2巻 改訂版 誰の心を蝕むか
「おはようございます。あ、顔色戻って来ましたね」
朝食を取っている最中、ミトリが顔を見せてくれた。更にもう一人も。
「ああ、おはよう。昨日はゆっくり眠れたから‥‥血もだいぶ戻ってきたし」
「それは何より♪私も輸血パックはすぐに用意出来ないので~」
サイナがいつもの旅行鞄を持って一緒に見舞いに来てくれた。
二人とも私服だが、それぞれ内腿と脇にホルスターの膨らみがある。その為、人によって誰かの息の根を止めに来たと言われ兼ねないような姿、
「悪いな。朝早くの見舞いなんて」
「いいえ、気にしないで下さい。私がしたくてしてるだけなので」
という、昨日マトイが言った事を丸々ミトリが返した。マトイの観察力がすごいのだろうか?無論それもあるだろうが、昨日の今日で気が気でない―――よって、作戦を繰り出す。
「ミトリ悪いけど、そこの窓の右側だけ閉めてくれないか?少し眩しい」
「あ、わかりました。でも朝日を浴びる事は患者さんにとって重要な事ですよ。あとで外に行きましょうね」
頼んで窓に近寄ってもらい、ベット近くまで漂う香りに誰にも気付かれぬよう鼻を付ける―――――昨夜とは違った、あの香料ではない。
かなりの狂行だが、それも身の安全の為と割り切ろう。
「それでどうして?ミトリならまだしも、なんでサイナが?」
「む、なんかミトリさんと扱い違くないですか?私はこれでもあなたの身を案じてきたんですよ!」
サイナが不満げに目を細めて睨みつけてくるが、それは普段の行いと諦めて貰う。
「どうせ依頼主が死んだら焦げ付きが発生するから、安否を確認しに来たんだろ?」
債権回収は商人第二の仕事、そうサイナが前に言っていた。しかし、それは自身が相手を選ばないせいでは?と思っていたが、言わない事にしている。
この俺もその中の一人だった。
「あの‥‥その事でちょっと相談が‥‥」
「どうした?改まって‥‥当ててやろう。俺の装備が丸々盗まれたか?」
面白半分に言ったらミトリが「まさかっ、ふふ」と笑ってくれた。頼んだカーテンを動かしてギリギリ眩しくないレベルで光を調節し、部屋を明るくしてくれる。
これも治療科の仕事なのかと感心していたら、
「盗まれた訳じゃないんですが‥‥。その、あは♪」
「ミトリ、銃を貸してくれ。あと扉閉めてくれ」
「はい、どうぞ」
ミトリが機械的に内腿からデリンジャーを抜いて手渡し、カツカツとテンポ良く病室の扉を閉めにいく。
「待って待って!こんな大胆な暗殺ありますか!」
サイナが慌てながらも旅行鞄を盾にして、諌めてくる。
「お前は自分を大統領だと思ってるのか?金を払ったオーダーの装備に危害を加えてるなんて‥‥ああ、サイナ、お前は悪い奴だ‥‥」
デリンジャーはあのリンカーン暗殺にも使われた小型拳銃、別名としてマフピストルという、女性の防寒手袋に隠せる小さい銃。
その中でも、ミトリの愛銃はダブルデリンジャーという22レミントンマグナムが撃てる強力なもの。頭蓋は無理でも、耳程度なら掠れば吹き飛ばせる。
「お、落ち着いて下さい。増えたんです!」
「はぁ?何が?」
「閉めました」
ミトリが黙々とサイナ包囲網に手を貸してくれる。オーダーにとって装備は命を守るものだけではなく、誇りや場合によっては命よりも大切な物。金を貰って整備する商人や整備屋、ガンスミスは最大の責任や使命感をもって仕事に当たらなくてはならない。
そんな奴が不手際でも起こそうものなら、許されないが‥‥殺されても仕方ない。
遺憾ながら、殺す気はないが。
「よし、では最初から何があったか話して貰うぞ」
「忙しいかもですけど、脈を測からせて下さい」
そう言いながら、ミトリは腕をに触れる為に窓側のベット横に。他方、サイナは車輪が付いている旅行鞄を盾にしゃがみ、射線から逃れながら答えてくる。
「いやーそれがですね‥‥。あなたの装備や武装を整えてた時なんですけどね、不思議な事に忽然と装備が消えまして」
「今、何発ある?」
「32発あります」
ミトリに残弾を聞きながらセイフティーを外すと、
「大丈夫ですから!ほら!この通り装備はありますから!」
向けるように鞄が開かれる。そこには自分の制服や銃があり、しかも制服はクリーニングでもかけたようにツヤが出ている。
「なんだ、あるじゃないか」
朝食の横にセーフティを戻してデリンジャーを置くと、サイナは安心したようにほっと一息ついて鞄の後ろから立ち上がる。
「私だって、お金を払われて頼まれるという事をしっかりと理解して、覚悟を持って整備しています。もし無くしたら全額自腹で同じものを用意しますとも」
「あるんだったらなんで最初に消えた、なんて言ったんだ?撃ってたかもしれないのに」
「あなたは私を信頼して依頼したんですから。そんな方へ嘘なんて言えません」
胸を張って、誇るように装備を腕に乗せて見せてくる。この商人は、いつ何時、金を払ってくれた顧客の信頼に―――いつも全力で答えようとしていたのを思い出す。
「疑って悪かったな。これからも頼むぞ」
謝罪とその証明にミトリに銃を返すと、気にした様子もなしに内腿に戻していく。
どうせ身内しかいないだから、問題ないと言わんばかりだが―――もう少し目を気にして欲しい。叱られた一件から、彼女の一挙動一挙動に目が行ってしまう。
「あの、それでですね。増えたものがこれなんですけど‥‥。私が受け取った時にはこんなもの無かったはずなんですが‥‥」
「あ、綺麗‥‥」
「この二つか?」
訝しみながらも鞄の奥から持って見せてきた物は、鞘に収まった脇差と指輪でも入れていそうな箱。その箱が開かれた時、目に入ったのは深い青の宝石と思わしきものだった。
宝石はしっかりと卵型のカットを施されているのに、素人目でもその大きさが一般的では無いとわかる。原石は一体どれほどの大きさだったのだろうか。
「これ、サファイア?」
「恐らくはタンザナイトですね。タンザニア原産の石です」
サイナの見立てによるとそうらしい、自分にはわからないが。
けれどミトリや自分で運んできたサイナさえも、この石から目を離せないで、ずっと見つめている。試しにミトリに渡してみると、天井や窓の光に透かし始める。
「それでこっちは?」
脇差しの鞘表面を撫でてみると、傷一つないとわかる。
鞘と握りも白鞘で出来ていた。
「こちらも宝石と一緒にあなたの制服の上に置いてありました。どうぞ抜いて下さい、私が先に安全確認をしました」
ならばと思い鞘と柄を掴み上げ、僅かに引き抜く―――美しい光沢だった。
一見すると純白の傷ひとつない刀身のように見えたが、その実、鏡のように全てを反射している為、白鞘やベットのシートの色に紛れてしまっていた。
「―――間違いなく真剣か‥‥これは‥‥すごいな‥‥」
あまりの反射に、刀身とそれ以外の境目が判別し辛い。
刀を磨く理由は水分や刃こぼれからくる錆を抑える為に行うが、それと同価値に刀自体を見えにくくするのも目的、見えない刃物では防ぐも避けるも出来ない。
この刃ではいつ斬られたか、気付かずに事切れるだろう。
「サイナの言う通り、どっちも俺のじゃない。でも多分これは俺宛の品だ」
脇差しを鞘に収めながら言うとミトリは宝石を返してくる。宝石を改めて見ても、その大きさの異常性が窺えた。詳しく調べるのも恐ろしい。
「もう驚かさないで下さい!その知り合いによく言っておいて下さい!勝手に持ち去っては困ると!」
サイナが両手を上下に振って怒ってくる。
可愛らしいがその度に胸が上下して、目が行ってしまう。気づかれないように脇差に目をやりながら、あの人の真意を伝えておく。
「‥‥いや、向こうも悪いと思ったからこれを置いていったんだと思う。これ、受け取っておいてくれ」
両方を受け取ったサイナは、わからないと言ったように首を捻る。
あの人は、「人間にとって急に物が無くなるという現象は困りますものね」と言っていた。それの詫びのつもりなのだろう。
「悪いけどそれのグリップも頼む、鞘も見立ててくれ。あとで追加で払っておくよ」
「わかりましたけど‥‥これは?宝石の方も、あなた宛てでは‥‥?」
「多分それはサイナ宛だ、悪いと思ったからそれを置いて行ったんだ」
「う、受け取れませんよ!こんな!—――どこぞの国宝にでもなってそうな宝石、グリップ代や鞘代ではこちらが貰い過ぎになります‥‥」
サイナが本気で恐れながら首をブンブン振って言ってくるが、途中で誰かに聞かれてはマズイと声を小さくした。
いつどこにでも敵がいるなど、オーダーにとって当然の風体だが、この病院でもこの態度だ。一体どれだけ言えない事があるのか――叱りつけた方がいいのだろうか。
「それにこれ、どこぞの盗品とかではないですよね‥‥。そんなもので売買なんて、明日には私、いなくなっちゃいます‥‥」
「いいのか?そもそも俺の物でもないし、受け取っても誰からも」
「無理無理ッ!!無理です!!お金を受け取っても、無理なものは無理です!!」
どうしてもサイナは受け取らないらしい。こっそりくすねておけばいいのに、これも商人の性だろうか。受け取り過ぎは出来ないらしい。
試しにミトリに渡そうとしたら、一瞬だけ受け取ろうとはするが自力でブレーキをかけてやめたしまう。そしてサイナ同様、首を何度も振ってくる。
「なら暫定で預かっておくか。制服の中にあった小さい箱があっただろう?それ渡して」
サイナが預けておいた制服の内ポケットからポータブルセーフを出して渡してくれた。内ポケットに入る大きさだが、拳銃の弾丸なら余裕で弾く頑丈さがある為、貴重品の保存が出来る。
宝石をハンカチに包み、キーを打ち込んでロックをする。
「これはこれでよし。じゃあ、脇差しは頼むぞ。そっちのオススメで」
「わ、わかりました。すぐに用意します。では、こちらをどうぞ」
「わ、私は食器を返して来ますね」
二人してキーコードを凝視していたのがバレたと思ったのか、急いで何かしらに取り掛かった。
サイナが改めて制服を鞄から出して見せてくれる。制服はサービスらしいが確実にクリーニングをしている。元からそれほど汚れてはいなかったが、それでも制服が色鮮やかな黒になっている。やはりあの宝石は無理やりにでも渡すべきだろうか?
「どうですか?ピカピカでしょう?このサービスはお得意様にしかやらないと決めた新サービスなんですよ!」
自身の商売に自信を持っているサイナが、楽しそうに笑って自慢している。確かに、このサービスには結構驚いているので、声がなかなか出ない。
正直新品よりも綺麗なっている。
見た目にそれほど拘りはないが、これなら今にでも着たい気分にさせられる。
「ありがとよ、また仕事を頼むぞ」
「もちろん♪お任せ下さい。ここ最近お金払いの良いお客様~♪」
―――金払いが良い。
—――最近まで金欠で喘いでいた自分とは、ほど遠い概念だった。
今の口座に幾らあるのだろうか?そう思って「スマホ貸して」と言ってサイナから受け取り、暗証番号を打ち込んでモバイル口座を確認する。
「‥‥サイナ、ゼロが6個って幾ら?」
「100万ですね」
「もう一ついいか?頭が3なんだけど‥‥それって幾ら?」
「300万ですね♪旦那様♪」
マトイや法務科の財力を侮っていた訳じゃない。けれど、だとしても、たった1日でこれほどまでとは――法務科の仕事とは一体どれほどの危険だと言うのか。
新しい口座を開設すると心に決める。これは何かあった時のために溜めておこう。
「サイナ、どこかの
「それは知ってるのでは?だってマトイさんとネガイさんのお二人に鍵をお渡ししましたし。えっと‥‥もしかしてご存知無く?」
あれやこれや買わされる前に口止めをしておこうと思ったが、意外な事実が判明した。
「ネガイが持ってるのは知ってるけど、なんでマトイまで?」
「順を追って説明しますと。まず最初に、放課後にネガイさんが鍵を持って来まして、あなたの許可を得ていると言って複製をしました。次にマトイさんから真夜中に複製の依頼を受けたんですが‥‥。ちなみにマトイさんはつい先日ですね」
ネガイはいつ作ったか知らないが、恐らく俺が寝ている時だろう。
そしてマトイは、俺を救護棟で眠らせたその日に造ったのだろうか?
俺を殺しておきながら、一体何をしている?遺品整理でもする気だったのだろうか?残念ながら価値ある財産は今ここにある装備だけだった。
「流石に私も患者様にあれこれ買わせる気はありませんよ。何かと先立つ物が入院中は必要でしょうし」
流しながら死の商人がクローゼットに制服や武装を収納し始める。
そんな光景を見て、ネガイとは違う感情が芽生えた。
「‥‥サイナ、まともだったんだな‥‥」
「それ褒めてるんですか!私だって弱ってる人には優しくすべきって知ってますよ!」
「悪かったよ。悪かったから、せっかくクリーニングした制服を潰すのはやめてくれ」
不服だという無言の抗議の現れか、制服を抱きしめて皺だらけにしていく。
「病院では静かに」
「外まで声が聴こえてましたよ」
昨日の先生と車椅子を押すミトリが部屋に入って来る。また、その後ろには点滴と輸血パックを持った看護師さんも同席していた。
「おはようございます」
反射的に言うとサイナもそれにつられて挨拶し、先生も「ああ、おはよう」と返してくれる。
「じゃあ、私は外で待ってますね」
ミトリがそう言って車椅子を置いて出ると、サイナも一緒に部屋の外に出て行く。
「話している最中で悪いが、心音と脈を計らせて貰うよ。よしよし、だいぶ血の気が戻ったか‥‥しかし驚きだ。どうやればあんな死の淵から‥‥失礼。昏睡状態から戻ってこれるんだ?私は半年一年は意識が回復しないと思った。上着の前を開けてくれ」
「そんなにですか‥‥」
「ああ。あの子には悪いが、あの日に目が覚めるなんて思っていなかった。感謝しなさい、君の生命力あってのものだろうが、あの子の報告も正確だったから戻って来れた、私はそう思っている」
先生に指示された通りに前を開けて、聴診器を当ててもらう。少し冷たい。
「さっき血の気が戻ってきたと言ったが、まだまだ君の顔は白いから少し汗をかいて健康的な血を身体で造る努力をしなさい。これからリハビリに行くんだろう?まぁ治療科の彼女がいるなら無理はしないだろうが」
先生から説明を受けている間に新しい点滴、輸血をつけられる。リハビリ中はこれを外さないとと思い、腕の針を見つめる。
「心音に異常なし、心拍数も大丈夫。血が足りないのを除けば健康的だと言える」
あまりも致命的な部分を除けば健康的らしい。
逆に言えばそれさえ補強できれば、元に戻れるという事だった。
「酸素を取り込めばいいんですか?」
「まぁ、そうだと言えばそうだ。君の場合は栄養を分解する酸素と運ぶ血が足りないから、あまり動き過ぎないように」
「外で呼吸するより、屋内で歩いて酸素マスクが1番って事ですか‥‥文明の利器ってすごいですね」
「君自身は割と簡単に考えているかもしれないが、思っている以上に今の君は弱っている。血が足りないという事は免疫力が低いという事だ。病気になりやすい上に血を造るために骨髄の造血幹細胞がフル稼働しているからそれだけエネルギーと新鮮な酸素が必要になる。君の現状にどんな背景があるか私にはわからないが―――死にに行く為の手伝いは出来ない」
「‥‥ミトリ、外の治療科の生徒にも同じような事を言われました。俺は死ぬ為に外に出る訳じゃないです」
「そう言っていなくなったオーダーを私は知っている。君の言葉が嘘ではないと信じているよ、では私はこれで」
先生から軽くお叱りを受けたが、早く退院したいのでよく食べてよく呼吸してよく歩けばここから出れる、ぐらいにしか考えない事にした—――死ぬつもりこそ無いが人から見ると、死にに行くようなものなのだと、重々承知している。
だから、周りの人間を納得させられるように考えなければならない。
「あ、入りますよ」
「‥‥ああ、いいぞ」
退室した医者と看護師の背を見送った後、ミトリとサイナが入室してくる。
「じゃあ、早速で悪いけど」
「はい、リハビリですね。でも今日は歩くのは平地だけで階段は無しです。あと、リハビリの前に外で光を浴びましょう。精神衛生上、早い時間の朝日は身体にも心にも良いので」
「じゃあ、私はそこのクローゼットに装備を入れて帰りますね♪ご注文の品々も入れて置きますのでご確認を。こちらの脇差しは良いものを見繕っておきますのでご期待下さ~い♪」
「ああ、多少かかっても構わないから、いいので頼むぞ」
思わず―――黒の短刀の整備の事が、口を衝いてしまいそうになったが、飲み込む事が出来た。朝早くに来てくれたのだ、サイナにも感謝すべきだと感じたから。
どうにか自力で車椅子に乗ってやろうと思ったが、結局ミトリに頼んで肩を借りてやっとの事で座れた。
「ああぁぁ‥‥、キツイ‥‥。これだけで良い運動になりそうだなぁ‥‥」
「自分の足で歩くのが大切なんです、足の裏で働きが悪くなった赤血球などを踏んで潰して代謝を促進するんですよ」
という本当か嘘かわからない事をミトリに言われた。
聞き返す事もなく病室を後にする、改めて説明を聞くほどの体力も残っていなかった。
「驚きました‥‥!。こんなに自力で歩けるなんて。でも、走るのはダメですよ」
日光を浴びた後のリハビリ室にて、開口一番でミトリが褒めてくれた。
運良く無人、貸切状態で好きに動き回れ、自分でも驚く程に身体が軽く感じる。
爬虫類に習い日光を浴びて体温を上げている間、足や臓器に血を通して身体をこれからの急な血流に慣らしておいたのが、功を奏した。
「ああ、悪くない。やっぱり軽い運動は身体に良いみたいだ‥‥マスクとって‥‥」
自分でもミトリに褒められて良い気なったが、身体は正直に今すぐ酸素を取れ、と命令してきた。先生も酸素を取る事は必要だと言っていたのを思い出し、大きく深呼吸をする休憩を挟みながら、とにかく体中に血を流し続ける。
「平地での手すりはもうほとんど使ってないですね。階段での歩行も少しだけやっておきますか?」
「そうだな‥‥。やってみよう」
「でも、階段ではしっかり手すりを掴んで下さいね。足を滑らせるなんて失敗、私が許しませんよ」
それには頷くしかない為、指示にしっかりと従う。
階段というよりも踏み台のような三段だけの階段の登り降りをする。平地では意外と歩けたが、想像以上に足を連続で上げるというのは行動がなかなかに難しい。
何より恐ろしいのが、高さを見誤って転びそうになる事だった。
「はい、マスク」
笑顔で厳しいミトリだが、酸素を欲している時と自力の呼吸だけで耐えられる段階を見越してマスクを渡してくれる。
「あ、顔が赤いですよ。しっかりと血が周ってますね、あれだけ顔が白かったのに‥‥。あなたはまだ全身の骨髄で血を造っているんですか?」
「‥‥え?違うのか?」
「赤ん坊はそうですけど、大人になると胸骨とかの一部でしか造らなくなりますよ」
そんな会話をしながら、背筋を伸ばして酸素マスクをつけながら深呼吸。
それだけでさっきまで疲れによって下がっていた目線が、自然と真っ直ぐに向く、この体は今何よりも酸素を求めていた。
「いい感じだ‥‥、呼吸が気持ちいい」
「それだけ健康に戻ってるって事ですね。前のあなたの顔にも徐々に戻っていってますよ」
酸素に匂いなんてない。美味しい筈もない。だが、目が覚めてから感じていた息苦しさが消えていく‥‥。身体中に新鮮な空気が流れていく気がする。
それだけではない―――昨夜、疑問のいくつかが消え目的も明確になった、何をすれば良いかわかっている現状は、それだけで心が軽くなっていく。
ようやく、ミトリにも聞ける。その想いを口にする―――
「今の俺はどうだ?まだ死体みたいか?」
――――ずっと心に残っていた。今の俺は体温がある、あらゆる毛細血管にも血も通っていて上部の血管だけ見えるような状態ではないと自負している。
—―――だから、それを言った当人に聞きたかった。
「いいえ、今のあなたは必死に生きようとしています。死体なんかじゃありません」
優しく問いに答えをくれたミトリへ、マスクを付けたままはにかんでしまう。
「でも―――同時に、あなたは死に急いでいるようにも見えます」
胸が痛む、その通りだからだ。
死ぬつもりではない。
けれどあの二人の元に行くという事は、限りなく身投げに近い行為だった。
――――あの二人に殺された理由。そもそも、それが未だにわからない。血を奪って眠らせる、血を奪う事はまだしも俺の眠らせる事も必要だと言った。
しかも、血を奪うあのやり方にも理由があったとマトイは言っていた。
――――その為に、俺は殺された。
あの人の元へ俺を送るのが目的だったのだろうか?だけど、マトイはそんな素振りを見せなかった。むしろ眠らせるだけで目的は達成した、そう感じ取れた。
折しも二人のやり方は一致した―――だが目的は違う。
一体何を求めているというのか?やはりそれを聞かなければならない。
「大丈夫、いい加減懲りた。何も考えないで行動しようなんて思ってない」
そもそもこの入院は俺の無思考な行動によって起こった。あの時、現状を理解して的確な行動を取れれば起こらなかった事だ。
俺を気にしなければ、ネガイも腕を掴まれず―――俺も目を無理に使わなかった。
「‥‥でもあなたは会いに行くのでしょう?あの二人に」
「ああ、その為のリハビリだ。死ぬ為じゃない。生きる為だ‥‥」
死にに行く手伝いは出来ない。ミトリにもあの先生にも言われた。オーダーの医療従事者は皆この考えを胸に持っていた。
当然の理念だ。誰だって無為に人を死地に送りたくなんてない。行く方は楽だろう、そこで死ねば何も考えなくていい。だけど、見送った方はそれをずっと抱える。
俺が行ったきり帰って来なければ、ミトリはそれをずっと胸に抱えてしまう。
だからこそ――――
「俺は帰ってくる。ミトリ‥‥悪いがその時の為にベットを一つ開けておいてくれ」
ポータブルセーフを渡しながら「キーコードはわかるな?」と軽く言う。
「こんな物‥‥貰っても困ります‥‥。これは形見のつもりですか?こんな物貰ったら、尚更つらいんですよ‥‥」
受け取ったポータブルセーフを見つめながら、潰しかねない力で握りしめる。
自分の手の方が痛い筈なのに、それでも続けるものだから白くなっていくミトリの手に、白かった手を重ねる。
「その価値は知らないけど、ベット一つより高いだろ?」
「‥‥当然です」
「だったら、それで予約させてくれ。必ず帰ってそれを回収する、だから俺が帰って来たら‥‥ミトリにまた面倒を見て貰いたい」
「‥‥私、これ結構気に入ってますよ?あなたが帰って来なかったら私の物にしますからね」
手を離した時、自分のポケットに入れ―――笑いかけてくれる。
宝石以外にも帰ってくる理由が出来てしまった。
「それと、救護棟に入る時は私に連絡を。元患者を中に入れるぐらいの余裕、今の治療科にもありますよ」
と、自信気に伝えてくれた。それに応えるべく「ああ、その時はよろしく。後、ベットもその日に必要になるだろうからそれも」と時間の予約も入れる。
「じゃあ、続けるぞ。今日の目標は階段の登り降りだ」
早速また台の手すりを掴むと、ミトリが手を引いて振り向かせてくる。
「気が早いですね。全く仕方ない人‥‥まずは足を上げる練習からしましょう」
はにかんだミトリから『全く仕方ない人』、と呆れながら言われてしまった。
その言葉は、俺が散々あの二人に言われた言葉だった。
「良かったのか?今日の呼び出しは急だっただろう?」
「そうですけど、やっぱり折角の特注品ですからね。しっかり説明させて貰いますよ♪」
「これは‥‥警棒?」
もうすぐ昼の時間なのでリハビリを切り上げて病室に戻って来たら、サイナが床の上にシートを広げて、頼んでおいた装備の数々を置いていた―――言いはしなかったが、場所を考えて欲しい。
けれど、これも全ては俺自身が頼んだ事だと呑み込む。
ミトリに車椅子で運ばれて、ベットに腕と肩の力で自力で這い上がる。知らなかったが、この這い上がる動きは結構腹筋を使うためかなりつらい。
息を切らせながらベットに座った時、サイナが依頼した品々を見せてくる。
「これか?頼んだ奴は」
「はい、ご注文通りの品です。どうぞ手にとってお確かめ下さい」
頼んでおいた刺す事を念頭に置いた刃物を渡してくる。刃物と言いつつ見た目は注文通りに鞘は警棒の様な仕様。鞘である警棒部分は、かなり強度がある。
元々警棒にはそういう役割があるが、腕の骨程度なら叩き割れだろう。
「軽いな。素材はなんだ?」
「アラミド繊維です。重さは鋼材の5分の1以下で引張強度が高いので余程の衝撃を受けない限り折れません。そして耐熱性、耐薬品、非導電なので電気も通しませんし、錆びません」
アラミド繊維は防弾チョッキやスキーウェアにも使われる頑丈で軽い素材で、どちらかと言うと建設現場の補強やタイヤ、光ケーブルの補強にも使われる。塩害を受けないので尚更建設現場でよく使われる。
「アラミド繊維を棒状にしたのか?曲がったりしないだろうな?」
「勿論♪特殊な方法で構築された繊維なので、大型トラック一台程度なら余裕で耐えられますよ。しかも、もし曲がっても自然と元に戻るので長く使えます。刀身も同じ位に頑丈です」
と、サイナが太鼓判を押す。更にホルダーとグローブも渡してくれる。
「なら、人一人程度なら持ち上げられそうだな」
「え?まぁ、出来るでしょうが‥‥はい、出来ますよ」
最初こそ反応に困った様子だったが、後から是と言ってくれた。安心しながら警棒を引き抜き、仕込み刀のように刃を晒す。
「杭、みたいですね」
「ああ、俺が頼んだ」
完全に抜いてみると、刀身は四角錐の杭で確かに刺し貫く事を目的にした形だった。一応切っ先で切る事も出来そうだが、やはり刺す事に特化した刃だった。
薄い刃物よりも頑丈なのは間違いなく、それこそロッククライミングの杭替わりにもなるだろうか。
「これは、サイナが精錬したのか?」
「いいえ、私じゃないです。でも信頼出来る人ですよ。まぁ‥‥だからちょっと値段が張りましたけど」
「そこはいい。多少値が張っても仕方ない品だし、請求書くれ。後で引き落としにするから」
杭を警棒に戻すと、サイナは次にM&Pをケースから出して見せて渡してくれる。
「‥‥うん‥‥よし。完璧だな」
「良いですか?まだ撃っちゃダメですよ。怒りますからね?」
重心に変えたパーツの確認、今上がる腕や肩と共に確認していたらミトリから指導が入った。ミトリを怒らさせるのは嫌なので―――
「今すぐ撃ったら‥‥肩が飛びそうだ」
自分で肩を軽く叩いて撃たないとアピールする。実際、もしここで撃ったら病院側に没収される。
地下に射撃場があるようだが、それも許可が出てからだった。
ホルダーに銃を入れて、ミトリに撃たないという意思の元で渡す。
「そしてこのバックルで~す。あなたとの共同って事で、商品化出来そう♪」
「俺が考案者だ。売りに出すなら俺の許可を取れよ」
冗談を交えてサイナからバックルを受け取る。
バックルと言うよりもドロップの缶のように、縦に長い金属性の入れ物。
「それは?」
「これは止血剤とかを入れる救急箱。塗り薬を入れるつもりだから、戦闘中でも頭とかの出血も塗って止められる」
もし頭からの出血が止まらなかった場合や毒などを受けた場合に、片手で緊急治療が出来る方法が欲しいと考えていた。また、それ以外の用途もある。
「後は、ほら。下の部分には弾丸、側面にはナイフ。便利だろ?」
ミトリに渡して確認させる。
サイナに頼っておきながら自分でも良い物を作れたと、胸を張ってしまう。バックルと言いつつこれは骨盤の左側に付ける為の形をしていた。勿論防弾防刃、いずれはもっと他の機能とかを考えられる仕様だった。
「殺菌抗菌作用がある素材を使っているので、薬も清潔に保てます。蓋は密閉性を自動に保ってくれるので水に入っても安全♪軟膏はサービスで~す♪必要になったら言って下さい。有料で補充しますよ♪」
「その時は頼むよ」
今の所財力に余裕はあるが、いずれ底をついてしまう。早く復帰して稼がなければならないと焦りながらも、ゆっくりと次の話題の糸口を造り出す。
――――あの短刀の在り処について。
「ミトリ、悪いけどタオルを買って来てくれ。昨日シャワーを浴びれなかったから」
「あ、はい。わかりました、行ってきます」
ミトリが素直に買い物に行ってくれる。帰って来たらお礼と一緒に代金を支払わなければならない。
「サイナ、話がある」
「何ですか?改まって。脇差でしたら明後日にでもご用意させていただきますが?」
「その話じゃない。黒い短刀の持ち主がわかった」
突然の暴露に、サイナの背筋が目に見えて震え上がった。
オーダーにとって法務科の名前とはこれほどまでに恐ろしい。しかもそれが内密に受けた仕事の相手だったとしたら、尚更生きた心地がしないだろう。
「‥‥そうですか、まぁ‥‥いずれ知られるとは思っていました。ええ‥‥はい‥‥」
しょんぼり、そんな擬音が相応しい姿だった。下を向いて鞄の中を片付けながら心苦しそうにしている。
「別にその事にはついては何も気にしてない。サイナはオーダーの調達科なんだ、用意した武器や品が、犯罪者とオーダー相手に向けられるのは当然だ。それに文句つける程、俺はサイナを嫌ってない」
「え、では‥‥どうして?」
「あいつを裏切れなんか言わない。もう短刀についても何も言わない。だけど、近いうちにまたサイナを雇う事になる」
「ん?どんなサービスのお求めですか?」
俺がここから出る時、それは恐らく緊急になる。虫の知らせや、何かのお告げがある訳ではないが、病院から逃げ出すように退院するのは目に見えている。
「サイナの時間を買いたい。急ぎの仕事だから信用出来る奴じゃないといけないんだ」
「‥‥え?‥‥」
その瞬間、サイナの表情が固まった。その直後—――、
「あわわわっ‥‥!その、私は、そんなサービスはしていなくて!あ、えーと、でも、ここ最近ずっと入院中でしたか‥‥。もしかして、さっきのシャワーって‥‥!ミトリさんもいるのに、そんな‥‥」
急にエンジンが壊れたみたいに顔が赤熱化し始める。
羨ましい―――早くそれぐらい顔に血の気を戻したい。
けれど、サイナの心配も最もだった。ミトリが後もう少しで帰ってくるのに救護棟に乗り込む為の算段を整えているなんて、話しにくくて当然だ。
だが、その辺に抜かりはない。
「ミトリにはもう話がついてる。始める時には連絡してくれって」
「そ、それは‥‥準備が良いですね。でも、私に務め切れるでしょうか‥‥」
普段と違って、なかなかいい返事をくれない。確かにこれは治療科や場合によっては法務科をも敵に回す事となる。慎重になるに決まっていた。
「これはすぐに終わる、一晩だ。それにサイナは俺がいいって言ったらすぐに帰ってくれ。それだけの仕事、いや頼みだ」
「わ、わわ、私でいいんですか?それこそミトリさんとかに、了解を取ってからの方が‥‥、体調にも関わるでしょうし‥‥!」
「ミトリにはもう頼んでる、それにもう色々世話になってるからこれ以上は頼めない。これはサイナじゃないと出来ない―――危険で今後の事を考えれば、受けたくないのもわかってる。だけど、今俺が頼れるのはサイナしかいないんだ」
サイナなら、多少の無法もそのまま実行してくれる。
だからこそ頼る事が出来る。
「あの人、経験者だったんですか‥‥なら、私も腹を括ります!あなたには多くの仕事を頂き、先の一件では何も考えずに受けた仕事で迷惑をおかけした所為でこうなってしまったのですね?うん、だったら‥‥私も従いましょう!」
気合いを入れて、仕事を受けてくれると言ってくれた。だが、従うは流石に言い過ぎなので、伝えておく。
「そんなに気張らなくていい。俺もこういう事はあんまりやってないから、正直勝手がわかってない。サイナは何度かやってるじゃないか?だから、今回はプロの話を聞いてから実行しようって思ってる」
治療科に単騎で襲撃を仕掛ける訳じゃないが、傍目から見るとそれに他ならない。
やるなら真夜中—――単純に闇に紛れてる事が出来る上、高い確率で無用な生徒達が寝静まっているだろうから、自由に動ける。
「なんて言うか‥‥そんなに私を信じてくれているんですか‥‥。でも私も初めてなので、上手く指示出来ないかもしれませが‥‥。それと、これからの関係も考えて穏便にしましょうね?私も、誰かから‥‥恨まれるのは、いやなので‥‥」
どうにも歯切れが悪い。いや、単純な話だ。
商人が誰かと絶対的な敵対関係になってしまっては、仕事に差し障る。治療科の生徒にも多くの客がいるのかもしれない。
「そこは俺でもわかってる。やる事をやったらにすぐに終わらせる。じゃあ、車の用意頼むぞ。俺とサイナだけの予定だから」
「車ですか‥‥。その、特殊な思想なんですね。お車でなんて―――あ、でも私も商人です!そういった個々人の求める物をご用意するのも私の役目です!!」
特殊だろうか?むしろ普通ではないだろうか?
自分からすると、極論を言ってしまえばステルス機で上空からのパラシュート―――という誰も想像もしていない侵入方法が良いのだが、あまりにも非現実的だ。
深夜とは言え、気付かれるのは百も承知。そして気付いて欲しいふたりがいる。
「確かに人にはバレるかもだが、そこはどうとでもなる。生徒駐車場に着いたらそこからは自力で行くから、サイナは帰っていい。その後はもう決まってる」
ミトリにはベットの用意をして貰っている。
二人と話をした後、俺は襲撃を仕掛けた死に体となる。だが、治療科は敵味方関係無く世話をしてくれるだろう。例え、自身らが付けた傷だったとしても。
「だからサイナは深夜ここに車を止めて、俺を拾って生徒駐車場に向かえばいい。ここからなら1時間もかからないからすぐに終わる筈だ。その時に脇差を渡してくれ、それまでは預け―――どうした?」
サイナは呆然とした顔となり、心ここにあらずな様子となり果てた。
車検にでも出しているのだろうか?
