4巻 改訂版 血の眠りを越え

「ああ‥‥、眠い‥‥」

 法務科主催の演習会も今日で終わり。

 テントや機材をそれぞれの倉庫に戻さなければならないが、所属の探索科の片付けをパスした俺は工房に機材類を戻していた。

「‥‥だめだ‥‥寝る‥‥」

 工場にある地下一階であるここは、一階層と呼ばれている。そのサイナの使っている一室でサボりという名の休憩をしていた。

「本当なら科の方に、参加すべきだったかもな‥‥」

「そっちじゃ、私と遊べませんでしたよ♪」

「‥‥そんな関係だったの?」

 送られ続ける品々は、元から工房に眠っていた箱。それをまた工房の倉庫に戻すという無益な作業を先ほどまで繰り返していた。箱の中身は埃臭い装備の予備備品や追加の装甲、軍用の堅いブーツなど。弾薬類は火薬が含まれているので装備科や調達科が全て引き取って管理している。

 よって本来はサイナも調達科に行って仕事をするべきだが、サイナはそもそも今回の備品セールに参加していないので殆ど仕事はなかった。

「少し運んではサイナ、少し運んではサイナ‥‥。ネガイさんに言いつけるよ?」

「今は顔見せない方が良いぞ。口では言ってないけど、未だに怒ってるからな」

 サイナの工房と言う名の倉庫兼店兼装備整備場に、俺とサイナ、イサラが寛いでいた。

「サイナはいいの?そんなに抱き付かれて」

 ソファーの上で、サイナを下敷きにして胸の上で休んでいた。

「いいんです♪このヒトは私の相棒ですから♪」

「‥‥ふーん」

 つまらなそうにイサラは自分の手に視線を戻した。

「で、それはどうなんだ?」

「‥‥間違いなく名刀って言ってもいい。でも、やっぱり素材がわからない。どうなってるの、これ?」

 サイナから起き上がってソファーに一人で座る。イサラは渡された脇差しを部屋にある簡易的な顕微鏡で表面を見たり、電気や熱の伝導を調べていた。最初こそ面白そうに磁石だなんだで遊んでいたが、途中からぴくりとも笑わなくなった。

「金属の筈だけど‥‥どれにも合致しない。‥‥これ以上は調べない方がいいかも」

 ノートパソコンを閉じて、イサラは椅子を回してこちらを向いた。

「隕石って言えば保持を許される思う。実際、放射線とかを持ってる訳じゃないと思うし」

「助かった。もしこれで危険な物体だったら、急いで保管しなきゃならなかった‥‥」

「やっぱいいなぁ〜これ。‥‥嘘嘘、もう取らないから」

「見る分には構わないぞ」

 了解を得た時、イサラは嬉々として刃を明かりに当てて遊び始めた。

「そんなにすごいなのか、それ?」

「‥‥刃こぼれに錆をしてないのは勿論。それ以上に何を使ってるのかわからない所が一番価値がある、って感じ?」

「隕石とか言ってたけど、地球の外からきた鉄なのか?」

「正直、これが鉄なのか他のなんなのかもわからない‥‥。磁石に反応しない、比重もおかしくて、鉄よりも軽くて逸れて、なのに怖いぐらい硬度もおかしいのは間違いない。刀の形こそしてるけど、これが刀の製法で鍛えられたのか、元はどのくらい長さだったのかもわからない‥‥。よくわからないから隕石って言ったの。一般に知られていない特殊な合金か、それこそ地球外からの物資としか言えな〜い」

 面白いらしいが、謎過ぎて頭を抱えてしまった。

「金属じゃない可能性もあるのか‥‥」

「あの鞘とグリップを作ってくれた方も、不思議がってました」

 俺が離れて自由になったサイナは一度立ち上がって、奥から持ってきた制服の上着を手渡してくれた。当然、薬や包帯は仕込んである。

「今はまだいいけど、夏服になったら仕込める場所が減るなぁ」

「そうですね。一応、夏でも冬服でもいいとされてますけど、この装備ではそろそろ暑くなってきましたね」

 渡してくれた制服を俺の腕から取り上げて、自分で着ながらそう言ってきた。袖のサイズが合って無くて指先しか見えない。

「夜はまだいいけど、さっきまでの片付けはだいぶ暑かったし」

 指先が見えている袖口に触れて言ってみる。着ていると感じにくいが、やはり分厚い。

「二着目はサイナの車に置いといてくれ。怪我の治療とかも車でできるし」

「救急箱みたいだね。それで私の耳も治療してくれてもよかったのに」

「あれぐらいで、銃声を聴き慣れてる制圧科の耳がどうにかなるかよ」

「‥‥やっぱり、扱いが違う」

「わかったわかった。ブレン・テンは俺がどうにかしてみるから」

「よろしくね♪」

 イサラが珍しく不機嫌だったから気を使って言ってみたが、いいように操られた。

「‥‥まぁ、いいか。よく今日帰ってこれたな。法務科はどうだった?」

 聞いてから後悔した。

「ん〜、そうだね‥‥。向こうでも身体検査とかCTスキャンだったり、まぁ色々されたかな」

 法務科では、取り調べとして多くが許されている。暗示や身辺調査、持ち物の確認。そして――――身体の表面に中まで見る事が許される。

 オーダーを相手にするのだから身体の中に隠せる武器の可能性すら調べ上げるのは正しい。そうだ、正しい筈なんだ。

「‥‥そうか」

「もう!大丈夫だから!調べられたのは女性職員で、その時だってしっかりと私の権利に、された事に違和感があったら行政裁判とかも出来るって言われたから。それに私だってオーダーだから!こういう事もいずれは起こるってわかってたから!」

