5巻 改訂版 デウス・エクス・ブラッド

「これが依頼票ですか」

 ゴールデンウィークが終わった数日後の授業終わりに、ミトリと共にネガイを連れて依頼斡旋室に来ていた。マトイ曰く、まだネガイは依頼を受ける手続きが整っていないとの事で、後一週間は待ってくれと伝えられていたが、事実として、いきなり依頼を受けるつもりも無かったので、まずは空気に慣れておこうという話の運びとなっていた。

「うん、そうだよ。でもこの仕事は、ほら、ここに重武装科最低2人募集って書いてあるでしょう?私達の中に重武装科が2人いたら受けられるんだけど、いないから出来ない仕事なの。だからここの掲示板に人員募集って書いてあるの」

 2人が見ている依頼票は、あと1人か2人の人員が足りないからそれを補う生徒を募集する掲示板だった。

「ここから受けるといいんですか?」

「それは場合による。中には後から受けてきた生徒に嫌な仕事を押し付けて楽をする奴もいる‥‥正直自分で探した依頼の方がいい。そうすればネガイの一存で自由に誘えるから」

「これも早い物勝ちで、まず最初に名前を書いた人が人員整理とか配置も決められるの」

 だからこそ、最初は嫌だと言う生徒もいる。これはオークションで言う所の落札に近い、落札したら必ず買わなければならない。それでも途中で止める事もでき、それまでの報酬を受け取れるが単位は受けれない。

 そしてその責任の大半は落札した生徒に降ってくる。あまりにも途中棄権が多かったら、しばらくは1人で受ける事ができなくなるという事もあるらしい。

「ここの仕事は顔見知りで受けた方がいい。顔も知らない奴とは組むなよ」

「‥‥わかりました。気をつけて受ける事にします」

 予想以上に依頼とは恐ろしい物と思ってしまったのか、自分の髪で遊び始めた。

「最初は俺とミトリとで受けるか。この辺とか楽そうだ」

 指を差して教えたのは、最近うるさい工場への確認だった。

「楽なんですか?」

「大体こういうのは直接出向いて注意して、今度から気をつけますって言質取れば終わり。数時間で終わる」

「ゴホン‥‥!」

 受付の女性が咳をした。

 依頼は依頼なのだから楽とか言うなと言わんばかりの態度だが、決して従わない。

 何故ならば、この人は依頼料が払えないと言った張本人だからだ。あれ以降、一度も音沙汰がない人間に、首を垂れて従ってやる義理もない。

「ネガイは分析科だから、基本は内勤の仕事が多いけど。嫌だろ?」

「はい、外で撃ちたいです」

 外で仕事したいと言って欲しかったが、俺の想い人は銃を撃つのがお望みらしい。

 ただ、最近がおかしかっただけでそうそう撃ち合いになる仕事なんて無い。査問学科ならあるのかもしれないが、現在の掲示板にはそういう物は無さそうだ。

「その辺りは追々探すか」

「そうですね。ならこっちに来て。あのパソコンには最新の依頼とか、これから募集する仕事も確認できるから」

 ミトリがネガイの手を引いてPCが置いてある部屋の一角に連れて行く。基本的に新しい依頼はあそこから探すので、2人で同じ画面を突いて、どれがいいかなどを探している。

 けれども一週間も経ってしまっては、他の生徒に取られるから遊ぶ感覚で操作していた。ネガイは真剣な表情だが、ミトリはそんなネガイを見て楽しそうに画面を触っている。

 窓から外を見るとそろそろ空が赤く染まってくる時間だった。

 俺とネガイはいいが、ミトリは大丈夫だろうか。

「これが不良の追い出しですか」

「え‥‥うん、そうだけど。気になるの?」

「ええ、これなら銃を撃てますよね。もっとこれを抜きたいので」

 と、腰のレイピアを爪で弾く。その仕草にすぐ様ミトリが待ったをかけた。

「だ、ダメだよ‥‥!確かに相手によっては使う時もあるかもだけど、流石に丸腰の相手には‥‥」

「そうなのですか?外の人間も皆んな銃を持っていると思ったんですが」

「‥‥えっと、確かに護身として持ってる人もいるだろうけど、それでも皆んな持ってる訳じゃ‥‥」

 ミトリを困らせ始め、内容も内容だけに訂正に走る。

「外で撃つにはそれなりの理由が必要なんだ、ましてやオーダー以外の人間には。銃とか刃物を抜いていいのは自分とか一般市民の身が本当に危険な時だけ。それに外の不良程度で抜いたら、その剣が勿体ないぞ」

「そ、そうだよ!」

「そういうものですか。わかりました、確かにこれを抜くならソソギと同じ位でないと張り合いが無いですね」

 独特の解釈をして納得してくれた。ソソギと同じ位とは―――いるにはいるだろうが、絶対数や分母が数える程だろう。

「それより。ミトリは大丈夫か?時間」

「あ、もうこんな時間‥‥そうですね。そろそろ救護棟に戻ります。じゃあ、私はこれから治療科に行ってきますね。また明日」

「またな」

「また明日」

 救護棟に走る足で軽く挨拶をしてくれたミトリに、ふたりで応答しながら手を振る。

 治療科は実習で依頼の単位を貰えるので、あまり斡旋室には縁が無い。

 そんなミトリがついてきてくれたという事実にどれだけネガイを大切に思っているのか、これだけでわかった。

「良い友達だ」

「はい。優しくて頼りになる友人です」

 褒めたこちらを真っ直ぐに視線を向けて誇ってくる。

 ミトリが褒められたのが自分のことの様に嬉しいと、伝えてくる微笑む口元と目元が愛らしかった――――2人は元の関係に戻っているのだと胸を撫で下ろす。

 ミトリにとってもネガイにとっても、お互いが大切な存在でいてくれていた。

「俺達はどうする?もう少し見て行くか?」

「いいですか?」

「勿論、一緒に探そう」

「‥‥はい」

 また髪で顔を隠してしまった。このネガイも愛らしくて仕方がなかった。

 軽いネガイを膝の上に乗せて、遊びながら依頼を探していたらすぐに夜になってしまう。それに気付かせてくれたのは、ニコニコと怒りながら「お時間です」と言ってくる受付さんだった。



「いませんね」

「それは、いないだろう。今も救護棟で泊まってるんだから」

 襲撃を受けた場所を通っていた。外灯が煌々と明るい道にはやはり誰もいない。

「いつ頃退院だっけ?」

「もう傷も無いので後数日で退院出来るそうです。後はリハビリですね」

 ミトリのリハビリを思い出した。かなりきつかったからマトイでも音を上げるかもと思ったが、即座にかぶりを振る。マトイなら汗一つかかないで終わらせそうだ。

「夕食はどうしますか?」

「‥‥買い物してから帰るか。俺の部屋の食材、ほとんど無いし」

「じゃあ、私の部屋に‥‥この時間は女子寮へは禁止でしたね」

 基本的には男子寮、女子寮の行き来は許可されているが、夜遅くになると男子は女子寮に入れなくなる。

「でも、バイクでは買い物は多く出来ませんね」

「そうだな‥‥どうするか‥‥。商業区で何か食べて行くか?」

「最近外食ばかりです」

「それもそうか。バイクは置いて、バスで帰るか。途中で何か買って行こう」

「はい、そうしましょう」

 こうなる事を想定していらのか、ネガイの返答は早かった。

「なにがいいですか?私が作りますよ」

 ネガイの手料理は何度か食べさせて貰ったが、どれも美味だった。

「‥‥白米が食べたい」

 常にここの露店で食べていた訳じゃないが、商業区でも夜に開いている店はお弁当物に丼物ばかりだった。そろそろお粥ではない白い米の固形物が食べたい。

「はい、ならおかずは‥‥考えていきますか」

 やはり既に念頭に置いた物があるようだった。楽しみになってくる。

 ふたりで回れ右をして校門から出る為に校舎に向かうと、近づくにつれて段々と生徒の数が多い校庭に足を運ぶ事となる。実習であるらしく制圧科がほふく前進をし、自主的な訓練、或いはこれから受ける依頼関係なのか、ドローンを飛ばしている生徒も見受けられる。

「ドローンですね、ああいうの男の子は好きなんですか?」

「人間はそうみたいだな」

「あなたはどうですか?一つぐらい欲しいとか」

「あったら便利だろうけど、使いたかったらサイナとかシズクを巻き込めばいいし、触れる機会は結局少ないかも」

 オーダーに限って言えば、科として分けられている以上それぞれにはスペシャリストがいる。なんでもできるバランスタイプを目指すのは結構だが、それでは幾らでも替えがきいてしまう。最終的に誰からも不要とされてしまう。言ってしまえば持って生まれた能力に頼るのが1番合理的なのかもしれない。

 ―――――それが全てにおいて正しいとは決して思わないが。

「ネガイはどうなんだ?」

「ドローンですか?」

「ドローンだけじゃなくて他の科に興味とか。銃を撃ちたいなら制圧科が1番近いかもしれないぞ」

「‥‥やめておきます。団体行動は嫌いです」

 オーダーとしてあるまじき発言だ。でもネガイとしては、これでもかなり譲歩した言葉だった。

「やりたく無い、とは言わないんだ」

「‥‥あなたや皆んなとなら、考えてもいいもです」

 また髪で顔を隠してしまった。ネガイにとっての敵とはこの世全てだ。それは俺のように人間全てと同じぐらいに広い―――似た者同士だった。軽い世間話を続けながら、辺りの生徒達に視線を傾けていると、見知った顔から手を振られる。つい、普段の付き合いで足を止めた時、普段通りに声を掛けられる。

「あ、今日はバイクじゃないの?」

「おう、今日はバスだ」

「‥‥」

 校庭端、傾斜のある芝生に座っていた休息中のイサラから声をかけられた所、ネガイが若干斜に構える。気付いているのか、どうかわからないがイサラ自身は何も変わらなかった。

「もう終わりか?」

「いやーまだまだ。基礎体力造りが終わったら次は射撃場。それが終わってやっとシャワー‥‥そっちは?」

「今日は座学で終わり。一応、休み時間中に気晴らしに数十発撃ってきたけど」

 病院から持ち帰ったマガジンがそれなりにあった為に、遠慮なく撃てて爽快ではあった。

 ただし357マグナムは9mmに比べれば高価で、気安く撃てる弾丸ではない。あの火薬の振動と粘着性すら感じる引き金の重みを感じられないのが、悩みのひとつとなっていた。

「私も探索科に行きたーい。楽そうじゃん」

「ああ、楽かもしれない。犯罪予想のアルゴリズムとかを顔写真だけで判断とか。やってみるか?」

「私じゃ無理っぽいね‥‥」

「目つきに、顔の傾き、口の開け方、髪型は勿論、髭の濃さとか、それにSNSとかも見て」

「もういい!めんどくさそ~」

 やれば意外と楽しいが、段々心に闇が差してくる。一見明るいスマイルを浮かべながら子供と写真に写っている女性が、実は連続児童殺人鬼という答えもあった。

 これは何をした後の写真か、という問いの答えは人を埋めた後でした。そんな人間という種族の心の底を感じ取りパターン化、快楽や恐怖の種類を学ぶ授業でもある。

「ネガイさんはどこなの?」

「‥‥私は分析科です」

「うーん、私と1番遠い科かも」

「かもじゃなくて、そうだろう?ルミノールとかしか知らない筈────」

「エタノール?」

 脱帽した―――いや、らしいと受け流す事で心を落ち着かせる。

 中等部で耳が落ちる程教えてやった事をもう忘れたという事実が目の前にあった。否、テストさえ超えればいいと、そもそも覚える気も無かったのだろう。

「ルミノール反応ですか?塩基性水溶液と過酸化水素を混合させて、暗くさせて噴霧すると青白色に反応します。これはヘモグロビンや血液は、ある種の触媒になる為」

 長くなる予感がした。前にミダゾラムを説明した時と同じ口調となってしまう。

 制圧科の面々が、呆然としていてもお構いなしに延々とルミノール反応の説明を続け、遂にイサラは目の光を失ったのを見計らって肩を揺らす。

「そろそろ行こう」

「あ、はい。いいんですか?」

 我に返ったというよりも、もういいのか?と言いたげな反応だった。これもミダゾラムと同じだ―――あちらの激情よりも幾分も良いのだが、改善の余地を探すか、それともネガイらしさと受け流すか、反応に困る体質ではあった。

「すごいなぁ‥‥。ネガイさん、頭良いんだ‥‥」

 今の説明を脳をすり減らしても、全く理解できなかったようだ。

 ただ俺自身も、なぜ光る?というそもそも論やなぜ塩基性の水溶液ではないといけないのか?という所を全く理解出来ていなかった。

「‥‥すみません。つまらなかったですね」

 自分以外の反応で何かまずい事をしたのかと思ったらしく肩を縮めてしまう―――嬉しい反応だった。以前では、俺やミトリ以外への気遣いはできても、気付く事はあまり得意じゃなかった。

 そんなネガイが、少し前にオーダー間の衝突があったイサラに謝った。外に出て依頼を受けるというストレスがいい方向に繋がったのかもしれない。

「全~然そんな事ないよ。私は一般授業とか苦手だから、テストの時は助けてね。その代わり依頼とかならいつでも誘って。またね」

「はい‥‥、また‥‥」

 手を振ったイサラは周りと共に校庭に戻り演習を再開する。今度はイサラ達の番らしく、さっきまでしごかれていた生徒が休み始めた。

「さっぱりしてて、いい奴だろう?」

「‥‥はい」

 混乱したように、声が弱々しかった。ドライな反応は初めてだったかもしれない。

 昨日まで敵対してたオーダーが、今日は味方になるのはよくあるパターンだ。裏切りとかでは無い限り―――受け入れるしかない。

 ただし仕事仲間や最初から陥れる為の裏切りをしたのなら、そいつはオーダーとして誰からも信用されなくなる―――もうオーダーを辞めるしかない。

「外では割といる。‥‥マトイみたいな人間も。行こう」

「‥‥あなたは、いいんですか?」

「良い悪いじゃない。不思議な事でもない‥‥」

「‥‥どうなっていたか、わからないのにですか?知ってるいますよね?裏切られて、貶められたオーダーがどうなるか‥‥」

「—―――ああ。わかってる。だけど、その分仕返しもした。一ヶ月間は依頼を受けないって言質も取った」

 その意味がわからない筈がなかった。事実上の無給だ。銃器は秒速で金がかかる繊細な代物。銃を養うための口がなくなるという事はオーダーを辞めざるを得ない状況に直結する。

「これが責任の取り方なんだ。オーダーなのに依頼も受けられない‥‥裏切った奴は、金も稼げないのに辞めない限りオーダーにいるしかない。後ろ指を差され続ける‥‥」

「‥‥責任ですか―――彼女以外も?」

 その質問に、手を引いて応える。ネガイはそれ以上何も聞かないが、校舎に入るまでイサラや他の科の生徒を最後まで眺めていた。

 校舎を抜けて見晴らしの良い前庭へと足を運んだ所で、多くの生徒が校門を目指して歩いている光景を見渡した。人混みが苦手なネガイをちらりと見やり、反応を窺う。

「今日は混んでるかもしれないな‥‥」

「はい、長期休みの後は皆んな遅くまで残ってますね。いつもそうです」

 ネガイは三年も早くこの校舎に通っていた。だから詳しくて当然だった。

 中等部はここに来る道をほとんど変わらない。バス停から二股の道を左右に分かれるだけで高等部にも中等部にも行ける。なのに、ネガイは一度も中等部には通っていないと言っていた。

 ネガイは初等部からオーダー街にいる。オーダー初等部は、本来は銃や火薬とは無縁な場所の行政区にある―――そこは皆等しく、孤児達だった。

「手、いいか?」

 親がいないとはいえ、銃火器を常日頃持っているオーダーに小学生を任せるのは気が引けるという大人達がいる中で、本当にどこにも行き場が無い孤児達の校舎兼宿舎、それがオーダー初等部。

 当時はネガイと同じ年齢の子が1人いたが、それもすぐにいなくなったと聞いた。

 恐らく迎えが来たのだろう。やはり、ずっとネガイは1人だった。

「どうしました?」

「‥‥離さないから」

「大丈夫ですよ。私はあなたの隣にいます」

 声が震えてしまう。元気づけたかったというのに――――。

「私もわかってます。あなたが法務科としてオーダーを続ける以上、常に一緒にいられないって」

「‥‥ごめん」

「いいえ、いいんです。‥‥父もそうでした。長く帰って来ない時はありましたが、それでもいつも帰ってきてくれました。‥‥最後は父も母も‥‥誰も帰って来ませんでしたが」

 次の言葉が生まれてこなかった。きっとネガイの父親も母親も、必ず帰って来るって、いつも胸にしまって外に出ていた――――でも、帰って来れなかった。

 ネガイを1人にする気なんて無かったに違いないのに。

 発するべき言葉はわかっている。だけど、そんな覚悟を持ってしまっていいのかと躊躇してしまう。もう既に死んでいる俺が。

「‥‥言って下さい」

 救護棟で引いてくれた力強い手では無い。壊れそうな脆い手だった。

「言わないと、私‥‥。信じられなくなります‥‥」

 マネキンのような手だ。硬くて冷たくて、軽く力を込めるだけで砕けてしまいそうだった―――そんな手に熱を与える。

 与えた瞬間、血の通う柔らかい手に戻ってくれた。

「帰って来る。ネガイの隣に。たまには遠くに行くかもしれけど、生きて帰ってくる。だから‥‥」

 歩きながら見つめ合う。この時、この瞬間、時間の世界から消える事ができる。時間の牢獄たる実数を持つ世界から切り離される。

「待っててくれ。俺は、ネガイの為に生きるから」

「‥‥信じます」

 目を離して前を向く。一緒に足を踏み出した瞬間、俺達は時間に従う。

「まずは商業区だ」

「2人分を買いに行きましょう」




「皆んな考える事は一緒か」

「手分けして正解でしたね」

 バスに乗ったはいいが、自然と奥に詰め込まれてしまい目的の停留所で降りれるか心配になっていたが、そんな心配は無用だった。

 皆降りる所は同じ。ほとんど全員同じ場所を目指していた。オーダー街で数える程しかない大規模なスーパーマーケット。

「鶏もも肉って人気だったみたいで、これが最後だったぞ」

 争奪戦と相成ったが2枚分をカゴに放り込めたから良しとしよう。ネガイも目的の品々を買えたらしく満足そうにしている

「あの人数でこれだけ買えたのならかなりの収穫です。私達は良い恋人ですね」

 それは恋人と言うだろうか、いいや恋人だ。ネガイが喜んでくれているのだから。

 しかし長い、救いを求めて波が分かたれるのを、皆が皆大人しく待っているというのに一向に進まない。いつも思うが渋滞の先とはどうなっているのだろうか。少しずつ動いてはいるが、それでもまだまだ先だ。普通のレジとセルフレジの8台で動いているのに、なかなかに進まない。

「暇ですね」

「暇だな」

 皆一様に制服だ。露店の準備にこれぐらいは並んだのだろうか?

「あ、やっぱりだね」

「ん?なんだいたのか」

 声と手をかけられ振り向いた時、シズクがいた。気付かなかった。

「今日も2人なの?」

「久しぶりだけどな」

 前にふたりで来た時から二週間は経っている。そう思うとやはり久しぶり。

「お世話になりました」

「いいよいいよ、気にしないで。私も色々できて楽しかったし。また何かあったら呼んでね」

 頭を下げられたシズクが軽く手を振って応える。ネガイの家について詳しくは聞いていないが、この礼儀正しさから見ても両親に大事に育てられたのだとわかる。

 本当にネガイを愛して、ネガイも愛していたのだろう。時たま話題に上がる両親の話も、いつも自慢話だと思い出す。

「聞いていいか?」

「聞くって、何を?」

「いつから知り合いなんだ?ふたりってそんな接点あったのか?」

 少し前まで、ネガイはミトリやサイナぐらいとしか話していなかったのに。不思議とシズクとは昔から話しているように見える。

 寝た振りをして聞いていたガールズトークの時も。

「あー、それは」

 チラッとシズクが俺の後ろにいるネガイの方を見る。振り返ると───ネガイも口が重そうで、言いたくないと目を閉じてしまう。

「あ、詮索するつもりはないから。いいならいいから」

 急いで止めるが、どうにも居心地が悪くなってしまった。どうするべきかと首を捻っていると、ネガイが声を発し許可を下した。

「いいですよ。言って」

「聞いていいのか?」

「構いません。それに‥‥ふふ、原因はあなたです」

 灰色の髪を揺らして、そう笑う。

 俺が原因—―――俺を刺した時の話だろうか。けれど今の顔はそのような重い話ではないと分かる。寧ろ、俺を甘やかしている時のようで。

「じゃあ、言うね」

「はい、お願いします」

 緊張が走る。俺どころか、周りの生徒の顔にも緊張の糸が走っているのがわかる。

 数分前とは別の意味で、ここだけ世界が切り離されていた。無言シズクが息を呑み────覚悟を決めたように切り出した。

「君がチョコを食べれるかって」

 一瞬、何を言われたのか理解出来ず、非合法の薬の意味でのチョコ―――ではなさそうだと自分に言い聞かせた。

「普通のチョコなら食べるけど、なんで?」

「あなたに、もしチョコのアレルギーがあったら大変だと思ったので」

「ネガイさんと知り合ったのは2月の始まりね。卒業式がもうすぐで、後もうすぐでバレンタインって時」

 バレンタインと言われて思い出す。確かにネガイから貰ったのは覚えている―――覚えているに決まっている。告白しようと決めたのは、あの時だったのだから。

「あなたがチョコを食べる姿を見た事なかったので、それを調べる為にミトリから聞いてシズクに会いに行ったんです。ミトリも詳しくは知らないようでしたが、あなたの幼馴染と聞いたので」

「じゃあ、ネガイからシズクに話しかけたのか?」

「そうそう。ネガイさんからあなたが彼の幼馴染ですか?って聞かれて」

 今日は驚きの連続だった。ネガイから知らない人に話しかけるなんて。

「最初は驚いたよ、こんな美人さんが君にチョコをあげたいって言うんだから」

「‥‥そうだったのか」

 ネガイに振り返ってみると、また髪で顔を隠していた。

「じゃあ、あのココアも」

「‥‥はい、チョコを食べていた、と聞いても心配だったので。念の為に‥‥」

 思い出してきた。

 バレンタインの少し前、ネガイが眠らせる前のココアを飲ませてくれたのを。

「ありがと‥‥甘くておいしかった‥‥」

「‥‥遅いです」

「言っただろう、あの時も」

「‥‥はい‥‥」

 どんどん髪を顔に巻きつけていく、もう目しか見えない程となった時、

「ねぇ、私もあげたでしょう?」

「貰ったけど、シズクはチョコの代わりに何かしらやらされるからなぁ‥‥」

 去年のバレンタインも、チョコを食べた後にサイナと一緒にあれやこれや手伝わされたのを思い出す。これは取引、自身の腕に自身を持っているシズクからの契約は卑怯だった。

「むっ‥‥なら言うけど、ミトリとかサイナにも貰ったよね。その時はすぐに美味しいって言ってたのにね」

 後ろから髪を離す音と、背中に当たる振動を感じる。首だけでさび付いた歯車のように振り返ると、呆れたような笑顔に安堵する。

「‥‥いいでしょう。貰ったチョコの感想をすぐに伝えるのは必須です。その時にはマトイから貰わなかったのですか?」

「いや、貰ってない。マトイと知り合ったのは割と最近だから」

「‥‥そうですか」

 少しだけ残念そうな声を出した。もっと早く知り合えば、貰えたかもしれない。

「聞いたよ。ソソギとかカレンさんとも良い関係になったんでしょ?」

「ああ、そうだ」

「あれ?いいの?ネガイさんも?」

「はい、ふたりとはもっと仲良くなって欲しいです」

 ふたりは今頃どうしているだろうか。

 あの試し方をされてから、マトイの師匠への個人の心象はともかくとして法務科自体にはいい印象は持てていない。あの一件ではずっと法務科は味方だったのに、一晩経ったら法務科は懐疑的に見てきた。オーダーらしいと言えばオーダーらしい扱いだ。だけど―――ヒトガタとしての部位を試したのは、どうしても許せていなかった。

「───聞いていいか。ソソギについてなんだけど、漠然とどんなオーダーだった?」

「ソソギねぇ‥‥」

 ようやく動いた。どうやらレジ全体の税率計算がうまくいってなかったようだ。

「知ってると思うけど勿論、凄い優秀。頭脳明晰で冷静、身体性能的にも一年の首席って言われるぐらい。後、近寄り難いって言うのかな。背が高いからっていうのもあるし、ソソギ自体あんまり人と話したがらなかったかな?」

「カレンは別だったのか?」

「ふーん、カレンねぇ。カレンさんはまぁ見た目通り可愛かったから、男子は皆んな近寄ってたと思うよ。まぁ、それはソソギも一緒か」

 妙な事を言った。

「ソソギは近寄り難かったって」

「ソソギもかなりの美人だから。ああいうのがタイプな男子達にとってかなり人気だったみたい」

 それはファンサイトで騒がれる筈だ。そんなふたりが一緒に帰っているのなら、騒ぎたい人間にとっては格好の的だったのだろう。

「この人はどうだったんですか?」

 後ろからネガイが聞くまでもない余計な事を聞いてきた。シズクもそう聞かれて、腕を組んで唸ってしまった。話を聞いていた後ろの女子の一団も視線を合わせないようにしてくる。

「無理に言わなくていいぞ」

「‥‥彼女の前で言いたくないけど。モテたよ」

 聞いた事ない。それどころかモテる要素なんかなかった。俺はひとりでふらふらと目に耐えられる場所を探していただけだった。それどこか、シズクとミトリ、サイナ、それにイサラぐらいとしか女子とは話していなかった。

「ネガイの前だからって、盛らなくていいぞ」

「‥‥やっぱ、知らなかったのね‥‥。まぁ、ネガイさんと一緒にいる今を思うと、それが良かったのかな?」

「あ、そう。ありがとよ」

 ネガイの為の嘘もここまでわかりやすいと、力が抜ける。

「ん、信じてないね‥‥そうだよね?」

 そう言って、後ろの知らない女子にそう聞いた。驚いた、適当に知り合いを探せる程にシズクって交友関係広かった。

「ちょっと、聞かないでよ‥‥!」

「言ってよ、幼馴染の言葉を信じてくれないんだよ、この人」

「困らせるなよ。悪いな、身内が」

 知らない女子に軽く謝って、前を見るがネガイの目は知らない女子の方から離れない。

「そうなんですか?答えて下さい」

「おい、いいって」

 振り向かせようと、手で制するがネガイは戻らない。そんなネガイの視線に諦めて女子は息を吐いた。

「‥‥わかったよ。モテてた、かなりの女子がヒジリ君の方を見てたよ」

「ほら」

 話を合わせている。そう思う事にして振り返ろうとするが、女子の目がおかしい。俺のを見ている。

 この目は見た事がある。誘ってきて時のマトイと同じだ―――目に毒されている。

「彼の目が人気だったんですか?」

「そう‥‥だと思うよ‥‥!うん、皆んなそう言ってたし!そうだよね!?」

 周りの男子も女子も巻き込んで、皆んなを頷かせた。シズクは「言って通りでしょう?」と胸を張って言ってくる。

「‥‥そうか‥‥」

 別にモテて嬉しいとか、目が人気だったから悲しいとか、そんな気分ではない―――この目は、人間をどこまでも狂わせていた。マトイと同じような人間を生み出していたのかもしれないとわかってしまった。しかも、それは大勢だった。

「‥‥ごめん、ちょっとやりすぎた?」

「いや、少し驚いただけだ」

 背中を向けてレジを待つ事にした。ネガイも、もう何も言わない。

「‥‥変わったね」

「何がだ」

「前の君なら‥‥」

 その先を言わせたくない。シズクとは昔から仲が良い変わらない幼馴染でいたい。

「それよりも!!」

 振り返ってシズクの後ろの女子に目を向ける。少しだけ、驚かせるつもりで。

「シズクはどうだったんだ?見た目は良いから、人気だったんじゃないか?」

「あ、わかる?実はね、シズクってミトリとかサイナと同じぐらい人気でね」

「言わなくていいから!?」

 シズクが人気あるのはなんとなく察しがついたが、ミトリとサイナと比べられる程だとは思わなかった。だったらマトイも同じだろう。

 あの場にネガイもいたら、必ずやこの人気な女子の中に入っていた。

「だろ?小学校の頃からシズクは美人だって言われて。知ってるか?一度だけモデルもやって」

「モデル!?そうなの!なんで言ってくれなかったの!?」

 投げた爆弾が見事、本丸に的中したらしく、瞬く間に後ろの女子の一団に広がり話題が一気に変わっていく。中にはスマホでシズクの名前を入力する人間も出てくる。それを慌てて止めるシズクを尻目に、ふたりでレジに向かった。




「焼きびたし?」

「はい、鳥もも肉の焼きびたしです。どうですか?‥‥聞くまでもないですね」

 箸が止まらない。もも肉に酒で下味が付き、オリーブオイルで表面がカリカリだった。それなのに中は柔らかいまま。付け合わせのナスは少しだけ歯応えがあり、口が飽きない。白米に恐ろしいほど合う。

「‥‥美味しいですか?‥‥良かった」

 口に詰め込み過ぎて、喋れないから目だけで伝える。

 詰め込んだ鳥やナス、米を味噌汁でふやかして味合う――至福の時間だ。

「凄いなぁ。これは自分で?」

「ミトリから教えてもらいました。自分でも食べたかったので‥‥いい感じです」

 鳥を一切れ食べて、自分の味に納得したみようだった。

「ナスも美味しい‥‥。旬なのか?」

「少し早いですけどね。走りと言うのだそうです」

 味噌汁も用意され、今晩の夕飯は豪華となった。その上、今の自分は恋人たるネガイと顔を合わせて食べられる。用意された自分の箸を手に食事をする顔を愛おしく眺めていると、クスクスと笑われる。

「どうしました?そんなに私の顔が好きですか?」

「顔だけじゃない。全部、料理が出来る所も好きだ‥‥」

「正直ですね」

 幸せだ―――死んだ時、オーダーに捨てられた時、こんな時間を過ごせるとは思わなかった。こんな未来があったのだと思いもしなかった。たった数語のやりとりだけで心が洗われる。あの方とマトイ、皆んなに感謝しなければと心に誓う。

「明後日はどうしますか?」

「出かけるぞ。約束だっただろう?」

 安心させられたようだ。明後日は祝日の土曜日で、月曜日まで自由に遊べる。

 ただ。東京散策と言っても、自分は必要な場所しか巡ってきた試しがなかった。よって案内出来るほど街中を知り尽くしている訳ではない―――そして警戒すべき現実も存在する。

「ネガイ、外出する時は決まりがある」

 箸を置きながら告げた言葉に、鏡移しのように応対される。

「オーダーとしての決まりですね」

「ああ、知ってるだろうがオーダーは、常時帯銃帯剣。服装に関しては防弾性が推奨。いや、最低でもアラミド繊維の布は着ないといけない。暗黙の了解だったとしても」

 防弾性の服は今や世間一般にも浸透している。銃規制の一部撤廃とは生活が一変してしまう制度だった。警戒心や防犯意識が薄いとされている日本でさえも銃が身近になっている。

「あと一つ。学校でも少し話した。外での発砲は余程の事がないと厳禁。オーダーでも一般人でも」

「身を守る為に、ですね」

「と言うか、それぐらいしか抜いていい時がない。だからオーダーは私服でも自分がオーダーだって見えるようにしてる。わざと晒すようにガンベルトを装備して。だから、どんな馬鹿な人間でもオーダーに喧嘩を売ってくる奴は少ない。逆に喧嘩売ってくる奴はラリってるか、死にたい奴」

「わかりました。死にたい人には向けていいんですね?」

「そうだ‥‥鳥、食べていい?」

 最後の一個になってしまった。

「仕方ないですね。気に入りました?」

「美味しかった‥‥」

「ふふ、どうぞ」

 良かった、最後に白米と一緒に食べたかったから少しだけ残していた。ダメと言われたら泣く泣く味噌汁で流していた。

「私は、ひとまず外を歩いてみたいだけなので制服で行くつもりです。あなたは?」

「なら俺も制服で行くか。そもそも私服とかほとんど持ってないし」

 そろそろ夏服の用意をしなければならない。そんなに回数を着る事は無いだろうが、一応持っておきたい。

「では制服で歩き周りますか。バイクで行きますか?」

「んー、どうしたい?バイクだと小回りが聞くけど、やっぱり買い物が出来ないからサイナに頼んで車借りるか?」

「悪くないですね。そうしますか」

 正直言うと、ネガイがそう言ってくれてホッとした。オーダー街ならいざ知らず、外で250ccは馬力不足だ。やはり最低でも500ccは欲しい。あのZX14Rだったならば、これ以上無い程に快適に車道を走れただろう。

「ジープですね。運転出来ますか?」

「出来るぞ。見せた事無いけど、外での仕事とかで何度か運転してる」

「良かった‥‥。私は、しばらく運転していないので」

 ここから出れないのなら、運転をする必要がなかった筈だ。

「‥‥ふふ」

 急にネガイが笑い始めた。微笑んだ顔もまた可愛らしい。

「どうした?」

「いえ、もしかしたら皆んなついて来るかもと思いまして‥‥」

「誘ってみるか?」

「いいえ、気を使わせてしまうでしょうから。‥‥私達ふたりだけで」

 年相応な微笑みから、独占欲のある値踏みでもするような女性の目付きをしてくる。ネガイと話しているといつも違う表情を見れる。

「どうする?今日は泊まるか?」

「そうですね。慣れない事をしたので今日は少し疲れました」

「じゃあ、先に風呂を済ませてくれ。俺は洗い物をしてるから。もう眠かったらベットで寝ていいぞ」

 椅子から立ち上がって、自分とネガイの皿を流し台に運ぶ。

 この数日でネガイとの一緒にいる時間が更に増えた。前から何度かお互いの部屋は行き来してたが、泊まるのは最近になってからだった。

「もう風呂は沸いてるから、すぐに入れると思う」

 だんだん暑くなってきたからか、少し前まで冷たくて辛かった水仕事が心地よく感じる。

「‥‥どうした?」

 椅子から立ち上がらないネガイに背中越しで話しかける。

「あなたがお風呂から上がるまで、起きてます。話があります」

「‥‥わかった。俺が出るまで寛いでてくれ」

 確認が取れたネガイは、軽く背中を撫でて風呂場に向かった。

「‥‥」

 聞こえる音は水の音だけとなった。

 この部屋は元々シェアハウスの想定して作られたらしく、幾つの寝室に一つのリビング、一つのキッチンで構成されている。だけど、ここに住んでいるのは自分ひとりだった―――目のせいで是が非でも1人部屋を志望したところ要望が受理された。

 目については学校にさえ黙っていたのに。

「‥‥知らない訳がないし、どうでもいいか‥‥」

 洗い物が終わり手持ち無沙汰になってしまった。やる事も無いからキッチンから移動してリビングのテレビをつける。

「‥‥デモか‥‥」

 ソファーに座りながら、テレビを眺める。

 テレビに映されていたのはデモの光景だった。オーダーが逮捕して有罪判決を受けた同胞は誤認逮捕だ、オーダーの思惑に嵌められた、そんな無罪の訴え。

 俺とサイナとマトイ、そしてソソギが関わった事件の加害者達だった。

「お前達が誘拐なんかしなければよかったんだろう‥‥」

 デモの参加者は、恐らくはあのカルトと同じ宗教の教団員だ。オーダーを批判こそするが、自分達のやった誘拐には一切触れていない。自分達は間違った事をしていないと思っているのか、それとも必要な犠牲とでも考えているのか。

「マトイが喜びそうだ。法務科にはまだまだ仕事がある」

 テレビのコメンテーターは、こう言っている。

 あの宗教の名簿には、オーダー設立以前直近の首相や副総理の名前、更に先代の総理の名前すらあると。票の為に入信したようだが、その所為であの宗教はここまでつけ上がった。その責任は重いと言わざるおえない、と。

「ざんねーん。そもそも教団、宗教の設立に関わったのが総理や副総理本人とか親達でしたー」

 事件後、マトイから見せられた名簿の中には創設者達の名が刻まれていた―――当時の権力者達の名前ばかりだった。大企業創設者やその孫ひ孫、頭に大がつく内閣の人間達、上級と騒がれた立場の公務員、メディアの社長、それに警察官僚。

「国外の大元は古いのに、こいつらは最近の人間達だろう?何が歴史だ‥‥」

 今もテレビの中で騒いでいるデモという名の布教活動の謳い文句はこうだった。

 この私達は長い長い年月をかけて我々の習慣を日本に根付かせた。風呂や食事、それに神社仏閣、そして和の心!これらを私達は有志以来、ずっと伝統として日本人の心に届けてきた!だから言える!オーダーこそ日本を腐らせる侵略者だ!と。

「せいぜいが50年だっただろう?人間の寿命分もねぇーじゃねーか‥‥」

 つまんらない。適当にチャンネルを変えるが、どこもかしこもこの宣伝を伝えていた。もしかしたら命令でもされているのかもしれない。このを伝えよと。

「あぁ‥‥そうだ。こいつも名簿に名前あったか‥‥」

 強い口調でオーダーを叩いているタレントも誘拐に関わった人間の1人だった。

 このタレントの口車を信じて、自分からカルトに近づいた子もいた筈だ。いつ檻から出てきたのだろうか、少し前に裁判で有罪判決を受けていたというのに。誘拐と犯罪幇助に教唆だった筈だが。

「なんだ‥‥上告したのか、金の無駄だ」

 法務科と査問科が逮捕した以上、確実に有罪になる。法務科だけでもアウトだが、査問科がお墨付きを出したのなら、もう逃げられない。

「今の内に財産分与でもしとけ、宗教関係って思われたら全部没収されるぞ」

「どうしました?‥‥ああ、これですか。いい様ですね」

 脱衣所から出て来たネガイはバスタオル一枚だった。

 いい様と言った理由は、ネガイをこのオーダー街から逃げれないようにした奴らが、創設に関わった権力者達だからだ。

「‥‥何ですか?もう見た事あるでしょう」

 髪を上にまとめたネガイは、普段と違ってハツラツとした元気な少女の姿だった。

「髪をまとめる姿もいいんですね。覚えておきます」

「髪乾かすか?」

「触りたいの間違いでしょう?許します」

 急いで脱衣所にあるドライヤーとブラシを持ってきて、既にリビングのソファー座っているネガイの髪も状態を確認する。

「痛まないようにお願いします。熱いのは嫌です」

 そう言って、髪を預けてくれる。

 まず最初に柔らかいタオルで髪を挟み、水気をしっかりと根元まで取る。タオルに負けないぐらい柔らかくて、滑らかなネガイの髪に一歩近づく。

 次にドライヤーを小刻みに揺らしながら根元に強温風で乾かす。その後、えり足や耳元を乾かす。そうしなければ、毛先がハネてしまう。明日も学校なのにネガイに毛先がハネた状態でいかせる訳にはいかない。

 手で髪に空洞を作って、流すように頭近くの髪を乾かす。それを背中まで届いている毛先まで続ける。

「前髪をやるぞ」

「‥‥あ、はい。お願いします‥‥」

 もう眠そうなネガイからの返事を聞いて、かなりの弱風にして前髪を左右の上から流すようにかける。

 前髪が済んだら、今度は完全に終わらせる。髪を下に軽く引っ張る程度に手で持って、全体を乾かす。最後に冷風で終わり。

「‥‥手馴れてますね」

「自分でやらせたんだろう?」

 少し前にやった時、もっと勉強しろと言われてしまった。そこで自分の中を探してみたらドライヤーの掛け方についての知識があった。ヒトガタの自動記述には、こんな知識まであるらしい―――まるで奴隷として作られたようだ。

「急いで下さいね。でないと、もう寝てしまいますから」

 テレビを変えて、ネガイはソファーで寛ぎ始める。

「ああ、待っててくれ」

 男の入浴なんて簡単だ。頭を洗って、体を洗い、湯船に浸かる。

「‥‥ネガイの香りだ」

 最近漂わせているシャンプーの香りが風呂場中に広がっている。湯船には薔薇の香りがついていた。

「‥‥話か」

 高い確率で、目についてだ。

 シズクの友人らしき女子が言っていた話が本当なら、この目は無遠慮に誰彼構わずに人を喰っていた事になる。目が求めたのか、それとも目の余波で人が狂ったのかはわからない。

 マトイが『目』を求めたのは、法務科として必要だと思ったのが始まりだった。

 あの女子は、俺の目求める程の立場にいたのか?失礼かもだが、そんな様子には見えなかった。

「‥‥ネガイは、どうだったんだろう」

 ネガイも、俺の目を求めたから自分の手元に置いていた。目のコピーを作る為に。

 暗い感情が芽生える。ネガイが俺を好きでいてくれるのは―――好きになった理由はこの目が発端だった。

「やっぱり、卑怯者だ‥‥」

 宝石で好きな人を誑かせて心を奪う。それをネガイだけじゃない、マトイにもサイナにもミトリにもした。知らず知らずの内にソソギやカレンにも。

 周りにいる人は皆んな俺じゃない―――目を求めていた。

「‥‥」

 怖い。もしネガイが、俺を好きでいてくれる理由は目が全てだからだと言われたら―――どうする事もできない。目をくり抜いて渡すしか、思いつかない。

「出るか‥‥」

 湯船の縁に肩と頭を置いて呟く。

 最後にシャワーを浴びるが、熱も感じない。身体が鎧のようになっていくのがわかる。実際の自分はもっと小さくて、目が身体の大半を占めている気がしてくる。

 自分と目のパワーバランスが逆転していく。

「‥‥もう、意思も無いのに」



「起きてるかー?」

 ソファーで寝ているネガイに囁いてみる。

「しょうがない‥‥」

 バスタオル姿のネガイをお姫様抱っこで寝室に運ぶ。同い年の女子とは何故こんな軽いのか?と思う程に軽々上がる。マトイを持ち上げる度に感じていた事だが、やはり不思議だ。こんな軽い身体でどうしてあんなに鋭い突きを繰り出せるのか。

 ネガイをベットに運び布団をかける。

「‥‥明日でいいか」

 起こすにはかわいそうに感じた。こんなにぐっすり寝ているネガイから眠りを奪う気になれない。

 眠りは自由であるべきだ。見る夢も。どんな夢を見ているか興味こそあるがわからない。だから、どうか自由な夢を見ているように祈っておく。

「‥‥まだ9時か、暇だなぁ」

 いつも寝ている俺だが、風呂での考えの所為で眠気が消えてしまった。あの方にも会いたいけれど、こんな気分でお会いになったら、あの方に心配をかけてしまう。

 他の事を頭に詰め込んでから寝るとしよう。

「ここにまだ‥‥あった」

 食器が置いてある戸棚から茶葉を出して、湯を沸かす。

「これでよし」

 湯呑みに緑茶を入れて、武器共々一緒に机の上に置く。

 本当ならここで分解整備でもすべきだが、それはつい最近サイナに造って貰ったバランスを崩したくないから下手にいじれない。脇差しもだ。イサラ曰く、そもそもこれが鉄なのか何なのかわからない。だから恐らくはまず錆びない。

 俺のできる事はない。結局はサイナかイサラに頼るしかない。杭もそうだった。

 一応水分を取るために専用の紙で拭いてはいるが、これがどれだけ意味があるかわからない。

「うわ、はや‥‥。もう逮捕されたのか」

 武器を眺めながらスマホでサイナにメールを出していると、あるニュースがテレビ画面に飛び込んできた。風呂に入る前にオーダーを叩いていたコメンテーターがもう逮捕され、今はテレビ局から身柄を連行されている様子が映っている。

 別の誘拐にも関係しているとして別件で逮捕されたらしい。言論の封殺だ!なんて騒いでいるが、自分のやっていた事を忘れたようだ。

「どこもみんな同じだ」

 それでも暇つぶしに眺めておく。明日の天気が気になる。

「‥‥俺は、どう見られてたんだろう」

 緑茶をすすりながら、呟いてみる。

 自分は自分で思っている以上に周りに知られていて、あの言い方だと自然と目が引き寄せられてしまった――――という感じだった。

「目に惹きつけられたか‥‥。でも、この目は」

「その目ならできますよ」

「起きたのか?寝ててよかったのに」

 起き上がったネガイはバスタオルを使って前だけ隠していた。だから腰から、足の付け根にかけての膨らみがはっきりと見える。

「着替えてきます」

 言いながら俺の背中を通って脱衣所に向かっていく、前を隠すなら後ろも隠して欲しいと思い目を逸らすが、つい臀部や白い背中で揺らす灰色の髪を。そして脱衣所に向かっていく姿を追ってしまう。仄かな薔薇の香りを吸い込んでしまう。

 脱衣所から戻ってきたネガイは紺色の半袖短パンの寝巻きに着替えていた。甚平姿の俺が言う事は出来ないが、その寝巻きにはまだ早い気がした。

「場所を開けて下さい」

 一度立ち上がってソファーを明け渡した時、ネガイは自身の腿を軽く叩く。

 もう慣れてきたものだ、飛ぶ着くように足を枕にしソファーに体を預ける。

「‥‥熱い」

「私の体温は平均より高いので。だから暑いのは苦手です」

 寝起きだからか。ネガイの足は通っている血自体が熱を持っているかのように温かい。少しだけ冷たい足を期待したが、これも悪くない。

 それに前髪を撫でてくれて、これ以上の快適さは無いと断言できる。

「話って、目についてか?」

 ネガイは目線も向けずに、髪を撫で続ける。

「‥‥何か言ってくれ。俺が嫌いになる事なんてないから」

「‥‥知ってますよ。私も同じだからです」

 やっと笑ってくれた。ネガイは笑顔を見せた後に、目を塞いでくる。

「もう、痛くなんてない‥‥」

「いいじゃないですか。こうしたい気分なんです」

 目を塞ぎながら、胸を撫でてくれる。甘えていいという許可だと判断する。

「もっと強く‥‥」

「‥‥このぐらいですか」

 耳元で囁くようなウィスパーボイスだった。艶っぽい息が漏れる声を聞いて、脳が揺れてしまう。

 ネガイの手に溶けていく。もう目の治療の必要が無い以上毎日はしてくれないと思っていたが、こんなに甘く温かく溶かしてくれるなら我慢は出来ないかもしれない。

 安堵した所に呼気と香りが鼻腔に届いて、全身でネガイを感じている気分になる。

「安心しました?」

「‥‥人間の心よりも、俺の心を読めていいのか?ネガイも人から離れてるんじゃないか‥‥」

「いいえ、私はしっかりと人間です。狂える化け物を鎮められるのは人間だけです」

「‥‥ネガイは、聖女だったのか」

 聖女が半獣半魚の竜を退治したという伝説がある。

 ただ正確にはそれを成し遂げたから聖女と呼ばれるようになった伝説だ。その竜は、人を喰らい、船を沈めて、人にかかると人が薪のように燃え上がる汚物を撒き散らすという邪竜だった。聖女は街の人々からの無謀とも生贄とも言える頼みを快諾した。

 そして聖女は成し遂げた、邪竜を退治するという後の世に伝わる伝説を。

「聖女?私は化け物に心を預けた人類の敵です」

 首を振ったのか、ネガイの香りが顔に振ってくる。

「人間は強大だ。いいのか?」

「知りませんでしたか?私も人間が嫌いです。始まりは人間が私達を苦しめたんです。‥‥人間は元々私達の敵です」

 テレビではデモが続いている。自分達がやった事すら理解できていない匹夫達が、秩序の守り手を今も貶している。

「‥‥あなたはどうですか?」

 今日のネガイは普段よりも大人びている。

 この囁きは、蛇のようで―――どこまでも理性が堕ちていく。

「俺も人間が嫌いだ。弱くて、傲慢で‥‥平気で使い捨てる‥‥。‥‥ひとりでは敵わない、諦めればいいものを数だけ集めて―――しかもそれが自分の力だって、思い込んでる‥‥目障りだ‥‥!なんであんな生物がこの星の支配者をしている!?なんであんなものに、首輪をかけられている!‥‥なんで、あんな奴らが自由に生きられて‥‥!ネガイが、俺が‥‥!」