「‥‥一つ言っておきたい事があります。お客様♪」
急に笑顔となって、1を作った手を向けてくる。
「私も早合点していましたのであなたの事をとやかく言えません。でも♪‥‥まず最初に目的を明確に伝えて下さい。また誰かに勘違いを起こさせるかもしれないので。私もその所為で将来のプランを失うのはつらいので♪」
なかなかにドスの効いた高い声が聞こえ、琥珀色の目も笑っていない。
この笑顔には迫力があり、息が詰まった。
「なんか、それは悪かったな。でも何と勘違いしたんだ?」
「いえ、それはいいんです。大丈夫です♪私も商いをする時は相手を選ぶと決めました。これからもお願いしますね♪」
勝手に怒って勝手に納得し、その直後に機嫌が良くなったサイナが、鼻歌交じりに荷物の片付けを終わらせる。
「では、私はこれで。その時が来たらこのスマホで呼んで下さい。何時でも向かいますので♪それとこれらのマガジンは地下の射撃場に保管しておきますね。まずないでしょうが、もし何かあって起爆したら大変なので」
スマホを投げ渡して、ガラガラと旅行鞄を転がせたサイナは颯爽と出て行った。彼女の心根は計り知れないが、これで最低限必要な事は終わった。
「‥‥確認する、俺はマトイとネガイに何故俺を殺したのか聞かないとならない。その手段としてミトリには俺のリハビリに付き合って貰い、救護棟への侵入の手引き。またベットの確保。サイナには装備の用意、かつ足替わりになって貰う――――俺は一人じゃない‥‥。今は違う」
手を見つめて拳を作り出す。今必要な物は血と体幹を取り戻す事。少なくとも全速力の走りや飛び跳ね、射撃や体術が出来ないと話にならない。
「この調子なら、明後日には射撃が出来る。‥‥血が気持ちいいなぁ‥‥」
心臓を経由した熱い血が頭や手足、目に届く。
早く動いて流す血液の量を増やせと身体が欲してくる、この感覚は高揚感と言うのか、それとも二人との会合に合わせた武者震と言うのか?
部屋の外、廊下から二つの足音と食器が擦れる甲高い音と、それらを運んでいる車輪の音が聞こえる。片方の足音は聞き慣れた音だ。
「ただ今帰りました。後、お昼が届きましたよ」
タオルを持ったミトリと、ワゴンに食事を積んだ看護師さんが一緒に入ってくる。
食事の香りこそ出汁が効いていい感じだが、
「もうちょっとスタミナがつきそうなのが食べたいです」
「わがまま言わずに食べて下さい。残さずに食べてもらえれば、明日にでも固形の物を用意しますよ」
と看護師さんに慰められる。
ベット備え付けの机に食器を載せて「後で回収するのでそのままで」と言って、そそくさと部屋を後にする。米に固形の形跡はまるでなく、やはり粥だった。
「じゃあ、私もお昼に行って来ますね。後でまた来ますから」
「ああ、ありがとう。これが終わったら何かしら礼を用意しておくよ」
治療科の実習はゴールデンウィーク中は休みとの事だった。だというのに―――折角の休みだというのにリハビリに付き添ってくれる。感謝してもし足りない。
「私にとっての最大のお礼は、あなたが元気に復帰することですよ」
最後に軽く棘を刺して行ってしまった。尚更早く回復しなければならない。
「やっぱり塩が薄い‥‥」
減塩料理を食べて取り敢えずは腹を満たす。この料理もいつまで食べられるか。
・
「今日はここまでですね。お疲れ様でした」
壁に寄りかかっている顔に優しくタオルを押し当てて、汗を吸い取ってくれる。こういう所からもミトリの気遣いを感じて、何かしらの返事をしなくてはと思う。
だけど、肺がそれを許してくれない。
「まずは息を整えて下さい」
午後のリハビリが始まる前に、「昼を食べて調子がいいから。結構動けそうだ」と強きに自慢した結果、ミトリはそれに全力で答えてくれた。
「ごめんなさい。ちょっとスパルタでしたか?」
首の中身が丸ごと捻れている。皮膚はタオルが擦れただけで血が滲む気がする。
「‥‥いいや、これぐらいが丁度いいんだ。自分でもこんな動けるとは思わなかったから‥‥」
「そうですね。まさか今日中に軽いジョギングも出来るなんて、あなたの身体って人間離れしてるかも?」
階段の登り降りから始まって、屈伸にスクワット、そして器具を使ってのジョギング。まさか今日中にこれだけやらされるとは、自分の考えは甘かった。
けれど、お陰で良い汗がかけたのも間違いなかった。
「顔は、はい大丈夫です。青くなってません、赤いままです。もしこれで青とか白になっていたら、すぐにでもベットに戻ってもらっていました」
軽く脅してきたが、だとしたらこれはミトリからの試練だったのかもしれない。適切な呼吸や体力の使い方を自然とさせる為の―――図らずとも合格したようだ。
「明日は本格的に身体を戻しに行きましょう。今日で走る事が出来る様になりましたから。‥‥まだ射撃はダメですよ?」
考えが先程から読まれてしまう。
「‥‥俺って、そんなに単純?」
「—―――腕を使った運動もしましょう。肩周りの筋肉を動かして柔軟にすれば、発砲時の衝撃にも耐えられる様になりますよ」
何事も無かったように流したミトリが、笑顔で勧めてくれる。
事実として今日一日だけで、ごくごく一般的な生活は出来るようになった。歩く、登る、しゃがむ、立ち上がる、走る―――関節と骨を使った身体の動かし方を思い出せた。次は関節に頼り過ぎない柔軟に筋肉を使った運動を、自己呼吸だけで行うのが目標との事だった。
「‥‥よし、戻るか。もう車椅子はいらなくなったな」
「あ、はい。それもそうですね。なんかびっくりです、昨日はあんなに一歩も動けない様子だったのに。今はもう階段で戻れるんですね」
ミトリがどこか遠い顔をして、申し訳なさそうに苦笑いを向けてくる。
もう自分は必要ないんじゃないか?というか疑問を持してしまったかもしれない―――立ち上がって、ミトリが持っている水を受け取り、
「でも、まだまだミトリには世話になるぞ。迷惑だろうけど、今俺が頼れる身内は限られてる。だからこれからも頼るし、今の俺にはミトリが必要なんだ」
「あ、その‥‥ありがとう。私、役に立ってますか?」
「役に立つとか立たないとか、そんな低い話をとっくに超えてる。当然に決まってるだろう?ミトリが居なかったら俺は今度こそ目覚めなかったかもしれないんだから‥‥。それに知らないかしれないけど、俺はミトリがいないと何も出来ないんだ。だから、もう少しだけ一緒にいて欲しい――――出来れば、これからも」
相当情けない事を笑って言うものだから、ミトリも一緒に笑ってくれた。
—―――そうだ。ミトリには笑っていて欲しい。
「全く‥‥はい、わかりました。実は私もそれに気づいた所です。もう少し一緒にいましょう‥‥これからも」
汗が目に入って痛むが、目を閉じる訳にはいかなかった。
この時間、今この俺に向けているこの笑顔をまだまだ見ていたいと、手を伸ばしそうになってしまう。この感情が――――危険だとわかっていながら。
「そろそろ、車椅子返しに行こう」
「‥‥いいえ、今日だけは乗っていて下さい。今日だけは私に最後まで押させて‥‥」
祈るように呟いたミトリが、傍らに用意してあった車椅子を視線で伝えてくる。ならばと思い、背を預けて一息を付くと、慌ててミトリがハンドルを握ってくれた。
「‥‥助かるよ。俺も見た目通りヘトヘトだから断り理由なんてないんだ‥‥」
「困った仕方ない人‥‥。ちゃんとシャワーを浴びて、ご飯を食べて、歯を磨いて、それからね―――」
リハビリ室を後にしながらも、エレベーターや廊下でも声をかけてくれる。
この脱力感と、少しだけ眠気を誘うミトリの優しい声、それに心地いい車椅子の揺れに囚われながら運ばれる時間は、あまりにも誘惑的だった。
もうミトリに怒られても良いから、このまま眠ってしまいたい。
「眠いですか?ここで寝たら、私がシャワーのお世話をしちゃいますよ?」
「わかったよ。もう少し頑張るから‥‥シャワーの手伝いってした事あるのか?」
「あっははは、冗談です。いずれ習いますけど、流石に同年代の異性にはしません。それに、今は救護棟で衛生管理や治療の実習を受けてますけど、いつか私もあなたみたいに依頼を受ける科に行きたいので」
「その時は歓迎するぞ。でもいいのか?まだ治療科に入ったばかりだろ?」
「今すぐって訳じゃないです。それに学生の内に多くの科で勉強しておくのは推奨されてる事ですよ。私も一時はずっと治療科でも良いのかな?と思ってましたけど、先生方と先輩達から別の科でも勉強した方が、オーダーを続ける上で必要な知識を得られると言われましたから」
「制圧科と襲撃科はやめとけ、後重武装科と整備科もな。あの辺は頭が無い連中が行く所だ。もしくは頭が偏ってる奴だ」
顔こそ見えないが、ミトリが引きつるような愛想笑いを返してくれる。
「もう、そんな事言ったら怒られますよ。それにその辺りの科は私に合いそうにないので‥‥分析科ですかね。あ、でも捜査科も良いですね、後は‥‥探索科、とか?」
「その時は俺と組んで仕事をするか?楽しみだな」
自分の所属している探索科は事件や犯罪を今までのアルゴリズムを元に、有効な手順を用いて捜査又は防止する技術や知識を学べる科、更に言えば、探索科はその名も通り、何かを探す事に特化している――――例えば、誘拐に深く関わる。
そしてミトリのいる治療科は、その名の通りに治療と医療的な知識、技術を重点的に学ぶ科。その中でも、ミトリは救護棟で行動する救護学科にいる。
あまり現場には出ないが、必要とあらば現場に急行して傷の治療も行う事もある。
それぞれ全く違うが、それぞれの科の垣根は意外と低い。
オーダーとしての技術を磨く為の転科は、決して珍しい事ではなかった。
「はい、私も楽しみです。でも、その前に治療科として混合で一緒に行動するのもやってみたですね」
「探索科と治療科か‥‥。なんだろう?行方不明者の発見と治療か?」
「そんな事態になったら、他の科の方々からも手を借りないといけませんね―――それこそ、あの二人のような優秀な方々に‥‥」
苦しそうだった。救護棟内ではマトイを苦手そうにしていたが、前々からネガイとは仲が良かった。そんな友人が自分の庭である救護棟で人を血まみれにして、逃げて行った。
ミトリも、精神的にあの救護棟には居づらかったのかもしれない。
「大丈夫‥‥。なんであんな事をしたのか、聞きに行くだけだ。これが終わったらまたいつも通りになる」
あの二人の行動には、未だに謎が多い。
マトイはネガイの目的を詳しく知らない、そして聞く事もしていない。興味が無い訳じゃないが、そんなものより優先される目的がマトイにはあるようだった。
それはネガイにも言えるのだろう。
「それにミトリも優秀なんだろう?射撃とか体術も、それにテストの点数、すごいらしいじゃないか」
「いえ、それほどでも‥‥。ほ、ほら着きましたよ」
ミトリが誤魔化すように病室に押し入れられてしまう。
ちょっと魔が差し、にやつきながらミトリの方を振り返ったら「シャワーのお手伝い‥‥」と頬を膨らませくるからものだから、大人しくする事にした。
車椅子から手を借りて立ち上がり、ベットに座る。自然な動作でクローゼットに前に行ったミトリが、
「今日はお疲れ様でした。後、明日は午前中、校舎にいます。午後からまた来ますので安心して下さいね、まだ一緒にいれるますよ」
との話を、シャワーの準備しながら伝えてきた。
「だから、一人でなんでもしようとしないで下さい。まだまだあなたには血が足りないですよ。もし貧血とかで倒れようものなら――――私また怒りますからね。いいですか?」
トドメとばかりに釘を刺してきた。
「なら、倒れない程度で軽く歩き回ってるよ。朝には外で散歩でもしてるから」
「はい、そうして下さい。あと寒気を感じたら戻って下さいね。風邪でもひいたら大変ですよ、合併で感染症になるかもしれないので」
「怪我とかしない限りは大丈夫だろ。‥‥わかった、何かあったら部屋に戻るから」
ミトリが無言で睨んできたので、こちらから折れる事にする。
たった数日のやりとりで、上下関係に近い間柄が出来てしまっていた。退院して、学校に復帰してもこの関係は続いてしまうだろう。
そんな返事を聞いたミトリが満足そうに頷いて、「おやすみなさい。夜更かしはしないでね」と仰って帰られた。
シャワー室から戻って来た時、ベットに倒れ込む前に確認を始める。
「‥‥いい感じだ。指も‥‥動く」
クローゼットからミトリが入れたM&Pを取り出し、感触を確かめる。
ポリマーフレームに使用されているスチールの冷たさと、粘り気のある引き金の重みを感じる。銃器の冷たい重みに手を馴染ませて、グリップと手のしわを合わせる。
「‥‥ミトリと約束した―――明日勝手に撃つのはやめとくか」
名残惜しいが、約束通りに院内の地下射撃場に行かないでクローゼットの鍵付き金庫に戻す。雷管と撃鉄の振動が懐かしく感じる。
続いて杭を手に取って、改めて手で転がす。サイナから受け取り一度しか抜いていないので鞘付きと、杭の状態での重心の違い、重さと刀身の長さを確認する。
「全長50cm、刀身は30cm、重さは2kg無いな‥‥。どういう構造だ?」
ベットに運び、制服に仕込んである工具で柄と刀身を分離する。
「凄い単純だな。いや、どうせ雑に使うに決まってる。むしろこれぐらいの方が頑丈で直してやすいのか」
刀身を抜いた柄の中は六角形の空洞で奥にいく程、少しずつ捻れている。刀身の隠された部分も捻れた六角形。これだけ見ると殆ど鉄塊に近いのに恐ろしいほど軽い。
「ハニカム構造‥‥じゃないな。どっちかっていうとポリゴナルか?のわけないか‥‥まぁ、頑丈ならいいか‥‥」
サイナから詳しく聞こうと思ったがやめるべきだ。
企業秘密と言って、聞きたかったら金を払う事となるだろう。
「もしかして金剛杵に近い?そんな訳ないか‥‥」
杭を元に戻して軽く振ってみる。見た目通りの頑丈さと貫く事に特化した形状、かつ少しだけ重心が刀身寄りの為投げる事も可能そうだ。
これも敵を縫い付けるという注文に、見事に答えている。
「‥‥これはマトイ、あの布に対しての武装—――ネガイにどこまで通じるか」
鞘に戻した杭を握りながら、頭の中で仮想してみるが一撃も当てる事が出来ない。
俺がネガイに頼ったのは―――この目を、どうにかしてくれると信じたから。
そして俺が狂ってしまった時―――
「ネガイなら俺を確実に殺せるから、か‥‥。死ぬ時の後始末まで押し付けるなんて、迷惑な話だ。‥‥だけど、ネガイでもこの目の対処方法は限られる‥‥」
一瞬で無力化出来ると言った、事実ネガイならやれるに違いない。
だが、そこがネガイの弱点でもある。
「あの一撃、縮地を防げれば。それだけで俺は優位に立てる」
縮地は今までに二度しか見ていない。
そのどちらも目で捉えられてない『不可視にして不回避』。マトイはあの一撃をどうにか避けられたが、あの夜はネガイが本調子ではなかったからだ。
だとしても、俺はそんな『不調の一撃』すら見えなかった。
「‥‥マトイが避けた時、あの時ネガイは頭を狙った」
先に動脈を狙うと言っていた。だったら首から上を狙うと想像出来る、マトイもそう考えたからこそ避けられた―――同時にネガイも避けさせた。
「一歩目は見える、問題は二歩目だ‥‥」
音だけは聞こえる、だがそれもほんの微かな音に過ぎない。
全力で耳を傾けていても聞き逃す方が可能として高い。仮にそれを捉えて突き刺す瞬間の『三歩目』の位置が特定出来たとして、それでは遅い。
その時ネガイは、もう狙った場所を突き刺している。
しかも目で見たとして、それを脳に届けるのに僅かながらタイムロスがある。よって俺がどう動くべきかは一歩目で決めるしかない。あの速度を計った事もないが――――目算だけなら、一瞬だけだが大口径の銃弾とほぼ同じ速さで
「二歩目から三歩目にかけての時間。そこでネガイの行動、思考を読んで身体のどこを狙うか予測、か‥‥」
初動の段階の一歩目で、ある程度の場所、首から上か心臓付近か肺や肝臓か、もしくは足かを想像しておかないとならない。もしそこの段階で見誤ったらそこで俺は負ける。あっさりと嘘のように刹那に死ぬ。
「足が使えなくなったら、それだけで俺は動ける範囲がほぼ消える。後は俺が死ぬまで撃ってればいい」
だからどこを刺されても俺は負ける、よってネガイからの攻撃は全て避けるなり防ぐなりをする、それしか無い。
「‥‥いや、やるしかない。俺はネガイに勝ちたい訳じゃない、ネガイと話したいだけだ。だったら―――納得させればいい」
俺の独り善がりでなければ、ネガイの行動は全て一つに収束される。
「俺は、強くなる。もう目に振り回されない、お前と肩を並べてやる‥‥」
目を閉じて武器の質感を覚える。もうアイツを恨まない、ネガイを信じる。ネガイにばかり苦しい立場を押し付けない。そう決めた。
後、ここにはもう一つ武器が追加される。
「あの脇差し、あの人からの贈り物‥‥としか思えない」
今ここにはないが、刃だけなら名刀と言える代物だろう、少なくともあんなに心惹かれる輝きを見た事がない。
「あれは当日受け取るしかないか、すぐに折らないように様に気を付けないと‥‥」
明日には腕や肩周りを本格的に動かす。凝り固まった筋肉を柔軟にし、肩が外れない様に銃撃や斬撃の慣れを取り戻す。それだけで、全治は出来なくとも最低限の働きを身体に命令出来る。
「ネガイと最後に会って三日は経った‥‥そろそろ会いに行かないとな‥‥」
ミトリを怒らせたくないけど‥‥明後日の夜には救護棟に帰る―――ネガイがいるあの部屋に。
「おはよう、顔色がだいぶ良くなってきたね」
朝の検診にあの先生が来ていた。俺も今日起きたら驚く程に身体が軽かった、もう車椅子は卒業だ。
「おはようございます。もうここから出ていいですか?」
「あと1日は大人しくしていなさい。‥‥医者の立場からいうとまだまだ寝ていて貰いたいんだがね」
点滴や輸血パックを変えている看護師さんが軽く先生の発言に眉をひそめたから、先生は冷静に医者の立場に戻る。
「今日は彼女はいないのか?」
「彼女?ああ、ミトリの事ですか。確か昨日、午前中は校舎にいるって――実習かもですね」
詳しく聞く必要もないと思ったし、何より治療科救護学科の授業関係だったら内容を話すだけで一苦労をかけてしまう。
「かもしれない。‥‥大人しくしていてくれよ」
「なんですか‥‥、今の俺じゃあ、暴れるも何もできないでしょう」
「私としては君はすぐに出てまた戻ってくると踏んでいたんだ。そんな君が大人しくここで生活してるなんて驚きなんだよ。あの子が一緒にいたから君はここで大人しくリハビリをして身体を元に戻しているんだろう?」
確かに、ミトリがいなければ俺は何も考えずにネガイとマトイの二人に会いに行っていたかも、いや会いに行っていただろう。
「私はオーダーでありここの医者だ。あの子から既に言われただろうがあの姿の君をここから出すつもりは毛頭無かった。多少荒い手段を使ってでも君をここで入院させていた。 もし君がここから逃げ出しても、救護棟の棟長に話をして君を見つけ次第ここに連れ戻す手筈だったが、まぁ無駄だったようだね」
「‥‥棟長?」
「知らないか?まぁ、知らない方が良い人だな。オーダー東京校校長の次に権威を持った人間だ、会わない様にした方が長生き出来る」
教導院の一人だ。
教導には元警察官僚、元自衛隊、オリンピック選手、俳優に女優、果ては国を相手に武器の売り買いをしていた商人などの人間とは思えない人間がいる。中には経歴や生まれ、国籍は勿論姿すら不明な奴らすら――――これらの連中には噂でしかないが口外出来ない共通点がある。
全員、異端という所だった。
真っ当な世界や世論では生きていけない、自分を曲げる事が出来なかった人達だ。
救護棟のトップということは救護や医療の異端児だったのかもしれない。
「教導院の一人で、医療関係者だ。救護棟を司る教導の人間だと言えばわかるな?繰り返すが君が救護棟で見つかっていたらその人に捕獲を頼んでいた。会いたい相手ではないだろう?」
「先生、あなたは何者ですか?」
少なくともただの医者やオーダーの一人が簡単に連絡出来る相手ではない。校長の次の立場を持った人間など、俺でも聞いた事がない。
「私はオーダー省から任命されてここに医者として出勤しているオーダーの一員だ」
忘れかけていたが、この人は俺が目を覚まして早々にガットフックで自称オーダーの一員を追い出した医者だった。まともじゃないに決まってる。ここはオーダーの病院、患者を守り、それを害する者を排除する城であり石垣だ。
「‥‥それを明日には解いておくから好きにしなさい。じゃあ、また今度」
それだけ言って看護師さんを連れて出て行った。感謝の言葉すら出す隙が無かった。
「いや、どうせここに戻ってくるって思ってるのか‥‥。悪いけど、俺の次の入院先はもう決まってる」
侵入の憂いもこれで断てた。それなりの理由があり、ミトリも信用しているがそれでも俺や一年の優等生が何か言った所で、あの救護棟が今までの主義を変えてまで俺を棟内に受け入れるか心配ではあった。だが、これで棟長とやらの許可も出たを思っていいのだろう。
「ダメでも入るけどな‥‥」
目を閉じて右の瞼を軽く触る。
「そろそろ、定期検診の時間だな。明日の夜にでも邪魔しに行くか」
それに起きてからこの数日一人で寝ているからいい加減ネガイの手が恋しくなってきた。今までの様にまたネガイに眠らせて欲しい。
そして、午後に来るミトリとサイナ、そしてもう一人の協力者になってもらえそうな奴とも連絡しておきたい。
「アイツもサイナとは違う現金な奴だし、多少のわがままも聞いてくれると有難いんだけど‥‥」
サイナが渡してくれたスマホを病院着に入れて車椅子を押し歩いて廊下に出る。何か押して歩くだけでこんなにも楽になるのかと関心しながら外に行く為にエレベーターに向かい、一階の受付さんと話して車椅子を返却する。ここに来てからずっと世話になっていたから少しだけ気になってしまうのは、あまりに感傷的か。
「‥‥世話になったな」
返却が終わり病院の敷地内にある休憩エリアへ向かう。そこまでの散歩なら身体に丁度いい疲労感で済むし、何よりあそこは院内で数少ない連絡許可エリアだから、少し長く連絡していても誰も咎めない—―――また、聞かれたくない内容だから急いで向かう事にした。
「あ、もしもし?俺、今入院してるんだけど、明日の夜には治療科に戻るから手を貸して欲しいんだ」
朝早く一人で来た甲斐があったらしい、誰もいないし来ても気付かれにくい建物の影になっている場所を独占出来る。
「引っ越し?というか、そこどこ?死んだって噂だったんだけど?」
「死んでたら電話なんてかけずに直接そっちに行ってる」
「枕元に出るのだけはやめて」
情報科の生徒シズク、情報科なんて安直な名前だがこれはオーダーにとっての秘密工作員に限りなく近い。
「私、これでも暇じゃないだけど?そんな引っ越しの手伝いなんて出来ないから」
どうにも機嫌が悪い、今日は休みだから何かやっているとしたら依頼だろうか。
「何かあったのか?、限定品でも買えなかったとか?」
壁の寄っ掛かってばかりでは勿体ないので屈伸や片方の腕を回す運動をしてみる。特別肩を動かす運動をしてはいなかったが、もう完全に腕は上がる。ただ、未だに血が足りないのか?腕を上げると血が登らないで腕の血管が収縮しているような錯覚が頭に届く。
「‥‥まぁ、そんな所。というか今オークションで欲しい品があったんだけど‥‥残弾が足りなくて」
「予算不足か。意外だな。そんなに金に困るような生活をしてたか?因みに、どのくらいだ?少しならあるぞ」
「ヒジリに教えてもなぁ‥‥、それに君の財政ぐらい把握してるし‥‥」
という喧嘩腰な心配をされた―――なぜ、口座内容を知ってそうな口振りなのだろうか?けれど、最近までは把握していないようだった。
「今俺の口座にはゼロが6個ある」
電話の向こうで何かが盛大に倒れた音が響いた。向こうが今どんな体勢か知らないが、今の音でどこかしら怪我でもしていたら痛快だ。
「嘘‥‥。なんで、ヒジリがそんなに‥‥遂に彼女に貢がせたの?」
「殺されたいか?少し臨時の収入が入ったんだ。ちなみに頭は3だ」
「すごいね‥‥、私でも今それの半分も口座に無いのに。じゃあ、どのくらい貸してくれる?」
端的に言えば現金な奴だった。金があると知ったらこの態度。ある意味では信用出来る奴かもだが、更に金を上乗せされたらあっさりと裏切りそうでもあった。
「貸すのは6分の1までだ。それぐらいでいいだろう?」
「‥‥もう一声」
「調子乗るなよ。頼んでるのがこっちだからって足元見過ぎじゃないか?なら3分の1だ。ただし、条件付きで、これから俺が言う事は多少の危険があってもやって貰う、そして無料でだ。まずは‥‥」
本当に切羽詰まっているのか、素直に聞いてくれた。それなりの無理も入れ込んでいたが、意外と乗り気らしい。
「うん、うん‥‥。それならやってもいい、かな?」
「‥‥自分で言っておいてだが、いいのか?」
「私も少しだけ気になってた事だから、趣味と実益も兼ねてね。必要があればオペレートも私がするから安心して。救護棟には何度か入ってるから内部構造も知ってるし、何より問題を起こさない為でしょう?そういうの得意だから私に頼った、違う?」
すらすらと思惑を語って聞かせてくる。相変わらず容赦がないが、だからこそこちらの弱点を補強してくれる。
「なら、任せた。予定通りなら明日の夜中だ。少なくとも2300には学校に着いてる」
「じゃあミトリに連絡して、サイナにも届けておくように言うから。明日は到着次第教えて」
それだけで通信が切れた。もう何かしらの準備に取り掛かっているから忙しいと言わんばかりだった。仕事が早い奴だが、少しばかり言うのが遅かったかもしれない。
いや、100万を無利子で貸すのだ。多少の無茶を言っても問題にもならない。
何より今の電話はBプランだ、もしもの時の為でしかないから安請け合いしてくれたのだろう。
「‥‥肩も温まってきた。このまま側転でも出来るかも‥‥やめとこ」
もしこれで肩や腕を骨折したら折角協力してくれると言った三人から呆れられてしまう。何より今はミトリが怖い。それにネガイやマトイと会う時に腕を吊っていたら格好がつかない上に、出来ればあの二人に無様は見せたくない。
「そろそろ戻るか」
ミトリが来る前に軽く準備体操をしておこう。本当はM&Pを触って質感を思い出しておきたいが、それをするのは少なくともミトリの許可を貰ってからだった。
「ん?アイツ‥‥」
「あの人、あの時の」
ミトリと午後のリハビリ室から少し早めの帰る時間、玄関近くの購買に寄っていたらとある光景に出くわしてしまった。
あのスーツの男が院に無理やり入ろうとするので警備員に拒まれている。警備員もオーダーの一員らしく、警棒とガバメントを腰に備えていた。
「そういや、先生が追い出してから姿を見てなかったけど。一度問題起こしといてまた入れると思ってるのか?」
「怪我をすれば誰でも入れますよ。どう扱われるかは知りませんけど」
容赦ないミトリの文言に背中が寒くなる。優しい彼女だが、やはりオーダーだ。
「気になりますか?でも大丈夫ですよ。少なくともここにいる間は病院が守ってくれます。‥‥私もいますから」
新しいタオルを持ってそれで顔を隠し照れながら心強い事を言ってくれる。俺が怖いのはあの男性ではなく、ミトリだという事は決して告白出来なかった。
「‥‥俺も、ミトリがいてくれると安心出来る」
「あ、えっと、ありがと‥‥」
自分で言っておいて急に恥ずかしくなったのか、タオルを購入する時も買って一緒にエレベーターに乗っている今も目線を合わせてくれない。こちらからもっと何かしらのアクションを起こせば良いのかもしれない。
「それで明日ですか?」
「明日だ。だからさっき言った通り。明日は射撃だ」
もう腕はなんともない。ただエレベーターの壁に写る自分の顔は、若干ながらまだ白い―――だけど、そんな事に構っていられない。
三日はもう過ぎた。ネガイの言葉を信じるならまだ一日弱はあるが、そろそろ‥‥目から命令が下されてしまう。
「‥‥分かりました。なら私は明日あなたの傍にいるだけにします。でも体調が目に見えて悪くなったら作戦を止めます」
「ああ、そうしてくれ。俺自身も今自分がどこまで動けるかわからない」
自分で思っている以上に握力が復活してなかったり、ここ最近の銃声とは無縁な生活によって聴覚が悪い意味で敏感になっているかもしれない。久しぶりに聞いた銃声一つで気絶でもしてしまっては元も子もない。
「ぶっつけ本番で悪い‥‥」
「いいえ。私もそろそろ言い出すと思ってました。それに私も、ネガイとまた話しがしたいです」
遠い友人の安否を心配するような声色でそう告げてきた。責任重大だった―――友人同士の中を取り持つ事になるとはな。
「よく我慢しました。私嬉しかったんですよ?あなたの事だからさっさとここから逃げて先生や病院の方々に捕まってしまうのでは?って思ってたので。お疲れ様でした」
扉が開き、先にエレベーターから躍り出たミトリは笑顔で褒めてくれる。
「ミトリもお疲れ、俺に付き合って大変だったんじゃないか?‥‥俺は良い患者じゃないんだ。今もそうだけどミトリに散々甘えている―――幾ら同じ一般のクラスでも毎日こうやって休みにきてくれるなんて、俺は恵まれてる」
「いいえ、あなたがまたオーダーに戻ってくれるなら。私、これより嬉しい事は無いです。また看病してあげますよ」
「‥‥何かあったら、ミトリなしだともう乗り越えられないかも‥‥」
「本当に、仕方ない人ですね‥‥オーダーとは、孤独ではありますが、ひとりしかいない訳じゃありません。また、頼って下さいね」
ここでオーダーを辞めても、と言っていたが、あれはミトリにとっての本心では無かったようだ―――いい薬となった。
「頼むぞ、俺は又救護棟で世話になるんだし。ただ‥‥」
「ただ?」
エレベーターから出た俺の言葉が少しばかり不穏だったせいか、ミトリは心配そうに顔を傾けて聞いてくる。
「もう少しでいいから、塩が欲しい。それと形のある肉が食いたい」
俺の願望は単純だった。ここ最近の卵以外、完全なる菜食主義のような食生活は思いの外つらかった。だからミトリにちょっとしたお願いをしてみたが、ミトリは笑顔で――――
「病院や救護棟での食事は栄養士さんと管理栄養士さんの考えたバランスの良い食材を使います。それを調理師さんが調理するので、私ではどうにも」
と、あの病院食の裏事情を教えてくれた。言われればその通りだった。ミトリや治療科の生徒が作っている筈無かった。
エレベーターホールでずっと立ち話は邪魔なので、入院室に戻る。病室の匂いにも慣れてきたが、これも後1日だと思うと、一抹のさみしさを感じる。
「まだ夕飯の時間には早いですね。まずはシャワーですか?」
「シャワーだ。汗みどろで食べるのは、訓練の時だけでいいよ」
ベットで息を整えていると、ミトリはクローゼットの中からタオルや下着を出してシャワーの準備をしてくれる。
「それぐらい自分で出来るから、無理しなくても‥‥」
「ん?おかわりが出来ないのが辛いかもしれないけど、我慢して下さいね。オーダーの病院食は健康的な食事で弱った内臓や身体を内側から改善する東洋医学を取り入れた料理です。薬膳料理とは違いますが、最低限必要なカロリーは摂取出来ています。退院したら好みの食事をしていいですが、高カロリー過ぎるのは厳禁です」
ミトリの言う事は最もだが、16歳男子の胃袋はあれでは口が寂しい。
どうしても我慢できなければ、深夜だけでも抜け出してどこかに食べに行くかしかない。学食だろうか?いや、開いてる訳ない。であればサイナに頼んで出前でも頼むべきか?いや、もし部屋に匂いでも残ってたらミトリに怒られる。そうだ、ネガイの実験室に確か茶菓子が‥‥。
と考えていたが、そういった入院中の生徒は少なくないらしく。
「ちなみに、もし抜け出しや深夜の飲食が見つかったら須らく拘束です。そういう考えの生徒の方々は結構いますからね。それと、差し入れも高カロリーの物があったら没収です」
「‥‥果物の類は?今の時期だったら、サクランボか、もしくはビワだ。果糖が食べたい」
「多く取らないならいいですよ。あ、後、ネガイの部屋で勝手に‥‥」
クローゼットの中から替えの寝巻きを取り出す筈だったミトリの手が、全てを言い切る直前だった口と共に静かに止まってしまう。
彼女自身にとっても無意識で止めてしまった脳は、きっとこちらから声を掛けなければ停止したままだっただろう。逡巡する間もなく、口を衝くがままの思いの丈を声に出した。
「話しをつけてくる。そうすればいつも通り。ネガイだってミトリと話したがってると思うから」
ネガイにとってミトリは数少ない友人、親友と言ってもいい間柄だった。
そして双方にとっても、同じ認識であるのはずっと前から知っていた。
「ごめんなさい。私は、きっと嫌いになれないんです。あの子は優しい人で、いつも私の話をよく聞いてくれていました。こんな話、あなたに関係ないってわかってるのに」
「ネガイだって機嫌が良い時は、ミトリと今日何を話したって自慢してくる時もあったから。俺は大丈夫だから、だからネガイを嫌わないでくれ、またネガイと友達になっていて欲しい」