「そうか‥‥」

「勘違いしてない?‥‥ちょっと待ってね」

 イサラが立ち上がって、ソファーに座っている俺と目線を合わせてくる。だけど、目を合わせることが出来ない。

「これだって、私がもう何も持ってないって事を調べるのが目的だったの!それに終わったらすぐに元に戻る事も許してくれて、職員だって、医療に関わる女性だったから。法務科で調べてられたんじゃなくて、病院で確認されたんだから。これ以上の扱いは無かった!何よりも!あんたは被害者で!私は加害者!自分の責任をとっただけ!私も納得してソソギを助けたの!いい!わかった!?」

「‥‥わかった」

「よし、ならこの話は終わり」

 下を向いている俺の両肩に、イサラは強めに手を落としてきた。

「それより、聞かなくていいの?家族の事」

 ソソギとカレンの事を、イサラが切り出してくれた。

「知ってるのか?」

 俺がやっと顔を上げた時、イサラは満足気に笑いかけてくれた。

「少しだけね。まぁ、これはマトイさんから聞いた事だけど、隣いいね?」

「では、私はこっちを♪」

 真ん中に座っている俺を挟むように、イサラ、サイナは座ってきた。

「マトイとは、もう話せるのか?」

「話せるも何も向こうから話かけてきたんだから。知らないかもだけど、あの時ヒジリもいたから」

「‥‥もしかして、寝てた?」

「ぐっすりとね。幸せそうにマトイさんの足でね。まぁ、これはどうでもいいか」

 イサラが楽しそうに話かけてくる。最近、お互い忙しくてあまり連絡をとって無かったからか、少しだけ懐かしく感じる。

「ソソギもカレンも、かなり早く釈放されるらしいよ。2人が元いた場所の事をまとめて全部話したらしいから。近く強制捜査がされるだろうって。法務科とか、査問科も含めての」

「‥‥法務科にオーダー本部はヒトガタを是認してるんだろう‥‥。何が出来る‥‥!」

「やめて、怪我でもしたらもう言わないから」

 サイナとイサラの手が俺の手の上に置かれた。気付かなかった、自分で自分の足に爪を立てていた。

「続けてくれ‥‥」

「私はヒトガタの話は最近聞いただけだから詳しくはわからないけど、マトイさんはオーダー本部も動き出したって言ってた。‥‥二人の証言を元にして、非倫理的な方法で‥‥ごめん言うね、ヒトガタを飼育している組織をまとめて捜査して逮捕するって」

「落ち着いて下さい。これからヒトガタが救われる話をしているんです」

 サイナが腕を抱き締めて耳元で言い聞かせてくる。

 上を見て深呼吸をする。ネガイの瞑想の真似をする。

「二人には人並みの生活とか権利を許すって、求めるならオーダーとしての資格も。だから二人は早く戻ってくるって」

「良かった‥‥。ならふたりとも、オーダーを続けるって言ってるのか?」

「そうらしいよ。嬉しい?」

「嬉しいですか?」

 最初から俺にこれを話すつもりだったようだ。

 ソファーから立ち上がろうとしたが、ふたりに腕を掴まれて立ち上がれない。

「‥‥嬉しいよ。嬉しいに決まってる」

 これを機に安全な場所を希望するかもと、思っていた。ふたりの証言はあまりにも大きくて重い。大規模な土地を使っての大量のヒトガタを用いての比較だ、俺では想像も出来ない人間達が多く関わっているに違いない。

 そんな人間達をまとめて逮捕や捜査をするのだ、どこから情報がオーダーに割れたか嫌でもわかるだろう。

「人の心配出来るの?ソソギは強いよ〜。カレンさんもあの笑顔で男なら誰でもコロせるから、ふたりの心配無用かもよ?」

「‥‥かもな。でも、家族を心配するのは当然だろう」

 ようやく肩の力が抜けた。マトイに聞こうにも、どこまで俺に話していいか考えさせてしまうので困らせたくなかった。

「家族もいいけど、ネガイさんは?今日は一緒に登校してたでしょう?」

「‥‥ああ、ネガイは今治療科と解析科とで片付けをしてるみたいだ」

 ミトリと一緒に片付けながら遊んでいるようだった。本当にこういう経験がなかったからか、どんな事でも楽しいらしい。今を楽しんでいるネガイの邪魔をしたくない。それに昨日もう散々、一緒に遊んだ。

「そうですね〜♪一緒に来ましたものね♪」

「え?だって、そうでしょ。朝早く2人で歩いてたし」

 昨日も俺とネガイは帰らずに2人で実験室に泊まっていた。一度帰った振りをして。ただ、それは皆んなも同じだった。俺とネガイの約束がどこからか知られたのか、結局朝方まで騒ぎは続いてしまった。途中でマトイはミトリにより連れて行かれたが、シズクもサイナもミトリも昨日は帰らなかった。

