3巻 改訂版 満月の狂乱

「もう逃げません、始めましょう。引き返せない場所に私達は立っています」

 自分はベットの上に座り4人はハーブティーが用意してある机を囲むように座っていた。この実験室がこんなに人で埋まることはないと思っていたが、現実となった。

「それと後一人。シズク、聞こえてますか?」

 デスクの上のヘッドセットに、ネガイが声をかける。返答はすぐさま聞こえた。

「問題なし。ソナーを使ってみるから少し待ってー」

 シズクの声が消えた時、ヘッドセットからそれこそ映画の中での潜水艦のソナーの音が聞こえてくる。それが聞こえなくなった数秒後、またも別のソナーの音が聞こえる。

「音も電波も問題ないね。少なくともその部屋への盗聴とか盗撮はないから安心して。スマホもオーダー支給でしょう?しっかり更新しておけば外部からの操作も無いから安心して話して。また後でね」

 アドバイスと確認が取れた直後に通信が切れる。だが今も常に監視してくれているのだろうから、先程のように名前を隠して話す必要はなくなった。そもそも意味は無かったかもしれないが。

「サイナはマトイから仕事を受けたんだよな?いつ頃だ?」

 あの救出はそもそも翌日、今日の夜の筈だった。なのにサイナとミトリは昨日の夜には院の駐車場で待機していた。しかしそれの情報はマトイから提供されなければ掴める筈ない。

「‥‥実を言うと、あなたが病院で依頼をしたほんのすぐ後です。最初はオーダー校からでしたが法務科推薦なんて名指しだったんです。内密って訳では無かったのに私達の計画がばれていて、これはまずいかな〜‥‥と思って。で警戒をして行ってみたらマトイさんが待っていて、そこでマトイさんから特務課があなたを捕まえようとしている時間など、詳しく聞きました」

「特務課とは新設された警察の部署。あの男が現在所属しています。新設された理念は素晴らしいのにあの男達の様な傷がある、しかも何かしらの恩恵にあやかった連中が跋扈する部署になったそうです。特務課としてもあの男達が消えるのは有り難いのかもしれませんね―――まぁ、オーダーに傷をつけられるのは、望む所だったのかもしれませんが」

 辛辣にマトイが教えてくれた。だが付け加えるように、しかし皆んなあんな奴らじゃない、とも告げてきた。あれだけが異常だ、と思ったのは正しかったようだ。

 昔、恐らくオーダーが設立される前だからもう10年以上も前に解体されたOB達が、当時の特権階級が忘れられないから飼い主共々這い上がろうとしたのだろう。

「なら、なんであいつはオーダーだ、なんて名乗ったんだ?」

「特務課はその性質上、警察としての立場とオーダーとしての立場を持っています。そもそも特務課はそういった人材を集めていた部署だったらしいです。いつの間にかゴミ貯めになったようですけどね。‥‥これは秘密に。過去の名を公安と言います」

 公安—――公安警察か。ある意味においてあの男の傲慢な態度は正しかった。

 日本を影から守る守護者達、必要とあらば他国への諜報や捜査、そしてテロリストの無力化によってテロを未然に防ぐなど、選ばれた人間しかなれない組織。

「オーダーとして一花咲かせて飼い主を売るか、それとも飼い主と一緒にまた上を目指すか。そんな陳腐な目的で追いかけまわされたのか‥‥。それをよくオーダーが追認したな」

「オーダーの名誉の為に言いますと、それをしようとしたのはあくまでも一部です。ネガイを捜査の名目で逮捕して連れ去るも、私を逮捕して法務科の弱みを握るのもあの男達と同じような一度堕ちてどこぞの行政機関からオーダー所属になった連中の独断、逆恨み以外のなにものでも無いですね。オーダー本部はそれを知ってワザと泳がせていた」

「あなたが追い出した子供の親と私を捕まえたい連中が手を取り合ったと言った所です。本人達はいいカードが揃った思ったのでしょうね。法務科は武器の横流しをした人間を昨日の時点で逮捕したそうです。そしてオーダー本部には内の鼠と飼い主の逮捕状が裁判所から認められた。じきにここに来ますよ法務科が」

「そうか‥‥。まぁ、そうだろうな」

 ならマトイはそのまま一緒に行ってしまうのだろうか。法務科ならば怪我人だとしてもマトイを連れて―――いや、その前に俺を逮捕するかもしれない。捜査員であるマトイを傷つけたのだから。

「あなたの手錠は私がかけます」

 ふっと笑って伝えた。それを聞いたミトリやサイナ、ネガイは誰も笑わなかった。

「これが明日の秘密か‥‥」

「—―――冗談です。本気にしました?」

 下げていた顔を思わず振ってしまった。

「当然、あなたは私への傷害という罪になるかもしれませんが、オーダー内でのいざこざなんて日常に過ぎません。皆んな自分の秩序があるのですから。私だってあなたへの殺人未遂があります、ネガイにも、サイナにも脱税の」

 サイナがサイレンのように叫んだ。それをミトリが慌てて押さえる。

「だから本気にしないで。あなたはこれから私と罪を償う、自分の罪を見つめながら。それは苦しい贖罪の旅になりますよ」

「‥‥ありがとう。マトイとなら越えていけるよ」

 自然と笑顔で返事をし合えた。こんな顔も出来たのか。マトイや俺も。

「さっき私を押し倒して制服まで脱がせたのはどこの誰ですか?」

 マトイの目とネガイの目が深くなった。それと同時に肺に影が生まれる。

「制服は脱がせてないッ!そうだよな!サイナ、ミトリ‥‥!」

 二人に顔を背けられる。なぜふたりとも何も言わないのだろうか。見ていたというのに――――

「そう、ネガイのは脱がせたのですか。私には着替えさせたのにね、目の前で」

「み、ミトリ‥‥、サイナ‥‥」

 心臓を抑えてベットへと倒れる。二人に助けを求めるが、答えてくれたのはサイナだけだった。ミトリにいたっては視線すらくれない。

「は、はい!ここにいますよ!」

 ベットに駆け寄ってくれたサイナに手を伸ばしたところ、両手で握ってくれた。

「心臓の薬って持ってない‥‥?俺は、もう‥‥」

「倒れないで私に報酬を払うまで!!」

 なんて言い草だ、最初から最後まで財布扱いだった。だが、俺の助けにいつも答えてくれた—――ありがとう、ここまでらしい。

「私には跡までつけたのに‥‥。首の、隠すの大変だったのに‥‥」

 ミトリが自分の首左側を手で押さえる――あの時か‥‥車で寝ぼけた時か‥‥

 サイナの運転でソファーに座っている時に、ミトリの上に飛ばされ一瞬ミトリの上で眠った光景が頭の中でフラッシュバックする。

「‥‥去勢、調教が必要みたいですね。サイナ、後で首輪でも買ってきて下さい」

「首輪でしたら調教科のがあるので、お求めやすい価格で‥‥」

「ダメです、ネガイ。彼はむしろ喜んでしまいますよ、そういう人ですから、彼は」

「‥‥やっぱりそうなんだ‥‥」

「それより!法務科が来るのはあのスーツ達を逮捕、そうだろう!?」

 破れかぶれの猛進、勢い任せでどうにか立ち直る。が、これは心臓が伴わない単騎がけだった為、ネガイとマトイの視線にみるみる勢いを奪われてしまう。

 ネガイは俺への首輪を本気で買うつもりか、サイナからタブレットを受け取って何か操作をしている。ミトリは右手で首を押さえて俺に振り返って不満げな顔。マトイは俺のいじめて満足したのか、優雅に車椅子でお茶を飲んでから一言。

「恐らくはそうなります。もしあそこでオーダーに銃撃をしなければ何のお咎めなしだったのに、ふふ、オーダー内の協力者が逮捕されたと聞いて焦って手柄を求めたみたいですね。‥‥良い気味‥‥」

 カップで口を隠して笑う。だがカップからはみ出すほど口が裂けている。

「あの人達は今一部屋ごとに制圧科の生徒が常に二人と捜査科が一人、駐在しています」

 ミトリが思い出した感じで知らせてきた。

「捜査科?だったら査問学科か」

「はい、査問学科です」

 ミトリはなんでも無いように俺の言葉を肯定してカップを口に。不思議だ、カップを口に運ぶだけでどんな内容も優雅に見える。

「あ、やっぱり査問学科でしたか‥‥。あんまり関わりたくないですよね〜」

 前の事件で俺とサイナは査問学科の生徒と少し関わった試しがあった。決して敵ではなく味方としてだったが、その時にサイナの脱税に勘付かれた。当時はサイナや俺の功績を認めて見なかった事にしてくれたが、次はないと告げられていた。

 査問学科は一言で言えば聴取のプロ、それ以上でも以下でも、以外でも無い。ただただ――――犯罪の疑いがある人間から吐かせるプロを育成する学科。マトイの所属している捜査科捜査学科と同じ科であの特別捜査学科とも同じ科だった。

 ミトリはそんな学科が救護棟を出入りをしても特段気にした様子もない。知ってる筈だ、彼らがどんな手段を用いるかを。

「無いと思いますが、錯乱して聞き取りの時に怪我をされてもいいように、救護棟には私達治療科も揃ってます。それに必要な薬も。だから何かあった時は忙しくなりますね。法務科の方はいつここに?」

 ミトリの口からクッキーを齧る音が響く。

「明日の午前には必ず。今は送検の準備をしているので、来たら即逮捕となるでしょうね」

「なら大丈夫ですかね?皆さんが中々食事をとってくれないので、これ以上、材料が無駄になっては勿体無いので」

「ふふ、確かに勿体無いですね」

 男達が食事を取らない事で、衰弱するという心配ではないらしい。今度ここに入院する時も完食しなければと静かに心に決める。そして疑問の核心に触れる為、声を発する。

「ミトリはどうして俺の救出を?」

 冷たいオーダーのミトリよりも優しい治療科のミトリが見たかった。

「私は‥‥、自分から志願したんです」

 少しだけ震えた小さな肩に手を伸ばす。応えるように振り向いたミトリに感謝を伝える。

「ありがとう。ミトリがいてくれて嬉しかった。点滴も自分じゃ外せなかったから」

「‥‥うん、私もそう言ってくれて良かった‥‥」

 伸ばした手に手を重ねて、微笑み返してくれた。目に手を当ててくれた時にも感じた、俺の世話をしてくれた綺麗な手だった。

「ごめんなさい、私。あなたに謝らないといけない事があるんです」

 手を繋いだままのミトリが視線を下に向けながら口にする。

「私、我慢出来なくて‥‥」

 ネガイの顔をちらりと見ながら。

「ネガイに会いに行ったのか。それでいい、俺だって夜中に電話を掛けた。謝らないで」

「うん‥‥ありがとうございます‥‥」

 背後のネガイに視線を向けずとも、笑んでいるのだとミトリは気付いている。二人だけがわかる秘密の視線、通わさずとも伝え合える空気を発したと、そう感じ取った。呼吸を整えられたミトリへ更に疑問を向ける。

「いつから?」

「あのカエルを捕まえてサイナさんの車で帰った時、あなたに任せるばかりじゃ、ダメって思って。‥‥最初はネガイからあなたがここに帰ってくるからベットや医療の準備をって言われたんだけど‥‥」

「大丈夫、言っていいですよ」

 やはり視線を向けずとも許可を下したネガイに、ミトリが応えてくれる。

「あなたはこれから、危険な目に遭う。サイナさんがこれから病院に戻って待機するから戻った時の為に準備をしていてって言われたんだけど‥‥。無理を言って私も同乗させてもらったんです。サイナさんには迷惑かけちゃいました」

「迷惑なんて。私は運転にかかりきりだったので、ミトリさんにヒジリさんを任せられて有り難いと思っていましたよ♪」

「俺も、あのままじゃずっと滑ってたよ。ミトリが捕まえていてくれたから特に怪我もなく辿り着けたんだ」

 繋いでいる手に少し力を入れる。ミトリはそれに目を見開いて驚いた様子だったが、目を細めた笑顔で返してくれる。そしてようやくと言った感じに自身の制服に手を入れる。

「これ、返しておきますね。中の確認をして下さい。開けてませんがもしもがあるので」

 内ポケットからあのポータブルセーフを手渡される。片手で受け取るが、両手じゃないと確認できないのでミトリと手を離さなければ―――ミトリを見るが、手を離してくれない。

「どうしました?離していいんですよ?」

「なら二人で開けよう。コードは知ってるだろう?」

 この反撃は予想していなかったのか、顔を赤くして黙ってしまった。

「いつまで手を握っているんですか?」

 ネガイからの声で急いで手を離す。ミトリの様子が可愛いくてしばらく見てしまっていた――――急いでコードを入力してポータブルセーフを開ける。驚く事はない。あの時と変わらない病院で買ったハンカチが入っているだけだった。

「それは?」

 マトイが聞いてくる。ネガイも興味があるようで手にあるハンカチを覗く。

「サイナ」

「は〜い♪こちらの手袋をお使い下さい。ではこちらケースで〜す♪」

 まだ二人に見えないように手袋をした手で隠しながら青い宝石をケースの中に入れて、ミトリに渡す。ミトリは自慢するかのように、ケースから宝石を飛び出させネガイとマトイに向ける。いい反応だ。やはり二人も目を奪われた。

「すごい‥‥こんな宝石どこで‥‥」

 ネガイは宝石を見てこれ以上声が出ないようだった。マトイは一瞬触れようとしたが、我に返って急いで手をカップに移動させる。

「恩人からな。最初はサイナ宛だったんだけど」

 サイナはそう聞いてあの時みたいにブンブンと首を振る。

「鑑定には出さない方がいいですね。誰かに知られたら他のオーダーを雇ってでもあなたから奪いにきますよ」

「鑑定どころか、こんな輝き。誰も値をつけられない‥‥見た瞬間、門前払いになるかも‥‥。今後は誰にも見せないように」

 二人は目を奪われてはいるが、それぞれの警告をしてくる。言われてみればその通りだ、少し自慢をしたくなっていた。

「それもそうだな。サイナ、工房に金庫あっただろう?預かってくれ」

「前にも言いましたけど、そんなもの預かれません!」

「ミトリ、また」

「もう無理です!私だってどうすればいいか、常に持ち歩いてたのに!」

「ネガイ」

「私は未だに場合によっては捕まる立場です。そんな物を持っていては没収されます」

「マトイは?」

「私は法務科の一員です。これを持っているなんて知られて、私個人を狙われたら法務科の仕事に差し障ります」

 誰も預からないらしい。自分だっていつ何があるかわからないのだ、出来ればこの一連に関係ない人へと思ったが。ここにいる人間は全て関わっている人間だった。

 それも俺の為に、だったらこれを押し付ける訳にはいかない。

「ならやっぱり俺が持っておくか。サイナ、ケース返しておくよ」

「いいえ、それは差し上げます。寧ろそれ専用のケースを近く用意させて頂きます」

 と、渡そうとしたケースを押し戻された。随分サービスが良いと思ったが、これも商人としての譲れない仁義であったらしい。好意に甘えてケースを受け取り、再度コードを入力してポータブルセーフを開けて中にハンカチで包んで入れる。

「よろしく頼む。でだ、どこまで話した?」

「えーと、私がサイナさんと一緒あなたを助けた理由。だから次は」

「私ですね」

 マトイがカップを置いて、静かに告げる。

「いいのか?法務科には法務科のルールがあるんだろう?」

「覚えていましたか。やはりあなたは法務科に必要な人材です」

 朗らかに、同時に恍惚の表情となったマトイが頬に手を当てる。白い八重歯を覗かせるこの仕草に強者の風格を感じさせる。

「久しぶりに見たな、その仕草」

「法務科に必要のようですが、彼は私の契約者です。勝手に連れて行かないように」

 ネガイが足を組んで当然と言わんばかりの態度でマトイに釘を刺した。ネガイ以外の俺を含む4人が無言で笑い合う。

「ではまず。私が今回、法務科から指令された仕事を説明します」

 実験室の空気がまた変わった。

 それだけオーダーにとって法務科という名前は、触れてはならない存在だった。ゴールデンウィーク中でまだ若干寒い中、気温としてはもう徐々に夏に近づく気候。それなのに、ここを飛行機が飛ぶ高度の刺すような空気を感じる。ただひとり、この常人を排除する空気―――これを日常として受け入れているマトイが口を開いた。

「ヒジリ、ネガイ、以下両名を、オーダー本部並びに警察関係者等の行政機関から守り、決して引き渡さない。これを遵守せよ」

 最初に彼女が何を言ったのかが、わからなかった。

「俺とネガイを‥‥。だってマトイ、あの時」

「かつ、これを外部のあらゆる人間に決して口外しない事。あくまで法務科はオーダー本部からの指示に従った存在である、としろ。これが私があなたとネガイを引き渡すと言った理由です」

 これが法務科、これがオーダー本部や日本中全ての組織や行政に特権的な捜査を許された唯一無二の存在。確かにこれでは法務科は常に人材不足になる、あらゆる人間とは、本当にあらゆる人間なのだろう。

「なら俺は‥‥」

 俺が叫んだ理由の―――マトイが言った引き渡すという話は、法務科からの指示に従った嘘でしかなかった。マトイはずっと味方だったのに傷付けてしまった。まただ。また心臓と肺が締め付けられる。肋骨と胸骨に耐える為、マットレスを握り締めているとマトイから、

「受け入れて、それがあなたの行いの結果。目に操られて、法務科の私からの嘘に騙されたとしても、その苦しみはあなたを苛む」

「‥‥逃げない。呑み込む―――そう決めた」

 視線を返す。渡した視線をマトイは大きく頷いて見届けてくれた。

「法務科にはある目的がありました。それはオーダー本部に巣食ったネズミを一挙に捕まえる。それの尻尾を掴んだのはあなた」

「元々はマトイが用意した依頼だ。なら功績は法務科のマトイにある」

「ありがとう‥‥オーダー本部に巣食ったネズミとは、彼が追い出した不良達に武器を売っていた元政治家と、その声に従った元警察関係者や元自衛隊関係者。全て昔の権力に付き従った犯罪者達。一度解体されながらも再配備された被疑者達の事です」

「そいつらは、ネガイとマトイじゃなくて、俺に用があったみたいだな」

 ならば、あそこまで追いかけ回した理由も幾らかはわかる。

 あのカエルは俺からの証言でネガイとマトイを逮捕。それによりネガイはどこかの飼い主に渡される。マトイは法務科の不祥事として弱みになる。その後、俺だったものはオーダーに渡される。カエルはオーダーと警察のどちらでもあったので、飼い主が逮捕されようが飼い主が復権しようがどちらでも構わない。

 オーダーは飼い主さえ逮捕でき、内のネズミとまたそれの飼い主たる元大臣を捕まえられればそれで良かった―――まさかあの法務科が最後まで味方とは。

「オーダーや他の行政組織にも法務科の入る余地がまだまだあるようで、とても喜ばしい」

 本当に心の底から嬉しいようで、マトイはまたも恍惚の表情となっていた。

「では。次はネガイ、お願いします」

「‥‥はい」

 マトイからの指名でネガイがハーブティーで口元を湿らせてから声を出した。

「ならあなたの目についてを、もうミトリもサイナにも‥‥話すべき事は話しています」

「なら、遠慮無く言ってくれ」

「もうあなたを殺した理由は聞きましたね?」

「目が完成したら俺は消される。もし二人を取り込んだ場合、目は俺と一緒に破壊される。どちらにしても、俺は殺される」

 ミトリが自分の手で自分の腕を折りそうなほど、強く掴んでいる。

「それを阻止する方法を探す為に俺を殺した、正確には俺を眠らせて完成を遅らせる為に」

「————その通りです。あなたは目に造り出された擬似人格に近い。目が完成するまで目自身を守る為に用意された存在」

「あなたの身体や血は今はあなたの制御下にあります。だけど、それはもうすぐ目に返却する事になる」

「時間は無いって事か。助かるよ、ミトリ」

 茶を飲もうとしたが中は空だった。そこにミトリがポットで継ぎ足してくれる。

「今更、もう疑わない。面倒な事も言わない、だから答えてくれ。俺は、どうなる?」

 助かるのか?それとも目に消されるのか?目と崩壊の運命を共にするのか?二人には聞かなければならない。—————ここまで帰って来た意味がなくなる。

「助かるかどうかはあなたにかかっています」

 ネガイからの言葉は簡素なものだった。

「これで2回目です。あなたに聞きます、あなたは目をどうしたいですか?眠らせますか?支配しますか?」

「支配する」

 俺からも簡潔な言葉をネガイに贈る。聞き届けたマトイがふわりと笑った。

「聞くまでもなかったようですね。なら私も面倒な事は言いません、結論を言います。あなたは助かる」

 サイナが何かのケースを持ち出した。それを机の上に置いて開けると、血が入った注射器?が二つある。

「これは私の工房に置いてあった小瓶に入っていた血で〜す♪驚きましたよ、朝一番でこれを注射器に入れて運んでくれと、お二人から言われるんですもん、これもあなたのお知り合いですか?」

「間違いなく。ならそれと一緒に宝石かどうか知らないが何かあっただろう?それは受け取っておけよ」

「あははは〜‥‥。バレましたか‥‥」

 サイナが苦笑いをしながらマトイとネガイに注射器をそれぞれ渡す。単純だなと思ってしまう、MとNのラベルだった。

「それですか‥‥」

 ミトリが訳知り顔でネガイに聞く。

「はい、これです。これはある人‥‥、人?ええ‥‥、人でした」

 ネガイが注射器を見つめて何かを考えている。マトイも同じ疑問に行き着いたらしく、同じように首を捻っている。

「とある方からの贈り物です。これを、あなたの目に刺します」

「‥‥痛そうだな」

「これでも1番細い器具なんですよ!それに既に殺菌もしてますから、今刺しても大丈夫です!」

 それは自慢なのか?痛そうだと思ったから忌避したというのに―――そんなに俺が痛がっている所を見たいのだろうか。

「今更やだとか言わないで下さいね。どちらにしても刺していましたが」

「もしあなたが眠らせると言ったらここにいる全員で取り押さえていました。良かった‥‥そんな事をしないで済みました」

 ミトリとネガイが、良かったね、そうだね、をしている。なるほど、類は友を呼ぶとは事実らしい。

「これの中身は私とネガイ、それぞれの血と‥‥あの方の宝石が含まれています。大丈夫、見た目通りのただの液体です」

「‥‥聞いていいか?なんでこれで俺は助かるんだ」

 確実にあの方の言っていた贈り物だと推察される。

「あなたの目は天然の結晶と言えます。それに私達の血と他の宝石である異物を入れる、濁らせる形で目を人工的に完成させます。あなたの目は純粋な存在だからこそ異物を許さない、異物には耐えられない。その結果、抜け殻だけ残して目の意識は消えます。残った抜け殻を私達の血で完成させてあなたの意識を外から注ぎます」

「それだと俺は壊れるんじゃないか?」

「いいえ、あなたは目と同化します。外も内もあなたですから、自然と型を自分で整えていきます」

「何故私達の血なのか、というとその目は私達を取り込む事を望んでいました、でも、私達のどちらかで迷った結果に双方とも受け入れませんでした。なら望み通り二人とも入れれば、目は拒否反応を起こさないだろうと―――言われて?」

「‥‥不思議です。私も考えれば考える程、消えていく」

 これもあの方が言っていた通りだった。そう何度も出来ないから、弊害が起こると。そしてあの方の目的もわかった。

 あの方は宝石を見たがっていた。

 であれば、この目は―――見る価値がある存在になると踏んでいたのかもしれない。謝ったのはそれも加味しての事だったのだろう、あの方は『目』の完成を急がせるあまり俺とネガイとマトイを傷付けた、だから謝った。

「私達二人の理由は、両目の力が違う為。そもそも私とマトイの両方を求めたのは目の意見の不一致と言えましたから」

「仲が悪かったんだな、この目達は。それも今日までだ。なら早速頼むよ」

 横になろうとしたらネガイが首を横に振る。

「まだ出来ません。明日にならなければ」

「またそれか‥‥」

 明日、明日となんだかよくわからないが、目の前のご馳走を取り上げられた気分になる。あの時の仮面の方の気持ちはこうだったのだろうか。今度謝らないと―――いや、あの方も起きたら、明日と言っていた。ならば構わない。

 がっかりしながら背中を向けて不貞寝をしようとしたら、ネガイが近づいてきた。目を両手で温めてくる—―――懐かしい、三日に一度どころかしばらく毎日して貰っていた。

「注射はできませんが、‥‥これで我慢して下さい」

「‥‥もっと強く。でないと我慢できない」

「ならこれぐらいですか?」

 ネガイの手の温度が不服だった為、わがままを言う。わがままに応えてくれた手は欲しい暖かさになってくれた。

「‥‥このまま寝たい」

「人前ですよ。マトイもミトリもサイナも、皆んな見てますよ」

 楽しげに言ってくる。意外と見せつけるのが好きで楽しいのかもしれない。

「このまま寝かせてくれないと我慢出来なーい。マトイ、マトイにもして欲しい。でないと眠れなーい」

 この言葉も後で思い出せば、呼吸を忘れる程苦しい記憶になるのだろう。けれど、二人ともこの部屋にいて自分は横になっている。だったら頼む事は一つしかない。

「はいはい、素直になりましたね」

 マトイは車椅子を動かして、ネガイと一緒に俺の目を片手同士で温めてくれる。

「‥‥これなら我慢出来る、かな?このまま寝かせてくれれば」

「大丈夫、眠るまで待っていますよ」

「ゆっくり寝て下さい。私もしばらくはここにいますから」

 ネガイとマトイの手に満足した自分は徐々に眠りに落ちていく。

 本当はこんな贅沢な時間を長く感じていたいが―――こんな贅沢な眠り方ができると思うと、更に眠気が襲ってくる。

「私の方が反応がいいですね。もう寝る寸前‥‥私の方が経験がありますから」

「そうかもしれませんね、今はそれでいいです。すぐに彼の好みを私の体温にしてみせます」

 二人が何か言っているが、どうでもいい。布団の誰かに被らされた。

「私も参加したい‥‥」

「これただのハーブティーですよね?‥‥何か違う物を買ってきてしまったのかも‥‥?」

 恐らくはミトリとサイナだ。‥‥そうか、ここには何かあっても俺が寝たままで、あらゆる存在を撃退できる戦力が揃っている。

 ここまで眠いのは、そういう環境とネガイとマトイのせいだ‥‥。この甘えたい気分も、きっと皆んなのお陰だ。



「あ、起きましたか?よく眠れましたか?」

 誰かの声がする。

「手、欲しい‥‥」

 まだ眠い。布団が暖かい。

 誰かはわからないが、ここにいるなら身内の誰かだ。

「え?私のですか?えーと、いいのかな?」

 なかなか目に手が置かれない。

 煮え切らないそれが我慢出来なくなってきた、寝起きだからか自制が出来ない。

「早く、でないと。‥‥撃つ」

「は、はい!これでいいですか!?確かこうでしたよね?」

 目に手が置かれ満足だった。ネガイとマトイ、ミトリに比べて少しだけ傷がある。でも、柔らかい。しばらく手を目蓋で楽しんでいたら、手が普段よりも口元にあるせいで、黒い感情が生まれた――――噛みたい。

「え、はひ!そんな食べても‥‥、しゃ、しゃぶらないで‥‥!噛まないで下さい‥‥!ど、どうしたら‥‥!?」

 柔らかい指が頬の内側に触れる。暖かい、このまま噛みちぎってしばらくは口の中で転がしたい。

「す、吸いたいんですか?‥‥噛まれるよりは‥‥。すごい音ですね‥‥」

 しばらく指を好きに食べて満足した。それに口を動かして頭が冴えてきた。

「抱っこ‥‥」

 眠りながら両手を上に向けてあげる。

「だ、抱っこ!?、そのミトリさんの方が、得意かと。わ、わかりました!指を噛まないで‥‥!」

 誰かは目から手を離して、抱き締めて起き上がらせてくれて―――すごい豊満だ。ネガイやマトイ以上だと、未だ眠りの世界に半身を晒していながらもわかった。

「えっと、次はどうすれば‥‥?」

「寝る‥‥」

 もう一度寝る。この身体に甘えながら眠れれば、どれだけ気持ちが良いだろうか。

「え?ちょ、ちょっと!‥‥寝ないでくださーい!起きて!起きて下さい!」

「うん‥‥、うるさい‥‥。‥‥寝る」

「ま、ま、待って!きゃあ‥‥、」

 誰かを抱えてままもう一度ベットに寝転ぶ。どうして二度寝はこうも最高なのだろうか。しかもここは救護棟にあるネガイの実験室だ。こんなに安全な場所はそうそう無い。

「ううう、起きて‥‥下さい‥‥。見つかったら、‥‥私、殺されてしまいます‥‥」

「殺される?」

 誰にだ?ここにはネガイとマトイ、ミトリがいる。しかもシズクのヘッドセットがある。しかも今は重武装科と制圧科が中にいる、これ以上厳戒警備は今のオーダーには無いだろう―――この腕の中には、誰がいる?

「誰だ‥‥?」

 目を少し開ける。ようやく自分がしていたことを頭で理解した―――ネガイじゃない!マトイでもない!ミトリでも!

「サイナ‥‥?」

「あ、はは‥‥。おはようございます‥‥、」

「わ、悪い!すぐに!」

 飛び起きて離れようとしたが、ベットから落ちて頭を打った。痛みで転げ回っていたら、サイナが急いで俺の頭と床に膝を入れてくれる。サイナのような体格の良い女の子にしてもらうと、こうも痛みが引くのかと思ったが未だにズキズキする。

「だ、大丈夫ですか!?すごい音がしましたよ!」

 サイナの足と手に頭を受け止めてもらい、ようやく目を開けられた。

「‥‥大丈夫、じゃないかも‥‥。悪い、ベットに戻るから‥‥」

 立ち上がってベットに行こうとしたが、未だに寝ぼけている上、頭が痛くてサイナに手伝って貰わないと碌に歩けなかった。

「寝ていて下さい。今、冷却シートを」

 手を借りベットに戻った俺の頭を押さえ、サイナは片手で旅行鞄を引きずる音をさせる。

「かなり冷たいですが、我慢を」

 サイナは俺の頭に冷却シートを押し付けてくるが。想像を超える冷たさで、目が一気に覚めた。患部ごと凍らせる気だろうか。

「‥‥サイナ、これすごい効くな‥‥。なんだ?これ‥‥」

「これは長持ちはしませんが、一瞬で氷点下に届く物です。元々は赤熱した銃火器やエンジンの為の物ですが。少し強すぎましたか?」

「‥‥いいや、このままで。冷たくて気持ちいい‥‥」

 さっきまで火でも付いてのかと思った患部から熱が溶けるように抜けていく。呼吸が楽になってきた。

「大丈夫ですか?驚きの連続でしたよ‥‥、起きてても寝ぼけててもあなたは忙しいですね♪」

「‥‥起きてても寝てても、サイナには助けてもらってばっかりだ‥‥」

「いいえ、しっかりお代は頂けてますし。私も毎日が楽しいです♪少しでいいので上げれますか?」

 ベットに上がったサイナが、先ほどと同じように膝枕をして患部である頭の頂点、少し後ろを冷やしてくる。

「‥‥またして貰ったな。いいのか?」

「将来は私と一緒に仕事をするのも良いって言ってくれたでしょう?将来の相棒には恩を売っておかなければ♪」

「覚えててたのか‥‥忘れていいぞ。俺は、結局何にも出来ないのに‥‥」

「あなたも覚えてましたか‥‥」

 サイナが俺の顔を撫で、鼻を掴んでくる。

「実は‥‥私。まだあなたに言って無い事があるんです」

「はんだ?」

 鼻を掴まれたまま、サイナの顔を見上げるが。胸が大きくて顔が見えない。

「どこ見てるんですか?お代として鼻、捥いじゃいますよ♪」

「痛った‥‥」

 引っ張っていた鼻を勢いよく強く離されて、鼻を抑えてしまう。

「マトイさんから依頼の話を受けた時、‥‥実は断ろうと思っていたんです」

 顔を撫でて、頭を押さえてくる。

「‥‥普通だろ。俺だって」

「いいえ、障害物が大きいからなんて理由じゃないです。私、あなたを法務科に誘っているマトイさんが苦手だったんです。‥‥嫌いって言ってもいい気持ちの時もありました」

「‥‥そうか‥‥」

「今はいい友人ですよ♪いいお客様でもありますし。だからそんな顔しないで、これも全部もうマトイさんに言いましたから――――マトイさんからも、同じ事を言われました。ヒジリさんの将来を私とのフリーなんかで潰す訳にはいかなかったって」

 サイナが自分の胸を越えて顔を覗いてくる。

「サイナもマトイも怖いもの知らずだな。‥‥俺を殺した犯人に私はあなたが嫌いって言ったのか。サイナは、どう思った‥‥マトイとネガイが俺を殺したって聞いて」

「‥‥平気ではありませんでした。けど、予想はしてました、私があの黒い短刀を用意しましたから。でも、まさかネガイさんまで関わっているなんて、思っていませんでした。‥‥これには私も、どうするべきか、わからなくなってました」

「‥‥ふたりを嫌うなとは言わない。でもふたりとも、俺の為にしてくれたんだ‥‥」

 サイナは金の為に働いた、と言っていた。俺と同じだった、俺も金の為という健全な関係があったからマトイからの仕事を受けた。

 オーダーが誰かの為に動くには理由がいる。それが金なら、これ以上簡単で便利な繋がりは無い。

「わかってますよ、ネガイさんもマトイさんも、全部あなたの為にここまで用意した。‥‥私にも声をかけて謝ってきてくれました。だからもう嫌ってなんかないんです。私もおふたりと同じでしたから」

 顔を撫でていたサイナの腕を握って胸に乗せる。

「ふふ、面倒くさい話はここまでです♪」

 サイナが胸で顔を潰してきた――サイナの香りに包まれた球体は抗い難いふくよかさがあり、それと同時に気が付いた。空気を通らせる隙間がまるでない。

「実はなんですが♪私もマトイさんから法務科へ招待をされました。しかも法務科の仕事だけで所属はしなくて良いっていう便利な関係ですよ♪私もあなたが法務科から送られたお金を聞いて入りたいなぁーと思っていたんです♪どうしました、もごもご言って?」

 サイナが手を握ったまま離してくれない―――しかも、同い年の少女の握力ではない。胸に当てられた手を動かすことが一切出来ず、片腕でサイナの胸を退かそうにも。

「あん♪やっぱり握りたかったんですね~♪痛っ‥‥ふふ、冗談で~す。本気にしちゃいました?また騙されてしまいましたね~」

 という演技か本気かわからない戯言に、抵抗する気が失せてしまう。

「どうせ話せないのでそのまま聞いてて下さい♪もしあなたが法務科に所属したら私はあなたの相棒として雇ってくれると言ってくれました!な・の・で♪どこまでも一緒に居れますよ、職場恋愛って良いと思いません?相棒兼恋人っていい感じですよね♪」

「‥‥」

「あ、あれ?よっと」

 ようやく息ができた。

 サイナの匂いが鼻に充満して、サイナを吸ってるみたいだった―――

「俺と相棒になる前に、俺を殺す気か!?」

 手から奪ったシートを頭に乗せて、上半身だけで起き上がる。

「まだ寝ていた方がいいですよ♪脳震盪でも起こしてたら大変ですから」

「俺を窒息させてた奴が言う言葉とは思えないぞ!?」

 振り向いて文句を言ってやろうとしたが、言えなかった。

 今度は口だけを塞がれた。そのまま押し倒される。

「あなたはどっちが好きですか?」

 顔を真っ赤にさせて言ってくる。慣れていないという事が表情から見て取れた―――握ってしまった片方を抑えて心臓が飛び出さないように、耐えていた。

「倒す方でしたか‥‥」

 サイナを抱きしめてベットで転がり、今度は上になる。

 上から見ると胸が呼吸に合わせて上下するのがわかる。だけど、今サイナの口元しか興味が持てない。ネガイやマトイよりも、赤くて、血のようで。

「サイナ‥‥!」

 無理矢理奪う。さっきサイナもしてきた事だ、だから容赦しない。ただ、サイナはそれを見越していたらしく完全に抱き締められホールドされた。

 動けない、ならばと、そのまま続ける。

 サイナの胸が邪魔をしてくる。だからサイナの胸を潰す気で口を求める。

「終わりですか?私はまだまだ出来ますよ‥‥♪」

 声が震えているが、抱き締めている腕は離さない。

「俺もまだまだ出来る‥‥もうサイナを離す気になんてないからな‥‥」

「目がすごい‥‥。もっと、溺れて‥‥」

 これはサイナの作戦だったのだろうか。サイナに溺れて、サイナを求めて縋っている。もうサイナ以外何も目に入らない。そう思っていたが、耳は違った、後ろの足音が聞こえてくる。また呆れられてはいけないとサイナに告げる。

「サイナそろそろ――――」

「ん?続けますよ?」

「だから――――」

「もっとしませんか?」

 何か言う度にサイナが口を塞いでくる。

「あははは♪顔が強張ってますよ~困っちゃって下さ〜い♪」

 サイナは尚も俺を抱き締めて口を奪ってきた。もう止まらなかった。誰よりも豊満で誰よりも心地いい、全てを受け入れてくれるサイナの口と身体にもがいてしまった。

 扉が完全に開かれた時、三人は―――ふたりは溜息、ひとりは短い悲鳴だった。

「‥‥チッ」

「今日で何回目ですかね?」

「—―――前みたいにベルトが必要ですね」

 3人は夕食を買って帰ってきたらしい。俺をひとりにする訳にはいかないと、サイナが残っていてくれた。

 そんな3人の視線を受けたサイナは俺の頬を叩き優雅に退かし、優雅にお茶を入れ始める――――その背中には自信が見えた。ここの3人を全員相手にしても全く怯まずに応戦出来る、そんな覚悟が。随分と恐ろしい奴を相棒にしたらしい。

「外で夕食でも取ってきて下さい。一人で」

「少し私達で話し合う事があります」

「私も行きませんよ。勢いだけでは嫌なので」

「どうぞ、ごゆっくり〜♪」

 逃げるように実験室から逃げる。みんながいつまであそこにいるか知らないが、正直しばらく顔を合わす事が出来ないであろう。

 夕食を食べる為にそれぞれの科がやっていると言う炊き出しに行く事にした。



「学祭か?」

 校門の最前線は未だに厳戒態勢で隙の一つも見えないが、一歩校舎に戻ると中はお祭り騒ぎだった。校庭に戻ると更に変わる。

 調達科と装備科と整備科の三科を中心に多くの科、普段あまり表の出て来ない、出て来れない科がテントを出して、炊き出しや倉庫にほったらかしにしてあった品の売買、校門からの通信を元に防衛の新しい図式や、それぞれ別の科との連携を考えていた。

 もう空は暗くなっている。というか完全に夜だった。

「おう、まだ前線に行けないのか?」

「いいや、さっきまで前線だったよ。もう何も無かったけどね‥‥」

 襲撃科の炊き出しテントには、野生的な何も考えずにただ焼いただけの鳥の足が売っていた。飲食スペースに襲撃科の友人が座っていた為、前に座る。香辛料の類でも振りかければいいものを、本当にただただ網の上で焼いてるだけだった。

「これも調達科からか?」

「‥‥これは教導の先生方がどこからか用意して、それを焼けって言ってきたから備えの三科じゃないんだ‥‥」

 都市伝説の教導武器庫にまた新しい伝説が加わった。武器弾薬だけではなく食料もか、いよいよここで籠城が出来る。

「三年の先輩方は?」

 三年生はもうほぼ学校に来ない。それぞれ勉強しているか、現地で仕事をしている。もしくはマトイの様に一般オーダーの振りをして既にどこかに所属しているか。噂では、中には完全に消えて影の住人になる、そんな人達がいると聞いて出てきたが、見つからない。

「それが僕も一目しか見れなくて、どうやら昨日の時点で大半が帰ったみたい」

「そうか‥‥」

 少し前の入学式で後ろ姿だけ見たが、あれが人間の纏える空気なのか?と思ってしまった‥‥。怖いもの見たさと言われればそれまでだが、後2年ではあんな空気になれる気がしない。だからもう一度見ておきたかったが、無理そうだ。

「‥‥知らないかもだけど、君、結構有名人だよ。ほら」

 声を抑えて視線だけで知らせてくる。どうせ校内なら因縁もつけられないだろうと、そちらを見ると。

「2年の、情報科?」

「君が昨日ここに来るまでに見せた、あの射撃。あれが出回ってるみたい、僕も見たんだけどね」

 そう言ってスマホを見せてきた。それは俺がサイナのモーターホームから飛び出る光景とその一連だった。

「‥‥誰が見せてる?」

「恐らくは情報科。ローター音が聞こえるからドローンからの撮影だと判断出来る」

 確かにローター音とそれのモーター音が聞こえて、小刻みに揺れている。ホバリングが下手だ、一年か?シズクだったらこんな失敗はしない。それに俺に断りもなしでこれを売っているとしたら、少しオーダーとして話をつけて来なければ。

「ちょっと行って来る」

「問題起こさないでよ。君は主役なんだから」

 別に見せ物になって気分が悪い訳じゃない。ただ、世話になったシズクに話があるついでだった。

                 ・

「シズク、今暇か?」

 ヘッドホンをつけた茶髪に話しかける。聞こえないかと思ったが――――

「ん?起きたの?」

「‥‥なんで知ってる?」

「さっき3人が来たから」

 向かったテントは校門近くの情報科のテントだった。

 二年の先輩は部外者である俺を一瞬見ただけで、一年の指導に戻る。

 テント内は長いパイプの机に囲まれ、情報科の機材の通信機器と通信傍受機が何段も積み重ねてあり、シズクは機器と機器の間のモニターについていた。

「世話になった。あと悪いけど、あのヘッドセットもう1日借りる事になりそう。まだソナーを使う必要がある、それにシズクの手も」

「ああ、そう。ならもう1日貸してあげる。それとあのお金ありがとう、助かったよ。今度ちゃんと返すから」

「1日遅れてもいいぞ」

 そう言って近くの椅子に座る。シズクに買ってきた鳥の足、イメージ払拭のつもりだろうか捜査科が出していた人形焼きのような物を渡す。

「ありがとう。頂くね」

 シズクは人形焼きを一個、口に入れる。ヘッドホンは外して首にかけたままでモニターに何か打ち込んでいる。

 どこかのサイトに行き着いたみたいで、見覚えのあるサムネイルとなった。

「で、これを見にきたの?」

 モニターに映し出された映像はさっきスマホで見させて貰ったやつと一緒だった。

「‥‥誰だ?表に出してる奴」

「現代は情報化社会だよ。誰が最初に出した、なんてもう些細な問題、‥‥それに常にここには情報科どころか別の科もいた。撮影した機材は情報科で撮影したのも情報科だけど、スマホ一つで出来ることだからね。一応サイトに削除依頼はしたけど、もうダウンロードした当人達の善意で消してもらうと祈るしかないね」

「‥‥そうか‥‥」

 なんの感慨も湧かないが、考えてしまった事があった。意味もないのに。

「‥‥目立つの、ダメだったもんね」

 シズクが打ち込む手を止めて、自分の膝の上に置いた。

「別にシズクに怒ってる訳じゃない。‥‥冷めるぞ」

「うん‥‥」

 俺が焼いた鳥を食べろと急かすとシズクは意外とワイルドに食べ始める。

「焼いただけって感じ。塩と胡椒だけだね、蜂蜜とか塗ればいいのに」

「これは襲撃科の料理だ。そんな事、思いつかないだろうな」

 椅子の背もたれに寄っかかって背中をぎしぎし言わせ、テントの天井に顔を向けて目を瞑る。ここで何か収穫を、いや、そもそも別に問題や不都合がある訳じゃない。これが世に出てもどうせ1週間もあれば皆忘れるだろう。

 連絡が来ても無視すれば良い。

「‥‥帰ってる?」

「聞くな」

「‥‥ごめん」

 ここに押し込められた、捨てられた。少しばかりの金を持たされて。

「怒ってる、よね‥‥」

「シズクに怒ってもどうしよもないだろう。‥‥悪い、気分悪くさせて」

 目を開けて視線をシズクに、机の上にある買ってきた人形焼きを摘んで食べる。

「‥‥そっちはどうだ‥‥帰ってるか?」

「うん、定期的に帰ってる‥‥。君の家も‥‥ごめん‥‥」

「いや、いいんだ。ありがとうよ、見ててくれて―――シズク、」

 俺が今度こそ怒ったと思ったのか、シズクは肩を震わせている。

 怒る為にきた訳じゃないのに。

 またやってしまった。

「前からそうだったけど、器用じゃないんだ。‥‥家族は大切にしろ。またな」

 立ち上がってシズクに笑顔を見せる。

 きっと不気味な笑顔だっただろう、自分でもわかる、化け物が全力の笑顔を作っているんだ。これもまた、やってしまった。

 俺はまた化け物に戻った。

「うん、今日、明日までここに‥‥!待って、治療科から連絡‥‥!」

 周りの情報科の動きが変わった。シズクはさっき首にかけたヘッドホンを片耳に押し当てる。何かがモニターに映し出された。

「どこだ‥‥?」

 モニターを操作して、通信が届いた施設も表示される。治療科の本拠。

「救護棟、入院階、一人男が逃げた」

 聞いた瞬間、救護棟に走った。

 さっきまでの祭りのムードは消え、一年と二年関係なく全員がオーダーの顔つきに戻っていた――――情報科から一気に通信が届いたにしては早い程に、前庭はもちろん、校舎内から校庭まで既に全員が完全武装の完全兵装に戻っていた。

「ヒジリ!乗れ!」

 校庭に戻ると、校庭の脇の道に整備科の奴がホーネットを用意していた。

 何に使う為に用意していたのか問いただしたいが、そんな時間は無い。

「貸し一つだ!何か考えとけ!」

 返事も聞かないでのノーヘルで飛び乗って走る。俺が走っているのは校庭脇のアスファルト。ここは車両等が走ってる道、バイク一つ余裕で走れた。

 そのうえ周りの奴らが自主的に退いてくれる、全くブレーキをかけない俺にビビっている逃げている気もしたが―――着いた時、ホーネットを倒して転がりながら救護棟玄関に走る。

 救護棟には重武装科と制圧科、襲撃科の攻めの3科が既についていた。

「中はどうなってる!?」

 救護棟を見上げて、近くの制圧科に聞くと。

「大丈夫ですよ」

 攻三科に囲まれるように四人がいた。マトイはしっかりと車椅子に座っている。

「‥‥良かった。無事か‥‥」

「‥‥はい。私達は‥‥」

 ネガイの返事が弱々しく、下を向いてしまった。3人共目を合わせてこない。

「とりあえずは休もう。サイナ、車を―――」

「聞いて下さい、時間がありません。‥‥注射器が盗まれました」

 生きた心地がしなかった。あの実験室に男が侵入したとわかったから。

「無事でよかった‥‥」

 ネガイが顔を上げて驚いた顔で俺を見つめてきた。狼狽えているネガイを抱きしめ、呼吸を整えさせる過程で周りからどよめく声が聞こえたが無視する。

 それよりもネガイや皆んなが無事な事以上に嬉しい事はなかった。そして決めた、入った奴を始末すると――――首でも取ってこよう。

「今どこに?始末してくる」

 ネガイから離れて腰の武装を確認しながら救護棟に向かおうとしたが、ネガイが腕を掴んでくる。

「もう逃げました。止めてあったセンチュリーに乗って」

「ごめん、迂闊だった‥‥。まさか生体認証で起動する車だったなんて」

 さっきの襲撃科の友人が謝ってきた。

 なんだ?幾らなんでも速すぎないか―――次はここの防衛任務だったのだろうか。

「緊急搬送の道か。—――行ってくる」

 改めて周りを見渡してサイナのモーターホームが確認する。急いでホーネットに戻ろうとしたが、違和感に気づく。四人以外、誰も救護棟から避難していなかった。

 周りも見渡しても、やはりいない。それどころか治療科の白衣、薄緑の病院着すら見当たらない。

 更に言えば、周りの三科が全く動いていない。爆発物でも仕掛けられている可能性を考えて爆発物解体チームや情報科と分析科が組んでいてもいい筈なのに、何もしていない。誰かがここに来るのを待っていた。そんな空気だ。

 もう一度ネガイを見つめる。本当に注射器を盗まれたのか?