 牙でも生えてきそうだった。人間からまた一歩離れていく気がするが、それは違った。俺は元から人間ではなかった。

「‥‥人間は血を見ないと我慢できない、正気に戻れない野蛮な存在です。だから、私も嫌いです。人間の事はよくわかります。私も人間ですから」

 眠くなってきてしまった―――まだネガイの話は始まってもいないのに。

「ネガイも、そうなのか‥‥」

「‥‥私も、あなたの血を見て正気に戻りましたから」

 目から手を離される。冷たい刃となった空気が目蓋を切り裂いてくる。

「私は邪竜を鎮めた聖女ではありません。‥‥彼女は、迷わなかったそうですから」

 彼女は、かの聖人との出会いにより信徒となった。

 きっかけは些細な事だ。家事をしない妹について聖人に咎めるよう打ち明けた。

 だが、聖人はそれを踏まえて妹は正しいと言った。現代では批判され兼ねない言動だったが、真意は別にあったとされる。

 それがどのような真意で、聖女になる前の彼女はどう受け取ったのかは定かではない。だが、これが大きな歯車であったのは間違いない。時代は進み、信徒に対しての圧政から逃れる逃避行の果てに聖女と呼ばれるに至った理由が生まれる。

「‥‥私は、迷っていました。あなたをどう見ていいのか‥‥。迷い、心を乱していました」

「どうって‥‥」

「あなたが私に好意を抱いているとわかった時‥‥私も嬉しかったです」

「‥‥同じだったんだな‥‥」

「いいえ、違います」

 もう一度目を塞いできた。

「あなたは純粋でした。私を好きになって、痛みを取り除き、眠らせて欲しいから私の元に通ってきた」

「欲望塗れだ」

「あなたは人間ではないんです。人間を真似て我慢をする必要はありません」

 こうやってネガイに甘やかされるからつけ上がってしまう。一度、ネガイや皆んなから怒られないといけない気がしてならない。

「‥‥私も、そういう意味では欲望塗れでした」

 ネガイは元々、俺をサンプルとして受け入れた。契約もそうだ。ありきだったからネガイは面倒をみてくれた。

「あなたを異性として見てるのか、それともサンプルとして見ているのか、わからなかったんです‥‥。自分の事なのに‥‥」

 あの女子が断言しなかったのは、こういう理由だったのかもしれない。

 それは周りも同じだったのだろう。俺を異性として見るか、それとも俺の目を宝石として見つめるかの違い。

 宝石に恋をする。よくわかる感情だ。俺もネガイの瞳に恋をした。あの方も俺の目が輝くと信じて手を貸してくれた。

「言い訳になります。‥‥私は、自分で自分を試したんです。バレンタインを使って」

「チョコか‥‥」

「はい‥‥自分の感情は、恋なのか、それともただ手元に置いておきたいだけの感情なのかを測る為に」

 あの時、チョコを渡してきたネガイが俺に対して良い感情を持ってくれていると思った――――だから告白した。

「‥‥準備の段階でわかりました。私は、あなたが好きだと‥‥」

「‥‥もっと早く告白すればよかった」

 時刻が進み番組が変わった。もうニュースは終わり、深夜ドラマが始まる。

「そうです。あなたが早く告白してくれれば‥‥もっと素直にチョコを渡せてました」

 あの時のネガイは気絶でもしそうなぐらい可愛かった。屋内なのに顔を髪とマフラーで隠していて、雪の妖精と見違える程だった。

「聞いてくれ、ネガイがチョコをくれたから告白できた。‥‥告白する勇気を持てた」

「‥‥ずるいです」

 目を閉じられているのが、少し残念だ。赤く不満気なネガイの顔が見れない。

「あなたを救えて良かった。でないと、その話は聞けませんでした」

「俺も救われて良かった‥‥」

 本当ならここで寝てしまいたいが、それは許されない。

 テレビから聞こえる声で大体のストーリーや流れがわかってきた。あまりにも過激な内容だ。これは深夜でなければ放送できないのも頷ける。濃厚なベットシーンが聞こえ、見えないからこそ音だけでどんな事をしているのかを想像してしまう。

「‥‥話を変えますね」

 激しく粘液を打ち付ける音が響くなか、沈黙に耐えられなくなったネガイが咳払いで番組を変える。

「あなたの目に人が惹かれるのは、自然な話です」

「自然な事なのか?」

 起き上がって話をしようとしたが手で静止され、大人しく足に戻される。

「折角の2人きりです。もっと恋人との時間を大切にして下さい」

「わかったよ」

 少し振りにネガイが甘えてきた。嬉しくて、足に甘える事に専念する。

「その目は知っての通り。地球上の生物が持つにはあまりにも強大な力です。人が星や月、太陽の輝きに神聖さを見出した様に強い輝きは魔性の力を持つ。人間はそんな光に惹かれる‥‥マトイも、これに類するかもしれませんね。私もですが‥‥」

 皮肉的だ。俺はこの目が備わってなければ、既に捨てられていた。生まれてもいなかっただろう。同時に死ぬ事も無かった。

 だけど、目が無ければネガイやマトイ、話を聞いてくれた人間達にも会えなかった。あの方にも。

「力は輝きになるのか?」

「強い力は輝きに他なりません。原始的な話ですが、人は火を持つ事により力を持ったされています。火とは灯です、灯を持つ事により外敵から身を守り、遠くの同胞にも灯で交信する。拝火教と言われるゾロアスター教が例に挙げられます」

 火は力。ならば輝きが力と言われるのもわかる気がする。強い火は強く輝き、それは強い力にそのまま通ずる。

 星や星座を神話や教典になぞらえて、神や悪魔に見立てる地域もある。星が火の様に輝かなければ神に見立てる事もなかっただろう。

「力は世界共通です。顔や体型は世界によって好まれる好まれざるが変わりますが、力は違います。強い拳や強い弾丸。同じように強く輝く星々は世界中から見れます。宝石の輝きも同じです。国によって宝石の輝きは変わりませんから」

 あの方が言っていた。心臓に火を与えたと。それは宝石を星に見立てていた。

 宝石の輝きはとは、本当にの認識らしい。

「だからあなたの目が人を惹きつけるのは当然です。私も前に見せてくれた宝石から目を離せなかったので‥‥私があなたを好きになった理由も、その目にあります。目のコピーという理念以上に、私もその目に魅せられていたのですね」

「イサラが脇差しに魅せられたのも同じ理由か‥‥輝きは力、納得した‥‥」

 閉じている目蓋をネガイが優しく撫でてくれる。

「何も問題ない。それでいいだろう始まりは違ったけど、もうこの目は俺自身だ。ネガイは俺を好きになった、そう言ってくれ‥‥」

「‥‥あなたが、好きです」

「俺も、好き‥‥」

 寝返りを打って、ネガイの腹に顔をつける。

「話は終わりです。もう寝ますよ‥‥」

 終わりを告げる声が耳に吹きわたり、我慢できなくなった時、足から起き上がる。

 軽く明日の準備をして寝支度を整える。俺もそうだが、ネガイも半分寝ているようで、うつらうつらしている。

「じゃ、おやすみ」

「はい‥‥今更何を遠慮する事と恥じる事が?一緒に寝ますよ」

 逃げようとした訳じゃ無いが、もしネガイに拒絶されたら立ち直れなかったから、様子見も兼ねて自分の部屋に戻ろうとした刹那の瞬間だった。

「目覚ましが」

「不要です。私が起こします」

 手を引かれながら最近使い始めたネガイの寝室に入る。中は俺の部屋と変わらないが、香りが全く違う。漂っている空気が、既に暖かく視界が早速薄れていくのがわかる。

「‥‥いい香りだ」

「そうですか?特に何も使ってませんが」

 ベットまで引かれ、尚も止まらないネガイに布団の中まで連れ去られる。バスタオル1枚でついさっきまで眠っていたからなのか、甘い薔薇の香りが残っている。

「眠い‥‥」

「私もです。‥‥おやすみ‥‥」

 枕元の電気を消し、手を繋ぎながら意識を手放す事にしたが、隣の灰色の麗人は気温に耐えられないようで、布団から片足を空気に晒していた。

「暑いな。冷房でも入れるか」

「そうですね。今日は暑いです」

 事実として、朝の天気予報でも今日は季節外れの熱帯夜になると言っていた。

 ネガイは待ってましたとばかりに、布団から飛び出して扉近くのリモコンへ飛びつく。

「どの位にしますか?」

「任せるよ。俺も、今日は暑いし」

 布団を蹴飛ばして、冷風が部屋中に流れるまで待つ事にする。

「じゃあ、この辺りで」

 リモコンを操作してエアコンに冷房の命令を下し、壁に戻さずに枕元まで持ってくる。

 想像を超えてネガイは暑かったようだ。かなりの風量がエアコンから流れてくるが、寝室で2人並んで寝るならこれぐらいが丁度良い。ネガイは寝巻のボタンの上一つを開けて、俺の方を見ながら寝転がってくる。その目は猫のように爛々と輝き、言葉を待っていた。

「少し話すか。寝るにはまだ暑い‥‥」

 纏っていた眠気も、暑さで消えてしまっていた。

「良かった‥‥。私もこの暑さでは眠れませんでした。何を話しますか?」

「ネガイは聞きたい事は無いのか?俺の事とか」

「聞きたい事‥‥。そうですね、でも、あなたの事はもうわかってますし」

 もう一度手を繋ぎ直す。上を向いたままで、ネガイからの質問を待つ事にした。

 流れてくる冷風が首元や顔に風が当たると、だいぶ楽となりようやく部屋全体を冷やし始める。エアコンが生活必需品と言われる様になったのがよくわかる。まだ5月だというのに、この気温だ。夏になったらどうなってしまうのか。

 バイクよりも車での移動が必須となるだろう。

「中等部でのミトリはどうでしたか?それと、ミトリとの出会いも」

 ミトリとも長い付き合いになった。思えば、シズクを除くと1番の付き合いになる。

「ミトリとは、入学式が終わって早々の行事で会ったんだ」

「サイナと同じぐらいですか?」

「サイナよりも早かった。ミトリ以外の中等部からの知り合いは、基本的にシズク繋がりだったから」

 サイナやイサラ達。ミトリ以外との繋がりは大半が二年からだった。

 一年の時はまだ自分の立場を受け止められず、目からの命令を受けない為に外部との繋がりを全て切っていた。逃げ回っていた―――人からも目からも。

「あれは、ランダムで組まされる授業だった」

 繋いでいない方の腕を頭に乗せて、思い出す。もう三年前の話だ、ゆっくりと思い出さねばならない。

 全員が全員、多くが会って間もないどころか、初めて会う同士だったからどうやって接していいものか困っていた。俺もミトリもその例に漏れなかった。

「えーっと‥‥そうだ、GPSを持って学内を歩き回って指定された物を探して、使えっていうレクエレーションだった」

「運が良かったですね。ミトリと一緒だったなんて、昔から優しかったのでしょう?」

 自分の事のように、自慢の友人を誇ってくる。あの精神的に正常とは言えない俺に付き合ってくれたのだ、優しいに決まってる。

 聞き込みが出来なかった俺に代わってミトリが大半をしてくれた。ミトリがいなければ俺は途中で帰っていただろう。

「ああ‥‥優しかった‥‥」

 会ったばかりのミトリを思い出すと不思議だった。もう忘れていると思っていても、昔のミトリを頭から溢れるように思い出せる。

「ミトリと一緒に探したのは、確かメトロノームだった」

「だったら音楽室に行けばすぐに見つかるのでは?」

「俺もそう思って、ミトリと一緒に音楽室に行ったんだけど。見つからなかった」

 あの時は混乱した。どこか別の組が持って行ったのか、それともこうやって俺達に考えさせられるのが目的なのかと考えた。

 試されるのが嫌いだったのは時も同じだ。ミトリに止められていなければ、確実に帰っていた。

「音楽の教員に聞いても、知らぬ存ぜぬ。高等部に行こうにも、中等部から出るのは違反だって言われた—――今もあれをやってるみたいだけど、あれはしばらく生徒同士と教員との関係性が悪くなるからやめた方が良い‥‥」

 今思うと必要な事だったのかもしれないが、ニヤニヤした上級生や教員に見られるのは今でも鳥肌が立つぐらい腹が立つ。

「九割の組が夜中まで探し周り結局見つからないなくて‥‥だから俺とミトリが成功して、教員から驚かれたんだった‥‥」

「では、見つかったんですよね?どこにあったんですか?」

「結論を言うと、保険室だ」

「結論ですか」

 面白そうに笑っている。答えはわからないみたいだが、考えるのが面白いらしい。

 メトロノームの機能は演奏の時とか練習でテンポを合わせるのが目的だ。一定の間隔で音を刻みながら。

 俺とミトリが言われたのは、メトロノーム探せとは言われたが、持って来いとは言われなかった。これも今思うと運が良い。

 中には聖書など代わりになる物が少ない物もあった。やはり運がいい。

「メトロノームを探せ、それは既にしましたね。ならこの条件はクリアした、それは全ての生徒が出来たんですね」

「ああ、見つけ出せなくても50点は貰えた。これは全ての生徒だ。もしサボったり途中で帰っていたら0点だったらしいな‥‥」

 あのレクリエーションは二つの目的があった。探す事と、指定された物の機能を用意するという二つが。

「なら、メトロノームの機能を持った代替品が必要」

「ネガイと組んでたら一瞬で終わった‥‥」

「いえ、そうでも無いですね。メトロノームの変わりは、あなた以外いないですね」

「‥‥もうわかったのか」

「はい、保健室でなんとなく。聴診器ですね?」

 俺の目以外の能力、心拍の操作。

「教員から言われたぞ、これは離れ業だって。ずるいとも言われた。‥‥そんなずるいか?」

「ずるいです。自分の胸に聴診器を当てて教員に聴かせるなんて、やはりあなたはずるいです」

 むくれてしまった。でも、こんな顔のネガイも、好きでたまらない。

「ミトリはなんと言っていたんですか?」

「驚かれたよ。こんな特技があったんですね、すごい。って」

 純粋とでも言うべきだった。あの時、ミトリは俺をよく褒めてくれた。

 音楽室で音を聞いて覚えて、そのテンポを教員に聴かせ「合格」といわせたあの時の顔は、あの学校で初めて俺を笑顔にさせてくれた。

 ミトリとなら、話していたいと思える感情を持てた。

「でも、何度もしてはいけませんって、怒られた。急激な心拍の上げ下げは血管や臓器に負荷をかけるって」

「その時から治療科を目指していたんですね」

 ミトリに叱られた話が楽しかったのか、それとも変わらないミトリの話を聞きて嬉しかったのか、ネガイの頬が緩んでいる。

「こんな所だ、ミトリとの出会いは。自慢じゃないが、あれに成功したのは俺とミトリを入れて8人ぐらいだったらしいぞ」

「‥‥楽しかったですか?」

「‥‥ああ、楽しかった」

 捨てられて数日も経ってなかった時の話だ。成功したからこそ、楽しい思い出と言えるが、ミトリはどうだったんだろう。途中で帰ろうとした俺を止めて、学校中を探し周り、最終的に俺の心臓をメトロノームにするなんて出来事を。

 ミトリは楽しかっただろうか。

「ネガイも参加したかったか?」

「いいえ。私なら途中で帰っていたと思います。学校中を探し回ると聞いて、尚更そう思いました。‥‥やっぱりって顔ですね」

 顔に出てしまったみたいだ。大人しくあんな面倒くさい事をするとは思えない。

「‥‥俺もだ。ミトリに止められなかったら、すぐに帰ってた」

「‥‥ミトリが止めてくれれば、私も残っていたと思います」

「ミトリに甘え過ぎだな。お互いに」

 笑い合ってしまう。お互い、ミトリがいなければここでこうしていなかった。

 ネガイは初めての友人に、俺は―――俺は病院やここに戻ってくる時の手助け、全部ミトリの助けがあってこそだった。

「‥‥眠ろう。だいぶ涼しくなってきた」

 冷風が眠気を誘ってくる。

 ネガイも半分目が閉じていて、目蓋が重くなってきていた。

「明日はミトリと話してきます‥‥あなたの事を聞いてきますから‥‥」

 そう言って寝息を立てた。今日は初めてが二回見えた。

「初めて見た‥‥ネガイが俺よりも先に眠るなんて」




「それはヒトガタという種族にも関係しています」

 嬉しかった。この方は、ヒトガタを一つの種族として見てくれていた。

「ヒトガタのですか?」

「そうです。‥‥も!勿論!あなた個人の魅力をわかっている人間が多かったのが1番の理由です!なんと言っても、あなたは私の物、人間には決して届かない輝きに魅せられ、つい見てしまうのも人間の性です!」

 俺の心を思っての言葉なのか、それとも本心でそう思っているのか、恐らくは両者だ。

「‥‥あなたも見ていてくれましたね」

「はい、見てましたよ。嬉しいですか?」

 わかりきった事を聞いてくれる。

「嬉しいに決まってます。俺はあなたが好きなんですから‥‥感謝してます」

 仮面の方の手を握り、額につけて目を閉じる。

 今日は玉座に上がる事を許してくれなかったので、ご自分1人で降りられた。エスコートをしたかったが、それは許されなかった。

 今は仮面の方が出した椅子と机に付いて、2人で寛いでいた。

「聞いていいですか?ヒトガタと人に見られるのとは、どう関係しているんですか?」

 手を離して目を開ける。仮面の方は一呼吸置いてから口を開けられた。

「ヒトガタとは、緋色の石だからです」

 わからない。仮面の方にとっては言えばわかるという感覚なのかもしれないが、煙に巻かれた気分になる。

「知りませんか?賢者の石、哲学者の石。不老不死や死んだ者を生き返らせられる、そして新しい生命を根深せる事ができる、と言われている緋色の石です」

 色々と疑問が湧いてきた。俺とその石と、どう関係しているのか、それと、「言われている」という言い方をした事についても。

「見た事はないのですか?」

 この世界や時代を超えた蒐集家のこの方が「言われている」と言った。それはあくまでも伝説なのだろうか?

「見たかったから、人間に接触したのです。ただ‥‥いいえ、これはまたいつか。実を言うと私の目の前にいます」

 仮面の方は、困ったように笑われた。

「俺、ですか?」

「はい、あなたです。そしてヒトガタという種族が賢者の石です」

 賢者の石か、聞いた事が無い。自動記述にも無いのだからヒトガタには不用意な知識とされたのかもしれない。

「賢者の石とは錬金術師が作りあげると言われる究極が形になったような物体です。ホムンクルスと似てませんか?」

「‥‥ホムンクルスですか。ヒトガタの総称はそれでしたね」

 なぜ俺やソソギがホムンクルスを自称せず、ヒトガタと呼んでいるのか。それは明確な違いがあるからだ。

 ホムンクルスは人間の精子とハーブを混ぜて長く腐らせ何かしらの個体ができたら血を注ぐ。

 最初の肉塊もヒトガタによって違うが、ヒトガタとホムンクルスの違いは注がれる物にある。ホムンクルスの血は人間、だが、ヒトガタは人ならざる貴き者の血。

 もう一つ違うのは、ホムンクルスはあのガラスから出れない事。ヒトガタは、人間の形を持っているので自由に動ける。ただ、同じ所もある。

 例えば自動記述、これは元々ホムンクルスの機能。ただホムンクルスは生まれた時から知識を持っているらしいので、違うとも言える。

「‥‥つらいですか」

「いいえ‥‥続きを聞かせて下さい」

 考え込んでいる姿が気になってしまわれた。急いで続きを求める。

「その賢者の石は、それも宝石と言えるのですか?」

 宝石は人の目を惹きつける。起きていた時にネガイから教えられた事だった。

「はい、正真正銘の人工的な宝石です。それに人智を粋を集めたこの世界でもっとも価値がある宝石です。天然物には出せない色がありますから。緋色と言いましたよね、それはホムンクルスやヒトガタの血の事です。緋色の石とはまさしくあなた方の事です」

 賛えるかの如く、そう言って下さった。

 人工的な宝石に心や意志があったら、こんな気分なのかもしれない。

 勝手に造られて、勝手に形を整えられて、勝手に捨てられる。本当に消耗品だ。好きで宝石を持った訳ではないというのに。

「‥‥俺には、4つも宝石があったのですね」

 銀の机に腕を乗せて、机に映る自分を眺める。

 両目に心臓に血。なるほど、この方が目も心臓も、そして血も私の物と言った理由がわかった。もう俺ひとりで取り揃えられていた。

「あなたは宝石と自分を同一視して考えているようですが、それは違います」

 仮面の方の芯の通った声に顔を上げてしまう。背筋を伸ばして、目線を合わせる凛々しい姿だった。

「あなたは一度、全てを奪われた。私はあなたをここに呼び、精神を守りました―――私があなたの宝石を目当てだった事実は否定しません。でも、私があなたに言った言葉は本心です。それは今も変わりません」

「全てを奪われても、残る物がある‥‥」

「確かにあの時、あなたには宝石と呼べる物ではありませんでした。血を奪われ、心臓は止まり、目を恐れて渡した火も使いこなせずにいました。あなたには何もありませんでした」

 辛辣な言葉だ。でもそれは事実だ。実際に体験した事だ、嘘や妄想で記憶を隠せないし、埋められない。

「それでもあなたは持っていた物があります。だからここに呼びました」

「‥‥何ですか、それは‥‥」

 背筋を伸ばして仮面の方の目を見つめる。信徒が神に祈るのは救われたいからだ。それがどんな神でも変わらない。更に言えば俺を造り出し、究極の人に育ててあげようとした成育者達も変わらない。俺にもわかった気がする救われたい気分が。

「秘密です♪」

 神は何も答えない。けれど、この方は秘密という宣託をくれるのだから何よりも慈悲深い。それとも混乱をもたらす者だろうか。

「さぁ、どうぞ」

 不機嫌になったと感じ取った仮面の方が机を消して手を広げてきた。遠慮なしに腿と足に甘えてながら頭を撫でて貰う。

「眠くなってきました‥‥」

「私で眠るのですか?そんな存在‥‥ふふ、あなたが初めてです」

 頭を撫でて貰えて満足できた。あとは寝るだけ。

「心臓‥‥」

「はい、わかってますよ」

 椅子が床に消えていく所為で、俺と仮面の方は床に落ちそうになるが、すくいあげるようにベットが迫り上がってくる。

 柔らかいベルベットが2人分の身体を受け止めてくれる。

 ベットが完全に姿を現せた時、仮面の方の腰にしがみついていた。また仮面の方は足を伸ばし開き、両手両足で俺を固定している。

「はしたない格好ですね」

 格好だけ見ると仮面の方の足の付け根、股に顔を入れているようだった。

 仮面の方は俺の頭を軽く叩いて、一度離れるように指示してくる。それに従いはするが、お預けされたようで、また不機嫌となる。

「さぁ、どうぞ」

 完全にベットに寝転んだ仮面の方はもう一度、手を広げてくれる。迷う物も邪魔する物もなくなった仮面の方の胸に飛びつき、背中を撫でて貰う。

 胸の上で小休止。それがそのまま眠りに繋がっていくと勘づかれ、仮面の方は両手で俺の背中を支えて寝返りを打つ。

「これもこれではしたないですね」

「早く‥‥潰して下さい‥‥」

 眠りと理性は反比例する。我慢を留める理性が、また崩れ去っていくのを感じる。

「そうですね。‥‥私も早く触りたい」

 胸に隠れながら仮面の方の目を見た―――舌舐めずりをしている。あの時に同じ色を見たのを思い出す。心臓を食べた時の眼光だった。

「今日は殺してから食べますね。そんな目で見ないで下さい‥‥でないと、食べちゃいますよ‥‥」

 抱きしめられた背中を透過して、直接両手で背骨に触れてくる。

「苦しいですか?こんなに血が」

 仮面の方の胸の中で枝でも折られるように背骨を砕かれる―――そのまま肺も握り潰された。潰された肺に流れ込んでくる血が食道を通って、口から溢れる。

 絶頂の寸前、死の快楽に耐える為、黒いドレスを纏った仮面の方に胸に顔を沈める。美しい心音と清廉さすら感じる血の温かさの中で、死ねる。歯を立ててしまいそうになる。

「ここですね‥‥相変わらず、温かい‥‥」

 背中から浸食してくる手が、ジリジリと心臓に近づくのがわかる。

 抱き締められながら死ねる、これはこんなにも幸福だった。温かい肉を持ったアイアンメイデンを楽しめるのはこの自分だけ。

「‥‥っ」

 もう声も出ない。更に痛みが快楽となってきた。

 ドレスの胸の部分に『真っ赤』を捧げる。

 顔の一つを軽々超える質量を整えていたドレスのカップに鮮血を吐き出し、純白の肌を彩ってしまう。白の中に赤が交わったとしても決して桜色などにはならなかった。

 二つの色彩のみ構成されながら、絶対に重ならない世界がそこにあった。

「では、潰しますね」

 両手の平で器を作り上げて、かの聖人が磔にされた部位で心臓を万力のようにゆっくりと潰してくる。

「物欲しそうですね。もう少し我慢して下さい、私も遊びたいので」

 そうだ。これはネガイやマトイとやる遊び―――それなら俺ひとりで眠ってしまってはいけない。この方にも遊んで貰わないと。

「もう大分薄くなりましたね。‥‥また、お会いしましょう」

「‥‥あっ‥‥」

 最後は両手で蚊でも潰すように、叩かれた。そのまま両手を擦り合わせてくる。

「もう見えませんね?死にましたか?」

 殺した後は、いつもこうやって呼びかけているのか。もう目は見えない、だけど―――まだ俺は生きている。

「‥‥頂きます」

 今日は二回も俺で遊んでくれた。心臓を潰してくれた上に、食べてくれる。

 灯が消えつつある体をひとりベットに放置した仮面の方は、目に手を置きながら薄くなった心臓に食らいついてきた。




「朝ですよ。起きて下さい」

「おはよう‥‥今‥‥何時‥‥?」

「6時です」

 起きる時間を指定したような時刻だった。いつもこの時間に起きていた。

「朝食ができてます」

 ネガイに手を引かれて、なんとか上体を起き上げる。けれど、未だ眠りが覚め切れない。

「ネガイ‥‥抱っこして‥‥」

「こうですね―――」

 身体で抱きしめてくれた。柔らかい髪の感触が顔にかかり、つい心に魔が差した。

「‥‥起きて早々ですね。‥‥遊びますか?」

 ネガイに押し倒される。普段の始まりは違うというのに―――この新鮮さは、抗い難かった。



「朝はご飯派か?」

「半々ですね。あなたは?」

「俺は若干パンが、いやご飯も多いかな‥‥」

 ネガイが用意してくれたのは、白米に昨日買ったシャケの切り身、卵焼き、サラダ、それに味噌汁だった。豪華すぎる朝食に、肩身が狭くなる。

「早起きさせて悪い。凄く美味しいよ。次は俺が作るから」

「気にしないでいいですよ。今日のシャケや卵は私が食べたかっただけですから」

「なら、食べたい物を言っておいてくれ。満足させるから」

「ふふ。考えておきますね」

 ベットの上で10分を貪り朝食を開始した。だから顔こそ洗っていたが、まだ口の中はネガイの甘い唾液を感じていた。舐めるのが好きなのはネガイもマトイも変わらなかった。

 テレビには昨日の逮捕劇が長々と放送されている。昨日とは別のコメンテーターが目を泳がせながら冷や汗をかいていた。

「あー、こいつも名前あった。関係者で」

「信徒なのですか?」

「いいや、確かただの広告だった筈だ。ポスターとかがあったかな?まぁ、どうでもいいけど‥‥」

 作ってくれた味噌汁を飲みながら思い出すが、それ以上は出てこない。自動記述は、知識はくれても記憶を呼び覚ましてはくれないのが、不便で便利な点だった。

「忘れないでくださいね」

 ネガイがおもむろに卵焼きを取りながらそう言った。だから心配させない為にスマホを渡して、サイナからのメールを見せる。目を一瞬通しただけでふわりと微笑んだ。

「レンタルですか。抜け目が無いですね」

 軽く笑いながらスマホを返してくる。本当に抜け目が無かった。

 だけど、こうやって金で貸して貰うとなるとその時間分は楽しまないとと思う。やはり金を払って時間を買うというのは、それだけ大きな意味のある契約だった。

 更に、逆に言えば自分の愛車を貸してくれるとは、それだけ信頼してくれているという証でもあった。

 朝食が終わった所でそれぞれの制服を脱衣所から回収、寝室に持って行く。

「今日は一度バイクで帰って、その後に車を取りに戻るから、少し遅れるぞ」

「わかりました。私も今日の夜は準備したいので、部屋に帰りますね」

 感慨もなく扉を開けたままにして会話をしていた。このやり取りを、もう恥とも思わずにできてしまえる。確かにこの関係は恋人としか言えない。

 着替えが終わり時間は6時50分前、いい時間だ。最後にまた少し遊べる。

「一緒に行くのに‥‥この時間は必要ですか?」

「ネガイだって」

 ネガイも俺の首に手を回していた。むしろネガイの方から口を押し付けてくる。

「昨日の夜は出来なかったので、それを取り返したいだけです―――行きましょう」

 最後に長くして時間を合わせる。7時丁度となった。ネガイの言葉が合図となり、三度手を繋いで外に出る。早朝の光が目を焼くが、それは手を強く握る養分と成った。

「見られてる」

「気にしないでいいですよ。いつもの事です」

 寮の廊下には、まばらだが他の生徒も部屋から起床、登校を開始していた。他の男子生徒もいるが、やはりネガイは手を離さない。だから俺も続けた。

「今日は暑いなぁ」

 少しずつだが夏の気候に近付いていた。そろそろ夏服の出番だ。用意しなければ。

「‥‥バスは早く冷房をつけて欲しいです。もう私には暑いので‥‥」

「あと一か月で夏服だ。それまでの辛抱」

「‥‥夏は嫌いですけど、夏にならないと冷房を使えない‥‥やはり人間は嫌いです」

 冷房を発明したのも人間だぞ、と言いたかったがやめておいた。そんな暑い中、手を握ってくれているネガイが隣にいるのだから。

 夏に祈る事にした。ネガイの為に冷房をつけたいから早く来てくれと。



「じゃあ、また」

「はい」

 校舎に到着した時に一度別れる。別のクラスだからだ。

 ネガイのクラスは特殊だ。彼女1人しかいない。ネガイは取りたい授業を勝手に取れる。ただ、この学校で取れる授業は全て取ったから自分で勉強していた。もはやそれはただの暇つぶしだ。飛び級が高等部までしか許されないと言われたから、ネガイは高等部を卒業できる年齢までこの学校にいる。

 誰も言わなかったが、それは時間稼ぎの首輪だったのだろう。

「出来る限りオーダー街から逃がさない為か」

 階段を降り、校舎地下の階層を歩く。

 オーダーにも大学はある。ただ、そこに通うにはこのオーダー街から出る必要がある。また別の橋を渡り、別区間に行かなければならない。同じオーダー街扱いではあるが、ネガイは本当にから出る事が出来なかった。

「よっ!来たか」

「おう、て言うか、早いな。泊まったのか?」

「まぁな」

 一年の射撃場には既に整備科が来ていた。奥には襲撃科もいる。

「あいつもか?珍しい取り合わせだな」

「‥‥実は、俺達で仕事をして来たんだよ」

 荷物を降ろしてマンターゲットを起動させる。まずは20mに設定して、天井近くにあるレールから高い金属音を出させる。レールは音と共に鉄板で出来た人型の的をボーリングのピンのように呼び起こし20mまで近づいてくる。

「ほれ」

「ありがとよ」

 投げてくるイヤーマフ、耳当てを受け取り装着する。ここでの装着は必須だった。しなければ耳がおかしくなり、特に閉所での射撃はそれだけで聴覚に負担をかけてしまう。外部でも本来は必要だが、周りの音も聞かなければならない為、ショットガンや狙撃銃でなければ耳栓レベルで留めていた。

 M&Pを抜い撃ち続ける。あらかた撃つ尽くした時、結果を見る為にマンターゲットを近付ける。

「いい感じだ」

 20発撃って19発、全て腕と足に命中している。けん制目的で外した1発も頭や胸に当たっていない。

「あ、お前M66持ってるんだろう?見せてくれよ」

「え?そうなの?」

 奥から襲撃科が歩いてくる。

「あの動画で見たか?それともイサラか?まぁ、隠す必要もないからいいけどよ。ああ、これか?」

 少しだけ誇らしく見せる。人間やそれ以外にかかわらず、男の子にとってはM19の形をしたM66は羨望の的となっていた。

「渋いねぇ‥‥」

「無骨だ‥‥俺も考えるか‥‥」

 リボルバーとオートマチックなら、圧倒的に後者の方が性能は良い。装弾数や命中率という機能を重視した場合だが、それらの機能は何よりも重要視される。

 だが総じてマグナムは使う火薬が多い為、単純に当てにくい。よってデザートイーグルを始めとしたマグナムを放てる自動拳銃は反動を抑制する為に多くの部品、多くの機構が必要となった。

 だからこそ女性でも使用でき世界トップのシェア率を誇れる。

 ただ今でこそまず無いが、弾詰まりや部品の歪みに発砲時の銃身の破損、中には破裂に近い事故もあった。

 リボルバーのいい所は弾が詰まらない、頑丈で壊れない部分に行き着く。もし弾が発射しなくとも、取り敢えず引き金を引けば次々と弾を出せる。この頑丈さから警察官の標準装備、ニューナンブが長く使われている理由でもある。

 自動拳銃でも連射は出来るが、自動拳銃は次弾を次々に装填する必要がある。しかしリボルバーは撃った時にはもう次の弾を放てる状態になっている。特にこのM66は。早撃ちが出来るのも、この機構あってこその曲芸だった。

「少し撃ってみるか?」

 すぐ隣から見てくる襲撃科に渡すが、軽く見ただけで返してきた。でも名残惜しいらしく目線が離れない。

「やめとくよ。使ったら、欲しくなるから。‥‥今は少しでも溜めたい時期だから」

「車でも買うのか?」

「そんな所」

 ならば嘘だ。こんなあっさり言う訳がなかった。

「仕事があったら呼べよ。借りは返す」

 あの一件で世話になった。その上ZX14Rの準備もやってくれていたらしい。

「そんな時が来たら最後の戦いに挑む時だろうね‥‥。じゃあその時の為に撃ってみて」

 ならばと距離設定を30mに変える。最もあり得る、対人の距離を仮定する。

 この距離ならば外さない。だから片手で357マグナムを放つ。

「見てろ」

 重い引き金が中間を越えた瞬間、異様に軽くなる。シリンダーは回転させればさせる程に軽くなる―――止まらなくなる。癖になる所ではない、楽しくて留めどない。

 目視出来ない連続のマズルフラッシュを上げて、弾丸は狙い通りのコースをそれぞれ弾丸1個分遅れ螺旋状に6発、標的へと吸い込まれていく。

 小気味いい発砲音が1秒の間に2回響く。

 褒められたからだろうか、今日のM66は調子が良い。手に良く馴染む。

 357マグナムは、1934年に発表され発売された弾頭。この弾頭の登場によって拳銃のマグナム弾の時代が始まったと言われた―――「きわめて信頼できる一撃必殺の弾薬」。

 それがこの弾丸の代名詞だった。

「‥‥すごいな‥‥」

「撃ち切ったの‥‥?」

 体内時間で約2.5秒。6発という高いハンデはあるが、それを加味しても有り余るリボルバーのポテンシャルは、数十年経った現在でも現役だと俺は信じている。

「見てみろ。全部心臓だ」

 シリンダーを広げて、全て撃ち切ったと見せる―――言って不味いと思った。

 殺す為の射撃だった。マンターゲットの左胸にはリボルバーのシリンダー状に弾痕が残され、引かれていると感じ取れた。周りに人がいない事に感謝する。

「これは見なかった事にしてくれ。少し早いけど、切り上げよう」

 と言ってM66を急いでしまう。

「戻るか、そろそろ授業だ」

 荷物を持ち上げながらふたりに呼びかけた時、一拍遅れながらも返事をしてくれた。

 僅かに訝しみなふたりと自分の荷物を持って一緒に階段を登っていく。後ろを着いてくる2人は何も喋ってくれない―――不味い物を見せた。同じオーダーで付き合いがある相手が、殺しを面白そうに見せてくるのだ。つまらないだろう。

「仕事って、なんだったんだ?今日の夜からやってたのか?」

 頭の中からさっきのマンターゲットを消す為に話題を振る。

「それがよ、聞いてくれよ」

 合わせるような、やけに響かせる声だった。だから自分も答えるように間髪入れずに「どうした?」と聞く。そして朝の喧騒を真上に捉えながら聞かせてくれた。

「俺、って言うか、俺達なんだけどよ。昨日はずっと張り込みだったんだ」

「楽じゃねーか」

「それがそうでもなくてね‥‥」

 一番後ろの襲撃科も吐き出すように会話に参加してきた。珍しかった、こんな話し方は。

「ここだけの話なんだけどよ。実はかなりでかい半グレがよ、また違う不良の組織から襲撃を受けるって話があったんだ」

 ここだけの話と前置きしておいてこの声だった。張り込みに向いてないのは、相変わらずだと悟る。仕方ない、そんな言外の声を飲み込んだ襲撃科が更に続ける。

「それを止めるなり、確認するなりが仕事。僕達は半グレ、不良組織には別のオーダーが向かってね。秘匿が理由で依頼内容は詳しくは話せないけど、僕達が行った方はただの半グレって話だったんだ。しかも規模が規模だけに、暴力とか詐欺とかでかなりの被害者が出てるから割と重武装で行ってったんだけど、」

「怪我人でも出たか?」

「怪我人どころじゃなかったんだ。人身売買のオークション。僕達は見てないけど、多分臓器もね―――手持ちの装備だと火力が足りないから他のオーダーにも救援を頼んだ結果、依頼料の大半は持っていかれたよ」

 臓器売買か、日本人の臓器は高く売れる。理由は単純に綺麗だからだ。国外と比べれば遊ぶ薬が高くて種類が少ないから、そうそう行き渡らない。

「まさかあそこまで堂々としてるとは思わなかった‥‥」

「でもなんでだ?お前達は見張りだったんだろ?張り込みから、なんでそんな話になったんだ?」

 軽く振り返って、そう聞くと少しだけ覚悟を決めたように告げられる。

「事情が変わってね。不良グループを逮捕した別のオーダーから連絡が来て。どうやら不良グループの中の1人から、今日に妹が売られるって話をされたらしくて」

「張り込みから、救出に変わったのか」

「救出どころじゃなくて解体だ。まさか深夜にあそこまでドンパチするとは思わなかった。恐らくはデットコピーだったけど、サブマシンガンとかも持っててよ。結局重武装科が連隊を組んで突入よ、突入。人件費はオーダーが出してくれるらしいけど、今は完全にマイナスだ、チクショー‥‥」

「一応、オーダーが他の必要経費とかも出してくれたけど、潜入に武装の確認。あれだけ働いて経費だけって、正直もう勘弁」

 昨夜、ネガイと過ごしている間にそんな出来事とあったのかと思うと、何とはなしに悪い気がする。寒空でこそないが、汗ばむ空気の中での作戦の見返りが経費だけでは。

「昼、時間あるか?なんか食わしてやるよ」

「お、いいのか?助かるぜ」

「そうしてくれると有り難いよ。昨日の仕事頼みな部分もあったから。また稼がないと」

 一年次の授業料を自力で払った生徒は、今は誰も彼もが金欠だった。昼飯を奢られただけで、こんなに感謝される程に。

「それで、結局どうなったんだ?」

「問題無く成功。あの規模の突入だもん。まず成功するよ」

「オークションにかけられてた子達もな。すぐに病院に連れて行かれたみたいだったぜ」

 想像を絶する大捕物があったようだ。自分が最近相手にしていたのは、どちらかというと行政側だった。こういう民間の犯罪は大分疎かになっていた―――少しは仕事に復帰しなければと、焦燥感に駆られる。

「ただね」

 と、わかりやすく肩を落として気配を隠しながら声を発する。

「半グレは全員逮捕できたんだけど、オークションの主催者と買手が全員いなくて」

「足が速い連中だな。半グレから聞けなかったのか?」

「それも現場で査問学科だったりがしてくれたんだけど、どうやら雇われただけみたいで」

「‥‥半グレを?なんで、そんな信頼性が底辺な奴らをわざわざ‥‥」

「不思議だろう?金で雇うならプロを外から雇えばいいによ。それにあいつら、」

「おっと」

 整備科が、言葉を切ってしまった。

「言えない話か?」

「‥‥ごめんね」

「俺だって最近は話せない事ばっかだ。気にしてない」

 あのカエルに357マグナムを何発も死ぬ寸前までお見舞いした。

 特務課、警察庁の最上級とも言える相手が銃を持ってネガイやマトイ、俺自身を不法に逮捕。誘拐しようとした人間だとしても―――あれは過剰だったのではと、思ってしまう。

「あ、お前バイク結局変えるのか?」

 思い出したように聞いてきた。

「そうだな。そろそろ考える時期には来た。買ってまだギリギリ3ヵ月しか経って無いけど。次は長く乗ってくれる良い人に買って貰って欲しいな」

 数週間前にエンジンの分解整備までしたのだ。次の買い手側は安堵して乗れるだろう。

「良いよな。お前にはネガイさんがいて‥‥」

「うん、彼女さんの為に買い替えるなんて。それに皆んな言ってるよ、美人だって」

 普段の同級生達に戻ってしまった。そして自分は度々ネガイとの関係を突かれている所為で、ついぶっきらぼうに答えてしまう。しかし2人から返ってきた答えるは「え?」だった。

「なんだよ?」

 想像と違った返答に困惑して口を衝いた疑問を発すると、2人は未だに理解し難いと言わんばかりも表情を浮かべていた。

「いや。だってお前。いつも彼女じゃないって言ってたから‥‥」

 失念していた。この2人には確かの伝え損なっていたのを思い出す。ネガイと恋人になったから話したいなかった。

「知らなかったか?」

 地下から一年のクラスがある階層に登った所で振り返る。

「俺とネガイは、恋人になった」

 M66を褒められた時よりも、誇らしかった。そうだ。俺はあのネガイと恋人になったのだと。それを友人に教えられる。これだけで、いい朝になったと心を満たせる。

 先ほどまでの申し訳無さが消えていく。

「‥‥なんか‥‥かっこいいな、お前‥‥」

 ネガイにもいずれ言って欲しい言葉の一つだった。

「でも、もう少し周りを見た方がいいかな」

 褒められると視界が狭まるのも、人間も化け物も同じだったらしい。同じ一年達に見られながらの宣言をしてしまった。皆が皆んな、見ない振りをしながらスマホを取り出してクラスに向かっていく。自分とネガイの関係は一瞬で広まったと視認出来てしまった。

「気にすんなよ」

 僅かに我を忘れている間に登り終えた整備科が肩を叩いた。

「そうそう。他人の目なんか無視していいよ。おめでとう」

 襲撃科も肩を叩いてくれる。人間でも、こんな優しい友人がいる。それがわかって嬉し――――

「お前達が、そういう関係なのは皆んな知ってる」

「なんで知ってるんだ‥‥?」

「いつも一緒に登下校してたし、何よりも。これ。情報からのだけど」

 伝えながら襲撃科はスマホを取り出した。

 その顔は以上と同じ申し訳なさそうな顔だった。画面には俺が救護棟の坂道をバイクで駆け上がるシーンが空から撮影されている。しかも、始まりも終わりもしっかりと撮影されている―――いい腕になったと関心してしまう。

 まだ画面が揺れてこそいるが、あの数時間で数をこなしてきたのだと察した。

「悪くない腕に変わったな。情報科か。探して褒め殺してくる」

「待て待て待てッ!!落ち着けって!?」

「そうだよ!!それに今更なのは間違い無いでしょう!?」

 情報科に話を付ける為、M66を抜きながら運ぼうとした足をふたりが止めてくる。

「大丈夫、大丈夫‥‥、話してくるだけだから‥‥」

「その口調をどうにしろ!!殺す気だろうが!」

「離せッ!!」

 完全に瞳孔が開いた。自分の中に核熱でも巻き起こったようだった。

「目の敵みたいに晒しやがって!殺す!!勝手に何度も撮りやがって!しかも何でいちいち流出してる!?絶対ワザとだろうが!情報科のネットリテラシーはどうなってる!?どれだけ脆弱な頭してんだっ!?晒し者にしやがって‥‥!殺すっ!!」

「落ち着いて!殿中だから!!」

「どこが殿中だ!!ならキラ呼んでも来い!!それに俺はもう死んでる!!」

 こんな姿はまず見られないと、面白がって見にくる野次馬にM66を向けて睨みつけて屈ませる。だが本気で抵抗しているというのに、2人が腰や腹に両手で止めてくる所為で動けない。

「お前達は友達なんだろう!?なんで止める!?忠臣蔵なら一緒に行くだろが!」

「友達からの忠言は聞いとけ!呂布でさえ止まったぞ!」

「最後は死ぬだろう!なら勝手に死なせろ!!俺が呂布の友人ならお前は陳宮か!?だったらお前も死ねや!!つーか、誰が呂布だ!?あんな根無草と一緒にするな!」

 陳宮と袁紹に止められ、赤兎馬もいない中では、この呂布はどうする事も出来ずに、後ろから来た先生、曹操にうるさいと殴られた。



「朝から元気でしたね。ふふ‥‥ミトリさんも嘆いていましたよ」

 朝から不機嫌となった後も、周りが面白がって突いてくるから尚のこと不機嫌になっていた。数人を救護棟送りにした所為だ、ミトリが呆れた無表情で救護をしていた。

「情報科には正式に抗議をしてきました。謝罪文も届いたでしょう?」

 マトイが法務科の名前を使って正式に抗議の文を出した。これでも俺は法務科の一員という扱いの為、簡単に俺の顔が割れては問題だからと便宜を図ってくれた。

 確かに昼前にメールで情報科の科の責任者である学科長から正式なアドレスで謝罪文が届いていた。

「これのどこが謝罪文だ。オーダーなんだから我慢しろって書いてあるだろう」

 冷たい腿に頬を付けながらスマホを渡し、見たくないと顔を制服に埋める。

「この度は当科によって、貴殿への無断な撮影及び当該映像の流出の事実を受け、社会通念上のオーダーの役割を大きく超えた情報収集を行った事を、ここに正式に謝罪をさせて頂きます。メールも信頼されるようになりましたね。手間が省けて合理的配慮がなされてます」

 涼しい顔でいるマトイの膝の上で転がって抗議の運動を起こす。涼しい顔のままのマトイは抗議を受けて目に手を置いてくれた。

「最後まで読んでくれ。ただ、オーダーである以上、オーダーの活動には透明性が必要だから撮影自体の行為はこちら側としては問題と受け取ってませんってあるだろう‥‥。完全なる盗撮を是認してる。どうにかしてくれ。もう人間の楽しみにされるのは嫌だ」

「‥‥そうですね」

 目蓋に置かれていた手を動かして前髪を撫でてくれた。

「私も、オーダーであるのなら透明性確保の為に撮影は必要だと思ってしまいます。これもあなたが生き続ける為、だから我慢して‥‥私の為にも‥‥」

 ネガイよりも手慣れたウィスパーボイスだった。耳元から離れているのに吐息すら感じ、すぐ隣から聴こえている気分になる。

「‥‥マトイがそう言うなら‥‥理解はした。だけど納得はしていない」

 人からすれば反抗期に見えるかもしれないが、俺にとっては人間嫌いの根源に当たる。

 化け物が生まれた理由がここにある。

「なんで俺で皆んな遊ぶんだ?」

 ネガイもマトイも、人間は皆んな俺で遊び飽きたら捨てる。捨てられた側の事なんか何も考えない。ひとり捨てられた動物や機械達の叫びなど気に求めない。すぐに忘れる。

「人間の好奇心は際限がありません。人間は、美しい物を見たら自分の物にしたがります。私もそうです‥‥」

「‥‥面白いのか‥‥」

「あなたも私やネガイによく甘えるでしょう。同じと思って貰えませんか?」

 思い当たる節があった為、声が出なかった。自分の欲望に赴くままに2人を求める感情は―――確かに同じかもしれない。

「ありがとう、理解してくれて‥‥」

 少しだけ人間が理解できた。やはり人間と関わるには危険が伴うから気をつけると決めた。

「‥‥悪い、もう一度教えて貰えないか?血の聖女について」

 サイナが運転する車の中、マトイに甘えていた。外の街へと赴く道中だった。

「はい、ではおさらいしますね」

 これ以上、目に手を置かれたら寝てしまうから宥めるような手付きで前髪を整えられる。

「まず血の聖女とは、最近流行っているドラッグの一つ。注射器型で、直接自分の血管に打ち込む仕様です」

 危険だ。同じ注射器を何度も使っているのなら感染症の危険性や血管が傷ついて蓋ができてしまう場合がある。

「血の聖女の特性なのか、それとも特別感を出して雰囲気を作っているのか、静脈に打つ為に使用者は点滴に近い機器をつけているそうです」

「‥‥ある程度は医療を知ってるのか」

「恐らくは」

 人間らしい。もし医者と呼ばれる人間が、それを行なっているのなら自分の立場を使った犯罪だ。オーダーが逮捕したら、あのカエルや昨日逮捕されたコメンテーターと同じ末路を辿るだろう。