 ネガイとの約束は、お預けとなってしまった。

「イサラ、聞いていいか?」

「ん、何?」

「なんであの脇差しを狙ったんだ?お前の前で一度も抜いてないし、そもそも鞘すら見せてもいないだろう?」

「‥‥そうだね‥‥」

 イサラは言いづらそうに俺から視線を外して足を組んだ。

 足を組んだ所為で、スカートに隠れていたくっきりと柔らかそうな筋肉のついた足が―――少しだけ日焼けした腿が露わになる。

「実はね、まず最初にソソギから連絡が来て、それで、あんたを気絶させた後に目についたから‥‥」

「ありがとよ」

「なんでお礼?」

「最初から、お前はソソギとカレンの為だったんだろう?」

 イサラの言葉を信じるのなら元々イサラはふたりの為に俺を気絶させた。脇差しはついでだ、もしくは。

「脇差しを理由にして、ふたりから対価を受け取らない気だったんじゃないか?」

「‥‥そんな私は甘くないよ。しっかりと貰う物は貰う気だったから」

「それでも、言っておきたい。ありがと、家族を助けてくれて」

 立ち上がろうとした手を握って、逃げるイサラを捕まえる。

「怒らなくていいの?カレンさんをソソギは殺すって、知らなかったんだよ。私、節穴だったよ」

「ソソギは止まってくれた。それでいいんだ、もう」

 ソソギとは長い繋がりこそ無かったが、それでも初仕事での共闘、ヒトガタとしての環境もある。やはり他人事とは思えない。

 今度こそ、立ち上がってイサラに背中を向ける。

「イサラもだ、お前とはこれからも良い関係でいたい。お前を本当に敵に回すには、準備が足りない」

「‥‥やっぱり、変わった」

「変わって欲しく無かったか?」

「んーん。悪くないよ」

「‥‥良かった。俺はそろそろ科に顔を出してくる。またな」

 机から脇差しを回収して、サイナの工房から外に出ようとしたが、少し思い出した事があった。

「サイナ」

「は〜い。目ですね♪」

 何か言う前にサイナは立ち上がって駆け寄り、目に手を当ててくれた。

「‥‥また後で」

 最後にイサラが視線を外した隙を突いて口の熱をしっかりと受け取ってから、扉を出た。



 科に戻ってからは、周りと一緒に治療科のテントの片付けに輸送と梱包などを行い、気が付けばもう夜になっていた。

「なんでこんなに表に出したんだよ‥‥」

 普段使わないからこそ、いい実習になると思って倉庫の中を丸ごとひっくり返したような品々が校庭を埋め尽くしていた。

「私も、まさかこんな状態になるとは思わなかった‥‥」

 隣でミトリが、タブレット片手に資材の数を確認していた。

「ミトリは準備に参加してないんだよな?」

「はい、私はサイナさんと一緒に病院で張り込んでいたので。‥‥ちょっとだけ、ここにいなくて良かったと思っちゃいました」

「‥‥俺もだ」

 2人でヒソヒソと話して秘密の時間を楽しむ。向けられるミトリの笑顔は、つらい肉体労働の清涼剤だった。

「片付けで怪我をしないで下さいね。私に甘えたくても」

「気付かなかった。その手があったか」

「ダメですからね!いいですか?」

「‥‥わかったよ」

 俺の反応が気になったのかタブレットを抱きしめて、少しだけ訝しむ顔を向けてくる。不満そうなミトリには逆らえなかった。

「頑張るから、目に手を当ててくれ。ミトリの手が無いともう動けな〜い」

「ここで甘えん坊ですか。ふふ、仕方ない人」

 ミトリにこっそりとまだ設営してあるテントの中で片目に手を当てて貰う。

「‥‥眠くなってきた」

「はぁー‥‥終わったらまたあげますから、頑張って。私も頑張りますから。‥‥もう」

 呆れながら口をくれたミトリの顔は、少しだけ赤かった。



「マトイ~疲れた〜」

「よく頑張りましたね」

 片付けが終わり次第シャワーを浴びた俺が一目散に向かった場所は、言わずもがなマトイの入院室。病室に入り、視線を合わせたや否やマトイは読んでいた本をサイドテーブルに置いて両手を開いてくれる。このヒジリ専用に造り出してくれた揺り籠に飛び込み、暖かいマトイを感じながらカーテンを引く。そして押し倒すようにふたりでベットに寝転がる。

「ネガイに会いに行ったら、この後は治療科と解析科の打ち上げがあるから少し待って下さいって言われた‥‥」

「ふふ、それは周りの目を気にしての事だと思いますよ。あなただって、自分の恋人が周りに礼儀と作法が無かったら、嫌でしょ?」

「‥‥そうかも」

 マトイに励まされて、少しだけ寂しかった気分が一気に回復した。

「マトイは暇じゃなかったか?今日は誰も来なかったんじゃないか?」

「いいえ、何度か人が来てくれました。冷蔵庫にサイナさんが持ってきてくれた物があります」

 冷蔵庫は窓側にある。

 つまりは俺の後ろにあるから一度マトイから離れないといけない。

「‥‥仕方ないか」

 渋々ながらマトイから一度離れて、冷蔵庫を開ける。‥‥少し驚いた、桐箱に入ったサクランボだった。

「サクランボか。いつ買ってきたんだ‥‥」

 寝転がったままでは食べ難いので、ベットテーブルに桐箱を置いて移動させる。

「これは商人の性か。かなり高いんじゃないか?」

「そうかもですね。私も聞きませんでしたが、味は一級品でしたね」

「ゆっくり‥‥痛くないか?」

「ええ、大丈夫。そんな心配しないで、もう自分1人でシャワーだって浴びられるから」

 寝ているマトイを抱き寄せて、ゆっくりと上体を起こす。腰と背中に手を入れて、マトイには力を抜いて貰う。手から背中にかかっているマトイの髪伝わってくる。柔らかくて、滑らかで、ずっと触っていたくなる手触りだった。そして細い腰にも。