ようやく取り戻せた時間間隔を使い、つかみ損ねた新しい寝巻きを抱えてベットにシャワーセットと共に置いてくれる。
「でも、私は今怖いんです。あの子が‥‥」
顔を向けてくれない。
守るべき患者を友人は殺した、ずっと仲が良かった親友が、誰よりも早く復帰させてあげようと決めていた相手を血まみれにして逃げた。
あの場に居合わせずとも、当事者のひとりと数えられるミトリならば察しがつく。あれは誤解などではない、紛れもなく彼女が殺めたと。
「あれから一度も会ってません。怖いんです、変わってしまったんじゃないかって。本当はあなたをネガイの元に送るのだって、まだ怖いんです。もしまたあなたを、今度こそ目が覚めない身体にされたら、私‥‥」
「俺だって怖いんだ」
ミトリから視線を外して真っ直ぐに前を見ながら本心を告げた時、視線を感じた。
「俺がネガイと一緒にいる理由、知ってるか?」
「いいえ、でもあなたは患者だって」
「そうだ、俺は患者だ。ネガイにしか治療出来ない体質がある。それを診て貰うために救護棟の部屋に出入りしてる。俺の体質は定期的にネガイに診て貰わないと、俺は狂う。誤魔化してなんかいない、俺は狂うんだ」
目の命令を拒否出来なくて目の求めるままに血を求める。
自分で耐えられる最後の領域を超えてしまう寸前で、一歩手前でネガイに出会えた。もしあの場でネガイに出会って無ければ、何が起こっていたか、わからない。
「ネガイと、あと数人しか知らないけど、俺は一度狂った。それを助けてくれた、今までずっと守ってくれてた」
無言で聞いてくれた。
親友の近くにいきなり現れた俺を疑問に思っていたのかもしれない。
「だから信じてた。今だって同じだ、だから、なんで俺は殺されたのか、知らないといけない」
「知ってどうするんですか、今だって次はどう殺そうか、準備してるかも。また同じように殺されるかもしれないんですよ。もう彼女は変わってしまったのかもしれないのに‥‥」
相手はネガイだけじゃない、マトイもだ。
その上、ネガイなら話し合えば素直に答えてくれると思ってしまうが、ネガイは必要があれば刺せる側だった。それはマトイも同じ、容赦なくマトイは殺す気で俺の頭を狙った事もあった。
―――――あの朝と同じように二人で俺を殺す計画を立てていたら、まともな抵抗すら出来ずにまた殺されるかもしれない。
「あなたが復帰してくれたら、私本当に嬉しいんです。怪我をするのだってオーダーなら当然です、そのために私は救護を学んでいるんです。あなたが傷つくのも受け入れられます‥‥でも、あんな姿は違う、もう見たくない‥‥」
ミトリが見た俺は、きっと目にしてはいけない姿だったのだろう。口や目からの出血で病室が血塗れだったと話していた。
血抜きをされて、捌かれる動物。捌かれる寸前の姿だったのだろう、少なくとも、まともな人の姿ではなかったに違いない。
「‥‥もし、またネガイが‥‥その時は、私」
「それでも俺は信じる。だからミトリはそんな事考えるな」
立ち上がってミトリの隣に―――顔を上げて、見つめてくるミトリに声をかける。
「ネガイはマトイと一緒に俺を殺した。多分心肺停止だってしてた筈だ‥‥でなければ俺をこの救護棟に送っていない、そうだろう?」
ミトリは目線を静かに俺の顔から外し、自分の胸元に両手を当てる。
隠し事とも言えないが、言っていないことがミトリにもあったようだった。
「もうそれは変えようのない事実だ。だけど、俺はネガイを信じられる理由がある」
「理由‥‥」
「俺は―――に何も出来なかったのに、ネガイは今まで俺を守ってくれていた。ネガイは全力で俺との契約を守ってる」
「‥‥殺す事が‥‥治療ですか?」
震えるような声だった。それを聴いてる俺も発しているミトリにも、心の底に届く紛れもない怒りの声だった。
「‥‥わからない。でも、ネガイは約束を破った事は無い―――だから、今の俺はネガイに治療を施された後なんだと思う。それに‥‥俺はどこまで行ってもネガイを嫌いになれない。ミトリと一緒だ‥‥」
俺はマトイの策略で目を全力で無我夢中で使った。ネガイはその反動をあの夜に治療してくれた―――ならネガイの行動には一貫性がある筈。
俺の血抜きをして眠らせたのもアイツの施術と言える。なぜなら、俺はネガイの治療の度に眠っている。あの眠りもその結果と言える。
マトイはあの夜に俺を眠らせるのも目的だったと言った。ネガイは俺が眠って静かにしている方がやりやすいといつも口に出したいた、いつも俺が寝た後何をしているか知らないが、起きる度に目の痛みから解放されている。
起きている時の治療と眠った後の治療の二つをいつもやっているのかもしれない。
「俺を殺す、眠らせるのは治療の前段階だったんだと思う。それ自体が目的じゃない手段だったんだ」
目から血を奪い、心臓からも奪う。その結果、目は宿主を殺させない為に少ない血を奪う事は出来ない。あれは目に殺されるのを防ぐ為に、俺を先に殺す、偽りにの殺人。
まだ確証はないから、ミトリに教えられない。余りにも俺の都合に寄り添っている。
「だからネガイと殺し合いをしに行くつもりは無い。マトイとだってそうだ―――見た目程悪い奴じゃない。だけど、簡単に話が終わるなんて考えてない、怪我だってすると思う。だから、ベットの手配を頼んで、宝石も渡したんだ」
「でも、あなたの記憶にはあの時が、残ってる‥‥」
思い出すだけで、身体が震える。あの時の寒気をついさっきの事のように身体が呼び起こしてくる。消える事のない―――死の恐怖を。
「‥‥俺も怖いんだ‥‥。また、殺されるかもしれないって‥‥」
治療とはいえ、あのやり方はあまりにも脳裏に焼き付き過ぎた。二人に事情を聞けばきっとこれは消えてくれると信じているが、現実はそんなに甘くないと本能が告げる。
マトイを顔を見た時、安堵感と一緒に恐怖を感じた。ネガイの顔を見ても思い出してしまう、そう会う前からわかる。‥‥俺は、この恐怖から二人から会わない事で逃げる事は出来てる、でも。
「だけど、行くんですか?‥‥そんなに怖いのに‥‥」
冷たい鈍器で後頭部を殴られた錯覚に陥る。
「誰だって死ぬのは怖いです‥‥、それと同じぐらいに私はあなたがいなくなるのが怖いんです」
ミトリが腕を掴んでくる。もうミトリの手の感触を感じる、体温も感じる。
「あなたはこれだけ言ってもきっと二人に会いに行ってしまう。私も、それは理解しています。サイナさんからの武装を目の前で受け取っていたんです、今更止められる訳無いってわかってます。‥‥それでも、もう一度聞きます」
俺の身を案じただけの顔じゃなかった。これはミトリの最後の試練—――覚悟を引き出すための。
「あなたは死にに行くようなものなのにそれでも二人に、ネガイに会いに行きますか?」
あの事件で刻み付けられた死の恐怖はずっと続く存在になる。身体が冷たくなって、自覚をしてしまう死の感覚。すぐ近くに大切な人がいるのに、その温もりを感じれなくなる不安。そして目の前から人が消えて見えなくなる孤独感。
なにより、信じてきた人達に裏切られるという恐怖。これら全てが死の恐怖になった。
怒りなど感じる暇も無かった。ただただ、なぜ?という嘆き。だが、あの二人は何も答えてくれなかった。
この体を内側から解体して血を奪う。それを手慣れたように行っていた、俺に声こそかけていたがあの苦しみから誰も助けてくれなかった。二人が何かをする度に、俺は苦しみ、そして何も感じなくなる死をあの二人から送られた。
「あなたは、もう一度死ぬんですか?」
「俺は死なない‥‥」
ミトリの目を正面から見返す。ミトリの瞳に心が震えているのがわかる、あの夢の中で見た天井のように美しく引き込まれそうな目だ。
「死を克服するつもりなんて無い。死にたい訳でも無い。逃げてきた自分に立ち向かう。その為にも、ここで引けない」
ミトリの右手を握って右目に当てる。少しだけ冷たいけど、優しい手だ。
「この目は特殊なんだ。ネガイにはそれの調整をして貰ってた」
「‥‥魔眼‥‥」
聞いた事があるのか。ミトリはポツリと呟いた。
「正確には違うらしいけど‥‥」
「私も、少し聞いた事があるだけです」
驚いた表情でミトリは手を当てていない左目を見つめてくる。ミトリの目を見つめ返して、改めて美しいと感じる。
「ネガイに会ってなかったら‥‥死んでた。誰かに‥‥いや、きっとこの目に殺されてた」
ネガイから他人にこの目を教えてはいけないと言われて来たが、ミトリには教えないといけない。
魔眼は貴重だ。俺のはそれらと類似はしているが正確には違う。だが他人にはそれがわからない、中にはこの目を奪おうとする目が眩んだ愚か者すら現れるかもしれないと言われていた。マトイもその一人だった。
「この目は特殊過ぎて手に負えなくなっていた。でもそこでネガイが助けて、死にかけだった俺を守ってくれた」
「‥‥やっぱり、あの子は優しい人だったんですね」
安堵の声で目を瞑り、顔に微笑を浮かべる。
「ネガイはいつも優しい、俺の為に目の力をどうにかする方法を探してくれてた。でも、それは俺が目を怖がっていた所為だ。目を使いこなせれば、あんな事をしなかったんだと思う」
「だから、会いに行くんですか?」
「ああ、ネガイを信じてる」
片目だけでミトリを見つめ返し意思を伝える。単純な事だ、なぜ俺を殺した?と聞きに行くだけ。それだけだ。
「でも、素直に言う子じゃないですよ」
「かもしれない。でも、俺なら聞き出せる」
ミトリが半笑いで冗談を投げかけるが、それを正面から打ち返す。
「どうしてそう言えるんですか?」
「あの世間知らずで泣いてばかりいるネガイを叱れるのは俺だけだからな。今度やる時は勝手にいなくなるなって言わないと」
この答えにミトリは微笑のまま涙を流して、頷いて返してくれる。
「ミトリ、頼みがあるんだ。‥‥もう少しだけ、手をこのままで」
「‥‥うん‥‥。そうですか、これが好きなんですね」
ミトリの手を右目に押してつけて俺自身の心を安定させる。ミトリもそれに答えてそのままにしてくれた。
・
「見送りはここまででいいですよ」
もうそろそろ面会時間が終わってしまうが、まだミトリと居たいが為、ギリギリまで一緒にいる事にした。
「わかった。俺もそろそろシャワーを浴びないと」
「はい、毎日の入浴やシャワーは病院側から見ても患者の衛生管理の上で必要な行為ですよ。それに、気分も良いものですし」
ミトリと一緒に病院の玄関外で話していた。一応院の敷地内だがサイナから渡されていた、あの杭を腰にぶら下げている。
「帰る時っていつもどうしてるんだ?」
「ん?徒歩ですよ。私も寮生活だから、ここから寮まで近いですし」
「‥‥気をつけて帰ってくれ」
「あっはは、私もオーダーの一人ですよ。ちゃんと銃や刀剣を今持ってます、それにここはオーダー街ですよ?並みの犯罪者なんて蜂の巣です。そんなに帰って欲しくないですか?」
ミトリが笑って言い返しきた。悔しい――憎らしいほど、可愛らしくて愛おしい意地悪な顔だった。でも、これ以上は引き止められない。
「大丈夫ですよ。まだ遅くないので街にも明かりがついてます。‥‥わかりました、サイナさんを呼んで車で迎えに来てもらいます」
「そういえば、送り迎えも得意だったな‥‥」
常に装備の売買をしてるのだからそれなりの大きさを持った車をどこへでも乗り回していた。確か‥‥モーターホームを改造した装甲車だった。
「はい、昨日一緒に来た朝はサイナさんの運転でしたよ。確か今日は遅くまで学校の工房にいるって言ってました」
「いつの間にそんなに仲良くなったんだ?じゃあ、今俺が電話するよ」
スマホを出してサイナ車の番号に電話すると、ワンコールで取ってくれた。
「は~い♪買いですか?売りですか?注文ですか?いつもご贔屓にありがとうございます。こちらサイナ商事出張版で~す♪」
「株でも取り引きしてるのか?しかも先物取引の匂いがするぞ。車だ。ミトリの迎えを頼む」
「かしこまりました♪場所は病院ですね?今近くにいるのですぐ迎えに参りま~す」
それだけ言って電話が切れた。
「運転しながら電話してのか?」
「サイナさんの車はBluetoothでスマホと繋がってるので、ハンドルを離さないで会話が出来るんですよ」
「‥‥詳しいな」
道交法の疑問に、ミトリが簡単に答えをくれた。
「前に乗せて貰った時にもそれで会話していたので。結構便利そうでしたよ?」
「俺はバイクだからなぁ、バイクだとメットか、‥‥電話以外の音が聞こえなくなるのは危険か」
サイナに相談して何かしらの方法を探ってもいいが、それはいずれだ。それにバイクは車と比べて割合楽に止められるからあまり意味はないかもしれない。
「バイクでしたね‥‥。うん、あなたはネガイとバイクに乗ってましたね‥‥」
ミトリがうんうんと一人で何かしらを納得し始めた。
「乗るか?」
「え、いいんですか?」
「別に構わないぞ。ただ、乗るのは初めてか?」
「‥‥そうです。恥ずかしいですね、オーダーなのにバイク一つ乗ったこと無いなんて」
頬を染めてそんな事を言ってくる。オーダー高等部への進級時に、軒並み普通車の免許は取らされるが二輪なんて、趣味でもない限り取らない。
「俺だって周りに合わさないと二輪の免許なんて取ってなかった、それに救護棟にいるんだったらバイクの必要なんてないだろうし。普通じゃないか?‥‥あ、忘れてた」
「ど、どうしました?」
俺が急に声を出したからミトリは何事かと聞いてくる。
「俺のホーネット、今整備科に出してるんだった。‥‥帰ったら回収しないと」
確かバンディットを代車で貸してくれるって言っていた。それにもう代車は生徒駐車場に置いてあると。
「ホーネットかどうか私にはわかりませんが、あなたの駐車場にバイクが止まってましたよ。サイナさんと来る時に見ました」
「整備が終わったから戻してくれたのか?それともまだバンディットのままか?‥‥代車もいつまでも返していないのは問題だし、整備科の連中が勝手に回収してくれてると有難いんだけど―――まぁ、今はどうでもいいか。それで乗った事無い?」
「‥‥はい」
「だったらミトリのメットを今から来るサイナに頼むか。ネガイのもサイナから買ったから」
正確にはバイク用品を売り込みに来たサイナを帰らせる為、ネガイのポケットマネーから出させた品だった。
「俺には簡素な物しか合うやつが無かったけど、ミトリならそれなりにデザイン性があるのを用意してくれるかも」
俺はフルフェイスだが、ネガイは重いし顎まで締め付けられてるようで嫌だと言っshield jetにしている。確かにフルフェイスは重いし、慣れてなければ脱ぎにくい種類ではある。ただ、長時間の走行には向かないので近いうちに新しいメットを買わなくては。
「あの、えっと‥‥」
ミトリが困ったように俺に話しかけてくる。
「あー悪い、一人で急ぎ過ぎたか?」
「違うんです!ええ、私もヘルメットが欲しいです。サイナさんと車の中で話し合ってあなたとも相談しようと思います」
「ああ、いいぞ。俺もそんなには知らないけど、いい感じの奴を一緒に探すか」
なら、やはり250ccから別の400cc以上に買い替えるべきだ。例えば――ヤマハのリキッド。確か400ccのタイプが最近販売されていた。もしくはいっそのこと1000cc以上のを考えるか?vmaxは――ダメだ、もう生産を終了していた。
正直、追い越しの時今のではパワー不足だ。
そんな事を考えていたら、玄関から見て右手にある駐車場からドアの開け閉めの音が聞こえた。少なくともサイナの大きい車の音じゃない、そして不機嫌そうな足音が近づいてくる。今更出て来たのかと、溜息が零れる。
「やっと出て来たか‥‥」
「あんた、よく此処に何度も来れるな。病院から締め出しと出禁を食らったんだろう?」
「それに私達が話してそれなりに時間が経ってますよ?お眠でしたか?」
ミトリが馬鹿にした声で俺と同じように呆れて目線を向ける。ミトリがサイナの迎えを受け入れたのも、これがいたからだが、これなら一人で帰って貰っても大丈夫だっただろうか―――
「調子に乗るなよ‥‥、私は」
「公務で来たか?俺が出て来たから慌てて飼い主に連絡を取って話しかける許可を貰ったんだろう?」
「ちなみに、あなたは建物の中にさえいなければ問題無いと思っているようですが。ここは院の敷地です、ほら警備員さんがどこかへ連絡してますよ」
後ろを見てスーツの自称オーダーを挑発しながら警備員を見る。
警備員は二人で院の玄関出口に仁王像の様に立っている。確実に雇われたプロだ。服の上からでもわかる均等の取れた腕をしている。後ろで手を組んでいるが1秒もいらない時間で銃の発砲を出来る筋肉を持っている、荒事には慣れているらしい。
「それで?なんの用だ?」
警備員から視線を戻し、質問をする。ミトリは足を軽く開いて片足に重心を移動させ、いつでも内腿から銃を出せると脅し始めた。
「決まっている!‥‥お前は誰を見た?」
大声を出した時、警備員が動いたのだろうか。息を吸って聞き直してきた。
「まず所属を言え。オーダーのどこ所属だ?」
「‥‥私は外部監査だ」
「嘘ですね。外部監査の人はまず顔を見せません。なんの為に創設されたかも知らないのに偽ると、逮捕されますよ?」
外部監査科。それらはオーダーにとって、都市伝説の様な存在だ。表だってそれに所属していると言われているのはただ一人。
オーダー校の校長だけ。
外部監査科はただでさえその実情が謎だが、唯一知られている目的は。
「それに少なくとも、あなたは三年や二年の先輩方を、あの警備員さん達を止められる人には見えません。もしそうなら外部監査官ってそうでもないんですね」
ミトリが容赦なく噛み付くが、その通りとしか評価は下せまい。この人間の男ではネガイやマトイどころかミトリ一人さえ止められないとわかる。
「教えといてやるよ。外部監査科は法務科ですら対処出来ない――――元オーダーを止めるのが目的だ」
だから顔を覚えられてはならない。一応だが、オーダー組織の暴走を止めるのも創設目的とされている。
「私の所属など今はどうでもいい、さっさと答えろ!二人いたんだろ!?」
「答える義理は無い」
突き放した態度で、それだけを告げる。
「‥‥お前‥‥私が誰か知らないのか!?あ!?」
先程から自分で言わない事を叫びながら、右の懐に手を入れて何かしら取り出した。だが一瞬それが見えた時、銃声と共に弾かれアスファルトの上に転がった。
「拾わないで下さいね。次は親指を貰います」
ミトリが片手でデリンジャーを既に撃っていた。
本来のデリンジャーの使い方は相手に押し付ける様に使うが、ミトリは相手の銃を奪うという精密な射撃を見せた。しかも相手が動いてから。
男が出したものはH&K P2000だった。警察の警護課、SPに配備される銃と知られる。だがスーツ男はミトリの脅しなど無視して、落ちた銃を転がる様に拾おうとした。だから腰からあの杭を警棒の状態で抜き出す。
「痛っ‥‥!折れ?!」
「折れてないぞ。多分」
余裕な態度は何処へやら、最初会った時と今とじゃあ大分印象が変わった。
ミトリが弾いた時に、一歩先回りして拾おうとする脇の下に警棒を入れて、関節から腕の動きを阻害、銃をミトリの方に蹴り飛ばす。
「セイフティーすら外してないですね。使い慣れないならこんな物持ち歩いても無意味ですよ?」
内腿にデリンジャーを戻したミトリが拾い、セイフティーがかかっているH&Kからマガジンを取り出し、それらを見せてくる。
「もうやめとけ。そら、来たぞ」
警備員が無線でどこかに連絡をしながら二人で近づいてきた。
「後は引き継ぎます」
一人はミトリに軽く話しかけ、もう一人は早い歩きで俺の方に近づいて来た。警備員がスーツ男の腕を掴み、物凄い握力で掴んだ様子を確認して警棒を脇から外す。
「申し訳ありません。患者様に」
「いいえ、気にしないで下さい。前にコイツを追い出してくれていましたよね?今回は自分でやっただけです」
警備員さんが申し訳なさそうに言ってきたから、そんな事無いと言っておく。きっとこいつを毎日何度も追い出していたのだろう。
「お前達!私に何をしているか、わかってるのか!?私は!」
「誰だよ?」
「前の政権お抱えのワン公だよ」
後ろから声が聞こえたから急いで振り返ると、あの先生がいた。ガットフックこそ持っていないが、身体中からあの時の雰囲気がある。
「あ、もしかして。あの?」
「ああ、あれらを率先してやっていた警察の人間だよ。時代が違ったら君らも一年程取り調べとして逮捕されていただろうさ」
思い出した。オーダーの座学で、逮捕状も無いのにこじつけ現行犯で時の権力者に反抗する人を逮捕する警察の皮を被った犯罪者達。
「そこのカエルは本来なら未だに刑務所の中にいる筈だが、司法取り引きをしたようでね。今も警察バッチを持っているな」
「カエルだと‥‥」
「カエルだね、その姿では」
警備員に取り押さえられている姿は確かに地面にへばりついたカエルだった。
「今オーダーの法務科を呼んだ。もうすぐ迎えが来るだろう、まぁ君の口に価値がある限りまた釈放されるだろうがな」
「先生、この人は何なんですか?銃まで出して‥‥。私達を殺すつもりだったんですか?」
ミトリが先生に向かって最もな疑問を聞いた。最初こそ俺にあの場にいたネガイとマトイについて聞こうとしたが、遂には武器を出した。気が短いと言われればそこまでだが、どうにも愚か過ぎる。本当にこれが政権お抱えだったのか?
「私も詳しくはわからない。だがまぁ、何となくだが誰が命令しているかわかるよ。じゃあ、私達はこれで。悪いがそのカエルを連れてきてくれるか?少し話をする必要がありそうだ」
警備員はスーツ男を先生の後をついて連れて行く。法務科に引き渡されると聞いてから、大人しく連れられて行く。だが、やはり何かしらの策があるようで俺には不気味に笑っていかけてきた。が連れて行かれる最中にミトリと目が合った瞬間。
「‥‥」
顔はもう見えなかったが、後頭部が身体に隠れたので下を向いたようだ。
「厄介な奴に目をつけられた」
警棒を腰に戻して空を見ながら呟く。
「でも、今回はオーダーとは言え入院患者に銃を向けて拾おうとしたんです。そう簡単には放されないと思いますよ」
ミトリが回収した銃を渡してきた。間違いなくH&KP2000だ。
「かもしれないが、ああいうのはしぶとい」
オーダーへの発砲事件など今日日珍しくもない為、オーダーは一々取り合わない。しかも相手が警察関係者では、警察側も碌に取り調べなどしない。むしろ良くやったと褒め称えられるだろう。
「お、来たぞ」
もうひとつの愛車、ジープが病院の駐車場に入る。サイナの顔も見通せた。
「じゃあ、私はこれで。‥‥明日は午前だけ来ます。午後には向こうで待ってますから」
「よろしく。あと、俺はもう平気だから」
「ふふ、もう何も言いません。私もネガイを信じています。また明日」
ミトリの背中を見送って院に戻る。病室に到着した時ベットで一息ついていると―――外から「弁護士を呼べ!何も喋らないぞ!私は嵌められた!」と大声が聞こえる。
「前の連中も、アイツを選んで使ってた筈だ‥‥。まともな頭だったら恥ずかしくて表なんか歩けない」
恥知らずとはアイツらのための言葉だ。ただただ惨めに自分は正しいと喚くだけ。もう周りは全てわかって気づかれているのに誰にも気付かれていないと一人で思い込んでいる。バレて無いと思ってるんだったらそれでいいから、最後まで静かにしていて欲しい。墓場まで―――
「ああはなりたく無い。可哀想だ」
ベットに横になり力を抜く。大きく深呼吸をして酸素を肺に取り込む。
「だけど、いい準備運動にはなったよ。次は俺が撃たなきゃ」
恐らくあのスーツは防弾性だろう。頭以外ならどこを撃ってもいいなんて―――ありがたい事この上ない。ただサンドバックにはなり得ない。明日の夜には俺はもういない、また来ても残念ながら俺にはもう会えない。
それよりも気掛かりな事があった。
「最後の晩餐か‥‥。何が出るかな?」
救護棟に戻ってもあの病院食なのだ。ここでの最後の夕飯を期待しておきたい、期待した所で意味が無いとは思っている、わかっているが‥‥。やはり確率の問題で期待値がどれ程あるか考えてしまう。
「はぁ‥‥。ネガイに食べさせて貰っとけば良かった‥‥」
あの塩無し料理だが、ネガイに食べさせて貰えば何よりも美味に感じたに違いない。
「ダメだ‥‥。会いたい‥‥、マトイにも‥‥。もう少しミトリとも話していたかった‥‥」
うつ伏せになり、そんな願望を言ってしまう―――情けないが、ここ最近で甘え癖がついてしまった。しかも3分の2には殺されて生死の境を彷徨っていたのにだ。自分で言っていてまともでは無いと思ってしまう。
「電話‥‥するか‥‥」
愚かな事を言っているとわかっている。だが、ネガイの声を聞きたい。明日には殺し合う相手だとわかっている上に、まだあの時の記憶が頭に残っている。なんの為に周りの人達が手を貸してくれているのか忘れたのか?と。
「失礼します。夕飯の時間ですよ、残さず食べて下さいね」
そんな事を考えていたら看護師さんが夕飯を持って来てくれた。不思議と同じ味とか食べ飽きたとかは無いのが病院食の特徴だ。
「お、固形物だ」
お粥であるのは違いないが、米がしっかりと形を保っている。そして野菜炒めには細切れだがベーコンのような肉が入っている。
「内臓系の働きが回復したと先生が認めたので、これらの食事が許可されましたよ」
「ああー。だからずっと汁物ばっかりだったのか‥‥」
看護師さんが机の上にいつも通りに料理を置いていく。もうこれも後一回。
「それと、明日には退院だから好きにしなさいと。これが最後の輸血です」
点滴のスタンドにあるもう中身の無い点滴から新しい点滴に、そして輸血も凝固因子製剤から赤血球製剤に変えた。どうやら全て見透かされているらしい。
「一応ですが、ここの射撃場は昼までなら使えます。後で食器を回収しに来ます」
シャワー後に食べたかったが、ミトリとゆっくりし過ぎたようで時間を見誤っていた―――忘れていた、あのスーツもいたのだった。
「はい、でも食べ終わったらすぐシャワーに行くので」
「なら、そのままでいいで。しっかり残さずに」
釘を刺して病室から出て行った。あの看護師さんとも今日が最後となるだろう。世話になったのだから、礼の一言でも言うべきだったかもしれない。
しばらく食事を取り、テレビを見ていたらもうすぐシャワーの時間が終わるので急いでかきこみシャワー室に向かう。
早く風呂に入りたい。シャワーだけだと、どうにも湯を浴びた気分にならない。
「‥‥終わったら電話するか‥‥」
もう決めた。ネガイの声を聞くと、どんな事を言われようとも。ネガイの声を聴かないと眠れない。
「今の時間だと‥‥。外には出れないか‥‥」
救護棟ではミトリの言った通り深夜の外出は拘束対象だ。そしてこの院でも間違いなく何かしらの罰則がある―――明日には退院だとはわかっているが、今更とやかく言われるのは面倒だったので他の手を考える。
もう既にシャワー室には誰もいない。今は自分一人、自分を流す水の音だけが響く。何があろうが、この音は暫く聞けない。
これから死にに行く訳ではない。ミトリにも言った、何度も自分に言い聞かせた。
「いくか」
禊の儀式、そんな清い行動ではない。だが、これで変わった―――血は流し終わった。
・
消灯後に避難階段を上がって屋上へ続く踊り場に到着した。腰には点滴と輸血パック。外したら自力では戻せない、もし空気でも入ったら大変だからだ。ここでは声こそ少しは響くかもだが、どうせこの時間で、この場所なら誰も来ない。
ネガイの電話番号を思い出す――――大半がスマホからの電話なので番号を思い出せるか心配ではあったが、何の問題もなく覚えている。
「‥‥」
なかなか出ない。知らない番号だからだろうか――いや、やっと繋がった。
「‥‥ネガイ、俺だ」
「‥‥本当に起きたんですね‥‥」
電話の声は基地局に登録された声が自動的に合成される。だから正確には違う声だ、だけど、この声はネガイだと分かった。
「‥‥何の用ですか‥‥」
不機嫌な声に聞こえたが、それより感じた事があった。この声は泣いた後の声だった。
「明日の夜には戻る」
「‥‥では、もう一度あなたを殺します」
「なら、もう一度殺されたあと、お前に会いに行く―――来るなとは言わなかったな。なら俺は何度でも行く」
「私は言いましたよね?あなたが目を眠らせようが、支配しようがどっちでも構わないって。それはあなたの目がサブプランだからです。ここからの脱出は、元は私一人でしていた事です。そんなに殺されたいんですか?」
「そんなに俺を殺したいのか‥‥?俺はネガイに‥‥」
ネガイから拒絶されている。殺されている時と同じぐらい、つらかった‥‥。
「それにその目はもう使い物になりません。それはあなたもです。目があったから近くに置いて調整や治療までしていたんです。自覚していますか?唯一の長所を失ったあなたに、私が興味があると?」
「一度は使えるって、」
「確かに、後一度は使えるでしょうね。ただ、そんな使い捨てにすらならないあなたをどうして使わないとならないんですか?不効率にも程があります。それに万全で無かったとしても、あの夜の数秒であなたは倒れました。ここまで使えないのではもういりません」
抉れていく。ネガイの声を聞くたびに、心にひびが入っていく。血が冷たくなる、血を流している頭が凍り付いていく。あんなに会いたかったネガイが‥‥俺をいらない、もう興味すら持たないと言ってくる。
「俺は、会いたいだけだ‥‥」
「あなたが何故そんなに私に会いたいか知りませんが、私は降ってくる火の粉は払う人間です。あなたの目的は知りませんが、不必要な人間を置いておく程、この実験室は広くありません」
「‥‥」
「もういいですね?切りますよ」
どこまでも冷たい凍えそうな言葉。もうこのまま、ネガイには二度と会わないべきなのか‥‥。ネガイはそう望んでいる、そう何度も言っている。俺は、邪魔なのか‥‥。ネガイにとって、俺は既に火の粉のような存在なのかもしれない―――ああ、だけど、それでも、ネガイのそばにいたい。
「目を制御する」
ネガイが通話を切らない。この言葉が聞こえたからだ。
「聞いてましたか?制御するも何も、後一度すらまもともに使えないあなたが、制御なんて」
つまらない事を言わせるな、と言わんばかりにまくし立ててきた。
「ネガイは、俺が荷物だったんだろう‥‥。あの夜に―――マトイから言われた。ネガイが焦っていたのは、常識が通じない存在には何もさせない瞬殺こそが最大の対処法だって、知ってたからだって」
「どうでもいい事を言いますね、もうあなたと一緒に歩く事なんか無いので、考えても無駄です」
苛立ちが言葉の端々から聞こえてくる。俺があの夜いなければ、もっとネガイは上手く立ち回れた。俺が一々確認なんかしなければ、ネガイは手を掴まれて振り回される事も無かった。そもそも俺がいなければ、ネガイが巻き込まれることすら無かった筈だ。
「そんなに目を使いたいなら、私が止めるを刺してあげますよ。もう二度と起きないように」
ネガイなら、きっと出来てしまう。目を使おうとした瞬間に殺されている。
「死にたいなら私の元に来て下さい。死んだ身体から目を奪って、有効に活用してみせますよ」
「俺が目を使いこなしてればあんな結果にならなかった」
階段に俺の声が響いた。
ネガイは俺に利用価値が無いから、もういらないと言っている。無様で恥を知らない事を言っているなんてわかってる。
「だから目を制御する?言いたい事はそれだけですか?一つ忠告です。後一回、目を使ったらあなたは死ぬ。肉体的な死はなんとか免れても、あなたの精神は目の要求に耐えられなくなる。散々言ってきた事ですよね?一度死んでおかしくなりましたか?」
「だったら、後一回で目を使いこなす」
目の下の柔らかい部分を触り、指で熱を送る。
「面白い事を言いますね。ならその一回を私に見せて下さい。確か契約の一つにありましたよね、あなたが狂ってしまった時は私が処理すると。笑える冗談を言った礼に最後、それだけは全うしてあげますよ」
「そのつもりだ‥‥。前に言っただろう、目を使う時は一緒にいるって」
「‥‥かもしれないですね」
「だから、俺は‥‥ネガイの前で、自分の価値を証明する。肩を並べてみせる」
「‥‥目を使ってですか、死にたいんですか?それに証明するって、どんな方法で?」
「その一撃を防ぐ」
縮地を使った一撃は何も無い俺では目で追う事すら出来ない。だから、目を使う理由になる。
「‥‥ふざけているんですか?」
ネガイの声が震えている。それが怒りなのか、嘲りなのかわからない。
「明日の夜にはそっちに行く。だから待ってろ」
ネガイが本気の一撃を使ってくるなら、俺を本当に殺そうと思うなら、俺も全力で目を使うしかない。ネガイの一撃で殺されるか、目に殺されるか。そのどちらかでしか無い。
「目を、使うんですか‥‥。本気で‥‥」
「もう決めた事だ」
「‥‥本当に、死ぬんですよ‥‥。生きる屍みたいになるかもしれないんですよ‥‥」
また声が震えている。これは怒りなんかじゃない、嘲りでもない。慈しみと恐れだ。
「私の突きを防いだって‥‥。あなたの目は、満足‥‥しない‥‥」
「いや、わかるんだ。この目は、ネガイを求めてる」