「サイナ、‥‥税」

「はい!瓶の中には何も残って無いのであれ一本ずつしかありません!」

 最初無視しやがったから、ここで暴露しようと思ったが先手を打たれた。

 注射器は盗まれてない。

「250㏄のホーネットじゃセンチュリーには追いつけない。他の車両はどこだ?」

「あれですよ」

 ミトリに押されているマトイが指で教えてくれた。そこにあった物はカバーに隠されていたが、近くの制圧科がそれを外した—――震えた。カワサキNinjaZX-14R、確かにこれなら追いつけるだろうが。

「これ、まだ売って無いだろう‥‥」

「私は詳しく無いのでなんとも。それとそれは貸し出し品なので壊さないように」

 これも法務科の力だろうか。最近見たからわかる。このボディーはZX-14Rの最終モデルとして広告に載っていたが、これの発売日は―――

「ミトリ、悪いけど。危ない事してくる」

 サイナが投げてきたメットを受け取り、被る前にミトリに謝る。ミトリは、怒っていなかった。

「はい‥‥頑張って、待ってます‥‥」

 ミトリが泣きそうな顔で笑ってくれた。無事に帰るという選択しかなくなった。

「ネガイも待ってろ!帰ったら一晩付き合って貰うぞ!!」

 今度はどよめきなんかじゃ収まらない歓声が聞こえた。

 歓声をバックにネガイの返事を聞かないで飛び出した。

 過去にこの体が運ばれた道へ。


「遅いな。車すらまともに運転出来ないのか」

 カエルは、奴は未だにオーダー校から行政区への入り口にいた。俺達を足止めしようとした場所を走っている、このスペックは奴では役不足と感じてしまった。

 排気量1441ccの並列4気筒エンジンは全回転域で滑らかな力強さを持ち、このアルミモノコックフレームは暴力的な加速で知られたニンジャZX-12RのDNAを受け継いだもの―――だがZX-14Rは速さを極限まで追求した機体では無い。

 しかし、現在日本を走り回れるバイクの中でも、間違いなくコイツは、怪物と呼べる。

 そんな怪物から追いかけられて、生体認証があるとか言ってたセンチュリーも泣いているだろう。

 本当にそんな機能があるのならば。

 行政区はただの一本道じゃない、オーダー街からの外に出られる道がある。運転している奴はそこから警察庁にでも逃げ込むつもりだろう。だが、お前は逃がさない。お前を追っているのは、この怪物—―――そしてそれに乗っているのは、

「この化け物だ!!‥‥逃げてみろ!この俺から、この化け物からよ!?」

 ヘルメットが顔に食い込む、顔の歪みをフルメットが抑制してくる。

 ああ、だけど、ああ、そうだ。この程度では止まれない。この程度で四肢を止められる訳がない―――スピードメーターが振り切れている。後10秒足らずで追いつく。だが奴もそれに気づいたらしく、一気にスピードを上げる。

「いいぞ‥‥!そうだ!!もっとだ!俺に追いかけさせてみろ!!」

 メットの中が自分の笑い声が響く、鼓膜が裂ける、目が飛び出そうだ。こんな姿、もう誰にも見せられない――――化け物として、ようやく自分は世界に受け入れられた。

 一人で奴を追いかけている理由。きっと乗っているのはあのカエルだからだ。

 オーダー校は俺に価値があるから保護していた。単純だ、これ以上無いほど単純。それは法務科もだ。

 俺は武器横流しに関わっている行政組織内の犯罪者とそれの首謀者の尻尾を掴む仕事をした。それを法務科は逃がさなかった。

 あのカエルを引きずり出したのも俺だ、ならばオーダー校と法務科は俺にあいつをカエルを逮捕しろと、そう言っている。

 あのカエルは違法捜査や不法逮捕でオーダーに逮捕された、しかし、それはどこまで行っても司法取引が許される範囲、それは正義の行い情状酌量の余地がある、その情報には価値が言えてしまうからだ。当時は自分達の秩序の為に多くを犯した。

 それは今のオーダーと言えてしまうだろう。だが、どうでもいい―――。

「お前は、ネガイを!俺から奪おうとした!」

 許せない―――許せない許せない許せない許せない許せない許せない。

 噛みちぎって抉り出して引き摺り出して切り落とす。

 今夜、この満月の下に許される。

 今、法務科、オーダー校、オーダー本部、三つの秩序維持組織から許されている。

 今の秩序はこのオーダーだ、この化け物だ。俺はお前を逮捕する、不法侵入に誘拐未遂だ。覚悟しろ、俺からネガイを奪おうとした罰だ。化け物の住処に入り込むなら、それの対価を払わなさければならない。

「目が最後まで残っていると思うなよ!?食わせろ!!」

 フルスロットル―――心臓にはもう火を焚いた、薪もくべた、並列4気筒エンジンも火を噴くだろうか。それも一興かもしれない。

 もう化け物とカエルの距離はこの怪物三つ分しか無い、この距離では事故を起こさせてしまう、どうせなら壊してしまおうか?

 センチュリーが左右にぐらつく。

 もうすぐそこまで迫っている俺を見たな?見えているぞ‥‥お前が俺をバックミラーで見て脂汗をかいている姿を‥‥、目を合わせたな?この目に!?この化け物に!この魔眼に!?いいぞ!‥‥その顔、噛みごたえがありそうだ!

 逃げ惑え!ただの人間!!俺から、この化け物から逃げてみろ!!お前が作り上げた、このオーダーの化け物からよ!!

 カエルは行政区にあるオーダー街から脱出できる道に続く左カーブを信号を無視して信号に右扉をぶつけて、擦りながら逃げていく。

「止まれぇぇ!!」

 フルスピード中のバイクから左手を離す、そこでM66の357マグナム弾を2発、曲がりきれていないセンチュリーの後ろ左のタイヤに噛み付かせる。タイヤを撃たれてパンクしたセンチュリーは右に横滑りをして、回転しながら広い施設にに突っ込んでいく。

 俺も同時にそのまま追って行くが、中に入って気づいた。

「あの病院か‥‥」

 我に帰った俺は、ZX-14Rをマトイに言われた通り傷付けないで止まれた。

 センチュリーは中に用意してあったバスのような装甲車に真横に左扉でぶつかって止まっていた。

「‥‥運が良かったな。右から行ったら、死んでただろうよ」

 安否確認と早い事脱出させる為にバイクから降りてセンチュリーに駆け寄る。

「ガソリンは漏れてない。腐ってもセンチュリーか頑丈だな」

 左扉は大きくひしゃげてはいるが、車体フレーム自体はそこまで歪んでない。

「ひ、ひ、あ、ああああぁぁぁぁ!!!」

 中から人間とは思えない声がする。

「どこか打って苦しんでるのか?」

 けれど、きっと大丈夫。ここは病院—――けれど、あの先生が既に逮捕されていたのなら、ここにはいない。が、怪我人に対してなら看護師が面倒見てくれる。

 腰から杭を出して歪んで開かない扉に差し込む。

 そしてガリガリと音を立てて扉を破壊してこじ開ける。

「生きてるか?なら良いさ、でないと意味がない」

 良かったこれで死んでたら、俺は殺人犯としてオーダーから逮捕状を出されてた。本当にマトイが俺を逮捕しに来てた所だ。

「—―――っ!?」

 何を言っているのかわからない。カエルがおかしくなったのか?それとも俺が人の言葉を理解出来ていないのか?それよりもカエルがなかなか出てこない。

「爆発や炎上の可能性がない訳じゃないのに、仕方ない。実力行使だ。お前が悪いんだからな」

 腰から脇差しを抜いてシートベルトを切り、杭も脇差しと同じように握ってカエルの脇の下から入れて腕に引っ掛けて、一気に引っ張り出す。

「よっと、大丈夫か?きっと折れてないぞ?」

 カエルを背負い投げでもするように車から投げ出す。カエルは俺の背を超えてセンチュリーのタイヤ痕が残る病院の敷地内に転がり、また悲鳴を上げた。

 防犯の為、杭も脇差しも出したままでカエルに近づく。

「しっかりしとけよ。もうお前は眠れないぞ」

 何を言っても聞こえないらしい。どうにか聞き取れた単語は「化け物」という言葉だけだった。

「ここは病院だ。もし出るなら幽霊じゃないか?お前はこれからオーダー本部と法務科から取り調べを受ける。罪状が気になるなら自分で判断しろ、得意だろ?それとお前には黙秘権があって、自分の不利益になる事は言わないでいい。誰にでも権利はあるから」

「残念ながら、そこの彼には裁判は行えない」

 後ろから声が聞こえた。声で気付く、あの医者だ。

「なんだ、戻ってきてたんですか。また邪魔しますか?—――今忙しいので、後にしてくれ」

「そのようだが、せめてヘルメットだけでも取ってくれ。でなければ判別がつかない」

 言われて気付いた。そうだ、未だにフルのヘルメットを被ったままだった。通りで頭が重いと思った。カエルから目を離さないようにメットを外して脇に抱える―――――そこでカエルは気絶した。

「こんな絵に描いたように人って気絶するんですね」

「というか過呼吸による、酸素不足だ。急いでくれ」

 後ろから車輪がついた担架の音と幾人かの足音が聞こえる。だが俺の後ろで止まる。なんだ?と振り返ると、わかってしまった。

「帰ります。どうせ法務科には連絡済み、そうですね?」

「そうだ。だから早くそこから離れてくれないか?医者として患者になりうる人は守らなければならない」

 後ろの看護師や警備員、そして先生よりも若い研修医らしき男性達、先生も含めて—————俺に目を向けていた。決してカエルではない。

 この目にもう耐えられない。俺はもう化け物ではないのに、一度そうなって見てしまったからそうとしか見えないようだ。

「これでカエルを助けてただけですよ」

 杭を見せる、そして脇差しも、だが、先生は首を振る。

「君にとってはそうだろうな。だが、私からすれば、得体のしれない何かが鋭い爪で男性を襲っている、そう見えた————傷付いたかい?」

「あなたにどれだけ言われようが、所詮戯言ですよ。後は任せます―――これにどれだけ思い入れがあるか知りませんが、次は殺すので。次はわざと逃がさないように」

 軽くカエルに視線を送ってから一度メットをつけて怪物に跨がる。

「これ、忘れ物です」

 あの時の看護師さんの声がエンジンに紛れて聴こえてきた。

「‥‥俺は化け物ですよ?」

「元患者の化け物です」

 目線を送るとクリーニング袋の様な物に包まれた制服やここに置いていった武装の一式だった。それを受け取ってベルトのワイヤーで体に固定する。それを看護師さんが不思議そうに見てくる。

「収納には?」

「このバイクにはタバコ1箱分すら収納が無いので。大丈夫、これぐらいなら安全に帰れますよ。それと世話になりました。今度俺が入院する時は」

「する時は?」

「固形物を、出来れば普通の米で―――次は刺しますね」

 振り返らなかった。怪物は唸り声を上げてほんの半呼吸の間に病院から離れていく。倒れている信号機を避けてオーダー校を目指した。




「まだ10時にもなってないのか‥‥」

「その通りですね」

 実験室に帰ったらマトイがベットの上で座っていた。

 だから確認も取らないでマトイの足に跪く様にうなだれる。マトイはそのまま俺を頭を撫でて、マトイの少しだけ冷たい手足がヘルメットを被って熱くなっていた頭を冷やしてくれる。

「乗り心地はどうでした?」

「‥‥いい夢を見せてくれたよ。ありがとう、マトイ」

「それは何より。膝、痛くない?ベットに乗って」

 マトイの足を今度こそ枕にした――――切れてない方の足を。

「ふふ‥‥病院に追い込んだと聞きましたよ」

「それだって想定済みだろう?でないと、あんな都合よく飛び込んでくる車を受け止められない。‥‥もっと上を」

「はい、この辺ですか?‥‥悪くないみたいですね」

 マトイは答えてくれないが、そういう事になる。センチュリーの重さは素で2400㎏はある、しかも防弾ガラスや装甲をつけているなら更に重くなる。そんな鉄塊を並みの装甲車では受け止められない。あそこにあったのはバスでも改造したようなものだった。

「ごめんな。バイクは傷つけなかったけど、他の車は壊した‥‥」

「気にしないで、あれは必要な処置です。それにやったのは特務課の人間だから向こうの予算で払わせますよ」

 俺はカエルを捕まえた。明日には、いやもう法務科の人間がカエルの部屋にいるだろう。

 嘘をつかれた。あのカエルは注射器を持ってない、勿論ここに侵入なんかしていない。オーダー校が求めた価値は俺がカエルを逮捕するという結果だ。俺はこれで法務科と一緒に、オーダー本部のネズミ駆除と特務課のカエル駆除を成し遂げた。

「期待通りの結果を出してくれましたね。あなたを推薦した私の鼻も高いです」

「元々は俺の目が目当てだろう‥‥。ごめん、もう言わないから‥‥続けて‥‥」

「はいはい」

 喉から猫のゴロゴロ音でも出そうだった。気持ち良くて、このまま寝てしまいそうだった。

「3人は?」

「ネガイは教導に事の顛末を。ミトリさんは今から来る法務科の案内に、サイナさんはシズクさんの所に行きました――――だから、しばらくふたりきり‥‥」

「良かった‥‥」

 マトイの足で寝返りを打って制服に顔を埋める。

 どのくらいそうしていただろうか‥‥多分1時間はしていた、でもマトイに甘えるにはまだまだ足りなかった。



「結局、俺の目はどうなるんだ?」

 今の時間、救護棟から外出した自分達二人は落ち着いて椅子に腰掛けていた。

 校庭や校舎、それに恐らくは前庭にも武器の類はまだまだあり、ほとんど学祭のノリとなっている現状には興味こそあるが、学祭のそれは売買だけが出し物ではなかった。

 マトイが勧めてくれた特別捜査科の喫茶店で静かに茶を啜っていた。ここは劇場舞台棟にある地下の一室でありマトイは紅茶を注文して、それを飲んでいた。

 ウバ茶だろうか?ほのかなメントールの香りがする。美人は何を飲んでも絵になる。

「昼間の話は全て事実、あなたの目に私達の血を注ぎ入れます。それで終わり」

「ならなんで明日なんだ?すぐに終わらせれば。‥‥注射器を知ったのは昨日だよな?」

 時系列がおかしい。

 カエル逮捕は恐らく俺が病院にいる間に計画されたもの。なのに4人は注射器が盗まれたから俺にカエルを追えと言った。今思えばとってつけたような理由だが―――これは何よりも優先すべき事由となった。

 あの実験室に――――他人が入り込んだと聞いたから。

「本当ならネガイか私、どちらかが誘拐されたという理由にする予定だったのですが、そう言ったらあなた、殺してたでしょう」

 マトイは自信あり気に、俺にそう言って紅茶を一口。隣にいる特別捜査科の女子がカップに次を注ぐ。

「‥‥これは他言無用だ」

「私にはなんの事かさっぱりで‥‥、映画か何かの話ですか?」

 背が低いのにサイナレベルの身体の持ち主。そしてサイナとはまた違う心地がいい声の持ち主、特別捜査学科は合唱もしていると聞いていた。

「大丈夫ですよ。だからここを選んだの」

 この部屋はオーダーの実習でロールプレイを行う応接間型の個室だった。

 それぞれ2人掛けの深紅の柔らかなソファーを机を挟んで2人で座っている。壁には鹿の頭や、絵画、カービン銃が飾られていた。

 確かにこれなら表面上は誰にも聞かれないだろうが、壁や花瓶に天井、そして今も笑顔の女子の胸ポケットにはカメラが付いている。

 本当にこんな所で話していい内容なのかと、視線を送り続けていると、

「少し出して完全に秘密の部屋にしました。だから、ここで押されたら、私では抵抗出来ませんよ‥‥」

「それは帰ってからにしたい」

 俺の反応を楽しんでいるマトイは紅茶が止まらないようでカップのピッチが速い速い。

「あの注射器を使ったら、あなたはしばらくの間また昏睡状態になります。それではオーダー校の出した条件や法務科の期待した結果を出せませんでしたから。オーダー本部から介入も、拒否出来ない事態になっていました」

「そうか。なら、俺はこの後に」

「はい、また眠って頂きます」

 また眠るか。寝るだけなのに皆んなに会えないと思うとそれだけで寂しく感じる。

「聞いていいか?‥‥なんで俺が眠るってわかるんだ?」

 この問いにマトイはカップを置いて、思い出そうとしている。

「私も徐々に記憶が薄れているのですが、目にとってもあなたにとっても私達は他人であって異物。受け入れるにはあなたにも身体と心に多大な負荷をかけます。目から意識が消えて所有者がいなくなった時、あなたの物になった時、自分で形を変える必要がありますから」

「もう一ついいか?あの注射器には二人の血と宝石、それにあの方の血も混じってる。違うか?」

 脳を抉られた気分なのかもしれない。忘れられる筈のない、非日常を失っていたと気が付いたのだから。おおよそは、あの方の言葉通りだと断言出来る。

 俺にはすでにあの方の血が混じっている。ふたりの血は確かにこの目が求めていた、だけどマトイの言った通りふたりは他人だ。それ受け入れる時の影響力は計り知れない。

 あの方はそれを知っていて、自分の血を橋渡しにした。拒絶反応が少ないように。

「ならこうも言った筈だ。俺を殺すのではなく、俺を眠らせると」

 再度カップを持ったマトイが、目を見開いた。

 あの方の血を無しでやると、俺は死ぬような昏睡状態になる。だが、元々俺に入っている血と二人の血を混ぜてから投与すれば――――眠るだけで済む。

「なら二人も心臓を潰されたのか?」

 隣の生徒が口から声を出した。

「心臓?いえ、私は血を取られてそれを瓶に入れられただけです。‥‥ネガイも特に何も言っていなかったし、何故そんな事を?」

「俺の血とあの方、それと宝石を混ぜる時、直接心臓に宝石を入れて、心臓ごと砕かれた」

「‥‥」

「別に俺で遊ぶとか、そういうつもりじゃないくて、俺の心臓にあの方の血を入れると」

 マトイの表情が固い。必死に体の遺物やそれに命令を下すにはあの方の人ならざる血が必要だと伝える。

 マトイもそれは事実だと認めてくれたようだが、それでも顔にさした疑念の色が晴れない――――隣の生徒が割と吐きそうだった。

「‥‥あの方の言っている事はその通りです。でも、だとしてもそんな方法で、しかも血を分け与えるって‥‥」

「因みにだが、俺からも分け与えた。血どころか内臓全部だったけど。‥‥目が美味しかったらしい」

 ついに隣の生徒は、顔が青くなった。

「‥‥あそこは夢。ある程度物質的な関わりを持てても、どこまで行っても概念的な世界を抜け出せない実数を持てないアストラルな空間‥‥。だからこそ身体を捧げる奉仕と身体を再生させられる下賜が出来る、あの空間の支配者であるあの方の許しがあれば‥‥。あの世界はグラマーの世界というより檻に近い‥‥。感情の抑制が出来なくなるのは、あの方も同じなのかも‥‥」

 マトイは何かしらの考えを持てたようだが、俺と隣の生徒はそれはそれは吐きそうな顔をしていた。どちらも違う理由だったが。

「あなたはどうでした?別次元の存在と触れて?」

「別次元?よくわからないけど、あの方は俺に悪い感情を持っていないみたいだったな。‥‥俺が二人に会いに行こうって思えたのはあの方のお陰だったから。それと端が糸状になって消えていく光景を初めて見せてくれたのはあの方だった」

「‥‥ならあの存在は一体?人の術をなんで?あれは人から見た世界の形で人以外には使えない筈なのに‥‥。あの方も元々は霊長の存在?だとしたら、何故あんな力を―――人の精神で持てる力を軽く超えていた。しかもそれを授けた?人間に?」

 人間か―――。

「マトイはあの方の血を混ぜてないのか?」

 聞いて失敗したと思った。

 マトイとネガイは徐々の記憶が消えているのに聞いても尚更混乱させてしまう。

「いいえ、恐らく。そうじゃなければあの小瓶は必要ないので、もし混ぜていたら直接私達から血を抜いています」

「‥‥ちょっと失礼」

 隣の生徒がついに懐から飲み物を出して飲み始めた。

 未だにマトイが混乱しているから別の疑問を聞いてみる。混乱している人間には別の事を考えさせた方が良い。

「どのくらい眠る予定だ?」

「朝には起きていますよ。‥‥それに朝には起きていて貰わないと」

 どうやら、これこそが本当の明日のお楽しみらしい。マトイはスマホを取り出してどこかにメールを送ってそれが一瞬で帰ってきた。

「行きますか、準備は整ったようです」

 その言葉に頷いてソファーから立ち上がり、世話役の女生徒が運んできた車椅子に抱きかかえたマトイを乗せる。

「またいらして下さい」

 俺達が外に出ようした時、恭しく扉を開けてエレベーターまでついてきてくれた。エレベーターに乗って扉が閉まる直前にもう一度、頭を下げる。これも学科で習うのか?自分には無縁な業だった。

「それでマトイ、これからマトイ自身はどうなるんだ?」

 エレベーター内で聞いてみると、「ん?」と可愛い声が響いた。

「別にどうもなりませんよ。確かにしばらく仕事は出来ないかもしれませんが、それぐらい法務科だったら想定済み」

「‥‥良かった。無理に駆り出されるんじゃないかって」

「今の私を表に出すなんて真似、法務科はしませんよ。怪我人なんて現場ではただただ邪魔ですから」

 現実主義なのか悲観主義なのか、マトイは時々わからなくなる。エレベーターはすぐに開いたが、目の前に人が立っていた。

「‥‥嘘だろう‥‥なんで」

「あ、さっきホーネットありがとよ」

「こんばんは」

 ふたりで軽く礼と挨拶をして整備科から離れる。整備科はそこで膝をついてしまった。手にはあの喫茶店のチラシを持って。

「いいのか、あれ?」

「いいんじゃないですか?私も、なんの事かわかりませんし」

 前にどこかで聞いたと思ったが、ミトリとの会話だったと思い出した。

 マトイを押しながら劇場舞台棟を出て治療科に向かう。少し遠いからゆっくり行こうと思っていたが、後ろからクラクションを鳴らされる。振り返るとサイナのジープだった。

 前に聞いたが、モーターホームは校内で乗り回すには邪魔だから、校内では基本的にジープらしい。どちらにしろ巨大だが。

「乗ってくださ〜い♪」

 運転席から高い声が届いた。

「‥‥いつも悪いな‥‥。足代わりにして」

「いいえ、これもお代を貰っていますから。マトイさんから♪」

「あなたがいてくれて本当に助かっています。これからもお世話になります」

「はい♪お世話します」

 後部座席に乗せたマトイのシートベルトを確認してマトイが滑らないように隣に座る。今のサイナと俺を助けた時のサイナは同じ人間と思えないぐらいゆっくりとした発進をする。マトイの身体を気にしての発進なのだろう、こういう気遣いもサイナの商人としての技術だった。

「サイナ、シズクはどうだった?」

「喧嘩でもしましたか?」

 読まれていた。何があったか自分で言えと言っている。

「‥‥いや、俺が一方的に怒ったんだ‥‥」

「正直ですね♪シズクさん、謝っていましたよ。怒らせるつもりは無かったって、明日にでも謝ってきて下さいね♪」

 サイナが優しく諭してくれる。この声には素直に従える、そんな気分になった。

「‥‥ありがとよ。本当に‥‥。これからもよろしくな、相棒」

「あ、‥‥はい、こちらこそ‥‥」

 サイナの顔は見えない。だから見てはいけない。そう思った。

「もうすぐ坂ですね。私、不安なので抱き締めて」

 マトイが俺にそう言って手を引いてきた。望む所だとマトイに抱きつく。

 マトイの体温と柔らかさを感じていたら、急にジープが浮いた。シートベルトとしていた筈だが、天井に頭をぶつける。丁度サイナの前でぶつけた部分を。

 目の前が真っ白になった‥‥。

「あ、ごめんなさい♪少し運転を失敗しました、あは♪」

「サイナも失敗なんかあるんですね。どうしましたそんな眠そうな顔をして、痛いですか?この辺ですか?」

 ぶつけた部分をマトイに撫でられていたが、そこからの記憶は――――。



「本気の話じゃないよな?」

「いいえ、本当の話です」

「私とネガイ、それぞれの目を抜いてあなたに移植する予定でした」

 目を覚ました時にはもう救護棟だったが、そこはベットの上。

 あまりにも俺が目を覚さないから一旦タンカーで運ばれて施術を受けていたらしい。よって俺は今、頭に包帯を巻いて実験室のベットに寝ていた。

 そして気になっていた事を聞いていた。元々、目の治療法を探す為に殺された。

 でも、俺は探すまでも無く起きてしまった。

「あなたが目を覚ましたのが、あまりにも早かったので私達は緊急に対処法を探していました」

 ネガイが簡潔に述べてくれた。内容が内容だけにミトリとサイナ、自分はどう反応すべきなのか、わからない空気だった。

 俺の目を抜いて、二人の目を入れる。自己犠牲と言われればそれまでだが、そんな方法をしないでくれて良かったと思う。

「‥‥良かったよ。方法が見つかって、‥‥サイナ、もう少し強く。そう‥‥、気持ちいい‥‥」

 保冷剤が包帯ではぶつけた所から徐々にずれていくから、サイナに手で当ててもらっていた。

「いやー、私も、まさかここまでになるとは‥‥。ごめんなさい♪少しやり過ぎました」

「そう思うなら、そのまま続けてくれ」

 正直言うと、もうそんなに痛みはないが、未だに患部が熱いうえサイナが心の底から申し訳なさそうにしていたから頼んでいた。

「驚きましたよ。マトイさんの隣に人形でも吊るしてあるのかと思って‥‥」

 どうやらシートベルトに寄っかかって宙ぶらりんになっていたらしい。

「ミトリがまた報告してくれたんだろう?」

 ミトリは、俺の上半身に脈や心音を測るパッチをつけて心電図も操作していた。

 どうやらミトリが参加するとなった時、俺の健康状態を常に見る為にミトリからの提案で使うと決めたらしかった。

「結局、ゴールデンウィークを潰したか‥‥悪い」

「いいえ、それに私がこれに関わっていなくても、今のオーダー校の騒ぎにはきっと私も参加していました。不謹慎ですけど――――私、すごい楽しくてやりがいのあるいい休みでした」

 ミトリが困った笑顔を向けてくる。

「ゴールデンウィークまで続くんだろう?この騒ぎは。なら明日からずっと遊ぶぞ」

「はい、私も遊びたいです」

 心電図に俺の心拍が表示された。ミトリも準備が整った。

「よし、いいですね?ミトリ、サイナ。注射器の準備は?」

 ネガイが二人に確認をとる、もう一度殺菌消毒をして清潔になった注射器を、俺から離れたサイナがネガイとマトイに渡す。

 ミトリも自分でしっかり消毒をしたと胸を張って言う。

「大丈夫です。一瞬で終わりますし、何よりあなたはすぐに夢を見ます」

「力を抜いて、そう。眩しいけど我慢して」

 顔の少し上と体を囲むように、強い光を放つライトが置かれている。撮影かそれこそ手術で使うよな代物だった。

「いいですか?さっきも言った通り、これで全てが終わります。絶対に動かないで」

 二人は俺の頭側でそれぞれ注射器を持っていた―――空気が入らないように少し押した針から血が流れている。

「いいぞ、やってくれ‥‥」

 痛みはない、一瞬で終わる、しかもすぐに寝る。これ以上を求めるのはわがままが過ぎるかもしれない。それでも自然と目が揺らいでしまう。身体はすでにミトリによってベルトで固定されている。もしもの時はマトイも手伝うと言っていた。

 二人に目蓋を引っ張られて目の上側を晒す。

 針がそこまで迫ってくる。二つの針が交差して見える、この距離だからか、目が焦点を合わせられない。

 心臓が痛い、心電図が俺の異常を教える為に大きく何度も鳴る。

「‥‥おやすみ」

 視界が真っ赤になった。



 確かに二つの結晶を見た、俺の今の大きさはどの程度か知らないが、少なくとも今の俺を大きく超える―――結晶の中には二人の女性が目を隠すようなフードを被っている。

「二人、じゃない‥‥」

 ネガイとマトイにどこか似ていたが、違う。

 二人ともあんな禍々しい姿はしていない。

 ネガイに似た方は手が剣に、エストックのような腕で手に当たる部分がない。しかも足が異常だ、猫科の動物のように関節が逆になっている。

 マトイに似た方は手は普通だが、数がおかしい。背中や腹、胸から何本もの腕が生えている。どちらも人間ではない。

「苦しいか‥‥」

 結晶の中でもがいている。空気を求めるように、身体に入り込んだ異物を吐き出そうとするように。

「俺はそれを16年受けた。でも、お前達はもうすぐ終わる。感謝しろ‥‥みんなが優しくて」

 いや、それは無駄をしないという事か。なら化け物と同じだった。

「お前達も俺を無駄なく狂わせた狂って苦しめ、俺が受けた痛みを受けてみろ――――人間は殺せないが、同種には容赦しない」

 二つの結晶に近づいて両方に触れる。

 その時、中の化け物が俺に気付いたらしいく、結晶を腕で削るように中から俺を求めてくる。何かを言っているが聞こえない。

「人の言葉で話せ、俺は人の言葉でしか反応しない」

 フードが外れた、中の顔も二人に似ていたが―――目が完成していない。

 眼球が無い。

「自分で作った結晶が分厚かったみたいだな。‥‥いいぞ、もっと苦しんでみろ‥‥」

 眼球が無い顔を振り回している所為で眼孔から血が噴き出ている。その姿を見ると自然と笑みが溢れる。

「他人の宝石は苦しいか?自分で求めた血だろう?存分に呷れよ」

 目から身体にヒビが入っていく、そこから血が滲み出ていく。それを止めようと目や身体を抑えたり掻き毟っている。だが片方は自分で自分の身体を斬りつけて、片方は掻き毟り過ぎて更に血が止まらない。

「なんだ?助けて欲しいか?なら、頭を下げろ」

 指を下に向けて土下座でもしてみろと、指示する。

 俺の意思がわかったのか、それとも単純にもう立っていられないのか、崩れるように結晶の下にどちらもがうずくまる。そして中身のない目を向けてくる。

「いい顔だ。化け物でもそんな顔出来るのか、俺と同じだな‥‥」

 二匹の怪物に笑顔を向ける。

 そこで二匹は口だけで喜びを伝えてくる。だから俺はそれに応える。

「大丈夫だ、すぐに死ぬ。もう苦しまないで済むぞ‥‥」

 死に至る病とは絶望である。絶望とは罪である。

 これに神がいるかどうか知らないが、絶望し自己の喪失をした。化け物でも自分を見失う、これはを知っていた。俺も同じだからだ。

「お前達が創り上げたのは人形じゃない‥‥この化け物だ!化け物からは化け物しか生まれない。死ぬ前にいい事を知ったな!?」

 目の化け物達は化け物の望んだ通りの顔のまま、身体が弾けて血を残して消えた。

「汚いな。最後ぐらい綺麗に消えろよ、これだから化け物は‥‥嫌いなんだよ。お前もだ、見えてるぞ」

 振り返る。そこには俺に似た顔のもう一人の化け物。

 結晶の中に入ってはいない化け物には、直感でわかった。殺せると―――

「逃げるなよ」

 俺に似た化け物は腰が引けて這いずるように逃げていく。

 化け物は化け物を一歩一歩追い詰めて行く。

「大人しく従っていれば良かったのにな?さっきのカエルの時に大人しかったのは自分だけは消されたくなったからか?もう遅い、俺は化け物を狩ると決めた。ほら、どうした?もう逃げないのか?」

 化け物の瞳に俺はどう映っているのだろうか?そんな物には価値はないのだろう。

「そんな目をつけてどうする?さっきの奴らに分ければよかったのに」

 大量の目が顔についていた――――

「もしかしてお前が目の結晶を完成させる予定だったのか?まぁ、どのみちお前は消す。お前はもう用済みだ」

 化け物は化け物の首を掴んで締め上げる。

「お前が最初で最後の殺しだ」

 殺す。心臓も目も全て俺の物にする。何の問題もない、借りていた物の貸主が全て消える。さっさと貸した物の回収をすべきだった。

 権利の上で眠る者は助けない。それが化け物であっても。

「やっとか。意外と粘ったな、そこだけは化け物か‥‥」

 化け物の亡骸を適当に投げ捨てる、亡骸はどこに消えた。

「‥‥これで終わる」

 二つの結晶に触れる。

 手から触れた場所を貫通して血が流れ込んで、血で満たしていく。

「好きなだけ注げていい。これは全部俺の物だ」

 心臓も目も、全て俺の物だ。何も困る事ない、全て俺の内側で起こっているだけだ―――言われた通りだった。結晶の形が変わってきた。

「センスが無かったからな。目の結晶なんだ、だったらそれそのものしか無いだろう?—―――いいぞ、俺もセンスが無い」

 創りあげたのは二つの目。

「今度変える時は、あの方からアドバイスを貰うか」

 視界がぼやけてきた、結晶を自分の形に変えた影響だ。

「起きたら‥‥、お楽しみか‥‥、出来れば俺の望む通りに‥‥」



「んーん‥‥、ん‥‥。ぷっはぁー、あなたにはセンスがありません!」

 左腕の動脈に噛みつかれながら言われていた。

「血、美味しいですか?」

「はい、美味しいです‥‥。そうじゃなくて!目の結晶なんですから、もっとこう!」

 恐らくは宝石のカットの話をしているが、専門知識が無い俺にはさっぱりだった。周りの石像もまた増えていた、あの壁画も。石造は若い女性型が2つ、壁画は狼らしき物と、角が二つの大きな動物。

 もうひとつは何かすらわからない何か―――赤い三つの目の黒い巨体だった。

「もう折角、私が手間暇かけたのに‥‥美味しい‥‥」

 なかなか収まりがつかないようだが、俺の血で我慢してくれていた。その代わりに徐々に寒気が増して、背筋が震えていくが目を合わせた瞬間、微笑んくれたので良しとした。

「やっぱり俺の目が目的でしたか」

「最初はそうでしたが、今は違いますよ‥‥秘密です」

 聞こうと口を開けた途端に更に噛み付いてきた。聞かない方が良さそうだ。

 腕を噛まれている今、ベットで横になりながら天井を眺めていた。仮面の方は椅子に座りながら吸血鬼の如く血を飲んでいる。もはや腕を喰らい始めていた。

「‥‥心臓の化け物はなんで、あんなに目を?」

 今更ながらなんて恐ろしい姿だったのかと思う。よく自分であれを締め殺せたと思ってしまう―――もう触れたくも無い。

「心臓?ああ、あれですか。あの目は全て目の女に送るものだったんだと思います」

 確かにあの目の女達は眼孔が空だった、ならばなぜ早く渡さなかったのだろうか。

「好きだったとか?」

「いいえ、パワーバランスがあったのです。上位は目の女で下位があの化け物でした。あの化け物は目に付き従っていたようですね。‥‥こんな弱い存在なら力を与えればあなたに従うだろう、と思ったのですが。それでも尚、目に従ってあなたを苦しめるとは‥‥小物はどこまで行っても小物でした。あなたが始末しなければ、私が直々に―――――ました」

「今なんて?」

 仮面の方の声が理解出来なかった。それなのに、漠然と殺すとかそういう意味だとはわかる。

「いいえ、お気になさらず。もう意味の無い事です」

 余程あの心臓の化け物に腹を立てていたのか、俺の血で酔って忘れる気らしい。

 その後もは特に何も言わずにただただ飲み進めている。一滴も残さないぐらいの勢いでどんどん飲んでいく―――体に回る血の量が極端に無くなっていく。

「あの、何か喋っていただけませんか?」

「ん、‥‥私はあなたのセンスに期待していたんです!まぁ、あの目も決して悪くは無いですが‥‥。とにかく!私の期待を裏切った罪は重いです、このまま真っ白にしてあげますよ。心臓も掴みません!」

 もしかして今回呼ばれたのただ怒りを血で埋め合わせる為だけだったのだろうか。



 目が覚めたら誰もいなかった。ただ一つの書き置きを残して。

「‥‥みんな、帰ったか‥‥薄情な‥‥」

 ベットから立ち上がって、デスクの上に置いてあった書き置きを確認する。

「起きたらシャワーを―――行政区のオーダー街出口に‥‥、か」

 頭側にキッチンタイマーが置いてあった。これで起こすつもりだったらしい。

「これは99分しか計れないから‥‥、出て行ったのはさっきか‥‥」

 まだ30分程時間が余っていたので、まだ横になっていれるがシャワーを浴びに実験室を後にする。デスクの上にあった救助要請器を置き去りにして。

「確かに‥‥昨日からシャワーひとつ浴びて無いな」

 入院階にあるシャワー室に向かう、道中に他の治療科の生徒ともあったが。誰も目を合わせて来ない―――そんなに匂うだろうか?

「行政区のオーダー街出口‥‥」

 あのカエルはネガイを自分の飼い主に渡すつもりだった。なら飼い主はネガイをここから出れないようにしていた奴ら、そのものの可能性がある。ネガイの血筋は場合によってはカルトな政治職達の恰好の神輿となる。オーダーもそうなっては面倒だからとネガイをここに置いていた。

「俺がオーダー街出口から外に出る時‥‥いつも一人で置いて行っていたな‥‥。だからか―――ネガイが行政区が嫌いって言ってたのは‥‥覚悟を決めたか。‥‥なら、俺も付き合わないと」

 入院階の窓口に一言確認してシャワー室を借りた。無人のシャワー室は残酷なほど寒々しかった。

 シャワーを頭から浴び、滴り落ちる雫に目を向ける。今までだってそうだったが、水滴の一つ一つがはっきりと見えた。自分の目でも、世界は変わらない。

 けれど、もう自分の心臓で自分の目を使える。

「‥‥あばよ」

 最後の別れを告げる。アベ・マリアなど歌えない。ただ捧げるはシャワーの音。それだけだった。

 シャワー室を後にし軽くミトリの知り合いである治療科のひとりに挨拶をして救護棟から外に出る。それまで誰もいなかったのはなぜだろうか?エレベーターもひとり、扉の前にも誰もいない―――誰にも邪魔をされずに朝の陽ざしに照らされる。

「おはよう」

「おう、おはよう。残ってたのか」

 救護棟から外に出ると、あの襲撃科と整備科が外の車両を背に休んでいた。

「部屋に帰って無いのか?」

「あはは、こんなに良い教練実習なんか無いからね。みんな、先輩や先生からの指導待ちだったりだよ」

「中には食い倒れをしてる生徒もいるぜ、俺もその一人だけど‥‥」

 どうにも整備科の様子がおかしい。いや、元々おかしい奴だった。

 視線が右往左往して目のやり場に困っている。何か隠しているって目に書いてある。襲撃科もそれに気付いているが、止めようが無いから困って頭を掻いていた。

「4人を知ってる?」

「いや」

「全然」

 知っているという事だった。サイナのモーターホームが無いから、もう出て行ったようだ。

「俺のホーネットは?」

「これだ」

 車の後ろに隠してあった。朝から掃除をしていたのかワックスがけでもされていたように輝いていた。

「貸し2つだ‥‥」

「いや、昨日ので帳消しだ。あの機体を見せてもらったんだしよ」

「‥‥やっぱり、夢だったな‥‥」

 起きたらあれが置いてある。そんな淡い夢を見ていたが、そんな物の影も形もない。

「当然だ。夢に決まってる。あれをただで貰える程、現実は甘くない」

「緊張したよ。あれを輸送車から下ろしたの僕達だったから、良い物に触れられたけど。傷一つ幾らってマトイさんが言うもんだから、皆んな怖がって怖がって‥‥。あはは‥‥」

 詳しくは知らないとは言っていたが、額も知らなかった訳ではないようだった。もしかしてレンタル料を払ったのは―――マトイにもまた世話になった。

「行くのか?」

 整備科が鍵を投げてきた。

「行ってくる。シズクはいたか?」

「いたよ、校門に。そわそわして落ち着かない感じだったね」

「なら、そっちに寄ってからか‥‥」

 愛車のホーネットに跨って、サイドバックからヘルメットを取り出す。そこで気が付いた。いつも入れてるネガイのメットが消えていると。

「渡したな?」

「なんの事だ?」

 走り出す。早くネガイに会いたいが、今はシズクだった。救護棟の坂を下って校庭を目指す、途中では本当に食い倒れたのか?生徒が道の端で転がっていた。

 校庭に着くと朝食なのか炊き出しと売り尽くしセールと謳って備えの3科がなにやら売っていた。

「気になるな‥‥、まぁ今はいいか」

 校庭の端の道を通って校門に辿り着く、そこには昨日と同じ姿のシズクがいた。

 ホーネットから一度降りて、下を向いているシズクに話しかける。

「シズク。今大丈夫か?」

「あ、うん。大丈夫‥‥」

 ホーネットをすぐ近くの駐車場に置いてからシズクの隣にもう一度座る。何から話そうか困っていたら傍から他の情報科がコーヒーをくれた。顔を見ると俺と同じ一年で女子だ。何度かシズクに会いに来た時見た気がする。

「いいのか?」

「はい、どうぞ」

 俺に渡したらその足で他の生徒にも渡していく。

「なんか世話になってるな」

 受け取ったコーヒーを啜りシズクに呟く、シズクは前庭で売っているワッフルを朝食にしていた。

「昨日からここか?健康を考えてもう少しいい場所で寝とけよ、椅子の上じゃあ血の巡りが悪いから」

「んーん、昨日は知り合いの車の中で寝てた。車での寝泊まりって結構楽しいね。でも外も面白くて、皆んなで歩き回ってたからあんまり寝て無いんだ。‥‥これは寝不足で赤いだけだから」

 言った通り、シズクの目が若干赤い―――俺の事なんか考えなくていいのに。

「情報科が寝不足か?オペレート中に寝たらマイクで怒鳴ってやる」

「その時はヒジリも怒鳴られるだろうね」

 お互いぎこちない、お互いがお互いの地雷を踏んではいけないと、当たり障りの無い事を言っていた。

 だけど、俺には時間が無い。30分しか猶予がない。

「シズク、昨日の事は悪かった。シズクを傷付ける気は無かった」

「え、違う、私が」

「勝手に動画を撮られて気が立ってた、シズクは何も悪くない。それに自分で言ったんだ、家族は大切にしろって」

 コーヒーを一気に飲み切って、立ち上がる。

「俺も、そろそろ覚悟を決める」

「‥‥行くの?」

「今すぐは無理だけど。その時は付き合ってくれるか?昔みたいに」

「‥‥うん、いいよ。一緒に行ってあげる」

「よし、決まった。仲直りだ、これやるよ」

 持っていた袋から人形焼きを出して渡す。シズクは少し呆れ顔だった。

「別に好きな訳じゃないだけどね。4人とも、もう行ったよ。これを返しに来てくれた」

 そう言ってヘッドセットを見せつける。

「また借りる時があったら、その時は頼む。またな」

 ホーネットに走り寄りそのまま校門を出て行く、今更シズクに一々確認はいらない。あいつとはもう何度も仲直りして来たのだから。




「お早いお着きですね♪シズクさんとは話せましたか?」

「少しだけど、話して来たよ」

「良かった〜♪これで、仕事がやりやすくなりますね♪」

 それが目的かと思ったが、言わないでおいた。俺とシズクが元に戻るきっかけはサイナだった。出口に着く前にモーターホームを見つけ、車の中で四人で話していた――――ネガイはいない。

「マトイは良いのか?」

 車椅子こそ乗せてあるが、マトイは怪我人だ。そう簡単出れるとは思えなかった。常にミトリに付き添われているから許されているらしい。

「これが済んだら、すぐに戻る予定です。それがミトリからの条件だったので」

「これでも最大限の譲歩です。本当ならこの時間は朝食に検診なのに‥‥」

 ミトリがマトイの腕を掴みながらメモに何か書き込んでいる。朝の脈取りをされていた。

「はい、体温も問題なし。帰ったら身体を拭きますね、傷口は清潔でも、身体は自然と汗をかいてしまいますからね」

「別にここで拭かれても」

「じゃあ、俺行ってくるよ。ネガイは出口だな。準備忘れるなよ。それとサイナ、頼んだ通りだ」

 マトイがここで脱ごうとしてミトリがそれを止めて、サイナは何がなんだかわかっていない。そんな混沌とした車内から飛び出してホーネットに跨る。

 明日まで休みで朝早い行政区は誰一人として歩いていない、車も。

 そんな中、ヘルメットを持って歩いている女生徒を見つけるのは簡単だった。

「ネガイ」

「はい、乗せて貰います」

 止まって話しかけるとネガイは遠慮無く乗って来る。

「ガソリン代ですか?」

「いやこれは燃費が良いからいらない。それより捕まってろよ」

 前にも何度か朝の通学でネガイを送った事はあったが、出口に行くのは初めてだった。いつもネガイを寮か学校に送ってから出口に行っていたからだ。

 その時はいつも無言だった、でも今日はネガイが話しかけてきた。

「止まって下さい」

 ネガイの声には、力が宿っていた。エンジンや風の中にあっても負けていない、覚悟を感じた―――車一つ通っていない路肩に言われるままに停止する。

 止めたホーネットが飛び降りたネガイは、背を向けたままでヘルメットも外した。

「‥‥忘れ物か?」

「言い忘れです」

 振り返ったネガイの目には、涙が込められていた。

「私は、あなたの目に何もできませんでした‥‥」

「‥‥ネガイは何もできてなんかいない」

 ホーネットから降りてネガイに近づこうとしたが、手を付き出してくる―――それ以上進むなと命令してきた。

「‥‥泣かないで下さい‥‥」

「お前だって‥‥」

 後もう少しで外に出れる。それなのにネガイは、俺を拒否してきた。まただ、また心がひび割れていくのがわかる。

「ネガイは俺を守ってくれた‥‥。目の痛みだって取ってくれた‥‥それだけじゃ、ダメなのか?」

「‥‥私の本当の目的、あなたに言ってませんから‥‥。言いましたよね、私はあなたの目の確認しか出来なかった‥‥私‥‥、あなたを裏切ってました‥‥」

「裏切ってなんか‥‥目だけじゃない。傷の治療だって―――」

 ヘルメットを胸の前で抱えたネガイに、それ以上言葉が口を衝かなかった。口だけじゃない。目を向ける勇気すら幾つもの覚悟が必要だった―――命でも断ちかねないネガイの視線に呑まれてしまった。