「サイナと一緒にイサラはいなかったのか?今日午前は三人でいたから」

「サイナさんだけでしたよ。顔を合わせ難いみたいですね」

「‥‥そうか。まぁ、仕方ないか」

 机をベットに戻して、桐箱を開ける。想像を超えて赤く輝いていた。見た目だけで高いとわかる艶だ。柄が生えていた後すら美しく感じる程に皆一様に揃っている。

 手間暇かけて手作業で育てあげたからこそ、この輝きが成り立つとよくわかる姿だった。

「‥‥食べていい?」

 マトイ宛への品だから、まずは了解を得ないと思った。

「食べたい?」

「食べたい‥‥」

 食べたら、どれだけ幸福になれるか。前に一度だけネガイに買ってきたことがあったが、その時からこの味の美味しさに取り憑かれているのかもしれない。涎や喉を伝っていくのがよく覚えている

「マトイ‥‥」

「いい顔」

 膝の上に手を置いてマトイからの許可を待っている俺を見て、マトイは口角を軽く上げて、意地悪な笑顔を顔を見せてくる。恐ろしいほど美しくて意地悪な顔だった。

「こっちに来て。一緒に食べましょう」

 マトイがベットの中央から身体をずらして場所を開けてくれる。空いた場所に移動して一緒にベットに座った所、

「はい、口を開けて。私の指ごと食べて」

「いいのか?」

「私の指だけの方がいい?」

 腿に手を置いて指でくすぐってくる。悶えて善がられる、その寸前のもどかしさを目で訴えかけると、マトイは自身の指ごとサクランボを向けてくる。

「いただきます‥‥」

 向けられたサクランボを指ごと口に入れる。甘くて瑞々しい。軽く噛んだだけで、中身が破裂して口中を果汁が覆い尽くしてくる。サクランボの味がするマトイの爪も舌で舐め続ける。

「美味しい?」

 喋れない俺にマトイが聞いてくる。

「足りない?」

「‥‥足りない」

 唾液が伝るマトイの指を離して、ようやく息を吸える。

「今度はあなたが食べさせて」

 俺が舐めた指をマトイがひと舐めして残った赤い果肉を取り除く。マトイの目の色が変わった事に気づいた。マトイの魔眼だった。

「いただきます」

 マトイも、俺の指ごと口に入れる。

「‥‥っ」

 指を噛んできた。鋭い痛みを人差し指の腹に感じる。だが、そんな痛みをマトイが舐めて癒してくれる。

「御馳走様」

 少しは果肉が残っているかと思ったが、指にはマトイの唾液しか残ってなかった。それでもと指を舐めると、甘かった。

「どうしますか?今度はどっちが食べますか?」

「‥‥2人で食べよう」

 お互いがサクランボを口に入れる。形を残したままの口で、マトイの口のサクランボを求める。

 マトイのサクランボは、既に噛み砕かれていた。マトイのサクランボと自分のサクランボを舌で交換して、もう一度噛み砕いて貰う。幾ら吸っても、飲んでも、マトイからの甘みが無くならない。サクランボをマトイが何度か追加してくるからだ。

「‥‥満足?」

「満足、今度また‥‥」

 気が付いたら、サクランボがもう半分ほどしかなかった。飲み込んだ大半がマトイに噛んでもらった物だった。

「そろそろミトリが来る時間だ。お暇させて貰うよ。‥‥またな」

「はい、また」

 最後にマトイ自身の味を受け取ってから、病室を出た。




「今日こそは帰らないと」

 軽く呟く。この数日間、俺は一度も自分の部屋に帰っていない。帰ったら、冷蔵庫の中をまとめて消費しなければならない。

「バイクにも乗って、そろそろエンジンを回さないと。ネガイはどうする、乗って行くか?」

「はい、私も一緒に行きます」

 ベットに寝転がって、あのアーム越しのネガイを見ていた。

「もうこのアームも、必要ないかもしれませんね。もう目も造りませんし」

「これで目を造ってたのか?」

「‥‥これで目をコピーして、細胞シートを1枚1枚造っていくつもりでした」

「細胞シートか‥‥あれは、再生とかに使うんじゃなかったのか?」

 角膜や食道に心臓などの臓器が、ガンや病気、事故が原因の欠損によっての機能を満足に果たせなくなった時に、表面の血管すらも模すことができるシートを生着させる事によって、その機能を回復、復元することができる。

「何枚も重ねて、重ねたシートにあなたの目を情報を打ち込むつもりだったんです。そうすれば最初は不完全でも、目に近い機能を持つ臓器は完成したはずです。‥‥それもこれで終わりですけど」