「警察側はなんて発表してるんだ?」

「中毒性こそあるそうですが、身体を調べてもなんともないと。だから麻取も警察も手を出せません―――同様にオーダーも」

 注射器の後はあるが、身体に何も残って無い。それはやり難い。

 麻薬関係の逮捕は現行犯か使用直後が最大のチャンスにして唯一の隙。なぜならばまだ尿や髪に伝わる前だからだ。直後ならばに血液か尿検査をすれば嫌でも結果が出る。

 けれど血の聖女とやらは何も残らない。中毒性があるとは言え。

「自傷行為では警察もオーダーも逮捕できません。唆されたという証拠もありませんから」

「自傷行為では逮捕はできないか。どんな層に流行ってるんだ?」

「家が無い、もしくは家出をした若い人達ですね。特に女性、少女達の間で」

「‥‥本当に、自傷行為だ」

 単純に統計だとという行為は男性の方が圧倒的に多いが、未成年と限ると女性の方が多い。家出少女とか言う造語があるのもこれが理由だ。家出や失踪の原因は家庭関係の問題が多い一方で、最近は疾病がトップの理由になっている。認知症や精神病、数多くあるがやはり若い人達の失踪は家庭環境が多い。

 家庭の問題で精神を病んでしまった結果の家出という家庭問題の延長にある理由が多いと言われている。

「流行っている場所は限られていると言えます。強いて言えば、身寄りの無い若い人が安全に集まれる場所とも言えますね」

「身寄りがなくて安全にか。向かってる場所で俺は何をすれば良い?」

 授業終わりに、マトイから呼び出されたのはサイナのモーターホームだった。

「血の聖女の出所を探って制圧。得意分野ですね?」

「ああ‥‥得意‥‥」

「その辺にしておいては?寝てしまいますよ」

 サイナからタオルが投げ込まれる。俺自身、そろそろ限界だと思ってマトイから起き上がる。

「出所を探るってのは、出所を探すのか?それとも場所はもうわかってるから証拠を握れって事か?」

「精製工場近くであろう場所はもう目処が立ってます。これから近辺に向かいます」

「確証を得て来いって事か。わかった、やろう」

「はい、お願いします」

 マトイからの微笑みという前金を受け取り、ソファーから立ち上がって助手席に向かう。

「サイナ、今どこに向かってる」

「まずは外堀から埋めます。工場近くと思われる最近出来たクラブです♪」

 違和感がある。確かに若い人が集まる場所だろうが、クラブには年齢制限があるから集まるのは若い大人だ。どんな目的で来ているか、一概には言えないが総じて『安全』とは縁遠いイメージ持たさせてくる。

「クラブって、そんなに詳しくないけど逆に危険なんじゃないか?」

「いいお客様ですから。丁重にもてなされるそうですよ」

 マトイが疑問に答えてくれた。簡単な話だった。

「着替えは?」

 クラブには年齢制限がある。法務科が何かしらの手を使って中に入れるように便宜や工作をしているのだろうが、目に見えての未成年である制服では潜入に制限がかかる。端的に言えば舐められる、それを避ける為には服装という変装が必要だった。

 もう一つ、クラブには制限というよりもルールに近い物がある。ドレスコードだ。

「奥にありますから、着替えて下さい」

 振り返ると、車の奥に普段は見かけないアタッシュケースが床に固定されていた。

「因みに♪あれは私の趣味で~す」

「期待できる」

 自動的にカーテンが閉まっていく車内で、制服を脱ぎながらアタッシュケースを掴み取る。

「結構派手だ」

 中を確認すると、紺色のスーツが出てきた。

 スマートコーデと言うのだろうか、カジュアルなスーツだ。白いシャツに紺のスーツと革靴。一見すると堅苦しい正装に見えるが、大人っぽく見せる為の服装だった。ただ、これは冬場の服装に近いので少し浮くかもしれない。

「しっかりと肌着も着替えて下さいね♪」

 用意された物はスーツだけではなく、肌着も準備されていた。

 ネガイは何度も見られているのだから、恐らくはマトイも見ているのだろう。そう思案してマトイが見ている前で着替えを始める。

 既にミトリにも散々見せているので、もうそういった恥は消えかけていた。

「俺ひとりか?」

「いいえ、現場に協力者がいます。オーダーの1人ですから、信用していいですよ」

「オーダーの1人か。それは気の置けない相手になりそう」

「ふふ、信用できる方ですよ」

 用意されている服には下着もあった、だから一度完全に全裸となる。隠す物が完全に消えたところでマトイが恍惚の表情で舌舐めずりをしながら「いいですね‥‥」と捕食者の言葉を使う。

「もう見たんだろう?」

 着替えながら、マトイから向けられる視線を正面から迎える。

「でもあれはあなたの意識が無い時でしたから。こうやって目の前で脱がれると‥‥ドキドキします‥‥」

 今の顔は危なかった。危うくこのまま舌なめずりをするマトイを押し倒す所だった。視線を背中にして、取り敢えずは着替え終わる。腕時計や財布を内ポケットに仕込み、見えない様に拳銃類を腰や背中に仕込む。

 やはりこれはオーダー製の服らしい。防弾性で、腰や背中、それと腕にも銃や刀剣を仕込むベルトや穴が開いている。

「ネクタイは‥‥無いのか」

「カジュアルな場面ですから。欲しかったですか?」

「結んで欲しかった‥‥」

「ここでも甘えん坊ですか‥‥」

 サイナが呆れるように言ってくる。

「帰ってきたらしてあげますから。もうそろそろ着きますよ」

 カーテンを開けて、外を見るともう空が明かりを落とし始めていた。意外と長く乗っていただけではなく、長くマトイと遊び過ぎていたようだ。

「弾薬はあるか?」

「はい、いつもの鞄に♪毎度ありがとうございま~す」

 金になると聞いて、急に元気になった。

 床から机を呼び出して、別のアタッシュケースを上に乗せる。

 中にはM&Pの40S&W弾や357マグナムが用意してあった。スーツへと重さや動きやすさを確認しながら入れられるだけ入れる。ある程度、重量があった方が俺としては楽なので、これでバランスを取る。

「どうだサイナ、マトイ。それらしい?」

「はい、とても素敵です」

「いいです‥‥」

 2人とも認めてくれた。上手く化けられたようだ。

 目的のクラブから1番近いホテルの地下に着いた為、周りが一気に暗くなる。

 やはりモーターホームの使い方はこうである。移動して隠れられる拠点があるのは、精神的にも良い。

「協力者は法務科か?」

「違いますが、いい腕です。私が保証します」

 珍しく太鼓判を押してくる。俺以外にも法務科に誘っている奴がいたようだ。

「合流場所は、目的のクラブ近くです。場所を送っておきますから確認して下さい」

 送られてきたマップをスマホで確認すると、少し歩くが10分程度だ。目的地は中規模のクラブで、一般にも開放されホームページでは季節によって何かしらのイベントをやっていた。今は初夏の天体観測イベントとやらでクラブの天井にプラネタリウムを使って星空を映しているらしい。

「ここでは聞き込みをして下さい。血の聖女は精製場所から近場でないと効果が無いそうです」

「まるで本当の血か。鮮度が無いと効果が薄いのか?」

「話によればそうだと。けれど確証を得る事が出来ていないのが現状なので、詳しくは現地で聞いて下さい。それとできればサンプルを取ってくるのも、お願いします」

 マトイからの最終確認を受けてスーツの襟を直して答える。

「緊急時の連絡はわかってるな?」

「は~い♪」

 気の抜ける声で返事をしてきた。

「気合いが入る‥‥じゃ、行ってくる。後で」

 モーターホームの扉から降りた所でスマホを確認する。

「忘れ物で~す」

「あ、悪い‥‥」

 反射的に答えたが、忘れ物とは何だろうか。サイナが運転席から降りてくるが手には何も持ってない。

「サイナ、」

「忘れ物で~す♪」

 急に口を押し付けてきた。意識が戻った時、自然とサイナの背中に腕を回して胸を潰すつもりで口を求める。

 熱いサイナの口で頭が溶けた。マトイがすぐ近くにいるのも忘れた。腰を持ち上げて口に甘え続ける。モーターホームにサイナを押し付けて、逃げ場を奪ったというのに寧ろサイナは俺を飲み込むように両手で頭を受け入れてくる。

「‥‥行ってくる」

 いい時間になった。目が染まったのがわかる。

「はい♪帰ってきたら、続けますよ‥‥」

 耳が震える。一番ウィスパーボイスが上手かったのはサイナだった。




「来た?」

 スマホで言われた通りの場所に行くと、肩を見せるトップス姿の遊んでそうな女子がいた。

「‥‥その服」

 つまらなそうに俺の服装を下から上へと眺めていく。

「堅苦しいね。それ趣味?」

「そんな所だ」

 見た事がない顔だ。野良猫と言えば聞こえはいいだろうが、どこか服装と雰囲気がちぐはぐだ。遊んでそうな服なのに、1人を好みそうな冷たい雰囲気を持っている。それに顔もソソギとはまた違う鋭い顔付きだった。

「‥‥まぁ、いいや。こっち」

 自然な動作で腕を組まれ路地裏に引き込まれる。

 決して治安が良いとは言えない通りの夜だった。これが日本なのかと思うようなネオンの数々が目立っている。行った事はないが、クーロン城があった頃の香港に近い気もする。それでもやはり日本だ。ゴミが落ちてはいるが、道は整備され建物を紹介する看板やネオンにも均一性や守っている法則とルールがある。規則正しいネオンの煌びやかさは初めてだが、遊びたい若い人に好まれるのもわかる。

 見ていて楽しいと感じるのかもしれない。この街の一員になれると思うと、意外と悪い気分ではないのかもしれない。

「仕事はわかってる?」

「件の血の出所の調査。その為にクラブで聞き込み。若い少女って聞いたが、年齢は18歳以上もいるのか?」

「話が早いね。マトイが推して来たのもわかるかも。そう18歳以上もいる、でも多いのはもっと低い。私達と変わらない」

 目の前のオーダーというよりもマトイを信用しているようだ。

「最初はどうする?」

 無表情だが、視線を向けたままでそんな事を聞いて来た。試されている。

「‥‥まずは街を軽くみたい。まだクラブが開店する時間じゃないだろうし、俺達と同い年の人間を確認しよう―――街のある程度の構造や年齢層を見てみたい」

「‥‥じゃあ、そうしよ」

 まずまずの答えだったらしい。すんなりと同意してくれた。

 腕を組まれながら歩くのは、なかなか慣れない。それにこの子がかなり可愛いくて、周りの目を気にしてしまう。

「歩き慣れてるみたいだ。こういうのが得意なのか?」

 先程から全くと言っていいほど、街から浮いていない彼女に聞いてみる。

「‥‥だったら何?」

「頼もしいよ」

 本心だった。ここまでの夜の街を殆ど歩いた事が無かった。中等部での校外実習も、こういう所は歩かなかった。

「‥‥あんたも、歩き慣れてるね。夜は得意?」

「‥‥最近は夜でしか撃ってなかったから、夜に慣れてきたかも」

 目的のクラブ周辺を一周しながら近場の人間を見ていく。

 同じ街でも一歩違う通りを歩けば全く違う人種がいる。金持ちの良いスーツを来た大人、遊んでそうな大学生、遊びに誘われるのを持っている若い女性、リヤカーを引いている浮浪者、そして俺達と同じぐらいの若い少女達。

 金曜日の夜は多くの人間がここに集まっていた。

「いるな‥‥」

 視線を向けずに確認を取る。

「‥‥でも、目的の子達じゃない。あの子達は、家がある。髪と服、それに持ち物を見ればわかる。‥‥良い生活してる‥‥」

「‥‥ああ、そういう事か」

 言われてみれば、その通りだった。

 髪や艶やかで、首や指には宝石と思わしきアクセサリー、更に服は新品らしく生地がネオンの光を反射させている。

 しばらく歩いたが、目的の子達である家出をしてきた少女達はいない。もう一度路地裏に行き、作戦会議とマトイに経過の報告メールを送る。

「まだ早い時間だったか?」

「‥‥そうかも」

「なら、少し時間を潰すか」

 休める場所は無いかと、周りを見渡していると。

「目的の場所近くに休めそうな場所があったから。ついてきて」

 見た目と違って素直な子だった。提案にしっかり耳を傾けて人が少ない喫茶店に入り時間を潰すという運びとなった。

 喫茶店は驚くほど静かだ。木目調の壁や机、飴色になった年季の入ったソファーに芳醇な香りのコーヒーが静寂を作り出している。

 客も遊んでそうな様子ではない。むしろ作家や文豪が集まっている様子すらある。

「悪くない雰囲気だ‥‥」

「そういう客がいるから、ここが成り立ってるの」

 この意味を測る前に窓側の机に案内される。手馴れた様子だ、コーヒーを注文して自然な流れで机に肘をついた。

「で、どうだった?この街は」

「‥‥沢山、人がいるみたいだ」

「‥‥つまんない答えね」

 ため息をして窓に視線を移した。会った時からそうだ、全てがつまらなそうな顔をしている。

「どのくらいの時間になれば、もっと人が集まる?」

「さぁ?それはここで確認すればいいんじゃない?」

 気怠げに見えるが、決してそれだけではないというのが窓の外へ投げる視線でわかった。集団や店先から出てくる人間を目ざとく見つめている。

 マトイが指定した理由がわかった。必要な事以外をしない為に、細心の注意を払えている。組んでいるオーダーとして、頼もしい事この上ない。

 しばらく無言で外を眺めていると、外の人通りが多くなってきた。周りの店やクラブも活気が生まれ、警備員や店員が並んでいる人の整理を始める。この時間からが始まりらしく若い女性の声や客引きの声が響き始めた。

「‥‥行くか?」

「まだ、もう少し待って」

 郷に入っては郷に従え。この街には詳しいらしいこの子に従った方が良いと判断して、届けられたコーヒーで舌を潤すに留める。

「ねぇ、なんで?何で、そんなに言う事聞いてくれるの?」

 視線は窓の向こうのままで、そんなどうでもいい事を聞いてくる。

「この街には慣れてるんだろう?だったら指示を聞いて待つ、それだけだ」

 じっとしっぱなしで肩が凝ってきた。首を回しながら欠伸を噛み殺す。

「眠い?」

「‥‥少し」

「帰る場所があるんだ‥‥」

 まだ名前も聞いていない彼女が呟いてくる。

 俺には帰る場所がある。そう思うと、安心できた。待っている人がいる、約束をした人がいてくれる。ネガイや皆んながいてくれる。約束を思い出すと眠気が飛んで行く、明日はネガイとデートだ。

 明日の時間までに終わらせなければと自然と活力が湧いてくる。

「そっちはどうだ?」

「‥‥私は眠くない。この時間なら、いつも歩いてた」

「帰る場所はあるのか?」

「‥‥今はね」

 少しだけ返事に丸みを帯びてきた。パートナーとの信頼を深める為にも、少し話す事にした。

「どこの科なんだ?」

「情報科潜入学科」

「すごい。初めて会った‥‥」

 カレンのような特別捜査学科とはまた違い、本当のスパイを育成する学科の名前だった。映画や小説のスパイはあまりにも派手な場面が多いが、潜入学科の生徒は影も残さないと言われるほどに――――実体が無い学科だった。

 都市伝説の一つに数えられるぐらい表には出てこない。そもそも、そこへの入学方法も秘密という徹底振りでも有名。名前だけの学科とも言われている。

「‥‥あっそう。私達も、いつも学校を歩いてるんだけど。廊下ですれ違った事もあったし、朝の騒ぎも見てたから」

「つまんない所見てるな‥‥お前達が原因だ」

「は?何で」

 今の発言は納得出来ないのか、不満気な顔でこっちを向いてしまった。だから今度はこちらが窓を向く。

「お前達が勝手に撮影したからだろう。ほら、見ろ」

 送られてきた謝罪文を見せる為に、スマホをスクロールさせて画面を見せつける。

「‥‥これ、本物なの?」

「法務科からの正式な抗議文の返答だ。それが偽物なら情報科は近く解体される」

 皮肉が聞こえないようぐらいに、信じられないのかしばらく見続けている。

「‥‥そろそろ行こっか」

「ん、ああ‥‥」

 立ち上がりながらスマホを返し、その後は目も合わせずに席から離れていく。

 解体って言ったのが不味かったのかもしれない。不機嫌ではないが、どこか怒った様子だった。



「いいのか?入らなくて」

「中に入れるのは身分証を持った人だけだから、いるとしたらこの辺」

 元の無表情に戻ってしまった。あの不満気な顔よりは幾分も有り難いが、幾度も変わる性格に、どう接するべきかわからなくなる。

 クラブには入らず、クラブの近くの路地裏に来ていた。つまりは最初に連れ込まれた場所だった。

「聞いていいか?」

「何?」

 スマホをいじりながら応えた彼女は、この街そのもののようだった。

 スマホに照られる姿はネオンの街頭、ちぐはぐな服装は多くの人種。つまらなそうな顔は享楽を求めてこの街に来る若者。

 わかってきた。彼女がこの街にここまで違和感なく溶け込めている理由を。

「名前、聞いていいか?」

「‥‥何で」

「不便だろう」

 こうやって生きてきたのだろう。街に相応しい格好をして、街が求めている行動をして街に溶ける。目立つ事を嫌う潜入学科とは折り合いが良かった。

 この子も、家出をしてきたのかもしれない。

「‥‥イノリ」

「じゃあ、イノリ。質問がある」

 スマホをいじるのをやめて、こちらを見てくれた。

「ここでこうしている理由は?」

「‥‥あのクラブは大人が同伴していれば未成年でも入れる。名前が違っても」

「‥‥なら、こうしてる理由は家族じゃない未成年と大人を待ってるのか?」

「それもあるし、開店してまだ時間が浅いからもう少し待ってんの。血の聖女は街の売人じゃ売れない。すぐに劣化しちゃうから。だから、使うならすぐに使わないとダメ」

 血の聖女は身体を調べても何も出てこないとマトイが言っていた。残るのは注射器の跡だけだと。

「証拠と現物を掴むなら、やる前か」

「‥‥わかった?だからあんたも見てて」

「了解」

 習うようにスマホをいじりながら、クラブの前を見続ける。俺達と同い年ぐらいの子が入るまで―――わかってきた。俺も街に溶けてきた。不思議じゃない、俺もしばらく1人で歩き回っていたのだから。

 自分の居場所を探して。

「血の聖女は、女性にしか効かないのか?」

「‥‥男性にも効くけど、意味が無い」

「意味?」

「中毒性が起こるのは男性女性問わないけど、女性にしか現れない効果があるの」

 重みを持たせない素っ気ない口ぶりだった。あまりいい意味では無いのだろう。

「それは?」

「血の聖女は、待って―――来た」

 イノリが腕を引いて、組んでくる。

 こちらも確認した。俺達と同い年ぐらいの子が若い男性と一緒にクラブの列に並び、その後ろにも続々と並び始め、流れ込むように店に入っていく。

「どうやる?」

「入り方はわかってる。こっちに来て」

 正面から行くようなマネはしない。いくらをしていても、お互い顔はどう見ても未成年だ。視線を躱すように顔を逸らして腕を組みながら目的のクラブの裏に向かう。

「‥‥聞いていいか?」

「なんで、このクラブかって?このクラブは、未成年でも入れるって謳ってる店なの。だから居場所が無い若い女の子達は、皆んなここに来るの」

「皆んな?幾らか取られないのか?」

「知らないようだから教えてあげる。クラブは女性無料の所は珍しくないの、むしろドリンク券とか配って人を呼び込んだりして若い子目当ての男達に金を払わせる、よくある店のやり方」

「‥‥入った事があるのか?」

 そんな質問にため息をされた。

「‥‥不安になってきた。‥‥最初はいい感じだったのに‥‥私の言うことを聞いて。必要な事があったら指示するから」

 怒られたようだ。

 こういう呆れられるような冷たい怒り方は、捨てられる時にされたと思い出した。

 イノリに腕を引っ張られ、店の路地裏へと引きずり込まれる。こんな所があるとは思わなかった、だが路地裏には関係者出入口と、名付けが備えられていた。

「失礼。何方かとお知り合いですか?」

 当然のように店員が止めにくるが、圧迫感が無い柔らかい対応だ。知り合いがいれば入れると暗に示している。

「この人に聞いて」

 そう言って俺を視線で差してくる。

「‥‥スマホを出して」

 なんの事かわからない中、耳元で囁かれて呆然としてしまった。そんな俺にイノリは組んでいる腕の肘で脇を刺してくる。

「あの?」

「この人はDJの見習いです。メールに入場券も送られてます、これです」

 言いながら俺の胸ポケットに手を入れて、スマホを出して操作し、未だに悦から出れない俺に代わってスマホ画面を店員に見せてくれる。覗き込むような姿勢を取った店員は数瞬後、「失礼しました。あなたは‥‥どうぞこちらへ」と背中を向けて迎えてくれる。そこで。

「ほら」

 やっと我に帰れ一歩前に出て、イノリを引っ張るように店員の後ろを着いていく。

 通されたのは関係者の個室らしい部屋だった。ガラスのテーブルに黒いソファー、衣装を入れるクローゼットにグラスを入れるガラスの棚。この店のコンセプトらしく壁や天井は黒一色で、青や赤、色とりどりの星や月がまばらに散っている。

「どうぞ、ごゆっくり。お飲み物はどうされますか?」

「大丈夫です。時間になったら自分で行きます」

 イノリは敬語だが、気怠げでめんどくさそうに答える。端的に言うと少し無礼な感じだが、ここに遊びにくる人からすればこれが普通なのかもしれない。店員はそれを聞いて頭を下げて部屋から出て行った。

「大丈夫なのか?」

「何が?」

 イノリは店員が出て行って早々に、持っていたバック共々ソファーに身を投げる。

「ターンテーブルなんか触れないぞ」

「‥‥そんな物あんたに期待して無い――――メールは気にしないで。さっき見せてもらった時に少し小細工しただけだから‥‥」

「細工?」

「気にしないでって言ったでしょう‥‥面倒くさい‥‥」

 人がいるというのに、短めのスカートでも気にせず寝転がったままで肘掛けに置いた足を組んだ。

「ここは新人育成とか言って、DJ見習いは予約さえすれば誰でも入れるの。それなりの扱いをされて」

 目蓋に腕を乗せて髪も広げたままにしている。

「‥‥座れば?いつまで見てるの」

 腕を目蓋に置いたままで、向かいのソファーを指差す。

 イノリの姿に見惚れていたとその時気付いた。シズク以上に気怠げで、声に抑揚が無くて、それなのに身体は綺麗なS字。細い腰に広がった下半身に芸術的な美を感じさせ、決して骨張ってない上半身からは本能的な欲を感じさせる。

 モデル体型とはこういう物の事を言うのだとわかった。

「あんたも変わらないね。そんなに私が欲しい?」

 言いながら肩を出したトップスを広げて黒い下着を見せてくる。少しだけ開かれた目蓋から流し目を見せながら。

 けれど、その言葉は俺に聞いてるんじゃない気がした。自分で自身を嘆いているようだった。

「‥‥悪い」

「‥‥つまんない」

 向かいのソファーに座り、天井を見上げる。

「やっぱり、慣れてる」

「これの事言ってる?」

 服を直しながら、苛立った様子で聞いてきた。

「皆んなそう。遊んでるんだろうって、オーダーの仕事で付き合ってるだけなのに‥‥」

 背中を向けてきた。作ったような茶髪から見えるうなじが艶かしい。

「オーダーは嫌いか?」

「別に。あんたは違うんでしょう」

 本当ならここでこうしてる時間は無い。今すぐにでも血の聖女を現物を押さえに行かないとならないのに、動く様子はなかった。

「時間はいいのか?」

「始まるまで、もう少し時間があるから」

「そうか‥‥。言っとく、俺もオーダーが嫌いだ」

 鼻で笑ってきた。

「あんな楽しそうなのに?毎朝毎晩綺麗な彼女さんといて。知ってるよ、マトイともそういう関係なんでしょう?」

「関係無いだろう」

「関係あるね。2人以外のそれぞれの科にも女の子がいて。毎日楽しそうじゃん、面白い友達もいてさ」

 貶しているのイノリ自身なのに、彼女の言葉は彼女自身の首を徐々に締めていく。苦しい気に息を詰まらせるイノリは息をしていない。声が途中から掠れて、空気が喉を掠める音しか聞こえてこない。

 それに、顔を見せてくれない。

「もういい、よせ」

「なんで?事実でしょう。いいよね、帰る場所がある人は、私には無かったのに」

「オーダーになるしか無かった人間は幾らでもいる。帰る場所が無いのは俺も同じだ」

「慰めのつもり?」

 ミトリが言っていた。俺は自分が傷だらけなのに、気づいていないと。イノリは気づいていたのか、傷ついていく自分に。見苦しいのはどちらだろうか。苦しいのは間違いなくイノリの方だ。だけど、俺はミトリを苦しめていた。俺の方が厄介だった。

 周りの人間を惹き寄せてしまうのに、知らないと言い訳をして大切な人を傷つけていく。

「学科を変えればいいだろう。そんなに苦しいなら‥‥逃げればいいだろう」

「何も知らない癖に!」

 バックを投げつけてきた。俺はそれを、受ける事にした。避けるよりも受けた方が使う体力が少なくていいと判断したから。

「本当にマトイが推薦してきたの?今のも避けれないのに」

 投げる時にバックから抜いた手が握っていたのはスプリングフィールドアーモリー XD-S、3.3インチバレルを装備したコンパクトピストル。女性向けで隠し持てて、信頼性がある名銃だった。

「私は!この学科をやめたら居場所が無いの!だから失敗はできないのに、わざわざ送ってきたのがあんた?」

「‥‥向けるな」

 血が目に上ってきた。死ぬような状況になると、自然と目が開いていく。あの方に殺される時のような快感を感じてくる。

 いい目だ。俺を殺してくれるのか?血を流させてくれるのか?この目に銃を向けたのだ―――貰わないければならない。

「怖い?」

 ソソギに向けられた時より恐怖は感じない。むしろ、この冷たい殺気は心地いい。

 動物的な殺気だ。理性を忘れて、ただの気の迷いで銃を突きつける。理性的な殺しの方が少ないのに、こんな目を忘れていた。

「怖いんだ。あの映像では、あんたはあんなに凄かったのにね」

 自嘲気味な半笑いを向けてくる。期待してたのかもしれない。申し訳ないと思わなくもない。人間は嫌いだが、期待してくれるのならそれには応えたい。マトイは俺を信じて送ってくれた。サイナもだ。あのふたりは服も用意してくれた。

「マトイも腕が落ちたね。自分の男だからって、信用してさ、入院して、よわ」

「もうよせ、殺す」

 俺は、事実としてあの時よりも弱くなった。それはどうでもいい。

 だけど、マトイの弱くなったは聞き逃せない。

 あの人は、俺の為に自分の血肉を差し出してくれた。時間も傷もくれた。そんな大切な人を貶されて冷静になっていられなかった。

「教えておく。俺は人間じゃない。だけど俺はオーダーだから殺しはできない。それに俺はお前を殺したくない。いいか?静かに謝れ―――傷付けたくない」

 テーブルを踏み越えて腕に仕込んでいた杭で銃口を塞ぎ、背中に差していた脇差しをイノリの目に突きつける。

 突きつけていない方の右目を覗き込み、目の奥の血管も見通す。まだ呼吸を忘れている所為で息が顔にかかってこない。

 冷静に殺せる。あまりにも許せないと、こうなるらしい。でもこの感情は嫌いだ。

 もっと、血を感じたいのに。

「イノリの目は好きだ。だから殺させないでくれ‥‥」

 音など出さない。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。一息で殺せる。このまま目を刺せば、脳幹を確実に貫ける。

「‥‥あっ‥‥」

「なんだ?」

「ご、ごめんなさい‥‥」

「怯えた表情にも似合う目は貴重だ。誇ってくれ―――大体の人間は怯えると見るに耐えないけど、イノリは違うぞ。俺が保証する」

 ガラスのテーブルからゆっくり一歩降りて、元のソファーに戻る。

「ほら、戻しとけ」

 バックを投げ返して銃を戻せと指示する。

「ごめんなさい‥‥言い過ぎた」

「もういいって。謝ってくれただろう?それより、時間は?」

「あ、うん。そろそろ‥‥」

 との事なので、ソファーから立ち上がる。もう一度腕を組んで扉に向かっていく。

 流石は潜入学科だ。だいぶ驚かせたと思ってしまったのに、そこまで震えていない。さっき刺してきた肘もしっかりと下へと向けていた。

「あの‥‥聞いていい?」

 未だに怯えているイノリは、目を合わせずに聞いてくる。

「ん?どうした?」

「‥‥本気だった?」

「つまんない事を聞くな―――本気だった。当然だろう?」

 控え室から出ると、廊下に立っていた店員が何処へ案内してくれる。

「俺は、どんな扱いになってるんだ?」

 特別説明されてここに入った訳ではない為、どう振る舞えばいいのか、全くわからない。イノリに小声でそう聞くと、耳元で答えてくれる。

「DJ見習い。ここは私の知り合いって事になってる人が何度かDJとして出入りしてるから、私達は友人枠としても入れるの」

「友人枠?」

「クラブにはそういう枠があるの。それだけ覚えといて」

 そもそもDJという職業がなんなのかわからない俺では、演じる事はほぼ不可能だ。

「イノリについて行けばいいのか?」

「それでいいよ。変にそういうフリしないで、勉強にしに来たって体でいいから‥‥」

 何も知らなくていいとは、それはそれで楽だ。

 本来は受付で身分証を出すらしいが、特別な枠での出入りだから特に何も無く、ドリンクのサービス券も貰えた。無料でもらえたが、外の看板には男性は10000円、女性は無料。しかも女性は3ドリンク無料券までくれる、とあった。

 男性を排除したがっているように見えたが、俺が知らないだけで、それぐらい普通なのかもしれない。

「‥‥踊る?」

「いや、踊った事ないから。それに今日中に終わらせたい」

「‥‥そうね」

 廊下の中ですらかなり広い。これで中規模なのかと疑ってしまう。

 階段を降りまた廊下を歩く。廊下にはしっかりと火災報知器や消火器が設置してある。

「どうぞこちらです。この券で机を用意しておりますので」

「はい、ありがとう。じゃ、入ろう」

 券というよりもナンバープレートみたいな札を奪うように受け取り、案内された両開きの扉から中に入る。

 扉の向こうは大音量でDJと縮めて呼ばれるディスクジョッキーが曲を選び、ターンテーブルを使い次々と新しい曲を鳴らしている。

 内装は顔が映るような黒一色で、どこまでも広い空間のようにも感じた。鏡合わせに近いのかもしれない。だが、構造自体は狭めの普通の体育館とそれほど変わらないのかもしれない。部屋の奥には高い舞台があり、その上にDJがターンテーブルを操作して、何かを叫んでいるが、俺にはわからない。どこか遠くの民族間の歌のようだ。そんな様子が、殊更体育館のように見えた。

 部屋の中心にはもう酔っているのか、若い男女がよくわからない踊りをしている。部屋の隅には机やテーブル、扉側の両端にはバーがそれぞれ二つ設置してある。イノリが注文した物と同じ物を注文して、ナンバープレートに書いてあるカーテンに閉ざされた隅にある2人分の机と椅子から周りを見渡す。

「‥‥結構いる。これは普通なのか?」

「はぁ‥‥本当に知らないんだ‥‥。金曜日の夜なら、これぐらいは普通。開けてる時間が、早過ぎるけど――――もうそうでもないか‥‥」

 呆れた顔で見てくる。やはり手慣れた様子で運ばれてきたドリンクを飲んでいる。どうやらここでは未成年という枠は存在しないらしい。

 イノリが飲んでいるのはカクテル、リキュール系のスプモーニ。ここでは一番アルコールが薄いのに、何故か俺は一口も飲めない。嗅いだだけで、頭がクラクラする。

「あんまりキョロキョロしないで、田舎者って思われる。‥‥舐められるって事」

 場違いな所に来てしまった。周りの人間達は酒と音と強い光に酔って前後不覚になるまで踊っている。これがここでの作法なのか?カラーライトが舞台と天井から踊っている人に向けられ、更に光を求めるように部屋中央に人が集まる。

 だが、思ったよりも露出の少ない服で踊っていた。意外と周りや店への配慮を持っているのかもしれない。

「‥‥かなりいるけど、誰も止めないんだな」

「そうね‥‥」

 年齢層がかなり若い。無論、成人も多くいるが俺達とそんなに変わらない年齢も多い、特に女性だった。

「男が少ない。これも普通か?」

「ここは異常‥‥外の料金も普通よりもかなり上だったし。それに、ドリンクも‥‥見た?これだけで5000円」

「若い子を集めてる‥‥血の聖女は若い子にしか使いたくないのか?」

「そんなとこ‥‥ちっ‥‥」

 ネガイの舌打ちよりもかなり優しい音が聞こえてくる。ただ、それは俺に向けた物ではなかった――――机に近いてくる男に対しての物だった。

「ここ、関係席だから」

 目線を向けずにイノリがグラスで顔を隠すように吐き捨てる。目に見えての敵意だが、それがわからないらしい。関係者以外立ち入り禁止の看板も無視してカーテンでできた小部屋に入ってくる。

「お、なんだよ。久しぶりじゃん」

「‥‥ちっ」

「は?なんだよ、その態度」

 一つか二つ歳上の男性がこちらに近づいてきた。あんまり人相が良くない、それに態度も悪い。茶髪で金のメッシュが入っているがこれが最近の流行なのか?似合っていない、しかも服装というか身体つきもよくない。肉体のアピールの為に胸を開いたジャケットやシャツを着ているが、いかんせん筋肉が足りなくてガリガリだ。

 簡単に叩き折れそうだった。

「知り合い?」

「‥‥前に仕事で話しかけたの。それだけ」

 視線を俺の方に持ってきて、話しかけて来た男の方は見向きもしない。

「前に一杯奢っただろう?それにいい感じだったじゃん」

 めんどくさそうだ。もう撃ってもいいかな、なんて小言で言っている。止めるべきだろうが、これでも俺は未成年を成人と偽って入っていた、それに仕事の関係で騒ぎたくない。

「こいつは?」

 指を差してきた。だが、かなり酔っている所為で指が定まってない。

「彼。だからどっか行って」

「これが?俺の方がいいって、こいつ退かして俺と飲まない?」

 もう一度、指を差してきた。やはり人間は嫌いだ―――自分の尺度で、俺を測ってきた。

「つか、何で何も喋んないの?もしかして初めて来たとか!?」

 胸骨が浮き出ている。この男こそ薬をやっているではないかと思わせる病的な痩せ方だ。血も薄そうだし、混じり気が多そうだ。到底、健康体とは言えないだろう。

「こいつは関係者か?」

「全然。ただヒョロイだけ」

「おい‥‥無視すんな‥‥!」

 かなり酔ってる。しかもそれに気付かずひどい呼気を振り撒いて睨みつけてくるから、後で匂いを落とさないとと誓う。この匂いでは、マトイとサイナには会えない。

「おい!こっち向けよ?そんなに俺が怖いですか!?」

 高笑いをしながら胸ぐらがを掴んで持ち上げようとしてくるが、見た目通り腕力が足りなきて全く上がらない。だが、いい加減目障りだった――――

「それよりさ、お前知ってんの?」

「‥‥」

「ちっ、ダンマリかよ。この女さ、誰とでも遊ぶくせに、誰とも寝ないんだぜ?お前も身体目当てだろう?」

 こういう事だった。イノリが潜入学科を辞めたがった理由は。確かに、こんな奴らと付き合わなければならないのなら、辞めたくなるのも頷ける。

「さっさとそこ退けよ。今日こそ、俺と」

「この服は借り物だ。‥‥そろそろいいか?」

「‥‥好きにして」

 許可を受けて立ち上がって小部屋から出る。いい顔だ、怯えているのがわかる―――思ったよりも背が低かった。

「な、なんだよ」

 期待しないで目を覗き込むが、やはり価値はないとを下す。揃えるに値しない。没だ。

「この服は大切な人がわざわざ見繕ってくれたんだ。それに褒めてくれた‥‥素手で触ったな?」

 一歩前に出て、骨張った男を転ばせる。

「女の前だからって、調子乗んなよ?」

 骨張った男の後ろから他の男たち、というよりも3人の男の子達が加勢でもするように人の波を縫ってあらわれる。そして怯えていた骨張った男の子は、後ろの男の子達に助けられて立ち上がる。光の関係だろうか。前屈みになった少年達の顔が醜く歪む。

「びびったか?今すぐ逃げれば」

「一つ‥‥言っておきたい」

 酒臭い―――苛々してきた―――早くマトイとサイナに会いたい。

 酒で目の据わった人間の少年達はわからないようだ。いや、知らないのだから仕方がない―――この目の朱に染まり始めた目を。ああ、もうここから早く出たい。

 あのカラーライトは身体に悪そうで気持ちが悪い。せめて早くあの部屋に戻りたい。戻ってイノリの目が見たい。

「俺は、今機嫌が悪い‥‥」

「は?それでビビらせてるつもりかよ?」

 目眩がする。音も気に食わない。趣味でしかないとしても、俺はクラシカルな楽器の演奏か合唱、オペラ歌手の声が聞きたい。

「お、黙ったぞ」

「どうするよ、こいつ?」

 耳が男の子達の声を自動的に塞いでいた。だからだ、こんなにも何も聞こえない理由は、何か話している口の動きはするが口を読む気にもなれない。

 背中からイノリの視線を感じる。腰と背中に仕込んでいる武具を見ている。

 銃か刃物でも出すと思っているのか―――それは、悪くない選択肢だった。

「面白そうじゃん!なぁ!お前、とりあえず脱げ」

 胸ぐらを掴まれた。

「また、触ったな?」

 だから右腕に仕込んだままの杭で殴る付けてしまった。体重分の圧を硬質の杭を通して受けた所為で歪んで跳んでいく顔が視界の端で見える。でも、汚いから忘れる。

「おい!‥‥な、なぁ‥‥」

「お前、薬でもやってんのか‥‥?」

 目を見たな?この目はオーダーでは評判が良いが、お前達には違うらしい。

「あの方が褒めてくれた宝石を薬と一緒にしたな?」

 右腕で払うようにして飛ばした骨張った男の子は、もうどうでもいい。この頭を蝕む感情を、脳髄を這いずり回り俺を狂わせてくる血流を、こいつらで散らしたい。

「か、囲め!」

 3人が左右と前を囲んでくる。銀蝿にでもたかられてる気分だ。ますます狂いそうだ―――また酒臭い。

「死にたいのか‥‥?」

 もう口も開けたくない。今吐ける息を喉から出して、声を捻り出す。

「し、死ぬのは!おまえ―――」

 左から頭を狙ってきた人間には、脇差しの鞘で脇を突いてみる。折れただろうか?骨を突き破って柔らかい感触がした。けれど、目線を向ける気にはなれない。

「お、お、お前‥‥!もしかして、オー」

 杭を仕込んだ腕を右にいる人間の肩に落とす。肉を薄く潰し、骨にまで貫くいい音が耳に届いた。

「お、俺は、何もしてないだろう?」

 半笑いで目の前の男の子が腰を低くして謝辞ともつかない言葉を吐いてくる。

「‥‥」

「な、なぁ‥‥」

 息も吸いたくない。でも、この衝動はどうにかしたい。どうにかしないと、どうにかなってしまう――――ああ、血が見たい。

「‥‥もうやめて」

 肩に何かが置かれた。

「‥‥あと1人だけ」

「もうやめて、三度目は無いから」

 背中に冷たい鉄を感じる。撃たれても別に構わないが、イノリがそう言うなら仕方ない。そう自分を言い聞かせて、全身に駆け巡る血に耐える。

 脇差しを元に戻して、目を逸らす。

「行けよ」

 声を聞いて、一目散に残った男の子は出入口に逃げていった。

「私達は、暴れにきたんじゃない」

「‥‥そうだった」

 まだ音楽で離れている人は気付いていないが、周りの人間達は俺へ目線を向けている。あの病院と同じ目だ。

「行こ」

「ああ‥‥」

 来た時と同じように、腕に手を回して扉まで誘ってくれる。

「お、お客様‥‥、お怪我は」

「してない。アイツらをどうにかして」

 イノリは扉近くの店員にそう言って連れ出してくれる。背中に弱い人間の視線を受けながら。




「ごめん」

「なんで謝るの。好きにしてって言ったのは私なのに‥‥」

 控え室に戻って、ふたりで水を飲んでいた。

 特別、イノリは気にした様子も無かったが、それでも謝らないとならなかった。

「もう、この街を歩けなくなるんじゃないか?」

「かもね。でも、いいの。どうせこんな街嫌いだったし」

 俺の所為でオーダーとバレた。なら、単純に俺と一緒にいるイノリもオーダーと近くバレるだろう。それは潜入学科にとって、タブーとされる事に違いない。イノリがどこかを歩く度に、オーダーとしてここにいると思われる。スパイにとってそれはあまりに致命的だ―――。

「‥‥この街どころの話じゃないだろう」

「いいんだって。別に、もう。あいつの始末を付けなかった私の責任だから」

 絶対に失敗出来ないと言っていた。潜入学科という居場所を奪ってしまった。

「これから普通のオーダーとして生活するだけ。マトイにも、そう伝えるから」

 マトイが推薦する程の逸材を潰した。

 潜入学科がどのような選考基準を持っているか、俺にはわからない。けれどイノリは並大抵の努力なんかとっくにしているだろう。

 ソソギは目に見える才能と努力の結果、査問学科に一年で抜擢された。ならば、イノリは目に見えない努力をして潜入学科に選ばれた筈だ。

「謝らないで、もういいの。終わった事だから。それに、そういう事になったのなら身を守る事を第一に考えろって言われたから―――オーダーとして当然でしょう?その為に銃も腕も磨いてるんだから。撃つ事に躊躇なんかしないから」

 グラスの中の水を回している。暇つぶしなのか、水はもう飲まない。

「潜入学科も、そこは良心的だから。撃っても構わないって」

「それは、撃たなければならない現場になる事を知っているから言える言葉だ‥‥」

 それなのにイノリはここしかないって言っていた。今、帰る場所はどこにも無いという事だった――――イノリに捨てさせてしまった。

「‥‥イノリも、捨てられたのか」

「あんたもなんだ」

 グラスを机に置いて、顔を見てくる。

「私も捨てられた。親の事は聞かないで、血の繋がりしか無いだけだから」

「俺は、血の繋がりすらない」

「そっちも苦労してるね」

 ヒトガタとして捨てられる事と、人間の子供として捨てられる事では意味が違う。

 どちらの方がマシなどと、考える事する許されない。俺には生涯わからない話だろう。

「聞いていいか?なんで潜入学科になったんだ?」

「私は、売られたの。小さい時に」

 立ち上がって、隣に座って来た。

「小さい時って言っても、ちゃんと記憶もある。だから変な事もされてないってわかってるし、すぐにオーダーが来てくれた」

「‥‥オーダーに救われたのか」

「そう。でも嫌い。変?」

「いや、普通だ」

「良かった」

 同じだった。オーダーは俺をヒトガタと知っていた。捨てられたヒトガタと知っていて、俺を受け入れた。

 オーダーは捨てられたヒトガタの受け皿なのかもしれないが、ヒトガタという生きていても捨てらても、つらい存在を是認している。だから嫌いで、あの件でも更に嫌いになった。

「最初はさ、売られたって知らなくて。助けに来てくれたオーダーに感謝したの」

 肩に頭を置いてきた。そこで気付いた、この髪は偽物だと。中は黒髪だ。髪の生え際から茶髪を押すように黒色が生えてきている。

「何があったんだ?」

「助け出されて、すぐに帰れるって思ったの。でも、オーダーはなかなか私を返してくれなかった。初等部でしばらく生活をしてたの。あんたの彼女さんとは、何度か顔を合わせたかな?」

 ただ1人の同い年の子は、イノリだったのか。

「でも、すぐにいなくなったって。誰か来たんじゃないのか?」

「違う。出て行ったの、1人で」

 逆鱗に触れたか。足を組んで目を閉じてしまった。

 やはり俺はヒトガタだ。

 何処かに行くという事は、誰かが迎えに来てくれたのだと思ってしまう。

「家に帰ったの。親に会いたかったから」

「‥‥親が好きだったのか?」

「当然でしょう。きっと心配してるって思って、元気な姿を見せたかった」

 息を吸って、天井を見上げた。だけど見えるのは偽物の星空だ。

「やっと家に着いて持ってた鍵で扉を開けたの、きっと抱き締めてくれるって。でも誰もいなかった。留守なんかじゃない。本当にここは自分の家なのかって思うぐらい何も無かったの」

 あの綺麗な四角形を見たのか、最後は自分の手で四角形を作ったから覚えている。

「わかるよ。あれはつらいな、部屋が広いだよな」

「そうそう部屋が広くて、床が冷たくて」

 いつの間にかヒールを脱いで足を抱えている。そこでようやく彼女を見れた気がした。少し低い程度だと思っていた身長はヒールにより増されていた。

 忘れていた、あの高さはヒールのお陰だったと。イノリも16歳の女の子だった。

「なんて言うかさ、今まで使ってた机とか椅子が無くなってると、部屋が寒いんだよね。皆んなで使ってたあのベタベタするテーブルが無いと家って感じがしなくて」

「あとは、あれだ。使って遊んでたボールとかも無いと落ち着かないんだよ」

「あ、わかる。私も人形が無くなって寂しかったから‥‥これは秘密だからね」

 茶髪の奥に見える顔が赤く染まるのがわかる。つい笑ってしまう。あの時の絶望が今は笑い話になる――――生きているものだ。

「なんかさ、いいよね」

「悪くないかも」

「うん、悪くない」

 捨てられた者と物。

 全く違う俺達だが、唯一同じなのが捨てられた人間の始末。酷い共通点だ。

「嬉しいって言うのかな。ずっと1人だったから」

「俺も同じだ。皆んなに会うまで」

 オーダーに捨てられた時は、ただただ怖かった。誰も信用できなかった。

 シズクこそ居たが負い目があったから話せなかった。ミトリに合わないければ俺はずっと1人だった。

「私も会いたかったな。皆んなに‥‥」

「今からでも出来る。オーダーは嫌いだけど感謝はしてる。友人に恋人、家族もできた」

「家族?‥‥す、すごいね、その年で、もう親なんだ。もう父親なんだ‥‥」

「あ、いや、違うぞ!まだそういう関係じゃなくて!?」

 確かに、今の発言はそういう関係になったと思われてもおかしくなかった。

 ついさっきまで、あんなにも上機嫌だったイノリが肩を縮こませて何かしらを妄想していた。

「ソソギとカレンだ。俺はあの2人の家族になった」

「さ、3人も!?」

 イノリは抱えていた足を伸ばしてソファーの上に立ち上がり、自分のお腹を押さえ始めた。俺も急いで立ち上がって誤解を解く。

「違うからな!俺はあの2人と同胞だった!これだけ覚えとけ!」

 ヒトガタの事を話せば早いが信じてくれないだろう。何よりも未だに俺はヒトガタとの折り合いがついてない。簡単に話せる内容でも無いから、しばらくは混乱させたままとなってしまう。