「あなたの目は眠らせた方がいいなんて、嘘です。私はあなたの目を眠らせる訳にはいきませんでした」

「もう‥‥いい。言わなくて‥‥、もういいんだ‥‥」

 聞きたくない。もう謝るネガイなんて見たくない。でも、ネガイは首を振た。

「いいえ、言わないと‥‥言わないといけない。‥‥あなたに、もう嘘を付きたくないんです‥‥」

 ネガイとの距離はほんの2mもない。なのにそれ以上、近づく事を許してくない。

「‥‥私は検診の後、あなたの目の構造を確認して、真似て、模倣していました。‥‥私は―――人工的な魔眼を作るつもりでした」

「目を、作れるのか?」

「‥‥はい。完成にまで至らなくても、それだけでオーダーは私の価値を見出した筈です‥‥。私はあなたを‥‥売ろうとしていました」

 人工的な魔眼なんて、そんな物が出回ったらオーダーどころか世界のパワーバランスが崩壊する。それに何よりも、魔眼との相性は総じて個人の体質に依存する。

 他人の目など受け入れられる筈がない。そう言っていた筈だ。

「でも俺の目は危険だって‥‥」

「そうです‥‥、あなたの目はあなたの精神を持ってしても、あなたを狂わせていました‥‥。それでよかったんです」

 私はオーダーが嫌いです。

 契約をした時のネガイの言葉の意味がわかった。復讐をするつもりだったのか。

 オーダーどころか、自分をここに閉じ込めて、それを良しとした世界に。

「目が行き渡ればオーダーは崩壊する。‥‥目が世に出回れば、オーダーの立場は瓦解する。私はテロリストだったのかも知れません」

 ネガイは優しいと思っていた。でも、その優しさは相手を、ネガイ自身が選ぶ。

 ネガイの人工的な魔眼は、オーダー校の生徒に移植されていたかもしれない。いや、まず間違いなく移植される。ただの興味、ファッション、享楽—――マトイのように力を求める者になら必ず。

「でも、ネガイは踏み止まった!それでいいじゃないか!?ネガイは止まれたんだ―――俺とは違う。ネガイは、最後は俺の為にいてくれたじゃないか‥‥」

「私は‥‥もしかしたらミトリも、サイナもマトイも、見殺しにしていたかもしれない‥‥いいえ、彼女達の最期を見る為に、あなたを利用した」

 ヘルメットを落として崩れ落ちるネガイを抱きかかえた。今も手で押してくる拒絶をしてくるが―――無視する。

「‥‥そんな私でも、あなたは受け入れてくれますか‥‥」

「もういいんだ‥‥!俺がネガイと一緒にいたい‥‥」

「私が契約した時から、あなたの目を眠らせる方法を模索しておけば。今頃、あなたの目は無害化出来ていたと聞いてもですか?」

「そんな言い訳するな!‥‥だったら俺と一緒に償おう!俺はネガイがいないと、もう———」

 押してきていた手が、背中に回る。

「ネガイは嫌か?俺と一緒は嫌か?もう消えた方が‥‥いいか?」

 ネガイは答えて来なかった。でも、腕と手で答えてくれた。

「‥‥いいんですか?私は、皆んなを、多くの人を、あなたを殺そうとしたのに」

「ネガイはそんな事してない!ずっと優しかったじゃないか。俺を守って、癒してくれた。もう泣かないでいいんだ―――どうすればいい?」

 いつも泣いていたネガイを救いたかった。

 ネガイさえ救えればそれでよかった。

「どうすればネガイは笑ってくれる?俺じゃダメか?俺ではネガイを救えないのか?目を見せてくれ‥‥」

 顔を上に向けたネガイの目は、赤く腫れ上がっていた。

 見続けることが出来なかった―――無視なんて出来ない。

 ネガイを、もう泣かせたくない。

「—――長いですよ、私を窒息させる気ですか‥‥?」

「俺にはこれしかできない‥‥」

 無理矢理奪った、けれど、ようやく首に手を回された。

「あなたが泣いてしまうなんて。仕方ない人‥‥」

 向けてくれる顔に微笑みが宿った。良かった。ネガイを笑わせる事が出来た。

 灰色の髪が風に靡いている、まだ少しだけ赤い黄金の目にはまだ少しだけ涙が浮かんでいる。でも、涙の意味は変わった。

「‥‥傍にいてもいいですか?」

 もう答えなんかわかってる、そんな顔で聞いてきた。

「傍にいてくれ。俺はネガイがいないと嫌だ」

「—――わかりました。ずっと傍にいます」



「見えるか?」

「‥‥懐かしい」

 ここに来る時一度だけ見たと言っていた。

 この検問所ではオーダーの学生証と武器持ち出しの確認をされる。何を持ち出したかわからないようでは今のオーダーの武器の統計が取れないとか言う理由だった。別の理由があるのは明白、間違いなかった。

 検問を受ける為、ホーネットから降りて背中でネガイの道行きを守る。

「学生証と武器を出して下さい」

 受付に従って持っている武器を全て出し、金属センサーを通って最終確認。

「はい、確認出来ました。どうぞお通り下さい」

「その前に、‥‥ネガイ」

 検問から完全に出る前に、オーダー街側のホーネットを運んで待つ。

 ネガイに学生証と武器の提示を視線で伝える。ここでは待っている間に武器の準備をするのがセオリーだが、焦りが振りほどけないネガイは何度も金属センサーから電子音を鳴らせてしまう。

 苦笑いながらも検問所の職員に助けてもらってなんとかセンサーをパスした。

「はい、確認出来ました。どうぞお通り下さい」

 機械的だが、柔和な女性職員の許可にネガイは深呼吸をする。

 何もかもが未経験な幼く見えるネガイに手を差し伸べて、最後の白線――外に繋がる橋まで並んで進む。

「‥‥準備は良いか?」

 ネガイを見ずに言った。

 手の脈で皮膚が張り裂けそうになっているいながらも、震えを誤魔化さずに握り返してくれる。覚悟などとうに済ませていた、そう思っていたのに。

 自分自身も鼓動を隠せなかった・

「はい、行けます!」

 一歩、前に出る。

 オーダー街から外の街にへと―――こんなにも簡単だった。

「‥‥出れました。私、出れたんですね」

 ネガイの泣きそうな声で、我に返った。

「ああ、お前は自由だ。やっと契約—――守れたな」

「‥‥はい、‥‥やっと、やっと。約束を果たしてくれましたね」

 無人の検問所ならば誰の目を気にする必要も、憚る必要もない。震えるネガイの腰を引き寄せて、その震えが止まるまで灰色の髪を抱きしめ続けた。




「良かったのか?出て早々戻って」

 元来た道。オーダー街を疾走し、学校に蜻蛉返りしていた。

「はい、これでいつでも出れるってわかりましたから」

 5人であの特別捜査科のやってる喫茶店の個室を借りていた。ここならばマトイも出歩いて良いと言われたらしい。

 ネガイはお誕生日席、ミトリと俺、サイナとマトイ、そして世話役の女生徒。そんな構成だった。

「外はどうでした?」

 マトイがカップを置いてネガイに聞く。

「別に、普通でしたよ」

「そうですか」

「そうなのか」

「そうなんですね♪」

 嘘だった、ネガイは目に見えて目を逸らしていた。誰もがはそれに気付いてが、誰も言わないでいた。

 ネガイは実験室でも良いって言っていたが俺が「外で遊ぶぞ」と言ってネガイを外に連れ出していた。「仕方ないですね」とは言っていたが、それも嘘だとすぐにわかった――――繋いだ手を決して離さなかったから。

「二人には言っておかないといけない事があります」

 マトイが真剣な顔でおもむろに声を発した。

「これからのネガイに処遇についてです」

「はい‥‥」

 ネガイもそれに返した。マトイの口からなら信用出来ると思ったのか、真っ直ぐに決して目を逸らさなかった。休み前にはありえない光景だ。

「現在、あなたを誘拐する可能性がある組織はオーダーの一部署も含めて日本国内でも450件を超えます。あの男達はその中でも現実的に見てやりかねない組織。その筆頭でした。その結果オーダーは直近であなたの周りに被害が起こる可能性は今後低くなると判断」

 450件、途方もない数字ではないからこそあり得る。一つの組織にも派閥があるのだから、それぞれがそれぞれの思惑でネガイを求めている。

 それは血筋だったり、ネガイ個人だったり、そもそも何故ネガイを求めているのかわからない人間達もいるだろう―――上からの指示だと言って、盲目的に。

「分かると思いますが。それが今後2倍、それどこか10倍に増える可能性もあります。そしてそれが0になる事は決してない」

「‥‥そうですね。私がここに来る前にも色々ありましたから‥‥。父と母を殺した人間達にも―――その敵対者にも」

「‥‥」

「すみませ〜ん。お菓子の追加を♪」

 サイナが世話役の女生徒を外に出し、ミトリは無言でネガイを抱きしめる。

「あなたに友好的であれ、敵対的であれ、それがオーダーであれ、あなたはこれからそんな人間と、自分で考えて繋がりを持たなければならない。そうしなければ生きていけない。私もです。いつ法務科からどのような命令がくるかもわかりません」

「‥‥はい、わかっています。私は今まではこの街に守られていました。外に出るという事はそれが無くなる、それだけです‥‥」

 例えば救助要請機、あれはオーダー街でしか使えない。

 オーダー街はその特質上、オーダーに良い気持ちを抱いていない過激な人間にとって恰好の的。だからこそ救助要請機なんて物がある。統計なぞ取る必要がない。この街はテロの標的のトップに躍り出て、記録を更新し続けている。

「でも、ふふ‥‥」

 マトイの声が柔らかい物に変わった。

「私達は今までそれをずっとやってきました。オーダーでは危険な人間の対処方法を学んできています。これは秘密です‥‥意外と外の人間は緊張感が抜けていて、オーダーというだけで震え上がります。そして私は私の機嫌を損ねた愚か者には制裁も加えています」

 片目を瞑る可愛らしい仕草での小声だが、言っている内容が内容だけに表には出せない話だった。

「これを、あなたに」

 マトイはネガイに新しい学生証を渡す。

「これが有ればあなたは個人で、外のあらゆる依頼を受けられる様になります。私達と同じように。誰を誘ってもいいです、ミトリでもサイナでも、私でも。勿論彼でも。依頼の為と言えばどこへでも足を運べます、そしてその費用もオーダーが負担します―――――しかし、これには責任が付き纏います。オーダーのネガイとして、自分の行いにはあらゆる責任が発生します。‥‥例えば殺人とか」

「普通ですね。‥‥やっと普通になれるんですね‥‥私」

 マトイから貰った学生証をネガイは愛おしそうに撫でている。

 今マトイの言った言葉は俺や他のオーダーが高校入学時に言われた内容だった。銃や武器を持つ者としての責任、それは外の世界にとって限りなく自由でどこまでも重い。

「ネガイ、オーダー入学おめでとう」

 俺がそう言うと、3人もそれぞれ祝いの言葉と拍手を始める。

「ここに連れてきた理由がこれだったんですね。‥‥今度はあなたに騙されましたか、騙されるってこんな気持ちだったんですね」

 ネガイが胸に手を当て目を瞑りだした。

「怒ってるのか?」

「‥‥瞑想は、怒った時以外にもするんですよ。うん‥‥、こんな気持ちでするのは初めて‥‥」

 穏やかな顔だった、このまま眠ってしまいそうな笑顔。きっとこれから幸福な夢を見る。そう確信する目元だった。

 ドアが柔らかく叩かれる。そこにサイナが「どうぞ〜♪」と言って入室を許した。

「失礼します」

 サイナが先程外に出した生徒は細長い複雑な柄持つ剣、レイピアを持ってきた。赤と銀の鞘にはオーダーの紋章がある豪奢な儀礼剣。けれど、それは紛れもなくオーダー製—――儀礼止まりの筈がない。

「オーダー本部からの品です。今まで必要な処置として軟禁していたお詫びだそうですよ。これは‥‥聞かない方がいいですね。特殊な金属を特殊な製法で特殊な形に作り上げた品です。まず、折れません」

「折れないのか‥‥」

「はい、折れません」

 マトイはそれ以上答えずにカップに口をつける。聞くなという無言の現れらしい。

 ネガイはそれを受け取り引き抜く。レイピアというにはあまりにも頑丈そうな刃。俺の杭を細く長くしたようにも見える平たい四角、ひし形だ。オーダーなら刃渡りが15cm越えの刃物でも持ち歩きが出来る。そして柄の部分が複雑に絡み合った鉄の帯状であり、絡み合った敵の刃物や剣を容赦なく折る事を想定したナックルガードと見た。

「‥‥良いものですね。受け取らせて貰います」

 ネガイはレイピアを抱えるようにして一口カップを啜る。

「オーダー本部に言っておいて下さい。受け取ったと、これでいずれ貫くから待っていろと」

「はい、承りました」

 ネガイは堂々と死刑宣告の口伝を、マトイは笑顔で受け入れた。

「許してないみたいですね‥‥」

 ミトリからの小声に頷く。だが、当の本人の耳にも届いてしまっていた。

「大丈夫ですよ。私を閉じ込めていた人は、恐らく本当に周りへの被害を案じていた者。だからそんな人を貫く事は無い筈です。でも、その思いを忘れて、邪な行為や行動をしたのなら‥‥私は感謝の心を持って、泣く泣く刺します。マトイ、その時は手伝って下さい」

「勿論。そんな心優しい人が、犯罪など犯す筈がないので無意味な協定かもですが、私もその時は心を鬼して法務科として泣きながら逮捕をしますよ。ふふふ‥‥」

「ふふふ‥‥」

 二人して何も喋らないで、目を合わせて笑い始めた。方向性が違う美人同士の茶会として絵になるが、話の内容は絵にしてはならない。

「話は終わったな?なら少し外に行こう。明日で最後だから今まで前線にいた奴らも遊びをやってるらしいから」

 ここに来る途中で聞いたが、やはり俺の身内以外の生徒とここにいる身内とでは話が少しばかり違っていたみたいだ。

「この規模の演習なんか、なかなか見れるもんじゃない。これなら確かに単位獲得に繋がる実習が出来る」

 どうやら法務科からオーダー校への依頼で、生徒を動員させて大規模な演習と実技での防衛を持ち掛けていたらしい。俺がオーダー校に走り込んでくるからそれの保護と、俺を取り返しに来る男達は武装しているからそれの撃退に拘束。

 他の生徒はこれを最後まで演習と思っていたらしい。そんなある意味で遊び半分の気持ちで全滅させられたアイツらはただ哀れだ。

 立ち上がってドアに近づくと、マトイが「あなたにも話があります」と。

「‥‥やっぱり、あるよな」

「はい。これはあなたの身体に関係する話です。どうか、座って‥‥」

 もう一度、ミトリの隣に座り。マトイの顔を眺める、決して笑顔とは言えない顔だった。

「結論から言います。あなたに――――法務科は『名前』をつけました」

「‥‥俺をターゲットにしたのか‥‥」

「そんな、なんで‥‥?」

 ミトリが嘆くようにマトイを見た。マトイはなんでも無い様に振る舞っているが、さっきまで片手だったカップを両手で支えている。

 法務科や、更に言えばオーダーは特定の人物に名前をつけて監視や場合によっては拘束をして対象の自由を奪う事が出来る。

 それを対象に悟られない為にされるのが、名前。俺は法務科からそれに値する危険な存在と見られた。

「私は付けられていないのですか?」

 ネガイが聞くがマトイは顔を振る。ネガイは「そうですか」と言ったきり答えない。聞いたネガイも貰ったレイピアを撫でるだけとなる。

「なんで?だって彼は悪い事なんか‥‥、ただの被害者だったのに‥‥!」

「落ち着け、本来名前は絶対的に対象に秘密だ。名前をつけられた事も含めて――なのにマトイはこうして教えてくれてる」

 立ち上がろとしたミトリの肩に手を置いて座らせる。ミトリも俺の言葉で冷静になったようで座ってくれた。だが、サイナやネガイ、何よりも俺自身が次の言葉を失ってしまう。

「‥‥法務科は、あなたを秩序を脅かす危険な存在になり得ると判断しました。‥‥私は包み隠さず全てを法務科に教えなければならない義務があります。‥‥ここ数日、今日に至るまでの言動や行動、成し遂げた事の裏、全てを‥‥私は、法務科だから」

「それがマトイの秩序なんだ。知っていて、俺はここにいる。知っていて、これからもマトイと繋がっていく、法務科のマトイに―――だから、続けてくれ。逮捕なんて域を超えた発砲に追跡をやったんだ‥‥最初からは覚悟してる」

 俺はマトイを傷付けた。そしてネガイにも刃を向けて、銃を向けたとは言えほぼ無抵抗なカエルに何発か浴びせ、逃げるカエルには車をスリップさせて止めた。

 治療科への襲撃作戦だって考えていただけでも大事なのに、死者が出かねない危険な運転や行動をした。だったら危険な存在と見られても―――

「‥‥事はあなたが想像している以上です。法務科どころかオーダー本部もあなたを危険だと判断しました。あなたが今想像しているのは誰でも起こせる犯罪の責任。あの射撃も私への攻撃も、オーダー校にいる生徒なら出来る人もいるでしょう。外の世界にも」

「血‥‥ですか‥‥」

 ネガイがレイピアを撫でながら呟いた。

「はい、私はあなたが体験したという夢の世界と、サイナから受け取った小瓶に残った血、そしてあなたから直接採取した血も法務科に提出しました。唾液も含めて」

「チッ‥‥、」

「その結果、あなたは触れてはならない存在と触れた元人間と判断されました」

 ネガイの舌打ちが印象的過ぎて話が入って来なかった。ミトリがネガイを抑えて、サイナも立ち上がってネガイにお菓子やお茶を勧めている。渦中の俺とマトイは軽く目を合わせた。マトイは笑っているが、心底ネガイの舌打ちに震え上がる。

「元人間って事は、俺は今なんなんだ?」

 あなたは人間ではないと言われたのに、そのまま受け入れている自分がいる―――だってその通りだから。

「あなたの血や身体はもはやただの人間どころか地球上の生物では持てないDNAを示しています。それが今後どのような結果をもたらすかは誰にも判断できないのが現状です。‥‥わかっているのかもしれませんが、あなたの思考は、人間のそれでは無くなっている可能性があります」

「一度死んだからな―――ただの人じゃないだろう」

「冗談を言っている暇はないかもしれませよ?今のあなたは人間のふりをしていると法務科やオーダー本部が判断した場合。拘束対象になるかもしれません。事実としてあなたは目に造られた存在、元々、人間とは違う精神を持っている、そう言えてしまうから」

「え‥‥」

 ミトリが振り返ってくる。サイナは聞こえない振りをしたみたいだ。

「後で全部話す。今はネガイのお守りを頼むぞ」

「私はあなたよりは安全な人間ですよ」

 俺も聞こえない振りをする。

「触れてはならない存在って、あの方の事か?」

「はい、その方の事です。あなたはその方と血を分け合った、そうですね?」

「違うから!ただ血を飲んで飲ませた関係ってだけだから!‥‥よせよ、ここで撃つなよ、サイナ!ネガイを抑えろ、抜かせるな!」

 ネガイからレイピアをミトリからデリンジャーを、それぞれに向けれられようとしているのをサイナに頼んで止めてもらう。

「確かに俺はあの方と血を分け合って、受け入れた。正確にはあの方の血を受けた宝石を心臓にだがな‥‥外に行ってきていいぞ」

「はい‥‥、失礼します‥‥」

 世話役の女生徒に外へ出る許可を与える。この手の話が苦手なら無理に聞く必要はないというのに。マトイは女生徒が出て行ったのを確認して声を潜めてくる。

「これは本当にトップシークレット、法務科の用語として至秘と言われている枠です。あなたはその至秘にも書かれていない存在と出会い、血を分けて受け入れた。生物学上、あなたは人間という枠どころか霊長類からも外れた、ただ一つの生命。自覚して下さい、あなたはもう人間ではない。人間がその種を全うしても辿り着けない存在と触れ合い、その位に至った高位の存在」

「‥‥俺は死ねるのか?他の人間と同じように‥‥」

 不老不死の存在になってしまったとしたら、それに耐えられるだろうか。ネガイやマトイ、ミトリにサイナ、皆んないなくなった時、俺の精神はそれでも人と同じでいられるだろうか。生きた屍にはなりたくない、きっとあれはつらいだろうから。

「‥‥あなたの血や肉体は、それでも人類の持っている血肉と変わらないと報告を受けています。だから怪我や病気にもなる、だから寿命で死ぬことも可能な筈です。ただ、肉体的な死と、精神的な死は同一するのかと問われれば私や生きている存在にはわかりません」

「死んでみないとわからないって事か」

 これは昔から言われている死んだ魂はどこにいくか?という哲学や倫理だ、そう、誰にもわからない。

「そんなに死にたいんですか?」

「殺されるなら、ここの誰かに看取られて死ぬよ‥‥」

「ここの誰もベアトリーチェにはなれません」

「俺がダンテなら、橋で再会した時に告白するよ。それで、俺の名前はどうなってるんだ?」

 ここまで詳しく教えてくれたんだ、きっとそれも教えてくれるだろうと思ってマトイに聞いたが、なかなか教えてくれない。

「無理なら‥‥」

「いいえ、それが二つあるんです。一つは法務科、そしてもう一つはオーダー本部から。どちらから聞きますか?」

「どちらからも追放されそうだ‥‥。オーダー本部からで」

「わかりました、フランケンシュタインの怪物。ただそれでは長いのでプロメテウスと呼ばれるそうです」

「センス無いな‥‥、捻りがない。法務科は?」

「吸血鬼、レヴァナント」

「アンデットか。まだそっちの方だ。今後はそれで通してくれ」

 法務科のセンスは絶妙な痛々しさ。

 何かある度にレヴァナント、レヴァナントと言って滑稽な忸怩たる思いをして貰おうとしよう。彼らの傲慢さに相応しかろう。

「ではレヴァナント、あなたには更に言う事があります。外の世界についてです、あなたはこれで人外であり、人類の敵になりました。ここでもレヴァナントを狙う存在が現れるでしょう、そして外にも――――あなたの血を狙う人間やそれに類しない影を歩く者もいます」

「それ以上は外で聞く、誰も信じないだろう」

 机にあるベルを鳴らして、さっきの生徒を呼び出す。

「サイナ、もういいぞ。サイナ?」

 ふと、返事が返って来ない方を見ると、レイピアの鍔を親指で弾いて鍔と鞘で高い音を立てているネガイを中心にミトリとサイナが立ってこちらを見ている。ミトリはデリンジャーでは無く、H&KP2000を抜いている。

「良いものですから鹵獲しました」

「そうか‥‥」

「マトイさんとのお話は終わりましたか?橋で告白するダンテとベアトリーチェなんて、随分とロマンがありますね♪」

「現実のベアトリーチェは銀行家と結婚するんだ。ダンテよりも良い生活ができてたんじゃないか?」

 割と早く亡くなったらしいが。

「レヴァナントですか‥‥。マトイ、この模様は本物ですか?」

 ネガイがレイピアを抜いて見せてくる、さっきは一部しか見えなかったが、刀身に文字のような模様が確認出来た。

「‥‥これも秘密です。それはある貴重な十字架から削った神聖な銀が含まれています。文字も‥‥これはやはり秘密ですが、見た目通りの効果があります。それがあればアンデットも殺せます」

「そうですか‥‥、やはり良い物は違いますね」

 ネガイが立ち上がって完全にレイピアを抜く、鞘と刃が擦れてレイピアから金属の震える音が聞こえた。

「それとこれは個人的な話なので、ここで言っておきます。まずは、サイナ助けて」

「は〜い♪車椅子ですね♪それとしばらくの送り迎えはお任せください、貰った分以上のお仕事をさせて頂きますね♪」

 サイナがマトイに車椅子を近づけてくるので、俺はマトイを抱き上げる。

「あなたの血はとても貴重です。もしあなたに何かあったらそれだけで人類の損失、秩序に反する結果だと私は思います」

「それはどうも、ゆっくりいくぞ」

 マトイを車椅子に乗せて、後をサイナに任せる。

「だから、これから実験室に戻りませんか?」

 そう言いながら、マトイは両手を広げて胸を捧げる様な仕草をしてくる。一体、何を差しているのかわかっていると、ネガイの舌打ちが聞こえて来た。

「チッ‥‥そういう事ですか‥‥」

「きゅっ、救護棟ではそういうのは‥‥!」

「私は車でも♪」

「車で戻って、実験室で目を見るのか?確かに、まだ目が安定してる訳じゃないし―――なら戻るか。ネガイもしてくれるだろう?またミトリとサイナも‥‥どうした?」

 レイピアの鞘を親指で鳴らしたネガイが、ゆらりと立ち上がる。

「体力に自信があるようで何より。しかもギャラリーが必要とは、気が多いですね。終わったら切り落としますか」

 鞘に戻したレイピアの切っ先を向けてくる。まずい、怒らせてしまったようだ。

「わかった、ネガイのペースに合わせるから」

「そう言えばいいと思っているのでね?」

 ネガイが肩や姿勢を落とし、サイナとミトリが前の邪魔なソファーや机をどかしていく。ちゃっかりマトイも後ろに逃げていく。俺は―――なぜかわからないが、ここから逃げるべきという心臓からのお告げに従って、扉に背中を向けながら一歩一歩扉に逃げる。

「あなたには首輪が必要です。ミトリ、中身は外しますから」

「うん、なら私でも」

「サイナ、緊急搬送の準備を」

「はい、お任せを♪」

 その間にも逃げようとするが、ネガイの視線がそれを許してくれない。レイピアではまだ刺されていないのに、視線で刺されている。身震いする殺気に血の気が引いていく。

「潰さないように」

「大丈夫ですよ。手加減はします、それに彼は私からの痛みを喜びますから。‥‥覚悟を」

 言い切る前にネガイが刺突を放ってきた。ほぼ無音の一撃に身を任せるしかないのか―――諦めるしか道が無かった、が。

 その時。

 後ろの扉が開く、扉の支えを失って後ろに倒れていくと、扉を開けた女生徒と目があった―――木製の壁を貫く鈍い音が響く。

「‥‥そこまで気が多いとは、しかも特別捜査学科の‥‥」

 ネガイは鞘付きのレイピアを扉を越えた先の壁に突き刺していた。

 ネガイの放った一撃を、女生徒を抱えながら両目を使って身を翻し、倒れきる前に床を殴りつけ体制を整え、ふたりでしゃがみ込んでいた。

「あ、あの、」

「ここは任せた!」

 女生徒をネガイに押し付けてネガイの体勢を崩す。そこでエレベーターへ続く真っ直ぐな廊下を走った。エレベーターに丁度、他の女生徒—――シズクがいた。

 天の助けとばかりに叫んだ。

「シズク!死にたくないなら開けとけ!」

 突然の俺の声にシズクはびくついてこちらを見て、言う通りにエレベーターを開けていてくれた。

「逃げるつもりですか!?」

「剣片手で追いかけてくるベアトリーチェなんか聞いた事ない!!シズク、上のボタンを押せ!」

 扉が締まりきる前に、エレベーターに姿勢を低くして滑り込む。

「‥‥チッ!」

 ネガイが狙ってきたのは眉間、もし立っていれば、腹部少し下を狙った一撃がエレベーターの扉に憚れた。流石にエレベーターに穴を開けるのは、控えたいと思ったのか直前で止めていた。

「眉間狙いか‥‥、ダンテも狙われたのかな‥‥」

 喜びと恐怖と達成感を胸にエレベーター内に座り込む。そんな俺にシズクが心配そうに聞いてきた。

「‥‥詳しくは聞かないけど、ついていこうか?」

「‥‥お前がベアトリーチェだったとはな‥‥」



「ふーん、目からね」

「信じなくていい。俺も、未だに夢でも見てるみたいだ」

「いいや、信じるよ。君が死んだって噂の方が現実味が無かったし」

「私は見たんですけどね‥‥」

 俺とシズクは校庭の露店に寄りながら前庭の情報科テントに到着したが、途中で地下から出て来ていたミトリと校庭で会ってしまった。

 俺が逃げ去った後、ネガイが部屋に戻ってきたらしい。そこでマトイが3人に言ったらしくて、誤解が解けたようだった。

「知らなかったけど、シズクとミトリって付き合いあったのか」

 不思議な取り合わせだと思ってしまった。

「実習の時にね。治療科の生徒からの指示に従って、通信機越しの現場で適切に治療をするって言う授業があって、その時に」

「意外と難しくて、口頭での指示って大変でしたね。シズクさんに助けてもらってなんとか」

 同じ苦労をした二人が楽しそうに話している。テントの机の上には甘い菓子ばかりで、あの鶏肉よりもカロリーは高いのでは?と思ってしまう。情報科は女子が多いのを自他共に認めた科だからだろうか。

 今はそれをつまみに準備科の女子が通信機で遊んで芸能人の声真似をしている。中にはドローンでレースをしている数少ない男子達もいる。

「おふたりは幼なじみなんですよね?」

 シズクと笑って話していたミトリが急に聞いてきた。

「そうだな。小学校に入る前からだから‥‥正確には覚えて無いけど」

「そうだねー、うーん‥‥少なくとも10年来の付き合いかな?」

 もう覚えていない位の昔からだった。

「家同士の付き合いがあったんですか?」

「‥‥そんな所だ」

 ぶっきらぼうに答えてしまい、ミトリに驚いた顔をさせてしまった。

「悪い、あんまり家とは仲が良くないんだ」

「そうだったんですね。気にしてませんよ、オーダーには色んな人がいますから」

 視線離してミトリに謝っていたら、シズクから。

「‥‥少し話してもいいんじゃないの?ミトリならバラすとかも無いだろうし」

 俺も、言ってもいい頃だとは思っていた。だけどタイミングが無かった、家の事情は―――なかなか言い難い。何よりも、不要な重みを背負わせてしまうと怖かった。

「そんな面倒くさい事言えねーよ」

「そう‥‥そうだよね‥‥。ごめんね、自分で決める事だよね」

「それより!!二人とも今日は暇なんだよな?少し歩かないか?二人ともあんまり外を歩いてないだろう?」

 そう言って早歩きで離れると、俺からの発言が気に障ったのか。二人とも俺を追い抜いて振り返る。

「しっかり治療科でも訓練はあります!屋内での戦闘なら私は治療科一年女子でトップですよ!射撃でも!素手でも!」

「情報科も帯銃は義務だから!それに追い詰められた時の為に隠密行動だって習ってるから!潜伏ならそうそう見つからないから!」

 どちらも2人して屋内を念頭に置いた話しという事に気付いていないらしい。

「いいぞ、なら校庭まで走るか。探索科の歩法を見せてやるよ」

 俺が二人を追い抜いて校舎まで走っていると二人も走ってくる。ミトリは想像以上に追いついてくるが、シズクは最後、ゾンビみたいに歩いてきた。それを心配したミトリがシズクに肩を貸していた。




「悪いな。良かったのか?もっとシズクと話さないで」

「はい、シズクさんは‥‥。車内でも少し話してもわかるぐらい、ダウンしてたので、あはは‥‥」

 苦笑いを浮かべたミトリと共に、肩を貸されたシズクは輸送科の女子に回収され、車内で休ませていた。最終的に自力で歩くことさえままならないシズクは、文句ひとつ言ってこなかった。

「アイツは、隠れんぼは得意でも鬼ごっことかは苦手で。シズクが遊びに入る時はいつも隠れんぼだったんだ。懐かしい‥‥」

 昔の友人の中でもアイツとの付き合いは長い。変わらないと言われれば変わらないが、高1であれか―――基礎体力作りが最優先かもしれない。

「あの髪は昔から何ですか?」

「あれはアイツの地毛。親が確か‥‥クウォーターとからしくて、妹はもっと金髪に近かったかな‥‥」

「え、そうなんですか?少し赤みがかってたから染めてるのかと」

「もしかしたら血筋の中に赤毛があるのかもな。誰も言わないけどシズクの肌、かなり白いだろう?‥‥外に出ないからじゃないっていうのがアイツの口癖だから、気を付けろ」

「そ、そうですよね。‥‥危なかったかも」

 隣のミトリが小声で安堵していた。俺も昔そう言って怒られた事がある。肌や髪の色はアイツにとってタブーだった。

 しばらく歩いてもうここは校庭の終わり辺り、さっき程までの屋台や物品販売をしていたテントから離れると治療科のテントが立ち並んでいた。

 喧嘩でもしたのか、頬や腕から血を流している生徒を治療科が壁のないテントで診察をしている。並ぶテントを視界に収めミトリから視線を外す。

「聞かないのか?家の事」

「いいえ、聞きません」

「みっともない所ばっか見せてる、ごめん。隣の男がカッコ悪くて‥‥」

「そう思うなら、もっともっと格好良くなって下さいね。でないとお世話をする甲斐がありません」

 ミトリが急に俺の手を引いて走り始めた。少し離れたテント群のひとつの前で振り返って笑みを浮かべてくる。

「疲れましたか?ならここは治療科のテントなので、良い酸素マスクがあります」

 ミトリに連れられてテントの一つに入る。入口に除染エリアのあるタイプでビニールのカーテンに囲まれていた。そこで清潔な靴に履き替えて中に入ると、無人で床は緑のシートは張られていた。

 空気清掃機が立ち並び自然と深呼吸ををしてしまうほど空気が綺麗だった。心電図や酸素マスクがベットの数だけ用意してあり。その中の一つにミトリが触れる。

「この辺も一度も使ってないんですよね」

「一度も使わないくらいが良いだろう?普段から授業とかで怪我した連中に使ってるんだ。たまには休ませないと」

「そうですね。でも、今はお世話になりましょう。そこに寝て下さい。今用意しますから」

 ミトリに指定されたベットに横になり、酸素マスクと保冷剤を用意される。

「いつから気付いてた?」

「朝、サイナさんの車にあなたが乗ってきた時です。頭を庇ってましたから」

 気付かれてたか、確かに頭が当たるのを避けて頭一つ分以上屈んでいた。

「痛いなら痛いって言って下さい。少し冷たいですよ。酸素マスクは怒らせたお詫びです」

 ミトリの手で保冷剤とマスクを押し付けられて深呼吸をする。ミトリにこう言うのは2回目だった。

「呼吸が気持ちいいな‥‥」

「はい、沢山吸って下さい」

 頭が冷えて、呼吸も楽になる。そしてミトリが側にいてくれる。怪我人を治療するにはただ怪我を治療するだけではならない。

「さっきは、すみませんでした」

「知らなくて当然だ、俺が誰にも言って無かったんだ。シズクだって‥‥」

 そうだ、シズクだってあの場にいなければ、シズクがあの場にいなければ、そこで終わった話だ―――俺は、卑怯者だ。

「‥‥私は聞きません」

「そうか‥‥」

「でも、言わなくて良いって話でもないんだと思います」

 ミトリはいつも俺に気付かせくれる。ミトリの優しさは俺の心に向いたものだ、だけどそれを受け入れるには痛みが必要となる。

 俺にとっての優しさはただ受け入れるだけではないと知っているからだ。俺に必要な痛みを優しさの形で教えてくれる。

「昔からミトリは優しいな。チャンスを、またくれるのか」

「チャンスなんかじゃないですよ。ただ私が聞きたいだけです。きっと皆んなもです」

「結局、俺は皆んなに甘えてたのか‥‥」

「‥‥皆んなが望んでいます。あなたが甘えてくれるのを。あなたは私では耐えられない痛みを何度も受けて、沢山の苦しみを受け入れたのだと思います―――正直に言います。私はあなたが怖い」

 迷いなく放たれた言葉が、妙に心中を捉えてしまった。

 放心状態にも近い顔を見下ろすミトリは、尚も言葉を続ける。

「あなたはいつも傷だらけでいつもそれを隠して、いえあなた自身、傷に気づいてない。私もそれに気づかなかったんです。あなたは私よりもすごい強い人だと、何度でも自分1人で立ち上がれる人だって、思ってたんです。でも、違った」

 ミトリが顔を見ないように目を瞑った。

「しばらくお世話をしてわかったんです。あなたは傷を負う事を恐れていない、それは人から見たら死にたがって見える。誰だって死ぬ事を怖がらずに迫ってくるあなたが怖い―――だってわからないから。自分が恐れているものとあなたが恐れているものは違うなんて、人にはわからない。それは恐怖です、形を持って迫り来る恐怖。だから、あなたは化け物と言われてしまう」

「あのおしゃべりめ‥‥」

「シズクさんを怒らないで、私が聞き出したんです」

 そう言われてしまっては、誰も怒れない無くなる。やはり、ミトリは策士だった。

 けれど、吐露すべき言葉は見つかってしまった。僅かばかりの勇気を、酸素マスクを抑えているミトリの手から受け取る。

「俺は、化け物にもなりきれない半端者なんだ。強い化け物になれても、強い人間にはなれない――――マトイに言われたからじゃない。俺にもわからなかったんだ。人の事が」

「私達が怖いですか?」

 私達か。

「ごめんなさい」

「いいんだ。目が覚めてミトリが最初に見えた時、不思議だったんだ。なんでミトリがいるんだって。ミトリは治療科だ、俺は救護棟であんな事になった、なら付き添いできてもおかしくないって、そう思う事にしたんだ」

「私は‥‥邪魔でした?」

「‥‥ミトリが翌日に来なければ、俺は救護棟に這ってでも行ってた。ミトリに撃たれてでも。ミトリが怖かったんだ、なんで俺にこんなに良くしてくれてるんだって。なんで俺の側にいてくれるのか、わからなかった。人の心がわからなかった。‥‥俺は化け物だから」

「私もです。きっとこれだけ言えばわかってくれるって思っていたんです。でも、あなたは止まらなかった。私、あなただけじゃなくて、ネガイとマトイさんも怖かったんです。最初にあなたをこの学校に招き入れて行う作戦を聞いた時、ネガイもマトイさんもあなたを人として扱ってないって思いました。それなのにあなたはそれを全うしてしまった。目に造られたあなたは、人じゃなかった‥‥」

 全てを聞いてしまった。もはや常人の世界へと後戻りできないミトリは、自分の心意を告げて別れとしていた。自分が今まで住んでいた火薬と硝煙の世界から、血と狂気の世界へと踏み出してしまった。

 だから、迎え入れなければならなかった。

「ミトリも俺が怖かったのか。同じだな」

 けれど、狂気の世界と常人の世界の垣根は易々と超えられる。

 すぐ隣からどちらもが覗いているのだから。

「はい、人も化け物も変わりません。同じです」

 —――なんだ、単純だったではないか。目とつぶる必要もない。手を伸ばせば、お互いの体温も呼吸も数舜で感じ合える。

 抑制すべき感情など持ち合わせるべきじゃなかった。

「怖いなんて言って悪かった。正直に言うと、怖いけど隣に欲しかった。矛盾してるかな?」

「はい。私も怖かったけど、お世話をしたかったんです。矛盾してますね」

 人と化け物が分かり合うなんて簡単だった。

「ありがとう。でも、家とか血筋の事は俺も怖いんだ。だから、覚えておいてくれ。いつか必ず話す。契約だ」

 こちらからの契約をミトリは笑顔で受け入れてくれた。

「ピエタ、」

 聖母の影を、形を持った慈愛をミトリから感じた。

「私、歌はそんなに得意じゃないですよ。それに、まだ母にもなれません。母になって欲しいですか?それとも母にしたい?」

 直接的な表現だった。

 ただ自分で言っておいて当のミトリの顔が、徐々に赤くなっていく。

「ピエタには慈悲の意味もある。いずれはバチカンにでも行きたいな」

「その時はネガイも、私達だけで行ったら、きっとむくれてしまいますよ」

 一人旅は許されないらしい。

 いや、いつか行くならば俺もネガイか誰かを誘おうと思っていた。

 俺を注意する為にミトリが顔に近づけくる。自然とミトリの顔を凝視してしまう。

 柔らかくて、温かみを持つブラウンの目をしている。美しい―――

「どうしました?」

「いや、なんでもない。そのまま」

「本当に甘えん坊ですね」

 ミトリは俺の思い通りに頭を冷やし続けてくれる。そして酸素マスクも。

「‥‥ミトリ」

「はい、なんですか?ここにいますよ」

 短めの黒い髪、大きくて少しだけ垂れた目、そしてこの笑顔。なぜミトリはこうも俺の心に安寧をくれるのか。頭の痛みが抜けていく、このまま眠ってしまいたい。

「寂しいですか?」

 少しだけ意地悪な笑みを浮かべながら酸素マスクと保冷剤を奪う。

 ミトリは横になっている俺の肩を引く様に、上半身を抱き上げて抱擁する。形は違うが俺にとってはミケランジェロのピエタよりも、慈悲の心を感じる。

「首は吸わないで下さいね。跡が取れないので」

 危なかった。ミトリに言われて気が付いた―――無意識に首元へ顔を近づけていた。俺の驚いた顔を直近で見たミトリは、密やかにはにかんだ。

 呼吸を整える為一度、俺を寝かしつけたミトリが三度顔を近づけてくる。

「約束です。もっと格好良くなって下さい」

「‥‥わかった。ミトリの隣に立てるくらいになる」

「これは契約です」

 柔らかい。ミトリがしながら呼吸をしている、唇でミトリに息を感じ取る。

 こんな優しい契約がこの世にあると知らなかった。終わったらミトリはまた俺にマスクを付けて、保冷剤も頭に押し付けてくる。もうおしまいらしい。

「‥‥これが私です。覚えましたか?」

 大人の表情だった。目元は優しいが、視線は心を見透かすほどに鋭かった。

「初めては自分からって決めてたんです。あなたを奪ってしまいましたね」

 捕食者。あの仮面の方とは似て非なる。あの方は激情に駆られて俺を食い散らした、だがミトリは俺をここに誘い込み、俺の自由を奪ってから、俺を奪った。

 人間の狩人ではない、自らの得意分野を餌に俺を引き込む姿は、自分の喉で男を誘い喰らう人魚だった。

「‥‥ああ、奪われた‥‥」

「ネガイには後で謝っておきます‥‥。だから、もっと私に奪わせて‥‥、」

 ミトリはまた、俺から酸素マスクを外した。

 知らなかった慈愛の対価は高くつくと。ミトリの慈愛に触れてしまったら、化け物でも全てを払わなければならなかった――――。




「ネガイは?」

「あのレイピア遊びが気に入ったみたいで、チャリチャリ言わせてますよ」

 想像したら恐ろしい光景だった。椅子に座り、杖のように床に付いたレイピアを指で弾き続けているらしい。謝りに行くしかないようだ。

「実験室か?」

「うーん、どうでしょう?サイナさんはマトイさんと一緒に動いているらしいですが、ネガイは‥‥、意外とこの状況を楽しんでいるかもしれませんね。‥‥あまり、こういう時間を過ごした事は無いと思いますから‥‥」

「‥‥少し探してみるよ。またな」

「はい。私は前庭のテントに、後シズクさんの様子を見に行きますね」

「頼むよ」

 ミトリは治療科のテント群を抜けて校庭中央の活気のある方向に走って行った。治療科は人の搬送や、この辺りのテント設営など多くの力仕事を行う必要がある。ミトリは見た目以上に体力があるらしい。

「さてと、俺は―――」

「今いい?」

 テント群のどこかから声が聞こえた。懐かしい声だった。

「何か用か?」

「査問学科として、あなたが救護棟で殺されたという事件を詳しく聞かないといけない」

「不要だ。俺は死んでない、それにオーダー内でのじゃれあいなんか普通だろう」

「救護棟内では別、それにあなたの殺され方は異常以外のなにものでも無かった。直接見たからわかる」

「俺自身に用がある訳じゃなさそうだな、そっちの仕事はもう終わっただろう?」

「そうかもしれない」

 あの黒服の逮捕どころか、ろくに取り調べは出来ず、知らず知らずのうちに法務科への引き渡しが決定してしまった。声の主の立場を考えれば、何もかもが気に食わないのはわかる。なぜ、犯人を逃がさないとならないのか、オーダー校からの指示だったとしても受け入れ難かった筈だ。

「今回の根本を知るべき立場なのに、何も知らされないのは気に食わない。違うか————それと、向けてるものを下ろせ。殺すぞ?」

 自分は、テントで出来た四つ辻の中にいた。

 そんな俺にとっての右後ろテントの影から、足音を出して長身の女生徒が現れる。

「死んで雰囲気が変わった?人じゃないみたい」

「人の事言えるか?ここはお前の狩場じゃない。リンゴでも狙ってろ」

 振り返ると、長い得物が見えた。

「リンゴを守る息子なんか聞いた事ない。何を隠してる?」

 見た目はカービン銃、M1793カービン、フランス革命の遺産。

 だが特注品で脇に挟むグリップがプラスチック、それより上の表面はほぼ金属、銃口近くには花の装飾が施されていて見た目は豪奢だった―――勿論フリントロックでは無い。

 元々の原型を見た事があるからカービン銃だとわかるが、見た人によってはショットガンにも見えるかもしれない。

「使ってるのは、まだ.44レミントン・マグナムか?」

「威力の低い拳銃も持ってる。でも、私には威力と命中率が必要。だからこれは手放せない」

 .44レミントン・マグナムは、リボルバー向けに設計された大口径弾薬、しかし発表されると、すぐにカービンやライフルに採用された歴史をもつ弾薬。デザートイーグルに使う為、市販されているマグナム弾で最も人気な弾薬と言われている。

 それを特注したM1793に似た銃でマガジンを使って撃ていた。

 見た目通り、命中率と威力は拳銃のデザートイーグルを軽く超える。

「それに、これならあなたの頭も殴れた」

「わからないかもだが、頭に傷を負ってる。下手に殴るなよ、簡単に死ぬぞ」

「なら、私の言う事を聞いて。私は知りたいだけ」

「知ってる筈だ、俺は法務科に保護されている身。知りたければ法務科から許可をもらって来い」

「死にたいの?私が撃たないって思ってる?」

「好きにしろ」

 背を向けてソソギから離れる。

 俺はどうせ人間と高を括っていた。油断した、本当に殴ってくるとは。

「‥‥本気か?」

「避けれる攻撃だった。次はない」

 過去にも見たが、このカービン銃はほぼ鈍器と言っても差し支えない。頭蓋で受ければ一撃で昏倒する。それを―――率先して狙ってくる。

「前よりも反応が早いけど、まだ私の方が早い」

 独特の銃の取り回し。

 銃剣というにはあまりにも回転に頼った攻撃。ヌンチャクに近い動きだった。

 背後に迫った影の動きで首を捻り、つい数舜前まで頭が置いてあった空間への右下から左上に抜ける一撃を避ける。

 追撃を免れる為、前方に転がり、片足で振り向き様に武器を抜いて向けようとした———だが、振り向いた瞬間の鳩尾に、硬い銃口を押しつけられていた。

「これはその制服を貫けない。でも、中を叩き破る事は出来る。そしてこの距離の射撃の恐怖に耐えた人いない」

 武器を抜く次期を見誤った。

 右腰からM66を抜けば応戦出来るが、それを許す気は無いだろう。

「あなたに選択は出来ない。だから今答えるか、怪我をしてから答えるかは選べる」

 本当に殺す気はないと、制服の真ん中の鳩尾から狙いは外さない。

 防弾性の高いオーダー製の衣服なら貫通は防げる。

「‥‥さっき言った通りだ。俺の身は法務科預りで、俺に答える権利はない」

「なら、仕方ない」



「状態は?」

「後頭部への一撃です。でもヒビも脳へのダメージも無いので、問題無いそうです。ただ、ここを‥‥」

「血を奪われていますか」

 ネガイとミトリ、そしてマトイの声が聞こえる。

「‥‥誰か、いるか?」

「ここですよ」

 天井に伸ばした手をネガイの手に掴まれた。‥‥この手はネガイだ。間違えない。

「動かない方が良いですよ。脳震盪を起こしたそうですから」

「そうも言えないだろう。助かった‥‥」

 ネガイの手を借りて上体を起こす。目を開けるが、なんとなく予感はしていた。

「見えない‥‥」

「もう一度寝て下さい。治します」

 見えないが三人がいるのなら安全だろうと、もう一度横になる。息を吐いて心を落ち着けた時、目蓋の上にネガイの手が置かれる。

「どのくらい経った?」

「あなたを発見して1時間です。ここは救護棟の診察室です。今は動かないでください、包帯を巻いてますから」

 首から頭にかけて包帯が巻かれていた。

 やり過ぎているようにも感じたが、実際頭を固定されているようで安心感がある。この包まれている感覚は、悪くなかった。

「血を奪われたのか?」

「聞いていましたか。はい、その通りです」

 腕をまさぐってどこに傷があるか調べていると、首を触られた。

「ここから奪われたんです。でも動脈には達していないので注射器で薄く表面を刺しただけみたいですね‥‥」

 小さく歯を噛み締める音が聞こえ、急いで事実を伝える。

「ミトリがいなくなったから、なんて理由じゃない。あの場で俺は不意打ち受けた。完全に俺の責任だ」

 首に触れていたミトリの手を掴んで伝える。

「そう簡単な話では無くなりました。あなたの血の価値は現在、日本オーダー本部どころか外部のオーダー組織の中でも本当に数える程しか知らない存在です。それが第三者の手に渡りでもしたら————正直に言います。あなたをここから出す事が出来なくなる」

 マトイの声にネガイが反応した。

「待って下さい。本当ですか‥‥?」

「これはまだ確定ではありません。でも、オーダー本部と法務科はあなたが今後も外で仕事が出来るようにする筈でした。あなたの血に特別な条約をかけ、そうそうあなたに何人も触れられないようにするつもりだったんです」

「そうなる前に俺の血を奪われた。ならこれ以上の外部への漏洩を防ぐ為に、俺をここに繋ぐかもしれない」

 マトイはそれ以上答えない。それが答えだからだ。

「法務科には?」

「‥‥まだ通達してません」

「それでいい。相手はわかってる、今日、明日にでも奪い返せばいい」

 俺からの答えに驚いたのか、マトイが息を吐く。

「これ以上、マトイの経歴に傷をつけられない。朝の外出が出来たのはマトイが俺の監視者になっているからだろう?」

「‥‥そうですね」

 この血はマトイの言った通りなら、もう一滴も流せない流す状況すら作り出してはならない筈だ。それでも俺はネガイと外に出れた。それはマトイがいる。

 ならば、もしこれでマトイが俺から外されたら、大変だ。

「マトイを俺付きの監視者から外す訳にはいかない。俺が外に出れなくなる、ネガイと旅行に行けなくなるのは御免だ」

「嬉しい‥‥覚えてましたね‥‥!」

 ネガイが震える口で喜んでくれた。

「それにマトイにもう甘えられなくなるのは‥‥!痛い!痛い痛い痛い!」

 ネガイが片手を離して、鳩尾を鞘で刺してきた――――思いっきり刺さっている。

 血が、血が、喉元に迫り上がっていくのを感じる―――。

「やはり首輪が必要ですね。いずれ私以外吸えなくしてやりますか」

「と、止めて止めて!死んじゃう!死んじゃう!」

 ミトリが恐らくはレイピアを止めようと掴んでいるみたいだが、ミトリの体重が更にかかって‥‥意識が―――遠のく。

「大丈夫ですか!?聞きつけてきたんですが‥‥な、何をして‥‥!?」

 サイナの声が飛び込んできた。それを頼りに手を伸ばす。

「さ、サイナ‥‥、どこだ‥‥?」

「はい、ここです」

「それはマトイさんです!私じゃありません!」

 薄れゆく意識の中、たゆたう俺の手を2人は親指と薬指を引っ張って裂こうとしてきた。



「本当ですか!?あの査問学科の‥‥」

「間違いないソソギだ」

 告げた名前を聞いた3人は、誰も声が出なかった。

 ソソギはネガイとはまた違う方向の天才であり—―――あらゆる分野で須らくを好成績、万能の天才とすら言えた。それはそのまま難敵と断言できる。

「‥‥私、あの人が苦手でしたが‥‥。いまだに救護棟の出入りをしてるヒジリさんを襲うなんて‥‥」

 サイナがそんな感想を伝えてきた。

 俺にも不思議だった。彼女は査問学科である事を誇りを持っていた様子ではなかったが、それでも今の立場は並大抵の努力では立つことさえ許されない――――もしこれを法務科に伝えてしまえば、ソソギは逮捕、査問学科を罷免されるかもしれないというのに。

「急いでシズクに連絡してくれ。あいつのヘッドセットには顔の識別も出来る機能がある。校門近くでソソギを探して貰おう」

「わかりました。連絡してきます」

 サイナが率先して出て行こうとする足音が聞こえる。

「もしごねたら、金の回収の時に利率を数えるぞと言ってこい」

「は〜い♪その時の計算はお任せ下さいね♪」

 サイナの目は見えないが、きっと煌びやかな琥珀色の目をしていただろう。

「俺からも質問がある。俺の傷は本当に頭なのか?」

 もう一度、頭の包帯を触って確認する。

「間違いありません。あなたは頭部への一撃で気絶した、血も流れていましたから」

 ネガイがそう答えた。

「ネガイが第一発見者?」

「‥‥あなたは治療科のテントで横になっていました。私はミトリからあなたが探していると聞いて、それで‥‥」

「ありがと‥‥結局、俺はネガイがいないと何も出来てない‥‥」

 手を頭からネガイの声のする方へと向けて、握ってもらう。

「ごめん、心配かけて。俺が逃げたばっかだったのに‥‥」

「迷惑なら幾らでもかけて下さい。また会えるなら、それ以上は望みません。————でも、冷たくなって帰ってきたら許しません。私は、あなたの後を追いますから、追って叱りますから‥‥」

「‥‥ごめんな」

 しばらくの時間、握った手を頬につけて両目に手を戻した。

「罰としてしばらくはこのままで、私にもあなたの体温を感じさせて下さい」

 俺は手を真っ直ぐに伸ばし続けた。

 太陽を掴む、星を掴むよりもよほど意味がある。ネガイがここにいてくれると感じるから。

「いいですか?」

「空気を読んで下さい。彼はまだ目が見えないんですよ?静かにして2人にするのがセオリーでは?」

「私も彼の運搬を手伝いました。言いますよ?あなたが、彼を見た時にミトリと私に」

「レイピアを向ける初めての相手があなたとは、運命を感じます」

「時間がないんだろう?マトイ、俺をというか俺の血を法務科に報告するタイムリミットは?」

「‥‥そうですね。法務科は未だにあの男達の余罪調べに奮闘しています。あなたの言った通り、明日オーダー校の状況が終わるまでは―――更に言えば明後日の学校の再開までは」

 黙っていればいい話じゃない。

 もしこれで何かしらが起こった場合、マトイと俺は今日から発生時までの責任を全て取らされる。そして被害を受けたのが一般人であったら、オーダー全体の責任になる。

 それだけは避けたい。外にネガイが出れなくなる。

「時間は今日明日明後日の朝までか。いいぞやれそうだ。相手はわかってる、サイナからの連絡が無いって事はまだ外にも出て無い。それに今の救護搬送用道路は生徒じゃまず通れない。袋の鼠だ、借りを返すぞ」

 あの道はカエルの件があって、今は封鎖されて警備員が置かれている。

 生徒ではまず通れない。

 起き上がって目を開ける。まだ若干ぼやけてるが、もう待てない。早く動きたい。

「早速だが思い出した。俺は鳩尾にソソギから銃を突きつけられてた。だが、俺は頭部に怪我をしてる」

「ソソギには協力者がいる。そう言いたいんですか?」

 ネガイが俺の手を引いて立たせてくれる。

「恐らくは。ミトリ、俺の鳩尾には何も傷は無いのか?」

「まだ確認して無いのでなんとも。見せて貰えますか?」

 俺はシャツの前を開けて胸と腹の間の中心をミトリに見せる。ミトリが上から俺の身体を押して聞いてくる。

「痛くないですか?表面からしか見てませんけど、きっと近くの骨も折れてません。勿論火傷も」

「なら、俺の意識を奪ったのソソギの銃じゃない。他の誰か。査問学科と1番近いのは―――マトイ、これは査問科の命令の可能性はあるのか?」

 法務科がその権力を使う時の最大の障害にして最大の味方、それが査問科だ。

 法務科が提出した意見書を元に判断して逮捕や捜査の追認を出す、だから査問科が許したのならば、法務科はその権力を使える。現行犯等の緊急時はまた違うが、そう決まっている。

 法務科よりは力は無いが、法務科が提出した物が正しいか独立して捜査も出来た。

「ソソギさんは、公の方に所属している」

「そう、エリートの方だ。法務科か査問科行きの」

 査問学科は2種類ある。一つが聞き取り、こちらは基本的に誰でも所属と兼科が出来る。だが、ソソギの所属している査問学科は聞き取りの技術の中で、もう一つ学べる事がある。

 査問学科式の戦闘技術。技術と言いつつ、実際は免許に近い。

 ソソギが所属している査問学科はこう言われいる。

 法務科と査問科への最短コース。

「犯罪の疑いのある者に直接会いに行って、聞き出し、逮捕。言わなければ実力で答えさせる。法務科は証拠が無いと捜査なんて出来ないのに‥‥。いえ、法務科からの情報の真偽を調べるにはそれしかない。確かに可能性はありますが、私は低いと思います」

「法務科は今忙しいしな」

「はい、査問科は基本的に法務科からの意見書を元に動きます。事後の正確な仕事を求められるからです。でも、今法務科はオーダー校関係で、逮捕状は出していない筈です。だから彼らは動かない。私に知らされていないだけの可能性もありますが」

 マトイはなんでもないように言った。

「それに査問科直々の命令なら三年生に任せるかと。こんな傷や搬送を起こさせるような仕事、しかも相手は被害者、明らかになれば査問学科どころか査問科自体が解体されます。‥‥だから、ソソギさん個人か、別の依頼人がいます」

 その視点は持っていなかった。

 ソソギが個人的に興味があって奪っていったと思ったが、確かにソソギとは違う別の依頼者がいてもおかしくない。それどころか寧ろありえる話だ。俺の血が欲しいが、顔を見せて手を出せない、そんな話があっても。

「ソソギさんはいきなり襲ってきたんですか?‥‥救護棟にあまり来られない人なので、ほとんど話したことはありませんでしたが、こんな事をする人だなんて」

「そうか話してなかったか。最初、俺に救護棟での一件を聞いてきた」

 俺からの言葉を聞いて、ネガイとマトイは黙ってしまった。

 俺自身も出来るだけ部外者には言いたくない内容だった。

「俺が言わなかったから、実力で聞かれた」

「‥‥」

「目に手を当ててくれ。それでいい‥‥」

 マトイに跪き、右目に手を当てて貰う。

「ミトリ、悪いけど」

「はい、外で出歩いていいかの確認ですね。聞いてきますから待ってて下さいね」

 サイナに引き続き、ミトリも外に出て行く。俺は目に当てているマトイの手に手を重ねた。

「俺の血が誰かから狙われるって知ってたな?」

 空いている左目でマトイを見つめる。

「‥‥ごめんなさい」

 マトイはそこで目を逸らした。

 そこで謝るとは、ますます怒れない。

 罰として洗いざらい全部聞かせて欲しい所であるが、マトイの言葉を聞いてふらふらしてた自分が悪い。よって強くは聞き出せなかった。

 マトイは血を狙う人間が現れるかもしれないと言っていた。それは近々来るから覚悟しろという意味―――きっとこれはマトイ流からの餞別だったのだ。

「俺はこれからこういう理由で襲われる、そう言いたかったのか?」

「確証は無かったけど、予測はしていました‥‥」

 ネガイはただただ黙って俺の後ろに立っている。マトイには今のネガイはどう見えているだろうか、そしてネガイからマトイへも。

「これも法務科からの命令か?」

「‥‥いいえ」

「ならあなたは彼の血を奪われたら、彼がどう扱われるかわかってて放置したと?」

「よせ。俺が1人でいたのが原因だ、それにマトイはこうなるかもって俺に教えてた。ネガイも聞いてただろう?」

 ネガイがマトイに語気を強くして疑問をぶつけたから、ネガイを止める。

「それでマトイ、ソソギが俺の血を奪った理由を知ってるのか?」

「‥‥」

「俺には話せないのか?」

 マトイは目を逸らしたまま、何も喋らない。俺は左目だけでマトイからの答えを待つが、それでも何も言わない。

 少し、ほんの少しだけ、寂しかった。

 俺の血を、本人にはどう使われるか言えない。それは俺への配慮だ、これで人が死ぬような何かを作られた。俺はまた苦しんでしまう。

「まずはソソギを探します。サイナからの連絡はまだ来ません、だから現場に行ってみませんか?」

「‥‥そうだな」

 何も言わない死体のようなマトイの冷たい手を放して、ミトリが帰ってくるのを自分は待つしかなかった。




 頭に包帯を巻いてネガイと一緒に現場に戻って来ていた。

 寝かされてたのはミトリと一緒に入っていたテント。運が良かった、もし違うテントで寝かされていたら、見つけられずにここでいつまでも寝ていたかもしれない。

「あの刀—――やはり価値があるものなんですね」

「この世界に唯一無二の刃物だ」

 起きて装備を確認したところ、あの脇差しが消えていた。血と一緒に武器まで盗むとは。オーダーとしてこれは厳罰に処さなければならない。

「あなたが寝ていたのはここのベットです。枕はあなたの血が染みていましたので、ミトリに言って処分して貰いました」

 指で知らせた箇所は、ミトリと誓い合ったベットだった。

「すみません、見たくないですか?」

 頭から血を流していた場所と聞いて。いい印象を持っていないと思ったのか。

「平気だ。眠ってたから、よくわからない。ネガイこそ平気か?ベット近くは俺が調べるからそれ以外を頼む」

 横になっていたベット以外を任せて、件のベットに近づく。だが、他のベットとの違いは枕が無いぐらいだった。マットを掴み上げても、何も残っていない。

「ここで血を抜かれたみたいだけど、それだけだか。そっちは?」

「特に何も」

 ベットや床にシート、それに心電図や酸素マスクも調べていくが、何も無い。

「外れか、ただ血を抜いた場所、それだけに使ったのか」

 何も考えずに、ぼやいてしまった。

「すみません、外に出ます」

 ネガイが飛び出すように外に出た――――ネガイを追いかけて外に飛び出る。

「悪い。平気か?」

 追いかけたネガイは、胸を抑えて空を見ていた。

 やっと気づいた。俺の血を抜いた、という言葉がトドメになってしまったと。ネガイは俺を血を抜いて殺した、ここでの俺の姿はそれを思い出させてしまった。

「受け入れた気だったんです。‥‥あなたみたいに」

 空を仰ぎ見ながら深呼吸をしていた。俺はネガイの両手に腕を重ねるように後ろから抱き締める。

「俺だって、まだ苦しい‥‥」

 マトイの傷をまた見たなら、俺はまた目を逸らしてしまうだろう。俺もまだ受け入れきれてない――――ネガイだって、同じだった。

「すみません、時間を取らせて。探しに行きましょう」

 ネガイが腕を離そうとしてきたから、力で押さえ付ける。

「まだ時間はある。それに俺も、こうしていたい。ネガイ、もっと苦しんでいいんだ、俺も一緒に苦しむから」

 ネガイが腕の中で身体を回し、胸に収まってきた。

 


 このまま探しても埒が明かない上、止まらなくなってしまうと話し、第三者の元に向かう。少し前までミトリと一緒に来ていた場所。正直言ってもう打つ手がなくなって来たから、またシズクに頼る事にした。

 シズクのいる校門近くのテントに訪れ、さっきと同じように座ってキーボードに何かを打ち込んでいるシズクに話しかける。机の上にはクリームを乗せたワッフルとキャラメルをかけてポップコーンという胸焼けしそうな菓子類が乗っている。

「今いいか?」

 シズクが半目の、呆れたような視線を向けてきた。

「なんだよ?金だったら冗談だから」

「もう少し服装を見直せば?わかる人にはわかるよ、仲良くしてきたって」

 急いで制服の上着を着ながら肩の形、歪んだ校章も直してネクタイも付け直す。

 慌てて背後の、今まで通ってきた道を見返すが、こんなものは無意味だった。

「幼馴染と彼女が―――そういう所から出てきたらどんな気持ちか考えといて」

 今度から気をつけると心に決めた。ネガイの方を見ると、彼女と言われたのが嬉しかったらしく、にやけながら髪で口元を隠していた。

「ソソギについて?だったら今は来てないよ」

 近くにあったパイプ椅子を二つ持ってきて、片方をネガイに渡す。

「今ん所、校庭に向かってる生徒の顔を確認してソソギを探してるの。でもヒットしないね。ヒットしちゃまずいだろうけど」

 見せてくれたモニターには机に置いてあるスコープのカメラから送られてくる映像が流れている。

 生徒の一人一人の顔を白い枠が一瞬だけ囲み、その後は白い枠が赤く染まり、notとコメントしてくる。

「‥‥そうか」

「詳しくは聞かないけど、やばい状況?」

 シズクが頭に巻いてある包帯を見て聞いてきた。

「かなりな」

「‥‥家関係?」

 隣に座っているネガイが俺に振り向いて来た。

「詳しく聞かないんだろう?もう聞くな。————怒りにきたんじゃない」

 椅子の向きを変えて、背もたれを前に置いて座り直す。

「ソソギがどこにいるか聞きに来た。もしくは知ってそうな奴を。ソソギの交友関係とか知らないか?」

 ソソギはいつも1人でいた気がする。それでも1人くらい友人と言える生徒がいたのではないか?と思ってシズクに尋ねに来た。

「‥‥ちょっと待って」

 心当たりがあるのか、シズクはキーボードに何かを打ち込んでモニターにどこかのサイトを呼び出す。

「これ見て」

 シズクは呼び出したサイトを俺とネガイに見せる為に一歩引いてくれる。

「彼女がソソギですか?」

「そうだけど、これは中等部の頃だ」

 見せられた写真には少し昔のソソギの姿が写っている。

「これは卒業式の時の写真ね。うちの科が撮影をやってたからデーターベースに残ってたの」

「‥‥それで、これは?」

「隣の子、可愛いでしょ」

 可愛いとか、綺麗と言う名前が出てくると、真っ先に浮かぶ名前がある。このオーダー校ならではの名前が。

「‥‥特別捜査学科か」

 俺達が何度か出入りした劇場舞台の設置されている棟を本拠地としている特別な学科。扱いとしてはマトイと同じ捜査科の一学科だが、その貴重性、重要度はあの査問学科と匹敵する。

 特別捜査学科は基本的に、表に出てこない。一部を除いて顔がバレるのは身の危険に直結するからだ。なぜなら彼女らの仕事の大半が捜査科や情報科、そして攻めの三科でも手も足も出ない、そんな犯罪の疑いを持った――――危険と分かっている人間に送り込まれるからだ。

 今の所、そんな危険な目に遭ったとは俺自身聞いていない。寧ろ、そんな目に遭ったら法務科が突入してくるだろう。少女を売り払った学校として、解体される。

 だとしても、もし送り込まれる時は、査問学科や探索科と組まされるのが最低条件となっている。

「一緒に写ってるけど、彼女がどうした?」

「ソソギの数少ない友人、らしき人」

 写真を出したまま、シズクがもう一つのサイトを呼び出した。

「これは特別捜査学科のファンサイトなんだけど‥‥ここ見て」

 差された場所には、恐らく男子生徒が書いたであろう文章が載っている。

「ここにソソギとこの子が寮に一緒に帰ってるって書いてあるでしょ?この子も相当人気だけど、ソソギも昔から人気だったからそんな2人が一緒に帰ってるって、それなりに話題みたい」

「‥‥ネット社会だな。‥‥他にいないか?」

 正直言って、特別捜査学科にはできる限り関わりたくない。それにこの子は知っていた。

「‥‥彼女、覚えてます」

「ああ‥‥、さっき会ったな」

「はい、あなたが突き飛ばしました」

 情報科テントの中央の大机から何かを落とした音や、周りの長机や椅子が倒れた音が聞こえた。

「‥‥それは、マズいんじゃ‥‥?」

 人形焼きを掴み損ねて、キーボードの上に落としたシズクがそう言ってきた。

「大丈夫ですよ。私が受け止めましたから、怪我もさせてません」

 原因はネガイでもあったが、言ったら怒られそうだから言わない。

「何があったの‥‥?もし怪我でもさせたら、オーダー本部から呼び出し食らうよ?」

「オーダー本部は俺に借りが幾つもある。呼び出し食らっても軽い面談程度だろうよ」

 特別捜査学科の彼女らは、オーダーの広報担当になっている。そして卒業後は場合によっては見た目も求めれられるしかるべき場所に配属される。彼女らは、ここオーダー校で大怪我さえしなければ将来が約束され、オーダー本部も頼る存在となる。

 査問学科とは違う意味で、次期オーダー日本本部重役と言ってもいい存在。

「それで、他にはいないか?‥‥あんまり関わりたくない」

「って言われても‥‥。言っちゃうと、君くらいじゃないかな?ソソギと繋がりがあるの」

「‥‥そうか」

「そうだよ。だって入学早々、あんな事件を4人で起こして解決したんでしょ?」

 言われてみればそうかもしれない。マトイは―――正直わからないが、サイナが何にも言って来ないのだ。一番ソソギに近しいのは俺だと言えるかもしれない。

「‥‥仕方ない。この子に会いに行くか‥‥それと、軽く謝るか」

 机の上の人形焼きを食べて、気合を入れる。溜息しか生まれて来ないが、ソソギに繋がる道はそれしか無いのなら、行くしかないと悟る。

 シズクのテントを後にして、俺とネガイは念ため、身内に連絡してから劇場舞台棟に戻る事にした。



「俺の血を奪ったとして、何に使うか‥‥。マトイは知ってそうだけど、言う気は無さそうだな‥‥」

 しばらくの間、向かう道すがら、周りのテントや近くにいた生徒への確認をしたが、せいぜいがソソギを見たが何処に行ったかは知らないと口を揃えていた。

 そもそも、あんまり人付き合いをする方じゃないと思っていたが、同じクラスや同じ学科にも友人と呼べる存在もほぼいないようだった。だが、有益かどうか知らないが一つだけ分かった事があるので、それに縋る事にした。

「数少ない友人らしき人か‥‥。しかも相手が特別捜査学科、ネガイ頼むぞ」

「ええ、そうですね。‥‥特別捜査学科にも手を出すなら本格的に首輪の検討を」

 とか言っているネガイの手を引いて劇場舞台棟の地下に通じるエレベーターに乗り込む。今向かっている場所は少し前に俺がネガイから逃げた場所だった。こんな短い時間で来る事になるとは思いもしなかった。

「対象の顔は分かってる。‥‥それと、軽く謝るか‥‥」

「そうして下さい。私の彼には礼儀正しさが求められます、挨拶と謝罪はしっかりと」

 エレベーターが目的の階で止まり、俺とネガイはあの廊下を歩く。何度か来たが、本当にここだけ別世界だ。床はあの方の謁見の間程ではないが、センスのいい赤い絨毯に壁は漆喰と防腐剤を使った黒い木材。洋館の廊下でも歩いているようだ。

「‥‥彼女ですね」

 ネガイが目線で指した方向には、今男女の生徒をこちらに連れて向かって来るあの女子がいた。

「あ、」

 俺とネガイに気付いて軽く会釈、それを軽く返して道を開け、男女の生徒をエレベーターまで見送りるとその足で俺達に駆け寄ってきた。この女子には俺はこれで3回目だ、その度に俺は迷惑をかけている。

「さっきは悪かったな。怪我とかしてないか?」

「はい、大丈夫でしたよ。私もごめんなさい、確認もしないで開けてしまって。‥‥頭に怪我を、大丈夫ですか?」

 お淑やかだった。しかも向こうからも謝ってきてくれる。これだけで、目線を外せなくなる。首を傾げる角度や、見上げる目、声の高さ、これらを無意識に行う。

 自分はこういう存在だと自分を騙す、特別捜査学科の女子が恐れられる理由はここにある。

 自分が捜査官だと、自分で忘れてしまう。極限まで高めた演技とは自分が登場人物になる事—―――恐ろしい技術だ。

「平気だ。それより用があってきた」

「わざわざ謝る為に?ありがとう‥‥優しいですね‥‥」

「優しかったら突き飛ばしてないな。早速で悪いけど、質問がある」

 驚いた顔をしている。いつもこの笑顔で男達を心を刺しているのだろう。だが、特別捜査学科と分かっていると—―――不思議なくらい効かない。

「‥‥はい、なんですか?」

 誰にも気付かれないレベルの口調の変化。そして若干ながら、声から敵意に近い、怯えの色が差した。

「ソソギについて知りたい。今どこにいるか知っているか?」

「逃げないで下さい」

 女子が半歩後ろに動いた時には、ネガイが音も無く女子の背後に立っていた。俺に目線がいっている間の動き、マジシャンのようだ。

「声を出しますよ?」

「危害を加えるつもりも意味もない。分かっているだろうが、俺は法務科絡みで来てる。もう一度聞く、ソソギはどこか知ってるか?」

「‥‥知らない」

 友人は渡せない。

 法務科の名前を出したというのに、なかなか肝が据わっている。

「別にソソギ自身にも何もしない。俺はソソギに盗まれた物がある、それを取り返したいだけだ。この包帯もソソギ関係だ」

「‥‥あの子は意味もなくそんな事しません。あなたが何かしたのでは?」

「そんな簡単な話だったなら良かった。このまま場所を言いたくないならソソギは犯罪者になる。オーダー間でのいざこざなんて普通だが、今回のは強盗傷害だ。俺にも差し迫った問題がある、言わないならソソギにはもう二度と会えなくなる」

「脅しですか?」

「事実だ。やり方が不味かった、それを叱る為にソソギを探してる」

 突き放すように言う。

 これはソソギの為でもあるのは間違いない、俺は二度とソソギに会いたくないと思う程、あいつを嫌ってなどいない。ソソギには恩義がある、ここでそれを返す。

「ソソギとは、これからもいい仕事仲間でいたいだけだ」

「‥‥わかりました。嘘、ではないみたいですね」

 それを聞いてネガイが腰のレイピアから手を離した。

「ソソギが今どこいるかはわかりません。でも、最近のあの子を教えられます。‥‥こっちに」

「ついて行くと思いますか?ここで言って下さい」

「なら私も話しません。私を信用出来ないなら、話はここまでです」

 あのネガイと正面から睨み合っている。

 だが、ネガイの心配は最もだった。

「俺の頭はソソギの共犯者にやられた。誰にやられたかも、わかってない」

「ならどうしろうと?」

「俺の仲間をもう二人増やす。何もするなよ?俺も他の3人も撃つ時は撃てる」

 呼んでいたサイナともう一人、制圧科の知り合いをスマホで呼ぶ。次のエレベーターが降りてきた時、二人がエレベーターから出てくる。サイナは普段の旅行鞄、そしてサイナよりも背の高い女子の制圧科は腰にこれ見よがしのブレン・テン、コレクションの一つで飾っていた。

「話は聞いてたな?」

 サイナと制圧科の知り合いイサラに聞くと、二人とも無言で頷く。

「これで準備は出来た。場所はどこだ?」

「‥‥こちらです」

 こうなると予想していて、準備していたと分かったのか大人しく部屋に案内する。

 その間にも他の特別捜査学科の生徒や他の学科の生徒ともすれ違うが、特に何も言われない。俺達を客だと思っているらしく好都合だった。

「費用として部屋代は払う。それで話せ」

「いいえ、いただけません」

「受け取って貰う。でないと、全部を聞けない」

 貰ったら客人扱い―――全てを話さなければならなくなる。それは避けたいようだが、食い下がり黙らせる。金をちらつかせて言う事を聞かせる悪人の図式だと思ったが、仕方ないと自分を納得させる。

「金銭を受け取ったなら、オーダーは仕事に手を抜けない。特別捜査学科なら尚更だ。違うか?」

「—――わかりました。受け取らせて貰います」

 マトイに聞いて、費用は確認済みだった。冷や汗をかける額だったが、それを聞いたネガイが「小銭ですね。払っておきます」と頼りになる事を言ってくれた。

 親の遺産の額が莫大で今までの生活は金利で賄っていたらしい。金利だけの収入で俺の生涯年収軽く超えそうだった。

「悪いな、何も教えないで呼び出して」

 後ろのイサラにそう言葉を投げてみる。

「気にしないでいいよ、こういう仕事の経験も私に必要だから。それにまだ顔を見れてなかったから」

 制圧科のイサラ、中等部からの知り合いだった。シズクと俺とで昔よく訓練や授業を受け、サイナとの縁もイサラ繋がりだった。

 今回呼んだ理由は、ミトリはマトイの世話で手を割けない。また俺の知り合いの中で数少ない制圧科―――容赦なく撃てる奴だった。

「ここです」

「あなたから入って下さい」

 指定された部屋に着き、すぐ後ろのネガイに示すが、ネガイはそれをレイピアの柄で開けろと指示した。ネガイが急かした通りに特別捜査学科の女子は扉を開けて1番最初に中に入る。その後ろをネガイ、俺、サイナ、イサラで入って行く。

 部屋は元いた部屋と変わらない。左右が逆転していない鏡写しにも見える。

「あなたはあの椅子に」

 ネガイは、自身が座っていたお誕生日席の一人掛けソファーに女子を座らせて、俺とサイナは机の左右のソファーに座る。

「聞かせて貰うぞ。ソソギについて、ここまで付き合ってやったんだ全部話せ」

 ネガイとイサラは女子の後ろの斜め後ろに立った。

「‥‥何が知りたいの?」

 気丈だった。

 この状況でも態度を崩さずに背筋を真っ直ぐにしている。顔から汗一つかいていない。

「結論から聞く、ソソギは今ここにいるな?」

 俺が核心をつく、それでも表情一つ変えない。

「‥‥誰かからソソギがここに来るのを見たと聞いたのですか?」

「いや、勘だ。だけど当たりだったか」

「何故、そう思うんですか?」

「お前が俺達をここに案内したからだ。言われたんじゃないか?俺が来たら真意を聞いて、ここに連れてくるかどうか判断しろと。あのソソギが自分にとって不都合になるような行動をそのまま放置するとは思えない。あれは突破的でソソギ自身にも止められない行動だった。違うか?俺を殴った犯人」

「‥‥」

「お前は俺の頭を見て、大丈夫ですか?と聞いた。オーダーだったら誰にやられた?と聞く。俺がお前の想像を超えて包帯を巻いていたから、驚いてたんじゃないか?」

 現在、この頭蓋はネガイに頼んで救護棟で目を覚ました時以上の包帯を頭に巻いている。

 それを掴み取り、本来の量に戻す。

「もう一つ。ソソギは査問学科として近づいてきた。俺の物の事なんか聞いてないし、知らなかった筈だ。この事を知っているのは身内か、マトイとの話を聞いていたお前ぐらい。あと、これは言っておく。俺はオーダーだ、後ろからの一撃を許したのは自分に責任がある、それをとやかく言う気はない。だけど返して貰う」

「嫌だ、と言いたら?」

「死んでもらう。ソソギ共々」

 この言葉を予想してなかった訳ではないらしいが、そのものが出てきて面食らっていた。目線は外さないが、スカートの上に置いてある手の指がスカートの布を触り始める。

 マトイは知っていた。彼女がソソギに連絡して俺に接触してくる可能性があると。

「聞こえてるかマトイ?」

 制服裏のマイクでマトイに聞く。

「聞こえています‥‥」

「ソソギが近づく事は知っていても俺が殴られて気絶、あれまで奪われるとは思ってなかったみたいだな」

「‥‥」

「俺があの時ここから逃げるのは想定内。ミトリかネガイと会って二人で行動するのも想定内だったみたいだが、ミトリがシズクを心配して戻る、俺が一人でネガイを探す事までは想像出来なかった。ソソギがこんなに直接的に行動を起こすのも」

「‥‥その通りです」

「これもマトイが教えてくれた事だ。ごめんな弱くて。それとありがとう、帰ったら覚悟しとけ」

 自覚して下さい。あなたはもう人間ではない。

 ならば周りの人間は俺を人間扱いしなくなる。マトイはそれを教えてくれた。

 マトイとの通信をやめて、女子に向き直る。

「ソソギを連れて来い」

「出来ません」

「俺は今機嫌が悪い、二度目は無い」

 知らず知らずのうちに表面上に現れた殺気に気圧され、ようやく指示に従った女子は部屋の外に出て行く。使用人服さえ軽やかに着流す姿に、声が出なかった。

「逃げられるんじゃない、大丈夫?」

 イサラが当然の疑問を聞いてきた、俺は天井を見て。

「なら追いかける。どこまででも、殺してでも」

 自然と口から出てきた。オーダーなのにこんな言葉ばかり出てきてしまった。

「‥‥変わったね。人じゃないみたい‥‥」

「ソソギにも言われたな、それ」

 イサラからの言葉を、もう俺は受け入れていた。俺の思考は人のそれから離れていっている。いや―――人がここまで造り上げたのだ。これが人の本性なのだろう。

「でも、悪くないよ。中等部の時よりも、大人になった感じがする」

「まだ3ヶ月前だぞ?そんなに変わってねぇーよ」

「うんん、変わった。なんだろう、余裕が出てる気がする。彼女が成長させたのかな?」

 イサラがネガイの方を見ている。ネガイもそう言われて悪い気はしないみたいだ。

「そうですね。会った時よりも幾らか大人になりましたね。でも子供に急に戻る時があるので、その時は大変ですね」

「あ、やっぱり。面倒くさい時とか、自分のわがままが通らないと、シズクと私をいつも困らせてたから。それにサイナにもね」

「昔からそうなんですね」

「はい♪昔からそうですね〜♪」

「昔からそうだね」

 3人が3人、猫でも見てくるような目を向けてくる。イサラとサイナは昔から付き合いだが、ネガイとは初対面だった。なぜこんなにも和気あいあいとしていられるのか、想像もしていなかった。

「そんなわがままじゃなかっただろうが」

「いや、かなりのものだったよ。車両の運転とかサイナがいなかったら絶対に私とシズクに任せなかったし」

「そ、それは、あっはは‥‥」

 率先してハンドルを握り続けた同じ側のサイナが、乾いた笑いをする。

 サイナは知っているからだ、イサラとシズクの運転がどういうものかを。

「後、二年の頃なんだけどね。色々あって私達4人でテントを作って寝るっていう、ちょっとしたサバイバル実習があったんだけどね」

 ネガイの額端に何かが浮かんだ。

「狭いから車両で寝たいとか言って勝手に出て行こうとするから、私達で止めてサイナと私で抱えて一緒に寝るっていうわがままを」

「誰とでも一緒に寝るんですね」

「あれはお前達が俺を窒息させたんだろう!!」

 あの時、女子3人でうるさいから逃げるように出て行こうとしたが、3人から夜出たら怒られると言われて3人に押し潰され気絶した。

「気絶して朝起きたらそんな状況で!!しかもイサラは寝ながら腕や肩を決めてただろうが!!」

「ありましたありました~そんな事♪その時からわがまま癖がつきましたよね♪」

「わがままを言えば甘えられると、確かにあなたが私に甘える時はいつもそうですね」

 そんな思い出話をしていると、扉が叩かれた。

「部屋の準備が出来ました」

 扉を開けて、あの女子がそう言ってきた。

「準備?なんの準備ですか?早く連れてくればいいものを」

 敵意を剥き出しのネガイが、レイピアに手をかけて言う。

「連れては来れません。あなた一人で来てくれと」

「何様だ?お前達が俺から奪ったんだろう―――立場がわかっていないみたいだな。‥‥良いだろう、ただしイサラを部屋の前まで連れて行く、何かあったら制圧科が突入してくると思え。イサラも良いな?」

「いいよ。安心して何かあったら守るから」

「‥‥こちらに」

 ネガイとサイナは何も言わずに今の条件に納得した。いや、していた。

「お任せしますね〜♪」

 二人に見送られた俺とイサラは廊下を歩き、曲がり角の奥の劇場行きエレベーターまで案内される。このエレベーターは元は機材搬入等に使われていたが、今は大人数を一斉に運ぶ目的で使われていると、マトイから言われていた。

 だから、エレベーターの前で横のイサラに向いて話しかける。

「返すなら今の内だ」

 それに反応したイサラも、こちらの様子を伺った。

「え、なんのこと?今から返しにもらって―――」

 頬を軽く叩くつもりで手を振るが、顔を横に、姿勢を低くして避けられた。空振りに終わった手は髪を軽く撫でるだけにとどまる。

「バレた?」

 横にした顔のままで、見上げてそう発した。

「あの脇差しの価値を正確には知らないが、漠然とだが知っていて無理にでも奪う奴がいるとすればお前だ。俺を気絶させてでもな」

 気絶した時、俺は片膝だった。

 ならば、この背の低い女子でも殴れるだろうが、この背格好や腕では無理だ。

 どこまで行ってもこの子はまだ数ヶ月前には年相応の中学生だった。重い拳銃や鈍器を音も無く男の頭に振り下ろし、意識を奪えるとは思えない。

 出来ないからこそ、見た目という武器を使って特別捜査学科に所属している。

「俺が呼んだ時、お前は二つ返事で来てくれた。なんの報酬も取らずに」

「‥‥友達だからだよ」

 イサラが笑いながら目を合わせて、腰のブレン・テンに触ろうとした。

 予測してブレン・テンとイサラの手共々ホルスター、制服を足で壁に縫い付けるつもりで踏みつける。

「痛っ‥‥!本気?」

「いい判断だ。もし手を離さなからそのまま手も踏みつけていた。本気だぞ?」

 ワザと声を発し、左手で掴み上げたスマホで————髪を撫でた時に取り付けたスピーカーから《357マグナム弾》の発砲音を起動させる。

 シズクがマイクの話を参考に、試作品として作成した代物だった。

 相手の耳元につけないと意味が無いから失敗作だと言っていたが。

 だがスピーカーからの音だとわかっても、耳元から聞こえる音は前線にいる制圧科なら絶対的に、反射的に反応してしまう。

 イサラが優秀ならば優秀なほど————身体が無意識に反応する。

 唐突な左耳からの発砲音にイサラは平衡感覚を失い、真っ直ぐに立てなくなる。

 一瞬だが、少し下を向いた頭蓋のこめかみに、右手で抜いたM66を押し付ける。

「‥‥耳、おかしくなったらどうするの?」

「それはシズク作だ。それに、この程度なら平気だろう?腰の武器を寄越せ」

 イサラが大人しく腰のホルスターベルトを外すのを確認して制服から足をどかす。予想通り――――背中に仕込んであった脇差しも返して来た。

「それ、大切だから壊さないでね」

 ブレン・テンだ、と視線で示してくる。

「知ってる。戻せ」

「え、あ、はい」

 女子に脇差しを渡して、腰に空いている脇差しを入れるベルトの穴に仕舞わせる。

 全てが整ったとき、ブレン・テンをセーフティーを掛けて床に落とす。同時にスマホを仕舞った左手で杭を抜き、片足を上げる。

 そのまま杭をブレン・テンの上に落とし、丁度杭が突き刺さる所で杭を上から踏みつける。面白いぐらいに簡単に杭はイサラのコレクションと床を貫いた。

 軽い、この杭の本来の使い方はこうだと改めて理解した。

「‥‥私、結構怒ってるよ」

「知らなかったか?俺はお前に会った時から、殺したいと思ってた―――」

 M66の底でイサラの頭を殴りつけて、尻餅をつかせる。

「すごい目。本当に人が変わった、人じゃないみたい‥‥」

「どうでもいい。今すぐ部屋に戻って耳を冷やせ。オーダーの武器を奪ったんだ、この程度で良かったと思ってろ」

 両耳を抑えながら、そんなどうでもいい呟きをしながら見上げる。

 イサラという強者でも怖いという表情をするようだ―――良い事を知った。

「‥‥逃げるかもよ」

「なら殺してでも追いかける。覚悟しろ、お前が相手にしたのは人間じゃない」

 イサラに向かって本物を発砲する。

 狙いはイサラの足。

 当てはしなかったが、身内からなんの躊躇もなく撃たれ、逃れば足を貰うという警告は確かに伝わった。

「‥‥わかった、大人しくしてるよ」

 銃を仕舞ったのを確認して立ち上がり、亡骸の転がる足元を俯瞰した。

「大変だったのに、それ手に入れるの」

「感謝してさっさといけ。それとこの残骸も。これを持ってネガイに見せろ。俺から復讐されたってな。さもないとあいつはお前を刺す」

「‥‥二人そろって怖いなぁ」

 退けた足の下にあるブレン・テンの亡骸を抱えてホルスターと一緒に持っていく。

「まだ来ないのか?」

 床の杭を抜いて聞く。エレベーターはもうこの階で止まっていた。

「‥‥乗って下さい」

 特別捜査学科の生徒を急かして、エレベーターに乗り込む。

「気付いてたんですね」

 俺はエレベーターの右奥に女子はボタンのすぐ近くに陣取っていた。

「お前じゃ、難しいと思ってた。それにあいつはいつも腰にボウイナイフを挿してた。それがないからそう思っただけだ」

「もし、挿してたら‥‥?」

「それでも俺はやってた。あいつが持ってないなら、早く探して持ってこいとか言ってた」

「‥‥子供みたい」

「お前が言うのか。自分の為に人の血を奪っておいて。俺がオーダーで感謝しろ。オーダーでなかったら」

「殺す?」

「その目を貰ってた」



「ここか?なら開けろ」

 劇場舞台の外、円の外側のような場所でベンチや自販機がある休憩エリアを抜けて控室エリアに連れて行かれる。ふたりで控室の一室の扉の前にいた。休憩エリアは現代的だったが、ここも床は赤い絨毯で洋館の廊下のようだった。

「はい、どうぞ」

 ノブを警戒して開けさせる。言われなくても生徒は自ら部屋に入って行った。

「よく座ってられるな」

 ソソギがソファーに座っていた。やはりここも控室というかロールプレイ用の部屋に見える。ここまでだと誰かの趣味にも見える。

「さっきぶりで、もう夜だ。早く血を返せ」

 ここまでの道中で心底血が回っていた。だから向かいのソファーにも座らずに座っているソソギに近づき上から見下ろす。

「‥‥取引がしたい」

 見上げたソソギが言ってきた。

「法務科とやれ、俺の知った事じゃない。三度目はない返せ」

「‥‥お願いします」

 ソソギが立ち上がって土下座をしてきた。混乱してしまった、コイツはこんな奴じゃなかった筈だ。

 あの時だって、俺やサイナ、マトイを必要ともせずにカルテル共の一組織を追い詰めていた。

「‥‥話だけでも聞くか。もういい、座れ」

 向かいのソファーに座ってソソギにも勧める。正直、見てられなかった。

「今、お茶を」

「いらない。出ていけ」

 何かを用意しようとした女子を止める。それを聞き、一瞬ソソギを見た。

 会った時とは全く違う俺に警戒心を隠さずにソソギを気遣う視線を向けるが、ソソギならばと部屋から出て行った――――想像もできないほどの絆で繋がっている。

「それで、なんで俺の血を欲しがった?」

「‥‥言えない」

「あの子の死体が見たいのか?」

「やめて!」

 珍しく大声を上げた。それすら―――怒りに震えた。

「‥‥冗談だ。本気にするな」

「冗談でもやめて!」

「俺だってこんな冗談言いたくないんだよ‥‥!!」

 ソソギとの間にある木の机を蹴り上げてソソギ側のソファー、真横に落とす。

「お前の目的も、古い友人も、想い人も、皆んなだんまりだ。しかもお前やイサラに至っては気絶で盗みか?オーダーっていう立場がこんなに嫌な事はない‥‥」

 何もかもが理解できない。後回しになど出来ない臨界点へ到達してしまっている。

 こうしている今も押し黙っているソソギの首を絞めていないのが不思議なぐらいだった。オーダーという理性がなければ、とうに血祭りにあげていた。

「なんで俺はお前を殺せない?なんで殺してはいけない————俺はお前を殺せない。納得出来る理由を教えろ。でないと、俺はお前を殺さない程度に奪わないとならない。あの子にもだ」

「私は、それでも‥‥」

 目線を外して答えるが、納得できる回答などまるで弾いていなかった。

「外の子は、友達か?」

「‥‥そう」

「なら縁を切れ。あの子にも何にも教えて無いんだろう、どうせ」

 ソソギは俺からの声にまとも反応出来なくなった。

 だが、それでも俺の血を返してこない。

「答えろ、なんで俺の血を奪った」

 なかなか答えないソソギに怒りが収まらない。腰から脇差しを抜き、親指で鍔を弾く遊びを始める。部屋の中には鍔遊びの音と、掛け時計の秒針の音だけが響く。

 いっそのこと外の子を刺して反応を見るか?と思っていた時、ソソギが答えた。

「‥‥家の事だから、言えない‥‥。あなたと同じだから‥‥」

 ソソギの言葉に内臓が凍りついた。

「家と俺の血に、なんの関係がある?面倒な嘘はやめろ」

 焦ってしまっている。ソソギの言葉に思い当たった事があるからだ。一定だった鍔遊びの音を鳴らせなくなってきた。

「あなたはわかってる」

 ソソギの目から目を離せない。悟られないようにしたいが、もう呼吸が乱れてしまう。鍔遊びなんか既に出来なくなっている。

「‥‥あなたが捨てられたって聞いて思い当たった事がある。私は誕生種のβもしくはBプラン。あなたの誕生種、聞いていい?」

 ソソギが心臓を抉ってきた。その言葉を知っているのは、あれに関わっている奴らだけだから。

「お前‥‥まさか、お前もなのか‥‥?」

 立ち上がってソソギを見つめる。あり得なかった、俺の家の事を知っているのも、そして同じという言葉も――――信じられなかった。

「私はあなた同じように捨てられた、そして同じやり方で造られた」

 ソソギの言葉を理解出来てしまった。俺と同じ?目に造られた話じゃない。

 これは俺とソソギにしか理解し合え得ない内容だった。俺は人としてある程度育成され、親と思っていた大人の教義通りの理想の存在に作り上げられる筈だった。

「あなたはそれでもある程度人として生きて来れた筈。家というプランだったのなら‥‥」

「お前は、違うのか?」

「—――私は研究所で比較だったから‥‥」

 同じだった。俺とソソギは、同胞だった。

「世間は狭いな‥‥。お前はどこだったんだ?」

 力なくソファーに座り込んでしまう。なんとか背もたれに両肘をかけて、足を組んでソソギに聞いてみる。

「‥‥ここに来る時は目隠しだったから、日本かどうかもわからない‥‥」

 帰り道を覚えさえない為か。ソソギの言葉を聞くと、加速度的に親近感を持ってしまう―――なぜ気付かなかったのか。あの方の血を受けたからだろうか。

 ソソギの雰囲気は、紛れもなく同胞だった。

「‥‥そうか。俺はまだ家って言える物はあったけど、もう帰れない‥‥。次の培養体がいるらしい‥‥」

「私も、あなたと一緒で捨てられた‥‥」

「俺は集団で大量に造った中の一つに過ぎない―――量産品のヒトガタだ。ソソギはβプランなんだろう?組織でのβプランなら俺よりも格上じゃないか‥‥。いつか誰かが迎えに来るんじゃないか?」

 それが世に悟られないように各家庭や各研究室が育てて行く。その結果、ヒトガタたる我らの親にあたる人物達の望み通りの形になる。けれど―――ある日を過ぎた時、お前は失敗作だと言われた。

 親だと思っていた人からのこの言葉に仕打ちは、つらかった。

「そんな事ない!」

 ソソギが叫んだ。俺も、自分で言ってあまりにも残酷だと思った。

「わかってるはず‥‥。ここでソソギとして生きられても、もう誕生種を達成出来ない。私達の存在意義は創造主の求めるままに振る舞う事、それが出来ないから私達は捨てられた‥‥。あなたは、あなたはどうして?」

 ミトリに言えなかった話だ。でも、同胞には話せる。

「俺は‥‥人間に負けた。ほんの些細な事だったよ、俺は人との競争に負けて、失敗作って言われた。アイツ、シズクだ、アイツに負けた―――いや、違う。ヒトガタとして生きられなかった。それ以外にも色々あった‥‥。俺達は、なんなんだろうな‥‥、勝手に生まれて、勝手に捨てられて‥‥」

 同胞だと思ったら仲間意識が芽生えた。こんなにソソギと話した事はなかった。

「それと、俺の生育者は私達が求めていたの究極の人だ、とか言ってたな。俺はその人になれなかった、人より弱い化け物だと‥‥」

「そう‥‥、私は究極の門を造る為に造られた、どう違うのかわからない‥‥」

 究極の人と究極の門か。当の俺達がわからないのだ。あの人間達では一生辿り着けない場所だろう。

「外の子もか?」

「わかった?彼女も私と同じ目的だった。でもカレンは、あなたと同じで廃棄処分—―ごめんなさい‥‥」

 廃棄処分か、懐かしい響きだ。ここに押し込められる時、確かにそう言われた。

「いや、俺はここに送られる時は金も持たされたんだ。廃棄処分だ、なんて言えない‥‥。いるんだろう?本当の廃棄処分が‥‥」

「‥‥いる。カレンがそうなる所だったから、私が止めた‥‥。だから私はβプランになった‥‥。多分捨てるには惜しいと当時は思ったんだと思う」

 あの外の子カレンがあそこまでソソギを守ろうとしたのは、そういう事だった。

「‥‥待っててくれ」

 立ち上がった俺は扉を開けて外で待っていたカレンを呼ぶ。

「さっきは悪かった‥‥。お茶を頼むよ」

「‥‥はい」

 蹴り飛ばした机を元に戻し、お茶を待ちながら入室させたカレンの後ろ姿を、ただ眺めてしまう。

「‥‥聞いたんですね。私達の事‥‥」

「聞いた‥‥。悪い、気が立ってた」

「私も‥‥、何が起こっているのかも分からずに殴られて、盗まれたら、同じ事をしていたと思います‥‥」

 カレンがIHを使って水を沸騰させ始める。どこに何があるのかわかるらしく、戸棚から茶葉やカップを取り出し始める。

「私達も焦ってた‥‥、あなたの血の事を聞いたから‥‥。イサラさんが刃物を盗んだのも私が言ったから‥‥怒らないであげて、彼女も迷ってた。ここに来たらやっぱり返すとも言ってた」

 少しは抵抗をすると思ったが、ただやれっぱなしだったのはそういう事だった。

「ブレン・テンでも持って謝っておくよ—――マトイ、いるか?‥‥これを聞かせたくなかったのか?」

 制服内のマイクに声をかける。少しノイズと共に声が聞こえてきた。

「‥‥ごめんなさい。‥‥聞きました、あなたの家の事も‥‥」

 吐きそうだった。

「素直だな‥‥」

 ミトリの声を聞き届けた時、肩の力が抜けて天井を仰ぎ見てしまう。

 何を言えばいいかわからない、いつかは話す時が来ると思ってた。あきらかになる時がいずれ訪れるってわかってた。それが少し早くて、不意打ちだっただけだ。

「‥‥後で話そう」

「はい‥‥」

 制服の内ポケットに戻してソソギを見つめる。

「‥‥ごめんなさい」

「謝るなら血を返せ。これでミトリを泣かせたら、本当に俺は死ぬしかない」

 もう一度天井を見る。雰囲気出しの為か、シーリングファンが明りを付けながら回っている――――目を瞑る。

「‥‥なんでこうなんだろうな。生まれを知られただけで‥‥」

 ソソギが何かを言ってくるが、何も聞きたくない。

 親がいないなんて、この学校ではよくある話だ。危険な銃火器を持ち歩き、一目では危険とわからない犯罪者に向ける。そんな事を許す親はそうそういない。

 だから自然とそういう溢れ者がここに集まる。勿論、親としっかり相談した生徒もいる―――家への仕送りや、家との縁を切る為の、

「話す時は私も」

「それに何の意味がある!?」

 ソソギの言葉が許せなかった。

「どうせバレたって?そうだ!いずれ話す時が来てた!俺が話すって約束したからだ!!」

 俺とミトリの約束など知る筈もない、それでもソソギに当たるしかなかった。

「お前達はどうだったんだ?バレたのか?話したのか?」

「‥‥私達は」

「元から知ってたいた人以外には、今まで誰にも」

 机へお茶を置きに来たカレンの声に、我慢が出来なかった。

「‥‥殺しますか?」

 左手の逆手持ちで脇差しを抜いて、カレンに胸元に突きつけていた。視線を向けずに刃だけ制服に差し込んで。

「謝りません。約束していたのでしょう、自分で言っていました」

「殺せないって、思ってるのか?」

 息の乱れが止まらない。開けた目を閉じられない、目をつむれば―――血を見ないで済むと思ってしまう。

「‥‥私達は、こういう生き物です。今のあなたの痛みはもう越えてきました」

「だから受け入れろと?」

 前髪越しの目を化け物の眼球で射抜く。喉が動くのが見えた、覚悟の上だった。

「‥‥私は受け入れています。自分が、捨てられたのも含めて」

「そんな奴が俺の血を盗んだのか!?」

 脇差しを突き上げる。それに従ってカレンの一歩後ろに下がり続けた―――俺はそんなカレンに脇差しを向けながら部屋の隅に追い込む。

「受け入れろだ!?お前こそ受け入れたくないから血を奪ったんだろうがよ!!」

 部屋の隅追い込んだカレンの喉に、マトイを切った手のひらサイズのナイフを突き付ける。ナイフを突きつけた時、カレンの首から薄ら血が流れた。

 ヒトガタの血を白いYシャツが血を受け止めている。

 気丈な表情を崩さない、だが目は怯えきっている。少しだけ緑がかった色だ。

「私‥‥私にも受け入れられない事だってある!!捨てられたのは仕方ない、だって!私が失敗作だったから!」

 叫んで膨れた喉がナイフの先端を受け入れて、更に血が流れる。

「でも!ソソギが捨てられるのは受け入れたくない!!ソソギは主の為に必死だった!」

「だからなんだ!?どこにいるかもわからないお前達の飼い主に俺も従えっていうのか!?」

 胸元の脇差しに手応えを感じた。肉に触れた。

「俺は人になりきれなくて!人に見られなくても!受け入れてくれる人がいたんだよ!俺を見てくれる人間達が!!」

 胸元のYシャツの生地に血が滲み出てきた。カレンは痛みを感じているのに、この顔をやめてこない。

「人とヒトガタは違う!私だって、人じゃないって知られるのは怖かった!ならヒトガタとして生きるしかないって決めたの!!」

「だからヒトガタを利用するのか!?いつから主の立場になった!?」

「あなたは人じゃない!人じゃないなら、私はあなたを苦しめられる!!」

 決めた。殺さなくてはならない。

「なら俺も苦しめられる、ヒトガタにあの世があるかどうか確かめてこい!」

 喉元のナイフに力を入れる。簡単だ。この細い首の中身を抉ればそれで終わりだ――――けれど、ナイフが動かなかった。

「‥‥やめて、下さい‥‥」

 動かないナイフを見ると、ソソギが素手でナイフを掴んでいた。ナイフを囲んでいる両手から血が漏れだし、俺の靴を血で汚していた。ソソギが、あの夜に謝ってきたネガイに見えた。

「カレンは私の家族‥‥だから殺さないで‥‥」

 ソソギの震えた声を初めて聞いた。なぜだ――なぜ、そんな人のような声を出す。

「‥‥なんで。なんで俺には優しく出来なかった‥‥。同じヒトガタなのに‥‥」

 ソソギの手に構わず力を込めてカレンに突き刺そうとしたが、動かない。

 それどころか脇差しすら動かない。脇差しはカレンが両手で掴んでいた、このまま刺しても、引き抜いても親指から上の手を切り落とせる。俺の靴を汚していたのは二人の血だと気がついた。

「やめて‥‥。殺さないで‥‥」

 見なければよかった、カレンの顔がマトイに見てしまった。

 もう、俺には二人を殺せない。

 ナイフと脇差しから力を抜き、ゆっくり引き戻す。離した二人の血が靴と木の床を汚していく。

「‥‥手、出せ。薬がある」

「あの‥‥」

「まずは傷を治そう。話は、後でいい‥‥」

 二人をさっきまで座っていたソファーの向かいに座らせる。制服のジャケットを机の上に置き、二人の手を置かせる。

 棚にあった銀のトレイを二つ持ってきて、それも制服の上に置く。

「これ自分で?」

「‥‥サイナだ。あいつに仕込ませた。好きに使え、こういう時の準備だ」

「ありがとう‥‥」

 俺の上着にはハサミや包帯、そしてアルコールスプレーなど応急処置の薬が仕込んである。そして止血剤。ソソギは手のひらを使わずに指だけでガーゼを摘んで、水で傷口を洗い血の汚れを取っていく。

「手を見せくれ」

 カレンの手の甲に触れて、傷口を確認する。

「痛いだろうけど、広げて‥‥そうだ。そのまま‥‥」

 カレンの顔を見れなかった。今もカレンは気丈な顔をしていると思って傷の治療を始めた。それほど強く掴んでいなかったのか、それとも―――俺自身が強く動かせていなかったのか。カレンの傷は深くなかった。

「‥‥血は多くない。自分で洗うか?」

 備え付きの銀のトレイを見ながら言う。

「‥‥やって、私には見えないから」

「血が苦手か?」

「‥‥うん」

 カレンの手のひらに水で浸したガーゼを押し付ける。傷口の周りを洗い流してから止血剤を塗っていく。白い手に真っ赤な血が、よく映えていた。

「もっと使っていい。お前の傷の方が深いだろう」

「‥‥わかった」

 ソソギに止血剤を勧める。遠慮してか、俺にこれ以上借りを作りたくなかったのか、全く薬を使っていなかった。

「包帯は使い切るつもりでいい。あと防水フィルムも使え、感染症になる。カレンは外で遊べたか?」

「‥‥たまにだけ」

 ヒトガタは、生育者によって環境や生活が大きく違う。俺達を人間として扱って意味がないから。死ぬまで外に出れず、実験や検査を永遠に続けるヒトガタも中にいるだろう。外の病原菌への抗体が全く無い同胞もいるかもしれない。

「あなたは遊べた?」

 カレンが聞いてきた。カレンの手のひらに包帯を巻いて、包帯止めのゴムのテープをきつめに巻いていく。

「遊べてた。普通がどれくらいかは知らないけど、普通に外で‥‥。シズクとか、人間の子供と一緒に」

「‥‥羨ましい」

「そんなにいいもんじゃなかった。どいつもこいつもわがままで、足が遅い奴とかもいて、そいつが入るといつも隠れんぼだった」

「‥‥やっぱり、羨ましい」

 治療が終わると、カレンは両手を自分の胸に戻した。本当ならここで白い手袋でも渡すべきだった。特別捜査学科の女子に怪我をさせたとわかったら、俺は教員にもバカな男達にも狙われる。

「私にも巻いて。自分じゃ上手く巻けない」

 ソソギが包帯だけ巻いた手を見せてくる。無言でソソギにも包帯止めを巻いていく。同じヒトガタの女の子でも手が違う―――同じくらい白いのに、筋肉質だった。

 俺は俺以外のヒトガタの男は見た事がない。他のヒトガタは二人が初めてだった。

「いつ頃気付いた。自分がヒトガタだって」

「‥‥私達は自己の認識を始めた時には既に知ってた。そう言われてたから‥‥。あなたは自動記述?」

「‥‥ああ、俺は捨てられてから数日後だった」

 人にとって初めて両足で歩けた、初めて喋れた、と同じような意味でヒトガタには自動記述と呼ばれるものが備わっている。

「当時は、驚いたしつらかった。‥‥せめてもの救いが捨てられたほんの数日後だった。自分がなんで捨てられたか、なんとなくわかったから‥‥」

 鳥は何故飛べる?魚は何故泳げる?生まれたばかりの動物な何故立ち上がる?言葉など使えない、練習などできないのに。

 俺達にとっては、それが知識だった。自然と自分が何者で、何故捨てられたのかを理解してしまう。いくら拒否したとしても、襲い掛かるように血が教えてくる。

「俺は成育者の望み通りに成長出来ないと判断された。言動や行動、受け答えに無意識な仕草、その結果がここだ」

 小学校卒業少し前に荷物をまとめて捨てられて、渡されたのがここの願書だった。玩具や服、気に入っていた靴も全てゴミ袋に詰められていた。俺のいた痕跡を全て消した家は、他人の家のように寂しかった。

 帰ってきた時の家の光景は、別の家に紛れ込んだ気持ちだった―――生育者達も、俺をそう扱った。

 ソソギの手に包帯止めを巻き終わり、血で汚れた銀のトレイを流しに持っていく。

「‥‥明日にでも治療科に頼れ」

 背中を向けたままで二人に伝える。自分でやっておきながら何を言っているとは、わかっていた。だけど―――気を回さない訳にはいかなかった。

「‥‥いいの?私達、あなたの」

「怪我人に敵も味方もない。それにふたりの傷は俺がつけた‥‥」

 銀のトレイは綺麗になったが、念のためアルコールで除菌しておく。

 こんな事をしてなんになる。こんな事をしてもふたりはただでは血を返さない。二人は死んでも返さないわかる。俺もそんな気持ちを持っていたからわかる。

 ヒトガタの気持ちは自分が一番知ってる。

 外から足音と車輪の回る音が聞こえてくた。そして開けられた扉からはマトイと、マトイを押したネガイだった。

 どんな顔をすればいいか、わからなかった。それでも全てを知っているのが、この二人で良かったと思ってしまう。

「ネガイも聞いてたのか?」

「‥‥聞いたのは今です。変わった血液型とは思っていました。‥‥だから知っても、驚きませんでした」

「‥‥そうか‥‥。いつからそこにいた?」

「あなたが怒鳴って誰かに詰め寄っている時です」

 俺がカレンに脇差しを向けている時からだった。

「‥‥止めなくてよかったのか?」

 流しに両手をついて除菌をした銀のトレイを眺める。自分の顔が歪んで化け物に見える。

「あなたなら止まるとわかってました」

 嬉しかった―――苦しかった。

 あの夜を俺は越えられているとネガイは信じてくれていた。

 ネガイの言葉のおかげで、引きずっていた怒りと狂気が和らいでいくのがわかる。幾らか映っている顔がマシに戻っていく。

「それに、もし止められなくて‥‥私はあなたを肯定していました」

「‥‥ありがと。でも、今度は俺を刺してでも止めろ。もう一人にさせたくない‥‥」

 俺はソソギに視線を戻して目を合わせる。ソソギも、もう隠せないと思って2人を呼び入れた。机を元に戻した部屋の中に全員で腰を落ち着けた。

「もう‥‥、皆んな知ったのか?」

 俺から問いに誰も答えない。それが答えだからだ。ミトリが知っているんだ、ならサイナも知ってるに違いない。

「全部、話すしかないな‥‥。いいな?二人とも」

 二人から確認を取った。けれど、それは全て自分の為だった。自分の逃げ場を無くして話すしかないと言い聞かせる為に過ぎなかった。

「私が言う。私も、カレンも、彼も、ただの人じゃない‥‥。試験管を膣にした、ヒトガタ。ホムンクルス、ムーンチャイルドって言う人もいる‥‥」

 ソソギが率先して話してくれた。いずれ言おうと思っていた事だ。その時が今来ただけだ、何も問題はない。なのに、こんなにも―――なぜだ。

「マトイはいつから知ってた?俺達がそうだって‥‥」

「‥‥ソソギさんについては、前から。そういう計画の元—―」

 マトイが言葉を取り止め、ソソギを方を見て何かの確認をとる。ソソギはそれを無言で頷いて許す。

「彼女は‥‥スペアとして造られた存在。彼女は器としてオーダー校に入学したと調べてわかりました‥‥」

 器、俺はそれを聞いても何も思い当たる事がなかった。俺は理想そのものになれと造られた命、とある血と―――貴き者の血と呼ばれる何かと、総じて何かの肉塊、それはハーブであったり精子であったり―――を混ぜられて造られる第一世代。

 混ぜる血は引き取った連中が用意しないとならない。

「ソソギさんについては調べていたから、いずれあなたに関わってくるってわかってた‥‥。あなたの血はこういう意味でも貴重な存在だって教えるつもりだったんです‥‥。でも、あなたまで‥‥」

 マトイは俺に教えようとしただけ―――やり方を間違えてしまったが。

「マトイ‥‥、俺はずっと疎外感があったんだ‥‥、だから俺にも同胞がいるって教えてくれてありがとう。それにこういう事が今後も起きるかもしれないって教えてくれた事もな。でも、今度はもう少しだけ優しく教えてくれ」

 俺からの注意をマトイは目で受け入れてくれた。マトイからの教えは実体を持つからこそ、いい勉強になってしまう。

「ソソギ、お前は器って言ったが、それは俺の誕生種とはかなり違うのか?」

「私の役目は貴き者の血を受け入れて目的の存在になり、至ることが目的、その計画のBプラン‥‥。私の誕生種は血を使って究極の門を完成、もしくはそこにへの到達。でも本当の目的はその先、門の先に行くことらしい‥‥。私も詳しくは知らない‥‥」

 ソソギは一年で査問学科のエリートコースに入った特別な生徒、そんなソソギがBプランだと言った。どれだけのモノを求められていたのか想像も出来ない。

 けれど、俺の血を求めた理由は―――わかってしまった。

「俺の血でAプランに移行したかったのか?」

「‥‥あなたの血は、私が所属してた場所の物とは比べ物にならない血だと思ったから」

 それを手土産に、そして自分で受け入れる為に。

「私が言ったんです!私が彼の血は特別だって!だから二人で戻って見返そうって!」

 隣のカレンがそう叫んで立ち上がった。マトイに目で聞くが、首を振る。もう一度受け入れられる筈がない。一定でも彼らへの知識があれば、誰もが辿り着く結論であった。

「俺も、そう思うよ。受け入れる筈がない」

「違う!ソソギなら、きっともう一度受け入れてくれる!私はダメでもソソギなら!‥‥私は彼と同じ廃棄処分だから‥‥」

 廃棄処分と何度も言われると、やはり俺は捨てられたのだと実感する。

 俺も、もしかしたらもう一度迎えに来てくれると思っていたから。目を閉じて黙っていると、膝の上に置いてある手に手をが重ねられた、ネガイの手だった。

 重ねられている手を裏返して指と指を繋ぐ。

「廃棄なんて言葉、彼に使わないで下さい」

 カレンの言葉が気に障ったネガイは脅しではなく本気の声色で、守ってくれる。

「早く血を返して下さい。彼はもう帰りますから、私達と一緒に」

 ネガイが立ち上がった事で、自然と腕を引かれて立ち上がってしまう。

「サイナが車の準備をして待っています。今日は私と一緒に寝ましょう、必要ならシャワーも一緒に。それで終わりです」

「あなた達は、今オーダー所属です。だから戻った所で追い返されるか、処分されるか―――そのどちらか」

 マトイも足元にあるステップのブレーキを外した。

「法務科としてあなた達に命じます、今すぐに彼の血を返して。さもないとあなた達はオーダーの所属すら剥奪される、その場合あなた達は血もない、オーダーでもない、そんな立場で元々の場所に送り返される。‥‥どうなるか、わかりますね?」

 マトイが脅しにかかった。

 自分にも言われている気がしてしまい―――2人を他人と思えなくなる。

「せめて逮捕して、話を聞くとか出来ないのか?それで司法取引を」

「‥‥今なら出来ます。でも、」

 マトイが言葉を詰まらせる。次の言葉をどう表現すれば良いのか、わからないんだ。この2人は俺と違って、まだ失っていないから。

「なんですか?この2人は帰れないなら、全て話して捨てた人を逮捕すれば」

「よせ!」

 俺はネガイの手を強く握って叫ぶ。

「え‥‥、私は」

「それを俺達に言うな!」

 遅かった。ソソギとカレンの目に深い影が差した。

「‥‥私達の主人を逮捕するんですか?」

 カレンが暗い目で言った。

「落ち着け!まだそう決まった訳じゃない!話を」

 無呼吸だった。ソソギとカレンが机に手を突いて乗り出してネガイとマトイをそれぞれの肥後守で刺そうとしてきた。

 俺達は一瞬で手を離し、俺は警棒状態の杭を右手で抜き、太い刀身でマトイへ向かう肥後守の軌道を外側に弾く。ネガイは躱して寧ろカレンの腕を捻り、机にカレンを叩きつけてこめかみにsig proを突きつける。

 ソソギと杭を持った腕越しで正面から睨み合う。その時には左手でM66をソソギの胸に向けていた。

「俺に同胞を殺させる気か?」

「私達の主を害する気?」

 ふたりはまだ捨てた人間を主だと思っている。ネガイが主を逮捕すると言ったから―――ヒトガタたるふたりが、主を守る人形としての本能に従ってしまった。

「カレンをどうする気だ!?このまま置いて行くのか!?」

「‥‥私が守る」

 肥後守を離したソソギが、ソファーの背もたれに飛ぶように転がり超える。

「逃げろ!!」

 ネガイはカレンから手を離しソファーから滑り降りるように逃げる。

 ネガイが逃げたほんの数瞬後—――ソファーの貫通と共に木製の壁を破壊する銃声が聞こえた。44マグナム弾、元は西部開拓時代に使われ、現在でも鹿や熊に使われる人ではない生き物に放つ弾薬。

 マトイを車椅子から抱きかかえて、ネガイとのアイコンタクトを1秒もかからず済ませて扉に突っ込む。

 ネガイの縮地により床を軋む音を鳴った瞬間扉を蹴り破られ、俺はその後に続く。

 振り返るどころか背後を気にする暇もないまま、劇場外の休憩エリアまで逃げる。

「ネガイ、マトイを安全な所に‥‥」

 マトイをエレベーター近くの休憩エリアにあるソファーに座らせて、自分の武装の確認をする。

「私は1人でも逃げれます」

「悪いな、今抱えて走った所為でマトイの身体に負荷をかけた。傷が開いてるかもしれない―――俺の為に、無理はしないでくれ」

 動けようが動けまいが、マトイを無理にでも離脱させると決めていた。

「ネガイ、聞いてたな?マトイをサイナの車に移動させたらイサラ共々連れて応戦に。俺1人じゃ、ソソギに勝てない」

「‥‥分かりました、すぐに戻ってきます」

 素直に頷いてくれたネガイに後は任せて控室近くに戻る。

 戻ってきたら部屋はもぬけの殻、2人ともいなかった。俺だけなら話を聞いてくれるかと思ったが、遅かったようだ。

「これは、終わったら賠償か?」

 豪奢なソファーに大穴、壁の表面の黒い落ち着いた材木には親指以上の質量を持つ弾丸がめり込んでいた。

「‥‥あれは回収だ」

 ソソギがあの銃器を人に撃った事はあっても、決して人は殺した事はない筈だ。

 だが、やはり44レミントンマグナムの威力は知っている拳銃の弾丸の中でも群を抜いている。しかもネガイに向かって殺す為に撃った。

 あの武器を許してはおけない。

「‥‥ないか、あるはずないよな」

 ソファーの下やクッションの中、戸棚に壁時計の中を調べるが何もない。

 ここに注射器でもあれば、話し合いの余地でもあったかもしれないが目的の物はどこにもなかった。ソソギかカレンか、どちらか、もしくはどちらもか。

 誰が持っていようが俺は回収しなくてはならない。あのソソギが狂ったように俺の血を求めた。あの血が枝分かれするようにあらゆる組織に渡ったら、俺もネガイもマトイもオーダーに逮捕される。

「‥‥出ていいのか、俺は‥‥」

 ネガイとの旅行も、マトイから誘われている法務科も、ミトリとの合同の仕事も、サイナとの将来も、俺が外に出れることを念頭に置いた約束だ。でも俺の血はソソギという同胞すらも狂わせる。

「俺は外に居場所を作っていいのか‥‥」

「無事ですか!?」

 ネガイの声がした。

「大丈夫だ」

 振り返ると、ネガイとサイナ、それとイサラだった。

「ミトリさんには車の中で治療の準備をしています!どこも怪我は?」

「してないから大丈夫だ。ここは無人だったから」

 無人か―――俺もソソギもカレンも、人ではなかった。

「‥‥ふたりから聞いた?」

「いくらか。俺の武器を奪うのは報酬だったみたいだな、盗人猛々しいってやつか?」

「ちょっと違くない?‥‥ごめん、私も舞い上がってた。そんなに包帯巻いてくるとは思わなかった‥‥」

 イサラはミトリから借りたようでH&KP2000を抜いていた。

「まぁ、これの原因は色々あるから気にしてはいないけどな」

 頭の包帯を軽く触ってサイナを見ると、サイナは薄いアタッシュケースで顔を隠してくる。言いはしないが、責任は感じているらしい。

「サイナ、持ってきた物を見せてくれ」

「は〜い♪お任せ下さいね」

 アタッシュケースの中は俺の銃に必要な弾丸や、止血剤にガンオイル、そしてパーツ一式。現地での武器の破損は暴発の呼水となる。

 少し足元を見てくるが、弾丸の補給は最前線なら最前線なだけありがたい。

「弾を、それと止血剤の補充も、それとグリップのパウダーも‥‥」

 必要な物を注文するとサイナは手元を見ずに渡してくる。弾丸と止血剤の補充が済んだのを見計らって、手袋の上からパウダーをかけて貰う。ケースの中を改めて見ると、なぜか22マグナムもある。ミトリにも売る気だったのだろうか?

「もう逃げた可能性は?それこそオーダー街の外に、」

「いや、それはない」

 イサラからの質問に食い気味で答える。

「なんでわかるの‥‥?」

「イサラは聞いたか?俺の事」

 パウダーをかけ終わり、銃や脇差しが抜けないか武器を抜いて戻してを試しているとイサラが答えた。

「うん‥‥。聞いた、ソソギからね」

「あいつが話したなら、俺も話す。廃棄されたヒトガタに居場所はない。バラせば肥料程度にはなるだろうが。だから逃げ場は無い。ふたりに、オーダー街の外に帰る場所なんて無いからだ。でも隠れる事は出来る。まだここにいる筈だ。サイナ、玄関口から誰か出たか?」

「いいえ、マトイさんとミトリさんからの連絡もありませんし。外には私の車両が置いてありますから」

 この控室から外に出るには、休憩エリアを抜けた先にあるエレベーターか玄関に向かう階段を降りなければならない。控室への道は一本道で、それ以外なら俺が来た方向と逆方向の劇場への道があるだけだ。

「劇場にいる可能性が高い。他にも控室はあるが、先に劇場を押さえる。あそこからしか外に出る道はない‥‥いくぞ」

 武装の補充を終えて、ネガイに目配せをする。

「ソソギは人を殴れるカービン銃を主武装として使う。弾丸は44レミントンマグナム、回転に近い振り方をしてくる」

「分かりました。でも、直線距離なら私に追いつける一年はいません。‥‥武器を破壊します」

「イサラはサイナと一緒にエレベーターまで戻っててくれ。劇場で挟み撃ちを狙う」

 ネガイと共に扉から外に出ようとした時、イサラから話しかけられる。

「私の事、信用していいの?」

「‥‥お前が裏切った所で何も変わらない。どうでもいい事聞くな」

 事実だけ述べて外に出る。早足で廊下を歩きながら武装の最終確認をする。M66の重みやP&Mのスライドを確認していた時、ネガイが背中に手を付いてくる。

「‥‥私のせいですよね。すみませんでした‥‥」

「‥‥いや」

「でも‥‥」

「‥‥俺が言うべきだった。そうすればまだここまで拗れなかった‥‥。違う‥‥どうあれこうなった。覚えておいてくれ、ヒトガタは捨てられても主の為に全てを捧げる。主が捨てたなら、それは自分達が原因だと考えるように作られてる。だから捨てられる。余程の事がない限り主の不都合を喋る事はないから―――」

「‥‥捨てたのにですか‥‥?」

「ヒトガタには生きる意味がそれしかないんだ、それ以外知らない。‥‥俺みたいな、他の目的を持った奴は珍しいんだ」

 俺も未だに家の事を他人に話せないでいる。未だに主を感じているから。

「‥‥覚悟しとけ、あいつらは死んでも主を守ろうとしてくる。本当に躊躇なく―――着いたぞ‥‥」

 わかってた。ヒトガタならば最後はここに来たがると。

 前に入った時から思っていた。俺達ヒトガタが生まれて初めて見る光景に、この劇場は酷似している。母胎回帰とでも言うのか。俺はここが嫌いではなかった。

 生まれた場は、この舞台のように広くて、暗い中でスポットライトを当てられる。周りから多くの人に見られている、あの光景を忘れる事はない。

「カレンは戦闘向きじゃない。ソソギさえ仕留めればカレンは動けなくなる。先にソソギだ」

 ネガイは銃を構え扉近くの壁に背中を預け―――俺は舞台袖に繋がる扉をゆっくりと警棒で開ける。ネガイはそこを転がるように入り、どこかにzig proを向けた。

 俺も腰からP&Mを抜いて、扉をくぐる。そして舞台中央にいるソソギに近づく。

 やはりここにいた―――ソソギはM1793を抱えて舞台の光を浴びている。

「‥‥主をどうするの?」

 瞑った目を少し上に、座席の中央上に顔を向けていた。

「‥‥聞いてどうする。捨てられたのに」

「忘れられない。あなたも同じ‥‥違う?」

 目を開けて、視線を向けてきた。

「その目はやめろ。お前は人間型の身体で誕生して少なくとも15年以上は経ってる、人の目をしろ」

「あなたはそうかもしれない。でも、私達はわからない‥‥。私達がここに来たのは3年前、3年以上生きていてもそれよりも長く生きている証拠にはならない。作られた記憶、薬で1秒を10年近くに感じさせていたのかもしれない‥‥」

「‥‥俺だってそうだ」

 両手で構えているP&Mを片手持ちにして、銃口を下げる。

「シズクとの記憶はある。でも、それだって10年以上前は殆ど覚えてない。ここに来たのだって同じ3年前だ。それより前が造られた記憶ではないなんて言い切れない。‥‥俺の目の事は聞いたな?」

「‥‥」

「俺の精神は目に造られた」

 ソソギが一歩下がった。だが、それは距離を取ったにではない。

 ヒトガタにとって精神という唯一自分から生まれたアイデンティティーが作り物だと俺が言ったからだ。

「この体は仮初、精神も仮初、お前達が作り上げてきた物を俺は何も持ってない‥‥何もだ‥‥」

「‥‥私達、だって‥‥」

「お前にはカレンが、カレンにはソソギがいた。お互いが守り合いたいって思った、それは作り物か?」

 ソソギはそれでも、ヒトガタの目をやめてこない。そんな目をするしかないとわかる、俺もそれしか知らなかったのだからわかる―――だけど、捨てられた時に全部をなくしても、俺には出会いがあった。

「ソソギ‥‥。お前の言いたいこと、俺は‥‥わかる。俺も誰かが迎えに来てくれるって思ってたから」

 杭を左手で持ち、P&Mを持っている右腕を伸ばす。前にマトイに向けた構えをする。

「でもごめん‥‥。俺は、もう決めたんだ‥‥、生きたい未来がある。お前達同胞を見捨てても、行きたい場所がある」

 後ろからレイピアを抜いた時の擦れる金属音がする。

「最後だ。血を返せ‥‥、選べ!お前は、まだヒトガタの呪縛を選ぶのか!」

 既に心臓に血を焚べて火を焚いた。目にも血を通しソソギが等身大のミニチュアのように見えてくる。

「‥‥私は、ヒトガタ」

 ソソギが両手で抱えていたM1793の銃口を右手だけで俺の胴に突き出してきた。それを左に避けたが、間に合わなかった。

 突き出された銃口は縦では無い、横に寝かされていた。ソソギは勢いを殺さずに腕力のみで俺の避けた左に薙ぎ払ってくる。

 片手平突き、新選組斎藤一の得意とされた―――避けた胴を薙ぐ、不回避の二撃。

 避けた胴に追ってくる薙ぎ払いを左手の杭で防ぐ。腕力はこちらに分があると思っていたが、M1793の重量とソソギの腕力は想像以上だった。

 一瞬だったが、杭で受け止めた一撃により身体が痺れて硬直し動けなくなる。

「そこ‥‥」

 ソソギは片足を上げて無防備な俺の右脇に左膝を叩き込もうと―――ソソギは跳ねるように後ろに飛ぶ。

 ソソギが避けた場所を俺の後方から迫るネガイの突きが飛んでくる。ネガイは後ろに飛んだソソギをそのまま追ってM1793ごと貫こうとする。抵抗の為、突き合わせるようにM1793を突き出し、先ほどの肥後守のように太い銃身を当てて軌道を変える。

「あなたの事、初めて知った」

「私もです」

 鍔迫り合いだった。だが、重量があるソソギのM1793の方が有利でネガイのレイピアを上から押し付けるようにして競り勝ち、銃口をネガイに向けた。だというのにネガイはその時には力を抜いて一歩後ろに引いていた。

 悪手だと思った。それではソソギの的だ―――けれど、ソソギは転がり、舞台縁まで移動した。ソソギが後にした舞台の床に風穴が銃声と共に開く。

「そんな武器、見たことない‥‥!」

「当然ですね。私も今日知りました」

 ネガイのレイピアの柄には細工がしてあった。あの剣には銃口がある。気付かなかった―――刀身に添うように銃口が備わっている。

「22口径マグナム、あなたのよりも威力が低い。でも、それで十分ですね」

 サイナがやけに22マグナムを持ってきていると思ったが、あれの補充でもあったようだ。

 ネガイは片手でさらに発砲しようとしたが、ソソギはお互いの間合いを中心に左に弧

「いい判断です」

 見えなかった。ネガイは振りかぶっているソソギに向けて刺突を放っていた。ソソギには見えていたのか、それとも見えない中での全力の防御だったのか、ソソギはM1793を振り下ろして再度鍔迫り合いに持ち込もうとした。

 だが、ネガイはソソギの銃を軽く擦る程度で側面を通り抜ける。

 軽く当てただけだが、予想外の人間一人分の重量を受けてソソギは仰け反り態勢を崩す。ネガイはその隙を逃さずに、真後ろから22マグナムを振り返り様にソソギに送りつけて、その足のまま刺突を放つ。

 ソソギは弾丸は避けずに制服越しで受けながらも身を捻り、M1793で再度鍔迫り合いに持ち込む。

 ソソギは正確な射撃と圧倒的な威力の為に、あえてカービン銃の形にし、身体に密着させながら使用している。

 だがネガイは連発をする為に、振動を刀身で受け止めさせて出来るだけブレが起きないようにしている。狙いも刀身を使っているから拳銃と同じ具合に狙える。どちらも時代錯誤な武器だが、ネガイの武器は接近戦では圧倒的な機動力と連射性を持てる。

 完封、そんな言葉が頭をよぎった。ソソギの速さは知っていたが、それをネガイは上回った。

「ここまでやれる人、同学年では初めて‥‥!」

「だとしたらあなたの世界は私より狭い」

 ネガイはソソギから離れてレイピアを向ける。ソソギもネガイに銃口を向ける。

「なぜあなたはそんなに帰りたいのですか?捨てられたというのに」

 ネガイがソソギに質問をした。俺はその光景に笑顔が溢れてしまう、ネガイはここから出る事以外に興味が無かったというのに。

「‥‥私達にとって、主が全てだから」

「‥‥あなたは、今までも外に出れた筈です。私よりも自由に生きられた、なのにまた狭い場所に帰りたいんですか?」

 ソソギは目を見開いた。ネガイの言葉を自分に置き換えられたから。

「あなたは、出れなかったの‥‥?」

「はい、つい最近まで‥‥私はここに10年閉じ込められていました。彼が、私の恋人が――――私を外へ連れ出してくれたんです」

「‥‥長かった?」

「長かった‥‥彼は私と約束してくれました、一緒に旅行に行くって。でも、あなた達の所為で今度は彼がここから出れなくなる‥‥!だから血を返して!でないと、私はあなた達を殺します!」

 ネガイから宣言をソソギは正面から受け止めた。だが、それはソソギにとっても同じだった。

「‥‥ごめんなさい。でも、私達には帰りたい場所がある‥‥!血は返せない!彼の血が必要だから!」

 俺はネガイの隣に行き、ソソギに話しかける。

「別の生き方を探せ」

「そんな事出来ないってわかってるのに?」

「お前の都合はどうでもいい、それよりも、俺のネガイを苦しめるな」

 ネガイの必死の叫びを無視した。ならば、俺がなすべき事は決まっている。

「目はどうですか?」

「‥‥いい感じだ」

 瞳孔が開ききっているのがわかる。今までの戦闘でソソギの動きは目に取り込めた――――もうソソギを殺せる。

 右目でソソギの銃の全長を読めた。銃身95cm、そして脇に当てる銃床は20cm。

 ソソギはネガイのように瞬発力を使って突きが出来る。だが、それ以上に頼りにしているのが回転力。

 軽々振り回しているから、あの銃の正確な重量はわからないが、見た目通りなら5kgは軽くある。また、ソソギが俺にしてくる攻撃方法はネガイへの攻撃よりも倍以上に増える。なぜならば、ネガイへの射撃は早い段階でソソギは諦めていた。

 わかったのだろう撃った所で当たないと。そして突きもしない、遅い突きなどしようものならネガイの縮地の餌食だからだ。だから出来るのは回転力と遠心力に頼った銃底による頭部狙いの一撃。

 だがそれすらネガイには防がれた。予想外の射撃と攻撃途中の縮地、ソソギは攻撃手段を完全に奪われていた。だからソソギはそれら全てを俺に向ける。俺はネガイよりも遅くて弱いからだ。ならば、俺はソソギを超えなければならない。

「‥‥俺がやる」

「あとは任せます。彼女達には、あなたが始末を付けて下さい」

 レイピアを向けたまま、一歩一歩下がって舞台袖に帰って行く音がする。そして足音が止んだ。

 俺に必要だったのはソソギの攻撃範囲と攻撃手段、ネガイはそれらを俺に見せてくれた。

「‥‥勝てるの?彼女無しに」

「殺せる。わかってるつもりだ、ヒトガタにとって主への想いが消える意味を。俺も生きる屍にはなりたくない、なら俺がここで殺す。感謝して死んでくれ。お前は死に場所を選んだ」

 首の血管を血が通ってきている。熱い、熱い熱い熱い熱い――血が渇く。

 ソソギが俺の殺しに来てくれる。俺の心臓を苦しめてくれる―――ああ、心臓の伸縮の感覚が心地いい。けれど、あの方の手には届かない。‥‥あの方と同じぐらいに、もっと俺に血を流させてくれ欲しい。もっと俺に血を見せてくれ。

「同族への手向けだ、俺と目を合わせるなよ‥‥」

 構えを解いて、ソソギの銃口を迎え入れるように手を広げる。

「‥‥どうして?」

 ソソギがネガイから俺に銃口と視線、意識を完全に移した。

「カエルにはなりたくないだろう?」

 駆けた。ソソギの銃口に向かって全力で飛び出した。狂った化け物をソソギは容赦なく殺す為に引き金を引く。

「‥‥早い、でも彼女の方が鋭い」

 左目から蠢く血管を感じる。目蓋や涙袋に硬い血が通って血管が浮き出る感覚が生まれる。

 ソソギが発射するまでの僅かな時間、引き金を引くまでの間に、銃を突き出しているソソギの右側面を越えて真後ろを取る。

 振り返らずに頭だけソソギに若干向けながら左逆手に持った杭をソソギの背中、胸の中央後ろに叩き込む。

 だが、ソソギも振り返らずに発砲して1秒もたっていない中、杭を半身だけ逸らし銃床で止める―――背中合わせとなった。

「俺には痛みがあった。主への思いを忘れるぐらいの」

「‥‥幸福な事」

「ああ、幸福だ。捨てられたヒトガタにとっては新しい目的があるなんて、何よりも幸福だ。ネガイと会ったのもその時だ。俺はやっと自分の生を全う出来るって思った。ネガイの為ならなんでも出来た。ネガイも、俺の為になんでもしてくれた」

 ソソギが杭を銃床で突き放して前方に転がり、銃口を向ける音を発する。

「私達とあなたは違う」

「そうだ、俺達は違う。お前が今も主を思っているように、今、俺はネガイを想ってる。だから俺はネガイを苦しめるお前を」

 一拍の動作で杭を戻し、脇差しを抜き振り返る。目に血を通し終わった。心臓も素直に従っている。俺も侵入者を見つけた。

「‥‥やっぱり、人じゃない‥‥!」

 恐怖はまず目から入る。俺の目を見たな?見なければよかったものを―――これでお前は俺の物だ。

「‥‥言っただろう、目を合わせるなって。人以外で化け物と目を合わせていいのは、同じ化け物になれる奴だけだ」

 ソソギは撃った。この化け物を狩る為に、獲物ではなく、生きる為に。

 44レミントンマグナム。mに戻せば11mmを超え親指一本分の太さを持っている。

 絶大な威力だ。この化け物を狩れる程には。だが威力を持つ分だけ初速を過ぎれば落ち続ける。なら化け物の目は逃さない。

 一歩前へ。人形の牙に身を晒す。化け物の爪を人形に向ける。どちらが優れているか、人の形ではわかるまい。

「‥‥死んでくれる?」

 この脇差しはあの方が俺に渡してくれた名刀。そしてイサラが求めた程の妖刀。

 量産された鉛程度なら―――こうして切り分けられる。

 真後ろに飛んだ2つの弾丸だったものが空気と舞台袖のカーテンを切り刻む音をたてていく。そしてキャップが転がるような軽い音を落とした。

 呆気ない、これが人外を狩る為に人が作りあげた英知か?と拍子抜けしてしまう。

 脇差しを突き出した意味はあっただろうか?44マグナムと刃の接地面積を増やす道筋を作り出したというのに―――滑らかな肉でも切り裂くような手応えだった。

「そこ‥‥!」

 M1793を振りかぶり、ネガイに向けた円を描くよう一撃で側頭部を狙ってくる。イサラの真似をして頭を横に傾けて、紙一重に銃底を避け続ける。

 こめかみ通っていくM1793の銃床を横目に、その奥のイサラの目覗く。

 美しかった。カレンとは対照的に少しだけ淡い褐色の目だった。掴み取りたい。

 通り抜けていく銃床を避けた先に44マグナムの発射口が待っているとわかっていた。銃床を追いかけるように迫ってくる銃口から逃れるが、ソソギはものともせず、一歩跳ねるように下がり俺を黒の銃口から逃がさない。

 ソソギは躊躇しない。

 拳銃であの弾の連射などしようものなら指どころか肩の骨が簡単に外れる。その為のカービン銃としての機構だ。

 予想はしていたが、やらないと踏んでいた。幾ら拳銃と比べて腕へのダメージが少ないとしても、44マグナムの連発は身体にダメージがあると思っていたからだ。しかし何の不自由もない。あの銃自身がソソギ自身だ。

 あの銃の改造する前の原型をこの学校に入学した時からソソギは持っていた。主から送られた品に違いない。

 ソソギの腕は魔弾を放つ。必ず当たる弾丸ではない。当たれば必ず殺せる魔弾。しかも魔弾をソソギは2発放った。

 化け物を射殺す魔弾を化け物の爪で1発は切り捨てる。劇場の席に向かっての弾丸だ。背後には誰もいないから構わない。

 だが爪は2発目に間に合わない。けれど目を使い、狙われた部位は既に見ていた。

 よって化け物は自分の身体で魔弾を受け止められる。

 着弾の瞬間、化け物は左胸で弾丸を受け止めて、身を捻って左後方に弾丸をいなす。成功したが喉元から鉄の味が湧いてくる。

「‥‥胸にも仕込んであったの、見落としていた‥‥」

 サイナに渡された止血剤入れと、病院から渡された止血剤入れ。俺は2箱をそれぞれ腰と内ポケットに装備していた。

 44マグナム弾を衝撃を受け止める事が出来たが、完全に殺す事は不可能だった。それでもサイナに感謝せざるを得ない、肋骨すら折れてない。そしてこの使い方も想定内か、中の止血剤を入れる空洞がクッションになってくれた。