「‥‥いいのか?」

「いいも何もありません。あなたの目や血と同じぐらいに、この情報は危険です。だったら、私は自分の責任を取るだけです」

 アームから電源が切れる唸り声が聞こえる。

「‥‥はい、これでおしまい。アームはしばらくはそのままですね。回収に来て貰うのに時間がかかります」

「これ、リースだったのか?」

「秘密です」

 椅子から立ち上がったネガイは、目を覗き込んで来る。

「これで終わりだな。全部」

「校庭の備品、テントに車も全部片付けましたから」

 言いながら、目に手を当ててくる。

「どうだった?」

「何がですか?」

「この数日は」

 このゴールデンウィークの10日間。黒い布の襲撃が全ての始まりだった。

「‥‥驚きの連続でしたね」

「俺もだ」

 ネガイとマトイに殺された。忘れられない冷たい記憶となって、この心に絡み付いてしまった。人間とはやはり相容れない、そう思ってしまった。

「‥‥寒いですか?」

「大丈夫。ネガイの手が温かい」

 ネガイの手に触れる。もう、この熱から離れられない。

「仮面の方。もう私は思い出せないですが、どんな方ですか?」

「ん?そうだな‥‥。石像とか絵とか会話が好きで、食事に興味がある方。あそこには食べ物が無いから俺の血と肉をあげてるんだ。人間が好きみたいで、簡単に滅んでしまっては面白く無いとか言ってたかな?」

「‥‥ふふ、」

 ネガイが急に笑った。

「どうした?」

「いいえ、いいえ‥‥。私は最初、あなたを狂わせたのはその方だったと思ったんです。‥‥これは処刑人の父と母から教えられた事です。人間とは違う、そして地球上の生物とは全く違う存在がこの世にいる。それを総じて上位の存在と呼びます」

 上位の存在、マトイの師匠に自分を紹介する時、そう言っていた。

「それがなんなのか、誰にもわからない。それどころか理解しようとしてもならない。それらは、そういう存在だと思え」

「そういう存在?」

「仮面の方は、あなたに友好的で更に言えばあなたの周りの人間にも友好的なんですよね?だったら、そういう存在です」

「そういう存在か‥‥俺にも俺の周りの人間にも優しいか。確かにそうだな」

「はい、そういう存在です。中には人の形をした者は勿論、人間とは決して呼べない、生物にすら見えない姿で人間を軽く凌駕する力。私達、処刑人は元はそういった力を持ち、人間に仇なす存在を刈るのが目的でした。‥‥そして、私達処刑人は、上位の存在の血をこの身に宿してます」

「呑んだのか?」

「‥‥それはわかりません。遠い先祖が血を混ぜたと聞かされましたが、あなたの言うようにそういった存在を喰らったのかもしれません。ただ、この髪や目は女系にしか現れませんから、両親の言う通りどこかで交わったのかもしれません」

 あの方は、夢の中でした姿を見せない。血を混じらせる事が出来るという事は、俺が夢だと思っている玉座は、もしかしたら夢ではなくどこの現実なのかもしれない。

「私は、あなたから夢の話を聞いて人間に仇なす存在だと思ってんですが、違いました。‥‥実を言うと、少しだけですが私には仮面の方の記憶が残ってます。‥‥少しだけ慌てん坊で、好奇心旺盛で、子供っぽい方でした」

 間違いなく、あの方だ。

「面白くて、優しい方だっただろう?」

「ふふっ‥‥。はい、最初こそ威厳を感じましたけど、途中から‥‥いいえ、なんでもありません。友人の秘密は守る事にします」

 泣きそうになった。良かった、ネガイはあの方を友人と呼んでくれた。

 それにマトイも記憶こそ無いが、それでもあの方の心を推し測ってくれた。あの方には、友人がふたりもいる。

「私は、上位の存在と会った事が無くて、だから両親の話であまり良いイメージを持っていなかったんです。‥‥私は、あの方のせいであなたは狂ってたんだと思い込んでいました。‥‥私が原因なのに」

「違っただろう?あの方はそんな事しない。それに俺が狂ったのは、俺のせいでもある。忘れるな、ネガイだけのせいじゃない」

 ネガイのせいじゃない、とは言わない。そう言わないと、またネガイを苦しめてしまう。

「‥‥責任を感じさせてくれ、ありがとうございます‥‥変わりましたね」

「昔から付き合いがある奴皆んなに言われたけど、そんな変わったか?」

「あなたが私と最初に交わした契約の一つに、思考や思想を奪われたくないから目を無力化すると決めたのに。‥‥もう怖くないんですか?化け物になっても。あなた自身気付いてませんが、やはり今のあなたの思考は元のあなたから離れていってます」

