説がある。

「貴様!!」

 鬼の形相で剣を振り下ろしてきた、この青い目の鬼は、麗しかった。

 全力で金棒を振り下ろされ、受け止める事を諦めた。後ろに大きく飛び、駐車場に続く石田畳の舞い上がる破片越しの鬼を見つめていた。

「私の一族を愚弄する気か!?」

「‥‥そんな狂人の血なんて、捨てろ」

 脇差しとM66を向けて、青い鬼と対峙する。

 この態度が、尚の事気に障ったのか―――鬼の形相で、片手で剣を振り上げるという現実離れした姿を見せてくる。

 刀身の長さは必殺の間合い。一命を取り留めるなんて幻想はあり得ない。肩から胸を斬られれば、確実に絶命する。

 けれど、それ以上に距離を取ったというのに、ナイフを使わない。あの夜に、使、武器の備えがないのだと判断する。

「流星の使徒は、もう終わりだ。アメリカ支部が捜査に入った。‥‥諦めろ」

 今の本家がどこにあろうと、アメリカ支部が動いた。逃げ場は無い。

「殺されたいのか‥‥」

 一度瞑った青い目が、見開かれた―――。

「‥‥っ」

 殺すという冷徹で確かな意思を持った目に、戦士の雰囲気に恐怖を感じた。

「流星の使徒。それは、最後に生き残った一族の末裔」

 片手持ちだった剣を両手に変え、肩の高さに水平に構えた。

「星に?」

 構えに見惚れただけじゃない。身体が竦んでしまった。必ず殺す為の構えだった。

「行くぞ‥‥」

 ネガイのような無音の歩法じゃない。

 石田畳を滑るように移動して、剣を振り上げる。一切声を出さない、敵の頭を叩き割る事だけを求めた一撃。頭どころか肩に掠っただけで、俺は死ぬ―――反撃をする余裕など無い。心臓にも届かない一撃だけで、あの剣は圧殺出来る。

 本能がそう伝えた。

 痺れを堪え、足に無理に血を通し、筋肉を起動させる。

 後ろに避けても突きが、横に避けても薙ぎ払いが来る―――ならば、しかない。大振りの長物の弱点、刃の付け根部分を狙う。

 鍔迫り合いなど狙わない。全力で駆けてくる青い目の鬼が、この頭蓋を狙い、振り下ろす直前の隙を狙う。

 銃を戻し――――右の手に拳を作る。

 呼吸すら出来ない、それどこか肺の膨らむ時間すら惜しい。青い目の鬼が金棒を振り下ろす直前、右腕を振り払い、杭を呼び出す。

 狙いは正しかった。

 確実に剣のガード数センチ上の刃を杭の切っ先で受け止め、半身の姿勢で右の拳を杭に叩き込み、刃を穿った―――筈だった。

「—――」

 剣を空に弾き飛ばし、鬼の手から全ての武器を奪う気だった。

 なのに、今、眼前で行われている光景は、身体から左肩を切り飛ばされた数舜後だった。飛んでいく左腕を、亡くした左腕で掴み取ろうとしていた。




「もう大丈夫ですから‥‥」

 誰かに頭を撫でられている。

「あなたは殺させない。あなたは私の物です」



「起きましたか?」

 目が見えない‥‥。

「一度ならず二度も死んだんです。見えなくて当然です」

 ここは?

「あなたの言う所の夢です。まさか、マトイ以外を二度も招く事になるなんて」

 夢?夢ならあの方の、

「そうですね。今の所、邪魔してきません。いえ、今まさに、あなたの精神を繋ぎ止めているのかも‥‥」

 あなたは?

「もう忘れましたか?あなたの上司です」

「‥‥上司?」

 薄く甘い香りがする。顔にヴェール程薄い布がかけられていた。

「もう話せるのですか?本当に、人間ではないのですね」

「‥‥マトイの師匠—――」

「‥‥仕方ない、今は良いでしょう。けれど、目上の存在には、丁寧な言葉を使いなさい」

 起き上がろうとしても、身体が動かない。

「動かないように、死にたいのですか?」

 頭に何か柔らかい物を感じる。身体の上にも布だけじゃない重みがある、この心地よい重みが温かくて、また眠くなってくる。

 それだけではない、甘い香りにも包まれている。不快感など一切感じない柔らかな風が顔を撫でている所為で、自然とまぶたを閉めてしまう。

「眠りますか?」

「いいえ、もう少し起きています」

「無駄な努力ですね。なんの為に?」

 このまま眠る事は出来ない。眠ってしまったら—――本当に、死んでしまう。

 いや、もう既に死したのだろうか。あの方と同じ、精神だけを守っているのだろうか。だとしたら、この心は水泡にも届かない。

「‥‥俺は、死んだんですか?」

「心は完全に死にました。けれど、身体が完全に死ぬ前に、私の夢にあなたを引きずり込みました。だから、こうして生きていられる」

 また死んだ―――俺はどうやって死んだ?そうだ、腕を無くして、血を―――

「落ち着きなさい。ここにあります」

 何事もないかのように左肩から伸びている腕を、触ってくるのがわかる。

「息を吸って、呼吸をしなさい」

 マトイよりも一回り大きい手で胸を押して、肺を動かされる。肺の動かし方すら忘れた頭と血で、押してくる手に頼って、臓器を脆く動かし続ける。

「感触はありますか?」

「‥‥はい」

 左腕に触れられた。指圧でもされているように、腕の筋肉が解かれていくのがわかる。柔らかくて冷たくて、優しかった。細い指に付けられた硬い指輪の感触すら感じられる。

「震えてますね。死は、そんなに怖いですか?」

 聞かれた瞬間、身体を刃に切り分ける感覚と、2人に殺された時の感触が、頭に流れ込んでくる。ネガイとマトイに手足を掴まれて、心臓を潰され、血を抜かれた。

 そして最後に、最後に―――死んだ、殺された、奪われた。

「‥‥好きなだけ叫びなさい。あなたには、その権利があります」



「終わりましたか?叫び疲れたようですね」

 心が砕けてしまった。中身を使い果たしてしまった。もう人の言葉すら使う事ができなかった。吐き出す物が消えてしまい、ただただ空虚さを感じる。

 ああ、この感覚も、2人に殺されている最中と同じだ。血を奪われ、熱を無くし、心を失った。あの時と同じだ、死んだ後は何も考えられなかった。

「まず目を治します。‥‥聞こえてませんね?」

 布が払われて、目に手が置かれる。ふたりの手ではない、大きな手だった。

 ネガイの手は太陽の光、マトイの手は春の風、だけど、この人の手から感じられるものはどちらでもない――――冷酷さを兼ね備えながらも導く者としての使命。冬の刈り取る力と、それを生き抜く為の導き手の温かさを感じた。

「見えますか?」

 目から手を離される。また涼しい風が頬を撫でていく。

「‥‥はい‥‥」

「言葉は取り戻しましたね。目はどうですか?」

「‥‥金のヴェール」

「見えているようですね」

 初めて会った時は、白だったのに、今日頭にかかっているヴェールは金色だった。

 顔に近づけていた目隠しを離し、両手を白のローブの前に重ねる。今回は本物のようだった。

「‥‥人形達が、」

「マトイの恋人でなければ、ここまでしていません」

 ソファーの上で人形の一体の足を枕にし、腹の上に覆い被さるようにもう一体の人形がいる。風を起こしているのか、ヴェールを摘んで靡かせている人形もいた。

 全く同じ姿の人形に囲まれて、改めてここはあの時の夢だと再確認出来た。

「私の人形はいかがですか?」

「‥‥嫌いです」

 この人に助けられて、この人形達にも守られていた。だけど、嫌いだった。

「そう。しかし、そのまま寝ていて貰います。いいですね?」

 起き上がろとしたが、膝枕をしている人形と、腹の上で布団替わりになっている人形が、それを許してくれない。

 体温まである。気味が悪い、本当にみたいじゃないか。人間そっくりの人形を、使役している。俺の目の前で――――。

「‥‥現実の俺は、どうなったんですか?」

「無傷ですよ」

「無傷?そんな訳、」

「知っての通り、あれは夢です。斬り落とされた夢のまま、目が覚めれば傷を負ったでしょうが、今は私の夢の世界です」

 意味がわからない。傷を負った夢が醒めると、傷はそのまま現実の身体に残るのか?

「詳しく知る必要はありません。このままマトイが側にいれば、知る必要のない知識です」

「‥‥マトイに頼ればいいですね?」

「その考えで間違いありません」

 この答えに、合格を与えながら、向かいのソファーに座った。

 分厚い白いローブの上からでもわかる官能的な肉体。シスター服とでも呼ぶべき衣服を、ここまで冒涜的に纏っているなんて、自分の姿がわかっていないのだろうか。

「まず、あなたを襲った流星の使徒は、あなたを殺そうとして、失敗した。私が、あなたの危機を察知出来た理由は、わかりますね?」

「‥‥鍵、ですか」

「言いつけ通り、肌身離さず守っていたようですね。さもないと本当に死んでいたでしょう」

「マトイが、持たせてくれたんです‥‥」

「なら、マトイに感謝しなさい」

 元々鍵を入れていた制服はサイナが回収した。サイナはあの鍵の事など知る筈がない。であれば、マトイが制服のどこかに仕込んでくれたのだろう。また、マトイに命を救われた。

「‥‥俺の身体は、今どこにあるんですか?」

「私が預かっています」

「どうやって、回収したんですか?」

「質問ばかりですね」

 心底めんどくさそうに、ため息を吐かれた。だけど、顔の半分近くが見えないのに、口や鼻だけで美人とわかるこの女性のため息に、心が震えたのがわかる。

 そんな女性そっくりの人形に、囲まれていると思うと、身体が熱くなる。

「私の人形に、劣情を抱くのも程々に」

「劣情なんて‥‥」

「そうですね。人形にそんな気持ちを持つだなんて、マトイが聞いたら、どれほど悲しむか‥‥」

 マトイとの関係を、いい物とは思っていないのは変わらない。鼻で笑ってくる。

「構わないのですよ。人形ですから、好きなだけ触って」

 そんなドルイダスの言葉に従うように、腹の上に乗っている人形が、この身体に柔らかいローブを擦り付けながら、迫ってくる。

「いい香りでしょう?血が巡りやすくて、気持ちがいい?」

 整った顔が鼻の先まで到着した。自分の瞳孔が開いていくのがわかる。心臓から送られてくる血が熱されて、言われた通りの心地いいものに変わってくる。

 自分の血で火照っていると、膝枕をしていた人形に首を撫でられた。この手が柔らかくて、温かくて―――動脈を撫で始める。

「好きにしていいのですよ。‥‥私の目が好きなのでしょう?」

 吐き捨てられるように発せられた言葉に、呼吸が止まってしまう。

 「相手など、人形で充分」

 言い終わった瞬間、腹の上の人形が口を奪ってきた。

 首を手で固定された。口も人形の舌でこじ開けられ、身動きが取れない。

 甘い唾液に四肢が切断された気分になった。自力で動こうという気が消えていく。ただ、人形達に好きなように、貪られていく今が、気持ち良くて仕方ない。

「いい顔、マトイとする時もそう?」

「‥‥マトイにはいつも、こうやって」

 答えさせるために、人形が口を離したが、息継ぎをする暇もなく最後唾液で塞がれうる。この光景が面白いらしく、主本体がすぐ近くに寄って、見下ろしてくる。

「今ここでマトイを呼んだら、なんて言うと思いますか?」

「‥‥」

「マトイの化け物を、私の物にした。そう考えると、悪い気分ではないですね?」

 腕を組んで、指をしゃぶるような行動をとっている。やはりマトイの師匠だとわかった。マトイと同等に、人の物を奪うのが好きだと。

「私の人形は気持ちいいですか?あれだけ嫌っていたのに、そんな人形に遊ばれて、嬉しいのですね?」

 自分のローブが地面に触れる事すら気に留めないで、しゃがみ込み、耳元で囁く。

「答えなさい」

「‥‥はい」

「いい顔‥‥」

 もう意識が朦朧としてきた。

 息継ぎのタイミングを一切用意されない今の状況は、艶やかなのは見た目だけ。

 ただ自分の物にする、望む答えを出させる、殺す事を目的とした裁判場だった。

「私の元に来れば、いくらでも人形を貸し与えましょう。時間がある時は、常に人形との時間を―――望ものなら、どんな姿であれ‥‥」

「‥‥マトイが、」

「いつか私自身が、相手をする、と言っても?」

 心臓を貫くかのような言葉に、舌を明け渡してしまう。それに笑んだ人形の主が、人形に留めを差すように指示した。甘くて熱すぎる頭でもわかった。それは―――甘美な囁きだった。求めるままに快楽を感じることが出来る契約であり、使だった。

「私の物になりなさい。そうすれば、あなたを私の中に受け入れてあげましょう」

 言いながら、自分の胸元のローブを腕で持ち上げた。

 人形からも、ローブ越しでも同年代では感じられない、肉感的な快楽を感じる。

「人形で終わらせたい?いいでしょう、見せなさい」

 人形が顔を左右に振りながら、舌で口中を舐めとってくる。

「まだ血が流れきっていないようですね?一体では足りませんか?言ってみなさい、何体欲しい?」

 形と色が美しい唇を歪ませて、背後にもう二体の人形を呼び出す。

 薄れゆく意識の中ででもわかった。美しい人形の姿を、だけど―――これでは、同じだった。俺達を造り出した人間達と、

「さぁ、しなさい。マトイではなく私の人形と」

 あの人間達の真似は、

「‥‥できません」

「‥‥理由は?」

 人形の舌を舌で追い出して、息を吸う。

「俺も、人形だからです‥‥」

「褒めるつもりはありませんが、あなたはヒトガタの呪縛から自力で逃げ出せた個体です。もう人形では無い」

 震える腕を持ち上げて、腹の上の人形の顔を撫でる。本当に人間の肌のようだ。肌だけではない、柔らかい黒髪が心地よかった。

「いいえ。俺は、ずっとヒトガタです」

 膝枕をしてくれている人形にも、手を伸ばす。

「あなたは知らないかもしれません。でも、人形にも心があるんです」

「この人形達に、心など持たせて、」

「—――そうだと思います。でも、俺にはわかります。‥‥人形達は、こんな事を望んでないって。この人形達は、あなたのコピーに近い、だったら人形達はあなたと同じ思想を持ってる筈です‥‥」

「何が言いたいのですか?」

「あなたが、俺を受け入れていない以上、この人形達も俺を受け入れてくれない。受け入れたくない、そう思っている‥‥」

 感情を持たない洗練させ過ぎた動きを持った人形達は、思考を持つ必要がない。このドルイダスが、俺との行為を自分から望んでいるのなら、もっと感情的な動きを、向けた筈だ。でも、機械的な動きをさせたという事は、自分で考える事もしたくないから、自動的な動きを選んだ。それが、わかってしまった。

「‥‥人形に心は不要かもしれません。でも、人形でも心を持つ事があるんです。‥‥忘れないで下さい」

「‥‥何故そこで泣くのですか」

 頭のヴェールをとって、ドルイダス自身が涙を拭き取ってくれる。

「あなたは、俺を救ってくれたのに‥‥」

「私もオーダーの一員です。人命救助は、何よりも優先すべき事柄‥‥」

 この人は、味方だったというのに。なぜここまで毛嫌いしていたのか―――いや、わかっている。ここまで嫌っていた理由が。

「‥‥あなたが、私を嫌いな理由は、成育者達と重なるからですね?」

 止まらない涙をヴェールで吸い取ってくれる。やはり、マトイが慕っている筈だった。この人は、今まで会ってきたどの大人よりも、優しく慈悲深かった。

「泣き止みなさい。年上、大人が嫌いのようですね。‥‥捨てられた時から?」

「‥‥それに、病院で売られた時に、酷くなりました」

 あの病院の先生達に銃を向けられて、窓から逃げ出した時に気付いてしまった。この形態を取っている人間は信用してはいけない。

 そう考えたら、もう抜け出せなくなってしまった。いずれ恋人以外の人間達を信じられなくなってしまったとしても、もう引き返せない、突き落とされてしまった。

「‥‥怖いんです。人間が‥‥」

「‥‥離れなさい」

 そう言った瞬間、腹の上にいた人形が、退いて立ち上がった。

「手を握れますか?」

 差し出された手を、上がらない腕で掴み取ろうとするが、力が入らない。

「‥‥もう少し、頑張って」

 向こうからは一切動かない。でも、ただ待ってくれている。期待してくれている。

 何度も空振り、その度に、腕に入れられる血の総量が減ってきた。最後は皮と骨だけで持ち上げて、手を叩きつけるようにしてドルイダスの手を掴んだ。

「‥‥頑張りましたね」

 ドルイダスは、自身の腕の力だけで、引き揚げてソファーに座らせてくれた。

「‥‥ありがとうございます」

「‥‥手の掛かる。マトイとは大違い‥‥」

 呆れながらであるのは、間違いないのに、慈悲深く頭を撫でてくれる。

「見た目以上に、幼いですね。頭を撫でられるのが好きですか?」

「‥‥好きです」

「私の手が好き?」

「‥‥あなたが好きです」

 鼻で笑うような事はしなくなった。今のは本心で笑いかけてくれた。

「あなたの身体は、現実の私が保護しています。今は安心して、眠りなさい」

 懐かしい―――そう言って、寝かしつけてくれた人がいた。

「‥‥皆んなは?あの場には、ネガイとミトリがいた筈です」

「無事です。けれど目が覚めたら、会いに行きなさい。マトイも心配しているので」

 頭を撫でていた手を止めて、向かいのソファーに戻った。

「何も知らないあなたには、言わなければならない事があります。本来、夢の主と殺し合うなど、自殺行為、覚えておきなさい」

 はっきりと、断言した。

「私や、あの仮面のような完全な夢を見せられる術者は勿論、現実と夢の間を使う術者でも同じ事。夢に誘われたのなら、すぐにでも脱出を心掛けなさない。現実で勝てる相手でも、夢の中では、敗北してしまう」

「—――もしかして、あの剣は」

「あのゴーレム製の剣は、現実ではなく、夢の中で真価を発揮する類のようですね。であれば、尚更、夢の中で対峙してはいけません」

「でも、マトイは」

 いや、言っていた筈だ。あなたは休んで、私達に任せろと。マトイの言葉の意味を履き違えていた。

「‥‥夢を破る方法は?」

「相手に夢を維持出来なくなる程のショックを与える。術者同士なら他の方法もありますが、これが一番現実的です」

 ショックを与える?相手を殺す程の一撃を加えればいいのという事だろうか。

「‥‥殺せばいいんですか?」

「それも一つの手でもありますが、あなたでも可能は方法は、あの剣を破壊する事」

「できるんですか?」

「可能です。けれど、あの剣を叩き折れとは言いません。ゴーレムの文字を乱しなさい」

 ゴーレムの文字‥‥、あの包帯の下にある模様の事か。

「あなたも見たとマトイから聞いています――――刀身の文字を削りなさい。ゴーレムが複雑なら複雑な程、ただの傷一つで簡単に崩壊する。報告ではあの剣だけは手放さなかったとか?あの剣がそれほどまでに大切ならば、目の前で破壊すれば、それだけで戦意を喪失するでしょう」

 可能性の問題として杭と脇差しがあれば、光明が見えるかもしれないが、あそこまで縦横無尽に振り回されては、剣の側面など到底狙えない。

 それどころか、確かに捉えた筈なのに、剣は気付いた時には、左腕を切り落としていた。どうすればいい?

「目を使いなさい」

 心を読んだように、告げてきた。

「‥‥俺の目ですか?」

「あなたの目は、全てを見通す千里眼に近い事が可能と聞いています。なら、例え夢の中でもその目は、力を発揮する」

「‥‥でも、」

「使いこなせない。そうですね?」

 あの方が折角ヒントを下さったのに、また負けてしまった。

「‥‥あの上位の存在は、その目をなんと?」

 顎に手をやって、考えながら聞いてきた。上位の存在、確実に仮面の方だ。

「この目は、見たい物を選べて、それに、見たくない物は見ないで済むと‥‥」

「今なんて‥‥?」

 さっきまであれだけ余裕だったマトイの師匠が、急に言葉を被せてきた。

「見たくない物は、見ないで済むと‥‥」

「やはり、その目は人間には耐えられない‥‥。あなたが持っていて正解でした‥‥」

 得心が入った、改めて驚いたように呟いたドルイダスが立ち上がり、また傍に寄ってくる。

「目を見せなさい」

 言われた通りに上を向いて目を見せると、自身の目隠しを剥いだ。

「‥‥やはり、あなたは‥‥。‥‥信じざるを得ないようですね」

 まだ二回しか見ていないが、この紫水晶を敷き詰めたような目は、どこまでも美しい。これが魔眼なのか。

 瞬きをする度に、輝く水晶が変わっていく。光を閉じ込めたように乱反射が目の中で起こっているのがわかる。

「‥‥もういい。楽にしなさい」

 気が済んだのか、目隠しを戻して、自分の席に戻った。

「目を使いこなす方法は、人と目による為、多岐に渡ります」

「全員違うんですか?」

「類似した方法で開眼する人もいますが、それでも自分だけのイメージを持った方が目の真価を発揮できる。決して、他人の物を目指さず、比べないように」

 魔に連なる存在達の修行の一環として、この人もマトイも修めたのか、すらすらと言葉が出ている。

「固有のイメージは、それだけで自分だけの特色、力を持つ事になります。あなたは目にどのようなイメージを持っていますか?」

「イメージ、ですか‥‥」

 この目は、元々は門として使われる筈だった。そう言っていた。だけど、その在り方を固定して、完全なる眼球とした。

 だから門のイメージは使わない。

 ならば、宝石だ。あの方が最初に言っていた目は宝石という表現、これももう俺の中に染み付いている。

 そして、あの方の目だ。赤い星のようだった。遠くから見える輝きの如く、幾つも鋭い筋が伸びて輝く――――あれはまさしく星だった。

「宝石と、星です‥‥」

 夢の中だと、こうなるのか、頭を使って考え過ぎて、眠くなってきた。

「宝石と星、確かにそれは相応しい――ならば‥‥もう限界ですか。全く‥‥」

 嘆き通り、もう限界だった。ソファーの背もたれに体重をかけて、頭を固定する。

 それでも、かろうじて話しを聞こうとするが、首が前に垂れそうになる。そんな俺の背筋を伸ばさせようと、いつの間にか、後ろにいた人形が両肩に手を置いてくる。肩を動かさないで首を固定してくるが、そんな支えは些事だった。

 呆れたように、ため息を吐いて、眉間に指をつけながら頭を振った。

「ならこれだけは覚えなさい。宝石も星も、あなただけが持ち得る心象です。自分の中で、それらの確固たるイメージを持ち、自己の力を仮定し、肯定しなさい。あなたは今、自分の刃がなんなのかもわかっていない、そんな無手では、負けて当然」

 頭が熱くなっていくのがわかる。このまま眠ってしまえれば、どれだけ気持ちいいだろうか。でも、最後に聞かないといけない。

「‥‥刃を持った時、俺は、俺のままですか‥‥?」

「それは自分が決めなさい。変わらなければならないと判断したのなら、今の自分を捨てなさい」




「会って早々に‥‥ふふ、甘えん坊‥‥」

 いつもと変わらない、優しい声だ。

「‥‥怖かったですね」

 頭を撫でてくれる。普段通りの心地いい柔らかさだった。心の底から想ってくれているのが、手付きでわかってしまう。宥めるように、愛でてくれていた。

「‥‥ごめんなさい。目を使えませんでした」

「いいんです。あなたに過保護ではいけないと、厳しくした結果でした―――責任は、私にあります」

 姿が見えた瞬間、台座を駆け上がり、玉座に座っている仮面の方の足に泣きついてしまった。きっと何よりも情けない姿だっただろう。だけど、背中を揺らして泣きじゃくる無様な俺だというのに、仮面の方は声をかけ続けてくれた。