俺が初めてネガイの縮地を見た時、身体中が震えた。誰よりも何よりも、ネガイの姿に憧れた。ネガイは前にこの目は俺とは違う自我があると言っていた。だけど、生まれが同じだったからか‥‥、好みは同じだった。
「それに、俺は目に殺されるぐらいなら。ネガイに、好きな人に殺されたい―――この目のお陰で、俺は生き方の多くを決められなかった。生まれた時からこの目を中心に生きてきた。それはこれからも変わらないのかもしれない。だけど、だけどな、ネガイと会って初めて自分で生き方を決められた気がした。もう目の思い通りに生きたくない。それは死に方でも同じなんだ」
スマホの向こうで、息を吸えていないネガイがいる。
「殺してくれなんて言って無い。でも、殺されるなら、ネガイにやって欲しい」
「‥‥何で‥‥何で‥‥そんな事、言うんですか‥‥」
ネガイが電話越しで遂に泣き始めた。それを聞いている事しか出来ない。
本当なら今すぐにネガイに会いたいのに―――
「私は、あなたを殺すって言ってるのに‥‥。なんでですか‥‥。私が、怖くないんですか‥‥」
「ネガイに会いたい。事情を言いたくないならそっちのペースでいい。でも、俺はネガイに会いに行きたい」
「なんで、そんなに‥‥。あなたは‥‥、」
ネガイに声が怖いほどに震えている。まずい、長く呼吸すら出来てない‥‥。
「なんで、そんなに俺に会いたくないんだ。あと一目でいいから」
「私を、殺しに来ますか?」
ネガイの言葉の意味が一瞬わからなかった。だけど、すぐにネガイの言葉の真意がわかった。そうだ‥‥、俺はネガイに殺された。
救護棟のベットで血塗れにされて。
「復讐なんかしない‥‥」
「‥‥だって私は、‥‥あなたを‥‥あなたを、あんなやり方で‥‥」
泣きながら自分に言い聞かせる様に話してくる。ネガイも怖かったのだ。俺が復讐しに来ると思って。俺が自分を殺しにくるに決まってるって。絶対に俺が自分を憎んでいるって。
「あなたは、何も悪くない‥‥。何も酷いことなんてしてないのに‥‥、私は、あなたを殺した‥‥。しかも、捨てた。嗚呼、あなたの血が、まだ頭から取れないです‥‥。ずっと手からも拭えない‥‥、あなたの目が、私を―――」
吐瀉の音が聞こえた。嗚咽の声がやまない。
―――何故、俺は連絡しなかった。すぐに大丈夫だと伝えておけば、こんな声をネガイに出させないで済んだのに―――スマホを掴んでいない手で拳を作り、歯を食いしばる。
指の爪が手に食い込む。
今の俺とネガイ、どちらの方が苦しいかなんてわかりきっている。
俺にはミトリがいた、サイナもマトイもいた。だけど、ネガイはどうだった。
マトイはネガイと一緒にいたかもしれないが、ネガイは素直に誰かに頼る性格じゃない。
ネガイの性格なんて俺がすぐに気付いておくべきだったのに。
何故、この自分は自分の事しか考えていなかったのか。
ミトリの事で懲りたのではなかったのか。ミトリだけじゃなくて、ネガイまで苦しめていたというのに何故、俺は―――自分でも言っていた、ミトリも言っていたじゃないか。
ネガイは優しい子だと。
「ネガイ、聞こえるか?話せないなら聞いてるだけでいい‥‥」
「‥‥はい‥‥」
「俺は、弱いんだ」
止まらない、自分への怒りと、無力感が収まらない。
「ずっと守って貰ってた。なのに俺は何も知らないし、知ろうともしてなかった。‥‥マトイから聞いた、やっぱり俺を治してくれたって。ありがとう。後、悪かった、ネガイを疑ったりして」
もう一度、嗚咽の声が聞こえた。
「大丈夫か?」
「‥‥大丈夫です。聞こえています‥‥」
ようやく呼吸が聞こえたが、ネガイの呼吸が荒く苦しい。嘔吐の胃酸とストレスによるものなのか。喉の調子が良くない。
「明日にはハーブティーでも持っていくから。喉に良いぞ」
オーダー街にもコンビニやチェーン店はある。個人でやっている喫茶店だってある、だから茶葉も買える。
「‥‥本当に、来てくれますか?私を、見てくれますか‥‥?」
もう涙も枯れた、自分の目よりもネガイの方が心配になってしまった。明日の夜、帰る前にどこかによって帰ろうと、心に決める。
「ああ、必ずだ――ずっと一緒にいよう。一緒に茶と菓子で話そう。後は体調が戻ったら出掛けるぞ、それとバイクを買い直そうと思ってるんだ。ふたりで一緒に遠出ができるバイクにするから」
「‥‥私、行きたい場所が出来ました‥‥。連れて行ってくれます‥‥か?」
「勿論。バイクで行けない場所なら一緒に空の旅だ。もうゴールデンウィークは終わるけど、依頼だと言って二人だけで」
「私、ホテルとか旅館に泊まった事無いですよ?そんな世間知らずでも、呆れないでくれますか?」
「俺だってそんなに数こなしてない。ネガイと同じだ、一緒に経験して、二人で考えよう。俺もネガイと一緒に行きたい」
ネガイの声に張りが戻ってきた。どこに一緒に行くか考えている。俺もどこに行くか考えておかなくてならない―――楽しくて、緊張感のある宿題となってしまった。
「私、嬉しいです‥‥、すごい嬉しいんです‥‥。あなたの声が聞けて、あなたが私のわがままを聞いてくれて‥‥」
「俺もネガイの声が聞けて良かった。ごめんな、もっと早く連絡しとけば良かった」
心からそう思った。ネガイは泣き虫だが、あんな声はもう聞きたくない。ミトリも俺の姿を見た時からずっとこの気持ちを持っていたのだろうか―――もうネガイを苦しめたくない。
「いいえ、私が怖がらずにマトイと一緒に行けば良かったんです。マトイから聞きましたよ、相変わらず手が好きだったて」
「余計な事を言ったな‥‥マトイにも会わないと―――マトイは?」
「ここ最近は私の実験室に出入りしてます。彼女から言ってきたんですよ、あなたの顔を見に行くこうって。‥‥私は行けませんでした‥‥」
「だからか、マトイ一人で来たのは。あの術は自分以外に使えるかわからないけど、マトイはミトリの姿で来た。もしかして元々ネガイがミトリの振りをするつもりだったのか?」
「‥‥はい。マトイはサイナか看護師で、私はミトリの予定だったとマトイから言われました。‥‥もし行っていてもすぐに気付かれていましたね。きっと」
「かもな。だけど、マトイもすぐわかったぞ。ミトリじゃない別人だって。それに、あれだ、ミダゾラム。あれを俺に使うつもりって聞いて、ミトリじゃないってわかった」
少なくとも、あの麻酔の導入剤のような薬を、冗談でもミトリが使うなんて言うとは思わなかった。
「ミダゾラム‥‥迂闊でした。そうですか、だからマトイは私にこれを返して来たんですね」
手の中で小瓶を弄んでいるようだった。ミダゾラムは前にネガイから教えて貰ったものだ、目の状況によってはこれを使うのもやぶさかでは無いと。
結局一度も使って無かったが。
「今マトイは、法務科へあの事件の説明をしているそうです。ただ、説明と言っても責任を取らされるとかでは無いらしいくて。あなた一人しか被害者がいない上に‥‥その、死んでいないので」
「まぁ、そうだろな。もし本腰入れて捜査するなら身内の悪事を裁く事になるし、あのプライドが高い法務科なら‥‥」
法務科は確かにオーダー内の不祥事も捜査するが、それは組織トップが入れ替わる規模の大事の時のみ―――下っ端の殺し合いには興味など持たない。
オーダー内でのイザコザなど日常茶飯事でしかも死人が出ていない、ときている。だったら法務科は全力で隠し通す。その方が有難い。
「マトイが言っていましたよ。あなたのお陰で法務科に一つ貸しが出来たと。私も、あなたに感謝しています」
「貸し?感謝?何の事だ?」
「前にあなたがやった仕事です。あの経費も費用も出なかった、不良の排除でしたか?」
「‥‥ああ、あれか。そんなに時間は経って無いのに忘れてた。ここ最近忙しかったから」
「まったく‥‥マトイに頼んで調べていたんですよね?」
「調べていたって言うか、なんで何も出なかったのか調べてもらっただけで‥‥どうにか金を回収出来ないか、マトイに頼んで、それがダメだったらマトイに仕事をねだろうって―――」
「‥‥まぁ、いいでしょう。マトイ曰く、あの不良グループの持っていた武器があるんですか?それらの武器は一部ですが、大半が違法に輸入された品だったそうです。あなたが怖がらせて追い出した時、その中の一人がオーダーに殺される、と言って警察に逃げ込んだらしくて」
あれだけ事件を起こしておいて、身の危機が差し迫ったら、公僕に頼るとは―――半ぐれがヤクザに殺されると言って、警察に通報した事件を聞いた事がある。
「殺すなんて言って無い。銃も向けてないし、脇の下にあるぞって教えただけだ」
「所詮、数だけの烏合の衆ですね。だけど、その中にデットコピーとは言えない拳銃類があったそうです。少なくとも、ただの不良達が用意出来る得物では無かったと」
「—―――俺が見たのは、バットとナイフだけだった」
もしかしたら、あの中にはそれらを持っている不良がいたのかもしれない。
だけど銃の射撃場でも無い場所で精神的に追い詰められながら、人という小さい的に当てるのは素人ではまず無理だ。最低でも30m先のスチールの空き缶へスコープ無しで十発撃って十発当てられなければ、銃なんか持っていない方がいい。
その点はあのスーツよりも、あの不良達の方が弁えていた。
恐れおののき何も出来なかっただけかもしれないが。
「それで、なんでそれが法務科への貸しになるんだ?」
「あれは、マトイがあなたの目につくように、準備した仕事だったと」
「アイツの掌は広いみたいだな」
どうにも何から何まで、マトイの予定通りだったようだ。
「俺が頼りの来るのも想定済み―――しかもその後にネガイに頼るのもか。これが法務科の人間‥‥敵に回したくない‥‥」
「私も詳しくは知りませんが、マトイも最初はあなたを誘き出す為に、丁度いい依頼だと用意したそうです。ただ銃火器を調べてみた結果、それらに中に警察関係の横流し品もあったとか、自衛隊の物も。そして、それに関わったのは司法取引で無罪になった元議員」
「元、か‥‥」
「‥‥当時は大臣と言われていた人間です。当時、官僚を身内に挿げ替えていたようですね」
その大臣が今や身内の不良に、武器を売って金を稼いでいる。恐らくだが、警察や自衛隊の中にも、小銭を稼ぎたい奴らがいるから成り立っていたのだろう。
「落ちる所まで落ちましたね。‥‥ふふふ」
ネガイが堪えるように笑っている。人を嘲笑う声だとしても、この声が耳に心地良くて仕方ない。
「復讐は果たされたか?」
「まだですね。そいつが関わっているかどうか知りませんが、私はまだここから出れないので。大丈夫です」
またあの激情を聞いてしまうかと、ひやひやした。
だがなんとか踏みとどまってくれた。
「マトイも、これは予想していない大物だったと言っています。法務科とは自身の都合で依頼を用意出来るらしいですね」
「なら、ネガイも聴いたんだよな。あのネガイ宛に来た仕事も」
ネガイが激情を踏みとどまれ無かったあの依頼。
それはマトイが用意した偽物だったと。
「‥‥そうですね。全てはあなたの目の為ですか。他力本願もここまで来ると尊敬に値しまう。しかし、男性はああいう手の上で転がしてくる女性が好みのようですね。あなたも夜に散々マトイに甘えたようで、マトイから自慢されましたよ。お前に眠らせて欲しいとか、隣にいて欲しいとかって」
「俺はネガイにもして欲しい。本当なら今すぐにでも」
「その素直さは私も悪い気はしませんが、マトイと比べられているようで少しだけ‥‥いえ、なんでもありません。あなたは私がいないと何も出来ない人ですからね。睡眠まで私がいないと不安だなんて、全く仕方がない」
少し頬がほころんでしまった。ネガイのその言葉を久しぶりに聞いたから。
「それで、聞かないんですか?あなたを、あんな目に合わせて理由を。その為に危険を承知でかけたのでは?」
ネガイから、そう聞いてくる。だが声にはさっきの震えが戻っている、強気な声色だが同時に恐る恐るの色が混じって苦しそうだった。
「それは明日聞きに行く。今日電話をしたのは、もうすぐ寝るからネガイの声が聞きたくなっただけだ」
少し前ならこんな歯に浮くような本心なんて言えなかった。あのままネガイから拒絶されたら、その後目の治療の為には会えてもネガイと碌に話す事など出来なくなっていた。だけど、今なら言える。
「明日はネガイの手で眠らせてくれ。いい加減、そろそろネガイが恋しくなってきた」
「‥‥私もです。明日は、あなたといますから。‥‥でも」
ネガイの言葉が詰まった。明日がダメだろうか、仕方ないが、寂しい。
「もう少し早くても、私は、嬉しいです‥‥」
そこで通話が切れた。
しおらしく素直で可憐だった。まずい、今のネガイは。
「また好きになった」
スマホの電源を切って階段を下る。
巡回の看護師に見つからない様に姿勢を低くして、手鏡を使って廊下の曲がり角の先を確認する。見つかりそうになったら少し床が痛かったが前転をして、一瞬で視界の外に出る。そうしてやっと病室に戻れた。
改めて病室を扉近くから見渡す。
月明かりが差して幻想的とは言わないまでも、明日でおさらばと思うと、今までの記憶が浮かんでくる。
「戻ってこれたか。もう完全に治った、明日出る時は軽く掃除でもするか」
毎日俺がいない間に掃除をしてくれていて、埃は殆ど無いが。
それでもクローゼットの中の隅に溜まっている糸くずだけでもどうにかすべきかもしれない。
「また世話になるかもだし、悪い印象は作りたく無いし」
腰の点滴類をスタンドに戻すべきだが、その前にベットに横で背伸びをする。このシステムベットも、今日で終わりだ。ネガイに相談してパイプベットからこの広い便利なベットに変えて貰いたい―――俺も今なら少しは出せる。
「喉にいいハーブティーは‥‥」
単純にタイムかカモミール、変わり種だとマーシュマロウ。前に体調が悪い時、ネガイに飲ませて貰ったが、あのトロトロした粘り気は何も聞かされなかったが、喉に良い気がした。何よりも喉の痛みに効いた。ただ、あれは飲むのに一時間程かかる。
「いいや、一時間ぐらいすぐに経つか」
目につく葉っぱを軒並み買って行こう。サイナは怒るかもだが、あの車で夜まで足と休憩所替わりにさせて貰おう―――――
「やぁ。起きているね」
振り返る、そして腰に下げていた杭を警棒状態で声の持ち主の顎に突きつける。
しかし、それをガットフックで止められる。火花どころかぶつかり合った音すら聞こえなかった。
「‥‥先生‥‥」
相手の顔を認識したが―――警棒を下ろす気になれない。
「完全に復帰してくれたようで医者として嬉しい限りだよ。しかもここの職員は軒並み手練れだ、そんな中、夜中に抜け出してくるとは。オーダーとしていずれは諜報機関、法務科の一人になるかもしれないな」
「こんな時間に先生自ら巡回ですか?緊急搬送時の為に寝ておいた方がいいのでは?」
後ろに看護師さんが2人もいる、しかもその手には下に向けたサプレッサー。
「ただ少しだけ油断していたか?ここは病院だから仕方ないかもしれないがね」
どうでもいいように言った。だが、こちらからすれば気が気でない状況。少なくともサプレッサーを付けた手下を控えている。
確実に―――害される。
「深夜の徘徊ってそんなに重罪ですか?」
ここは3階、ただのパジャマだ。防弾性でもなんでもない、ただの化学繊維。
クローゼットに制服や銃こそ入っているが、着替えを待つ気なんてさらさらない。
「まさか、こんな事を毎回していたらこの院から退院する人間なんて誰一人もいなくなる。あの男や法務科が喜び勇んで私を逮捕しに来るだろう」
独り相撲のような姿に映ってしまっている。全力で警棒を突き上げているのに、先生はそれを涼しい顔で防いでいる。やはりこの人はプロのオーダーだ、真っ当な人では無い。
「反省しているので帰ってくれませんか?そろそろ寝たいので」
「残念ながら君は今日眠るどころか明日明後日、もしくは2週間は眠れないかもしれないな。医者として許し難い事だが」
「くくっ‥‥くっ‥‥。ははははっっ!そうだお前はもう二度と眠れない!」
後ろから下品な声が聞こえてきた。しかも未だにびびっているのか姿すらなかなか見せない。
「あんなのに従ってるんですか?—――所詮、あんたも犬か‥‥」
「そう言わんでくれ。私も不本意だ」
ようやく安全が確認されたと思ったのか、看護師さんの背中からあのスーツ男が顔を出した。
最後見たのはついさっきだったが、たった数時間でこんなに変わるのか?と思える程に髪がボサボサで目が剥きでていた。ここで立っていた人間と同一人物とは思えない。
「私をこけにしてくれたな?今すぐお前は取り調べだ‥‥指が最後まであると思うな―――足なんて不要だろう!?腕も一本あれば十分だよな!?
「ここは病室だ。致命的な怪我をする行為はやめて貰おうか?」
「黙れ!私は、許可をされてここにいる!だから!私はここでなら何をしても良いんだ‥‥」
言いながらスーツ男は看護師さんの肩を抱いて髪の匂いを嗅ぎ始めた。なるほど――これがお抱えの犬か。セクハラという言葉を知らないらしい。
「早くそいつを取り押さえろ!さもないとお前達も逮捕する!」
こう言って少し前の時代に散々無実な人を逮捕していたのか―――マトイが暇な奴らと言う筈だ。疑いを捜査してそれを元に逮捕状を取る本来の業務すらまともに出来てない。こいつは恐らく警護課だろうが、総じてこうなのだとすると、絶望的だ。
「と、言うわけだ。君を拘束するから大人しくしておいてくれ」
手錠を白衣から出してきた。ここで暴れてどうしようもない、ここは3階だ。それに外には逃げた時用に他の奴らもいるのだろう。飛び出ても、あのガットフックやサプレッサーで狙われる、どうしよもない―――だから、隙を見て逃げよう。
「まさか、ここで患者を捕まえるとはな。オーダー省も気が狂った‥‥」
「本部からですか‥‥飼い主に、腹を見せるのが好きなんですね」
「私もよくよく確認したさ。だからそんな可哀想な目をしないでくれ。泣きたくなる」
現行犯どころか逮捕状も無い。だとしても、何かしらの現行犯で逮捕されるのだろう。
やはり、人間は所詮人間だ。愚かで、身勝手で、自分達のルールすら自分の為に捻じ曲げる。
「いい気味だ‥‥。安心しろよ、すぐには殺さない。お前をここに送った娘達もな‥‥」
「‥‥そうか」
「写真を見たぞ、綺麗な子達だった。若い女から聞き出すのは、いつも楽しいんだよ‥‥」
スーツ男は、また看護師の髪に鼻を入れて深呼吸をしている。
「俺以外も逮捕するのか?」
「当然だ!写真の二人と俺を撃ったあのオーダーの女もだ!許さない‥‥殺してやる‥‥っ!」
髪の匂いを嗅ぎながら、回らない舌で呟き続けている。
「ここに精神科は?」
「あるとも、勿論。だが、相手は選ばさせてもらうがな」
「はっ!まともに病院なんてこれると思わない事だな!お前は、死ぬ事すら出来ない!まともに生きられるとは思うな!!」
仮にもこいつ警察の筈だ。殺すだ、拷問だと、よく言える。ここまで落ちていたのか、前の政府は―――こんな狂人でなければ、不法逮捕や違法逮捕なんて出来なかっただろう。
まともな頭を持っていたら、いずれ自分にそれが飛んでくると、嫌でも気付く。
「‥‥何してる!早く!」
先生を急かして俺を捕まえろと言ってくる。嫌々ながら全く躊躇もしないで、突き上げている警棒を掴んでくる。
「お前が悪いんだ‥‥!俺を無視しやがって、お前のせいで俺は!」
「お前に忠告してやろう」
捕まれる前に、手で1を作って見せつける。それに驚きスーツ男は看護師の後ろに隠れた。先ほどから変わらない看護師の無表情に、背筋が凍りつく思いをする。
「まず一つ、セクハラはもう世間一般で犯罪行為と同じぐらい非難される行為だ。それどころお前は痴漢だ。もう昔と違う、古い世代は頭の更新が必要。警察が痴漢、いい見出しになるぞ」
看護師の口が、少しだけ柔らかいものとなる。
「二つ、ここまで一人で来れたのは褒めてやるが、それは蛮勇ですら無い。愚策だ、それとも、自分に自信でも持ってるのか?」
「やはり子供だ。私一人の訳が無いだろう!外には5台も車が止まってる!20人はいる‥‥これが私の力だ!」
丁寧に車も、乗れる人数も、乗ってきた人数も教えてくれた。確実にセンチュリーだろう。昼間に確認した。
「三つ、これはお前、先生にも言っておきます」
そう告げた時、ガットフックの医者はスーツ男から見えないよう、僅かに口元を歪ませる――――ようやく心臓が動いた。血の巡りを指の端々までが感じ取り、髪が逆立っていく。
今なら、素手で外の連中も血祭りに上げられる。
「いいからさっさと捕まえろ!手間をかけさせるな!」
威勢が良い事を背中に隠れながら叫んでいる。銃で撃たれたのが余程怖かったようだ。
誰かの背中に隠れて無いと碌に話せない光景が、なかなか面白いからしばらく見ていたいが、もしネガイやマトイ、ミトリにもこいつらが向かっているのなら、早く行かなくては、と自重する。
「聞いとけよ。これは今後の為にもなる‥‥相手の武装は確認しておけ」
挙げていた手を、床につけてその場で側転。自ら起こした勢いのまま掴まれていた警棒を抜きとり、杭に変え、窓に投げつける。
瞬時に布団を掴み取り、ベットを踏み台代わりに飛び越えて窓に突っ込み、後ろ手で布団を投げ付けて幾ばくかの時間を稼ぐ。
杭を受けたガラス窓の破片が自由落下している最中、窓枠を乗り越えて身を乗り出す。落下していくガラスの中の杭を掴み取った時、突然の行動に病室からカエルの大声が聞こえた。それにあわせて、
「くたばれクソ医者が!!黙って、お前が逮捕されとけ!!」
と叫びながら、今も近付いているアスファルトを確認、黒服を視認する。
眼下には確かに男達がいたが、ひと一人切断出来るガラスが降ってくるのは想定外だったようで、慌てて逃げていく―――お上品で、怪我を恐れるお坊ちゃま達だ。
二階までは自由落下。二階についたとき屋上に繋がる雨を流すパイプを掴み、握力だけで停止する―――しかし、体重を支えられなかったパイプは掴んだ所から折れてそのまま地面まで落ちていく。
「—――不味い、けど丁度いい」
逮捕されそうに、売られそうになった恨みを思い出し、もう一本備えてあったパイプに、杭を刺し傷をつけながらそのまま落下、地面すれすれの所で止まる。
先程の悪運を取り返すように、折れたパイプが男達を分断するかのように、振ってきた。
「止まれ!止まらないと撃つぞ!」
「撃ってみろ!背中を撃てるか?」
脇目も振らず一目散に正面玄関へ走り、左手の駐車場を見ながらスマホを取り出す。緊急時の為と設定してあった番号に指一本でかける。
「はい、サイアで~す♪今日はショートバージョンで~す♪」
「今すぐ来い!迎えが必要だ!」
後ろから追ってくる男達から逃げるが、違和感があった。
裸足の上、未だに点滴をつけているのだから全力では走れていないというのに、奴らが追い付いてこない―――出血で入院中の学生相手に、追いつけないでいる。
「了解でーす。今すぐ向かいま~す、と言うより‥‥」
到着した病院の正面玄関で息を整えて、今も駆けている黒服達を訝しんでいると、
「もうここにいるんですけどね♪」
駐車場から黒い巨大な塊がドリフトをし、真っ直ぐに男達を追い抜いて門に突っ込んで来た。男達は後ろから迫ってくる車らしき黒いカバーから逃げようと、それぞれ転がって地面に倒れ、巨大な車両の余波という、死の恐怖に動けずにいた。
「ぜーったいに、動かないで下さいね~♪」
カバーは再度ドリフトをしながら轢かれる寸前で、出口を向いて止まり、その勢いでカバーは斜め前にふき飛ばす。
姿を晒したのは、オーダー製の小ぶりなモーターホーム、サイナの第二の愛車だった。
「ご予約ありがとうございます。お客様♪」
「さぁ!早く乗って!」
モーターホームの後ろの扉が開き、ミトリに手を引かれ急いで乗り込む。が、サイナがドアを閉めてもいないに急発進させるものだから、ミトリに覆い被さるような姿勢になった。
「わ、悪い!今退くから!」
「だ、大丈夫です!慌てないで‥‥」
サイナがハンドルを切る度に起き上がりを邪魔して、全身でミトリの体に、胸元に顔がめり込んでいしまい――なかなかミトリから離れられない。
「すいませんが、しばらくは揺れますよ!外にも待ち伏せがいましたっと!」
運転席以外の元から備えてあったであろう座席は全て外され、リムジンのように長いソファーがつけられているモーターホーム内をミトリと共に滑り続ける。
「サイナ!もう少し!」
横は勿論ミトリと一緒に縦や後ろや前にと滑っていく荒い運転だ。完全に宙にも浮いている。
「喋らないで下さいね!舌が切れちゃいますよ!」
ミトリの身体を下敷きにして床を滑り身体でミトリを倒し続けてしまう。
腕の力で立とうにも床で滑って立てない。その度にミトリの甘えるような格好になってしまい―――ああ、もうこのままでもいいのかもしれない‥‥。
「こ、ここで寝ないで下さい‥‥。あ、でも、こうしてた方が安全ですよね‥‥。うん、このままでいいですね‥‥」
ミトリに頭と身体を抱き締められて撫でられて、ミトリの心音を聞く―――眠くなって来た。
「床に身体を固定するカラビナがあるのでって、な、何してるんですか!?」
サイナの声で起きた。一瞬だけど完全に眠っていた――――これ以上ミトリと滑っていては危険だと気付き、二人で必死にカラビナを探し、ソファ近くの床にあるのを見つけた。
ソファーにもベルトはあるが、立てない今の状況では床に身体を固定するしかない。
息も止めながらのミトリが腰についているワイヤー先の金具と床のカラビナとを連結させて、自分自身の横滑りだけは防ぐ。だから、丸腰のパジャマ姿ではミトリのベルトに仕込んであるワイヤーに頼るしかない―――また、ミトリに抱きしめられる。
「眠い‥‥」
「この状況でも眠いんですか。前にネガイから教えられましたが、相当ですね‥‥」
唖然とした声が流れる。それでもミトリは抱き締め続けてくれた。
「寝てないで起きて下さい!そこにあなたの装備があるので、早く着て下さーい!」
ようやく車が安定してきた。名残惜しいがミトリから離れてミトリと一緒にソファーに座る。ソファーの近く、床に固定してあるアタッシュケースを膝の上に置く。
「その中には私が用意したあなたの装備と全く同じ物が入っています」
「なんで同じのが‥‥?」
訝しんでケースを開けると、クローゼットの中身を丸々移してきたような制服や銃だった。
「あ、もしかして。無くした時の‥‥」
「その‥‥。あは♪その通りで~す♪あ、でもでも!その制服の袖には杭を投げた時用のワイヤーがあるでの改良版と言えますよ!」
確かに袖には何かしらの器具が取り付けられている―――見つからなかった時の為用意してあったが、装備は結局見つかってこれを出す必要も無かったのだろう。それがここでこうして日の目を見る事が出来たのか―――夜だが。
「助かったよ、ありがと、ふたり共」
「いいえ、無事でよかった。少し待って下さいね、今‥‥外します」
ミトリは腕から点滴や輸血の管を抜くために、消毒液のような液体を白い布に染み込ませる。
「サイナ、助かったよ。この車で来てくれて」
車内にはソファーと小さい机、そして奥にはサイナの鞄、商売道具らしい工具類が壁に固定され、前よりも形になっていた。
運転もひと段落したのかサイナは楽しそうに言葉を返してくれる。
「私個人に依頼してくださったんです♪しっかりと全うさせて頂きますよ~」
「あと、これ。この杭凄いな、投げた時真っ直ぐに飛んでいった」
窓ガラスを割って逃げ出した時だ。取り敢えず窓さえ割れればいいと思って投げたが、想像を超えて求めた結果を出してくれた。重心が前にあるからやけに投げやすかった。
「あ、わかりました?私もいいものが出来たと思っていたんですよ♪それなのにあんまりあの場では喜んで貰えなくて‥‥私、悲しかったんですよ‥‥」
サイナが目に見えて嘘な演技で俺に聞いてくる。あの場では投げるなんて出来なかったし、仕方ないだろうと言いたかったが。
「サイナに頼んで良かったよ。これからも世話になるぞ」
「ええ、ええ!勿論です♪これからもご贔屓に~♪」
感謝の言葉が意外と嬉しかったようで、声のトーンが二つ程高くなった。あの場でもありがとうって言っておくべきだった。
「外します。力を抜いて下さい」
ミトリの腿の上に置いた腕から管を抜いて、その上から白い布を被せて上から押し付ける。布が俺の血で赤く染まるが思いの外、血が出ない。静脈だからだろうか。
「このまま1分は押さえていて下さい」
腕に刺してあった針と思っていたが、チューブのようなものと、肌に貼られていたプラスチックの装置から輸血パックを外し、一緒にビニール袋の中に入れた。
「今どこに向かってるんだ?」
「学校です。あそこなら警察はそうそう簡単に入れないので」
オーダーの建物には大学のように自治権があるが、オーダーのそれはオーダーとそれ以外と言われる程に他所との比ではない。
「でも、あいつら。入ってきそうだな‥‥」
窓から見ると5台のセンチュリーが後ろにいる。もうオーダー校に程近いのにまだ追ってくる。それ程までに聞き出したい事があるのか?あまりにも必死過ぎるその姿は、まさにカエルだ。口にした物は、必ず呑み込まれければ我慢できないらしい。
「大丈夫ですよ。取り敢えず学校まで行けば。まずは着替えてください」
ミトリが学校に行けば安全と太鼓判を押してくる。ならばとそれに従ってケースから制服やシャツを取り出してパジャマを脱ぐ。もうミトリに裸を見られるのに慣れてしまった。ズボンに上着、そして靴を履き銃も所定の位置に装備する。
「ネクタイいるか?いつも上手くいかなくて‥‥」
「勿論です。ネガイに会いに行くのにノーネクタイではがっかりさせてしまいますよ」
揺れる車内でネクタイのバランスと格闘していたら、隣のミトリが変わりにやってくれた。その時、
「国家認定の暴走車ですね。羨ましい限りです。‥‥楽しくなって来ましたよね!?」
サイナの不穏な声を聞こえた。
「追ってきなさい!犬供が!!」
ヒステリックな声が車内に木霊した瞬間、もう既に俺とミトリは宙に浮いていた――――お互い声を出す暇もなかった。着替える為に車内ベルトを外していたのが災いし、大きく跳ねた時にソファーの上でまたミトリに甘える格好になる。
「もう、わざとやってませんか?そんなに私に甘えたいんですね‥‥。ふふ、可愛い‥‥。あ、首吸っちゃ‥‥」
またミトリに頭を抱かれ、睡魔が襲ってくる。
「‥‥ネガイ、ごめん‥‥もう寝るかも‥‥」
「だからって、寝ることは許しませんよ。ネガイが待ってるから」
背中を叩いて起きろと伝えて―――背中を叩いてくる行為は、尚更眠気を誘ってくるが、これ以上ミトリに怒られない為に早く起き上がる。
「大丈夫‥‥まだ眠らない。平気か?」
ミトリから起き上がって、ベット代わりにしていたミトリへ手を伸ばして起き上がらせる。
「そろそろ到着ですが‥‥、簡単に行かせる気は無いみたいですね。面白い♪」
サイナの発言を聞きながら、助手席へと移動する。
前にはセンチュリーが更に三台、隙を無くす様に前面の一台、その後ろに二台が横並びに置いてある。もうオーダー校への一本道で夜の行政区だから誰もいないが、よ呆れる努力だった。道路の使用許可は取っているのだろうか―――いや、取っているのだろう。許可を出しているのはオーダー省しかいない。
「やるのか?」
「勿論、センチュリーで出来るなんて‥‥。‥‥興奮します‥‥」
窓に映り返しているサイナの目が、ぞくりとするほどに‥‥艶っぽくなった。
「ミトリ、シートベルトをしっかり」
「あと、ソファーには足置きがあるのでそれを出して身体を固定で♪」
「え、何をやる気ですか?」
「サイナ、茶葉って今ある?ネガイに必要だ」
「申し訳ありません、今は持ち合わせが無いので。後で届けますね♪」
「タイムとカモミール、後マーシュマロウだ」
「かしこまりました~」
ミトリが慌てて聞いてくるが、答えない。答えたら確実に止められる。
「タイミングは、俺が主導だ」
「勿論♪しっかり戻ってきて下さいね」
柔らかなシートと肘掛けに体を預けながらつい1ヶ月前の事を思い出す。このシートには少しだけ思い入れがあった――――マトイから法務科へ誘われた実績が。
「前にやった時からサスペンションは変えてるんだよな?」
「見た通りですとも。車体にも手を加えています♪‥‥実はこれが変えてから初めてなので‥‥。ゾクゾクしちゃいます♪」
「後ろから追いかけられるのを少しでも遅らせる。フロントかタイヤを撃ち抜いてくる――――それであれは?」
「そこのダッシュボード、正確にはグローブボックスの中にありますよ。あの脇差しも」
指定されたダッシュボードを開くと黒い鞘に納められている脇差し―――頼んでいたもう一丁の拳銃。S&W M19、リボルバーの名家、Smith&Wesson社を代表する357マグナム・リボルバーのステンレスモデルM66。
「‥‥いいぞ」
357マグナムが銃と一緒に箱詰めされていた。これも元々サイナに頼んでいた代物だった。使う機会が巡ってくるかと期待していたが、来るべくして来てしまった。
「もしお買い上げなら」
「買った――」
「毎度あり~♪」
ひと目で惚れた。