「同胞って、生まれ育った場所みたいな事?」

「そ、そんな所だ!詳しくは話せないけど、俺達の血に関係してる!」

「‥‥そう、なんだ」

 やっとソファーに座り直してくれた。誤解が解けたと、座り直す。

「私も、仲が良かった地元の子がいたの。‥‥姉妹みたいに遊んだ」

「友達がいたのか」

「うん、ずっと仲が良かった友達が。もう違うんだけどね」

「仕方ないさ。オーダーなんてやってると」

 警察に代わる秩序の人をしているが、未成年が銃を持って街中を歩くのだ。探られて痛くない腹でも、怖がられて当然だった。

「うんん、違うの―――私は、汚いって」

「汚いって‥‥」

「何にもされて無いし、何もして無いのに。そういう事をしてたって勝手に思われたの。親から近くなって言われたんだって」

「‥‥」

「ありがと、何にも言わないでくれて‥‥」

 正面からこの感情を向ける訳にも、受け止める覚悟も持てず下を向いてしまった。

 理不尽だ。好きで捨てられた訳でも、売られた訳でもないのに。人間という種族はどこまで低俗なのだろうか―――自分達の趣向だというのに。自分の歴史が、自分達がそれを求めておいて、それを受けた同胞を汚い。汚いのは、人間自身だ。

 それを思いつく人間の穢れを恥じるべきだというのに―――

「‥‥人間が嫌いだ」

「人間じゃないみたいな事言うね。さっきも人間じゃないみたいだった。怖かったんだからね。目に向けられて」

 顔を上げて、イノリを見た時、後悔した―――知ってしまった。イノリの笑顔を。

「なんで、笑ってられるんだ‥‥」

「ごめんね。これが、私なの」

「‥‥やっぱり、人間は嫌いだ」

「‥‥そうだね」

 不意に外が騒がしくなったのが伝わる声と振動で感じ取れた。まだまだ夜は長いと宣言するクラブの声量に圧倒されていると、日常として過ごしている一枚も二枚も上手のイノリが提案する。

「何か飲む?」

「いや、もう少し話したい。いいか?」

 と断ると、予想だにしなかった幼くて可愛らしい幼児のような笑みを浮かべた。

「うん、いいよ」

 本来の彼女の顔は此方なのだと錯覚し掛かるも、今の顔はイノリの一側面に過ぎないと、数多くある彼女の仮面であり本心の一つなのだと理解した。けれど、どれだけ多くの仮面を持っていたとしても、初めての笑顔はこれにしたかった。優しい、誰かの為の笑顔だった。

「その後は、どうしたんだ?初等部には戻ってないって」

 ネガイは一度しか見てないって言っていた。ならば、別の家があった筈だ。

「オーダーの初等部は保護する場所なの。事件の被害者を守って、精神的な治療をしたりして。私も最初の内は先生とか保母さんとも、色んな遊びとか勉強をして事件の事を忘れようとしてた」

 でも、親は忘れられなかったか。俺もそうだ。未だに成育者が忘れられない。

「出て行ったのがバレて、私はすぐにまた保護されたんだけど、自覚は無かったけど、かなり精神的に危なかったみたい。初等部とは違う、本当に治療をする為の施設に移されて、中等部に上がるまで外には出れなかった‥‥今はその理由がわかる。本当に何するかわからなかったから」

「何をか。本当にわからなかったのか」

「うん、小学生だからだと思う。‥‥苦しかった、どうすればこの痛みから逃げられるのかって、いつも考えてた」

 ソファーに身を任せて、健やかな目を閉じた笑顔を続ける。

「何を思い出してるんだ?」

「楽しい記憶。好きな勉強して、好きな絵を描いて、箱庭って言うの?そういうのも造らされた。余計な事は忘れていってた―――楽しかっただけじゃなくて、難しい事も沢山あって、でもやり甲斐があったの。本当に楽しかったんだよ、明日は何しようってそう思って毎日寝てたの」

「毎日、楽しかったか?」

「うん、楽しかった。先生も、コーチも、皆んな優しかった。偶に悪戯して怒られてけど、やっぱり楽しかった。‥‥もう親の事も忘れて」

 当時のイノリを知らない俺にはわからない。でも、イノリの主治医は忘れる事にさせたのか――――全てを。

 それが正しいのかどうかなんて、俺にはわからない。でも、もしネガイが――――やめよう。ネガイとイノリは違う。俺とも。

「でもね。私はオーダーが嫌い」

「なんでだ?」

「空気読めるね。ちゃんと聞いてくれる。そういう所が良いんだと思うよ」

 ソファーの背もたれから起き上がり、グラスを眺め始めた。

「オーダーは、知ってたの。私が売られるって」

「‥‥」

「違うって、言わないんだ」

「俺も似たような事をされたから。‥‥許せない事もされた」

「そっか」

 イノリはもう一度足を抱えて肩に寄りかかってきた。

「オーダーが嫌いなんじゃないのか?」

「でも、感謝してる。‥‥聞いてくれる?」

「教えてくれ。俺も、イノリの事が聞きたい」

「‥‥その言い方はずるいなぁ‥‥」

 年相応のよりも幼く感じる。忘れて、消した時代へ、戻って行っているのか。それとも本当のイノリはこうなのか。

「オーダーは私の親と取り引きしてたの」

「オーダーと取り引きか‥‥」

 一般人とオーダーとの取り引きとは内容がかなり絞られる。大体が、犯罪者と裁く側とで締結される取引。

「わかると思うけど、司法取引。私の親は犯罪者だったみたい‥‥」

 薄く笑いながら告げる姿が痛々しかった。これが親の事を聞くなと言った理由だった。

「なんで、わかったんだ。もう忘れてたんだろう」

「ふふ、また何かしたらしくて。たまたまテレビに映ったの。それで、思い出した、あの女の電話番号も――――だから、周りから隠れて電話したの。もう一度声が聞きたいって思って。‥‥あの女もバカだよね、番号とか変えればよかったのに」

 あの女と言い始めたイノリは、親と呼ばなくなった。

「あんたはどうだったの?聞きたいって思わなかった?」

「俺も思ったよ。毎日電話もかけた。でも、誰も出ない」

「そっか。そっちもつらいかも‥‥」

 イノリが寄りかかっている方の腕でスマホを取り出し、画面から受話器のマークをタッチして番号入力を呼び出す。かける訳ない。そう思ってもスマホを手を覆い隠すしかなかった。

「なんて、言われたんだ」

「ん?もう、私に関わらないでって」

「酷いな」

「そっちの親もね」

 スマホを取り上げて机の上に乗せる。奪われたスマホの代わりに手を握ってくる。慰めになるかどうかなんてわからない。けれど、求められるままに手を渡す。

 俺は早い段階で自動筆記が始まった。だから、本当の親じゃないとわかった―――それでも声が聴きたかった。きっと受け入れてくれると思って。

 本当の親にそんな事を言われたイノリが平気な筈が無い。

「あの女から全部聞いたの。あの女はね、色々とやらかしたらしくて、オーダーに逮捕されたの。でも、私を使って囮捜査をしていいからって言ったんだって。オーダーもそれを認めたって。それなのに今更なんの用?私は今が幸せなの、もう子供もいるんだから邪魔しないでって――――最初の内は、なんの事かわからなかった。寧ろさ、兄弟が生まれたって思って、はしゃいだりしたんだ」

 イノリは、また笑い始めてしまった。

「もういい‥‥」

「先生にさ、教えたんだ。私には弟か妹が出来るって」

「もういいんだ!」

 握っていた手に力が入ってしまった。抜け殻のように脆くなったイノリが、小さく「痛い」と返したお陰で正気に戻る。けれども、力を抜く事が出来ない。

「‥‥私聞いたの。私みたいな子っているのかって。少なくないって」

「俺が、俺のせいで‥‥」

「いいの。それに昨日大規模な組織の逮捕があったから、私の仕事はもう無くなったの」

 潜入学科を続けた理由が漸くわかった。自分が傷ついても、やめない理由が。

「イノリは、助けてたのか」

「うん。皆んな、苦しそうだったから」

 潜入学科としての立場を使って、売られたり捨てられたりした子供達の隣に行って、励まして救出していた。昨日の仕事にイノリも関わっていた―――そこで、イノリが何をしていたのか、元々どんな仕事で潜入していたのかなんて知らない。

 でも、イノリに救われた人間がいたのは間違いなかった。

「聞いたんだ、昨日の仕事は成功した。重武装科が連隊組んで突入したんだって」

「うん」

「全員無事に救出できたのも聞いた」

「知ってるよ。近くで見てたから」

「イノリが手引きしたんだろう。それに捕まってた子達を元気付けてたんだろう‥‥」

「‥‥私がした事は、高が知れてる。‥‥皆んな、表側のオーダーのお陰」

 使い捨てだった。イノリという最大の功労者の事を誰も知らない。イノリの献身で人身売買をしている組織は無くなったというのに―――だからイノリはもう必要無い?必死に売られた子を守って、救い上げたイノリの帰る場所はもうないのか。

「それで、いいのか‥‥」

「いいの。これは私が選んだ事だから。それにね、私、間に合わなかったの」

 肩に泣きついてきた。

「もう遅かった。全員助かったって言ってたけど‥‥もう‥‥もうね、1人ね!!遅かったの‥‥。もう臓器が‥‥」

 イノリを引き寄せて、気が済むまで泣かせる。

 そんな物を見たく無いからこんな仕事をしてるのに、誰よりも先に見てしまった。

 解体という言葉に気が立って見えたのは、こういう事だった。解体された子が、今どうなっているのかなんてわからない。

「人間が嫌いだ‥‥」

「‥‥私も。離して」

 胸に手を突いて、元の場所に戻って行く。

 同じ種族の身体を切り開いて、中身を取り出して売り買い――まるで共喰いだ。

 弱い立場の人間は、ただ喰われのを待つしか無いのか。そんなヒトガタと同じ扱いを同じ人間にしたのか?—―嫌いだ。オーダーも人間も、全て理解できない。

「オーダーは嫌いだけど‥‥私を救ってくれた。わかってるの。あのままあの女が私を育てても、いずれは私を売った。売られた相手がオーダーで良かったって思う。知ってる?私達が乳児から中学生まで生きる為にかかるお金。とても私には払えない」

「だから、なんだ———」

「だからって」

「生きる為なら、売っていいのか」

「仕方ないじゃん‥‥」

「じゃあ、親は金が欲しかったら、子供を産んで売ればいいのか‥‥」

「違う!」

 イノリは立ち上がって、もう一度、XDSを突き付けてくる。

「何言ってるの、おかしくなった!?」

「‥‥向けるな」

「いや!だっておかしいじゃん!なんでそんな事言えるの?あんたも捨てられたんでしょう?酷いって思わない!?」

「‥‥酷いのはお前だ」

「は?意味わかんない!?」

 頭を振りながら眉間に銃口を突きつけてくる。

「捨てられた俺達は、どうすれば良かった?」

「そんなの自分で考えなよ!?」

「‥‥そうだ。人間ならできた」

 ヒトガタの命は―――ただ主の為に。

 俺はそれでも痛みがあった、死にたくないという自己保存の原則が働いた。そこで―――恋を知った。これは、本当に偶然のバグだ。でも、ソソギやカレンは違った。生きる為にじゃない死んででも、ただ主の為に全てを投げ出せた。

 俺も皆んなと出会ってなければ、主の為と思えばなんでも出来ただろう。ヒトガタと人間では、求めている物にあまりにも大きな隔たりがある。人間には理解できない、そしてヒトガタにも理解できない。お互い、別の種族だから。

「人間なら?何、誤魔化してるの。私、嬉しかったんだよ、やっと理解してくれる人に出会えたって。表のオーダーに行くのも悪くないって、なのになんでそんな事言うの——」

「悪い、俺もイノリの事を理解出来るって思った。でも、やっぱり人間は理解できない‥‥。人間が嫌いなんだ」

「人間人間って何さっきから?自分が人間じゃないって言ってんの!?」

 怒りで我を忘れたのか。XDSの銃底で頭を殴ってきた。眉間に血が流れていくのがわかるが、ただ冷たいだけで痛みは感じなかった。

「‥‥あ、ご、ごめん、ごめんなさ、」

「これ使ってくれ」

 混乱するイノリに持ってきていた一つの止血剤を渡す。何を渡されたのか、確認して目線を合わせてくれる。

「自分じゃ出来ない」

「うん‥‥」

 傷は前髪の生え際辺りだった事で、イノリは前髪をピンで止めて止血剤をつけてくれる。なぜこうも、ネガイと同じなのだろうか―――ネガイとは、全く違う筈なのに。俺達、ヒトガタとは全く違うのに。

「痛いよね‥‥なんで何も言ってくれ無いの。私の事、嫌い‥‥?」

 もうイノリの言葉に反応出来ない。薬を付け終わったのを見計らってピンを取る。

「一度戻ろう」

「どこに‥‥?」

「俺が乗ってきた車だ。そこなら薬もある。それに話がある」

「‥‥ここじゃ、ダメなの?私じゃあ、ダメ?」

「マトイと話す事があるんだ。俺の事で」

「そ、そうだよね。あんたに傷を負わせてマトイが許す訳ないよね‥‥」

 今は早くマトイとサイナに会いたい。急いでイノリの腕を引いて扉に向かう。

「よく聞いてくれ」

「何‥‥?」

「これから話す事は、‥‥きっとつまんない話だ」



「ヒトガタ‥‥」

「ああ、ヒトガタ。俺はヒトガタって呼ばれてる」

 車に戻り次第、サイナに傷の状態を見てもらった。

「薬のお陰で化膿はしてませんね。でも、ここにミトリさんがいればもっと専門的な治療ができました」

「‥‥まずい状況か?」

「いいえ、しっかりと傷口に薬や防水シートを貼れば傷跡も残りません」

 自分の商売道具を惜しみもなく使ってくれる。包帯にガーゼ、それとシート、商品の救急箱で万全の治療をしてくれる。

「教えておくべきだったかもしれませんね」

 モーターホームに戻ってきた俺は椅子に座ってサイナに診てもらい。イノリはマトイと机を挟んで対峙している。当然だが、決して友好的な空気は流れていない。むしろ、マトイは今にでもイノリの首を刎ねてしまいそうな空気を纏っている。

「‥‥どういう意味?」

「いいのですね?」

 マトイはイノリを無視して確認を取る。自分は淡々と視線も向けずに頷くしかなかった。

「—――わかりました。あなたが選んだのなら。ここから先は口外無用。これは彼は人間じゃない。正式名称をホムンクルス、彼はその中でもヒトガタと呼ばれている種族です」

「‥‥訳わかんない。人間じゃないって、ならなんで人の見た目なの?」

 それは人間の都合だった。けれど、そんな事をイノリが知る筈がない。だけど、僅かに胸にさざなみが立った。同時に自分を匿って守ってくれる監視官たるマトイは、

「余計な事を言わないで―――次は殺す」

 と、自分に向けられてる訳じゃないのに、背骨が凍りつくような殺気を放つ。

「続けますね。彼らヒトガタは、ただ主の為に生きるように求められた存在です。人間で言う所の扶養者」

「‥‥血は繋がってない」

「彼から少しは聞いたみたいですね。そうです、血の繋がりなんて無い、ただの扶養者。ヒトガタはそれを成育者と呼ぶそうです」

 治療を受けながら、ヒトガタの説明を受けるイノリの様子を背中越しに見ていた。

「何、それ‥‥。親の為なら、なんでも出来るって‥‥」

「詳しくは言えませんが、主の為なら兄弟のように仲が良い相手でも殺す事がヒトガタには出来ます。お互いが同じ主を持つヒトガタ同士なら、それに迷いも生まれないそうです」

 機械的なマトイの残酷で正確な言葉がモーターホームに響く。止める気にはなれない、全てがヒトガタの正しい説明だから。

「そんな、人間じゃない」

「そうです、彼らは人間じゃない。人の形をしていますが、人間とは思想も思考もまるで違います———私からも聞きます。彼の傷はあなたが?」

 今までの殺気とは比べ物にならない圧力が、マトイから放たれる。

「‥‥それは」

「答えて下さい」

「私がやった‥‥」

 ゆらりとマトイが立ち上がる。

「あなたとは、これからも良い関係でいたいと思っていました。あなたの生まれから思う所なんてなく優秀で頼りにしているオーダーでした。同情など不要で信頼出来る方でした」

「‥‥でした。だよね、もう私には‥‥」

「あなたをこのまま、彼と組ませるには懸念があります」

 首でも落とされたように無言になってしまったイノリを、マトイは静かに見下ろしている。車内の空気は何処までも凍てついている。吐息すら凍り付きそうな程に。

 オーダーはどこまでも依頼の為ならシビアに冷徹になれる。そうあるべきと言われている。しかし例外もあった。それはオーダーがオーダーを裏切る行為。

 例え俺の所為で依頼に失敗したとしてもパートナーを裏切る行為は、オーダー間では許さざる行動だった。遂行中に傷を負わせるは、その最たる例と言われる。

「聞きます。何故、彼を傷つけたのですか?」

「‥‥その前に聞いていい?彼に」

 来るとわかっていた。サイナに目配せをして一度治療を終わらせる。マトイ隣に座り、マトイの肩に手を置いて座らせる。

「聞いてくれ、なんだ?」

 俺が座った事によって幾ばくか呼吸が楽になったのか、イノリは深呼吸をした。

「ヒトガタに子供は出来るの?」

 サイナが持っていた救急箱が宙を舞う。

「‥‥出来るよな?」

「出来ます」

「出来るそうだ」

 マトイに助けを求めて聞いたら即答してくれた。

「———私が彼を傷つけたのは、お金が欲しいなら子供を産んで、売ればいいのかって言ったから」

「本当ですか?」

「‥‥言った」

 正直に答えた時、僅かに思案するでもなくマトイもサイナも瞬時に声を発する。

「それはあなたが悪いですね」

「はい、あなたが悪いです」

「そうだよな‥‥」

 ふたりに睨まれて開く予定もなかった口が、更に何も言えなくなった。

「この傷は不問にします」

「‥‥いいの?」

「あなたの秩序にとって許せない事を彼が言った。それはヒトガタでも言ってはいけない事です――――反省して下さい」

 ソロモン王のような裁判の結果、イノリは無罪となった。

「はい♪これで解決です♪」

 救急箱を掴みとったサイナが手を叩いてさっきまでの空気を一変させる。救急箱を置いて座席から持ってきた物は夜食なのか、ベーコンやレタスの挟まったバゲットのサンドウィッチだった。

「まずは作戦会議と、マトイさん?」

「‥‥そうですね。私にも非がありました」

 マトイはサイナの隣に行き、2人揃って頭を下げてきた。

「責任を2人に押し付けて申し訳ありませんでした」

「それと、まだ話していない事もありました。ごめんなさい」

 頭を上げてきたサイナがそんな事を言ってきた。イノリの方を見たが、イノリも俺に頭を下げてきた。どうやら、また俺はマトイの掌にいたようだ―――悪い気はしなかった。

「取り敢えず食べるか‥‥」



「それで俺に言って無い話って?」

「口が汚れてますよ」

 サンドウィッチを食べ終わった為、モーターホームの中で寛いでいた。正確には俺はマトイの足を枕にしながら。口を拭き終わったマトイが甘やかせてくれる。

 この蠱惑的で神秘的な雰囲気に包まれていると、先ほどまで気になっていた事も、どうでも良くなってきた。

「眠い‥‥」

「まだ寝ないで。終わったら寝かせてあげるから」

 前髪を撫でられながら、睡魔と戦う。ただしもう限界だった。腹が膨れてマトイに甘えられて―――もう眠ろう。

「‥‥寝ていい?」

「ダメ、寝たら困ります。明日はネガイとのデートですよ?楽しみにしているんですから、今日中に終わらせないと」

「‥‥そうだ。でも、もう少しこのままで」

「はい、幾らでも」

 マトイの答えを聞いて、どうにか頭を覚醒させる。ただその囁きは卑怯だった――更に眠くなる。うつらうつらしていると「ねぇ」とイノリが声を掛けてくる。だけど、もう意識を手放しかけていた自分に代わってマトイが反応する。

「何ですか?」

「いつもこうなの?こんな姿見た事ないんだけど」

 心底呆れたと言わんばかりの視線を感じるが、マトイの白い足からは離れ難かった。

「人前では見せませんけど、私と一緒にいるといつもこうですよ」

「いいの?」

「いいんですよ。この人は私の物なのですから、ね♪」

 こんな甘々なマトイを見るのは初めてなのか、イノリが引いているのがわかる。黒髪の魔女は、自身に向けられる目は無視してただただ甘やかしてくれる。前髪や胸を撫でて自分の足から起き上がらせてくれない。

 そんな恐ろしくて、優しいマトイも大好きだった。

「驚きますよね~。あのマトイさんがこうですから」

 使い終わった救急箱をしまったサイナが面識もないイノリに声をかける。僅かに警戒心を持つ反応こそ感じたが、この俺の状況を見て溜息と共に構えを解いたのがわかる。

「いつもこうなの?」

「いつもこうですよ」

 座席からペットボトルを持ってきたサイナが俺の頭側に座って、マトイと一緒に頭や顔を撫でてくる。

「‥‥ねぇ、それでどうするの?」

 痺れを切らしたイノリが口を開いた。

「聞くの?聞かないの?」

「あーなんだっけ?」

「寝てないで起きて!血の聖女でしょう!?」

「それだ。マトイ、俺に話してない事ってなんだ?」

「はい、では話しますね」

 マトイも忘れていた。思い出したように、ハキハキと返事をしてくれた。

「まず最初に、なぜこの仕事にあなたが選ばれたのか。それをお話しますね」

「そろそろ交代です♪」

 サイナからの宣言を聞いて、マトイが名残り惜しそうに、俺を起き上がらせてソファーから立ち上がる。

「今度は私ですよ♪」

 サイナの足はマトイの物よりも肉付きが良く、頭を沈むように受け止めてくれる。

「‥‥撫でて」

「それは私が」

 先ほどとは逆にマトイが頭と顔を撫でてくる。冷たくて滑らかで細い綺麗な指だ。いつもこの手に甘えていると思い出すと―――幸せだった。

 だが、いい加減イノリのため息が聞こえてしまう。流石に呆れられた。

「マトイ」

「あなたが選ばれた理由は血の聖女自体にあります。恐らくあれは、ただのドラッグではありません」

「‥‥どう違うんだ?」

 そんな物に関わった記憶は無いし、自動記述にもそんな知識は無い。

「血の聖女とそれ以外の麻薬やドラッグには違いがあります。ドラッグや麻薬で注射を用いる物は、静脈注射により摂取する薬の一時的な気分の高揚が目的。薬の効果が切れると憂鬱感や疲労感、これから抜け出す為に薬を繰り返す。その結果、中枢神経に異常をきたし幻覚や妄想に苛まれる様になると言われています。これらから抜け出す為に更に続ける。これを中毒性と言います」

「血の聖女は違うのか?」

「血の聖女の中毒性は幻覚や妄想を見る為に使うそうです」

「電子ドラッグみたいだな‥‥」

 どちらにしても許さざるを得ないが。

「そして、その幻覚は総じて一致しているそうです」

「同じ幻覚、夢を見るのか?」

「個人により説明に使う言葉違いますが、皆一様にこう言います」

「聖女を見た」

 イノリが答えた。知っていたのか。

「聖女?」

「そ、救ってくれるんだって。聖女が」

 裏しか見えない机から音が響いた。イノリが机に肘をついたのだろう。マトイも何も言わないから、の話が事実だとわかる。

 同じ夢を見るとは、そんな事があり得るのだろうか―――いや、俺はよく見ている。それにマトイとは夢の中で話した。

「どんな聖女なんだ?」

「‥‥馬鹿にしないの?」

「詳しくは話せないけど俺は夢には詳しい。教えてくれないか?」

「‥‥それはいいけど。いい加減起き上がって」

「‥‥でも、サイナに」

「また、いつでもしてあげますから」

 サイナからもそろそろと言った感じに頭を持ち上げられた。仕方ないと、足から起き上がってイノリの方を見つめる。それで話す気になったイノリは水を一口飲んだ。

「話したよね。この辺りで血の聖女を使ってるのは若い子達だって」

「未成年で、家出をしたり帰る場所が無い子達だったな―――その聖女は、どうやって救ってくれるんだ?」

「さぁ、私は使ってないからわからない」

 もっとな意見だった。知っていたら、そちらの方が恐ろしい。

「でも、救われたって言ってる子と昨日話してきた。‥‥本心で話してるみたいだった」

「どんな子だったんだ?‥‥言える範囲でいいから」

「あまりいい家庭じゃなかったみたい。親の暴力から逃げる為に兄とお金を貯めたって言ってた。でも、それが見つかった時にお金を奪われて家から逃げ出したんだって‥‥だから多分兄の為にって思って、自分を売ったみたい」

「その子の兄って不良の方の?」

「知ってるの?」

「聞いた。妹を助ける為に不良を率いて行くつもりだったのも」

「‥‥馬鹿みたい。勝てる訳ないのにね」

 吐き捨てるように言った。

 不良とその兄には悪いが事実だ。デットコピーでもサブマシンガンを揃えられる組織だ。弾丸が命中しなくとも、取り揃える財力がある。金は力。

 ただの不良グループでは太刀打ちできない人数や武装があっただろう。

「どう救ってくれたのかは、教えてくれなかった。でもちゃんと受け答えは出来てたから嘘は言って無いと思う」

「話してる様子は?」

「‥‥笑ってた。これで救われるって。これ以上はわかんない」

 これで救われる?オークションで売られると救われるのか?

「そのオークションの主催者が血の聖女を使って女の子達を呼び寄せたのか?」

「いいえ、違うと思います」

 マトイが断言した。

「もしオークションの主催者が、薬で人を呼び寄せたのなら、そのオークションには誰も来ません。細い針の跡だけしか残らないと言われても内臓や血が汚れている可能性がある、それに感染症の疑いがある以上、お金を払って人を買う人間はそれを看過しません。この国で人を買う事ができる人間なら尚更です」

「‥‥私もそうだと思う。本当に傷とかも一切許さないと思う」

 夜の闇を知っているふたりが、ここまで言っているのならそれは間違いない。でも、新たに疑問が生まれる。

「聞いていいか?」

「オークション側は、寧ろそんな子達を求めたんじゃないか、ですね」

「可能性はあるだろう?」

 血の聖女に酔った少女達を求めていた可能性もある筈だ。

「無いとは言えません。でも、私が言えるのはこれだけです」

 あり得ないとは言わないが。あり得るとも言えない。現物がここに無いのだから、これ以上の推測は出来ない。マトイの判断は正しい。

「オークションにはどんな奴らが来てた?」

「‥‥白衣だった」

「本人の代わりに医者が競り落としに来たか。逮捕は出来なかったって聞いたけど」

「ええ、足が速かったようで突入寸前にはもぬけの殻だったそうです。女の子達を置いて」

 主催者も買い手もいなかったと、ふたりも言っていた。

「場所はどんな所なんだ?」

「この近くです」

「あー誰の持ち物なんだ?」

「不明です。今全力をあげて捜査していますが、それも限界に近いですね」

 マトイがため息をついた。本当に手も足も出ないらしい。死んだか、偽名だったか、どちらにしても法務科がわからないのならどうする事も出来ない。

「潜入した時の写真とか無いか?」

「‥‥あるけど、なんで?今は」

 イノリが訝しんで聞いてくる。

 俺もわかってるつもりだ。早く血の聖女の工場を突き止めて、量産や拡散されるのを防ぎたいイノリの気持ちが―――でも、目が反応した。会話の流れのおかしさを。

「少し話が逸れるけどいいか?」

「‥‥何?」

 もう一度俺を試す気らしい。路地裏の無表情に戻った。

「オークションって言ってたけど、誰が言い出したんだ?」

「誰って、」

「誰も言って無いんじゃないか?そのに関わった人間達は」

 マトイが話の流れの見落としに気が付き、急いでどこかへ連絡を始める。

「何が言いたの?」

「昨日のはオークションじゃない可能性がある」

「は?オークションだって、じゃなきゃ女の子達をあんなに集める意味ないじゃん!」

「それは人間の目から見ればの話だ」

「何?オカルトの話でもしてるの?」

 いい勘をしているのか、それともと昨夜の光景が絡み付き違和感に察しがついていたのか。限りなく、あの光景はオカルトに近い。

 やっている事は双方ともに倫理に反するとされている禁断の技術にして、表側には決して呼び出せない錬金術の到達点。

「聞かせてくれ。どんな会場だった?」

 ヒトガタとしての勘が正しければ人間がオークションだと言っている会場は恐らく違う――――まさしく、彼の者や神と呼ばれる現象を愚弄する『黒ミサ』そのもの。

「どんなって‥‥会場の中は、どっかのホールみたいで、すり鉢みたいで‥‥」

「舞台があった。それに人はまばらで、手には紙とペン、もしくはタブレット。それでハンマーを叩く筈の人間も白衣だった」

「‥‥知ってんじゃん。昨日いたの‥‥?なら、なんで手伝ってくれなかったの!?」

 立ち上がったイノリの両肩をサイナが止めて、もう一度座らせようとしたが、イノリは机を叩いて泣き叫ぶ。

「あんた強いでしょう!?私ともっと早く潜入してれば、‥‥してれば!!あんな、あんな‥‥事に‥‥」

「俺は、昨日はネガイといた。‥‥ごめん、知っていたら‥‥」

 そんな、もしもの話なんか求めていない。イノリの目は、そう訴えている。

 まだ人間のオークションと女の子達の繋がりはわからない。本当なら交わる筈がないからだ。

 ヒトガタに注がれるのは貴き者の血、だが血の聖女とやらのドラッグは人に注ぐ。全く違う。でも、恐らく関係がある。

「教えてくれ。舞台の中央には何があった?‥‥写真もあるんだろう‥‥」

「‥‥あんた、やっぱり人じゃない。‥‥なんの権利があって、人の中身が見れるの!?」

 イノリが目線を外して、そう叫んだ。

 そうだ。俺は人間じゃない。この言葉がこんなにも卑怯な事は無い。でも、見なければならない―――――俺なら、ヒトガタならばわかる。

 きっとイノリを呪縛から解放させられる。

「頼む。俺は、見なきゃならならい」

 頭は下げない。俺はイノリに、許しを求めている訳じゃない。

「‥‥見たきゃ見れば」

 スマホを投げつけてきた。写真を確認する為にフォルダーを開けると、中は子供との写真で一杯だった。

「あんまり見ないで」

 皆んな笑顔だった。きっと、イノリが救出したり笑顔に出来た子供達だ。

「‥‥ありがとう」

「‥‥何が?」

「俺達の為に、泣いてくれて」

 一番最近の写真には、それが写っていた。証拠写真として提出したのだろう全体が見れる縦型の写真が。

 巨大なガラス管の中に液体と一緒に入っている赤とピンク、それに紫。真っ当な人では視界にも受け入れがたい肉の塊。血管が蠢いている―――これをイノリはなんなのか知らない。知る筈がない、イノリはただの人間なのだから。

「これは人間の臓器じゃない。成長する前の―――人の形になる前のヒトガタ。俺の昔の姿だ」

 スマホをイノリに返す。

「ねぇ‥‥?おかしくなった?こんなのが‥‥こんな姿が、昔のあんた?」

 スマホを握りしめて、イノリは声を捻り出してくる。

「‥‥言っただろう。俺は人間じゃない‥‥」

 その通りだった。こんな姿が俺達ヒトガタ。人間の胎児とは似ても似つかない視界に入れれば総じて嫌悪感、狂気を呼び覚ます姿―――こんな化け物が、俺達だ。

「確認が取れました‥‥。イノリさんからの写真と、過去に保護した成長しきる前のヒトガタとの写真を見比べた所、一致したそうです」

「ヒトガタ‥‥?人間じゃない?」

 マトイからの答えがトドメとなった。線が切れるように倒れ始めたイノリをサイナが受け止める。

「こっちに」

 俺とサイナでイノリの肩を支えてソファーに座らせる。イノリは放心状態で、自力で歩くどころか息する出来ていない。

 自分が人の中身だと思ったのは、俺達ヒトガタそのものだった。今どんな感情で俺と同じ空間にいるのか、俺にはわからない。

「ちょっと、外に出てる」

 モーターホームから降りて寄りかかりスマホを操作する。

 別になんの感慨も無い。俺やソソギ、カレンがいるのだから、があっておかしくない、むしろ当然だ。それに俺は覚えている。あの光景を。

 ただおかしいとも感じる。ヒトガタは秘中の秘。生半可な組織ならばそうそうに解体、新聞に集団自決とでも載せられる。それどころか半グレなんぞに警備を任せて、本来なら関係ない女の子達を集める筈が無い。

 何もかもが不自然だ。

 それとも現在のヒトガタの誕生にとって、もう俺が引き出せる知識では古いのだろうか。

「2人なら」

「知らないそうです」

 マトイも降りてきてしまった。

「ソソギさんカレンさん共にまずあり得ないと言ったそうです。無意味に人を集めるなんて」

 俺とは違うプランで育てられた2人ならあるいは、と思ったが違ったらしい。

「半グレってのは、そんなに優秀だったのか?」

「優秀だったそうです。異常な程、手を焼いたと。連隊を組んだ重武装科がそう報告していた筈です」

 重武装科は、頭こそ無いが身体の頑丈さは折り紙付きだ。それにあのライオットシールドがあれば大抵の弾は弾ける。それにサブマシンガンという話があったのだから、それに対抗する特別な武装で来ていただろうに。

「特別な訓練でもされたのか?元swatが関わったとか」

「本当なら、あながち違うと言えないかもしれませんね。でも、今回は違ったそうです‥‥ゾンビのようだったと」

 ゾンビか。死ぬ気で守れと言われればそんな戦法をヒトガタならやり兼ねない。

「撃たれても起き上がるのか?」

「ゾンビ、というと語弊がありますね。特攻兵のようだったと。ゴム弾を撃たれても撃たれても銃を抱えて撃ち続けてきたそうです。作戦の為に身を捨てられる所は、思考が無いと言えるかもしれません。戦闘中は理性的にチームで動き、個人個人が合わさって継続的に火力を維持していたらしいですね。そして誰も逃げなかったと」

 人数を用意したあいつらは正しかった。そんな自分を捨てた戦いを仕掛けてくるのなら、尚更物量で圧倒すべきだ。

「‥‥人とは思えない。血は、どうだったんだ?」

「血液検査の結果、あなたや2人と同一の血の抗体を持っていなかった。間違いなく人です」

「薬か?」

「わかりません。目が覚めた1人から聞いたそうですが、何も覚えていないと、それに身体にも何も異常は見つからないと」

 マトイが首を振って答えてくれる。本格的に切羽詰まってきた。洗脳の場合、多少は拷問の後と薬物反応が出てくるだろうが、この言い方であればそういったの跡はなかったようだ。

「ごめんな。役に立たなくて‥‥」

 折角マトイが俺を頼りにしてくれたのに、良い所がまるで無い。

 なのに、一瞬だけ朗らかに笑んだマトイが街を歩き回っていたイノリのように腕に絡みついてくる。心臓が止まりかねない出来事に、声が掠れてしまう。

「‥‥怒ってるよな」

「いいえ、怒ってません。言っていなかった事があります」

 想像以上に体重をかけてくるので、倒れないようにモーターホームに頼りながらマトイを支える。

「実はね。法務科の仕事は、もう昨日の時点で終わっていた。これは私個人の捜査です」

「ああ、だからか。あいつらが詳しくは言えないとか、ここだけの話とか言ってたのは―――自分の事を話したのか?」

「いいえ。昨日は裏方に徹していました。顔も合わせていません。リハビリとしてなら参加を許されたので」

「良かった。足は平気か?」

「はい。だから、もう少し2人きりで」

 マトイを支える為に抱きしめる事にした。腕の中で大人びた顔付きで幼く笑うマトイに頭が混乱し、遂には狂乱と言ってもいい程の感情の揺れに心地良さを感じる。

「やっぱり人間は理解できない。イノリに、殴られて当然なんだと思う」

「その傷?」

 マトイが腕を伸ばして、シート越しに傷を触ってくる。

「‥‥俺は、今なんの為に生きてるのか、わからないんだ」

「主は捨てたんじゃなかった?」

 冷たいマトイの声が聞こえてくる。

「自分の為に生きる事が、そんなに苦しいですか?」

「‥‥もう、目も痛くない。‥‥マトイの師匠が言ってたような死ぬような目にも遭ってない。俺は、もう目的がないんだ」

 イノリに言ってしまった言葉。親は生きる為なら子供を産んで売ればいい、という発想はヒトガタの考え方だ。

 主の為なら生まれてきたヒトガタはその身を捧げる。それが当然と思ってしまう。

 捨てた筈のヒトガタに、俺は戻ってきてしまった。

「‥‥怖いんだ。マトイが好きだと言ってくれた自分じゃなくて、オーダーに来たばかりのヒトガタに戻ってきた‥‥」

「じゃあ、死ぬような目に遭いたい?」

 ――――マトイが、手を肌に潜ませて心臓を掴んできた。

「これを潰せば、もう一度死ねますよ。あなたが望むならば、何度でも何度でも」

 あの方のような手付きじゃない。本当に俺を殺す鉤爪のような奪う為だけの形。

「いいんですね?」

 なんと答えればいいのか、まるでわからない。でも、今はただただマトイに体温を感じていたい。それを伝える為に、細くて柔らかい身体をただただ抱きしめ続ける。

「‥‥そんなに、私を苦しめたいんですか?」

「違う!」

 イノリと同じ言葉が口を衝いた。

「あなたは、私に殺せと言いました」

「俺は!」

 マトイを引き離して、顔を見る。

「俺は‥‥!‥‥ただ、このまま、生きていいのかって‥‥」

「死にたいんじゃないんですか?」

「‥‥やめてくれ‥‥」

 いつもと変わらないマトイの顔。

「‥‥俺は、死にたいんじゃない‥‥」

「じゃあ、どうしたい?」

 俺を宥めて、甘えさせて、許してくれるいつもマトイなのに。

「‥‥わからない。俺には、生きる意味が無くなってきた。このままマトイ、皆んなとオーダーを続けて、生きていいのか‥‥」

 ゴールデンウィーク中に感じていた、あの血の巡りをもう感じない。もう身体が熱くない。目が冷え切っている――――目の使い方を、未だにわかっていない。

「ヒトガタにとっての生き方は、ただ主の為。‥‥でも、俺は死にたくなかった。死にたくないから、生きた‥‥」

「それは悪い事?」

「‥‥ヒトガタは意味が無いと生きてはいけない。生まれは捨てられないんだ‥‥」

 生き方は捨てられる。でも、持って生まれた生命としての命題は捨てられない。

「どうすればいい‥‥。どうすれば、俺は生きていい‥‥?」

「許可が欲しいんですか?」

「許して欲しい‥‥」

 人間なら自分で考えて生きられる。ネガイのように復讐の為に生きる、マトイのようにオーダーの為に生きる、イノリのように捨てられた人間の為に生きる。

 俺にとっては不思議だった、

 もう自分に意味が無いと言ったイノリを見て、思ってしまった。次はどうするのか。俺は、次をどうすればいいのか。

 マトイが俺の両耳に手を携えて、目を合わせてくる。

「なら、聞いて下さい。マトイの物たるヒジリに告げます」

 心臓が躍動しているのを感じる。やっと、また血を感じられる。また目を通して世界を見る事が出来る。

「‥‥」

「‥‥ヒトガタを、捨てないで」

「‥‥いいのか」

「前に言いましたよね。あなたの精神は目に造られた」

 忘れていた事実を思い出してしまい力が抜けていく。膝から崩れ落ちていく身体と頭をマトイは身体で受け止めてくれる。

「自分で考えてって、残酷でしたね。身体も精神も、あなたの物じゃなかったのに‥‥」

「‥‥いいんだ。俺も、考えたかった‥‥」

 マトイを傷付けて、どうすればいいかわからなかった俺はマトイに聞いてしまった。どうすればいいのかと―――残酷で無知で、愚かな自分が嫌いで仕方ない。

「人間とヒトガタは違う。あなたが必死に考えた答えも、人間である私には理解できない答えなのかもしれません」

「‥‥そう思うのか‥‥」

「ごめんなさい。人間の尺度で測ってしまって‥‥。苦しかったですね、理解できない人間の世界を見せられて」

 あのネオンも、クラブも、音楽も、俺には結局理解できない事ばかりだった。付いていけなかった――――否、そもそも人間の消費文明自体どこまで理解出来ているだろうか?なぜ、ああも、自分の為に生きれるのか?

 ヒトガタに戻ってきた俺には理解できない。自身の快楽の為に、他を消費するなんて。

「‥‥人間とヒトガタじゃあ、生きる意味が違う」

「そうですね。生きるという事がそもそも違う」

 自分の為に生きる。それは、きっと正しい事だ。同じように、誰かの為に生きる事も正しい。でも、それは人間にとってのだ。

 ヒトガタにとってのとは、ただ主の為。のは、この身体が受け付けない。どう生きるのが自分の為なのか、ヒトガタにはわからない。

「もう一度言います。私が好きになったのは、あなたです。目に造られた精神に、ヒトガタとして生まれた身体。そんなあなたです」

「‥‥捨てなくていいのか‥‥俺は、このままでいいのか‥‥?」

「ヒトガタに戻ってるなんて、嘘です。あなたは元から人間の真似をしたヒトガタでした。それでいいの‥‥これももう一度言います。やはりあなたは人間から離れて行っている―――近くヒトガタからも離れてしまう」

 ああ‥‥マトイが捨てるなと言ってくれた意味がわかった。

「‥‥わかった。俺は俺のままでいる。ヒトガタも捨てない‥‥」

 化け物でありヒトガタの自分が人間の真似をする。全てが歪み合う関係性を全てを内に宿らせるなんて―――ただ一つの生命体である自分には相応しい。

「もう、忘れないから。マトイが好きになってくれた俺を‥‥」

 このままでいい。いつか本当に生命として逸脱してしまうかもしれない。月に帰る時があるかもしれない。けれど――――こうしてマトイを抱き締められるなら。

「俺はどこにも行かない。マトイが俺を好きでいてくれる、ここにいる」

 やっと血と目と心臓を取り戻せた。何も問題は無い、朝まで持ってい物を無くして夜に見つけられた。たったそれだけの話。

 立ち上がって淀んで溜まっていた血を全身に巡らせる。生きる意味はわからない、でもマトイがいるここにいなければならない。それだけでいい話だった。

「マトイ」

 名を呼んだ応えに熱を口から分けて貰い、この熱も自分の物とする。誰にも渡さない、自分だけの血だ。

「今日中、せめて朝までに終わらせる」

「はい」

「明日はネガイとデートだから」

「その口で言うのですか。許し難いですね」

 同じ事を前にネガイからも言われた。マトイの病室を朝訪ねて時だった。

「仕事だ。マトイ、これを終わらせたら、俺をもっと好きになってくれるか?」

「ええ、勿論」

 俄然やる気が出てきた。ネガイとのデートにマトイからの告白、これ以上の薪は無い。手を引いてモーターホームに戻ろうとした時、マトイが訪ねてきた。

「一ついいですか?」

「どうした?」

「私とあなたの関係って、なんですか?」

 今更な事を聞いてきた。けれども思い出した、からはっきりと言っていなかったと。それを伝える為に一度手を離して、新たに手を差し出す。

「マトイ、好きだ―――隣に、恋人になってくれますか?」

「やっと言ってくれましたね。‥‥私も好きです。これであなたと私は、恋人です」

「人間じゃなくてもいいのか?」

「言ってませんでしたか?私も、人間は嫌いです」

 手を取ってくれた恋人は、嫌悪感など一切隠さずに伝えてくれた。




「帰って早々にこれ?」

「私は、もう見慣れましたよ」

「やり慣れたの間違いでしょう?」

「否定はしません♪」

 モーターホームに共に戻ったマトイと、ソファーが埋まっていたので一つの椅子に腰掛けていた。膝の上に乗ったマトイとしばらく遊んでから、イノリに話しかける。

「そっちは大丈夫か?」

「‥‥別に」

 相変わらずの肘付きと外した視線だが、どうにか折り合いがついたようだった。

「良かった‥‥。もう一度言う、ありがとう。イノリは、俺の同胞の為に泣いてくれた。それに怒ってくれた。今度は俺がイノリの為に動く」

「‥‥どうするの?」

「決まってる。血の聖女の根元を断つ。ヒトガタが関わっているのなら俺の仕事だ。先に言っとく、この傷は自分の責任。イノリは教えてくれただけだ。俺が間違ってるって」

 傷を触りながら、頭を下げる。

「‥‥私も、間違ってた。‥‥あの時のあんたは、今も許せないけど、‥‥あのやり方は、良くなかった。‥‥ごめん」

 不機嫌そうな顔のままだが、謝ってくれた。

「借りは返す。だから先に謝っておきたい。もう潜入学科には通えなくなる」

「何する気?」

 やっと顔を向けてくれた。もう一度、チャンスをくれる。

「表のやり方を通す。‥‥最後に聞いとく、潜入学科に未練は無いな?」

「最初から無いから‥‥。それに、もう戻れないみたいだし」

 マトイの方へ目を向けて確認する。イノリの視線に法務科のマトイは頷きで返した。

「まずはあのクラブ。日常的なドラッグの横行と未成年の飲酒、それらの教唆に幇助、これだけ有れば充分」

「待って、正面から行く気?」

「ああ、やる」

 イノリが助けを求めるようにマトイを見るが、それを黒髪の恋人は笑顔で返した。

「彼なら平気です」

「本気で言ってるの!?またサブマシンガンとか持ってたらどうするの!連隊組んだ重武装科が手こずったのに!?」

「彼は、昔、海外からの武装傭兵1小隊を正面から撃破しました。最後は一方的でしたよ」

 イノリを安心させる為なのか、俺が弱くなる前の話をしている―――だけど、今ならあの時の足元には及ぶ。それに、恐らくは俺ならば苦戦は強いられずに済む。

「‥‥わかってるの?あんたの心配してるのに‥‥」

「俺は、大丈夫だ。もう何度も死んでる。だから、死に方は選べる。ここで死ぬ気はない」

「‥‥本当に、意味わかんない。なんで死なないって言えるの?」

「ヒトガタの考え方を知ってるからだ」

 昨日のオークション会場にいた半グレは、統率が取れた練度の高い部隊だったらしい。それを作り上げられていた理由は、自分が無かったからだ。誰かの為に、ただ主の為に自分を捨てる。ソソギの強さはそこにあった。ソソギと同じ考えなのだ、強いに決まってる。

「人間は死にたくないんだろう?」

「‥‥決まってんじゃん」

「なら、昨日の半グレは人じゃないかったんだ。一時的にヒトガタに近づける方法が多分あるんだ。ヒトガタの思考は聞いたよな。‥‥知ってるんじゃないか?その方法を」

「‥‥なんで、私に聞くの?」

 路地裏からクラブに潜入する時、何か言いかけていた。女性にしか現れない効果、それは恐らく聖女に会って記憶に残る事。

 だけど、何も無いとは言っていなかった。意味が無いと言っただけだ。血の聖女の目的が聖女に会って記憶に残る事ならば、のなら意味がない。

「教えてくれ。血の聖女を男性が使うと、どうなるんだ?」

「‥‥言えない」

 イノリがまた足を抱えてしまった。こうやって、自分を守ってきたとわかってしまった。あまりに痛々しい姿だった。

「言ったら、行くんでしょう‥‥」

「彼なら言わなくても行きます」

 今も膝の上に座っているマトイが頭を撫でながら、その意味を話し始める。

「なぜ止めないのか?それは言えません。ただ彼は強いから、これが理由です」

 ヒトガタの問題はヒトガタが解決する。それが戦力的にも正しい。

「相変わらず人間扱いしてないな‥‥」

「人間じゃないですから」

「本当に‥‥どうしようもない位に、好きだよ」

 これでいい。化け物と魔女との恋人関係は、こうであるべきだ。

「‥‥血の聖女を男性が使うと、どうなるのかは正確にはわからない‥‥。でも、」

 諦めて、覚悟を決めたイノリが、抱えていた足を下ろし呟くように教えてくれる。

「さっき聞いたヒトガタの話と被る所があった‥‥。自分の為じゃなくて‥‥本当に誰かの為になんでもするようになる所とか。あと、昨日の半グレ達とも被る気がする‥‥」

 本当になんでもであろう。完全武装の重武装科の連隊にも物怖じせずに対抗して、手こずったと言わせた。自分の命が惜しかったら出来ない芸当だ。

 しかも、それを行ったのがただ雇われただけの半グレなら尚更油断した筈だ。

「誰かの命令を聞くようになるのか?」

「‥‥それはわからない。使った人とほとんど話した事ないから‥‥昨日の潜入とかで見た感じだと、凶暴になる感じじゃないけど‥‥そのなんて言うんだろう‥‥。‥‥馬鹿にしない?」

「しない。教えてくれ」

 即答した事で踏ん切りがついたようだ。前髪を直しながら思い出し、自分の感じた事を正確に伝えてくれる。

「‥‥頭に直接命令でもされてる感じだった。誰も何にも言ってないのに、重武装科が到着した場所に走って行った‥‥」

「耳や首には、何も?」

 イノリの隣にいるサイナが詳し聞いた。商人としての知識や情報を使って、隠せる連絡アイテム推測するつもりらしくタブレットも出して、聞き取りを始める。

「ネックレスとかは付けてたけど、本当に聞いてる感じじゃなくて、ふらふらしながら一箇所に集まる感じって言うのかな‥‥」

 そんな光景を今まで見た事が無いのか、断言ができなくてイノリ自身困っている。

「じゃあ、私服にサブマシンガンだったのか?」

「そう、皆んな普通に私服だった。少なくともオーダー製とかじゃないと思う。オーダーの服って、ダサいからすぐわかるんだよね」

「あ、わかります!ドラム缶でも着てる気分になってきますよね!」

「許せてこの制服ですね。この服だけは、デザイン性があると言えます」

 基本的に防弾仕様の一般的な服より高い。そんな高い服を一般的な値段で販売しているオーダーだが、よく言われる事がある―――オーダー製の服はダサい。

 サイナが言ったドラム缶みたいな服とはオーダー製のコートによく使われる蔑称だ。

 ただ、16歳のガールズトークをここで始めないで欲しい。いつもとは、違う意味で眠くなる。

「寝ないで」

 マトイに頬を摘まれて、眠気が覚めていく。

「ヒトガタには、精神感応のような力を持っている個体はいますか?」

 精神感応、つまりはテレパシー、超感覚的知覚の一種。Extra Sensory Perceptionを略してESPとも呼ばれる超常の力の代表格とも言える力。超常の力は、人間にとっての超常だ、ならば人外であるヒトガタが持っていてもおかしくない。

「‥‥あり得ない話じゃない。ヒトガタの受ける血は、そもそもまともな生き物の血じゃない。‥‥超能力を持った個体がいてもおかしくない」

 寧ろ、それを目的にした誕生種があるのかもしれない。

 膝の上にいるマトイは、なおも真剣な表情のまま聞いてくる。

「自動筆記はなんと?」

「‥‥悪い、言って無かった。自動筆記はヒトガタの誕生種についてはほとんど役に立たない。俺自身の誕生種すらまともに教えてくれないぐらいだ‥‥。多分、そういう部分は削ってる。‥‥それに、そもそも知る必要の無い知識なんだと思う」

「そうですか‥‥」

「カレンとソソギも同じだ。2人が比較のプランで生まれたのなら超能力のような個体差によって変わる力は与えない」

 自動筆記やヒトガタの誕生種など聞き慣れない単語、それに俺が文章でも読んでいるかのような話し方に、イノリは困惑している。

「‥‥その自動筆記って、スマホの機能か何か?」

「そんな所だ」

 マトイが何か言う前に被るぐらい早く言う。

 それにイノリの言っている事は間違いじゃない。これは俺の知識じゃない、ヒトガタに自動的に備わっている臓器に近い。

「だから有り得ない、とは言わない。有り得る話だ」

 だけど、それはお互いがお互いのチャンネルを合わせられるという前提の話だ。

 自動筆記には人間のテレパシーとヒトガタのテレパシーについての記載があった。

 それだけではない、ヒトガタのテレパシーという力は、もう時代遅れだとも。

 ヒトガタのテレパシーを使うには、相手と意識を合わせる必要がある。呼吸を合わせるという話で無い、本当に相手と溶け合った意識が必要らしい。相手とチャンネルを合わせて、精神を溶かし合い、相手と完全に同化しなければならない。

 これがヒトガタにとってのテレパシー。これでは意思を伝えるという力ではない。

 同じ事を考えるから、伝わったように感じる。確かに時代遅れだ。スマホでも使った方が良い。

「だけど、その可能性はかなり低い。人間でもそうだろうが、ヒトガタでも無差別に意思を伝えるのは、まず無理だ‥‥無理だ?」

 ヒトガタは、貴き者の血を受けて力を得る。

「でも、それを人間に分け与えるなんて‥‥」

 ヒトガタには出来ないかもしれないが、貴き者の血ならば、でも、それだって生まれたばかりのヒトガタだから受け入れられる――――ただの人間に出来るのか?受け入れる事が。それに、あれらの血は貴重だ。そうそう出回る筈が無い。

「何か、思い当たりましたか?」

 マトイの声が聞こえる。

「‥‥何にしても、血の聖女の足取りを掴まないとならなくなった。‥‥出るぞ」

 マトイを持ち上げながら、立ち上がり、振り返って椅子に座らせる。

「サイナ」

「は~い。制服ですね」

 サイナから俺の制服の入ったアタッシュケースを受け取り、中身を確認する為に机に置いて鍵を開ける。

「向こうで着替える。イノリ、準備を」

 制服に仕込んである包帯や薬、弾薬。全てを確認し終わった所で扉に向かう。

「‥‥いい。私は残る」

「‥‥さっき表のやり方って言ったけど、1人じゃ無理だ」

 また足を抱えてままで固まってしまった。

「今更、私に何ができるの?‥‥また、殴るかもしれないよ」

「‥‥その時はその時だ。サイナ、血の聖女を手に入れたら急いで連絡する。だから」

「はい、そのアタッシュケースには保温効果や冷却効果がありま~す♪」

 サイナが跳ねるように、近づいてきた。俺の持っているアタッシュケースの取手近くのボタンを差して知らせてくる。

「防弾性に耐刃性。‥‥私が使っている鞄と、ほぼ同じ強度があります」

「それは信頼性がある。頭で実証済みだ―――行ってくるよ‥‥後で」

「いってらっしゃいませ♪」

 サイナからも熱を受け取り、準備は整った。後は、イノリを持ち上げるだけだ。

「え、ちょっと!?」

「いいから、行くぞ」

 有無も言わさずにイノリを持ち上げて扉を開く。後ろからイノリのヒールとバックを持ったサイナがついてくる。

「ま、マトイ!」

「お気をつけて~」

 マトイに助けを求めたが、当該の人物は手を振って温かく見送ってくれた。



「そんなに睨まないでくれ」

「別に睨んでないから。それと正面からは許さないから。さっき言った通りだからね‥‥」

 モーターホームから出て所で、イノリが切れて顔に肘を入れてきた。それでも離さない俺に呆れて諦めてくれた。

 今はクラブに潜入した時と同じように、腕を取られて歩いていた。いい加減慣れてきて、それなりに様になっているだろう。

「それで、着替えはどこにあるんだ?」

「‥‥後、もう少し」

 イノリも、もしもの為に自分の正式な武装である制服を用意していたらしい。今から向かう所はイノリの制服を隠している場所との事だった。

「見られてないね」

 クラブでの一連が気になるのか、周りに気付かれないレベルで視線をあちこちに移している。

「そんなにすぐ出回る物なのか?詳しくは知らないけど、ああゆう場所だと日常茶飯事なんじゃないか?」

「‥‥そうね。少し敏感になってたかも」

 肩の荷を自力で下ろして、一呼吸入れる。

「臭いね」

「早く帰りたいな‥‥」

 帰ったらまずは風呂だ。昨日の内にお湯を抜いた筈だから、帰り次第軽く洗ってお湯を張りたい――――しくじった。昨日の鳥を残すべきだった、失念していた。

「‥‥待ってるの?」

「何を?」

「そうじゃなくて、部屋に待ってる人がいるの?‥‥あの彼女さんとか」

「ああ、そういう意味か。いや、今日はいない。でも、明日は約束がある」

「デート?」

「当たり」

 隠す事でも無い。もうネガイと俺の関係は周りにとっくに知れ渡っている。明日、約束があると言えば誰でもわかる。

「いいよね、誰かが待ってくれてるって‥‥私はいなかったから」

 話が噛み合っているようで噛み合わずにいた理由がここにあった。

「‥‥イノリは、すごいよ」

「急にどうしたの‥‥!」

 歩きながら急に褒められて驚かせてしまった。普段よりも高いトーンの声で聞き返された。

「覚えてるか?俺が捨てられた時、何してたか」

「‥‥電話してたんでしょう‥‥私もしたし」

「でも、それだけだ。イノリみたいに自分で家に帰ろうとはしなかった。捨てられたばかりでつらくて一歩も動けなかった。オーダー街から出ようとなんて思わなかったんだ」

 しかも、現状に甘えていた。きっといつか来てくれるって思っていた。自動筆記が始まるまでは―――。

「‥‥私は、何も知らなかっただけ。‥‥自分の事がわかってたら、帰ろうだなんて思わなかった」

「それでもだ」

 自動筆記を言い訳にしていた。行こうと思えば、行ける距離だ。今だって、行こうと思えば行ける。イノリのが必要な傷だなんて、決して思わない。知ってはいけないだ。それは、この化け物でもわかる。

「‥‥家に帰りたい?」

「いや、帰らない。オーダーが俺の居場所だ」

「‥‥そっか」

 もう話したかもしれない内容を繰り返す。ただの時間潰しだ。会話を楽しみたい気分じゃない。会話が途切れるのが怖かった。一歩、歩く度に客引きやイノリを誘う声がかかってくる。向かってくる手を肩で弾いて歩く。

 イノリが指示する通りに歩き続けると、空気が一変する。目に見えて店の外観や歩く人間が様変わりした。

「‥‥いいな。ここ‥‥」

 ガラス越しに見えるヒールやドレス、予約客を待つスーツ姿の店員。車道を通るタクシーすら美しい。今は減ったきたセダンタイプの黒塗りのクラウン。いわゆる黒タクだった。乗っているドライバーも、素敵な紳士達だ。

「仕事帰りはいつもここを通るの。ここを歩くと、自分を洗ってる気分になるから」

 深呼吸をしたとしても臭いとは思わない。同じ空気でも、ここまで違うのかと思う程に、穏やかで温かい空気を感じる。

 それをしばらく堪能していた時。

「このお店」

 イノリが指を差した。

「バー?」

「バーじゃない、クラブ、でもあんなうるさい所じゃないから」

 差されたクラブらしい店は、路地にありひと目から隠れたような店だった。地下に続くような扉で店の看板を構えている。

 だが、決して些末な雰囲気じゃない。それが年期や歴史を重ねた木製の扉と看板で感じ取れる。

「さ、入ろ」

 腕を引かれ、イノリは自分の家に入るような手馴れた様子で扉を開け放つ。想像通り、先はやはり地下に続いていた。

 地下へと続く階段の壁は灰色の漆喰だ。所々に酒瓶や、木製の小さな黒板を置いている棚が設置され、それら中にはノートもあった。

「ここに来た日の記録とかを記すの。なんかいい感じじゃない?」

 楽しそうにノートを広げて、中の文字を撫でていく。

「でも、それも今日で終わり。‥‥気にしないで、そもそも私が来ていい場所じゃなかったから」

 ノートを棚に戻し階段を降りていく。

 そこまで長い階段じゃない、入った時から地下の先が見えていた。でも、ゆっくりと降りてしまう。歴史として感じる、ここを降りた人達の空気を。

「入って」

 手を引かれる。地下のもう一枚の扉、黒い木の扉に手を当てる。

「‥‥削れてる」

 扉と同じように、木製の黒いドアノブを捻る。この音さえ愛おしい‥‥、そう感じる程に、単調で柔らかい音だった。

「失礼します」

「ん、来たかね」

 ここも同じクラブなのかと思ってしまう―――ただただ美しかった。

 板張りの床に白い漆喰の壁、バーカウンターとピアノを刺すようなスポットライト。そして、歌姫。

「クラブって言うのはこういう所もあるの。でも外のも受け入れて、ああいう所が好きな人間もいるから―――ああいう場所しか好めない人もいるから‥‥」

 歳なんか関係ない音の震えが耳に届く。聞いた事がないバラードだ。でもわかる。俺とイノリには、この空気は早い。まだ歴史が足りない。これを楽しむには、まだ生き足りない。

 はにかんだままのイノリに手を引かれて、バーカウンターの椅子に座る。

「これだね」

 ここのマスターなのか。白い髭と白い髪が眩しい老人が片腕で革製のアタッシュケースをカウンターの下から持ち上げてくる。

 アタッシュケースを受け取ったイノリは、軽く下を向いて会釈をする。

「‥‥今日まで、お世話になりました」

「世話なんかして無いさ。頑張って」

「はい‥‥!」

 一瞬座っただけで、イノリは立ち上がってしまった。

「今度来る時は大人になった時だ。‥‥彼女をよろしく」

「はい」

 面識なんて無い。でも、そう言うべきだとわかった。

 俺も一瞬座っただけで、椅子から腰を下ろす。この椅子に座る事すら俺には許されない。ここはあるべき人が座るべき椅子だ。

 甘い果実酒の香りがするカウンターから離れて、イノリと視線を合わせる。

「‥‥行けるか?」

 聞くまでもない。こんな決断、イノリはとっくに越えて来た。でも聞かなければならない。ここと別れを告げる為に。

「決まってるでしょう。行こう‥‥」

 イノリは変わらずに腕を引いて扉に戻る。全く振り返らずに外に出る。

「あの人にとって、私との出会いなんてほんの些細な事。‥‥でも、私には違う」

「‥‥行こう」

 今度は俺がイノリを引っ張って階段を登る。壁のノートも酒瓶も見ない。ただ真っ直ぐに上を見る。

「‥‥ずるい。普通聞くでしょう」

「それはイノリの、イノリが選んだ出会いと別れだ。自分の為だけいい、俺もそうしてるから」

 ネガイとマトイ、そしてあの方。まだまだいる。俺がオーダーになった理由はどこまでも受け身だ。自分でなった訳じゃない。

 でも、続けると選んだのは俺自身。これからの出会いと別れは、全て俺が選ぶ。俺が選んだのだから全て俺の物。それはイノリも同じで、イノリが選ぶべき関係。

「もう俺達は捨てられる立場じゃない」

 外に出る直前に、イノリと見つめ合う。

「もう俺達はこの街の敵だ」

 イノリはもう潜入学科じゃない。なれば裏のオーダーは捨てないといけない。オーダーとして、生き方や付き合い方も変えないといけない。

「‥‥やろう。表のやり方を、できるか?」

 自分のアタッシュケースを叩いて、中を揺らす。この中には、あのマトイ、ソソギを圧倒できた俺が詰まっている—――――覚悟は決めた。

 ヒトガタと人間の真似、化け物、これらを分けない。全て、自分の物にする。

「決まってんじゃん」

 ああ‥‥、やっと笑ってくれた。そうだ、俺はこの目の輝きが見たかった。

「まずはあのクラブだ」

「ちっちゃいね」

「そう言うな。明日の朝には、この街を相手にしてるから」

「ふーん‥‥、悪くないじゃん」

「ああ、悪くないだろう」

 扉を押して、外に出る。もう何もかもが違う。この街と一つになる必要は無い。イノリも、俺もここの住人じゃない。それに俺は人類の敵だ。

 街の一つや二つ、幾らでも敵に回せる。幾らでも滅ぼせる。



「オーダーだ。通せ」

 クラブに戻って、関係者用の出入り口にいた店員にオーダー証明である学生証を見せて詰め寄る。

 最初は驚いた顔を見せてが、まだ子供だとわかり、ほくそ笑んでくる。

「何の権利があって?この店は」

 無礼な世間知らずの腹に足の一撃を入れて、開いている扉の中まで吹っ飛ばす。瞬時に周りに見られないよう扉を閉めて鍵もかける。

 ここが人の目につかない場所でよかった。でなければ、人前でこいつを蹴らないといけなかった。

「お、お前‥‥あ、」

「この店は廊下やトイレ、それに控室にも煙探知器をつけてたな。それは褒めてやる。ただ法律を守っているだけだが。でも、未成年の飲酒にドラッグ、それに本来、こういった店は未成年の入店は許されない。そうだな?」

「そ、間違いなくこの店は犯罪を犯してる。もう写真とか動画で証拠も調べもついてる」

 倒れたままで逃げようとする店員にスマホを見せて、言い逃れが出来ないようにする。

「逃げるなよ?俺に背中を撃たせる」

「お、脅したな!?オーダーが俺を殺すって!」

 恐慌状態らしく、この状態でも舐めた口を利いてくる。

「お前こそ!訴えて!」

「やってみろ」

「へ、」

「できるなら。‥‥死にたいのか?」

 M66を向けて、こめかみギリギリに発砲する。酷い耳鳴りに呆ける顔の首を掴み上げて、最終確認をする。

「俺はオーダーの仕事としてここにいる。オーダーは殺しはできないが、必要とあらば、発砲が許可されてる。この意味がわかるな?」

「じょ、冗談‥‥ですよ‥‥」

「なら大人しくしてろ」

 腰を床に落とさせて腕を振り、腕に仕込んでいた警棒状態の杭を取り出す。有無も言わさずに店員の鳩尾に叩き込む。

 気絶した店員を跨いで、あの控室に戻る為に廊下を歩く。

 まずは第一段階が成功した。知らせる為にマトイに連絡をする。

「成功した。そっちは?」

「準備は整っています。すぐにでも突入できるそうです」

 ここに戻るまでに、昨日関わったオーダーの人間を呼べるだけ呼んだ。どいつもこいつも昨日の仕事に不満があったようで、今回は金がそれなりに出ると聞いたら飛びついてきた。

「皆さん、現金ですね。これだからオーダーは信用出来ます」

 マトイがスマホ越しに笑っているのがわかる。

「なるべき事はわかってますね?あなたがすべきなのは血の聖女の回収、それだけです。それ以外は他のオーダーに任せて下さい」

「わかってる。すぐに終わらせて、戻るから」

 連絡を切って控室に入ると、先客が既にいた。

「あ?なんだ?ここは俺達の‥‥」

「オーダーだ、出て行け」

 控室には別のDJなのか、それとも見習いなのか知らないが、さっきまでいなかった人間達が屯していた。

 何の為か分からないが、ピンクのサングラスに口元のピアス、それに完全にパジャマにしか見えないジャージ。ダサい、そんな評価しか下せない。

 視界に入れたくもない。そんな奴らが3人。その中の1人は下着姿の女を自分の膝の上に置いている。

「は?オーダー、何それ?」

「こっちは忙しいんだよ、わかるだろう?」

 笑みを浮かべ、吐き気がするようなタバコと酒臭い息を吐いて近づいてくる。

「そこの自称オーダーくんは帰っていいから、君は俺達と遊ぼうぜ?」

 男はそもそも視界に入っていないのか、隣のイノリの肩に手を置いた。

「いいから‥‥、さっさと出て行けってんだろうがよ!!」

 もう我慢の限界だった。呼吸を止めるのも限界が来た。イノリの肩に手を置いた方の顎に警棒状態の杭を喉に突き入れて、控室のテーブルまで突き飛ばす。飛ばされた先には、酒や氷が入っているバケツがあり背中の衝撃を受けた所為で、部屋中は酒の匂いで充満する。数瞬間遅れて、女の悲鳴が聞こえた。

 まただ、そう思った。

 またあの時の酩酊感を感じる。夢を見ているような気分になってくる。

「てめぇ‥‥、こんな事して!ただで」

 イノリが俺の肩を使って飛び上がり、膝で対峙していた男の顔面を蹴り付け壁に叩きつける。壁に叩きつけられた男は、蹴られた顔から鼻血を出し気絶した。

「しっかりして、私もいるから」

 イノリは流れるようにバックからオーダー証を出して、部屋のソファーに近づき残りの男に見せるが、身内が飛んで来たり、鼻血を出して倒れている仲間を見て、ほとんど放心状態だった。女は思い出したようにソファーの服を持って身体を隠し、部屋の隅に逃げていく。

 オーダー証を見せても、何も言わない男に痺れを切らしたイノリが腕を振り上げて、男の頬に拳を叩き込む。

 痛みで我に返った男に、イノリは倒れている男達を連れて出ていけと言った。

「‥‥せめて、掌にしとけよ」

「警棒のあんたに言われたくない。そこのあんたもよ、さっさと出て行きなさい」

 着替えていた女は未だに上が下着姿のままでの俺の側を通って廊下に走り去る。その後を追うようにイノリに殴られた男と喉を突かれた男が仲間を引きずって廊下に出て行った。

「早く閉めて、着替えるから」

「あ、ああ」

 最近の生活のせいで、着替えは1人でするものという事を忘れていた。本当に俺は甘えん坊になってしまった。もう自分1人では、ネクタイもできないかもしれない。

「外で待ってるから、終わったら」

「何言ってんの?あんたも着替えればいいじゃん」

「‥‥は?」

「いいから早く閉めて!!」

 声に従わなければ撃たれるような迫力を受けて、急いで扉を閉めた。自然と振り返る動作を堪えて、イノリの方を見ないように服を脱ぐ。

 自分がおかしいのだろうか。マトイ達には、もう何度も見せてるから、構わないけが――――イノリは平気なのか?

「何恥ずかしがってんの?彼女さんとかマトイのも何度も見てるんでしょう?私はいいからこっちに来て」

 もう肩を出した若者の服を脱ぎ去ったイノリは、上下とも黒い下着姿だった。

 先ほどの女の人よりも派手な下着なのではないか?という意識が心を埋め尽くしていく。

「‥‥その、‥‥すごいな‥‥」

 目線が外せない。健康的な肉体美だ、それなのに肉付きもよくて服越しでもよくわかったS字の造形美を持っている。スポーツ選手とモデルの肉体だった。

「何見てんの?」

 イノリに睨まれて、急いで制服を引っ張りだす。無意味にアタッシュケースの中の制服をこねくり回して、どうにかイノリが着替え終わるまでの時間を稼ぐ。少しは、ネガイのお陰でこういう光景の耐性がついたと思ったが、これだ。

 上着は裏表逆で、ズボンは履けなくて、テーブルにすねをぶつけて涙目でズボンを履き切る。骨折でもした痛みに苛まれる。

「見慣れてるんじゃないの?あんだけ彼女さんと一緒にいるのに、もう‥‥したんでしょう‥‥」

 白いシャツを着てくれたお陰で、取り敢えずは上下の下着が見えなくなった。次にスカートを腰まで上げていく。

「‥‥なぁ、まさか―――」

「あ、違うから!流石にそこまで情報科でもしないから!!そんな事を盗撮なんかしないから!!これは安心して!絶対に、身内で回したりしないから!!」

 まさか、ネガイとの夜を撮られていたのでは?と思い、イノリを睨んでしまった。

「‥‥イノリの事は信じてる」

「うん‥‥。そこは、大丈夫だから」

「潜入学科のイノリがここまで言うんだ。信じよう―――違ったら、覚悟しろ」

「う、うん‥‥プライバシーは、誰にだってあるから‥‥」

 ほとんど着替え終わり、後は装備の最終確認だけとなった。ソファーに座りながら残弾や刀剣、薬を調べる。

「それで、その、したの?」

「そういうのは聞かない、いいな?」

 割とそういう話に興味があるようだった。下着姿を見せても平気なのに、その手の話の経験はないらしい。身持ちが硬いは良い事だ。

「‥‥よし、行けるぞ。そっちは?」

 イノリもアタッシュケース中の確認が終わり、武装を見ているだけとなった。

「大丈夫、こっちも行ける」

「‥‥それは?」

「気にしないで、防弾ベストみたいな物だから」

 イノリがシャツの上に巻物?みたいな物を巻きつていく。防弾ベストと、言われればそう見えるかもしれない。防弾ベストの上に黒いパーカーを着て、更にその上に上着を羽織る。重ね着をし過ぎのように感じられた。

 スーツはそのままに、扉の前に向かう。

「いつでも行けるように言っといてくれ」

「はい」

 マトイにそう確認させて胸ポケットの中にスマホをしまう。

「確認だ。俺達の目的は血の聖女の確保。ただし、血の聖女の事が周りにバレるのはまずいから、血の聖女絡みでの応援は頼れない。それと、このアタッシュケースにはその為の機能がついてる」

「うん。どっちが持つ?」

「最初は俺が持つ。でも血の聖女が手に入り次第イノリが持ってくれ。基本は俺が全面でやり合う。何も無いといいけど」

 確実にいるのだろう。ヒトガタのような男達が。

「それの防弾性は折り紙付きだ。もしもの時は盾にしていい。多分、血の聖女を入れたままでも防げる。‥‥開けるぞ」

 心の準備は済ませてきた、武装の準備も終わった―――時間だ。

 ドアノブを捻り少し扉を開ける。まだ俺が持っているアタッシュケースを盾にするように、両手で抱えて外に出る。



「動くな!オーダーだ!両腕を頭につけて、跪け!」

 まずは関係者出入口ではなく、一般用出入口の制圧。外からならまだしも内側から銃を構えてのオーダーは想定外で自分の懐にあった拳銃も出せないで大人しく跪いていく。

 それを確認後、隠れていたオーダー達が銃を構えて店の前を取り囲み、店の外の店員や客諸共、地面に伏せるように指示していく。

 トドメとばかりに巨大な装甲車二台が店に続く道を封じ込めて、向かってくる事も逃す事も許さない鉄壁の壁を築き上げる。

 この間、10秒。

「‥‥やり過ぎ」

「皆んな、金が貰えなくてイライラしてたから。ストレス発散も兼ねてるんだろう」

 店の出入口から俺達を越えて、一階部分をオーダーの制御下にするべく制圧科や襲撃科、重武装科が乗り込んで行く。

「任せた」

「任された」

 通り過ぎていく襲撃科の1人と挨拶を交わして、イノリに振り向く。

「これが表のオーダーだ。どうだ?」

「別に、いつも見てたし」

「明日からは、この一員だ。期待してろよ」

「‥‥早く行こ」

 パーカーのフードで顔を隠してしまった。

 手を引かれて、逮捕されている店員を横目に廊下を走る。

 走りながらでもわかる。今も地下からの音が振動となって床から伝わっていた、呑気としか言いようがない。真上をオーダーの混成が跋扈しているというのに、まるで気付いている様子おらず、感服してしまう。更に、もうひとつ拍手をしてしまう―――よくあの音量の中に長くいられる。自分では数分が限界だった。

「下がってくれ」

 階段近くで銃声が響き始めた。アタッシュケースを持ったままの俺が先頭に立って、廊下を走って行く。

「どこに行く?」

 もう既にここへの潜入をしていたイノリに意見を仰ぐ。

「エレベーター!一般客に許されてるのは一階とか地下だけで、それに何度か若い子が上に行くのを見た事があるから」

 前に来た時はエレベーターなんて無かった。でも、どこかにあるのだろう。見つからなければ、階段がいいのだ。

「エレベーターと階段どっちがいい?」

「エレベーターの方!私も階段を探したんだけど、見つからなくて」

 もし階段が設置されて無ければ、防災上、問題がある。これも後で報告だ。

「できれば階段がいい。途中で電源でも落とされたら堪らない‥‥」

「私もそう思って、この店中探したんだけど、地下から一階への階段はあるのに、一階から上に行く階段は無いの」

「欠陥建築だ。センスねぇな」

「言えてる」

 2人で悪態を吐きながら廊下を突き進み、あの地下に通じる階段に行き当たる。

 階段にはライオットシールドを携えた重武装科が続々と階段を降りて行く。

「おう、来たか」

「悪いが盾になってくれ。それと、その格好悪くないぞ」

「金の為だ。もうやらねーよ」

 本格的に兼科でもしたらいいと思うほどに様になっている整備科を盾にしてイノリと共に機関銃の銃声が響く地下に降りて行く。

 地下に続く階段を降りた先の廊下で重武装科の数人が盾となり、後ろにいるあの襲撃科と数人の制圧科と襲撃科が応戦していた。

 整備科の影に隠れて、ある程度進んだ所で前にいる重武装科の影に滑り込む。

「任せたって言っただろう?」

「君が来るのを待ってたんだよ。いい会場ができただろう。‥‥行けるね?」

 グロック17の二丁持ち。現実味が無い装備だ。これが襲撃科の中でもと言われる由縁だった。

「お前はどこの軍師だ‥‥」

 アタッシュケースをイノリに渡す。両手が開き、M&Pと警棒状態の杭を抜いて襲撃科の異端児の声に応える。

 心臓にはすでに薪を入れていた―――いい感じだ。もっと血を流したい。

「最近はTMPが流行ってるのかな?昨日といい、今日といい腕が鳴るね!全く‥‥!前面にTMP2人、後ろにマカロフ3人、どっちがいい?」

「TMP2人とマカロフの1人は片付けるからから、後ろは任せた。弾切れを待てる程、俺は暇じゃない‥‥!」

 今も撃ち続けてくる。あのライオットシールドはピアスすら弾く本当の特別性だ、このまま待ってても構わないが、俺は急いでいる。

「待って!本気!?」

「君は?」

「コイツの新しい良い人だろう?」

「あーそういう」

 イノリからの叫び声を整備科と襲撃科はさらっと受け流す。

「俺はいるか?」

「‥‥盾を足場にさせろ。その後はイノリを守ってくれ」

「了ー解」

 整備科にイノリを押し付けて、整備科が斜めに盾を床に立てる。バイクのジャンプ台のように。

 前面の重武装科に背中を向けて、足腰をバネにする為に整備科の盾に片足を置く。

 足が熱い。血が吹き出しそうな勢いが、今か今かと血管を突き破ろうと暴れている。

「行くぞっ!!」

「いつでも!」

「来い!」

 心臓の薪の熱が最高点に達した。盾に置いている片足の筋肉に血を回して、全力で蹴り付ると、整備科も俺を弾き返してくれる。

 天井に腹を向けて飛び上がり、前面の重武装科を超える。

 身体中をあの方の血が駆け巡る、目に血が昇りきる。

 視界が開ける。頭蓋骨が割れて、頭を縛っていた拘束が解けていく。

「ああ、そうだ‥‥、そうだ!この感覚だ!!」

 重武装科の上から文字通りに飛び出た俺から一瞬遅れて、襲撃科がグロック17を両手に持って飛び出る。

 右側のTMPの狙いが重武装科から俺に狙いが変わる。馬鹿共が、そんな撃ち方ではサブマシンガンはまず当たらない。

 片足をついているから、それなりに撃ち慣れているようだが、腕力が足りない。腕が揺れているのが飛んでくる9mmパラベラム弾の弾道でわかる。

 銃口から発射される地続きの弾丸達は、それぞれ、天井や壁、床に向かって行く。どれ一つとして真っ直ぐ飛んで来ない。

 TMPどころか大体の短機関銃は動いている物にはまず当たらない。それを補う為のマカロフだろうが発砲が遅い。

 飛ぶ前に伸ばしていた右腕に、左手で持った杭を右の腕に添わせる。

 杭を棒手裏剣のように右側のTMPの側面に投げつけると、同時に40S&W弾を放つ。杭が突き刺さった事によりTMPは内部に異常が発生、それでも引き金を引いた時でTMPは破裂する。

 杭を投げた勢いのままで左腰のバックルに指を沿わせる。側面のナイフを残りのTMPにも腕を上げるように投げつけ銃口を逸らせる。

 破裂したTMPにより店員の1人の手から血飛沫が上がる。

 やっと俺に銃口を向けきれたマカロフの三丁が引き金に指をかけようとするが、そこにグロック17の弾丸、9mmパラベラム弾の二つの弾丸が二丁のマカロフを捉える。マカロフは受けた弾丸により弾け飛び、さらに血飛沫が上がる。

 マカロフもデットコピーだった。

 最後の一丁になったマカロフから9mmウルトラ弾が発射されそうになるが、既に放ったM&Pの40S&W弾が残りのマカロフを破壊する。

 残りのTMPが撃ちながら銃口を向けくるが、その時にはナイフがTMPに突き刺さり内部から破裂する。

 銃を完全に破壊した。よって後は接近で終わらせる。

 着地後、振り返り様に腰から抜いた鞘付きの脇差しを、襲撃科はグロックを鈍器にする。縮地を使って、前面の1人の喉に左手の脇差しを突き入れて、更に一歩前に出る。突き入れた脇差しを水平に薙ぎ払って隣のもう1人の首を狙う為に。

 片手平突き、ソソギの真似事だ。

 俺が突きを放った時には、2人の間を縫うように駆けた襲撃科は更に後ろの3人をもすり抜ける。

 薙ぎ払いが首を捉えた時には両手を開くようにグロックのグリップエンドを2人の後頭部にぶつけて気絶させる。

 最後の1人は中腰で突き出される俺のM&Pと襲撃科のグロック、三つの銃口を向けられる。

「投降して下さい。今なら傷の治療もす」

「聖女の為‥‥」

 銃口を向けられた店員がそう呟いた。だから薙ぎ払っていた脇差しを瞬間振り上げて肩を打つ。その結果、店員は倒れた。

「聞かなかった事にするよ」

「またなんか奢る」

「うん。お願い」

 一言二言で空気を読んでくれる。そして一連の攻防の余波が完全に過ぎ去った所で

イノリの声が響いた。「もう、終わったの‥‥?」と、頭を盾で守られていた彼女はようやくことの顛末が理解したようだった。そんなイノリに、「ほら、言った通りだろう?」と整備科が声を掛けるが、聞いていないのか無視なのか、返答はしないで駆けてくる。

「本当に大丈夫‥‥?」

 イノリが制服を触って怪我をしていないか、これでもかと調べてくる。このままでは制服まで脱がされかねない。

「大丈夫だって、頭も見るか?」

「うん、見せて」

 即答だった。仕方ないと、腰を下ろして頭を触らせるが周りの目が気になる。

「あー、あれだ。会場までは俺はいけない。その、あれだ、他の仕事があってだ」

「大丈夫、大丈夫。わかってるって」

「そうそう、俺もわかってるから」

 呆れた整備科と盾になってくれていた重武装科が素通りして行く。

「俺はラーメンで。全盛で」

「それよりすき焼きとか行かない?」

「いいな、それ。お前達も来るだろう!?」

 そんな話を後ろの一年の同級生達に言った所、全員が雄叫びを挙げる。

「勝手に決めてくれ。経費として申請するから」

「せっけーな!」

「うっせ!!」

「冗談だよ」

 投げつけた武器を回収して、渡してくれる。

 本当なのか、嘘なのかわからない冗談で俺を笑いながら、手から血を流している男達の手首や脇の下を縛り、治療科が到着するまで待っていると後ろから続々と応援が駆けつけてくる。中には治療科もいる。ただ、ミトリはいない。

「怪我をしましたか!?なら、私達が」

「私が診るからいい」

 治療科が到着して傷を診ると言ってのにイノリはなかなか離してくれない。頭を撫でられているみたいで、眠くなってきた。

「うん‥‥大丈夫みたいね、良かった‥‥。‥‥眠い?」

「少しだけ‥‥」

「もう少し、頑張って」

「‥‥ああ、そうだな‥‥」

 イノリに手を引かれ立ち上がる――――まだ目に血が通っている。気持ちいい、もっと血を流したい。

「こっちに来て」

 また手を引かれて、会場とは別の廊下に連れて来られる。

「‥‥ここか?」

 この廊下は関係者以外立ち入り禁止の立て札こそあったが、トイレやベンチがあるだけで何も無い。エレベーターなんて影も形も無い。でもイノリは、突き当たりのポスターがかかっている壁に触れる。

「さっきの凄かったね‥‥。あの襲撃科の人もそうだけど‥‥。でも、あんたの方が凄かった‥‥」

「‥‥あれは、向こうが素人だから出来ただけだ。‥‥本当のプロだったら‥‥俺は死んでる」

 さっき減らした弾を確認して、イノリに答える。

「‥‥ねぇ、聞いていい?」

 壁に触れてながら、イノリが振り返ってくる。

「死にたいの?」

「‥‥よく言われるよ」

「‥‥ヒトガタだから?ヒトガタだから、死ぬのが怖くないの‥‥?」

「‥‥ヒトガタでも、死ぬのは怖い。‥‥でも、俺は珍しい方だ。よく覚えておいてくれ。ヒトガタは死よりも主の為になれない方が怖い」

 あの男達に重武装科が手こずっていた理由がわかった。

 撃ち尽くすまでTMPを向け続けられるなんて、まず無い事だ。銃を撃つには、かなりの体力を必要とする。嫌でも、呼吸が必要となる。その呼吸の時にジリジリと迫るのが重武装科のやり方だ。

 だが、あそこまで弾丸の質量を受け続けては、止まるしかない。息継ぎ無しで撃たれ続ける訓練なんてまずしていない。

「これからもヒトガタに関わるなら、忘れるな。俺達ヒトガタは人間とは違う。‥‥それで、どこに行けばいいんだ?」

 イノリは未だに壁に手をつけるだけで、何もしない。

「見てて」

 イノリの手が震えて始めた。けれどイノリ自身が震えているではなく、壁が揺れている。壁の振動が更に大きくなっていく。

「‥‥聖女の為」

 そんな合言葉をイノリが呟いた。

 壁は普通のエレベーターように縦に分かれるのでは無く、貨物用エレベーターのように下から持ち上がる。

「‥‥無駄な工事だ。聖女の為って、どういう意味?」

「わかんないわよ。でも、店員達はいつもこうやって上に上がってた。‥‥ここまで無人だと、私の苦労が虚しくなるわね‥‥」

 開いたエレベーターに乗り込む。遠くから俺を呼ぶ声が聞こえるが無視する。

「いいの?」

「見つからなきゃ、連絡が来るだろう」

 イノリが三階のボタンを押して扉を閉めた。エレベーターの中からだからこそわかる。このエレベーターはシェルターにようだと。

 閉まっていく壁は裏側に鋼鉄、エレベーターの扉も斜め上と対角線上斜め下から中央に向かって扉が二重三重に閉まっていく。SFでもここまで頑強にしないだろう。一体このエレベーターはどれほどの重量があるだろうか。

「さっきの苦労って?」

「簡単な話。ここは従業員しか入れない廊下だからよ。しかも常に警備員がいて‥‥、ほんっーとぉうに!合言葉を聞き出すの大変だったんだから‥‥。こんな事なら何人かシメて聞き出せば良かった‥‥」

「美学に反するか?」

「‥‥今思えば、無駄な美学だったかもね」

 潜入学科に未練なんて無いと言っていたが、その理念に共感したから入学したのだ。何も感じない訳が無い。

「でもあの様子だと、口を割らせるには時間がかかった」

「‥‥あれが、ヒトガタの戦い方なの?」

「ああ‥‥」

「そっか‥‥。ごめん、言うね‥‥。あんな使われ方、可哀想だった‥‥」

「‥‥あれは人間だ。ヒトガタじゃない‥‥。でも、ありがと」

 扉が開く直前で、イノリが持っていたアタッシュケースを持ち上げて盾にしながら、エレベーター内の端に身を寄せる。

 イノリとは逆の端に身を寄せて、M&Pを抜いておく。

 準備が整った時、エレベーターが開いた。ただ中が暗くてほとんど何も見えない。直接部屋に繋がっているのか、かなり広い空間のようだ。唯一わかるのは床が木製という所だけ。ヘリンボーンというのか?矢羽状の木が敷き詰められて、ジグザグな模様ができている。

「いるか‥‥?」

「わからない」

 スマホのミラー機能を使って、部屋の中を確認する。

「私から」

「いや、俺から行く。何かあったら、下に降りてオーダーを呼んでくれ」

 サイナに無理を言って装着して貰ったM&Pのライトを引き金の前部分、銃口の下につけて部屋を照らす。

「‥‥下よりも、落ち着いてる」

 自然と言葉が漏れる。

 正四角形の広い部屋。ヘリンボーンの床に部屋の隅には落ち着いた革製のソファー、ガラステーブルがいくつも並び、接待や待ち時間の為に置いてあるとわかる。装飾品としての酒瓶、柱時計。

 ここで血の聖女を使っているのかと思ったが違い気がする。ここはあくまでも受付。部屋の奥に、更に奥に進む廊下がある。

「ここに入った事は無いんだよな?」

「うん、初めて入った‥‥」

 イノリも自分の銃にライトをつけて、後ろについて来る。

 下にかなりの店員がいたから全員出払ってしまったのか、完全に無音だ。耳が痛くなる。下で今も起こっている筈の喧騒が全く聞こえない。ここだけ別世界のようだ。

「奥に行こう。俺達の目的は血の聖女、それだけだ」

「‥‥」

 前を向いていたイノリのライトが視界の端から消えた。イノリが後ろを向いて、背中を守ってくれる。

「‥‥前は任せたから」

 背中にアタッシュケースをつけて、歩いて構わないと指示してくる。

 それに従い、部屋の奥に廊下へ進む。

 廊下には幾つもの扉があり、個室が大量にあるとわかり、ホテルのようだった。その中でも廊下突き当たりのと言ってもいい大きさの扉が見える。

「‥‥開けるぞ」

 まず最初に一番近くにあった扉を開ける。壁に手をついて確認するとライトのスイッチがあり、点灯させる。

「‥‥クリア」

 ふたりで一息で部屋に飛び込み、扉を閉める。

 部屋の中も受付と雰囲気は変わらない。部屋の中央に机とソファーがある―――どことなくオーダーのロールプレイを行う応接間ようだった。違うのは、壁に本棚、ミュージックボックス、冷蔵庫などが置いてある事だ。そして、ベットも。

「‥‥そうだよね」

「‥‥もうここは確実に閉鎖、関係者も法務科が逮捕される」

 ベットを一瞥したイノリはソファーにアタッシュケースを置いて、部屋中を探索する。

「血の聖女は、注射器なんだよな?」

「そう。だから、あんたも探して」

 ここにベットがあるなら高い確率で薬である血の聖女がある筈だ。

 壁の本棚を調べるが、今の所は何も無い。イノリは冷蔵庫や壁に飾ってある酒瓶やアンティーク、絵の裏を調べている。

「‥‥誰が読むんだ‥‥」

「何が?」

「ん?これ」

 本棚から抜いた本のタイトルをイノリに見せる。

「シナプス?」

「神経伝達物質の‥‥、まぁ、どうでもいいか」

 本棚を調べ上げる為に本を全て取り出すが、やはり何も無い。どうでもいいと言ったが、ここにある本はどれもこれもヒトガタの知識と被るタイトルばかりだった。そして特にヒトガタ生成段階の話、つまりはイノリが撮った写真の段階。

「昨日の写真の‥‥あれは、どうなったんだ?」

「‥‥まだ見つからないらしいの」

 手を止めずに質問に答えてくれる。

「これ‥‥」

「あったか?」

 急いでイノリの方に駆け付けるが、イノリは首を振ってしまった。

「‥‥あるにはあったけど。空ね」

 イノリが握っていたのはガラス管だった。ただし、ただのガラス管ではない。

「注射器か、一応持って帰ろう」

 注射針は無く、外筒は押子を押し込むまれた所為で一滴も残っていない。

 ソファーのアタッシュケースを開けて制服を包んでいた緩衝材に注射器を入れる。

 異常な伸縮性だった。制服もぴったりだったし、この注射器にもぴったりのようで、軽く振っても全く滑るような音が出ない。

「‥‥まだ部屋はある。探そう」

 探そうと言ったが、この一本はたまたま残っていただけかもしれない。むしろその可能性の方が高い。

「当然でしょう。‥‥何、暗い顔してんの?潜入学科の仕事なんて大半が空振りで終わるんだから。一本見つけただけでも大収穫、それにこんな無人なんだし、いくらでも探せるわ」

 俺の顔が理解出来ないと言った感じに、本当に首を捻ってくる。イノリはずっとこうやって生きてきたとわかった。

 自分は完璧な仕事をしても、いつも期待を裏切られる。つまらないだろう。

「次はどこ行く?」

「‥‥一番奥の部屋に行こう。単純にデカいし、それに、‥‥あの扉だけ‥‥」

「うん‥‥。異質だった」

 イノリもそう感じていた。

「私が後ろを見るから」

「ああ、任せる」

 部屋の扉を開けて、外に出る。

 やはり変わらず無人の無音だ。だから緊張が抜けてしまい、背を伸ばしたままで突き当たりの部屋に向かう。

 かなり巨大だ。2m以上はある。

「‥‥開かない?」

 扉は、当然のように鍵が閉まっていた。

「‥‥ちょっと待ってろ」

「任せて、私が開ける」

 制服に仕込んであるピッキング道具を出そうとしたが、イノリからアタッシュケースを渡される。

「得意なのか?」

「何言ってんの?私は、潜入学科だったのよ。こんなの毎日やってるから。あんたも開かない金庫とかあったら言って」

「頼もしい‥‥ライトはいるか?」

 イノリも制服に仕込んであった聴診器を出して、扉の鍵穴のすぐ下に付ける。

「いい、黙ってて。それより後ろを見てて」

「‥‥おう」

 急に大人っぽく感じられた。

 イノリに言われた通りに誰もいない後ろにライトを当てて、見張りをする。やはりと言うか、当然と言うか、誰もいない。

「ねぇ、あんたって、お酒に弱いの?」

 自分で黙ってろと言っておいて話しかけてくる。

「‥‥俺達は未成年だ。弱くて当然だろう?」

「そうじゃなくて。なんか、お酒の香りとか、息だけでも酔ってそうに見えたから」

「‥‥ここの酒は合わないみたいだ」

「ふーん」

 返答がお気に召さなかったのか、そもそも興味も無かったのか、受け流される。

「そっちは?」

「強くて当然でしょう」

「‥‥ごめん」

「バカ‥‥」

 聞かなければよかった。あんな男達と付き合いをしなければいけないのだ。強くなければ、身を守れない。

「‥‥自分でも驚いた。こんな弱かったんだなって。そんなに強いアルコールじゃなかったのに」

「場酔いかもね。初めて来た人とか、音とか光で酔っちゃうから。‥‥私は最初から平気だったから」

「そうか‥‥」

 嘘か本当かわからない。それに、聞いてはいけない内容だった。

「つまんない事考えてないで、‥‥ほら、開いた」

 誤魔化すように扉の鍵を開けた音を出す。振り返りざまにアタッシュケースを奪って、後ろについた。

「はぁ‥‥、心配そうだから言っておくわね。私は――――だから‥‥」

 耳元で囁いてくる。

「俺も教えとく」

「そ、そうなんだ。へ、へぇ‥‥」

 イノリの耳元で囁いて、さっきの質問に答える。

「行くぞ」

 M&Pと警棒状態の杭を抜く。ドアノブを回し、杭でゆっくりと扉を突き開ける。

「‥‥誰かいる」

 部屋には灯りが付いている。だから中がはっきりと見えた。

「下がって!」

「違う。倒れてる」

 キングサイズのベットの上に女性と言うには若すぎる女の子が倒れ、すぐ側の机の上には、黒いアタッシュケースと真っ赤なガラス管が置いてあった。

「ある!急ぐぞ!」

 アタッシュケースをイノリから奪い、扉を蹴破るように入る。机を飛び付きガラス管をアタッシュケースの急いで入れる。

 更にマトイに連絡。確保したと伝える為に。

「確保した!多分、血の聖女だ!」

「わかりました!すぐそちらに向かわせます!」

 血の聖女は劣化が早い。このアタッシュケースには冷暖房が付いており、もうすでに冷房機能を起動させていたが、不安要素は拭いきれなかった。

「急いで法務科に渡さないと‥‥!イノリ!戻るぞ!」

 振り返った時、叩かれた。イノリから叩かれた方向を見させられる。今も倒れている女の子の方だった―――。

「‥‥なんとも思わないの?」

「‥‥マトイ、緊急事態だ。人が倒れてる」

 スマホでマトイに連絡する。

「わかりました。救急隊にも連絡します」

「ああ、頼んだ」

 スマホをしまい。イノリの顔色を窺う。

「‥‥ごめん」

「‥‥ごめんね、それがヒトガタなんだよね‥‥」

 顔色が見たかったが、フードで隠して見せてくれない。

 今の使命は血の聖女の奪取だった―――それ以外が目に入らなかった。

 イノリは走り寄って女の子の状態を確認を始める。遠目の俺からは寝ているのか、昏睡しているのかわからないが、呼吸はしていた。女の子は胸元が大きく開いた白いドレスで、胎児のように縮こまっている。

「私が見てるから、あんたはアタッシュケースを渡してきて」

 顔も見せたくないと、全く振り返ってくれないイノリから感じられた。

「‥‥ああ、任せた」

 扉を開けて、走ってエレベーターに向かう。

 今走っている俺の姿は、どこまでも無様だろう。人命救助と物品確保。秤にかけるまでも無く、後者を選んでしまった。エレベーターに無言で駆け込む。

 誰がいるか知らないが、法務科に渡したらすぐに戻ると決めた。救護隊が遅ければ言伝でも伝える。

 地下一階に降りた瞬時、階段を駆け上がりスーツ姿の若い女性にアタッシュケースを渡す。

「中を見ても?」

「好きにしろ!!」

 俺の都合など知らない法務科が確認をさせろと吐かす、ほとんど無視するように吐き捨てて、クラブの地下に戻る。

「さっきからどうした?」

「こっちだ!」

 仕事の大半が終わった整備科が暇そうにしていたから、腕を掴んであの廊下に連れて行く。

「救護隊が来たら、この奥のエレベーターを上がれって言ってくれ!」

「‥‥わかった」

 治療科はいいのかと聞いて来なかった事に感謝して、1人でエレベーターに乗る。

 この程度の高低差で感じる気圧に差なんてない。でも、今は内臓を全て吐き出しそうになる息の詰まりを感じる。

 また俺はイノリを裏切った。イノリは自分の立場を捨ててまで人を救っているのに。俺はヒトガタとしての理性を尊重してしまった。

 人の所為なんかにしない。これは、俺の責任だ。

 エレベーターの扉が開く時間すら惜しい無限にも感じられる時間—――開いた瞬間に飛び出る。心臓が跳ね上がりそうだった。

 フードを被っているイノリが、受付部屋の中央で待っていた。

「‥‥イノリ」

「‥‥」

「あの子は?」

「‥‥」

 何も答えてくれない。最悪の結果が頭によぎってしまう。

 イノリの隣を駆け抜けて部屋に戻ろうとするが、イノリに右腕を掴まれる。だから掴んできたイノリの手の上に手を重ねる。

「大丈夫。すぐに救護隊が来る!俺が見て来るから、イノリはここで」

「‥‥聖女‥‥」

 イノリの口から、そう聞こえた。

「血の聖女か?もう渡した‥‥!だから、今すぐ」

「私が、欲しい?」

 掴んだ腕を引かれて、抱きしめられる。

「何、言って‥‥」

「‥‥いいよ。私も、あんたが欲しいから‥‥」

 囁くような声で顔を上げて、息を吹きかけてくる。いつの間にかイノリは俺の足の間に、自分の片足を差し込んでいた。

 意識が遠のく―――いい匂いだった。果実を発酵させた甘い酒の香りが、脳髄を握りしめてくる。

「‥‥いいのか?」

 イノリの声に身体中が溶けてきた。何も思いつかない、何しに来たんだったか、忘れてきた。

「イノリの身体、柔らかいな‥‥」

「あんたは、硬くなってる‥‥。大丈夫、私が、してあげるから‥‥」

 自然と手が伸びてしまう。イノリの腰も、背中も、全てが柔らかくて―――

「‥‥噛みたい‥‥。傷は、ダメか‥‥?」

「‥‥いい。私も、傷をつけるから‥‥。だから‥‥血を頂戴‥‥」

 血を?何の為に。俺の血は――――血は、あの方の。

「‥‥さぁ、行こう」

 イノリに手を引かれる。部屋の先にある廊下がぼやけて見える。でも、血とイノリと、どんな関係が?

「‥‥なんの為だ‥‥?」

 足が、浮いてるような感覚になってくる。でも、これは、違う。俺が、俺が好きなったイノリは、こんな―――――イノリの腕を引いて、もう一度抱きしめる。

「下に行こう‥‥。ここには、人が来る‥‥」

 エレベーター近くまで手を引いて歩くが、イノリはエレベーターには乗らない。

「どうした‥‥?」

 酔いが覚めてきた。現実と夢の区別がついてきた。今のイノリは、おかしい。

「聖女が、救ってくれるの‥‥」

 聖女を見た。救出された女の子達がそう言っていたと、イノリから聞いた。

「‥‥お前‥‥!」

「聖女が、救ってくれるの‥‥」

 掴まれた腕を引かれた時、頭を後ろに仰け反らせて命拾いした。

 イノリは掴んだ腕を更に引いて、抱き込んできた。こめかみにXDSを突き付ける前に撃たれる。

 眼前で銃口からのマズルフラッシュを受けて、目が眩む。だが、イノリの腕を振り払い、転がりながら廊下近くまで距離を取る。

「‥‥いつから!」

 イノリは血の聖女をやっていたのか?だとしたら―――

「聞け!血の聖女はドラッグなんかじゃない!」

 何も答えず、フード越しの目は虚ろで、先ほどの人間性がまるで感じられない。そんな、イノリだった者が上着の前を開けて、あの巻物のような物を引き出してくる。

「‥‥っ!」

 背筋に寒気が差した―――避けれたのは、本当に第六感だった。避けてから、目で確認する。

 巻物の内側には、細くて長い注射針のような物が何十本と刺してまとめてあった。それを手で撫でるように指の間で掴み、手を開けた瞬間、飛んできた。一本一本はそこまで危険じゃない。けれど、あれらをまとめて受けたら、出血が止まらなくなる。

 部屋の隅に置いてあるガラス製一本脚のテーブルに倒れながら突っ込み、イノリの針から身を隠す。

「受けられない‥‥っ」

 飛んできた針はかなり細い、この制服にも防刃性はあるが容赦なく繊維を貫通してくるだろう。

 イノリに目を向けながら、急ぎスマホで整備科に連絡をする。

「どうした?」

「救護隊を止めろ!来させるな!」

 それだけ伝えて連絡を切る。針はいくらでも控えがあるのか、すでにイノリは手は新たな針を備えている。見ていたわかった。あの巻物は、手を離せば自然と制服の中に戻っていく。でも、引き出すには手で引くしかないと。

「イノリ!お前は使ってないんじゃなかったのか!?」

 ほぼ無音の投擲。聞こえるのは微かな息だけ。ガラスに硬い物が何度も当たる音がするから、攻撃されているとわかる程度。

 後悔した―――明かりでも付けていれば、まだ影が見えていた筈だ。

 今は開いているエレベーターの光でイノリの動作が見える程度。だが、それだけしかわからない―――目は、まだ起動しない。血が足りない。

 まずい。このまま弾切れを待つかべきか――また、無様に這いずって逃げるしかないのか。けれど、そんな無為な時間を、イノリは許さなかった。

 俺に向かって駆けてきたと思った時、直前のソファーを足場に飛び上がり、真上で拳を向けてきた。

「—―――っ」

 声を出す余裕も無い。今はただイノリから逃げ惑うしかなかった。

 一度完全に床に座り込み、テーブルを全力で蹴りつける。その時に受けた反発力で滑りながら一気に元いた場所から離れる。つい数舜までいたテーブルの方から飛んできた針が床に刺さらずに散らばる音がする。

 襲撃が空振りに終わり、着地したイノリは手を巻物に這わせて更に針の補充をしてくる―――その隙に、M66に手が伸びるが、止まってしまう。

「‥‥チッ!!」

 撃てない。イノリは、ずっと俺の味方だった。銃口を向ける事もできない。

 あの力の入っていない投擲と銃弾だったら、銃弾の速度の方が圧倒的に早い。撃ってしまえば、イノリに対抗できる――――滑った勢いを使って、片手で逆立ちをして、跳ねるように両足で地面を捉える。

「止まってくれ‥‥!撃たせるな‥‥」

 マトイも、こんな気持ちだったとようやくわかった。

「何がいけなかったんだ‥‥。俺の所為なのか‥‥」

 瞳孔が開き切っていない目を向けてくる。そんな顔、させたくなかった。

 今なら逃げられる。エレベーター近くにいるというのに、イノリは何もしない。

「聖女が、救ってくれるの‥‥」

「‥‥聖女って、ヒトガタだろうが‥‥。なんでヒトガタの為に、ここまで‥‥」

 血の聖女は高い確率で貴き者の血だ。それそのものじゃなくとも、貴き者の血がいくらか混ざっている筈だ。そういう誕生種の元、流された血に違いない。

「起きろ!お前は騙されて、」

「あなたの血、頂戴‥‥」

 右の床に飛び込みながら避ける。避けた針がエレベーターの壁にぶつかり、金属音がする。けれど、避ける事は想定内だったのか一本だけだが、腿に受けた。

 倒れながら一気に引き抜く。血が吹き出る事は無いが、じわりと制服が血に染まるのが足の神経でわかる。

 もう一度、片手で跳ね上がる。今回も両足で立てた、けれどもう攻撃は受けられない。ただの一本でかなりの痛みを受けている。

「‥‥撃てない。撃てば楽になる‥‥ああ、そうだ、化け物め‥‥撃たない‥‥」

 ならば、そうすればいい―――ああ、わかっている。だけど、それだけでは止まる気は無いだろうが―――そうだ、俺は欲しい。

 あのイノリの目と身体、会った時にわかった。俺は、欲しかった、イノリの血を感じたい、ああ!!

「‥‥イノリ」

「‥‥」

「お前の身体は―――旨そうだった‥‥」

 目が開く。頭が割れて、中身が飛び出しぶちまけていく。ああ、自分の血を浴びているようだ。温かい、気持ちいい。でも足りない。

 目が欲しい、心臓が欲しい、血が欲しい。吹き出すぐらいの体液を――この身に浴びたい。

「‥‥欲しい‥‥。いいよな?‥‥お前の初めて」

 目が捉えた。人間が針が投げてくる前段階、拳をこちらに向けてくる姿を。だから制服の上着を脱ぐ。

「‥‥痛いのに」

 四本の針が飛んでくる。弾丸よりも遅い、だが、弾丸よりも鋭い。簡単に頭蓋を貫き、即死するだろう。だけどそれでは足りない。

 死ぬほどの痛みを死にながら感じたい。あの方からの痛みを、感じたい。

 片手で持った制服を足元まで下げて、迫ってくる針に向かって制服を当てる―――針を制服や天井に去なす。

 この行動を想定していたのか。制服が俺の視界を奪い、開けた瞬間には針を両手で持っていた。

「美しい‥‥」

 そう呟かずにはいられなかった。

 舞い踊るよう上着やパーカーを脱ぎ捨て、身体中に巻きついている巻物から針をほぼ無制限に螺旋状に放ってくる。

 7つのヴェールの踊り。それは、今でこそストリップティーズの起源と言われているが、それは現代に近づいた時に一部の詩人や作家達が作ったイメージでしかない。

 実際はもっと好ましい。それはただ斬首した首を求めるという話でも無い。あるのは、ただ、狂おしい程の切なる祈り。

「欲しい‥‥!」

 イノリには弱点がある。この目と化け物はそれを見逃さない、徐々に自分の首を絞めて、青くなっていく弱点が。

 この針は投げるには呼吸が絶対的に必要だ。TMPを撃ち続けるのと同じように。

 なぜなら反動が起こるからだ。反動を受け切る為には息を吸って酸素を身体中に回し、体力を回復させる必要がある。針は反動がほぼ皆無だが、ただ放つだけでは威力が足りない。

 だからあの舞を始めた。遠心力を使い威力が増した針が必要と判断したから。だから、今が最大の奪える隙—―――迫ってきた針群に上着を投げつけ、イノリの視界を一瞬奪う。俺は制服の影に隠れて、血だけを残して、消える。

「‥‥っ!どこ!?」

「無呼吸でも、叫べるのか?」

 エレベーター前から消えた化け物は壁を蹴り、イノリが足場にしたソファーに着地していた。

 この声がイノリの後方からした時、その場で回転するように振り返り様に針を投げつける。針はソファーの背もたれすら貫通する。だけど、そこには血しか残さない。

 イノリのもう一つの弱点、それは銃弾のように連射が出来ない。限りなく散弾銃に近い性能を持っている。

 散弾銃では、狙いをつけるのに時間がかかる。この暗い中では尚更。

「こっちだ」

 足から血が止まらない。血管を狙われた。足が温かくて、心地いい。

 部屋中の声を探して、イノリは頭を振って探している。

「撃たないの?」

 撃たない。その身体に傷をつける訳にはいかない。それに、これ以上イノリを傷つけたら、その気高い目がくすんでしまう。

「イノリは俺の物だ‥‥」

 真上から化け物は自分の爪を使い、イノリの巻物を背後から切り落とす。

「え‥‥?」

 肌すれすれを切り捨てた事で、後ろのシャツも薄く切れる。

「傷なんて、許さない‥‥」

 声を聞いたのに、背中を確認しないでイノリは前方に転がり逃げる。いい判断だ、巻物を拾おうとしたら、その場で押し倒していた。

「逃げたな?」

 俺から逃げたな?お前が俺の首を欲したんじゃなかったのか?お前が俺を求めただろう?

「‥‥逃げなんていない」

 最後の足掻きの為に、舞を始めようとしたイノリは内腿に隠していた針を使って、俺の首を求めてくる。

 ああ‥‥!そんな物は必要ないっ!!誰かに許しを請う必要も無い!!俺が直接届けてやろう!!

 手首に隠していたワイヤーをつけた杭をイノリに向かって投げつける。

 イノリは飛んでくる杭を確認すると、『舞』をやめて回避に専念する。けれど、軽やかに逃げ続けるイノリを、追いかけるように袖を振って操る化け物の望み通り追いかけ続ける。

「‥‥っ!」

 先ほどの鏡移しにイノリは真横に転がって避けるが、杭はどこまでもイノリを追いかける。もう呼吸は限界だろう。全力で逃げ続けているのに数秒前からほとんど息を吸っていない。

 『獲物』が杭に視線が移っている間に、『化け物』は受けた傷から血を迸せる。足の筋肉に血を流し一息でイノリに迫る。

 杭を避けきった所で、やっと『迫りくる異形』に視線が戻った。

「‥‥ああ‥‥」

 脇差しを持ったままでイノリの左腕を掴み、口を奪う。イノリは俺の頭蓋を貫こうと針を持った腕を振り上げるが、背中を180度回って戻ってきた杭が振り上げたイノリの腕に巻きついて、自由を奪う。

 もう血の聖女を抜くのも、イノリの目を覚まさせるのもどうでもいい。ただ、イノリの初めてを、奪い尽くしたい。

 甘い酒の味がする。舌の裏も歯の裏も、肺の中の空気を全て吸い付くす。

「美味い‥‥」

 イノリはかなり唾液が出るタイプだった。飲み込み切らないと、我慢出来ない。

 口を奪い続けて窒息してきたイノリの腕から力が抜けていく。目から微かに感じた光も消えていく。

 それでも続ける。ああ、そうだ‥‥、誰にも渡さない!!その目も!その気高さも!誰にも奪わせない俺の物だ!!

「しつこい‥‥」

 気を失ったイノリの両足から力が抜け切り、膝を付いた―――やり過ぎた。

「大丈夫か‥‥?」

 ぴくりともしなくなった。腕から杭を外して、個室にあるベットに寝かせる為に持ち上げる。

「‥‥やっぱ、軽い」

 胸が上下しているから呼吸は自力で出来ている。

「俺も、まずいな‥‥」

 意識が朦朧としてきた。イノリから酒を飲んだせいだ―――このまま眠りたい。でも、絶対にイノリを離せない。あの針だらけのソファーではダメだ。

 一番近くの部屋の扉を開けて、部屋の奥のベットに向かう。近くの椅子を蹴飛ばし、最短距離で近づく。

 イノリをベットに寝かせて、ベットに頭を置きながらスマホを取り出す。

「‥‥聞こえるか」

「ど、どうした?」

「救護隊を呼べ‥‥」

 もうそれしか言えない。今は、ただ、寝てしまいたい。




「小物が―――私の彼を酔わせるなんて‥‥」

「頭痛いです‥‥」

「あ、吐きますか?」

「撫でて下さい‥‥」

「はい♪任せて下さいね」

 気が付いた時には仮面の方の呼び出したベット上で、膝枕をして貰いながら頭を撫でて貰っていた。呼吸を楽にする為に制服もいつの間にか脱がしていくれている。

「‥‥暑い‥‥」

「暑いですか?」

「‥‥はい」

「でも、もう脱げる物はありませんし‥‥では!こういうのはどうですか?」

 そう言って仮面の方が撫でていた手を空へと掲げる。

「‥‥気持ちいいです‥‥冷たい‥‥」

 急に仮面の方の足が冷たくなってきた。頭が冷やされて、しかも手も冷たい状態で撫でてくれる。

「良かった‥‥」

「‥‥すみません」

 俺が冷たいと感じるという事は、仮面の方はすごく寒いのではないか?そう思って謝った。

「気にしないで下さいね。私の体温は、人間を基準に決めているだけですから。あなたが求めるなら、いくらでも変えますよ」

「‥‥好きです‥‥。本当に‥‥」

 わがままをいくらでも聞いてくれる。もう仮面の方がいないと、夢がつまらないし、悲しくて仕方ない。

「‥‥もう一度言ってくれますか?」

 仮面越しでも目が輝いて見える。天井の空の星々よりも美しい。

「愛してます‥‥」

「もう!私もですよ!全く‥‥」

 弱った俺がずっと甘え続けているからか、これでもかと甘々なご様子だ。

「話せますか?」

「‥‥無理です」

「そうみたいですね。では、簡潔に。すき焼きですよ」




「サイナ、水‥‥」

「はい、こちらで~す♪」

 マトイに膝枕、サイナから水、イノリにうちわで扇いで貰っていた。

「起き上がりますか?」

「‥‥まだ」

 この状態で起き上がったならば、そのまま胃がまろび出る。サンドウィッチしか入ってないとしても、内臓ごと全てが溢れ出るだろう。

「‥‥もう少し‥‥ダメか?」

「いいえ。まだ煮えてませんから。‥‥あ、でも、そろそろ‥‥」

 マトイは俺と同じぐらい大事なすき焼きに箸を伸ばした。

 おのれ、すき焼きめ、俺のマトイを奪いやがって。

「ここは私に任せて下さい♪こんな上物のお肉、そうそうお目にかかれませんよ!」

 サイナが鍋奉行を始めた。すき焼きでも鍋奉行と言うのかは、あずかり知らぬ事だが――――どうでもいい。

「そろそろ起きたかい?」

「どうぞ、開けて下さい」

 マトイが誰かを招き入れた。確認しようにも眩しくて目も開けられない。

「おーい、起きたか―――」

「あ‥‥あははっ‥‥」

 あのふたりだと声でわかった。

「もうなんか、流石だな‥‥」

「うん、流石だね‥‥。じゃあ、失礼します」

「はい、起きたら向かわせますね」

 何かを見たら帰っていった。そもそも、ここが何処だかまるでわからない。

「大丈夫?トイレ行く?」

 イノリがそんな事を聞いてくる。なぜ、俺が気持ち悪いと知っているのだろうか?

「‥‥いいや。そこまで我慢出来ない‥‥。‥‥悪い、水を頭に置いてくれ‥‥」

「えっと、こう?」

 氷水が入ったコップを頭に置いてくれる。冷たい水底の刺すような寒気の快楽に、朦朧とする意識を完全に手放しそうになるが、イノリの注意する声が聞こえた。

「寝ないでよ。折角のすき焼きなんだから」

「‥‥なんで、すき焼き?」

「あんたが言われてたでしょう。すき焼きだって」

「‥‥なんで?」

「はぁ‥‥」

 頭を抱えたようなイノリの声とマトイの笑い声、そして鍋を突く箸の音がする。

「眠らないで起きてい下さいね。‥‥あ、いい感じ」

「はい、さぁ!そろそろですよ!」

 一瞬とはいえ、二人から発せられた声だと気付かなかった。心底、感服する存在と邂逅したマトイ、イノリの歓声がただの吐息として耳に届き、部屋へ響き渡る。

「わぁ‥‥これが────関西風。初めてですが────まさか、ここまでっ!!」

「美味し~い!柔らか~い♪」

「関東でも関西でも、どちらでもお任せ下さい♪」

 焼いた砂糖と肉の甘い匂いがする。関西風を食べた試しがない為に、味の想像も出来ないが妄想を膨らませる事は可能であった。しかし。それでもなお、この匂いには化け物を起き上がらせる魅了の力が含まれていた。

「‥‥そろそろ、起きる」

「はい、これは自分で食べるべき味です」

 マトイに背中を支えられ、イノリに手を引かれて、ようやく起き上がれる。

「どうぞ~、お水ですよ♪」

 胃酸が溢れぬように天井を眺めていると、体調にいち早く気付いたサイナが水を渡してくれる。—―――ゆっくり、水を飲み干し食道を綺麗に洗い流す。

「‥‥よし、俺の肉はどこだ?」



「‥‥やっと治ってきた‥‥」

 良い物を食べると、身体が洗われる気分になる。事実、酔いは7割方醒めてきた。

「‥‥少し歩いてくるよ」

「付き添いますか?」

「大丈夫、大分醒めてきた。顔を見せてくるだけだから」

「はい、気をつけて」

 マトイからの言葉に頷いて返事をする。もうすき焼きとシメのうどんも終わり、まったりしている時間を過ごしていた。そろそろ行かないと帰る奴らが出てくる。

「‥‥覚えてるんだね。それが酔いだって‥‥」

 イノリが顔を見せないで、確認をしてくる。

「‥‥後で話そう」

「うん‥‥」

 ふすまに手を伸ばし個室から出て料亭の廊下を歩く。どこ歩けばいいのかもわからない、格式ある店でかなり広かった。適当に廊下を歩きづつけて、十字路に入った所で丁度アイツらが会えた。

「おう、起きたか?」

「ああ‥‥」

 話しかけてられた時、近づきながら軽く手を振る。

「大分顔色良くなったね。‥‥やってないよね?」

 感の良い奴だった。どこからか血の聖女について聞いたようだ。

「‥‥ああ、やってない。これは潜入した時に飲んだアルコールが回っただけだ」

 顔を叩いて、赤みが差したとアピールする。

「水飲む?」

「いや、さっき大分飲んだから平気。それにすき焼きも食べたし‥‥」

「目覚ましにすき焼きとか、どんだけ贅沢だよ‥‥。しかも、あのメンツと一緒だなんて‥‥」

 整備科が恨めしそうに睨んでくる。

「頭と足はどう?」

「足?」

 制服のズボンを見て思い出した。そうだった、俺はイノリの針で―――。

「‥‥まぁ、いい感じだよ」

「‥‥それより!すき焼きどうだった!?」

 濁した言い方を悟ってくれた。

「すげ~美味かった。よく探したな‥‥流石に無理だ」

 奢るだなんだの話をしていたのを思い出した。あの場にいた3は勿論、関わったも参加しているらしかった。

 この人数では、学費の半分以上はかかるだろう。

「わかってるって。‥‥ここだけの話、この飲食代は‥‥うん!やめとこ!聞かないで!大丈夫大丈夫、バレても犯罪じゃないから。そうだよね?」

「おう、大丈夫だ」

 との事なので、聞かないでおいた。多分だが、オーダーの重役共が毎年忘年会とかで使ってるのだろう。そういう関係に違いない。

「あー、お前達はどうなったんだ?」

「どうって‥‥」

「寝てる時の事を聞きたい。制圧は完了したんだろう?その後はどうなったんだ?」

「そういう事か。あのクラブに突入して、店員達を叩きのめ―――制圧して、未成年者の補導をして、それで終わり」

「俺達も上に行こうと思ったんだがよ。‥‥法務科が出てきて、邪魔されてよ」

 血の聖女がヒトガタ関係だと確認されたからだ。こいつら自身も言えない仕事をやってるようだが、ヒトガタの事は知らない―――このまま知らないでいて欲しい。

「それで、俺達の話がどこからか漏れたみたいで、ここにお呼ばれしたって所だ」

「打ち上げ?」

「そうそう、そんな感じ」

 昨日から働いてた奴らは依頼料はほとんど無かったらしい。これの口封じだ。

「あ、ねぇ」

「ん?どうした?」

 後ろからイノリが話しかけてきた。

「情報科のテーブルって、どこ?」

 わからないから2人に助けを求めると、2人揃ってイノリのすぐ横の部屋を指差す。

「そう」

 今日会ったばかりの時のような返事をして、部屋に消えてしまった。

「悪い、後で言っておくから」

「あの子、情報科なのか?見た事ないぞ、あんなレベル高い子」

「ああ、情報科らしい。でも、あんま表に出なかったらしいから。これから顔を合わせたら、よろしく」

 そう言った瞬間、整備科の学友が溜息を吐いてきた。

「なんだよ?」

「やっぱり、お前関係かよ‥‥」

「仕方ないんじゃないかな?中等部でもそうだったし。まぁ、程々にね」

 好き勝手いった2人がそれぞれの部屋に戻ろうしているので、自分の部屋に戻る為に背中を向ける。

「‥‥そろそろ刺されるぞ」

「もう刺された。またな」

 傷口を指差して、部屋に戻る事にした。



「あなたが見たのはあの一本だけでしたか?」

 イノリが戻っていない時だった。マトイが確認を取る。

「机の上に置いてあったのは、あの一本だけだった。確か‥‥まだ黒いケースが残っていたと思ったけど、あれ以外には、もう無かったのか」

 返事をしながら、サイナにも視線を向けると瞬時に笑顔を作り出す。商売の為のスマイルだとしても、この顔見たさが、サイナ商事が選ばれる理由であった。

「あのケースにも一本ありましたが、もう劣化して鑑定不能に。けれど、使用済みの注射器が収められていました」

 と言われ、写真を写したスマホを渡される。

「‥‥本当に血だ」

 画面には細いガラス管が数本と、ガラス管を搭載する注射器が写っていた。ガラス管には赤い薬、ほとんど血と変わらない見た目の液体が収められている。

 だが注射器がやけにアンティーク調だ。注射器の外筒と押子は金属で形作られ、部品がほとんど一体化している。

 使われている金属は金に似ているが、恐らく違う。メッキか、もしくは真鍮、よって錆びている様子も無い。それにアンティーク調と思った理由が他にもある。

「‥‥これが出てきたのか?」

「はい、ガラス管は見た目通りこの注射器で使うようです。保護した子達の腕の器具は、この注射器で穴を開けてから付けていた。注射器で特別な雰囲気を出しているのでしょうか?もう既に感染者が出てもおかしくないですね」

 注射器のデザインが全体的にスチームパンクと言うのか、あまりにも不要な装飾がされている。本来外筒は透明であるべきなのに、真鍮の装飾の所為で中が見にくい。更に外筒の両端に鉄製の輪、押子にも輪がある所為で押し込みにくい。これは押し込むというよりも何かを事に特化した形にも見える。

「回収完了の報告は既に来ています。オーダー本部よりも早い回収ができ、私の期待通りの働きをしてくれましたね」

「‥‥ああ、工場も潰したみたいだ」

「やはり、そうでしたか。‥‥あなたが言うのならば」

 マトイが肩にしなだれてくる―――今日は特別綺麗だ。酔いが回ってると、目が冴え渡るのだろうか―――そもそも2人が特別美しいのが最大の原因ではあるが。

「あのクラブが、精製工場か‥‥。サイナは聞いてたのか?」

「少しだけですけどね。怒りました?」

「今度は覚悟しろ、目一杯甘えるから」

「いつでもどうぞ♪」

 わざとだろうか?そう思わずにはいられない勢いで自分の胸を揺らして、両手を広げてくれる。一瞬、ほんの一瞬だがサイナは誇るようにマトイを見下した。

「‥‥胸だけじゃなくて、足も彼は好きですから。それに手も」

 今世紀最大の発見だ。負けたマトイを初めて見たかもしれない。

 場の空気を変える為、マトイがコップに口を付けて息を吐く。

「あの時ですねに気付いたのは。イノリさんの報告を受けました」

「確信を得たのは、あの注射器を見てからだけどな―――血の聖女は‥‥恐らく人工的に量産した貴き者の血だ。だけど、妙だ‥‥」

「妙とは?」

「血の聖女を静脈に注射して、身体に馴染ませる。そして血を抜く、何の為だ‥‥」

 注射器を見て疑惑が疑問に変わった。確実に抜く事に特化している、確定的に血を抜く事こそが目的、あれは、血を抜く事がメインの使い方なのだろう。

「何の為だと思います?」

「‥‥わからない。貴き者の血は、貴重だ‥‥。例えば、こんな方法で血を増やせるなら、増やす誕生種が選ばれるかもだけど‥‥。意味がない」

「意味、ですか?」

 サイナが聞いてきた。

「‥‥サイナ、これ以上先は」

「聞きます。あなたの身体は私にとっても大事な身体です。先々の事を考えて、あなたの事はよく知るべきだと思ってます」

 ヒトガタについてどころか、貴き者達の話は人間にとっても難解な話だった。だけど、だからと言って聞かせないという理由にはならない。

「‥‥わかった。きつかったら言ってくれ」

 変わらない笑顔で見てくれる。そうだ、この顔に、俺は鎮められたのだった。

「ヒトガタを生成するのは、人間では辿り着けない場所に到達したいからだ。俺の究極の人も、多分そうなんだと思う。だから貴き者の血は限りなく純粋じゃないと意味がない。確かに別の血と血を混ぜる事もあるけど、人間との混血では、意味が無い」

 人間では出来ない事をするのだ。そこに人間の血が混じっては、人間止まりになってしまう。それでは意味がない。個別の誕生種については一切述べない自動筆記が、驚くほど寛容に知識を紐解いていく。

「‥‥俺が捨てられた理由を話したな。俺は、自己保存を、死ぬのが怖くなったから捨てられた。自分を人間だと、思ってたから‥‥」

 サイナにきつかったらと言ったのに、俺自身が苦しくなっている。

 僅かに口元が操れなくなった瞬間、自分とは違う声が響く。

「ヒトガタを作ったのに、そこに人間の血を注いでは意味が無い。なぜなら、ヒトガタには、人間ではできない事をさせたいから。‥‥これでいいですか?」

 マトイが、率先して答えを言い当ててくれた。苦し紛れの言葉の端々を拾い集めてくれる。

「‥‥合ってる‥‥」

 食べ終わった鍋を眺めて頷く。

「それに、貴き者の血は、人間の力では作れない‥‥そもそも論で話そう。俺達ヒトガタに注がれる貴き者の血は、何かわからない。生物なのかもわからない。じゃあ、なんなのか?これを知ってる人間は、まずいない」

「知らないで、使ってるんですか?」

 驚かせてしまった。サイナの琥珀色の瞳が見開かれる。

「人間だって核物質とか、よくわからないで使ってるだろう?俺を造った人間も同じだ。貴重な血を使うからこそ、人間の因子なんてカケラも入れたがらない。血の聖女が、どんな実験の元、実行されてるのかわからないけど―――これは破綻している」

 わざわざ貴重な血に、人間の血を混ぜて取り出すなんて。傷がないからこそ価値がある宝石に、ワザと傷をつけるような行為だ。

 知識や価値を知っている専門家ならば、まずやらない。理性が邪魔をするだろう。

「‥‥矛盾してませんか?だったら、なんであなたは」

 震える口元でマトイが当然の疑問を投げかける。そんな貴重な血で造った俺を、なんで捨てたのかと。

「人間も金とか平気で捨てるだろう。貴重で高価だけど幾らでも代えが効くんだ。特に俺達は、」

「やめて」

「ヒトガタの精製に必要な血は個体によって違う。俺みたいな量産品は一滴でもいい。失敗作を養う位なら、捨て」

 机の下で手を握られる。冷たい手を解き、時間を与えてくれた。

「‥‥ごめんなさい」

「—――マトイは、捨てないだろう。サイナも‥‥」

「しません、絶対に————」

 サイナの言葉と、マトイの手で確信を再確認出来る。自動記述が起動し続けて、いつの間にか口を奪われていた。

「マトイは知ってたのか?あれを飲ませれると、操られるって」

 マトイの手を強く握って、指を絡ませる。

「‥‥男性だけという話でしたが、確証に到達するサンプルもなくで私達まで血を使われては危険だと判断し、あなたとイノリさんに一任しました」

「それでいい。2人まで、血を使われていたら、俺はどうしようも無かった‥‥」

 戦力的に3人が敵に回った場合、もうどうする事も出来なかった―――やはり、俺は卑怯者だ。こんな事考えたくもないというのに、イノリだけで良かったと心の何処かで考えてしまっている。

「イノリから聞いたのか?」

「いいえ。でも、イノリさんからの調査書で想定はしていました。だから、あなたを選びました」

「俺は操られる可能性は無い、って思ったか」

 マトイの選択は正しい。マトイは、あの血を貴き者の血だと考えていた。であれば、俺に頼るのが妥当だ―――あの方の血は並みの血よりも強い。俺であれば耐えられる、と考えるのは当然の帰結と言える。

「先に言っとく、怒ってる訳じゃないんだ。なんで、言ってくれなかったんだ?」

「私が頼んだの」

 後ろのふすまの向こうから聞こえた。

「だって、バカっぽいじゃん。人が操られてるみたいって。まぁ、あんたの事を知ってれば話したかもだけど」

 ふすまを開けながら、イノリが俺の疑問に答えてくれる。

「それにマトイから聞いたの。もし全部話したら、あんたは1人で行くだろうって」

「‥‥今のあなたを1人で行かせる訳には行きませんでした」

「‥‥そうか」

 あの時マトイが、俺1人でも行くって言って止めなかったのは、イノリなら一緒に行ってくれるってわかってたからか。

「怒りたければ、怒れば。結局、二回も怪我をさせたんだし」

 見下ろしてこそいるが、目線は向いていない。本当に申し訳ないと思ってくれていた。

「怒る訳ないだろう。ずっと、俺の味方だったのに。期待外れだったか」

「‥‥期待外れなんかじゃなかったから」

 それだけ言って、イノリはサイナの隣に座った。

「どうだった、表の情報科は」

「普通だし、緊張感が足りない感じだった」

 自分の期待通りでは無かったらしい。

 ただ潜入学科と比べれば、どこだって緊張感が足りないだろう。

「でも、つまらなくは無さそうだろう?」

「‥‥うん、そうかも。あ、そうだ。あんたの幼馴染にも会ったよ」

「シズクか?なんだいたのか。顔を見せてくれれば良かったのに、何処にいる?」

「その前に聞いて、あんたに伝言で昨日は悪かったって、何かあったの?」

「まぁ、少し」

「ふーん」

 この興味が無さそうな言い方に、感謝してしまった。

「でさ、‥‥その、傷はどうなの?」

 その問に酔いが覚めてきた所為で、増してきた痛みを再度確認してしまう。ついさっきまで胡座をかけていたが、今は足を掘りごたつに伸ばしていた。

「‥‥ごめん。痛いよね」

「‥‥ああ」

 嘘は言えない。誤魔化しても歩く時に庇ってしまう。

「‥‥そろそろ行こう。サイナ、痛み止めがあっただろう?」

 立ち上がろうとした時、マトイが手を引いて助けてくれる。

「‥‥悪い。何から何まで」

「わかりましたか?」

 目を逸らさない。あの夜のマトイの心の痛みが、ようやく理解できた。

「—――俺も、撃てなかった。やっと理解できた。ごめん‥‥それと、ありがとう‥‥。やっぱり、マトイがいないと、俺は‥‥」

 いい終わる前に両手が首に回ってきた。マトイの香りに包まれているのがわかる。顔の外も中も、マトイの甘い香りに唾液で満たされていく。

「行きますよ」

「ああ、行こう」

 首から離れたマトイの手に握られて、一緒に外に出る。もう他のオーダーも部屋から出て帰る途中だったようで、何人もの目が刺さる。

 俺は構わないけれど、マトイはいいのか?と思って顔を見ると、今まで見た事ないぐらいに誇らしげな笑顔だった。

「2番目なんて言わせません」

「俺も―――そんな事言わせない」

 手を握ったままで一歩前に出る。周りからの目を一身に受けるが、人間の目なんて痛くも痒くも無かった。肩で料亭の空気を引き裂いて玄関を後にした時、時刻は完全な深夜。時刻は24:00丁度だった。

 学校終わりに仕事を始めたのだから、6時間はあの街にいた。

「ここって、なんなんだ?」

「来た事なかったのですか?」

 今までいた店を見上げると、何十階建てか考える方が呆れるビル。ホテルの一階だった。

「車はこっちですよ」

 ビルに圧巻されてる俺を横目にサイナとイノリが通り過ぎ、マトイが引きずられてモーターホームまで案内される。

 モーターホームとあの二台の装甲車、そして、もう一台—――正直、驚いた。

「‥‥まだ、実験段階のオーダー製の通信車だろう‥‥?あんな物まで持って来てたのか‥‥」

「今回の作戦の有無で今後、配備するかどうかを決めたそうです。情報科の生徒から感謝されていましたよ。新しいオモチャが手に入るって」

 見た目はテレビ局が持ってるような中継車だが、中身は完全なるブラックボックス。あれ一つでオーダーが打ち上げた衛星を好きに操作して、独自のデジタルネットワークを展開、浸食出来るとも言われている代物—――その気に成れば、世界中の衛星をジャック可能との噂もあった。

「よく、国が許したな‥‥。あれ一つで警察の秘密通信を傍受できるかもしれないのに‥‥」

「今まで、散々が無許可で行っていた暴走ですから。毒を以て毒を制すが最善と考えたのでしょうね」

 今回、何に使っていたのかはわからないが、きっとあずかり知らぬ所で活躍したのだろう。

「情報科に配備されるのか?遊びたい‥‥」

「まずは自分の傷を治して下さい。明日にはネガイとの約束があるのでしょう」

 マトイが呆れたように嗜めてくる。

「上がれますか?」

「これぐらいなら」

 手を引かれたままで、モーターホームに入る。強がりはしたが、未だ針が刺さってるような異物感にも近い痛みを感じ始める。

「落ち着く‥‥」

「ふふん♪自分の家と思って、いえ、私の部屋と思ってお寛ぎ下さいね♪」

 モーターホームの中をもう一つの自分の部屋のように感じてしまっている。なにより、ここに入ればサイナに会えると思って通ってしまっている部分もあった。

 レバーを越えて助手席に座り。サイナは運転席、マトイとイノリはソファーに座る。

「いいの?人の車でダラケさせて」

「構いませんとも!だって、甘えん坊な猫さんが遊びに来てる感覚ですから♪」

「複雑で厄介な猫ね―――それで、何から聞きたい?」

 後ろにいるイノリが聞いてくる。

 その前に酔いを完全に覚ます為に肺に酸素を取り込み、身体中に回す。

「まず、今の体調はどうだ?」

「‥‥聖女の事、聞かれると思った‥‥」

 驚いたのか、ルームミラーに映ったイノリの目が大きく開かれている。

「体調は‥‥今は平気」

「‥‥良かった。じゃあ、聞いていくぞ、早速だが聖女を見たのか?」

「‥‥うん」

 マトイも、サイナも、驚いた様子が無い。

「悪いが、俺にも教えてくれ。聖女はどんな姿だった?」

 やはりと思った―――片手を頭に付けて考え込んだ。ネガイとマトイも、あの方とのやり取りを思い出すのに苦労していた。

 人間にとって、ああいった経験は夢として消えてしまうようだ。現実として受け入れられる自分は異常であり、特別なのだろう。

「‥‥確か‥‥見た目は白いドレスで」

 白いドレス?そうだ、あの場には、もうひとり―――

「顔は、顔は‥‥。ごめん、やっぱり覚えてない‥‥。なんでだろう‥‥顔だけ塗りつぶされてる‥‥」

「じゃあ、服装を教えてくれないか?」

 これ以上、思い出すのは無理そうだ。下手に考えさせると、無意識に他のイメージと混同させてしまう。

「白いヒールを履いて‥‥」

「‥‥ヒール、ですか」

「ごめん、なんでだろう‥‥。思い出してきたの‥‥」

「いいえ、気にしてません」

 俺が聞くと思い出せる。あの方の血と関係しているようだ。

「ドレスはどんなデザインだった?」

 その質問に、イノリは手で何も無い空間に上半身とくびれを作り始める。聖女の体型を思い出そうとしている。造り出されたボディーバランスには、見覚えがあった。

「白いドレスは、かなり胸元が開いてたんじゃないか?」

「ネガイさんに言いつけちゃいますよ~」

 光を失ったサイナの目がフロントガラスに映るのが見える。心なしか、マトイの視線も冷たい。

「‥‥っ!そう!なんで知ってるの!?」

 イノリが叫ぶように肯定してくれた。

「あのベットにいた子、覚えてるか?」

 連続した質問が、イノリにとって衝撃が強かったようで、頭を抱え始めてしまう。

「‥‥なんで、なんで、私、忘れてたの‥‥。違うの‥‥。私、黙ってた訳じゃ」

「大丈夫です。落ち着いて、私も同じ経験があります―――ゆっくり息を吸って」

 イノリが目を開いたまま、マトイに首を振り始めるが、仮面の方の事で記憶が消えつつあったマトイも、決して他人事ではなかった。

 そしてもうひとつ解った事があった―――イノリ自身、気付いていなかったようだが、ある時点で無意識に操られていた。クラブの酒を飲んだ時から。

「クラブの上から降りてきたのは、俺とイノリだけか?」

「‥‥まず順を追って説明します。あなたが救護隊に連れられて降りて来た時、ふらつきながらも自力で歩いていました」

「かなりの千鳥足でしたよ。降りて来た後はイノリを、イノリを、って言いながら救護隊から治療を受けてました」

 やはり、俺も『酔って』いた。いや、『拒絶反応』が酔いとして顕在化していた。

「救護隊の治療を受けた後、あなたは寝てしまい、その直後にイノリさんが起きました」

「交代みたいに起きたのか。それで俺と、イノリはどんな診断を受けたんだ?」

「あなたもイノリも、アルコール中毒、つまりは飲み過ぎと言われました」

 オーダーではあるが未成年がアルコール中毒とは、法務科でなければそれなりの制裁を喰らってただろう。

「あのクラブの酒も調べた方がいい」

「既に調べています。私も、気になったので」

 俺はイノリの呼気によって急激に酔った。であれば、あそこの酒類には俺を酔わせる、または狂わせる効果がある。

 なぜ俺が酔って眠ったのかはわからない。けれど、人を操る事ができる血の聖女が仕込まれている可能性がある

「血の聖女の解析はどこまで進んでる?」

「私も、再三調査結果を請求しているのですが‥‥今は調査中と繰り返すばかりで。報告の前に一度こっちに来て、傷を見せて下さい」

「‥‥わかった」

 足の状態に気付いたようだ。痛みが引かない上、包帯が湿ってきた。

「血の聖女を使った若い女性は、聖女に夢の中で会う。そして記憶が残る。これは間違いないな?」

 もう一度レバーを越えて、後ろに行く。マトイが立ち上がってソファーを渡してくれる。

「そうね。私も会ったし」

 隣に座った俺の事も気にしないで足を組み、質問に答える。黒いパーカーの下から見える白い足に、視線が吸い寄せられる。マトイとは、また違う白い足だ。

「それで、聖女はどうやって救ってくれるんだ?」

「‥‥わからないの。でも、あの時は、救われるって思った。‥‥自分の心を見透かされてる感覚なのに、悪い気分じゃなかった。それに、私も聖女の気持ちがわかったの‥‥。本気で私を心配してくれてるって‥‥1人じゃない気分だった‥‥」

 間違いない。聖女はヒトガタだ、ただし、古い型の。

「‥‥教えとく。その聖女はヒトガタだ」

「‥‥言ってたもんね」

 操られていた時の記憶もあった。今思えば、確かにあの姿は酩酊状態。イノリは酒に強いと言っていたし、事実強い。だから、記憶が残ったと言えるのかもしれない。

「それと、聖女の力は、ヒトガタの古い力だ。少し前にマトイが聞いたよな?ヒトガタにはテレパシーに近い能力があるのかって」

「‥‥そうでしたか」

 1の言葉で、10を知ったマトイが、自分のネクタイを触って息を整える。

「話すと長いから、全部はメールで伝える。ヒトガタのテレパシーは、自分と相手を同化させて、意識を伝える。多分だが、聖女は酒に酔わせる事で、」

「自分と同じ思考回路を持たせる」

 マトイがピタリと言い当てた。

 だけど、なおの事謎が生まれる。聖女と人間を同化させる為に、貴き者の血を使うなんて、やはり違和感がある。

 端的に言えば、浪費される貴き者の血の量を考えていない。

 貴き者の血を、血の聖女として使う事に一体どれだけも意味があるのか。それほどまでに、この誕生種には価値があるのか?

「何に苦しんでいるか、最初からわかっている子を酔わせれば、意識を同化させやすい」

「そしてそれを繰り返して血の聖女が身体に馴染んで時を見計らって、同化して血を抜く。‥‥こんな所ですか?」

「‥‥マトイも、俺の心が読めるのか?」

「はい、できますよ」

 即答だった。

「‥‥マトイを好きになってよかった。‥‥愛してる」

「私もですよ」

 俺がマトイを好きなったのは必然だった。もしくは、マトイが俺に自分を好きになるように振る舞ったのか。考えが読めるなら簡単だっただろう―――この手玉に取られてる感覚、癖になってくる。

「今、俺は何をしたいと思う?」

 そんな馬鹿みたいな質問に、マトイは自分の口を指差して。

「口づけがしたい。私は、それ以上でも―――」

 マトイは腰を折って顔を近付け、息を吹きかけながら舌舐めずりしてくる。その淫靡な仕草に鳥肌が立ってくる。酒など無用だ、マトイさえいれば、いつでも酩酊状態に堕とされてしまう。それに、ここまで官能的なマトイを見た事がない―――ああ、また好きになってしまう。

「馬鹿なの?」

「はい♪見た通り、感じた通りで~す♪」

「大丈夫です。こんな所も好きになりますから」

「‥‥こういう所をねぇ」

 サイナとマトイが、冷静に分析をしてきた。また、遊ばれてしまったようだ。

「じゃあ、脱いで下さい」

 言われた通りにズボンを脱ぎ、もう一度ソファーに座る。運転席から移動してきたサイナが車の奥から椅子を持って来て、足を乗せるように伝えてくる。

「包帯を一度取りますね」

 足に巻かれていた包帯が血で染まっていた。マトイが手袋をして、清潔な手で包帯を外してくれる。傷口には血止めの薬が使われ、丈夫なシートと共に強めに巻かれていたようだが、許容量をオーバーしたらしく血がはみ出ている。

 かなり深く刺さった為、血の勢いが止まり切っていなかった。

「‥‥私がやる」

「それは?」

「大丈夫、刺す訳じゃないから」

 立ち上がったイノリが俺を刺した針よりも細くて小さい針と綿棒を取り出す。

「動かないで」

 イノリは血がはみ出ている部分を綿棒の先で拭き取り、シートの粘着部分の邪魔をしている固まった血を針で削りとっていく。

 終わった頃には、血がはみ出ていた部分など最初から無かったように見える。

「はい、おしまい。後はお願い」

「はい、任せて下さい」

 自分の作業が終わり、後を任された通りにマトイは新しい包帯を巻いてくれる。

「サイナ」

「使うんですか?しばらく休めば、ある程度は」

「いや、使ってくれ。痛みと痺れなら、まだ痺れの方が我慢できる」

 痛み止めの注射器は高価だ。それに局部麻酔なので、かなり痛い。

「‥‥わかりました」

 持って来た注射器は刺された物よりかは細いが、斜めに尖った針先の光に、たじろいでしまう。

「やっぱり、マトイ、助けて」

「眠りますか?」

 自分で求めておいて、想像を超える情けない声を出してしまった。その声を聴いてマトイも、サイナも笑っている。

「子供みたい。ただマトイに甘えたいだけじゃないの?」

「‥‥でも、怖いんだ」

「あっそう。怖いんだ、へぇー‥‥怖いねぇ‥‥」

 イノリは、呆れ顔のままだというのに、器用に八重歯を剥いてくる。

「私が刺してあげようか?」

 サイナから注射器を受け取り、イノリが八重歯と瞳に光を携えてくる。

 震えに気付いたマトイが、俺の頭を引き込んで自身の身体を布団代わりにしてくれる。更に、何か言う前に目に手を置いてくれた。

「見なければ、痛みは少なくて済むますよ。因みに、私は見れる人間です」

 最後のそれに、どんな意味があるのか。俺には計り知れない。

「‥‥さ、サイナ‥‥手を‥‥」

「は〜い♪私も見れる人間で〜す♪」

 マトイの手のお陰で眠くなってきた。けれど、見えない筈の針の恐怖で体が震えてしまい、更なる震えをサイナの手で誤魔化す。

 手汗が酷いのに、サイナは握り続けてくれる。それだけでなく動かないように、傷口近くを抑えて―――墓穴を掘ったと気が付いた。

「寝ていいわよ。‥‥それとも、刺されてから寝る?」

「マトイ‥‥やっぱり」

「自分で言った事ですよ。頑張って下さいね」

 優しい声で求めを振り払われた。確実に楽しんでいる。

「大丈夫。彼女はプロです。きっと、気持ちいいですよ」

「‥‥気持ちいいって」

 心臓が、何かを伝えてきた。

「‥‥え、なんで‥‥ねぇ、もしかして」

「気付きました?この人は、こういう人です。まぁ、見れば分かりますね」

「‥‥面白いじゃん。痛いの、好きなんだ」

 イノリの舌舐めずりが聞こえる。

「痛いのと、気持ちいいのって、違うけど、同じなの。同じ痛覚を使って感じる事だから、そんなに遠い概念じゃないってわかるでしょう?あんたに使ったあの針は、痛覚を狙った一突きだから、かなり痛かったかもしれないけど。今度のは、違うから」

「‥‥別々じゃないのか‥‥?」

 安心させる為か、それとも自分の興奮が収まらないのか。顔にかかってくる息の所為で、サディスティックなイノリの呼気に拍車がかかっていくのがわかる。

「そうね。痛みを狙うか、快楽を狙うか、って話なら別々かもね。やってる事は同じなのに。‥‥あは、いい反応‥‥」

 前触れなく、イノリが腿に触って細い冷たい指で撫で上げてくる。

 痛みと快楽は同じ。同じ延長線上にある。けれど、別々に感じられる。

「‥‥血の聖女‥‥それと聖女は‥‥」

「何?おかしくなった?‥‥痛いの欲しい?」

 傷口と頭が熱くなってくる。マトイの手の熱が強過ぎる。意識が遠のく―――

「もう寝る寸前です。手が熱いので、分かります♪」

 面白がっている3人の笑い声が聞こえる。

 『血の聖女』を使って、『聖女』は人間と同化していた。だから、俺は、血の聖女を量産して使っている理由は、聖女の同化の為だと思った。

 だけど、それはあまりにも貴き者の血を顧みない誕生種だと思った。でも、それは、同じ延長線上にあるだけで―――本当は別々の、いや、そもそも聖女の存在が。

 ―――ダメだ、もう、考えが、まとまらない。

「マトイ‥‥、止めて‥‥」

「‥‥大丈夫、すぐ終わります。それに、痛いのでしょう‥‥」

 ああ、そうか。マトイは、またあの時を思い出しているのか。

「刺して欲しい?」

 でも、あの時とは違う所がある。これは、俺から頼み込んだ。でも思い出してきた――――殺された時を。

 俺は、今度はイノリに殺される。

「大丈夫、安心して。‥‥一瞬で、終わるから、ほら終わっ」




「怖かったですね‥‥。こんなに怯えて」

 目が覚めて仮面の方が見えた瞬間、泣き出してしまった。

「針は怖いですか?」

「‥‥はい‥‥」

 椅子に座った仮面の方に抱きついて、しばらく泣きついた―――無様な姿で泣き続けたというのに仮面の方はいつも優しかった。

「‥‥ドレスを汚してしまいましたね‥‥」

「気にしないで。好きなだけ汚して下さい」

 血と涙で、散々汚してしまっている。本当なら離れろと言われても仕方ないのに、この方は笑顔で迎えてくれる。

「目に焼き付いていますか?」

「両目は、怖かったです‥‥」

 やはり人間は嫌いだ。あんな物を作り出すなんて―――

「‥‥嫌な事が増えてきました‥‥」

 二人は、俺を救う為にやってくれた。イノリだって同じだ。だから、泣きつくのはこの方だけにしておかねばならない。

「大丈夫です。マトイさんも、こう言っていましたよ。彼女を信じて」

「‥‥はい」

「ふふふ‥‥頑張って下さい。それに私に話があるのでしょう?それとも、もう少しこのままですか?」

 どうしてこうも望むままに、この方は俺の心を包んでくるのか。体温も、声も、香りも、全てで癒してくれる。仮面の方の撫でてくれる手に意識を集中させてもらう。

 呼吸を三回、それで心臓のテンポを掴み、心臓を自分の物にするイメージを掴む。

「‥‥話したい事があります」

「はい、どうぞ」

 情けない格好だ。抱きついたまま離れられない。未だに、膝が震えている。

「血の聖女には、貴き者の血が混じっていますね?」

「さぁ、どうでしょう」

 この方は、ヒントや道標をくれるが、答えはくれない―――想像通りだ。

「俺が、酔っただけで済んだ理由は、あなたの血が関係しているんですね」

「うーん、そう聞かれると、答えないといけないですね。答えは、はいです」

 俺の身体の事については、この方は口が軽い。本当に、俺の身を案じている。

 この方の血とただの貴き者の血では比べ物にならない程、この方が格上だ。だからこそ、操られないで済む。この方は首を垂れてはいけない、首を垂れられるべきだ。

「‥‥ありがとうございます」

「お礼を言って貰う程ではないですよ。あなたは、私の物なんですからね。自分の物に鍵をつけるのは当然です」

 鍵か。その表現は初めて聞いた。

「‥‥聖女は、ヒトガタですね?」

「はい、正解です。‥‥これは、あなたでは知り得ない事なので教えられます」

 この方のルールがわかってきた。俺にはわからない事は教えてくれるが、自力で見つけられる答えはヒントしかくれない。それが、この方と世界の約定なのだろう。

「聖女の目的は、人との同化ですね?」

「そうと言えるかもしれないですね」

 仮面の方は、楽しげに頭撫でてくれる。

 本当は目に置いて欲しいが、せっかく会えて甘えられる―――もう少し起きていたい。それにまだ聞かないといけない事もある。

「聖女の誕生種は、人間達との同化。そして聖女には自分の誕生種意外にも命じられた物がある」

「続けて下さい」

「それは血の聖女を増やす事。この二つは重なってはいるけど、別々の誕生種」

 勘違いをしていた。血の聖女と聖女の誕生種は別々だった。一つは人間とヒトガタの同化。もう一つは血の聖女を増やす事。

「‥‥不思議なんです。なぜ貴き者の血を、人間に混ぜているのか‥‥。俺には理解出来ません」

「私にも理解出来ません。人間とは不思議です、わざわざ可能性を狭めて、一つの事にのみ力を入れる。人間がほろ‥‥、なんでもありません。忘れて下さい」

「‥‥はい」

 人間が滅ぶか。いずれはそうなるだろう。

 誤魔化すように咳払いをする仮面の方も、また愛らしかった。

「その事については、今は話せません。いつかお話しする機会も来るでしょう―――話を戻します。聖女は、なんの為に人との同化を選んでいるのか。それを考えて下さい」

「‥‥同化している女の子達は、皆、悩みを抱えています」

 家出の原因は?と聞かれるとやはり家族との関係が多い。イノリと同じように。

「居場所が無い‥‥、帰る所がない子達」

 仮面の方は、何も言わないで頭を撫でてくれる。俺も、少し前まで同じだったから、痛みがわかる。捨てられた時の痛みも。

「‥‥聖女は、そんな子達を救ってくれる。ヒトガタが何の為に?」

 ヒトガタのやる事は、全て主の為。ならば主が女の子達を救え、と言ったから同化をして夢に出てた。

「ヒトガタを使って、聖女の主は何をしようとしているんですか?」

「‥‥それは、言えません」

 仮面の方が、自分の子宮辺りに頭を迎え入れてくれる―――暖かい。

「でも、血の聖女についてのヒントはあげます。あの聖女は純血です」

「‥‥それは、聖女ですし‥‥。純潔なのでは‥‥」

「純粋な血です!」

 仮面の方がポカポカと叩いてきた―――まずい、眠くなってくる。

「聖女は!限りなく純粋な血の持ち主なんです!生まれた時に注がれたあの血が!ほとんど変わらずに現在まで身体を巡っている!本当に貴重な存在なんです!」

「一種類だけで造られたヒトガタは皆んな同じでは?」

 変わらずどころか、勢いが増したポカポカをしながら答えてくれる。こんな事もできるのかと思うと、更に愛らしく感じられてしまう。

「あなた方ではわからないぐらい微弱ですけど!ただあなた達の世界で生きていくだけで!ヒトガタは純粋な血から!離れていきます!それは純血とは言えません!」

 この方がここまで怒っているのは、自分の美学に反する事を俺が言ったからか。

「わかりますか‥‥!?長く生き続けたヒトガタの身体に!!あの血が純粋な状態で巡っている事の貴重性を!!‥‥少し、失礼‥‥」

 怒鳴り慣れていない仮面の方は、興奮を抑える為に大きく息を吸いながら頭を撫でてくる。

「‥‥わかりました?」

「‥‥はい」

 相当、怒らせてしまった。自分を落ち着かせる為に、更に頭を撫でてくる。

「話が逸れましたね。ここまで言えばもうわかりますね?」

「‥‥俺が、貴き者の血だと思ってたのは、ヒトガタの血だった」

「その通りです。これなら【貴き者の血】を無為に消費しないで、『聖女自身の血』と、《人間の血》を混ぜれば『血の聖女》を作り出せます。半分は人間の血ですから、拒絶反応も少なくて済み、聖女は自分の血を使うだけで、人間と同化できます」

「‥‥それが、聖女の誕生種の一つ‥‥」

 思い描いていた聖女とは、遠くかけ離れた姿だった。

 主に命令されたから、人間を救う存在。デウス・エクス・マキナ。人間ではどうする事も出来なくなった悲劇を絶対的な神の力で解決する機械仕掛けの神。限りなく、人間の都合で生まれた在り方。

 ヒトガタとの在り方とは、本来そう有るべきなのかもしれない。

「なぜ、そんな一般人にも知られかねない事を?」

「それは、聖女が何故人間と同化をしているのかの答えになりますから。私からは、言えません」

「でも‥‥」

「はい。では、なぜ、私はあなたに彼女の事を教えたか。答えは、彼女を止めて欲しいからです」

 驚いた―――この方が、俺の周り以外の生命に興味を持ったからだ。

「‥‥」

「安心して下さい。一番はあなたです。絶対に私も譲れません」

「‥‥良かった‥‥」

 もう俺に飽きたのかと思って、泣きそうだった。そんな俺を慰めるように、頭や耳を触ってくれる。

「彼女を止めて欲しいと言ったのは、貴重だからです。それ以上の意味はありません。‥‥彼女は、近く限界が来ます」

「限界ですか‥‥」

 あのクラブにいた子達、全員と意識を同化させて、その苦しみに触れていたのなら―――いくら、ヒトガタでも、限界が来る。

 全く違う思考や思想を持っていても、痛みや苦しみは、同じなのだから。

「聖女を止めるには、どうすれば?」

 顔を上げて、仮面の方の目を見つめるが目を閉じてしまった。

「‥‥聖女の機能を奪って下さい」

「‥‥っ。俺に、ヒトガタを殺せと‥‥?」

「‥‥そうです」

 ヒトガタから自身の機能を奪う?それはヒトガタにとって、もはや宣告ではない。死刑を執行されたのと、ほぼ同義だ。

「‥‥聖女は、これから捨てられるんですか?」

「いいえ。でも、彼女の役目は、壊れるまでその使命を全うする事。そんな終わり方、彼女に相応しくありません」

「‥‥俺は人間が嫌いです。そんな最後を強制してくる人間が‥‥でも、ヒトガタは‥‥」

 仮面の方が立ち上がって、俺にも立つように目で訴えてくる。指示に従った所で、仮面の方が抱き締めてくれる。

「あなた方、ヒトガタにとって、死ぬまで主の為に生きる事、それが本望だとわかっているつもりです」

「‥‥聖女を、このまま放置したらどうなりますか?」

「—――壊れる寸前に彼女は貴き者の一人になります。一瞬ですが、人間も、ヒトガタも超越した存在となります。やはり人間は破滅願望を持ってしまっていますね。そんな物を作り出しても、生まれるのは人間の敵だというのに」

「‥‥俺と同じですね」

「はい、あなたと同じ人類の敵となって形を得てしまう。ヒトガタを殺す事に、戸惑いがあるのならば、こう言えば聞いて貰えますか?聖女の誕生種を完成させると、イノリさんも人間では無くなる」

「‥‥同化ですか‥‥」

 人間の女の子達と同化する事で、何故そんな力を得る事が出来るのか、俺にはわからない。でも、この方が言うのなら―――

「‥‥脅してしまって。申し訳ありません‥‥」

「‥‥いいえ。この事を話したくないから、聖女は貴重だと言ったんですよね――やはり、あなたはどこまでも優しい。俺が、渋ってしまったから、こう言わざるを得なかった―――追い詰めてしまいましたね‥‥どうすれば、聖女の機能を奪えますか?」

 仮面の方の顔を見る為に、身体を離す。

「私の血を聖女に。あなたの血を聖女の身体に混ぜて下さい」

 この方の血には、俺の世界にいるような小物を、ねじ伏せられる力がある。

「‥‥いいんですか?」

「純血の事ですか?確かに惜しいかもしれません。でも、手元に置いておく価値はあります」

 やはり、この方は生粋のコレクターだ。俺と同じように、聖女も集めて愛でたいと言っている。

「‥‥聖女と俺は、どっちの方が」

 聞き終わる前に、口を塞がれた。柔らかい血肉に飲み込まれる。

 一瞬で我慢という理性が消えた。仮面の方を床に押し倒して、唾液を奪い続ける。

 仮面の方も、その気になってくれた。俺の背中に手を回して、逃がさないように手を結んでいる。今日、このまま窒息死が出来る―――

「聖女とあなたですか?聞くまでもなくあなたです。不安は消えましたか?」

「‥‥まだ、足りません」

「もう‥‥甘えん坊ですね。さぁ、続けましょう‥‥。今日は、私の上を許可します。好きなだけ、押し付けて下さい‥‥」



「あ、起きた‥‥」

 窒息死した後、仮面の方の上で首を噛み落とされた。転がる頭で仮面の方の口を求める事ができるとは、まだまだ自分には自分でも知らない機能があるようだ。

「‥‥サイナか‥‥」

「手だけじゃなくて、足のソムリエにもなって来ましたね。私の足はいかがですか?」

「‥‥好き‥‥」

「足だけじゃなくて、私も愛して下さいね♪さぁ、起きて下さい。もう着きましたよ」

「‥‥その、ほら、起きて」

 目に置かれていた手が離される。イノリらしい手に腕を引かれて、起き上がるが、まだ目がぼんやりとして明瞭にモーターホームを見渡すことが出来ない、

「‥‥今何時?」

「2時です。皆んな仮眠を取って起きた所—――あの方に会って来ましたか?」

「‥‥顎が疲れた‥‥」

「顎?寝違えました?」

 結局、窒息するまで続けていたのだ。夢の中だとしても、顎が疲れて当然か。

「‥‥聖女について、話してきた」

 ようやく見えてきた目に映ってくるのは、マトイとイノリ。だけど、イノリが目を合わせてくれない。

「聖女は、どんなヒトガタだと?」

「純粋な血の持ち主。血の聖女は、イノリが見た聖女から造られた血らしい―――これ以上は、教えてくれなかった‥‥」

「それだけ聞ければ十分です。‥‥お疲れ様でした」

 立ち上がったマトイが、頭を自身の腹部に受け入れてくれる、

 マトイにも、まだ言えなかった―――このまま放置すれば聖女は貴き者に、イノリも人から離れた別の存在となってしまうなんて。

「今、マスターに連絡をしてきます」

「‥‥ああ、頼むよ」

 そう言って、マトイはスマホを起動させて、あの師匠に連絡を始める。

 あの方も同化については、教えてくれなかった。もしかしたら、マトイの師匠なら、何か思い当たる事があるかもしれない。

 でも、やらなければならない事は変わらない――――聖女を確保する。そして血を飲ませる。これだけでいい。ヒトガタを殺す事になったとしても。

「何か考え事ですか?」

「ああ‥‥そんな所‥‥サイナ」

「はい、もう一度どうぞ」

 きっと難しい顔をしていた。横顔だけで俺の心を悟ってくれた。

 ソファーに背中を預け、サイナにもう一度戻り天井を見上げる。

「サイナも、俺の心が読めるのか―――目に‥‥」

「ダメですよ。寝てしまいますから。それと、パートナーの精神を案ずるのは当然です。私で安心出来るなら、いくらでもどうぞ♪」

 落ち着かない心拍にタイミングを教える為、手を握って脈を教えてくれる。

「‥‥ありがとう‥‥好きだ」

「はい、私もですよ‥‥」

 握っていた手を胸の上に置いて、前髪を撫でてくれる。

「‥‥マトイ、聖女を確保したら、聖女はどうなる?」

「安全で清潔な生活を約束します。求めるなら、一般的な生活が許される制度もあります。今回のような大規模な事件を起こした成育者、つまりは主には、決して引き渡される事はありません。法務科として、言い切れます。聖女自身が求めたとしても」

 俺からの確認を、法務科のマトイとして答えてくれた。

「安心しました?」

 迷いは晴れない、でも決心はついた―――やらなければならない。

 俺は、ヒトガタを殺す。

 聖女に憎まれるとしても―――主を奪う。

「決まりました?」

「‥‥ああ。決まった‥‥」

 サイナは何も知らない。聞いても来ない。でも、それが今は何よりも安心して頭を預けられる理由となる。

「‥‥ねぇ、いいの?」

「ん?ああ、この人はいつもこうですよ」

 当然のように答えたマトイに、イノリが大きく溜息を吐いて諦めた。

「いい加減にしないと、マトイに痛めつけられるんじゃないの?」

 マトイに痛めつけられる―――マトイに?それは、心臓の高鳴りが止まなくなってしまう。きっと想像も出来ないぐらい痛めつけられる。きっと妄想も出来ないくらいに、甘やかしてくれる。

「マトイ‥‥」

 ここで求めた訳ではない。ほんの少しだけの興味、ただただ純粋な恐れを手に、マトイの顔を窺ったところ、その顔はマトイらしからぬ、いや、マトイにこそ相応しい色濃い感情が塗りつけられていた。

「—――なんて、良い顔を―――そんなに‥‥ああ、そんな顔をしてしまうなんて‥‥」

 足を貸しているサイナが凍り付くのがわかる。脅したイノリ自身が後悔したと言わんばかりにマトイの腰にしがみつく。手を頬に当てているマトイの呼吸がみるみるうちに乱れていくのがわかる。瞳孔を剥き出しにしたマトイが、肩で息をしている。

「マ、マトイさん!!お仕事、お仕事の時間ですよ!!」

「あ、はい‥‥大丈夫、大丈夫です‥‥。大丈夫なんです、しっかり私は法務科の」

 落ち着く為、マトイは椅子に戻って胸に手を当て始める。その様子に、俺を無視して立ち上がったサイナがマトイの肩に手を当てて、腹式呼吸を教え始める。

「そろそろ行くぞ―――準備はいいか?」

 起き上がって問いかける―――無理があるにも程があると自分でもわかる。が、聞かれた本人であるイノリは「‥‥行ける」と、誤魔化すような問いに正面から答えてくれた。

「マトイ、悪いけど法務科としての名前を使う。後は頼む」

「はい、お好きに」

 落ち着いたマトイが前髪を揺らして、笑顔で許可をくれた。もう俺を縛る物はない。これでやっと、あの方の化け物として好きに暴れられる。

「確認だ。血の聖女は、まだ流通する可能性がある。俺達で止める。いいな?」

「‥‥本当にそうなの?もう工場は無いんでしょう?」

「そうか、イノリには詳しく話していなかった。ああ、まず間違いなく。あのクラブは、今どうなってる?」

「法務科が調べ上げている所ですよ。入るのならば、その鍵を見せて下さい。手伝いはしないでしょうが邪魔もしない筈です」

 渡されたあの銀の鍵だった。

「渡したままだったな」

「忘れていましたね。それを持っていれば、好きに出入りできます」

 自分が知らないだけで、マトイも、マトイの師匠もかなりの立場であるのは違いなかった。捜査現場に好きに入り込めるなんて。

「わかった。行って来るよ」

 鍵を胸ポケットに入れようとしたが、邪魔をする物が既に入っていた為、マトイそれを渡す。

「‥‥これは」

「渡しとく、これから法務科に面倒かけに行ってくるから。それにマトイが監視者のお陰でここまで好きが出来てるんだ。何かあった時の為に、預かっておいてくれ」

 車の奥に置いてある自分の武器を腰や腕に装備し、出口に手をかける。

「預かっておきます」

 鍵の代わりに渡したポータブルセーフをマトイが握りしめて、見つめてくる。

「‥‥後で」

「‥‥はい」

 マトイの顎に手をつけて、口を貰う。

「イノリは、俺の後ろだ。また何かあったら、俺の代わりに話を頼む」

「‥‥隠しもしないだね。わかった、任せて」

 マトイから引き剥がされるように、イノリに手を引かれる。

 サイナがソファーから手を振る姿を後に、モーターホームから外に出る。

「それで、まずはどこに行く?」

 地下のコンクリートに足をつけた所で、イノリが聞いてきた。

「少し話がある。だから、さっきの店に戻ろう」




「始まりね‥‥。それってありえるの?」

「‥‥貴き者の血は、人間だけじゃ作れない。だから、大元がいる。血の聖女と呼ばれてるヒトガタが」

 説明と人の通りを確認の為、あの時の喫茶店に入っていた。

 閉店間際らしく、客の一人もいない。こんな時間に来た俺達など、本当なら追い出したいだろうが、店の人は快く入れてくれた。

「貴き者の血は、貴重だ。誰から構わず使っていたら、すぐに底につく」

 イノリにも、貴き者の血を話す事にした。ここまで俺に付き合ってくれているのだ。話さないと、イノリに申し訳ない。

「‥‥確認させて、血の聖女には、人間の血と、聖女の血が混ざってる。聖女は、自分の血を使って私みたいな人間を酔わせて夢を見させる。夢の中に聖女は出てきて‥‥私達を惑わして何度も血の聖女を使わせて、血を抜く。でさ、その抜いた血はどこに行ったの?」

「それは、わからない。そういうプランなんだと思う」

「プランねぇ‥‥。結局、聖女もただ使われてるだけなんだ‥‥」

 また肘を突いて、外を見始めてしまった。

 二つどころか、三つの誕生種がある事はわかった。どれも、俺には理解出来ない。だが、今はそれでいい――――イノリは、人間のままにしなければならない。

 ヒトガタにも、化け物にも、させられない。

 それにあの方が望んでいる。そして、あの方が見込まれた程の存在を、俺も見てみたい。どれ程の輝きをもっているのか。

「オーダーとして、これ以上の血の聖女の流出を止めないとならない」

「別の立場もあるみたいな言い方ね。ヒトガタ絡み?」

「‥‥俺個人の話だ」

「ふーん‥‥」

 運ばれてきたコーヒーを飲みながら、イノリはもう一度外を見る。すぐ近くのクラブにオーダーの職員が群がっている。

「ほんとなの?まだあの中にいるって、普通さっさと逃げない?」

「‥‥ヒトガタには、逃げる場所も、帰る場所も無い‥‥」

「‥‥そっか。私と同じなんだ‥‥」

 窓の外の光景は、ひときわ異様だった。

 近場でここまでオーダーの人間が動き回っているのに、街は変わらずにネオンやカラーライトを煌々とつけている。

「聖女も、人の姿をしてるんだよね」

「‥‥多分」

「ヒトガタから血を抜いて、それを人間に飲ませて、打って、それで血を抜くね‥‥。‥‥あんたが人間が嫌いって言ってた理由が、なんとなくわかってきた」

 肘をついたまま、窓を見ている。

「私も、人間が嫌い。自分勝手で、後で謝って、それなりの待遇をすれば、それで済むって思ってる。なんの説明もしないでね、それが私達の為なんて言ってさ、結局は全部自分の為。わかりきってるんだよね、隠さないといけない事をしてるなんて」

 後で謝って、それなりの待遇をすれば済むか。ネガイもマトイも、それに近い事を俺にしようとしていた――――複雑などという言葉で片付けられないのは、イノリだってわかっている筈だ。

「イノリ‥‥」

「わかってるから、結局オーダーの選択は正しかったって。オーダーに今までずっと保護されて私が言える事じゃない。そこまで恩知らずなんかじゃないから」

 テーブルから肘を離したイノリは、ソファーに頼らずに睨みつけてきた。

「それと、言わせて貰うから。聖女は、血を増やす為に作られたんでしょう?産んで売ればって言ってた、あんたとほとんど同じ発想」

 吐き捨てるように、言ってたきた。

「‥‥っ!そうだ!同じ発想じゃないと、ここまで来れなかった!俺だって‥‥好きで、こんな‥‥」

 声は我慢できた。けれど、涙が溢れ出してしまった。イノリは、正しいのに。

「やっと、怒ってくれたね」

 もう涙で顔を見れない。イノリのどんな表情で、こんな事を言ってきたのか、俺にはわからない。

「‥‥なんでだよ‥‥」

「‥‥ごめん、泣かないで」

 責めてきたイノリがに座り、指で涙を拭いてくる。

「‥‥あんたは、やっぱり人間じゃないんだと思う」

「‥‥俺が、嫌いか‥‥」

「わかんないよ、そんなの‥‥」

 膝の上に置いていた手に、手を重ねてくる。

「あんたの話も、聖女の話も、夢の中の話みたいで、私にはついていけない‥‥」

 また、頭を肩に置いてきた。イノリの髪の香りが、鼻に届く。

「なんかさ。最初に会った時から、人間っぽくないなって思って。‥‥少し怖かったの」

「‥‥ごめん‥‥」

「いいの、謝らないで」

 イノリの首に肩が当たっているせいで、動脈の振動が伝わってくる。振動が心地良くて、眠気を誘ってくる。

「眠い?」

「‥‥少しだけ」

「もう少し頑張って、終わったら寝かせてあげるから」

 泣き疲れても重なり、睡魔がどこまでも追いかけてくる。

「‥‥試すような事言って、ごめんね。でも、やらないといけなかったの」

 重ねた手を強く握りしめて、指で手を拘束する檻を造り出した。

「私は、まだヒトガタっていうのが、よくわかってないから、本当に血も涙も無い生き物なのかどうか、知らないといけないの」

「‥‥覚えてるのか?」

「‥‥聖女の事を聞かれた時に、少しだけね」

「あれは‥‥俺が、悪いんだ‥‥」

「そうね。あんたが悪かった。でも、多分ヒトガタとか、法務科にとっては、そっちの方が正しいんだと思う――――別にね。あんたに、人間になって欲しいって思ってる訳じゃないの。人間は嫌いのままでいい、わざわざ人間になる必要なんて無いから。私も、人間なんて大嫌い‥‥。これからも好きになる事なんて無いから」

「‥‥ありがと」

「うん。それでいいと思う‥‥。でも、聞いて」

 手の骨が軋むように、痛みで叩き起こすように握りしめる。

「マトイにネガイさんが好きなら、それに、私の事も好きになれるなら、人間の事を理解しようとして。そうすれば、あなたの事を好きになれるから」

 ふと、そんな事を言われた。

「私の事、嫌い?」

「‥‥好き」

「なら、約束。こっちを向いて」

 自然と隣にいるイノリに目線を向ける。強気な不機嫌な顔付きなどではなかった。慈悲深い、それでいて何者をも試し、試練を下す裁定の女神の如き力強い笑みだ。

「‥‥キスされると思った?」

「‥‥思った‥‥」

「あげない」

 上唇から、露出した八重歯が見える。思い出してしまう―――数時間前は、いくらでも貪れた。だというのに、裁定の女神は唾液の一滴すら下賜してくれない。

「人間をよく知って。私の事をよく理解して。人間を認めなくていい、人間の真似はしなくていい、だけど、あなたがこれからも人間の世界で生きるのなら、人間から逃げる事は決して出来ない。受け入れて、そうすれば、私があなたを好きになってあげる」

 なんて、傲慢だ。自分の価値をよく理解している、自分がどれだけ美しいか、どれだけ、俺が喰らいたいか、知り尽くしている。自分を人質に、俺を契約をしたいと言って来た―――この化け物と。

 これだから、人間は嫌いだ。

 これだから、人間は美しい。

「約束だ‥‥。俺は、イノリを、人間を理解しよう」

「そうよ、約束—――自分からするのって‥‥気持ちいいね‥‥」

 やっと、できた。きっと、俺の口は唾液だらけだっただろう。こぼれた唾液をイノリは、指で拭っている。

「聖女をどうするの?」

「‥‥聖女の純血を奪」

「針が欲しい?好きなだけ、身体中に刺してあげる」

 腹に完全に指が脇腹に刺さった―――比喩ではない!!刺さっている!!しかも、指が腹の中で動かして、

「‥‥痛い‥‥けど‥‥」

「呆れた‥‥こんなのがいいの?お仕置きにならないじゃん‥‥。で?それって、どう言う意味?」

「お、俺の血を、聖女に混ぜる‥‥。そうすれば、聖女は、もう人を操れない‥‥。ただのヒトガタになる‥‥うっ‥‥!」

 こんな尋問、今まであっただろうか‥‥気持ち良過ぎる‥‥。

「声小さくして‥‥。バレるから‥‥」

 そちらが引き抜けばいいのではないか?そんな言葉を吐き出そうとした瞬間、更に指が身体の奥底に触れて、撫で上げてくる。

「‥‥なんて言うか、残酷だね‥‥。その聖女って、自分の血があるから、捨てられないで生きてるんでしょう‥‥。そんな事したら、聖女の生きる所が無くなるんじゃないの?」

「せ、‥‥せ、‥‥聖女は、もうすぐ死ぬ‥‥」

「死ぬって‥‥。どう言う事‥‥!?」

 ろくに喋れないから、やっと指を抜いてくれた。まだ、刺さってる気分だ。

「いくら特別製なヒトガタでも、人間と同化して、人間の苦しみを一身に受け続けたら、心と身体が保たない。そんな最後、認められない」

 あの方も言っていた。聖女はもうすぐ限界が来ると。

「‥‥そっか。そうだよね、私の悩みとかも全部、理解して、そういうの毎日してるなら―――わかったやろう」

「‥‥いいのか」

 聖女との記憶を話している時のイノリは救われた顔をしていた。‥‥いや、ならば止めるべきだ。イノリが、血の聖女を続けてしまう前に。

「聖女を止める。いいな?」

「当然じゃん。薬の流出源は止めないと。‥‥はぁー、わかった、もう一度ね」

 目線で気付かれてしまった。イノリの細い鋭い指から目を離せなかった。

 一瞬、腰を浮かせたイノリが呆れながらもう一度座って手で胸を押してくる。壁に押し付けられた。

「イノリ‥‥」

「いい?息を吸って‥‥吐いて――はい」

 一分の隙も無く、イノリの二本の指が身体に突き刺さる。だけど、イノリはそこで止めず、指を身体に入れくる—―違う場所だ。今度は、脇腹じゃなくて、鳩尾に。

「い、イノリ‥‥」

 卑怯だ。刺したままでなんて―――貪るように、口の中で舌が動き周り、指が身体の中を搔き乱してくる。今、骨と内臓に触れられた。息の限界だった。

 息が肺に届くから、しながらでもイノリの笑い声がわかる。面白がって鳩尾から身体を跳ね上げるように、動かしてくる。

「はい、おしまい」

 指を引き出す感覚が、惜しい。熱を奪われた気さえしてくる。

 ほんの数秒で終わってしまった。鳩尾に手を当てて、イノリの指の名残りを感じていると。

「全部終わったら好きにしていい。‥‥私自身も」

 耳元で囁いてきた。

「卑怯だろう‥‥」

 そんな事を言われたら―――自分の物にしなければ気が収まらないじゃないか。

 イノリがソファーから退いて、通る道を作ってくれる。

「‥‥行こう」

 手を引きながら喫茶店のレジに向かう。札を投げて釣りは無視する。

「いいの?あの店員、通報するかもよ?」

「‥‥ああ、するかもな」

 制服を着た男が、同じ制服を着た子の手を無理に引いてこんな時間のこの街を歩く。それだけで、通報される案件だ。

「だけど、今の俺なら―――なんでも出来るんだ」

「へぇー、なんでもってなんでも?」

「なんでも殺せる―――なんでも、奪える‥‥」

 この目を十全に使いこなせる自信がある。この宝石を自分の物に出来るのなら、全てを差し出せて、全てを奪える。

「‥‥イノリ」

「ん?なに?」

「‥‥覚悟しろ。容赦はしないからな」

「‥‥うん。全部奪って‥‥。私も、全部奪うから」

 あの扉は、法務科では越えられない。合言葉がなければ開ける事は能わない。

 正面玄関にスーツ姿の男達が集まって話し込んでいた―――雰囲気でわかる、法務科の所属だ。俺よりも格上の人間。

「入ります、道を開けて下さい」

 黒いスーツの男の1人に鍵を見せて、店内に踏み込む。廊下も同じようなスーツの男女に鑑識の人間らしき作業服の人間達。誰一人として武装していない。もう全てが終わったと思っている。緊張感がまるでない。いや、違う。

「法務科じゃない」

「そ、じゃあ無視しよう」

 目を向けられるが、視線をくれてやる価値もない。こいつらは格下だ。

「止ま」

「邪魔だッ!!」

 廊下の途中、黒いスーツの人間が片手で止まれと命令してきた。しかも俺に向かって叫ぼうとした。

「人間風情が‥‥邪魔しやがって‥‥。法務科がいなければ、殺してるぞ‥‥」

 袖を払いながら仕込んだ警棒を男の脇に突き入れ、杭を脇の上で

 イノリの真似だ。手を離した所で男の肩に手を突いて飛び上がり、膝を叩き入れる。

「感謝しろ。骨の一本も折ってないからよ」

 男を廊下の壁に肩から突っ込ませ道を開けさせる。倒れている男の脇の杭をつま先で蹴り上げて、袖に回収。イノリの手を引いて倒れた男を跨いで通り過ぎる。

「オーダーじゃないね。ただの一般人みたい」

「ああ、少なくとも法務科じゃない」

 体格は良かったが、恐らくオーダー本部からの出向で来たインテリだ。取るに足らない。大方、オーダー省に就職しただけのキャリアだろう。俺達の先輩ならば、あの程度では倒れない。

「てめぇ!!」

「‥‥よせ、あのガキだ。新しく名前が二つ付いた奴だ」

「‥‥ちっ。あの魔女のガキかっ!」

 ああ、うるさい。うるさいから撃ってしまった。ああ、勿体無い。357弾は安くないのに。

「‥‥見えなかった‥‥。三発?」

 あのインテリのスーツは金がかかった防弾性だと、蹴りを入れた時に感じた。ならば、容赦無く撃てる。0・8秒で3発。初弾から次弾までに0・4秒で放てた。いい感じだ、目で身体をコントロール出来ている。

 左手で抜いたM66を未だに一人で立ち上がれもしない雑魚に三発、振り返る様に、胸に噛み付かせる。気絶したか?どうでもいい。

 後ろで悲鳴や怒号が聞こえる中、廊下を歩き雰囲気の違うスーツの団体の中を通る。

「よくやった」

「‥‥恐縮です」

 通り過ぎる前に野太い男の声がかけられた。間違いない、オーダー校のOBだ。

「‥‥世界は広いな」

「‥‥うん」

 声だけで感じた。あれこそが、正真正銘の法務科の人間だと。

 オーダー内にも味方はいない。いるのは、自分達が作り出した敵のみ。あらゆる組織や存在が敵となる孤高のオーダー。

 今の俺では、同じ地平にも立てない。だが、立つ必要はない。人間ではないのだから。

 階段を降り、同じように邪魔をしてきた奴らを蹴りと杭で退かしながら、あの廊下に辿り着くが、思わず舌打ちをしてしまい、イノリも同じように肩をすくめる。

「チッ、邪魔だな‥‥」

 法務科では無い烏合の衆が、エレベーターの前で溜まっていた。オーダー本部だろうが、ただただ邪魔だ。殺されたいのだろうか?

「なんだ、学生は」

「退け、引っ込んでろ。法務科だ」

 鍵を見せて、エレベーターを触っている連中に見せつける。だがこれまでとは反応が違う―――鼻で笑ってくる。腰や胸にも触れない、敵とさえ見ていない。

「お前達が法務科?人材難もここまでくると、哀れだ。お前みたいな子供に何ができる?」

「ああ、おまえらも撃たれたいのか。いいだろう、殺してやろう――――」

 腰からM66を抜こうとした瞬間、声が聞こえた。

「間違い無く、彼は法務科だ」

 先ほどの法務科の男性と数人が後ろから近づいてきた。

「聞かれては、まずいのだな?」

「はい」

 過ぎ去り様に男性は確認を取りながら、今も開けられずろくに扱えてもいない工具でエレベーターに傷をつけているオーダー本部の下っ端に迫る。

「法務科の仕事を邪魔するなら、お前達を全員逮捕する―――退いた方が本部から呼び出しを受けずに済むんじゃないか?」

 下っ端の筆頭と思わしき男性に、法務科の男性が詰め寄りながら脅しにかかる。その雰囲気に圧倒された後ろの下っ端が懐に腕を入れて、威嚇を始める。

「法務科が――退くのはお前達だ!!我々はオーダー本部の」

 腕を伸ばし、背中を向けている男性に掴みかかった瞬間、

「逮捕だ」

 懐から何かを取り出した動きをした。背を向けられたこちらには見えないを見た瞬間、オーダー本部の下っ端連中が、威嚇をやめる。

「そんなガキにどれだけの価値がある?」

「これだけの価値がある。下がれ、次はない」

 平行線を辿っていた雰囲気が短いやり取りによって打って変わり、オーダー本部の下っ端が俺のすぐ隣を歩いて通り過ぎていく。

 肩でもぶつけられると思ったが、俺とイノリを守るように二人の法務科の男性と女性が挟んでくれる。

「‥‥今に見ていろ。明日には本部預かりとなっている」

「そう言って逮捕された連中を何人も見ている。手錠を掛けたのは私だがな」

 捨て台詞を吐いた筆頭は、法務科に睨みつけてから、こちらに目線も向けずに通り過ぎていった。

「これでいいな?」

 振り返った時には、もう何も持って無かった。

「後は自分達でどうにかしろ。以上だ」

 法務科は何事も無かったように、廊下から離れていった。

 法務科の力の一端を見た気がする。確実にあのオーダー本部の下っ端も、かなりの力を持っていただろう。そんな現場工作員を数分で退かせた。法務科にしても本部にしても、一体どれだけ権力を持っているのか、想像もできないが――――その気となれば本当になんでも出来るのだろう。

「イノリ、」

「わかってる」

 こういった場面に慣れてるのか、特段気にした様子も無く。エレベーターへと駆けていく。

「‥‥聖女の血」

 それだけの単語にエレベーターは、イノリを招き入れるべく何重もの扉を開けた。

 イノリはエレベーターに乗り、俺もエレベーターに乗ろうとした時。

「確認だけど、聖女は殺さない。いいね?」

 ボタンを押したままで、聞いてきた。

「‥‥わかってる」

 最終確認を受け、エレベーターに乗る事を許された。俺とイノリを迎えた時、自動に動き始める。

「‥‥来いって事ね」

「‥‥イノリ、最悪の時は」

「逃げろって、また言うの?」

 エレベーターの扉の上にある階の番号は、どれも光らない。体感的には下がっているようだが、あまりにも長い。感覚が麻痺してきた。

「俺を止めろ。刺してもいい」

 目が熱くなってきた。

「‥‥理由は聞かないけど。そうならないでよ」

 本当に、いい人間だ。

 ああ‥‥、目が、心臓が熱い‥‥。あの方が求めている所為か?それとも、俺自身が待ち望んでいるからか?あの方が望まれる程の宝石を。この手に出来るなんて―――

「‥‥したい」

「ここで?」

 聖女を目にした瞬間、ヒトガタとしての理性が消え去る。そうわかる。イノリで、自身の欲望を満たさなければ、自身を止めれない。

「‥‥いいよ」

 聞こえた瞬間、イノリを引き寄せて口を奪い続ける。八重歯が鋭くて滑らかで、唾液のお陰で舌が滑ってしまう。

 イノリも答えてくれた。首に腕を回して目を閉じないで見せてくれる。

 美しい。瞳孔は黒いのに、虹彩が明るいブラウンのお陰で、目の全貌が明瞭に見える。黒い髪を、ブラウンの色で染めているイノリ自身を彷彿させる。

「まだ続ける?」

「‥‥後で」

 終わった瞬間、エレベーターの扉が開いた。イノリを後ろに引いて盾となる。

 エレベーターの先は美術館のようで―――クラブとは別世界だった。壁には絵画がいくつも飾ってある。この趣味は、俺と重なる部分を感じられた。一歩踏み込むと、木の甘い香りがする。あのバーカウンターの匂いに少し似ているかもしれない。

「いかがですか?」

 声が、聞こえてきた。

「美しいです」

 自然と敬語になってしまった。

「そう言って貰えると、私も嬉しいです。ここに来られる方々には理解して貰えなくて―――つまらなかったんです」

 優しげで芯が通っている美声が響かせる。口調もイメージしていた聖女そのもの。

 イノリと手を繋いでエレベーターから完全に飛び降りる。床は趣味なのか、上と同じでヘリンボーン、顔が映るぐらいに磨かれている。

 似ている。仮面の肩の謁見の間に。収集癖のある所もさえも。

「‥‥ここが地下なの‥‥?」

 見なくてもわかる。かなり天井が高い。声がよく響いている。

「こちらに」

「‥‥光栄です」

 奥にある玉座には、仮面を被っていない聖女がいた。

「あなたが、聖女‥‥」

「そう思って下さい。そう呼ばれているので、間違いないです」

 玉座は高い台にこそ乗っていないが、やはり似ている。あの部屋に。

 両脇の壁には石像の代わりに絵画、そして本棚が玉座近くの壁に設置されている。

「私に、何か御用ですか?」

「あなたを止めに来た」

 聖女の白いドレスはかなり胸元が開かれている。聖女というにはあまりにも扇情的だが、なぜだろうか―――同時に血の嫌悪感、本来のグロテスクな感応さ呼び起こしてくる。心臓を晒しているかのようだった。

 髪は長い茶髪。多分染めてはいない地毛だろう。聖女と一目でわかったのも頷けた。この雰囲気、この容姿に沈み込み、のめり込んでしまいそうだ。

「そんな見ないで下さい‥‥」

 頬を染めた姿すら神聖に見える。血を飲んででも、何度も会いたくなる理由がわかる気がする。

「‥‥綺麗‥‥」

 後ろのイノリが、そう呟いた。

「‥‥あなたは、人間ではない」

「そう言うあなたもですね」

 ヒトガタであり、純粋な貴き者の血の持ち主。ただそれだけでここまで人間どころか、同じヒトガタの自分さえも惹きつけられてしまうのか。

「‥‥主は?」

 辺りを見渡すが、ここには聖女一人しかいない。

「‥‥主は、きっとここに向かっています。私を迎えに来る為に」

 自分の胸に押し付けるように、血を抜く機器がついている両手を重ねる。

「わかっている筈だ。主は、あなたが死ぬ事を望んでいる」

「‥‥それが、私の役目です。でも、まだその時じゃない。だから、きっと‥‥」

「もういいの‥‥。上にはオーダーがいる、法務科の人達も沢山いる。誰も迎えになんて来ない」

 イノリが一歩前に出て、聖女に話しかける。

「‥‥そう、なのですね」

 見ていられなかった。あまりにも、痛々しい。歯を食いしばっているのが、唇の震えでよくわかる。

「‥‥私を、どうする気ですか‥‥」

「わかっていると思います。法務科として、あなたを保護する」

「あなたに、私の血を飲んでもらった時にわかりました。あなたは、あまりにもこの星、生命体からかけ離れた存在と繋がっている」

「—―――そこまでわかるのですね」

 数歩前に出て、イノリの隣に戻る。

「はい、わかります。あなたは、オーダーやヒトガタとしてだけではなく、別の為に来た事も。‥‥私をどうする気ですか?」

「それこそわかってる筈だ。‥‥下がってろ」

 イノリを後ろに引かせて、腕の杭を確認する。

「俺の血を、あなたに混ぜる。あなたから純血を奪う」

「‥‥私を、殺す気—―」

 語尾が、変わった。

 立ち上がり、玉座の背中に差してあった二本の長い片刃の刃物を抜いた。

「‥‥あなたは近く死ぬ。もう限界の筈だ」

 立ち上がった時にわかった。足が震えている。肌の白さも色素が薄いからじゃない。血を流し過ぎているからだ。

「それがヒトガタの役目。あなたもヒトガタなら、わかる筈です。‥‥行きます」

 一歩だけで、息がかかる距離まで肉薄していた―――聖女は、俺の首をハサミで切り落とすように、両手の刃を振るってきた。

「‥‥っ。それは、」

 ハサミの根本に腕を叩き込み仕込んである杭で刃を止める。呆気なく制服の腕は裂けてしまうが、杭が完全に刃を止めていた。

「人間に用意して貰った物です」

「‥‥知らないのですね、それを―――」

 杭からハサミを離す為に、一歩引き。片足に自分の体重をかけて回転。胴を三枚に分解すべく、二本を重ねて振ってきた。

 自分も一歩引き、回転をしながら聖女の二刀を脇差しで去なす。去なした時の勢いを使い、聖女から距離を取る。追撃をしてこない聖女から更に離れ、イノリのいる後方まで下がる。

「‥‥それも」

「これは、あの方から頂いた物‥‥」

 脇差しを見せる為に、刃を向ける。

 聖女の刃は、かなり分厚い。目に見えて粘りがあるとわかる刃だ。本当に人を切ったら、あっさりと胴を切り分けられるだろう。

「‥‥あなたは、恵まれていますね」

「その通りです」

 疾風の如き左の刃で、俺の頭を斜めに切り落とそうとしてきた。

 タイミングなど合わせる暇もなく、腕から飛び出させた杭で絶命の一撃を跳ね上げる。

「‥‥っ!」

 疾風の一撃はフェイントに過ぎず、聖女の真の狙いは胴体を一突きで串刺しにする雷光の如き右の刃だった――――身を逸らし制服の左側を犠牲に、脇差しで再度、聖女の右の刃を跳ね上げる。

「貰いました」

 跳ね上げさせた二刀を十字に変え、頭に振り下ろしてくる。

「遅いッ!!」

 身を屈め、十字の二刀から僅かに距離を開ける。そこに脇差しをねじ込み―――聖女の二刀を脇差し越しの頭で受け止める。

 杭で反撃がくると思ったのか、聖女は全力で距離を取り玉座まで下がっていく。

 軽やかだ。長い足に白い肌。一瞬でも気を抜けばそれだけで死ねるのに、受け入れても構わない気がしてくる。

「撃たないのですか?」

 二本の刃を下に向けて持った状態で聞いてきた。あの時のイノリの声は、聖女からの声だったか。

 答えるべきだと、わかっているつもりだ。でも、聖女の美しさに、心を奪われた。

「‥‥美しい‥‥」

「しょ、正面から、言われるのは――――あなたが、初めてです‥‥」

 白いドレスと白いヒールのままで、あの刃を振ってくる姿は、あまりにも現実離れした姿だった。舞い上がるドレスのスカートも、輝く刃も、一瞬で命を奪える凶器だ。それに、瞳も。

「‥‥見せてくれ」

 縮地を使って、聖女に肉薄する。聖女も迎えるように駆けた。二刀を俺の頭と腹が到達する場にそれぞれ突きをする。

 けれど、ネガイの突きより遅い。

 腹の突きは脇差しで弾き、体の右側に添わせる。頭への突きは腕の杭で右に添わせて避ける。突きを受けて、今も刃が杭の表面を撫でていく振動と火花を視界の隅で見続ける。

 二刀を止め、頭一つ分低い聖女の顔を見つめ続けた時—――聖女は視線は外した。

「あ、あの、えっと‥‥」

 俺を殺そうとしているのに、聖女は顔を真っ直ぐ見れない。誤魔化すように、左に回転した聖女から鋭い冷たさを感じ、刃が戻って来る寸前で右前方に縮地で飛び、頭と腹を切り裂こうとしてきた刃を避ける。

「私を、どうしたいのですか?」

 刃を避けた俺に背中を向けて、嘆くように聞いてきた。

「俺は、あなたを止めにきた。撃つ事も刺すつもりも無い」

「‥‥私を倒さないと、血は混ぜられませんよ」

「出来ない」

「‥‥はぁ?」

 イノリが吐き出すように、疑問符を口にした。

「‥‥想像以上だ。聖女、あなたは美しい。傷つける事なんて出来ない」

 完全に心を奪われた。この困った顔が愛おしくて堪らない。それに聖女の服は、防弾性ではないとわかった。それだけではない―――身体にも気付いてしまった。

 この身体の腹を警棒や脇差しで突いてでもしたら、たったそれだけで死にかねない。それほどに、今の聖女は衰弱している。

「言わせて貰う。今のあなたは、弱過ぎる」

「弱過ぎるって、あんなに速いのに‥‥」

 聖女の刃を振るうスピードは、安く見積もっても秒速300mはある。確かにただの人間では不可能な速さだ。

 でも、それではあのTMPにも届かないスピードだ。本当の速さには恐らく遠く及ばない。

「諦めて、主を捨ててくれ。もう誰も迎えに来ない。人を救う必要も無い」

「‥‥それでも、私はしないといけないんです。‥‥だって、皆んな、つらいんです‥‥」

 ヒトガタのテレパシーは、意識の同化を目的としている。聖女は、自分の事のように、いや、自分の事として人間の痛みを感じている。

「なんで‥‥私を止めるんですか‥‥!」

 振り返った聖女は、声を張り上げた。

 その瞬間、聖女は大きく一歩、俺の左側面に踏み込んで来た。

 踏み込む時に、構えた二刀は、自分自身を包み込むように腕をクロスさせ、ハサミとは真逆の斬撃を放ってくる。

 さきほどまでのスピードとは、比にならない全身全霊の一撃。

「私は!死にたくなかった!!」

 聖女の一撃が完全する前に、渾身の力で聖女の二刀の中心点に脇差しを叩き込む。

「ここに来る子達のように!帰れる場所がいくつもあったら!!どれだけ良かったか!!」

 鍔迫り合いに持ち込む、十字の刃を一本の刃で迎え撃つ。腕力なら俺が優勢、そう思っていた。

「重い‥‥っ!」

 両腕と片手では圧倒的に聖女が有利だった。簡単に弾き返されて、回転した聖女の膝が脇に飛んで来る。

「私だって!自分が限界だって!わかってるの!!」

 迫りくる聖女の膝に杭を持った拳を叩き込むが、指の付け根と手首が悲鳴を上げる――――外れた。

「なんで止めるんですか!」

 拳を無視して自分の膂力だけで、自身の体重以上の肉体を弾き飛ばす。距離を取る為にオーバーに後ろに飛ぶ。

「ヒトガタが生きるためには理由が必要!そんな事わかってますよね!?」

 迫りくる聖女の振り上げた二刀を、更に頭に向かって振り下ろす。それを再度脇差しで受け止る。

「俺も‥‥わかってる‥‥。ヒトガタが生きるには意味が必要だ。人間みたいにただ生きる事は許されないって」

 優雅な攻撃など出来ない。子供の駄々のように、何度も脇差しに刃を振り下ろしてくる。

「ならなんで!!私は、人の為に生きないと、生きられないの!」

 肺や心臓の事など無視して何度も何度も振り下ろしてくる。徐々に威力が削れていく。

「私だって、生きたかった!!人間のように、好きに歩き回りたかった!!」

「—――――っ」

「答えられませんよね!?人間が羨ましかったなんて!!外の知識を得る度に!私は、自分を呪いました!人間も!!」

 イノリは、人を助ける為に生きた。

 聖女も同じだ。主たる人間を助ける為に生きた。

「間違ってますか!?死にたくない!ヒトガタが、そんな事思ってはいけませんか!?」

 最後の力を込めた二刀の振り下ろしが迫ってくる。同時にわかってしまった―――聖女の肺は限界だと。渾身の力で、聖女の二刀の中心的を脇差しの切っ先で弾き返す―――軽かった。怖い程に。

 聖女は一撃に弾き飛ばされるが、柔らかい体躯を使い、身体を捻り後方に飛んで行くが、そこで限界だった。

「私は!私の役目は人を救う事!だって、そうやって造られました!!究極の血!それが私の誕生種です!!自分の誕生種の達成を求めて、何がいけないんですか!?」

「‥‥そうやって、救われた人間は、あなたに何をしてくれますか?」

 イノリは、人間を認める必要も、真似をする必要も無いと言った。だったら、俺は人間の為に身を差し出す聖女を止めなければならない。腕についている器具が、聖女の手錠のようにも、聖女に巣食う虫のようにも見えてきた。

 人間程度の為に、聖女を、この宝石をこれ以上傷つける訳にはいかない。

「‥‥でも、皆んな、私に。イノリさんだって‥‥」

 わかってしまった。何故、聖女がここまで人間に拘る理由が。

「全ての人間に仕える必要はありません。人間は、自分で、考えて動ける生き物です。これ以上、ヒトガタが身を削る必要ない」

 聖女も、不安だったのだ。いつ自分が不要と捨てられるか、人に不要と思われるか。怖かったんだ。

「ねぇ、聞いていい?」

 イノリが聖女に聞いた。

「‥‥はい。何ですか?」

 もう限界だ。肩で息をしているのがわかる。

「ずっと、ここにいるの?」

「‥‥ここに来たのは、最近です」

「ふーん。その前は?」

「‥‥わかりません。ここに来る前は、ずっと眠っていましたから。‥‥実験が成功して、目覚める事を許された個体は、私だけです」

 そんな生育プランがあったなんて知らなかった。

「人間の事が、好きか?」

「‥‥人間がいないと、私は生まれていませんから」

 もう立てないのか。刃物を落として膝をついてしまった。

「そんな理由でしか、もう人間を好きになれないのか?」

 こめかみスレスレを、聖女の刃が飛んで来た。後ろの絵画に突き刺さったらしく、額縁ごと地面に落ちる音がする。

「あなただって、ヒトガタでしょう!?なんで、そんな事を言えるんですか!?主が、人間がいないと、私達は生まれていません!!」

 脇差しを戻し、もう顔も上げられない聖女の元まで歩く。拾い上げることさえ叶わない残りの刃物をイノリの方に蹴る。

「言っておきます。俺は、人間が嫌いだ。最近まで、生まれた事も呪っていた」

 聖女を持ち上げて玉座まで連れて行こうと思ったが、一歩も踏み出せなかった―――泣き崩れそうだった。ここまで軽いのか、聖女はがまるで無かった。

「最後に血を抜かれたのはいつですか?」

「‥‥毎日です」

「‥‥座れますか?」

「‥‥奥に部屋があります‥‥、そこまで」

 聖女が指で玉座の奥にある扉を指し示した。その指さえ脆く見えた。

「イノリ、悪いが」

「待ってて」

 扉を任せて聖女を抱えながら玉座に近づくと、振り返ったイノリがこちらを、聖女に視線を向けながら呟いた。それはイノリが聖女をひとつの生命を認める行為であった。

「開けていい?」

「‥‥あんまり見ないで」

「うん、わかった」

 女の子同士のルール、自分の寝室を開ける許可を得る。許可を受けたイノリが玉座の奥にある扉を開けて中を確認。同年代の少女達の行いを眺めている自分がいた。

「いい趣味してるじゃん。こっち」

 玉座を超えた先の扉を進むと、本当にただの女の子の部屋だった。

 机に本棚、ベット。そして人形。収集癖のある玉座とは真逆の寧ろ殺風景な部屋だった。聖女をベットまで運び、寝かせる。呼吸で胸が膨らんでいるのがわかる。—――肺以外、何も無いみたいに肺だけが浮き上がって見えた。

「‥‥私を、どうする気ですか?」

 聖女の口を手で閉ざさせて、視線をイノリに向ける。

「言われなくてもわかってる。上に行って、人を呼んでくるから待ってて。‥‥その間に血を混ぜて、これ‥‥あげるから」

 細いチューブに入ったような針を渡して駆けて出て行った。数分で帰って来るだろう。

「やめて、私を、殺さないで‥‥」

 針を見た聖女が、命を乞い始める。ヒトガタとして、まだ死にたくないと言った。

「‥‥疑問に思わなかったのか?ここまで、苦しいのに‥‥」

 聖女の身体は冷たかった。あの時ミトリが、怒ってまで俺を止めた理由が、やっと分かった――――今の聖女は、本当にただの死体だった。

「‥‥人では出来ない行いをする。そこに疑問なんて‥‥」

「生育者達の誰一人も止めなかったのか。あなたを」

「‥‥私が、つらいのは、私の所為だと‥‥。私が、この血を使いこなせてないからだと‥‥」

 原罪。善悪の知恵の果実を手にしたイブとアダムは、自分の罪は自分が犯したのでは無いと言い、神から見放され、追放された。

 それが真実なのか俺には分からない。俺は人間では無いから。

 ただ、それが真実だとしたら、人間はいつまでも変わらない。

「そんな人間、捨てろ」

「‥‥なんで、そんな事、言うんですか‥‥」

 泣き止まない聖女の涙を指で払って、針も戻す。

「‥‥私達は、ただ主の為に生きている。あなたは、違ったんですか?」

「‥‥俺は、自動筆記が始まる前に捨てられた。それに、自分の誕生種の所為で死にかけていた。‥‥だから今の生は生きる事だけに大半を費やして来られた‥‥」

「罪深いですね‥‥。羨ましい‥‥」

 憎らしい忌々しい悍ましい。怒りすら超えた感情を顔に携えた聖女が腕を伸ばした。

「‥‥掴んで下さい。‥‥血を感じさせて」

 冷たい。腕を掴んでいるのに熱を感じない。手の平に移しても、なお冷たい。

「‥‥あなたは、自分の為に生きてきたんですね」

「それは、あなたもだ」

「‥‥酷い、そんな、はっきり‥‥」

 聖女は、捨てられたくなかった。主の言う事を聞いて同化をしていれば、廃棄される事は無い。だけど、

「主の言う事を聞いていれば、生きられた。だけど、その結果、あなたは死にかけている‥‥‥‥」

「ありがとう‥‥そこで止まってくれて‥‥。私は、死ぬと分かってても、1秒でも長く生きたかった‥‥。廃棄されたくなかったんです」

「‥‥見たんですか」

「‥‥ここに来る直前に、偶然ですけど。‥‥本当に、簡単に、捨てられました‥‥。まだ、皆んな息をしてたのに‥‥。‥‥私は、ああなりたく無かった。‥‥中には、成長途中で売られた子も‥‥」

 まさか。イノリの写真は―――

「‥‥もういいんです」

 彼女の行方は、もうわからない。探し出す事は不可能だ。

 聖女の手を胸につけて、心音を感じさせる。

「‥‥ドキドキしてますね。‥‥私を見てですか?」

「そうです」

「‥‥なんでしょう。初めて、嬉しい気分になりました‥‥」

 笑ってくれた。もしかしたら、聖女の微笑みを受けたのは、俺が初めてなのかもしれない。

「これから俺の血をあなたに移します。‥‥あなたの純血を、ここで奪います」

「‥‥あなたに、奪われるのなら、仕方ないですね。まだ、私は血を流せるのに‥‥」

「‥‥それでいいんです。俺を、呪って下さい」

 聖女の純血を奪う。聖女は、まだ自分の役目を全うする事が出来るのに、俺が邪魔をした。

 俺は、これで、ヒトガタを殺した存在となる。人間でもない、ヒトガタでもない、そんな化け物だ。

 聖女の手を胸に置いたままで頭を抱えて、顔を近付ける。

「え、ま、待って‥‥。純血って、血の事じゃあ‥‥!」

「今のあなたから一滴も血を流させる訳にいかない。悪いが、あなたを奪う‥‥」

 力なく胸を押してくる聖女の顔に向かって頭を突き出す。覆い被さる。

「‥‥ほ、本気ですか?」

「いいから、口を開けてろ。噛みちぎるぞ」

「‥‥はい」

 もう止まらない。今すぐ聖女を奪わないと、どうにかなりそうだった。

 きっと初めてだ。でも、よく動かしてくる―――飲み込む音もいつまでも続く。求められるままに聖女の体液を飲み込み続ける。

 どこにこんな力が残っていたのかと思ってしまうほどに、聖女は舌を吸ってくる。

「‥‥眠いです」

「寝てていいぞ。起きたら病院だ」

 止めた時、聖女はポツリと呟いた。そして、自然と敬語を止めていた。

「‥‥もう、私は、純血じゃないんですね‥‥。‥‥やっと‥‥」

 そこで、聖女は眠ってしまった。

 立ち上がって、スマホを起動させる。もう4時だ。そろそろ夜明けだ。それとも、もう明けているのだろうか?

「マトイ。聖女を確保した」

「‥‥困った事になりました」

 マトイが、呆れたように息を吐いた。

「オーダー本部か?」

「ええ、ここから先は自分達が執り仕切ると、言い出して――今はまだです。聖女の様子は?」

「今すぐに病院に連れて行きたい。とにかく血が足りない」

「‥‥わかりました。すぐに手配します。今、イノリさんがそちらに戻っています。二人で聖女を」

「ああ、どうにかしてみる」

 スマホを切り、改めて聖女を眺める。

 姿形は、何も変わらない。美しさに陰りなど見当たらない。でも、最初見た時のあの方に似た感覚—――神を見上げる、形を持った神性さ、それらが消えていた。

「終わった!?今すぐ‥‥」

 扉を蹴破るように入ってきたイノリは、聖女の様子を見た瞬間、小声となった。

「‥‥どうする?上が」

「本部は、どこまでも邪魔する気か‥‥。聖女をどうする気だと思う?」

「‥‥引き渡せって言ってる」

「‥‥やるか。イノリ、悪いけど。聖女を頼む」

「向こうは本職だよ!?さっきの素人なんかじゃ!」

「大丈夫だ。どうにか逃げる―――行くぞ」

 部屋にかかっていた白い白衣のようなトレンチコートを聖女にかけて、持ち上げる。玉座を通り抜け、エレベーターまで駆ける。聖女は、本当に眠ってしまったようで、静かに寝息を立てていた。

「‥‥頼んだ」

「‥‥逮捕なんて、やめてよ」

 イノリも聖女を軽々持ち上げられてしまった。それほどまでに、聖女は軽い。

「‥‥これが、ヒトガタなの‥‥」

「ああ‥‥そうだ。だけど、もうただのヒトガタじゃない。もう生きていける」

 腰のM66や杭を確認してエレベーターが開かれるまで、待ち続ける。

「あいつらには、幾つも借りがある。それを返してくるだけだ。‥‥殺さない。俺を踏み越えていけ。いいな?」

 心臓が熱い―――イノリに、聖女。二人から血をもらったお陰で心臓が滾る。

 ああ、やっと。やっとだ。今日、溜め込んだ人間への怒りを、やっと吐き出せる。ただの八つ当たりだ―――ああ、だけど、吐き出す寸前の不快感は堪らない。

 エレベーターが開いた時、法務科ではないスーツの男達三人が、醜い顔をしながら俺の聖女を奪う為に手を伸ばしてくる。

 素手であろうが関係なくM66を連射、聖女を奪おうとする手の持ち主達をエレベーター扉から引かせ、一瞬だけの人間達の穴を作り上げる。

「行くぞ!!」

 縮地を使い、正面の男の首に肘を突き入れる。怯んだ隙を狙って腕を振り、仕込んだ杭で喉への追撃をする。

 イノリも逃げる事には慣れているのか、言った通りに俺の背中や肩を踏み越えて、聖女を抱えたままで、廊下を走って行く。

「邪魔だ!!」

 正面の男の意識が消えかけたのを眼球の運動で確認し、前方に転がり三人の壁を突破。杭を仕込んだ腕を使って床に1秒だけ片手で逆立ちを行う。

 まだ立っている男の二人に、M66を再度連射。鳩尾と鳩尾、死にはしない。そのスーツは防弾性だと、撃って実証している。

 撃った時の勢いを使い、逆立ちから足を進行方向に下ろし、頭を跳ね上げる。天地を正しい状態に戻した時、イノリを掴もうとしている女性のオーダーにも357マグナムを腕の内側に当てる。

「‥‥っ!ガキが!」

 マグナムが気に食わなかったのか、後ろの男達も前の女からも罵声が届くが、そんな甘美な響きは無視し、そのままイノリの背中に向かって駆けだす。

 イノリを無視して俺に発砲しようと懐に手を入れる女性オーダーの手の甲ごと警棒状態の杭を投げて縫い止め、全力で拳を杭に叩き込む。

 女性のオーダーは上体を逸らして上手く避けた。拳の威力をまとった杭の直撃は回避したが、今も空中で停滞している杭が邪魔をして手を引き抜けずにいた。

 杭を残して走り去り、袖のワイヤーで杭を回収する。

「まだいる!!」

 階段を駆け上がっている時、イノリから叫び声が聞こえた。階段の踊り場に数人の本部のオーダーが壁を作りだし腕を伸ばしてくる。

 構わずに突っ込もうとしたが、一段上にいるイノリから聖女を渡される。腕が自由になったイノリが振り返った時—――男達は手を抑えてうずくまった。

「痛いでしょう!?こういう時に使うのよ!!早く!」

 狭い階段で、全くそんな素振りを見せないイノリは男達の手を貫通する針の投擲を一瞬で見せた。

 手という神経が集まる敏感な部位を貫かれ、想像を絶する痛みが走っている男達は崩れるように落ちてくる。

 それらを横目に装填をしながらイノリと一階まで駆け上がる。廊下にも多くがいたが、聖女を抱えたままでも潜入学科仕込みの無音歩法と瞬間的に空間を飛び越える縮地には遠く及ばず、駆け抜けながら正面玄関を見据えるに至った。

 けれど玄関近くにも、スーツの男達がまだいた。

「イノリ!交代だ!!」

 数歩前に出て一瞬だけ振り返り、聖女を渡す。

「裏口に!」

「いや、いける!!」

 静止を振り切り、杭を抜きながら男達の中央に滑り込む。

 背広組が俺が入ってきた事に笑みを浮かべたが、その顔は瞬時に―――不理解へと色を変える。杭を地面に突き刺し滑り込んだ勢いを使って、何もない空間を蹴り飛ばすように回転を始め―――男達に蹴りをM66の連射を浴びせる。

 肺、心臓、鳩尾、肝臓、腹、内腿。

 完全に油断した所への357マグナムは致命的だった。皆一様に床や壁に倒れ込む。

 イノリはその隙を逃さずに、朝日が差している正面玄関を通り抜け、入れ替わるようにマトイが走り込んできた。

「動かないで下さいね!!」

 一瞬であの時のシスター服に似たドルイダスとなり、布で使った薙刀を腕の呼び出した。呼び出した薙刀を360度、ではなくを作り出す。壁などものともせずに薙刀振り回し、今も壁際で拳銃でイノリを狙っている男達の頭や胸を薙刀の先端で横殴りにしていく。

 あの薙刀は、自身の力で編み上げた物だった。よって、マトイは必要に応じて布を操作して薙刀の長さを調節していく。この狭い廊下では、この力は無類の強さを誇った。対峙したのが廊下であったなら、手も足も出なかっただろう。

 あらかたを床に伏せさせたマトイに手を握られ引き起こされるが、後ろで発砲音が聞こえた為。

「やると思いました」

 マトイを抱き上げて、玄関近く止まっているサイナのモーターホームの扉に突っ込む。俺とマトイが入ったのを確認もせずに、サイナが車を飛ばした。

「オーダーの病院まで!!」

「わかっています!あそこは中立ですから、誰も手出し出来ません!」

 明け方のお陰で周りに車など、全く見当たらない。それをいい事にサイナは高速でしか出せないスピードで疾走を始める

 確実に速度違反だが、オーダーの―――それも法務科所属の車両など、誰も止められない。

「ちょっと、揺れますよ!!」

 ちょっとというレベルではなかった。確実に違法改造、ニトロでも積んでいるのかと思わせた。それどこかジェット噴射特有の初期のゆれ、中間を越えてからの恐ろしい安定感を造り出す。その状態で―――容赦なくドリフトを始める。

「さ、サイナ‥‥!やり過ぎだろう!」

 ソファーに寝かされている聖女をイノリが止めている間に、一瞬でマトイは布で固定。それを確認した時、イノリが俺の方に飛んできた。飛んできたイノリを受け止め、マトイ共々床に押し付けてながら上に被さってどうにか耐え続ける。

 それがしばらく続き、イノリの体温で眠気が攻めてきた時、やっとオーダー街に戻って来れた。

「ふぅーここまで来れば‥‥。ネガイさんとの約束も、これで‥‥」

 サイナの声が聞こえる。もうダメだ、寝てしまう。

「ちょっと‥‥そんなに私に夢中‥‥?マトイに見られてるから、後で‥‥」

「いいですよ。見せて下さい、きっと、私の方が彼を喜ばせられますから」

 マトイの自信ある声がすぐ近くから聴こえてくる。そんなマトイに対抗するように、イノリが頭を抱きしめてくる。

「マトイは知らないかもだけど。コイツ、もう私がいないとダメになったから」

「知らなかったのですか?この人は、元からダメです」

 何かを言ってるが―――もう聞こえない。

「眠い‥‥」

「いいよ、私で寝ても‥‥ねぇ?」

「‥‥何‥‥?」

 もうダメだ。朝日を受けた所為で、身体の疲れが一気に吹き込んでくる。

「私の事好き?」

「‥‥」



「ああ‥‥もう!!本当に、あなたって、大好きです!!」

 起きた瞬間、仮面の方に押し倒された。

 ひとしきり口の中を舐められて満足されたらしいく、手を引いて起こされる。

「‥‥えっと、それで、どうされました?」

 迫り上がってきたベットに寝かされ、仮面の方の足を枕にしていた。

 何故かわからないが、仮面の方は機嫌がとても良かった。好きな方が、こうも機嫌が良いと、俺も嬉しくなってくる。

「あの聖女を、全くと言っていいほど傷つけずに私の血も混ぜないで、自分の物にするなんて‥‥。心の底から、愛しています!」

「‥‥俺も、愛してます。心の底から。あなたの血を混ぜなくてよかったのですか?」

「あなたは、自分の内で創造された体液を聖女に注ぎ、聖女の体液を自分に取り込んだ。聖女の力は、そのまま残りますけど、あなたが命令しない限り、聖女は自分の力を使う事は出来ない。もう、本当に、嬉しいです!何が欲しいですか?なんでもあげますよ!!」

 本気の告白をものともせずに、仮面の方がお応えになった。傷ついてしまう。

 けれど、この方がここまで言っているのだから、きっと聖女の体調は改善していくのだろう。仮面の方は、聖女に限界が来る事を止めてくれと言ったのだから。

「—―――でも、きっと聖女は輸血されます。いいのですか?」

「そうでしょうね。でも、彼女の血は彼方の神々の体液です。そこにどれだけ模倣的な体液を流し込んだ所で、ものともせずに自己の血肉へと改造、変質、捕食します。その中であなたは最高の答えをくれた。あなたの肉体から精製された体液は宇宙創世の夢───とにかく、今日はずっと甘えて下さい。私も、あなたを愛しますから」

 それは、いつも通りなのでは?そんな言葉が口から出かかった所で呑み込む。

「‥‥聖女は、どうなりますか?」

「言えません。起きたら、ご自分で確認して下さいね」

 平気、という事らしい。

 だとすると、女の子達から抜かれた血の行方も、話してはくれなさそうだ。いずれ、俺と関わるのだろう。

「では、俺の話に付き合って下さい。つまらないですけど」

「聞かせて下さい、あなたのお話を。今晩は、どうでしたか?」

 首に冷たい手を置いて、寝ないようにしてくれる。

「‥‥少し、疲れました。今日の夜だけで、多くを失った気分です―――人間からも、ヒトガタからも、嫌われてしまいました‥‥」

 マトイの言っていた話、人間からもヒトガタからも離れて行っているという言葉の意味。今日だけで、それがよく理解出来た。二つの種族と壁が出来てしまった。

 仮面の方は、何も言わないで俺の話を聞いてくれる。時折、頭と耳を撫でながら。

「‥‥イノリも、聖女も、俺は嫌いじゃない。多分、好きになれます。でも、」

「理解できませんか?」

 寝返りを打って、仮面の方のドレスに顔をうずめる。

「‥‥俺は、異質なんだと思います。‥‥生物から離れて行ってる。‥‥俺の居場所が、いずれ無くなるんじゃないかって」

 二人が怒った理由を考えれば、。でも、いずれ、何故二人は怒っているのか分からなくなった時、俺はどうなる。

「‥‥ネガイとマトイ、二人は俺を捨てないでくれる。‥‥俺が、本当に、化け物になっても‥‥」

 無礼な話をしている。

 この方が、精神を守ってくれなければ、俺は目覚めなかったというのに。

「—――その時いる俺は、俺ですか?」

「そうですね‥‥。あなたが、あなたで無くなった時ですか」

 仮面の方が、耳を指で掴んできた。

「あなたが望んだ答えは、こうですね?あなたは、完全な化け物にはならない。ずっと、あなたはあなたのままでいられる」

 耳の音の所為で、仮面の方の声が途切れ途切れに聞こえる。でも、耳に木霊する摩擦音と冷たい指が、熱い耳を冷やしてくれる。

「私からもお話を、あなたは徐々に私達、上位の存在に近付きつつあります」

「‥‥上位?」

「気になりますか?でも、意味はありません。単純に人間では理解できないというだけの称号です」

 耳を離して答えてくれた。その名はマトイも、マトイの師匠も言って使っていた。

「‥‥人間から、理解されなくなるんですか」

「されない、のではなく。理解できない、が正解です。慰めにならないと思いますが、それは、昔のあなたと然程変わりません」

 本当に、慰めにならない。でも、意味はわかった。

「‥‥俺にしか理解できない事が増える、こんな感じですか?」

 もう一度寝返りを打って、今度は天井を見る。

「そうですね。そう言えます」

 少し驚いた。仮面の方が口に指を入れて、舌を引っ張ってくる。

「よく聞いて下さい。あなたは、ようやく、自分がどういう存在なのか、理解し始めただけです。今までは、ただ生き残る事だけ考えればよかった。それは、これからも変わりません。でも、大切な方々から、捨てられたくないのなら、自分の姿を理解して下さい」

 喋れないように、静かに聞かせる為に舌を引っ張っている。

「人間の欲望、ヒトガタの理性、化け物の本能、オーダーの矜恃。どれもが、あなた自身です。どの場面にどれが相応しいのかなんて考える意味はありません。あなた自身で振る舞って下さい。あなたは人間ではないのだから、人間の真似をする意味はありません」

 舌を離してくれた。自分の指に残った俺の唾液を、舐め取っている。

「繰り返します。あなたは私の物です。何も恥じる必要も、罪悪感を持つ必要もありません。ただ、あなたはあなたのままで」

 励ましているのか、それとも、諦めろと言っているのか、俺にはまだわからない。

 けれど、マトイからも同じ事言われたのだった。この方もマトイも、俺は俺のままで良いと言っていくれた。そう受け取る事にした。

「良い顔になりましたね。今日はどうしますか?」

「‥‥その前に、もう一度言っておきたい事があります」

 仮面の方の足から起き上がって、ベットからも降りる。跪いて仮面の方の手を取って、深紅の瞳を見上げる。

「‥‥愛しています」

 その言葉に、仮面の方は目元だけでもわかるほど、朗らかに微笑んでくれる

「‥‥私もです―――ふふ、大丈夫、不安になる必要はありません。私もあなたも、愛し合っているのですから」

 仮面の方の隣に座って、話しかける。

「良かった‥‥あなたも、俺の心が読めるのですか?」

「はい、そうですよ。特に、私に一目惚れした時なんて、よくわかりました」

 手を取って、自分の胸に引き寄せてくれる。柔らかくて、温かい心拍を感じる。

「それに、恥ずかしい時も。ネガイさんにマトイさん、お二人と、恋人になったのに、そんなに恥ずかしいですか?」

「‥‥はい」

 反応を楽しむ仮面の方が大人っぽ過ぎて、目を合わせられない。

「‥‥可愛いですね。今日は食べてあげますね」

「あなたが、食べたいだけでは‥‥」

「それもあります。さぁ、服を脱いで寝転んで、今日はいつまで、起きてられますか?」

 仕方ない、取り敢えず脱ぐかと立ち上がって、仮面の方に背中を向けたままで制服に手をかける。

「そう言えば。ここの服って」

「何ですか?」

 振り返った時、既に仮面の方はドレスを脱いで、ベットのビロードを身体に巻き付けて今か今かと待ち望んでいた。

「‥‥いえ」

「そこで背けるから、ネガイさんに呆れられるんですよ」

 大きなため息を吐きながらビロードの中に隠れて、手を伸ばしてきた。

「‥‥入りますね」

「ようこそ♪私の中へ」

「え?」

 そこは決して、狭いビロード中ではなかった。ビロードというよりも柔らかい宮殿、イメージだけならば子宮の中のようだったで。床はふかふかで立ち上がれる程の高さだった。しかも、これ以上無いほどの事が起こっていた。仮面の方が何人もいる。俺を取り囲んでいる。

「えっと、どこに‥‥」

「大丈夫です。皆んな私ですから」

「残さず食べますから」

「さぁ、横になって。最初はどこがいいですか?」

 何人もの仮面の方が手足を引っ張って転ばせて、その中の一人が腹を撫でてきた。

「全員、あなたなのですね――――ちょっとビックリしました」

「そうですか?刺激が強過ぎましたか。では次は戻しますけど、ふふ‥‥でも、今日は諦めて下さい。あなたが入ったんですよ、私の中に――やっと怖がってくれますね」

 全て言い切る前に、腹に手を入れて引き抜き、ハラワタを全て引き出してきた。

「良い顔。本当に嫌ですか?」

「‥‥いいえ」

 幾人もの笑い声が聞こえる中で、死ねる。これは、今までにない感覚だ‥‥。

「正直ですね。ご褒美です」

 別の仮面の方が口を塞いできた‥‥もう何度もしてるのに‥‥頭が溶けてくる。

「じゃあ、頂きます」

 これは宴だった。

 俺の身体の中身を何本もの手が奪い合い、引き摺り出し、引きちぎっていく。

 終わりがない快感に、何度、気を失ったか。その度に、痛みで起きて、また気絶。永遠と繰り返される快楽の対価に、身体の中身が減っていくのがわかる。普段なら寒くなる筈なのに、今も身体の内側を掻き毟る手が多いお陰で、寧ろ熱いぐらいだ。

「見られるのが好きですね。こんなにドキドキしてますよ」

 腹に手を入れた仮面の方が、腹の中から腕を伸ばして心臓を鷲掴みにしてくる。

「新しい事に少し驚かせてしまったようですね。ふふ、褥はふたりきりがお好きですか?次はふたりだけで、しましょうね」

 鷲掴みにした心臓を引き摺り出そうとしてきた。でも、それは嫌だった。

「‥‥顔を入れて下さい」

「あ、そうでしたね。勿論です」

 心臓を名残り惜しそうに指で撫でて、腕を抜いてくれた。肩まで血塗れな仮面の方は、顔の仮面を外して俺を方を見てくれる。

「‥‥ああ‥‥。やっと、見れた‥‥」

 やっと目が見れた。赤い虹彩に、瞳を中心に幾つもの筋が通っている。今見ると、星のようにも見えた。

「好きなだけ見て下さい。皆んないますから」

 二人から三人、三人から四人。赤い星が二つずつ増えていく―――赤い星が、全て俺に向いている。手を伸ばせば、届く距離に。

「頂きますね」

 そう言った瞬間、周りの星々も全てが降り注いできた。




「‥‥眠い‥‥」

「せっかくご飯作ったんだから、早く食べて」

「前に来た時よりも、物が増えましたね。ネガイさんの趣味ですか?」

「あの部屋は私の物にしますね」

 何故か、俺の部屋で3人が朝食を取っていた。誰が着替えさせたのか、切り裂かれた制服からサイナが実費で作った制服に変わっていた。

「あ、あのクラブ」

 イノリが、テレビを見ながら味噌汁を持ったままで呟いた。

「あー‥‥、あそこ結局どうなるんだ?」

 やっと箸が持てるぐらいに目が覚めて来た。

「腹立たしいですが、オーダー本部の直轄になるそうですから。今は何も」

 マトイが首を振って教えて来た。オーダー本部の直轄とは、今後法務科があのクラブに手を伸ばすには、途方もない手続きが必要となるだろう。

「抜かれた血は、どうなったんだ?」

「まず最初に法務科が何も無いかを調べたのですが、クラブ内にはどこにも。エレベーターの先は二人が戻ってくるまで、開かなかったので、高い確率でどこかの階にあると思っていたのですが、聖女の言葉を信じるなら、もうどこにも無いそうです」

「‥‥悪い、俺がオーダーだって気付かれたから」

「いいえ。常にどこかに運ばれていたそうですから、いつ捜査に入ったとしても現品は無かったと思います」

 それだけ言って、マトイは食事に戻った。

 現時点でこれ以上言える事は無いらしく、ふたりとも黙々と朝食を取っている。

「あ、レンタルのジープですけど。外に用意してあるので、使って下さい。レンタル料は忘れずに♪」

「忘れてない忘れてない。まだ金があるから」

 あれから幾らか装備で使ったから減ってはいるが、それでもまだ280万は残ってる。今日のネガイの為に散財する予定だった。

「言い忘れてました。昨日から今日にかけての依頼料は既に振り込んだそうですから。確認を」

「もうか、早いな‥‥」

 スマホを取り出してバンクを確認すると、頭の数字がおかしかった。

「‥‥6?」

「はい。350万です」

 625万。それが今の残額だった。このまま行くと、いずれ家でも買えそうだ。

「はいって‥‥いいのか?こんなに‥‥」

「最近流行り出したドラッグを根絶して、しかもオーダー本部も法務科も手をこまねていたクラブの摘発。重大な組織や事件に関わっている可能性が高いヒトガタの無傷での確保。確保したヒトガタも、あなたの名前を出した所、捜査に協力的になったと。ここまでして二束三文では法務科の名が廃ります。私も鼻が高い―――自慢できる同僚が彼だなんて、こんなに誇らしい事はありません‥‥」

 満面の笑みと成り、ご機嫌にマトイは卵焼きや米を口に運んでいく

「それに、何一つとしてオーダー本部に渡さずに事が済みましたから、マスターも機嫌が良かったんですよ」

「あの人が?一度しか会った事ないけど、常に不機嫌そうだったのに」

「ふふ‥‥」

 食事が終わり、4人それぞれがまったりしている時間となった。よく考えれば今日は休日だ。皆んな暇なのだろう。

 ソファーで今日の天気予報を見ていると、隣にマトイが座ってきた。

「聖女は、これからどうなるんだ?」

 あの方が特別言及しなかったのだから、悪い方向にはなっていないと思うが。

「彼女には取り調べと血液の検査、それと意思の確認です。またあの力を使う気があるかどうかの」

「‥‥ここだけの話だ。聖女の力は、俺が許可しない限り使えないらしい」

「‥‥仮面の方ですか?」

「ああ。だから、聖女は多分使えないって言うと思う。‥‥必要が有れば呼んでくれ、二度と使わないって言わせるから」

 あの方の夢は、人間にとってただの夢だ。こんな話を信用する人はマトイとネガイ、それにマトイの師匠ぐらいの物だろう。

「その時は頼りにさせて貰います―――そろそろ、時間では?」

「‥‥シャワー、浴びとけばよかった」

 自分の制服やYシャツは、昨日からタバコや酒、それに路地裏にも晒されていた。かなり匂うだろう、袖を鼻先に近づけるが、そういった臭気はしなかった。

「帰ってきてからシャワーで洗ってあげましたから、匂いはしないと思いますよ」

 入った記憶は無い。帰って来たのは、恐らくほんの数時間前だ。ミトリが来て洗ってくれた可能性も無い。

「安心して下さい。皆んなで洗いましたから」

「‥‥今度は二人で入ろう。またな」

「はい、約束です」

 立ち上がった時、マトイの肩に手を置いて挨拶を交わす。挨拶が終わった後、食卓で何かを話しているサイナとイノリの輪に入る。

「サイナ、キーを」

「は〜い♪」

 内ポケットからジープの鍵を出して、渡してくれた。

「あ、私も乗せて。行政区に用があるから。またね」

「はい。また今度♪」

 もう仲良くなったのか、イノリは手を振って先に玄関に向かった。

「何から何まで悪い。仕事だっけ?いつでも呼んでくれよ」

 昨日の昼頃にサイナから仕事の話を受けていた。自分も仕事を手伝ってくれと。

「頼りにしてますよ。もう仕事の予約がありますから♪」

「それで、なんの仕事なんだ?俺、そんなに手先とかに自信無いけど、いいのか?」

 サイナの仕事なら確実に商人としての仕事だ。傭兵としての仕事の可能性もあるが、その場合、数日の準備期間が必要となる。すぐにでも準備に取り掛からねばならない可能性すらあった。

「いつも私がやってる武器の聞き取りですよ。最近予約が多くて、手が回らないので、お願いしようかと。勿論、謝礼はお支払いします。それに‥‥私との時間もありますよ」

「わかった、やるか」

 仕事を理由にサイナと遊べる時間があるのなら、やる価値が跳ね上がる。

「時は金なり♪即決は私も好みです。また今度♪」

「ああ、またな」

 サイナとの話し合いも終わり限界に向かう。今まで靴の量に反して玄関が役不足に広かったので4人分の靴に埋められて、やっとこの玄関の価値が生まれた。

「やっと来た。時間、大丈夫なわけ?」

 もう既に靴を履いて準備を整えているイノリが聞いて来る。そろそろ行かないと。

「ああ、もう出る」

 革靴に見立てた安全靴を履き、イノリの開けたドアをくぐって外に出る。

 2人で廊下を歩き、エレベーターまで向かう。この時間は皆んな仕事か遊びに出かけているので、寮も静かだ。

「ねぇ、あんた、これからどうするの?」

 エレベーターが開いた瞬間に聞いて来た。

「今日は行政区にいるネガイを迎えに行って。その後は、2人で話し合って」

 エレベーターに乗り込みながら、予定を話す。

 行政区での待ち合わせはネガイから指定だった。まずは自分1人で、外に出る手続きをしてから待ってるとの事だった。

 最初の日に慌ててなかなか許可が下りなかったのが、悔しかったらしい。ネガイ本人から言われてこそいないが―――きっと、ひとりでも出られると証明したいのだ。

「そうじゃなくて‥‥いいの?オーダーにいて」

「ここしか‥‥俺の居場所は無い。それに、待ってくれる人もいる」

「‥‥人間じゃないのに?」

「別に、オーダーには人間しかなれないとか、そんな記載は無かっただろう?」

 エレベーターが開き、窓口にいる寮母さんに手を振って外に出る。

「イノリこそ、どうするんだ?」

「私は簡単。学科を変えるだけ。そもそも特別扱いとかも、されてなかったから未練も無いし。‥‥謝んないでよ、自分で決めた事だから。‥‥ほら、あれじゃない?」

 イノリが指差した場所には確かにサイナのジープ、コンパスが停められていた。悪くない―――ジープにしては丸っこくて、愛嬌がある。

「サイナって何やってる人なの?一年で二台も、それもこんな高い車」

「サイナからすれば、このジープはそんな高い買い物じゃない‥‥詳しくは言えないけど、家が資産家だ。サイナ自身も‥‥」

 鍵を持ったままドアのボタンを押して、ロックを解除する。

「‥‥理不尽とか思うなよ。ここに来たのは偶然だ」

「‥‥そうね。オーダーに来る人の大半がそうだし」

 運転席に乗り込んだ時、イノリが助手席に乗った。クルマのキーを差し込みエンジンを回転させる。力強いストッピングパワー背骨が震えた。

「安全運転でね」

「これはレンタカーだ。傷なんてつけられない」

 しっかりと周りを確認して、ゆっくりと発進させる。

 駐車場から出発して、すぐに寮の区画からも出てる。まず最初に通り過ぎるのは商業区だった。

「あ、そこのマーケットで買い物してたでしょう。外からでも分かる位うるさかったから覚えてる」

「うるさかったのは、シズクだ。俺達じゃない」

 数少ない大型マーケットを過ぎて、休日を満喫している学生が多いブティックや飲食店を通る。そろそろ行政区だ。

「‥‥皆んな、楽しそうね。ねぇ、表側の生徒って普段何してるの?」

 信号待ちをしている時に聞いてきた。

「休みは無かったのか?」

「あったけど、いつも寝てた。仕事が終わらないと休めなかったから‥‥」

 まだ5月だ。だけど、イノリの様子からすると高等部に進級した時から、潜入学科として夜の活動していたのがわかる。

「これからは自由だ。情報科だろう?普段何やってるか知らないけど、あそこにいる連中の真似をすれば良いんじゃないか?」

「私には難しそう。大半がひきこもりよね」

「‥‥そこまで言ってない‥‥」

 擁護しようにもシズクを見ればわかるか。休みは部屋でオークションやネットゲーム。学校以外で部屋から出る時があるのだろうか。

「どうすればいいんだろう‥‥。高等部に入って、ずっと仕事しかして来なかったから、わからないの」

 暇を持て余しながら、また窓枠に肘をついて外を眺めていた。

「‥‥ダサい。なんで、あんな服で外歩けるの?いい加減夏物とか探せばいいのに‥‥」

 Yシャツの上に、針の巻物・パーカー・制服の上着。こんな完全武装なイノリに言われるなんて――――イノリのファッション基準は常人には理解しかねるかもしれない。

「あんたも、外に出るのに制服?」

「‥‥俺は私服なんてほとんど持ってないんだよ。‥‥持って来れなかった」

「‥‥私も全部捨てられてた。ダメね、あんたと話してると暗い話題ばっかり。‥‥それで、どこに行くの?」

「俺もネガイも、そんなに外を知ってる訳じゃないから。2人で話し合って探すよ」

 ネガイは、どことなく行きたい場所があるようだった。いくつか候補こそ上げていたが、やはり総じて自分の趣味、美術館や博物館、そういった場所ばかりだった。

「‥‥ナビ、触るね」

「ん?いいけど‥‥」

 許可を取ったイノリは前屈みになってナビを触り始める。何か検索しているのか?

「‥‥。はい、これでいい。適当に登録したから好きな所行ってみて」

「‥‥ああ、そういう事か。どんな場所があるんだ?」

 イノリオススメのスポットがあるらしく、いくつも登録地を作ってくれた。

「適当よ、適当。飲食店、水族館、博物館、美術館、後は‥‥その辺りよ。それと、私、神とか嫌いだから神社は入れてないから」

 また窓枠に肘をついてしまった。これで確定した。朝から目を合わせてくれない。

「‥‥怒ってる?」

「全然」

 怒っているみたいだ。

「‥‥その」

「許してもいいけど。その前に答えて」

 ジープの中が凍るような空気を放っているイノリから、チャンスを授かった。

「私の事、好き?」

「‥‥昨日も今日も言っただろう。‥‥好きだよ」

「‥‥まぁ、それで許してあげる。そろそろ降ろして」

 あの病院近くになった所で、イノリがやっと目を向けてくれた。運転中だから目は見れないが。

 言われた通りにジープを止めた所、想像こそしていたが、なかなかに寄り付きたくない建造物の前で生きた心地がしなかった。

「ここでいいのか?」

「そう、ここでいいの。昨日の事を報告して終わり」

 後部座席に振り返ったイノリは、後ろに投げていた鞄を引き寄せる。

「それと、何度も言うけど、終わった事だから。いつかは、こうなるってわかってたから―――そこは感謝してあげる。私に辞める理由をくれて」

 別れを言うのは嫌いらしく、それだけの言葉で行政区の建物に向かっていく。

「情報部本館‥‥。本当のプロか‥‥」

 オーダーにとっての秘密工作員が全員所属していると言われている魔窟。情報科を卒業は勿論、それこそ潜入学科に数年所属しなければ中すら見る事を許されない秘中の秘。

 都市伝説だが、法務科や査問科すら手を出せない世界的な機密の溜まり場とも言われていた。

「行くか‥‥」

 ジープを発進させて、ネガイの待つゲートに向かう。もしかたらどこかで会うかと思ったが、ここまでいないのならもうゲートに到着しているのだろう。

「血の聖女か」

 本当に一夜の夢のようだった。

 数時間前は、ヒトガタと殺し合ってオーダー本部から逃げた。昨日のこの時間は、ネガイと遊んでいた筈なのに。

「奪われた血は、結局どこに行ったんだろうな‥‥」

 単純に考えて、聖女の血は4分の1の濃さしか残ってない。

 聖女の血と人間の血を混ぜる。更にそれを人間の女の子に注ぎ、しばらく経ったら抜く―――やはり意味がわからない。とてもとても、貴き者の血にはなり得ない。

「‥‥今は、どうでもいいか‥‥」

 考えても仕方がない。今回の仕事だってマトイが持ってきてくれた仕事だ。その時がくれば、向かうが俺を迎えに来る。そんな気がする。

「お、いたいた」

 ゲートで手続きをしているネガイを発見した。灰色の髪は、遠くから見ても良く映えて美しくて可愛らしい。

 職員の指示に従い、車の検査をして貰っている間に、自身の武装も提出。

 必要な手順が済んだ時、ようやく車ごと外に出る事を許される。ジープでオーダー街の境界線を出ると、既に外にいるネガイが車に乗ってきた。

「時間通りですね」

「初めてのデートだ、遅れたりなんてしない」

「ふふ、そうですね。あなたは私に惚れてますから。行きますよ。まずは―――」

 夜の街どころか、昼の街すら俺達には見慣れない物ばかりだった。

 試しに奇抜なファッションで有名な通りに行ったら、ネガイがカルチャーショックを受けてしまい。車から降りて来なくなったり。前にシズクと来た電気街では、コスプレの一種かと思われて写真を撮られそうになり、腰からレイピアを抜いたりと、外を満喫。

 どこに行ってもネガイは羨望の眼差しを受けて、何社からも名刺を受け取り、首を傾げてしまっていた。

「服はいいのか?」

 ブティックが立ち並ぶ街をジープで走っているのに、ネガイは店にあまり興味を示さない。

「いいのですか?女性の買い物は、時間が掛かりますよ」

 笑いで言ってきた。興味が無い訳では無さそうだ。

「今日はあなたとの時間です。私の個人の買い物はまたの機会にします」

「そうか‥‥。なら、この後は‥‥」

 何も思い付かなかったから、そうだ、と思いイノリに頼る事にした。

 イノリが登録してくれた店や水族館、それに美術館などを回っていると、半分以上やはり自分の趣味となってしまった。

「綺麗な絵‥‥写真とは違って、好きな角度から光を当てられるのですね」

「気に入ったか?」

「気に入りました。多分こういう場所が保管しているから、これが保たれているのだと思います。あるべき場所にたどり着いて、絵が喜んで見えます」

 気がつくと夜となり、そろそろという話になった。美術館を後にしたジープに乗ってオーダー街への帰路に着いた。

「今日はどうだった?」

「あなたに沢山キスされました。車を揺らすのも程々に、周りに気付かれますよ。今度はもう少し静かに」

「‥‥そんな揺れてた?」

 確かに――ネガイと盛り上がってしまい、色々はしてしまったが。

「気付きませんでした?‥‥なら許してあげます。そんなに私に夢中でしたか」

 髪で顔を隠してしまったが、声から喜びの感情が漏れ出している。

 どうやら、今日はらしい。

「‥‥眠いな」

「そうですね、今日は疲れました」

 運転中なのに、あくびが出てしまいそうになったので噛み殺す。ふたりとも今日は歩き回って汗ばんでしまい、制服の上着は後ろに投げていた。

「明日はどうしますか?」

「俺は暇だけど。そっちは?」

「私も時間があります。明日はゆっくりしますか。ずっとベットでもいいですよ」

「‥‥そうしたい」

 明日の予定も決まった。明日もネガイに甘える事にしよう。

「‥‥楽しいですね。毎日」

「ああ‥‥。俺も楽しいよ」

 昨日の夜の事は言わない。

 イノリも、聖女も、関わった人間達も皆んな知られたくない事だらけだった。

「‥‥帰ったら」

「帰ったら、昨日の事を教えて下さい」

「‥‥知ってたのか」

「治療科に緊急の連絡が入ったので。昨日はミトリと一緒にいましたから」

「‥‥いいのか。きっと、つまんない話だぞ」

「聞かせて下さい。でも、その前にお風呂と膝枕です。‥‥あなたを蕩かしてから全部聞きますね」

 誰から習ったのか―――ネガイはウィスパーボイスという、武器をマスターしていた。帰ったら、耳元で聴かせて貰いたい。

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