「変わった俺は嫌いか?」

「いいえ。好きな人の成長は、私自身とても嬉しいです」

「良かった‥‥」

 少しだけ、心配になってしまった。でも聞くまでも無かった。ネガイのこの温かさは、俺に向いているのだから。

「眠らないで下さいね。この後は校庭で最後の打ち上げです」

「でも、眠い‥‥。ネガイ、寝かせて‥‥」

 ネガイの手からの熱が強くなってきた。この熱を失う気はない。

「ここは変わらないですね。‥‥ゆっくり寝て下さい。起きたら、今度こそ‥‥」




「眠いですか?」

「眠いです‥‥」

 玉座まで上がる事を許された俺は、まず最初に仮面の方の足にしなだれた。

「怖いもの知らずですね。ふふっ、私が誰か知らないんですか‥‥?」

「俺の好きな方‥‥」

「正解です‥‥!」

 仮面の方が、頭を撫でてくれる。

「気持ちいい‥‥。いい香りですね‥‥薔薇ですか?」

「うーん‥‥、確かに人にはそう感じるかもですね」

「お風呂に入られたんですか?」

「お風呂?違いますけど‥‥、なんでですか?」

「ネガイから聞いたんです。お湯に薔薇の油を入れるといい香りと肌の保湿ができると‥‥」

「まぁ‥‥!いいですね!でも、ここには水も無いので‥‥。あなたの血と私の血でお風呂はできるかもしれませんね。試してみます?」

 やはりこの方が人間じゃない。自分の美しさのためではなく、俺の為に俺の血を絞ると言っている。

「‥‥それはまた今度で」

「そうですね‥‥」

 反応を予想していたのか、それとも本心で不思議だと思っているのか、優しく頭を撫でながら語ってくれる。

「この香りは、そうですね‥‥。少しだけ海に行ってきました」

「海なのに薔薇ですか?」

「海と言っても、それも人間にとって見た目ですから。だから行きたい、なんて言わないで下さいね。あそこの底にはいる存在は、あなたを受け入れてくれませんから。いいえ、むしろあなたに平伏しますかね?」

「‥‥」

「心配しないで下さい。これからもここにいますから。あなたの好きな私はあなたを置いてどこにも行きません」

 もう会えなくなってしまうのかと、心配になった。心細くさせた罰として腰に強く抱きつく。

「寂しくなりましたか?ごめんなさい、どこにも行きませんから」

 少しだけ小馬鹿にしたような、悪戯好きな声色で望んだ答えをくれた。両手で俺の頭を自分の下腹部、子宮あたりに押し付けながら笑ってくれる。このドレスの下には何も着ていないから仮面の方の体温が高くなっていくのがよくわかる。

「俺、聞きたい事があります。聞いていいですか?」

「なんですか?」

「俺の目についてです」

 仮面の方が、息を吸った。

「‥‥遂にですか。‥‥知りたいですか?」

 頭を撫でていた手が背中に回される。

「‥‥はい」

 心臓だけでは限界があった。だったら、この目を使うしかない。でなければ、俺は俺自身すら守れない。

「その目がなんなのか、わかっていますか?」

「‥‥この目は、魔眼じゃない」

「そうです。その目は魔眼ではない。だから使いこなすのなら、目の事を知って下さい」

 マトイの師匠が言っていた。目を使いたいなら、目を知らなくてはならない。

 これがなんなのかも知らずに武器として使っていた。それは自殺行為にも自爆にも近い、愚かな真似だった。

「‥‥教えて下さい。この目は、あの女達はなんだだったんですか?」

「‥‥それは、卵でした。そして、新しい門でもありました。人の動きや力の方向が見れるのは、役目の一部にも過ぎません。その目の本来の役目は、あなたの世界に住んでいる自分達の敵になるモノを遍く見定める為にある」

 敵?敵とは、なんだ?誰にとっての敵だ?

「完成した門を開くには鍵が必要でした。あなたの目がふたりを求めたのは、そこにあります」

「なぜ、ふたりだったのですか?」

「なぜ、ネガイさんとマトイさんだったのか、目の完成は勿論ですが、それは繋げたい世界が二つあったからです。でも一度に繋げられる世界は一つだけ。なぜ女達は2人だったのか、それはあなたの目を二つの世界からの使者が奪い合ったから。その結果、どちらが早いかの競争になった」

「あなたは?」

「私はどちらでもありません。それに、私からすれば世界の侵攻なんて小さな話に興味もありません。私はこうして、気分で世界の壁を超えられますから。でも、もしあなたの目が門として完成して、確かな形のある門になっていたら、人間達ではそれらに対抗するのに銀河を30は跨ぐ必要があります。つまり不可能です」

 途方もない話だ。世界の侵攻という単語すら、まともに理解できない。

「でも、あなたが目を自分の物にしたから全ては失敗しました。ただ新しい使者が訪れてきても―――私が許しません。それに、もうあなたに手を出そうとは思わないでしょうね」

「理由を聞いても?」

「‥‥あなたがあらゆる世界が恐る存在と繋がっているからです。私にとっても、少しだけ苦手な存在です」

 マトイの師匠と話した時の雰囲気を仮面の方がまとった。

「すみません、言いたくない話でしたか‥‥」

「いいえ、聞いて下さい。あなたは一度死んだ事により、彼方の者との繋がりが完全となった。今も、夢と血で、あの存在に繋がっています。でもあなたの夢と血は私の物にしましたから、心配は無用です。だけど忘れないで―――あなたはまだ繋がっている」

「‥‥それが起きたら、どうなるんですか?」

 9回宇宙が滅んでも、まだ足りない。この方はそう言っていた。だったら、俺はどうすればいいのか。

「怖がらないで下さい。そうそう起きません。あの者は夢を見る事が好きなので。人類どころか、あらゆる存在が消えてもまだ眠り続けます。そもそも興味もありませんから。私のやっている事は、保険にすらなりません。ただのあなたと一緒にいたいからです」