「‥‥次で最後だ」

 喉元からの味を飲み干して、喉を震わせる。

「どうして?まだ2発ある」

「もう撃たないでおけ」

 最後の1発は、最後から1つ前の1発を放てば必ず放たれてしまう。射手を苦しめて絶望させる悪魔の魔弾を。

「私は絶望しない。私は人じゃないから」

 知らないらしい。ヒトガタでも泣き叫ぶ絶望を無力感を恐怖心を持ってしまえる。

「‥‥いや、ヒトガタでも絶望する。それにお前を絶望させる訳にいかなくなった」

 胸の止血剤を撫でてソソギを見通す。絶望の色が入っては、その瞳が濁ってしまう―――それは認められない。

「同胞への哀れみ?」

 ソソギが俺の身体に狙いを済ませてきた。繰り出すつもりだ、あの一撃を。

「違う。もう同胞なんかどうでもいい‥‥」

 その目は同胞だから好きになったんじゃない。美しいから好きになった――――ソソギは今から自分で来てくれる、ならば好都合だ。早く目を見せて欲しい。

「お前が欲しくなった‥‥」

 俺は狩人ではない、だから狼の谷にも行けない。悪魔に出会うつもりもない。

 魔弾の射手が自分から来てくれるなんて―――こんなに嬉しい事はない。

「早く早く、そのを目を愛でさせてくれ‥‥」

「‥‥本気?」

「欲しい‥‥来てくれ‥‥。その目は俺の物だ」

「—――なら、私の為に死んで」

 刺突を繰り出してきた。狙いは鳩尾、至近距離で放つつもりだ。ソソギ自身が言っていた、この恐怖に耐えた人はいないと。

 ならば、それを封じるしかない。だが、下手に避ければまた薙ぎ払いの餌食だ。薙ぎ払いを受けて、脇を捉えられたら立てなくなる。膝をついた時が俺の最後だ。

 ――――受け止めるしかない。頭はもうソソギの瞳しか考えていなかった。最短でソソギの目を手に入れるにはソソギを迎え入れるしかない。

 迫ってくる銃口を片足で回転しながら左足のかかとで蹴り、銃口を避ける。

 蹴り付けた勢いのまま、右腕の脇差しでソソギが抜いていた肥後守と切り結び、切り飛ばす。

 蹴られた勢いを使ってソソギも回転して、蹴り飛ばした銃口を再度俺に向けるようとしたが、一歩前にでる。

 銃口を向けられないソソギの間合いの中に入った。

 魔弾の射手は諦めて、全力で元M1793の鉄塊で俺の背骨叩き割ろうとしてくる。

 俺は回転しながら更に一歩前に出る。ほとんどソソギに抱きつく距離まで近づき、ソソギに対して半身になり背中を狙っていた銃身を腰の杭で受け止め、M66を持った左手を使い、腰で受け止めた銃口を背後で固定する。

「それで掴んだ気!?」

 ネガイとソソギの動きを目に見させた最大の理由。それはこの突きに対して対処方を探す事。

 ソソギとM1793の奪い合いになり、諦めたソソギがM1793を離して逃げようとするが、脇差しをソソギの腰の後ろに差し込み逃げ場を奪う。

 なおも抵抗しようと懐からソソギは銃でも取り出そうとしたらしいが。

 もう遅い、ソソギが離した直後に、俺もM1793を離して自由になったM66を突き出したソソギの鳩尾に銃底を叩き込む。

 止まれた―――撃たなかった。化け物は己に住む化け物を止められた。

 ソソギは線が切れたように舞台に膝を突こうとした。俺はソソギが腕から抜けないように、脇差しを持った腕でソソギの腰を支えて、近距離でソソギの目を覗き込む。

 鉤爪で乙女を掴み取り、牙で血を貪る図になる。

 やっと腕の中にあると思いソソギの眼球を間近に見る。ソソギは大人しく俺に目を見せてくれた。

 ネガイやあの方とはまた違う暖色系の色、瞳は黒いが周りに若干茶色が入っている虹彩。鋭い切れ目で、深く見た事はなかったが、こんなにも美しくかったなんて。マトイの黒とも、ミトリのブラウンとも、サイナの琥珀色とも違う。

 一生見てられると思ってしまう。あの方が宝石を集める理由がよくわかる。

 全て自分の物にしないと我慢が出来ない。

 そして眼球だけではその価値は半減どころか1割も出せない。赤い顔のソソギもいてようやくその輝きを放てる。背は俺より低いが同年代と比べれば少し高い。目鼻は刀身のような美しさがある。

 ソソギの目が鏡のように俺の顔を写した時、ソソギの目から離れられた。

「‥‥私は、どうすれば良かった?」

「血を返せばよかった、まだ返さないなら次はカレンだ」

「‥‥人の心はないの?」

「俺は人じゃない。お前もだ。血を返して人の振りをしていればよかった」

 ソソギを舞台に離して、音を立てて転がす。舞台上で崩れるように倒れたソソギの無気力な胸と無防備な足の開き方で―――あれだけ恐ろし人形が被食者となった。

「カレンはどこだ?血を持っているのはあいつだろう?」

 M66を戻した手で拾ったM1793の銃口を、ソソギの鳩尾に押し付けて聞き出す。

「‥‥。言えない‥‥。っ‥‥!」

 鳩尾に強く突き立てる。ソソギは苦しげに目を細めて、突き立てられている自らの銃を両手で握りしめる。

 止めようとしている訳じゃない。むしろ迎え入れようとしている。息が詰まっているソソギは段々と顔が充血していく。

「言え、カレンはどこだ?でないと止めるぞ」

 M66を腰に戻して、M1793を寝転んだソソギの鳩尾に突き立てる。

 ソソギは痛みを求めている。自分で両手を使って望む痛みの場所、鳩尾の奥深くに銃口を移動させようとしているがソソギに従って銃口を鳩尾に深く打ち込む。

 ソソギは両足の膝と膝を擦るような仕草を始め、口元で笑みを浮かべている。

「‥‥撃って‥‥」

「場所を言え。言えば撃ってやる」

「眠る事もできないの‥‥」

 ソソギの腰を囲むように両足で膝立ちになりM1793を更に深く突き入れる。細いソソギの身体を両足で挟んで身動きを止める。

「言えば続けてやる」

「‥‥」

「足りないか?」

 ソソギの為に力を込め続けた。

 いい顔だった。こんなに赤い苦しそうなお顔と瞳、見たことない。

「そろそろやめては?死にますよ」

 ネガイの声で気がついた。ソソギを殺す所だったと気付き、力を抜いて見下ろす。

「‥‥これで終わり?」

 紅潮するソソギの表情が、俺の目と心臓を鷲掴みにした。口の奥から唾液が止まらなくなるのがわかる。

 あの方が言っていた事がわかった。噛みたい。歯形をつけて、噛みちぎりたい。ソソギの体液を啜りたい。

「これで最後だ。カレンはどこだ?」

 血をカレンが持っているなんて誰も言っていない。でも、この言いそうで言わないソソギの赤い顔が堪らなくて、苦しめていたい。

 俺はネガイがいるという最後の理性でソソギへの激情を飲み込む。そうしなければ、このままソソギの舌を噛みちぎりたくなってしまう。

「約束して、言ったら続けて‥‥」

 両手で迎え入れてくれた。カレンから特別捜査学科の技術を学んでいたのかもしれない―――もうソソギに溺れてしまった。

「‥‥ああ、いいぞ。続ける‥‥」

 ネガイが側にいるが、止まらない。こんな顔、こんな瞳を見てしまっては、もう止められない。

 ソソギを殺す気で銃を突き立て続ける。引き金に指をつけながら、ソソギが銃を両手で掴み引き入れてくる。

「撃って‥‥早く‥‥!」

「血はどこにある!?」

 引き金に指をかけながら手を滑らせてソソギの顔の近づいて聞き出す。俺は答えを求めているのに、M1793に全体重をかけてしまう。口の中を見てしまう。赤くて艶やかだ。飲み干したい。

 血のありかなんてまたどうでも良くなった。ソソギを噛み砕きたい、口に入れて、転がして、声を聞きたい。

「撃って‥‥!」

 ソソギの声に引き金を引く寸前に。

「そこまで」

 ネガイの声が真上から聞こえる。

「殺す気ですか?血の場所を聞いて下さい」

 ネガイの声でまた正気に戻った。危なかった、ソソギに取り込まれる所だった。

「‥‥撃たないの?」

 立ち上がってソソギを見下ろす。スカートがめくれ上がって白い肌に赤い血管が通っているのがよくわかる。

「‥‥血はどこだ?」

 息を飲んで、絞りだす。ソソギが心底残念そうにそっぽを向いた。ソソギは両手を銃から離して顔近くで万歳をした。

「カレンが持ってる。カレンは今、控え室の一つにいる」

 赤い顔が消えて、普段のソソギに戻ってしまった。俺も、あれほど気持ちよかった心臓が静かになってしまい。自然と冷静に戻った。

「わかりました」

 ネガイは俺とソソギを置いて控え室側の扉に戻って行く。俺はソソギを見張っていなければならないからここで待機だった。

「それと、」

 控え室側の扉を開けたネガイが振り向いてきた。もうレイピアも納めて長い灰色の髪を靡かせている。

「あなたの事は嫌いじゃないですが、彼を誘惑するのは程々に。止まらない人ですから」

 ソソギに注意をして、俺には鋭い視線を向けてきた。

「彼は私の物です。手を出してもいいですが、奪うのであれば覚悟を」

「‥‥あなたはずるい」

「早い者勝ちです。先に想いを持った方の」

 会ったばかりのネガイとソソギが俺には理解出来ない言葉を使っている。

 環境が似ているようで全く違う2人だからこその会話らしい―――きっと俺が入り込んでいい話ではないのだろう。

「‥‥あのまま続けていれば、あなたの剣は私を貫けた。なんで彼に任せたの?」

 ネガイが出て行こうとした時、ソソギが聞いた。

「彼を信じているからです」

 ネガイはつまらなそうに答えて、今度こそ出て行った。

 寝転ぶソソギと2人きりとなった、外にいるサイナとイサラはまだ見張りとして必要だ。カレンがその隙に逃げてしまうかもしれない。逃げたとしてもオーダー街に留まるしかない―――いや、おかしい。

「どうやって主と連絡を取る気だった?目隠しをしてここに来たって言ってたよな?」

「‥‥強く刺してくれるなら言う」

 ヒトガタは死ぬような痛みが好きなのだろうか。俺もあの方の手で心臓を掴まれるのが好きなのだから―――思想や趣向が似るのは仕方ないと言える。もしかしたら俺達の遺伝子上の親は同じかもしれないから。だいぶ薄まっているだろうが。

「しない。今度こそお前を殺しそうだからな」

「目、好きなだけ見せてあげる」

「先払いだ」

 ソソギの身体に四つん這いになるようにして顔と顔を近づける。

「どう?私の目」

「綺麗だ。もっと開けてくれ」

 ソソギは俺の声に従って目を大きく見開いてくれた。明るい茶色と緑の混ざった、もしくはそれらの中間のような色。

 黒い瞳を中心に奥深くて複雑な色をしている。単色では出せない不思議な目だ。

「目が好き?」

「ソソギの目が好き」

 自然と口からそんな言葉が漏れてくる。事実だから仕方ない。

「‥‥でも、残念」

 ソソギが目を閉じてしまった。玩具でも奪われた気分になってしまう。立ち上がってソソギを見下ろす。

「彼女の目の方が好き、違う?‥‥私もあんな目、見たことない」

「比べられる物じゃない」

 そう言ったが、ソソギの予想は的中していた。俺もネガイの黄金の方が今の好みだった。

「‥‥いい」

 約束通りにソソギの鳩尾に銃を突き立てる。勿論、銃口ではなく銃床。そして装填済みの弾丸も抜き取って。

「これは自分で改造したのか?」

「‥‥カレンと一緒に」

 銃床にマガジンのように弾を装填する機能が搭載されていた。並みのガンスミスが作れる物じゃない。誰かの工房を借りたようだ。

「‥‥場所を借りた人の名前は言えない、あの人もヒトガタだから。‥‥知りたい?」

 ソソギとの会話は心臓に悪い伸縮を促してくる。少なくともこの学校にはヒトガタが4人はいると、ようやく知る事が出来た。

 そのヒトガタもきっと捨てられてきた。今を生きる為にオーダーとして生活をして改造や鋳造をして、腕のいいガンスミスになった。邪魔をする訳にはいかない。

「言わなくていい。そのヒトガタもひっそりとオーダーで暮らしてるんだから。それで、どうやって連絡を取る気だった?」

「‥‥私達のどちらかが死ねば、身体の回収に来るから」

 歯を食いしばる。もはやそうでもしないと俺達は主に見向きもされない。

「‥‥そうか」

「私‥‥カレンを守るなんて言ったけど。‥‥カレンを殺す気だった」

「—――お前は本気じゃなかっただろう」

 ソソギを見下ろせているのはソソギが負けてくれたからだ。勝ちをくれた勝負程度、俺でもわかる。

「‥‥いいえ。本気だった、この環境では自分の力を発揮出来なくても、私は本気であなたと彼女を殺す気だった」

 ソソギの本領を発揮できる距離は許せて近距離から中距離。そうすればこの絶大な威力の弾丸を撃ち続けられる。

 だがここは近距離というにはあまりにも近すぎる至近距離。ソソギの銃が槍だとすれば俺とネガイは槍の内側で戦闘をしていた―――有利になって当然だった。

「環境の所為には出来ない。あなたの彼女は強かった。全く追いつけない‥‥、彼女こそ本気じゃなかった」

 ソソギには自信があったのだろう。一年で査問学科のエリートコースに入れたという実績に裏付けされた自信が。捨てられて初めて誇れる事実が。だがネガイのせいでそれが折れてしまった。銃床を両手で引き入れて苦しそうな表情をしている。

「ネガイを基準に考えるな。俺も、喧嘩でもしたらどうするべきかって本気で考えてるぐらいだ」

 眉間に指を置いて、割と真剣に考える。ネガイは優しいけど、怒る時は怒る。そういう所も好きなのだから、どうしようもない。

 追いかけられた時はマトイが誤解を解いてくれたらしいが、俺1人でネガイを宥める事が出来るかどうか神すらわからない。

 それどころか神すら宥め方を知らないだろう。

「その時は私達の所に来て、かくまってあげる。目も好きにしていいから」

 転がったままのソソギは柔和な笑顔で、そんな優しすぎる案を立ててくれる。

「ますます溺れさせるのはやめてくれ。カレンが嫌がるんじゃないか?」

「それはないと思う」

 即答だった。

 あまりの断定に、聞けずにいた二人の関係を問うてしまう。

「カレンとは恋人なんじゃないのか?」

「そう思う?私はカレンを殺そうとしたし、殺す気だった」

「‥‥殺し殺されの関係は珍しくない」

 目を閉じる。まだ銃を持っている対象を相手にに愚かな行為をする。

「ふふ、まさか‥‥。カレンとは姉妹だから」

 ヒトガタには家族はいない。親に当たる何かはいても、もう遠い過去か、10にも100にも分かれた遺伝子の持ち主というだけだ。兄弟に近い血を持っているヒトガタがいても、それでも、もはや――家族とは言えない。

 そんな事はソソギもわかってる。比較をされてきたのなら同じような境遇のヒトガタを潰してきたのだろう。ああ―――でも、心はある。

「‥‥俺は、2人を同胞だと思ってる。2人が傷つくのをもう見たくない。‥‥俺達は家族だ」

 ソソギとカレン、もうこの2人を他人とは見えない。ヒトガタとして生まれて、ヒトガタとして捨てられた。傷の舐め合いだ、捨てられた物同士の。

 だから、もう見捨てる訳にはいかない。

「‥‥家族。嬉しい‥‥」

 ソソギが転がりながらだが、笑ってくれる。

「俺も嬉しい‥‥。俺にも家族が出来た‥‥」

 ソソギに手を差し出して舞台から立たせる。

「でも兄弟って言わないで」

「そうか‥‥」

「そう。兄弟じゃ、それ以上にはなれないから」

「兄弟以上—――難しいな、どういう意味だ?」

「さぁ?そしてカレンにも」

「カレン、受け入れてくれるかな‥‥」

「きっと大丈夫。‥‥カレン、出てきて」

 舞台の上にしゃがんだソソギは床を軽く叩いた。舞台下の収納庫の蓋が開き、カレンが這い出てきる。

 危なかった。ネガイの銃弾がもし当たっていたら、制服越しでも骨折していたかもしれない。そんな心配をしてカレンを見続けると、カレンも緑の目で見つめてきた。やはり綺麗な色だ。

「カレン‥‥その、悪い。勝手に家族だなんて言って、気分悪いよな‥‥」

「‥‥うんん」

「ほら」

 ソソギが楽しそうに笑ってくる。初めてソソギの笑顔を見た気がする。

「あなたに返す物があります」

 そう言ってカレンは首にかけていたネックレスについた針のない小さい注射器を渡してきた。

「これで全部。信じてくれますか?」

「後でマトイが調べるだろうけど‥‥」

「そこは信じるって言って下さい」

 俺の答えが不満だったようだ。目を細めて、頬を膨らませてくる。微かに光が入り込んだ瞳が美しく輝いた。

「目、見ますか?」

「‥‥見たい」

 カレンにも頬に手を当てて、顔を近づける。

 ソソギの淡い褐色と対になるような深い緑だ。虹彩の外側は薄めだが瞳に近づくにつれて緑が鮮やかになっている。

 そしてカレンの緑は奥が見える透けるような輝きを持っている。だから角度によって様々な光を見せてくれる。美しい―――自分の物にしないと我慢が出来ない。一度離れてカレンの顔や身体を見つめる。

 宝石と呼ばれるには、原石だけでは成り立たない。だが、カレンの目は原石だからこその力強さを感じる。カレンというヒトガタが緑の目を宝石と呼べる位にまで押し上げている。どちらが欠けてもこの美しさは成り立たない。

「綺麗?」

「綺麗だ‥‥。‥‥欲しい‥‥」

 頬に当てた手をカレンが掴んでくれる。もうしばらく見ていいとの許可を貰った。しばらくカレンに見惚れていると後ろからソソギの近づいて来る足音が聞こえる。ソソギはカレンの隣に来て、肩の高さをカレンに合わせてくる。

「私のはもう飽きた?」

 不機嫌そうなソソギの声。そして不機嫌そうなカレンの顔。

「‥‥2人で見たい」

 まるで違う2つの輝き、血を奪われるというあまりにも高い代償を払った甲斐がある程に、贅沢な時間を過ごす―――心に闇が差してしまった。この2人の輝きを自分の物だけにしたい、そんな傲慢な心が生まれた時。

「‥‥見るだけでいいんですか?」

 カレンの言葉に、両手が動いて2人の腰を抱き寄せる。

「していい‥‥」

 ソソギの熱を持った声に、心が揺れたが、やめておく。

「もうすぐネガイが帰ってくる。‥‥今度会いに行く、その時」

「もう帰ってきてますよ」

 音も無く、ネガイの声が真横から聞こえた。エマージェンシーと思った瞬間、肋骨にレイピアの鞘が突き刺さった。—――『く』の字に曲がりながら舞台に倒れる。

 レイピアが飛んできた方を見ると、黄金の目が見据えていた。

「待った!もう骨折はソソギにされてるかもしれない!」

 ネガイに手を向けて、待ったをする。しかしネガイはその手を向けるや否やレイピアで弾いてきた。

「‥‥あなたには私の恋人という自覚がやはり足りません」

 ネガイはレイピアを抜いた震える金属の音と、鞘を投げる音を立てる。

 示現流。ネガイのレイピアとは違い、一撃で叩っ斬るという一の太刀に全身全霊を込める、剛の剣。

 元になるが新選組を北海道の五稜郭にまで追い込み、当時、旧政府軍に所属していた土方歳三も恐れたという一撃必殺の大太刀。

 多くの流派やありとあらゆる現代の剣術にあって、示現流にはない型がある。それは納刀だ。

 どんな剣術であれ、鞘は常にあるからだ。しかし示現流は戦場で鞘を捨て、一度抜いた刃は敵を殲滅するまで戻さなかったという。

 ネガイは鞘は拾わないと決めたらしい。こんな事を考えている暇じゃない。

「ソソギ!カレン!助けて、」

 2人に助けを求めたが、もう2人は舞台の上から降りて離れて行っていた。

 向かっている場所は、いつの間にか座席と座席の間の通路には車椅子のマトイと、マトイを守るようにミトリとサイナ、そしてイサラのいる劇場中央。

「わかっているとは思いますが、あなた達は法務科預かりになります。そしてこれから身体検査をしますので大人しく」

 説明に入ったマトイの声は感情という物が抜け、法務科のマトイになっていた。

 ソソギとカレンは、もうわかっているといった感じにマトイの前に整列した。そしてイサラも。

「この事件の発端や実行犯は誰ですか?」

「私」

「私もかな?」

「私です」

 3人とも自分だ、と答えた。

 軽く言ってはいるが、3人に背中に緊張が走っているのがわかる。

「いいでしょう。手を出して下さい」

 イサラは手錠でもかけられるのかと思ったのか、仕方なさそうに両腕を晒し、2人も同じように向けた。

 ただ、かけられたのは黒い帯のような物で、帯が巻きつく光景にイサラは驚いている。ソソギとカレンは驚いてはいなかった。

 ヒトガタには多くの誕生種がある。その中にこういった事が出来るヒトガタがいたのかもしれない。

「これから3人には身体検査をさせて頂きます。ネガイ、あの部屋を借りても?」

「どうぞ、構いませんよ」

 ネガイは俺にレイピアを突きつけたままの状態で許可を下した。

「検査をするのは私ですから、大人しくして下さいね」

 ミトリがP2000を構えたまま笑顔でそう言い放った。

「仕方ないか‥‥。ミトリ、お手柔らかに頼むね」

 イサラがそう冗談半分で笑いながら言ったが、それをミトリは笑顔で返した。

「はい、でも私怒ってますから。‥‥やっと自由になれた2人を苦しめたあなた達を。大人しくして下さいね、私撃ちますから。身体検査中でも何かしたら撃ちますから。カレンさんには申し訳ないですが、特別捜査学科を辞めてもらう傷を負わせるかもしれませんね」

 背筋が震え上がるのがわかった。俺達は制服という鎧に頼ってオーダーに所属している。オーダーにとっては鎧を脱がせるという行為は無防備以上の意味を持つ―――腹を晒して仰向けになれと同意義だ。その上でミトリは撃てると言っている。

 イサラは勿論、ソソギやカレンも一歩も動かなくなった。

「冗談です。本気にしないで下さい」

 嘘だと、にこりと笑うミトリは銃をしまってマトイの車椅子に手を添えた。

「救護棟に着きましたら、一度拘束を外します。でも、私の判断であなた方の意識を奪う事もできますので。サイナ、車の準備を」

「は〜い♪護送はお任せください♪」

「ネガイも手伝って。そしてあなたも」

「‥‥わかりました」

 ネガイは渋々、諦めて鞘を拾いに行った。

 その隙に舞台に寝転がる。ソソギがなかなか起きなかった理由がわかった。舞台の上とはなかなか寝心地が良かった。



「‥‥様子はどうだ?」

 ネガイの実験室前で警備をしていた。ヒトガタを助ける来る人なんかいないのに。

「やっと落ち着いてきましたね‥‥。ミトリさん、最初は奪った肥後守を持ちながら検査していましたから。怖かったです‥‥」

 容疑者に対して脅しを使う行為は全面的に認められていない。なぜなら適正な取り調べとは言えなくなってしまうからだ。嘘をつかせて一度は立件出来ても、その後の裁判で嘘が露呈したら裁判の継続が出来なくなってしまう。警察は勿論、オーダーでも当然に事実。

 だからミトリがやった事は許されざる行動だが、やらねばならない事でもあるから今回は聞かなかった事にしよう。

「‥‥これだけという言葉をまずは信じましょう。オーダー校から外に出てはいないようなので」

 マトイの声で部屋の空気が少しだけ和らいだ。

「ただし、これから到着する法務科からも検査を受ける事になります、あなた方の部屋や交友関係も含めて全て。暫くの間はプライベートと言えるものは排泄と入浴の時だけと思って下さい」

 どうやら中はベットに3人を座らせて、デスクとは逆方向に向かせているらしい。デスクにはネガイが、向けられている方向にはマトイが、そして部屋の隅には検査を終えたミトリ、サイナは俺と扉越しに背中合わせで部屋の俯瞰しているらしい。

「マトイ、サイナと交代してもいいか?」

「‥‥人員の配置移動は速かに終わらせて下さい」

 ダメと言われと思ったが、マトイは許可をしてくれた。未だに法務科のマトイになっているが、それでもどことなく捜査科のマトイに雰囲気を感じる声だった。

 サイナと息を合わせて扉を開けた瞬間に、俺は中に入り、サイナは外に飛び出た。

 なるほど、サイナが怖いと言った訳だ。

 ネガイは座っているかと思ったが、レイピアを手に持っていつでも抜ける状態で3人の背後に立っていた。マトイは車椅子に座ったままだが、さっきの力を見せた事により圧倒的な上下関係をこの部屋に作り出している。

 それに、なによりもミトリだ。俺の顔が見えた瞬間、優しい治療科のミトリに戻ったが、3人に向けていた目は底冷えするようだった。

「不用意に扉に近づかないように。勝手に立ち上がったら、数日は日の光を見れないと思って下さい」

 俺が入った事により、軟化した部屋の空気をマトイが再度締め上げる。

「‥‥ミトリもあんたも人変わり過ぎじゃない?」

 イサラが頬がこけたような印象で嘆いてきた。

「だいぶミトリに絞られたみたいだな。大人しくしとけよ」

 3人はベットに座らされたまま手を拘束されている。足にはしていないのは温情か、それとも単に逃げようとしても問題ないと思っているからか。マトイの帯とネガイのレイピア、そしてミトリの射撃、それが有ればそもそも逃げようと思わないだろう。

 ネガイに目を合わせて、ネガイをデスクの椅子に座らせる。

「‥‥良かった。最後に顔が見れて」

「最後じゃないだろう?これから何度も見ることになる」

「ふふ、そうね‥‥」

 ソソギは俺に向けた顔をマトイに戻し、目を瞑る。

「‥‥正直に話せよ―――家族が、またいなくなるのは嫌だ」

「‥‥私も、もう決めた」

「カレンもだ。自分を卑下するのはやめろ。消えたら俺もソソギも耐えられない」

「‥‥」

 カレンは顔を向けてはくれなかったが、それでも肯いてくれた。

 俺もわかっているつもりだ。ヒトガタに主を裏切れという意味を、それは生きる意味を自ら捨て去る事だと。でも、ソソギもカレンも決めたらしい。主を捨てると。

「家族?」

「‥‥家族、ですか‥‥」

 ネガイとミトリが同時に呟いた。

「なんか、私と扱い違くない?」

 イサラが不満気に聞いて来た。改めてイサラの凄みがわかった。よくマトイの圧力を真っ向から受けて軽口を叩けると。いや、軽口を叩いていないと、気が狂いそうなのかしれない。今の部屋の空気は長くいたくないと思ってしまう程に鋭かった。

「それで家族って、どういう意味?」

「‥‥イサラは俺がどういう生まれか知ってるな?」

「‥‥少しは聞いてる」

 ソソギが下を向いてしまう。今更とやかく言えない、言われたくなければ自分で早く言うべきだった。

 俺が言わないからマトイもそうあるべきだと思って、話さなかった。

「‥‥いい機会だ、少し話そう。マトイ、サイナを中に入れてもいいか?‥‥捨てられたヒトガタを救いに来る奴はいない」

「‥‥許可します」

「サイナ、入って来い」

 後ろの扉を叩いて、サイナを招き入れる。サイナは隣に立って顔を見つめてくる。

「‥‥これからつまらない話をする。つまらないと思ったら言ってくれ、すぐに止める」

 ソソギとカレンは決めたのだ、ヒトガタとしての呪縛を自ら捨てると、だったら俺も覚悟を決めなければならない――――呪縛を、ここで完全に切り捨てる。

「俺はヒトガタだ、人間じゃない。‥‥ありがとう、ミトリ、聞いててくれて」

「いいえ‥‥、続けて下さい‥‥。私も聞きたいです」

「‥‥誕生種は究極の人、誕生種って言うのはヒトガタが生まれた意味だ。どんな目的で生まれて使われるかを示したコードに近い。オーダーで言う所の科に近いかもな」

 ミトリは椅子に座って黙って聞いてくれている。

「俺は一度で大量に生まれたヒトガタの一つだ。‥‥俺のプランは一般的な家庭で生活をして、誕生種を全うするのが目的だった。ソソギやカレンみたいに大規模な比較は現在ではあまり行われていない。小さい組織ではひと目につかないで成育するよりも、ひと目の中でいる方がヒトガタって気付かれないから都合がいい」

 機械的だ。自分の言葉じゃなくて、頭に刻み込まれた知識を口を使って外部に発信している。

「‥‥俺はそれでも普通の子供として育てられた。‥‥小学校より前の記憶はあるけど、今思うと作り物みたいだ」

 最初の記憶、俺が生まれた時。それだけは鮮明に覚えている、あの劇場のような所で多くの人に見られながら、俺は生まれた。

 薄暗い舞台の上でスポットライト受けて、ガラス越しに見られながら。

「シズクとは小学校で会った。ちゃんと学校行ってたんだぞ?」

 小学校は楽しかった。毎日友達と遊んだ、周りと同じ人間だと思っていたから、負い目なんか持ってなかった。

 成育者を親と呼び、成育者達もそう受け入れてくれた。毎日料理や遊びにも付き合ってくれた――――本当に楽しかった。

「シズクを家に呼んで遊んだ事もあったなぁ。あいつ、運動とか全くできないのにゲームだけは強くて、いくら俺が練習してもあいつには敵わなくて。反撃のつもりでゲームしか出来ないのか?って聞くといつも怒ってた‥‥」

「変わらないね」

 イサラが笑いながら反応してくれた。

「あいつはずっと変わらない。変わらずに、俺と話してくれる」

 俺はシズクがいたから、ここに捨てられた。そう思い込まないと、狂ってしまいそうだった。

「俺は最初は算数が苦手で、シズクに頼んだんだ、算数教えてって。そしたらあいつな、ならボールの投げ方教えてって言ってきて。‥‥俺はあいつの運動力の無さを舐めてたよ‥‥。ボールが真っ直ぐどころか前にすら飛ばなくて、一日中やっても成果なし。しかも算数を教えてもらえなかったから、俺はひどい点数取って、シズクにお前のせいだって言って喧嘩してたらまとめて先生に怒られた事もあった。今も思う、あれはあいつが悪いって」

 ミトリとイサラ、サイナが笑ってくれた。それにソソギもカレンもネガイも。マトイも表情が少しだけ柔らかい物になった。

 でも、俺の楽しかった記憶はここで終わり。

「—――四年に上がった時だ。目からの命令が来たのは。つまらない話になるぞ‥‥」

 扉に背を付けて、目を閉じる。そうだ、ここからはつまらない話だ。

「最初のうちは、絵を見ろとか、音楽を聞けとか、そういう趣味の範囲でいられたんだ。‥‥成育者や先生も喜んで進めてくれた」

 あの時は何も考えずにただただ楽しんでいた。外での遊びもして、多趣味な子供だっただろう。

「最初の内はそれだけでよかった。でも、途中から‥‥」

 目を開けて、震え出した腕を震えている手で掴む。

「自分で自分の腕を刺してた」

 向けられている目の種類が変わった。それでも構わず続ける。

「血が見たくて、痛みを感じたくて‥‥」

 目の前が真っ赤に染まっていく、話す度に身体の中の血肉を吐き出していく感覚を覚える。寒くなってきた。

「それでな、勝てる筈もないのに六年生達に喧嘩を売って、返り討ちにあって‥‥。勝つのが目的だったんじゃない、喧嘩をする事が目的だったんだ。‥‥当然周りから友達は消えていったよ、喧嘩っ早い奴もいたけど、それでも負けても負けて喧嘩を仕掛ける俺は異質だったんだと思う」

「強者を求める‥‥」

 マトイらしき声が響いた、もう目が見えないからわからない。‥‥手が掴まれた、多分サイナだ。

「それから俺は集団じゃすぐ終わるから各個に喧嘩を仕掛けて、負けて、‥‥それを繰り返してた。何度も何度も怪我をして‥‥。そのたびに母だと思ってた生育者に泣きついた、目が痛い、目が怖いって」

 その時から分かっていた。この光景は目が見たがっている、目が見たいから操っている。

「俺が怪我をしてもしても向かってくるから、最後六年生は泣いて謝ってくれたさ。自分のやった事がを俺の怪我として見えたからだと思う――――俺が助けてって言っても、成育者達はそれで良いって言って。俺が狂っていくのを是としたんだ」

 もう耐えられない。扉に背中をつけて滑るように床に落ちていく。サイナもそれに付き合ってくれる。サイナは握った手を優しく撫でてくれる。

 みんな静かだ。今俺は目が見えない、だからサイナ以外誰がここにいるかわからない。でも、続ける。独白を。

「でも、四年の終わり頃に‥‥ある程度だけど目からの命令をある程度だが、拒否できるようになった」

「‥‥良かった」

 ミトリの声が聞こえる。そうか、まだそこにいてくれたか。

「やっと俺も元に戻れるって思ったんだ。そしたらな、友達も戻ってきた。‥‥嬉しかった、普通に戻れたって」

 そう、あの頃はまた友達と遊べて嬉しかった。でも、それは誤魔化しだった。

「‥‥でも成育者達から、俺はその時点で捨てられたんだ」

「‥‥」

 ソソギとカレンの震えがベットに伝わっているのがわかる。俺達ヒトガタは主の求めた結果をのみを示さなければならない。ヒトガタの意識や世間の評判なんか、どうでもいい。そのまま続けろと言われた事を拒否した、なら捨てられるのは必然だった。

「土日とか休みの日は遊んでくれた父親はいつも家にいない。母親は料理を作らなくなった。‥‥俺は必要な栄養だけを飲まされる日が続いた。給食だけが、料理って言える料理だったよ。‥‥俺、怖かったんだ、このまま捨てられるんじゃないかって‥‥」

 もう思い出したくもない毎日。家に1人でいる休日。俺は放置されていた、次が来るまで。

「だから俺、言ったんだ。今度のテストで一番を取るから褒めてくれって」

 そんな約束をした所で何の意味もない。でも、俺が当時出来る最大限の結果がそれだった。あの男は「ああ」しか言わなかったけど、それでも久しぶりの会話は嬉しかった。必死に勉強をした、一番の壁はシズクだとわかっていたから。

「でもダメだった。シズクが一番で俺は二番。‥‥逆恨みだよ、俺はあいつにお前のせいだって言って、家に帰った」

 それでもシズクは話しかけてくれた。泣いてばかりの俺の背中をさすってくれた。

「家に帰ったら、‥‥もうこのまま消えるんじゃないかって思った。‥‥俺の服とか、玩具とか、学校で頑張って作った時計とか、気に入ってた靴とか全部家の前に捨てられてた。‥‥そこで渡されたんだ、ここの願書を」

 それからだ、俺が学校から帰ってくると机とかベットとかどんどん消えていってた。最後には俺の痕跡は完全に消えていた。

「泣きながら願書を書いた‥‥。俺がボールペンで間違えると、新しい願書を渡されて、間違えずに全部書き終わるまで書かされて‥‥」

 手が真っ赤に腫れていた。骨が削れたように手が歪んでいたのを覚えてる。

 それ以上に成育者に捨てられる道を自分自身で作りあげているあの時を境に、俺はまた狂った。

「‥‥約束なんかただの暇つぶしだったんだ。俺は一番になろうが、捨てられてた。‥‥これはシズクにも直接言ってない事だ。捨てられたくなければ、シズクを殺してみろって言われた」

 イサラが立ち上がったのがわかった。でもマトイは何も言わない。

「目に従ってやってみろ、‥‥急いで準備しろ。こんな感じだった‥‥」

 俺はそう日からどこで殺すか毎日探してた。家に呼び出すか?学校で殺すか?それとも道端で刺すか?血がついても洗い流せるように風呂場で殺すと最終的に決める所まで、考えていた。

「でも、やめた。‥‥あいつさ、俺が毎日どう殺そうかって考えてたのに、毎日話しかけてくるんだ。‥‥変わらず毎日」

 だから俺は殺す相手を変えた。自分を殺す事にした。シズクは病院のベットで泣いてる俺に毎日会いに来てくれた。

「卒業式は俺1人だった、帰ったらそのままこの学校の寮に行かされた‥‥。‥‥俺は本当に捨てられた」

 ここに入学した時、俺は毎日思っていた‥‥、今だって思っていた。いつか迎えに来てくれるって。そんな幻想を。

「この学校に入ってからはわかるよな?マトイとソソギのお陰で、目の餌には困らなかった‥‥。‥‥幸運だ」

 笑えない冗談を言ってしまう。ソソギだってここに来たくてきた訳じゃないのに。マトイは俺を救ってくれたのに。

「‥‥それに、俺は運が良かった。入学して数日で自動記述に至った。ヒトガタには、遺伝子記憶に近いものが備わってる。‥‥自動的に知識が湧いてくるんだ。俺がなんでここに捨てられたのか来たばっかの時はシズクのせいだ、なんて思ってたけど、それは違った。俺がヒトガタとしての成長をやめたからだ‥‥。成育者達は俺を人にするつもりなんてなかった、ただ人として扱って方が、楽だからそうしてたんだ」

 やはり人間は愚かだ。人として扱ったら、そいつは人間を目指すに決まってる。ソソギやカレンのように最初からヒトガタとして扱っていれば―――俺は、人として苦しみを受けなかった。俺は、卑怯者だ。

「見えますか?」

 声をかけられた。ミトリの声だ。

「どこだ?」

 手を伸ばす。ミトリは両手で俺の手を掴んでくれた。多分しゃがんでる、この距離まで接近しても気付かなかった。

「ごめんなさい‥‥。私はあなたを傷つけた‥‥」

「いいんだ。ありがとうミトリ、お陰で話せた。‥‥ずっと抱えてた、捨てるべきだったんだ‥‥」

 ミトリが俺を驚かせないように両手を腕に滑らせてくる。そして両肩まで届いた時、ミトリの温かい香りに包まれた。

「俺はどうすれば良かったんだろうな。‥‥人にもなれない、化け物にもなれない、究極の人とやらにもなれない」

 俺が求められた存在とは一体なんだったのか?あのまま行けば究極の人になれたのか?それとも化け物止まりだったのか。

 もう俺にはわからない。俺は―――もう人にはなれない。

「‥‥怖いんだ。お前達人間が‥‥、俺が苦しんでても、何も問題ないって顔をして、暇つぶしに大事なものを奪って」

 ミトリの腕を壊したい。背骨をこのまま折ってしまいたい。首を探してしまう。

「‥‥人間は勝手でしたね」

「ああ、人間は勝手に俺を生んで、勝手に‥‥殺して‥‥」

 やっとミトリの首を見つけた。細い首だ、片手で折れる。簡単だ、また化け物になればそれで終わり。

 何も見えないからやれてしまう。嫌なものは見なければいい、それが俺には許される、だって人間ではないから。化け物の理論に沿って生きればいい。ミトリを殺した後は、一番近いサイナだ、次にネガイ、カレン、ソソギ、イサラ、マトイだ。

 これだけいるんだ、殺してもバレない。それに人という生き物は80億以上いる、殺し甲斐がある。1割殺しても誰も気付かない。

「私を、人間を殺しますか?」

 首に付けている手に、ミトリの喉の感触がする。柔らかい、このまま引き裂けそうだ。

「いや‥‥、殺したい‥‥」

 ああ、俺は今どんな姿をしている?ここにいるのは人の姿をしたなんだ?化け物か?それとも身勝手な人間か?ミトリはなんだ?人間に違いない。

 ミトリこそ人間の体現者だ。俺を病院に縛りつけて、毎日監視に来て、自分の理想を押し付けてきた。あの成育者達と同じだ。どこが違う?容姿か?年齢か?立場か?—――美しい目を持っているかどうかか?

「私は、死にたくない‥‥」

「人間は弱いな。俺を何度も殺したのに‥‥!」

「‥‥っ‥‥。苦しい‥‥」

「そうだろ!?俺は、これを何度も、死ぬまで受けた!!自分で締める事もやらされた!」

 ミトリの首の中身を感じる。骨と血管と気道。でも、この声は聞きたい声ではない。

「やめるんですか?あなたは、私をどうしたいんですか?」

「ミトリを、好きになりたい‥‥」

 俺は―――化け物は傲慢だ。ただ自分の好みだからといって、奪う相手を決める。

 ああ、そうか。化け物も、人間も。

「生まれたくなかったですか?」

 人間の声が耳元で聞こえる。麗しい声で俺の五体を奪っていく、あの美しい手を持つ人間と同じだ。

「いや、いや‥‥。違う‥‥」

 首から背中に手を移動させる。

「生まれないと、ミトリに会えなかった‥‥。好きな人間に、相棒にも、恋人にも、家族にも出会えなかった‥‥」

 立ち上がり、目を開ける。もう目は染まってない、でも化け物の目は捨てない。化け物でないと守れない物がある――――出会えない人がいる。

「ミトリ、俺は人間にはならない。なれない」

「はい、それでいいです。あなたは人間にはなってはいけません。私が好きになったのは化け物です」

「‥‥そうか—――俺は人間なんて目指してなかった。ただ、ただ、生きたかっただけなんだ」

 ミトリのブラウンの目と髪を見つめる。ようやく、世界を見れる。ようやく自分の世界へ踏み出せる。

「マトイ、俺も法務科に行けないか?」



「こういう意味で言ったんじゃないんだけど‥‥」

「いいえ!もう聞きました!言質も取りました!」

 法務科の車が来た時、ソソギ達とは違う車に目隠しをして俺はマトイと一緒に乗った。ある程度は予想していたが、未だに目隠しを外してはいけないと言われるとは思わなかった。

 もう車から降りて、俺とマトイは2人で歩いている―――勿論手を繋いで。

 しばらく歩いているが、扉に一切ぶつからない。ただ真っ直ぐ歩いている。恐らくはオーダー街にどこかの建物だろうが、目隠しをしていたので正確にはわからない。もしかしたら地下を通っているのかもしれない。既にオーダー街から出ている可能性もあった。

「‥‥後どれぐらいだ?」

「詮索しないように。いずれはあなた1人でここを通る事になりますから」

 扉には一切ぶつからないが、それでも扉に近い機能はあるらしい。先程から違う空気の層を何度も越えている。カーテンをすり抜けている感覚に近いのかもしれない。

 最初は絨毯でも引いているような柔らかい感触がした。でも、今は大理石でも踏んでいるような硬い質感が足の裏に伝わってくる。漠然とした恐怖を感じる。帰り道もわからない深い森を彷徨っている感覚だった。

「‥‥マトイ、指を繋ぎたい」

「やっと言ってくれましたね」

 この言葉を待っていたらしく、マトイは喜んで指を繋いでくれた。細い綺麗な指だ。

 周りに人がいるかもしれないが、構わずにマトイに甘える。2人きりのマトイはどこまでも俺を甘やかしてくれる。

「聞いていいか?法務科は俺にどんな仕事をして欲しいんだ?」

 前から聞きたかった内容だった。マトイは俺の目が必要と言っていたが、不思議な話だ。俺がこの目を今でこそある程度は扱えているが、少し前まではマトイの襲撃一つにロクに対応出来ないで倒れた。そんな俺に何が出来るのかと。

「自分に自信を持って下さい。あなたは私の所属やカルテル達の武装や練度を一目で見抜きました。法務科にとって最も多い仕事は犯罪の疑いを持っている者への捜査です。それらを一瞬で終わらせられるあなたの目は法務科にとって何よりも貴重な能力です」

「‥‥そうか‥‥」

 マトイは褒めてくれたが、あの時はマトイにサイナ、それにソソギもいた。あの場でどこまで役に立てていたか甚だ疑問だ。白兵戦はソソギが受け持ち、マトイが指示を下し、サイナが武装の供給を施してくれる。あそこまで膳立てされ、ようやく可視化される程度でしかなかった自分に。

「後どれくらいだ?」

「詮索しないって」

「後どれくらいマトイと2人きりでいられる?」

「もう少しで終わり‥‥」

「‥‥なら、ゆっくり行こう」

 指を繋いだお陰で少しだけ歩きにくい。だから、俺はマトイと一緒にさっきまでの半分のスピードで歩く事にした。しかし、ようやく気付いた。足が重くなってきたと。感覚が麻痺してきた、足を前に出せているのかどうかもわからない。感じるのはマトイの体温だけ。

 意識が朦朧としてきた。夢を見ている気分になってくる。

「今からあなたには私の上司に当たる方に会ってもらいます。そこで幾らか説明を受けて貰います」

 しばらく歩いて、マトイから「止まって」と指示される。

「この先は1人で歩いて下さい」

 そう言ってマトイが手を離そうとしてきたから、それに逆らう。

「マトイと一緒じゃないと歩けない」

「それは仕方ないですね」

 マトイと手を握り直して、1人で進めと言われた廊下であろう場所を歩いていく。空気が重い。息が苦しい。肺に鉛でも入ってきているようだ。そして一歩一歩、前に出る度に足が床から上がらなくなる。

 床から大量の手が生えて、足を掴んでいるようにも感じる。

 無風だが暑さや寒さは感じない。床の硬さも変わらない。2人で鳴らす足音だけが心地良い。

 そして部屋に入った、そう感じられるほどに空気が解放されたのがわかる。同時に今までとは比べられない重みが肩にのしかかった。

 視線だ、目を感じる。

 向けられる視線を越え、背後に感じながら、尚もマトイと共に進み続けた。足が止まった時、息が詰まった――――これはただの視線だ。だと言うのに悪寒を感じる。法務科のマトイの視線が寒気で身体を震え上がらせて眠りを誘う息吹なら、この目はまるで違う。容赦なく生物の体温を奪う残酷な冬山の吹雪だ。

 今はマトイの隣にいるから耐えていられる、だが、できる事ならこの吹雪から早く去りたい。

「‥‥っ‥‥」

 息が聞こえた。ただし、これは呆れているような息の音だった。

「お気になさらず、これは彼からの条件です」

「‥‥わかりました」

 高い声だ。だが、威厳を感じる女性の声だとわかる。

 そして声色だけで感じられる、自分よりも格上だと。

「‥‥目隠しを取っても?」

「質問を許しましたか?」

「質問を‥‥質問で返すのはいかがか?」

 息こそ詰まるが、マトイがいるという理由で強気に出られた。

「いいでしょう。ただし視線は私から離さないように」

 許可を貰った瞬間、マトイが目隠しを外してくれる。数十分振りの光に目が焼かれ目を背けたが、同時に光量も弱まった。あの法務科でもこういう気遣いが出来たのかと感心する。

 目を向け直すと、やはり女性が1人座っていた。その美貌は底が無かった。伶俐さ、冷酷さ、冷徹さを美醜の果てで形にすれば完成するであろう、余りにも終着点に近い顔。その神がかった美しい顔が裁判官のように高い位置の机越しに俺とマトイを見下ろしている。その女性はマトイの黒いローブとは対照的に白いローブを着て白いヴェールを目深に被っている。そして一番目を引くのが、白い目隠しだ。

 年齢は20代中盤だろうか、声からしても年齢はそのぐらいに見える。

「挨拶は不要ですね?私は法務科に所属している者です」

 声を放つ度にこの場所の空気が震えているのがわかる。この場所の空気をこの人が全て操っていると言われても不思議ではない。

 背骨が凍りついていくのがわかる。頭の血も凍りつき始めた、それどこか頭が凍っていく音さえ聞こえてきそうだ。

 視線を外せない。息を吸うのを忘れてしまう。

「報告書は読ませて頂きました。あなたの目は特殊なようですが、事実ですか?」

 目が合わない筈なのに目隠しの下から感じる威圧感で目が焼けそうになってくる。

「あなたは人形だ。そしてあなたも魔に連なる者、マトイの師匠、いやマスターだ」

 この人の声には感情があった、そして向けてくる悪寒にも。しかし手を重ねる仕草や声を出す口の形、それらがあまりにも洗練され過ぎていた、だからそこに目が反応した。この悪寒が怒りか疑いかわからないが、仕草一つ一つに感情が全く見つからなかった。