数秒で売買を終わらせて早速、弾丸を込める。装填出来る数は六発。だがこの弾丸なら狙いはフロントガラス、十分だ。
「最終確認だ。あれには誰も乗っていないと判断する。いいな?」
俺からの質問にサイナは笑顔で返事をする。やはりサイナも美人だった。
「待って下さい!これからネガイに会いに行くんですよ!危険な事は‥‥」
「大丈夫。3秒で帰ってくる。ベルトしとけよ、ミトリが怪我をしてもネガイは悲しむぞ」
ミトリが身体を固定せずに席の間から顔を出して言ってくるものだから、大人しくするよう伝える。もう無駄と悟ったのか、ミトリはソファーに身体を固定し始める。そして可愛らしくむくれながらこっちら見てくる――また、怒られてしまうだろう。
「行きます!準備はいいですか?」
センチュリーの倍以上はある質量を持つモーターホームが、一切の躊躇もなく突撃してくると悟ったスーツを着た男達が、止めているセンチュリー周り逃げ出し周りのビル影へと逃げていく。
新規で創設されたオーダーや警察の部署の人間は、軒並み人外揃いと聞いていたが逃げて行く人間達はただの敗者だ。
「ああ‥‥行くぞ!!」
モーターホーム一気にスピードを上げる。窓を開けて窓枠に腰掛け上半身で風を感じる――――後ろからミトリが何か言っているが、何も聞こえない。
センチュリーの三台へ、ほんの1秒足らずで激突する―――モーターホームの動きが徐々に遅く感じ始める―――激突の瞬間サイナがハンドルを右に切った。
センチュリーの1台目の前方をサイナのモーターホームが乗り上げ、その瞬間、外へと飛び出す―――目は使っていない、だが心臓は既に火が灯っている。
熱い血が全身を駆け巡り、高揚感が周りの全てを止まって見せてくる。その中で唯一動けている。風がぶつかる感覚する遅い。
「もっともっとこの身体を冷やしてくれ‥‥、さもないと‥‥自分の血で溺れてちまうだろうが!!」
モーターホームは宙を舞い砲弾のように右回転をしながらセンチュリーの真上を飛んでいく。飛び出して瞬間、M66で足場に使った一台目のフロントガラスを撃ち、フロートガラスの弱点であるヒビで真っ白にする。
そして更にガラスをぶち抜いてハンドルの付け根まで弾丸を届ける。
車の防弾ガラスはフロートガラスを何層にも積層し、さらに内側にポリカーボネートを接着したものだが、一度にほぼ同じ場所への357マグナムの二発目は受け止められない。時間にして0.5秒。その一瞬と言える時と時の間、時間でM66の引き金を二回引く。
次に空中で回転して底を晒しているモーターホームに―――足の裏だけで張り付き、二台並んでいるセンチュリーの左側の一台にもフロントガラスへ二発で0.5秒、ハンドルまで破壊する。銃の反動を使って身体の向きを変えて0.3秒。モーターホームが完全に底を空に向け、右側の一台が見えた時に―――跳ねながら0.5秒で二発を放ちリアガラスからハンドルを撃ち抜く。M66の反動と身体の慣性で身体が空中で止まるが、それでも射撃の反動で少しづつ後ろに向かって0.7秒。
慣性と反動に身を任せ一回転し、元の姿勢に戻り、少しだけ助手席側を上に向けたモーターホームの窓枠を掴み、背中でシートに突っ込む様に車内に戻るこれらを1秒。
「3秒だ」
シートに背中をぶつけ、クッションに衝撃を緩和させる。そして足は戻ってきたままの姿勢でダッシュボードの上に置く。
「流石ですね!私も運転しがいがありますよ~♪」
サイナは未だ興奮が冷めやらぬなか、シフトレバーを操作しオーダー校への道をスピードを上げて駆け抜ける。後ろから急ブレーキと銃声が聞こえるが、どうでもいい。しばらく追って来れない。
「一本道で封鎖なんて俺とサイナにやるんじゃなかったな。ミトリ、‥‥そっちに行きます‥‥」
「はい、いい心がけだと思います」
別に自慢する気なんか無かったが、許してくれたら良いと思いながら振り返った時、笑顔のミトリがお待ちになっていた。
再度シフトレバーを超えて後ろのソファー、ミトリの隣に座る。
「言いましたよね?これからネガイに会いに行くって」
ミトリの隣で縮こまって借りてきた猫のようになっていた。実際は猫を越えて、出荷間際の七面鳥よりも縮こまっていた。
「もし今ので取り返しがつかない事があったらどうする気でしたか?今のが出来るならもっと他の安全な方法があったのでは?」
「いやー、でもあの前方の車をどうにかしないと、今頃はなりふり構わずぶつけてきたかも‥‥。黙ってま~す‥‥」
サイナが助け舟を出そうとしたが、ミトリの有無を言わさぬ視線を背中に受けて運転に専念する事にしたらしい―――裏切り者め。
その後もミトリは一応は追われているこの状況で、俺や何をするか知っていたサイナを叱ってくる。だがミトリの言う事は最もだった。
お叱りが終わった時、ミトリが少しだけ感心した声をかけてくれた。
「知りませんでした。あんな事が出来たんですね」
「調子がいい日じゃないと、ああいうのは出来ないんだ」
だが、今日は出来ると確信していた。なによりも‥‥あの高揚感を久しぶりに浴びせろと身体中が命令してきた。俺自身もそれを望んでしまった。目に命令されている訳でも無いのに‥‥。だけど、確かにあれは危険だった。もうやめるべきだ。
「わかった。もうやめる、俺も死にたく無いから。サイナも、また俺がやりそうになったら止めろよ」
「了解で~す。‥‥大丈夫ですよ、ミトリさん!絶対止めますからその目を鏡に映すのはやめて下さい!怖いです!」
ミトリの虚な目がルームミラーに映るのかサイナが身の危険を感じてマトイに謝ってくる――――なぜだろうか?この目は、決して嫌いじゃない。
「なんでやったんですか?」
ミトリが先生みたいに問いただしてきた。やりたいからやった、なんてむしゃくしゃしたからやったという理由とほぼ変わらないから言えないが、どうしても譲れない理由があった。
心臓の調子が良かった、前にも同じ様な事があって対処法も知ってた、そして何よりも――――
「ネガイと会うのを邪魔されたく無かった‥‥」
今はいち早くネガイに会いたかった。決して邪魔されず今日明日と一緒にいたかった、これは嘘偽りない真実だった。
「はぁー‥‥それを言ったら私‥‥もう怒れないじゃないですか‥‥。全く仕方ない人‥‥」
呆れた声と困った笑顔でミトリが許してくれた。だけどミトリの言う事は正しいので今度から自重しよう。
「さぁ、そろそろ着きますよ♪‥‥あ、そろそろ着くので確認を」
サイナがダッシュボードの見た事ないボタンを押して何処かへと連絡した。気になるがどうでもいい。
後はただただ、真っすぐに向かう。それだけだ。邪魔は来るかもしれないが、なら何度でも追い返す。もしネガイの捕まえるなら。
「‥‥殺す‥‥」
「何を言われたかわかりませんけど、オーダーがそんな事を言ってはダメですよ。それに学校に着けばそれはどうにかなります」
「さっきから学校に着けばって言ってるけどなんでだ?あそこなら安全かもだけど、さっきみたいに待ち伏せをしてるって可能性も」
「それは大丈夫ですよ。なんたって取り決めがあるので♪すごいですよ、あなたとネガイさんは省庁と法務科、そしてオーダー校を動かしたんです♪こんなに期待された関係は無いです。これからもよろしくお願いします、お客様♪」
「詳しくはネガイから聞いて下さい。私達の役目はあなたをオーダー校に送り届ける。それだけですから」
それ以外はミトリもサイナも教えてくれなかった。どうやら入院している間に想像を絶する歯車が回っていたみたいだ――――でも、それすら今はどうでもいい。
今は何よりもネガイに会って、眠らせて欲しい。
「それとですけど‥‥。ようやく会えてからって、‥‥その‥‥そういう関係になってはダメです‥‥。救護棟は、そういう所では無いので‥‥」
「なんだそれ?」
ミトリはそれで黙ってしまった。下を向いて何も言わなくなった。
「サイナ」
「は、はい!なんでしょうか!私はそういうの取り扱いしてませんよ!」
やはりそこで止まってしまった。まだ言い切れていない事があるのは間違いないとしても、体に関わる事なら教えて貰わねば困る―――サイナは何かを俺に売ろうとしたのか?でも無いって―――ああ、茶番の。
「じゃ、最初は無くていい。後で届けてくれ。もう寝てるかもだけど」
会ったら何を話すべきか?出た時に行く場所か?バイクか?それとも茶葉についてか?ネガイはコーヒーも好きなのだから、話が盛り上がるだろう。
それと今日こそ眠らせて貰う―――なぜか、ふたりが騒ぎ始めた。
「もしかして、もうそういう‥‥」
「か、隠さないんですね‥‥。その後の部屋になんて‥‥私、茶葉と一緒に届けられるでしょうか‥‥」
「ん?どうした?」
ミトリを見たら一瞬目があったが、顔を真っ赤にして目を背けられた。
なんとなく隣に居づらくなったので助手席に移動して前を見る。そうしたら、校門が見えてきた。ただいつもと様子が違う。
「なんだ、なんでこんなに‥‥」
校門にはorderと書いてあるライオットシールドを持った重武装科と装甲車と思わしきジープなどの車両が車一台分だけ道を開けている。
奥には重武装科の連中を盾にしながら完全武装の甲乙兵の兵装備に身を包んだ制圧科、襲撃科がいる。校舎の屋上には赤いレーザーが見えるから恐らく狙撃科がいるらしい。だが、狙いはモーターホームに向いていない。もっと遠くだ。
それどころか奥の玄関近くに重武装科が守るように屋根だけの仮設テントや救護棟の持っている治療用の殺菌テントらが幾つもある、間違いなく情報科と治療科だ。こんなに表立って出る奴らじゃない、しかも観測ドローンまで何台も飛んでいる。
恐らく校内には装備科や調達科がごまんと弾薬を用意しているのだろう。
それどころかテントの一つに。
「教導‥‥。なんで、こんなのに‥‥」
どこかと戦争でもする気か?いや完全なる拠点防衛だ。重武装が攻撃を一手に引き受けて相手を疲弊させ、後ろの2科が疲弊した集団を縫うように狙い制圧し武器を奪う。上から狙撃科が敵の車両や指揮官の無力化、そして武器の破壊。
後ろの情報科がドローンや通信兵器を使い敵の通信を傍受、総数や銃火器の規模の把握。そして負傷者を治療科が守り、更に重武装科が守る。それら全てを教導の教員が指示をする。
ただでさえ広い校門の庭を全て使い所狭しと戦闘専門や補助の科が総力を以ってオーダー校を守っていた。
「一年だけじゃなくて二年の先輩方、そして三年の先輩もいますよ。怖いもの無しです」
「もう少し早く知っていれば稼ぎ時でしたのに‥‥。まぁ、いい感じに私を売り込めたので良しとしましょう♪」
壮観だった‥‥。日本オーダー校はその気になれば日本全体を占領出来る程の武装を蓄えていると言われ俺自身自覚していたが。これをよく時の政権は認可したと改めて想像した―――いやここまで規模が大きくなるとは思っていなかったのだろう。
「はい。黒いモーターホームです。通して下さい」
サイナがどこかへまた連絡した時シールドを持った重武装科が道を開けてどこへ行けばいいか誘導灯で指示してくる。
モーターホームはそれに従い。前庭の駐車場に他の改造装甲車と同じように止まる。
「さぁ、降りて下さい♪行く場所は」
「わかってる。世話になった」
「またのご利用をお待ちしていま~す♪それとこれを」
車から降りる時に、サイナからヘッドスコープを渡される。ヘッドスコープと言いつつ見た目は青い近未来なレンズが一枚に繋がったサングラスかVRヘッドセット。受け取り次第頭から被り、首にかける。
これは100万貸したシズクからの貸し出し品だった。
俺とミトリは降りたがサイナは車内でまた連絡をしている。もう少し話したかったが、これで良い。今度また仕事を頼むと決めた。
「よう、主役殿!」
降りたら整備科の同級生が重武装科の装備を着て近づいてきた。
「転科したのか?」
「最前線での整備だ、最低でもこれぐらいいる」
「じゃあ私はこれで。また後で!」
ミトリは降りた瞬間近づいてきた治療科の生徒に連れられて治療科テントに走っていく。ミトリにも今度会ったら礼の10や20をしなければな。そうしなければ、俺の気が済まない。
「ていうか主役ってなんだ?それにこれはなんだよ‥‥」
改めて中から見ると異常と言ってもいい程に、校内の武装を全てひっくり返したようだった。大隊規模なんかじゃない師団規模だ。
一歩、前庭に足を踏み込んだ瞬間、周りから「お前か!ありがとよ!」「いい演習が出来てるよ」「これ以上の経験は無いな」「オーダーの宣言をこんな規模で出来るなんてな」「ようやく、これの出番が出て来た、ありがとう!」
などの礼なのかなんなのかわからない声をかけてくる。混乱して何がなんだかわかっていない時に。
「そこまでにしておいて。彼にはまだやることがあるから」
「‥‥お疲れ様です」
群衆を止めてくれた背の高い女生徒に頭を下げる。
「‥‥とりあえずは完治したみたいのね」
先輩だった。あの動きや病院からの脱出時の方法もこの人から習った。
「先輩、これは」
「私からは言えない。君の恋人から聞いて」
俺の質問をする隙すら作らずに情報科テントに戻っていった。周りの連中もそれに習いそれぞれ散って行った。
「俺からも言えねぇぞ。そういう契約で今回のに参加したからよ」
「そうか‥‥。世話になる」
「いいって!どいつもこいつも単位とか自分の為に参加してるんだ。俺ら一年は先輩達の動きを生で見て勉強してるだけだよ」
今もそこかしこから多くの生徒の声が聞こえる。そんな中を一緒に校内に向かっていく、校内からが救護棟に1番近い。
「いいですか?今迫っているのはセンチュリーが5台です。持っている武装も先ほど教えた通りです。確実に狙って破壊するように。上から狙撃科が車両のタイヤや運転席を狙って無力化します。あなた達のやる事はただただ人への襲撃と制圧それだけです」
「このシールドならあの豆鉄砲は簡単に弾くし受け止める。前面からの攻撃を全て引き受けて後ろには一切通らせるな!お前達が前にいれば誰も傷つかない!治療科のテントに傷でもつけたら一生の恥だと思え!」
「‥‥迫ってるのは変わらないか、正確だな?ならそれを教導に送れ。教導から他の科に全て連絡がいく。もしこれで間違ってたらその時点で前面の重武装科や襲撃、制圧全てが混乱する。混乱はそのまま伝播し、この連合の連携が瓦解する。もう一度聞く、本当に間違いないな?」
「はい急いで!これから怪我人が秒単位で増えて行く!今の時間は休憩では無くどんな負傷者が来るか判断して準備をする時間です!」
「はぁっはあはあはぁぁぁ!酒だ!酒持って来い!あのワンコロ供の死に様を見て晩酌とは粋じゃねーか!」
「もう一度車両止めのスパイク設置を再確認を。訓練通り二重三重四重にした?あれを超えられるのはタイヤが鋼で出来ているものだけだからそれ用にワイヤーでクレイモアを。ん?大丈夫大丈夫、死なない死なない。あれは対人だから車の前面が吹き飛ぶだけ」
それぞれの科や学科の教員が生徒達に指示をしている。まるで学校を上げての防衛戦だった―――あのスーツには勿体無い。
ただ中には危険な奴らがいる。やはり教導だ。まともなのは表面だけだった。
「すごいな、でもただで出来ないだろう。出資者誰だ?」
単位の為ならそれぞれの生徒達は動くだろうが、それでも装備や弾薬にガソリン、それに教導連中の時間。少なくともこれだけで数百万はかかる。それを装備科、整備科、調達科がただで出すとは思えない。確実に身入りがあるから動いているに違いない。
「言えないな。それも契約だ。知りたきゃネガイさんから聞け、もしくは明後日頃なら情報解禁だ。じゃあ俺も戻るわ、またな」
校内に入った所でまた前線に戻って行った。
「あいつも大変だな。整備科として装甲車の準備をしてその後に重武装科か。頭が下がるな‥‥下げないけど」
校内を通り抜けながら、対人用であってはならない巨大な万年筆を超える弾丸を発射できるスナイパーライフルを抱えた生徒達を横目に校庭に出る。
「いいのか?あれ見た目通りなら車の装甲程度、余裕で貫通するぞ」
「あははは、いいんじゃないかな?あれ以外にも、ほらH&KのMP7を下げている女子もいるし。校内なら誰も気にしないよ。やぁ、来たね」
リハビリに付き合ってくれた襲撃科の優等生がタブレット片手で手を振っている。校庭にも大量のテントがあり、治療科のテントもあるが、こちらは弾薬や銃火器、それどころか先の三つの科が在庫一掃セールをやっていた。
商人たちは、笑いが止まらないと言わんばかりだった。
「お前は前面じゃないのか?」
「見ての通りだよ。数字ができるからね、ここで出ていく物資やこれからくる物資の確認をして、通信がきたら輸送科にお願いして校内や校門への移動だよ。僕も前に行きたいのに」
少しだけ残念そうにタブレットをいじっていた。だが、その姿には違和感など感じさせない、中間管理職としての風体を既に纏っていた。
今も続々と工房や工場から届く何かしらの木箱や段ボール、タブレットで指示してそれぞれの場所に送り出している。
「あんだけあるんだ。教導棟からも持ってきても誰も気付かないかもな」
と、冗談混じりに聞いてみた。教導棟と言ってはいるが、これも都市伝説に近い。教導の連中はいつも校内の職員室にいるが、大多数の教員には個人部屋が校内に用意されているから教導棟なんか無い—―――だが校内に用意されていない備品や足りない銃火器を奴らはどこからともなく持って授業で使っている。だから秘密の武器庫があるのでは?と噂されていた。
「あはは‥‥。まさか‥‥、そんなの都市伝説だよ。そんな話‥‥」
「まぁ、そうだろうな。もしあったとしても奴らがここに持ってくるのを許す訳無いか」
「そうだよ。それより、早く行ってあげて。待ってるよ。何か持っていく?嗜好品も少しだけあるよ」
「とか言いつつ教える気はないんだろう?」
「うん、ごめんね」
即答された――――あの整備科といい、身内以外と今も何かしらの準備や通信をしている生徒とは事情が違うようだ。突き詰めると俺とネガイが一緒にいるのを知っている連中とそれ以外と言ってもいい。
「もしかしてお前達って法務科から?後、周りの奴らはオーダー校から?」
「う~ん、僕からは何も言えないんだ。ただ、まぁいずれわかるよ」
困った顔を隠すようにタブレットや今も届く物質の確認を輸送科連中と話している。どうしても言わない気らしい。
「そうか‥‥。世話になってるみたいだし、また世話になるみたいだな。前面に行けるように祈ってるぞ」
「ありがとう、でも結局みんな自分の為だからね。またね」
ただでさえ忙しいのにこれ以上話をして邪魔はしていけないと三科のテントから離れ、治療科のテント群の中を歩いていく。
ここでも教員が生徒達に指導をしている。その警備なのか重武装科、情報科手伝いとして通信機器の操作を探索科も。一部のテントには捜査科と教員が何かしらの会議をしてそれを他の科に連絡をしているらしい。
「もしかしたら、道すがら見てたのか‥‥」
サイナの運転で一気に来たから周りを確認する暇が無かったが、病院から行政区、そしてこの学校までの道中で探索科や捜査科が俺達の道行きを見ていたのかもしれない。
「聞こえてる?そっちを確認したよー」
抑揚の無い声が首元から聞こえてくる。ヘッドセットを頭に付けずに首のままで返事をする。
「聞こえてるぞ、なら契約通りに」
「OKー、もう準備は整ってるから。今度はそっちから連絡して、やり方わかるよね?」
「ああ、大丈夫。これだろう?」
ヘッドセットを目と頭につけてをレンズを隠していた外殻を両手でスライドさせて左右に開く。
さっきまで何も見えなかったレンズから、あらゆる情報が流れてくる。時間や気温、場所は勿論で俺の心拍や見えている人間の推定年齢に性別、武器の名前。そして右上に赤みがかった茶髪の女生徒が見える。
「そっちも見えてるか?」
右手で外部のボタンを操作して治療科の生徒を避けてテント群から抜けていく。視界に誤差や誤情報はなかった。
「うん、うん、問題無し。しっかり確認出来てる。それ、前よりも改善して、オフラインでも問題なく作動するから」
前に試作品を使った時にも特に問題は無かったが、オフラインになってしまった時に視界から一部の情報が消えたのがどうしても納得出来なかったようだ。
「じゃあ何かあったら頼むぞ」
「うん、何かあったら連絡するから安心して、常に心拍も確認してるから」
それだけ言って通信を切ってヘッドセットを首に戻す。どうやってか知らないが、この機器には呼吸や首元の脈で健康状態を常に確認出来るらしい。
「行くか‥‥」
もう校庭も終わり今は救護棟が見えてきた。校庭の喧騒から離れて各棟に繋がる道を歩いているが誰もいない。ここだけ空間を切り取られた、そんな見た目だった。
あの夜を思い出す。
「‥‥」
肌にひびを入れるような空気。普段は冷たい雰囲気を持った街灯だけが暖かみを森や道を照らし―――――救護棟に繋がるほとんど森と呼んでいい道を一人で歩く。
あの夜だけじゃない、この感情は‥‥救護棟の夜と同じだ。
心臓と両目の血管が飛び跳ねる。中から血が噴き出しそうだった――――二人に殺された時の感覚一歩手前。
「戻ってきましたね」
木々から声がする、涼やかだ。だが暖かみも感じる、本当に帰還を喜んでいる。
「ああ、戻ってきた。ネガイと、お前に会う為に‥‥マトイ」
「嬉しい、私も待っていました」
木々の間から姿を見せたマトイはあの布を纏っている。だが、その姿は。
「シスター‥‥」
「ふふ、まさか。私のような存在など、創造主はお認めにならないでしょう」
その姿は一見すれば黒いヴェールを被ったシスターだが、どちらかと言われれば。
「ドルイド、私は女性なのでドルイダスと呼ばれますね。世が世なら祭司という立ち位置になっていたのかも‥‥」
マトイが笑顔で首を少し傾ける。それで被っているヴェールが微かに揺れる。目を奪われる、形を持った魔性だった。
「お気に召しましたか?」
あの夜を繰り返してしまう。またマトイに魅入られた、頭が重い、目が熱い、心臓が苦しい、何も考えられない。
「これを見せるのは男性ではあなたが初めてです‥‥」
マトイが一歩一歩近づいてくる―――呆然と眺めてしまう、マトイに抱き締められて、胸の中にしなだれてくる。
「この香りもあなたの好み。この目も、よく見て、よく聞いて、この声も好きなのでしょう?」
「‥‥ああ、好きだ」
「良かった」
しなだれていた顔を上へ向け目を合わせてくる。それだけでマトイの香りが強く届く―――たったそれだけの仕草に、呼吸すら忘れてしまう。取り込まれた。
「実は私はあなたを引き渡す命令を受けています」
その声に頭だけが、現実に戻される。
「病院でも、職員達があなたを捕まえようとした。違う?」
「した‥‥」
目が回る、周りの森が取り囲むように迫ってくる。あまりに異常光景、足元すら見えなくなっていくというのに、マトイの姿だけはしっかりと見れる―――マトイしか見えない。
「この騒動はあなたを起点としています。でも中心は違う」
「ネガイとマトイか‥‥」
「そう‥‥、あなたを殺した私とネガイ」
「‥‥お前達は、何を‥‥」
「あなたが私達の想像通りに動かなかったから、こうなった。あなたがそのまま眠り続けていれば、こうはならなかった。だからあのオーダー本部が動いてしまった。そして今、ここを目指しいる方々も‥‥」
俺は‥‥一度死んだ。そのまま死んでいれば違う何かしらの行動をオーダー本部が行なっていたかもしれない。だが俺は戻ってきてしまった――――であれば、法務科どころかオーダー本部はまず動かない。今もこうして動いている。
それどころか今のオーダーの思惑がどこを見ているのかわからない。
「矛盾していませんか?病院ではあなたの確保、そしてここでは帰ってくるあなたの保護と防衛」
もし何かしらの取引をあのスーツ男の飼い主としたのならオーダーは俺を売り渡すかもしれない――――それが俺の運命を決めることになろうと。
だがむしろそれがオーダーの目的になりうる、俺が残酷な結果になればなる程、俺を手にかけた奴を言い逃れ出来ないように追い詰めて、最後の決め手として俺だった何かを法廷に提出するだろう。
「オーダー本部と法務科はある計画をしたの。だからあの男達は来た」
マトイの手に掴まれた。
「よく聞いて、でないと。また血を吐かせますよ?」
倒れそうになった時、マトイはあの時と同じように内臓を掴んできた。
「法務科はあなたをあの男達に引き渡して男達の飼い主を引き摺りだしたかった。そしてオーダー本部もそれを是とした」
「なんで、俺‥‥なんだ‥‥」
俺は―――本当ならただの生徒でしかない。
だから生贄に捧げるには都合がいいが、しかしそれはオーダー本部にとってに過ぎない。あの男達からすればどうでもいい存在の筈だ。
なぜ俺が選ばれた?
「ネガイさんが、どんな血筋か知ってる?」
急にマトイが会話を変えてきた。だが―――ある点が思い当たった。
ネガイは自分の血の所為でここから出れないと言っていた。その理由は、
「‥‥処刑人‥‥」
ネガイの家系は古くからこの国や一部の人間を守る一族だったと聞いた。守るなんて言っているが、それは昔の話。
最後にやっていた事はただの口封じ。そう言ってネガイは苦しそうに笑っていた。
「彼女はその中の最後の生き残り。過去の権力者が都合が良いように使い潰した存在。オーダー本部はそんな人間を野放しに出来ないからここに捉えている、ここまではいいですか?」
内臓を掴む力を強めてきた。
「オーダーにとってネガイさんが殺人を犯したとあって嬉しかった。ようやく合法的にあの生き残りを始末出来ると」
オーダーの殺人はオーダー内部であっても重罪だ。事故でない限り死刑は免れない。
オーダーはそこで俺に証言をして欲しかった。ネガイに殺されたと、だからあの男は警戒を解くためにオーダーと偽ったが、寧ろそれで警戒してしまった―――証言を拒否した。
元々は、ネガイを警察であるあの男達に引き渡し、ネガイはその飼い主の命令で俺を殺したと疑いをかけて、飼い主共々ネガイを罰する。
ネガイを死刑に出来なくとも、これで死ぬまで牢屋に入れる事も出来ただろう。
「ネガイさんは知っての通り、処刑人の血筋です。飼い主はそんなネガイさんが欲しくてたまらない。手に入れればそれだけで古くからの人間達の支持を取れます。それとも都合がいい時に殺しの命令が出来ると思っているのでしょうか?—――彼女の血を混ぜたいんですかね?ただ交わりたいだけ?」
「だったら‥‥、だったらなんで俺を殺した‥‥!」
この挑発に乗り―――心臓を一拍で自分の手に取り戻す。
「元々俺を殺さなければ、お前が個人で暴走しただけで済んだ筈だろう!?お前達なら――――こんな事になるのも予想出来た筈だろう‥‥」
マトイから離れてようやく身体中に血を流せた―――腰からP&Mを右手で、その上に肘を曲げた左手で杭を抜いてマトイに向ける、動けば撃ち、近づけば刺す。
だというのに、当のマトイは自分の術が自力で解かれて驚いているようだった。
「答えろ!お前達は何故俺を殺した!?俺の目の為か?それともマトイ!自分の暴走が他所にバレるのを嫌がったからか!」
もう止まらない。俺は俺を殺した奴に聞かなければならない――――だって。あんなにも怖くて怖くて仕方なかった。
「法務科ならお前の力を知っている奴がいるだろう!?俺の口からそれが漏れるのを避けたかったから、俺をネガイと一緒に殺したのか!!ならお前はどこまでも自分の事しか考えてない!あの男達と一緒だ!!」
「違う!あんな人間達と一緒にしないで!」
遠くから銃声が聞こえる。弾丸を弾く甲高い装甲の音も――――始まったんだ。
あのカエルとオーダー校の争いが。
「私は!確かに最初は自分の為にあなたの目を求めた‥‥。だけど、私はあなたの為に‥‥」
ローブを握りしめて否定してくるが―――演技に見えてしまう。
「ならなんで俺を‥‥殺した‥‥。あんな、あんなやり方で‥‥、俺は‥‥」
視界の中の杭と拳銃、黒のローブが歪み始める―――だけど、涙を拭けなかった。拭けばマトイがあの刃を向けてくる。そう確信してしまい、ただただ恐ろしかった。
「俺は、俺は‥‥。大切だった‥‥マトイもネガイも‥‥!二人とも‥‥」
嗚咽と涙が止まらない。
マトイは、こんな酷い姿を何も言わないで見続けている。
彼女が今考えている事の片鱗すら掴めない―――震えて、何も想像できない。銃や刃物を向けているだけで、怯えて耐える事しか出来なかった。
「怖かった‥‥苦しかったんだ‥‥。お前もネガイも、俺を物みたいに‥‥壊した—――」
「ごめんなさい‥‥」
ヴェールで顔を隠しながら謝ってくる。けれど、それさえ罪悪感を使って隙を伺っているように見えてしまう。月にすら照らされないヴェール下の顔が、今もほくそ笑んでいるのではないか。そんな感情に心が塗り潰されていく。
もう感情を止められない―――止められなかった――――
「目が、見えなかったからって‥‥、何をしても良いって思ったのか?‥‥俺は死んだ‥‥、今も覚えてる!殺された時を!お前を!」
「‥‥」
「お前は俺を潰した!血を!‥‥血を‥‥。寒かったんだ‥‥どんどん寒くなっていった‥‥。でもお前達は、止めなかった‥‥」
血でも吐きそうだった。自分の中にある全てを全てマトイにぶちまける。血も汚物も、汚れた言葉も全て。頭の上から顔に至るまで、卑怯で臆病な汚濁を被り続ける。
「俺はお前なら、信じられるって‥‥。きっと、また好きになれるって‥‥思ってた‥‥。悪いのは俺一人か‥‥そう思っていたのは俺だけか‥‥」
「‥‥泣かないで‥‥」
武器を向けているにも関わらず、歩み寄ってくる。
「動くな!殺すぞ!」
足を止めた。
拒絶されたのがそんなにも苦しかったのか。照らし出されたマトイの顔は、今の俺と鏡移しようだった。あの端正な顔立ちからは想像も出来ない、目元を真っ赤に腫らした幼い少女の物だった――――だけど、それすら演技に見えてしまう。
「‥‥やめて、下さい‥‥」
「お前はやめろって言えるのか!俺に言えるのか!殺すなって‥‥言えるのかよ!」
手が震える。引き金を抑えている人差し指の力がガタガタとズレていく。震える腕を杭を持った左腕で安定させる。絶対に外さない、確実に仕留める為に。
「お前は止めたか!俺が何度言えば止めたのか!?答えろ!」
「もう‥‥やめて‥‥」
「‥‥楽しそうに言ってたな‥‥。俺に眠れって‥‥俺を殺すのはそんなに楽しかったのか――――もう一度殺すのかよ!?また笑うのか!!」
「もう、私は‥‥」
「近づくな!」
再度近づこうとしてくるマトイの足元に.40S&W弾を放つ。地面に跳弾しマトイの後ろ、はるか遠くに飛んでいく。
「もうやめろてくれ‥‥。もう、お前を嫌いに、なりたくない‥‥。もう、俺を殺さないで‥‥」
ドルイダスの少女は、そこで膝をついてしまった。ドルイドの服のまま、汚れるのも気にしないで。汚れとは無縁とも言っていい程、清らかなマトイが地上に塗れていた。
話しかけられなかった。顔を見上げる事も出来なかった。
武器を全て元の位置に戻して、遠くから聞こえる銃声を背後に救護棟に向かう。
「—―――」
俺を引き渡すと言っていた法務科の真横を通っても、何も言わなかった―――どうでも良かった。俺もマトイの顔を見れない。見たくなかった。何も口から溢れない、心が空っぽになった。それでもまだ、残っているものがある。
「‥‥ネガイ‥‥」
早く会いたい。もう一度、ネガイに会いたい。会って一緒にいたい。それ以外何も考えられない――――だが、迎えに行くまでもなかった。
ネガイは確かにそこにいた。救護棟の実験室から出て、森の中に立っている。けれど目のすぐ下の側面に薄らと傷があり、血が流れていた。
「‥‥その傷‥‥」
「さっきあなたが撃った弾です‥‥」
「‥‥悪い。あと茶葉、買えなかった‥‥」
「いいえ、気にしないで下さい。まだコーヒーがありますから‥‥」
白い顔から流れ出る鮮やかな血を、ネガイは一切止めていない、拭ってもいなかった。滴り落ちている血が、着ているYシャツの襟を赤に染めているというのに。
「帰ろう‥‥あの部屋に‥‥」
また涙が零れてしまった。
ネガイに会えた事で、もうさっきまで全て吐き出して空っぽになった心に、また熱い血が流れ込んできた――――やっと会えた。無事だった。目の下には黒い模様があるが、それもきっとすぐに取れる。
僅かに取り戻せた顔の筋肉を歪ませて、歩み寄りながら見つめ合う。
「会いたかった‥‥」
「‥‥私もです。ずっと会いたかった‥‥」
だというのに、顔を向けてくれなくなった。そのまま涙を溢し始める。
「ごめんなさい‥‥、あなたの顔を見れない‥‥」
それ以上、何も言ってくれなかった。
ただただ泣き続けているだけになったネガイに、困惑したまま声をかけ続けるしかなかった。いくら顔を向けても、前髪で目を隠したまま視線すら合わせてくれない。
「なんで‥‥。俺は、お前に‥‥」
何故だ。ネガイの涙を止める為に来たのに、なんでネガイを泣かしているんだ。
マトイは無言のままで動かない。ネガイは下を向いたまま何も言わなくなった。
――――俺は、何をしにここまで来た。俺は二人を傷つける為にきたのか?二人に会いたくて来たんじゃなかったのか?
何故、ふたりとも笑ってくれない?何故、俺すらも泣き続けている?