「‥‥本当に、死ぬ所だったんですね」

「そんな事、聞いてはいけません。あなたは生きている、それだけで今は充分です」

 本当に紛れもなく死ぬ所だった。あんな孤独に、冷たく死んで行くのはもう嫌だ。

 メメント・モリ―――死を忘れるなかれ。死の恐怖には、どうしたって、抗えない。それは、生きている者、万人に等しく降り注ぐ。

 そんな物、一番知っていたのに――何故、一人でやれると思ってしまったのか。

「さぁ、目を見せて。私に顔を向けて」

 両手で、顔を挟みながら、そう促してくれた。

 だけど、見せたくなかった。涙で目元が腫れ上がってしまっているのが、わかる。何よりも、この方に向けられる顔を作れないし、持ち合わせていなかった。

「‥‥醜いですよ」

「そんな事ありません。あなたが醜かった事なんて、一度もありません」

「また、油断して負けたのに‥‥」

「あなたは一度も油断なんてしていません。生き残ろうとするあなたの姿は、いつも誇り高い。顔を上げて、私の星よ」

 この方の言葉なら、信じられる。心の底から。

「‥‥どうですか?」

 顔を上げて、出来るだけ涙を我慢しているが、困ったような顔をされた。

「いつもより、少しだけ」

「少しだけ?」

「可愛い顔をしていますよ」

 それは、きっと情けない顔の言い換えなのだろう。

 やはり、仮面の方は優しかった。情けない自身の星が満足するまで足を貸して、手で宥めづつけてくれた。自分の力では止められないが治るまで、大丈夫と言い続けてくれた。

「ふふ、落ち着いてきましたね。さぁ、質問をして下さい」

「—――夢の中では、あそこまで自由な軌道を剣で描けるのですか?」

 仮面の方に甘え過ぎてしまった。よって少し自粛する為、台座から降りて大理石のテーブルを挟んで銀の椅子に座る事とした。

「本来、夢とはそういう場所ですから。ここだって、常に私の思い通りです」

 言いながら、部屋に置いてある石造に視線だけで命令、独りでにテーブル近くまで移動させる。

「マトイの師匠から、夢を破るには、相手にショックを与えるのが現実的だと言われました」

 移動してきた石造は、剣と天秤を持つ女性を模したものだった。の為の布も、石で表現されている。

 ギリシャのテミスか、はたまたローマのユースティティアか。日本の最高裁判所にも設置されている正義の女神、その姿だった。

「その認識で間違いありません。もしくは、前にお見せしたような、術者の夢に自分の夢を重ねて支配域を上書きするという方法もありますね」

「‥‥俺には、難しいそうです」

「ふふ、出来ない事かもしれませんが、術者のやり方に合わせる必要も無いですから。確かに、ショックを与えて、自滅させるのがわかりやすいですね。剣を破壊しろと、言われたのですか?」

 まるで、つい先ほどの会話を見ていたような様子だった。だけど、きっとそうではない、言われたのですか?と聞いた以上、そう言われたのですね?と聞いたのと同意義だった。

「やはり、それが自分に出来る唯一の反撃みたいです‥‥わかりましたか?」

「あなたがずっと剣を見ているので、多分そうなんだろうって。当たったみたいですね」

 片手を頬につけて、上品に笑われる。やっぱり、綺麗だ‥‥。仮面で目元が隠れている事を差し引いても、この美しいさに陰りなど見えない。むしろ隠れているから、隠された秘奥に美を感じてしまうのかもしれない。

「あの剣はゴーレムだから、文字に傷をつければ破壊する事が可能だと、俺でも出来ますか?」

「出来ますよ。寧ろ、あなたに出来る夢を破る方法を模索した時、どうしてもそこに行き着くと思います。あの刃達を持っているのなら尚更です」

 自然と石造の剣に目が行ってしまう。

「‥‥聞いていいですか?」

 石造から目を離して、仮面の方に向き直る。

「ゴーレムにも、意識があるんですか?」

「答えていいのですか?」

 俺からの質問に、間髪入れず、聞き返してきた。驚く事は無かった。

 予想通りに朗らかな表情から、一転して真剣な表情で見つめてくる。

「あなたは人を殺す訳ではない。壊すのは、ただの刃、それだけです」

 ならば、きっとゴーレムには意思に近いものを持っているのだろう。

 同時に、おおよその見当もついてしまう。恐らくヒューマノイド型の生物よりも、原始的な思考を持っている。自分の役目を全うするという回路を。

「‥‥あのゴーレムを破壊した所で、誰もあなたを責めません。あなたは敵の攻撃手段を奪う、それだけです」

 仮面の方が、石造の持っている剣を撫でながら安心させてくれた。

「ゴーレムを同胞とは、思ってはいけません」

「‥‥はい」

「あれらはただの道具、呼吸は勿論、血肉も持っていません。ただの牙や爪に角、それ以上の存在ではないのですから」

「‥‥すみませんでした、感傷的な気分になってたみたいです」

 天井の星空を見て、心を入れ替える。

「破壊する事を選びなさい。それが、あなたの選んだ生きる道です。それに」

「それに?」

「あなたがしなくても、いずれ誰かがします。あのゴーレムは、多くを傷つけ過ぎた。哀れな使い手は、剣に振り回され過ぎた」

「‥‥あの使い手の事ですか?」

「それよりもずっと昔から、あのゴーレムが生まれた時からずっとです」

 手を振るようにして、石造を元の場所に戻した。

「‥‥もし、」

 石造に向けていた視線を、こちらに戻した。

「もし、あのゴーレムの事を思うのなら、破壊して下さい。あのゴーレムは、血に酔っています。その酔いが使い手の心を蝕んでもいます」

「‥‥俺を襲ったのは本心では、ないと?」

「いいえ。あなたの身体で切れ味を試したと思ったのは、彼女の本心です。でも、あの剣を持たなければ、そんな事はしませんでした。あなたは哀れむと同時に怒って下さい。あの剣さえなければ、無用な傷を受けなかった。これは事実です」

 そうだ、俺はあの剣がなければ、今もネガイやミトリと一緒に居れた。

 この方と話す内容だって違った。もっと、この方との時間を楽しめていた。

「怒って下さいね。実を言うと、私自身怒ってますから。あの剣に―――」

 冗談で言ったつもりでは無いとわかった。表情の筋肉を一切動かさなかった。

「私の物に、傷をつけて、あまつさえ命も奪おうとした。‥‥砕いても砕いても、きっと、気が収まりません」

「‥‥俺が砕いてきます」

「お願いしますね」

 本気で怒っているのが、微かに細めた目から伝わった。

「この怒りを少しでも、紛らわせるには、どうすればいいと思いますか?」

 背筋が、凍りついていくのがわかる。同時に、身体中の血が沸騰していく。捕食者の目となった仮面の方は、机を消しながら椅子から立ち上がり、頬に手を伸ばしてくる。強大な形容し難い何かの眼前に、何も纏わずに放り出されたようだった。

「どうすればいいですか?」

 頬から滑らせた指を顎につけられ、操り人形のように目を合わせてしまう。

「‥‥俺を、食べる事です」

 震える口、唾液が止まらない口で呟く。食べられるのはこちらだというのに、これから受ける快楽に、心が屈服している。

「それだけでは足りません」

 顔が裂けるような笑顔を浮かべて、肩に頭を置いてくる。

「私を食べてみませんか?」

 気絶しそうだった。その言葉に視界の大半が真っ赤に染まっていく―――触れている肩から血が吹き出しそうだった。

「‥‥いいんですか」

「構いませんよ、私を食べて‥‥」

 床の事など忘れて、仮面の方を押し倒す。

 仮面を引き剥がし、赤い星を露出させる。そんな俺の必死さが楽しいのか、耳に手を添わせて、撫でてくれた。

「‥‥目だけでいいんですか?」

 挑発に促されるまま、口に飛び込んだ。口の中も真っ赤で、舌が溶けてしまいそうだった。でも、舌も火傷するほど熱されているのは、こちらも同じだった一瞬触れた舌が手をこまねいてくる。

 仮面の方の顔ごと喰らうつもりで、隠れている舌を吸い出し、絡ませる。

 もう人間と人形の感触を知っている。でも、この方の感触はまた違う。

 人間の身体を持っているのに、人形に近い、作ったような整い過ぎた中身を持っていて、唾液があまりにも熱すぎて、いつまでも味わっていられた。

 蠱惑的で背徳的な薬物よりも、甘い唾液に惑わされ続けている。血の聖女とは比較にならないぐらい特別で、命の危機すら感じる快楽だった。

 これを味わえるのは、俺だけだった。

「‥‥いかがですか?」

 肩で息をしているのを初めて見てしまった。

「‥‥もう聞こえてませんね。さぁ、まだ、奪っていないモノがありますよ。私を満足させて」




「満足です。あなたが私に食べられるのが好きな理由がわかった気がします」

 血で濡れた艶やかな手と足に頭を挟まれながら、仮面を戻す光景を目の当たりにしていた。

「でも、途中から気が変わってしまい、ごめんなさい。最後は私が食べてしまいましたね」

 お陰で、未だに内臓が幾つも足りない。精も根も、何もかも奪われてしまった。しばらく、ミトリの望みには答えられそうにない。

 ここまで、身体の中身を奪われた事は無いのではないか?そう思ったが、ネガイに一度、吸い尽くされた事があったのを思い出す。

「でも、私の欲にここまで答えてくれるなんて、流石は私の星です。味わい尽くさせて貰いました」

 舌舐めずりの音が聞こえるが、今更怖くない、もう何も残っていないからだ。

「‥‥疲れました。もう、眠いです‥‥」

「そう言う割に、満足そうな顔をしてますよ。また食べてあげますからね」

 微笑みながら、目に手を置いてくれる。もう時間だと告げられる。

「‥‥お願いします。俺も、待ってますから」

 声を発するのも限界だった。比喩表現でもなんでもなく、仮面の方を腹の中に入れて死んだ。これ以上の死に方は無いと断言できる快楽の中に、微睡を感じていた。

「今度は夢の中で戦おうとしないで、恐れず目を使い、夢を打ち破って下さい。あなたは私の星であり、宝石です」

「‥‥だけど、」

「大丈夫」

 置かれた手から、これ以上ない程の眠気を誘う熱が送られてくる。

「その目はあなたの物です。あの女達が戻る事も、あなたの恋人を傷付ける事もありません。私を信じて」

「‥‥そう言われたら、信じないといけないじゃないですか‥‥」

「あなたは私の恋人ですよ。私の言う事を聞きなさい♪」

 心底楽しいのか、見えない筈の笑顔が見えてくる。

「これで、あなたの全ては私の物。よく聞いて下さい」

 耳に届く音がぼやけ始めた。仮面の方の声が何重にも重なって聞こえる。

「私は、あなたを甘やかすと決めました。あなたの為にと、我慢してきた宝石、星を送ります」

「‥‥星?」

「それも、ただの星ではありません。宝石の星です、存分に使って下さいね」

 またこの方に頼ってしまった。甘え過ぎてはいけないと決心したというのに、ますます好きになってしまう。例え夢の中でとはいえ、離れるなどあり得ない。

「‥‥愛してます。俺の女神様‥‥」

「私も愛してます。私のお星様‥‥。さぁ、眠って、今度はあなたの世界を見せて」

 この目は、見たい物を見せてくれる。そうだ、もう向こうの用意した舞台でやり合う必要はない。だから、今度は俺の世界に引き摺り込んでやればいい―――

「‥‥今度会う時は、勝ってきた時です。おやすみなさい‥‥」

「はい‥‥おやすみなさい‥‥」

 最後は簡単に、手で握り潰された。こんなに簡単に殺されてしまうというのに、潰れる感触すら噛み締めてしまうほど、この手が好きだった。




「私が保護、本当に、その通りだったなんて‥‥」

 初めてリムジンに乗ったが、これで最後なのだろう。

 目が覚めた時、人工呼吸器をつけていた。治療の後なのか、上着を脱がされて腕に包帯が巻いてあるがはない。切り落とされなどいなかった。

 また夢と同じように、人形達に囲まれて横になっていた。

「‥‥これが法務科の財力ですか」

 制服を着ながら、車内を見渡す。

 天井にはシャンデリアのようなガラス製の滴が幾つも光を発していた。目の前のガラスのグラスは、ガラスのテーブルに張り付いたように全く滑らないでいる。

 全体的な色合いが白なのは、この人の好みなのだろうか。

 ドアの裏側や窓の周りは白い革で囲まれ、車体に沿うように設置されているソファーも白。まるでシンボルカラーのようだった。

「これは私の私物です。これ以上は聞かないように」

 車の奥のソファーに人形達の主が座っていた。

 また、この人の世話になってしまった。法務科としてではなく、この人は個人の立場として救ってくれた。

 法務科の立場としてなら、俺の事など放置していた筈だ。ただし、俺の死体を外に運び出そうとした場合は、また違う反応をしただろうが。

「‥‥これからどこに?」

「あなたの部屋です」

「—――いいんですか?」

 一度ならず二度も負け、今度は本当に死にかけたのに。そんな俺を放置するのか?

「‥‥あなたは自分を卑下しているようですが、夢の中でなければ、あなたは完勝していました。夢を破る方法がわかった以上、もうあなたを保護する必要はありません。それに、あなたには名前がついています、これ以上の無用な接触は法務科としての沽券に関わります」

 忘れそうになってた。法務科からもオーダー本部からも名前がつけられていたと。

「‥‥あのセンスはどうかと」

「言わないように。私にとっても、望むところではありませんでした‥‥」

 これはこの人の癖なのか、眉間に指をついてまた頭を振っている。

「そんな事より」

 振っていた頭を、戻し静かに息を吐いた。

「あなたが死にかけた事は、マトイにも秘密になっています。私があなたに用があったから、連れ出した。話を合わせるように」

「‥‥彼女は?」

「適当にあしらって、退かせました。流星の使徒の生き残りだと聞いて、多少は期待してましたが、まだまだ経験が足りません」

 目が覚めた時のつまらなそうな態度は、それも加味してのだったのかもしれない。

「言っておきますが、この件は全てにおいて秘密です。なぜ私が生き残りを逮捕しなかったのかは、それが理由です。いいですね?」

 本当に私的な考えで救ってくれたようだ。

 名前がつき、必要以上に接触してはいけないをこうして守ってくれている。この人は、信じていい人だ。心の底から―――そうわかった。

「もうすぐ、着きます」

 車の運転席を見ながら、そう告げた。見えているのだろうか?そう思って振り返っても、運転席は白い革のソファーと壁で閉じられているばかりだった。

「目を凝らしなさい。あなたにも、見える筈です」

 目隠しをした眼球を運転席に向けながら、見ろと言ってくる。

「‥‥」

 運転席に眼球を向ける。目を凝らすが、やはり見えるのはソファーばかり。

「イメージしなさい」

 耳元で人形が呟いた。

「あなたの目は、星です。こう思いなさい。自分の目は金星だと、金星の光は地球の全てを照らしていると」

 金星が輝くのは太陽の光の80%を雲で弾いているからだ。だが、そんな知識を持たないマヤの人々は金星と太陽は双子だと考えた。

 金星の特別性は、世界の神話でも語られている。ヴィーナスにアフロディーテ、イシュタルにイナンナ、金星の輝きから女性の面影を感じ取り、女神そのものだと信じられていた。その結果、信仰が生まれる。

 世界中の人々からの祈りを、その一星に受けた2番目の太陽。

 逆説的に言えば、太陽が地球の全てを照らしているのなら、金星の光は地球の全てに届いている。

「この星にあるものは、あなたの目から逃れられない。選びなさい、何が見たい?」

 左胸を前と後ろから挟むように、人形が身体越しに手を重ねてくる。

 熱い―――血を送られているみたいだ。自然と目に血が宿り、視界の隅が赤く染まっていくのがわかる。

「目に呑まれないで、自分自身を支配しなさい」

 染まった視界の隅から血の気が引いていく、だけど、開いた瞳孔は閉まる気配もない。寧ろ、徐々に視界が広がっていく気すらする。

「特別です。触媒にしなさい」

 口の中に、熱い唾液が送り込まれてくる。左右の脳が裂けていく―――ああ、そうだ。この感覚だ。頭を絞めていた何が解放されていく。

「‥‥この先‥‥」

 透けて見えた訳じゃない。でも、確かに見えた。星から見下ろすように、運転席にいるスーツ姿の人形と車の先が。

「‥‥公園が見えます。それと」

 ミトリと一緒に襲われた公園が見える。更に住んでいる寮も、寮から出てくる恋人の姿も。

「‥‥っ‥‥。しながら喋らないで‥‥」

 水っぽい音を出しながら、人形が離れた。

「これが、俺の目ですか‥‥?」

 急激な疲労感が襲ってきた、目が半開きになってしまうと同時に睡魔が―――。

「‥‥その目の力はその程度ではありません。けど、今はそれで十分」

 ソファーに体重を預けていた俺の頭を2人に人形が撫でてくれる。子供扱いされている気になってしまうが、髪を優しく梳かれているようで、

「‥‥もう一回。気持ち良かったので‥‥」

「次は1人だけでしなさい。私の口を自分から求めるなんて、まだまだ早い、」

「撫でて欲しかったんですが‥‥」

 車の後方にいるマトイの師匠に向いて、わがままをもう一度言ってみる。また眉間に指をついてしまった。

「聞いた通り、被虐趣味で我慢を知らない‥‥。マトイが次のいじめ方を聞いてくる筈です‥‥」

 マトイの被虐趣味はこの人譲りだと、改めてわかった。夢の中でなんて、まさにそうだったと得心がいった。むしろ、らしいとさえ思った。

「‥‥いいでしょう。マトイとの関係があるからと言って、あなたを嫌うのは止めます」

「認めてくれるんですか‥‥!マトイにどう報告しよう!!きっと喜んでくれる‥‥!」

 やっとマトイとの関係に申し訳なさを感じないで済む。

「マトイに連絡しないと‥‥!あ、次会う時は、マトイと一緒に挨拶を―――」

「落ち着きなさい!!認めた訳では‥‥わかりましたから、そんな顔はやめなさい‥‥」

 相当情けない顔をしていたのか、眉間の指はそのままに、手のひら向けてくる。

「気が多いにも程があります。マトイにも、私にも、その目を向けてくるなんて‥‥。まずはマトイに相応しい化け物になりなさい。あの子に、ただの人間では釣り合いが取れないと思っていました。それと、私との関係も目指すのなら、力を磨きなさい。以上」

 車が止まり、ドアが開く。

「降りなさい。マトイを待たせないで」

「‥‥撫でて下さい。次、いつ会えるかわかりませんから‥‥」

 もう諦めて呆れた。そういった感じで、人形の主自身が立ち上がって、頭を撫でてくれる。

「‥‥気持ちいいです‥‥」

 自分から手に頭を押し付けてしまう。

「それは何より―――全く、可愛らしい‥‥」

「マスター?弟子の彼に餌付けなんて、いい趣味をお持ちですね。このマトイ、今の今まで知りませんでした」

 首が外れるのでないか?そう思う程の骨の音を立てながら、首を振り向かせた。

「お世話になりました」

「挨拶はいいから、早く降りなさい‥‥」

 目隠しの下を真っ赤にさせて、車の奥に行ってしまった。

 本当はもう少し撫でて欲しかったが、我慢して外に出る為に立ち上がり、ドアの内側に手をつけた時、

「マスター、彼を情夫にしたいのなら、私と一緒に」

 人形に背中を蹴られ、マトイを押し倒すように路面に放り出されてしまった。振り返る暇もなく、何事も無かったようにリムジンは夜の闇に消えていった。

「大丈夫か?」

「ええ、あなたが守ってくれたお陰で」

 とっさにマトイの頭と背中に腕を入れて、直接路面に倒れ込むのを防いでいた。腕は問題なく動くと、確信した。

 マトイから起き上がりながら、手を差し出し、掴んできた手を引き寄せる。

「驚きました。マスターがあなたを急に連れて行くなんて、何をされました?」

「‥‥目についてな。少しだけ手ほどきを受けてきた」

 誰にも、今回の事は教えてないというのは本当らしい。マトイは驚いたように聞いてきたので、半分だけ答えを教える。

「目について‥‥。‥‥取り敢えずは、寮に戻りましょう」

 本当に、心配してくれていたらしく、手を胸に引き寄せてられる。

「‥‥心配かけてばかりで、悪かった。ただいま‥‥」

「今度は、一言下さいね。おかえり‥‥」




「目の使い方‥‥。確かに、それはマスターでないと、教えられませんね」

 背中にマトイの視線を感じ、首だけで振り返って「ああ、そうみたいだ」と返事をして、すぐにフライパンに視線を戻す。

「でも、よかったのですか?マスターからの誘いを断ったというに」

 少し焼いたシャケの切り身をバターで炒めて、醤油を垂らす。いい感じだ、シャケだけではなく、一緒に炒めているキノコからもバターの乳製品特有の芳潤な香りを感じ始める。さらに少し焦げた醤油の香りも漂い、マトイも声を一端止めてしまう。

「‥‥いい香り」

「ありがとう。サイナを呼んできてくれ。そろそろ、2人も出てくるだろうから」

「わかりました」

 ちょっとした得意料理だ。本当ならアルミホイルで巻いて蒸し焼きにしてもいいけれど、フライパンを腕と肩で振っていたかった。

「‥‥だいぶ、治ったか」

 イノリの鍼と仮面の方の血、人形達の体温にミトリの献身―――ここまでされてようやく満足に体が動かせるようになった。毒を抜くには、ただ薬を飲むだけでは足りない、自身の体温や抗体を高める、時間を掛けて体に慣らすのも不可欠だった。

「あ!懐かしいですね♪」

「そんな前じゃないだろう?皿と箸、それと」

「お茶ですよね?これには、渋い味が好みでしたね♪」

 心を盗まれたみたいだった。サイナは、俺の望んでいた茶葉を戸棚から出して、ポットに火をかけ始める。

「私もいい?」

「勿論」

 マトイが背中に手をつけて、聞いてきた。

「‥‥気持ちいい‥‥」

 温かい手で、まだ焼けつくような痛みを持つ背中をさすってくれる。

 背中だけじゃない。身体の表側である腹や心臓、それに首元にまで熱を感じる。風呂に入っている気にもなってくる。

「‥‥心配かけた」

 火を止めて、フライパンのシャケはそのままに、後ろのマトイに振り向く。

「心配かけてばっかだな‥‥」

「‥‥許して欲しいなら、こっちに」

 両手を開いて、マトイが俺を求めてくる。すぐ隣にサイナがいる事も忘れ、マトイの背中に腕を伸ばす。お互いYシャツの所為で、シャツのボタンが軋んだり、お互いに食い込んだりもするが、マトイも俺も何も言わなかった。

「‥‥常に、側にはいられない」

「私もそうよ‥‥。ずっと一緒にはいられない。だから、今は、ずっと側にいて‥‥。何も言わずに消えないで‥‥」

「‥‥ごめん」

 マトイの髪からがする。俺を待ってくれていた。帰ってくるのを、あの坂と同じように信じていてくれた―――。

「‥‥後で話そう」

「うん‥‥」

 きっと気付かれている。抱きしめられた時、身体中を探るように触れてきたからだ。マスターと仰ぐ人が、ただで目の手解きをする筈無いと知っている。

 やはり2人は家族に近い関係性だとわかった。お互いの事を、お互いが気にかけている――――これも、家族の形なのだろう。

「私もいますよ!構って下さい!」

 マトイと離れた瞬間、サイナが背中に張り付いてきた。

「‥‥私だって、心配したんですよ。連絡が来るまで。4人でどれだけ探したか‥‥」

「‥‥ありがと、悪かった」

 腹に回っているサイナの腕に指を添わせる。

「サイナ、俺は」

「変わりません。あなたは私の相棒です。急に居なくなっても、それは変わりません」

「いいのか?」

「私に、悪いと思うなら、絶対に生きて帰ってきて下さい‥‥。私の助手席はあなた以外ありえません」

「‥‥必ず、全部話すから‥‥。今回は直接関わらないでくれ。サイナが消えたら―――俺は、人間の世界に戻れなくなる」

 腕を回して、後ろのサイナの肩に手を置く。

「仕方ないですね♪今回もセコンドとして、あなたのバックアップをしましょう♪」

 サイナが背中にいてくれるなんて、こんなに頼もしい事はない。百人力どころか、百人斬りが出来そうな気分だった。

「‥‥よし、夕飯だ」

 サイナを背にしたままで、フライパンの中のシャケの切り身とキノコを共に皿に盛り付ける。5人分という事もあり、かなりの量となっているが、ネガイが買い置きしていた切り身があってよかった。