「聞いての通りです」

「そのようですね」

 俺の言葉を聞いても、特に驚きも感慨も無く受け流した。

「では、私を探してみなさい」

 失念していた。これは人形だと自分で言った、なのに俺はこの人形を恐れている。

 本体は、どれだけ恐ろしいのだろうか。

「‥‥振り返ってもいいですか?」

「お好きに」

 震える口で許可を取り、振り返りながら部屋の全体を見渡す。やはり夢を見ているようだ。そもそもここは部屋なのか?壁が無い。それどころか通ってきて廊下も無い。壁替わりに白いカーテンのような布が幾つもかかっているが、それだけだ。

 床は廊下と同じなのかわからないが、黒い大理石のような物。そしてさっき感じた視線に主達の正体もわかった、人形だ。

 姿形が完全に同じ人形が三体いる。人形達は部屋の隅を囲むように置いてある黒いソファーに座っている――—俺をヒトガタだと知って、こんな試し方をしている。

「わかりませんか?」

「‥‥こんな試し方しかできないなら、あなた達に未来はない。喧嘩が売りたいなら他の人間にやれ‥‥」

 腰から脇差しを抜いて高い位置にいる人形を睨みつける。

「喧嘩?そんな無駄な事はしません」

「だったら何のつもりだ‥‥、殺されたいのか?」

 同じ見た目の人形を幾つも使って試してきた。殺す理由が出来てしまった。

「そんな物を抜いてどうするのですか?ここが何処だか、わかっていないようで」

「ここは箱庭だ」

 違和感は最初からあった。

「マトイ、お前は本物か?」

 マトイを抱き寄せて唇を奪う。

「はい、本物ですよ。あなたが好きなマトイです」

 良かった。マトイは本物であってくれた。この体温はマトイの物だ。

 俺とマトイは立って歩いていた。現実のマトイの足には傷がある筈なのに今は何もない。何故それに気付かなかったのか、それは俺が目隠しをしていたからだ。その為の目隠しだったのか、水先案内人が必要だったのかはわからない。

 ここはあの方の謁見の間に近い気がする。見えている物に現実味を感じない。間違いない――――俺は夢を見ている。

「報告書は目についてだけじゃない。夢の世界についても記載があった筈だ」

 マトイの師匠がどこまであの方の事を知っているのかわからないが、あの方の存在は決して人間には手が届かない場所にある。どの程度か、試されている。

「俺の血とあの方の血は混ざっている、お前は試したかったのは俺の目じゃない。あの方の血が大人しく法務科に従うかどうかだ」

 この人は俺を恐れていた。だから夢に誘い込んで俺を試してきた――――現実で、もし俺が狂ったら血が何をするかわからないから。

「ここはお前が造り出した夢の世界だ。現実の俺は車の中で寝ている、違うか?」

 抜いた脇差しの刃を見つめる。

 あの方の夢から覚めるとき、いつも同じ事しをいている。

 だったら今回も同じ事を自分ですれば良い。この刃はあの方が授けてくれた物、夢の世界の肉体でも殺せる筈だ。これが正しい起き方なのかわからない。

 だけど、ここで死んでしまえば目が覚めるだろう。

「怖いですか?良ければ私が手を貸しますが」

「抜かせ。死んだ事もないくせに。殺された事も―――捨てられた事だってないだろう」

 座っていた人形達が立ち上がる。手には黄金のフランベルジュを持っている。やはりここは夢の世界だ、あんな大剣を片手で軽々持ち上げている。

 幾ら人形でも身の丈ほどもある剣を軽く扱えるとは思えない。

「ごめん、マトイ。離れて目を瞑っていてくれ」

 マトイはここから先は1人で進めと言った。それはこうなるとわかっていたからだ――――マトイに、もう血を浴びさせたくない。

 けれど、離そうとした手をマトイは握り返してきた。

「大丈夫。私もあなたと一緒に起きるから」

「‥‥良かった、1人で死ぬのは怖かった―――」

 マトイを抱き上げて、脇差しを自分の胸に突きつける。

「一つ忠告したい‥‥」

 人形達がすぐそこまで迫ってきた。首から下は滑らかに動いているのに、口や鼻が全く動いていない。呼吸をしていない。。

 夢の世界だからのか、それとも現実でもこの人形を使役したときは無呼吸なのか。だとしたらやはり俺に勝ち目は無い。

「俺の夢はあの方の物だ。勝手に手を出すな、あの方を宥める方法を知らない」

「ええ、その通りです」

 声が俺の内側から聞こえて来た。

「—―――っ、どうやって、ここは私の!?」

 人形からではないマトイの師匠の声が響いてくる。

「あなたは―――まぁまぁ‥‥なるほど。ふふふ、上位の方のようですね?しかし私の物に触れる事は許せません」

 夢が揺れ始めた。床の大理石が割れて見覚えのある絨毯が顔を覗かせてくる。

「これは‥‥!」

「大丈夫、あの方だ」

 抱き上げているマトイをしっかりと支え、床の絨毯を踏み締める。

 壁のカーテンが溶けていき、見覚えのある壁画や柱が浮いて出てくる。壁画が完全に姿を見せた時、石像群も現れ始めた。この光景に安堵感を覚える―――机越しに座っていた人形も消えていき、その先に玉座が見えた。

「仕方ない‥‥!」

 消えかけている天井から本物のマトイの師匠が降りてきた。マトイの師匠は頭のヴェールを取り、檻を纏い始める。

「無駄ですよ」

 仮面の方が指鉄を撃つようにマトイの師匠を指差した時、造りかけていた檻が砕け散って、ズタズタとなったヴェールが床に落ちて消えていく。この結果にマトイも予想外だった、息を呑んでいるのがわかる。

 マトイの師匠は俺よりも実力や権威、双方とも遥か上のオーダーだ。だけど―――どれだけの実力者、どれだけオーダーの深淵を覗き見れる者であれ―――あの方よりも上の訳が無いとわかっていた。

 完全に謁見の間に降り立った時、仮面の方は可愛らしく首を傾げて笑いかけてくれた。

「こんばんは」

「あ、こんばんは。良いですね、挨拶って‥‥新鮮で楽しいです♪」

 仮面の方へマトイの師匠を越えて挨拶を交わす。

「えっと‥‥マトイさん?」

「は、はい‥‥」

 マトイからの反応を受けて、仮面の方は少しだけ寂しそうに笑われた。やはり、マトイやネガイと一回しか会っていなくても良い関係を築くことが出来ていた。

 そんなマトイからの他人行儀な返事をされた。

「うん‥‥、すみません。あなたには起きて貰います」

 仮面の方は今度はマトイに指を差した。マトイは一瞬で気を失って、首を肩に落とした瞬間、そのまま消えていってしまった。

「マトイ、」

「大丈夫、マトイさんには一足先に夢から醒めてもらっただけです。今頃起きた所」

 やはり、少しだけ話したかったようだ。仮面越しでもわかる泣きそうな顔をしていた。

「マトイはあなたに感謝していました。あなたの事を信じようとしていました」

「よかった。もしかしたら疑わせてしまったかと思って。‥‥うん、また話したいですね」

 俺の言葉を聞いて仮面の方は心底安心してような顔をして、胸に手を当てている。

「‥‥あなたは一体‥‥?」

 会話に挟んで来たマトイの師匠は、仮面の方に聞いた。だが仮面の方は特に気にした様子も無く返事を返した。

「あなた達の言う所の上位の存在です」

 表情が見えないのが救いか、それとも俺には同い年の女性に見えている仮面の方は、マトイの師匠には違い姿で見ているのか、震えているのがわかる。

「彼の夢は私の物。彼の血も私の物。彼は私の物です。あれ以上彼を夢の中で追い詰めていたら―――目覚めていましたよ」

「‥‥まさか‥‥」

「好奇心は猫を殺す。これはこちらの世界の言葉ですね?あなたが知って、やろうとした事は今後生まれる宇宙を9回消してもまだ足りない結果を生む所でした。反省して、彼の夢から手を引いて下さい。彼の夢は私が守ります」

 マトイの師匠は仮面の方を恐れている筈なのに、今の会話を聞くと、俺を恐れていたと聞こえる。そして目の事でもないと。

「私は人間をとても得難い存在だと思っています。彼を生み出してくれた人間には感謝だってしてもいい。だから簡単に消えるような真似はしないで下さい。もしまた繰り返すのなら、私はあなた方の敵となります」

 脅しなのか事実のか。それを自分がはかる前に仮面の方からの言葉を聞いてマトイの師匠は消えていった。

「‥‥ふふ、聞いてましたよね?」

 仮面の方は困った顔をされた。顔を見て気付いた、あれは俺が聞いてはいけない会話だったと。

「‥‥すみません」

「いいえ、謝らないで下さい」

 顔を振って髪を揺らしてくれるが、口元が苦しそうに見える。仮面の方の座っている玉座に続く台座を一歩一歩踏み上がって、手を取って跪く。

「泣かないで下さい‥‥」

 この方には無邪気な笑顔が似合う。そんな苦しそうな顔は見たくない、また俺に笑いかけて欲しい。

「俺は平気ですから。俺にはなんの事かわかりませんから‥‥」

 こんな言葉にどれだけの価値がある。俺には何のことかわからないから、気にしないでくれ、なんて言葉を無神経に投げかける事しか出来なかった。

「‥‥ふふ、私はいつもあなたに甘えてしまいますね。‥‥ありがとうございます、私も平気ですから」

 仮面の方は手を取って、笑いかけてくれる。

「立って下さい。エスコートをお願いします」

「はい、任せて‥‥」

 一歩先に降りて、手を引きながら台座を降りていく。振り返って顔を見ると、俺の求めた仮面の方だった。少しだけ悪戯好きそうで、好奇心旺盛で、優しくて、わがままを聞いてくれる―――優しい方。

「ありがとうございました。でも、もう私の許可無く玉座まで上がってはいけませんよ」

「何故ですか?」

「あそこは境目なんです。あなたの心なら耐えれるかもしれませんが、身体は耐えれないと思いますから」

「良くわかりませんけど‥‥あなたの許可を貰ってから迎えに行きますね」

「はい、お願いします――――聞かないんですか?」

「聞きません。いつか自分から話して下さい」

 握ったままの手を引いて、仮面の方の腰を抱き寄せる。私はあなた達の言う所の上位の存在です、気にならないと言ったら嘘になる。でも仮面の方を悲しませてでも、聞こうとは思わない。それはきっと自分が言いたい時がその時なのだから。

「やっぱり優しいですね。‥‥今日はどうしますか?」

 耳たぶを噛みながら聞いてきた。耳がくすぐったくて、仮面の方を更に抱きしめてしまう。

「仮面をとって目を見せて下さい」

「言うと思いました。‥‥あなたの手で取って下さい」

 仮面の方から一度離れて、仮面に触る。上を向いて俺を見つめてくれる仮面の方は口付けを持っているかのようにも見える。

 でも、耳たぶを噛まれたのは新しかったから、お返しに俺も仮面に触れる振りをして耳を触ることにする。

 仮面の方はしばらくは許してくれたが、途中から完全に耳を触っているのがわかったのか、顔を赤くして自分で仮面を取ってしまう。

「もう!私に悪戯する存在なんて、あなた以外誰もいませんよ!‥‥程々にして下さいね」

 不満げな顔のまま、目を見せてくれた。

「どうですか?」

「前から気になってました‥‥。綺麗です‥‥」

 仮面の方の目はやはり真紅だ。

 肌の赤みを全て目に集めたような、血の色。仮面の方はやはり人間ではないとわかった。人間が持つ事が許されない輝きをその目に宿している。瞳を中心に囲むように赤い断層が虹彩の端まで伸びている、この目はただ赤いだけじゃない、赤の幾つものグラデーションを見せてくれる。仮面の方らしい、目まで欲張りだ。

 瞬きをするたびに輝く赤い断層の数が変わっていく、万華鏡のように。

 この目は人間では見ることが許されない、俺だからこそ見る事を許される―――俺だけが見れる。

 そうか、思い出した、俺が死んだ時、俺が見たあの光景は。

「俺を見ていてくれたんですね‥‥」

「‥‥はい」

 嬉しかった。死は孤独な物だと思っていた。でも、ネガイやマトイは俺の為に俺を死で包んでくれた。そして仮面の方は俺の死を温かいものにしてくれた。

 この輝きに守られていた。

 仮面の方に寄りかかるように抱き締める。仮面の方は俺を受け止めて頭を撫でてくれる。

「泣かないで‥‥あなたは1人じゃありません。ずっとそうです」

 心臓を掴んできた。このまま倒れる訳にはいかない。俺は仮面の方を受け入れると決めた。どんな存在かなんてどうでもいい、仮面の方は俺の為に目を使ってくれた。

「‥‥ふふ、」

 だから口で答える事にした。自分で唇を噛み切って、仮面の方に血を捧げる。

 優しい死だ。前のように無理やり吸うような事はしてこない。優しく舐め取り続けてくれる。

「‥‥もっと」

「はい‥‥」

 口を付けながらの言葉が伝わり、心臓を貫いてくれた。膝から崩れ落ちる。耐える為の血も足りない。この無力感が何より快感だった―――痛みなんてない。寒気も感じない。感じる筈の肌に通す血は枯れ果てた。仮面の方はもう止まらない。

 崩れ落ちながら口を離した俺と一緒に、仮面の方も膝を折ってくれる。

 目が合った―――良かった、意思が伝わった。

「死にかけてるのに、‥‥欲張りですね」

 穴が開いた心臓を掴んでくる、軽く握っただけで血が吹き出る、赤い瞳を見せながら、奪ってくれる。血も何もかも。

「もう真っ白ですね。よく我慢しました♪はい、ご褒美です」

 貫かれた。心臓じゃない、身体ごと、腕で穴を開けられた。背中から何もかもが噴き出た。羽が生える感覚とはこうなのかもしれない。翼を楽しむ暇もなく引き抜かれる。抜かれた物につられて仮面の方の腕に肩から寄り掛かる。

 そして見せてくれた。俺の宝石を。

「綺麗ですよね?あなたの心臓」



「起きましたか?」

 マトイに見守られていた。

「‥‥どのくらい経った?」

「まだ2時間も経って無いですよ」

 起きた時、車の中で人工呼吸器をつけていた。運転手はいない、そもそもいたのかどうかもわからない。

「泣いているんですか?」

 涙を指を曲げて拭き取ってくれる。

「‥‥怖い夢でしたか?マスターの夢は」

 彼女は覚えていないんだ。あの方を、あの方の優しさを。

「マトイ、抱きしめて‥‥。寂しい‥‥」

 泣いている俺をマトイが人工呼吸器を外し、口を付けながら抱き締めてくれた。

「もう大丈夫、私がいます。あなたは怖がらせる人はいません」

 涙が止まらない。俺は、あの方にどれだけ報いる事が出来ただろうか?仮面の方は俺の為に自分の血を使って助けてくれた。

 その上、自分の領域を使って救ってくれた。あの謁見の間には仮面の方が許した者しか入れない―――マトイやマトイの師匠、この2人を一度に迎える為にどれだけ自分を曲げたのだろうか。

「あの方に‥‥」

「仮面の方ですか?」

「‥‥俺はあの方に血で奉仕しか出来てない」

「そう‥‥」

 腕を引いて車の座席に横になる。マトイに覆い被さって甘え続ける、悲しい訳じゃない、怒りなんて持ってない、後悔なんてしていない。でも、俺は今の今まで気付かなかった――――あの方は俺を見てくれていた。

 俺を1人にしないでいてくれていた。なのにあの方はマトイやネガイという友人を、もう迎え入れる事は出来ない。

「俺はあの方に何が出来る‥‥血を飲ませるだけのか‥‥?」

「‥‥私は仮面の方をもう思い出せません」

 聞きたくなかった。続けようとするマトイの口を俺は塞ぐことしか思い付かない。

「仮面の方は、大切な人ですか?」

「大切な恩人なんだ、マトイと同じくらい‥‥」

 マトイの心音が聞こえる。口付けに疲れた俺をマトイは胸で休ませてくれている。一定で、力強くて、外の音を全てかき消してくれている、マトイの心臓に包まれている、車全体がマトイの体内だった。自分の腹を撫でるように俺の頭を撫でてくれる。

「その方とはどうやって知り合ったんですか?」

「‥‥言いたくない‥‥」

「私が殺した時ですね?—――私があなたを殺した理由、わかってますよね?」

「俺を‥‥救おうとしてくれた。救ってくれた‥‥」

 この手で殺された。今も思い出す、マトイの声を。俺を引き裂かれた袋のようにした。

「‥‥泣かないで。私はあなたを泣かせる為に殺したんじゃないんです」

「‥‥だけど、結局俺は―――」

「それとも仮面の方はあなたを泣かせたいから、生き返らせたんですか?」

 違う、そんな事ない。あの方は俺に2人を想う心を忘れないでと言ってくれた。あの方は笑顔と痛みで俺を送り出してくれた。血と宝石で祝福をしてくれた。俺はどうしたかった?ただ2人に会う為だけに生き返ったんじゃない―――俺はあの方に。

「私もネガイも、それにきっと仮面の方もあなたを救う為に、泣かせない為に傍にいます。あなたが泣いていては私達も悲しいんです‥‥だから笑って」

 俺はあの方に笑って欲しかった、笑い掛けて欲しかった。

 求めている物は同じだったじゃないか。

「マトイ」

「何ですか?」

「‥‥マトイを好きになって良かった、ありがとう」

 マトイの顔まで這い上がって、再開する。黒い妖艶な瞳を見ながら。

 吸い込まれそうだ。

 完全なる黒、黒目と呼ばれる眼色の大半は茶色や若干の赤を含んだ混じった虹彩が占めている。だけど、マトイは違う。

 どの角度から見ても同じ魅力を見せつける。それは自分の美しさに絶対的な自信を持っているからだ。捕らえた光は決して逃がさない、傲慢な力強さを感じる。

 何もかもを奪っていったマトイだからこそ使いこなせる、魔眼。

 長くマトイと重なり遊んでいると、頭側の車の扉が叩かれる。

「‥‥無視しよう」

「はい、‥‥来て」

 更に口に吸い付き、零れる濁った唾液を舐め取る。

 溢れる唾液を全て飲み尽くそうとしていると、遂には扉が開かれた。

 相手が男だったら、ここで血祭りにあげてからマトイに戻ろうと思ったが、マトイの師匠だったから無視して続ける。

「するなら場所を選びなさい」

「マスター、弟子の情事の邪魔をするなんて‥‥。混ざりたいのですか?」

「いいから早く降りて来なさい!」

 仕方ないとふたりで降りると、恐らくは何処かの地下だった。だが、あまりにも巨大。前にネガイが見ていた写真の中にあった地下の水を貯める施設に似ている。

 柱や天井、そして床のデザインのせいで神殿のようにも見えた。

「まずは服を直しなさい。それと顔の唾液も」

「これはマトイのです」

 ハンカチを出そうと思ってが、もう既に宝石を包んでいたので手元になかった。

「マトイ、拭いて」

「はい、顔を向けて」

 顔を拭かれながら、自分とマトイの制服の肩や校章を元に戻していく。

 ただ、やはりネクタイが苦手なのでマトイに頼る事にした―――口と口が付きそうになる近さでネクタイを戻してもらい、最後に軽く付けてから向き直る。

 マトイの師匠は夢の中とほとんど変わらない服装だった。

 周りを取り囲む陣を作っている人形達も。

「法務科からの誘いなら断ります。夢の中でも言いました、あんな試し方しか出来ないなら、法務科に未来はありません」

「‥‥あなたを傷つける試し方をしたとわかっています。ここに謝罪します」

 驚く程、軽く頭を下げてくれた。

 頭を上げるスピードはゆっくりとで心から申し訳ないと思っていると感じた。

「ただ、わかっているとは思っていますが、あなたをこのまま野放しにする訳にはいきません。名前は聞きましたね?現在日本オーダー本部並びに法務科はあなたを人類の天敵になり得ると記載、判断を下しました」

「俺をどうするつもりですか?」

「法務科所属のオーダーに所属して貰います。ただしわかっているとは思いますが、これは正式な加入ではありません」

「‥‥首輪をつける気か?」

「否定はしません」

 毅然とした態度。交渉には応じないと見えない目で訴えかけてくる。

 だが、夢で感じた悪寒は、今はそれほど強くない。

 あれは夢だったからか、それとも本当に罪悪感を持ち合わせているのか、だがそれら以上に法務科という立場が何よりも威圧してくる。

「俺の実力はさっき見た通り、法務科の役に立つとは思えない」

「ええ、そうです。あなたの目や血はどうあれ、あなたの実力では法務科には相応しいとは言いえません」

 事実だ仕方ない。俺はこの人は勿論、マトイにも手も足も出ない―――。

「将来のあなたがどうなるかは知りませんが、法務科に必要なのは今の力。あなたの指導の為に法務科の人間を付けるなんて無駄な事も出来ません。勿論護衛をつけるなんてつもりも、それこそ無駄です」

「それでも俺を法務科に入れるメリットは?」

「あなたの血を狙う者達が現れた時、それらはあなたの敵であって、高い確率で法務科の敵です。あなたを法務科に受け入れると、それだけでいつか出会う筈の私達の仕事が自分から飛び込んで来る、探す手間が省けます。あなたの指名ははただ生き残る事。その結果あなたが法務科に所属するに相応しい実力を持つまで生存出来たのであれば、正式に法務科に所属する事を許します」

「つまり、あなたは襲ってくる敵を捕まえれば法務科それだけで有難いんです。捕まえれば捕まえる程に法務科から謝礼が届きます」

 マトイが俺と法務科にとってのメリットを完結に教えてくれた。

「それに‥‥」

 まだメリットがあるのだろうか。肩を叩いて耳元で唇を近づけた。

 脳髄を直接揺さぶる魔笛のようだった。耳の奥にある海馬を掴み取るウィスパーボイスに膝が笑う。静かに、密かに微笑んだマトイが言葉を続ける。

「あなたが活躍すれば、私があなたを更に好きになります」

「やるか」

 決まった、法務科に所属する。

「ちなみ言っておきますが、あなたには二つの選択肢があります。一つは今言った法務科所属となり、迫ってくる犯罪者を逮捕する。もう一つは法務科から保護を受けて名前も人生も変えて守られる立場になるか。私としては後者を選んでくれれば有難いのですが」

 名前も人生も変えるか。

 この出会いが、あと数年早ければそれも悪くないと思ったかもしれない。

「マトイ、どっちの方が俺を好きになってくれる?」

「前者です」

「前者で」

「わかりました。本日付けでマトイをあなたの監視役にします、外に出る時はマトイの許可を得るように」

 俺からの返答を聞いて、最低限の必要な事だけを伝え終えた時、マトイの師匠は耳元を抑え始めた。耳に何か当てているのだろうか?右耳を押さえて何かを一言二言だけ言葉を発する。

 読めなかった。破裂音から始まり、日本語には無い口の開け方だった。

「これを」

 マトイの師匠が何かを握っている手を見せてくる。

 握られている手を覗こうと下を向いた時、開かれた。しかし何も無い。

「あ‥‥、」

 マトイの声がした。

 隣を見た時には、既に血が制服を汚していた。俺の血、俺の制服ではない。

「マトイ!」

 すぐ側にいた人形が、マトイの胸を背中からヴェールを剣の形にして貫いていた。

 マトイの胸から引き抜かれるヴェールと同時に鮮血の飛沫を上げている。そのまま膝もつかずにマトイは立ったままで数瞬を過ごした。

 右腕で抱きかかえて杭を抜き、人形の主に振り下ろそうとしたが、主の右後方を越えて飛んで来る黄金の短剣の軌道を弾いて変えるしか出来なかった。軌道を変えられた短剣は俺の右眉の上を引き裂き、血を吹き上げながら通過していく。

 もし俺が抱きかかえていなければ、黄金の短剣はマトイの頭を刺し貫く結果を起こしていた―――目が一気に染まる。

 怒りに任せて白いドルイダスを渾身の力を使い、杭で貫く。

 だが後方にいた人形の帯に邪魔をされて腕が動かなくなる。マトイの腿に挿しているのを知っていたジェリコ491を引き抜き射撃をするが、銃口近くで白い帯を使い柔らかく受け止めて防いでいた。

「容赦なく攻撃出来るのは法務科にとって最低条件です。ただ、殺しをしてはいけません」

 ドルイダスが何かを言っているが、聞こえない。

 眉の血のせいで右目に血が入って来るが、それは些事でしかない―――マトイと同じように貫く、そう決めた時。

「落ち着いて、私は平気だから」

 マトイが抱えられながら頬を撫でてくる――――言葉を失って貫かれた場所を見ても血の一滴もついていなかった。現実だ、胸に穴など開いていない。

「大丈夫。落ち着いて」

「‥‥夢」

「そう、これは夢」

 杭を持った腕に絡み付いていた帯が解かれ時、頭を抱いて体温を感じさせた。

「怖かった‥‥」

「ごめんなさい。でも平気だから、泣かないで。傷の治療をします、薬を渡して」

 腰の止血剤と制服の上着をまとめて渡して、マトイの足元にしゃがみ込む。目を閉じて薬を塗る手だけに意識を向ける。

「良かった。生きている」

「はい、大丈夫。生きています―――ほら、血も流れてなんかいませんから」

「でも‥‥マトイを殺す気だった」

「あの程度なら余裕で防げます」

 マトイから血こそ流れていないが、あれは幻覚や夢ではなかった。

 現に俺は今血を流している。

「ごめん。迷惑だったな‥‥」

「いいえ、ありがとうございます。守ってくれて、嬉しかったです」

「あなたがどちらを取るか、試しました」

 頭の上からドルイダスの声が聞こえた。

 ほぼ死んでいたマトイを守るか、それとも殺した犯人を優先するか。

 本当なら犯人を優先すべきなのだろう、それどころか俺は斬撃を避けず、弾ききれずに負傷をしてしまった――――完全なる失敗だ、人間にとって。

「人間が嫌いだ‥‥」

 下を向いて呟いてしまう、この言葉は白いドルイダスどころかマトイをも呪う言葉だとわかっていても。

「泣かないで、その心を忘れないで。それも法務科に必要だから」

 包帯を巻き終えて、マトイの治療は終了した。上着を着て立ち上がる。

「それで、終わりか?」

「これを」

 今度は投げつけるように何かを渡してきた。銀の鍵だ。形状は2世紀程前の代物で時代錯誤に古びれている。その中でも目を引くのがキーヘッドだ、黒い真珠のような宝石が備わっている。これだけで何かしらの骨董品のようにも見える。

「それは常に持っていなさい」

 それだけ言って、白いドルイダスは人形を引き連れて何事もなかったように去っていく――――マトイに鍵を渡して、杭を握り直す。

 狙うは身体の中心、この質量なら頭など狙う必要もない。

 駆けながら投げつける。

 投げつけた杭はあっさりと帯に弾かれて、コンクリートに軽い音を立てる。

「背後への攻撃は」

 ドルイダスが振り向いた時、俺はもうドルイダスと人形達の輪の中に滑り込んでいた。正確にはドルイダスの右後方。

 杭を投げたと同時に抜いた脇差しをドルイダスの方を見ずに切腹でもするように振り上げてドルイダスの背中に音も無く刺し入れる――――けれど届かず、人形の二体に両腕を掴まれて床に押し付けられる。最後にマトイを貫いた一体がヴェールをもう一度剣の形にして突き付けてくる。

 今出来る最速の動きで、ドルイダスの弱点になり得る方法で狙ったつもりだった。

「聞いた通りの目ですね」

 剣を握った人形を下がらせ、床に押し付けている人形に指示をして膝立ちにする。

「私の範囲を見て襲ってきましたね?」

 仮面の方に連れて行かれた時に造り出した檻、マトイの銃の防ぎ方、このドルイダスは帯を自分の身に纏わせる事を一瞬では出来ない。だからこの白いドルイダスには『反応が出来ない速さを持った手数』か、『防ぎ切れない質量を持った一撃が有効』とわかった。どちらも今の俺は持ち合わせていない。

「この為の人形です。こうなるとわかっていて挑みましたね?死にたいのですか?」

「よく言われる」

「今後はそう言われないように」

 まるで教師のような言い方だった。正しく自分の殺害方法を諭してくる。

「あなたは自分の目が、どういうものか理解していますか」

「‥‥結晶だ。この目は俺を喰って、自分を成長させる。最後には俺を完全に消すつもりだった」

「それは過程。目の正体ではありません」

 考えないようにしていた。

 もう俺には関係がない話だ。目の女達は始末した、心臓の化け物も捻り殺した。

「その目の正体、知りたいと思いませんか?知れば持て余しているその目が幾らかあなたの物になります」

 気付かれていた―――

「報告書によれば一目でマトイを捉えたと聞きました。しかし、今のあなたには見える範囲に限界がある―――私はこれからあなたの上司、指示者となる者。法務科の所属として法務科のヒジリに聞きます、あなたは目を使いこなせていない、答えなさい!」

「‥‥はい、そうです。この目を御していません」

 あの時、マトイが作り上げた裁判所とは違う。もうここは既に処刑台だ。魔女が取り仕切る、異端審問。ここは有罪か無罪かを決める場所ではない。既に決まった答えを俺の口から吐かせて結果を確定させるだけの儀式。

 誰が見ても明白だ。俺はあの女達が消えて更に弱くなった、あの頭が解放される感覚は鈍り、実力の半分も出せていないソソギにネガイという大きな後ろ盾に頼りながら一撃を入れた。あれこそ儀式だ、ソソギがカレンを殺せないという理由作りの。

「俺は、この目の使い方を忘れた」

 そもそも知っている筈がない。あの女達に頼って目を起動させていた、俺はただ力を貸されていただに過ぎない。

「正直で結構」

 傍聴人がいる中で自分の弱さを認めないとならない。

「目の使い方、知りたくはないですか?」

「‥‥いらない。あなたをマスターと呼ぶ気はない。俺の主はもういない。もう主を捨てた――――仕える相手を探す気はない」

 あの方もそうだ、主じゃない。あの方は好きで信じている。仕えている訳などいない。

「‥‥今はそれでいいでしょう。顔を上げて、目を開かせなさい」

 人形の片割れが頭を掴み上げて、片方が目蓋を開かせる。

「あなたの目は正確には魔眼ではない、だから本物を見せておきましょう」

「本物‥‥?」

 頭を掴まれているせいで喉が伸びきっている。呼吸はできても声を出せる息を吐けない。けれど―――息を呑んでしまった。剥けるように消えていく目隠しの下を。

「バイオレット‥‥」

 アメジストをそのまま義眼にしたような、鮮やかな紫水晶の結晶が眼窩に収まっていた。

 瞳を中心に幾つもの部屋が筋によって造られており、部屋の中に小さい輝くアメジストを幾つも幾つもを丁寧に重ね入れられている。それにより、ただ一つの結晶では出せない複雑で数多くの光を放てる輝きが広がっている。

 これは人体が持っていい臓器なのだろうか。あまりにも、冒涜的が過ぎる。

「綺麗と思いますか?」

「‥‥好きだ」

 いつの間にか人形達に離されていた。だけど、動く気になれない。このまま世界の終わりまで見ていられる。

「美しい‥‥」

 虹彩の奥で更に紫の輝きが瞬いている。あれは血管か―――血の流れがそのまま目に作用して紫の色に更に深みを与えている。もう立てない。この目を隠してくれないと、このまま心を奪われ人形となってしまう。

「‥‥眠りなさい」



「負けた‥‥」

「はい、負けましたね」

 また目隠しをしてマトイと車に乗っていた。

 ただ今回はマトイの師匠に負けたという傷心を理由に、マトイの足を枕にして甘えている最中だった。頭に当てられているマトイの手が温かくて傷に良い。運転手が誰だか知らないが、見えないので無視してマトイに甘える事にする。

「傷は痛みますか?」

「‥‥少しだけ」

「帰ったら血を流して下さいね。拭き取りはしましたが、傷口は清潔であるべきです」

 見えないが、割と傷は深いのかもしれない。

「ストッキング、履いてないのか?」

 寝ぼけていた頭が覚めてきて気付いた。マトイは今素足で俺を寝かせている。

「ふふ、どうぞ触って下さい」

 手を取って自分の足を救護棟の時のように触らせてくる。

傷が無い―――目が見えないからこそ、手に神経が集中している今の状況でも、縫い目の一つも感じない。何の取っ掛かりもない、元の白いマトイの足に戻っている。

 けれど傷は無くても痛みは残っているようで、マトイが呻くように呟いた時、急いで手を引く。

「法務科にはこういう事が出来る方がいます」

「‥‥良かった」

 寝返りを打って天井に顔を向ける。

「マトイ‥‥大人しくしてるから目に手を当てて‥‥」

 目隠しの上からマトイの手を感じる。目隠しが溶けるように外された時、マトイの熱を目蓋に直接感じる。

「目は瞑っていて下さい」

 目に当てながら片手を胸に乗せて、そのまま撫でてくれる。目と身体が温めらて、急激に眠気が誘ってきた。

「‥‥あの目が魔眼なのか。すごいな‥‥」

「ええ、驚きました。まさかマスターがあなたに見せるなんて」

 あの目の特性について聞くつもりだったが、マトイは別の事に驚いているようだった。

「普段見せないのか?」

「‥‥そうですね」

 返答に少しだけ時間が掛かった。

「あの目は、相手の痛みを取る時しか使いません。もう苦しませないように―――気持ち良かったでしょう?」

「‥‥あれは気持ち良かった―――自然と眠れた」

 頭の痛みも、抑えられていた腕の痛みも、目を見ている間は忘れられた。あの目を使う時は、きっと―――。

「‥‥綺麗だった‥‥」

 あの目はもう忘れられない。次見る時が最後の時期だとしても。

「きっと、マスターは喜んでいますよ」

 マトイが笑いながら胸を撫でてくれる。

「‥‥そんな訳ない。あの人だろう‥‥俺を守れって命令した人は‥‥」

 説明された通り法務科は俺とネガイを守れと、マトイに命令していた。マトイの直属の上司ならば、あの人こそが俺の味方であろうと決めた人だ。

 姿を見たのは今回が初めてだったが、あの人は最初から最後まで俺の味方だった。しかも目の使い方まで教えようとした。そんな人を殺そうとし、舐めた口を叩いた。嫌われて当然に決まっている。

「そんな人に、嫌いだなんて言った‥‥。いつもこうだな‥‥俺って」

 もう一度寝返りを打ってマトイの制服に顔を隠す。こんな顔を見せたくない。

「泣かないで‥‥」

「‥‥泣きたいんだ‥‥」

 声を上げないようにマトイの体温に頼って、すすり泣く。

 ああ‥‥いつもこうだ。後から理解して、後悔する。傷つけた本人に頼らないと泣く事すら出来ない。弱い化け物だ。

「‥‥マスターは、謝っていましたよ。あなたに」

 耳にかかっている髪をどかして、耳を触ってくる。

「—―――捨てられた彼はずっと試されて生きてきた。だから、オーダーになってしまった。私はそんな彼の心に、どれほど怒りや苦しみ、恐怖に耐えられるか試した」

 テープレコーダーのようにマスターの言葉を伝えてくる。

「‥‥人間が嫌いだと言って当然です。ただただ生きる為に必死だったのに、人間はそんな彼に面白半分に触れて、自分達の思い描いた存在ではない分かったら捨てた。彼はこの世に望まれて生を受けたかもしれません、しかしそれはただ人間の都合でしかない」

 もう一度寝返りを打つ。制服から顔を離して、目に手を受ける。

「‥‥あなたもです。彼を苦しめて、更に傷まで受けた――――その傷は戒めとして忘れないように。彼の傷が癒えても、あなたは傷を忘れてはなりません。その傷こそがあなたの罪、欲望のまま彼の目を求めたあなたの業。彼が許すまで傍にいなさい。以上です」

「‥‥怒ってなかった?弱くて」

「それも報告済みですから」

「‥‥ありがと、見ててくれて‥‥いつから気づいてた?」

 胸の上の手に手を重ねる。

「気づく、というよりも予想でした。ネガイと私で話し合っている中で、あなたは目に直接命令をしている訳ではないのでは?と予想していました。目に住む何者かにより、あなたは操られていた。であれば、あなたに目の操作権は無い。権利を手に入れても今まで操作した事がない以上、前と同じ結果を出せないので?と。証明になったのはソソギさんとの戦闘です」

「目を使いこなしていたら、どうなってた?」

「もしもの話はしません」

「言ってくれ、俺のやる事は前と変わらない。どうなってた?」

 血を求めて襲ってくる人間達から生き残るには強さが必要だ。もうあれが嘘なのかどうなのか、聞こうとも思わないが、俺が強ければ目に操られなかったとネガイから言われていた――――やる事は変わらない。生き残る為に聞かないとならない。

「俺はあの場でどうすればソソギに最短で勝ててた?」

「‥‥目を使いこなせていたあなただったら、あの弾丸を受けるなんて賭けをしなかった。発砲を見届けてから避けれていました」

「‥‥なんでそう言えるんだ?」

「知りませんでしたか?あなたが避けた私の腕は初速を秒速400mを超えます」

 400m?9mm弾は秒速360m程だ。火薬を使う程に弾速が増えるが、400mとは44レミントンマグナムと同じでデザートイーグルに使われる他の弾丸の速度ともほぼ同じだ。それを俺は見てから避けたと言った。

「驚きましたか?自分がどれだけ人間離れした化け物か。弾道を予測する必要がないあなたの目は、私達人間とは別の物理法則の中にいる。一応言っておきますが、私の腕は物理的な制約を受けるので初速は400mでも数秒で半減します」

 あの時のマトイの腕は数秒なんてかからず届いた。半秒の間に、俺を細切れに出来ただろう――――俺は、そんな音速の世界を走っていたのか。

「‥‥目標は遠いな。それにあの人は優しかった。弱くなった俺のわがままを聞いてくれたのか」

 マトイの師匠は選択肢を提示してくれた。自由に生きるか、保護して観察するか。俺が弱いと分かった上であの人は選ばせてくれた。その後のあの試し方を肯定する気は無い――――だが、必要な処置と言われればその通りなのかもしれない。

 あれが幻覚でなければ、後1秒もしないでマトイは死んでいた。だというのに俺はマトイを抱き寄せて守ろうとした。

「あなたはまず自分の身を守るべきでした。私の事など無視して」

「やめてくれ。マトイがいなくなるなら、俺はもう生きている意味がない」

「私と一緒に死ぬ気でですか?ネガイはどうするの?」

「‥‥でも、マトイを見殺しにするなんて出来なかった。せめて俺の腕の中で死んでくれ」

 これは優しさなのか。それとも独占欲か。俺はマトイの死すら自分の物にしないと気が済まないのだろうか。

「‥‥良かった。私も1人で死ぬのは嫌なので」

「マトイを1人にしない。俺が傍にいる」

 マトイの手の熱が強くなってきた。眠らせにきてくれる。

「眠い‥‥」

「学校に着くまでまだ時間があります。‥‥ゆっくり寝て下さい」




「よく怪我をしますね」

「ネガイに甘えたいから」

「なら、許してあげましょう」

 未だ寝ぼけている頭を叩き起こすようなつんざく痛みを実験室で傷を診てもらっていた。寝る時はそれほど強くは感じなかったが、目が覚めた時、血が噴き出ているかのような急激な痛みが襲ってきた。

 明日まで続く宴ではあるが、それでももう必要の無い武装や救護テントは明日までに自主的に回収しろとの御達しが教導からそれぞれの科に飛んできたとの事で、ミトリとサイナはいなかった。

「‥‥痛いですか?」

「少しだけ‥‥」

 傷に手を当てて、痛みを取ってくれる。この痛みが吸われる感覚は目じゃなくても心地が良かった。

「それで、法務科はどうでした?」

「マトイと同じ部署になった。ただ、常に法務科に行くとかじゃない。‥‥俺の仕事は生き残る事らしい」

「まぁ、そうでしょうね」

 痛みを取り終えたネガイは、デスクの上のコーヒーを飲み始める。

「いくらあなたの目が特殊でも、それだけで法務科に正式に加入出来るとは思ってませんでした」

 椅子に座りながら両手でコーヒーを飲むネガイは小動物的で愛らしかった。

 痛みでぼやけていた目にネガイの姿を取り込んで、しかと目を覚ます。

「俺は嬉しかったよ。やっとネガイと外に出れるのに、このまま会えなくなるのは嫌だからな」

「‥‥はい。私も、嬉しいです‥‥」

 灰色の髪で顔を隠してしまったネガイは本当に可愛い―――いつも可愛いが、今日は特別だった。

「そろそろ行きますか」

「ああ、行くか‥‥」

 実験室から出て、ある場所を目指す。

 救護棟にはシャワー以外にも入浴ができる湯船があった。本来はあまりにも酷い怪我や泥や油塗れの生徒を洗い流すのが目的らしいが、現在そこまでの怪我をする生徒はまずいない。だから予約制で湯船を貸し出している。俺は使った事がないが、ネガイが予約してくれていた。2人で入る為に。

「緊張してるんですか?」

「‥‥少しだけ」

 手を繋ぎながら、お互いの顔も見ずに伝える。しかし、つい魔が差してしまった。

 僅かに首を捻って、ネガイの顔を見た瞬間、心臓から身体中の内臓や血管に血が鉄砲水の如く流れ込んでいくのがわかる。顔どころか全身がが熱くなってきた。

「ほら、急ぎますよ。誰かに見られたら大事です」

 手を引かれて、2人で小走りに廊下を通っていく。なびく灰色の髪が顔をくすぐり、ネガイの香りを全身で感じて、尚更顔が熱くなってきてしまう。

「誰もいませんね」

「今は皆んな片付けだから」

 やっと現実を受け入れられた。心の準備を終えながら周りを見渡し浴室に入る。中は単純な構造だった。扉を潜れば隠されもせず脱衣所があり、両端の壁に棚が数段あるだけ。

「‥‥脱がないと」

「はい‥‥」

 どちらが先手を取るでもなしに、手を離して背中合わせに制服を脱いでいく。2人分の衣擦れの音だけが狭い脱衣所に聞こえてくる。ボタンを外し、ジッパーを上げる音が。

 制服を脱いで、腰にタオルを巻くだけ―――男の入浴準備などこの程度。数秒で終わる。終わった時、後悔した―――後ろからの音だけで心拍が数秒で扉を何十度も叩き続ける。眼球が飛び出しそうになる直前、いつまでも続くかと思われた衣擦れとジッパーの音が止んでしまった。

「見てもいいか‥‥」

「どうぞ‥‥」

 振り返ってネガイを見た瞬間、血が止まった。

 想像を超えてタオルの丈が短くて、足の付け根が後数mmで見えそうだった。

「私はミトリと何度か入った事があるので、任せて下さい」

 タオルを巻いた姿を見せながら髪をまとめるネガイは、特に何も感じていなそうだった―――――俺はこんなにも胸が痛いのに。

 再度、手を引かれて浴室に入ると、そこには確かに浴槽があったが、やけに平べったくて広い。患者を洗う事に特化したような浴槽だった。もしかしたら、俺は一度、ここで洗われたかもしれない。病院に行く前に。

「座って下さい。傷を流します」

 シャワー前の椅子を差して、座るように言ってくる。

「‥‥ネガイは平気なのか?」

「ん?いいから早く」

 強引に椅子に座らせられた時、ネガイの腰から下がタオル越しとは言え間近に見えてしまった―――つぶさに観察した事など無かったが、年相応よりも成熟した身体がタオルを持ち上げて、少女から女性へと成長途中である生々しさを訴えかけてきた。

 ネガイの細い腰や突き出した臀部、なだらかな下腹部から芸術品と言えてしまう完成された美を感じる。足は引き締まっているのに、白い腿がネガイが動く度に、少しだけ揺れる。自然と歯形とつけたくなってしまう。でもやめておいた。ネガイの邪魔をしたくない。

「血はもう止まってますね。かなり出血していたと思いますけど」

 俺の前髪を止めてあるピンを外し、貼ってあるシートをゆっくりと剥がしながらシャワーで固まった血を流してくれる。傷が温められて痛みも痒みも消えていく。

「マトイがすぐに治療してくれたけど、縫った方がいいかもな‥‥」

「そうですね。このまま血が止まり続けてくれるなら不要ですけど、もう一度出血したら、救護棟を頼った方がいいですね」

 血を完全に洗い流した時、髪全体も軽く洗い流してくれる―――懐かしいと思ってしまった。まだ俺が成育者を親と思っていた時にして貰った記憶だった。

 最後に防水シートを貼って、傷口に外気と水が触れない様に処置される。

「立って下さい。身体の血を洗い流します」

「そ、それぐらいできるから‥‥。ネガイは先に湯船に、」

「私も早く浸かりたいので、早くして下さい」

 強気で積極的なネガイに負けて一度立ち上がると、ネガイは強気な表情を崩さずにシャワーとタオルを持って命令を下してくる。

「タオルを取って下さい。血を吸ってます」

「え、」

「え、ではないです。言っておきますが、あなたの全身はもう何度も見ています」

「‥‥え?」

「因みに、最後に見た時は私が脱がしました。自分で取るか、私が取るか選んで下さい」

 と、逃げ場はない結末も変わらない二択を提示され―――自分で取る事にした。

 言葉を発する暇もなくタオルで容赦なく前も後ろも含めて全身を泡と共に擦られる。手慣れている訳ではないが、特段何かを感じている様子もなかった。敏感な部位をタオル越しとは言え、ネガイに直接触れられている、見られているというのに―――俺は、こんなにも苦しいのに。

「痛くないですか?」

 気遣ってくれる姿勢が苦しかった。俺の為に心を殺しているような口調が怖かった。

 やはり、この灰色の麗人は。この俺を男性とは見ていないのか。

「ネガイは、恥ずかしくないのか。何とも思ってくれないのか‥‥」

「そういう意味でしたか。大丈夫です、男性の裸を見たのはあなたが初めてですよ」

 シャワーとタオルを離して、巻いているタオルすらも投げ捨てて、自身の肌を見せてくれる。欲情ではない、ただ不安で寂しかった。冷たい肌を剥がしたかった。

 邪魔するものが一切ない白いネガイを抱きしめて、心臓を押し付ける。あれほど騒がしかった心臓も既にその役目を終えるように沈んでいる。

「‥‥弱いから、男として見えないか」

 瑞々しく柔らかい女性の魅力をネガイから痛い程感じているというのに。

「私はあなたを見ないといけないんです」

「‥‥どういう意味だよ」

「そんな顔しないで下さい。もうあなたを、検体としてなんか見てません。‥‥あなたは私の恋人です」

 重ねるように、出迎えるように取った手を、何もつけていないまっさらな胸に押し付けられる。傷一つない純白の肌と深い柔らかな脂肪をかき分けた時―――心臓の鼓動を感じた。