「私、心のどこかで‥‥思っていたんです。電話の時の前から‥‥きっとあなたなら許してくれるって‥‥、もう気にしてないって言ってくれるって思っていたんです‥‥」
「やめてくれ‥‥。俺は、もう‥‥」
「‥‥嘘、言わないで下さい‥‥。あなたには、まだ残っている筈です‥‥。あなたは、まだ覚えている‥‥」
ネガイからの言葉が気管に突き刺さり、切り裂かれた。言葉を吐き出そうにも血の味がする息ばかりが溢れ出し、息すらままならなくなる。
さっきまでマトイに何を言った―――まだ覚えてるって、《言っただろう》。
頭が揺れ始める。さっき叫んだ所為だ、酸素が足りない。
「‥‥私、本当に嬉しかったんです。あなたから電話がきて、また会ってくれるって‥‥言ってくれて‥‥」
「俺は、本気で‥‥、」
後ろから銃声が止んだ。
恐らくオーダー校がカエルを撃退したのだろう。遠くから歓声が聞こえる。
「多分、そうなんだと思います―――でも、許してなかった。当然です‥‥誰だって許せる訳ない。私もマトイも‥‥きっとまた一緒に手を求めてくれるって‥‥言っていたんです‥‥。きっと、また眠らせてくれって言ってくるって‥‥」
「‥‥俺は、またお前達の手で‥‥」
「聞こえてる!?あの男達は完全に無力化したけど、条約違反を起こして一台緊急搬送用の道を使って、救護棟に向かってる!そこに来るから気をつけて!」
「‥‥」
「返事して!そこにネガイさんもマトイさんもいるんでしょう!?」
聞こえてくる声で、二人を連れて動かなければと思ったが、身体が言う事を聞かない。それどころか動こうと思う気すら起きない。
「時間です」
後ろからマトイの声がする。振り向いた時、そこには
「引き渡すのか‥‥俺も、ネガイも‥‥」
「さっき言った通りです。私は法務科として任務を全うします。邪魔と抵抗をするなら、あなたをまた殺します」
先程と何も変わらない姿形、だが纏う雰囲気が完全に変わった。冷たくて機械的で――――屋上でベビーイーグルを突きつけた時とは、まるで違う。
一線を画す目をしていた。
「‥‥そうか‥‥」
「いけない!使っては!」
何をしようとしているのかわかったのか、後ろから抱きしめて必死に止めてくる。
「俺が狂えば取り調べは出来ない。そうだろう?それとも死んだ方がいいか?」
首だけで振り返って言ったら、ネガイが首を振って一歩一歩下がっていった―――もう俺は俺ではないと目に映っているのだろう。
—―――そんな顔をさせたくなかった。
両目に血を通す。揺れていた視界が安定、別次元の視点となる。視界が増えて、自分を上から見下ろしている—――――あの方から貰った心臓のお陰か、目も大人しく従っている。今なら誰にもネガイを渡さない、マトイを殺せる。
「なら狂っていようが、無理矢理にでも吐かせます。法務科には」
「御託はいい、お前は殺す‥‥」
目と心臓が求めてくる――――早くあの女の血を浴びさせろと。この俺に命令してくる。問われるまでもない俺もマトイを殺すと決めた――――ああ、そう言う事なのだろう。大人しくしているのは目的が合致したからだ。
そう、頭のどこかで考えていた。
「出来ますか?あなたに」
マトイの背中から、あの帯のような物が6本。その先端にはあのクラウディスよりも分厚くて、人間を容易に一息で両断できる刃が付いていた。
人間の腕では到底太刀打ち出来ない死の顕現が、視界の内に立っていた。
「—―――復讐だ。それがあれば俺はお前を殺せる」
それなのに俺はいたって冷静でいられた。それどころか足や腕なら刺されても構わない、今すぐマトイの血を見たいと思ってしまっていた。
もう戻れない、俺はマトイをバラしたい。マトイが俺をそうしたように。
「そう、さようなら」
数にして6本の刃物が同時に迫ってきた。
一直線の単調な殺人ではない―――――6本がそれぞれ身体を囲む様に、迫りくる。六つ首の持つ人外が、それぞれが全て必殺の牙を用いて迫りくる。
一本は頭上から喉を狙い。
二本はそれぞれ肺と心臓を両断するつもりで左右から。
一本は心臓を抉る右下からのカーブで。
一本は内腿、動脈を狙って下から突き上げる様に。
一本は足を地面から逃さない為に両足の膝から下を切り落とそうと。
どれかを受けても死ぬ。
一本でもかすったら瀕死となる。後は俺が死ぬまで何度も刺せばいい。
―――ああ、だから、なんだというのだろうか。何も、変わらないではないか。
「遅いぞ―――」
それぞれが迫ってくるまでの数瞬で、腰から杭を取り出しマトイに右腕で投げつける。それを見た時—―――マトイの帯が、総じて弛んだ。
見た通り、あの帯はマトイの腕に等しい。
ネガイを掴み持ち上げた事からも、あの帯はマトイの意思によって操作され、それは常にマトイの制御下にある。もしあれが遠心力や慣性の力を使ったものなら一度放ってしまえば、防がれはしてもマトイ自身の力でも止められない。
見た目通りなら―――――あれは止められる重さをしていないというのに。
「刃‥‥」
俺なら銃で撃つと思っていたのか、まさか杭をそのまま投げるとは予想外だったマトイは、杭を防ぐ為に一歩、後ろに仰け反った。
その結果、6本の帯が須らく弛んだ。
――――それを見逃せない、勝手に身体が動いてしまうではないか。
迫ってくる下二本に向けて、一歩前に出て片足で飛ぶ――――ほぼ真横に翻した身体で回転、杭を投げた右腕は頭より上。回転しながらマトイの腕を飛び越える。
それにより喉を狙っていた上からの一撃と真横からの両断、そして足を切り落としも避ける―――回転しながら抜いた脇差しで、心臓を狙った一撃をいなす。
火花が散る世界の中、マトイとネガイの顔が交互に見える。
着地の瞬間一本足で地面を捉え、回転していた頭側に体重を移動させ、態勢をしゃがみながら整える。
「—――っ!?」
マトイと目が合った、真後ろから金属の爆発音が聞こえる。
今も身体の中心へ向けて飛んでいる杭を、マトイは紙一重で避けている――――更に足をバネにして飛び込む。
避けられた明後日の方向に飛んでいる杭には、サイナから渡された制服の腕に装着してあった細いワイヤーがつけれられている。今も真っ直ぐに杭の底に付いているワイヤーを右手で掴み、一息でマトイめがけて薙ぎ払う。
ワイヤーが見えていたのか、それともその機能があると推測出来たのか。マトイは今度もそれを避けようとしたが、ヴェールに当たり頭から杭が奪っていく。
完全にそこで態勢が崩れた。
「シネ」
自分の声とは思えない、何者かの声だった。
ワイヤーを外し、振った杭はネガイの足元に飛んでいく。今も握っている脇差しと左側のバックルの側面から――――手のひらサイズのナイフを取り出し、マトイに下からX字で斬りかかる。
「‥‥っ!」
ネガイの声が聞こえる。だけど今はその振動が耳に届かない。
「‥‥!!!」
これはネガイの縮地とは違う不回避の三撃—―――燕返し。
マトイのローブに脇差しは防がれたが、ナイフは防げなかった。
これも見たのだからわかる。
あのローブもマトイの力だとわかっていた――――あの腕がどれほどのコストを抱えているか知らないが、攻撃しながら防御は限界があるのも知っていた。
よって両手の刃物をX字にしたのはどちらかは防がれるだろうが、どちらかは真っ直ぐな糸に沿って身体を傷付けられるとわかったからだ。
斬りつけた右足の腿と付け根、そして腹部までが―――一拍遅れながら、闇夜を切り裂く鮮血が後を追い、吹き上がる。
傷を負いながらも追撃を避けて転がりながら距離を取るが、マトイの背中の腕はその時点で霧散した。
最後の抵抗として背中から帯を出して踏み止まる。
下腹部を抑えて切り裂かれたローブを元に戻していくが、足から血が滴っている。
切断するつもりで深く斬ったというのに、マトイは片膝立ちでこちらを睨みつけ、刃は生み出せずに黒の帯を編みだすだけとなっていた。
まじまじとマトイの姿を見てしまう。いつも余裕があり、強気な彼女が――――血を流して弱っている。
「あぁ‥‥」
マトイを切り裂いたナイフを見て――――目と心臓が高鳴った。
「—―――そこまで‥‥堕ちましたか‥‥」
「もう、やめて‥‥」
気付けばナイフを舐めていた―――マトイの綺麗で熱い血を飲んでいた。
「いいぞ。‥‥だけど、足りない‥‥」
止めようという気になれなかった。自分がやっていることに気付いたというのに、舌が止まらない―――まだマトイの血が欲しい。浴びるほどに。
「もっとだ、マトイ。もっと血を――――!!!!!!」
獣の咆哮。何者かの声などではない、この体の声だった。
両手を広げ、森中に響く雄叫びを上げる。自分でもわかるほどに血生臭い息が喉を震わせる。肌の表面を血管が蠢いている、血が這いずり回っている。
今俺はどんな姿をしているのか?ネガイとマトイから送られてくる視線でわかってしまった――――俺はもう人じゃない。
ああ、ようやく人である事を捨てられる―――当然だ、この体に三匹の何かを飼っている。人間以外の声が出てもおかしくない。
表面すら人間などではないのだから。
「もう戻って来れませんね‥‥ネガイ‥‥」
「できません!決めた筈です!!もう彼を傷付けない‥‥」
まだ何か言っている。
だけど、どうでもいい――――早く早くマトイを切り刻んで、呑み込みたい。
「ここで彼を止める。でないと彼は、」
「なんで‥‥、なんで‥‥」
「待ってろ‥‥」
ネガイとマトイから視線を受けたのを感じた。
マトイからネガイに視線を移すと、ネガイはどこか期待を持った顔で祈る様に手を胸に揃えた―――美しい。その祈りに、どう報いればいいか、想像するだけで――
「すぐ、お前も殺す‥‥マトイの後はネガイだ」
マトイだけの血じゃ足りない、マトイの血と一緒にネガイの血も飲みたい。
『黒髪の女』はもう虫の息だ、ならば狩るのも楽だ。だからすぐ『灰色の女』にも移りたいが―――あの帯は邪魔だ。やはり先にマトイを仕留めなければならない。
そう思った時だった、後ろの森から声が聞こえた。
振り返ると、あのカエルがいた。
「あ、ああぁぁ‥‥ば、ばけもの‥‥」
この姿を見てそう言った。
自分では未だに人の姿のつもりだが、他人から見るとそうらしい。それともこの人間は唯一心の話をしているのか?全ては心の幕を通して見ているから、好き嫌いが生まれるとの話だったであろうか――――確かに、この血はいらない。だが、
「俺は今、ネガイとマトイ以外見たくないんだ。お前は視界の邪魔だ。シネ」
脇差しとナイフをしまう。この刃物は一度マトイの斬ったのだ、今はマトイとネガイ以外の血を吸わせたくない。
だから腰からM&Pを抜く。本当ならコイツの為に使うにも勿体無い――――折角サイナが用意してくれたのだ。相手を選びたい。
ああ、後でサイナの血も飲みたい。あいつの血も飲み心地が良さそうだ。
銃を抜いた姿を見てカエルは腰が抜ける、だが少しは気骨があったのかカエルもH&KP2000を抜く―――けれど、使い慣れないのは変わらないようで、やはりセーフティーを外せていない。
「く、来るな!撃つぞ!」
「近づかなくても殺せるのが銃だ。お前、銃が何か知らないのか?」
カエルへ引き金を引く。
防弾スーツ越しの腹だが、思いの外痛かったのか、それとも撃たれてことがないのか腹を抱えて悶絶している。良い姿だ、このまま銃弾で撲殺するのも面白い―――。
「おっ!お前!‥‥!わ、私は!」
更に肺へもう一度放つ。
「キツいだろ?俺も無駄口を叩くなって言われて、喋っている時に拳とか弾丸を肺に喰らったからよ」
もう喋れないのか口をぱくぱくとさせて、こちらに目を向けたまま気絶した。
目障りだ――――気が変わった。バラバラにして捨てるか。
「お前が何者かなんてどうでもいい。俺は今、ネガイとマトイと一緒にいたいんだ。だから‥‥」
――――だから?俺は今、ネガイとマトイと一緒にいたいって言った。
振り返るとマトイは血を流し、片膝のまま帯を身体に巻きつけて止血をしている。
――――俺は‥‥?俺は何をしに来た?ネガイと一緒にずっといたいから帰ってきた。マトイとも話し合ってまた眠らせてもらいたいって思って来た。
でも、今マトイは血を流して俺を見つめている。ネガイは下を向いたままスカートを握りしめている。
それだけではなかった。ネガイは腰を折って、足元の杭を拾っていた。
「一体‥‥あなたは何に‥‥。何に会ったんですか!?」
ネガイが杭を投げてきた。
だが、力の入れ過ぎで真っ直ぐには飛ばず、すぐ近くの木に突き刺さる
「外れだ。それじゃあ俺は殺せない」
腰に銃を戻しながら飛んできた杭を握る。カエルを見ると、本当の死んだカエルのように腹を上にして未だに気絶している。死んだふりか?やはりどうでもいい。
邪魔者はいなくなった。後は二人を殺せれば、それでいい――――。
「こうやって投げるんだよ」
振り向き様に杭を投げ返したら、ネガイは背中からエストックを出し―――金属音が辺りに響いた。
飛んできた杭の切っ先をエストックの切っ先で受け止めて、杭の勢いを完全に奪って地面に落とす。マトイが起こした金属音ではない、楽器の様な美しい響きだった。
「‥‥すごいな」
「答えて下さい‥‥あなたは誰と会った!?」
誰?それは、あの仮面の方の事だろうか?
何故ネガイが誰と会ったかなんて知っているのか、不思議だ。
あれ夢の中だ、もしやネガイもあの人に会った事があるのだろうか。だったらネガイは――――『あの仮面』と聞く筈だ。ネガイの質問の意図がわからない。
「答えてどうする?まぁ、教えてやるよ。仮面をかけた青黒い髪の人だ」
「—―――私の知らない存在です。姿を変えているのかもしれませんが‥‥、それがあなたを狂わせたのですね‥‥」
ネガイが一人で理解して一人で納得している。
彼女の悪い癖だ、いつもそれで俺は置いてけぼりにしていた。
「何言ってるんだ?俺はお前とマトイに復讐するために―――復讐?俺が?—―――なんだ、何を言ってる?」
復讐なんて、ここに来るまで考えても、いやここに来てからも考えていなかった。だってネガイに会った時に、何を話そうかしか考えていなかったのだから。
後はネガイに眠らせて貰えれば、それで良かったのに。
「ふふ、それは違いますよ‥‥。彼を狂わせたのは、紛れもなく私達。あなたもそう言っていた‥‥」
もう膝立ちをする力ないのか、完全に倒れてしまった。その瞬間、辺りのアスファルトに大量の血が流れ込み、凹凸に合わせて血が染み渡っていく。
「‥‥ふふ、これであなたとおあいこですね‥‥。やっと、私も‥‥苦しめる‥‥」
自身の血溜まりに顔をつけて、朗らかに笑いかけてくる。
「マトイ‥‥大丈夫だ。すぐに殺すから、待っててくれ。マトイの為に、殺すから――――殺す?俺がマトイを?なんでだ?」
マトイは見ての通り無力化した。オーダーは殺人は重罪で間違いなく死刑だ。
それよりも俺はマトイを大切に思っていた、筈だった――――そんな俺がマトイを殺す?何故だ?何故、マトイを殺さなければならない?許す為にここに来たのに。
頭と心の当然の摂理に、何かが異見を挟む。間違いなく俺の内からだった。
そして、俺を止める声は俺の内側からだけではない、外からも聞こえてきた。
「あなたは!そんな感情しか、もう無いんですか!?—―――マトイが好きだったんじゃないんですか!?」
「そ、そうだな‥‥好きになってたかもな‥‥。なら俺はマトイの為に楽にしてやるのが良いって‥‥」
まただ、俺は何を言ってる。マトイを大切に思っているなら、今すぐにでもバックルの止血剤で治療するのが1番なのに――――口と身体を乗っ取られている。それどころか頭まで。
「‥‥あなたの目は確かにもう限界でした。だから私とマトイが作り上げた封印を使ってあなたを眠らせた!」
ネガイが肩で息をしながら、そう叫んだ。
「あなたの目に対して有効な手を見つけ出す。何年かかっても、私とマトイでやり遂げる筈だったです‥‥!」
今も血を流しているマトイを見つめている。
マトイから血が流れている、あれは俺がやった、間違いなく俺がやった。なんで俺はマトイを傷つけた?マトイが襲ってきたからだ。
でも、今のネガイの言葉通りならマトイは俺を助ける為に封印とやらをした?
「だからあなたを殺して眠らせた!心理的なショックと大量の出血、それと封印。それで少なくとも二年は眠る筈だった!」
「ネガイ‥‥お前は何を言ってる?」
「全てあなたの為です!何もかも!このオーダーの事態も!今も校門で戦ってる生徒も!マトイも!私も!サイナやミトリだって!全部全部!皆んなあなたの為に私達やあなたに思入れがある人達が用意したんです!」
「ふふ、契約違反ですね‥‥。ネガイ‥‥」
マトイが青い顔をして、そう微笑んだ。
「そこの男は私を連れてどこかで祀りあげる!飼い主をもう一度、上の世界に戻すだけの捨て駒!そしてマトイは今の法務科にとって不祥事になりうる存在、それを世間に暴露するだけのゴシップ狙い!もう飼い主もオーダー本部の鼠も法務科が逮捕状を請求して、今校舎でやってる騒ぎも後数日で終わりです!」
「だったら、なんでコイツは俺を?もう飼い主を捕まるならコイツは俺なんかに構ってないで、さっさと国外にでも逃げれば良かったのに‥‥なのにコイツは俺とネガイ、マトイに拘った。何故だ?」
「‥‥賭けをしていたんですよ。オーダー校と法務科、そしてオーダー本部で―――あなたが無事にオーダー校まで帰って来れたらオーダー校はあなたを守り誰にも渡さない。
その間に法務科とオーダー本部の有志が自力で、私もマトイも捧げないでそこの飼い主を逮捕する。もしあなたが捕まって私達の事を話したら私達は警察に引き渡されて、あなただったものを引き取って証言をさせる。それを元に飼い主を逮捕する」
ネガイがマトイに駆け寄り、起こして呼吸を楽にさせ手を使い始める。
「—――オーダー校は自分の生徒を、しかもそこの飼い主の犯罪を立件出来る尻尾を手に入れたあなたを捨てるのは、オーダー校を任された存在として認可出来ないって言ったんです‥‥。オーダー本部の幾人もが、そして法務科が―――本部の暴走を止めようと立ち上がりました」
幾人もが、きっとそれにはマトイも含まれている。
オーダーは一枚岩じゃない、恐らく法務科にはコイツの飼い主と一緒にオーダー本部そのものを捜査しようとする奴もいる。
オーダー本部も、俺や二人を捨てるのに疑問を持った奴らがいたのだろう。
俺を生贄にしてマトイもネガイも捨てて、飼い主を捕まえるという、オーダーの理念である―――秩序に反する行動をした、裏切り者を捕まえる為に。
「‥‥そうか、コイツは最初に言ってた。私はオーダーの人間だって」
あれは嘘や間違いでも無かった。もしかしたらコイツは飼い主を売る気でもあり、もし立て直したら――――そちらに乗っかる気でもあったのかもしれない。
「マトイはずっとあなたの身を案じていました!言った筈です!マトイからあなたの顔を見に行こうって誘ってきたって!—――わかってます。あなたを殺した‥‥私とマトイで、行こうだなんて‥‥。苦しんで、やめろと言っているあなたを私達は殺したのに‥‥」
一体、今何を見ている?
苦しんで死にかけているマトイと、守ろうとしているネガイだ。
「‥‥まだわからないんですか!?そんなに‥‥そんなに、苦しかったんですよね‥‥、きっと‥‥。マトイ、まだ‥‥」
酷い姿だった。着ているローブは元々黒かったが、それが真っ赤に染まっていく。
ローブでは支えきれなくなった血が、更に滴り落ちていく。
「‥‥遅いかもしれませんが‥‥言っても、良いですか‥‥」
死にたくないなら喋らない方が良い。誰が見てもそう思う姿だ。
そんなマトイ笑顔で聞いてくる。ネガイも止めずに一緒になってこの俺を見つめてくる。
その姿から恐怖は感じない、だが自分の内側から恐怖が生まれてくる。
心臓が止まる。血の気がひいていく、赤く染まっていた視界の隅が青ざめていく。
俺は、この姿を知っている――――。
「「ごめんなさい‥‥。あなたを殺してしまって‥‥」」
マトイはそこで首を下に向けて動かなくなった。
この姿は俺だった―――ミトリに支えられている俺の姿だった。
俺は今、マトイを殺した。やめろと言っていたマトイを殺した。傷付き、苦しんで、血を奪われていくマトイを笑顔でトドメを刺そうとしている。
俺が――――殺した。
「マトイ!!」
無様な走り方だっただろう。けれど、いち早くマトイに駆け寄るには、醜くも飛びつくしかなかった。バックルを腰から外し――――ナイフを取り出す。
ナイフでローブを切り裂き、下着だけの姿とする。
「—―ッ!?そ、それは?」
「止血剤だ‥‥」
急いで傷口に薬を塗りつける。傷は腿と下腹部に腹部、胸の少し下まで斜めに入っていた。動脈にこそ届いていないが、傷の長さで致命傷と言える物に届いている。
全て使い切るつもりで、マトイの肌に使う。
傷は血で溢れていたが、薬でようやく止まった。結んでいた帯はマトイが気絶した時に全て霧散したようだが、ローブの一部は消えない。これは実体のある布だった。
「救護棟に行って来ます!」
ネガイは状況を説明する為に、先に救護棟に走っていく。
袖のワイヤーを出し切って、マトイの足の付け根に強く―――急いで縛りつける。
「待ってろ!!今――」
一連の応急処置が終えた時、治療科の生徒が駆けてきたのが聞こえた。
マトイに上着を被せて、救護棟から戻って来たネガイ達と共に担架で運び入れる。
中には外科の教員が待ち構えており、俺が何かを言う前にマトイの姿で察した教員が治療科救護学科の三年生達に指示を下す。
誰もが迷いもなくストレッチャーに乗せて、一階奥の治療室に連れていく。
「マトイ!マトイ!」
「ここで待って。これからオペに入るから」
三年の先輩に、治療室の出口で止められる。
俺は、何をしていた。目に操られてると気付いた時、もうバックルに意識が向いていたのに――――マトイが入った数秒後、扉上のランプが灯った。
それが、マトイの命の灯に見えてしまった。
「‥‥俺が‥‥マトイを‥‥」
「血は出ていました‥‥でも動脈や臓器には届いていない筈です」
手術中のランプに跪ついた時、涙が溢れ出てしまう。止める術がわからない、待つ為には何に縋ればいいのだ。誰に許しを乞えばいいのか、何も思いつかない。
「まずは、部屋に向かいましょう‥‥」
「ここにいたい‥‥」
肩を掴まれ、あの実験室に連れて行かれそうになるが、抗い続ける。
「ここにいて何が出来ますか?立って下さい。部屋でならやれる事があります」
容赦のない言葉に心が折れた――――痛感した、ここでは何も出来ないと。
ネガイに従って手を繋いで部屋へと向かう。手術室から歩いてエレベーターホールに向かう途中、玄関近くになって二人がいるのに気が付いた。
「あ、ネガイ‥‥、どうしました‥‥?」
「何かあったようですね」
ミトリとサイナだった。何か言おうとしても声が出ない、そしてミトリの顔を見ることが出来ない。
「事情は後で話します。時間があったら手術室の前で待っていて下さい――――中にマトイがいます」
「—―――わかった。私はベットの準備を」
「‥‥私が待ちますね」
サイナはそのまま手術室前に、ミトリはベットの用意をしに入院階直通のエレベーターまで走って行った。
「‥‥行きましょう」
手を引かれるままに人形に戻ったように幾ばくかの歩みを続ける、冷え切った頭を揺らし、揺れている事に気が付いた時、顔を上げる。
既にエレベーターに乗せられていた。
「あと少し‥‥」
「‥‥ああ」
エレベーターを降りてからも、廊下でもネガイが声をかけてくれるのに、返事程度も出来なかった。ネガイの顔を見れないで扉に到着した時、
「今、鍵を開けますから。そのままでいいですよ」
手を繋いだままでは鍵が開け難い。そんな事、自分がだってわかってる。でも今ネガイから離れたら、立てなくなってしまうのもわかっていた。
ネガイに連れられ扉を通り抜ける。あのアームとベットがあった。懐かしいと思ってしまったが、まだ1週間しか経ってない。
「まずは何か飲みますか」
ベットに座らせられて、コーヒーの香りが漂うまで待ち続ける。
まるで、つい数日前の再現のようだった。
「出来ましたよ。飲めますか?」
「頂くよ‥‥」
「火傷に気をつけて」
ネガイの優しさに触れて、また泣いてしまった。
もう泣き声を止められない、ネガイは何もしないでただただそばでコーヒーを飲んでくれている。たったそれだけで、救われた。
何故マトイを傷付けた時に、正気に戻らなかったんだ。おかしいと気が付き始めていたのに、ネガイが何度も止めた筈なのに―――。
「落ち着きましたか?」
ひとしきり泣き終わった時、もう涙が枯れてしまった。コーヒーも飲み切ってしまい、返事をする気力すらない。だというのに、ここから逃げ出す勇気さえ湧かない。
「では、少し目を見せて下さい。そして軽く寝て下さい」
「‥‥いや、寝たくない」
「‥‥そうですか、なら目を見せながら起きていて下さい」
普段ならこのままネガイに眠らされていたが、今は起きていたい。マトイが目を覚ますまで――――ミトリもこんな気持ちだったのか。
ミトリは―――自分がしっかり見張っていれば良かった。これも自分の責任だ、と思っていたのかもしれない。
だけど、今のマトイは俺がやった――――俺が傷付けた。マトイが起きるまで、眠れない、そう決めながら、いつも通りにベットに横になるとアームが頭上を覆う。
ネガイが何かしらの操作を始める。
「‥‥聞きたい事はありますか?もう大丈夫、嘘は言いません‥‥」
背を向けながら聞いてくる。
「俺は‥‥何で殺された?」
全ての謎はそこに集まった。あの人が言っていた試練は何で俺は殺されたか知る事—――直感でわかる。それを知るという事は―――殺されるのと同じぐらいつらい事だと。だけど、ネガイは答えてくれなかった。
「‥‥少し待って下さい。今、目を見ますから」
ネガイがベットの頭側に座り、目を覗いてくる。
「目の下、酷いな‥‥」
「あなたも、目が真っ赤ですよ」
二人で軽く戯れる、これもここ数日出来なかった事だ。これだけで、最近感じられなかった安堵感を受けられる。
「‥‥」
「酷いのか?」
「ええ‥‥、これ以上無い程に‥‥。今はあなた自身が抑制していますが、もう猶予はありません」
言われるまでもない、限界だとわかっていた。
「猶予か‥‥、俺を、どうするんだ?」
「‥‥もう殺しません。私もマトイも、もう‥‥出来ません‥‥」
ネガイが目を覗きながら涙を流してきた。顔に落ちてくる涙すら暖かい。
ネガイはこんなにも優しい―――こんな俺にでも。
「ごめんなさい‥‥本当に‥‥もう、なにを言えばいいか、わからないんです‥‥」
目から顔を離しても、ネガイはまだ謝ってくる――それを止められなかった。この体の中に、二度と癒えない死の恐怖が一生残ってしまったから。
ネガイとマトイ、二人に会って話せば、また眠らせて貰えれば消える。
―――そんな事無いってわかっていた。でもきっと消えて、忘れられるって思っていた。二人も俺が許してくれるって――—それぞれ思っていた。でも現実は違った。
「俺にだって、わからない‥‥。もうお前達に会っても消えないんだ。ネガイとマトイが‥‥怖いんだ‥‥」
隠さない。マトイに全てを打ち明けた、だったらネガイにも言わないといけない。
「許してなんか‥‥言える訳無いって、わかってたんです。でも、きっとあなたならって‥‥私もマトイも‥‥」
どうして―――なんで、こうなった。俺達三人共、こんな結果になるなんて――三人が求めていたものは、皆同じだった。いや、皆違っていた。
「そんな顔、やめて下さい。前にも言いました、あなたは悪くない」
「でも、でもネガイ‥‥俺がマトイを―――俺が!」
顔に手を乗せてきた。涙で腫れ上がっている目に、ネガイの手は優し過ぎた。
一瞬で意識が遠のいていく。
「私もあなたも、マトイも今日は多くがあり過ぎたんです。もう眠りましょう‥‥。」
「嫌だ‥‥眠らせるな‥‥!ネガイ‥‥」
抵抗なんか出来ない、だって待ち望んだ『約束の手』があった。
「二年も眠らせません‥‥。数時間、いつも通りの時間であなたは起きる。私が傍にいますから‥‥だから眠って。私も‥‥今は誰とも話したくありません‥‥」
睡魔に落ちていく、自分はどこまで行っても自分のことしか考えて無かった。
いつもそうだ、自分の都合しか考えてない。ネガイもマトイも、あらゆる手を尽くしてくれたのに――――ああ、なぜ、何故あの場で止まれなかった。
何も考えられない、考えたくない、全ては俺の身勝手さが招いた。そう考えてしまている。ネガイの言う通りに休もう。この目も心臓も、今は大人しい。
だから眠ろう。眠る事ぐらいしか―――今の俺には出来ないのだから。
またあの夢で仮面の方が来てくれる、そう思った。しかし夢に訪れてはくれなかった。温かな寝具に包まりながら、埋められなかった心の穴を塞ぐ声を求める。
「傍にいます」
微睡の中からでも聞こえた。手放し掛けていた意識を引き上げる声に手を伸ばす。けれど————既に手を繋いでくれていた。重い腫れあがった目蓋を開き、窓から外を確認した後に時計を見上げる。
夜明けまで後一時間も無い、もう薄く明るい。
静かに呼吸を整え、顔を埋めていた白い胸元を見つめた。白いYシャツ一枚以外何も身に着けていないネガイが僅かにはにかみながら、ようやく目が覚めた頭蓋を抱擁してくれる。傷一つない肌を晒しながら、声を掛けてくれる。
「怖いですか」
暖かい手を繋いだまま囁かれた。
「怖い」
未だに防衛線を引いているらしく、救護棟外から声や車両のエンジン音さえ聞こえる。どうやら昨日の一件でこの救護棟にも重武装科や制圧科が配属されたらしい。
安心してここで眠っていられる。だが、
「起きますか?」
ネガイの口を奪う。ネガイも拒まないで受け入れてくれた。
このまま柔らかい唇から離れたくない、でも息には限界があった。呼吸の為、口を離し終えたが何事も無かったように微笑んでくる。目の下も消え慈悲深い――久し振りに見れた優しい顔付きに戻っていた。
「落ち着きましたか?」
「ああ、やっと‥‥」
毛布から這い出ながら振り返るがネガイはまだ眠っていたいらしく起き上がる気配はない。時間が許す限り、まだ体温を感じていたかったが、それでも自分の使命宿命を全うしなければならない。
椅子からネクタイを取り、バランスを測る。
「ネガイ」
「もう一度ですか?」
日が差し込み始めた灰色の髪に手を伸ばす。
白い毛布と灰色の髪に包まれたネガイの微睡んでいる笑顔は蠱惑的だった。このまま覆い被さりたい衝動に駆られるが、今はその時じゃない。
「帰ってきたら。————ネガイ、俺とずっと一緒にいて欲しい」
「私も。私も一緒にいたい。だけど、行ってしまうのですね」
「ああ、マトイの様子を見てくる」
「その口で別の女の所に行きますか」
呆れて物も言えないと、ベットの上で寝返って背を向けてしまった。
「手術はもう終わって今は病室にいるそうです。あなたの予約したベットだとミトリが言っていました。あなたの部屋です」
俺が殺された部屋とは、なるほど道理ですぐ用意出来た筈だ。死者が出たという噂があった部屋なんか誰も使いたがらない。
「わかった。また戻ってくるよ」
「ゆっくりして来て下さい。私はまだ眠いので、それにあなたは私に惚れてます」
ネガイの言葉に少しだけクラリときた。面と向かって言われるのは意外と効く。
「そうだな」
ネガイの寝ている部屋から出て誰もいない廊下を歩き続けて、朝の空気を独占する。窓から外を眺めると、怪我人の搬送では無いらしいが、輸送科の車が何台も出たり入ったりしている。薬の搬送か何かなのだろう。
改めて驚いたのはネガイが何も言わず俺を一人で歩かせてくれるということ、多分今の俺の目は安定しているのだろう。
昨日の夜のようなに操られている感覚も無い。至って普通だ。
エレベーターを使って降りて、あの部屋のある階層に到着した。待ち構えていたように、看護師服のミトリがファイル片手に駆け寄ってくれる。
「あ、おはようございます。早起きですね」
「おはよう。ミトリも‥‥寝てないんじゃないか?」
「大丈夫ですよ、私も仮眠から今起きた所なので。治療中に眠くて手元がくるったら大変なので」
意外と恐ろしいブラックジョークのようなものを受けた―――いいや、ミトリは前から俺にはこそ言って来なかったが、オーダーらしいオーダーだった。お陰で目が覚めた。
「それでも忙しいのには———前に言ったな」
自分で言っていて代わり映えしないと感じる、ほぼ同じ事を言っている。そんな俺の変わり様の無さが嬉しいのか、ミトリはふんわりと笑顔を傾けてくれた。
「大丈夫ですよ、しっかり休憩時間もあります。ではまた後で。マトイさんはまだ眠っているので起こさないように」
小声でそう伝えてどこかへ行ってしまった。
悪い事をした。今ミトリは忙しかったようだ。また貸しが出来てしまった。
「マトイは寝てるのか」
それでも顔を見ないといけない気がする。
本来なら面会拒絶こそ相応しい。だから廊下を歩く音、足音を消す―――我ながら犯罪の香りがする真似をしていると感じるが、だとしても足を止められなかった。
「入らないと」
白い扉は重かった。
鍵もない、レールに何か詰まっている訳でもないというのに―――。
ほんの数日前に、血塗れだった筈の室内は何事も無かったかのように綺麗になっている。いつまでも血塗れでは、救護棟の沽券に関わるのだろう。
「ノックも無しですか?許可なく入るならお仕置きですよ」
「そっちもノックしなかっただろう。カーテン、開けていいか?」
「どうぞー」
意外と軽い声も出せたのだと、新たな発見があった。
震える足で近づき、指が伸びない手で、ひと一人分のシルエットが浮かび上がっているカーテンをゆっくり開ける。
何のことはない。言われた通り、想像したままに病院着姿のマトイがベットに座っていた。しかし———傷こそ見えないが、痛々しく見えてしまった。
足元にも布団をかけていないマトイの白い肌や顔が、ベットのシーツとカーテンに相まって部屋の一部でもあるかのように見えてくる。
このまま消えていきそうだった。
「どうしました?そんなに泣きそうな顔をして。幽霊にでも会いましたか?」
「—――」
「泣かないで、こっちに来て」
マトイに導かれるまま窓側の椅子に座ると、開け放ったカーテンが元に戻される。白い空間の中で、黒髪と黒目を持つマトイだけが浮かび上がって見えた。
「調子はどうですか?」
「悪くない、今は大人しい」
「本当ですか?こっちに来て見せて下さい」
声に従って片手をベットに置きながら身を乗り出し、顔を近付けた瞬間、手を引かれてベットの下から出てきた黒い帯に足元をすくわれる。
病院着姿のマトイに覆いかぶさってしまう。
「大丈夫か!?怪我人だろう、大人してくれ」
「でも気持ちいいでしょう?もう眠くなりましたか?」
引き込んだ獲物を逃がさない為、布団まで被せて逃げ道を奪ってくる。抵抗する理由を失ってしまった。マトイの香りに包まれるこの感覚は何度されても飽きる事を知らない。
「眠い?」
息を吹きかけるように呟いたマトイの声が耳と肺に沈んでしまう。
「‥‥眠い。脱いでいいか?」
上着を着たままでは、もう汗ばむ気候だった為、上着に手をかける。
「流石にそこまで求めるとは。そんなに私が好きですか?でも今はあなたが脱ぐだけで、まだ傷が痛むので」
待ち望んでいた言葉にして、必ず来ると思っていた言葉に胸が痛む。
聞き返す事も出来ずにマトイに手を貸して貰い、上着とネクタイを脱ぎ捨てる。無造作に投げ捨てて、マトイと共にベットの中で抱き合い、心音を聞かせて貰う。
「気持ちいい?」
気丈に振る舞っていた。だが、角度と影の問題だったとしても顔は青白かった。
「痛まないか?」
マトイの身体はどこまでも柔らかい。同時に程よい筋肉もある為、優しく受け止めてくれるが―――今、俺はマトイの上にいた。
「そうかもしれませんね。少し移動しますか」
一度布団を退かしながら添い寝をし合うが自然な動作でマトイは自身の方が頭一つ上になるように寝転がり、その上にまた布団を被せて来る。
見下ろしたいという癖は相変わらずだった。
「では、少し話しますか。何を聞きたい?」
「‥‥その前に言いたい事がある」
聞きたい事も、言いたい事も、マトイはわかりきっている。
だけど――それだけは手を引かずに自分から踏み出してくるのを待っていた。
「身体が震えてる。怖い?」
「———怖い」
抱きしめているマトイの身体で呼吸を整える。安堵感と同時に、この細い身体を切りつけたのかという罪悪感に苛まれた―――呼吸が止まってしまった。
「マトイ」
「ん?何?」
「悪かった———本当に、ごめん。俺はマトイを傷付けた———」
「うん」
「マトイは、俺の為に待っていてくれたんだろう‥‥。あそこで、昨日ずっと‥‥」
マトイは待っていてくれたんだ、俺の帰りを———俺が復帰するのを。
「俺は、ひどい事を言った。殺すって、近づくなって‥‥。怖くて、俺、弱かったんだ‥‥。自分の事しか考えてなかった‥‥!」
「いいえ、私もいけないかったんです。あなたなら許してくれるって勝手に思ってた。私が勝手だったんです。あのやり方だって結局私の勝手な行動―――あなたの事なのに、あなたの事を何も考えてなかった。謝らないといけないのはこちらの方。この傷はあなたを苦しめた私の罰です、私は、もう‥‥」
つむじに口付けをしてくれたマトイから、熱いものが流れてくる。
「ごめんなさい‥‥!私も、怖かったの。覚えてる、ここであなたを殺して立ち去る時の、あなたの目を———」
「でも俺は死んでなんか」
「そんな事無い!!私は一度、あなたを殺した———この手で———。それにあなたには意識があった。私もようやく理解したんです。生きながら殺される、大事な人に死ぬ事を望まれる苦しさを‥‥!やっと‥‥!」
―――――マトイも震えていた。
「私には痛みがあった。死に抗う為にあなたが救ってくれた。薬だって使ってくれた―――なのに、私はあなたを見捨てた。あなたは、私の為に泣いてくれたのに」
「もう、しない。刃を向けない‥‥。約束する」
「私は、私はこれからも法務科を続けます、きっとあなたを苦しめる、また銃と刃を向ける、それでも言い切れますか――――もう目を抑えつけません。これからは自由になれる、ここから逃げられる。私や他の追手からも」
あの時とは違った。マトイの所属を言い当てた時とは違う。今度は、逃げる為に力を使える。人間相手であれば、何者をも見通せる力を使えと。
「あなたは、もう充分苦しんだ。もうあなたは一度死んだ。これからは自由になってもいい」
今この場面こそが、この体にとっての分岐点なのだろう。
この選択こそ、この体に許された最初で最後の初めての意思。
ようやく、ようやく選ぶことが出来る。
だけど、なんて卑怯で人間らしい残酷な問いかけだろうか。人間から爪弾きにされてきたこの体が、初めて知った温もりを捨て去る事など出来ようものか。
「だから、ここで縁を切れって言うのか。いやだ。オーダーはやめない。やめたら、もうマトイに会えない。それはだけは嫌なんだ」
ああ、言ってしまった。ああ、選んでしまった。
ああ、またマトイに、人間の体現者に心を預けてしまった。
「また罠にかかりましたね」
「またマトイに負けた」
温かくなってきたマトイの身体に顔をうずめて目を閉じる。恐ろしさも冷酷さも持ち合わせている優しいマトイに、今度こそ囚われてしまった。
「これであなたは、私の物」
「そうかもな‥‥いいや、俺はマトイの物だ―――マトイに奪われた」
「ふふ、上を見て」
初めてのマトイからの命令。
顔を上げた瞬間、また奪われた。
ふんわりと暖かくて柔らかい花が降ってきたようだった。
「これが私の初めて。あなたは?どうやら初めてではないみたい。彼女が早いのは、足だけではないようですね。どちらから?正直に言わないとこのまま寝てあげませんよ?」
続け様に抉られる記憶の断片は、まるで全てを見透かされているようだった。
「俺から‥‥」
「どのくらい前?」
「ついさっき‥‥」
「許し難いです。噛み切ってしまえばよかった。次は覚悟を」
優しいマトイの笑顔に背筋が震える。マトイならやりかねない。
だけど、何故か、もう一度出来ると聞いて心臓が高鳴った。
「いいでしょう、許してあげます。だからこのまま私と眠って。もっと身体を上に、あなたの顔を見て眠らせて下さい」
「俺も、もっとマトイの顔が見たかった」
マトイの顔まで移動して、お互いが息を止める。たったそれだけの数秒にも満たない時間の見つめ合いで、顔を歪め合ってしまう―――隙を突かれた。
「どうかしました?」
「‥‥怖いくらい美人だ。本当にズルいくらい」
「はやく素直になれば良かったですね。そうすれば、美しい私の物になれたのに――――もう一度眠りましょう‥‥私も眠いので‥‥」
漆黒の瞳を徐々に狭めながら、まどろみの世界へとふたりで沈んでいく。
「マトイ‥‥」
「ん?」
「行かないで」
「起きるまで待っています。一緒に起きますから‥‥」
ここで目を閉じてしまった。
マトイの呼吸が聞こえる。どこにも行かない、目を閉じても、開けてもマトイがいてくれる。だけど―――意地悪なマトイを知っている。微かな笑みを聞きながら、マトイを片腕で引き寄せて、意識を手放す事にした。
・
「私は少し怒っています。何故かわかりますか?」
また謁見の間にいた。前のように霞がかかった様子もなく、天井も見える。
ただ少し石像が増えたようだ。女性の物が二つ、そして男性が一つ。更に壁画も一つ描きかけが増えている、壁画には一つの赤い星が描かれ、周りには動物の絵も。
「聞いていますか?私は怒っているんです!」
「‥‥マトイとネガイを、傷付けました‥‥」
「ええ!そうです!私が折角心臓をあげたのに遺物達にいいように使われるなんて、あなたは私の物という自覚が足りません!」
ネガイもマトイも、今の所は何も言ってこない。だけど、目を見ればわかる。‥‥俺を恐れている。
「はい‥‥」
「‥‥反省していますか?」
夜の件が気に食わなかったらしく、仮面の方は足を重ねて見下ろしてくる。
「—――もう二度と操られません」
玉座を見上げて仮面の方を見つめ、答える。覚悟なんて大層なものは持ち合わせていない。ただ二人との約束を守る、それ以上の契りはない。二人の為なら、全てを捧げられる。
「いいでしょう。今回の件は、私にも責任があります。‥‥少しだけその体にも刺激が強すぎたようですね」
「‥‥あなたが俺の心臓に埋め込んだ石、あれはただの宝石なのですか?」
「宝石です。ただあれには私の血が混じっています」
「俺に血を?」
「人の持つ遺物には人以上の力を持てません、人の姿や中身をしている存在もそれに当てはまります。だから私は私の血と宝石をあなたに贈りました。人ならぬ血には人の遺物はただ従うしかありません。まさか心臓自身、宝石があなたに反逆するなんて。迂闊でした」
全ての言っている意味は理解出来ない。だが、この方が砕いた宝石を使って心臓が俺を操った、それが目にも及んだ。
「ただ、あなたにとって死という概念が心の深層に影を落としたみたいですね」
「はい‥‥」
「それは生物なら仕方ないと言えば仕方ないですね。それも生き物ならではですか‥‥、私もあなたのそういう部分に惹かれたから引き込んだのですしね。それに‥‥私にも責任があるのは間違いない‥‥」
仮面の方は玉座から立ち上がって同じ高さに降り、頭を深々と下げてくる。
「申し訳ありませんでした。心よりお詫びします。今回の一件、私の行動が一因です。あの二人にそしてあなたにも、無用な痛みを与えました。謝罪の意を込めてあの二人には贈り物をしました」
贈り物か――――俺には享楽の為、宝石と脇差しを送ったようだったが、あのふたりのは謝罪の為と言った。‥‥ならば、狂う事はないだろう―――しました?