 仮面の方がまた頭を撫でてくれる。緊張した心を解いてくれる。

「起きた時の話はしません。人間で言う所の『月が落ちてくる』という心配と同じです。落ちてきたら人は滅びますから、人間が考えてもどうしようもない事です。起きる可能性もまずありません。夢であなたを救ったのは、私の物に勝手に触れたからです」

 『俺の夢は、あの方の物』と言ったのが相当お気に召したらしい。上機嫌で頭を撫でてくれる――――でも、止まった。

「‥‥聞いて下さい。これから、私はあなたの生まれた理由を話します。その時が来ました」

 ああ‥‥やはり、俺の生まれた理由は、全てこの目にあるのか。

「怒って下さい。私は、ヒトガタの存在理由を知っていて放置しました」

 仮面の方が頭を越えて謁見の間中に響き渡った。

「なぜあなたの目が狙われたのか、それは血が原因です。あなたの生まれた理由もそこにあります。人間達の手により、あなたの血には他の世界の血が混ざっています。それを軸にして彼方の世界の住人を呼び出すつもりだった‥‥」

「‥‥なんの為に?」

「永遠の命、人類の発展、ただの好奇心、人によって理由はありとあらゆる方向に枝分かれしています。あなたの場合は、服従」

「‥‥服従‥‥一体なんの為に頭を下げるのですか?」

「宗教というのは、私には理解できません。見たことも、それどころか恩恵一つ受けた事もない人間が、ただの概念に首を垂れて、膝を折る。それは力を持った人間と、それに従う人間との間にも成立します。あなたを育てた人間達は、あなたを生贄に強い存在を呼び出そうとした」

 生贄?だったら、俺は、死ぬ為に生まれてきたのか?

「‥‥聞きたくない‥‥」

「もうこれは終わった話です。お伽話の一つ、と聞いて下さい」

 自然と強く抱きついてしまった。そんな俺を仮面の方は受け入れてくれた。

「人間達は自分達の主になる得る存在を呼び出そうとした。あなたは計画の最初で最後の成功例と言えました、人間達は気付きませんでしたが‥‥」

「‥‥門としてあの家にいたら、俺はどうなっていましたか‥‥」

「死んでいました。私でもどうする事もできなかったと思います」

「俺は‥‥どっちにしろ死んでいたのですね‥‥」

 オーダーに来ても、あの家にいても、俺は死んでいた。救いなんて無かった。それとも、どちらにも死が待っていたのが救いと言えるだろうか―――皆んながいるこちらの方が、良かったと言える。そうだ、良かったんだ、これで。

「‥‥なんで俺を助けたんですか?」

「言えません‥‥」

「‥‥憐みですか?」

「‥‥否定、しません」

 まただ、俺は、また泣いてしまう。

「‥‥泣かないで」

「俺は、泣く事も許されないんですか‥‥」

 背中を撫でてくれる。いっその事、そのまま肺を叩き潰してくれればいいのに。

「最初は、憐みですらありませんでした‥‥。私は楽しんでいたんです、あなたが苦しむ様を」

「やめろ‥‥」

「‥‥いいえ、聞いて下さい。これが私の本質です」

 初めてこの方に会った時、この方は楽しそうにしていた。俺をここに呼んだのは2年も俺が起きないとなると―――つまらないからだ。ここで俺を元気付けたのも、俺が消えると楽しみが減ってしまうからだ。この方の本質とは―――享楽そのもの。

「それでも‥‥あなたは俺を守ってくれた‥‥」

「‥‥あなたから見れば、そうかもしれません。でも、あの時の私からすれば、あなたで遊んだ。それだけでした」

 聞きたくない。伝える為に、更に強く抱きつく。

「私はあなたで遊ぶ為に、目を完成させる為に心臓に宝石を与えました」

「遊ぶ為なんか‥‥言わないで下さい‥‥。あなたに会ったから、俺は2人にもう一度会えたんです‥‥」

「‥‥私も、あなたが2人に会えて嬉しかったです‥‥。でも私のせいであなた方3人に傷を負わせた。これは紛れもない事実です」

 何故、この方のドレスで泣いているのか。この方へ向けるべき感情がわからない。

 怒りなのか、感謝なのか、狂乱なのか。どれも違う気がする。ネガイへ送った恋とも違うのだろうか―――この方は別次元の存在だから、何もわからない。

「いつから‥‥俺を見ていたんですか?」

「あなたがガラスにいた時からです。まだ目と心臓しか無い姿でした」

「最初から、全部見られてたんですね‥‥」

 仮面の方のドレスが冷たくなってしまった。俺の涙を吸ったから。

「俺の心臓に、火くれたのは、なぜですか?」

「‥‥これもただの暇つぶしでした。小さいあなたが彼方の者と通じているとわかった時、私は面白半分に火を与えました。9歳か10歳だったと思います」

 顔を上げて、仮面の方を見上げる。

「火と言っても、人の形で御せる遺物ですから特別ではありましたが、人類の歴史で何度か現れた力です――――それ以上になり得るのではと、面白がっていました」

 上げた顔に仮面の方は手を添えてきた。

 9か10歳と言った。その時は俺が少しだけだが、目に対抗できるようになった時だった。無意識に、目に血を通さないようにしていたのかもしれない。

 ふと、耳を触ってきた。

「お返しです‥‥ふふ‥‥」

 少しだけ、苦しそうな口元だった。

「強過ぎました‥‥」

 腕に力が入り過ぎて仮面の方を苦しめていたとわかり力を抜く。

「下に降ります。手を取って下さい」

「‥‥いいえ」

「え、」

「俺で遊んだ罰です。立って下さい」

 仮面の方は混乱したご様子だ。でも、俺は更に混乱させる。

「え、きゃあ!」

「軽いですね」

 何度かマトイにしたお姫様抱っこをする。やはりこのドレスはかなり薄い。身体に直接触れてるかのように肌を感る。実際、このドレスはまやかしなのかもしれない。

「もう‥‥驚かせてばかりで‥‥悪いヒト―――落とさないで下さい」

「はい、勿論です」

 一歩一歩、1段ずつ降りて謁見の間中央に到着する。そこでいつも通りにベットが迫り上がってくる。

「降ろしますよ」

 迫り上がったベットに、仮面の方が腰かけるように降ろす。

「ありがとうございます。‥‥さぁ、どうぞ」

 マトイのように手を開いてくれた。それに従って、仮面の方の足に横になる。

「最初は面白半分でした。‥‥次は、私のせいで起こってしまった事への憐みと後悔。勝手ですね、私が自分でやった事への憐みなんて。本当なら、私はあなたにもう会ってはいけないのかもしれません。これが責任を取る、という事なのでしょうね‥‥」

 前髪を撫でてくれる。ただそれだけで、心がこの方を求めている。

「でも、俺はまたあなたに会えて嬉しかった。また好きな人に会えて」

「‥‥はい。私も、また会いたかったです」

 まだ濡れているドレスを枕にしている俺の目に手を置いてくる。

「‥‥眠いです」

「もう‥‥真面目な話をしてるのに‥‥。そんなに私が好きですか?」

「はい」

「許します」

 天井から降ってくる光が遮られる感覚がした。仮面の方が少しだけ前屈みになったからだ。もしくは胸をお張りになったのか。

 この方の憐みとは、あの注射器だったのだろう。2人を呼んで、謝って、目の完成を諦めて俺を生かす為に力を分けてくれた。

 目の完成を諦めるという事が、この方にとってどれだけのものだったのか―――。本気で俺を救おうとしてくれた。

「あなたの目の話からだいぶ逸れましたね。いかがでしたか?」

「‥‥夢みたいな話ですね」

「そうです。もうこれは夢の話です。誰も、あなたの目や血に手を出そうとはしません。私やあの存在に―――ふふ、がいます」

「あの子?」

「‥‥秘密です♪」

 ならば聞かないでおこう。この方の秘密とは、人類の秘密なのだろう。

「あなたの目は門ではありましたが、もうその在り方は変質しました。あなたが変えましたから」

 あの女達を殺した後に、目の結晶の形を俺が変えた。そうだ、俺は目に変えた。

「目です‥‥」

 置かれている手が、少しだけ温かくなってきた。もう少しで寝てしまう。

「はい、その目は在り方を完全に固定しました。自信を持って。その目はあらゆる世界を見る事ができます。今度はあなたが、世界を選ぶ時です。見たい物を選び取って下さい。そうすれば、目はあなたに見たい光景を見せてくれます」

 千里眼とでも言うのか、だが、あまりにも傲慢な力だ。

「立場が逆になりましたね。‥‥俺が見せる立場だったのに」

「そうです。もう目に意識は無い。だから視界に入る物、全てがあなたの血肉となります。全部、あなたの物です。あなたの敵は、世界の敵です」

「神か、魔王にでもなった気分です‥‥」

「ふふっ、そうですね。でも、そうはならないで下さいね。あなたが魔王になったら、私は悲しくて泣いてしまいます」

「泣かないで下さい。俺は魔王になりませんから」

 冗談で言ったが、また俺からの答えがお気に召したらしく胸を撫でてくれる。

「今日はどうしますか?」

「ゆっくり潰して下さい。眠るように‥‥隣にいて下さい‥‥」

「わかりました。私は、あなたの隣にいます。‥‥おやすみなさい‥‥」

 本当にゆっくり潰してくれた。死んだのか、眠ったのか、わからない死に方だった。



「起きました?行きますよ」

 ネガイに手を引かれて、ベットから上半身を起こす。

「‥‥眠い」

「もう時間です。そろそろ始まってしまいますよ」

「‥‥抱っこ」

「ここで甘えん坊ですか‥‥、仕方ないですね‥‥」

 ネガイに抱き締められて、ようやく周りが見えてきた。

「‥‥もう、こんな時間か」

 時計を見ると、もう午後10:00時。打ち上げの30分前だった。

「あなたは表面上でも主役なのですから。しっかりして下さいね。急に甘えん坊にはならないように」

 ネガイと離れて、ベットから降りる。

「行くか」

「はい、行きます」

 手を繋ぐ。もう見られても構わない。既に噂になっているのだ、何もかもが今更だった。

「終わったらどうしますか?」

 扉を開ける前に言われた。

「帰るさ、2人で」

「‥‥ふふ、そうですね」

「ああ、いつもどおりだ」

 少し騒がしいかもしれないが、それもいつもの事だ。

 そう、いつも通りの光景を、俺は選ぶ事が出来た。でも明日からは、全て変わるかもしれない。血や目を求めてくる愚かな人間だけではない。オーダー本部と法務科。

 そう思うと、今のネガイとの時間を求める為に払った対価にしては、些事だった。

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