「私も、苦しいです。あなたと一緒です、わかりましたか?」

 恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな笑顔のネガイを見て思い出したことがあった。ネガイは素直じゃなかった。いつも平気な振りをして、ひとりで泣いていたのだと。

「あなたを見ないといけないと言ったのは、怪我をしていないかどうかを調べないといけないからです」

「怪我?怪我だったら」

 自分の怪我を見上げるように天井へ向く。

「はい、今は確認しました。怪我は頭だけで、注射器の後もありません」

 ようやくこの心意にたどり着いた。結局、自分の事しか考えていない自分に嫌気がさしてしまった。

「情けないな。恥ずかしい奴だな‥‥俺‥‥」

「いいえ、あなたの言葉、嬉しかったです。素直になるべきは私でした。どうか自覚して下さい。今のあなたには血が足りません。また血を奪われたら、もう一度昏倒してしまいます」

 ここに戻って来る時、医者が言っていた期間を過ぎる前に飛び出してきた。あれから一度も輸血をしていない、血が足りない状況は何も変わっていない。自分よりもこの体をよく知っていてくれた。体調に気を回してくれていた。

 胸から手を滑らせて、背中に腕を回す。

「あなたは私のせいで死んだ。責任を取らないといけないんです、あなたを完治させる為に」

「‥‥見ていてくれたのか」

「矛盾してますね、ソソギとの戦闘は私が起こしたのに」

「‥‥ごめん。心配かけた」

「あなたの血を奪ったのは私です」

 血が足りない体で法務科に行くと言った時、ネガイはどんな気持ちだった。法務科に行って来るのなら怪我の一つや二つをしてもおかしくないのに。後ろ姿を見送ってくれたネガイは苦しかったに違いないのに。

「泣かないで、一緒にお湯に入りますから」

 ネガイに手を引かれて、湯船に足を入れる。細い身体を離さない為、せめて心臓の鼓動を伝える為に背中を抱きしめながら湯舟に腰を下ろす。

「私で暖をとりますか?仕方ない人」

「ネガイだって、そうだろう‥‥」

 肩まで浸かる事は出来ないから、ネガイを抱いて温まっていた。白い肩も少しずつ赤く染まっていくのが見える。長い艶やかな髪を流した姿は、とても人間的だとは見えない。

 だというのに、こんなにも心臓が落ち着くのは何故だ。この静寂が心地いい。

「話、聞いてくれ。俺、ネガイに告白した時。断られたと思ったんだ―――迷惑だって言われたと思ったんだ‥‥」

「はい」

「だから、しばらくどう接すればいいのか、わからなかった」

 ネガイと契約した時、告白した、打ち明けてしまった。内臓がねじ切れるような痛みと心拍の中叫んだ心を声を、ネガイは素っ気なく受け流した。

「もう患者と医者とか、同級生とか、そういう関係になろうって思ってたんだ」

 ネガイは何も答えてくれない。ただ、俺の話をうなじで聞いてくれている。

「でも、ダメだった‥‥。やっぱり、好きだった」

「‥‥はい」

「これで三度目だけど、聞いてくれ‥‥。ネガイ、好きだ、傍にいて欲しい‥‥」

「それって、今までと変わらないですね。‥‥でも」

 湯に浸かった事で水滴に輝かされた肩と首を捻って、ようやく黄金の瞳を向けてくれる。

「私もです。あなたを愛しています。‥‥私の勝ちですね」

「‥‥そうだ‥‥ネガイには勝てない」

 長い時間入っていた気がする。ここ数日で最も落ち着ける時間を過ごせた。

 ネガイが巫山戯て、俺の足を引っ張って浴槽に沈めたり、反撃として湯の中からネガイを引き寄せて口を奪ったり。疲れ切った時にはネガイは腹の上にいた。湯船の端にタオルを置き、枕にして体重をかけてのしかかっていたネガイと共に、お互いの肩に顔を乗せていた。

 人肌との重なりが心地良い。この安心感は体液の混ざり合いでは満たされない快楽だ。

「本当ならここに花の油を入れるといいんですよ。私は昔からそうしてました」

「今日はしないのか?」

「最近部屋に帰っていないので、もう手持ちの油が切れました」

「そうか‥‥、どんな香りが良いんだ?」

「そうですね。やはり薔薇です。強い香りじゃないと、お湯に負けるので薔薇の油が大半です肌の保湿もできますし」

「次はやってみるか?」

「‥‥でも、同じ香りをさせていたら。‥‥2人で入ったって、バレてしまいますね?」

 今のは、破壊力があった。ひと目を気にしない、ひと目を気にする余裕がなかったネガイが、そんな事を言って来た。しがみつくように声を発した姿は本当に普通の女の子だった。

「じゃあ、一日中どこにも行かないで‥‥。それは勿体ないな‥‥」

「はい、どこか出かけて、帰ってきたら試しましょう。何度でも何度でも」

 ふたりで湯船に浸かり、お湯の音をさせている今の空間は、夢のようだった。

 首に腕を回しながら灰色の髪を背中に流し、今にも寝息でも立てそうになっている恋人の髪を撫でてみる。猫のように目を細めて笑いかけてくるネガイが耳に吸い付いてきた――――艶めかしくて、室内で幾重も卑猥と言ってもいい音をひとしきり立たせ終わった時、口を重ねる。唇を後引く唾液を舐め取った後、ネガイの目が潤んでいく。

「‥‥それだけしかしないんですか?私、待ってますよ」

 大人びた表情だった。こんな顔の出来るのかと血の巡りが冴え渡っていくのがわかる。茶化す気になど成れなかった。だけど、主導権を自分も握りたかったから迎撃をする。

「言ったな?なら今度ふたりで出たら」

「この後」

 ネガイの身体が急激に熱くなるのを感じる。尖る胸の先と柔らかな下腹部も含めて、自慰でもするかの様に全身を擦りつけて来る。この体を求めて自分の身体を差し出している。

「‥‥いいのか?俺、持って無いぞ」

「私が持ってます」

 密告した直後、身体を離して湯船の端に逃げてしまう。

「サイナから受け取りました。‥‥あなたが、望んでいるって。‥‥違うんですか?」

 幾億の疑問が頭を渦巻いていた。まずどうやって未成年が購入した。誰から購入した。そもそも俺が望んでいるという話は一体どこから―――感謝すべきなのだろうか。けれど、もし使い終わったそれが見つかった時どうなるか。

 最初の命題から考えよう。ネガイの言っている物は想像している物なのだろうか。

「—――本気か?俺、したことないぞ‥‥」

「私もです‥‥」

 髪で口元を隠してきた。残っている手で、さっきまで見せていた身体も隠してくる。この姿が、また一段とネガイを大人として艶やかに見せつけてくる。

 手を退かせたくなる衝動に駆られた時、僅かに覗かせた口が動いた。

「いや、ですか?」

 ネガイが髪で顔の大半を隠して聞いてきた。

「しよう。俺もネガイとしたい」

 黄金の瞳に心臓を鷲掴みにされた。何よりも、ネガイの方から言ってきてくれた―――答えなければならない。応えなければならなかった。

「今ならまだ誰もいない。急ごう」

 手を引いて一緒にシャワーを浴びて、脱衣所に向かう。自分でも驚くほどに心臓をコントロール出来ている。ここに来るまではまったく言う事を聞かなかったのに、今は力で捻じ伏せられている。

 ネクタイも付けないで、着替え終わった時ネガイへ振り返る。ネガイはまだ上の下着をつけている最中だった。白いだけではなかった。赤身が差した背筋に、体が震えているのがわかる。

「下着の付け方、見てもいいか?」

「え、ま、まだ振り返っては!?」

「でも見てないと、脱がせられないから」

「わ、わかりました‥‥」

 全力で目を使い、ネガイが制服を完全に着るまでの工程を取り込む。目の中で光を操り、ネガイの姿を何度も呼び出し、制服の脱がせ方や、下着の外し方のデモンストレーションを行い続ける―――何に目を使ってるのだという正論は、握り潰したつもりだったが、

「あ、後で見せます!教えてあげますから!」

 という声が聞こえた気がした。

 着替え終わったネガイの手を引いて、外への扉をゆっくりと開ける。金具の音にさえ震えるネガイと共に、周りに誰もいないかを確認する。

「人影無し、行くぞ」

 先ほどとは変わって、ネガイの手を引いて歩いていく。直ちに遅滞なく速やかに部屋に戻りたかった。ネガイと一晩を明かしたいというだけではない。同じ位の理由があった。今のネガイはあまりにも淫靡過ぎて、これから何をするかなんて一目見ればわかる程だった。

 このネガイは誰にも見せたく無い。俺だけの物にしたい。

 首だけで振り返って、ネガイを見ると、髪で顔を隠してそわそわしていた。顔を隠す癖は後でやめさせなければならない、ネガイの顔が見たかった。

「‥‥どこに保管してるんだ?」

 廊下の風に当たって、少しだけ冷静になれた。

「‥‥今持ってます」

 その返答に、狙撃でも受けたような錯覚を陥る。ネガイを見ると、自分の内ポケットと上から触っているのがわかる。

「‥‥もしかしてソソギの時から?」

「さ、最近!あの部屋には人が多かったので‥‥持ちますか?」

「い、いや、やめとく。見つかったら大変だから‥‥後で受け取るよ‥‥」

「あ、そ、そうですよね‥‥。でも、付けるのは自分でして下さい‥‥、形はわかっても、私、付けた後を見た事ないので‥‥付ける時の形もわかりませんから‥‥」

 誰かがここにいたら、もうこの会話だけで、これから俺達が何をするかわかってしまうだろう。わからないとすれば、無垢な子供か言葉を知らない獣たちだけだった。

 廊下の端にある実験室の扉が見えた時、ネガイが急に手を引いてきた。

「‥‥怖いか?」

 違った。ネガイに振り返りながら言ったが、思っていた顔とかけ離れていた。

「早く‥‥」

 ネガイを腕を収めながら、扉まで走った。

 腕を引かれた理由がわかったからだ。手を自分の足で挟んで、押し付けていた。ネガイの身体は熱くて、ここで受け受け入れてくれるとわかったから。

 扉の前まで着くだけで、幾つの山を越えただろうか、ネガイの肉体と、呼吸を感じながら、我慢を続けた。

 これ以上の我慢はお互いの心臓に悪い。血の流れを塞き止められている感覚を覚えた。速く血を流して、血を流させたかった。

「‥‥開けるぞ」

「‥‥私も一緒に」

 腕の中にいるネガイが抱き合いながらドアノブに手付ける。ドアノブを捻りながら体当たりでもするように体重をかける。

 本当の人の営みとはこういう事なのかもしれない。恋人と静かにお互いを求め合い、血を身体中に流し合う。今のネガイは全身に血を通していると腕からも感じられる。彼女は求めている、血の通った肉を。お互いが求めているものは同じだった。

「‥‥するぞ」

「はい‥‥はい‥‥っ!」

 ネガイがドアノブを回して、俺が扉を開ける。

 中は薄暗い部屋で、部屋の中央にはベットとアームがある。筈だった。

 部屋は明るくて、ベットには露店で買って来たであろう食べ物の数々が置いてある。ベットの端にはミトリとシズク、デスクにはサイナ、車椅子にはマトイが。

「あ、シャワーでしたか?」

「お邪魔してま〜す♪」

「何でピン?」

 この光景にも慣れてきてしまった。シズクがいる事を含めても。

「これか‥‥?さっき怪我をしたから傷口を洗ってきたんだ」

 一歩前に出て防水シートをシズクに見せつける。ネガイの事で目がパンクしそうになっていたから、頭のピンを外すのを忘れていた。だが、忘れていたお陰でネガイを隠す事ができたとプラスに考える。

「そう」

 それだけ言ってシズクはお茶と菓子に戻った。

「‥‥今日は無理そうだな」

 背中にいるネガイに話しかけても、何も言ってこない。挟んでいた腕は解放してくれたが、顔を上げてくれない。怒っているのだろうか。

「ネガイ、」

 急に顔を上げたと思った時―――舌を吸われた。悲鳴とも歓声ともつかない声を背中に受けながら、強く抱き締められていた顔から唇が外される。

「せめてこれだけ下さい。我慢できません‥‥」

 もう見られてもいい。背中の声を無視して、ネガイに被さり、始める事にした。が。

「こここっ、ここは救護棟で!!」

「流石に場所を選んでくださいっ!!」

「見せつけてどうするの!?」

 3人から頭や背中に蹴りや爪を受けてようやく正気に戻れた。



「痛っつ‥‥。少しは手加減してくれ‥‥、これでも怪我人だぞ‥‥」

「すみませんでした‥‥。でも、そ、それはそうですけど、いきなり‥‥その‥‥」

「ミトリは謝らないでいいから、ひと目を気にするって事を覚えなさいよ、まったく‥‥」

 上着とYシャツを脱いでベットに横たわり、ミトリとシズクから傷の治療を受けていた。ネガイを求めている間は痛みを感じなかったが、我に帰った時、背中にある大量の打撲や引っ掻き傷にすり傷が痛み、痒みでどうにもならなかった。

 ふたり以外は今もデスク近くで楽しそうに笑って話している。外の街の話をしていた。休みの計画でも立てているのか、ネガイはワクワクした目を2人に向けている。ブランドやメーカーの話を始めたので、耳を閉じる。どうせわからない。

「2人とも片付けはもう終わったのか?」

「うちはその辺、目敏いから、もう連絡くる前に最低限な物しか置いて無かったの。明日の1時間ぐらい有れば撤収は完了するかな?」

「治療科はかなり量がありましたけど。他の科の方々が手伝ってくれたので、すぐ終わりました」

 言われてみれば、法務科から帰って来た時に捜査科や探索科等の暇人がベットの解体していたの思い出す。無駄な思考に頭を割いた所為だ、急激に眠気が襲ってくる。

「もう眠いの?変わらないね」

「‥‥まだ大丈夫」

 2人の手で痛みが取れてい今の状況で眠れたら、どれほど気持ちがいいだろうか。

 でも、言っておきたい事がある。2人に。

「‥‥俺、自分の事をみんなに話した」

 打ち明けてしまったとシズクへと伝える。だけど幼馴染は一言、「そう」とだけで流した。それ以上は何も言わずに時間を与えてくれた。背中をさすってくれる。昔みたいに。

「でも、俺はまだ、人間が嫌いだ」

「うん」

 本当に昔に戻った気分となる。昔、シズクが人見知りをしていた時は、いつも一言だけの会話をしていた。それだけで全てが伝わっていたと確信できた。

「だけど―――受け入れてくれる人間がいた。世界は広かった」

「吹っ切れた?」

「どうかな、多分受け入れてくれてる人間は少数派だと思う。‥‥ニンゲンが俺を創り出したのにッ!!」

 顔の前で組んでいる両腕の手が鉤爪の形になってしまい、慌てて元に戻す。

「それで良いと思うよ」

「‥‥前もそう言ってくれたな。人間」

「君の怒りは正しいと思うからだよ。化け物君」

「‥‥そうか‥‥ありがと」

 もう1人、話を聞きながら頭の怪我を気にしているミトリにも。

「ミトリ、こっちに」

 言いたい事がわかっていたらしいミトリが、頭の怪我に手を当ててくる。

「これはマトイのせいじゃない。俺が油断したからだ」

「‥‥その為に私達、治療科がいます」

「オーダーが外に出れば、この程度日常だ。悪いけど、もう少しだけ手を当てていてくれ」

「あ、はい‥‥。私の手でいいんですか?」

「ミトリがいい」

 俺の即答を聞いて、ミトリは少しだけ笑ってくれた。シズクは黙って傷に軟膏を当てていてくれる。これも前にミトリから習った技術らしく、少しだけミトリのやり方に似ている。最初に手で温める方法なんて特に。

「‥‥悪かった」

「気にしてません。あなたが怪我をするのはいつもの事ですから」

 ミトリは頭の怪我に手を当てながら、もう片方の手で頭を撫でてくれる。

「‥‥俺、怪我した時しか、ミトリと話していないんだ。都合が良すぎるな」

「いいえ、気にしないでください。これはもう私に日課になってきてますから。‥‥ふふ、退院おめでとうございます」

「‥‥やっと聞けた。ありがとう」

 1番聞きたかった相手とも言える人だった。

「退院祝いが欲しい」

「調子乗り過ぎじゃない?」

「ふふ、構いません」

 シズクの声を無視して、背中を親指で差す。

「まだヒリヒリしてるから、どうにかしてくれ」

「はい、任せてください!」

 ミトリは手に軟膏をつけて、背中に揉むように塗ってくれる。実際マッサージの要素もあったようで背中の血行が良くなってくる―――つまりは加速度的に眠くなってくる。

「‥‥寝ちゃいました?」

「うん、寝てみたい」

 まだ若干起きているが、もう八割寝ていた。

 背中の治療が終わったら、ミトリとシズクは背中にYシャツと上着を被せて3人の輪に入っていった。しばらくうつらうつらしていると、シズクがネガイに話しかけたのがわかった。

「ねぇ、聞いていい?」

「何ですか?」

「彼と出会った時って、どんな感じだったの?」

 さっきまでそれぞれがそれぞれの会話で騒がしくしていたというのに、静まり返ってネガイの返答を待ち望んでいた。そして当のネガイはカップを持ち上げた時の硬い音を立てて、一口啜る。

「そうですね、少しお話します」

 そう言って、持ち上げたカップを机に置いたのが音でわかる。

「まず、私は少し特殊な環境で育ったので、中等部には行ってません。ここで授業や講義に実習を受けていました。彼と出会ったのこの救護棟でした」

「うん、それでそれで」

 聞いて欲しくない事は、察知して話を次に運ぶ。

 シズクのコミニュケーション力の高さが発揮された。

「出会った時期は3年の中盤、中等部の生徒が学科見学に来た時ですね。ミトリとはもっと前に知り合いましたね」

「うん、私は前から治療科に進学するって決めたから。だから3年になった頃にはここを出入りしてたから、その時からだね」

 中等部の頃ミトリから救護棟には同い年の子がいると聞いていた。

「はい、だから彼と会ったのはミトリと出会った後でした。出会った場所はこの部屋の前でした。驚きました、目や耳から血を流してうずくまっていましたから」

「嘘‥‥」

「‥‥そこまで、進行していましたか」

 シズクとマトイが同時に声を上げるだ。シズクには何度か発作に近いものを見せたが、あそこまで酷い時はベットから一歩も出なかったから誰にも見せていない。

 当時、目からの命令に耐え方法は時が過ぎ去るまで祈るしかなかった。

「様子を見て、治療科の生徒を呼ぼうと思いましたけど。人は呼ぶな、と言われたので、ひとまず部屋の中に入れました」

 あの時、ネガイはめんどくさそうな顔をしていた―――けれど、俺にネガイが天使に見えた。灰色の髪に黄金の瞳、今まで見た中でもひときは現実離れした姿だった。

「まずは血を流す為に水を用意しようとしましたが、後ろから彼に襲われました」

「襲われた!?」

「返り討ちにして、床に転がしました。だけど、正気の目ではなかったですね。目に命令されていたのでしょう」

 あの当時はこの部屋にベットやアームはなかった。

 だから目が覚めた時、床で横になっていた。

 ミトリから言われた女子生徒はネガイだとすぐわかった。でも、ネガイと出会ってからしばらく経っても、襲った負い目があって、なかなか話せなかった。

 そんな俺とは裏腹に、楽しそうに今日出来た新たな友達の事を話されて複雑な気持ちだったのを覚えている。

「彼はネガイさんがいる事を知ってここに?」

「いいえ、多分知らなかったと思います。苦しんで辿り着いたのがここだったんだと思います。目が覚めた彼は泣いて謝って来ました。その時から関係が始まりました」

 ネガイは椅子から立ち上がって、ベットに近づく。

 抵抗などせずに、前髪を手で撫でてくる。

「目についてはもう今更言うことはありませんが、これは魔眼と言ってもいい代物です。本当なら彼はオーダーが別の組織の手にも渡らないように保護して、管理すべき人物です。そんな彼がオーダーに一般生徒として入学して、私の部屋の中で転がっているなんて、あまりにも出来過ぎた話でした。私自身、驚いていました。都合が良すぎると————」

 あの時からだったとわかった。ネガイが俺の目の模造品を作ると決めたのは。

「私の手には痛みを取る力があります。苦しんでいる彼の目から痛みを取り除いてあげた時、必ず報いると告げてきました」

 本当に救われたと思った。誰にも解決出来ない痛みを、ネガイは奪ってくれた。

「私は自分の為に、彼の目を診る事を決めました。それから数日に一回来る彼の目から痛みを取る契約を結びました」

「そっか、たびたび消えてどこかに行ってるって思ってたけど、ネガイに会いに行ってたんだ」

 ミトリが納得したように呟く。

「その時から彼はネガイに夢中でしたか?」

「当然です。この人自身、気付かれていないと思っていたのでしょうが、会った時からいつも私を見ていました」

 気づかれていた。

 マトイが余計な事を言った所為で、掘り起こすべきではない真実が明るみになってしまった。それぞれ呆れた視線をうけながら、当のネガイは固唾を飲んだ。

「ただ、しばらく経ってからです」

 前髪を撫でるネガイの手が背中に移された。

「私は本気で怒りました。私はその時、彼を殺しました」

「‥‥本当ですか?」

 マトイの声が部屋に木霊した。

「はい。私はこの胸を剣で貫きました。なんでここから出ないのか?と聞いてきたからです」

 知らないなんて理由にならない。

 あの時、ネガイを傷付けた。ただ、本当に殺されるほどの事を俺はされたのだろうか。記憶が抜けている。

「私は怒り狂い、謝る彼を刺しました―――冷静になった時、この人はこうやって血塗れに倒れていました。私は出来る限りの治療をして生き返らせる事が出来ました。終わった後、私は逃げました。自分のやった事から」

 ネガイは丁度、胸の上の背中に手を乗せてさすってくる。

 あの時、治療が終わったネガイの背を追いかける余裕もなかったから、必ず謝ろうと思って毎日ここに来ていた。

「彼が化け物と言われていたと聞いて納得しました。毎日来て、話を聞いてくれと言って来るんです。——―正直怖かった、彼は私の心を苦しめに来ていると、毎日震えていました」

 知らなかった。ネガイは俺が訪ねる毎日に怯えていたなんて。

「彼がここに来るたびに、まず目の治療と言って眠らせて、私は逃げていました。でも私自身、これではダメだと思っていました。何よりも、このままではいずれこの人に殺されると思ってましたから」

「‥‥それで?」

 ミトリが恐る恐る聞いた。

「診察日、決めたんです。治療が終わったら―――話をしなければと。その日も予定通り来た彼に治療を施した時———ふふ」

 ネガイが急に笑い始めみんな戸惑っている。

 だが俺にはわかる。ネガイが笑っている理由が――――。

「眠らせないで治療が終えたらなんと言ったと思います?今日は眠らせないのかって」

 あの眠りは治療に必要な事だと思っていたが、その実、俺の心中を察したネガイが気を利かせていたのだと、今頃になってわかった――――毎日好きな人に眠らせて欲しかったと、知られていた。

「甘えん坊ですね♪」

「はい、甘えん坊です。自分を殺した相手に甘えたいから毎日会いに来ていたんですよ。呆れました」

 頬に息を感じた。次の瞬間にはもう口をつけられていた。

「私自身、困りました。こんなにこの人は私の事が好きなのかと。もう謝る言葉すら忘れました――――いいえ、謝った所でこのヒトには何の意味もない。眠らせて寝起きの顔を見てあげる。それが、私に出来る贖罪です」

「あ、大人‥‥」

「知りませんでしたか?もうすぐ私達は大人になります。約束もしました」

 ネガイの放った一撃が効き過ぎた。マトイすら黙ってしまう。

「しばらく経って、少し早い二月の中等部の卒業式後、彼が契約の変更をしたいと言いました。私をここから連れ出してみせるからずっと隣で目を診ていてくれ、好きだ、って」

 4人から歓喜の声が聞こえる。これが女子会という物なのだろう。

「流石に混乱しました、正面から好きなんて言われて―――初めてだったんです、男性からそんな事言われるの。それにあの言い方では、駆け落ちか、新しいプロポーズだと思ってしまいましたから、ふふ。嘘や口説き文句ではありませんでした。この人は———遂に約束を守ってくれました」

 ほんの数ヶ月前だが、俺も舞い上がっていた。ネガイと一緒にいられて。

 ネガイはベットから離れて、元の席の戻って行く。

「でも、彼は私にそんな事を言っておきながら、ミトリ、サイナ、マトイに甘えに行って―――しばらく不機嫌な日々が続きました。素直じゃない私も私もでしたが」

 しばらく機嫌が悪かった理由が判明する。

 てっきり告白が迷惑で嫌われたのだと思っていた。

「まぁ、彼自身、そんな自覚はなかったようですけど‥‥ちっ」

「そうですね。多分自覚もせずに私に会いに来てましてね」

「やっぱりそうでしたか♪素直に甘えたいって言えばいいのにって思ってました」

「‥‥そっか、あれは甘えに来てたんだ」

「しかも、今度はソソギにあの特別捜査学科のカレンさん?イサラからも聞かれたし、全科を制覇する気のかな?」

 胃から送られて来る血を飲み込む。この体勢で血が喉に詰まったら、今度こそ生き返られなくなる。

「私の初恋はこれで終わりです」

 もう一度歓声が聞こえる。

「そんな話だったけ?」

「間違えました。まだ初恋は続いています」

「そんな話だったね」

 シズクが折れた。強気なネガイには誰も勝てない。

「シズクはどうなんですか?」

「わ、私!?」

「はい、初恋じゃなくても、今そういう方はいないんですか?」

「え、えーっと‥‥、いないかな?」

「そうですか」

 そうなんだ。

「もっと興味持ってよ!?私だってね!?」

 



「書き置き好きなのか?それとも流行ってるのか?」

 とは言いつつ、4人もいる中で、眠れる自分が原因であるのだから仕方ない。

 起きた時に確認した結果、朝になってはいなかった。それどころか今だに外から人の声が聞こえる。どうやら数時間も経っていないらしい。

「外で遊んでくる、か」

 校庭で何か催し物でもあるのだろうか?窓の外から見える景色には、オレンジの光が幾つも輝いている。

「最後の在庫一掃セールでもやっているのか?」

 校庭にはかなりの生徒が集まっているのが見える。

「外に出るか‥‥」

 誰もいない廊下を歩いてエレベーターに向かい、一階に降りて玄関に向かう。何度か見かけた治療科の女生徒に軽く手を振って、ガラス製の自動扉を越える。

 上からなら見えていたオレンジの光はもう見えない。その代わりに月が出ていた。

「‥‥欠けてるな」

 もうすぐ満月なのか。それとももう過ぎ去ったのか。膨れた月の一部が噛み千切られたかのように、一口分だけ闇に囚われていた。

「あ、起きてきましたね」

「‥‥まだ眠いけど」

 サイナが自身のジープから降りてきた。ついさっき着いたのか、降りてくる直前までエンジンの音がしていた。

「何かしてるのか?」

「備えの3科による、安売りですね。ビンゴ大会とかもしていて一度帰った生徒も戻ってきてますから。かなり盛況みたいで」

「サイナはいいのか?何か売らなくても」

「売る客層が違いますね。サイナ商事は、店舗を持たない外商が基本ですから♪」

 なるほど。俺もそうだが、ネガイやマトイも十把一絡げにした武装を買いたがらない。少しばかり金を出してもいいから、自分だけの品を用意してくれるサイナに頼る方が楽だった。その上、足元こそ見てくるが、交渉で安くしてくれる。

「中にどうぞ、座って話しませんか?」

「助かるよ。まだ眠いから、頭がぼーっとしてる」

 恭しく両手でささと、促すサイナが「一名様、ご案〜内♪」と宣言する。手慣れた対応を受けながら自分は、ジープの後部座席に案内される。

「膝貸して」

「どうぞ〜。私も貸したかった所なので〜♪」

 マトイやネガイよりも肉付きのある柔らかい腿。何も言わなくても、頭に手を置いてくれる。

「素直になりましたねぇ〜」

「完全に死ぬ前にサイナに甘えたいから。我慢はしない事にした‥‥」

「ふふん♪いつも見てましたよね?」

「‥‥見てない」

 頭に置いてあるサイナの手を動かして、目に当てる。

「何かあったか?」

「いいえ。何も無くてほっとしました」

「また俺は死んだと思ったか?」

「月に帰ってしまうと思って。月を見上げるあなたを見たら‥‥」

「‥‥俺は月の住人になれるほど、美しくない。それに月に帰るなら、俺は何をしてここに来たんだ」

 何もしていない。何も‥‥罪なんか、犯してない。ああ、だが人間の尺度からすると罪を犯したのかもしれない。無価値になったこの体は罪人なのかもしれない。

「あなたは、生きたかっただけです。やっぱり人間、嫌いですか?」

「嫌いだ」

 もう隠さない。人間が嫌いだ。ヒトガタとしても、短い人間の経験、化け物の記憶を呼び覚ましたとしても―――人間の醜さばかりが浮かび上がってくる。

「覚えてますか?あなたとの初仕事」

「勿論。まだ2ヶ月しか経ってないだろう?」

 高等部で初めて依頼を受けた時の記憶。オーダーとしての経験。

「驚きました。人探しから誘拐された方の救助に変わり、追ってくるカルテルを振り切って逃げるなんて。しかも、結局全員逮捕しましたし。ふふっ♪今思い出してもワクワクしますね?」

「そうかもな。ただ、あそこにマトイとソソギがいなかったら、逃げるしか出来なかった」

「はい、こういうのがオーダーなんだなんて思いました。でも、今思うと、あれは特別だったんですね」

 サイナは目に手を当てながら、頭を撫でてくれる。

「月を見てるのか?」

「はい。あの時も、こんな月でした」

「‥‥そうだったな。でも、気付いたのは最後の最後だった‥‥」

 それまでは、月を見る暇なんて無かった。追ってくる車のタイヤやボンネットに弾丸を送って相手を止めるのに精一杯だった。それ以前にはマトイの攻撃にも。

「あの時、マトイからあの力を受けてたら‥‥。あっさり捕まってたな」

「そうですね‥‥。今頃、二人揃って監禁でもされていたかもしれませんね」

 マトイは容赦なく背中や腹を狙ってきた。サイナからの合図がなければ、そこで倒れていたかもしれない。

 ソソギからの話によって誤解が解け、最後にはマトイも味方になってくれた。

「あの時からですか?マトイさんを好きになったのは?」

 弄ぶように呟いたサイナが、唐突に額を突いくる。

 マトイに「お前は法務科だ」と告げた時。彼女は月を背に飾っていた。あまりにも美し過ぎた。月に帰る天女とはマトイの事だと、今でも思う。俺に謝りながら、一緒に天へと誘うように法務科に誘ってきた―――力を、認めてくれた。

「私もです」

 そして、サイナも俺を認めてくれた。

 突いていた手を元の場所、頭に戻して撫でてくれる。

「私も、あの時にあなたを本気で好きになりました。本気で‥‥」

 手に熱が篭ってきた。

「もう話しましたよね?あなたが二人に殺されたとわかった時、私はマトイさんとネガイさんを本気を嫌いになりました―――マトイさんがそれでもあなたを法務科に連れて行きたいと言った時は、殺そうと思いました」

「止まってくれたのか。俺は止まれなかったのに‥‥マトイを、本気で殺そうとしたのに」

「やっぱり私、わかってたんです。私もマトイさんと同じだって。私も、あなたの目に惹かれていたから‥‥」

 サイナの顔に手を伸ばす。頬に当たった。

「あなたの強さは、その目にあるなんて知りませんでした。お返しです♪」

 指をサイナが口に含んだ。舌が温かくて薄くて柔らかい―――

「‥‥。少ししょっぱいです」

「サイナのは少し甘かった。砂糖でも触ってたのか?」

「これは内緒です。ネガイさんが隠していた高級なクッキーを一つ頂きました」

「怖いもの知らずめ。俺にも場所を教えろ」

「ふふ、仕方ないですね♪今度お教えしますね‥‥」

 相棒というよりも秘密の共有者。恋人の姿だった。

「それに、気付いたんです。あなたを好きになった理由」

「目じゃないのか?」

「目によって成されたのも事実です。でも、私はあなたをもっと他の理由、私だけの理由で好きになりました」

 勿体ぶった言い方だ。なかなか言わないからサイナの制服に甘える事にする。

「何ですか?甘えたい気分になりましたか?」

 サイナの腹と下腹部の間に顔を入れて、頭を撫でて貰う。

「私が好きになったのは、あなたの背中です。オーダーのあなたの背中です」

「‥‥忘れろって言っただろう」

「いいえ、忘れません。あなたは私を守ってくれました―――背中を使って。それに振り返って見せてくれた背中越しのあなたは、素敵でした。‥‥私が売った武器を使ってくれて、私も一緒にあなたと戦っているようでした」

 サイナが撃たれそうになった時、背中でサイナを守った。ただそれだけの光景をサイナは素敵と言ってくれた。

「嬉しかったんですよ。サイナを狙ったな?って台詞も。あれだけ追いかけ回されたカルテルを逆に追いかけて行く姿も」

「‥‥余計な事を覚えてるな」

「はい♪全部終わった後に、私に甘えにくる姿も。マトイさんもソソギさんも呆れていましたよ♪」

「‥‥え?いたのか」

「知らなかったんですか?」

「‥‥」

「ふふ、甘えん坊♪」

 もういい。サイナに甘えられるのなら、多少の恥は我慢しよう。

「でも、あの後は大変でしたね。全治半年でしたっけ?相手」

「間違えるな。5ヶ月だ。マトイに大分叱られたのを覚えてる‥‥入院しては取り調べが出来ないって」

 総勢8人を病院送りにしてしまった。『人探し』という仕事を受けた時から可能性を考えていたが、捜査して行くうちに『誘拐』と結論が出た。身代金目的の犯罪かと思ったが―――想像を超えていた。

 小銃や重機でこそなかったが武装はベクターsp2、完全なる軍用装備。防弾ベスト、肩や肘、膝にもプロテクターガードを装備。更に3台の車は防弾仕様。どこかと戦争でもするのかと思う程だった。だが奴らは雇われた外国人の民間傭兵。

 誘拐を指示した奴らは、とある国にある組織犯罪の疑いを持たられている宗教組織の傘下にあった日系の宗教団体の1組、完全なるカルト組織だった。よくわからない何かに生贄として捧げられそうになっていた女性を救助するのが俺達の初仕事になってしまった。ただ、あの女性が生贄としてどんな扱いをされる所だったかは、遂にもわからなかった。

「‥‥そう言えば、あの助け出した子。俺は顔すら見て無いけど、結局どうなったんだ?」

 あの時は、恐らく彼女は顔に袋を被せられていた。背格好からして、俺よりも少し下か同い年ぐらいの年齢。

「マトイさんが連れて行った筈ですよ。私も詳しくはわかりません。言わないって事は、聞かない方がいいんだと思います」

「それもそうか‥‥。‥‥もう少しいたい」

「はい♪」

 サイナが立ち上がろうとしたから腰にしがみついて邪魔をする。

「もしかしたら、この学校の生徒だったかもしれない‥‥」

「‥‥あり得ますね」

「—――今思うと、あの誘拐は俺達に都合が良過ぎる」

「たまたま探索と救助が出来る装備を持った私達が受けて、たまたま捜査科のマトイさんが受けて、更にたまたま査問学科のソソギさんが最後に私達に追いついた。‥‥救助するのに、あれ以上の環境は無かったと思います」

「特別捜査学科‥‥」

「無い、とは言えませんね。でも、だったら―――もしかして‥‥」

「ああ、俺は探索科。ソソギは査問学科、同じ科のマトイ。‥‥出来過ぎてる」

 マトイが噛んでいる様子では無かった。もし知っていたならば、あの場で俺達と敵対などしていない。そんな無駄、マトイがもっとも嫌う時間の浪費だ。

「‥‥やめるか」

 サイナにそう言った。

「特別捜査学科なら、俺達が関わっていい話じゃない。マトイと査問学科が関わってるなら特に‥‥」

 あのカルトは東京で起っていた連続誘拐事件の犯人達だった。誘拐された子達は全員が無事救助された。それだけでいい。ただ、カルト達は生贄に捧げる対象を俺達が救助した子とそれ以外の子達を見比べて、誰が相応しいか選んでいたらしい。

 よって、自分が選ばれるように、自分を騙せ、周りも騙せる技術者がいた可能性があったかもしれない。自分が誘拐されるように。

 それを可能性ではなく、蓋然性と言えるほどに高められるプロが。

「‥‥そうですね」

 サイナの息を吸う音が聞こえる。気分を変えたようだ。

「聞いて下さい。私には、ヒトガタと目についての話を未だに信じ切れていません」

 頭の傷を、サイナが引っ掻くように爪を立ててくる。

「‥‥私は、ネガイさんの様に知識が特化している訳でも、マトイさんみたいに立場がある訳でもありません。そんな私には、あなたを推して測る事なんて出来ませんでした。だから‥‥この血にどんな力があるかなんて‥‥想像したら‥‥止まりません‥‥」

 舌舐めずりをして、唾液を飲み込む音がする。

「あの時言ってくれましたよね?サイナの替わりに、俺が血を流すって」

 サイナが頭に貼ってある、シートを剥がして―――黙った。

「‥‥舐めるな」

「はい‥‥」

 俺の声に従い、サイナは元の場所に戻した。

「サイナは、人間でいろ。俺に近づく必要は無い」

「‥‥私じゃ、迷惑ですか‥‥?」

「人間でも、サイナは強いだろう。あの時、俺を叩きのめして止めたのは誰だ?」

 あの傭兵やカルテルを完全に無力化した時—――目から血を見せろと言われた。そう、俺は聞こえた。聞こえる事にした。

「止めてくれなかったら、俺は今頃死刑だ。もしくはマトイに殺されてる。俺の方こそ、サイナと肩を並べられる様にならないと‥‥あのケースの攻撃はキツかったぞ」

「あっ、あははは‥‥。でも、あれはあなたがわざと受けたから上手く決まったんですよ?」

「嘘言えよ。俺の足に、サイナはついて来れただろう」

 サイナと組んでもいいと思った理由がこれだった。ネガイと同じとは言えないが、それでもサイナは俺を軽く超えていた。

 目で狂っていた俺よりも。

 ただ、マトイを傷付けた時のように、頭が解放される感覚は無かった。だから憶測だが、あの時の俺は弱かったのかもしれない。それでも、止めてくれた。

「私がやれたのは、あなたから手を貸して貰ったからです。これは事実です、自分の実力は自分がわかってるつもりです」

 サイナが少しだけ、ムッとして言ってきた。

「わかったから、もっと撫でてくれ。‥‥サイナに優しくして欲しい」

「ふふふ♪わかりました」

 俺の周りの人間は、皆んな優しい‥‥。皆んな、頭を撫でてくれる。

 でも、俺はサイナを裏切っている。サイナは強い俺に憧れているのに。

「‥‥サイナ、俺も、言わないといけないことがある」

 しがみつく力を少しだけ、強くする。

「本当に、月に帰ってしまうんですか?」

「‥‥サイナが俺に見切りをつけて、月に帰るかもしれない‥‥」

 柔らかくて温かいサイナの身体が冷たく感じてきた。違う、冷たくなってきたのは俺の方だ。

「サイナが好きになってくれた、背中。もう出来ない」

「‥‥理由、聞いてもいいですか?」

「俺は、この目を使いこなせてない。だから、ここに逃げ込んでくる時の射撃とか、背中で守った時の動きは、もう出来ない」

 サイナの撫でる手が止まった。

「‥‥本当なんですか?」

「‥‥本当だ。いつかはまた出来るかもしれない。だけど‥‥それはいつかなんだ。サイナが好きになってくれた俺は、もういないんだ‥‥」

「‥‥だとしたら、私があなたと一緒にいる必要も、こうしてあなたの世話をしている理由もなくなりましたね」

 耳から杭でも打ち込まれたようだった。鼓膜がサイナの言葉で割れてしまった。

「私が好きになったあなたは、もういないんですね?だったらあなたは私にとって価値があるんですか?」

 あの時、捨てられた時も同じことを言われた。

 —――お前は自分の価値を自分で落とした。大人しく我慢していればよかったものを。もういい、お前はいらない――――

「それで、どうするんですか?」

 —――価値がないお前はどうする?—―――

「私にどうして欲しいんですか?」

 ―――お前は私の為に何が出来る?失敗作—―――

「やめろ‥‥!」

 変わらない。あの時も、こうして成育者にしがみついた。

「俺にも、わからない‥‥!」

「言うだけ言って、終わりですか?」

 しがみついた時、蹴り捨てられた。廊下に転がりながら、もう一度しがみついても、もう一度蹴られた。

「‥‥聞いて下さい。だから泣かないで‥‥」

 頭を撫でていた手で頭を抱きしめてくれる。身体で抱いてくれる。

「ごめんなさい‥‥あなたを追い詰めるつもりなんて、無かったんです‥‥」

 あの時と何も変わらない。あの時も廊下で一人で泣いていた。

「私がいます。皆んなもいます。‥‥あなたを一人に、もう捨てる人なんていません」

 サイナが撫でながら声をかけてくれる。こんなに素直に泣けるなんて知らなかった。さっきまであんなに冷たかった自分の体から血の熱を感じてくる。

「俺‥‥俺、怖いんだ‥‥!また捨てられんじゃないかって!‥‥もう、捨てられてたくない‥‥」

「誰もあなたを捨てたりなんかしません!」

「でも!‥‥人間は捨てる、俺は、捨てられた!いらないって!」

 触れていけない心の欠片。捨てる事ができない痛みに、サイナが触れてた。

 だから我慢はできない。ひび割れた理性から悍ましい黒く濁った本能が狂気の形を持って溢れ出してくる。

「お前が創ったんだろうっ!?‥‥お前は、俺を苦しめる為に作ったのか‥‥ただの暇つぶしだったのか!?」

「‥‥」

「なんで心なんか持たせた‥‥、何も知らない俺から、勝手に好きなだけ持っていけばよかっただろう!!血でも目でも!」

「やめて‥‥」

「それで飽きてたら捨てる。合理的だ、人間の得意な選別だ!!元々俺なんか勘定にも入ってない!ただの使い捨てだろうが!?‥‥嘆いても何も変わらないか?だったら、どこに俺は行けばいい。どこでなら俺を見てくれる!?」

「‥‥」

「俺を捨てる選択を選んでおいて、俺には選ぶことすら許されないのか。ヒトガタにはそんな権利もないのか!?心なんかいらないって、お前はそれを許してくれたか?お前まで俺の目を受け入れろって、我慢してシネっていうのかよ!?」

 俺は何に怒っている?怒っているのになんでこんなに熱くて寒いのか。何故こんなに震えている。怖いのがサイナならば、このままサイナの腹でも噛みちぎればいい。あの方みたいに。

「俺は、俺は‥‥好きな人と一緒にいることすら‥‥選べないのか?」

「‥‥やめて」

 サイナが胸を俺の頭の上に置いて、強く抱きしめてくれる。

「自分の傷を数えるのは、もうやめて下さい」

「でも、サイナは‥‥」

「違うんです。私は、ただ、あなたに正直になって欲しかっただけなんです。‥‥ごめんなさい、私まで、あなたを傷つけましたね」

「‥‥もう降りるよ」

 立ち上がろうとした。けど、サイナが許してくれない。

「お前こそ、俺をどうしたいんだ。俺に、消えて欲しいんじゃなのか‥‥」

「違うんです。‥‥ごめんなさい、私の方こそ素直になるべきでした」

 頭を抱いていた手から力が抜けていく。また撫でるように優しく触れてくる。

「一緒にいて下さい。私は、あなたが人間じゃなくても、化け物でも、そもそも死人だとしても、あなたが好きです。私は、私を守ってくれた、あなたが好きです。そんな優しいあなたを、私は好きなったんです」

 サイナの心音が聞こえる。ああ‥‥サイナも怖いんだ。心臓が、高鳴っている。

「だから、自分をもう傷付けないで‥‥。もう傷を探さないで、思い出さないで‥‥、私がいますから‥‥」

 サイナの血管が聞こえる。内臓に流れ込む血流が唸って聞こえる‥‥心地いい。

「‥‥聞いていいか?」

「はい‥‥」

 もう一度だけ、サイナにしがみつく。

「弱い俺でも、人間を好きになっていいのか‥‥」

「はい‥‥」

「サイナを、好きになっても‥‥いい‥‥?」

「‥‥はい!」

「‥‥好きなんて理由で、一緒にいていいのか?‥‥俺は、弱いのに。サイナが求める出力は、この体の機能ではもう表現出来ないのに」

 自動記述が勝手に口を使ってくる。だからこそ、それが事実だとわかる。

「こんな理由で、いていいのか?‥‥好きになっていいのか?」

 答えてくれなかった。でも身体が心地良く温かくなってきた。サイナが抱いてくれているから。

 サイナの心音が、静かに戻った。他の誰でもない、狂った俺を鎮めてくれた、初めて聞いたあの心音だった。

「月に帰らないで下さい。置いて行かれるのは、人間でも嫌なんです‥‥」

 やはり人間も俺も変わらない。一人は嫌だった。

「月にサイナがいないなら、行かない」

 月に帰れば罪が許されるのかもしれない。でもやめた。ここで自分の罪を背負っていく、サイナの為にも。

「サイナなら、許してくれるって‥‥甘えてた‥‥。悪い、裏切って‥‥」

「いいえ。私もあなたならきっとわかってくれるって、思ってました。‥‥遂に、私まであなたを傷付けましたね―――ワガママを言って下さい」

「‥‥サイナに‥‥」

「いいですよ♪だけど、今度は気絶ではなく私流で♪」

 サイナの制服から、顔を天井に向ける、サイナは心でも届いたかのように望んだ通りに俺の胸に指を置いてくれる。更に目に手も置いてくれる。

「はい、グリグリ♪意外と良い感じですか?」

 ソソギが求めたような痛み。制服を越えて、鳩尾に指を突き刺してくれる。

「苦しいですか?やめますか?」

「‥‥続けて‥‥」

「ふふ♪痛いのが好きですね♪」

 頭を砕くような狂気が痛みに溶けていく。人間への憎しみは消えない、だから混ぜて飲み込まないといけない――――あの時は気絶させてくれたから、忘れられた。

 いや、忘れるとは違う。俺は人間への憎しみをもう忘れられない。怨嗟を消す事は出来ない。ただ、この痛みは‥‥感情を超えていく。

「‥‥終わり?」

「これ以上は傷が残ります。ミトリさんやネガイさんにバレますよ、‥‥二人でしていたって♪」

 力を抜いて指を引き抜く。また俺をあやす為に胸に手を置いてくれる。

「月が綺麗ですね?」

「‥‥俺からは見えない」

「え‥‥そうですよね‥‥。私が塞いでますし‥‥」

 サイナの泣きそうな返事を聞こえたから、急いで起き上がる。

「だから、今度は二人で見に行こう。欠けた月じゃない、完全な満月を」

 月明かりの約束、差し出すは心、奪うも心。約束はここに結ばれる。人と化け物の約束を。

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