「あ、キノコ大丈夫か?」

 サイナは前に食べていたから大丈夫だろうが、マトイはわからない。‥‥昔、俺は食べれなかったから、嫌いな人がいると知っている。

「食べれますけど、どうして?」

「俺は昔食べれなかったから、大丈夫かと思って」

 未だに背中に張り付いてサイナにシャケの皿を任せて、隣のポットから急須にお湯を入れているマトイと話す。

「今は平気なの?」

「ああ、というか、この料理にはキノコがないと、しっくりこなくて。それで食べれるようになった」

 この料理は、1人暮らしを始めた時の試行錯誤の結果だ。シャケだけでは物足りない、玉ねぎ等々も使ってみたいが、味の足し算を考えた時、キノコがよく合った。

「シャケですか」

「あ、いい香り。バターですね?」

 寝巻き姿の2人が脱衣所から出てきたので、石鹸の香りが部屋中に漂ってきた。

 あの風呂は、俺とネガイでは窮屈に感じるが、ネガイとミトリなら丁度いいのかもしれない。

「腕は大丈夫ですか?」

 ネガイがさっきのマトイと同じように、背中を撫でてくる。

「どうですか?」

「気持ちいいに、決まってるだろう‥‥」

 また、目元が熱くなってきた。今日はよく眠れそうだ。

 ネガイとは別の手が、背中に触れてくる。風呂上がりだから普段よりも熱が高い、最近よく感じている手だ。

「驚きましたよ。急に消えるんですもん、連絡しても出なくて」

「悪かった。俺もあそこまで―――」

「正直に言って下さい。でないと、また怒りますよ」

 全員に気付かれていた。それとも、話を合わせろというものは嘘だったのか。どちらにしても、いずれ話さなければとは思っていた――――もう、嘘はつけない。

 俺とサイナでシャケの皿に箸などの食器類、お茶をマトイ、ネガイとミトリが机の上の準備となった。

 漠然としてだが、食事の仕事が全員に決まってきたのを感じる。憧れていた風景だったからだ、この風景を好ましいと思っている自分がいた。

「それで、なぜマスターは目の手解きを?」

 それぞれにシャケや茶が渡り、食卓についた時、マトイが先陣を切ってくれた。言い難い事を、こうも率先して聞いてくれると、俺も話しやすかった。

「‥‥結論から言うと、流星の使徒から襲われた」

 誰も何も言わないで、話を聞いてくれる。

「そこで、ほとんど死にかけた。弱い俺を見兼ねて守ってくれたんだ」

 塩気がある甘いバターを渋い茶と一緒に口に入れる。シャケの風味とバター、茶の渋みがそれぞれ喧嘩しないで、口の中に広がってくる。

 それらを飲み込んだ後に、白米を口に入れる―――――腕を切り落とされていたら、こんな贅沢もう出来なかっただろう。

「それで、目の使い方とゴーレムの壊し方を教わってきた。次は夢の中でやり合うのは避けなさいって‥‥」

 腕の件は、話せなかった。

「あの剣を砕けば、高い確率で夢は壊せるらしい」

「それで間違いないかと、剣だけは手放さなかったと聞きました」

 大切な物を破壊されると、夢が維持できなくなる―――まるで、あの剣が夢の中心点、もしくは核のようにも感じた。

「後で傷を見せて下さいね」

 ミトリに隠し事は出来なかった。傷の痛みはかなり引いたが、上がらないのは今も変わらない。持ち上げた箸の高さに違和感を持たれてしまった。

「ああ‥‥頼むよ」

「はい、お願いされました」

 小首を傾げて、笑いかけてくれる。眩しい。金星の化身は、ミトリのような女の子なのだろう。

「サイナ、俺の装備は?」

「明日の夜には到着しますよ。期待して待っていて下さいね♪」

「よし‥‥」

「それで〜、お勘定は?」

「好きなだけ持ってけ」

「もう‥‥、ほんっとうに愛してます!!金払いのいい恋人って、なんでこんなに、愛おしいでしょう。夜這いをしても?」

 冗談なのか、それとも本心なのか。ネガイやマトイにミトリがいる中で恥ずかしげもなく言い放った。

「これが終わったらな」

「むぅ、流しましたね。いいでしょう、ガマンします」

 茶を注ぎながら、にこやかに三人分の視線を受け流すサイナは、この食卓の主というに相応しい風格を持ち始めていた。

「仕事だったか?これが終わったら、手伝うから」

「勿論です♪あなたには、手伝って欲しい仕事が沢山ありますから♪」

 待ってましたとばかりに、両腕で胸を揺らしてきた。

 中等部でも、比べ者がいないのでは?と思っていたサイナの身体は、高等部に入って尚更、己を強調し始めていた。しかも、それを武器として使う節があった。

「それで、何を始めるんですか?」

「あの女に、流星の使徒を辞めさせる」

 大人しく言うことを聞くとは到底思えないが、それでも―――確信している。

 今の状況にあの彼女自身、受け入れ難いものを抱えているように感じた。流星の使徒の内部がどういったものなのか預り知らぬが、あそこにいていいとは思えない。

 それに、オーダーに来たがっているように見えた。これは、間違いない。

「その為には、撃破しないといけない。まず最初の関門は、夢の中に身を置く事―――危険なのは、わかってる。だから、向こうの手足を削る」

 これはマトイがいれば可能だと言われたが、直接、俺が破壊する事に意味がある。

「その為には夢を壊す、剣の破壊が必定だ。だから、目を使わないといけない――――これが第二の関門」

 目については、自分の中の問題としか言えない。周りに頼る事ができても、最後は自分一人でどうにかしないとならない。正気の内に、止められればいいのだが‥‥。

「可能ですか?目を使いこなせているとは、あなた自身思っていない、戦場に立てば、という思考は捨て去るべきでは?」

「ああ‥‥だけど、狙われてるのは、俺だ―――」

 マトイの言う通り、あまりにも都合が良すぎる。楽観的と言われれば、それまで。

「しかも、一度あの人が追い払った。確実に警戒してると思う―――俺が直接出張らないと、そうそう姿は見せない筈だ」

「—――この街から出る方法は今や限られている、封鎖が終わるまで潜伏されては、厄介ね」

 既に法務科となったマトイの目線だけで、寒気を感じ始める。

「ゲートが復旧するのは時間の問題です。復旧されてはいくらでも外に出れてしまう。放置する気などさらさらありませんが、あなたがいなければ姿を見せないのであれば、私達がすべきは、ゲート復旧前に彼女を捕まえる事」

「‥‥得意分野だ。もう追いかけ回されるのはごめんだ―――覚悟して貰おう」

 この街で、俺に手を出した罰だ。ただでここから出す訳にはいかない。相応の品を貰わなければ、生きて返す事も能わないと理解させる――いや、出られるとは、思わないようにさせなければ。

「‥‥危険では?だって、今もそうですけど‥‥、あなたを誘拐する為にオーダー街に入り込んだのに‥‥」

「いや、もう我慢の限界だ。折角のミトリとの時間を散々、邪魔されたんだ‥‥。いい加減—―――始末したい」

 目の血管に血が流れ込んでくる。まだまだ自由に扱えるようになったとは言い難いが、これなら対抗出来ると確信している。

 夢の中に、月は無かった。だけど、消えた訳じゃない。実際マトイが夢を壊した時、月が顔を見せた。金星もまた然りだ。

「始末しちゃダメですよ!!」

 ミトリが身を乗り出して、叫んでくる。

 ネガイもマトイも、そんなミトリを見て、微かに笑った。

「大丈夫。俺は、殺しに行くんじゃない」

「‥‥本当ですか?」

「ああ、だからミトリも一緒に来てくれ」

 口を綻ばせていたネガイとマトイが俺の顔を見つめてくる。

「‥‥私、夢の中じゃあ‥‥」

「いや、ミトリが必要だ」

 あの方は、ミトリはただの人間だと言った。実際の所は、わからない。でも、俺にとってミトリはだけではない。

 ミトリは俺にとっての理性だ。最後の最後で踏み止まれる。今の俺には、化け物から人間に戻る時、ミトリが必要だ。

「‥‥よく聞いてくれ。俺は、多分、あの流星の使徒を殺すつもりでやり合うと思う」

「でも、殺すつもりじゃないって」

「最初はな。でも、途中から止まらなくなる。相手が人間だから」

 カレンに、ソソギに聖女。

 3人はヒトガタだ。同胞に牙を立てる事は出来ない。でも、マトイとネガイには、牙も爪も向けられた。

 俺は、人間には、に襲いかかってしまう。

「血を見せないで、俺を止められたのはミトリだ」

「私‥‥?」

「ミトリじゃないと、血を見たい俺を止められない。ブレーキになってくれ、頼む」

 酷い頼み事だとは、重々承知している。殺す手を止める為に、身体を張ってくれと頼んでしまっている。だけど、俺には理性ミトリが必要だった。

「‥‥はい、任せて!!私も、あなたの恋人だから――」

 自分の胸に手を当てて、頷いてくれた。

「でも、その流星の使徒はどこにいるんですか?」

 サイナが当然の疑問を聞いてきた。けれど、見当はついていた。

「‥‥学校だ」

「オーダー校ですか!?だって、あそこには!!」

 サイナが驚いたのも、無理はない。俺よりも恐ろしい先輩達がいくらでもいるからだ。極論を言ってしまえば、先輩に頼み込んでしまえば、それでカタが付くかもしれない。

 だけど、そうはならない。

「流星の使徒は、ただの人間は襲わない。そうだな?」

「間違いないかと」

「よし‥‥だったら、尚更学校だ。あそこには、人間しかいない。人間の害にならないなら、オーダーは動かない」

 法務科にオーダー本部から名前を付けられた俺は、人外だ。しかも、オーダーに所属してしまっている。オーダーが襲われるなんて日常、気にも留めない。

 気が付いている生徒もいるかもしれないが、自分に襲い掛かってこない以上、相手にもしないだろう。

「それに、俺は学校で襲われた。あの人が撤退させたって言ってたから、学校外に出れてはいないと思う」

 オーダー校から出るには今は正門しか道がない。救護棟の道はカエルの一件以来、常に見張りがいる。

 高い確率で、今もオーダー校にいる。

「だから、今から―――わかった、やめとく」

「当然です!!せめて、明日の夜まで我慢して!!」

 ミトリの言葉使いが変わってきた。やっと、本当の恋人になれたと胸を張れる。

「逃げる事は―――ないか‥‥」

 残り少ないシャケの切り身を切り分けて、口に運ぶ。

 あの言い方だと、適当に相手をしたような様子だったが、向こうにとっては俺以上の相手を最低でも2人以上を同時に相手にしたのだろう。

 警戒心を最大限に上げて、学校に引きこもっているに違いない。俺でもそうする。

「今日中に傷を治せるだけ治す。明日の夜には仕留める―――準備を」

 その言葉で覚悟をした4人はそれぞれ、笑みを浮かべた。




「我慢してね」

 あのチューブ入りの薬を再度、身体の前に塗られて悶絶していた。

「ミトリ‥‥、せめて、手で温めてくれ‥‥」

「仕方ないですね。こう?」

 言葉では嫌々っぽく言っているが、顔は満面の笑みだ。やっぱりと思った。ミトリはネガイやマトイと同様に徹底的したいじめっ子体質だった。

「‥‥そうそう‥‥気持ちいい‥‥」

「そんなに私の体温が気持ちいい?こことか?」

 ミトリが、薬だらけの指で鳩尾の上をくすぐってくる。

「‥‥誰から聞いた?」

「秘密です♪」

 確実にサイナだ。全治したら、仕置きの時間を設けなければ。

「やってくれ‥‥」

「くれ?」

「やって下さい‥‥」

 ブラウンの目を歪ませて、鳩尾に指を突き刺してくる。

 命の危機さえ感じられる視界のなか、確かに快楽の底に触れた。マトイやイノリのように内臓を直接撫でられてる訳じゃないが、この息が詰まるような痛みには―――身体中の血が、心臓に溜まっていくのがわかる。そして、下半身にも―――。

「‥‥苦しい‥‥」

「もっと、苦しんで下さいね。私も、もっと苦しんだので」

 眩しいぐらいの笑顔で、あり得ない程の腕力で鳩尾を貫いてくる。本当に、背中まで届きそうな程に。

 ミトリの腕を掴んで、止めてと伝えるが、全くやめてくれない。

 杭のように、身体を貫いてくる。

「そのまま聞いて。‥‥ちゃんと聞いて?」

 指の関節一つ分、身体を貫いてきた。

「私は戦力では役に立たないって、思ってますね?答えて!」

「あっ‥‥ああ‥‥」

 息が出来ない。喉と肺に残っていた空気を吐いて、なんとか息を声の形に変える。

「それは勘違い。ネガイと比べれば、確かに弱いでしょうが、それはあなたも同じ」

「‥‥でも」

「私に怪我をして欲しくない?」

 一瞬だけ、悲しそうな顔をした。

「‥‥ミトリには、安全な所で怪我を診て欲しい。安心させてくれ‥‥」

 腕を握って、ゆっくりと鳩尾から抜かせる。

「俺にとって、ミトリは平和の象徴なんだ。ミトリがいるから、怪我をしてでも帰って来れるんだ‥‥」

「戦場に立って欲しくないって事ですか?‥‥もう、なんでそこで泣くんですか?」

「泣いてない‥‥」

 自分で涙を拭き取って、ミトリを睨み付ける。

「怪我をしても、ミトリがいるってわかってるから、俺は戦えるんだ。危ない事も」

「‥‥うん」

 薬をもう一度塗りながら、聞いてくれる。

「でも、ミトリが倒れたら、俺は、どうしようもなくなる‥‥。もう、戦えなくなる‥‥。ミトリ、怪我しないで‥‥」

 もう隠せない。涙が止まらない。

「ごめん‥‥。明日の夜は、ミトリを戦場に連れていく‥‥。ミトリがいないと戦えないんだ‥‥」

 腕で目元を隠して、すすり泣く。ミトリにこんなかっこ悪い姿を見せたくないかったというのに―――恥も外聞も倫理観だって残っているというのに、我慢が出来ない。

「矛盾してるって嫌わないで‥‥。俺は、かっこ悪いんだ‥‥」

 ミトリは無言で、薬を塗ってくれる。部屋には俺の泣き声しか響いていない。

「今の自分は、かっこ悪いって思ってますか?」

「‥‥思ってる。ミトリは、格好良い方が好きなんだろう‥‥」

「やっぱり、勘違いしてますね。今のあなたはかっこ悪くなんてない」

「‥‥なんで‥‥?」

「戦おうとしてるあなたは、いつだって格好良いんですよ。知りませんでしたか?」

「本当に‥‥?」

 涙だらけで真っ赤な目をミトリに捧げる。

「私からのヒントです。あなたを好きになった時、月が輝いてました」

 ああ‥‥ミトリは気付いてたのか。俺の覚悟を。ミトリにヒトガタの姿を見せる恐怖を。初恋の相手の為に、自分の正体を晒す勇気を。

「‥‥聞きたい事があるんだ」

「なんですか?」

「‥‥好きになっても、いいか?」

「今更ですか?‥‥いいよ。許可をあげます」

 もう俺はミトリがいないと、生きていけない。俺を鎮めてくれる、この聖母がいないと、俺は人間の振りが出来ない。

「3人は?」

「一度帰って、準備をするそうです。だから明日まで、2人きりですよ」

 舌舐めずりをしながら、ミトリは赤い星を輝かせていた。




「今日の学校は休むか‥‥」

「そうすべきですね。私も、同じ事を考えてました」

 マトイの同意を得ながら、サイナが準備してくれた制服に袖を通していた。

「見た目は変わらないけど、だいぶ質感が違う」

「でも、重量はほとんど変わらない筈ですよ。中のシャツも普段の物と変わらない重さなので」

 新しい腰のホルスターを持ちながら、説明してくれる。

「全身オーダーメイドか。最初の襲撃の頃から、こうなるってわかってたのか?」

「想定はしていました。それに、規格品の制服では、あなたの身体に合わないと前々から思っていたので」

「‥‥もう、サイナ以外から買い物はできないな。俺以上に、俺の身体を知ってるんじゃないか?」

「当然です♪あなたの全てのデータは、私の手元にありますから♪」

 いつの間に計測されたのかわからないが、サイナなら悪用はしないだろう。

「それで‥‥、その‥‥ミトリさんとは?」

「今度からネガイだけじゃなくて、ミトリについてもか?耳貸して」

 ベットの上に座りながら、手でサイナとマトイを呼び寄せて、耳を貸してもらう。

「‥‥。いいな?もう聞く」

 夜のミトリについては、ノーコメントだ。簡潔に、何があったかだけ話す。

「‥‥先を越されましたね」

「そ、想像以上に、ミトリさんって‥‥」

 ミトリの事を昔から知っているサイナはショックを受けたようだ。マトイは、別の事でショックを受けたみたいだが。

「ご飯の用意ができましたよー」

 キッチンからミトリの声が聞こえる。昨日とは、別人みたいな声だった。

 3人でキッチンに向かい、ミトリとネガイが用意してくれた朝食を取る。

「今晩中に学校に乗り込んで、流星の使徒を叩く。もう片手で数えられる程しかいないらしいから、今日で解散させる」

 今日だけで、半分近くが捕まえられる。終わり次第、法務科に引き渡す。

「流星の使徒の歴史は正確にはわかっていません。当人達も詳しく話さないので。でも、おそらくは軽く100年は経っています」

「たった100年ですか。私の家は1000年は経っています。浅い歴史です」

 自慢なのか、嘆きなのかわからないが、ネガイが白米を食べながら言った。

「正面は私がやります。夢の破壊はマトイとあなたに、サイナはバックアップと、もしもの人員補給として待機。ミトリには遊撃を。場面場面によって、上手く動いて下さい」

 腰のレイピアを撫でながら、ネガイは切り込み役を買って出た。

「そしてあなたにはもう一つ、いえ、もう二つ重要な仕事があります。わかってますね?」

「ああ、任せろ‥‥」

 気が早い目だ。もう、血を見たがってる。

 最近は大人しくしてくれていたんだ。今晩は好きなだけ、喰わせてやろう。そう、

「4人はどうする?俺は、時間まで待機してるけど」

「私は登校します。流星の使徒の気配を確認しておきたいので」

 魔に連なる者同士でしか感じ取れない物があるらしい。マトイはいつも通りに荷物を持って立った。

「私達も平静を装います」

「うん、学校が終わったら、一度戻って来ますね」

 ネガイとミトリも通常通り登校する。なら、サイナも登校だろうと思ったが、

「わかった。じゃあ、サイナも」

「私は残ります」

 と、予想外の返事だった。

「そうか。なら、時間まで部屋で待ってるか」

「は〜い♪2人っきりですよ♪」

「‥‥ちっ‥‥」

 ネガイの舌打ちが炸裂した。サイナが言いながら、膝の上に乗ってきたからだ。

「片付けは任せますね」

「ああ、置いたままでいいぞ」

 ネガイを引きずるように、マトイとミトリが玄関まで行き、鍵を締めて出て行った――――もう、違和感を持つ事すら忘れていた。

 あの3人が鍵を持って、この部屋を出入りしている光景は、日常になってしまった。‥‥元々、ここは、

「鍵は私しか持ってなかった筈ですのに」

「自分で渡してただろう。‥‥撫でて」

「甘えん坊♪」

 膝の上にいるサイナに頭を撫でて貰う。本当に、子供にするような、優しい手つきだ。サイナの手の暖かさで震えていた頭が大人しくなってくる。

「片付けは後にしませんか?」

 琥珀色の瞳で、挑発してくる。

「‥‥流石に、昨日の今日でそんな事出来ない」

「残念♪好きなだけ、悶絶させてあげましたのに」

「‥‥したことあるのか?」

「あなたに悪戯した事はありま〜す♪」

 一体どんな悪戯なのか。気になるけど、やめとこう。きっと、止まらなくなる。

「震えてますね、怖いですか?」

「‥‥ああ」

「正直に言って下さい。何があったんですか?」

「‥‥あいつも、望んで俺を傷付けた訳じゃないって、わかったんだ‥‥」

「それで♪」

「話して、分かり合えるって、思って、‥‥でも、でもな‥‥。う、腕を‥‥」

 今もサイナの背中を支えている腕を、切り落とされた。

 頭の中で思い出すだけで、肩が軽くなる。腕の重さ分だけ体重が減る、バランスが取れなくなったあの時を。

「頑張って」

「‥‥切り落とされた」

「よく頑張りました。よしよし」

 腰を捻って、胸を押し付けながら、頭を撫でてくれる。俺の肩に頭を置いて。

「痛かった?」

「‥‥覚えてない。すぐに、助け出されたから。‥‥夢の中での出来事みたいだった」

「良かった。無事で」

 ああ、俺は無事だった。今も何の問題もなく、サイナを抱きしめられている。

 そう、なんの問題もない―――なんの問題も無いのに‥‥。

「震えないで下さい」

「ごめん、怖いんだ‥‥。あの剣が‥‥」

 シャケを切り分けるよりも、簡単に切り落とされた。骨も腱も本当にただの一振りで奪われた。

 腕を追った血の後と、吹き出る血管を覚えている。そして、離れていく腕に残され骨も、焼きついている。

「俺の腕、あるか?」

「ちゃんとありますよ。ちゃんと、私を抱いてます。見えません?」

「‥‥見えない」

 。今俺は、目蓋を開けているのか、それとも閉じているのかすらわからない。

「片付けは後にしましょうね。はい、立って立って♪」

 膝の上から滑るように降りたサイナに手を引かれて、どこかに連れて行かれる。

「‥‥怖い」

「大丈夫です。少し休むだけですから♪」

「‥‥ごめん、歩けない」

 腰が退けてしまった。サイナに手を引かれたままで、跪いてしまう。

「‥‥格好悪いな」

 目も見えない、足も言う事を聞かない。手も震えて、汗をかいている。

 酷い姿だ。これだけ、幻滅されても仕方ないと思える程に、無様だ。

「怖い‥‥っ」

「泣かないで。頑張って、立って♪」

 さっきまでの血は完全に止まってしまった。目元も冷え切ってしまい、心臓の形がくっきりとわかる程に凍りついている。

 目と心臓の形をした冷たい骸が身体の中にあるようだ。

「‥‥サイナ‥‥。助けて‥‥」

「はい♪お助けしますね」

 両手を引かれて、本当に子供のように腰が退けた状態で立ち上がる。

 そのまま、サイナの鼻歌を聞きながら、寝室の方向に連れて行かれる。‥‥良かった、床がカーペットになってくれた。

 お陰で、足裏の汗が消えてくれて、気持ち悪さが消えた。

 サイナに連れられて、うつ伏せでベットに寝かされる。

「こっちです♪」

 隣で横になったサイナの両手に頭を抱かれて、心臓の最も近い所に誘われる。

「まだ見えませんか?」

「‥‥ああ」

「なら、お話しをしましょうね♪ずっと側にいますから」

「‥‥なんでだろう」

「何がですか?」

「サイナから、あの方の血を感じる」

 最初はミトリから感じた。でも、今はミトリ以上に、サイナから感じる。思い出せば、会った時からそんな気がしていた。

 、それに

「う〜ん、比べられてる気がします」

「比べてる訳じゃない‥‥。ごめん、怒ったか?」

 でも、似ている。心音があの方に似過ぎている。まるで、臓器を丸ごと、コピーしたようだ。

「‥‥サイナ」

「はい」

「差別は怖いか‥‥?」

「‥‥そうですね。怖いから、ここに来たんですもの。怖いに決まってます」

「‥‥帰ったりしないか?」

「しませんよ♪こんなに可愛い甘えん坊を放って、どこかになんて行けません。もう、1人で泣かないでいいんですよ。でも、程々に♪あんまり、泣いてたら‥‥」

「泣いてたら‥‥?」

「いじめたくなっちゃいます♪」

 抱いていた頭を潰すように、腕の骨を使ってくる。

 このままサイナの胸の中で、死ぬのも、悪くない。そう思ってきた。

「どうしますか?」

「何が‥‥っ?」

 だけど、ここで死ぬ訳にはいかない。よって、サイナの胸から一度離れる。

「私と一緒に、待機していても、問題無いのでは?」

「向こうは俺に用があるんだ。俺が行かないと、顔を見せない‥‥」

「私は詳しく知りませんが、マトイさんにネガイさんがいれば、どうにかなってしまうのでは?」

「‥‥そうかもしれないけど」

「まだ見えてませんね」

「―――嘘はつけないか‥‥。俺の目、どんな感じに見える?」

「すこーし、焦点が合ってませんね。真っ直ぐに瞳孔を向けてますけど、本当にただただ真っ直ぐで、マネキンみたいです」

「‥‥気持ち悪いよな」

 目を閉じながら、ぼそりと呟いてみる。

「そんな事無いですよ?それに、私の胸を見ているのは、いつも通りですし♪」

「‥‥見てない」

「見てます。今日だけで、もう3回は見られてます。正直に言わないと、お金取りますよ?」

「見てた。‥‥気付くのか?」

「よく見られますから」

 殺す―――俺のサイナを勝手に盗み見るなんて。星を使って、ソイツの心臓を抉り出してやる。

「‥‥殺す」

「落ち着いて♪雑魚の目なんて、なんとも思ってませんから。私を見ていいのは、あなただけですよ♪」

 離れた頭を自分から迎えにきた。柔らかい弾力を、Yシャツ越しに感じる。しばしのまどろみを感じていると、柔肌の質感しか感じない事に気づく。

「サイナ‥‥、下着は?」

「私のサイズだと、いいのがなかなか無くて‥‥。最近はずっとスポーツタイプです。柔らかいですか?―――また、甘えたいですか?」

 手玉に取るような挑発してくる。

「ふふ~ん♪落ち着いてきましたね~」

「‥‥負けた気分だ‥‥サイナには、いつも勝てた気がしない」

「気分じゃなくて、負けたんですよ。あなたの心を盗んでしまいましたね♪」

 指先一つで、心臓を引っこ抜かれてしまう。サイナが預けてくれる身体を藻掻く様に求め。サイナの思うままに振る舞ってしまう。

 いつも、そうだった―――――。

「‥‥聞いていいか?」

「家の事ですか?前と変わりませんね。自分で不要と言っておいて、戻ってきれてくれって」

「行かないで‥‥」

「絶対に行きません。行ったら、もう、あなたに会えなくなりますから。それに、私だって、自分の身は大事です」

 腰はこんなにも細いのに、それより上と下も、同年代とは思えない肢体の膨らみを感じる。どこを触っても、柔らかくて、指が埋没していく。ずっと、撫でていた気分になってくるけれど、今日は抱き締めるだけに留めておく。

「本当に、背が伸びちゃいましたね」

「元から俺の方が高かっただろう」

「それでも前は、可愛いらしいと言える高さでした。と言っても、今もまだまだ可愛いですけどね♪」

「‥‥子供扱いしてるのか?」

 サイナの腰を持ち上げて、身体の上に持っていく、柔らかい弾力が全身で感じ取れる。

「もう子供じゃない。サイナを抱ける―――今、ここでだって」

「そうですね。もう子供じゃないんですね、でも‥‥昔から変わらずに甘えん坊です♪」

「甘え始めたのは最近じゃないか‥‥誘ってきたのは、サイナだろう」

「ふふん♪確かに、最近は手段を選りすぐって誘惑してますが―――自覚なかったんですか~?私を呼んだり、直接会いにくる時はいつも私の甘えてましたよ。例外は病院の時だけです♪」

 両腕を伸ばして、首を抱いてくる。

「まだ見えませんか?」

 ぼんやりとだが、見えてきた。サイナの前髪や顔全体の造形が形となって浮かんでくるのを感じる。

「まだ完全には見えない」

「じゃあ、どうします♪」

 何か言う前に唇を舐めてきた。

「ミトリさんと間接キスですね。少しだけしょっぱい♪」

 やはり。サイナの唾液を舐めとった瞬間、目が冴え渡った。血を沸騰させられたような焦燥感、律せない欲望が牙を覗かせる。

「‥‥サイナの家って」

「家のことは話したくありませ〜ん」

「そうか‥‥でも、」

「—―――でも?」

 いつもの商売っ気のある仕草ではなく、何を言うのかという覚悟を問うてきた。

「一緒になる時、挨拶が必要だろう―――サイナは、俺が貰うって。渡さないって」

 サイナの耳の裏側を指で撫でると、血が通っていくのを感じる。

 熱い血が血管を焦がし、薄い皮膚を突き破りそうな勢いを伴ってきた。

「‥‥や、やりますね。負けました‥‥」

「でも、いずれはそうなる―――ふたりで、そう決めたじゃないか」

「‥‥もし、私があなた以上に、大切」

「いるのか‥‥」

「そこで泣くから、あなたはズルイんですよ‥‥。いませんから、泣かないで」

 首に回していた手を目元に移して、涙を拭き取ってくれる。

「‥‥遊ぶのは、やめてくれ‥‥」

「はいはい、ごめんなさい♪今までも、これからもずっとあなたとしか、こういう関係にはなりません。だから、もっと強くなって、私を安心させて下さい♪」

 息を吐いて安心した所で、サイナは「失礼します‥‥」と言って、謝罪の口付けをくれた。柔らかく熱せられた舌で口内を長く慰撫して、絡ませてくれる。

「—――わかった。サイナの隣にいられるよう、頑張るから‥‥」

「それと、お金も♪」

「サイナより稼ぐのは‥‥難しそうだな。そもそもの資本力が違う。スタートラインからして、壁がある‥‥」

 悲しかな、これが現実の人間のルールだ。富める者と、それ以外の者との生活は、平等とは言い難い隔絶された位がある。

 サイナの実家は限りなく、富める者のトップに近い。サイナは実家を嫌っているけれど、それでも自然と恩恵を受けてしまっている。

 サイナが自身が望んでいなくとも。

「人間のルールは、面倒だ‥‥」

 人間の尺度で決められた単位でしか生活を許されない。

「でも一時のあなたからすれば、あり得ないぐらいの資産家になってますよ♪」

「周りのお陰だよ‥‥。だから、周りの還元しないと。何が欲しい?」

 撫で続けている耳に、ちょっとだけ悪戯をする。具体的には揉んでみる。

「くすぐったいっ‥‥♪」

 お返しなのか、首に回している手を使って、こっちの耳にも悪戯をしてくる。

「恋人みたいですね‥‥」

「恋人だろう。俺は、そう思ってるから」

「まだ、あなたから告白されてません♪」

 胸の上で微笑んで、誤魔化しの赤みがかった頬を見せつけてくる。この首を捻った時に見せる笑顔が可愛らし過ぎる。一体何度、俺を墜とせば気が済むのかと問いただしたくなる。

 何度このサイナの笑顔に堕とされれば気が済むのだろうか―――。

「‥‥サイナ、俺はあなたが好きです」

「私もです♪」

「今度、月を見に行こう。付き合ってくれますか?」

「あなたと行けば、月に手が届きそうですね」

「あなたと見に行けばきっと月は綺麗です」

「月は昔から綺麗ですよ」

 言うようになったサイナに、攻勢に出る。

「星が、綺麗ですね」

 少しだけ噛んでみた。

「‥‥っ。‥‥‥‥いつから?」

「初めて眠らせてくれた時から、だと思う‥‥」

 狂った俺を、カバンで叩きのめして抱きかかえてくれた。心音を聞かせて、笑顔で眠らせてくれた。あれで、とは無理だ。

 ミトリと同じように、俺はサイナの容赦無い笑顔に惚れてしまっていた。

「‥‥やっぱり、人間じゃないんですね」

「おかしいか?」

「味方で守ってくれたあなたを、殴って気絶させたんですよ。普通、拒絶します」

「でも、俺はサイナに感謝してる」

 耳から腰の腕を移動させて、サイナの顔を肩に乗せる。

「この感情を、人間が持てないなら、俺は人間じゃなくてよかった。‥‥やっぱり、人間は嫌いだ。サイナを好きになれないなら、俺は人間になんかなりたくない――――愛してる」

「‥‥愛してます。‥‥しますか?」

「いいや、少し仮眠を取りたい。サイナは?」

「少しだけ、作業台でやる事があります。眠るまで一緒にいますね‥‥♪」

「‥‥起きた時も、いてくれる?」

「どこにも行きません。起きたら、キスです♪」

 眠りだけでも、何にも代えがたい快楽だというのに、目覚めたらサイナからのキスなんて、何も変えられない褒美だ。なんて幸福な気持ちで、眠れるのだろうか。

「約束‥‥」

「約束です♪‥‥、おやすみなさ〜い‥‥」

 前金なのか、額に口付けをくれた。



「サイナの手料理って、初めてか?」

「気付きました?高いですよ〜♪」

 これも私物らしいエプロン姿で髪をまとめているサイナが、キッチンからパスタを2人分持ってきてくれる。服で、自分を表現しているサイナは、今はただただ愛らしい姿を見せてくれる。なのに、エプロンでは支えきれない胸が、常に揺れている。

「手早いですね‥‥。もう、準備が整ってるなんて」

「1人だけ立たさせてる訳にはいかないからな―――このフォーク、見た事ない‥‥」

「勿論♪私の私物で〜す」

 食器棚に入っていたから、適当に持ち出したが、やはり見覚えはなかった。

 当然と言えば、当然だった。俺の物でないのだから。

「と言うか、よくあんな感じで暮らせてましたね」

 食卓にベーコン入りのクリームパスタを運んできてくれる。

「男の1人暮らしなんて、あんなもんだと思うぞ」

 生クリームの香りがする。これも誰かが買ってきたのか?流石にここまで冷蔵庫の中すら把握できていないのは、問題だと悟った。

「美味い‥‥、パスタ得意なのか?」

「ちょっとした得意料理です!今度はひき肉とパルメザンチーズを買ってきますね♪」

「んっ?ひき肉とチーズ、もうなかったか?」

「本当に知らないんですね‥‥、前のハンバーグで、もう切れましたよ。まぁ、5人分も作れば無くなりますよね」

「‥‥知らなかった」

「三河屋でも始めますか?いい品をお届けしますよ♪」

 冗談なのか、本気なのかわからない事を言ってくる。

「流石に冷蔵庫の中まで面倒見て貰うのは、」

「もう既にネガイさんとミトリさんから胃袋を掴まれてる人が、今更何を言ってるんですか?」

 心底不思議と言った感じに、首を捻られた。何も間違っていないので、否定出来ない。

「‥‥俺って、ダメな奴?」

「はい!ダメです♪」

 パスタをすすりながら、サイナは笑顔で事実どくを吐いてきた。

「どうにかしないとな‥‥皆んなから愛想を尽かされたら、もう生きていけない」

「ふふ♪頑張ってくださいね~♪―――よく眠れましたか?」

「‥‥二度寝だから、ぐっすりだったよ」

 一つ心残りなのは、あの方に会えなかった事だった。

「サイナは大丈夫か?」

「実を言うと、私もあなたと一緒にしばらく寝てたので、快調ですよ♪腕枕、素敵でした‥‥」

 どうやら、ぐっすり眠れた理由はサイナの体温もあったかららしい。

「皆んなから連絡は?」

 サイナのパスタソースが美味しい過ぎて、もう無くなってしまった。

「マトイさんから届きました。標的は未だ、学校に潜んでいるそうです。オーダー校側も今のところ放置してるみたいですね。無差別に襲いかかって来る訳ではないようなので」

「‥‥俺以外には、振り下ろしていない、か―――」

「大丈夫ですよ♪ミトリさんは今日はずっとネガイさんと一緒にいるそうなので、最悪戦闘になっても対処が可能だと」

「サイナにも心を読まれたみたいだな‥‥」

「相棒で、恋人ですから♪」

「頼りになるよ。本当に‥‥」

 サイナの後ろを見て、何も残ってないか確認する。‥‥何も無さそうだ。

「甘えん坊で、食いしん坊ですね♪」

「また子供扱いしたな?」

「悪い気はしないって、顔してますよ〜」

 ようやくわかった。すぐ顔に出るから心を読まれる、覚えておこう。

 食事は諦め水の満ちたコップを、口に付けながら聞いてみる。

「それで、何をやってたんだ?」

 起きた時からサイナは腕まくりをしていた。何かしらの作業をしていたのだろう。

「ちょっとあなたの装備を整えてました」

「1人でやったのか?起こしてくれれば、」

「大丈夫ですよ♪私以外にも手伝ってくれる人がいましたから、あなたがぐっすりで助かりました〜」

「なんだ、ブラウニーでもいるのか?」

「妖精ですか‥‥、うん、そんな感じですね♪」

 少し考えて、頷いてきた。

「‥‥ヒトガタの1人か?」

「‥‥知ったのは私も最近です」

 やはり、杭を作り上げたのは、ヒトガタだった。恐らく、ソソギとカレンにも工房を貸したそのヒトだ。は生きる為なのか、それとも職人こそがなのかすらもわからない。だけど、

「礼を言いたい。会わせてくれないか?」

「それはできません。約束ですから」

「なら、礼を言っておいてくれ。助かった、これからも頼むって」

「お預かりしました♪」

 姿を見せたくないならそれでいい。同じヒトガタの、その気持ちがわかった。

「装備を整えてたって言ってたけど、具体的には?」

「脇差しと杭、それと二丁の拳銃、それの全体的な分解と清掃。新品にみたいにしましたよ♪」

「助かる‥‥」

 軽く後ろの作業台を視線をずらして、揃っている銃器や刃物を確認してみる。遠目から見ても光り輝く武具達は、表面上は新品だが、その実―――俺好みのが加味されているのは、間違いなかった。

「それと、私からの贈り物です♪」

「贈り物?」

 本当に、あの方みたいだ。あの方も、何か送るのをいつも楽しんでいた。

「ちょっと、ルール違反な品です。使う時は誰にも見せないように」

 パスタを食べ終わったサイナが、机の下から一丁の拳銃を見せた。だけど、見覚えない。一見すると自動拳銃のように、幅がある銃身だが、弾倉としてシリンダーが採用されている。正直、玩具みたいだ。

「‥‥軽い。今の樹脂フレームとかプラスチックって、こんなに軽いのか?」

 サイナがひょいと片手で出してきたから、そんなに重量は無いと思っていたが、想定以上に軽い。弾丸を装填すればいくらか変わるかもしれないが、やはり異常だ

「まさか‥‥ゴーレム?」

「外れです♪」

「なら、」

「秘密で〜す」

 言う気はないみたいだ。

「弾丸は何を?357マグナムと同じくらいに見えるけど」

「私が用意しますから、ご注文を♪」

 手堅い商売だ。自分で用意したというのに、自分から離れられないように仕向ける。最初から最後まで、離す気はないようだ。では、それに乗るしかない。

「まずは60発ぐらい、用意しておいてくれ」

「言うと思いまして、もう既に」

 俺の後ろを指差して教えてくる。どうやらこれも作業台にあるようだ。

「詳しく聞かないけど、自作も程々にした方がいいかもだぞ」

 弾丸は入っていないが、念の為、引き金近くのセーフティをかけておく。

「いいえ、それは自作じゃありません」

「市販されてるのか?」

「ヒミツです♪」

 空になっているふたつの皿を流しに運んでいき、鼻歌交じりに水仕事をしているサイナの手を止める気にならなくなった。秘密なら秘密でいい、それに、サイナは寧ろこういうギリギリの仕事を受けてくれるから重宝されてきた。

 だったら、今後も、サイナとはそう付き合うべきだ。

「使わせてもらう、ありがとう」

 このタイミングで渡した、という事は、使う機会が今晩起きるかもしれないと踏んだという事だった。

「制服の内側に仕込める場所を用意しておきました。ご確認を♪」

 痒い所のまで気が回る、相棒とはこういう存在なのか。ますますサイナから離れられなくなってしまう。

「一応、聞いとくけど、人に向けていい物だな?」

「それはです。だから、向ける相手は魔に連なる存在だけにして下さいね」

「魔女?」

「はい、ただそれなら、でも殺せるそうです」

 悪魔、その意味が分からず『魔女狩りの銃』を眺めてしまう。サイナのこの言い方は、ミトリの死神と同じか、それ以上に実体があるようだった。

 何より、サイナの口から魔に連なる存在と出た事に、一抹の驚きと不安があった。

「‥‥苦労かけてる、いつも―――」

「これが私ですから♪あなたも、この私を愛してくれたのだから、自分のままでいます―――」

 水を流す音に消されないサイナの美声が耳に届く。

「あなたばかり、傷付いている。あなたにばかり、不利な状況が続いている。人間の世界はフェアでは無い、けれど、だからって人間が人間以外の生き物を傷付けていい理由なんて、認められません。それが私の恋人なら尚更」

 水を止めて、振り返ってきた。

「負けるのは仕方ない。例え、人質を使う、交渉中の油断を使うような卑怯な手でも、それが戦場なら仕方ない」

「‥‥そうだな」

「だけど、それは人間同士の間だから成立する手段。ロボの最期のように、自分の妻を使われて、罠にかかる終わり、私は認めない。私も人間が嫌いです。あなたの感情を操って傷付け、仕留めるようなやり方、何度頭を叩き潰したとしても、許せない」

 やはりサイナも、俺を人間ではないと、心の底からわかってくれている。

 アーネスト・トンプソン・シートンの創作。シートン動物記。

 狼王ロボの最期は、どう言い繕っても人間共の汚ならしい悪逆の末路、被害者と言える。罠にかかった妻を絞殺され、鎖で繋がれ餓死するなんて最後を辿っている。

 そんな最期を迎えてしまうぐらいに、ロボは悪魔によって知恵が授けられた、と謳われる知恵で人間の罠や対策を嘲笑って、乗り越え続けた。

 確かにロボは牧場の牛を殺し続けた、ウルフハンターと言われる職業が必要とされる程に、狼という獣は人間生活にとって恐怖以上の痛手でもあった。

 創作物として生まれてしまったぐらいに―――。

「ロボは仲間や家族に優しかった。仲間達と生き延びる為に、嗅覚や目、そして経験を使っていただけです」

「‥‥ロボは、創作物だ。それに、俺なんかよりも、ロボの方が気高い」

「でも、あなたは現実にいる。それに、私はあなたに救われた。そんなあなたの優しさに付け込んで、ミトリさんを狙い、毒を使い、話し合っている時に騙し討ちをする。人間らしい、穢れたやり口っ‥‥!」

 前に掛けているエプロンの裾を握りしめて目を見開き、人間への呪詛を振り撒く。

「あなたが怒らないのは、人間を呆れているから、人間と決別したから。もう人間には期待していないから――――だから怒らないんですっ!!」

 ロボの最期は、決して他人事では無い。

 俺も恋人を人質にされ、絞殺されてしまったなら‥‥心を捨てなければならない。

 ネガイが起こそうとしたテロなんかよりも、直接的で凄惨な反逆を人間に起こさないとならない。人間が生み出した化け物として。

「きっと、私はまだ心のどこで、マトイさんにネガイさんを許せてないんです」

「‥‥そうか」

 俺は生きている。あの二人のお陰で。

 だけど、それは結果論だ。サイナがそれをもって二人を許す理由になんてならない。サイナは相棒を殺された。

 これは、もう変えようのない事実だ。

「二人とも、すごく、本当に大事な友人です。あの家なんかとは比べられないぐらい、それにあなたと同じくらい大事な人達‥‥」

「でも、許せないか?」

「‥‥許してたつもりだったんです。‥‥いえ、違います。もう考えないようにしたんです。二人が大事だから‥‥」

「‥‥つらいな。大事な人を憎むのは」

 俺を捨てた成育者達。俺も、やっとあの二人を憎めるようになった。大事だったから、憎めなかった。を憎む事は楽でも、を憎むのはつらい。

 サイナは、憎しみから入った。だけど、俺の知らない間に本当の友人になれてしまった―――友人を憎むのは苦しい。

 俺も、ネガイとマトイを憎むのは、つらかった。

「‥‥俺も、人間は嫌いだ。信念だ役割だ責任なんていう、簡単に崩れ去る砂礫の楼閣を俺に押し付けてくる」

 触れてしまえば簡単に崩れ去る。人間にとっては非の打ち所のない完璧な城かもしれない。だけど、俺にとってはただの砂の城だ。

 食卓から立ち上がって、サイナに近づく。

 サイナも、自分から近づいてくれる。

「私はあなたに生きていてもらいたい。これも信念と言えるものです。いいんですか?人間の都合をおしつけて」

「サイナは恋人で、俺を受け入れてくれた‥‥。だったら、俺もサイナを受け入れる」

「等価交換ですね♪」

「違う」

 戸惑ったサイナを引き寄せる。

「恋人同士なんだ。そんな取引はしたくない。私と一緒に生きてくれって言って欲しい‥‥」

「‥‥はい」

「俺もだ。サイナに生きて欲しいし、サイナと一緒に生きたい。これは取引なんかじゃない。‥‥愛してる。人間、一緒にいてくれ」

「私もです‥‥、化け物」




「制服の調子はどうですか?」

「かなりいい、皮膚の一部みたいだ」

 肩を回したり、背中を伸ばしたりしてみても、しっかりと制服が身体を守ってくれ、Yシャツの裾が足りないなんて事もない。

 厚手の布地は、戦車の装甲にも匹敵するように感じた。弾丸は勿論、針一本も通さないという気概すら感じる。

 話を聞きながらマトイが、傷を受けた肩や腹を撫でくれる。だいぶ良くなったが、これ以上の回復は全て終わってからにしよう。

「良かった‥‥、しっかりと計測した甲斐がありました」

「マトイも参加したのか?」

「皆んなでしました」

「皆んなって」

「皆んなですよ」

 小悪魔的な笑顔で言い放った後、黒髪を靡かせながらリビングに踵を返した。

「私とネガイも参加しましたから、バッチリです」

「それは?」

「シズクさんからお借りした物です。私専用に調整してくれたんですよ!」

 ミトリは俺が使っていた物よりも、少し小振りなヘッドギアを持って来た。

 入れ替わり立ち替わりで、恋人達が入ってくる。もうこの寝室は俺1人の物では無いらしい。それに、このベットも少なくともネガイとミトリの物でもある。

 新しいベットを購入しなければと思う。ふたりで寝るには、このベットは狭い。

「あいつ、吹っ掛けなかったか?」

「良い試運転になるから、今回はただで貸してあげるって」

「俺には足元見てくるのに。なんか、ネガイとミトリには優しくないか‥‥?」

「そうなんですか?」

 ヘッドギアを持ったままのミトリがベットの隣に腰掛けてくる。その瞬間、服と髪に隠された甘い香りが、姿を嗅覚で知らせてくる。

「それ、使い方わかるか?」

「しっかりとレクチャーを受けましたから、大丈夫ですよ」

 ミトリの横顔に、柔らかくふんわりとした髪が揺れる。少し伸びてきたボブショートは、今やボブヘアとなっていた。

 自然とミトリは髪をかき上げて耳に挟むと、形が良いが姿を現す。

「ほら、こうですよね?ねぇ?ちゃんと使えてますよ」

 ミトリは珍しい物が好きなようで、幼子のように頭を左右に振って寝室の家具をヘッドギア越しに眺め始める―――あまりにも無防備だ。

 唾液が舌の上で水溜りを作っているのがわかる。噛み心地の良いと知っている本能が口寂しいと訴えかけてくる。

「あ、もう‥‥」

 我慢出来なかった。ミトリの耳タブに舌を沿わせて、穴に息を吹きかける。

「くすぐったい‥‥っ」

 耳が柔らかくて、いくらでも口の中で形を崩せてしまえる。それだけではなく、温かいから、ずっと口の中に入れておきたくなる。

 くすぐったいと言っているが、大人しく耳を渡してくれる。鼻を髪に付ければ、香りが鼻腔を刺激してくるから、尚更、耳から離れられなくなる。

「私の耳も好きなんですか?耳以外もあれだけ吸わせてあげたのに―――赤ちゃんみたいですね、本当に‥‥」

「‥‥ミトリだって、俺の事、散々—――」

「吸ったんですか?」

 突然の第三者の声に、ミトリは跳ね上がり、ヘッドギアも外れた。

「び、びっくりした‥‥。もう準備は終わったの?」

「はい、この通り」

「久しぶりに見たな、それ」

 一回転して見せてきた装備から、懐かしさを感じた。SIGPROと十字のエストック。左右の腰にレイピアとエストックを下げ、腰の後ろにSIGPROを装備していた。

 それに、ただの制服では無い。

「これは私専用にサイナが用意してくれた装備です」

「綺麗‥‥」

「当然です。動きの邪魔になる無駄な布や金具が全て取り除いだので、それにデザインには母の装備を参考にしました」

 灰色の軍服姿のネガイは、妖精のように見える。

 髪の色に相まって、前が開かれたロングコート状の軍服はネガイの髪をそのまま纏っているようにも見えて―――幻想的なのに、雪のように可愛らしくて、儚げだった。

「声も出ませんね。そんなに私の事が好きですか?」

 歯を覗かせたネガイに胸を押されてベットに倒れてしまい、腰辺りに跨られる。

 上着はコートのように長い裾を持っているのに、下はスパッツをそのまま履いているように、短い―――ネガイの下半身の温かさと感触を直接感じる。

 ネガイの臀部も、股の柔らかさも、擦りつけてくる下腹部も。

「さっきまでミトリと遊んでいたのに、そんなに私が欲しいですか?」

 そう言って、頭の自由を奪うように両腕をついて、髪を垂らしてくる。

 あまりの大胆過ぎる行動に、あのミトリが顔を真っ赤にして口を押さえている。

「ミトリ、彼を組み敷くならこうしなさい。この人は、どこまでも、虐められるのが好きですから」

 胸の間に手を付けて、動きを完全に止められて、声すら出せない。

「ネ、ネガイ‥‥」

「この服に欲情しましたか?服にも欲情するなんて、あなたはやはり」

 黄金の瞳が、妖しく歪む。髪で散々、顔を撫でられて、限界を感じ始めた――。

「でも、ダメです」

 そう言って、ネガイは離れてしまった。

「こうやって、焦らして下さい。襲いかかってきた所を返り討ちにするのは、楽しいですよ‥‥」

「楽しいの‥‥?」

「楽しいですよ。これ以上無い無様な姿を見せてくれて、なんでも言うことを聞いてくれますよ」

「なんでも、言っていいの?」

「なんでも、してくれますよ」

「うん。わかった」

 ネガイとミトリが危ない雰囲気を持ち始めたので、流石に止める。

「気配はどうだった?」

「マトイと私で確認しました。確実に、オーダー校の中に夢を張って待ち構えてます――――あなたが来るのを」

「なら、応じないと」

 サイナから受け取った魔女狩りを脇の下で確認して、ベットから起き上がる。

 これの威力が、サイナの、目と星、脇差しや杭と同じで、魔に連なる存在とって、最大の武器となる。

 ネガイとミトリを連れ、寝室から出て食卓で寛いでいる2人に話しかける。

「決行までは?」

「後、2時間。1時間前になったら、出発しますよ」

「作戦は?」

「剣の破壊、ならびに夢の破壊。私は外部から使徒の夢の破壊に試みます。あなたは内部から。夢への突入はあなたとネガイ、状況に合わせてミトリさんも。作戦成功目標は、流星の使徒の確保、ひいては流星の使徒の解体。以上です」

 自分達がこれから決行する作戦の概要を、全員に言い聞かせてくれたマトイと視線で頷き合って、己が役割を確認する。個々の役割分担こそが、成功の糸口だった。

「サイナは車両で待機だ。もしもの時は、乗り込んできてくれ」

「了解で〜す♪」

 余裕というか、なんと言うか。後ろにいたネガイとミトリも、食卓に座って4人でおしゃべりを始める。

 帰ってきた時の夕飯の話を始め、ゲートの再開が明日の0時という事実をマトイから聞いたとき、

「なら、外食にしません♪」

「いいですね。ミトリはどうしたいですか?」

「う〜ん、私はね、皆んなで行けるならどこでも。マトイさんも来れますか?」

「後の事は、彼と法務科に任せましょう。私も参加しますね」

「良かった‥‥」

 と、茶々を入れる隙が無い万全な布陣。終わってからにしようとは思わないのだろうか。打ち上げを最初に決めるのは、至極当然かもしれないが―――いや、むしろオーダーらしい。

「彼女との戦闘になるかと思いますが、あなたは説得も忘れないで下さい。あなたとしか、今の所話せていないようなので」

 サイナが知らせたのだろう。

「話せばわかる人間だと思う―――」

「腕を落とされたのに?」

「それでも、」

「‥‥わがままは聞きません。危険と判断したら、私の独断で拘束、最悪のときは」

「—――させない」

 一気に、マトイの雰囲気が変わる。

「私を止める気ですか?」

「マトイに殺人はさせない。俺が始末を付ける」

「本気?」

「決めた。必ず、殺す」

「‥‥任せます」

 確認が取れたマトイは目を閉じて、少しだけ口元が緩んだ。

「そんな結果にならないように、手助けをしましょう。流星の使徒について、わかった事があります」

 この状況で話すという事は、マトイは本当に任せると決めたようだ。彼女への措置を―――。

「流星の使徒は星に滅ぼされた血族。知ってますか?」

「‥‥ああ、聞いた」

「では、どうやって滅ぼされたかは?」

「いや、それは聞いてない―――そこまで、話す前に戦闘になったから‥‥」

「では、結論から。空から降ってきた星によって、治めていた土地に住めなくなった。土地から逃げ出すように離れた一族が、使徒の大元だとか」

「隕石の激突、土地が抉られたって事か?」

「不明です。隕石で直接的に人的被害が起きたのなら、何かしらの痕跡や歴史が残る筈、しかしそういったものは何も残ってないそうです。そして、今も収監されている生き残り達も、誰も口を開かないと」

「一族の秘密か‥‥」

 長い歴史を持った家や組織には、なんであれ不都合な事実が生まれてしまう。

 家の恥は自分の恥。自分の恥は家の恥。くだらない帰属意識だと思うのは、乱暴で無礼だろうか――馬鹿な奴ほど、組織と自分を一体化するのはどこの人間でも同じだった。

「アメリカ発祥だったな。いつ頃生まれた一族なんだ?」

「アメリカ発祥と言われてますが、発祥はヨーロッパのどこからしいです。ヨーロッパで生まれて、アメリカに渡った一族、それが流星の使徒。なぜアメリカに渡ったか、それは一族の大半が滅んだ事が要因なのでしょうね」

「元いた土地に住めなくなったからアメリカに渡ったのか?古い一族が自分の土地を捨てないとならない程の理由は、だいぶ限られるな‥‥」

 それこそ、逃げなければ完全に滅んでしまう程ののかもしれない。

「ネガイは何か知ってるか?」

 唯一、使徒を過去に見た事があるネガイに知っている事はないかと尋ねたが、口を閉じたまま、眉間に指を当ててしまった。

「悪い、言い難い事だったか‥‥」

「違います。‥‥昔、父からそういった話を聞いた事があります」

 ネガイの両親が返り討ちにするまで、本当に同業者だったのかもしれない。

「‥‥確か―――とか。あそこまで狂わないと、から逃れられないのか、と」

 やはり星だ。本当に星に滅ぼされた。

「‥‥すみません。これ以上は、」

 額に手の甲を当てて思い出していたネガイが謝ってくる。

「いや、十分だ。ありがとう」

 星の呪縛、どうやらただの隕石の話ではなさそうだ。更に言えば、降ってきたのは星ですらないのかもしれない―――空から降ってきた神々を奉る宗教だってあるのだから。

「続けます。彼らの言うところの血を混ぜる行為とは、人間の交わりとは違い、何かに血肉を捧げていたそうです。元はとはいえ人間を獲物として狩り、生贄として扱う。その星の正体は知りませんが、オーダーに滅ぼされたのは、その文化が原因ね」

 マトイにとって、流星の使徒なんて法務科や俺が関わっていけなれば、どうでもいい存在なのだろう。心底、どうでもいいらしく、同情も責めもしない。

「流星の使徒が誘拐した人数と、一族の土地にあった人骨とを比べた結果、数があまりにも足りないから聞き出した結果判明したと。それが何なのか、そしてどこにいるのかも不明、ただ現在彼らは人間の誘拐をしていないので、それが生物だった場合、もう既に死んでいるでしょうね」

「人間が餌の生物ねぇ‥‥」

 いないとは言わないが、それでもやはり限られる。

 人間をそのまま喰らうぐらいなら、他の人間以上に大きい動物を餌として与えればそれで済む。わざわざ危険を犯してでも、危険な人間を誘拐する意味は無い。

「俺もそうなる所だったのか」

 殺さない、血を奪えればそれでいいというニュアンスの答えだったが、ならば注射器でもなんで使って血を奪えばよかった。

 彼女が嘘をついていたとは思いたくないが、俺の目を褒めていた以上、俺の肉体をそのまま生贄にするつもりだったのだろう。

「解体だ―――二度とないように、息の根を止める」

「決まりですね」

「ありがとう‥‥背中を押してくれて」

 彼女にとって、流星の使徒は大切な唯一の

 ―――迷っている訳じゃない。でも、心に残ってしまう物があった。また、俺は居場所を奪ってしまうのかと。カレンにソソギ、イノリに聖女。4人とも理由は違えど、出て行けるなら出て行きたいと言っていたが、それも結果論、奪った後の言葉だった。

「彼女にとって流星の使徒は家族がいる場所だ。恨まれるが、いいな?」

「構いません。あなたを傷付けた者達に、同情などしません」

「どちらにしても、私は法務科としても対処しなければなりません。オーダー本部よりも先に」

 ネガイとマトイも、気にも留めずに断言した。

「私は、あなたの居場所を奪う彼女を許せません。今夜で終わらせます」

「準備は整ってま〜す♪」

 ミトリの言葉は頼もしい限りだ、そしてサイナに至っては実感を感じる重みがあるので、聞くまでも無かった。

「時間だ。行こう」

 食卓から立ち上がった時、4人もほぼ同時に立ち上がった。




「無人だ‥‥」

「この時間ですからね。学校に着くまでに、誰ともすれ違いたくないですね〜」

「誰もいないから、問題無いぞ」

「え?‥‥確かに今の所、車は見えませんけど、学校に近付けば、いやでも」

「アクセルも踏み続けていい。本当に誰もいないから」

 一瞬サイナが脇道を通る時にブレーキに足をかけたから、それを止める。

 本当にようだった。目の女達に操られていた時とは比べ物にならない程、自由に力を使える。

「安全運転第一です!私は交通違反で捕まるような愚は犯しません!」

「悪かったよ」

「あなたも!そうして下さいね!」

「わかってるって」

 人間社会にとって、サイナの言う事の方が正しい。僅かながら、脱の税をしたオーダーがどの口が言うんだ?と思ったが、星に成った気分で飲み込む。

「私は学校に着き次第、姿を隠して夢の破壊を開始します。あなたは予定通り、ネガイと一緒に」

「直接叩く。そして剣の破壊を狙って、夢を壊す」

「問題無さそうですね。ミトリ?」

「大丈夫、使いこなして見せるから」

 その身から覚悟を感じ取れる空気をまとったミトリは、マトイから受け取った短剣を擦っていた。ミラー越しでもわかる決意の表れに、今更何か言う必要もなかった。

「見ての通り、それにも拳銃の機構が備わっています。22レミントンマグナムの」

「ありがとう、これで私も戦えるね」

 いつの間にかネガイと話す時の言葉遣いになっていた。

「マトイもミトリも無理をしないでくれ。特に、マトイは‥‥」

「わかっていますよ。だから、今回もバックアップに徹します。あなたの邪魔にも、邪魔も絶対にさせません―――彼女が、最大の障害だと忘れないように」

 マトイの信念が言葉の端々から聞こえてくる。

 法務科としてのプライドと誇りだけではない、俺の為にも言ってくれている。

「私だって、足手まといになんかなりません。邪魔になるってわかったら隠れますし、逃げます。もしもの時はマトイさんとの合流地点も決めてますから。私のことは気にしないで下さい」

「危なかったら、ネガイを呼んでくれ。多分、俺は止まれない‥‥」

 眼球が飛び出す寸前にも感じる激しい血流が身体中を巡っている。更に身体を巡る度に、血が熱く心地よくなっていく。

 視界の隅の血も、邪魔しない程度にコントロールできている。だけど、戦闘が始まったら―――きっと、対象しか見えなくなる。冷静になるには、ならないだろう。

「そろそろ到着です」

「場所はあの林でいいな?」

「恐らく」

「了解だ。サイナは予定通り、校門近くで停車」

「救出の連絡はお早めに」

 サイナも緊張してきたのか、さっき程までの口調が消えた。

 やはりと言うのか当然、校門は無人だった。丑三つ時でこの学校にいるのは治療科、備えの生徒。それらの生徒は須らくこの時間に校舎の外には出られない。

 都合が良いにも程があった。何者の目も気にせずに、星を瞬かせられる。

 助手席から真っ先に飛び降り、念の為に目で辺りを見渡すが、夜襲を仕掛けてくる気配はない。

「‥‥いいぞ」

 車体を叩いて、安全を知らせる。

 確認が取れた3人は続々とモーターホームから降りてくる。

「後は任せます」

 マトイに肩に触れられたとわかった瞬間、視界の外のマトイの背を見ようと視線を向けるが、その時には既に姿は消えていた。

「私が先頭です。あなたは私の後ろに、ミトリは少し離れた所に。恐らく、あなた以外に攻撃は来ません」

「なら、俺が」

「彼女は銃火器の類いは持っていないようでした。仮に持っていたとしても、あの剣で襲ってきます。私なら全て捌けます。わかっていますね?あなたには、があると」

「‥‥ああ、わかった。俺は俺の役目に徹する」

 『ヒトガタの血』がいい方に動いている。ネガイから命令されれば、自然頷いてしまう。危険で繊細な現場だからこそ、役割には万全の計算を弾き出すヒトガタは、最優の血だった。

「殺すなよ」

「あなたこそ。さぁ‥‥行きましょう」

 臨戦態勢のネガイはレイピアと十字のエストックを抜き、楽器のような鋼の音を鳴らした。

 ネガイは振り向きもしないで、校庭に向かって行く、俺とミトリはネガイの揺らす白いコートの背中を見ながらついて行く。

「怒ってるんですか‥‥?」

「それもあるだろうが、ワクワクしてるんだと思う」

 ネガイは、あのレイピアを撃てて楽しいのだろう。ソソギとの再戦を望んでいるぐらいだ、想像以上にネガイはトリガーハッピーの気がある。もしくは戦闘狂。ネガイが加虐趣味なのは、知っているが程々にして欲しい。お陰で生傷が絶えない。

「言っとくけど、ミトリも他人事じゃないからな」

「えっと、それは?」

「ミトリもネガイぐらい、いじめっ子だってことだ」

「聞こえてますよ。月夜ばかりと思わないように。また、鳴かせてあげますから」

 振り返ったネガイの黄金が輝いて見てしまい、口元が震えてしまう。

「鳴いたんですか?」

「‥‥秘密だ」

「ミトリも彼を鳴かせてあげて下さい。喜びますよ」

「鳴きたいんだ‥‥。なら、またいじめちゃいますね」

 目は赤くなっていないが、あの夜のミトリになってしまった。やはり、あれは幻覚だったのか?

「あ、そうだ。この宝石、お返ししますね」

 制服の内側から、ミトリがポータブルセーフを出してくる。

「忘れてた」

「忘れちゃダメですよ。あなたの資産なんですから」

「‥‥今晩も持っててくれ」

「‥‥はい」

 ミトリもこの宝石は特別な力を持っていると察したのか、大人しくポータブルセーフを制服に戻した。

 これの価値はどの程度か知らないが、人間の査定以上の価値があるのは間違いない。あれだけ危険な目にあっているミトリが無傷なのは、この宝石のお陰でもあると思う事にした。実際、俺が宝石を持っている時は大きな怪我はしていない。

 校庭を超えて、坂の上にある救護棟が見えてきた。後は生徒駐車場に向かえば終わりだ。これであの林に入り込める。

「ミトリ、」

「大丈夫です。私も一緒に行くから」

 このまま救護棟で俺とネガイが帰ってくるのを待っていても、と思ったが、ミトリの決断と覚悟は堅かった。

 救護棟の坂を過ぎた時、ネガイ、俺、少し後ろにミトリという陣形を整えてアスファルトを踏みつけていく。しばらく進むと、それも石畳、林を真っ直ぐに通る道となる。

「‥‥月が」

「あの時と同じですね」

 街灯が点滅を始め、急に辺りが暗くなった。空を見上げ、月が消えた事を確認した。

「夢だ」

「—――やはりいましたか。マトイの助力はもう始まったようです」

「‥‥うん」

 彼女の夢は俺とネガイ、ミトリで破壊しなければならなくなった。マトイの役目はもう始まっているようだ。

「マトイにこれ以上、負担させる訳にはいきません。どこですか?」

「—――大丈夫、見つけた。確かに、ここにいる‥‥」

 夢の中でも、何も問題無い。夢の中でさえ、星の光は届く。わかりきっていた、見逃す筈がないと。金星の光とあの方の星からは、誰ひとりとして逃げられない。

 この地球に住んでいる生物なら、誰ひとり見逃さない。全てに目が届く。

 あの方が言っていた事、あなたの敵は世界の敵。その意味がわかった気がする。

「—――見えてるんだよっ!!」

 心臓を容赦なく抉りに来た鋭い一撃を、脇差しの切っ先で弾き返す。林から飛び出した無表情の仮面を林に突き返して、視線を向ける。

「約束は守った‥‥」

「‥‥ありがとう」

 恋人を狙うなを、守ってくれた。

「だが、襲ってくるのなら話は別だ」

「そうしてくれ、自分の身を守ってくれ」

「言われなくても」

 獣のように、四つん這い気味の腰を下ろしていた無表情の仮面は、背筋を伸ばして剣の先を向けてくる。

「私の名は、アルマ!!」

「俺の名前はヒジリだ」

「ヒジリ!!最後の問いだ!私と共に来い!!」

「断る。お前こそ、俺と来い」

「断る!!」

 必ずこうなるわかっていた。俺もアルマも、抱えた者と抱えてしまった物がある。お互い退けない――――退けないのは、道理だった。

「下がって!!」

 仮面を投げ捨てて、あの時とは違う――――回転をしながら剣の重量や刀身を最大限に生かし膂力の全てを切っ先に乗せた一撃を放ってくる。

 だが、同時に縮地を使ったネガイのレイピアが切っ先で受け止める。

 脇差しが弾いた音とは比べられない涼やかな音が辺りに響き、惑星と惑星の衝突にも錯覚しかねない火花が辺りに散り、直後の静寂をアルマの言葉が引き裂いた。

「貴様、処刑人か!?」

「よく知ってますね」

「その髪と瞳は私にも伝わっている!!」

 鍔迫り合いでは見れない光景だ。力の駆け引きは死を意味する。力を抜けば眼前に切っ先が迫るからだ。

 これはガンマンの決闘に近い。先に抜いた方が勝負の主導権を握るが、先に抜いた方が圧倒的不利になる。

 求めるは一撃必殺。避ける隙など与えず、力を抜く時間も与えない。そして、それに長けていたのは、ネガイだった。

「軽い!」

 片方のエストックなど使わずに、ネガイは切っ先をつけたままで縮地を使い、アルマの剣に火花を散らした。

 剣の包帯がネガイのレイピアによって裂かれて、中の文字が露わになる。

 ネガイは剣に一筋の傷を残して、アルマの背中まで通り過ぎた。

「いい反応です」

 通り過ぎながらアルマの背中に向けていたエストックを振るが、その一撃が剣に阻まれる。

「私からの勢いを使いましたね」

 顔が歪むような笑顔をアルマに見せている。

「なるほど‥‥これは‥‥」

 圧倒的にアルマの方が不利だ。だけど、そんな事、意にも介さずネガイに渾身の力を込めてゴーレムを振り払う。

 現在、この一瞬アルマに背中を向けられている。本当なら、ここでアルマに攻撃を加えるべきだが―――――この誇り高い戦士に、そんな真似はしたくない。

 それに、には、成すべき事、役目があった。

「ミトリ―――」

「わかってます。ここはネガイに。どうぞ‥‥私が守ります」

 マトイからのナイフを抜き、ミトリが庇ってくれる。

 一本前に出て、隣に躍り出たミトリに今も火花を散らせている二人の始終を任せ、ほしに呼びかける―――返答があった時、心を落ち着けて、まなこを開く。

 第3、第4の目が開いていく。金星と宝石の星がこの林に光を落としてくる。錯覚ではない、確かに、空に目を向けている自分の姿すら見えてくる。

 第三者の視点となっているのがわかる、ミトリや俺だけじゃない。ネガイとアルマの白兵戦は勿論、お互いの次の一手までが見えてくる。

「—――見つけた‥‥」

 が確実に追い詰められているのはアルマだというのに、全く動く気配がない。あれがアルマの家族なのかはわからないが、援護する次の一手すら見えない―――マトイと争いを続けているのだとしても、違和感がある。

 まるで、アルマが倒れるのを待っているようにも見えた。

「見つけた‥‥ネガイ!」

「了解!!」

 ネガイがアルマから離れた。

 急なネガイの後退にアルマは一瞬追撃の構えに踏み込むとしたが、一瞬にも満たない脳裏の思案の末、振り向くように、剣を振り回してきた。

 振るわれた剣を右腕に設置した杭で受け止めて、脇差しで剣の表面、文字を消し去るように縦に深い傷をつける。ネガイと合わせて十字の傷となった。

 一工程が済んだ瞬間、脇差しで奴の方角を伝える。

「ミトリ!!」

「捉えました!ネガイ!」

「はい!」

 ヘッドギアをつけたミトリが、指示をイヤホン越しでネガイに伝える。がいる方向を悟り、信じたネガイを背を向けた時—――アルマに専念する。

「まさかっ!!」

「総帥だったな‥‥」

「—――退けッ!!」

 再度、渾身の力で振り払おうとするが、もう見越していた。

 流れに逆らわずに、腰を低くして杭と脇差しで受け流す。重量を向ける軸を失ったアルマに向けて、先ほどの彼女のように回転しながら膂力を得ながら、逆手持ちにした杭を全力で剣の文字に叩き込む。

 杭は文字を抉るように火花を吐きながら、側面に決して癒えない傷をつける。

「やめろ!!」

「その剣を離せ!!さもないと!」

「この剣は私の誇りだ!!」

 勇ましい叫び声を上げるが、あの時のような不規則な軌道は描いてこない。

 ネガイと2人で傷をつけた結果か、それともアルマの精神がもはや夢を維持できないのか、体感的に現実に戻ってきた。

 初夏の気温に戻ってきていた。

 俺の頭を切り飛ばすつもりで斜め下から振ってきた剣型のゴーレムを、逆手に持った杭型のゴーレムの切っ先で受け止める。もはや勢いを付けずとも、片手でもいなせてしまった。

「忌々しい!!」

「恋人の技だ。貶すな!!」

 今の支配権はヒトガタの血だ。大人しく作戦通りの思考を保てる。

 切っ先で受け止める事ができる以上、腕力の全てで剣を押し返す事ができる。これは俺にとってアドバンテージ以外の何者でもない。

 今の俺は剣を破壊するという目的に特化した武装、技、思考を持った歯車だった。

「退け!!あの人は私の家族なんだ!!」

「‥‥そんな家族忘れろ。もうお前は―――」

「捨てられてなんていない!!」

 視線を向けなくてもわかる。総帥とやらはこの後に及んでアルマを助けに来ない。

 ネガイとミトリ、そして俺でデネブ、ベガ、アルタイルによって作り出される夏の大三角の陣が完成した。

「最後だ、このまま剣を捨てろ。オーダーとしての命令だ」

 全力の一歩手前、アルマが僅かに耐えられる腕力で、杭で剣の刃を押し留める。

 この状況ではアルマは剣から力を抜く事はできない。さっきのネガイとの迫り合いのように、力を抜けば容赦なく身体に突き刺さる。

「お前もオーダーだ。今ならまだ間に合う。俺にオーダーを捨てさせるな!!」

「私‥‥っ。私は、使徒に救われた!!捨てられてなんかない!!」

 知らない国や土地で、きっとアルマは人間共にいたぶられてきた。それが当然の日常となっていたとわかる――――会った時、あれだけ強気で美しかったアルマが、今は歳相応の声と目で訴え掛けてくる。きっと、こうやって耐えてきたのだと。

 必ず恨まれる。大切な人を奪ったオーダーとして。だけど止める訳にはいかない。

「お前だって、同じだったんだろう!!私から家族を奪う――奪わないで!!」

 弱々しくも、力強く大地を震わせる芯の通った声と刃だった。

「悪い、どうか恨んでくれ」

 全力の力で杭を突き入れて、アルマを突き飛ばし、杭を離す。

「俺は人間じゃない」

 離した杭は未だにアルマの剣を離さない。だから、あの時失敗した一撃を―――拳を杭に叩き込む為、爪を手の内に喰い込ませる。

 体勢が崩れてた所に突き上げるような、ひと突きを受けた結果、完全にアルマの身体が宙に浮き、剣が空に向いた。

 ――――予定通り、ワシ座はアルマをヤ座まで移動させられた。その時、ハクチョウ座とコト座が動いた。

「ミトリ!!」

「はい!!」

 織姫が真っ先にレイピアで、そして後を追うように白鳥の刃が剣に迫る。そして彦星の杭も止まらずに、杭を空中で持ち直す。

 3人による燕返し。金星の光から誰も逃げられないように、人間如きではこの星々から逃げられない―――地の利は人の和に如かず。

 いくら夢の中でも人間では力を合わせた星には勝てない。

「取った!!」

 ネガイの叫び声で勝利を確信した。そうだ―――ここの。そうでなければ、ここまで時間と技術、数秒ごとに失われる体力を削って、作戦など実行しなかった―――だけど、星からこの様子を見ていた化け物は違った。

「—――アルマ!!」

 杭への拳を停止。化け物は青い宝石に駆ける。

 剣が独りでに宙を舞った、アルマ自身、自分の力以外で今も起こり続けている心が抜けている―――呆然としていた。

 誰よりも、ネガイやミトリよりも先に、剣型のゴーレムがアルマに戻った。

「遅かった‥‥」

 僅かに、ほんの僅かにが先にアルマの手に届いたというのに、それは人間にとって、そして今も続いている時間、空間にとってもほぼ同時に起った出来事だった。

 ローブやベルトを引き裂き、あと数瞬遅かったらアルマは両断されていた。なのに、今の事実としてアルマの皮は切り分けられた。骨と内臓が、皮から飛び出しかねないほど、深く深く、アルマの深淵を見渡せてしまっていた。

 刃を戻したミトリが駆け寄ってくる。腰の止血剤を渡して、のいる方向を見渡す。

「殺す‥‥」

 血が吹き出るアルマを地面に起き、一歩で―――林を踏破する。

 アルマの夢なのか、それとも総帥自身の夢なのか、有り得ない程の広い森を越えて、木々を超える。

 数秒どころか瞬きにも満たない時間の内に、目的の影がいる開けた場所へと辿り着いた。

「—――――!!!!ッ」

「なるほど、これはまともではない」

 人間の声すら出ない。完全に化け物になってしまった。

 アルマよりも二回りも背が高い。成人の男性だった。

 ローブや仮面、帽子も変わらないが、一ヶ所おかしい所があった。あまりにも巨大な歯車や金具によって作り出された鎌らしき得物。

 背が高いのに、体型はかなりの細身。アルマもそうだったが、武器は長物なのに―――不相応な体付きをしている。まるで、一撃の反撃すら許されない、受けてはいけないと思わせる体格だった。

 これが流星の使徒の戦い方、夢の中で地の利を活かして戦う。アルマとは違う流星の使徒は、戦士ではない――――罠にかけて獲物狙う狩人だ。

「捕獲しがいがある」

 鎌を空に掲げた瞬間、消えかけていたアルマの夢を塗り潰すような世界が現れた。

 赤い月だ。辺り一面が血に染まる。

「アルマが欲しければ好きにしろ」

 あれだけその身を投げ打ってでも守ろうとしたアルマを、当然のように捨てた。

「‥‥お前、アルマの同胞じゃないのか‥‥?」

「無意味な会話だ」

 心底、俺という精神に興味が無いらしい。興味があるのは俺の目だけだった。

「その肉体を我らが流星に捧げろ。さすれば、我々の悲願にまた一歩近づく」

 最初こそ理性的な雰囲気を持っていたが、やはり狂人だ。まともじゃない。アルマの方が格段に理知的だ。トランス状態など生易しいでは到底言い表せれない狂気、信仰者とは、ここまで狂える物なのか―――。

「お前には、これから我らの」

「お前達の教典に興味は無い!!」

 容赦はしない。躊躇もなく、M66の弾丸をローブの中間に3発打ち込む。だが、少しローブが揺れた。その程度の効果しかなかった。

「‥‥夢を壊すしかないか」

 アルマと同じだとして、あの鎌を破壊すればいいのか?まるで、想像もできない。

 夢を破壊するには、相手を殺す。同じ術者同士であるマトイの力を借りる、もしくは相手の支柱たる何かを目の前で壊す。

「‥‥構わないか、貴様の精神などいらない」

 鎌を両手で持ち上げて、刃を背中に隠すぐらいに身体を捻り仰け反った。

「首と種さえあれば―――」

 林を踏破した時に、出せた踏み込むよりも速かった。

 総帥と呼ばれた男は首を両断する為に、人の手による断頭台を作り上げた。それは吸い込まれるような鈍色の刃を持った死神だった。

 左右どちらに回避しても避けれない。ならば、正面しかない。身を屈め―――左手の脇差しを右手に持ち替える。

 屈んだ時、大振りに鎌の下、総帥の傍に滑り込み逆手持ちの脇差しを背中に突き入れる。

「硬いっ‥‥!」

 さっきが、もう既に背中に帰っていた。

 単純な質量の差で、鎌の刃に弾かれ、刃がついていない方で石突きを喰らう。そのまま見た目ではあり得ない腕力で振り回され、飛び込んできた鬱蒼と茂る森の中に戻される。

 脇腹の数本足りない感覚を無視して、脇差しを木々に刺し遠く飛ばされるのを防ぐ。

「—――ッ!!」

 痛みを声に出す暇すらない。既には容赦無く俺の首を狙って鎌を振り下ろしていた。

 樹木から脇差しを抜き、鎌から逃げたが―――つい呼吸半まで頼っていた樹木が切断させ丸太になり、こめかみから血が吹き出る。

 吹き出てくる血の一滴一滴が、頭を裂いた鎌の軌道を追っていくのが見えた。

 あまりも現実離れした光景だ。

 夢の中とは、ここまで自由に威力を調節できるのか。

「我らの流星に忠誠を誓え、我らの流星は、何よりも正しい」

 樹木を切り倒したことなど気にもせず、刃を返して再度首を狙ってくる。

 首の皮一枚で、避けるが今度は避けた鎌をまた返し、首を引き斬ろうとしてくる。全力で脇差しを鎌と首の間に突き入れて鎌を止めるが、総帥は鎌を持ったまま回転し体重を使い、凌いでいた身体を樹木に弾き飛ばす。

 総帥と呼ばれた男は、逃げ場を鎌の軌道で塞ぎ、あるいは断ってくる。檻を鎌で作り出し、逃げようとする者を拒み続ける。まさしく罠だった。

 脇差しと鎌による火花が済んだが、両手持ちの大鎌の渾身の力を受けて、腕の肘や肩、手首に痺れを感じる―――。

「お前のような穢れた人間でも、我らの流星は受け入れて下さる。お前も我らと、」

「俺を人間と呼ぶな――――!!!!」

 俺の人間と呼んだ?決めた。コロス。

 脇差しでは、あの鎌は受け止め切れない。杭でも受け止めれない。ならば容赦はしない――――M66全弾撃ち放ち、懐に戻すフリをする。

 懐のあの銃に手を伸ばす。サイナから受け取った魔女狩りの銃。

「っ!それは‥‥!」

「覚悟しろ‥‥」

 ようやく鎌の間隔が見えてきた。

 魔女狩りの銃を持った右腕を、下からすくい上げるように斬り飛ばそうとしてくる鎌の刃を踏みつけて地面に固定。

 やはりと思った。アルマもそうだった。

 勢いをつけなければ力を発揮できないのが、流星の使徒の戦術。

 腕力と脚力では比べ物にならない力の差がある。彼ら彼女らは、元人間に相対する為、この戦術を培った。ならば、自分の中を探し出し、を見つけ出せばいい。

 今の俺は、ヒトガタでもオーダーでもない。ましてや人間でもない。

「—――!!!」」

 咆哮を上げ、鎌を踏み越え、銃口をローブの左胸に押し付ける。

 総帥と呼ばれた男は、この銃の威力を知っていた。先ほどのトランス状態から一気に正気に戻り、全力で身体を捻り、心臓を守る。

 けれど、俺の方が一歩早かった。心臓に撃ち込む事は出来なかったが、身体を捻ったせいで胸に真一文字の弾痕をつける事に成功する。

 そのまま総帥を飛び越えて空中で前方に回り、天地逆さまでもう一発放つ。

 今度は肩に抉り、確実に肉と血飛沫を上げさせ、叫び声も上げさせた。

 次の一手も見えた――――再度、鎌で俺の首を下から斬り飛ばそうしてくる。

 だから、背中を向けながら着地と同時、脇差しを『星』で確認したに突き入れ、鎌の動きを止め刃を持ち上げさせる自由を奪う。

「なんだ!貴様は!!」

「化け物だ」

 右腕の魔女狩りの銃を仮面に向けて発射する。寸前で避けたが、掠った仮面は中間で二つに分かれ、総帥の顔が露わとなった。

 もはや仮面も鎌も捨てて、赤い月から隠れるように木々の間に逃げ込んで行った。

 一瞬だけ見えたが、アルマとは似ていない。だが目も髪もアルマと同じなので、血縁なのかもしれないが―――ああ、今はどうでもいい。

「逃げるのか?お前が命令してアルマに襲わせたんだろう?」

 いい獲物。それはオマエノホウだったナ?

 全身が眼球と成った。今も背を向けて逃げていく男が、まで、見通せた。

 経験などない。流星の使徒の事情など知ろうとも思わない。これらの武器の始まりの歴史もどうでもいい。

「オーダー街は俺の街だ!!好きにしてくれたな?コロシテヤル‥‥!!」

 住処に入り、このバケモノを連れ出そうとした。ミトリにまで手を下そうとした。そして――――アルマにも。

「殺す‥‥」

「—――‥‥!!」

 何かの言語らしき物を発した。だが、それは断末魔の叫びではないのが見て取れる。このニンゲンの笑みは見覚えがある。警備員に連れて行かれるときに、あのカエルか浮かべたのを思い起こす。

 勝利を確信した敗者の笑みだ。

 真後ろから空気を裂きながら飛んでくるアルマの剣が星から見えた。

「無駄だ!!」

 魔女狩りの銃で全く眼球を向けずに撃ち込んだことに焦ったようだが、敗者の顔は変えずに、剣を手招きする。

 頭蓋を貫通する筈だった軌道をずらし、文字の一つ、十字の傷をつけた一文字を狙い撃ち込まれた剣が手元に来た時—―――文字群はズタボロな上、あの輝きは乾いたアルマの血によって消えてしまっていた。

 いらない。心底そう思う。マトイの黒い短刀とは比べ物にならない、穢れた姿だった。

 剣を手元に手繰り寄せ、俺の足元にあった鎌も引き寄せる。それらを両手で掴み、回転しながら2本の長物で舞い戻りながら首を狙ってくる。

 恐らく、アルマの剣も総帥の鎌も他に類を見ない一級品のゴーレムなのだろう。

 だけど、やはりこの脇差しに敵わない。あの方が授けてくれた一振りだ、それだけで何にも俺にとって何にも勝る。

 人間では決して手の届かない輝き。この輝きの意味を理解できたのはイサラだけだった。

 汚ならしい笑みを持った横顔が見えてくる。アルマを斬り捨てた理由は単純だ、自分の信仰の為、役に立たない物は捨てる。

 やはり人間は嫌いだ。平気で、同胞を捨てる。

 狼王ロボの足元にも及ばない、欠点だらけの思想。痺れは消えた。ならば、お前に復讐をしなければ―――脇差しを持った左腕を垂直に構え、肘を引く。

 ネガイの技の一つ、刺突。

 汚ならしい笑みが完全にこちらを向いた時、哀れな主を持った2本の武器が姿を見せた。

 もうその時には、脇差しは剣の文字を捉え、鎌を持った手を狙っていた。

「シネ」

 それらの武器は人間を相手にする為に造り出された物。ならば、この化け物は殺せない。この程度の事も、

 アルマの剣はアルマ自身のように二つの断ち別れ―――鎌を持った手が総帥の腹に縫い付けられた。同時に鎌もどこに飛んで消えていく。

「終わりだ‥‥」

「油断しないで!!」

 マトイの声で我に返った時、脇差しを血に濡らした筈の総帥は消えていた。赤い月も消え、完全に現実に戻っていた。

「どこだ‥‥」

 目を使って、総帥を探す。

「そこか‥‥」

 星から確認した時、『総帥』は林を走り抜け、逃げようとしていた。

「無事か?」

「ええ、もう始末しました」

 バックアップと言いつつ、マトイにはこの学校に潜んでいる可能性のあった、残りの流星の使徒の対処を任せていた。

 アルマと総帥を対処してくれれば、残りの術者は私が処理すると提案していた。

 マトイの予見は正しかった―――どうやら数人が入り込んでいたらしい。

「私のことは放って、急いで!」

 マトイの一言にかぶりを上げ―――総帥が今も逃げている方向に踏み込む。

 アルマと総帥、どちらの夢も消え去り、あれだけ広大だった森もただの林に戻っていた。ほんの一息で無様に背中を見せて逃げているただの人間の背中に辿り着く。

 お前は失敗した。化け物どころか野生の獰猛な生物に背中を見せるのは愚かな行動だと知らないらしい。

「逃げられると思うな!!」

 脇差しと杭を持ったまま、飛び掛かるように総帥の背中を斬り付ける。

 獣の爪で襲われたように、二本の鋭い刃を受けて、総帥は叫び声も上げずに前方に吹っ飛ばされる。

「チッ!浅いか‥‥!!」

 最後の力なのか、道まで吹っ飛ばされた所で、総帥は再度、赤い月を呼び出す。この男には相応しくない美しい夢だ―――だが、月を甘受する時間も距離も無かった。

「こんな使い方が―――!?」

 総帥との距離が離されていく、まるで森に引き戻されるように。

 無様に倒れ伏した総帥が俺に冷や汗をかきながら歪んだ口元を見せてくる。ローブを確実に貫通する二撃を放ったのに、それでも逃げようとしている。

 やはり人間は嫌いだ。誇りが無い。

「逃がすか!!」

 地面を蹴り続け、離されていく距離を縮めようとするが、まるで追いつけない。

 近くにネガイとミトリがいる筈だが、重症人が傍にいる以上、動く訳にはいかない。俺が始末するしかない。

「こっちに!!」

 真後ろからマトイの声が聞こえた。振り返り、マトイを抱き上げる。

 その瞬間、俺とマトイを囲むように黒い帯が姿を見せくる―――同時に空気が一変する。ここは、マトイの夢の中。この感覚には覚えがあった。

「走って!!」

 マトイを抱き上げたまま、森の中を飛び、元いた場所である道路に足がつく。だが、その時にはもう総帥の姿はなかった。

「逃がさない‥‥」

 星を使い、身体の目自身の力も使い、学校全体を見下ろし、見通す。

「総帥は今どこに?」

「‥‥正門」

 倒れている同胞も、アルマも放置して1人で校内を走っているのが見えた。

「連れて行って―――」

「助かる」

 どれほどの使い手を相手にしたかわからないが、少なくともマトイはここに来るまでに3使している。

 そんなマトイに頼らないと、俺は人間ひとり始末できない。また、マトイと離れられない理由ができてしまった。

 軽い身体を持ち上げて、背の低い樹木を蹴り飛ばし、更に高い樹木の頂点も蹴り付ける。最後に、街灯の一本に跳び乗る。

「舌、噛むなよ」

 それぞれの街灯や棟の出っ張り、壁を踏み付けて、ボールのように跳ねていく。最速で行くには直線距離で正門に向かうしかない。

「素敵‥‥星に手が届きそう」

 意外と幼い事を言ってくる。恋人の新しい顔が見れて、この状況だというのに、自然と笑みが溢れる。

 本当に星を掴むように空へ手を伸ばすマトイは、この風の身を裂くような感覚に、高揚感を覚えているらしく、呼吸で興奮しているのがわかった。

 体育棟、校庭、本校舎、それぞれを屋上や街灯で踏み越えて、正門近くの中庭まで飛び出し、目に付いたの装甲車のルーフへと着地する。

「見つけた‥‥」

 目が自然と脳に、ニンゲンの背中を見せつけてくる。最後の武器らしき杖を振り回して無様に逃げようとしている『総帥』の背中だった。

「外に仲間が?」

「いたらサイナが報告しています。恐らくいません」

「‥‥わかった。仕留めるぞ」

 ルーフから降りて、防弾ガラスを更に踏みつけて、車体を大きく揺らし、反動を使い空に飛び上がる。

「着地は任せました」

 先ほどまでのマトイが消えて、法務科のマトイが顔を見せた。同時に正門からもう1人の恋人が姿を見せる。ネガイだ。

 マトイは。過去に俺へと放ったような刃を編んで作り出し、布の腕で投擲—――逃げ道を塞ぎ、ネガイのいる方向に誘導する。

 もう戦闘をしないで逃げられないと悟ったのか、総帥は杖を抜き、仕込んであった刃でネガイに挑む。

 着地と同時にマトイを下ろして、杭と脇差しで背中を向けている総帥へ駆け抜ける。

「ネガイ!!」

 誰ひとり逃がさない。誰ひとり帰らせない。この化け物を求めたな?この魔眼に、この魔星に、手を伸ばした?

 星に滅ぼされたような弱い人間如きが、化け物の宝石を求めたな?しかも、宝石に傷を付けたな?ミトリに、アルマに刃を向けたな?

 あの剣はアルマよりも、総帥の命令を優先していた。アルマの命よりも総帥の命を守った。

 ならば、剣を持った時のアルマは剣に操られていたと言える―――剣を使って、総帥はアルマを操っていた。

 アルマは俺の物だ。あの気高い青い宝石は、全て俺の物だ。俺の宝石を傷つけ、あまつさえ、殺そうとした。

 もう星に滅ぼされたという哀れな事実に、なんの意味もない。

「許せない、許せない、許せるものかっ!!」

 俺と同じように腕を!!—――アルマと同じように!!

 叫び声を聞いた瞬時、こちらへ視線を向けてくるが、ネガイに向き直る。

 俺よりも、ネガイの方が弱いと思ったのか、もしくは逆だと思ったのか―――この化け物の事を無視し、ネガイを正門に縫い付けるように仕込み杖を焦りながら突き入れる。

「私を侮りましたね?」

 凍りつくような視線を向けて、ネガイは突き出された杖に、宮本武蔵の如く、無の型で突き返す。

 想像を遥かに超えた手応えを受けて、総帥は後ろに飛び退き、俺へ振り返り様に杖の刃で斬り付けようとしてくる――――だが、もうわかっていた。

 脇差しの先端で杖を固定し、跳びあがって膝を総帥の脇に叩き入れる。

 骨が膝の形に陥没したところで、総帥は中庭に転がっていく。

「わ、私は流星の使徒は!あの星に復讐する為!!流星に全てを捧げ!お前の血肉を!!」

 人が変わったような姿だった。森ではあれだけ悠然とした姿だったのに。やはり人間は嫌いだ。立場によって、どこまで無様になる。

 そして立場によって、いくらでも自分以外の他人を見捨てる事ができる。

「終わりだ。お前はオーダー街でテロを起こした犯罪者として逮捕される。流星の使徒は解体だ」

 あの方やミトリと同じように、目が赤く輝いているのがわかる。なぜなら、総帥の見開かれた目に、俺の目が映っているから。

「お、お前はただの人間じゃないのか!?」

「殺す‥‥」

「落ち着いて下さい。こんな人間を殺してどうするのですか?」

 右腕の杭を投げつけようと、振りかぶった時、ネガイが肘を止めてくる。

「私の姿を覚えていますか?」

「し、知る訳ないだろう‥‥」

「11年前」

「その時、俺は日本にいなかった‥‥!」

「‥‥前の総帥とその周りは皆逮捕されたようですね」

 ネガイの言葉でわかった。

 アルマより格上だというから、かなりの強者だと思ったが、夢の中以外ではこの様だ。正直言ってアルマよりも弱い。

 たまさか、逮捕されずに残った奴の中で、1番の年長者がコイツだっただけのようだ。消えた上層部に収まったのがコイツでしかなかったのだろう。

「聞いての通り。これはただの雑魚。あなたが手を汚す程の人間ではない」

「‥‥わかった。これで終わりだな?」

「そうです。これであなたを狙う組織が一つ消えました」

 ネガイが俺の腕を引いて、腕を抱きしめてくる。

「アルマは救護棟に引き渡し、治療を受けています。もう終わりです」

「‥‥なら、残ってるかもしれない使徒を、」

「これ以上、傷を負わないで。ミトリと私が怒りますよ」

 ネガイが頭を触ってくる。忘れていた、側頭部から血を流していたのだと。

「法務科を呼びました。もうすぐ、そこの総帥を逮捕しに来ますよ」

「‥‥アルマの所に行ってくる」

「そうして下さい。そして、傷の治療も―――」

 マトイの報告と、腕を離したネガイの勧めで、救護棟に戻る事にした。

 振り返り、後の事はどうせどこかで監視しているであろう、『あの人』に任せてアルマの元に行こうとしたが、

「総帥‥‥?」

 振り返る理由ができた。腰が退け、座り込みながら脇を押さえている人間が、そう呟いた。

「‥‥まさか、お前、」

 赤い光が、人間に降り注いだ。

「離れろっ!!」

 ネガイに叫び、マトイを抱き上げて、3人で中庭の中央付近まで飛び退く。

 あの赤い月がまた空に浮かんでいた――――けれど、姿がまるで違う。森の中よりも赤い月が美しく血管を持つように蠢き、空を覆うような巨大な姿をしている。

 大きさが異常だ。地球と月の距離は38万キロはある。なのに、ほんとに、手を伸ばせば届きそうな距離に月がいる。

「‥‥お前が、総帥か」

 突然、下を向いた男が空から何かに吊られたように不自然に起き上がり、両目を見開いた顔を上げてくる。

 確かに陥没させた筈の脇が内側から膨れ上がり、元の肋骨の形状に戻っていく。

 月の光に焼かれそうだ。

 あまりにも強すぎる初めての月光に、身体が異常を知らせてくる。

「マトイ」

「前面は任せます」

 マトイを下ろし、ネガイと肩を並べる。

「‥‥覚えがあります」

「11年前か?」

「はい、あの時も赤い月が見えました」

 ネガイもマトイも、この異常事態に危機感を持っているようだが、それだけだ。この状況を自然と受け入れている。

 やはり、この2人は限りなく、一般の人間生活から逸脱した場所に住んでいた。

 同時に、この月の危険性、に気付いていなかった。

「卑怯者が‥‥。部下の身体を使わないと表に出てこれないのか?」

「‥‥その銃を持っているのなら、尚更だ。それによって、我らは人間に滅ぼされた」

 赤い月は、使徒の高い地位ならば誰でも使用できるのか―――赤い血管が蠢く月が、心臓のように鼓動する月が姿を見せた時、総帥の人格が表面に浮き上がった。

「あなたが現在の流星の使徒の総帥。それでよろしいですね?」

「‥‥いかにも。私が、流星の使徒、総帥と呼ばれている者だ」

 見た目も声も若々しい男性なのに、どこか老人を思わせる喋り方をしてくる。

「初めまして、日本のオーダー諸君。まさか、ここまで追い詰められているとはな。あっはははは――」

 心底愉快なのか、顎に手をやって、朗らかに笑っている。

 いつの間にか若い男性の手には無表情な仮面、頭にはポークパイハットハット、肩には使い古したローブ。

 それら以上に違和感を持たせたのが、杖が変形したように現れた巨大な刃を持った大鎌だった。森で手放したものよりも、錆びつき、その上動物の骨で組んでいるような見た目—―――年季が入った、といえば聞こえはいいだろうが、確実に刃を使い込んだ様子がある。硬い骨のような物を絶った跡が、刃こぼれの形で浮き出ている。

「このまま帰らせてもらえないだろうか?」

「少なくとも、その身体の持ち主を逃す訳にはいきません。当然、それ以外の使徒達も」

「ふむ、少しばかり威嚇の意味も持たせたつもりだったが、仕事熱心な事だ」

「オーダー街に攻撃をしておいて、タダで返して欲しいと?」

「そのつもりだ。これらは確かに全て我らの都合だが、オーダーに問題がある。なぜ、首を寄越さないのか?」

 話せる奴だとは、思っていなかったが、ここまで狂った奴だと思わなかった。

 自力でかけた洗脳は、まず解けない。

 思い込みと言えなくもない事象だが、ここまで自然と言葉が出てくる以上、日常的な行動なのだろう。

「教えろ、血を混ぜる意味を―――」

「食事。それ以外の意味を期待していたのか?」

「何の食事だ?」

「ん?教えられなかったのか?流星だ‥‥」

 想定通りの答えだが、当然のように生まれる疑問が口から出てくる。

「流星は、生物なのか?」

 マトイもネガイも、しじまに囚われたように一切の物音を出さずに、総帥の言葉を待った。

 聞いた所で無意味だ。どんな答えが返ってこようが関係無く身体の持ち主の男、アルマ共々、流星の使徒は拘束しなければならない。

 なのに、誰も、俺の質問を止めようとしなかった。

「さてな。あれを、人間の生き死にで測る事など無意味と言える。生物なのか、どうか、と聞かれた場合、どちらでも無い」

「‥‥貴き者」

「知っているのかい?中々、君も人間の道から踏み外しているようだな。なら、遠慮は要らないという訳だ」

 鎌を両手で持ち上げ、森で身体の持ち主が見せたような構えをとった。だが、

「と、言いたい所だが、君の血はいらなくなったのだよ」

 手に持った鎌を回転させて、杖のように地面を突いた。

「我らの流星からの指示だ。君には丁重な対応をしろとね。あれとの付き合いはかなり長いが、恐怖心を持った姿は初めて見た」

「‥‥ふざけてるのか?」

「私は狂っていると自覚しているがね。相手を選ぶ程度の頭は持っているつもりだ。この街を敵に回すような愚を犯すような真似など、伊達や酔狂で起こす訳がなかろう?私自身、なぜこんな事になったのか、わかっていないぐらいだ」

 本心で言っているのか、片手を上げて降伏するような姿勢を取ってくる。

「だから、ここは見逃せと?」

「そうだ。そして、君の事も見逃そう。助言をしておこう、君は人間が触れてはならない存在に触れている」

「‥‥テメェ、俺の事を人間だと抜かす気か‥‥?」

 赤い月と同じか、それ以上に目が赤に染まってきた。

「私が処罰してきた咎人達がよく使う言葉だ、自分は人間じゃない。自惚れぬ事だ。人生の先達者からの助言と――――」

 闘う意思があろうが、なかろうが、もうどうでも良くなった。いや、最初から人間の戯言に従う気など、さらさらなかった。

 脇差しを突き入れて、老人の首の骨と気道を断とうとしたが、脇差しの刃は足元から振り上げられた刃によって止められる。

「‥‥一体何と交信した?」

「‥‥殺す」

「言いたくないのか?ならば、推測しよう。悍しい怪物じゃないか?」

 この俺を人間と言った、その上、あの方を貶した。

「君を処罰するかどうかは、ここで確かめて、試すとしよう」

 そして、この化け物を試すと言った。ならば、もう

 人間如きが面白半分にバケモノに触れようとした罰を。

 突き出していた脇差しで鎌の刃と迫り合う。鎌と脇差しで作る火花をあげさせながら、渾身の力で脇差しの切っ先で突き上げて、老人の手から鎌の自由を奪う。

 もう片方の杭で、老人の左胸を狙う。血を浴びる事すら今はどうでもいい、今はただただ、あの方を貶した人間を殺したい。

「‥‥容赦がないな―――」

 高い確率で心臓を貫く軌道に入ったというのに―――時計の針が逆回転するように、鎌の刃が再度杭を拒み、杭を通して受けた力を使い、腰を起点に一瞬で回転して鎌を振るってきた。

 上半身を斬り飛ばす為の最善で最短の動きをしてきた――――目を使った事により、杭が拒まれる可能性も見えていた。

 杭が拒まれた瞬間、脇差しを逆手持ちにして、身体を両断しにくる刃に頂点を当てて、動きを止める。

 この一撃でいつも勝利していたのか、予想外の手応えに確認もしないで後ろに飛ぶ。

「なんなんだね、君は?」

「自分で、求めたんだろう‥‥?自分で‥‥考えろ」

 呂律が回らない。人間の皮も、ヒトガタの思想も、オーダーの法も、全て剥げた。

 ああ、そうだ、この感覚だ。頭を締め付ける人間の姿をした無駄な肉を捨てる。

 目もこれだけは足りない。地球を観測できる、全てを目にする。

 この星で逃げられる場所はない。このソラに映る輝きは―――全て俺の瞳だ。

「ああ、ああぁぁぁ‥‥」

「どうやら、人間では無いという言葉、嘘ではないようだ‥‥」

 首が揺れる、頭が重い、だけど、この開放感は、タマラナイ―――。

 もはや銃を使える理性もない。あるのは自分の爪と牙を使う程度しかない本能。だけど、それで充分。

 今—―――俺はどんな姿をしている?わからない。今—―――俺に向けている視線はどんな色をしている?どうでもいい。今は、ただ、奪いたい。

 老人が赤い月から差す光に消えた。

 首を刎ねる為に、眼前に現れた。両手で持った鎌はもう首に触れる寸前だった。

 ――――だけど、見えていた。一歩後ろの引き、鎌の先端に制服の裾を撫でさせる。引いた時の勢いを使って、アルマのように回転する。

 勢いを使って鎌を逆手持ちの杭で弾き飛ばし、脇差しで心臓を狙う。総帥も更に回り、紙一重で脇差しを避け、斜め上から振り下ろしてくる。

 もう避ける暇はなかった。

 突き出している脇差しをそのまま鎌の先端に当てて、鎌と鍔迫り合いを行う。

 一瞬だけ火花が散ったが、火花に紛れて総帥は鎌を引き、後退しながら構えを取る。

 鎌の柄の先端を片手で握り、背中に押しつけるように反り、刃の部分を片手の指で掴む―――瞬時だった。一瞬で指を解き放った。

 人間が繰り出せる速度の限界を超えた一撃だと、自動記述は断定した。

 繰り出されて一撃は容赦無く、首を狙う。全力の目、星を使い、軌道を読み、脇差しを沿わせて火花をあげさせながら回転し、鎌の軌道を交わす。

 血が血管を焼くのがわかる。

 今の一瞬だけで、身体中の血を何周も何十周も心臓の鼓動で操る。

 ここまでの命すら削りかねない動作を予見していた鎌は、空振る事すら戦略に組み込み――――空中に刃を置き、顔を一切動かさずに両手で掴み直す。威力と速度を兼ね備えた一撃を数えるのも無駄なにて放ってきた。

「‥‥っ。見えたのかね?」

 この脇差しと杭なら耐えられる。そう確信して、2つの爪と牙を十字に構え、鎌を受け止める。

 間髪入れず、十字に配置した2本の牙と爪を交差させ、老人の腕を切り落とす―――経験の差か、手応えを期待した腕は裏切られ、軽い金属音を出しただけだった。

 老人は、鎌の刃をあの一瞬で足元に下げバク転でもするように、鎌の勢いを使って後ろに遠く飛んでいく、飛んでいく光景を見ながら、喉を圧縮させて、叫ぶ。

「逃げられると思うな!!殺させろ!!!」

 追いかける為に今も宙を舞っている老人に杭を投げつけ、大きく踏み込みながら地面を滑るように、後を追う。

 飛びながらだというのに、老人は鎌で杭を弾き飛ばす。だが、そこに隙が生まれた。

 着地のタイミングを外させ、一歩後ろに退いた時、『化け物の爪』で老人の鎌を突き飛ばし、返す刃で老人の胴を抉る。

 造り出した隙を無駄に出来ない。仮面の横顔を蹴り飛ばし、帽子諸共仮面を外す。飛んでいく老人は、地面に手を突いて姿勢を戻しながら、止まった。

「これは‥‥まいった‥‥」

「捉えた‥‥」

 確実に捉えた。脇差しの手応え、滴る血液が、爪が届いたことを知らせてくる。

「‥‥本当に、人間ではないようだね」

 鎌も失い、血も失いつつある老人は若い肉体に頼って起き上がるが、ローブから血が止まる事はない。

「諦めよう。君の勝ちだ」

「逃げれると思っているのか?」

「この身体の持ち主は、これでも貴重でね。渡す訳にはいかない」

 本当に好きなように現実を操れるのか、既に杖を手に持っていた。

「邪魔をして悪かったな。もう二度と顔を見せぬと約束しよう」

 手に持った杖で地面を叩いた時、使が地面から生まれ出た。

 決して1人などではない。軽く10人が俺を囲み、後ろのネガイとマトイも取り囲むように現れた。総数32人。ここでやりあっては数の差で時間を稼がれてしまうと、誰であろうと計算できる、圧倒的な数の差だった。

「人間が!!ここまでして逃げたいか!?」

「人間ではないという言葉、信じるとするよ。アルマは好きにしなさい」

 それぞれ剣やナイフ、槍にナタ、大鎌。脇差し一本でやり合うには不利でしかない。その上、皆一様に人間性を感じない。人形だ。

 撃っても刺しても、死なない。手足を切り落とせばいいだろが、丁寧に1体1体4本ずつ切り落とす時間は無い。

「サイナは!?」

「通信ができません!ネガイ、任せます!!」

 マトイの声が聞こえる寸前、レイピアの銃声、SIGPROの銃声、硬い布に刺さる細剣の音が次々と鳴る。

 コンマ数秒の間に鳴り響く音へ勢いのまま振り返ると、もう既にネガイは人形の4体を地面に伏させていた。

「父と母は優しかった。だから、あなたを逃したのでしょうけど、私は違います。私の恋人を傷付けておいて、逃げれると?」

 忘れていた訳じゃない。だけど――――ここまでとは思わなかった。

 レイピアは人形の首を一振りで2つ飛ばし、22レミントンマグナムで仮面ごと眼球を打ち抜き、背中のエストックを投げつけ人形の腕と胴を縫い付け、SIGPROで武器を弾き飛ばす。

 首を失い倒れる寸前となった人形を足場に、舞うように人形の破壊していく。

「これらは人形です」

「‥‥そうだ」

「人形であり、敵です。迷わないで」

 一瞬だけ、ネガイが目線を合わせてきた。

「‥‥ああ、決めた―――壊す!!」

 脇差しを握り直し、1番近くにいた人形に飛びかかり、頭に突き刺す。M&Pを抜き、40S&W弾を人形の首に打ち込む。

 面白いぐらいに、人形の首が飛ぶ。線が切れたように胴体が崩れ落ちる。

 崩れ落ちた人形の胴体を全力で蹴り飛ばし、生まれた人形達にぶつける。

 何も全員無力化する必要はない。邪魔な奴だけ、バラせばいい。

 マトイもスマホを片手に自分の布を使い、刃を生み出して舞うように人形達をバラバラに刻む。

 この人形達の雰囲気は、殺人人形以外の何者でもない―――殺人とは、こうも楽なのだと、気付いてしまった。

「いい動きだ。前々から異常だとは、思っていたが、今の世代でもここまでとは――」

 M&Pで正門から悠然と出て行こうとする老人の背中に弾丸を送り込むが、人形達が壁となり老人を守り、遠く届かない。

 ネガイもマトイも、次々生まれる人形達の対処を率先してやってくれるが、それでも3人では限界がある。

「ダメ!武器は本物です!!」

 人形達の武器に構わず、突っ込むとした俺の背中にマトイから声がかかる。

「法務科は!?」

「外にも人形が生まれてるらしく、近づけないと!!」

 もう興味が無いと言わんばかりに背中を向けたままで、正門への道を人形で作り出した。

「さようなら。もし次会ったのなら、世間話の一つでもしよう」

 急ぐ必要もないのか、切り裂いた腹を押さえながら、杖をついて歩いていく。その背中撃ち尽くしたが、最後まで届かない。

「‥‥ああぁぁあぁっ!!!」

 声を出す暇すらないというのに――――ただただ、前に進む為に人形を切り飛ばし、飛んでくる切っ先や尖刃を弾き、避けて、飛び越えるしか出来ない。

「「使って!!」」

 ネガイとマトイの声が聴こえた。

 目の前で俺を両断すべく、剣を振り上げていた人形の仮面にエストックが突き刺さる。それを引き抜き、更に一歩前に出た時。

 身体にマトイの布が巻きつき、頭まで覆う。鎧ではない、身体の重みは変わらないことから、毛皮を纏ったとわかった。

 両手にあの方の脇差しとネガイのエストック、身体にマトイの布—―――この化け物は、心身共に、完全なる化け物となった。

 エストックで敵の首を斬り裂き、脇差しで手足を切り飛ばし、宙を舞っている人形の一部や武器を毛皮で弾く。

「ドコダ!?」

 夢を破壊するには、術者が夢を維持できなくなる程のショックを与える。ゴーレムを破壊するには文字を乱す必要がある。

 ならば、杖を狙う必要は無い。

 今も襲い掛かってくる人形はゴーレム。アルマの剣を参考に考えると、夢の中で力を発揮し、夢の中でなければ力を使えない。

 必然的に夢さえ破壊できれば、これらのゴーレム達は消える。

 なれば老人の夢を破壊すべく、地球上のどこかにいるを探し出す。

 深淵の覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。

 フリードリヒ・ニーチェの著作、『善悪の彼岸』に登場する言葉。

 今でこそ、興味本位に何かを覗けば、その何かは覗いているお前を覗いているという意味で使われるが、本来は違う。

 。狂人を理解しようとした所、自分も狂人になってしまった。本来はこうだ。

 この狂人を探すのならば、俺も狂人になるべきかもしれないが、人間の世界に合わせてやる必要は無い。

 人間の狂気と、化け物の狂気では、比べ物にならない。

 圧倒的にこの化け物の方が、世界に受け入れられている。

 この狂気を世界は肯定した。

「そこか‥‥」

 老人の姿を捉えながら、人形に脇差しを振るい、エストックで突き刺し、2刀で首を落とす。毛皮で刃を避け、受け切る。

 ――――教会のような建物の中に安楽椅子に座っている。杖をついて目深に帽子をかぶった老人がステンドグラス越しの月光を受けている。

 場所は不明瞭だ。だが、こちらと同じ夜だった――――

「‥‥っ!?まさか‥‥!」

「見返したな?」

 も振り返り、目を見開いた。

「俺を見たな?俺の目を見返したな?この魔眼を覗いたな?」

 誰も逃がさない。。この化け物はお前を見たな。お前もこの化け物を見たな。決めた、お前は逃がさない。

「ミツケタ‥‥」

 この化け物からは逃げられない。宇宙から降り注ぐ素粒子を人間は避けられない。

 星の瞳からは、誰に逃がさない。

 あの方から頂いた星が眼を開く。遠く深淵からの視線は愚かな人間を逃がさない。分不相応にも、化け物に触れた、お前を―――!!

「お前は‥‥逃がさない‥‥人間!!」

 赤い月にヒビが入った。同時に人形達にもヒビが入り、動きを止める。

 壊れた人形達を片手で引き裂きながら、総帥の元へ駆け抜ける。今も邪魔をする人形の首を刎ね、腕を引きちぎり、腹の半分を奪っていく。

「触れてはならない‥‥。そういう事か‥‥」

 ここから逃げるには正門から出るしかないのか、総帥は開かれた正門に向かって飛ぶように走り去る。

 もはや人形達はただの木偶だ。踏み越えて、踏み潰す。この化け物はそれが許される。

 夢を作り出すには安定した精神が必要。夢には2つの使い方がある。マトイやアルマのように、自分の戦場として使う選択。

 総帥は文字通り、自分の世界として夢を使っている。それを維持しながら戦闘を行うのは不可能なのだろう。

 だから、自分は安全な場所で自分の分身を使う。

 卑怯者とは言わない。それが人間の戦い方だ。だが、それは同時に弱点でもあったようだな、人間。

「殺すっ!!」

 圧倒的に有利な立場を崩した。誰からも脅かされない自分のテリトリーを侵害された。それだけで、心が惑わされた。

 もう夢を維持できない。

 エストックを近場の人形に突き刺し、手を離す。開いて手を毛皮の内側、懐に入れて魔女狩りの銃を抜き逃げる総帥の背中に撃ち放つ。一瞬だが振り返らせ、ローブを翻し杖の先端で弾こうとしたが、弾丸は杖を簡単砕く。

「‥‥私は諦めた。君も諦めよう。もはや、私達では、君を狩れそうにないのでね」

 仮面を失った顔に、赤い光が差した。その顔は老人の顔でこそあったが、言葉とは裏腹に決して誇りを捨てていなかった。

 教会にいる老人も真っ直ぐこちらを見据えてくる。

 こちら側の老人は帽子を上げて、最後の挨拶をしてくる。

「失礼するよ。さらば、」

「どこに行くんですか?」

 急な声に、呆気に取られた。

「失礼しますね」

 笑顔の少女。この赤い月が崩壊していく世界で、狭まっていく化け物の視界の中を暴力的に塗り潰す存在がそこにいた。

 正門から浮き出たような登場に、俺も老人も誰も反応出来なかった。出来たのはせいぜいが息を吐く事だけ。吸うという工程を忘れた。

「‥‥っ?」

 ミトリだった。

「さようなら、もうあなたに会う事はないでしょう」

 笑顔のまま、軽く顔を捻らせて、マトイから受け取った銃剣型の拳銃を両手で持ったミトリは総帥の腹を軽く突いた。

 老人は背中を俺に向けながら、自身の腹を眺める。頭が自分が刺された事に未だに気付いたいない。

 だが、身体は刺さった結果を血という色で表現してくる。老人のブーツに血がつたり、水紋を作るように広がっていく。

 生物としてあり得ない姿だった。刺す寸前まで見えていたで、ミトリは突き刺していた。





「助かった。ありがとう、ミトリ」

「あなたがあそこまで追い詰めたから、隙をつけたんですよ」

 こめかみの傷を薬で埋めて貰っていた。

「‥‥よし、後は包帯です。じっとしててね」

 迷いがない手つきで包帯を頭に巻いていく。ただ、座りながらの頭にミトリが包帯を巻いてくるので、自然と頭を抱かれているような姿となった。

「くっついたらやりにくいですよ」

「‥‥もう少し、ミトリに甘えたい」

「認めましたね。そんなに私に甘えたいんですか?」

「認める‥‥。ミトリに甘えたい」

 ミトリの制服越しの胸に頭を置いて、逃げられないように背中に手を伸ばす。

 包帯を巻きながら呆れたような言いながらも、最初に頭を抱いてきたのはミトリだった。

「—――聞いていいか?‥‥アルマは?」

「すぐに薬で血を止めました。それと夢?って言うんですか?あの不思議な空間はマトイさんのお陰ですぐに出れましたので、救護棟には誰からも邪魔されずに到着、後は任せました。それとネガイとは予定を変更し、てサイナさんと待ち構える事にしました」

 簡潔に、俺の知りたい事を教えてくれる。

「気付かなかった。いつからあそこに?」

 ミトリは確かに、正門の裏側から現れた。

 学校の中にはあの人形達が、あの『総帥』は一歩一歩、正門に近付いていった。

 あまりにも現実離れした光景の筈だ。しかも、空の月は赤に染まり、光も鮮血越しのようだった。魔に連なる存在の事を詳しく知らない人間では、正常な判断能力を失っていても、おかしくない。

 だというのに、ミトリは狂う事なく――――総帥の身体を迷いなく貫いた。

「ネガイから言われたんです。サイナさんの側にいて、何かあったら2人で突撃してくれって」

「突撃?」

「はい。この車で人形達を蹴散らして、その‥‥サイナさんが‥‥あの秘密の鞄で人形達を倒し続けて、それで私だけなんとか正門に到着できたんです」

「‥‥そっちも、大変だったんだな。怪我してないか?」

「平気ですよ。サイナさんが率先して前に出てくれたので。‥‥すごいですね、装備の用意もできて、あんなに戦えるなんて」

「サイナにも言われただろうけど、あの事は秘密で。人に知られるの、嫌がるから」

「大丈夫です。約束しましたから」

 抱いた頭を、胸から離そうとするミトリに首を振る。

「‥‥もう少し」

「はい‥‥」

 制服に顔をうずめて、こめかみの痛みを我慢する。

「‥‥かなり深いですね。多分、今回は傷が残りますよ。‥‥毒は?」

「‥‥含まれてみたいだ。—――少しだけだけど、痛い」

 片手で頭を抱き締めて、もう片方の手で傷を温めてくれる。

「毒も、人間も嫌いだ。なんで俺を求めるんだ。俺を連れていきたいのに、なんで毒を使うんだ‥‥」

「‥‥毒は、です。狩猟に戦争、それと暗殺。弱く卑怯な人間は、あなたみたいな化け物を倒すには毒を使わないと、正面に立てないんです。それと人形も。あの人形の事を、私は詳しくはわかりません。だけど、自分が傷付く事を避ける為にあれを使った」

「‥‥」

「元を正せば武器だってそうです。が、です。あなたが使っている武器も、そういった物です」

「‥‥でも、痛いんだ」

「そうですね。そう言わせたいから、人間は毒と武器を使うんです。怖い?」

「‥‥ここにいて」

 ミトリは何も答えてくれない、無言のままで傷を撫で続けてくれる。

「人間の武器は、私の死神とは違いますね」

「‥‥自分の意思で、選べるかどうかか?」

「人間の武器は、自分の意思によって傷を与える対象を選べる。手元さえ狂わなければ」

 ミトリの死神は、対象を選べない。

 俺が病院で白くなった事を、まだ自分の所為だと思っている。そして、この傷も。

「この傷は、俺の責任だ。だからどこに行くなんて、やめてくれ。ミトリがいないと、もう何も‥‥」

 やはりわがままだ。共に浴槽で話し合って、提案してしまった事を、ミトリにはと言っている。どこまでも、弱い化け物でしかなかった。

「‥‥ふふ」

 急にミトリが笑った。

「ミトリ?」

 顔を上げて、顔を見つめると、なおさら笑いかけてくる。

「ごめんなさい。でも、今のすごいかっこ悪かったですよ」

 腰に回している手を軽く叩いてくるので、腕を解くとミトリは隣に座ってきた。

「私がいないと、寂しいですか?」

「‥‥嫌だ‥‥」

「泣かないで。いじめてごめんね。はい、こっちです」

 ミトリの膝に倒れ込み、顔を制服にうずめる。

「私は、あなたにお礼を言いたいんです。初めて、私は死神を自分の物にできた気がしたんです」

 死神は相手を選ばずに、命を奪っていく。

 それが事実なのかどうか、俺にはわからない。だけど、確かに人間達はミトリの死神を恐れ、この街にまで追放した。その原因はミトリが自分の死神を操れていないから、と言えてしまうのかもしれない。

「‥‥いいのか。死神を使って」

「‥‥多分、私の死神は何人貪っても足りないんだと思います。‥‥お返しです」

 ミトリが耳の穴に指を入れたり、裏返したりして悪戯をしてくる。耳と指の擦れる音がくすぐったくて――――心地良かった。

「私の死神は、きっと。もうすぐそこまで来ていたのだと思います――――いつもなら、何にも感じなかったのに」

 耳から手を離した時、自分の下腹部、子宮辺りに顔を迎え入れてくれる。

「‥‥初めてでした。ここが疼いて、疼いて‥‥私の死神は、あなたをずっと待っていたんです。私の初めてを奪ってくれたあなたを‥‥」

 足と足を擦って、押し付けている頭蓋で自分を慰めていた。

「楽しかった。早く、あなたを奪いたい、私だけの物にして、あなたを食べてしまいたい」

 顔を上げる事を許してくれない。止まらない欲望を頭を撫でる事によって、治めている。この仕草は、過去にあの方にもされたのを思い出した。

「だから、あの人間を止める事ができました。あなたを諦めると言ったあの人は、諦める顔をしていませんでした、必ず、また来ると感じました。‥‥逃がす訳にはいかなくて、私も、私の死神も、許せませんでした。だから刺しました。私のあなたを奪うあの人間を」

 顔を見上げる事はできない。でも、きっとミトリの目は朱に染まっている。

 夜の体温を制服越しでも感じられた。

「初めてです―――私自身が死神になって、あんなに身体が軽くて、それに、気持ち良かった‥‥!」

 更に強い力で子宮に頭を押し込んでくる。このままでは流石に窒息する。そう思った時、ミトリから起き上がる。

「あ、逃げちゃダメ‥‥」

「逃げない」

 もう一度、ミトリの膝を枕にして、手を目元に運ぶ。

「受け入れたのか。自分が死神だって」

「‥‥はい。人の死を見たがっていたのは、多分私自身です。私だけの物にしたかったから、死神は奪っていった。怖いですか‥‥?」

「少しだけな。でも、」

「でも?」

「俺は人間じゃない。だから、こうして傍にいられる」

 ミトリの首を手探りで探し出す。

「ミトリこそ、怖くないのか?」

「少しだけ‥‥」

「同じだ」

「はい、同じです」

 2人で笑いあってしまう。

 そう、ミトリには笑って欲しい。ずっと、笑っていて欲しい。

「さて、そろそろ行くか」

 ミトリから起き上がって、立ち上がる。

「法務科に行って来るよ。また明日‥‥」

「しないんですか?」

 ミトリは自分の唇を撫でて、舌舐めを見せつけてきた。薄い桃色の張りがある唇は、車内の灯りを反射して、目が引きつけられるのがわかる。

 一瞬で理性が飛んだ。ミトリをソファーに押し倒して、口から甘い唾液を奪い続ける。ミトリ自身も、目も閉じないで頭を抱いてくる。

 柔らかい、それに真っ赤に輝いた目が顔を離す事を許してくれない。ミトリを味わいながら、ミトリの目を愛でる。

 元から、こんなに接近的だったのか、それとも俺の所為なのか。どちらにしても、今のミトリは、何よりも強欲だった。

 気が付いた時にはミトリが上となり、舌を噛むように奪ってくる。息の時間も許さず、止まらない自身の唾液を流し込んで喉までも犯されてしまう。

「‥‥終わりです」

「‥‥もっと」

「治療の言い訳も、そろそろ限界です。‥‥2人きりになったら、また吸ってあげますから」

 馬乗りになっていたミトリが、最後に唇を舐めてから立ち上がった。

「3人によろしく」

「はい。任せて下さい。あ、もう‥‥」

 最後にミトリを唇を舐めてから、車外に出ようとした時、

「忘れる所でした。これ、お返ししますね」

「‥‥忘れてた」

「大事な物ですよ!忘れないで!!」

 ポータブルセーフを受け取って、外に出る。

 夜風と言う時間であるのは間違いないが、もはや夏の風と評する以外ない熱風に額を撫でられ、数日後に汗でへばりつく髪の不快感を予測する。

「来ましたね。傷は?」

 治療して貰ったこめかみを撫でながら、心配そうに目を細めてくれるマトイの手を握り返す。

「毒の所為で、痛いけど、まぁ大丈夫そうだ」

「大丈夫ですか?マスターに言って、」

「大丈夫だよ。それより、あの人はどこ?」

 周りを見渡すと、法務科らしいオーダー達が忙しなく辺りの徘徊している。

「何をしているかは、秘密です。法務科の仕事はそういう物ですから。マスターはもうすぐ迎えに来ますよ」

「‥‥ありがとう、何から何まで。—――ダメだな‥‥結局、マトイがいないと何も出来ないんだ‥‥」

「私だって同じです。あなたがいなければ、流星の使徒の全面的な逮捕なんて、不可能でした。感謝しています」

 握っていた手を胸に当てて、笑顔を向けてくれる。

「‥‥好きになってくれるか?」

「愛しています‥‥。本当に‥‥」

 その声が嬉し過ぎて、マトイに抱きつく。

「あなたは?」

「愛してる」

「良かった。今回のお陰で、私は更にあなたを好きになりましたよ。今は休んで。いつでも呼んで」

 マトイから離れて両手を繋ぐ。これ以上ない程の安心感を感じている自分がいた。

 ミトリとマトイのお陰での不安も消えた。こめかみの毒は、確実に目を侵している。

 毒気が抜けるまで、この症状は終わらないだろうが、それでも心は――救われた。

「ネガイとサイナは?」

「ここですよ」

「作戦成功、おめでとうございまーす♪」

 ふたりがそれぞれの自身の武器を持って現れた。法務科の間を縫って出てきたネガイは少しくたびれた顔をしているが、サイナはいつも通りだった。

「疲れました‥‥」

「全くです!何度も同じことを聞かれても、変わりませんのに!」

「ふたりとも、お疲れ様でした」

 ふたりからの悪態も涼しい顔で受け流しながら、労いの言葉をかけるマトイは、流石だった。

「ふたりは無事だったか?」

 怪我の有無を確認する為、ふたりに近づいた時―――急にネガイが倒れ込むようにしなだれてきた。ふわりと軽いネガイの身体を受け止めるのは、容易であったが線が切れるように倒れてきたネガイに、声が出なかった。

「疲れたので、車まで運んで下さい」

 不満そうな声はそのままに、ネガイが甘えて来たのだった。

「‥‥よかった―――休んでてくれ」

「私をお忘れでは~?」

「待ってろ、すぐ行く」

「了解で〜す♪」

 ネガイを抱えたままで後ろのモーターホームに足を運ぶ。中のミトリは、使っていた救急箱を元あった場所へと片付けていた。

「あ‥‥寝てるんですか?」

「だいぶ無理させたみたいだ‥‥」

 小声で囁き合いながらソファーに横たわらせて、前髪を整える。眠る姿すらも美しい。眠り姫を見つけた王子はこんな気分だったのか‥‥。

「そもそも、知らない人と話すのは苦手だから―――無理させたみたいだ‥‥ごめんな」

 頬を指で撫でながら声をかける。

「ミトリ、これ」

 ミトリにキャッシュカードを渡す。

「これから外に出るんだろう。それ使っていいぞ」

「え、でも」

「大丈夫。ネガイもサイナも中の額は知ってるから」

 今回の一件で、また幾らか振り込まれるのだ。別に構わない。それに、4人なら常識の範囲で使ってくれるだろう。

 扉を開けて、外にいるサイナとマトイを見つける。何か話し込んでいたようだが‥‥サイナが怒られているようにも見えた。

「サイナ」

「助けてくださーい!」

「はぁ、今日はこれぐらいでいいでしょう」

 降りてきた所でサイナが抱きついてくる。サイナの豊満過ぎる身体と、体温、そして香りの所為で―――が解け始めるのを感じた。

「サイナ‥‥」

 背中に手を伸ばして、顔と顔を近付ける。

「こ、ここではしませんよ!?起きて!」

 急激に眠気に襲われたが、サイナの声のお陰で少しばかり消え去った。

 眠気で理性を失い、性欲で正気を奪われると、気が狂ってしまうのだと改めて知った。

「えっと、サイナは運転席か?」

「う〜ん、取り敢えずは中に入れて下さい♪」

 ネガイと同じように抱き上げて、モーターホームに行こうとするが、自然とサイナに視線が移る。

「見られると気付くって、言いましたよね♪」

 サイナの胸と眩しくて、筋肉と脂肪が適度にある足も全てが視界に収まっている。心臓に強い衝撃を受けて、目に血が昇っていく。

 ―――――透視でもしたいのか、この目は。制服を脱いだ時のサイナの肢体の予想像が脳裏に焼き付いてくる。息を呑んだ時、口中に唾液が溜まっていたのだと気が付いた。

「‥‥今度一緒にお風呂に入りましょう」

 首を伸ばして口を吸ってきた。

「約束したい‥‥」

「はい、約束です♪」

 腕の中で甘く囁くサイナと共にモーターホームの中に入ると、飛び跳ねるように降りたサイナが、また跳ねるように車の奥に移動したのを確認して車から降りる。

「マトイは?」

「お願いしますね。私は助手席に」

 何か話したい事があるようだ。マトイを抱き上げて、助手席の扉に寄りかかる。

「‥‥この銃の事か?」

 魔女狩りの銃が収まっている胸を張って、その形を浮き上がらせる。

「どこから入手したかは聞きませんが、それは本来、ただのオーダーが持っていていいものではありません」

「どういう奴らが使うんだ?」

 マトイが制服の胸元を撫でて、銃の形を確認してくる。

「オーダーの退魔局、十字の祓魔師、わかりやすく言うと、エクソシスト。それと、グランダルメの近衛の一つ」

「カトリックに‥‥フランス――」

 アルマが言っていたフランスの話は、こういう事だったのかもしれない。しかもカトリックすら関わっていた。

 土地を追われた一族が、移り住んだ土地では秩序維持を掲げる正義の執行者に襲われる。

 その理由は自らの血が原因—―――まさしく、差別だ。

「あなたや私のような、常識から外れた者達に対して放つ、猟銃のような品。私も詳しい訳ではないですが、まず市場に出回る物ではありません。そして、それを見る者も限られます。初めて、見る事が出来ました‥‥」

「使う側は限られる上、使われる側も限られる。それだけじゃない―――総じて死ぬからか‥‥預かっといてくれ」

「いいの?」

「マトイが許した時だけ使いたい。俺を、止めてくれ」

「‥‥わかりました」

 語外の意味を理解し、汲み取ってくれたマトイは、制服の手を入れて銃を抜いた。一瞥したマトイは、軽く銃に触れながら全体に布を巻き付ける。

「‥‥そろそろ迎えが来ますね」

 銃を回収した時、抱えている肩を叩いて降ろすように指示してくる。

 マトイを下ろして、モーターホームに寄りかかりながら、迎え待ち続ける。

「アルマは、これからどうなる?」

「しばらくは、治療の為に医療機関で入院を続けます。それが終わり次第、逮捕」

「‥‥そうだろうな」

「指示されたとはいえ、実行犯の筆頭が彼女ですから。かなりの重罪となるかと」

「‥‥アルマは、きっと喋らない―――まだ、縁を切れないって言うと思う」

 彼女は流星の使徒に心酔していた。恐らく、彼女は喋らないだろう。

 これまで指示されていた犯行や、明るみに出ていない事件をオーダーに告白すればそれだけで軽い罪になるかもしれない。

 だが司法取引を実行するには、自ら公判手続きに協力し、検察、この場合オーダーの利益になったと判断されなければならない。

 それは狭き門でもある。

「殺人をしている可能性もあります。その場合、オーダーは司法取引に応じません。どう思いますか?」

「‥‥聞かないとわからない」

「あなたの推測で話して下さい。彼女は、人殺しだと思うますか?」

「‥‥正直、わからない」

 流星の使徒として活動し始めたのは、恐らくは最近だ。であるのならば、アルマが流星の使徒になったのはオーダーの傘下に入った時。

 そう考えると、アルマは人殺しをする指示をされていない筈だ。傘下に入る前の、アルマが加入する以前の殺人は、問われない。

 刑事裁判である以上、拡大解釈的に罪を問う事は許されない。総帥に身体を操れていた奴は知らないが―――だが、流星の使徒は結果的に人を殺した事は、恐らくある。そして、殺す目的で人を誘拐した事も。俺のように。その上、

「あなたは何度も襲われ、毒まで使われた。その上、腕を斬り落とされた。結果的に殺しをした事もあるのでは?」

「‥‥アルマの意識は?」

「いいえ、まだ」

「どうすればいい?」

「私にはなんとも。あなたを襲った狂人に、なぜ私が気を回さなければ?」

 目を閉じた時、マトイが手を握ってきた。

「全てを救えると思わないで」

「‥‥わかってる。わかってるつもりだ‥‥だけど―――、」

「彼女は自分で選んで行った罪の事実を問われるだけ、私達武器を持つ事を許されたオーダーと同じ。例え、私達と彼女の住んできた世界が違ったとしても、彼女に選択肢がなかったとしても――――彼女は自分の罪と向き合わないといけない」

「‥‥選べなかったのに、罪を問われるのか。アルマ自身、武器として使われてたのに」

「それが今の人間の世界。どうかわかって、あなたは今も毒を使われ、苦しんでる。彼女を罪に問わないと、

 握ってくるマトイの手に力が込められる。握り返し、マトイの心拍を感じ取る。

「‥‥目、見えてる?」

「‥‥半分だけ」

「こっちを見て」

 マトイに手を引かれて、片膝をつく。

 何も言わないでこめかみに手を当てて、温めてくる。いまだにも手を置いてくれる。

「気付かれてたか」

「ネガイも気付いてました。彼女に、今回は譲ると言われました」

「‥‥結局、ふたりがいないと正直にもなれないのか。面倒くさいな、俺」

「‥‥そうですね。だから、これからはもっと正直になって、私に心配をかけていいから」

 マトイの手をお陰で、目の痺れは取れてきた。だけど、未だに光が差さない。置かれている筈の手の平が見えてこない。

「‥‥怖い」

「ここは安全です。それに目も良くなります。だから、そんなに震えないで。ネガイも呼んでくる?」

「行かないで」

 子供みたいに、マトイの制服の裾を掴んで止める。

「わかりました。マスターの迎えがくるまで、ここにいますから。こちらに」

 マトイに手を引かれて、車の影に隠れる。

 先程のミトリと同じぐらいにマトイにしがみついて、迎えの到着を待っていると、

「‥‥呼ばれてますね」

「‥‥もう少し」

「‥‥はい。では、そうしましょう」

「私は、暇ではありません」

 第3者の声に驚き、振り返るとスーツ姿の女性が立っていた。リムジンを運転していた人形だ。

「マスター、見るのは構いませんが声を出すのはどうかと?」

「繰り返します。私は暇ではありません。早く彼を渡しなさい」

 パンツスーツの人形は目隠しこそしていないが、それでも顔や身体の造形は、あの人そのものだった。

「残念ですけど、もう時間ですね。これを」

「鍵?」

 離れた時、マトイが鍵を渡してきた。それも二つ。

「それは私の部屋の鍵です。‥‥好きな時に来て」

 最後に耳元で呟いたマトイは、振り返らず車へと駆け込んで行った。

 黒髪を振り乱して、返事も聞かずに去っていったマトイに、年相応の少女像を見てしまい、初めての顔だと気付いてしまい―――追いかけようとしてしまう。

「マトイ‥‥」

「あなたはこちらに」

 自然とマトイの乗った助手席に動いた足を止めるように、スーツ姿の人形に腕を掴まれて引きずられる。

 中庭を出て、正門を通った瞬間、空気が変わる。夢の中に入ったのだわかった。

 辺り一面に霧に包まれ、僅かに晴れた頃には正門どころか学校も消えていた。現実と夢の境目を超え、完全に夢に導かれていた。

「そこで止まって」

 スーツ姿の人形が手で動きを制してくる。綺麗な爪だ。人形にも、いや、人形だからこそ、ここまでの美的感覚を持たせられるのか、人形の手と爪に見惚れていたら、エンジン音が辺りに響く。

 この音も悪くない。重低音の中にも耳触りのいい甲高い音がある。

「‥‥あの車」

 夢の中目の前にリムジンが現れる。色は紫がかった黒。

「さぁ、乗りなさい」

 扉を開けて急かすように、リムジンへと手で促す。

 今更罠の訳がないので遠慮なく低いステップに足を付け、乗り込みながら中の人形達を確認すると、その中のひとつの人形が自身の膝を叩いてくる。

「これが好きなのでしょう?」

 返事も聞かずに横になる。

「‥‥冷たい」

 この人形に血が通っているのかわからないが、足はひんやりとしていた。

「冷たいのは嫌ですか?」

「‥‥好きです」

「‥‥そう」

 足と同じくらい冷たい手を頭に乗せられ、視界がぼやけ始める。

「意識を預けなさい。こちらに呼びますから」

 あれだけ嫌いだった人形の指示に従って目を閉じる。冷たくて、心地いい手が髪を撫でてくる。

「‥‥ゆっくりと息を吸って」

 再度、指示に従った時、何かが鼻を通して脳を溶かしてくる。

「眠い‥‥」

「そう、そのまま眠って」

 眠りに落ちる時の感覚がずっと続いている気がする。気持ちがいいのに、どこか物足りない。

 ネガイと一緒に眠る時はネガイの体温を感じられる。だけど、今回は冬山の寒気を感じてしまい、もどかしさと同時に眠りの恐怖すら覚える。

「‥‥目を開けて」

 ゆっくりとまぶたを開けた時、既にソファーで横になっていた。

 脳が完全に覚醒する前に、起き上がって空気を吸い込むが、未だ眠気は晴れない。

「これで三回目—――はぁ、仕方ない。まずは流星の使徒の逮捕、ご苦労様です」

 見下ろすように向かいのソファーで、組んでいたに頭を下ろして、頭を撫でてもらう。

 白のローブの長い袖を身体にかけてもらい、ローブの香りに包まれる。

「私にここまでさせるなんて、そんなにこの目が気に入りましたか?」

 袖を首元まで引き寄せて、目を閉じながら軽く頷く。

「はぁ‥‥、しばらくそのまま聴いていて。眠りたければ好きにしなさい」

 かけてもらっている手の指と指を繋げる。

 周りの人形からも背中や腕を撫でられるこの甘い夢の中で、眠りたいと意識を手放しそうになるが、もう少し起きている事にした。

「流星の使徒については、現在、あなたに知らせる事はありません。全員、失神状態ですから」

「‥‥俺は、役に立ったのですか?」

「役に立ちました。あの総帥を撃退するなんて―――これで最後の流星の使徒の壁はあなたによって取り除かれた」

「でも、あれは身体を使われていた別人です」

「知らないようなので教えておきます。今日の夜まで偽物にすら、オーダーは手を拱いていた。焼いていたと言ってもいいぐらい。あの老人は、それほどまでにオーダーにとって、なす術がない存在。私でも、身を守ることが精一杯だったと思います」

「‥‥強かった。それに、怖かった‥‥」

 もう二度と、あの鎌を受けたくない。嘘みたいに、簡単に、首を刈り取る断頭台。もうあの戦闘技法を見たくない、受けたくもない。

 人間の持つ殺気ではなかった。あれが長く人を殺してきた、そして人外に落ちた元人間をバラバラにしてきた狂人たちの世界―――人間の狂気を垣間見えてしまった。

「あれが流星の使徒‥‥」

「そう、あれが使徒そのもの―――たった1人でアメリカ支部のオーダーを恐怖に陥れていた狂人の長。正直想定外でした、あの老人まで来るなんて‥‥。よく生き残りましたね。法務科だけではなく、私個人としても、あなたに感謝を」

 本心で言ってくれているのが、頭を撫で続けてくれる事でわかった。周りの人形も、同じように続けてくれる。

「‥‥また、来るんでしょうか?」

「あの老人自身が乗り込んでくる事は、まずありません。だけど、いずれ、また別人の身体を使ってくる事は確かです」

 袖だけでは丈が短いと思ったのか、頭のヴェールを外し、身体にかけてくれる。今度はローブの香りと髪の香りに包まれる。

「‥‥眠い‥‥」

「眠りなさい。もう一度褒めてあげます。今日はよく生き残りました」

「撫でて‥‥」

 ローブ越しの滑らかで柔らかい足に片目をうずめる。人間の大人は嫌いなのに、誰かの手に収まっているよう感覚は悪くなかった。

 あの方とはまた違う安堵を感じていた所、足に自由にしているお返しなのか、人形が耳元で息を吹き掛けてくる。

「気持ちいい‥‥」

 くすぐったくて気持ちいい。耳の中で詰まった熱い空気を吹き出してくれる。それに吐息の香りも鼻孔に届き、甘い香りに身体の中も外も包まれる。

「あなたに祝福を。、それがこの世で何者にも変わらない、




「この感情は、なんと言うのでしょう‥‥」

 上機嫌な仮面の方はベットの上で横になり、頭を抱いてくれていた。

「あなたには期待すれば、する程、私の想像を超えてくれますね‥‥よしよし‥‥」

 仮面の方の心音が聞こえる。それに優しい手で後頭部を撫でてくれる。

「褒めてくれますか?」

「勿論!もっと褒めてあげますね♪」

「気持ちいい‥‥」

 前髪に耳、後頭部。頭中を何度も撫でてくれる。最後には額に口をつけてくれる。

「まずはこの辺で。何が聞きたいですか?」

「流星について‥‥」

「それについては約定があるので、私からはお話できません」

「‥‥ありがとうございます。また、あなたに救われましたね」

「気にしないで下さい―――あなたは、私の星なのですから」

 あの老人が率先して俺を殺しに来たのなら、あっさりと殺されていただろう。流星とやらの生贄になったのは間違いない。

 外の事を何も知らず、ただ恐れていただけの化けおれが個人で考えた所で、流星の正体には近付けない。だが、わかった事がある。

「流星の血で、ヒトガタは生まれたのですか?」

「秘密です」

「俺にも、流星の血が?」

「秘密です。はい、もっと抱きしめてあげますね」

 少しだけ不満になったしまったので、仮面の方の腰を強く抱き寄せる。それに仮面の方も、背中を抱いてくれた。

「‥‥眠いです」

「私の身体で眠りますか?贅沢でわがままで、甘えん坊—――でも、今日はご褒美がありますよ?私も、楽しみにしていたんですから」

「‥‥ありがとうございます。心臓―――潰して下さい」

「はい。頂きますね。今日はゆっくり休んで下さい」

 ああ、やっと、殺して貰える。だが、いいのだろうか。

「俺の身体には、まだ毒気が、」

「だから食べるんです。弱っているあなたを食べれらるなんて‥‥たまりません」

 Yシャツを剥ぎ取り一気に胸の肉を噛みちぎり、胸骨の表面を剥離させた。

 毒に熱せられていた胸を曝け出す事が出来た喜びを、噛みしめていると仮面の方が、心臓に食らいついて表面の血管を噛み千切っていった。

 そんな口を逃がさぬよう抱きしめたのが、気に入ってくれたのか。仮面を投げ捨てて、胸の中に更に顔を入れてくる。次は血を吸い取り始める

「‥‥ふふ」

 吸い取る音が、どこか卑猥だった。口の中で溜まった血を転がし味を確かめ、唾液を口に溜めながら舌で慰撫、集まって溜まって来た所を再度歯で破って吸い続ける。

 お陰でこんなにも痛くて―――快楽の絶頂が続いている。

 頭を胸に押し付けて更に吸ってもらう。

 心臓の血をあらかた吸ったのか、真っ赤な顔を胸から出して、笑ってくれた。口の端にまた血管が伸びているのが、微笑ましい。

「サイナ‥‥」

 やはり似ていた―――パスタを啜っている時の顔と、酷似していた。

「いつかお話しますね。でも、今は、」

 手を貫通させて胃袋を潰してきた。そのせいで『仮面』に血を吐き出してしまう。

「‥‥美味して美しい。やはりあなたの唾液と混ざった血は美味しいですね」

 顔にかかった血を舐めとった時、更に目が赤く輝いた。天井の星々とそれが重なった瞬間—――飛びつくように、口を取られる。

 抵抗する必要もなく、血が滴る舌を啜られ続けた。口の中が小さいこの方では、だけで口が埋まってしまう。だけど、幾度もの経験を元に、舌の扱いが熟練している仮面の方は、敏感な部位を自分の舌で撫でて善がらせてくれた。

「—―っ」

 舌を噛みちぎられた。

「美味しい。さぁ、頑張って下さい。今日は後何回耐えられますか?」

 舌があった場所から噴き出る血を求めて、ついばむ様に何度も舌で貫かれた。




「目については心配ありません」

 脱ぎ去ったドレスをかけてくれた仮面の方は、ベットのベルベットで自分の身体を隠していた。自力で起き上がれなくなった頭を足を渡して寝かせてくれている。

「毒気は既に消えている筈です。人間で言う所の抗体ができているので、すぐ良くなりますよ」

「もう、終わりですか?」

「はい。もう満足です。沢山頂きましたよ。よく頑張りましたね」

 目に手を置いて、眠る体勢を作ってくれる。今日はこれで終わりだった。今日も満足過ぎる程奪われた―――つい、魔が差してしまい、ベルベットを掴んで引き寄せてみると、

「続けたいですか?だけど、もうあなたの中身は何も残ってませんよ?」

 と、先ほどまで喰い漁っていた身体の心配をしてくれる。

 そんな悪い手を取って、自分の腹やそれのすぐ下を撫でさせてくれた。傷一つない柔らかい皮膚だ。噛みつきたい程に、温かくて瑞々しかった。

「さっきまでのとが一杯入ってますよ。見たいですか?」

「それはまた今度‥‥」

「そうですか?では、そうしましょうね」

 それを見せて喜ぶと思ったと言わんばかりに、首を捻られた。やはりこの人は人間ではない。つい先ほどまでのを見せると言った。

 だけど、その気持ちもわかった――――前の血の風呂を考えれば良い。ここには無機物しか無いから、血肉があると嬉しい。見せたいのも頷ける。

「‥‥最後に聞いていいですか?」

「はい、なんですか?でも、流星の使徒については秘密ですよ」

「この星に、貴き者が流星以外にもいるんですね」

「‥‥そうですね」

「‥‥人間は、あなた方に憧れ、崇拝したからこそヒトガタを造り出した。だけど、は人間を使って人間の身体を求めている。これは―――共生です。そんな事が、可能な貴き者がいるのなら、なぜヒトガタがいるのですか‥‥」

 人間では届かない『世界』へと手を伸ばしたいからこそ、ヒトガタを造り出した。だというのに――――人間と共生が出来てしまっている貴き者がいる。

「—――その答えを言うとすれば、可能な者と不可能な者がいるからです」

「あなたは?」

「不可能な者です。私はあなたとしか一緒にいられません」

「良かった‥‥」

 人間とは共生できないけど、俺のような化け物となら共生できる。

 やはり人間でなくてよかった。人間だったら、この方に会えなかった。この香りも感触も、快楽も感じることが出来なかった。

 嬉しくて仕方がない。人間じゃないことが、こんなにも嬉しい。

「ん?どうしました?」

 起き上がった身体を見て、困ったように首を傾げた。

「ありがとうございました。‥‥俺に星を授けてくれて」

 仮面の方に抱きついて、そのまま倒れる。

「あの星は気に入りましたか?」

「はい‥‥」

 仮面の方が胸を潰しながら背中を撫でてくれる。

 宝石の星。それがどのような姿をしているのか、目に見える物なのかすらわからない―――だけど、金星と同じように、あの星は『眼球』となってくれた。

 恐らく、『金星の力』はヒトガタの血と関係している。マトイの師匠は、きっと俺のことを俺以上に知っているから、金星を例えに出した。

「あの星は好きなだけ使って下さい。今日はゆっくり眠って」

「‥‥わかりますか?」

 正直、もう限界ではあった。アルマのことも、ゴーレムのことも、まだ聞きたい事はあったが、恐らく教えてくれない。

 だから、今この時間はこの方と楽しみたい。わがままを聞き届け、笑顔と血で全てを許し、求めてくれるこの方に。自分以上にこの身を案じてくれているこの方に。

「もう何度あなたを眠らせていると思っているのですか?の中でも、私はトップクラスだと自負しています」

「‥‥眠らせる存在?」

 なんだ、今何かが―――、

「今のは受け流して下さいね」

「‥‥はい」

「はい。そうして下さい。今は力をつける事だけ考えて。いつかの日か、自分で気付く時が来ますから」

 眠らせる存在。その言葉に、何かを感じた。

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