「あの、そのことで相談が‥‥」
「相談?なんでしょうか?」
仮面の方が顔を上げ、首を傾けて疑問を表現してくる。その行動に少しあどけなさ幼さを感じる。
「前に脇差しを贈って貰いありがとうございます。これからも使わせて頂きます」
「あ、良かった。気に入って頂けましたか?あれは私が宝石や石像の蒐集をしている時の過程で手に入れてしまった物です。私は刃物はあまり使わないのですが、あれには惹かれるものがあったので持ち続けていたんです。良かった、あなたが喜んでくれて」
やはり顔は見えない。だが、嬉しいとか楽しいという感情は良くわかる。
「その事ですか?」
「はい、お礼が言いたくて」
すまないサイナ。勝手に荷物を消すなって言いたかったけれど‥‥この見えない笑顔の前では―――注意など出来やしない。
「本当ならまたあなたに何かを贈りたかったのですが、ふふ‥‥今回はやめておきますね。施される側ばかりではあなたもつまらないでしょうし。それに‥‥うん、やめておきますか。なんて言いましたっけ?サブプライム?」
「サブプライム?」
ローンの話だろうか?確かにこのままではローン暮らしの金欠まっしぐらだ。ネガイかマトイに頼ってまた仕事を強請るしかない―――もしや宝石も脇差しもローンで支払ったという事になるのだろうか。
「言いませんよ♪期待して目を覚まして下さい」
「‥‥サプライズ?」
「そう、それです!うん、覚えました」
両手を重ね、それを頬につける。すごい上機嫌になられた。
「二人もここに呼んだのですか?」
「はい、お呼びしました。しかし呼べるのは一回だけかと――――あの一回もあなたが私の容姿を二人に伝えたから、彼女達の頭のイメージを楔に私が引き寄せることが出来たのです。ただ、それも限界があります。恐らく二人には私に会ったという記憶は残ってもここの場所も私の姿も明確には残っていないかと。本来は彼女達の方から私に交信をして私が許可をするという方式が正しいのです。これはそう何度も出来ない方法なので幾つかの弊害が生まれてしまいます」
「弊害‥‥あまりいい響きではないですね。俺がここに初めて来た時は死んだ時でした―――二人のそれに類する状況という事ですか‥‥」
「大丈夫です。どこまでいっても彼女達には夢でしかない、身体に異常は発生しませんし私が許しません」
今日はやけにお喋りだと思っていたが、やはり同年代なのかどうか計り知れないが、同じ性別の彼女らと話せるというのは仮面の方にとって有意義な時間だったのかもしれない。端的に言えば上機嫌だ。
「聞いていいですか?」
この上機嫌なら俺の質問に簡単に答えてくれるのでは?と思い聞いてみる。
「なんですか?」
「マトイとネガイは、今後どうなりますか?」
もう目も心臓も今はいい。それよりも今は二人の今後が心残りだった。
あのカエルの飼い主もオーダーの鼠とやらも逮捕されるらしい。まだ逮捕状だけだが、オーダーから逃げるには常人では不可能だ。それを撤回するにも時間がかかる。
ネガイは守れるかもしれない、だがマトイは法務科の人間だ。必要とあらば、法務科はマトイを排除するかもしれない。
「はい、教えません。ご自分で調べて下さい。もしくは守って下さい」
からかうような笑顔ではない。信頼だけではない。あるのは、待ち続けよという神託にも等しい神の意思だった。
「大丈夫です。目が覚めたら、全部わかります。そうじゃなくても明日にはわかります」
「またそれですか‥‥。明日には何が始まるんですか?」
「秘密です。ふふ、その顔も目新しいです。覚えておきますね」
「なら俺にあなたは貸しを作ったって事になりますね」
少しだけ意地悪なこの方に、少し意地悪をしてみたくなった。ただ、そんな反応が面白いのかクスクスと笑ってくる。同じ立ち位置にいるとは、到底思えないし、思ってもいないが、手の上で遊ばれている気がしてくる。これも予想通りなのだろうか。
「すごいですね。私に恩恵を与えるなんて‥‥新鮮です‥‥。どんなやり方がいいですか?」
仮面の方はもうわかっているような聞き方をしてくる。なら俺もそれに答えたい。
「また、心臓を掴んで下さい」
「そんなに良かったですか?では、こちらを」
床からベットの形に迫り上がってくる。ベット自体は少し硬いが、絨毯のベルベットが柔らかいので快適に感じる。何より天井が見れるのが楽しみの一つだった。俺が空を見ている様子が嬉しいのが仮面の方も椅子に座って一緒に天井を眺めてくれる。
「気に入りました?」
「勿論‥‥。また見に来ても?」
「ええ、何度でもお呼びしますよ。では、始めましょう」
仮面の方が椅子から立ち上がってスカートをたくし上げる。その行動に目を剥いてしまう。
「前にこうした時、あなたは嬉しそうだった聞いたので私もしてみますね」
手を触られるのは嫌がるのにこれはいいのか、そう思っていたら仮面の方が腹に乗って来た。心地良い重さだ。このまま眠ってしまいそうになる。
「あ、もう眠いんですか?なら急ぎますね」
今度は片方の手ではない。両手で握ってきた。心臓を温めてくれているように感じるが、鼓動の邪魔をされて血が身体に足りなくなる。脳にも血が回らず視界が歪む、身体の内側を見られている、身体が異物を排除しようとする違和感、全てが合わさっていくこの感覚は‥‥たまらない‥‥。
「癖になってしまいましたか。死にたいんですか?」
「死にたくない‥‥。でも、もっと‥‥」
「‥‥っ!いい、すごくいい、矛盾してます!そうもっと見せて、その顔を!」
握力だけでは足りなかった―――仮面の方の腕を掴んで引き寄せる。この人の体重の全てを心臓にかけられている、このまま潰されたい‥‥。
「噛みたい‥‥」
そんな呟きが聞こえた。
「噛んでいいですか‥‥?きっと気持ちいいですよ。大丈夫、元に戻してあげますから、いいですよね!」
必死になって聞いてくる。目の前に好物を置かれた子供みたいに。許可を取らなくても、やってしまいそうだった。
「はい、食べて下さい‥‥」
返事を聞いた瞬間、仮面の方は胸に顔を入れた。
「‥‥もっと‥‥」
仮面の方の頭を抱いて胸に受け入れる。噛むなんかじゃない、完全に噛みちぎられている。鋭い歯を感じる、生暖かい舌も飲み込んでいく音さえ聞こえる。今は血を飲まれている‥‥。顔を振って腕を脇の下に突き立てている姿に優雅さなんかない、獣の食事だ。
「仮面、外しませんか?」
「ん!はぁー!」
仮面の方が胸から血を吹き上げながら顔を上げた。口どころか顔中血だらけだ。口の端には太い血管がまだ残っている。
「そ、それはできません」
「なら、もうダメです」
笑ってそう告げる。前から思っていた顔が見たい、そしてこの方を貪りたいと。
「そんな‥‥。あと、一口だけで食べ終わりますから!」
「なら顔を見せて下さい」
髪の毛が逆立っている、猛禽類が生肉を食べて興奮している様子だ。それはこれから行う狩りの準備でもある。
「どうしても、ですか‥‥」
「もう次に会うまで食事は出来ませんね」
ここには食べ物はない。会った時にこの方は言っていた。初めての食事を奪われるのはどれほど苦痛な事だろうか。
自分が感じたいと思っていた高度な文化たる食事、それを初めて得ている今の心中はどれほどのものだろうか?
「見せてくれたら、心臓以外も食べていいですよ‥‥」
「あ、あああああ‥‥」
もう顎が閉まらない、血と涎が一緒になって溢れている。胸元にも血が溜まっている、唾液と血が混じった液体が泡をたてて体にかかってくる。
「本当に‥‥いいんですか‥‥」
「仮面を取って、元に戻してくれるなら」
「わ、私は‥‥」
「食べたくないですか?折角の食事を?‥‥きっと、おいしいですよ?」
仮面の方は自分の顔に手をかけた。そして仮面を顔から剥がすに投げ捨てる―――ほんの数秒後、仮面の転がる音が響く。
「これでいいですか!?いいですよね!」
美しかった。大きな宝石のような赤い目、そしてご自分で作ったであろう整いすぎた顔。人間離れした顔だった。
「はぁ‥‥!もう邪魔です!」
俺の服を手で切り裂き、一度立ち上がって自分の服も引き千切るように脱ぎ去った。確かにあの石像と同じ姿だった―――血に塗れ、豊満でありながらも未成熟な腰や胸元を見た瞬間、失った心臓の位置に血が溜まり続ける。
「食べますからね!止まりませんからね!いいですね!」
覆いかぶさって顔を近づけてくる。もう目が正気のそれではない、まさしく獣だ。
「早く!早く!」
待てをされているこの顔は愛らしかった。でもこれ以上は可哀想だ、つい最近、こちらの欲望にも付き合ってくれたのだ、俺もそれに報いるべきだ、身体を捧げて。
「約束です‥‥」
「何ですか!?なんでも言って!?」
「俺以外食べない事‥‥」
「はい、はい!約束しますから早く!」
素直でいい化け物だ。
「いいですよ‥‥。俺を食べて、」
言った瞬間、再度俺の胸に顔を突っ込んだ。そして一瞬で顔を上げた。
「あ、これが味‥‥!これが食事!美味しいってこういう感情なんですね!」
もう心臓は平らげられた。次は胸から腹までを指で引き裂いていく‥‥。
「こんなに沢山‥‥、いい、すごくいい!こんなに食べられる!」
もうどこを噛みちぎられているかわからない。葬儀の中に、鳥葬という故人の身体を鳥に捧げて自然に帰るという儀式があるらしい。
だが、これは違う。食べているから殺される。食べながら殺されている。生贄のそれだ。
「ああ、美味しい‥‥。次は‥‥」
迷い箸か?御行儀が悪かった。
「ねぇ!どこがいいですか?どこなら食べていいですか!?」
そんな事を聞いてくる。全て食べる、残さず食べるに決まっているというのに―――最後の理性のつもりだろうか?ああ、可愛らしい。
「俺は‥‥あんまり好きじゃないん‥‥けど、いい場所がありますよ‥‥」
「どこ?どこ!?」
「目と唇‥‥」
仮面の方の口が迫ってきた。だが、決して魅力的な場面なんかではなかった。
顔の下半分の皮を丸ごと持っていかれた、歯が完全に露出している。それどころか舌まで無くなった。歯を歯で喰いちぎる時の音と痛みは耳にも痛覚にも想像を絶する快楽を与えてきた。
「あ、これではもう喋れませんね‥‥。なら喉もいいですね?」
容赦がない。薄れていく意識の中でそう思った。もう俺にはどれほどの中身があるかわからない‥‥。
「ごめんなさい!ごめんなさい!でも、目。いいですか?」
左目の周り、頭蓋ごと奪われた。
「ああ、ああ、美味しい‥‥」
咀嚼の音が聞こえる。そして口の端からタンパク質らしい白いものが漏れている。どうせここには俺しかいないのだ、もうマナーなど気にせず好きにして欲しい。俺も、早く食べ切って貰いたい。この身体を捧げるという感覚は‥‥、初めて心臓を潰された時よりも‥‥。
「まだもう一つある‥‥」
口が迫ってくる。片目を狙って、これも自分で作ったのか‥‥、口の中さえ美しかった――――――。
「ゴホン、少しだけマナー違反でしたね」
仮面をもう一度被って、一緒にベットに横になっていた
「私を惑わせるのはこれっきりにして下さい」
不満げな口だった。でも、それすら可愛いらしく見える。ギャップとでも言うのだろうか?まだ2回しか会っていない高潔な方の失態とは、それだけで人間味を感じてしまう。絨毯以外のベットも、辺りも綺麗な白に戻っていた。
「‥‥何回食べました?」
「‥‥2回‥‥」
「もう食べさせてあげませよ?」
「4回です‥‥。目が、美味しかったです‥‥。それと、ちょっとだけ胃酸が酸っぱかったです‥‥」
つい笑ってしまう。どんなに人間離れしていても姿が人だから、そう扱ってしまう。
俺に遊ばれて尚更不機嫌になった。さっきまで顔を見つめ合っていたのに逃げるように天井を見てしまった。
「もうそろそろ時間ですね」
少しだけ寂しい気がしてしまう。何度でも呼んでくれるだろうが、それでも一時の別れは、何度やっても胸に鋭い痛みを感じてしまう。
「もう顔を見せてくれませんか?」
起きた時に仮面をまた被っていた。残念だった、またあの赤い瞳を見たかったのに。でも見せてくれなさそうだ。
「‥‥その時が来たらお見せします。でも、さっきのは不可抗力によるものです。あなただって、マトイさんに誘われて頷いてしまったのですから、私も同じです――――そろそろですね‥‥、また心臓を握りますから」
天井からこちらに向き直して左胸に手を入れてくる。このやりとりも慣れてしまった。
だけど、この感覚はいつも新鮮だ。やられる度に新しい快感を受けてしまう。そしてしばらくこの痛みも受けられないのかと思うと。
「またお呼びしますから。え、」
仮面の方を抱き締める。
血が通っていないのではと勘繰ってしまう白い肌だが、血が通う肌は密やかに温かい―――皺一つない肌に反射された自分自身の血、脈動すら感じた。
「もう、私に甘えるなんて。本当に私の物にしますからね」
心臓を掴まれながら口を奪う。だけど、心臓を潰されただけでは、数秒間も生きられる。
ここで死ぬ気なのだと察した仮面の方が、仮面越しにでもわかる程に目を見開いた。窒息が目的の長時間の口付けとなってしまうが、ここでは死んでもこの方が一時の夢と覚ましてくれる。死をここで慣れさせておきたい。ここで死と快楽に乱れていたかった。
そのまま口を離さずに心臓に握ってくた。
苦しくなってきた、だから更に強く抱き締める。
「‥‥おやすみ‥‥」
今度も潰された。溢れ出る血を感じる―――力が抜けていく、失いつつある腕はそのままに潰した手も使って死ぬまで一緒にいてくれた。
「マトイ‥‥起きてますか?」
ネガイの声が聞こえる。あの時間の記憶が呼び起こされる―――マトイ?
「ええ、起きてますよ。どうぞ入って」
マトイの声もする。そうか忘れていた。俺はマトイの様子を見に来たのだった。
「朝食の時間ですよ。マトイさん、食べられますか?」
「少しお腹が痛いですけど、頂きます。内臓には達していないですよね?」
「はい、でも念のため今日は流動食です。開けますね」
ミトリの声も聞こえる。ミトリがマトイに対して食事を運んできたという事は―――ここはまだマトイの病室。病室の‥‥どこだ‥‥
「でも、ゆっくり。驚かせてしまうかもしれないので」
「ん?窓に鳥でもいるんですか?」
「いいえ、鳥よりも大きいのが寝てますよ」
鳥よりも――それはなんのだろうか。だが、そんな思案は猫のように額を口付けをしてくるマトイによってかき消されてしまう。そうか‥‥マトイは猫が好きなのか。
「チッ‥‥、帰って来ないと思ったら、そこでしたか‥‥」
「えっと、とにかく失礼しますね?」
光が眩しい。ベットを隠していたカーテンが開かれたようだ。目を突き刺す光から逃れるべくマトイを求めて腕に力を込める。マトイも、愛おしそうに胸で抱いてくれる。
「え?なんで‥‥」
「やっぱり‥‥。外で茶葉の用意でもしてるのかと多目に見ていたのに‥‥」
「そろそろ起きては?それともこのまま一緒に眠り続けますか?」
「‥‥マトイ‥‥」
—――思い出した。
「わ、私!仕事に戻りますね!」
食器を置き去りに外で出て行ってしまったミトリの足音が響く中、ネガイの舌打ちと溜息が耳に届く―――背筋が凍り付くが、温かいマトイが緊張を解いてくれる。
「私と朝起きておいて、数時間で別の女性ですか。一晩ごとに相手を変えるとかの域を超えていますね?」
ネガイへ視線を向けられない。目を合わせたらそのまま目が潰れてしまう程の眼光を感じる。背骨を貫通して肺が焼け付きそうになった俺を、マトイが抱きしめてくれる。
「そんなに怒らないで。彼を引き入れたのは私ですから」
「‥‥良かったですね、優しくて綺麗で大好きマトイに抱きしめられて」
「ふふ‥‥大丈夫。彼は、あなたの事も呟いていましたよ。ふふふ‥‥」
心臓が凍り付き耳に突き刺さるようなマトイが逃がさないと言外で伝えてくる。これでまた眠ってしまえれば良かったものを―――だがもう目が冴えてしまった。
「あなたに選択肢を与えましょう。私に引き剥がされるか、自分で離れるか―――マトイに蹴り落とされるでも、構いません」
「蹴り落とすなんて‥‥ふふ、さぁどれを選びますか?」
「自分で起きる‥‥」
温もりに後ろ髪を引かれるが、起き上がりながら差し出されたネガイの手を掴んだ時、検診の為に女医が入ってきた。
ネガイと共に外に出て検診が終わるのを待ち続ける。心拍や眼球運動、傷の経過を調べているらしく医者からマトイに、マトイからの話声が聞こえた。
「顔色も問題無いですね。傷はどれほど痛みますか?」
「‥‥まだ、少しだけ」
作り出してしまった拳を、ネガイが手を重ねて解きほぐしてくれる。
「傷自体は深いですが、動脈や重要臓器にはかろうじて傷はありませんでした。それに出血も酷かった―――けれど、あの止血剤のお陰で手術中は血を流さないで済みました。だから脳への酸素不足による後遺症もまずありません。しばらくは入院ですが、今後も問題なくオーダーを続けられます。では、お大事に」
見覚えのない教員は必要最低限のことのみ伝えて部屋を後にした。
「どうぞ」
足が動かなかった。だが、ネガイに連れられてしまう部屋に戻される。
「聞いての通り、しばらくは入院ですが問題無く退院すればオーダーを続けられるそうです―――だからそんな顔しないで。これは私の責任‥‥」
「言った通りです。怪我をしていないあなたが、なぜ苦しんでいるのですか?」
容赦なく――そんな言葉ではない。慈悲深く、俺を救うために身体と心が傷ついたふたりが声をかけてくれる。
「マトイ‥‥」
「はい、なんですか?」
下手な笑顔しか作れない、それでも全力で感謝を伝えなくてならない――マトイは見舞いをしてくれた数少ない恩人だった。
「生きていてくれて‥‥ありがとう。もう俺は大丈夫だ‥‥退院してこれからもオーダーを続けるよ」
「退院おめでとうございます」
「おめでとうございます」
ようやく――二人の笑顔が見れた。祝福をしてくれた。やっと帰って来れた。やっと望んでいた生活に戻れる。でも傷は残った、それも深い深い場所に。もう三人とも元には戻れない‥‥、この痛みからは誰も逃れられない。
「何が聞きたいですか?」
ネガイが許可をくれた。マトイが頷いて――勇気を当たてくれる。
決まっている―――その為に、ここまで来た。もう忘れたりしない。
「なんで俺を殺した?」
「俺の目は、そんなに‥‥」
窓を背に―――部屋の片隅で縮こまっていた俺を、ネガイとマトイが見守ってくれていた。
「はい、一刻の猶予もなかった、いや、一刻の猶予はありました」
ネガイからまず当時の俺の目の状態を聞いていた。それによればあの夜での一件は俺は今後、永遠に、死ぬまで目を閉じていなければならない生活を強いる必要があるほど――――追い込まれていた。
「でも、ネガイはこの目は使わなければいいって、」
「その目は経験を蓄積していきます。それは目の力を使わなくてもです。一般生活の中や、オーダーでの生活なら尚更多くの経験を得ていきます。確かに私は目の力を使わなければいい、と言いました。しかしそれはあの夜までです」
「あなたの目は私という今まで見たことのない力に触れた。見たのですよね?その目で私を」
「ああ‥‥見た。マトイの、その異質の力を‥‥あの数秒で膨れ上がったのか?」
「‥‥はい、とも言えますが、いいえ、とも言えます」
ネガイは言葉を探していた。
「言ってくれ。もう、平気だから‥‥」
「‥‥私は、今まで嘘をついていました。3日に一度の検診‥‥あれは治療や調整などでは無くただの確認でしかありませんでした‥‥。それにあなたの目の正体も。その目は強者を求めている、それは事実だったと言えます‥‥でも、実際には違います‥‥」
ネガイが自分の腕で自分を抱くようにしている。
「怒ってなんかいない。俺の為だったんだろ?だから続きを聞かせて欲しい‥‥今ならわかるんだ。ネガイは俺の為に嘘をついた―――俺にとってあの時間は生活の一部だ。言ってくれ、何があっても‥‥信じたい」
「そうですね‥‥あなたの目は見た物や今までの経験をピースにパズルを作っていたのです。それがその目の正体」
「パズル?」
「はい、前に話しましたよね?魅了の目は人を魅了する為に宿主を操る。その目はパズルを作り上げる為にあなたを操る。今まで言っていたような強者を求めるとは、そのパズルを完成させるピースを要領良く集められるから求めていた‥‥。だから私はピース集めを終わらせない為に、あなたは血を奪われ、狂って死ぬと言いました。そうすればあなたは不用意に目を使わないと思ったからです」
俺の目はピースを集めていたのか。俺を使って、俺を通して、自分だけのパズル――結晶を作り上げる為に俺を狂わした。いや、狂わしたのは手段でしかない。
狂わした方がピース集めに都合が良かったに過ぎない。
「だったらなんで、言わなかった‥‥?俺に無用な物を見るなって」
「日常生活でそんな事出来ないからです‥‥それに事実を言います。あなたの目はあの夜に至る前にもうほぼ完成していました」
ネガイの言葉に身体中の血が凍り付いた。
「ほぼ‥‥ならまだ完成してはいない。欠けた状態が続いてたのか?」
「はい。でも、だからこそ安定していた―――」
「欠けている状態なのに安定?どういう意味なんだ?」
「この場合、安定とは欠けている状態でという意味です」
ベットに座っているマトイが補足してくれる。
「あなたはパズルをするとき、最後のピースはどうやって集めますか?」
「最後?最後なんだから残ったピースを埋めればそれで終わりだ」
「そう、残ったピースを埋めればそれで終わり。でも、そのピースを無くしたら?残っているピースが100個あったら?しかも今あるピースより更に見た目の良いピースを見つけてらどうしますか?これはパズルであってトランプのタワーに近い。一度使ったら元に戻せない。しかもそれがどこにあるかもわからない。形や高さだって決まってない。そんな理不尽な選択が数日で終わる筈が無い」
マトイが言った通りなら、この目はそんな理不尽な課題をずっと続けていたのか‥‥。この目に同情する気なんてさらさら無いが、少しだけその苦労を考えてしまう。俺が生まれた―――恐らくは16年の間、俺からすれば一瞬にも満たない時間が、目からすれば1秒1秒が己が血肉を作る栄養だった。
「目が選んでいたのか?」
「はい、目が取捨選択をして、残りのピースであり一枚をあなたの見た物の中で選んでいたのです」
その目には意思がある。最初にネガイに言われて事だ。この目は停滞していたのか、自分好みの最後のピースを探して。
「あなたが狂ったようにマトイの血を求めたのはマトイが最後のピースの一つだったから」
「そして恐らくもう一つの最後はネガイの縮地。あなたは望んでいたと聞きました。ネガイの一撃を防ぐ事を」
ネガイの縮地に拘ってしまったのは、俺の意思だけじゃない。目が意識的にネガイを求めていたからか。そしてあの時、マトイの血を求めたのも、目が求めたから‥‥。俺を狂わせた方が効率よくピースを回収出来ると。そしてそれに心臓も同意した。
「ネガイはそれをいつ知ったんだ?」
ネガイに聞いてみた。ネガイは殆どあの縮地を使わなかったが、それでも俺の前で今まで二回使っている。もし俺の目が求める物と知っていたらネガイはそれを使わなかった筈だ。
「‥‥あの夜、マトイが布の中から姿を見せたときです」
それを聞いたマトイの顔は少し上へ向けて遠い目をし―――答えてくれた。
「私は勘違いをしていたんです。その目はただ使い続ければいずれはあなたの制御下になると。でも違った。あなたの目は強者を求めてはいた。だけど、目が完成してしまえばもう誰も必要なくなる。あなた自身の意識さえもいらなくなる」
「‥‥まるで目から先に生まれたみたいだな」
マトイは俺の意識が無くなるではなく、いらなくなると言った。目が無用な物を削ぎ落としていくかのような言い方だ。
「よく聞いて下さい―――これはまだ未確認な推測ですが、恐らく正しい仮説です」
少し感傷的な気分になっていると、ネガイが息を吸って目を見つめてきた。
「今までの生活はその目によって決まっていた。そう言いましたよね?」
ネガイは病室の車椅子から降りて見下ろしてくる。
「ああ‥‥。そうだな、物心ついた時には目で苦しんでた‥‥。ここでの生活もそれが原因って言えばそう言える‥‥」
「ならこう言えます。今のあなたの性格や自我は、あなたの目によって造られた。ピース集めに最適な精神、最適な生活環境—―――結論を言います。今のあなたは暫定的に目から身体を貸されているに過ぎない擬似人格。‥‥大丈夫、落ち着いて。ゆっくり息を吸って下さい」
ネガイの言葉の意味がわかった。それを理解した途端、目の前が真っ暗になり倒れそうになった所を抱きかかえられる。
『この俺』は目に造られた存在で、今は身体を貸されているだけ?であれば、『今までの俺』はなんなのだ‥‥。目が完成した時、『俺』はいらなくなるのか‥‥。
この精神は、これだけは『俺の物』だと思っていたのに‥‥。
「だから、いずれは目に返さないとならない。‥‥しがみついていいです」
「こっちに‥‥歩いて」
ネガイに肩を貸されて数歩歩かされる。そこにある筈のマトイのベットを手で確認して腰を下ろす。そこでベットに座っていたマトイに肩を引かれ横になり、人形のように抱き締められる―――この体の主たる目に、手が当てられる。
「私の心音を聞いて、あなたはここにいる」
「目を閉じて、目蓋で熱を感じて下さい。あなたがこの熱を感じている」
ネガイの手とマトイの心臓。その二つで自我を保っている、気を抜いたらそのまま狂ってしまう。それだけはできない。またマトイを、そしてネガイを傷つけたら―――もう戻ってこれない。
「あの夜、私は急いであなたの目を見ました、そして思ったんです。あなたを救うにはあなたに一度死んで貰うしかないと」
「‥‥俺の目が、完成したからか?」
震える口で聞き返す。黙っていると、それだけで意識が飛びそうだった。
「もっと危険な状態で覚醒していました。あなたの目は‥‥、崩壊寸前、まだ完成していた方が可能性はあった言えます」
「あなたの目は私とネガイ、二つのピースを得て混乱していたんだと思います。さっき私達二人が必要なピースだと言いましたけど、最初は違った。私達のどちらかで完成していたんです。そこに二つの相応しい欠片を見つけてしまった」
温かな心臓を持った麗人が強く抱き締めてくれる。マトイの心音は一定で安堵感を与えてくれる。
「傲慢にもその目は私達二人をパズルに取り込もうとしていました。そんな事をすればあなたは崩壊する。パズルという中心点を囲んでいるのはあなたという精神の器。私達二人を取り込むとはパズルの器ごと、外のあなたごと崩壊するような愚かな行い‥‥」
数日眠り続けていた原因がわかった。この目は過剰な答えを得て――困惑、迷っていた。
「その目は生物というにはあまりにも原始的で機械的。目を完成させるという願望に全てを賭けています、それがただ一瞬しか存在出来なかったとしても、数秒後に自分が破壊されるとしても。それだけをやりきる事を選ぶ」
俺がマトイの一撃を受けても死ななければそれで良いと思ってしまったのはそういう事だった―――もし、あそこで足を切り落とされていたとしても、這いずってでもマトイに飛びかかっていたのかもしれない‥‥。その姿はもう獣ですらない。
ただの化け物だ。
「少し休みますか‥‥」
ネガイの声が合図だった。強張って、マネキンに収められていたように動かなかった体から血管を感じ取れた。けれど、この目を開くが未だに見えない。
「話し過ぎましたね。今のマトイには食事が必要です、私は部屋に戻りますがあなたはどうしますか?」
「‥‥俺も戻るよ」
「無理してませんか?‥‥ごめんなさい、つらい話でしたね‥‥」
マトイから手を借りながらベットから起き上がりネガイを手で探す、ふと手を握られた。
「大丈夫、一時的なストレスによる症状です。部屋に戻って治療をしましょう」
「気をつけて。杖を貰いますか?」
ここで1番心配されないといけないマトイの声が聞こえてくる。振り返って声の主を探すが、見えるのは虚空ばかり―――黒でも白でもない、ただの―――
「ここです‥‥」
マトイの手を感じた。ネガイの手とマトイの手、それぞれに握られる。
「杖は大丈夫だ。‥‥少しずつだけど輪郭が見えてきたから自分一人でも歩ける」
ネガイとマトイ、二人の手から離れて数歩前に歩いてみる。距離感を見誤った。
「窓を頭で割る気ですか?ここで強がらないで下さい。行きますよ?」
肩を触れられた。肩に手を置いてまたネガイと手を繋ぎ、しゃがんでいた体を引き上げる。
「マトイ、また後で。‥‥今は休んで下さい」
「ええ、わかりました。ネガイも休んでね、彼をよろしく」
短い会話の挨拶を終わらせてネガイに手を引かれ、どこかへ連れ出される。
部屋から廊下の違いは床を歩いているとわかる。足を地面から離した感触が違うからだ、またかろうじてネガイの後ろ姿も見えた。けれど、おぼろげな後ろ姿に胸に締め付けられる――ネガイがこのまま消えていってしまうのでは、と考えてしまった‥‥
「ネガイ‥‥」
もっと強く握ってくれ、そう言いたくなった時—――
「もっと強くですね。なら、このまま手を潰しますか?」
柔らかい言葉で望んだ以上の事を言ってくれる。
「頼む‥‥、潰していいから‥‥」
「言いましたね?私がいいって言うまで離しませんからね?」
手の骨が砕けそうだった。
ネガイが容赦なく手を潰しにかかってくる、骨のごりごりという軋む音が頭に届く。潰してもいいとは言ったが、本気狙ってくるとは思わなかった――反撃をしよう。
「終わりか?」
「ならこれでどうですか?—―――そんなに私と手を繋いで嬉しいですか?涙が出てますよ?」
ネガイから嬉しそうに言われて気づいた、頬を濡らしていく血のように熱い涙を。
「ああ‥‥、嬉しいよ‥‥」
「‥‥私もです‥‥」
周りから声が聞こえる。きっと治療科の生徒達だ、もしくは輸送科、はたまた分析科だろうか―――でも目が見えない。だから人の目を気にしない。はっきり聞こえるのはネガイだけだ、だから構わない。ネガイの声さえ聞こえていれば。
「ネガイ、この騒ぎは、あ、ヒジリさん。どうしました?手と涙なんて‥‥」
ミトリの声が発しながら人影がこちらに早歩きで近づいてくる。
「彼は今、目が不自由なんです。でも気にしないで、すぐ治りますから」
「ミトリか?」
あくまで、大丈夫だと伝えてようと思って声をかける。だが、急に輪郭が消え、ネガイと繋いでいない手に触れられて持ち上げられる。恐らく両手だ、左右から挟まれて持ち上げられた。
「本当に大丈夫ですか?」
心配そうな声が聞こえる。この声はマトイに車椅子を押されている時にも聞いた。
「大丈夫だ。今日はネガイがいる、それにこれもすぐ治るから‥‥」
天井へ視線を向けると光が眩しく感じた。少しずつだが視力が戻ってきたのがわかる。今、泣いたのが目に良かったようだ。
「後で一人で会いにいく、痛っつ‥‥!」
「私がいながら私の友人を口説きますか?さぁ、行きますよ。ミトリ、また後で」
俺への注意としてネガイが手を更に強く締めてきた。強く手を引いてどこかの狭い部屋に連れ込まれる、恐らくエレベーターだ。空気が密閉されていると肌で感じる。
「く、口説くって‥‥、そんな事より‥‥!」
ミトリの焦った声が聞こえる。俺も口説いたつもりじゃないと言おうとしたが、ネガイの握力がそれを許してくれない。
「大丈夫ですよ。それに私の恋人がさっき言った通り、後で会います」
エレベーターの外から女子の歓声が聞こえる‥‥。確かに好きだと、ずっと昔言ったが、見えないからと言って―――ふたりだけの秘密を暴露されとは、思わなかった。
エレベーターの扉が閉まったようで、更に空気が密閉される窮屈さを感じる。二人きりになった。
「笑っているんです?」
ネガイの声が聞こえる。エレベーターの中だからよく響く。
「そっちも笑ってるだろう?声でわかるぞ」
「‥‥そうですね‥‥」
身体に何かが寄り添ってくる。
「恋人みたいですね‥‥」
「みたいじゃない」
せいぜいが数分。エレベーターの中での待ち時間なんてその程度だ。これからしばらく二人だけになれるのに、俺もネガイも我慢が出来なかった。目が見えなくても、これがネガイの唇だと唇でわかった。
―――目を開く前に、
「見えるようになりましたか?」
目に当てられている手に手を重ねていた。本当はもう少しこのままでいたかったが、ネガイに応えることにする。
ベットから起き上がって頭側に座っているネガイの顔を見る。まだ少し目が開けにくいが、はっきりと見える。
少し切れ目で見つめていると心を見透かされている気分になる、ネガイの目だ。
「‥‥見える、大丈夫だ」
ネガイから目を窓に向ける。晴天で雲一つない外を見ながら窓に近づく。
「あれ?サイナの‥‥」
窓から救護棟玄関を見たら黒いジープだった。そもそも大きい車で装甲をつけているからか、周りの車体より更に大きく感じる。
「そう言えばサイナから茶葉の配達があるって聞きました。あなたですか?」
忘れていた。昨日の夜そんな事を頼んだのを思い出す。忘れないでいてくれたのかと、サイナの商人性に感謝する。早速また世話になってしまった。
「ああ、俺だ。注文通りならタイムとカモミール、後」
「マーシュマロウですね。前にそれを飲んだ時、気に入った様子でしたね」
ネガイの為のつもりで頼んだが、俺自身が飲みたかったようだ。
「サイナがここに来るなら都合がいいですね。サイナもミトリも交えて昨日の事を話しておきます」
「取り決めってやつか?」
サイナとミトリが言っていた事だ。私達の役目はあなたをオーダー校に送り届ける。と言っていた。あの時はただネガイに会いたかったから考えていられなかったが、今思うとなぜそんな事すら知ろうと思わなかったのかと。
「そうです。‥‥少し昨日話しましたが、改めてあなたは知っておかなければならない事があります」
それは今のオーダー校がやっている防衛とも関係があるに違い。他の奴らも契約だと言っていた。
「お湯、沸かしとくか」
流しとIHに近づくとネガイが腕を掴んで止めてきた。
「まだ見え難いのでは?そんな人に火を使わせる訳には行きません」
「これから火は出ないぞ」
「いいから座っていて下さい。刺しますよ?」
ネガイに刺されては堪ったものではない。大人しく従ってベットの上に座った時、安いコイルの音が部屋に響く。やはりこのベットは少し硬い、マットレスだけでも変えられないかと考えてしまう。
ただ昨日の夜から夜明けまでネガイと一緒に寝ていたのだと思うと、この軋みが愛おしく感じる。
「お帰りなさい」
後ろ姿のままネガイが言ってくる。
昨日から二人っきりであったが、それでも心ここにあらずだった。そうか、俺はやっとここに帰ってこれたのか。
「ただいま‥‥」
ネガイは熱の設定をして俺の隣、ベットへ一緒に座ってきた。
「サイナ、来ないな‥‥」
黒いジープはもう既に止まっていた。という事は棟内にいるという事だ。だが、未だに足音一つしない。
「ミトリやマトイに挨拶をしているのでは?サイナは商人なので挨拶周りは何よりも大事なのでしょう」
だとすれば、サイナの商人魂は並外れているという事だった。俺にも似たような事をよくやっていた上、たまにネガイにもやって、この部屋から叩き出されていた。
「そうだ、ネガイ」
「何ですか?」
昨日、電話をかけてから何を言おうかずっと考えていた。話す話題も考えていた。だけどネガイの顔を見ていたら、どうでも良くなった。静かに、呼吸も忘れてネガイの顔を見つめてしまう。ネガイはそれが面白いのか朝の笑顔を見せてくれる。
「何ですか?何か話したい事があったのでは?」
「いや‥‥、なんでもない」
「言わないんですか?仕方ない人ですね。変わらず‥‥」
心臓が怖いぐらいに静かだ。普通こういう時、苦しくなるのでは?と思ったが、違った。ネガイへの思いはもう叶っていた―――この静けさを破る行為をする。
「‥‥積極的ですね。大丈夫、あなたを一人にしません。‥‥あなたはここにいます」
ネガイと制服のまま抱き合う、制服の硬い素材が邪魔に感じる。だから俺もネガイも校章を壊す勢いで続ける。
「結局一度もネガイの為に何も出来て無いな‥‥一歩も、外を歩かせてない‥‥」
「なら契約を変えましょう。二人でここから出ればいい。それには私もあなたに嘘をついていました、嘘つきと嘘つきでお似合いです。だから一緒に、二人で嘘を本当にすれば良い―――私をどうする気ですか‥‥?」
息を感じる距離から離れて、息を吹きかける距離でネガイと見つめ合う。何を考えていたのかわかったのか。黄金の瞳を閉じて首を抱いてくれた―――今日で4回目。
ネガイの口は常に柔らかい。どこまでも受け入れてくれる。そのままネガイと抱きしめ合いながらベットに横になり、ベットを軋ませる。無言のまま二人で息と唾液の交換を続ける。苦しくて生きていると強く実感できる。
ふと、目を開けて、ネガイの顔を間近で見る。
「‥‥ふふ、」
目があった時、ネガイの息が肺に届いた。
もうネガイが可愛くて仕方ない。軽くて柔らかくて優しくて、このまま離れたくない。でも、一度口を離して――――
「外にいるな‥‥、開いてるぞ‥‥」
僅かながら開かれた扉に眼球が四つ。サイナとミトリだ。
「見せつけましょう‥‥。二人は相手の気持ちを測るのが得意なので、空気を読んでくれています」
見せつけるように唾液を絡ませてくるネガイに、舌を預けてふたりで舌打ちを起こす。口角からこぼれ落ちる唾液も無視して、背中と腰を引き寄せて制服越しの下腹部を重ね合わせ続けた。
だが、流石に続け過ぎてしまった。
ネガイと一時離れ、なかなか入って来ない二人に視線を送る。肩を一瞬震わせた二人は、いっそ胸を張るように中に入って来た。
二人は顔色がコロコロ変わり――改めて自分も何をしていたのか、気付いてしまった。
4人とも無言で、時計の音だけが鳴り響くなか、そんな空気を打ち破ったのはサイナの茶葉だった。中を見ると俺が注文した通り、半分冗談のつもりだったがサイナはそれを守ってくれていた。
「えーと、これ茶葉です!—―――送料込みでこれぐらいです‥‥」
「ああ、いつも通り請求しておいてくれ」
茶葉をネガイに渡し、ネガイはミトリを連れてお茶の準備を始める。ミトリはネガイと一緒に棚から茶菓子などを出しているが、ちらっとこちらを見てくる。サイナに目を戻すと一瞬目が合うが、それもすぐ外される。
なぜ止めようと思わなかったのか。ふたりを招き入れる事など最初からわかっていたというのに―――いっときの気分で何をかしてはいけないと強く心に誓う。けれど、誘われればまた心の望むままに、望まれるままに呑み込まれてしまうのだろう。
「サイナ、早速で悪いが昨日の事、話せる範囲で教えてくれないか?」
折角サイナが作ってくれた空気を無駄には出来ない。と俺からも会話を振る。そうしたらサイナが助かったという顔をしてきた。
「では、私がした事をおさらいしますね――――私は昨日、というかあなたからの依頼にあった通りに電話があったら、あなたをここに運び入れるという仕事の準備をしていました。車両の準備にあの制服と拳銃、そして昨日私はミトリさんと一緒にあなたを救出、ここに輸送をしました」
「まさか院内にいたなんて想像もしてなかった。それで、なんであの時間にいたんだ?俺が、病院から逃げ出す、逃げ出さないといけない状況になるって知ってたんだろう?」
サイナとミトリは俺が、というかあのカエルと先生が俺を逮捕する時間を知っていた。これは間違いない。
「それは‥‥」
サイナがネガイの方を見た。ネガイは今もミトリと一緒に準備をしている。
「いいですよ。言える範囲なら、それでも弁えて下さいね」
「はい‥‥では―――私達はあなたを高い確率でオーダー本部が警察側に渡すと知っていました。‥‥彼女から聞いた話です」
サイナも一年の優秀生だが、だからと言ってオーダー本部が秘密裏に進めてきた反逆行為、策略を知るのはほぼ不可能だ。
マトイという法務科所属でオーダーの内側も外側も知っている人間がいなければ。
「‥‥マトイの怪我、サイナは知ってるのか?」
そう聞いたがサイナもミトリも何も言ってこない。俺の聞き方が悪かった。言える訳ない。
「悪い、続けてくれ」
「なら次に‥‥」
サイナは次の話題を出そうとしたが、サイナは少し考えた様子をしてくる。
「明日か?」
「申し訳ありません‥‥。これも契約ですので‥‥」
どうやらオーダー校絡みの話のようだ。俺達の扱いはオーダー校所属のオーダー、だったら所属には一定の配慮が必要になる。
それが依頼主なら尚更だ。守秘義務に近い。
「仮の話だ。Aという組織があったとして、あるオーダーはそれに所属している。そのオーダーはA組織の命令で男を助けたのか?」
「あるオーダー宛に依頼をしたのは所属しているA組織です。しかし、それは別の組織の意向でもありました」
オーダー校からサイナは依頼を受けた。だが、それを推薦したのはマトイであり、法務科。
「迷わなかったのか?そのオーダーは」
「即決、とはいきませんでした。その男性を狙っている存在は言葉では表せないまた違う組織でした。何より何故選ばれたのかそのオーダーは前からの依頼を重ねても理解出来ませんでした」
「なら何故選んだ?」
お伽話のようだった。何よりもサイナの声が心地よくて次の言葉が聞きたくなる。
「その混乱しているオーダーへ意向を示したある組織の一構成員が接触してきました。その構成員は、最近、男性を傷付けてしまったと言ってきました。混乱しているオーダーは更に混乱しました。そしてその傷付けた男性は自分では助けられない、そして熟練のオーダーを雇う事も許されない。と告げてきました」
「だからそのオーダーに?」
「構成員は男性からの元の依頼を知っていました。依頼を受けていたオーダーならば男性の背景を知っていなくても契約を全うしていた筈、と伝えてきました。それどころか男性にはある危険が迫っていると、これ聞いたオーダーは男性からの依頼を全うすると決めました」
そして結論を、紙芝居の最後を待ち望んだ。
「どんな理由だったんだ?」
サイナはそこで朗らかに
「お金が貰えるからで~す♪」
金の関係はある意味何よりも健全な繋がりとは思っていた。いや、俺の依頼を実行しても俺の背景を知らなかったと言えばそれまでだ。そいつがオーダーなら尚更納得する理由だ。しかも別に俺はあのカエル供に何もしていない、現行犯で逮捕は出来ても逃げてしまえばそれで終いだ。
「しかも男性からの依頼金以外にも準備金や成功報酬、報奨金、などなどを送られると聞き、これはやるしかないと!」
「男性からの依頼は切って、意向を示した構成員からの依頼に切り替えた訳だ。なら男性からの成功報酬は無しだ」
サイナが俺よりは人間よりの人間とは思えない声を上げた。語るに落ちた。
「騒々しいですよ。ここは救護棟です、静かに」
ネガイが戻ってきた。手間取っていたのかと思ったが、俺とサイナの話を邪魔しない為に待っていてくれていた。ネガイは普段俺の治療に使っていたワゴンの上に人数分のカップとポットを置いて運んでくる。ミトリに視線を向けると部屋の隅に置いてあったパイプ製の机を運ぼうとしていたので、手を貸しに行く。
「悪い、気づかなかった」
「大丈夫です、これぐらい治療科のテント実習でよくやってるので。それに私もサイナさんの話を改めて聞きたかったので」
「‥‥ミトリも、頼まれたのか―――その組織から」
マトイの名を出さずに有無を聞いた所、ミトリは頷いて肯定してくれた。
「はい、私もです」
「そうか‥‥」
今のミトリとマトイの関係がどうなのか、俺にはわからない。マトイは俺を殺した張本人だからだ。それにはネガイも含まれるが元々二人は仲が良かった、今さっき二人で準備をしていたので仲が戻ったと見ていた。
「私も全て聞きました、それにあなたから目の事も聞いていたので。あなたが許したのなら私もそうします。‥‥これは内緒です、ネガイが泣きながら私に謝ってきたんですよ、マトイさんも」
ベットと椅子が集まる場所に、ミトリと共に机を運ぶ。小声だった為、ネガイには聞かれなかった。
「今まであまり話す機会はありませんでしたが‥‥優しい人でした。それに朝食を残さず食べてくれます。どこかの誰かさんと違って他のが食べたいとか言って来ませんし」
「きっと明日には他のが食べたいって言ってくるぞ。賭けてもいい」
「言いつけちゃいますよ」
想像以上に今のミトリとマトイはわかり合えたようだ。俺が知らない所で四人は繋がりを持ったらしい、それはいい関係なのだろう―――ただ、繋がった理由が俺の死。決して他人事ではない。
「じゃあ、治療科も似たような感じか?後はやるから座っててくれ」
「わたっ‥‥、治療科は少し違っていました」
急に話を振られて慌ててしまった。ミトリは急いで訂正したが、まわりのふたりを笑わせるには十分だった。その様子に机を組み立てながらバレない様に隠れて笑う。サイナも笑顔のポーカーフェイスをしているが、口角が少し上がった。
「‥‥私にはサイナさんみたいにお話しは出来なさそうです‥‥」
「あれはサイナぐらいしか出来ません。私も手伝いますから」
本来はオーダー校への配慮のつもりだったのに目的が変わってきた。カップを机に並べていくと、数が一つ多い事に気付いた。
「まだ蒸らしに時間がかかります。マトイを呼んできて下さい。マーシュマロウには時間が必要なので」
ネガイの言葉を予想していなかった訳じゃないが、ミトリを方を見るとミトリからは少し困った雰囲気を感じたものの、ダメとは言わなかった。何故かサイナは若干困った顔をしたが、構わないと扉に向かう。
「‥‥わかった」
短く返事をした。
実験室からまた一人で出る。目の問題もない。
「‥‥」
ネガイにマトイにミトリにサイナ。この4人が集まって説明をする。ネガイは――決めたのだろう。全てを俺に話すと。
だったら、俺もその覚悟に向き合わねばならない。マトイと戻ってこよう。それが俺にできる最大限の敬意だ。
・
「お茶会の誘い?素敵ですね。勿論、参加しますよ」
病室へと戻ると昼食を取ったマトイは本を読んでいた。題名はハムレット、シェクスピア作の悲劇。
「頼むから復讐なんてしないでくれ。俺は受け入れるだろうから」
「To be or not to be 。これは復讐するか否かの解釈が有名ですが、生きるべきか死ぬべきか、の解釈もありますよ。私の好みは秘密です。では車椅子の準備を、私は着替えるのでカーテンを閉めますね」
そう言ってベットと窓を隠すカーテンを閉めたのを確認し、言われた通りに車椅子をカーテン越しのベット近くに運んで待つ事にする。だが、なかなか時間がかかっているらしく衣擦れの音もしない。
前にネガイを女子寮前で待っていた事があったが、その時は1時間待った。今回もそれぐらいは待つべきなのだろうと肩から力を抜いて待ち続けると。
「あ、」
「どうした‥‥!」
マトイが声を出した為、咄嗟に安否を確認する。
「大変です‥‥、助けて下さい」
慌ててカーテンを握り締めるが、しわを作り出すが手が止まってしまった。
頭の中を幾千幾万の思考、思想、宇宙が巡り合い、激突し合う。マトイという肌もほとんど見せない麗人の更衣のさなかに踏み込んでいのだろうか。希薄化していた羞恥心が、心臓を鷲掴みにする。
「手を貸してくれませんか?」
「いいのか?開けて‥‥」
「これで3回目ですよ?助けて下さい」
その不穏であり僅かに不満気な声を聞いた自分はカーテンを開けずに潜る事にする。心臓が早鐘を打つ中、マトイの足先から全身を見上げるが、なんら変わらない病院着のマトイがベットに座っていた。
「着替えがクローゼットの中なので、取ってくれませんか?それとも復讐がご所望?もう私に会えなくなりますよ?」
その言葉の意味を全て理解する前に、無思考となった自分は艶やかなマトイに従った。ただし、もう一度手が止まってしまう。本当に開けていいのか?前にネガイの部屋に入った時、下着類が干してあるのを見ただけで蹴りや拳を頂いたのに。
「どうしました?開けていいんですよ。好きなだけ‥‥」
「‥‥開けるぞ‥‥」
中にワイヤー式のクレイモアでも仕掛けてある気分だ。
息を整えてそっと開ける―――恐ろしいほど、普通だった。
制服とYシャツ、それ以外は私服、それぐらいだった。なんだ自分と同じではないか。一体何を期待していたのだろうか。
「一応は外に出るので制服を着ようかと、どうしたんですか?私だけ寝巻きでは失礼と思ったんですが?まぁ‥‥乱暴な人。ふふ‥‥」
投げつける様にマトイにYシャツと制服を渡し、そのまま出て行こうとしたが、マトイが「待って」と言う。目を向けると、黒髪の麗人は病院着の前を開けていた。その姿に心臓が凍り付く、冷たくなった心臓から送り届けられる血が内臓を更に凍らせていく。
「‥‥復讐、してもいいぞ‥‥」
見せつける腹と下着、腿にかけて深い傷跡がそこに残されていた。白い肌は巨大なミミズがへばりついた様に赤く腫れ上がり、周りの肉を引き寄せ得る形で傷を塞がれている。それらを覆い尽くす様に透明なテープが貼り付けられている。とても16歳の女の子の姿とは思えない程、痛々しかった。
「ならこっちに‥‥」
差し出される手を無言で取り、されるがままに手を預ける。
「触って、縫った糸がわかるから」
お互いの手を自分の腹に、そして足に移動させていく。糸の凹凸の感触が指へと送られてくる。マトイは復讐をしてきた―――――今の俺が、耐えなければならない痛みだった。更にマトイは足に移動させた手を腹に戻していく細やかな縫われた後は熱を放っている。冷たいマトイの手とは真逆に。
「今は縫合後のケアテープがあるから傷跡は綺麗に消える、だから今のうちに触って貰おうと思って。どうでした?」
「やめてくれ‥‥」
「そう、ならこれで終わり」
にこやかな笑みを浮かべたマトイは呆気なく手を離し、本格的に寝巻きを脱ぎ始める。
「着替えるからよく見ておいて。あなたがやった事を」
渡した制服をベットに置いて、病院着を脱いでいく、上も下も。
どうする事も出来なかった。手伝うにしても今のマトイに触れる事が出来ない、ここで拒絶されれれば、もうマトイには会えない。
「しばらくは長いソックスかストッキングが必要ですね。どうしたの?よく見て」
マトイは左腿の傷、俺が切りあげた後を見せつけてくる、綺麗な白い足には真一文字の傷を縫った後が残っていた。
「真っ直ぐな傷だから、綺麗に消えると言われましたよ。自慢だったんです、この足。あなたもよく見ていましたね」
「‥‥そうかもな」
「そうですよ。気付かないと思ってた?ほらもっと見て、あなたの好きな私の足ですよ」
「‥‥何をすれば良い?」
「それは自分で考えて。このまま忘れてもいいです、どうせ数ヶ月もしないで消えますから。さぁ、行きましょう」
長いストッキングを履いて着替えを終えたマトイを、車椅子に乗せて部屋を出る。
エレベーターまで俺もマトイも無言だった。無言のマトイにほっとしてしまった。今何か言われても俺は、まともに喋れなかった、喋りたくなかった。待っていたエレベーターの扉が開いた時、マトイを押して入る。
「あの時と何もかもが逆ですね」
マトイが呟いた。
「あのエレベーターの時にはまだあなたを殺すかどうか考えていたんですよ。ネガイと」
それを黙って聞いていた。優しいマトイが怖かった。
「静かですね。朝はあんなに私を求めてくれたのに‥‥何か答えて」
「‥‥マトイ、俺は、もう狂わない‥‥」
「言い切れますか?」
こんなにもエレベーターはゆっくり上がっていくのかと思ってしまう。
「私はあなたを大切に思っています。あなたは?私の事、好き?」
「‥‥好きだ」
「‥‥少しいじめ過ぎましたね。顔を寄せて、早く」
人形のように声に従い、しゃがんでマトイ目線に合わせる。そこで左右の手で顔を捕まれる。マトイの顔は厳しかった。
「これがあなたの罪であって私の罪。あなた一人に全ての責任を押し付ける気はありませんが、半分はあなたの罪。今あなたの心はどうですか?私の身体の様に傷はついてますか?」
マトイの息が目にかかる、目を瞑りたい衝動に駆られるが―――耐える。目を逸らせてはいけない、これはたったひとつの贖罪だった。
「いい目です。よく聞いて、今苦しいのはあなた。苦しんでいるのは目に造られた人形じゃない、私が好きになったあなたです。その苦しみすら目に用意されたと言われればそこまでです。でも、噛み締めて忘れないで、あなたは苦しんでいい。その心は‥‥あなたの物」
顔が安らかになった。そうだった、俺はこのマトイを好きになった。
「‥‥マトイは、苦しんだのか‥‥?」
マトイに跪き、顔を挟んでいた手をマトイの膝の上に戻す。
「ええ、やっと‥‥。私はあなたを殺した時、罪悪感なんてなかった。これは正しい行いであってあなたの為になる事だって思っていましたから、終わった時のネガイの顔も私には理解出来ませんでした。‥‥出ていく時にあなたの目を見るまで‥‥着きましたよ」
車椅子の後ろへと戻り押して外に出る。この階には未だに誰もいない、まだ休みだからだ。先ほどと比べて、上機嫌になったマトイの顔を窓ガラスで確認する。
「ネガイも俺の目を見て苦しかったって言ってた、‥‥この目はどうだったんだ?」
気になってしまった。ネガイも俺の目に苦しんでいたと言っていた。‥‥本当に魔眼のようだった。見た者を苦しめるなんて。
「あなたも復讐ですか?いよいよハムレットですね。終わりには双方の死が必要です」
「なら生き残るのはミトリとサイナか‥‥、らしくなってきた」
「ミトリさんは友人に成り得ますけど、サイナさんは宰相ですね。感覚的に」
「真っ先に死ぬのがサイナか‥‥、なら娘が、いや、やめとこう、娘にしても宰相にしても死ぬし。ネガイもだ、配役的に王か宰相の息子になって貰わないといけなくなったな」
二人して笑い合ってしまう。復讐の悲劇が俺達にとっては喜劇になってしまった。
「ハムレットの叔父は毒で苦しんで死んだ。‥‥私は、あなたの目で傷を負ったけど、死んでない‥‥、あなたは死んだというのにね‥‥」
「でも、叔父は2回も毒を飲んでない。マトイは、毒って知ってて2回も俺に会った、違うか‥‥?」
自分だって二人に会ったらただでは済まないと思っていた。ネガイもだ。だったらマトイも同じに思っていても不思議じゃない。
「‥‥私にとってあなたの目が毒になったのは昨日の夜からです。殺した時の目はきっかけでしかありません」
「そんな事無い。マトイは俺を殺した次の日、夜中にミトリの姿で来た時にはもう苦しんでた。‥‥やっと苦しめるなんて嘘だ、その傷を負う前から、俺を殺した時からずっと一人で苦しんでた‥‥、じゃなきゃ見舞いなんかに来ない‥‥ありがとう。ネガイの傍にいてくれたんだろう?勇気付ける為に」
ネガイとマトイはもうそれぞれ名前で呼び合っている。俺がいない時に二人は友人と言っていい関係になった、そしてそれはマトイからだ。ネガイは不器用だからミトリにも頼れずに苦しんでいた。そこのマトイがいてくれたから、あれで済んでいた。
「彼女とは契約をしていましたから、パートナーの精神を気遣うのは当然の事です」
「それを俺にもしてくれた」
一度止まる。マトイも振り向かない。時間が止まった、もう実験室は目の前なのに、その距離が遠くに感じる。
「どうしました?」
マトイの問いに無言で車椅子の前で出る。マトイは驚いた素振りも見せないで俺を目で捉え続ける。
「見舞い客はマトイが初めてだった」
「そうですか‥‥」
再度マトイの前に跪く。
「嬉しかったんだ、マトイを見れて。でも、怖かった‥‥、またマトイに、‥‥大丈夫、ありがとう‥‥」
背もたれから身を乗り出して右目に手を当ててくれる。目の手に自分の手を重ねてマトイと指を繋ぐ。
「マトイが思ってるよりも俺は弱いんだ‥‥。マトイに殺された次の日には、もうマトイに会いたくなってた‥‥」
「私もです。鋭い刃も腕もあのローブも‥‥、弱い自分を守る為だけの鎧。自分でやったのにあなたの意識が目覚めたと聞いた時、安心してしまった。あなたに会って姿を見なければ私は狂ってしまいそうだった‥‥。二人とも弱いですね」
また二人して笑顔が溢れてしまう。お互いどちらも未熟な愚か者の顔だったに違いない。マトイは目から手を離す。
「弱い私はあなたにして貰いたい事があります。それはなんだと、」
奇遇だった。俺もマトイとしたい事があった。
「躊躇がないですね。‥‥私弱いので惚れ直しそう‥‥」
「俺も弱いんだ。マトイに頼らないと生きていけない、だから二人で強くなればいい、傷を舐め合って」
「あなたが一方的に私の口を舐めただけ、今度は私から授けます。抱き上げて、あの時みたいに」
あの屋上の時の様に抱き上げる、あの時との違いはマトイに一切の筋肉を使わせない事、腹筋など決して使わせない。決して落とさないと心に決める―――もしここで撃たれてもマトイを離さない自信がある。それがマトイの手だとしても。
首に両手を回して見つめてくる。既に、その時が今か今かと待っていた。
「‥‥」
これほどまでに顔を見つめているというのに、マトイは何もしない。もう心臓が張り裂けそうだったのに、確実に心臓の鼓動が伝わっているというのに。
そこで俺に我慢をさせているマトイが薄く笑った。
「欲しい?」
「‥‥欲しい」
「‥‥目を閉じて‥‥」
目を閉じた。が、なかなかあの花が口に来ない。なら、またこちらから、と思って目を開けた瞬間。マトイはずるかった。
目があった瞬間に口を奪われた。これが心を奪われるというものなのか、マトイを惚れ直してしまった。
「足りない‥‥」
「飲む?」
返事もしないでマトイにむしゃぶりついた。床に降ろし、マトイの頭と腰の下に腕を置いてそのまま続ける。その度にマトイと目が合う。
忘れていた。マトイの目には俺を従順にさせる力があったのを、その時に思い出した。これでは俺がマトイに迫っているのではなくマトイが俺を操っている。ハムレットは王の幽霊に従って叔父を亡き者にしようとした、今の俺にとって、マトイこそが王だった。
「まだ足りない?」
マトイに背中を叩かれ、ようやく正気に戻れた。
「‥‥足りない‥‥」
気付いてはいた―――後ろの扉からの物音と視線に、でも足りない。もっとマトイを呑み込みたい。
「そうですか、なら私も正直になりますね。‥‥私も足りない‥‥もっと私を、飲んで‥‥」
大人の顔になっていた。目なんてレベルじゃない、マトイに、自身の身体を全て使って操られる。声も出ない、固い床から守る為挟んでいた腕の痛みすら感じない。
「はい。おしまい」
「‥‥なんで」
「ふふふ‥‥私の言う事を聞けないの?」
その声には抗い難い魔性の力が宿っていた。今も胸を掴んでいた欲情をマトイは指先ひとつで制して車椅子に戻せと、視線で伝えてくる。
「ほら、いい香りがしませんか?」
「‥‥ハーブティーの方が好きか?」
「私の為に、彼女達が用意していうるのですよ?むげには出来ません―――ふふ、また後で」
抱き起こしたマトイに耳元で囁かれてしまい、次の声が生まれて来なかった。
何事も無かったようにマトイを押して入るが、冷たい視線はそのままにネガイが車椅子を奪っていった。
「経験が少ないので、乱暴でしたね」
「ふふ、あれだけ愛してくれているのだから平気です。ただ、同年代の男性に合わせると気を失ってしまうかも‥‥いい匂い」
「気に入りましたか?」
ネガイがマトイにマーシュマロウを差し出した。あれは喉にいいが、少しヌルッとしているから初めての人には少し飲み難いかもしれない。
「久しぶりに飲みました。サイナさんが用意したのですよね?ありがとう」
「その銘柄を選んだのはヒジリなので彼のセンスが良かったのですよ♪でもありがとうございま~す♪そう言ってもらえると私も準備した甲斐がありました~。はーい、お菓子もありますよ。これは私からで~す♪」
マトイは前に飲んだ事があったようだ。サイナとの関係も良好だ。
「あ、埃が。とってもいいですか?」
ミトリがマトイの頭、髪を見てそう言った。マトイはそれを「お願い」と言って任せる。何かを取った手付きをした部位にマトイはその後軽く触れる。なんとなく気になったではない、何もないか調べている。
「発信器なんかつけませんよ。それにつける機会はこれからありますから」
「緊張感があっていいですね。それでこそオーダーです」
きっと仲が良いのだろう。男である俺にはわからない関係がきっとそこにはある―――考えないことにした。
だが、そんな事は許さないと言わんばかりに、マトイが普段の悪戯っ子な顔を向けてくる―――血の気がひいていく顔が自然とひきつる。
「さっき床に倒された時ですね。ありがとう、気がつきませんでした。ねぇ?」
震脚から次のアクション、掌底を心臓にそのまま受けたようだった――――俺に必要なのは内臓にいい葉っぱだった。一気に茶を流し込む。
「あ、ネガイ。どうしました?校章が歪んでいますよ。誰かにやられましたか?」
「そうですね、容赦なく形を歪まされましたね。でもいいんです。相手のも歪ませたので」
胸の校章を隠す。その手に四人の視線が突き刺さる。肺が縛り付けられる。肺にいい茶葉とはあるのだろうか。
「まぁ、それはそれとして。そろそろ話しますか、いいですね?」
「はい。彼も気になっているようですし。何よりこれは彼の問題です。二人とも、前に話した通りです。いいですね?」
緊張感が走る。漂っている茶葉の香りや空気が一気に変わった。俺以外の全員が俺に何かを伝えると決めた。
「もう逃げません、では始めましょう。引き返せない場所に私達は立っています」
ネガイの顔を正面から見据える。知る時がきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます