外への扉の鍵は、血と眠り
一沢
1巻 改訂版 正気とは―――
彼女は倒れた。目を覚ます筈がない、だって、今も血と肉をかき分ける感触が手に残っている。
自分は彼女達に殺された。目を覚ましたのは奇跡などではない。既に決まっていた結果だった。
「酷いのか?」
「ええ、これ以上無い程に。今はあなた自身が抑制していますが、もう猶予はありません」
言われるまでもない、限界だとわかっていた。
「猶予か、俺をどうするんだ?」
「‥‥もう殺しません。私もマトイも、もう‥‥出来ません‥‥」
ネガイが目を覗きながら涙を流してきた。顔に落ちてくる涙すら暖かい。
ネガイはこんなにも優しい―――こんな俺にでも。
「ごめんなさい。本当に、もう、なにを言えばいいか、わからないんです‥‥」
目から顔を離しても、ネガイはまだ謝ってくる。それを止められなかった。この体の中に、二度と癒えない死の恐怖が一生残ってしまったから。
ネガイとマトイ、二人に会って話せば、また眠らせて貰えれば消える。
そんな事あり得ないとわかっていた。
でもきっと消えて、忘れられるって思っていた。
二人も俺が許してくれるって――—それぞれ思っていた。でも現実は違った。
「俺にだって、わからない。もうお前達に会っても消えないんだ。ネガイとマトイが怖いんだ‥‥」
隠さない。
マトイに全てを打ち明けた、だからネガイにも言わないといけない。
「許してなんか、言える訳無いって、わかってたんです。でも、きっとあなたならって。私もマトイも‥‥」
どうして―――なんで、こうなった。
三人共、こんな結果になるなんて。三人が求めていたものは、皆同じだった。いや、皆違っていた。
「そんな顔、やめて下さい。前にも言いました、あなたは悪くない」
「でも、でもネガイ‥‥俺がマトイを―――俺が!」
顔に手を乗せてきた。涙で腫れ上がっている目に、ネガイの手は優し過ぎた。
一瞬で意識が遠のいていく。
「私もあなたも、マトイも今日は多くがあり過ぎたんです。もう眠りましょう‥‥。」
「嫌だ‥‥眠らせるな‥‥!ネガイ‥‥」
抵抗なんか出来ない、だって待ち望んだ『約束の手』があった。
「二年も眠らせません‥‥。数時間、いつも通りの時間であなたは起きる。私が傍にいますから‥‥だから眠って。私も‥‥今は誰とも話したくありません‥‥」
睡魔に落ちていく、自分はどこまで行っても自分のことしか考えて無かった。
いつもそうだ、自分の都合しか考えてない。ネガイもマトイも、あらゆる手を尽くしてくれたのに――――ああ、なぜ、何故あの場で止まれなかった。
1章 未だ人の世界から
「冗談‥‥ですよね?」
上記依頼は依頼人の契約不履行によって依頼契約の無効及び取り消し。
窓口から渡された書類からは一切の慈悲のない文言が述べられていた。無効に取り消し、全くないわけじゃないが、それでも全てを遂げてからこれでは詐欺に近い。
窓口の一つに詰め寄っている俺の後ろを他の学生達が忙しなく走り周り良い仕事や依頼はないか探し聞き続けている。
ここは本校舎内の施設の一つ。斡旋室—――職安だった。
この学校は一部の生徒を除き、ここで仕事を受ければ単位が獲得出来る。
そして最低限の単位をここで獲得出来ないと、進級も卒業も許可されないという恐ろしい制度がある。
だからこの学校に通う学生は皆依頼の内容には厳しい目を向けていた。
簡単な内容だったとは言え、念のために整備や下見。そういった諸々の準備を時間と金をかけて履行したのに、これだった――――。
「申し訳ありません。これは本部からの直通で裁定された内容らしく、その‥‥」
本部とは省庁の事だった。このような命令、予想もしていなかった。
「どうにかなりませんか?しかもこれって依頼自体が無くなるって事は、単位も出ないって事ですよね?」
喉を締め上げるように、息苦しそうに受付嬢は小さく肯定した。
こちらも単位や金を目当てに受けているのだから、ただでは帰れない。だから必死に受付さんに喰らいついて粘るが――――受付の意思は固かった。
「申し訳ありません‥‥。私にはどうしようも‥‥」
意識が遠のく。楽そうだと思って受けた依頼ではあるが、報酬も単位も出ないとわかっていたらそもそもこの依頼は受けていない。
他の依頼を受けて単位や報酬を受け取っていた。わかっていたら数日とはいえ時間をかけて下調べなどしていない。
あまりにも理不尽だった。
「—―――わかりました。じゃあこれ、」
これ以上ここで何を言っても変わらないらしい。もう諦めて他の仕事を探す事にして、かかった経費をまとめておいた書類を渡すしかなかった。
「これ経費なんで、受理しておいて下さい」
流石にこれは貰える。そう思い、書類を受付さんに渡そうとするが、手が伸びて来ない。
「‥‥」
なかなか受付さんが経費が書いてある紙束を受け取らない。しかも下を向いて顔も目線も合わせない。
無言の戦いだ、少なくとも経費だけは必要。そうでなければ完全なマイナスになる。それはこの学校でも本部でも忌避されている事柄の筈だった。
「まさか、これすらも‥‥?」
「本当に申し訳ありません!私もこれは変だって思ってるんです!」
受付さんは、土下座でもしそうな勢いで頭を下げて来た。だが、この謝罪にどれだけ価値があるだろうか――――無論、無価値だった。
完全なマイナスは許されざる事なのに、学校側も本部もそれを強制してきた。
完全なるパワハラだ。
また、この受付さんは絶対に俺よりも格上。そんな人が悪いけど我慢しろと言ってくる、腰の低いパワハラだった。
「どうにもならない感じですか?‥‥本当に?マジで?」
質問という嘆きにコクコクと頷いてくる受付さん。だが、目線を外しながらなので隠し事があるのは確かだった。
勘弁して欲しい―――これは本格的に異常と呼ばざるを得ない。一度でもこんな事があったのでは、ただでさえ低い本部の信用度を下げる事になるというのに。
「せめて理由だけでも教えて貰えませんか?」
納得出来ない、こんな事をこれから何回も繰り返されてしまう可能性があるなら信用問題だ。到底、いち行政の下した命令とは思えない。
依頼内容は不良を追い出せ、だけだった。依頼人の地域の有志の方々が集まって依頼料を出す、そんな話でしかない筈だったのに。
「あー実はですね‥‥この依頼は、不良グループ内の別の派閥の学生が依頼人だと発覚したらしくて‥‥。そもそもの依頼手付け金は盗んだお金で、しかも本報酬金は成功を確認したら逃げるつもりだったみたいで用意していなくて。依頼人の名前も赤の他人、偽名だったみたいですね‥‥」
受付さんが息を潜めて話してくれた内容に、溜息ひとつ出なかった。
「つまり俺は、そんな子供の喧嘩にただ働らきさせられたって事ですか―――何で今の今までわからなかったんですか?しかも成功したら逃げるって、そいつの目的達成してるじゃないですか」
「その‥‥」
後ろを見て誰もいないか、確認しながら話してくれる。
「貴方が追い出した不良も依頼人の不良も‥‥親御さんがその‥‥やんごと無き人達みたいで」
「—――もしかして、俺は、まとめて捕まえる為に泳がされたと?」
「多分‥‥その通りです‥‥。」
騙されているふりをして、俺に依頼をさせながら裏では本部が総取りをしたと。
どうやら、ただで芝居に参加させられたという事らしい。しかも経費すら支払われない。闇に葬る気満々で、既にそれを成し得た後のようだった。
「了解、じゃあこれ一応、受け取っておいて下さい。支払われるならその時連絡して下さい」
紙束をどうにか受付に押し付けて受付室から飛び出る。
望みは薄いが何かあった時にあの受付さんが便宜を測ってくれると、信じる事にした――――期待は出来ない。所詮、あの人もただの受付でしかないのだから。
重い足を引きずって、誰もいない教室に戻ってみても案の一つも出ない。
窓から空を見上げて一息ついてみる。4月の後半にして、もうすぐゴールデンウィーク、今年は気温が若干ながら高かった。
「どうしろってんだ」
儲けは無し、しかも赤字。既に高等部一年の学費は支払いはしたが、お陰で生活費は底が見え始めていた。武装の整備に、交通費、報告書の印紙代などなどの常時手元に必要な費用を、今回は受け取れない。
「稼がないとなぁ‥‥」
中等部で経験しなかったお金のやりくり、これはなかなかに度し難い。
もう一度空を見上げる、空から報酬が降ってくる訳でもないのについ眺めてしまう。空と人生相談をしても仕方ないと、下を見ると他の生徒達は放課後に心を躍らせて、数人でじゃれあいながら帰って行く。
「整備費用だけでも稼ぐか‥‥」
「参ったな‥‥。こいつの維持費もあるのに」
ホンダ・ホーネット、前の安売りで売っていた中古。うなだれながらも生徒の駐車場に戻ってきていた。
「ただ便利な足だと思って買ったけど、今更手放せないし‥‥」
どうにもこの単車に愛着を持ってしまった。それ以上に250ccと舐めていたがなかなか使いやすくて速い。もう二輪の便利さを覚えてしまったら戻れない。
高校進級時に必修で普通免許を取らされ、周りに流される形で大型二輪も取っておいたが、これは意外と良かったかもしれない。
「どうにかしないと。こいつで稼いでる部分もあるし、今は手放せない‥‥」
「今から帰りですか?」
整備するでもなく、ただただホーネットを屈んで眺めていたら話かけられた。
後ろを振り返ると、この学校には似つかわしくない清楚な女生徒—――だが、清楚と言いつつ髪の色が異常だった。日に当たれば銀髪で通るが、実際はくすんだ灰色。
そして、黄金の瞳。
「そっちもか?」
「はい、今から―――」
当然のように、座席からヘルメットを出して後ろに座る。メットを二つ用意しているこちらにも非はあるが、寸評として清楚は外さないとならない。
「ほら行きましょう。まだ学校に用がありますか?」
疑問を持つ方が異常なようだ。結構な頻度でこうやって、後ろを占拠していた。
「ガソリン代」
「お金取るつもりですか?」
「ガソリンがかかるんだよ、お前が重――」
こめかみすれすれを、弾丸が突き抜けて行った―――耳の中で木霊する銃声に耐える為、しばし風の音を聞き続けていると、わからないと言った風に袖を掴んで首を捻ってくる。
正直受けたこちら側は顔が引きつった。もし顔を振っていたら頭を抉る勢いだった。
顔もそうだが、それと同じ位にここで撃つなんて、正気を疑う。
ミスなどしないだろうが、もしバイクは勿論、他の車両に当たったらどうする気だったのだろう。
「行きますよ。良いですね?」
諦めて普段通りに二人乗りでエンジンをかける。傍目には後ろから女子に抱きつかれている構図だが、今までの行動の所為で人ならざる何かに抱き締められているようで、背筋に寒いものを感じていた。
車両用の出入り口を通って、改めて校門へ向かうと、
「それで今日はどうしましたか?」
「運転中、話かけるな。良いな?」
叱りつけてしまったが、話すと舌を噛みそうになるから、話したくないだけだった。、だが注意されたのが気に食わないのか、腰周りの腕をきつく締めてくる。
「なんだよ‥‥。わかった。今止めるから‥‥」
吐き気を覚えた所で、校門の外れに止めて後ろに振り返る。そこには、勝ち誇った黄金の瞳が輝いていた。
「それで、今日あった事か?」
「はい、私には聞く義務があります」
バイクから降りてヘルメットを外し、こちらの顔を覗いてくる。仕方ないので懇切丁寧に話す事にした。依頼や報酬については、特に―――。
「そう‥‥。その依頼はそういう事ですか‥‥」
「まさか、あれに噛んでるとか言わないでくれよ‥‥」
「そんな訳ないでしょう?知っていたら止めてますよ。貴方は私の患者なんですから。‥‥確認ですけど、目を多用してませんよね?今のあなたではそれを使いこなせない。だから―――私が定期的な治療をしているのですよ」
「わかってる、余程の事が無ければ使わないようにしてる。してるから」
白い目で射抜かれる。自分だって出来れば使いたくない。だけど状況が状況であれば、場合によっては使わないといけない。
「はぁ‥‥仕方ない、戻りますよ、目の調整をしましょう」
これが俺を患者と言う理由だった。
言われた通りに校舎に戻り、救護棟の彼女の施術室に入る。
「少し待って下さいね、今準備をしますから」
部屋に明かりをつけた時、真っ先に目に入るのは部屋の真ん中のパイプベッド―――それだけではない。頭部に覆い被さるようなレンズがついた
広めの部屋で、大きさ的に教室にも見える。入って右手側の壁は全て窓ガラスなので尚更、教室に見えた。
ネガイは窓近くの広いデスクの上でPCを操作し、アームの電源やレンズの準備を始める。
見慣れた景色だが、いつも思う。こんな物々しい器具いるのか?と。前にそう聞いたら、「これらの機材は一生貴方に必要になるものですよ!」と叱られてしまったので、もう何も言わない事にしている。
「はい、寝て下さい」
これもいつも通りに、ベッドへ横になる。
息を吐く暇もなく、高めの音を立てながらレンズが、目に近づいてくる。
「目を開けて、力を抜いてリラックスして下さい」
その通りにレンズに目線を向けていると、ほんの数秒で機械は離れていった。そのままネガイは何かをPCに打ち込んで行く。
「前にも聞いたけど、何書いてるんだ?」
「前にも言いましたが、教えません」
背中に質問を投げかけてもこれだけだった。このやり取りも慣れてしまった。セカンドオピニオンも、これでは期待出来ない。また、この時間はしばらく暇だ。
長いとこのまま30分ほど何もしないので、眠くなってくる。
「直接、目を見せて下さい」
最後に、直接目を覗き込んでくる。レンズと肉眼で見るのとでは性質が違うらしい。
「‥‥」
「えっと、あのな‥‥」
「静かに―――」
目を見開いてこちらの瞳を覗いてくる。今更だが、やはり美人としか言えない。
更に目の色がとても美しい、完全なる黄金だ。
「興味深い目ですね。判断がつきにくい物を二つも―――手間がかかります」
呆れながらも、ネガイは顔を離して両手で目を覆ってくれる。話したら嫌われそうだが、この温められて痛みが抜けていく感覚は、嫌いではなかった。
目の痛みが、まずは表面の角膜辺り、途中から目の中心部分の硝子体、網膜、視神経へ抜けて、最後に頭全体から硬いものが抜けていく感覚がする。
「痛かったら言って下さいって、いつも言ってますよね?なんで我慢するんですか?」
「―――いまいち、どこが痛いかわからないんだ‥‥。だからその‥‥痛いって感じにくいって言うか‥‥」
痛みが取れて目が温められていく――ほどなくして、眠ってしまうだろう。
いつもそうだ、この眠気にはいつも逆らえない。
「良いですよ、寝て下さい。静かにしてもらっている方が―――」
「そろそろ起きませんか?もう暗くなってきましたよ」
ネガイに起こされて、部屋の時計を見るともう7時だ。相当眠っていたようだ。
「あー‥‥起きるか‥‥」
軋むパイプベットから起き上がり、自然と伸びをしてしまう。
「このベット、もっと良い物にしないか?寝心地あんまり良くないぞ」
「さっきまで眠っていた人が言う事とは思えません。これで眠気を覚まして下さい」
貰ったコーヒーを飲みながら、窓から外を見る。生徒は未だにいるが、もう帰る生徒ばかりのようで大半が校門に向かっている。
この街に来てもう三年、—―――られたと言っても良いが。意外とこの学校が気に入っていた。住めば都、そう言い聞かせなくても、好んで住めている。
「目は覚めましたか?もう帰りますよ」
「―――そうだな。帰るか」
そしてホーネットで二人乗りをして、寮を目指す。
学校外だが、ここ周辺はオーダーの施設が大半。何故ならば、オーダー街という言う、捻りも何もない名前の地区だからだ。ここから寮はそれなりに距離があるがそれでも見えるもの、通るものは全てオーダーの建物。
歩行者も車も大半がオーダー関係者。でないこの街では生きていけない。
「スピード出し過ぎでは?」
「これが法定速度でこれ以上遅くは出来ない。免許持ってないのか?」
そう言い返したらネガイは背中に顔をうずめて何も言わなくなった。たまにこう言われる。まず女子寮にネガイを送り、男子寮に帰る。
これがここ最近の日常だった。
2章 血と目の契約
「それは気の毒な事に、ふふ」
「笑い事じゃない‥‥」
「あ、ごめんなさい」
そこに佇んでいたのは正しく死神だった―――周りの風の音など気にも留められない、比較対象にもならない程の美声を響き渡らせる黒の麗人。伸びる影さえ震え上がる程美しいシルエットを浮き上がらせるその人は、恐ろしく、冷酷に、朗らかに、さざめくように笑んでいる。
マトイにスマホで嘆いた結果、放課後は時間があるから直接話せるとの事だったので、幽霊に会いに行く覚悟で指定された場所に訪れた。
そこで事の顛末を説明し終えた時、やはり涼やかで無情な笑みを向けられる。
「ここ、昼なのに誰も来ないんだな‥‥」
呼び出された場所は本校舎の屋上、ソーラーパネルやタービンが集まった場所。
日が強いと嫌だと思ったが、広い屋根がある休憩所で意外と快適だった。
放課後が始まった直後に足を運んだというのに、既にマトイがベンチに座っていた。不審と思いつつ真向かいに座ったが、改めて左隣に座り直してきた。
「これから徐々に暑くなるから、もう使えなくなるでしょうね。でも内緒話には都合が良い。便利って、思いません?」
首を横に軽く傾けて、笑顔で聞いてくる。
その時—――長い黒髪を風が靡かせ、髪の香りに包まれた。
整い過ぎた無駄な物が一切ない顔立ちに目を逸らせず、吸い込まれそうな黒真珠の如き瞳からも目を離せない。手に取れば、瞬く間に霧となって消えてしまいそうな雰囲気を湛えているというのに、その内側には、何か別の物を抱えていた。
「—――えっと、昨日送った件なんだけど」
「はい、あれですね。不良グループの排除の仕事」
髪の香りに惹かれたのを誤魔化す為、急いで質問に入った所、いつのまにか持っていた封筒から何枚かの書類を取り出し見せてくれた。その中でも1番上の紙は、受けると決めた時の書類そのものだった。
「私が調べた所によると、受付さんの話は恐らく事実。ほら不良グループのそれぞれ名前とか諸々の個人情報が記載されてるから」
「こんなに調べて放置してたのか、本部と法務科は―――」
2枚目には住所や年齢、氏名に家族関係、親の仕事などなどを調べ上げられていた。しかも具体的に、どの不良グループに所属している事も記載されている。
所属していたグループは、多くの事件を起こし、関わっていたようだ。
同級生を脅し現金を奪う。未購入の店の商品を破損させて、それを咎めた店員への暴行。これは疑いとしてだが、夜中歩いていた一般人を襲撃し、意識不明、昏睡状態にまで追い込むという事件の参考人として何人かが挙げられていた。
「この名前とか前の大臣の名前だろう。孫とかか?」
「あ、よくわかりましたね。折角驚かそうと思ったのに、ふふ‥‥まぁ正確にはこの人の大伯父が元大臣ですね」
「警察が動かなかったのは、そういう事か。まだ飼い犬がのさばってるなんて――」
軽い気持ち聞いたつもりだったのに、的中してしまった。
メディアやSNSで名付けられたあだ名は、忖度強制大臣—――大伯父が大伯父なら本人も本人、血筋とは抗えないようだ。
「それで俺に払われる筈の報酬はどこに行った。せめて経費だけでも欲しいんだけど。基本的に依頼を全うすれば、報酬は全額振り込まれ筈だろう?」
勿論完全に失敗した場合支払われない時もあるが、それでも途中までの報告を行い、どこまで依頼を終わらせたか証明出来れば、何分の一かは払われる。
「あなたが聞いてる通り、本報酬はそもそも存在していません。だから残念だけど諦めた方がいいかも。仮に本部へクレームを入れても相手にされないでしょうね。大きな仕事の一部を任されて感謝しろって言われかねないって所。ふふふ‥‥」
「相変わらず―――良い性格してるな‥‥頼もしいよ」
「ありがとう、嬉しいわ――」
落ち込んでいる顔を見て、マトイは更に楽しそうに笑いかけてくる。
だが差し迫った問題として食費にバイクのメンテナンス代と家賃、事実として財政は危険水準に達しているのは、間違いない。
「どうにか経費だけでも、もっと言えばメンテナンス代が必要なんだが、だけどその感じだと無理か‥‥」
「残念ながら」
仕事の割に報酬はそれなりだったので、受けてみたら案の定だった。
だけど、同時に違和感も覚えた。
「聞いてくれ―――あいつら、待ち構えてたみたいに武装してたんだ」
「向こうに話がバレていた?」
面白半分だったマトイが真剣な表情で聞き返した。もしオーダーの仕事が外に知られているとしたら大事だからだ。
「まぁ、武装って言ってもバットと、多分人を刺した事もないし、そもそも扱い方すらわかってないバタフライナイフ。見てるこっちがヒヤヒヤした―――日常的に抗争があったのかもな。流石に俺達みたいなのが来るとは思わなかったみたいで、最初こそ粋がってたけど制服に気づいて、オーダーって言ったら逃げ出したから」
『オーダー』。それが自分達の呼び名だった。
新たな秩序維持機構として立件できない犯罪、延いては今まで立件されずに終わった権力者、行政側の悪事を暴き逮捕する。それが元々の目的として制定された法の元造り出された組織。
「それは仕方ないでしょうね。だって、子供達は―――ただの不良だったのでしょう?こちらは日常的に、オーダーとしてこれを使っているのだし」
そう言いながらブレザーの側面下、左足近くを指で叩く。
「けれど、想像以上に彼らは癒着していたのね」
「‥‥マトイもそう思うか?」
「当然でしょう?だって
「ありがと‥‥嬉しいよ。
政権や大企業、中には宗教団体等の組織にとって邪魔な存在を、警察が違法な取り調べ、不法な逮捕をも行っていた。それどころか政権関係者、議員の収賄、個人的な利益の為に施行された悪法などの、犯罪の見逃しが日常的に起こっていた。だが、それらが暴露され政権を解体した時、新しく創設された一機関がオーダーだった—―――だからオーダーの味方はオーダーだけ。
「ふふ‥‥少し前の大規模調査で警察官僚達までも逮捕したのが、自分達以外を支持した一般人を見捨ててしまう程に、腹に据えかねていたようですね」
「まぁ‥‥警察組織内の犯罪を取り締まる事も目的のひとつだし、警察から嫌われてるのは当然だよな。それに今残ってるのは、オーダー発足時に散々逮捕だ立件だされた奴らの残党―――お陰で俺達は民間の傭兵に近くなってるんだから」
「ええ、目に見えての犯罪者は消えてしまった―――隠れた犯罪者を逮捕する為に私達には、特別な経験と知識が必要。だから、この学校で特殊な学科を履修し、将来の監視者とならないといけない。その一環として一般の犯罪や事件の防止に関わって、実績と経験を積んでいる。嫌われているって、便利ですよね」
当然、危険な仕事や犯罪に巻き込まれる可能性がある為、銃規制の一部を撤廃しオーダーの人間には―――帯銃と帯剣が義務付けられていた。
「で、悪いんだけど‥‥何か仕事はないか?勿論そっち以外の仕事で。報酬は手伝った結果って所で‥‥」
報酬も経費も落ちないとわかった。なら次の目的、そもそも金を目当てにした依頼だ、この依頼以上に割りの良い仕事があれば、それを受けたい。
マトイに聞きたかった話は―――実はこっちがメインであった。
「ふふ‥‥残念。こちらの仕事だったら、あなたにして欲しい仕事が幾つもあるのに。本当に移籍して来ませんか?」
「そっちのじゃなくて良いから!普通の仕事で何かないかって、顔が広いだろう!」
息がこちらの唇に当たる距離まで顔を近づけた後、肩に頭を置いてしなだれて来た。一瞬の隙を突かれ、逃げられないよう左足の上に右足を乗せて絡ませてくる。
マトイは学生としては捜査科—―――だが実際は法務科のプロ。
「私の所に来れば、あのバイクを毎日整備して貰えるし、報酬が今の3倍近くになりますよ」
「いいから!将来的にもないし、今もいいから!もしなるんだったら正道な方法でなるから!」
本来、法務科の所属に学生にはなれない。少なくとも高等部を卒業し、オーダーの学科のある大学を優秀な成績、そして多くの事件や、試験を受ければ所属出来るエリート中のエリートに許される部署。
「ふふ、謙虚ですね‥‥。もし自分では能力が足りないと思っているなら、それは勘違いです。あなたは優秀なオーダーの一員ですから。少なくとも私の正体を会ったその日に見抜く、なんて事を出来る人まずいませんよ?自信を持って、大丈夫私とあなたなら立派に務めを果たせます」
最後に、両手を握って笑顔で褒めてくる。
頭が混乱してきた。マトイはただただ純粋な笑顔のままだ。何も隠し事のない純白な少女像を目に焼き付けてくる。そんな彼女が足を絡ませるという大人の女性の交流をして、籠絡しようとしてくる。
あまりにもギャップがあり過ぎて手を振り解けず、顔を見つめてしまう。
「どこを見ているのですか?私の顔が、そんなに好き?」
逃げ場がない。不味い、これは不味い―――精神を律しなければ頷きそうになっている自分がいると、本能が訴えかけてくる。
法務科はオーダーの中で逮捕や立件を、特に行っている。
対象を無力化し制圧が完了次第、捕縛や護送を要請される科でもある。そして場合によっては、独自に犯罪や疑いを捜査し必要とあらば全ての人を、誰であれ裁判所の許可なしで逮捕出来る特権がある。
つまりオーダーの中にいるのに―――オーダーも含めてありとあらゆる組織への特権的な捜査が許される―――超超法規的秩序機構。
発足当時は旧政権の人間は勿論、官僚、それらの家族、関わりのあった企業、警察に検察の人間まで多くの人を逮捕、9割を立件し有罪判決を取った、もっとも嫌われ、最も危険な仕事をしている科である。
「大丈夫です、あなたは無謀な仕事をさせられる鉄砲玉のような扱いを受けるのでは?と考えているのでしょう。そんな事は私が許しません。あなたの全てを私が責任を持って管理します。‥‥あなたはずっと私といれば良い‥‥どうですか?いい話では?」
遂には完全に足の上に乗って、肩に頭を置いて耳元で囁いてきた。
耳がこそばゆくて首の神経が揺れ動いてしまうのに、マトイを降ろせない。
「今あなたに手を貸して欲しい仕事があるのです。それはきっと――――あなたの為になる事ですよ。勿論収入にもなります」
「ち、ちなみに‥‥どんな仕事?」
「私の問いに―――はい、と言ってくれれば、お教えしますが?」
先手を打たれた。内容によっては向いてないから無理、と逃げる気だったが。
逃げ場はマトイによって無くされ、もう前に進むしか無くなった―――だが、どうにか突破口を開く。
「知っての通り、この目は治療出来る人は限られてる。少なくとも、ネガイしか俺の目の面倒をみてくれる人を知らない。そっちは、日本中、場合によっては世界中を飛び回る筈だ。俺に言ってるのだから、何かしらの策でネガイのいるこの地区に定期的に戻すつもりだろうが、俺は目の治療をしてもらわないと―――数日で非戦力になる。飛行機に乗ったら行き帰りだけで目の治療が必要になる。法務科の人数が少ないのは知ってるけど、誘うなら他の奴にしてくれ」
自分の命を人質にマトイの甘言から逃れようとする。
自分で呼び出しといて、この仕事は嫌だから他のはないか?と言っている自分は、オーダーにとって情けない存在だろう。
だが、それで自分の寿命をすり減らすわけにはいかない。法務科はオーダー内で随一の行方不明者が出る部署で、毎年の人員整理の度に何人か構成員がいなくなっているような組織。
秩序の人として、行方不明者が毎年毎年大人数出るなんてあってはいけない事だ。だが法務科は、それを一切改めない。
人知れず、世のため人のため秩序のため命を賭して任務を遂行している、と言えばまだ聞こえは良いが―――死んでるのか生きてるのかわからない行方不明者が毎年多く出るような科になんて行きたくない。
「ふふ、私がそんな穴だらけな策で話していると?」
握っている左手を離してマトイ自身の顎につけて、ニヤリと笑った。
「あなたの目は強者を求めている。そうですね?」
「そうかもな」
「困ったものですね。殺し合いに慣れないと目に血と心臓の主導権を握られて殺されてしまうなんて。しかもそれが、自分より格上じゃないといけないなんて、そんなに死にたいの?」
数少ない、『この目』の異常性を知っているマトイの狙いは、『目の餌』だった。
この両方の目は血を求める。しかも厄介な事に強欲で殺し合いが長くされないと、血を操って俺を狂わしてくる。ネガイに頼った理由がそれだった。
「でも、私ならあなたの求めている存在を用意できますよ。あなたの目が満足するまで、ずっと‥‥。知っていますか、意外とあなたのような方って少なくないんですよ?」
今はネガイのお陰で目をある程度コントロール出来ているが、それは本来の方法ではないらしい。本来の方法は自力で目を使いこなし、目を完全に制御する事。
それをする為には――――死ぬ思いで目を使い、短期間で掌握するしかない。
「敵を用意してやるから、そっちの実働隊になれって事か?」
法務科は、行方不明がよく出る。
法務科は、それを改善せよとオーダー本部から勧告されているが、決してそれを改めてようとしない。それだけ危険な仕事がある―――改められない程の存在と日常的に相対しているからだ。
単純に考えると、オーダーが対処する存在とは、自分達と同じような武力を持つ事が許されている存在。反社会的勢力を抜けば、行政機関の一つ、警察や自衛隊。
オーダーはその特性上、警察などのオーダー以外の国家の治安を維持する行政機関と争う事がある。当然だ、警察内部の犯罪の疑いを捜査して、刑事や行政裁判を起こす事も、オーダーの目的の一つだからだ。
捜査される側も。調べられて痛い腹なら全力を以て排除する。
実際、警察がオーダーの人間に逆恨みの元、発砲した事件も昨今珍しくない。
「だけど目に見えて行政機関と争うって事は、もうそうそうないだろう?精々がこの捜査状を受け取るだ受け取らないだの、水掛け論程度なんじゃないか?」
「そうですね。確かにそういった別の行政機関とのやり取りはつまらないわね。アイツら暇だからって時間ばかりとってなかなか返事をしないの、私達は決して暇ではないのに」
オーダーがその権力を行使するには、真っ当な手続きに手続きを重ねる、適正な手続きが必要になる。法務科は、例外的にある程度は自由な権利行使が許されてはいるが―――――尚も法の元で多くのくびきがかけられている。
無法は良くない。
と、成立したオーダーは誰よりも法を遵守しなければならない。銃や刀剣という直接的な殺傷能力を持っている武器の携帯が許されているのだから、それらを持つ者の立場として責任が重くならざるおえない。
そんなオーダーが法を守らなければ、オーダーの必要性や意味が無くなる。
―――ほら、やっぱり、法なんて無駄じゃないか。
そう言われた時、オーダーは無価値となってしまう。だからこそオーダーは何よりも法を守る事を求められる。
「だから今回、あなたにお願いしたい事はパブリックエネミーの対処となります」
「パブリックエネミー‥‥。ぼかした言い方だな。つまりはテロリストか」
「そして、この依頼はしっかりと依頼の形式、白紙委任状になります」
「堂々と言うなよ‥‥立場上、それはいいのか?」
「この依頼を全うする為なら全ての科延いてはオーダーの省庁の名の下、あらゆる法があなたの味方になります。いつもあなたや私が受けている依頼と同じ、何も問題はありません」
マトイは俺の目の力が欲しい、俺は目の餌が欲しい。
きっとマトイの言っている依頼は、命の危険がある内容なのだろう。
確かに俺は目を完全に制御するため、一人でも多くのツワモノを目の餌にする必要がある。それはただ遠くから眺めているのでは意味がない。そのツワモノと死闘を演じ、血の巡りを覚えて目の起動をなんの弊害もなく終え、心臓の鼓動を自由に行えるようにならないと意味がない。
「知っての通り、強い人間がどこにでもいるわけがない。あなたには依頼を通して、あなたの目にとって都合が良い相手を教え続けます。そうすれば、あなたはここから出られる。それは私にとっても都合が良い事、利害は一致しているのでは?だから今すぐ――――ネガイさんに、会いに行って目の拘束を解けと言いませんか?」
血を求めるこの目は、ネガイに頼るまで自力で止められる範囲にいなかった。
だから俺は、ネガイと契約して目の調整と治療という名の元で、目を自力で扱えるレベルまで下げる
それはマトイの言う通り、目の拘束とも言える。
確かに、目を使いこなせれば、ここに長くいる必要はなくなる。マトイや他の生徒と同じように長期間、外に出られる―――――出来る訳がない。
「悪いけどそれは出来ない」
一瞬で空気が変わった―――、
「何故ですか?理由を聞いても?」
笑顔が完全に消えた。無表情の日本人形のように見える。
足の上に乗っている体の感触や体温は何も変わらない、気温も変わらないのに。
「何か問題でも?あなたは自分の目の為、私は自分の都合の為。何も問題ないのでは?」
手を顎から外し、自然な動作でブレザーから取り出した拳銃ジェリコ491、通称ベビーイーグルの銃口を、こちらのブレザーのボタンとボタンの間に差し込んで体の上から肝臓を狙ってきた。
ベビーイーグルと肌の間にはオーダー標準装備の防弾シャツ一枚となった。
背筋が凍りつく――――撃たれても死にはしないだろうが、この距離では激痛は免れない。
痛みで気絶すれば良いのだが――――決してそれだけでは終わらないだろう。
「あなたを決して死なせない。あなたのためにも言っているのに‥‥理解出来ない?」
喉元に鋭い氷柱を突きつけられている。
今も感じている氷柱の正体は、マトイの視線だった。視線だけで、首の血管が凍り付き、頭を背ける隙すら与えない。ただの視線に、縫い止められている。
片方で手を握り、もう片方では銃で脅す。両方取れと、命じていた。
選択肢など与えない―――自身の中の答えに、頷く以外《《許さない》と。
「—―――武力で脅すのは追い詰められている証拠だ。それに俺はもう契約を済ませてる。既に契約した依頼の方が優先される、これはオーダーの常識だ」
話を聞いていると、悪くないと思った。
だけど、それは出来ない。
「今は、ネガイと契約してる。ネガイを外に連れ出さないといけない。それを破って俺だけ自由になるなんて出来ない―――俺は、一度交わしたした契約は向こうが破るまで続けるって決めてる。ふたりで交わした約束がある」
「撃たない―――もしかして、そう思ってる?」
「撃たれるのは避けたいけど、好きにしろ―――構わない。力で全てねじ伏せて言うことを聞かせるやり口は、俺の趣味じゃない」
何より――――俺がいなくなってあの部屋に、一人でいるネガイを想像したら、苦しくなった。撃たれるよりも恐ろしい光景を垣間見てしまった。
握られている手を振り払い、足の上にいるマトイの膝の下と背中に腕を回して立ち上がる。
依然として銃口は向けたままだが、視線は上となり、こちらが見下ろす形となる。
「俺達は秩序の人なんだ。可能性がある限り契約は守り、それを武力で邪魔するなら‥‥マトイ、お前にオーダーを宣言する事になる」
「—―――」
ここで撃たれたらマトイを落とす事になる、その時は甘んじてその痛みを受けてもらう。
ベビーイーグルは可愛い名前が付いているが.40S&W弾を撃てる。
マトイのジェリコ491がそれを撃てるのか、ここからはわからないが―――少なくともこの距離で受ければ、浅達性II度熱傷以上の火傷。また、しばらくの間は血反吐と血尿が止まらなくなる。けれど、それだけだ。
「だから俺はお前の提案を受けられない。悪いが法務科の仕事は受けられない」
「死なないと高を括っていますね。私が撃つだけで終わらせると考えてる訳じゃあ、ありませんよね?」
マトイの目の奥が深くなる。底知れぬ闇から覗き込まれている気分となった。
それでもと目を合わせ続ける。
目を逸らしたら容赦なく撃たれると本能で感じた。何より――――マトイの目から視線を離せなかった。
「いいでしょう。オーダーの本懐を述べられた以上、私が今出来る事はありません。そこまで言うのならあなたの覚悟見させて貰いますね。私からの誘いを断ったのですから、きっとそれなりのプランがあっての事でしょう」
回答理由に納得したのか、ブレザーに差し込まれていたベビーイーグルを抜き自分のホルスターに戻し、冷気を感じる視線をやめて、試し遊ぶような子供の顔となる。
法務科への誘いは阻止できた。だが――――断りはしたが、俺には仕事がいる。
「あー、それで仕事は?」
「締まらない‥‥。そんなに金欠なの?金銭を女性に強請るなんて―――やっぱり、あなたはダメですね。相変わらず仕方ない人‥‥」
眉間に手を当てて、頭を振ったかと思うと、指の隙間から強い非難の目を向けてくる。
「それとこれとは話が違う。そもそもの目的は仕事で、誘ってきたのはそっちだ。勝手に誘って勝手にガッカリしてるのはそっちの都合だろが、もし銃口を向けて申し訳ないって感情があるなら‥‥」
「全くありません。オーダー内で撃つ撃たれるなんて日常では?前にあなたを撃った時もありましたし、今更何を感じろと?」
前々から思っていたが、この底知れぬ目には良心というものが欠如している。オーダーなのだから、真っ当な良心など邪魔になるかもしれないから、敢えて考えていない人間がいるのは普通ではあったが、マトイのそれは―――真正だった。
「そろそろ降ろして貰えませんか?」
持ち上げたままだったのを思い出し、同じように左隣に座らせる。
軽かった―――武装や装備を加味しても、それでも驚くほど簡単に持ち上がった。
「女性を許可もなく持ち上げて、あまつさえ金銭を要求なんて。紳士のやる事ではないですね。オーダーとして、もう少し大人の男性の作法を身につけては?いずれ法務科に来るのですから、公務として最低限の仕草が求められる時もありますよ」
自分は銃を突きつけて脅しておいて、この言い草だった。反省のはの字もない――――そもそも悪事をしたという気もないのであろう。
「人聞きの悪い事言うなよ。金銭の要求なんかしてないだろ。仕事を紹介をして貰いたかっただけだ。それに、いずれでも法務科には行かない。しっかりと俺は―――この寿命の分を生きるつもりだ」
「こちらに来れば天寿を全う出来ますよ?」
「そりゃ天寿を全う出来るだろうな。任務の度に天寿を全うするかもしれないからだろう」
「大義や多くの人々、引いてはオーダーの存続のために人生を捧げられるって素敵ではないですか?」
目を閉じて、シスターが祈るように両手の指を絡めて言ってくる。
傍目にはとても神聖な雰囲気を纏うが、その祈りの矛先からは限りなく血生臭いものを感じる。
「それで、仕事は紹介してくれるのか?」
「私の誘いを断ったのですから、紹介なんてすると思うの?」
つまらないと言わんばかりに、マトイは席から立って休憩所から離れていく。散々脅しておいてこれだった。もう興味がないらしい。
「マトイ‥‥」
後ろ姿をまじまじと見てしまう。
まだ16歳の彼女は法務科に所属して、恐らくだが多くの任務や依頼を片付けているはずなのに、抱えた時にも思ったが、本当に細い。
病的なまで細い訳ではない、むしろ年相応の体型と体重なのだろう。
だが、そんなどこにでもいそうな彼女は、明日にはもう会えないかもしれない。
任務によって命を落とし、今年か来年の書類には行方不明として明記されているかもしれない。
「聞いて、いいか?」
「ん?まだ何か?」
去って行く背中に声を掛けて、振り返らせる。
考えてしまった。彼女がもしいなくなって行方不明者扱いになった時、後悔してしまうのではないかと。何故あの時断ったのかと。
「その仕事は別の科と合同で出来ないのか?」
「ふふ‥‥そうですね。他言無用と約束するなら、出来ると思いますよ」
待ってましたとばかりに、笑ってきた。まるでそう言うと、予想していたような言い方で――――そんなにも自分は単純なのだろうか。
「その仕事は、しっかりと経費と報酬が出るんだろうな?」
「ええ、勿論。何でしたら準備代も貰えますよ」
「それはいい。装備維持費を先払いしてくれるなんて、今俺が求めていた仕事だ」
楽しそうに上品に手を口に当てて、いつものマトイで笑っている。
自分で言っておいてなんて、下手な芝居だと思った。
でもこれが精一杯の譲歩でもあった。法務科のためじゃなく金のために働く―――ある意味において、金の繋がりは、理由として最も健全な関係なのかもしれない。
「それで?どんな仕事なんだ、捕縛か?捜査か?制圧か?」
下手な芝居を見せてしまい、笑われて辛かったので、急いでマトイに仕事内容を聞いてみた。だがマトイはその問いを手で制してくる。
「こちらの仕事にはいくつかのルールがあります。ここでの説明はそれに反します」
当然の話だった。今現在運営されているあらゆる機関に、嫌われている法務科の仕事だ、人目につかない場所で説明や話し合いが行われるのは、当然だった。
「わかった、そっちのやり方に従う。俺はどこに行けばいい?」
「近いうちに連絡しますね。じゃあまた」
「—―――え?待った‥‥それだけ?」
「ええ、それだけですよ。まだ何か?」
こちらの慌て方が面白いのか、また口元を手で抑えながら笑っていた。
本来、怒りが沸く所だが、金が絡むと立場が弱くなる現状が我ながら情けない。実際、俺は整備費用のために食費を減らすような財力なのだ。
法務科の銭を当てにするしかない。
「準備代でしたら後で、私宛に費用を書面で送って下さい。翌日にでも振り込んでおくので」
それを聞いて一安心だが、費用だけでなく報酬としての収入も必要だった。
「近い内っていつ‥‥ごろになりますか?」
私宛に、という事は一時的にでもマトイが費用を立て替えてくれるという事だと気付き、へりくだった言葉で聞いてみる。そんな態度が彼女のツボを更にくすぐったのか、手で口と腹部を抑えて腰を曲げながら笑い続ける。
ひとしきり笑った後―――まだ治らないのか、肩で息をしていた。
「私を殺す気?あなたに‥‥笑いのセンスがあると思いませんでした‥‥」
「笑わせてやったんだ、教えてくれ」
「近いうちに。大丈夫そんなに遅くならないと思います。あなたの都合に合わされるから」
どうにかそれだけを絞り出し、本当にもう何も言う事は無いと言わんばかりに、踵を返して屋上の出入り口に向かって行った。
どういう意味だと自問自答をしてしまう。こちらの都合に合わされるとは、装備が整った時に連絡しろという事なのだろうか。
ただ―――近いうちと言っても、あの様子では長期の仕事の様子だった。尚更、今の時間にどうにか小金を稼がないとならない。
「それと最後に――――あなたに言っておきたい事があります」
スカートを翻し髪を搔き上げる。次は、何をされるかと身構えるが、親愛の証として銃は抜かない。
さっきマトイは「都合に合わされる」と言った。それは俺が相応しいか試されるという事ではないか?もしそうなら―――ここで来るか。
目で、腕や足の動きを追って彼女が今取り得る攻撃のパターンを読む。
だが、妙だ。腕に力が入ってない。
髪をかき上げた手を、自身の蕾のような淡い色の唇、その端を撫で上げる。
「お姫様だっこって悪くないのね‥‥。」
―――求めていた返答とは違った。
3章 黒の帳
「ああ、フルメンテナンスで」
準備金が貰えるというので、早速ホーネットの整備を整備科に要請した。
マトイのポケットマネーだと聞いたが、車両の整備不足はオーダーの依頼どころか一般の交通にも多大な被害を起こしかねない。
金があるうちに整えておく必要があった。
自分では怖くて出来ないエンジンの分解という技術と経験が必要、おまけに値段が高い整備を注文した。
「どうしたよ?いつも道具だけ借りて、金なんて払わないくせに」
「まぁ、少しこれから使う機会が増えそうなんでな」
整備科の本拠地とでもいうべき工場に、ホーネットを運び整備の契約を結ぶ。
受付に知り合いがいたので「これの面倒みて」と言ったら二つ返事で工場の奥に持っていってくれた。
後学の為、少し覗いておきたかったが、それの許可はくれなかった。
「お前は整備に参加しないのか?お前が、勧めたから買ったんだけど」
軽く話し合っていたら、地下から立体駐車装置を使って白い車が出てきた。舞台装置の迫みたいに出てきたのは、整備が完了したらしいポルシェ・カイエンだった。
それを整備科の生徒が運転して、生徒駐車場へと向かっていく。
金持ってる奴は違う。憎らしい経済格差を、目で感じられた瞬間だった。
「今すぐやるって訳じゃないからなぁ。エンジン分解込みのメンテナンスだから人数がいるんだよ。放課後とかに俺ら一年がいる時に、整備の見学って事で先輩達がやる予定だ」
「そういうものか」
「そういうもんだ。それで、どこからこの金出てきたんだ?なんか良い仕事か?」
マトイという法務科が絡んでいる仕事だから、詳しくは話せない。
そして何より、もしマトイに俺がバラしたと知られたら―――満面の笑みか無表情かはその時になってみないとわからないが、容赦なく
「秘密の依頼だ。誰にも話してはいけない奴」
「つまんねーな、俺も少し稼ぎたいんだよ。ちょっとでいいから関わらせてくれないか?」
「悪いな、それは出来ない。それにお前は整備なんだ、仕事だったら向こうから来るだろう?」
断ったら目に見えてがっくりしてる。だが、マトイの秘密を知ろうものなら、この悪友は明日にはいなくなってるかもしれない。
広義の意味では、これも人助けだ。
「それが出来れば苦労しねーよ、俺らみたいな一年は個人で指名されなきゃ稼げねんだよ。まぁ、さっきのカイエンとかエンジン分解は個人で指名されても結局周りに金払って仕事を頼むしかないんだけどな。あーああ、金払いのいいやつがいればなー」
「わかったわかった。これからちょくちょくお前宛に整備を頼むよ」
「助かるわ、いつも道具だけ貸せって言って、碌に金払わねぇ奴がいるんだよ」
「無礼な奴だな。顔見せたら言えよ、俺が口の利き方教えてやる。ていうか、お前整備科だろう?車両とか出して足で稼げんだろう。何かしらのチームとかメンバーとか誘って作れよ」
整備科は車両のレンタルをする別の顔も持っていた。だから早い段階で調達科や輸送科とチームを組んで、荷物の配送をやるのが古くからの伝統らしい。
最近では、車両を改造して装備科と電話一本でどこでも行くを謳い文句にした出張整備と改造もやっていた。
「まずは技術を磨くのが俺のやり方だ。それをするのは運転技術を先輩方から盗んでからだ」
「そう言えば、輸送科にも顔出してるんだったな。大変だけど、頑張れよー」
口ではこう言ったが、心底興味がない。自分には真似出来ない心意気、立派な心根だとは思うが、この人間の主義にはあまり興味がないので軽く流す。
「んで、俺のホーネットはどのくらいで納品予定だ?」
「ちゃんと契約書読んどけよ。3日後って所だ、代車としてバンディットを運んどくぜ」
「バンディット‥‥タンデムしにくいんだよなぁ。デザインは好きなのに――これからもタンデムを続けるなら400ccを買うか‥‥」
「けっ!あの美人の彼女さんと毎日くっつきやがって。俺はむさ苦しい野郎どもと一緒に、油まみれになってるのによ」
「整備科にだって女生徒はいるだろう。あと、ネガイは彼女じゃない」
「同じだろう!寧ろ彼女じゃないのにあんなにギュッと抱きしめ合って、なんだ?友達以上恋人未満ってか?」
「—――抱きしめ合ってない」
「これだから無自覚はよ」
やれやれといった感じに手を振ってくる。そうだったら、どれだけ良かったか。
「まぁ、それもこの数日出来なくなるぞ。残念だったな。バンディットはタンデムには向いてないぞ。しかもグラブバーもついてないからな!」
「仕方ないか‥‥ネガイにもっとくっつくように言っておかないと。運転しにくいんだよなぁ」
「クッソ!あー言えばこー言いやがって!俺だってな!」
整備科の女子は、須くガテン系で自身の好みではないらしかった。
恐らくは、それは向こうも望む所だろう。その上、そもそもで言ってしまえば、この人間など眼中にないに違いない。
もっと考えれば、何故、整備科にガテン系以外の女子がいると思ったのだろうか。
字面や自分の事を理解しておけば大方予想は出来ただろう。
「俺はもっとこう‥‥清楚で大人しくて。それでいて色気があってだな!」
「そういう人を探せばいいだろう?全部を網羅するなんてありえないだろうが、清楚だけとか、色気だけとかならいるんじゃないか?」
「俺だってな、探したんだよ!そういう人を!なのに、なのに‥‥飛行機の整備工場の見学は無理って言うんだぜ、俺にどうしろと!」
「落ち着けよ、いずれそういうマニアが現れるかもしれないだろう?待ってれば良い人は来るよ、きっと―――」
飛行機整備とは、それはそれはヒットする人は少なそうだ。仮にいてもコレをそっちのけで見学に熱中しそうなのだから、チョイスが悪い。
趣味に付き合わされるのは、つまらないと知らないようだ。
「そうだよな‥‥何度も誘えばきっとわかってくれるよな!」
「ああ、だが良心で忠告しとくと、もっと窓口の広い事で誘っておけ。いきなりそれはマニアック過ぎる」
だが、こも言葉などもう聴こえていないらしく、次の作戦とやらを熟考し始めた。話がズレている気がするが、馬の耳になんとやら、説教の真似事などただただ無意味だった。
「てか、誰を誘ったんだ?」
「お前には言わねーよ。あの子は俺にとっての癒しなんだからな」
「じゃ、いいや。どうでもいいし、何よりもどうでもいい‥‥」
「聞けや!知りたいだろう!?知りたいって言え!」
教えたいのか、教えたくないのか何方なのだろうか。矛盾した心は、理解できない。だが、この人間には度々世話になっているので――――。
「教えてくれ」
足を組んで、その上に肘を突く、考える人の格好で聞いてみる。意外と安定する。
ロダンもこの格好が楽だったから、あのブロンズ像にしたのか?そういえば、考える人とは地獄の門、ダンテの叙事詩の神曲に出てくる‥‥これもどうでもいい。
「そうか〜そんなに聞きたいか〜。なら教えてやるよ、‥‥お前、捜査科って知ってるか?」
直感が訴えかけた。この話は危険だと。
捜査科は事件や事故が起こる前に活躍する科で自分の探索科とよく仕事をする。
そこの女子には一部ある条件が設けられ、それをクリアしなければ所属出来ない学科があった。単純に言えば美人。
「あそこの女子はやめとけ。先輩が言ってたが、あそこにはいつも男の亡骸が転がってるって。お前の葬式は面倒そうだ」
「それは他の女達だ。俺はあの、優しくて、美人で、いい匂いのあの子を知ってる‥‥」
気持ち悪い。そう口を衝いてしまいそうになった。
女っ気が全く無いと思ってたが、こういう所が悪いと教えるべきかだろうか?思ってても言わない方がいいと。
「で、その子って?」
「そんなに気になるか?」
「—――表出ろ」
「そう怒るなって。あの子だよ。あのマトイさんだよ」
「あばよ。達者で」
思い出した。美人な子が中等部から高等部に上がって、早々あの学科から誘われたと。けれど、マトイはあの学科だっただろうか。
「ま〜待て。お前にはネガイさんがいるだろう?マトイさんが誰かといい仲になったら嫌なのはわかるが、別に構わないだろう?」
立ち上がろうとした俺の腕を掴んでなだめようとしてくる。
――――いろんな意味で危険だったので、言っておくべき事ができた。
「なぁ、友人として言っておいてやる。まず第1にあの学科はやめとけ、これは歴史が証明してる」
「でもよ、あのマトイさんは特殊捜査学科じゃないぜ。断ったって言ってからきっと大丈夫だ」
なぜこうもポジティブなのだろうか。こういう奴が早死にするのだろう。覚えておかなくては。
「第2に見た目で判断はやめとけ。オーダーなら相手を観察して隠し事と庇っている部分を調べろ」
やれやれといった感じに両手を挙げてくる。ただ、心配は不要かもしれない。あのマトイが、この人間に、簡単に正体を見破られる事も無いだろう。
「第3に。これが最大の理由だ、よく聞け」
「なんだ?手早く頼むわ。」
「もし今も誘ってるなら。俺を決して巻き込むな、俺が殺される」
マトイに、もしこの愚人が散々誘ってくる裏に、俺がいるなんて勘違いをされたら―――必ずや俺を笑顔で殺しにくる。
「大丈夫わかってるって。ネガイさんの手前、もし浮気でもしてるって思われたら大事だもんな」
「ならいい」
色々と大きな間違いをしているが、構わない。マトイも、流石にこの人間相手に何かしらをけしかける事はないだろう。もししても、俺には関係ない―――。
その後しばらく話をしていたらバンディットは排気量の問題で、既に生産終了をされているとわかった。バリオスは大分前に終了していたと知っていたが、バンディットはつい数年程前らしい。
「そろそろ行くか‥‥。じゃあ、バイク頼む。またな」
「おう、またな。次は休み中だな」
そう言って、手を振って工場から挨拶をくれる。いい奴なんだが、頭が足りない。
「はい、じゃあ横になって下さいね」
ここに来たら、挨拶より早く目の検査、調整と治療から始まる。
一瞬だけモニターが置いてある机を見ると、淹れたてのコーヒーがある。前々から思っていたが、コーヒーが好きのようだ。
「どうだ?」
「ここ最近多用してないようで、上々ですね。褒めてあげます」
珍しく褒められてしまった。明日は雪か?と期待を寄せていると「今何か失礼なこと考えましたね?」と言われたので、聞こえないフリをした。
軽い会話を続けていると、まぶたに手を乗せて治療を始めてくれる。
「それで、何故予定外の日に?—――もしかして、顔を見に来たんですか?」
「あー実は‥‥仕事の件で相談をと思って‥‥」
「そういう事ですか。もしかして私を便利な女と思っていませんか?」
仕事を強請りに来たと思ったらしく、怪訝そうな顔をしているのを感じる。同時に背筋が凍りつきそうな雰囲気を醸し出してくるので、
「まさか、そんな事ないさ。最後に頼れるのは痛い!」
言い訳をする暇も無く、当てている手の爪で顔を刺してきた。
「そういうキザな言い方似合いませんよ?寝ている時に‥‥いいえ忘れて下さい。少し時間をかけるので静かにしていて下さい。寝ててもいいですよ」
そう告げた後、目に手を当てて何も話さなくなった。
指示に従って、静かにしていると、先ほどの痛みも引いて行く快感に意識を手放しそうになるが―――この施術を受けていると前から聞きたかった事が浮かぶ。
「なぁ、聞いて良いか?」
「何ですか?」
「この消えた痛みが、ネガイに移る‥‥とかないよな?」
「—――本気で言ってるんですか?本当に知らないんですね?全く‥‥ふふ、大丈夫ですよ。これは貴方の治癒力の一部を高めているだけですから、私になんの損失もありません」
質問内容が気に入ったのか長く笑い続け、触れている手が小刻みに揺れている。
「心配性ですね」
「気になってたんだ。前に目以外の治療をしてもらった時もあったから」
「ふふ‥‥」
何も問題ない、そう気丈に振る舞っているが、感覚的に自身の体温を使って、この体に呼びかけている気がする。なにも損失がないと言っていたが、恐らく体力は使うのだろう。これは、紛れもなくネガイの体温に包まれていた。
「今度何か差し入れするよ‥‥」
「期待しないで待ってます」
小馬鹿にするような言い草で、また笑ってくる。センスが無いと思っているようなので、後でスマホで調べると決めた。
治療を受けるまで全く眠く無いのに、今はすでに睡魔と戦っていた。完全に寝る前に――――答えを聞くことにする。
「それで仕事の‥‥」
「患者の懐具合を診察するのも私の仕事ですか。仕方ない人です、でも丁度よくもありますね。まずは目の治療が終わるまで待っていて下さい」
色々と修正したい話ではあるが、目の治療が優先との事なので、後は任せて寝る事にした。
「聴こえてますか?」
「聞いてる聞いてる‥‥」
まだ眠い目を擦りながら、ぼんやりとネガイの顔を眺める。
治療が終わり、起こされた後に直近で行う仕事をネガイに教えてもらっていたが、頭がスッキリしない。目の熱が頭を動かすのを邪魔しているように感じる。
気が付いたら、ベットから降りて近くの丸椅子に、ネガイはデスクに備え付けられている背もたれがついた椅子に、それぞれ座っていた。
「全く‥‥もう一度説明しますね。今回私が受ける依頼は大きな仕事です。この仕事には人数が必要なので、私に必要な人員としてあなたを協同契約者の枠に扱う事にします。つまり私の手下です。ここまで良いですね?不服そうですね?」
「不服も何も、手下なんて言葉が使われている事に不安を感じてるだけだ—―」
マトイといい、ネガイといいかなり危険な事をさせられた過去がある為、今度は一体どんな危険な事させられるのか恐ろしくて仕方ない。
現状マトイ宛に整備費用を提出すれば最低ラインの金は貰える。だが準備金という名のマトイのポケットマネーに頼り過ぎるのも悪いので、少しでもまとまった収入が必要なのも、また事実だった。
「お願いします‥‥」
「ふ、仕方ない人です、相変わらず」
返答が予想を超えて情けなかったのか、機嫌がすこぶる良くなった。二人乗りしてくるガソリン代も含まれてるんだぞ、少しは払えって言いたいが「じゃあ、さっきまでの治療費と今までの費用を払え」と言われかねないので、静かにしておく。
「それで、何か探すのか?」
「はい、この依頼によると探すそうです。教導に後で行くつもりですが」
「詳しい事は現地で説明か?無いわけじゃ無いが、そういった仕事は大体怪しい仕事だぞ。まぁ‥‥教導から説明されるなら、適切な依頼として受理されてるみたいだけど」
「はい、本部公認の仕事だと、思います」
「思うか。意外だな、そんな怪しい仕事をやるのか?」
「その予定です。文句あるんですか?」
「いいや、無いよ。それで書類と現場はどこだ?」
ついさっきまでは、上機嫌だったのに、もう不機嫌になった。不可思議だ、どうしてこうも人間は、その時々で性格が変わるのだろう。
下手に突っ込んで聞いたら、また撃たれるかもしれないのでこれ以上は聞かない。
「ここですよ」
「ん?あぁ、書類は今あるのか。出してくれ、今、サインを‥‥」
胸ポケットと内ポケットを漁ってペンを出して、ネガイから書類を受け取る。
書類から現地を確認する―――場所は、行政機関が集まる街だった。
「もしかして?」
「はい、現場はここです。‥‥実は私もワクワクしています。初めて行政側の人間に対しての仕事ですよ―――」
数秒前まで続けていた不機嫌な顔が消え、八重歯が浮き出る捕食者の顔となる。
そこからみるみる内に目の色が変わっていく。
これほどまでに感情が変わるのは、むしろ自然だった。理由は初めて権力者にオーダーが宣言出来る。オーダーとしての本懐が成し遂げられる。
自身の復讐が、ようやく始められる。
「あなたがここに仕事を求めに来て良かった。呼ぶ手間が省けました」
書類束を奪い、ペラペラめくる度に呼吸が荒くなっていく。
「さぁ、やりますよ‥‥。これで私達の目標に一歩近づきました。ふふ、これでやっと近づけます‥‥!」
俺達の目標の一つ、それはここから外に出る事。俺は目によって、ネガイは血によってこの土地に縛りつけられていた。
「やっとだな‥‥長かったか?」
「えぇ、ええ!オーダーに入ってもう10年ですよ!やっとです。ああ‥‥ああ!早く‥‥早く出たい!あっはははははっ!」
一息も吐かずに立ち上がり椅子を蹴り飛ばす。更にヒステリックな笑いを天井に向かってぶつける。そのまま振り返り、息継ぎもせずにデスクに書類を叩きつける。
デスク向こうの窓に自身の姿が映ったのか、窓の外を見ながら自力で落ち着こうと、胸を両手で抑えつけ始める。
「落ち着けよ、まだネガイのに関わってる奴って事はないだろう?」
「はぁ、はぁ、‥‥はぁっ、そうかもしれません。でもこれは大きな一歩ですよ!嬉しくないんですか?私はこんなにも楽しみなのに!やっと、やっとなのに!あなたは嬉しくないんですか!?」
落ち着こうと机に手をついて、もたれかかりながらのコーヒーを口に運ぶが、興奮が止まらないままカップを床に叩きつける。
「私は!今ここにあなたを置いているのは、ここから私を出してくれるって信じたからですよ!違うんですか!?なんとか言って下さい!」
頭を振りながらこちらに向き直し、髪を振り乱す。
それでも収まらないで、こちらを睨みつけて同意を強制してくる。
違うと言ったら殺されかねない。事実殺す気の様で懐に手を入れて、銃器の感触を確かめている。
だが、銃なら完全に狂った訳じゃない。
「‥‥」
首に汗がつたる。慎重に言葉を選び―――ネガイに静かに同調する。
「まさか‥‥俺も嬉しいに決まってる。これでオーダーに入った意味が出来た。これでやっと俺は、俺達は外に出られる」
返答に満足したのか、懐から手を出して目をつぶり祈るように両手の指を組み、荒げた息を落ち着かせていく。
詳しくは知らないが、これも精神を落ち着かせる方法、瞑想と言うらしい。
「—―――すみません、取り乱しました。‥‥今、片付けます」
「いや、俺がやるよ。座って休んでろ、まだ酸素が足りないんじゃないか?」
「でも‥‥」
「構わないから、少しゆっくりしてろ」
視線でベットを差して言いつけると、自覚があったのか、これ以上の失態を見せるのは嫌だったのか、大人しく離れていきベッドに座った。
見た目以上に強く叩きつけたようでカップは粉々、取手の部分だけ原型があるのみ。
「あの、気をつけて、‥‥下さい」
「わかってる。淹れ直すか?」
「大丈夫です」
激情はなりを潜め、普段の傲慢さも消え、こちらを気遣ってくれた。普段からそれぐらいお淑やかならと思ってしまうほど、小さくなっていく。
まずカップの破片を拾えるだけ拾い、二重のビニール袋の中に入れる。その後に拾えない破片の上へ、デスクの上にあった緑の箱に入った紙を被せてコーヒーの残りを吸い取る。
「‥‥すみません」
「いいって、少し寝てろ」
語気を強めに出してしまったらしい。下を向いたままピクリとも動かなくなった。
一連の掃除を申し訳なさそうに見られていて、やりにくいからそう命令したが、いつもならこんな言い方したら不平不満の一つや二つでも飛んでくる。
だがこういう日は、弱々しくてただ謝ってくる。
会った時は今より無表情でほとんど感情を表に出さなかった――――だが目の治療をしてもらう内にこういった今の行動を見せてしまうようになった。
もしかしたら昔はもっと感情的な性格だったのかもしれない。
—―――これはその片鱗のような気がする。
「終わったぞ。今日は—――依頼の話があるみたいだけど、俺はもういい。ネガイはどうする?少しだけでもいいから、聞きに行くか?」
「いいえ‥‥私も、今日は帰ります」
この返答を聞けた事で、気付かれずに安堵する。
今のネガイの見た目が、ホラー映画の怨霊よりも怨霊で、連れて教導まで行き説明を聞くのはほとんど無理そうだったからだ。前に聞いたが、幽霊役は美人じゃないと務まらないらしい。今のネガイならば、どこの女優賞の一つでも取れるだろう。
「‥‥先に帰って下さい」
「その前に何か飲むか」
返事をする気力も残っていないようで、首ひとつでコクリと頷く。普段の彼女からは想像出来ないほど、か弱くて毎回心臓が掴まれてしまう。
カップはもう一つあるが、流し近くの棚から紙コップを二つ、サーバー、ドリッパー、コーヒーフィルターを用意する。
普段、ネガイがやっているドリップを見様見真似で実行してみる。
「いい香りだな」
「‥‥はい」
喧騒が消えた部屋には、コーヒーの香りだけが立ち込めている。
彼女が個人的に選んだブレンドらしくインスタントでは醸し出せない香りがする。
そうか。ネガイがコーヒーばかり飲んでるのは、心を落ち着かせる為でもあった――――毎日、あの激情に耐えているとしたら、並みの精神力ではない。
「ありがとう、ございます‥‥」
コーヒーを入れた熱い紙コップを、両手で受け取らせる。
先程、蹴飛ばされた椅子を拾って、普段ネガイが座っているデスクの前に座る。いつもと逆となった。
「‥‥」
「‥‥」
二人、無言で飲み続ける。暗い彼女を慰める世間話の一つでもするべきかと考えたが、そういうのは求めていないと思った。こうやってただ側にいるだけしか出来ない。目を使わなくても、これはわかった。
「‥‥ごめんなさい」
またあれを見せたのが自分でも相当ショックだったようで、殆ど声を出せないで、泣きながらコーヒーを飲み続けていた。
「ごめんなさい‥‥」
「誰だって好きにどこかに行く権利はあるだろう。ネガイは悪くないに決まってる」
「ありがとう‥‥でも違うんです。私はただの我侭なのに‥‥私はここを出たいって、そうしたらあなたは‥‥あなたは―――」
「いいよ、俺だってただの我侭だ。それにネガイがここから出られるなら、俺もここから出れるって事だ。俺はネガイに感謝してるし、契約もある。だったら俺はそれを守る、それだけだ」
数少ない目を診れる術者。現段階かつ現状では、三日に一度はネガイからの施術を受けないと、目を御せなくなる。
「それに、前にも言っただろう。目を完全に支配出来れば、こんなに短いスパンで診て貰う必要はなくなるって。本当なら今すぐ焦点を合わせてもいい筈だろう?でも―――ネガイは俺からの依頼を守ってくれてる。俺が弱いから」
焦点を合わせる、それはこの目と向き合う意味。どちらが主人か、目と俺で主導権を決める争い。それをするには今の俺では弱すぎる。
――――「その目は生きています」、ネガイに初めて目を見せた時に言われた言葉だ。最初は何のことかわからなかった。でも、全く理解出来なかったわけじゃない、寧ろ納得してしまった。
この目は俺の意思に関係なく、俺とは違う意識を持っている。
彼女にそう言われて、疑いが確信に変わった。
「あなたの目は、まだ繭の状態なんです。最初のうちは宿主である貴方が死なないように目から力を引き出せる、貴方にとっての障害を打破する為の臓器。心臓が三つあるって言っても良いと思います」
三位一体。回回教の教え、トリニティ実験としか知っていなかった。
別に俺の中に神が宿ってるとかじゃない、そもそも三位一体など聖書に出てこないらしい。
「でも、‥‥その目はあなたを蝕んで行きます‥‥。思想や思考を、そして心臓も、いずれあなたはあなたではなくなる。そうなりたくない‥‥目を眠らせる方法を探すそれがあなたの依頼だったはずです。契約、破る気ですか?」
調子が戻ってきた。少しは落ち着いてきたか。
「わかってるよ。でもそれが無理だと判断したら目の主になる方法を探す、こうも言っただろう?」
楽観的だと思われたのか、目頭を抑えながら首を横に振ってきた。
「変わりましたね。目が怖いから助けてくれって泣きついてきた人と同一人物とは思えません」
バツが悪くて苦笑してしまう。あの時の俺を思い出すと顔が熱くなる。
「それに、忘れてませんよね?本当にその目と向き合うなら多くの経験が必要になります。あなたより強い人をその目で捉えて目を養う。目で死ぬか、人と殺し合って死ぬか。そんなに死にたいんですか?」
「死にたいわけじゃない。だけど、これを放っておいても俺は死ぬんだ。そうだろう?」
目に心臓を奪われる。
これはネガイから言われる前から頭のどこかでわかっていた事で、そんなに驚かなかった。だが、思考や思想を奪われるという現実は一時期、その恐怖を痛いほど理解した。もうあの時には戻りたくない。
諦めながら受け入れているように感じる、だから彼女の「あなたは目に殺されます。」という突飛な話をそのまま信じてしまっている。
だが、彼女曰く決して珍しい事でもないらしい。特別な目を持っている人間は目によって苦痛を受ける、目によって生死の境を漂う事は寧ろ多い。
中には扱いきれない目を摘出する人もいるにはいるらしい。
そんな中で彼女の提案が目を常時眠らせて無力化し、最終目標に完全に目の力を消し去る事。その見返りに俺は彼女をここから出す。
それが俺達の契約の一つ。
「忘れてるわけじゃない。ただ、俺は‥‥」
「もしかして、目が惜しいって考えてるんですか?」
心臓が一瞬だけ跳ね上がった。
「もし、それが私の為ならやめて下さい。私はここから出られればいいんです。その後は自分でどうとでもなります」
「それはあれだ、自意識過剰だ。俺はそんな聖人君子になれない。‥‥もういい時間だ、そろそろ帰るぞ」
窓から外を、空を見ると想像以上に長い時間話し込んでいたようだ。
外は文字通りに、夜の帳が降りて街灯以外の明かりが完全に消えていた。ずっとこの部屋にいたのも理由だが、ここは治療や入院を主目的にした棟なので夜でも常に生徒や指導教員がいる。だから完全消灯はない為、時間に気づかなかったようだ。
「そう‥‥ですね。少し待って下さい、今片付けます」
アームレンズとPCの電源、コーヒーに使った機材などを片し、部屋を出る。
棟を出て真っ直ぐに生徒駐車場へ足を向けるが、話しかけてこないのに当然のように後ろを付いて来る。やはり今日も後ろに乗るつもりらしい。
まだ五月の為一律冬服、ブレザーのポケットに入っている鍵を確認しながら校舎の裏を通る。救護棟から生徒駐車場は距離があった。
そもそも救護棟は本校舎からかなり遠く、喧騒から離れるように建てられている。
また生徒駐車場もそれぞれの校舎から離れるようにある為、学校の敷地でもあるのに歩いて向かうだけで、かなりかかる。
それなのにネガイは結構の頻度でバイクに二人乗りをしてくる。
学校の敷地だというのに、今歩き続けている道は木々に囲まれ、事実上の森となっていた。あらゆる棟—――整備棟、実験棟、射撃棟の裏を突き抜けるように作られた道には、街灯がぽつぽつとある程度。当然、森全体を照らし出すには到底足りない光量はただただ頼りなかった。
一応救護棟にも駐車場はあるにはあるが、それは緊急車両が使う為、場所を開けて置かねばならい。
そんな夜道を突き進み、駐車場も近くになった所で話しかけてみる。
「なぁ、いいか?」
「‥‥」
無言だが悪い空気ではないので、このまま続ける事にした。立ち止まり後ろへ振り返りながら、周りに他の生徒の姿が無い事を確認する。
「ここを出たらどうする気だ?」
「オーダーは続けます。私にとってこの資格は生きる為に必須ですから」
前にも同じ事を言われた。ここを出れるようになってもオーダーは続ける、ここは出たい場所でもあるけど、同時に居場所でもある。彼女にとって、今の状況は首輪を付けられていると言ってもいいのかもしれない。
彼女に許されている移動場所は、この学校と寮ぐらいのもの。だからこそ、
「そうじゃない」
少しイラッとしたため強めに否定した。それが不意打ちだったのかネガイはビクリとして混乱した目を向けてくる。
「えっ、どういう意味ですか?」
「え、じゃないだろう。ここを出られたらどこに行きたい?って聞いてんだよ。連れて行ってやるよ。前にどこかの写真をネットで見てただろう―――どこに行きたいんだ?」
「いいんですか?ほんとに‥‥」
ビクビクしながら不安そうに聞いてくるが、契約した時から言うと決めていた。
「もう散々後ろに乗せてるんだから、今更だろ。もし思い付かないんだったら考えとけよ」
暗い夜道の影が、ネガイの笑顔を恐れて消えていく。卑怯だ、そう思ってしまう程の本当の美人だ。揶揄ではない、本当に光り輝いているように見える。
「わかりました、考えておきます。ふふ、あなたも私を後ろに乗せて外を走れる事を光栄に思っておいて下さいね。誰よりも自慢できますよ」
機嫌が完全に治ったらしい。いつものわがまま度が復活したから。
「よし、それじゃあ―――」
その時、ネガイの瞳が開かれ足払いを掛けてきた―――だがそれはいつものお仕置きではない、緊急に頭を下げる必要がある時だけ使う誘導だった。
俺の足を払いながら、ネガイも一緒に倒れるように体勢を低くする。俺は首を全力で振って、上と背後を見るよう倒れながら誘導に従う。
倒れながら――――ついさっきまで首があった場所を一拍遅れて小さい黒い影のようなものが飛んでくるのを、視界の隅に収める。
二人で倒れながら俺にとっての前を、ネガイにとっての後ろを―――それぞれ前転後転をし、地面に片膝付きながら影が飛んで来た方向へ懐から出したS&W M&P、ネガイのsig proを向ける。
「‥‥っ」
しくじった―――ここには遮蔽物がない。
周りには街灯ぐらいしかない。それどころか飛んできた方を見ると襲撃者がいる筈なのに何も見えない。ネガイへ目配せだけをして、目を少し使う。
暗い事には変わりないが、それで襲撃者の輪郭がやっとわかった。
敵は俺達から見て右手側、道から外れ木々に隠れるように―――黒い布のような物を被って立っている。
あれはなんだ?長い黒いローブなのか?シスター服と言われれば納得しそうだが、やはり頭の上から黒いシーツを被っていると感じる。
それに、布で体格がわからない―――背も誤魔化してるかもしれない。顔も完全に隠した姿。手も袖が長すぎて全く見えない。
だが、持っているものは見えた。刃物だ。
「あれを投げたのか‥‥」
クラウディス。ローマの剣闘士や戦争で使われていたような分厚い、ナイフと比べなくてもわかる長大な刃渡りを持った剣だった。どう見ても投げるには不都合だ。
エジプトあたりの曲剣コピシュだったら投げるらしいが、眼前の刃を投げるとは思えない。
剣には装飾もない、実用的ではあるが時代錯誤な武器だ。俺の目線で位置がわかったようで、ネガイもおぼろげながら敵が見えたようだった。
「飛ばしてきたのは、あれではありません」
予想通り違った。後ろに振り返って飛んできたものを見たいが、目を離せない。
「なんのつもりだ!喧嘩でも吹っかけてきたつもりか!」
「‥‥」
無言でクラウディスを上げて、こちらに向けてくる。街灯に照らされた刃が美しく輝く、まだ確証はないが十中八九—―真剣だ。
「今すぐ顔を見せて武器を捨てろ!さもないと発砲する!」
警告の為にそう宣言するが、襲撃者は聴こえてないのか、挑発のつもりか木々の間からクラウディスを向けたまま道に出てきた。
ネガイは今ので完全に臨戦態勢に入った。殺す事は許されない、だから狙いはクラディウス。武器を破壊するか武器を弾き飛ばす。
「チッ‥‥!やりにくいですね‥‥」
布を頭から足の先まで被っている所為で、手元が見えない。
どこからどこまでが腕か予想は出来ても判断が出来ない。
もしかしたらあの布で手に武器を結んでいるのかもしれない。もしかしたら柄の部分が見えてないが、本当は槍のように長いのかもしれない。
いっそのこと布に防弾性があれば容赦なくネガイは撃つだろうが、もしなかった場合の為—――クラウディスに向かって撃つしかなかった。
「警告に耳を貸さない以上、お前は無力化しなければならない!武器の投擲による傷害未遂に銃刀法違反、そして校内への不法侵入でお前を逮捕、抵抗するなら制圧させて貰う!武器を捨てろ!繰り返す!武器を捨てろ!」
オーダーの宣告。オーダーを学校内するとは思わなかった。
必要な形式として、武力解除を命令するが聞く耳を持ってない布は、ジリジリと迫ってきた。
「もういいです。やりましょう制圧です」
ネガイの声に寒気を感じる、恐ろしい程、淡々と冷静に言ってくる。だが、ネガイは焦っているのか、やけに早い段階でそう言ってきた。
「わかった。だけどセオリー通りだ‥‥」
ツーマンセルで一人を無力化する方法は、単純に挟み撃ち。銃口を敵から離さないで円を描くように動くふたりで、間合いを造り出す。
射線にお互いは入らない場所で、ふたりの射線の中心に敵を置くように誘い込む―――十字掃射の構え。
セオリー通りの十字中心点—―――直前に、布はクラウディスを俺達が元いた場所に向けたまま、動かなくなった。
「始めましょう‥‥」
その声に頷き、少し早いが制圧最終段階を開始する。
本来ならここで武器を捨てて跪き、両手を上げろって言うところだが、もう襲撃者は殺す気で武器を放ってきた。優しくする必要はない。
「そのまま動かないで下さい。でないと撃ちます」
これから距離を詰める為にネガイが一言警告する。あとは後頭部などの急所への一撃と手錠をかける――――それで終わりのだった、
「避けて!」
襲撃者が前触れもなくクラウディスを投擲、俺の胸辺りに突き刺そうとしてきた。
僅かな布の動きで腕が動くとわかったのか、ネガイの言葉で身を翻して転びながら避け、後転—――同時に銃声が響いた。ネガイのsig proの音だった。
一旦距離を取り、後転が終わった瞬間にM&Pを向けるが、
「これは―――」
布がネガイの両腕に飛びつき纏わり付いて、銃口を空に向けさせていた。当のネガイも何が起こっているのかわからず、思考が一旦停止してしまっていた。
距離にしてまだ10メートルはあった―――布は自身の一部を、その距離を無視してネガイの腕に飛ばして、締め上げていた。
長い腕を使ってネガイの銃を無効化していた。
「逃げろ!」
客観視している俺の方が先に我に返り叫ぶ―――けれど、抵抗しようにも腕をきつく縛り上げられているようで全く逃れられない。それどころか振り回されるように布の方へと引きずられ、すぐ近くに引き寄せられる。
遂には吊り上げられてネガイの足が浮き、完全に自力では動けなくなる。
ネガイが足で布を蹴り上げるが全く効いていない、表面が動きはするがダメージを与えている様子がない。
「撃てない‥‥」
今、俺の射線上に布、ネガイがいる。ここで撃てばネガイに当たる。だたでさえ原型が見えない『布』に撃ったら、そのまま通り抜けてしまうと考えてしまった――。
しかも、俺が撃とうとしたと考えたのか。
布はネガイの盾にした。振り回され手首の骨に負荷がかかったネガイは苦痛の表情を浮かべる。自力で脱出する為、掴んでいる布に足をかけて逆上がりをしようとするが、それを見越し――――ネガイを振り回す。
移動して射線からネガイを外そうとしても更に振り回し、更に盾にする。移動すればするほどに苦痛を与え続けてしまい、その顔を見たら足が止まってしまった。
限界だとネガイの顔付きでわかった。
歯を食いしばり、手首の骨が擦り合わされる激痛に耐えている。だというのに―――布の正体がわからない。人間かどうかも。
人以外の襲撃、野生生物の対応方はある程度習ったが、これはそもそも生きているのかさえわからない。
銃も刃物も使えない。暗闇で布との間合いを見極めなければ、ネガイにも―――。
考えている間もネガイは振り回されている。逃げようと蹴りを続けているが威力が目に見えて下がっていた――――手首の、動脈の血流が止まっている。
それに気づきネガイの手を見ると―――もう白ではなく青に変色していた。
さっきまで俺の目を暖めてくれていた手が。
大人しくなったネガイを確認してから、布は背中から何かを取り出した。
「—――殺す気ですか‥‥」
一瞬俺には何か分からなかった‥‥だが、街灯に照らされて分かった。短刀だ。
それはオーダーで市販されている得物より長くて、刃が黒く染められている。それを認識してようやく理解した―――そのままネガイの腹を刺すと。
頭に浮かぶ。
吊り上げられたまま腹を刺され、制服を血に染めて白く青くなっていく顔を――。
「舐めないで、貰えますか‥‥私もオーダーです、刺される覚悟ぐらいあります‥‥」
自力で避ける事さえ出来なくなったネガイが、布の操られるままとなった。
殺される―――だから使う。覚悟してしまった時には、もう止められなかった。息を呑み、心臓から両目に血が通る様子を想像する。
「決めたぞ―――おまえが目の餌だ―――」
声が聞こえたネガイが首だけで振り向いた―――もう遅い。
自分の意思で焦点を合わせ第二第三の心臓を動かす。一息で世界が変わっていく―――今まで頭を縛っていたものが解かれ、思考が解放される。
人はものを見る時、両目を使う。両目に入ってきた情報をクロスさせて色や距離をはかる。今まではネガイによってそれを敢えて外し、目を誤認させていた。だけど水晶体を血流を使って毛様体、毛様体小帯の血管を通してネガイから許された限度を超える。
焦点を合わせて、 あの布切れを見通す。
血が頭を駆け巡り全てが目に集まる。
目の表面を血が蠢めいていく。目では足りず耳にも血流の音が聴こえてくる。長く使えば、血が他の臓器に届かなくなり壊死する可能性もあるとネガイは言っていた。
だからなんだ?もはや遅い―――使う、使うと決めた。
眼球が血で染まる。視界の大半が血で見えなくなる。だけどまだ敵が見えるネガイが見える。それだけで充分—――。
「待ってろ‥‥」
右目を使う。
自分の外、今起こっている状況を常時視覚でデータとして引き込み、布の攻撃範囲、攻撃手段を予想する。
左目を使い、右目で得た情報を元に自分の内側を支配し、布とネガイ間に割って入るために必要な脚力、手の拘束を外しネガイを解放するために現時点で俺に行える方法を仮想、仮定、脳内でシュミレート—―――それら形而上の力を形にする命令を下し現実に出力―――実行に移す。
これらの下地の血液操作。これが本来の心臓の力。鼓動を操作して臓器や筋肉に血を通して機能を一時的に向上、下降させる。
一度命令し実行に移せば、後は体がほとんど自動的に動いてしまう。だが、状況は常に変わるため無意識では行えない。
危険な動きで体が悲鳴を、脳が危険信号を出そうが動いてしまう。
強制的に筋肉に血を通して瞬く間に膨れ上がると、体の中の内臓を圧迫、本来向かう筈の血が詰まる。
1秒毎に酷い筋肉痛と足りない血を流せと脳が命令して酸素が足りなくなる――――だが、それらの命令や危険信号を全て焼き捨てる。
最速で目的地に向かう為に、必要な体勢の角度をつける命令を足に下す。
―――見えるのは舞い上がる埃、火花を散らす刃、切り裂かれる布の一本一本。
そして、切り裂かれる己が身を見た布がようやくこちらに振り返った。
ようやく、この布は俺を敵だと認識した。
両方使える時間は数秒。
自力で血を目に集めている時のみだった。よって時間を無駄には出来なかった。
「使いましたね。仕方ない人ですね‥‥」
「ごめんな‥‥」
顔に何かが垂れて伝る‥‥血涙だ。もう限界だった―――。
吊り上げられていたネガイを後ろから左手で抱きしめて、身の乗り出し場所を交代する―――移動中に手に持った自分のククリを下段から振り上げて迫っていた短刀の角度を弾いて変え、その勢いのまま拘束しているネガイの手首辺りの布を切り裂いて救出し抱える。
そしてククリを逆手に握り直し―――胴を振り下ろし気味に一閃、その勢いで一気に滑りながら身を翻して離れる。
その動きの代償として―――ククリはあっさりと折れた。
一瞬で終わらせたが、もう限界だ。今のでかなりの血を代償に目に願ってしまった。目に血を捧げてしまった。
ただ手首を、ククリで傷つけない—―――布だけを切り捨てるだけで。
布自身もネガイ自身も無意識で動いてしまう、それを見越し更に右目を用いて一刻一刻と変わる状況を確認し、左目を稼働させて自身の手を完全にコントロールする。
絶対に失敗出来ない重要臓器の手術の過程でメスを使い、悪性腫瘍付近の血管を傷をつけないように切除する感覚。
それを一秒にも満たない時間で行う。
お陰で手の毛細血管の多く切れたらしく手首が真っ赤に腫れ上がっていた。
代償は大きい、戦場でもう戦えない俺はネガイにとって荷物だ―――だが、わかった事がある、あの布は自分で強度を変化出来ると。
しかも、それを行うには時間をかけて意識を向ける必要がある。
ネガイを捕まえながら蹴りを受けてもビクともしなかった。捕獲と蹴りの防御は同時に出来る。
だが、刃物の防御と捕獲は同時には出来ない。本来なら両方出来るのかもしれないが―――――刃物の防御には一瞬だが時間が必要。
そして、ネガイの弾丸を撃つ腕を邪魔した。
つまり弾丸は防御出来ない可能性がある。
「何が、見えましたか?」
数分とはいえ、動脈が完全に絞められていた顔は白かった。手に血液を差す為に拳を作っているが、操り切れない指が痺れて震えている。
気丈に振る舞おうとしているが、おもちゃのように振り回され、三半規管が狂って視線が傾いていた。
お互い限界であり、満身創痍なのは変わらない。けれど、自分が最後に出来る事は、ネガイを抱えたまま布へと振り返る事だけだった。
立場が変わった—――今度は布が攻めあぐねいて距離を取っていた。
「あれは布じゃない‥‥」
理由はククリナイフの手応えだった。
救出した時の事、初撃は滑らかな荒縄といった強度であったが、一瞬で手応えが切り替わった―――鋼鉄で作られた幾本ものワイヤーに当てた手応えと変わった。
刃物で救出する為と、一気に間合いから離脱する目的で刺さないで大きく振った事で、感じ取れた。布の
その上、二撃目の手応えは、あまりにも違った――――ククリの刃が繊維を切り裂かないで布に沿って滑ったのだから。あれは、ただの布ではない。
「見た目は繊維を編んだマント、だけどあれは真っ直ぐな糸の集まり髪の毛に近い」
視界の血が晴れない。色彩感覚が狂ってきた、街灯も布もネガイも赤く染まって見える。だけど今なら見える、一連の奴の姿を目に取り込み頭の中で再生する。
そして、改めて理解した。
髪の毛が靡くような一本一本の線が、段々と街灯に照らされているのを。
「必要に応じて硬度を変えられる―――ER流体に近いものかもしれませんね」
ある程度復帰してきたから離せと、胸を手で押して来る。それに従ってを下す。
「完璧な防弾防刃性ではないようですね。つまりは、点の貫通は防げない―――」
呟いたネガイは自分の刃物、短めの十字エストックを背中とスカートの裏側から左手で取り出す。布がそれの認識した時、一歩—――下がった。
仮にあのマントがセラミックやスペクトラ、ケブラーの防弾防刃性だったとしても銃弾以上の重量を持った、鋼で造られているエストックは防げない。
例えあれが自衛隊で使われているジェラルミンの盾でも容赦なく貫く。重量がある貫通力を主目的にした武器はそれ程までに、恐ろしい。
「もうあなたの間合いは知れました。覚悟して避けて下さい、動脈に刺さらないように」
右足を前にした前傾姿勢。エストックを自分の顔の位置まで上げ、切っ先を布に向けた―――仕留める構えその動作には、何者も割り込めない。
ほんの一息、その時間を許してしまった。それを後悔する間の与えず、踏み出す。
一歩目は水平に飛ぶように軽やかに、だが二歩目に足を伸ばした瞬間—―――足音を残して影すら消える。
縮地、元の故事によれば土地自体を縮めて距離を詰める、仙術。
そして、彼女の動きは仙術だと言われれば信じてしまうほどの、瞬間移動。
突然現れた場所は、捕まった距離より更に接近して肉薄。布のほとんど懐の中。
その手にはエストック、姿勢はフェンシングの選手に近いかもしれないが、それよりも低い姿勢。狙いは喉、完全に殺す気だった。
ネガイがいた空間を地球の公転によって世界が移動させた。そう説明されれば万人が納得しそうな程の歩法。
けれど、布の動体視力も人間離れしたものだった。一瞬で状況を理解し、頭を捻りネガイの一撃を避ける。
「いい判断です。殺す気で狙いましたから」
楽しそうなネガイの言葉と笑顔、それを見た瞬間、布は更に動く。
足と腰を使い、顔を背けずに後ろに飛んで転びながら、アスファルトでも構わずに肩と顔の側面を使って受け身を取る。続け様に林の中に突っ込んで、更に後ろに逃げ―――体を横にして転がり、木に背中をぶつけて強引に止まる。
「でも、一手私が上手でした。逃げようとする人はいくらでもいますから」
布の顔であろう部分にエストックを向けているネガイが、既にいた。距離にして軽く20メートル、全力で逃げた布を追い抜いて先に林の中に着いていた。
「—――俺の見様見真似じゃ‥‥届かない」
救出時の動きはネガイを真似た物、だから察してしまう。アレになろうとしてはいけない。決して届かないから、と。
ただ足が早いという理由ではないのは明白だった。相手の思考を推察、目的を想像し、相手が最も考えそうな行動を予想する。
少なくとも今ネガイが言った、一手など当然に予想していただろう。
「あなたには黙秘権があります。だから大人しくして下さい、これ以上公務執行妨害を取られたくないでしょう?」
エストックを向けられ、数秒まで絶対的有利にいた布が全く動けずにいた。
理解したのだろう。
少しでも抵抗しようものならネガイは、躊躇なく刺すと――――。
「そのマントを脱いで両腕を出しなさい。それともそのマントはあなたの文化、誇りなのですか?だとしたら謝っておきます。あなたのアイデンティティを差別、非難するつもりはありませんでした」
最後通告として相手の権利を話す、あとは手錠をかけて然るべき組織、この場合はオーダー本部か法務科へもしくは双方に連絡するだけ。
終わった、そう思って気が緩んだ。
「血が―――苦しい‥‥」
血液をコントロール出来なくなった。そのせいで両目を使った事への代償により、
突き刺されるような痛みが、頭を駆け巡る。
前屈みになり、意味もないのに手を心臓に当てて、立ち上がろうと、抵抗しようとしてしまう。
「ここで、倒れられない‥‥。まだオーダーに‥‥連絡を‥‥」
今の有利な状況は俺が常にあの動きを、かつネガイが迷わずに刺せるという立場があって、ようやく成り立つ。
だが俺達は現在満身創痍、俺は目が見えなく今すぐ倒れかねない、ネガイも気取られないないようにしているが、まだ血が巡りきっていなくて肩で息をしている。
もう縮地は使えないであろう。
急いでポケットから救助要請機を手の感覚だよりに引っ張り出すが、握力が抜けてポケットの底に落としてしまい、肺の空気を変えられなくて酸欠になり体勢を維持出来ない。
爪が割れる勢いで指をボタンに突き刺し、電子音がオーダーに通信成功したと知らせてくる。
息をする間もなく電子音を聞きながら――――意識を手放した。
4章
「便利なもんだな。本気でくも膜下出血にでもなると思った‥‥」
「そうですね。私も驚きましたよ」
目が覚めたら見知らない病室だったが、救護棟の一室だと教えてくれた。
施術室とは違ってアームこそないが、恐らくネガイも治療してくれたのだろう。血の霧が消え、視界が血に染まっていない。光を取り戻せていた。
あの後は、オーダー街でのみ使える緊急要請によって、制圧科が学校に乗り込んで、倒れている俺を回収し―――急いで、この救護棟に運び込んだ。
そのまま二日間眠り続けていたらしい。
「俺の財布とか鍵もそこか?」
目線だけでクローゼットを指す。
「武器と制服は中ですが、貴重品は私の方で管理しています。渡しておきますか?」
「いいや、今は必要無い‥‥そもそも、あんまり入ってないから‥‥」
「では、スマホだけでも渡しておきますね」
言いながらスマホを渡そうとしてくれるが――――入れたあったのが胸ポケットの所為だった。自身の膨らみの所為で取りにくそうに胸を揺らし、呼吸を荒げながら必死になって取り出して、息を整えながら渡してくれた。
「身体は‥‥大丈夫か‥‥?」
「それを言うのなら、あなたです。だけど、聞くまでもなさそうですね」
確かに、それなりに危険な状態だと、我ながら恐れていたが―――目が覚めるとなんて事はない、今すぐにでもバイクに乗って寮に帰れそうな気分だった。
「ああ、平気だ。助かったよ、ありがとう。また治して貰ったみたいだ」
「え、ええ‥‥そうですね―――感謝して下さい」
何か考えごとをしていたらしく、一瞬反応が遅れた。
目が覚めた時、既にネガイがそこにいたので、もしかしてこの数日間ずっとそばにいたのかもしれない。
「それで、あの布は?」
「布は逮捕出来ないと言われました」
そうあっさりと言われ、一瞬ネガイの言葉が理解出来なかった。
「あなたが倒れた後、校内であったので制圧が数分できました。‥‥正直私も長く立っていられなかったので、拘束を任せて離れた場所で治療を受けながら説明に入りました。だけど‥‥あの布、線が切れた人形みたいに動かなくなったそうです」
理解できなかった―――まさか制圧科が布の中身を殺したのだろうか?
学生の緊急要請は基本的に制圧科が呼ばれ招集される。校内なのだから招集されるのはまず高等部の学生で俺達より上の先輩達。
だから殺すなんて失態、まずしない筈だ。
「私が見ていた訳ではないのですが、確かに最後まで人の形のままだったそうです、しかしそれをめくっても誰もいなくて。本当にただ布が巻きついていただけと」
妙な話になって来た。中身のない、何者かでもない何かを相手に—――ただの布を相手にしていた。昨晩の攻防は、そういった最後を迎えた事になる。
であるならば――――あの布は本当に人形、マリオネットという事になる。
「本当に、制圧科がそう言ったのか?」
「あなたが何を求めているのか、私にはわかりません。だけど、私はあの場で確かに制圧科の人間からそう言われました」
やけに攻撃的な言葉で返答してきた。いつも通りと言えば、それまでだが。
「勿論、分析の人間が布を調べているらしいですよ」
「そうか‥‥。なぁ、ネガイはアレはなんだったと思う?」
「それを今分析が」
「なぜアレは俺達を襲ったのかって話だ。夜中に、俺達があの道を通ると知る事が出来る人間は―――少なくないんじゃないか?」
ただし、あの時間になった理由はネガイの心の問題だ、それを推測して設置もしくは待機していたのでは―――あまりにも俺達を襲える可能性が低い気がする。
もし昨日、この救護棟を出るまで見張っていて、あの時間、あの道を通る事を知っている人間がいるとすれば救護棟の人間が可能性として高いだろう。
事実として俺達が放課後に駐車場へ向かって行く姿は、日常的に見れるのだから。
「別に私達を狙ったわけではないのでは?オーダーの人間だったら誰でも良かったとか」
「その可能性もあるけど、あんな物を持ち出したんだ。特定の対象を狙った計画的な襲撃の方があり得る気がするのは、おかしいか?」
無差別的な襲撃、あそこを通る人間なら誰でも良いから襲う無差別犯。
その可能性も勿論あるが、あの時間、学校に残っている人間は救護棟で実習を受けている治療科の生徒か整備科の生徒、あとは調達科か装備科の連中だ。
そして、治療科の生徒は救護棟から出る事はまずないし許されない、俺のような急患がいるからだ。
また調達科と整備科は、総じて工房に引き籠っているので、そうそう出てこない。
整備科の生徒なら日常的に無断で棟に宿泊している奴らがいる、かつ生徒駐車場にも夜中でも良く行くだろう。そんな奴らが襲われずに俺達が襲われた。
「少なくとも、元々の相手を決めていた可能性が高いと言えると思う」
「確かにそうかもしれませんね。あなたの言う通り誰でもいいから狙った襲撃より、私達を―――私かあなたを狙った攻撃。そう考える方が自然かもしれません」
「ああ、そう思う。だけど―――そう考えると違和感もある。俺達が対象だったのに、俺達のどちらにも上手く対応していたとは、言えない感じだった‥‥」
「そうですね。ただ私の一撃をあっさり避けました、私一人なら問題なく対処出来ると踏んでいたようですね。次は刺します」
大分物騒な事を言っているが、その後追い詰めて逃げ場を無くしたのだ。あの場での勝者は間違いなくネガイだろう。
「俺は、そもそも数にすら入ってなかったって事か‥‥」
「あなたの目の対処は難しいのですよ。行動すればする程に、相手の選択肢が狭まって行きます。そんな目の対処は‥‥そうですね」
珍しく回答に時間が掛かっている。
目を閉じたネガイは足を組み、その上に手を重ねて静かに思案し始める。
そんな彼女の灰色の髪を窓からの風が揺らし、頬を日が照らす―――目を奪われる鋭い目蓋だった。今は閉じているが、顔が小さいからこそ彼女の黄金の目は誰の目よりも人の目を惹く。
これも過去にネガイから聞いたが、目の力は多岐に渡る。
その中の一つに魅了の力を持った瞳があるらしい、もし実在するならば愛や恋を司る女神を筆頭に、吸血鬼や鬼が持っている。
―――そして、それを人間が持っていたのならば、傾国の麗人と名がつくかもしれないと、そう言っていた。
それ程までに魅了の目は、他人や対象にとって暴力的らしい。
その瞳を一国の為政者に対して使えば、国を食い潰してでも瞳の使い手の為、その瞳を独占せんとする為、心を奪われる。
神や鬼が持っている目だ、人が対抗出来る訳がない。ただし、それは瞳の使い手に対しても同じだった。
瞳の使い手も、その瞳があるからこそ人を堕落させられる。同時にそんな瞳を使うという事は自身も瞳の力に魅了され堕落するという事、もし瞳に意思があるのならば、瞳は人を魅了する為—――宿主たる人間を使っていると言える。
人はただただ瞳に仕えるしかない。今の俺のように。
だが、今の彼女はそんな瞳は必要ないと言っているように見える。なぜなら、目を閉じているのに、こんなにも目を惹かれる。
もし、今のネガイが絵画として永遠と残るのなら、国を売ってでも、人類を裏切ってでも独占してしまいかねない程に、今の彼女は現実離れした姿—――麗人だった。
「有無を言わせずの圧殺です。私なら一息で無力化してみせますよ」
そんな女神にも傾国の麗人にも勝りかねない彼女の回答は、美しさと暴力性を兼ね備えた身震いする物だった。
「瞬殺って事か?」
「そうです。あの布も対処に困ったのでは?ただあなたの目は言うなれば受け身の力ですから、あなたに攻撃さえしなければと考えていたかもしれません。その目は対象の力量を確認する事—――それが最大の目的。だからこそあなたの目は強者を求めてると言えるのです。出来る限りの敵に対しても使わず、敵の行動を推測出来るようになり、最終的にはその目を使わずに心臓だけで結果を出せれば最善です」
「一息で殺されないようになる為には結局、慣れが必要って事か‥‥血生臭い」
「血生臭くないオーダーなどいません。目元が血塗れたあなたは、その最たる例ですよ―――それで、あなたに今一度聞かないといけない事があります」
神妙な顔となった。今の会話の流れから察するに目の今後について、
「眠らせるか、支配するかって話か?」
「そうです。そして結論から言います。まだ目を眠らせる気があるのならば、もう目を使ってはいけません」
「‥‥怒ってるか?」
何度か目を使ってしまい怒られていた、だがそれは定期的な治療でどうにかなる範囲のもの。
けれど、今回は違う。今まで目の使い過ぎで若干目が見えなくなる事もあったが、あそこまで目が血に染まった事は数える程もない。
それどころか、心臓の鼓動をコントロール出来なくなり酸欠になるなんて、起こったこともない。
確実に目に対して過剰な要求をしてしまった、その代償がこれだったのだろう。
「いいえ、あの状況ではそれが最善だったと思っています。‥‥私を助ける為だったのですから」
少し目線を逸らして、そう呟いた。
感謝こそ伝えてこないが、頬を染めるネガイを見れたという事は――――それだけ価値ある行動だったと胸を張れる。
「手はどうだ?血、流れてなかったんだろう?」
「腕と動脈自体は何も問題ありません。長く感じましたけど、数分程度のものでしたから」
両手を顔の前に出してグーパーしてくる。色も形も歪んでいない綺麗な手だった。
血流が止まってもすぐには壊死はしない。だが、それが長く続くと激痛が流れる、最後には手の先端の色が青くなる。
あの時、ネガイの手は青くなっていた、痛みは当然のように感じていただろう。そんな中、縮地を使った突きをやってくれた。二重に感謝すべきだった。
「私の手よりあなたの目です。さっき言った通りですが、あなたはもう目を使ってはいけません。その目は――――もう羽化寸前の所まで達しています」
「ああ、そうみたいだ‥‥」
身を乗り出したネガイが左手が右目を押さえてくる。手の温かさに少しだけ安堵する、本当に何も変わらない、いつもの手に戻ってくれていた。
「眠らせるというそもそもの目的を達成するならば、それの方法がわかるまで、もう目を使わないで下さい。あなたの目が爆弾だとすると、導火線に火が灯りました。今はそれを遅らせている程度、時間の問題だと思って下さい」
「‥‥覚えとく」
「ここからが本題です、あと1度でも使うつもりなら‥‥。目を制御する術を入手しないといけません」
「制御しないと‥‥死ぬのか‥‥俺は」
「はい、目に心臓を奪われ死にます。目に血の所有権を奪われ脳や臓器を操られ、死ぬまで目の言う通りに体を操られます。他人から見ると狂人のそれです。間違いなく他のオーダーからすれば拘束対象となり果てる」
問いに答えたあと、ネガイの手に熱が宿る。
「今すぐ答えろとは言いません。今はまだ、あなたの都合で言って下さい、ただ忘れてませんよね?私はあなたが、ここから出してくれると言ったからあなたの世話をしているのですよ」
「覚えてるよ、そういう契約だっただろう」
「覚えてるのなら言わせて貰います。あなたが目を制御しようが、眠らせようが、私はどちらでも構わない」
突き放すような言葉だったが、それが正しい。
ネガイとの関係はお互いの契約、お互いの都合で成り立っているに過ぎない。前からそう話し合っていたのだから、寂しさなど感じる必要はなかった―――。
「あなたの目はあと1度で完全に羽化します。死ぬ前の最後を私の為に使ってくれるのなら、あなたの命は私が繋いでみせます、あなたがどんな姿になろうと、私があなたを守ってみせます。だけど、もし最後を自分や他の為に使ったのなら――――私はあなたを捨てます」
「何が言いたいんだよ」
「改めての確認、それだけです」
ネガイがいないと、俺は本当に数日で目に支配される。
その時、俺はどうなるのか正確にはわからない、だからその時が来ない為に契約を交わしていた。
「わかった、目を使う時はネガイの傍にいる。約束する」
「その言葉、信じますからね」
話が終わったネガイは、目から手を離し椅子から立ち上がる。
「明日、また様子を見に来ますね」
「あ、あの依頼どうなったんだ?」
思い出した、ネガイが言っていた仕事があった筈だ。
そもそもあの時間になったのはあの依頼があったからだった。だが、それをこともなげに「断りましたよ」と一言で済ませられた。
—―――罪悪感、そんな感情が、口から溢れそうになる。
「悪い‥‥。俺のせいか?」
「—――そう言えますね。あなたが昏睡していなければ受けていました」
「良かったのか‥‥。あれは‥‥ネガイにとっての―――」
「構いません。それに、あの時は私もどうかしてました。あんな精神状態では教導も私が受ける事を、良しとは言わなかったでしょう」
「そうかもしれない。教導はいい加減だけど、依頼に関してはシビアだ。俺達じゃあ、是非を問われていただろうな―――今度は、俺から誘うよ」
「ふ、まずはまともに自力で稼げるようになったら言って下さい。教導もそんな金欠に仕事は任せません」
気を使った言葉を、ネガイは鼻で笑った。
「い、依頼で個人の懐なんか調べられるかよ!—――ネガイ‥‥助けて‥‥」
急に声を出した所為だ。内臓から狂ったように血が心臓に流れ込む。
心臓が跳ね上がり、目が回る。何も入っていない胃が回転し始める。
さっきまで、あんなに体調が良かったのに急激な変化に混乱してしまう。被っている布団を握りしめて、波に耐える―――。
「依頼の経験は財力に比例しますよ。少なくとも依頼や仕事を強請っている人には、真っ当な依頼主は信用をしません」
容態が手に取るようにわかっている為、蔑み楽しそうに心臓へ手を当てて、鼓動を落ち着かせ始める。
「はい、そのまま吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー」
背中にも手を当てて、呼吸のペースを教えてくれる。
ネガイの手に挟まれている事で体が暖かくなり、体を巡る血が熱を持ち始める―――いつもの目の治療を体全体にされているようだった。
「俺が金欠なのは、オーダーが悪いんだ。費用も報酬も用意されてない依頼が存在しているのが悪いんだよ‥‥」
「はいはい、そうですね。いいから寝て下さい。」
誘導されて大人しくベットに横になると、そのまま左手を心臓、右手を目の上に置いたまま、やはり鼻で笑うように微笑んでいる。
「ふふ‥‥。今、あなたは血の循環を自力で上手く行えない程に弱っています。これでわかりましたか?こんな状態で目を使ったら、目はあなたに牙を剥きます。体力が戻ればオーダーの仕事はこれまで通り出来ます、たださっき言った通り考えて下さい」
ようやく自覚できた。これ確かに死ぬ寸前だった。
こんな状態で、またあの布と目の赴くままやり合ったら、圧殺されるだろう。
だが、死の恐怖を感じているというのに、治療によって段々と眠くなったきた。
「あなたは赤ん坊のようですね。体が温まるとすぐ眠くなる」
顔は見えないが、反応が楽しいのか笑いながら胸の上を手で寝かしつけるように叩いてくる。自分で眠らせておいて、嘲笑っていた。
「そっちが、眠らせてるんだろう」
「でも、嫌いじゃないのでしょう?あなたはいつも寝る時は私に甘えていますよ、知りませんでしたか?」
会った時からそうだ、ネガイは遊ぶ癖がある。
「なぁ、ネガイは‥‥」
「なんですか、子守唄でも必要ですか?」
「いらない。でも‥‥手はこのままがいい。寝るまでここにいて‥‥」
目の上に置いてある手に、自分の手を重ねる。
暖かくて綺麗な手だと感触でわかった、何度も救ってくれた恩人の手だった。
「—――そうですか。仕方ない人ですね‥‥」
予想してなかった反撃が決まったらしく、続く言葉はなかった。
「ネガイは‥‥どっちの方が良いと思ってる?」
今の体調は言わずもがな。同時に手で治療されている所為で、まぶたが重く粘着き、意識を手放す時がすぐそこまで来ているのだと、悟り始めていた。
だから、聞かねばならない。正直言ってどちらを選ぶべきか、もうわからない。
「あの時、俺は目を持っていないと―――ネガイを助けられなかった」
「私はどちらでもいいと言いました。でも、そうですね」
何を思ったのだろうか、また怒らせてしまったのだろうか。いつも目にやって眠らせてくれていた手をネガイは降ろし、首元に移動させる。
電灯が目を焼く事を恐れながら、僅かに隙間を開けて見つめ合う。
「これからの事を考えると、眠らせる事を念頭に置いた方が良いと言えます。あまりにも、その目は過ぎた物‥‥」
「俺には、もったいないって言いたいのか‥‥」
眠気に勝てない。首の熱がトドメとなった。頭から足の先まで力が抜けていく。あんなに苦しかった心臓も、今は大人しく呼吸に従って鼓動している。
「その目は、私にもあなたにも‥‥」
ネガイが何かを言っている。ネガイの吐息が顔にかかる、この光景は夢なのか現実なのか、判断がつかない。もう耐えられない。
もう目を閉じてしまう、首元の熱に身を任せてしまう。
「そして、人にも」
「悪いな、急に呼び出して」
「いえいえ。入院中でもご自分の武器や装備を気になさる、まるでオーダーの鑑のような方で、とっーても良い事だと思いますよ♪」
目が覚めた時、時間を確認したら昼だった。
もうネガイはいないが、恐らく自分の部屋にいるのだろう。
入院中の身で好きに歩き回れる訳もなく、体調もそれを許さなかったので、調達科の人間を呼び出していた。褒め称えるかの如く、くるりと回転した商人が、
「それで〜あなた様の装備は?」
ニコニコと人懐っこい笑顔を浮かべる。両手を合わせて聞いてくるその姿に、実際には持っていないそろばんが手に見えた。
「そのクローゼットの中。任せる」
「は〜い、では確認しますね」
ひょこひょことステップを踏んで、クローゼットの中身の確認を始める。
制服を取り出し、腕の付け根、胸ポケットに入っている防弾性の高いジェラルミンの板など、真っ先に修理が必要な部分を手際よく見ていく。
「えーと、制服は問題ないですね。何か気になる事はありますか?」
「あれから着てないからなぁ。刺されたとか撃たれたとかもないし‥‥大丈夫かな」
「了解で〜す。でも念の為確認しておきますね、もし何かあったら大変なので♪」
言いながら制服を持ってきた旅行鞄に入れていく、手慣れた行動だった。
「それはサービスだな?後から請求書とか送ってきたら―――覚悟しろ」
「あはは‥‥大丈夫ですよ。大丈夫ですよね?そんな後から請求なんて‥‥あははは」
前の仕事でこの調達科、サイナの裏稼業を知ってから、それを盾にしていた。
この調達科は、必要とあらば違法すれすれな法の隙間、不法を使って改造や鋳造をする商人兼職人兼傭兵でもあった。
「では、銃火器ですね。こちらは内容通りでよろしいですか?」
「ああ、ライフリングがもうかなり薄いから、それと―――あとは頼んだ奴を」
「ふふん♪お任せあれー♪必ず満足する仕事をしてあげますよー♪」
自信有り気な様子のまま、旅行鞄から出したケースに銃を納めていく。
そもそもこのM&Pもサイナに相談して買い、直近で改造してくれたのだから、任せる相手はサイナしかいなかった。
本来オーダーが一晩でも銃を持ち歩かないという事は、そのまま死に直結する。 そのぐらい危険な愚策だが、ここは校内の救護棟。
日本中の行政施設や刑務所と比べても、ここより安全で危険な場所はないだろう。
「えーと、それからそれから~♪」
持ち主の次に慣れ親しんだ銃のホルダーやククリの鞘も、鞄に入れていく。最終的には、クローゼットの中は完全に空となった。
長く入院する訳ではないが、誰かに頼んで着替えを用意してもらわねばならない。
「では、お待ちかねの‥‥じゃーん!刃物カタログ〜です!」
少し鬱陶しい言い方をして渡してきたのは、今扱っている刃物のカタログが載っているタブレットだった。今は亡きククリもここから購入していた。
「あのククリちゃんが折れたと聞いて、私もう悲しくて‥‥これは新しく、ククリに変わる物を売りつけ‥‥仇を取って貰うしかないと」
「あーはいはい。わかった」
色々言っているが全て無視する。今はあの布に復讐することを第一目標、ネガイには物申されるかもしれないが、ネガイ自身も腹に据えかねているだろう。
「でも入院中なのに、今すぐ欲しいって。そんなに緊急ですか?」
「ああ、ちょっと次の仕事で使いそうで」
画面を起動させると、大特価と謳っているダガーの広告が、画面を覆い尽くす。邪魔だと思いながらも確認するが、当然あの布が使っていた刃物ではなかった。
試しに片刃の短刀の項目も眺めるが、ネガイを刺そうとしたものは見つからない。
やはりあれは既製品ではなく一点物の特注品らしい。
「少しいいか?」
「はいはーい。どうされましたか?」
高い声で優しく聞いてくる。
声も商売道具であり、この声聞きたさに―――呼び出す奴もいる程だった。
「特注品とかってやってる?」
「おーと、お目が高い♪はいやっていますよ。何ですか?そんなにお金があるんですか?ふふ、‥‥いいカモ‥‥」
不穏な事を言っているが今はどうでも良い。そんな事よりも気掛かりな事がある。
あの布には刺突が有効のはず、ネガイの攻撃を防ぐのではなく全力で回避したからだ。弾丸も避けてはいたが恐らく布にとって弾丸は撃たれたら嫌だ、程度のものなのだろう。
あの布や帯のような素材は防弾も出来るのは間違いない。その証拠に銃を向けても、全く逃げようともしなかった。
恐らくだが、編む事が出来る。でなければあの布を使う意味がない。
「ではでは、私がお聴き取りさせて頂きます―――それで?どんなものをお求めで?」
タブレットを渡したらスラスラと指で操作していき、どこかのページを開いたらしく軽い効果音が聞こえた。
先ほどまでの柔和な雰囲気は変わらないが、完全に仕事の顔となった。
売買での攻防がお望みだった。であれば、こちらもそれ相応の態度を示すべきだ。
「今回は切断じゃなくて刺突がメインの物、出来れば―――人体を貫通して壁に縫い付けられるぐらいの長さで」
「おお!バイオレンス♪腕ですか?手ですか?それとも、胴?」
「出来れば胴だ。後、引き抜きやすくしてくれ、何度も刺せるように」
自分の足の付け根から膝の少し前ぐらいの長さを、手で見せる。
「はいはーい。了解で〜す。では取っ掛かりが刃自体にはない方がいいですね」
刃に取っ掛かり―――それは、刺して抜くときに中の肉や血管を切り裂く為、痛めつける為の兵器。そんな仕様を事もなげに流したサイナという商人を、推して知るべしだった。
本来オーダーは殺しをしてはいけない。先ほどの発言を振り返ってみると猟奇的な目的に聞こえるが、その辺は流石、不法商人。
こちらの目的も何も聞かずに特注品を用意してくれる。
法には基本的に従うべきだと思っているが、必要とあれば違法スレスレをしてくれる商人がいるから、オーダーは成り立っていられる部分もあると理解していた。
「では握りは、摩擦が強めにしてグッサリと刺せる方にしますか。ちなみに♪今はこういった物も取り扱ってますよ!」
自慢するようにタブレットを見せてきた。画面には手袋が写っている。
「こちらは今思案中のグリップと相性がいい素材で作られているグローブです。なんとこのグローブ!これをつけてグリップを軽く握ると、手に張り付いて多少の衝撃を受けても飛んでいかなくなりますよ♪手の甲に穴が空いているので、蒸れずに長時間の戦闘をしても手が疲れません!そして――—わかってますとも!離せば簡単に離れますから縫い付ける、という目的にも合致してますよ~♪」
最後の決め手として、求めていた性能を持ってきた。
やはり商人だ。交渉には長けている。
「後、どうします?鞘付きで警棒のように殴れるものも、ありますよ」
「じゃあそれで。当然だけど真っ直ぐ正確に貫く必要がある、もし少しでも曲がってたら‥‥」
「曲がってたら?」
脅しに来たと思って、楽しんでいるらしい。
「法務科に税逃れについて、」
「ああーー!わかりました!しっかり私個人でも検証させて頂きますから、どうか‥‥どうか‥‥!」
「それで、布に関しては?」
「あー、一応調べましたけど‥‥専門外なので私自身、詳しくはないですよ?」
商人であるサイナはマトイとは違った方向に顔が広い。だから異常な兵器については、マトイよりも場合によっては詳しいと踏んでいたのだが。
「ではまずですけど、ヒジリさんが言ったような外観の布を頭から被って使うパワードスーツ、若しくはそれに近い自動的に人を襲うアンドロイドは現在市販されてなく、恐らくですけど、どこの国の軍にもないそうです。まぁ~そんなものがあったらどこからか聴こえてくるかと思います」
「装備科でも聞いたのか?」
「ええはい。私のお得様にも聞いてみましたが知らないそうです。もしあったなら十中八九自力で作り上げた物で、間違いなく装備科で話題になってると。これを話したらあなたが退院次第、真っ先に聞きに行こうと思ったそうですよ」
調達科と装備科でも聞かない。想像通りだった。
あんなものが市販されていれば、確かにどこかで話題になっている筈。だけど誰も知らないという事は、誰もが聞けるものではない、という事だった。
「重武装科の脳筋供は?」
「いいえ、知らないそうです。それにその布って対人兵器なのでしょう?パワードスーツの使用は救護に限るってなってますから。まず重武装科にはないと思いますよ」
「それも、そうだな‥‥あの布は完全にパワードスーツの一種に見えたし、もしオーダー本部が持ってても、あそこにだけは渡さないか」
「で、なんですけど。その布は、あの方‥‥ネガイさんが捕まえたのですよね‥‥?」
「ああ、だいぶ苦戦したけど。腕を締め上げられて血が完全に止まって、短刀で腹を刺されそうになってた―――オーダーメイドの特注品で、黒い鉄でも混ぜてるのか染めてるのか知らないけど、黒くて長かった」
「そ、それは‥‥恐ろしいですね‥‥。あの人が捕まっている状態なんて、想像出来ません‥‥」
思い出すと確かに異常な光景だった。
あのネガイが窮地に立たされていたなんて、朝方の会話でも思ったが、あの布は対ネガイとして作戦を立てていた―――本当に俺は、頭数としても考えていなかったのだろう。
「ネガイも人間って事か‥‥どうした?青い顔をしてるけど。確かに一方的で、校内だったから、他人事じゃないだろうけど―――もしかして覚えがあるのか?」
「あっ!いえいえ!なんでもありませーん!!えーと委細かしこまりました、では早速準備に取り掛かりますので~‥‥」
逃げるように、旅行鞄を持って出て行こうとするので「おい、脱税」と我ながら渾身の命名で呼びかける。
「はひっ!やめて下さい!‥‥どこかで誰かが聞いてたら‥‥」
怖れ慄きながらも、病室のドアに耳をつけスマホで何かを確認している。盗聴を恐れているようだ。
「うぅー‥‥何ですか?」
「何を知ってる?全部話せ」
「それはその‥‥顧客情報に触れかねないので‥‥その」
脱税という弱点を突いても、絶対に口を割らない。こういう所も含めて商人らしい。個人情報は、決して口外出来ないようだ。
「何を用意した?」
「んんー‥‥」
「どこに運んだ?」
「んんんー‥‥」
ラチがあかない。だがこちらは、入院までさせられた対象の尻尾が、今目の前にいるのかもしれないのだ――――絶対に逃がせない。
「いいのか?今俺は無理な動きをすると死ぬぞ」
突然の自殺志願に、何を意味してるのかわかっていない顔をしている。
だが足を止めた時点で術中に落ちた。
お前は―――俺の声など無視して逃げるべきだった。
「俺にはある装置がついてる。これは常時俺の心拍を測って、何か問題が起きた時にすぐに駆けつけられる安心装置だ」
と胸元を指す。勿論そんな物はないので嘘だ。ただ無理な動きをすれば事実として俺は高い確率で死ぬので、半分本当で半分嘘だった。
「それは‥‥誰が確認してるの、でしょうか‥‥?」
扉からベットまで少なからず距離があるが、喉の音と動きは確認できる。
もう一歩だ。
「誰だと思う?ヒントはここの治療科の生徒でも教員でもない」
「えーと‥‥誰かなぁ?わからないなぁ?あははは‥‥」
目に見えた誤魔化しをして自分の中の答えから目を背けている。共に相当な修羅場を潜って来たが―――悪いが、自分で築いた屍がある俺には勝てまい。
「じゃあ答え合わせだ。この装置にはネガイへの直通SOSシステムが内蔵してある。いいのか?俺が死んだらすぐネガイが来るぞ。今度こそ刺されるぞ」
サイナが処刑宣告でもされたような声を出す。当然と言えば当然だった―――前にネガイが切れて、サイナの工房を襲撃したことがあるからだ。
なんて他力本願、なんて狐。確かにこれではあの布から敵認定されないだろう。
「よっと」
「あああ、あ!安静に!患者様は安静に!どうかご自愛ください!」
ベットから降りると大慌てで身を案じてくる。
勝利を確信しながら、更に足を勢いよく床につけた時—―――振動が内蔵や心臓に届いた。目覚めの不快感を数十倍にもした吐き気が、再度ぶり返してくる。
無言の痩せ我慢で一歩進むが、自然と膝をついて四つん這いになってしまう。
「あ、あのー大丈夫ですか?大丈夫ですよね?」
ゆっくりと、近くに戻ってきて頭を見下ろしてくる。
「―――悪い。そこの器取って‥‥」
「こ、これですか?これですね!はい!」
受け取った器の中にせり上がってきた胃酸を全て吐き捨てて、「後、そこの水も」と伝えると、「は、はい!どうか死なないで!」と俺の身を、心の底から案じてくれている死の商人から水を受け取り口の中を洗い、これも吐き捨てる。
「さ、さぁ!ベットに戻りましょう!ゆっくり休んで下さい、あなたは今疲れて弱ってるんですよ!」
吐き出したものなど気にもせずに、器を洗面台に運び、優しい声を掛けながら肩を貸してベットに戻してくれた。
脅していた相手に助けて貰うとは、きっとお互い想像していなかっただろう。
「ではー‥‥私はこれで‥‥」
いそいそと、再度外に行こうとするサイナの腕を掴む。
「まだ‥‥まだ聞いてない。大丈夫だ‥‥仮にお前があの布の正体でも、お前には黙秘権がある。大丈夫、告げ口するのはネガイだけにしとくから‥‥」
「通報する気満々じゃないですか!あーもう!私だって今のあなたの姿を見て、すっごく申し訳ないと思ってるんですよ!」
怒りながらも頭に枕を差し込んで、布団を掛けてくれる。確かに申し訳ないとは思っているらしい。
「そう畏るなよ。オーダー内でのいざこざなんて普通だろ?」
「あなたが私を脅してるんじゃないですか!?」
漸く話す気になったのか、近くの椅子に座って腕を組んで睨みつけてくる。
心底、不服そうだが、装備は契約通り面倒を看てくれるだろう、適正価格を払う相手に私情で手を抜くなんて三流の真似—―――まずやらない。
「じゃあ‥‥あの短刀を用意したのはお前か?」
「答えられません!それが本当に私が用意した物と判断つかないですから!ただ‥‥黒い刃で、少し長い短刀でしたら‥‥その‥‥えへ♪」
アニメのキャラクターがやるような、片目をつぶって舌を出す仕草をしてきた。
「少し風に当たってくるか」
「やめてやめて、やめて下さい!あなたの命はあなただけの命じゃないんですよ!そんなに気軽に死んではいけません!」
意外と人情家な名言を出しながら、肩を両手で押して無理やり寝かせてくる。
「はぁー‥‥はい‥‥。黒い短刀なら私が関わりました。もう、これでいいですか?」
「いつ、誰に、どこで、どんな事を言われたんだ?‥‥わかった、言える範囲でいいから」
少しいじめ過ぎたかもしれない。涙目で抗議の視線をしてきたので逃げ道を与える。けれど、これは交渉の定番の一つだった。
「言えるのは、あの刃自体は私が用意したわけじゃないって所ですかね‥‥」
「ん?どういう意味だ?あれはサイナが関わったんだろう?研いだとかか?」
「えーと、その‥‥最近私の所には刃だけが届けられて、これにあう鞘とグリップを用意しろ、と‥‥」
「鞘とグリップはどんな物だ?」
「すみません‥‥」
言えない、との事らしくそれ以上口を開かなかった。
無理やり聞く必要はない。その情報は意味がないかもしれないからだ。
未だに持ち歩いてる可能も確かにあるが、ほとぼりが冷めるまで既に隠している可能性の方が高い。むしろ、一回だけの襲撃の使い捨ての方があり得るだろう。
「じゃあ、送り主は?」
「それも‥‥すみません。それだけは言えません。言ったら‥‥怖いので‥‥」
また下を向いてしまった。だが、まだまだ言ってない事も隠し事あるようだった。
話してくれた内容は少ないが、――――そこから推測できる事もあった。
まず第1に、サイナはオーダー内でしか仕事をしない。
当然だが、それ以外で武器の販売などしようものなら容赦なくオーダーは身柄を拘束するだろう。表立って武器の売買が許されている組織はオーダーだけなのだから、他の人間への売買は紛れもなく隠せない犯罪となる。
第2に、これは確認だったが、あれは間違いなく黒い短刀だった。
暗い中での目視だったから確証が無かったが、これでお墨付きが出た。
第3に、今「言ったら怖い」とサイナは答えた。
オーダーにとって怖いものといえば限られてくる――――導かれる者は、これでだいぶ限られる事となった。
「わかった、悪かったな。無理矢理話させて‥‥金は後で払っておくよ。言質は取れたか?」
「あ!はい、ありがとうございます♪毎度ご贔屓に〜!」
やっと解放されると聞いて機嫌が急激に回復する。
さっきまでこの世終わりか、遺書でも書きそうな雰囲気だったのに、金をしっかり払うと聞いたらこの対応、文字通りの現金な奴で信用できた。
つまりは、これは有用な情報となった。金を払う客に嘘など吐かない。
しかし、偶然かもしれないが―――あまりにも出来過ぎた話だ。
「では私は今度こそこれで失礼します。お大事に、早い復帰を祈っております」
うやうやしく頭を下げる。詳しくは知らないが、やはり、これが令嬢や貴族のお辞儀なのだろう。こういう感情を持たせる事も、サイナの商売術だった。
「ああ、またな」
サイナをベットの上から、軽めの挨拶をして見送る。
時間を確認するとまだ夕飯まで時間があった。
足を動かそうと腹筋に力を入れると、また胃酸がせり上がって来る。無理矢理にでもネガイに治して貰ってもいいのだろうが、それをしなかったということは。
そういう事なのだろう。
「まずは‥‥とりあえず自力で動けるようにならないと」
5章 夜の先
「助かった、お前が履修中で」
「あははは、僕もまさか君が入院しに来るとは思わなかったよ」
リハビリ室にて杖の補助を使わず、手すりにも頼らずに自力で歩いていた。必要ないと思ってはいたが、念のため何かあった時用の人を呼んで。
「そうそうゆっくりとでいいから、しっかり足を地面につけてね。君はしばらく眠り続けていたから筋力が相当落ちてるはずだから、あまり無理はしないように」
実の所もう限界だった。リハビリ室には自分の為と思って、歩いて階段を降りてきたが、もう足は膨れ上がり―――体の中身が飛び出しそうになっている。
ゆっくり歩けば内臓も大人しくしていたが、僅かな振動だけで動けなくなるので人を呼んで良かったかもしれない。
「寝てただけで、なんでこんなにキツイんだよ。腹、突き破って内臓が溢れてきそうなんだけど‥‥水も飲む気にならない‥‥」
「それは力の入れ方を体が忘れているからかな?横になり続けているって、人体にとってそれだけ不自然な行動って事だと思うよ。はい、とにかく歩いて。姿勢はまっすぐに、すり足にならないで足をあげて」
ただ何もない床を足をあげてテンポ良く歩く、たったこれだけで汗をかいてしまう。だがこれも自分の為と割り切る。
今も手拍子で、タイミングを教えてくれてこそいるが、今の体調にとってかなり厳しい事を軽く言っている。交互に足を踏み出すタイミングも、気持ち早く感じる。
「‥‥これ、いつになったら楽になる?」
質問に答える為か、右手で顔の下半分を隠すような仕草を始める。
「んー?そうだね‥‥君の場合はただの疲労と激しい運動によって引き起こされた酸欠だから正直後数日で元に戻るよ。でも、しっかりとしたリハビリは必要。あ、一応言っておくと僕は明日で履修が終わるから。放課後に何かあった呼んで、リハビリなら付き合うから」
「涼しい顔で、言ってくれるな‥‥」
「あはははは」
笑いながら言うが、これは襲撃科の人間。オーダー内で最も頭が飛んでいると評判であり、逆説的に言えば飛んでいないと成り立たないと言われる科の秀才。
ネガイやマトイと同じ、敵に回してはいけない人間だった。
「その時は頼むよ。出来るだけ早く復帰したいから」
「お!君にしては珍しい‥‥失敬。オーダーらしい考えだ」
襲撃科どころかオーダー内でも、稀に見る謙虚で礼儀正しさだが――襲撃科だった。
二つ返事でリハビリの手伝いをしてくれ、歩きのフォームを指示、確認して貰っていた。自分では気付かないが、どこか庇いながら歩く癖がつくかもしれない。
それは―――後々面倒な事になる。もし潜伏や身分を隠す仕事をする時、歩き方でバレるなんて間抜けな失敗は起こせないからだ。
「そいつはどうも‥‥」
「あはは‥‥怒った?」
返事のキレが悪くて心配そうに聞いてくる。単純に疲れてきたから話すのがつらいだけだった。
「別に怒って‥‥待て‥‥今なんて言った?」
「ごめん、気にした?悪気はないんだ。すまなかった」
珍しいという言葉が俺の勘に触ったと思ったのか、立ち上がって頭を下げてくる。だけど気になったのはそこじゃない。
「違う、それじゃないんだ。俺はなんて名目で入院してる?」
「え?どうしたの‥‥急に。疲れてきたかな?少し休もうか」
質問の意味がわからないらしく、キョトンとした顔をしている。俺もこんな事入院中の奴から聞いたら、遂にどこかおかしくなったのかと考えてしまうだろう。
「いや、そうじゃない。俺は今なんで入院してるんだ?俺の体は今どこが悪いんだ?」
この入院はあの布相手に無理な血液操作、目の力を酷使した結果—――目と脳に血が集まりすぎて死にかけた。だから重要な機関の血管に穴が開いていてもおかしくない。無茶な命令を下し過ぎて心臓が千切れてもおかしくなかった。
それをネガイが治したから俺はここにいる。酸欠はオマケに近い扱いの筈だ。
「心臓疾患とか、そういうのじゃないのか?」
「え、まさか‥‥!君は何者かに襲われて、それをネガイさんと撃破して、その結果倒れた話だったけど。‥‥もしかしてソイツからどこかを強く殴られた?外傷がないか必ず確認する決まりがあるから、搬送された時に診て貰ってると思うけど。気になるならctスキャンとか―――」
話が噛み合ってない。お互いの認識に確実な隔たりがある。
始まりと過程、終わりまで全て同じだが、結果が違う。
どういう事だ。もしこの人間の言う通りだとして、いや、言う通り、俺は布との戦闘の結果入院している。そこは正しい。
「俺は搬送されて来た時ってどんな感じだった?」
「どんなって‥‥そうだね‥‥。まず担架で運ばれて来て、そのあとすぐに緊急治療室に入って行って。こう言うとなんだけど、普通だったかな」
「誰が俺をここに連れて来たんだ?」
なんで俺は―――こんな事を聞いてる。
制圧科か治療科が運んで、ネガイが治療したに決まっているのに。
「要請が来て治療科の人間が現場まで行って搬送したんだけど‥‥。搬送されて来た時に君は意識不明で病状は、その時は僕にはわからなかったから、君に呼ばれて調べたらさっき言った通りの病状だったんだけど」
ならネガイは、いつを治療した?当時の自己診断が間違っていたのか?だが、紛れもなく俺は本当に死にかけていた筈だ。
心臓に異常をきたしていたのだから。
あの状況を報告したのは間違いなくネガイだ、あの場では確実にネガイに対して何があったのか聞かれる。
だったら‥‥ネガイが俺の状況に、嘘をついたのか?
あの場で、ネガイは布にエストックを向けて身動きが取れなかった筈だ。もし俺がただの疲労で搬送されたのなら、ネガイは制圧科が到着する前に治療した事になる。
制圧科が到着するのは、どう見積もっても最長でも10分程だ。
しかも布から俺までの距離は相当あった。
これでは、ネガイは布がこれ以上危害を加えないと知っていて俺を治療したことになる。もっと言えばわざと布の中身を逃した事になる、あんな刃物だらけの怪人を。
「—――大丈夫かい、もう休んだら?顔色が悪いよ」
「‥‥ああ、大丈夫大丈夫。少し考え事をしてただけだから」
考え込んでいた最中、話しかけられてようやく我に帰った。病院にいると緊張感が抜けてしまう。
「本科的に脳と心臓が気になるなら手配してくるけど。ちょっと待ってね、今車椅子でも、」
「大丈夫だ、俺の思い過ごしだと思うから。それにそんな異常があったらここの教員が見逃す筈ないだろう?」
自分の診断書を読んでいないからわからないが、恐らく疲労と診断したのはここの教員に違いない、それが普通だからだ。
「それもそうだね。うん、少し僕も焦ってたみたいだ。あ、ただもうそろそろ時間だ、ここを施錠しないと。車椅子の用意をしてくるよ」
「流石に、そこまでは―――それに必要にしちゃいけないだろう。この程度で」
「自覚ないかなぁ?君さっきから大分顔色悪いよ。あと数時間で履修期間が終わるとしてもそんな顔の人を一人で歩かせられないよ。待ってて水と車椅子を持ってくるから」
強めに言いわれたので、大人しく待っている事にした。そんなに顔が青いのか?とリハビリ室の姿見を見ようとするが、
「やっぱ苦手だ」
昔から鏡が嫌いだ、自分の顔か嫌いなのか、鏡自体が嫌いなのか不思議と自分でもわからないが。
鏡を見ずに顔を手で触ってみる。これで何か分かる訳じゃないが、顔が冷たかった。もしかして本当に大分酷い顔なのかもしれない。
自分の状況を確認して悟った、汗が冷たくなって体が冷えて体調がよろしいとは言えない。確かにこれは心配されるかもしれない。
車椅子と水の到着を待ちながら、襲撃の夜の事を思い出し、今後の事を考える。
「何が起きてるんだ‥‥」
天井のLEDを眺めて座り込む。ネガイには感謝している、目や心臓が苦しい時いつも助けて貰っている。それは紛れもない真実だ。
目が覚めた時だって最初に目に入ったのはネガイの顔だった。きっとこの数日様子を見てくれていたのだろう。
「ネガイが嘘をついたのか?なんの為に‥‥」
ネガイの真意がわからない。治療と脱出の契約、ただそれだけの繋がり。
それだけだった。
「病院食‥‥あんまり期待出来ないよな―――体が弱ってるのは俺自身、重々承知してるし、わがまま言わないでとにかく食べるか‥‥」
「おまたせ、車椅子持って来たよ」
先ほどの襲撃科の秀才が、リハビリ室へ車椅子を押しながら入ってきた。件の車椅子には、しっかりと自力で操作出来るハンドルがついている、気を遣わせてしまったらしい。
「悪いな、面倒ばっかりかけて―――なぁ」
「ん、何かな?」
「病院食って旨い?」
「祈っておいて、きっと想像通りだから」
今の体調で重い物を食べれる筈もないが、それでも味だけはと期待してしまう。だけど、祈りとは神に捧げる物。そして、総じて神とは応えないものだった。
「味がしなかった。減塩っていうか、塩使ってねぇだろう」
絵に描いた餅、絵にも描けない美しさ、などなどの文言がある。けれど、新しい絵に関する言葉が俺の中で生誕した――――そう、それは、
「絵に描いたような病院食《」。使う機会があんまりないか」
歯ざわり皆無なお粥、ほうれん草のおひたし(塩を感じない)、豆腐(醤油なし)、卵に出汁を使ってスクランブルエッグにした感じ(風味だけで味がしない)コーンスープみたいな汁(具なしでやけに甘い)などの微塩料理、もちろんおかわりなし。
飲み物として、スポーツドリンクが提供されたが、これが1番美味しかったかもしれない。
「早く退院する理由が出来た。早く外に出て何か自分で作ろう。どうせあと1日2日で退院だし、寮の冷蔵庫の中身も問題なく使える。とりあえずマトイに連絡しとくか。仕事断る事になるかも」
あなたの都合に合わされると、言っていたが、それでもこのザマだった。
既に知られているだろうが、現状を教えておく。また『あの布』の足跡を何か知らないかと情報を求め、足取りが掴めたら自分で始末すると送る。
メールを送り終え、ベットに身を任せる。
リハビリ室での運動と、量こそ少なかったがしっかりとした食事。健康的で健全な営みを、この数日できなかったからだろう。
体自身が体力を回復させようと努めて眠りを求めてくる。
「まだ早いけど、寝てもいいか」
明かりを消し布団を被る。
外の廊下を忙しなく歩きまわる治療科の生徒達の声を聞きながら目を閉じる。
ここは安全だ、何かあれば人が来る、何よりここはネガイの部屋がある場所から目と鼻の先。
だけど、先程のリハビリ室での考えが頭に渦巻き、心で疑念を抱いてしまう。
「ネガイ、今いるかな」
今の時間ならば、高い確率でネガイは寮に帰っているだろう。通常通りなら施術が終わり目が覚め、一緒に寮へと帰っている時間だからだ。
「行くか‥‥」
目を開けてベットの側にある車椅子で廊下に出る。いない確率の方が高いが、それでもじっとしていられなかった。
廊下には明かりがまだついていた。急患こそ今晩はいないが、教員からの指示のもと、定期的な巡回を帯銃をしながら行っている治療科の生徒がいるからだ。
「あ、もうそろそろ消灯の時間ですよ。夜中に歩きまわってたら捕まえちゃいますよ」
部屋の外に出た瞬間、見つかってしまった。けれどミトリなので構わず廊下に出る。
「前から気になってたけど。その銃は殺菌とかしてるのか?」
看護服のようなデザインの制服で腰には銃のホルスター。あまりにもその光景が似合っていなくて、浮いて見えていた。
「勿論ですよ。薄くて見えないかもしれませんが、院内での治療科の銃には袋を使っているので、問題なくお世話が出来るんです。どうですか?」
少しだけ自慢するように、己がデリンジャーを見せてくる。
確かに薄い袋、というより薄い膜が銃全体を包み込んでいる。知らなかった。
「ミトリも大変だな。昼間は学校で、夜はここで実習か?休む暇ないだろう」
「そうでもないですよ。夜勤の実習は週に二日って決まってますし、しっかりと申請すれば昼間の座学が免除されたりします。それに帰るのが面倒だったらここに宿泊出来る部屋もありますから。結構色々あってゲーム機とかもあって楽しいんですよ」
ニコニコと子犬のように、楽しげに話しかけてくれる。
「それでも他の科よりも忙しんだろう?体に気をつけてくれ」
「入院中の患者さんに言われるとは思いませんでした、ふふ、私はこれから巡回があるのでこれで」
「ああ、また後で」
軽い挨拶を交わし背中に向け、その
流石に車椅子の患者を、いきなり捕まえるような事はないだろうと、信じる事にした。
「その時はその時か‥‥」
自分でそう誤魔化し、車椅子のハンドルを回しながらエレベーターへ乗り込む。ネガイの施術室がある研究階に到着した時、甲高い音を立てて廊下を突き進む。
思えばこの時間を一人で進むのは初めてかもしれない。いつも帰りをネガイと共に歩いていたからだ。夜道は、いつも彼女と一緒だった。
「‥‥」
ネガイの個人部屋は、治療科の救護棟にあるが正確にはこの研究階の一室にある。
ここは簡単な手術の実施訓練なども行なっている階でもある為、今は誰も歩いていない。廊下に明かりこそついているが、休憩エリアの自販機の音しか聞こえない。
ほぼ無音だった。
「そう言えば、ここは病院か。夜中に一人なんてホラーだったらいいカモだな」
誰に言うでもなく呟いてみる。自身正直言って不安だった、ここに出るかもしれない彼方の住人よりも―――これから向かうネガイの方が。
いつも通りの道順で研究階の最奥、廊下突き当たりの部屋の扉に着いた時—――息が止まる。
だけど、押し黙っていても変わらない。必ず声をかけなければならない。
「ここには金目の物なんてないぞ」
「そうですか?以外と掘り出し物があるかもしれないのに、ふふ」
夜の病院、という異界の扉の兆しを感じてしまう場所に――――何人もの幽霊を生み出しかねない
「どうしたこんな時間に。ネガイに用か?」
最も今の状態で会ってはならない人。
だがもう見つかってしまった以上、逃げる事も出来ない。逃げ場を失った車椅子を回して近くに向かおうとするが、マトイは優し気な表情で歩み寄ってくる。
「体はどうですか?」
こちらの質問に答えず、質問で返してきた。答えてくれないとは思っていた。
「上々。今はこのこの通りだけど、あと数日で退院だ。これは久しぶりに歩いた弊害って所らしい」
「じゃあ、明日にでもお見舞いの品を持って来ますね。リクエストはありますか?」
「特にないから、マトイのセンスに任せる――――妙なものは仕込むなよ」
「そんな無粋な事はしません、ふふ‥‥」
片手を頬につけて微笑する。場所が場所だけに恐ろしくもあるが、何かしらの代償を払ってでもずっと見ていたと願うくらいに、自覚ある美人顔を余す事なく見せてくる。自覚がある美人とは、これほどまでに恐ろしいのか―――。
「あなたはどうしてここに?」
「俺はネガイの患者だ。患者が主治医に頼るのは当然だろう?後、内容は言わない、体の悩みはプライバシーがある」
キッパリと突き放したが―――急に目を見開いて一歩下がった。思わず振り返ったが、薄暗い廊下があるばかりで、背筋を撫でる何かはなかった。
「放課後はいつも一緒にいると思ってましたが‥‥そういう関係でもあったなんて。なんでしたっけ‥‥ナイチンゲール症候群?」
「なんだそれ?なんでイギリスの看護師がここで出てくるんだ。まぁ、丁度良い。俺の事はメールでも送った通り。1週間後には問題なく仕事が出来るだろうが、目の方は諦めてくれ」
メールには目の事も送っておいた。準備金は無くなったが、緊急用予算を使ってサイナや整備科に払うつもりだった。
それでしばらくはどうにかなる―――ここへ来る時に渡された金だった。
「それは残念。でもあなたの口座に幾らか送っておきますよ」
「それはありがたいけど、なんでだ?俺はもう戦力外だろう」
「あの布のようなものを撃退し、しかも一部を確保してくれたのですから。法務科や私からの早めのお祝い金として」
「有り難く受け取っておくぞ―――で、その布はどうなってるんだ?もう何かしらの情報は出てるんだろう?」
「本当に復讐する気?もう目は使えないのに‥‥秩序の一員として、そんな自殺願望には手を貸せませんよ」
「俺の武器はそれだけじゃない。思っている以上にしぶといぞ」
ネガイは目は使うなと言った、だったらまだ心臓は使える。心臓に関しては俺とネガイ、数える程しか知らない力。マトイにも話していなかった。
「どうなんだ。あれは?」
「正直、分析科も手が出せないようですね」
「そんなに壊れやすいのか、あれが?」
煮え切らない答えに冗談で返してみるが、予想に反した顔をマトイが見せてきた。
「誰からか聞いた?」
当たってしまったらしい。驚いた顔は何度か見たが、これは見た事がない種類の狼狽だった。その顔に、ちょっとだけ優越感に浸ってしまいそうになったが―――、
「口の軽い人がいるようですね。オーダーたり得ない人物が紛れ込んでいるなんて」
聞くや否やスマホを取り出して高速でタップ。顔を切り裂く震え上りそうな笑顔を浮かべたまま、どこかに何か送ろうしているので慌てて止める。
「待て待て待て!それは俺が思って言っただけだから‥‥沸点低すぎるだろう」
操作している手を急いで握りしめてスマホのタップを止める。一体なにをどこに送ろうしていたのか、想像もできない。
「これはオーダーの守秘義務上、破られてはいけない鉄の掟です。本当に今、あなたの思いつきで言った事ですか?」
銃こそ向けてこないが、これ以上無い位に目を研ぎ澄ましてくる。正直、恐ろしい―――これで、また敵として認識されたら夜道を歩けなくなる。
だが、もしこれで罪もない他人が処罰されたら目覚めが悪いので、しっかりと否定しておく。
「ああ、間違いなく俺が言った事だ。言わせて貰うけど、そう思うようなヒントを与えるなよ。俺以外でもそこに辿りつくだろう」
ただの思いつきで辿りつく奴なんてまずいないだろうが、お前の責任でもあるのだぞと念を押しておく。
「そうですか‥‥、わかりました。これは確かに私の責任でもありますね」
スマホを仕舞ってくれた事で胸をなでおろす。
元々、厳格主義とでも呼ぶべき性格をしている時があった。一体、どのような経緯で法務科に所属したか知らないが―――ここまで徹底しなければならないなんて。
幾らかマトイから話を聞けたが、今回は無駄足だった。
扉の前にマトイがいるという事は、ネガイはもう帰っている。何より、ここにマトイがいる――――この状況こそが、すぐにでも帰るべき理由となった。
「俺は戻る、そろそろ消灯だから」
片方のハンドルだけ回して振り返り、早く病室に戻ろうとするが、
「私が押しますよ。看病されるのがお好きなようですし」
背中の手押しハンドルで押してくる。
「別に看病をされるのが、好きな訳じゃない。誰からか聞いたのか?本当に布に関しては何もわかって無いのか?」
「ええ、分析からはそう言われてますよ。ただ私も現物は一度しか見てませんから断定はできませんけど、見ている端からほころんで空気に溶けていくようでした」
室温で溶ける程融解点が低いのか?手術で使う糸は人の体温や血で解けるが、空気で解けるなんてドライアイスか氷のようだ。
直接触れた訳ではないから確証はないが、少なくともあれは――――氷やそれらに類する固形物には見えなかった。
「当然、分析の方々は省庁に任されたプロです。これは公的な事件になってますから」
「だから失敗なんてしないか?事実として、時間の問題で証拠は無くなっていくって事だろう?何も出来てないじゃないか。それで、なんの用だ?自分から押すなんて殊勝な心がけ、ただでするわけないんじゃないか?」
自分で回すのとでは力の入れる角度が違うせいか、車輪の回る音が少し違う。
正直冷や汗をかいている、この状況は致命的だった。
銃や防弾服、何より自力で動くには限界があるこの体調では、階段から突き落とされでもしたら重体は免れない。
言葉を発するどころか、視線を向ける余裕もない時間を過ごしてながらマトイに押されてエレベーターホールまで辿り着く。階段の前を通る度に心臓が跳ね上がった。
「そんなに怖がらないで。私はあなたの為に押しているだけだから」
無防備に背中を晒しながら一歩前に出てマトイが、エレベーターのボタンを押す。
「私はネガイさんについて、あなたと話しておきたいだけですよ。何か危害を加えると思いましたか?」
「前に撃たれた事、まだ根に持ってるからな」
「怖い怖い」
再度後ろに回り、ただただ楽しそうに笑いかけてくる。
どちらが怖いかなんて、誰が見ても明白だった。廊下に木霊するマトイの声に背筋を冷たくすると同時—――美しい調べに、心を惹かれてしまう。
「どうしました?」
「‥‥なんでもない」
「ふふ‥‥」
エレベーターはすぐ来てしまった。マトイは車椅子を操作して後ろに向かせ、後ずさりをしながらエレベーターに入っていく。先客などいる筈もなく、俺とマトイの二人だけ、完全なる密室となった。
「そう言えば、目はどうしましたか?」
「メールで送った通りだ。もう使えない」
「では、使えなくなった時、彼女はどこにいましたか?」
同じ結論に至っていたマトイが、確信に触れてきた。
「マトイが気にする事じゃないだろう」
自分もわからないので、下手な嘘を吐かずに回答を避けるが、
「でもあなたは気になったから、この時間でも来たのでしょう?隠しごとが下手ですね」
とあっさり看破される。こうした言葉遊びに一勝も出来た試しがない。嘘は勿論、碌に隠し事すら出来ない、許されないという事だった。
気付かれないよう額に汗をかいて次の言葉を考えていると、マトイの髪の匂いが漂ってきた。香水を使ってるのか、それともマトイ自身の香りか、匂いがエレベーター中に充満していく。
その香りのお蔭で落ち着いて思考を整えられた。完全な密室で身動きが取れない現在では、何か余計な事を言って後ろから車椅子ごと刺されてはたまらない。
静かにして、聞かれた事にだけ答えるように徹する。
「お気に召したようで嬉しいです。この香りの時は、いつも瞳孔が開いてますから――――あなた好みかと思って」
その言葉に視線を上げる。エレベーターの扉の一部が鏡のように顔を映していた。
対象の仕草、生理現象、呼吸の強弱の観察。それらはオーダーにとって命綱なり得る技術だというのに――――決して、今の自分は冷静などではなかった。
「いつもそうやって観察してるのか?」
斜め下を向いて目を覗かれないようにする。幾つも上手だったマトイに、敗北感を受けてしまっただけではない。マトイの色香に惑わされていると、気付かされた。
「恥ずかしかった?でも意外と男性の目線はわかるもの、これから気をつけては?」
顔を見ることが出来ないが、確実に小馬鹿にした顔をしているのは間違いない―――なぜだろうか。誰も彼もが、俺を子供扱い、人間扱いしない。
目的の階に着いた時、何も言わないでエレベーターから降ろされる。
意外と、エレベーターの扉が開いている間に、自力で車椅子を操るのは腕力を使うので、人に押してもらうと楽だった。
「ありがと‥‥」
「ふふ‥‥」
口を衝いて生まれた言葉に、マトイは何も答えなかった。
「あ、そろそろ消灯ですよ。早く部屋に戻って下さい。」
「ああ、わかってる。今戻るよ」
ミトリにまた捕まってしまった。本当なら強制的に部屋に戻されるのだろうが、後ろにマトイがいるのでお咎めはなかった。
「大丈夫です、私が連れて行きますから」
マトイがにこやかにミトリにそう伝える、だがミトリの顔は優れない。当然だった。本来ならもう面会時間は過ぎているのに何故部外者のマトイがまだここにいるのか?と訝しむに決まっている。
「本当ですか?彼は体力の回復に努めないといけない体なんです。無理矢理外に連れ出そうとするなら、治療科としてあなたを拘束せざるを得ないですよ?」
「ええ、連れて少し話したらすぐに出ますから。ふふ‥‥」
ミトリの通告も、特段気にした様子もなく部屋へ連れて行こうとする。
「大丈夫だよ、俺もすぐ寝るから。巡回の時にでも確認してくれ。またな」
「はい‥‥お休みなさい」
どこか不服そうなミトリのすぐ横を通り過ぎようとした時、急にマトイが、「ただ‥‥」と、そこで言葉を止めて車椅子を押す手も緩め、ミトリのすぐ側で止まる。
「何ですか?」
「これから二人きりでしたい事があるので、決して覗かない下さい」
急に鶴の恩返しの一文のような事を言い出した。覗くな?確かに会話の内容上、聞かれてはいけない話だろうが、それは重要な事を話すと言っているのと、同義では?
「そ、そういうのはここでは!第一彼にはそんな体力、今は‥‥」
マトイの言葉にミトリが目に見えて狼狽し始めたが、急に静かになり小声となる―――情緒が不安定だった。
確かに治療に専念して、もう寝ているべきなのだから、治療科としてミトリは正しい事しか言っていない。だとしても、何故そんなに、この体が気になるのだろうか。
そんなミトリの様子も構わず、マトイは更に続ける。
「大丈夫ですよ。彼は毎日ネガイさんと遅くまでいたでしょ?彼はそうしないと夜眠れない、だから私が同じことをするだけ何も問題ない、すぐ終わりますから。それと―――多少声が聞こえても気にしないで。彼であれ私であれね」
「え!?‥‥こ、困ります。ここはそういう場所では‥‥あ、でも、それも医療行為なの‥‥?」
混乱し始めたミトリの言葉を、最後まで聞かずに颯爽と俺を押して部屋に向かう。
もしかしてマトイも、ネガイのような手の治療が出来るのだろうか。
「いや、単純に手で少し治して貰ってるだけだから―――また明日‥‥!」
「手、手で‥‥。それは、その‥‥あの、手がお好きなんですね‥‥。大丈夫です、私も作法は知ってつもり‥‥です‥‥」
落ち着かせようとしたが、ますます混乱させてしまった。どうしたものか?と考えていたが、マトイはどんどん離れていく。
「いいのか?なんかすごい頭抱えてるぞ」
後ろに振り返ると、顔を隠すように両手を目元に押し付けていた。けれど、チラチラとミトリは指の間からこちらを覗いている。
「いいんですよ。私もなんであんなに混乱しているのかわかりません」
自分で混乱させておいて、もう興味がないっといった感じに振り返りもしない。
「—――なんで俺の入院室を知ってるんだ?」
「法務科には入退院したオーダーの情報が全て取り揃えてあります。しかもここは学内ですからね、調べようとすれば幾らでも」
「その調子だと、買い物とか行った場所までも、全部の個人情報が法務科にはありそうだなぁ‥‥」
「想像にお任せしますよ―――勘が良い所も、高得点です」
入院室に戻ってきたが、明かりも点けずにベットまで連れて行かれる。怪訝に思う必要もないと思い、手を借りながらベットに横になりマトイの顔を眺める。
「月明かりの密会、というのも良いものでは?」
マトイが窓まで歩き、カーテンに手をかける。
「さて、ではお話をしましょう?」
一切の躊躇もなく、引き裂くような勢いで窓を晒した時だった。月明かりにのみ照らされた部屋の空気が、一瞬で変わる。空気さえ瞬きの間に取り換えられ―――まるでマトイの体内に招かれたように錯覚、完全に目をマトイから離せなくなった。
「暗示――」
一言、それだけを呟けた。
月明かりを背に受けたマトイは神々しく、人間離れしたカリスマ性を感じさせる。
―――カリスマと呼ばれる人間の魅力は、英雄的な資質を持ち合わせている事が必要らしい、これは元のギリシア語に由来する。
それらの条件のひとつに、容姿端麗が上げられる。
一緒にいるだけで人を惹きつける容姿も、また必要な要素であった。
法務科の人間にして、月の住人にも似たマトイからカリスマ性を感じるのは必然だった。
「まずお聞きします。あなた達が襲われた夜、あなた達は何故そんな時間に歩いていたのですか?」
髪に月の光を受け、後光を纏った彼女が、黒い瞳孔で眼球を刺し貫く。視線に縫い止められた目が、マトイの顔から背けられない。
ここは裁判所であった。そして被告は俺自身の心—――
「あの日は俺の目の治療と、仕事の話、俺達の契約について話してた。それだけ‥‥」
嘘は見抜かれる。本能でそう感じた。銃を肝臓に向けられているわけじゃない、刃を心臓に押し当てられてるわけじゃない。それなのに、マトイの声に抗えなかった。
「いつもこの時間になる?」
「たまになる、だけどそうある事じゃない」
不可思議だった。
どうして、聞かれるままにマトイの質問に答えているのだろう。
決して嘘をつけない。マトイの目にも力が宿っているのかもしれない。嘘をつかせないという隷属の呪いを―――マトイにかけられている。それを、受け入れている。
「あなたは目を戦闘中に使いましたね。‥‥何故使ったのですか?」
質問の途中でベットに座り、左右の耳に両手を添えてくる。マトイは瞬き一つしないで、目を覗き込んでくる。
間違いない—―――魅了の目だ。きっとそうだ。だから俺は、こんなにもマトイという存在に心地よさを感じている。抗い難い呪いを受け続けている。
「それは‥‥ネガイを助ける為に使った」
「その時、彼女にはどんな危機が迫ってましたか?あなたは目を使って、どのような行動をしましたか?」
「ネガイは、その時、布に手首を掴まれて‥‥動けなくなっていて‥‥」
目が熱い。ネガイの熱とは違う、目と脳が状況を処理できなくなってきた。もう気絶しそうだった―――上体を起こしていたが、もう耐えられない。
ベットで横になっている体が、馬乗りにされる。マトイの体温が心地よくて―――傍らに誰かがいるという安心感が、思考をほどいていく。
お互いの下腹部から感じる温かさを重ねる行為に、抗えない。
「動けないネガイを、布が、短刀で、刺そうと‥‥」
「ゆっくりと話して‥‥あなたは何も悪くない。あなたを守れるのは私だけだから‥‥」
現実なのか夢なのかわからない。この目と香りと体温から逃れられない。
「目を使って、わかったんだ‥‥。布には、弱点があった。あれは‥‥刃を防ぐには時間がいる。だから俺は目で‥‥目で‥‥」
「目で?」
「目から力を借りて、ネガイを掴んでる‥‥布と、短刀を、弾いて‥‥」
「その行動は目がないと出来ない?」
「ああ‥‥」
「もう目は使えない?」
「後、一度は出来るけど‥‥使ったら‥‥。目が羽化して、俺は、操られて‥‥」
「目に?操られるとどうなるの?」
「血を‥‥求めるって、言われた‥‥」
何もかも全て話してしまう―――今、俺はどんな姿をしている?身体中がドロドロに溶けて、内側の隠さなければならない部位をマトイに全てを見られている。自分の恥部を、おぞましい本能を、もっとマトイに見て欲しい。
「それを言ったのは、彼女?」
もう喋れない。もう声に頷く事しか出来ない。
「捕まっているネガイさんは、本当に危機的状態でしたか?」
抱えてきた謎だった。あのネガイが布で捕まった、だが――――俺はネガイが捕まった瞬間を見ていない。もしネガイがワザと捕まったとしたら。
「あなたの目を診れるのは彼女だけなのでしょう?そして、あなたに目を使わせる事になった理由は―――彼女にある」
ネガイの為に、目と心臓を使った。
それがどのような末路を辿るかわかっていながら―――予想は的中した。
ネガイは後一度でも使ったら、俺は目に心臓を奪われると言った。俺もそれを今までの経験を元に鵜呑みにした。
「あなたと私の仕事の契約を、もし彼女が知っていたとしたら?彼女はあなたの目を独占して誰にも、あなた自身にも使わせたくなかったとしたら?」
体の上に、マトイが重なってくる。動けないように膝を足と足の間に入れて、抱きしめられて―――耳元で囁いてきた。
「彼女の事を信じられますか?今までの発作だって、彼女が意図的に引き起こした可能があるのでは?三日に一度の診察だって‥‥本当はあなたを手元に置いておく為の嘘だったりは?」
制服越しでも感じられるマトイの柔らかい体が、全身を包み込んでくる。
これは催眠術だ。俺とネガイの離れさせて、法務科に移籍させる目論見なんだ。そう考えないと、さもないと―――、
「目の治療が本当だったとして、その夜あなたは昏睡するほどに目を使った。なのにあなたの診断表には目や脳、心臓についての記述は無かった。あなたが倒れた後、彼女はあなたを治療した。—―――だけどその時、布はどこで何をしていた?あなた達も襲わずに」
きっと、その時、ネガイは布を気絶させて、でも布に中身は―――
「あなたももう理解している。あの夜は自作自演だったのでは?あなたに目を使わせて、後一度で死ぬと言ってあなたを自分から逃れられないような状況に追い込んだ、そうは思いませんか?彼女は遊びのない人間です。どんな手段を使ってでもここを出ようとする、あなたが1番それを知っているのでは?」
聞きたくない‥‥やめろ。
「此処さえ出る事が出来れば、あなたなんてどうでもいいと思っているのでは?」
「やめ‥‥ろ、やめてく、れ」
碌に回らない舌を噛みながら口を動かす。
だけど、考えないようにしてきた思案を読まれただけだった―――。ネガイは、眠らせるでも支配するでもどちらでもいいと言った。
それは、どうせ、ここから出たら俺なんてどうでもいいと思っているからか?どうせ彼女がここから出る時、俺は死んでいるからか?
「つらかった、怖かった、恐ろしかった。誰も死の恐怖からは逃れられない、それは人であるなら当然の帰結。あなたは間違っていない」
冷たい手を病院着の中に入れて、胸に差し込んでくる。
もう何も考えたくない、このまま心臓を貫いて欲しい。だというのにマトイは、続けて
「あなたは生き死にをあの人に掴まれて、あの人の望む通りに目と身体を使うしかない。その結果、あなたを使い捨てられる」
彼女は、俺は目に支配されると言った。だけど、今の俺は彼女に支配されている―――ネガイは俺の心を知っているから、俺が断れないと知っていたから。
「彼女がここを出る時、彼女の隣にあなたはいますか?あなたの隣に彼女はいる?」
ネガイがここからいなくなる時‥‥その時、俺は、俺は‥‥どうなっている?
どうすればいい。どうすれば――もう捨てられないで済む―――。
目から熱が溢れる、これは血じゃない。涙だった。
耐えきれない熱に抗う為、無理に閉じ込めた目の上に何かが置かれる。
マトイの冷たい手だった。マトイの手は火傷をしそうになっていた目を冷やしてくれる―――知らなかった、これ以上の快楽を自分は知らない。
「泣かないで‥‥。私がここにいるから」
上から降りたマトイが添い寝をして、一緒に布団を被ってくれた。
冷たい手によって目と頭の熱が奪われる。それだけではない。自身の体温を捧げて、身体の中に受け入れてくれる。吸い込まれるような睡魔に身を預ける。
「今晩はここにいます。あなたが寝付くまでずっと‥‥。忘れないで、あなたは‥‥どこまでも一人だから、あの人がいても。でも、私が傍にいるから‥‥」
もう、何も考えられない。あの夜よりも頭が空白になっている。
脳に一滴も血が通っていなのか、考える行為を全身が拒否している。
「マトイ‥‥俺は‥‥俺は‥‥どうしたらいい‥‥ここにいてくれ――」
自分で声を出せているのか、心の中で叫んでいるだけか、もはやわからない。
背筋が寒い、頭が熱い、何も考えたくない。このままマトイに眠ってしまいたい。
――――手を握って体温を分け合う。逃がさないよう、身体に腕を回して胸で抱いてもらう。心地いい心音に、意識を溶かし―――肺の膨らみを求める。
「眠って‥‥。あなたは誰にも渡さない」
この声の振動が耳に届く。そしてこの香り、これは花—――
「おやすみなさい‥‥」
6章 止まる音を聞きながら
「まだ寝ているんですか?」
「ええ‥‥。誰が起こしても全く起きなくて」
「脈は?」
「正常です。急激な変動もなく健康的だよ」
「何発か鳩尾に」
「やめてやめて!目覚めなくなるから!」
一体誰だろうか―――まだ、眠っていたいというのに。
「はぁ‥‥教員の方はなんと?」
「内出血とかの怪我も全治してるから、後は体力を戻して、自力で歩く事を思い出せば問題ないって」
「ん?車椅子が――」
「あ、昨日リハビリ室でずっと歩く練習をしてて、だいぶ無理をしたみたいなの。もう自力でベットにも上がれないぐらいへとへとだったみたい。襲撃科の人が押して戻って来てたよ」
声が聞こえる。ネガイとミトリだった。けれど、まだ眠い。もう少し、今日一日は眠らせて欲しい――。
「全く‥‥これだから。私がどうにか起こしますから、朝食をお願いします。無理にでも食べて貰わないといけませんから」
「わかった。じゃあ予定通り持ってくるね」
真横の椅子に、ひと一人分の質量が座った音がした。人の気配と視線を感じるが、カーテンから差した光が温かくて心地いい、まだ眠れそうだった。
「起きて下さい。昨日言いましたよね?明日来るって、ほら起きて」
体を揺さぶってくるが、体を心配してかあまり強くしてこない。ゆっくりとした揺れが寧ろ、更に深い眠りへと誘ってくる。
「これでも起きませんか‥‥。これならどうですか?私の手、好きなのでしょう?」
頬に何か柔らかいものを感じる。日の光よりも優しくて、日と同等に慣れ親しんだ温かな力だった。
「早く起きて下さい。これからの事について、話したい事があります」
そして目に柔らかい感触が移動してくる。まぶたが温かい。でもいつもの治療より物足りない。もっと欲しいと手に顔を押し付けるが、身を引いて行ってしまう。
「ふふふ‥‥、起きたらご褒美に好きなだけ手をあげますよ」
それは―――起きなければならない。惰眠を貪るのは、これお終いだと合図してきた。その上、そろそろ空腹を感じ始めていた。
ゾルで固められたような瞼を開けて、至近距離でネガイの手をつぶさに見つめる。
「起きましたね。そんなに手が好きですか?」
手に睫毛が当たって起きたとわかったのか、話しかけてくる。
「ネガイか‥‥。もう少し手を‥‥」
手の上に、昨日のように手を重ねる。そう、この温かさときめ細やかさだ。
「お、思ったより積極的ですね。そうですか‥‥弱ってる時はこうなるって、本当なんですね‥‥」
このまま二度寝が出来そうだ―――いや、ダメだとわかってる。そろそろ起きるよ、言われなくても。 そうだな、起きたら食事だった―――諦めて、起きよう。
「おはようございます。目が覚めましたね」
「ああ、おはよう。もう朝か‥‥」
手を貸して貰い、ベットに縛り付けられていたような上体を起こす。寝ぼけていようと、ネガイの容姿を見間違える筈がなかった。誰もが振りむく傾心の容姿を、欠伸を噛み殺しながら見つめ、肩と背中の骨を伸ばして凝りを取る。
「—――今何時?」
「8時です、寝坊しましたね。けど、もうゴールデンウィークですから授業もないので、しばらくゆっくりと過ごせますが」
「忘れてた‥‥もうゴールデンウィークだったのか―――」
長期休暇はオーダーにとっても休みであるが、中には稼ぎ時として一切休まない人間もいるので二極化している。また、療養中の人間も少なくないだろう。
「あ、起きましたね。どうぞ朝食です」
ミトリがワゴンで一人分の朝食を持ってきた。無駄に仕事を増やしてしまい、悪いことをしたと心苦しくなる。決して暇ではないというのに。
「ありがとう。悪いな手間かけて、頂くよ」
「はい、しっかり食べて下さいね。体力を戻すには、食事から栄養を取り入れるのが最善の一つですよ」
ベットに備えつけられている机の上に、ミトリは一汁三菜を置いて戻って行った。昨日より固形物があるが、ボリュームとしては昨日の夕飯に軍配が上がるだろう。
「一人で食べれらますか?」
「そこまで何にも出来ないわけじゃない。昨日だって一人で食べたんだ」
からかってくるネガイに抵抗して、味噌汁らしき出汁と箸を取って胃袋に流す。
「体調はどうですか?」
「とりあえずは腹は減る。それと少しだけ動きたいから、あとで付き合ってくれ」
「はい、わかりました。あ、それと忘れる前に―――これ、入れておきますね」
椅子の後ろから、ボストンバックを取り出した。
「それは?」
「着替えです。そろそろ、そのパジャマをどうにかしましょう。ずっと同じでは衛生的ではないので、勿論、下着の着替えも。また手伝いますから」
「前も言ったけど、そこまで世話される程、落ちぶれてない。だけど、そうか‥‥。数日眠り続けたんだったよな。確かに、そろそろ着替えるか。何持って来たんだ?」
「とりあえず、干してあったスウェットとTシャツ、あとYシャツも持って来ました。それとこの辺も―――」
「あ、ああ。助かった‥‥聞いていいか?」
「なんですか?」
小首を傾げる可愛らしい反応をとるが、なぜ部屋の鍵を持っているのだろうか。
渡した覚えはないというのに―――まさか、壊したという事はないだろうか。手先は器用だが短気な部分も持ち合わせているのを、経験上知っていた。
「鍵、どうしたんだ?」
「鍵ですか?サイナから買いましたよ。どうしました?」
「そうか。いや、なんでもない。本当に助かったよ、ありがとう」
まずは入手ルートから洗って、言い逃れ出来ないようにあの商人を追い詰める。サイナには少しばかりお灸を据えるとしよう。
前のネガイのように工房へと襲撃仕掛けるか?それは可哀想か――何よりあそこには俺の物がある。彼女自身に襲撃をかけるか。
「不思議な事を聞きますね。ふふ、変な所は見ていません、誰にでもプライバシーはあると知っていますから―――それとも見て欲しかったですか?」
自分で言っておいて顔が赤くなっている。
何を考えているか知らないが、こちらが最も気になってるのは鍵の売買の方であった―――けれど、今日はやけに、いや、最近見ない程に機嫌が良かった。
「勘弁してくれ‥‥」
「ではそうしておきますか。大丈夫です、あなたの主義趣向がわかってきた所です。多少逸脱していても受け入れる準備があります―――あなたに付き合えるのは、私だけですから。安心して下さいね。はい、まずは朝食を」
勧められるままに箸を操る。それを確認しながら満足そうに頷き、立ち上がったネガイは、クローゼットに衣服を入れ始めた。この光景には、心が揺れる。
「プライバシーってなんの話だ?引っ越しまだ一か月も経ってないから見られて困るものすら、あの部屋にはない筈なんだけど」
「では、これから揃えるとしましょう。先ほど言った通り、あなたの主義趣向はわかってきました。大丈夫、一緒に選んであげますから」
ボストンバッグの中身を全てクローゼットに入れたネガイが、勝ち誇ったように微笑んでくる。
ああ、やはり美人はずるい。どうしてこうも、言葉を失ってしまうのだろうか。しかも、それを知っているのだから尚更、厄介だ。
「ふふ、どうしました?」
「あぁ、いやなんでも―――それで話ってなんだ?」
「聞いていましたか。なら早く起きて下さい」
「早く起きてたら手で暖めてくれなかっただろう。 ご褒美、忘れてないからな」
先ほどから感じる好意が心地いい所為か、彼女の言葉に乗ってしまう。美人に弱いという部分の、自分の存外な単純さに嫌気が差す。
「‥‥っ!結構来ますね‥‥。でも後でまたしてあげますから‥‥少しは我慢して下さい。‥‥よし、では話をしますね」
気合いを入れ直して真っ直ぐに見据えてくる。けれど、まだ感情が抜けきってないのが、緩んでいる頬で見て取れる。
「昨日言った通りですが、あなたの目は時間の問題で羽化します。それは出来れば避けるべきです」
「この前の布みたいな奴と死ぬまで殺し合う事になるから。羽化が止められなければ、『目』に心臓を支配されて操られる―――もう散々言われた事だ。ちゃんと理解してる」
食事を摂りながら会話を続ける。味噌汁で言葉を呑み込み、舌を湿らせる。
「はい、その通りです。そこで考えた事があります」
「《《考え?」」」
「そうです、まずあなたには―――」
「あ、来ていたのですね」
扉を開ける音が聞こえる。だがミトリの声じゃない。この声は―――、
「マトイ‥‥」
「ええ、昨夜振りですね。しっかり起きていて安心しました。ふふ、あと数分早ければ私が起こしてたのに」
「そうですね、もう少し早ければあなたの時間でしたね。でも、今は私の時間です。早く見舞いを済ませて休日を堪能しては?」
会って早々にこれだった。面識があったのは知っているが、ここまで仲が悪かったとは、思わなかった―――ネガイは、見ているこちらが恐ろしくなる剣幕でマトイを睨みつけ拒絶の意思を伝える。
「怖いですね。そんな殺気では彼の身体に毒では?」
マトイの目を見て確信した。
—―――細い白目に、どこまでも黒い瞳孔でネガイを見下ろしている。
一触即発の今の内に止めるべきだ。そう、確信した。
「止せ―――ここでやり合うなら治療科が黙ってないぞ‥‥」
治療科は、間違いなく治療や看護を主目的にした科である―――だが、それと同じ優先度に患者を守るという部分を重きに置いている。
ここで始めるという事は病院を傷付けると同意義。
それはこの院内で拠点防衛に全力をかけている治療科を全員敵にする事になる。ここは彼女らの城であり要塞でもある。お互い、どちらにしても絶対的に不利だ。
「わかってますよ。あまりにも、そこの引きこもりが威嚇してくるので、ちょっとだけ‥‥遊んだあげただけですから―――ふふ‥‥」
「落ち着いて下さい。私もここで死人を出したい筈ないでしょう?それにあなたの食事中に、これの血反吐なんて見せません」
ネガイが机に置いている俺の手に、手を重ねてくる。あれだけ好きだったネガイの手が恐ろしかった。全く汗も震えもしていない。
目が合った瞬間、覚悟を済ませていたのがわかってしまった。淡々と作業として
「オーダーの殺しは厳禁だ。ネガイがいなくなったら、俺が困る」
「ふふ、そうですね。だって癒してくれる人がいなくなりますからね」
「それで?なんの用ですか?私はこれから忙しいので、手早く終わらせてくれますか?」
立ち上がったネガイが間に入って、もしもの時の為に射線から俺を守ってくれる。
「なぜ私があなたに用があると思う?」
「白々しい。昨日私の実験室の前で徘徊していたとカメラに映っていました。無理に開けようとしなかったのは、褒めてあげます。私の患者が世話になったようですね」
知らなかった、そんな物を仕込んでたのか―――実験室と呼んでいたのか。
「それは盲点でした、油断しました。彼を入院室まで送ったのは気にしないで下さい。私が、したくてしただけなので」
「知りませんでしたよ。病人に優しくするなんて考えが、あなた達にあったのですね」
「私は相手を選んでいるだけですよ。彼は特別ですから」
売り言葉に買い言葉で話が進まない。
ネガイにしてもマトイにしても珍しく熱が冷めない――だが、俺からは何も言えない。願わくばこの小競り合いが終わらないでくれと思っているからだ。
マトイの目的を知っているからだ。
マトイは恐らくネガイの拘束、取り調べをする気だ。例え俺がなんともなく日常を過ごしていたとしても、あの動きを出来る人形を個人で所持しているなど、オーダーの秩序を守るという本懐に確実に抵触する。
「彼も大変ですね。貴女が唯一の専門家で」
「何が言いたいんですか?」
また頬に手を当てて微笑んだ。
「あまりにも都合が良過ぎるのでは?貴女の目的はここからの逃走—――だというのに、彼の目にとって貴女は要たりうる存在となっているなんて」
「だから何ですか?彼と私はお互い納得して相互で助け合っています。他人にとやかく言われる筋合いはないのでは?」
「もしどちらかがいなくなったら‥‥困るのは彼だけ。本当ならそうでしょう?」
二人の会話に心臓が悲鳴をあげる。
俺は死ねない、ならここでネガイを守るべきなのだろうが―――だけど、そんな事が出来るのか?—――ネガイへの疑問は元々自分の中で生まれた。
あの夜に限った話ではない、本当に俺はネガイがいないと死ぬのか?という疑問。
マトイも同じ結論に至った、だからそれを俺に伝えてきた。マトイが言ったから俺はネガイを疑う―――そんなものはただの詭弁、誤魔しでしかない。
本当にネガイを信じていいのか、もしネガイが嘘を吐いていたとして―――その時、一体どこに身を振ればいい。
「そこまでにしとけ。少し騒ぎすぎだ、そろそろミトリが食器を回収に来る。大人しくしといた方が良いぞ」
しかも、マトイの目的が今ここに至っても、わからない。
俺の法務科への加入が目的だったとして、今更なんの為に欲しがる。
マトイの言う通り『この目』がもう使えないは嘘だったとしても、事実として今の俺では数秒、全力で使っただけでこの姿だった。
こんな燃費の悪い力を求めて意味があるのだろうか。マトイの力になりうるのか?
未だ『『一触即発の雰囲気で止まっていた》》二人の空気に水を差して、話を終わらせる。
「ふふふ‥‥」
「ちっ‥‥」
二人共とも、ようやく矛を納めてくれた。だが、まだ収まりきらない。
マトイの眼が能面のようで、ネガイは顔こそ見えないが、どこを刺すべきか目算を立てているのが顔の向きでわかる。
「それで、どうするんですか?私を拘束でもしますか?なんの罪状があって?
「それをするには証拠が足りないので今は出来ません。でも、近いうちに成り得るかもしれませんね。あなたに疑問を持っている人が―――私以外にもいるようですし」
「疑問?何ですか、それは‥‥」
「気になりますか?でも言えませんよ。情報提供者は守らないといけませんから」
こちらの方など一切見ずに、ネガイに言い放った。
「不思議な事を言いますね。あの場には私と彼しかいませんでした。それとも――――遠くから誰かが観測でもしていたとでも?」
ネガイがそんな人間いる筈ないと、胸を張って言い返した。
そんな彼女の―――信じてくれている彼女の後ろに、自分がいた。
「まさか、観測者なんていません。でもその人は、まだあなたの事を信じているようですよ」
彼女らしくない驚きを声に出して振り返った。
あの場には俺とネガイ、そして布しかいなかった。
情報提供者といえば、そこにいた者しかいないと誰であろうが気がつく。
「ネガイ、俺は‥‥」
「信じてきた存在に裏切られるかもしれないなんて、考えたくないでしょうね」
ネガイの目を見れない。今の俺に、見ていい資格があるのか。情報なんてマトイに渡してない、でもこの感情は――――、
「何を言っているんですか‥‥。だってあなたが—――」
「そうですね。きっと彼からあなたに助けを求めたのに」
言葉を遮るように、誰に言ったわけでもない言葉を発した。
そうだ。自分からネガイに助けてくれと言って、今の今まで守ってもらっていた。なのにネガイを、信じられなくなっている――――これは裏切りなのか、ならば何を信じればいい。このままネガイを盲目的に信じていいのか。
「マトイ‥‥あなたが彼に言ったんですね‥‥」
目を閉じて深呼吸した直後、腰からスカートにかけて仕込んでいるエストックに手を伸ばした。
これから襲う相手に手口を全く隠さない。ネガイも冷静ではいられなかった。
「元々、彼は貴女に対して疑問を抱いていたみたいですけど、そうですね。その認識で間違いはないと思います」
「わかりました‥‥」
自身がネガイに疑問を持っていた。
そう聞いたネガイは、手をエストックから離した。
「私も契約があります。ならば―――最後まで全うします」
ネガイが自身の契約の誓いを述べ、座っていた椅子に戻り、下を向いたまま何も言わなくなってしまった。
「俺は‥‥ネガイに感謝してる」
「―――私も虫が良過ぎる契約をあなたに強制していたとは、思っていました」
ただでさえ味がしない朝食がもう喉を通らない。無理矢理、重い冷たい石でも呑まされたようだった。
虫が良過ぎる?それは自分の台詞だ、結局ネガイの為に何も出来てないのだから。
ここからネガイを出すどころかあの夜、自分一人では確実に布からの攻撃で死んでいた―――玉砕覚悟で目を使っていても、廃人になっていた。
だけど、ネガイがいたから生きている。だが、それもこれも――――あれはネガイの自作自演だったのでは?という考えで塗りつぶされてしまう。
「わからないんだ。あの夜、俺は死んだ筈だ。なのに俺は生きてる、ネガイが治してくれたんだろう?」
「‥‥」
「なんで何も言わないんだ。助けてくれたんだろう?いつもみたいに‥‥」
幾ら呼びかけても、何も言わなかった――――ここで「あの夜、私があなたを治療しました」と言えばそれで済む。だけど、ネガイはあの布に掛り切りだった筈だ。
実際に制圧科と法務科が、布の一部をサンプルとして保管している。
「いつ俺を助けてくれたんだ。ここに来る時はもう治ってたんだろう。‥‥だって、ネガイは目が覚めた時に、」
「私が感謝しろと言ったのは、治療科にあなたの状況を伝えた事です」
不意を突くように目に手を当ててきた。反射的に眠気を誘ってくるが、反抗して手を払おうとするが、
「寝て下さい。リハビリには付き合えません」
「はい、お食事が済んだら病人は睡眠の時間です」
二人が体に手を押し付けて無理矢理ベットに寝かしつけてくる。ただ手を体と目に押し当てているだけだというのに――――まるで抗えない。
「やめろっ!また、眠らせて逃げるのか‥‥!」
いつもの、さっきまでの手とは違う。ネガイの手によって意識が吸われるように、体から力が抜けていく。
「早く眠って下さい。大人しく」
「大丈夫です、妙な事もしません。ただあなたは眠っていればいいんです」
足が言うことを効かない。ベットの机一つ蹴り飛ばせない、二人に肩や胸を押さえつけられ、血でも抜かれているような感覚さえしてくる。
まともに抵抗が出来ない。
「俺は――お前達を、信じてる‥‥!何で、俺はなんなんだ‥‥?」
抑える二人に向かって泣きながら叫ぶ。声を無視してネガイは何も答えない。
だけど、マトイだけが答えてくれた。
「嬉しい―――その言葉が聞けて良かった、ようやく私に堕ちてくれましたね」
マトイが昨日のように胸に手を当てた時だった、急激に胸の中が冷たくなり、息が出来なくなる。
「や、やめ、」
「マトイ!」
ネガイが叫ぶように、マトイのやろうとしている事に静止を求めるが、
「大丈夫ですよ。少し強引ですが、乱心している相手にはこれで。それに必要な事でしょう?」
寒気がするような声だった。
止めようとしてくれたネガイが、その言葉を聞いた途端に手伝い始めた。
そこで、ようやく違和感に気が付いた――――まだ胸の上に感触がある筈のマトイの手が、その手が何倍にも広がって体の中に入り込んでいた。
血の気が引いていくのも束の間、迷わず内臓を鷲掴みにされる。
体が異物を拒み吐き出させようとえずいてしまうが、マトイは構わずに胸に手を当てて、胃も肺も肝臓も腹にある内蔵をまとめて掻き回してくる。
「やめろっ‥‥やめてくれ‥‥」
もはや錯覚ではない。確かにマトイは俺の中で手を振り回している。
「苦しいですか?でもこれで終わり‥‥」
その呟きに耳を貸していた瞬間、身体の中に5本の爪を感じた―――抗う事など、そもそも出来なかった。一呼吸の間も無く内臓がまとめてを握り潰される。
「あぁ――――」
声を出せなかった。
たまたま喉と口で出来た空洞に、空気が流れて音らしき物が流れただけだった。
身体の中に一瞬だけ鉤爪が生まれ、それが身体を切り刻んだ。それが事実だった。
痛みは無かった――――だけど、内臓を抉る冷たい爪は、感じ取れた。
「落ち着きましたね。これで気絶していればよかったものを」
一瞬で口から液体が溢れ出す。
血だ、口から血が止まらない。舌に広がる鉄の味に、唾液など一切紛れていなかった。濁った血ではない、完全なる鮮血が口から溢れ出していく。
「俺、は‥‥。俺は、」
もう喋れない。血が喉に詰まってる。
体が無意識に、肺へ血が流れ込むのを避けようとして空気を流させてくれない。
自分の血で溺死しかけている。それでも何か喋ろうとするが血が吹き出てしまう―――確実に二人へも血を吐き出している。
だというのに、二人の手は肩から緩める事はなく、両側で抑え付けている。
「もういいでしょう。あなたは頑張りました」
「これ以上は危険ですよ、ネガイさん?」
「はい。もう暴れないで下さいね?死にますよ?」
目に付けているネガイの手から頭中の血を抜かれた。
それは比喩でなかった。一気に血を失ったせいで身体が飛び跳ねる。脳が冷たくなり活動中止を求めている。まだ見えていたネガイの手が明かりを消されたように見えなくなった。
それを皮切りにジワリジワリと、眼球が暗闇から血に染まっていくる。
血を吐いて、抜かれた。
体温を丸ごと奪われてしまい、熱の大元が消えて身体が震えてくる。
「急いで、彼の血を」
「わかってます」
もう心臓以外の内蔵を感じない。ただ心臓の鼓動だけを感じる―――だけど、これはマトイの手によって無理矢理動かされているに過ぎない。
内臓をまとめて潰した手を、そのまま心臓に移されているだけだった。
「眠って、もう眠って。あなたの所為じゃない」
「起きたら言える範囲で話すと約束します。だから今は眠って下さい」
もはや二人のどちらが話してるのかわからない。
指が寒い。腕の血管に血が通っていない。跳ね上がっていた足の筋肉が、いつの間にか止まっていた。
息を吸い込む余裕など既になかった。吐き出せるのは、血を歪ませて生まれる声。
「怖い‥‥、怖いんだ‥‥」
喉に焼けるような熱い血が溢れ続ける。その度に体が冷たく、体の血が通ってない場所の感覚が消えていく。先ほどあんなにも苦しかったのに、何も感じない。
体が切り分けられているのに痛みを感じない。
そんな漠然とした恐怖が身体を締め付けてくる。
目を開けているのか、これはネガイの手なのか、それすらわからない。視界が赤く染まっていて、もう判断が出来ない。
「泣かないで、何も怖くないですから」
「まずい‥‥血が足りない。吐かせ過ぎました‥‥!手伝って!」
二人の声が遠くに去って行く。
声を頼りに、藻掻き続けるがまるで追いつけない。どこまでもどこまでも遠くに連れて行かれる。俺を置いて、ふたりが消えていく。
「ネガイ‥‥マトイ、どこだ‥‥処分は嫌だ‥‥」
「喋らないで、私はここにいます。あなたは夢を見るだけ」
「あなたが眠るまでここにいます。目が覚めたら会いに行きます。だからあなたは一人じゃない」
身体が冷え切っていく。俺は、殺されている―――ネガイとマトイが、俺を冷たい場所に送ろうとしている。
赤いカーテンがいくつも見える、それらが天蓋のように被さって輝いていく。
これが死なのか―――。
二人に捕食されている。血と肉体を奪っていく。手足はもう無い。内臓も無い、既に心臓も無い。血も消えた。
心を守る肉体を失った―――凍えるような極寒を感じる。身体を自分の腕で抱きたい、でも、腕は無い。二人に取られたから。
もう抵抗なんてしないのに、二人とも腕を返してくれない。人間は残酷だ、もう自分を気遣う事すら許されない。
ああ、だけど、この二人がきっと―――もう名前も思い出せない美しい手の持ち主達を――きっと―――。
「手、握ってくれ‥‥。怖いんだ‥‥」
まだ奪われていない身体の一部に命令を下す。震えながら、血を流しながら、体を引きちぎって奪っている狂人達に最後を求める。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ両腕を返してくれた。
血流を感じる―――そうだ、この温かさこそが、手向けなのだろう。
7章 美の血園
「最後の食事はいかがでしたか?」
寒々しかった。床の大理石も壁の壁画も天井も柱すらも全て無色か白に統一されている。ここは―――謁見の間だった。
中央を真っ直ぐに鮮やかな赤の絨毯が引かれている。どういう訳か、今も踏み付けている絨毯が動脈を想像させた。だけど、これは俺の目に異常があるのか、この部屋全体が全てぼやけている。霞がかかっている気もした。
「もう少し塩が欲しかった」
「シオ?」
聞き返してきたのは、赤い玉座に座った女性。
顔は見えなかった。何故だかわからないが、口元を晒した赤い仮面を被っていた。
「シオ、ですか――――ああ、塩ですか!!ふふ、私は食事という高度な文化を楽しむ事が出来ないので、羨ましく思っていたんですよ」
彼女の後ろも赤いカーテンで隠されていた。彼女の周りだけが赤いので、尚更彼女は特別な存在だと、克明に訴えかけているようだった。
「ここには食べ物はないのか?」
「まぁ、必要ないですから」
自分の事だというのに、まるで他人事、興味すらないと言わんばかりだった。
「俺は‥‥どうなったか、知ってる?」
「気になりますか?ふふふ‥‥」
「質問で質問を返すのは如何なものかと?」
「あ、そうですね。ふふ、その通りですね」
上品な笑い方だった。彼女が笑う度に髪が揺れ、髪を飾っている金や宝石と思われる物が煌びやかに輝く―――そこでようやく違和感、髪の色に気が付いた。
彼女が動く度に水紋のような寒色系の色が輝き、どこか鉱物の結晶や宇宙の色を思わせる髪色をしているのだとわかった。
「まさか私の方が先に叱られるとは、思いませんでした」
少し幼さを感じる声だ。赤いドレスを身に纏っているので大人びて見えていたが、もしかしたらそこまで年齢差はないのかもしれない。
「では、お答えしますね。あなたは今無事に眠っています。大丈夫です、ちゃんと目が覚めますよ」
目が覚める。そう言ってこそくれたが、目を塞がれていたとはいえ、確実に死に直結するレベルの血を奪われ、全ての内蔵を潰された。
だからもう目覚めないと思っている。信じていい言葉なのだろうか。
「ただ、あなたは‥‥そうですね。あなた達の秤で言う所の1000ml程奪われたので、くすっ、顔が真っ白でしたよ」
「何が面白いんですか―――それで、どのくらいで目が覚めますか?」
「んー、私が満足したら、ですかね」
強めに問い質したというのに、まるで意にも介さない。
「そう、ですか‥‥」
ここはどこだ?、という質問をする気が起きない。そんな事を聞いても意味がない――もう興味もわかない。ただただ、付き合い切れない。
気が付いた時には、自然と敬語になってしまっていた。高貴な出自なのか知らないが、そういった態度を取らねばならない、と本能と理性の左右が命令してきた。
仮面を被っているのも自分が高貴だと理解しているからだろうか。親しくもない、一般の平民には顔も見せないという考えなのだろう。
「はい、満足したらですよ―――実は、あなたには常々言っておきたい事がありました。少しだけはしたない事も言うでしょうが、我慢して下さいね」
玉座から立ち上がって、意気揚々と真っ赤なヒールで同じ位置に歩んできた。
「覚悟は良いですか?」
「その前に、少し足を上げ過ぎでは?」
「そこは‥‥私も慣れないので‥‥。うん、今度から練習しておきましょう!」
仮面越しだが顔の白い肌に赤みを差しているのがわかる。そこで『仮面の方』は気取られない為、気丈な態度で構わずに押し通してきた。
「まず第1に―――あなたは弱過ぎる、何故ですか?」
と、仰られた。
やはりここは見た目通り声が反響してくるので、「あなたは弱過ぎる」が耳に何度も届く。そう言われて何も感じない訳ではない。
だが、顔色こそ見えないが、言い終わった後に腰を曲げ顔を窺ってくる姿に、心底心配してくれているのだとわかった。
「あなたは三つもの遺物を取り込んでいる。それなのに何故?もっと力を引き出してもいいのに」
訝しむような、心配するような声を出しながら、後ろ手に目線を外さずに周りをゆっくりと回り始めた。
「それは俺の体が追いつかないから、俺には‥‥この目も心臓も過ぎた物らしいです‥‥」
右目を閉じて瞼の上から触る。遺物の意味はわからないが、きっとこの目と心臓の事なのだろう―――これを自由自在に使えれば彼女達の隣にいられる、そうわかっている。でも、今の俺では、全力の動きのネガイの縮地に全く敵わない。
もしネガイと敵対したら、一瞬で絶命する。
「それは変ですね。だって、その為に私がここに火を与えたのに」
「え‥‥」
仮面の方が俺の左胸、心臓の上に手を押し付けていた。今さっきまで後ろにいた筈だ。気配だって見失ってなかった。なのに――――、
「失礼しますね」
また心臓を握られた。だがマトイの比ではない。完全に手が体にめり込んだ。
「ほら、ほらほら。あるじゃないですか?なぜ、これを使わないの?これを使えばもう少し」
非現実的な光景に、身体が反応出来ない。だというのに痛みや苦しみは確実に脳髄を掴み取っていた。それだけではない―――心臓に神経があるかどうかなんて知らないが、遠慮なしに心臓を握って離してを繰り返しているのがわかる。
立っていられない。だけど心臓を掴まれているから倒れるこそさえ出来ない。
「ん?どうしました。顔色が‥‥?」
不思議そうな声で聞いてくる、だけどこの状況で会話なんて出来る訳がない―――混乱を無視して、早くやめさせようと腕を掴むと、『仮面の方』は軽く悲鳴をあげて腕を体から急いで引き抜いた。
線が切れ、跪くように絨毯に膝を突く。四つん這いで耐え忍ぶが、狂ってしまう不快感に、未だ抜け出せなでいた。
肺が言う事を聞かない、息が整わない、肺が膨らまわない。喉だけで空気を通した所で我に返り、急いで自分で自分の左胸を手を当てて確認するが―――何もない。
「大丈夫ですか?でもあなたも悪いんですよ、急に腕を掴むなんて‥‥マナーがなってません」
『仮面の方』は、おかしいのはこちらだと言うように、心配そうに、しゃがんで頭に手を乗せてくる。まるで罪悪感など持ち合わせていないのが、声でわかった。
ただ肩を叩いた程度の感覚でしかない。
「今後‥‥心臓を、急に握ってはいけません‥‥」
「え、私、何か不躾な事を‥‥?」
本当にわかってない―――いや、そもそも何故、この人を人だと思ったのか。
「人の体にとって心臓、ここの臓器は‥‥何にも代え難い存在です。二度と許可もなしに、触らないように‥‥」
右手で左胸を抑えながら、零れ出そうな心臓に耐えながら立ち上がる。見た目こそ人だが、この人は、あまりにも人から逸脱していた。
「そ、それは申し訳ありませんでした!今後気をつけ、二度とないようにします!こちらをどうぞっ!」
手を上げて何かを呼ぶような動作をした。後ろに誰かいるのか?と思ったが、振動は床からやって来た。
絨毯下の大理石がせり上がり、絨毯ごと持ち上げられ丸いベットの形となった。
「こちらで休んで下さい。私も色々と初めてで舞い上がっていたようです」
「あ、ありがとうございます」
「いいえ、ごめんなさい。私ももっとあなたの事を知っておくべきでした」
『仮面の方』の足元もせり上がり、肘掛け付きの椅子に姿を変えそのまま座る。
「では続けますね。でも寝ないで下さい、あなたはよく眠ると知っていますので」
決して曲がらない人だった。
そしてよくよく俺はベット、更に言えば睡眠に縁があるらしい。
この―――恐らくは夢の世界でもベットの上なのだから‥‥眠くなってきた。もうここで、何もかも夢であったと思い込み、微睡んでしまおうか、
「第2にです。あなたは人を恐れ過ぎです。特にあの二人はそんなに怖いですか?」
そんな事は許さないと――――『仮面の方』は、ただの言葉で心を抉ってきた。
「だったら、どうしろと。俺に何を信じろと?ネガイもマトイも‥‥俺を」
あのふたりの間に、一体どのような取り決めがあったのか、想像もできない。想像することさえしたくない―――あの殺し方に、意味などそもそもあったのだろうか。
「怖かったですか?あの二人は」
目を閉じると、今も思い出す。
マトイの手が、身体の中を切り裂いた。ネガイの手よって血を奪われ、眼球を砕かれた。好きだった手が、今はただただ恐ろしい。
「ネガイ、マトイ―――」
体から何かが―――口元に上がってきた。
急いで跳ね起きて口元を抑えて飲み込もうとするが、留まる事を知らない汚物が喉にせり上がってくる。考えないように、もう思い出さないようにと頭に念じるが、その度に鮮明に頭に浮かび上がる。
二人に取り押さえられて二人に殺された。あっさりと、作業みたいになんの感慨もなさそうに。単調に―――感情などない、うるさいから黙らせた。静かにさせる為に殺した――――舌と歯を越えてしまえば、何もかもが噴き出てしまう。
「ごめんなさい。ここには水も無いので、でも吐く事は出来ます」
銀で出来た痰壷のような物がベットの枕元に出現した。初対面の人の前で吐く姿を見せるのは憚れるが、もう止まらない。
急いで掴みとり抱えて全て吐き捨てる。声を抑えられない、恥も外部も捨てて泣きながら吐いてしまう。
「俺は‥‥俺の所為なのか。なんで俺なんだよ‥‥。ネガイ‥‥マトイ、なんで、殺した‥‥お前達は―――特別だったのに‥‥」
次使えば死ぬと言われても、きっと求められれば目を使ってしまう。俺はあの二人が―――だった。死ぬのは怖い、でもあの二人がいなくなるのは死ぬよりも怖い。
だけど、今は何よりもあの二人が怖い。
またあのやり方で殺されると思うと、もう会えなかった。
「‥‥第3に行く前に、あなたは、まだあの二人を、人間が好きですか?」
「わからない。俺は、もう―――」
何も考えたくない、考えられない。俺の体はまだ生きているらしいが、心は死んでしまった。もうここで眠ってしまいたい。
目が覚めて、俺はあの二人とどう顔を合わせればいい。また俺はあの二人に殺されるのか?—―――嫌だ。あんな殺され方、もう目で追う事さえ出来ない。
「第3に‥‥あなたはどうなりたいですか?」
「もう、どうでもいい‥‥目を眠らせるも支配するも、もうどうでもいい。ネガイにもマトイには、もう会えない―――ここで眠り続けます‥‥」
吐くものがなくなり、壺を元の場所に置いたら吸い込まれるように消えていく。吐き疲れてしまい、急激な無気力感が襲ってくる。立ち上がる気さえ起きない。
「聞き方を変えます。あなたは知りたくないですか?」
『仮面の方』が立ち上がって、赤いハンカチを渡してきた。一瞬迷ったが、上半身を起こして受け取ったハンカチで口元を拭う。
「何についてですか‥‥」
ネガイとマトイの行動か?あの布の正体か?もう何も考えたくない。
「もうただの夢でいいんです。何も知らなければよかった―――期待しなければ良かった―――ただの人形止まりで、良かったのに‥‥」
汚してしまったハンカチを、どこへ投げ捨てようか、そう考えていた時だった。
「これって‥‥」
手に持っているハンカチが、目の前で溶けるように糸の一本一本がほつれて空気に消えていく。たった数秒の事だった。ついさっきまで手に持っていたハンカチが完全に消えた。跡形もなく。
「驚きましたか?これは魔に連なる力と呼ばれています」
「これは、あなた以外にも?」
「はい、私どころか、この力を行使する方々にとっては、基本中の基本です。これは元々は―――話すと長いので割愛しますが、間違いなく今のは人の術。これの扱いは、人間の方が長けていると思います」
無自覚か自覚わからないが、この人は自分で私は人間ではないと言った。
このベットとといい、椅子といい、何よりあの髪で人間ではないと嫌でも判断が出来た。何故この人は俺にこんな事を教えるのか?
手を見つめてみる。今あった筈のハンカチの特性は―――マトイの言葉を信じるならば、あの布と同じだ。
この人は何を知っている?俺に何を伝えようとしている?
「あなたは誰ですか?」
疑問に思って当然の事柄。今の今まで何故聞かなかったのかと、我ながら不思議に思った質問、それを『仮面の方』に投げかけた。
「やっと聞いてくれましたね」
途端、
「今あなたは自分以外の、ここでいう私に興味を示してくれました。ほら見てください霧が晴れていきませんか?」
ぼやけていた謁見の間がハッキリと見えてくる。白一色の無機質な装飾だと思っていたが―――それは大いに違った。
「ふふん、悪くないでしょう?この場所は私の趣味でもあるのですよ♪」
金や銀に白金が柱と壁を飾り、壁画を浮かび上がる。壁画には鮮やかな岩絵の具や宝石を散りばめられ、星に見立てて夜空が描かれていた。
壁画近くに並び立つ石像群が荘厳であり、悠然と佇む。けれど、決して自分こそが謁見の間の主ではないと謳っているいるようだった。自らの主たる仮面の麗人の非尋常さを際立たせる、整い過ぎた調度品類が視界を覆い尽くした。
そして絨毯も赤一色ではあるが金の糸で豪華に縁取りをされ、中央で等間隔に紋章のような刺繍が施され———床の大理石も、乳白色に見事に磨き上げられた菱形のブロック状。それぞれの繋ぎ目には、黒鉄で格子状に描かれ敷き詰められている。
「これは‥‥綺麗だ」
心からの感想だった。どれ一つとっても人間業とは思えない至宝の数々。ただの人間の輪廻では永遠に触れられない――――真に捧げられた芸術達。
「ありがとうございます。でも1番は‥‥上を見て」
言われるままに見上げた時、息を呑んでしまった。
天井には宇宙があった。ただシャンデリアが下がった天井ではない、確かにそこには宇宙があった。
「私が、あらゆるソラを巡って手に入れた宝石を使って宇宙を表現しています。これが私の空です」
「だけど、あれは一体—―――本当に星が‥‥」
天井の星々が衛星のように回り、彗星の如く流れていく。更に星々の奥にはどこまでも青くて黒い深宇宙が見える。
「宝石は特別な力を込めるのに最適な触媒です。あれらの力を借りて私はソラを作っています」
完全に目を奪われた。
ずっと眺めていれば天井に吸い込まれそうになる、だというのに目を逸らせない。
自然とベットに寝転んで、この宇宙の全てを見てしまいたくなった。
「一つ一つでは大した事は無いのですが、私はあの宝石に宿っている力を血流に見立てて力を循環させています」
一体幾つの輝石を使っているのか―――人間では決して観測も出来ない深宇宙の星々。それどころか今も輝く銀河も星雲も全て散りばめられた宝石だった。
間違いなく砕いてなんていない、全て結晶の状態だ。
千や億の宝石の数で河や雲を表現するなど、人間では不可能な手法だ。
「星々が己が光を地球に届かせるには、1番近い恒星でも大体1600日は時間が必要です。光は私と違ってのんびりなので、こうやって自分で宇宙を作り出すのが1番合理的ですね。お気に召しましたか?」
「はい‥‥。これは‥‥見た事がない」
完全にソラに呑み込まれた、これは見ていい物なのか?もしかしたら俺は、もう人間の芸術では物足りなくなる程の存在と接触してしまったのではないか?自力でソラを作るなんて、誰でも思いつくだろうが―――実際にそれを行える者なんていない。
これだけの空間を飾る宝石など、誰も用意すら出来ない。
「よかった‥‥。心配だったんですよ、あなたが一向に私にも興味を持たなくて。あのままではあなたは消えていました。ここはうつろいやすい場所にある気泡のようなもの。心を失った者はどんな存在にも観測されないので、どこまでも薄くなっていって最後には私でも視認できなくなります」
人間離れした言葉だった。
自分の頭では一部しか理解出来ないが、その一部が何より重要だった。
「じゃあ、ここがぼやけてたんじゃなくて‥‥」
「はい、あなたが薄かったのです。気づきませんでしたか?」
後から言われると恐ろしい話だった。いや、意識が変わったのだろう。
このベットで眠り続けたいと思っていたさっきまでなら、それを聞いても受け入れて消える事を望んだだろう。
だけど、聞いてしまった今は――――消えるのが怖くて仕方ない。
「俺は、まだ消えません」
仮面の方がハンカチで教えてくれた事を思い出す。そして布の事も。
「やっとあなたの顔を真っ直ぐに見れますね。これでちゃんとお話しが出来ます。でも座ったままでいいですよ。あなたの細部を私は見ていたいので」
「‥‥わかりました」
やはり人間とは思えない。
それを受け入れている自分がいるが、仕方ない。
目の前に『この方』がいるのだ。納得するしないの問題ではない、受け入れるしかない。致命的な銃弾を受けて、「俺は納得しない」なんて言ってる奴はいない。
仮面の方は、本当に細部まで見たいようでまたグルグルと周りを歩き始めた。
「ふむふむ、やっぱり石像よりも実物の方が何倍も参考になりますね」
顔や身体をじろじろと見てくる。正直言って不気味だ、ただこの人のお陰で俺はここにいるらしいので、やめろとも言えない。
「あの‥‥何の参考にするつもりですか?」
「あ、そうですね‥‥まずはそれらと同じ石像にしてみますか。今まで集めてきたものより身体は小さいですけど――――やりがいのある創作です」
褒められてるのか、慰められてるのか、だけど悪意などない純粋な好奇心といった感じだった。ここはそんなにつまらないのだろうか?
「よし、よく覚えました」
好きなだけ見て満足されたらしく、頷きながら両手で何も無い空間を撫でる。
「あれらも、ご自分で造られたのですか?」
壁に沿うように並べてある石像群を眺めてみる。ローマ時代の流れを汲んだものなのか、布で風を表現したものから裸像も置いてある。
見た目こそ壮観だが、芸術というものに明るくない自分では目のやり場に困る。
「そうですよ。最初は私も気に入った物をここに持って来ようかと思ったのですが、人間にとって急に物が無くなるという現象は困りますものね」
「それは‥‥立派な志ですね」
ここに置いてある石像群はどれも軽く1tはあろうかという重厚感だ。それを一人で石材を削っているだけではなく、持ってこようと思えるという事だった。
「あ、そうだ、あなたに聞きたい事があります。人間を模したああいった像は、わざと首とか腕とか捥ぐのが正しいのですか?今まで見てきたものは大半がそうでしたので」
ぱちん、と手を叩いて朗らかに聞いてくる。もしかして、ここの石像の欠損は自分で作り出したのだろうか。
「—――胸像と首像以外だと、あれらの欠損は経年劣化や輸送中の事故とかの不作為の結果なので、敢えて真似をする必要は無いかと」
「そうなのですか。知りませんでした、ふふ、聞けてよかった。私一人ではわからないので」
石像の話なのにどこか狂気めいた事で楽しそうにしている。
だがこの人にとっては、本当に疑問に思っていた事なのだろう。試しに視線を石像群に向けると、中の一つに―――周りと比べて小さい像があった。
「ん?どうしました?この像が気になりますか?」
「いえ、そういう訳じゃ‥‥」
「気に入りましたか?いいですよ、よく見せてあげます」
仮面の方が手を挙げた瞬間、その像がひとりでに滑るように迫ってきた。
色がただの石膏や石ではない。全体は半透明の白だが、白い筋が入っていて若干桃色も含まれているので艶めかしく見える。
何より少し幼さを持った首の無い裸婦像だった。身体だけ見ると心臓が早鐘を打つが、身体がリアルなのに首が無いから血の気が引いてしまう。
「別にそんなつもりじゃなくて」
「違うのですか?でもあなたの目はこれを追っていましたよ。実はこれ、私のこの身体を模したものなんですよ。私自身、これはいいい出来だと思っていて、ほら腕の長さとか、腿の太さとか努力して測りました!」
自身の胸元に手を置いて語った。仮面越しに自信が滲み出ているのがわかる。
それと同時に、足を上げる高さは気にしてるのにスカートを上げて足を見せてくれた。血管が通って無いのかと思う程に怖いぐらい白い、傷一つない石像のような肌だった。
「あ、ごめんなさい‥‥お見苦しいものを見せてしまって」
自分の格好を自覚したのか急いで足を隠してくる。そして石像も元の場所に戻してしまう。
「今あなたの心臓が急激に跳ね上がりました。血が足りない状況で心拍の上げ下げは最低限で避けるべきでしたね‥‥。ごめんなさい。」
「い、いいえ。見苦しいなんて‥‥そのここでの心臓の鼓動って現実の俺の身体にも?」
「はい、ここでの精神的な負荷はあなた本来の肉体にも負担をかける事になります」
危なかった。もしここで消えていたら、死んでいたのか。本当に。
そんな血の気が引いていく顔を、愛おしい物でも眺めるように口元だけで柔和な表情を造り出した。
「ふふ、あなたの心臓は見ていて飽きませんね。あの二人に会う度に、私の事を意識してからも楽しそうに動いています」
「俺の心臓が透けて見えているんですか?」
「え?そうですよ。じゃないと石像が作れないじゃないですか、可笑しな事を言いますね」
「あのじゃあ、この服も‥‥」
「透けて見てましたよ。さっきあなたを観察した時もあなたの全部を見ました。その時も鼓動が早かったですね。でも1番は天井を見た時で、2番目は石像を紹介した後、私の身体を見ている時でした―――ふふ、あなたも人間と同じで生殖年齢として適齢期なのですね」
この純粋な方は、容赦なくいっそ残酷な程図星を突いてくる。
「そろそろ時間ですね。これ以上は夜更かしです」
時計などここには無いのに天井を見てそんな事を言った。
もしかして星の巡りを時計代わりに、いやこれこそが本来の時の測り方なのか。仮面の方はベットの側面に背中を向けながら座り、頭を撫でてくる。
「ふふ、こういう方法で眠りに誘うなんて初めてです。撫で方はこうでいいですか?ちょっとしたお願いなら聞きますよ」
「‥‥目に手を当てて下さい」
普段の癖が咄嗟に出てしまった。ベットに寝転んだ状態だった所為だ。
「まぁ‥‥うふふ、想像以上に甘えん坊ですね。この感情はなんと言うのでしょう―――でもその前に、さっき怒られたので。今度は謝っておきます。ごめんなさい、出来るだけ痛くしませんから」
数秒間だけ塞がれた目から手を離し、左胸に手を当てて、そのまま心臓を握る。
身体より先に目で異常性を受けてしまい、脳が命令するより先に身体が跳ねてしまった。だがこの感覚は―――、
「気持ちいいですか?良かった。ではゆっくり続けますね」
心臓を撫でられている。
血の巡りを決して邪魔しない優しい手つき、さっきの遠慮が無いやり方とは違う。
「悪くないようですね。目的とは違いますが。いいでしょう、ちょっとだけ‥‥引っ掻きますね」
血管が集まっている表面を爪で傷つけてくる、痛みなんて感じない――だけど、引っ掻いた跡から血が漏れ出している。
錯覚ではなかった、心臓の表面が薄く爪で奪われていく。
あと、もう少しで大量の血が溢れる穴が開きそうなのに、それ以上は傷をつけてくれない。
「どうですか?でも癖にならないで下さいね。自分で心臓を抉り出してはいけませんから」
心臓に繋がる血管、大動脈を指で弄ばれていた。
楽器の弦を弾くように爪弾かれる、繰り返されるたびに脳が震える。今後一生感じる事のない快楽に違いない。頭が狂いそうだ―――でも、死ぬかもしれない快楽に心が溶かされていく。
「はい、いい感じですね。その顔、絵にしたいです。ではそろそろ貫きますね」
――――冷たい
「あ、これが‥‥大丈夫ですよ。いくら汚しても構いません――ふふ、濡れてますね」
躊躇もなく貫いた心臓から手を離した時、腕を引き寄せてしまう。収まりがつかなかった。もっと心臓を握っていて欲しいと願って、求めていた。
「いけませんよ。私は謝ったのにあなただけ確認もしないで掴むなんて。待って下さいね、すぐ掴みますから」
腕を振り払うわずに、手の平を天井に向ける。
「ちょっと熱いかもしれませんけど、きっと気持ちいいですよ。また汚してしまいますね」
どんな姿をしている?どうでもいい。どれだけ醜悪で悍ましい姿をしているか?欲望のまま仮面の方の手を求めている。痛みと快楽、絶頂と死を同時に求めていた。
仮面の方越しに天井を眺める、先ほどの比ではなく空が青く輝き、星々はそれぞれ違う色で燃え―――星々の一つ一つがベットに向かって落下してきた。
「綺麗ですよね。あなたに相応しいものはどれだと思いますか?」
落下してきた宝石群がベットを囲みドーム状に止まる。宝石で出来た檻のようだった。
「ん?あ、そうですね。腕はもう一本ありますね。人の腕は大変ですけど、これが良いのですよね」
隣で少女のように座り、残りの右腕で心臓をまた握ってくれた。
薄い皮で覆われた器官を、手で握って熱を伝えてくれる。苦しめるように、弄ぶように―――快楽を約束するように、頂きに導いてくれる。
「これぐらいはどうですか?さっきと同じぐらいの強さです。ふふ、あなたの反応がいいので私も楽しいです」
この方の気の迷いで俺は死ぬ。少しの手違いで、俺は殺される。この優しい人の手によって楽しく命を奪われる。
最初のうちは肩が震えていたのに、もう止まっていた。
こんな優しい殺し方なら、このまま眠ってしまいたい。
「眠ってしまいますか?勿体ないですよ。これから、今までの比ではない快楽をあげるのに――――うん、決まったこれが良い」
宝石の檻から一つの星が流れ、『仮面の方』の手のひらに収まった。選んだ宝石は見た事もない、心臓のような大きさだった。
「これは私が初めて手に入れた宝石です。見て下さい、これをあなたに使います。これで遺物達も使いこなせると思いますよ。何と言っても、私があなたの為に選んだ、あなたの初めてで、私の初めてなんです。きっとお役に立ちます」
その宝石を見たことがない。宝石というにはあまりにも原始的な形だった。
ほとんど原石に近いのに―――目を魅かれる。色は青と黒が混ざったような、仮面の方が創り出した宇宙を纏めたような色合いだった。
右手を抜いて見下ろしてくる。早く、早くと望んでしまう。
「では入れますね。しっかりと私に見せて下さいね」
一瞬だった。宝石をさっき開けた心臓の穴に押し込まれた。
「あは、その顔見た事ないです。ほらもっと見せて」
興奮した口の端を吊り上げて髪を揺らしている―――髪が青く、黒く輝く。嘲笑うような声のまま、宝石を入れられた心臓を容赦なく揺すり、押して、掴んでくる――――熱い、痛い、このまま続けて欲しい。
「これ以上の我慢は可哀想ですし、何より私が我慢出来ませんね。ふふ、これで‥‥最後です」
仮面の方の腕の動きで何をされるのかわかった。そして予想通りに――潰された。
宝石ごと、俺の――――肺が命令を聞かない、喉元から何かが迫り上がってくる。
「少しだけ拒絶反応がありますね。あなたはこんなにも素直なのに」
喉から噴き出そうになった時だった、寸前でそれらが元の内臓に戻されていく―――時間が戻されていく。潰されたはずの心臓が彼女の手の中でその形を取り戻していく。
暖かい、こんなに心臓は気持ちいいのか。
宝石の檻が回る。このベットこそが太陽系の中心だと言うように。
「これでおしまい。どうでした?ふふ、聞くまでもないですね―――」
仮面で表情が読めない。そのせいで彼女がどんな顔をしているのか想像出来ない。
優しい女神のような笑顔なのか、それとも獲物を見つけた捕食者の笑みなのか、まるでわからない。そもそも、こちら側の感性で計れる物などではなかった。
「眠いですか?私の目的は果たされましたが、まだ眠ってはいけません。伝えたい事があります」
また頭を撫でてくれた。いつのまにか赤いビロードのような織物をかけられていた。やはり俺にはわからない上、説明されてもわからない―――このヒトは、人間という存在や、俺とも次元が違うヒューマノイド。
「まずは着替えましょうね。そのままでは寝苦しいですから」
被せてあるビロードに手を入れて服を脱がしてくれる。病院着や下着を奪われ、ビロードしか身を隠すものがなくなってしまう。だけど、気恥ずかしさなど感じない。
そんなものを感じられるほど、この方を同列だとは思えない。
「いいですか?よく聞いて下さい。あなたは何も知らなさ過ぎる、だからまずはあの布の正体を知って。あれはあなたの常識では追いつけない場所にいます、存在も理由も。もし何も知らないままにまた巡り合ってしまっては、あなたは今度こそ目が覚めなくなってしまう」
声が出ない。何故こんな事を教えてくれるのか?あの布が心臓を奪うのか?という質問をしたいというのに――――口の形を歪ませる、今はこれが限界だった。
「どうして、ですか?あなたは特別だから、ではどうですか。そんな事聞いてはいけませんよ。—―――いい反応‥‥そう、これで混じり合うのですね」
注意しながらビロードに包まれた体に触れてくる。仕置きのつもりなのだろうか―――温かくて滑らかな手で、体の局部を撫で続けてくる。
「もうすぐお別れですね。ではあなたに一つ試練を与えます。なぜあなたは殺されたのか、どうしてあんな殺し方だったのか、それを調べて下さい」
この人の言うように布の正体がこの数日の真相の一つに繋がっている、そう感じた。だが試練として俺の殺し方を調べる、その意味が俺にはまだわからない。
「そして、あの二人を大切に想っているのなら、その心を捨てないで下さい。死が想いを別つとも、人への想いは消えません」
誰も理解出来ないだろう。誰もが狂ってると言って、突き放すだろう。何故、まだその想いを捨てないのか、何故、未だ狂っていられるのかと、だが―――――、
「俺は—――俺は、まだ人間を愛していたい‥‥」
「それでいいのです。あなたが人間ではなかったとしても―――どうか忘れないで。全てを、命すら奪われても、あなたには残るものがある。あなたの隣にいる人達はそれに惹かれている」
表情なんて見えない。ただ星の様に輝く髪だけが、うつろう。
「最後に聞きたい事はありますか?でもなんでも聞いてはいけませんよ、本来私があなたと話す事は違反なので」
あの布やこの人の正体を聞くと思ったのか、そんな事を言ってくる。
でも、俺はまだ足りなかった。
「なんですか?声にも出ないなら考えるだけでいいですよ」
そんな人が最後の言葉を真剣に拾おうとしてくる。美しい髪に美しい声で。
吐き出す空気や肺など、既にない―――だけど、この体が溶けていく感覚から起き上がる気には、まだなれない―――だから、血を吐き出しながら、求める。
「癖になってしまいましたか?では、その心はここに置いていってもらいます」
ビロードを掻き分けて再度、俺を握ってくれる。このまま永遠に握って欲しい。でも、もう目覚めないといけない。
「いい顔。ますますあなたに何かあげたくなります。起きたら、それなりの品を用意しておきますね」
仮面の方が心臓を握ったままで立ち上がった―――引き抜かれる心臓を追いかけて、ベットの上で膝立ちとなる。引き上げられた所為で、体に掛けられているビロードが滑り落ちる。心臓が千切れる、血管が切れる。苦しい―――でも足りない。
「聞いて下さい。あの二人に追いつくには二人の後ろばかり見るのではなく、もっと周りを見て下さい。あなたの味方を探して」
そう諭してくれる。無自覚に残酷で、己が欲望を満たす為、体を奪い取ってくる。
「あな、たは―――」
「まぁ、私も‥‥!それはまだお応え出来ません。ふふ、でも覚悟して下さい。あなたはこれで‥‥私の物」
この反応を予期していなかった。けれど、褒美なのか更に強く握ってくれる。
握力はそのままに、引き上げていた心臓をゆっくりと下ろし、ベットに寝かせる。
「さぁ、これで本当に最後‥‥。またお会いしましょうね」
そこで三度目の死を体験した。
知らなかった―――美しくて好きな人に優しく殺されるのは、こんなにも。
8章 ようこそ、
「あ、目が覚めました!先生!」
目が覚めると人工呼吸器、輸血針、ベルトで手足を拘束されていた。ベットには少しだけ角度がつけられているから、自分の体を上から見る格好となっていた。
生き返ったのか、死に戻ったのか、悪くない気分だった、しかも目覚めて初めて見た人が親しい人の顔だったというのだから。だが天井が少しだけ寂しい。
あの星空が懐かしい。
「ヒジリさん、わかりますか!?聴こえてますか!?」
制服姿のミトリが必死に呼びかけてくる。同時にオーダー所属らしい医者の男が、首に手を当てて脈を確認してくる。
「ああ、大丈夫だ。悪いけどこれ外していいか?話難い」
頭にバンドで固定されている人工呼吸機の目線で示して知らせる。だがミトリは首を振った。
仕方ない―――無理にでも酸素を吸わせなければならないのは、誰が見ても明白だった。血を大量に失って酸素を運ぶ機能が弱まっている以上、また意識を失うかもしれないからだ。
医者は容態を診た後、すぐに出て行ってしまった。
「どのくらい眠ってたんだ‥‥?」
「えっと‥‥私が昏睡状態のあなたを発見して大体20時間程です。一日経ちました」
思ったより経ってない。だが、早いなら早いほどいい、きっとあの人に感謝すべきなのだろう。そう心の中で考えながら起き上がろうとしたが、ベルトで手足を拘束されているのを思い出す。何故だ?眠っている途中に地震でもあったのか?
「ダメです!動かないで下さい!今、外しますね」
ベルトは金具で固定されているだけだったので、ミトリがすぐさま外した。必要があったとはいえ、縛り過ぎだ―――ベルトの跡がくっきり残っている。
「痛かったですか?ごめんなさい、でもヒジリさん‥‥意識がないのに身体中が震え出して、決まりでこうしなくちゃいけなくて‥‥」
「別に気にしてないから。俺の為にしてくれたんだよな、ありがと」
マスクをつけた顔のままで、ミトリの謝罪を止める。この一日、本当に心配してくれていたらしく、珍しく目にクマが出来ている。
心臓は問題ない、そして目も。あの記憶は事実なのか、俺自身わからない。心臓に宝石を押し込まれて双方共々握り潰されたらなぜ目が使えるようになるのかわからない‥‥なんの確証もない。だけど、それを信じるしかない。
「俺は、どうなったんだ?」
ネガイもマトイもいない。
いる訳がなかった、俺を殺した犯人がここで座っている筈がない。
「私が食器を回収した時、あなたは口や目から出血していました。もう、見てられないくらい、病室が血まみれでした‥‥。もう私どうしたらいいかわからなくて、急いで先生を呼んで」
あの感覚は事実だったようだ。マトイに内臓をまとめて潰されて口から血が溢れた。白いシーツやカーテンが真っ赤に染まっていただろう。
「悪い、気持ち悪かったか‥‥」
「なんで謝るんですか!‥‥大丈夫です、続けますね」
話を続けようとするミトリの後ろで、オーダー正式装備のスーツを着た大人が腕を組んでいる。
「この人は?」
「君は今ここが、どこだかわかるかい?」
急に話しかけてきた。ここは‥‥治療科の病院ではなかった。間取りや家具の配置はあまり変わらないが、窓の景色が違う。
「私は詳しくは話せないが見ての通りオーダーの人間だ。安心していい、君を拘束する気はない」
柔和な声色だが、顔の表情が殆ど動かない。今は敵ではないようだが、今後も味方でもない。そう気配が伝えてくる。
「早速で悪いが、君を病室で襲ったのは誰だ?」
「悪いが素性も話せないで、俺はオーダーだって言ってる人間に話せる内容じゃない」
目線が鋭くなった。めんどくさいガキだと、顔に書いてある。だが俺の言った内容はオーダーでまず最初に叩き込まれる。オーダーは偽物が最もなりやすい職種であり、名乗りやすい脅し文句だった。
聞き取り調査をするにしても一人でなんて、聞いた事もない。
何よりもう4度死んでいる。並みの強面じゃあ何も感じない。
「私が省庁の人間だと言ってもか?」
酸素マスクに輸血姿の患者に向かって立場を使って脅してくる。鼻で笑ってしまう―――三下だ。それ以上の評価は不要だ。
「だったら尚更言えない。オーダーがどうして出来たのか知らないのか?」
「怪我人だと思って、何もされないと思ってるのか?」
短気過ぎる。言い返したら顔を歪ませて足音も気にせずにベットに迫ってきた。
権力を盾に被疑者や被害者へ暴行し証言を取る。それは、オーダー法で傷害より上で殺人とほぼ同列だと知らないらしい。それとも裁かれるわけないと思ってるのか?
「お前の心情などどうでもいい!さっさと言え!誰がいた!?」
スーツの自称オーダーは掴みかからん勢いで叫んできた。それを見てミトリ一歩後ろに引き、内腿に隠しているデリンジャーを触った瞬間—――医者がスーツの肩を掴んでいた。
「何をしているのですか?ここは病室でオーダーに所属している院ですが」
いつ入ってきたのかわからなかった。扉近くのカーテンが全く靡かなかった。
「これは歴とした公務だ。ただの医者が邪魔をしないで貰えますか?」
「ここがどこかわからないようですね?私は貴方の言う所のオーダー本部の任でここに勤めている。これ以上、無礼を働く気ならお前は失踪者扱いになる。再度聞く―――お前はここがどこか、わからないのか?」
ガットフック―――肩を掴んだ医者の白衣の袖から刃物が飛び出る。
その刃は猟師が動物を解体する時に使う刃物だった。
刃を体に食い込ませから峰の返しで、毛皮に引っ掛け切り裂く事を目的にした刃。少なくとも医者が持っている物ではない。
「失せろ、テメェがオーダーだろうがどこに所属してようが、ここは病院—―――傷と病気を治療する施設だ。消えろワン公」
「ちっ!‥‥私がここにいる理由をわかっていますね?」
「ああ、わかっている。臓器提供の為だろう、ありがとう、ここの患者の為にその身を捧げてくれるなんて‥‥見上げた自己犠牲の精神だ。お前の身体は無駄にしないと、ここで誓おう」
「こんな野良犬供のために、私が身を裂くか!」
医者の腕を肩で振った男が、部屋中を睨みつけてから出ていった。ワン公―――それは警察への蔑称だった。成る程、答えが気にくわない筈だ。
「大丈夫か?すまないが、目を見せてもらえるかい?」
何事も無かったように胸ポケットからライトを取り出して、眼球運動を確認して貰う。その後痛むところや気分を質問され、診断をしながらカルテに何かしらを書いていく―――ネガイと同じだった。
「目も回ってないし。血で目が染まっていないか‥‥」
「先生、アイツは?」
「彼か?君がここに運ばれてから少し経った時に来たんだ。大人しくしているから放って置いたんだが、躾けられて無かったようだね。ここで、いやオーダーの病院で暴れようものなら何が起きるか知らないなんて、少なくとも我々の部外者だろうな」
この先生も詳しくは知らなかった。また、この言い方をしたという事は、もう何かしらの手は打ったのだろう。
科と呼ばれる学科は高等部や大学にあるのみで、プロになってフリーであろうが役所勤めの公務員であろうが、科と呼ばれる分け方はされない――――だが、一部例外として、治療科は学生時代と同じで枠組みがそのまま引き継がれる。
よってオーダー校の救護棟と同じように、患者や院の運営に手を出すという事はここの人間全てを敵に回し、敵陣にいる事になる。
「私も誰なんだろう?とは思っていたんですけど、ここにいるので無害な方だと‥‥」
「いや、俺だってあの格好でここに立ってたら何かしらに関係者だと思ったよ。それより、ここはどこなんだ?」
「ここはオーダー地区の中にある病院だ。学校の登下校時に見えていただろう?君は救護棟で事故か事件かはわからないが、血を浴びるように吹き出し、救護棟では手に余るとしてここに搬送されたのだよ。手足の拘束もそのためだ」
救急車かヘリか知らないけど、見た目でわかる程の重篤患者を運ぶのなら指一本動かさずにする必要があったのだろう。
しかも急激に血を失ったせいで脳が異常をきたし、身体が暴れていたと。
それは俺の為にもやる必要があったに違いない。
「にしても君、その状態でよく喋れるな。目が覚めてまだ一時間も経ってないのに、若さの特権か?」
自分でもマスクをつけられて枕から頭一つ動かせないくせに、よく口が回ると思う。だが、実際は、頭がまだ重くて視界に白いモヤが見える。
これは麻酔か鎮痛剤、もしかして睡眠薬か?血が足りないという事は急いで血管を細める必要がある。これらの薬を使って一時的にでも血の流れを緩めたのか?
「病院で目が覚めるのは2回目なので‥‥もう麻酔明けにも慣れました」
「その若さで、か‥‥。それは将来期待出来る経験だな。まぁ、オーダーだったら誰しも通る道だが、君のそれは異質のようだ。薬慣れは、しないように」
カルテを書き終わったらしく、先生は椅子から立ち上がって胸ポケットからスマホを取り出す。それを指で一度押すだけで閉まってしまう―――。
「先生、俺はいつ退院出来ますか?」
正直今すぐにでもここから出てあの二人に会わないといけない。目が覚めたら話すと言っていた。話せる範囲じゃなかったとしても、全て聞き出さなければならない。
高い確率で戦闘になるだろうが、それでも会わないといけない。
「まだまだ、と言った所だよ。正直言ってこんな短い時間で意識が回復するなんて有り得ないと思っていた。君の場合、ただの出血性ショックという枠組みに収まらないレベルの昏睡状態だった、まるで意識が戻ってくるのを何か強い力が拒否しているようなね。外傷もなく、ctスキャンでも骨は勿論内臓にも何の問題もない。この病院で出来る事は大量の輸血、それだけだったよ」
先生は再度、呆れるように眺めてくる。
ただの出血性ショック。確かに意識を失う時の感覚はまさしく血を大きく失う、だった筈だ。
「吐血以外で身体には異常がなかったんですか?」
「ああ、その通りだよ。緊急で搬送されてくる時の報告で、君が突発的に血を吹き出して死にかけている、という眉唾な症例そのものだった」
確かに感じた、マトイに身体の中をまとめて潰された感覚を。そして実際に俺は血を吹き出した。あれは嘘じゃない――――なのに、体の中は無傷だった。
ミトリにアイコンタクトだけで確認をする。
先生がこう言っているという事は、あの二人については何も話していないらしい。
「仮にも君はオーダーなんだ、危険なドラッグとかはしていないでくれ。ああいったのはどんどん新しい植物やなかには動物を使っているから、どんな処置をすべきかすぐにはわからないからな」
「いいえ、俺はそんな危険なものを扱う程に、スリルを求めていないので」
けれど、経験した黒い布に襲われた、という証言は決してラリっていないとは言い切れない話でもあるのは、間違いないだろう。
「ミトリ、今学校はどうなってる?」
「えっと、私はあなたに付き添っていたので詳しくはわかりませんけど‥‥少なくとも、今の救護棟は完全に部外者を排除しています」
「完全に‥‥」
「そうだろうな、私がいた時からあの学科は有事の際、異常な程閉鎖的になるから」
先生が思い出すように、ミトリを遠い目で見つめる。日本にオーダーが出来てもう20年は経つが、やっている事はそんなに変わらないのかもしれない。
「救護棟内で事件か事故かわからない出来事が起ころうものなら、あそこは患者と治療科の人間以外は誰も入れない。例外があるとすれば‥‥まだあそこは研究室が幾らかあるのかい?」
「はい、あります。私も実技などで薬品を使う時は、研究室で授業を受けています」
先生がミトリに学校内の事を聞いて、やはりといった感じに俺の方を見てくる。
今の研究室は実験棟にあるが、一部を除いて救護棟にもある。先生もあそこの棟を使っていたのだから、ある程度知っていて当然だ。
「ならば、分析科の生徒なら許可を貰えるだろうか」
「俺は治療科や分析科に知り合いがいるので、俺も許可をもらえる事は出来ますか?」
ネガイに会えるとしたら、やはりあの実験室だ。むしろ、あの場にいないとしたらネガイがどこにいるかわからない。寮にいる可能もあるが、何の用も無い日でも行くと実験室にいた。寮よりも高い確率であそこにいる。
「そうだな‥‥捜査の一環と言えば理由は通るだろうか。被害者の自分が自分の事件を捜査なんてオーダーでは珍しい事でもない」
俺はこの事件の被害者だ、ならばこの件は他人の手で解決される事は無い。
何より俺以外は関われない。殺した方法なんて本人が1番わかってる、あんな非現実的な殺人では俺の体感以外、証拠も無いだろう。
「ミトリ、30円貸して」
「えっと‥‥あなたが金欠なのは知ってましたが、そのレベルで‥‥」
「大丈夫だよ、ここへの入院費は救護棟が支払ってくれるから。何より君は襲撃されて倒れたのだろう?だったらオーダー保険が適用されて」
「電話だ!電話!自分の装備を回収したい。後、悪いけど車椅子を持って来てくれ、もしくはスマホを貸して」
「携帯での電話は場所を選んでくれ、他の患者の迷惑になるからな。では、私は行く、せめて今日明日はいてくれよ」
興味もない、と言った感じに先生が出て行った。
長くここで留まっているわけないとわかったのか、それとも患者が勝手に出て行くのはここの病院にとってそれほど珍しくもないのか。
どちらにしても三日後には出ていい、というお墨付きが出たと考えるべきだ。
だが―――二人で先生の背を見送った後、ミトリが話しかけてきた。
「私は治療科の生徒です」
「—――そうだ」
「本来ならあなたは絶対安静で、その呼吸器を外す事すら許されません。そしてその輸血もです。そんなに死にたいんですか?」
「その脅しは効かない――――もう二人に言われてる」
「私が食器を回収する時には、既にあなたは血に沈んでいました。だから、誰があなたをそんな身体にしたのかわかりません。不確実な事実から断定して味方を売るような行為を、私には出来ません」
あの時、俺の病室にはネガイとマトイがいた。ミトリがネガイを案内してきたのだ、恐らく病室に入っていくマトイの姿も見たに違いない。
どちらが、もしくはどちらもが犯人だと嫌でも考えつく、だがオーダーの味方はオーダーのみ、それに則ってミトリは二人を報告しなかった―――。
「‥‥あの二人を見てないか?」
「いいえ、見ていません。私はあなたの搬送に同乗していたので」
ミトリが顔を振りながら知らないと言ったが、味方を売れないとも言った。
もしかしたらミトリは嘘をついているかもしれない。更に言えば、ミトリがあの二人の共犯者かもしれない。あの二人の殺人が終わるまで待ち―――人払いをしていた可能性だってある。
「わかってます。私の事が信用できない、違いますか?」
ミトリらしからぬ言葉だった。
そんな言葉を引き出したのかと思うと、心臓が冷たくなる。
「私もあなたと同じ立場だったら、そう思います。なんで、病院で殺されかねないといけないのかと、怒りを覚えると思います。しかも私が出て行った直後にこんな目にあったんですよね‥‥」
横になっている俺の隣にきて、腕に手を重ねた。
瞬時に、この体の死期を感じた、ミトリの手を感じない。皮膚の痛覚が碌に機能していない。想像以上に――――死にかけている。
「すごい冷たいですよ。温かみを感じません」
「布団かけて。寒くなってきた。—――失血って、こんなに怖いのか」
「はい、血を失うと簡単に死ねるんです。あの先生から言われている事があります」
ミトリが足元を覆っていた毛布をかけてくれたというのに、毛布の繊維すら感じない。しかも手で毛布を握っても感触がない―――寒気すら感じない。
「あなたをここから出してはいけない。ハッキリと言います、あなたは今、人間の姿をしていない。本当に死体みたいです」
ミトリは小さい折りたたみ式の鏡を出して顔を見せてくれた。
息を呑んだ。声が出なかった。自分の顔だと、思いたくなった。
「これが、俺なのか?」
「はい。これが今のあなたです」
顔に血の気なんてない。片目が半開きで唇も色なんてついてない――そのくせ青い血管だけははっきりと見えて、皮膚が透明になったようだった。
目も瞳の光が消えて、自分でもどうして見えているのか不思議に思ってしまう。
「酷いですよね。これが今あなたの全身に広がってます。ごめんなさい、酷いなんて言って」
愕然とした。こんな姿で俺はあの二人に会おうとしていたのか。こんな姿で‥‥。
「わかりましたか?こんな状態で外に出れる訳ないじゃないですか‥‥私はどうすればいいんですか?あなたをここから連れ出すべきなんですか?それともここに縫い付けでも休ませるべきなんですか?‥‥もうやめて下さい。これ以上、誰も苦しめないで」
「ミトリ‥‥」
「私は治療科の人間です。あなたが救護棟に来た時、絶対に安静にしていち早く復帰させてあげようって思ったんです。でも、私は何も出来てません。結局‥‥私は誰も守れていません」
俺がマトイと一緒にエレベーターから降りてきた時、ミトリはどう思っていたのか。いち早く治して復帰させてあげたいと思った人が夜中に歩きまわっていたなんて、彼女はどんな気持ちで背中を見送ったのか―――どうして何も考えてなかったのか。
しかもそんな相手から信用出来ないなんて――何故、何も考えていなかったのか。
「あなたにこんな事言っても仕方ないって、理解しています。多分この件はあなた以外誰も被害者がいない、あの二人と話せるのも、あなた以外誰もいない事も知っています。そしてオーダーなら安らかにベットの上で死ねない事も知っています」
オーダーにとって最優先は秩序だ。
だが、今回善良な市民ではなく、オーダーの構成員の一人である俺が狙われた。だったらオーダーは俺一個人の為になんか絶対に動かない。今の今までプロの分析とやらが布切れ一枚調べられてないのも、たかだかオーダー一人の為に捜査するなんて馬鹿馬鹿しいからだ。
「それでも私はあなたを止めます。死にたいんですか?もうここでオーダーなんてやめて休んで、一市民として生活してもいいんですよ‥‥。怪我や病気でやめる人だっていますから」
ミトリの手に血管が浮き出て皮膚が白くなった。
重ねた手に力を入れて、強く腕を握っているのに――――まだ何も感じない。
「俺は―――ここを出ても行く所がない。それに」
「もうあの人はいない。だって、あなたを殺そうとして逃げましたから。そんな殺人鬼にあなたはまだ頼るんですか?」
「ミトリ‥‥だけど‥‥」
「もう休んで下さい、あなたは戦ってはいけません。それに‥‥言っておきます、もしあなたが今の救護棟に侵入するなら私は治療科の生徒として、あなたを全力を持って排除します。あなたが車椅子できても松葉杖でも同じです。でも安心して下さい、オーダーは殺人はしないので。もう一度、血の中で眠ってもらうだけです」
ミトリの言葉に、幻肢痛を感じた。
喉の奥から噴き上がってくる、もう失った血を――――内臓も何もかも吐きそうに咳き込んでしまい、慌てたミトリが胸元をさすってくる。
「ごめんなさい!本当に‥‥ごめんなさい、あの時を、覚えてるんですね‥‥」
マスクを押さえて、呼吸しやすくしてくれる。それに従って目を閉じて大きく酸素を肺に取り込むが―――ミトリの顔が恐ろしくて、おぞましくて仕方ない。
ミトリの言葉に恐怖を感じた。
またあんな殺され方をするなら、もう諦めるしかないのかと考えてしまった。
だが、マトイはどこにいるかわからないが、ネガイは救護棟の研究室階にいる。
この目を診れる人間はネガイしか知らない。いずれ俺がオーダーに復帰したら会えるかもしれないが―――すぐにでも会いたい。
だったら‥‥俺は一人で治療科の生徒を相手にする事となる。
治療科の生徒は、確かに治療や衛生管理が主な目的だが、最前線で救護活動をする以上、射撃や体術は勿論、それらの技術は拠点の設営や防衛用に特化している。
「私だって今のあなたを撃ちたくなんてないです‥‥。でも有事の際には、私はあなたに銃弾を撃ちます。必要があれば何発でも」
それでも、そうだとしても―――ここから出ないといけない。何故俺を殺したのか、あの布は何故俺達を襲ったのか、このままだと俺はどうなるのか。
全て知らないと眠っていられない。それに、何より今。あの二人を求めている。
まず自分の状況を再確認する。
手は動く握る事も出来るが、銃や刃物を振り回す事はまだ難しそうだ。
足は‥‥今のところ何かベットから蹴り落とす事は出来てもそれだけだ。自力では歩けない――――これは薬の効能がまだ抜けきってないからかもしれない。
触覚は近く復帰すると祈るしかない。シーツを軽く指でなぞって質感を感じようとするが、まだ繊維の凹凸すら感じない。
だが明日にでも杖か何か貰って歩行訓練をするしかない。血を身体中に流して神経を元に戻そう。そしてネガイやマトイに会う事よりも先にやる事も出来た。
「私はこれで帰ります。お大事に」
ミトリが腕から手を離して、帰ろうとするので「待って‥‥」と声をかける。
「何ですか?もう私は必要ないでしょう?」
突き放すようにこちらを見ずに言ってくる。それだけで苦しかった、普段の優しさに甘えていた。
「ありがとう‥‥」
「何で、お礼を言うんです?私は何も出来てないのに‥‥」
「ミトリが俺を見つけてくれなかったら、俺は目が覚めてなかった。ここで適切な処置もされなかった‥‥」
確かに、食器の回収の為にミトリは来たのかもしれない。だけど俺の状態をいち早く見抜き、それを救護棟と、この病院に伝えた。
「何にも出来てない訳ない。俺はミトリが救護棟にいたから好きに歩いていられたんだ。ごめん、甘え過ぎてた。何かあってもミトリなら許してくれるって思ってた。そんな都合がいい話、あるわけないのに」
「反省してますか?」
ミトリが振り返ってくる。ベットの側に来て見下ろしてくる。怒っているように見えるが、ミトリはいつも身を案じてくれている―――忘れてなんかいない。
ミトリはいつも優しかった。こちらに来て、初めて優しくしてくれた人間だった。
「してる。今日は大人しくしておくから‥‥」
「今日はですか‥‥」
呆れたような目を向けてきた。今のは悪かったと思い―――急いで訂正する。
「リハビリもしないで寝るから。もう眠いしな」
「仕方ない人ですね‥‥相変わらず――――明日また来ますね。リハビリ頑張りましょう。だから、大人しくしていてね。あとサイナさんにも連絡しておくので、ちゃんと起きていて下さい」
いつものミトリに戻って、釘を刺すようにそれだけ伝えて病室から出て行った。
「しばらくは大人しくしていないと‥‥」
そう呟きながら、心臓に命令する。手足に血を通して酸素を届ける。
「ゆっくり‥‥ゆっくり‥‥」
急激に血を通して血管を傷つける訳にはいかない、詰まらせる訳にもいかない。
心臓から頭、心臓から足の先。頭から足の先まで枝分かれしている血管をイメージをして鮮血を通す。
「—――熱い」
汗が吹き出る。構わずにに鼓動を強くするが、そもそも血が足りない。思うように血を操作出来ない。けれど―――何度も続けて自分の身体を取り戻す。
深呼吸をしてマスクから酸素を肺に取り込み、身体中を酸素で満たす。
「取り敢えずは、これで、」
腕をあげて天井の明かりを手で透かして見る。こころなしか、白かった血管が赤に染まっていくように感じた。血が流れ込む感覚を強く感じる。
足を上げて膝を曲げたり伸ばしたりも出来る。僅かながら、腹筋も使える。
「これもイメージ通り動いてる‥‥後は‥‥」
目に血を通すイメージ―――だが、目の力は使わない。あくまで目のモヤを晴らす目的で血を使う。次にミトリが来た時の為、血を消さなくてはならない。
「戻ってきた」
白いモヤが消えて、ようやく天井がはっきりと見える。壁のカレンダーやベットと反対側のクローゼットの木目調の柄も細かく見える。
けれど―――急に目眩が襲い掛かり、視界が一気にズレる。急いで目を止めて天井を眺めて、目を落ち着かせる。
「これ以上は危険か。大人しく寝ないと」
ベットに備えてつけられているリモコンを操作してベットの水平に戻す。だが枕元を見るが、明かりを消すリモコンはない。
どこかと探すと、ベットエンドの上の壁にリモコンであろう物が垂れ下がっている。
腕を伸ばしても届かない。ベットを操作しても届きそうにない。
ナースコールでもするか、そう思ったがやめておいた。そんな事で呼ぶ訳にはいかない。
「この程度、自力でやらないと‥‥」
肘をベットに立てて上体を起こし、壁にあるリモコンに手を伸ばすが届かない。仕方ないので、ベットエンドに寄っ掛かりながらベットに腰を下ろし、腕をあげてリモコンを取ると――――、
「あの‥‥もう寝てますか?」
扉を叩く音とミトリの声が聴こえてきた。
「いいぞ入って来て」
「失礼します‥‥」
忘れ物だろうか。ミトリは、気まずそうな顔で入室してくる。
「あ、もう座れるんですか?でもダメですよ。まだまだ寝てないと」
「でも、これが届かなかったから」
明かりのリモコンを見せて、後ろの壁のリモコンがあった場所を親指で指す。
「すみません。出て行く時に私が消しておけば良かったのに‥‥」
「大丈夫だよ。これ位は自分でしないとな、それに、俺だって気付かなかったんだ。だから謝らないでくれ。いつでもミトリにおんぶに抱っこじゃ悪いから」
リモコンを操作して明かりを消す。窓からの強めの月明かりが部屋を照らしてくるが、完全に暗いよりも、この程度の光量の方が良く眠れた。
「まだ明かりがついてるから、もう出て行こうとしているのかと思って‥‥ごめんなさい、心配性で‥‥」
「さっき約束しただろう?大人しくしてるよ。ごめんな。結局ミトリに心配かけてばっかりで‥‥」
「いいえ、気にしないで下さい。これは私がしたいからしているだけですから」
ミトリが腕を取って脈を測ってくれる。その手が温かくて心地いい――――血を多く流し通した事で皮膚感覚が戻ってきたようだった。
「うん、正常ですね。でも、もう寝て下さいね」
「あ、ああ。大丈夫、もう寝るよ」
ミトリの手の心地よさに眠気が誘われていた。危ない、本当に眠る所だった。
「はい、私もあなたをここで大人しくさせられて良かったです。もしあれだけ言ってもまだ動くようだったら、これをあなたの点滴に入れる手筈だったので。あ、顔に血の気が差しましたね」
ミトリが優しく頬を撫でてくれる。今のは怖かった。お陰で顔でも感触を感じるようになった―――だが、ミトリが手に出したものから目が離せない。
血清でも入ってそうな瓶だ。
「それは?」
「危ないものじゃないですよ。ただの睡眠薬です」
青いラベルが見えた時、書いてある文字が読めてしまった。。
ミダゾラム。睡眠薬の一つと言ってしまえば、それまで。効能がすぐに現れて六時間は効果が続く。そしてその効能の一つに―――、
「前向性健忘症か‥‥俺の記憶を飛ばす予定だったのか?」
「え‥‥知ってるんですか‥‥。でもそれは‥‥ごめんなさい、だけど‥‥ちゃんと分量を計って‥‥」
前向性健忘症は単純に言ってしまえば―――投与した前の記憶があやふやになる。夢と現実の境を曖昧にさせて眠らせて、あわよくば誰がやったか忘れてくれれば―――そんな効力の持つ薬だった。
誰もが、誰の顔であろうと、眠らせに来ている。
「俺はネガイと一緒に救護棟を出入りしてる。何も知らないと思うな」
ミダゾラムはそれ単体での効果は勿論、全身麻酔の導入や、麻酔の維持の為に使う。そして副作用に心肺停止も起こりうる。
「俺を殺した殺人鬼だったか?この状態の俺に使おうものなら、お前が俺にトドメ刺すように見えるんだが?」
「でも‥‥これは、あなたの為に‥‥」
ミトリが泣きそうな顔で見てくる―――その顔に、胸が締め付けられる。
だが罪悪感とは、交渉事を有利の進める上で、定石の一手――彼女の特技だった。
「前にも言ったが、お前は俺にヒントを与え過ぎだ」
ミトリのふりをした――――法務科が目を見開いた。
「残念です。気づかなかったら、また添い寝をしてあげたのに。この姿で」
声が変わった。ミトリから、マトイに。それでも姿が未だにミトリのまま。
「お加減はどうですか?」
「見ての通り―――もし悪いと思ってるなら‥‥」
「思ってるなら?」
マトイが枕元に来て、点滴や輸血パックの近くから酸素マスクを撫でる。
何かあった時ようにナースコールの場所を見ないで確認する――――だが、それもどれほど意味があるだろうか。もしここで首でも締め上げられたら、何の抵抗も出来ない。できるだけ刺激しないようにすべきだが、彼女に会えて冷静ではいられない。
「全て話せ。なんで俺をこんな目に合わせたのかも含めて」
「全部は欲張りでは?それに、ある程度は予測出来てる筈です。答えを合わせていきませんか?」
頭の隣、枕のすぐ傍に座ってスカートの布地の一部を顔に当てる。マトイの下半身の香りが鼻に届いた――――この匂いは救護棟の時と同じだった。
「病院で香料はご法度だろ?救護棟ならまだしも、ここでその匂いは後が残るぞ」
「でも、好きですよね?この香り。謝罪の意味も込めて付けて来たんですよ?」
何の問題もないといった感じに、背中越しの至近距離で顔を覗いてくる。
ミトリの姿をしたマトイの息が顔にかかり匂いも強く感じる。ミトリの大きい目と少しだけ茶色い瞳、鼻の高さまで全てさっきまでいたミトリと同じ―――目を使わずに我ながらよく気付いた。だが、そんな事よりも今は、マトイの香りを確かめたい。前にこの香りに包まれて眠った時に癖がついてしまった。
「マトイの香り―――好きだ‥‥」
「正直、ちょっと驚きました」
急いで顔を離して、手で口元を隠す―――上手く先手が取れたようだ。
マトイは悟られないようにしているが、驚きを隠せていない。だけど、この程度で話の主導権を握れたとも思っていない。
それでも、あのマトイに一撃食らわせられたと誇る事にしよう。
「まず―――ネガイと契約があるな‥‥」
「はい、その通り」
さっきの事など無かったように座り直して、マスクを再度撫でてくる。
ネガイとマトイに殺される時、ネガイが「何を言っているんですか‥‥だってあなたが」と言った。あれは俺に対してではなく、マトイへの言葉。
更に言ってしまえば、マトイが何かしらの契約違反の行動をした可能性があった。
だから、ネガイが「マトイ‥‥あなたが彼にそう言ったんですね‥‥」と確認を取り抗議をしようとしたが、俺から生まれた疑問だとマトイは言った。
その結果ネガイは矛を収めた―――恐らく違反に抵触しなかったのだろう。
「俺を‥‥二人で血を奪うのも契約の一つか?」
身体中に冷たい針が突き刺さり、突き抜ける―――そんな嫌な感覚が生まれる。だが、それを無視してマトイに疑問を投げかける。
「ええ、そうです」
血を奪う、もしくは俺から血を抜くのは目的だった。
マトイは血を吹き出させた、それは血を抜く事が目的だったと言える。
そしてネガイは――所詮、感覚に過ぎないが錯覚でなければ、手に血を奪われた。
ネガイは俺の血を必要とした。
「じゃあ、どうしてあんなやり方だった‥‥」
考えるだけで声が震える。
身体中も震えて―――あの味と血を抜かれた悪寒を身体が思い出す。
「もう、あんな暗い経験をするのは‥‥嫌だ‥‥」
「—―――あのやり方には意味がありました。ただ、それだけです‥‥」
「俺を眠らせた後じゃあ、ダメだったのか?」
「はい」
「なら、俺の‥‥血を奪うだけが目的だったのか‥‥?」
「血を奪ったら、結果的にあなたは眠ると想定していました。でも、眠らせるのも目的でした」
「もうこの話はいい、次だ」
もう考えられない。手が震えて、身体が冷たくなっていく――――あの感覚を思い出したくない。だから、もう言葉にしない――――そもそもの疑問が浮かぶ。
なぜ俺を眠らせたのか?それは俺の血が関係している。
「気になりますよね?なんで自分が眠らされたのか」
マトイは未だにミトリの姿のまま、枕元から見下ろしている。
今はまだ、マトイへ投げかける下手な質問すら思い浮かばない。けれど。ある程度の想像は出来た。
ネガイはその目が時限爆弾だと言った。
時間の問題で目は羽化する。だったらそれを止めるために『宿主』を眠らせた、と考えるのが合理的かもしれない。
血を奪ったのも目に血を奪われない為と言われれば、納得してしまう。
しかもマトイは法務科の人間だ。
俺が狂ってしまうのを避ける為にネガイが頼み込んで、秩序の為に二人で契約を交わした、と言われれば有り得ない話ではない。
だが、マトイがそんな話を聞こうものなら―――確実に俺を始末しに来る。
—――――しかし、今、俺は生きている。
「俺を眠らせると持ちかけたのは‥‥ネガイか?」
「半分当たりで半分外れですね」
ならば、二人とも俺を眠らせると最初から決めていた―――生かさず殺さず、殺してはならないが、このまま放置しておくのも看過できない。
そんな状況に置かれていたのかもしれない。であれば、ネガイとマトイの契約は、元は違うものの為に出来た可能性がある。
理由は―――予想通りなら変える前の契約は、あまりにもマトイにとって好都合過ぎる。けれど、その契約の形を変えて、再度交わさざるおえない事件が起こった。
そう考えるのが自然だ。
二人とも目的は違えど、手順や手段が同じだったから、二人で―――手にかけた。
それが、あの殺し方。
考えが飛躍し過ぎた、元々の話に戻す。
まず最初にネガイとマトイを繋ぐことになった要因であろうものは―――、
「ネガイが持ってきた依頼。あれは元はお前が用意したのか?」
「気づきましたか」
「当たりか―――今更だけど、おかしいって思ってたんだ‥‥」
今の行政は、過去の行政の事件群が起こった時をまだ忘れていないし、有権者も覚えている。今の行政の人間に対してオーダーの宣言が出来ないのは、そもそも事件の数が少ないからだ。
数少ない重要案件を一年に任せる筈がない。あの時、ふたり共も冷静ではなかったから―――根本的な部分で見落としていた。
「マトイが手伝って欲しいと言った仕事も、ネガイ宛ての依頼も偽物の案件。そして俺の都合に合わされると言ったのは、俺の目を目覚めさせて―――ネガイに制御させるのが目的だったから、そうだな?」
「やっとそこまで来ましたね。ちょっと気づくのが遅いのでは?」
「どこかの二人が―――俺を散々眠らせた所為で、考える時間が無かったんだよ」
「それは申し訳ありません。でも好きでしょう?」
また目の上に手を乗せてくる。誰から聞いたのか、目に手を乗せて眠らせれば、静かになると
「顔、冷たいですね」
「やっぱりか。自分の事なのに、わからないんだ」
体温が低い所為だ。普段冷たくて心地いいマトイの手が暖かく感じる。手を通っている血管の形すら顔で感じ取れてしまっている。
「本当に死体みたい。寒くないの?」
「わからない。でも多分寒いんだと思う。毛布をかけて貰ったら嬉しかったから」
ミトリに毛布をかけて貰った時は――――本当に何も感じなかった。
でもそうすべきだと思ったから頼んだ。
もはや直感でしか体を案じる事が出来ない。
「次だ。マトイが、あの依頼をネガイに送った、という事は、ネガイは飛びつくし俺を誘うとわかってた。そうだな?」
「あの人なら、ここから出る為に受けると思っていました」
「俺とネガイが、あの日に二人で話す事も想像通りか?」
「あなたならまずネガイさんに、彼女ならあなたに相談すると思っていました」
二人で話し合うとわかっていた。あの日、俺はネガイに話せなかったが、元々そのつもりで会いに行った。
ネガイはマトイの想像通り、俺に依頼を共同で受けないかと持ち掛けた。二人で依頼や仕事を話し合うのだ、長い時間になる事は予測出来たに違いない。
「あの時間、俺達が遅くまで二人きりでいるとわかっていた。そしてどんな道順で帰るのかも」
「あなた達二人がバイクで帰るのは、誰でも知っている事ですから」
「まだ、そのままで‥‥」
「はい、ではそのように」
マトイが手を離そうとしたから、急いで待ったをかける。マトイはそれも予想していたらしく楽しげな声で応じてくれた。
「気持ちいいですか?この手が」
俺は、この手で殺された。身体に鉤爪を差し込まれて内臓をまとめて潰され、吹き出す様に血を吐いてしまった。目が見えなくなり何も感じなくなった。
だというのに、頭だけは危機的状況だと、死ぬまで訴えかけていた。
意識がある死を体験させられた。
頭から二人は血を被ったに違いない。ミトリも部屋が一面血塗れだったと言っていたから。それを思い出すと、今も血が口に残っているように感じる。
だけど、マトイの手は―――嫌いになれなかった。
「ああ、気持ちいい‥‥」
心からの感想だった。
ネガイの手しか知らなかったが、マトイの手も気持ちがいい。心が安らぐ。
「マトイ、またこうしてくれるか?」
「あなた次第です。もしかしたら、今晩で誰の手も感じれなくなるかもしれません」
もうわかってしまった。
マトイは、俺の口からそれが出るのを、躊躇わず吐き出されるのを待っている。
最初から想像はしていた―――いくら法務科だったとしても、知り過ぎている。
先ほど、目を目覚めさせるのが元々の目的だと頷いた。だったら、自分で目覚めさせるように追い込めばいい――――半端に殺した獣を、巣に帰らせればいい。
「あの時間、俺達が駐車場への道を通るように仕向けた。だったら待ち伏せも出来た筈だ」
「だとしたら?」
言わないといけない。
ここで殺されるかもしれないが、それでも答えを出さないとならない。
「お前があの布の正体だ。そして、俺達を襲った理由は、俺に目を使わせる為―――」
目をマトイに隠されたまま―――言ってしまった。本当ならここでマトイの手をどかして何かしらの攻撃に備えるべきなのに。
「今の状況をわかっていますか?」
「俺は、マトイを信じてる、だったら目はいらない。目は必要ない」
これが信頼の証なのかもしれない。目で人を見ない、この目を使って、見るという事はそれだけ相手を信用してないという意味になってしまう。
「例え蛮勇だとしても、危険を承知で言ったのなら賞賛に値します―――」
目から離した手で、体を起き上がらせたマトイは、ベットから離れ後ろを向いた。
「いつ気づきましたか?」
認めた。二人が契約した時期も同時にわかった―――あの夜に、俺が倒れた後だ。
どのくらいの時間で制圧科が来たか知らないが、もし二人が契約したとすればあの時間しかない。それより前ではないだろう、もしあの依頼を偽物と知っていた上で、あの狂ったような激情をネガイがしていたとは思えない。
やはり、ネガイは俺を治療していたに違いない。
マトイは、その時には逃げていただろうから。
「確信を持ったのは今さっきだ。でも、あの夜に両目を使った時がキッカケだ。体格がお前だった」
布を両目でしかも数秒とはいえ全力で見通した。
布の揺れ方や光の照り返しで、中が若い女性だと頭のどこかで感じていた。それをあの夢で見た石像と仮面の方とを見比べていた事で思いつき、思い出した。
「それだけで?」
「ネガイが病室で、お前にエストックを向けようとした。あれはお前には銃よりも突きの方が効果があると知っていたからだ。後は、今の姿だ。マトイ‥‥それはただの変装か?それとも魔に連なる力なのか?」
今もマトイはミトリの変装をしているが、これは異常だ。
もしこの変装を特殊メイクやマスクを使ったものなら、ただ話し続けるだけで口元や目元に多少でも皺が残りマスクは元に戻れなくなる。
だが、マトイは長く話しているのに――――全く何も残らない。
「随分と古い呼び方ですね」
もしマトイがそれらの存在なら、あの布の正体はマトイだと言える。
俺達を二人きりにしてあの時間、あの場所を歩くように仕向けて襲う。
ネガイと自身の身を守る為に目を使わせる事で、あわよくばネガイは俺の目の『焦点』を合わせざるおえない状況になる。
これらはあまりにもマトイにとって、都合が良い事件だ。
手の打ちようがなくなった時、ネガイはマトイと契約結ぶ。マトイは俺の目と自分の為に敵の用意を、ネガイは俺の目の調整を――――これがマトイが当初予定していた契約だったのだろう。
「お前が教えてくれた布のサンプル。端から解けていくって言ってたな?それは基本中の基本だと言われた」
「それは随分とあなたに入れ込んでいる人がいるようですね。基本的な事であるのは間違いないですが、それは一子相伝や弟子にしか教えない事。まさか自力で知られるとは思いませんでした」
「だけど、調べようと思えば調べられる事だ。何故、解けるなんて教えた?」
マトイがそんな事を言わなければ、そこで止まっていた筈だ。しかも今どこに布のサンプルがあるのかなんて知らない。
更に言えば、サンプルがあるという話すら言わなければ良かった事だ。
「布の正体が、常識では量れない存在だと気づかせるように仕向けたな。それは自分の正体を俺に気づかせる為か?」
「そうですね‥‥」
特別興味も無いような声を出した。
だが振り返った時には、もうミトリからマトイの顔に戻っていた。これはなんなのかはわからない、催眠術の一つで俺に顔を誤認させていたのか?それともあの布のようなもので顔を覆っていたのか?やはり俺にはわからない。
「顔の変装を解く時は、あまり見ていて気持ちのいいものではないので。見たかったですか?」
「いや、大丈夫。それより近くに来てくれ。目にマトイの手を置いて欲しい‥‥」
見ていて気持ちのいいものではない。それはマトイにとっても同じで、見せていて楽しいものではないという事だった。
「では正解のご褒美に」
涼やかな声で俺の願望に答えてくれた。暖かい。俺の顔や身体が冷たい所為でもあるが、この暖かさには依存性がある。
「ありがとう‥‥」
「この程度でいいなんて、単純ですね」
小馬鹿にしたような言葉だが、マトイの声が耳に心地いい。手に押されるように再度横になる。
「この程度なんて嘘を言わないでくれ‥‥。体温を移してくれてるんだろう‥‥」
普段ネガイがやってくれてるような暖かさを感じる。目から痛みが抜けて、残るのはマトイの手の暖かさだけ――――それが何にも勝る。
「目にとっては昨日ネガイさんが既に処置しました。私のような素人ではなんの意味もありません―――けど、今のあなたには体温を上げることが必要。先ほどまでの状態で眠ってしまっては凍死してしまいますよ?」
流石に嘘だとわかる。けれど、言われるままに大人しくしておく。せっかくマトイが手を施してくれているのだ、手を払いのけるような真似は出来ない――――素人なんて言ってるが、そんな事はない。
手の熱に頭中が包まれている、もはや、これがなくては眠れない。
「あなたに教えた理由、それはあなたが無知だったから」
「俺は、何も知らなかったのか」
「はい、何も。彼女は実戦では初めてだったようですが、知識としてはあったのですね。あなたの言葉を借りると『魔に連なる者』にも何もさせない瞬殺が、最大の対処法。だから彼女は急かしていた‥‥」
あの状況ではネガイのあの焦りようも仕方ないと思っていた、けれどそれは違った―――俺がネガイの邪魔をしていたのだ。
そんな邪魔な俺をネガイは口にしなかった―――傷つけなかった。
あの場での真実を話さないでいてくれた。
「あなたの目を目覚まさせる事が当初の目的でした。でも、目覚めさせても何も知らないのではすぐに死んでしまうと判断し、ネガイさんと話し合った結果、あなたへ小出しに情報を提供していく予定になりました。でも自分でそういった情報を仕入れてくるとは、考えませんでしたけどね」
「ネガイも合意したのか?」
「せざるを得ない状況に私がした―――こんな言葉に、なんの意味もない。けれど、私は狂っていた。踏み止まるという選択が、完全に消えていた‥‥彼女はあなたの生存の為だけに、もそういった知識が必要だと言って、私に任せました」
これが当初の契約を変える事になってしまった事件。
マトイの予想を超えてこの目は至ってしまった。
この現象は、マトイも望むところではなかった。俺を眠らせるか、敵を用意して徐々に目を使わせるか、あの朝まで未定だったのかもしれない。
「最初はその予定だったかもしれないが、結果的に俺にその知識を教える前に俺を殺した。‥‥無理矢理殺す理由ができたからか?」
「はい、とだけ言っておきます」
これ以上言う気は無いようだ。だが、正直に答えてくれた。多分‥‥俺の目は‥‥。
「この目はお前が思っている程、便利なものじゃない」
「彼女にもそう言われました。まさかあんなに感情的になるなんて‥‥」
あの激情をマトイにも見せたようだ。何度か見ている俺が、未だに慣れず恐れているのだ。初めて見たマトイでは、命の危機すら感じただろう。
「‥‥これでわかったか‥‥なんで、そこまでして俺の目を欲しがるんだ」
「あなたが全力で目を使うとそれだけで命を縮める――――知らなかったなんて言い訳はしません。私は―――ただ‥‥」
「お前は何がしたいんだ?どうして俺の目にこだわる?」
「全ては秩序の為。私には武器が必要、それだけです‥‥」
マトイの手の熱が増してきた。眠らせる気だ。
「眠って下さい。またあなたが眠るまで傍にいますから」
優しげな聖女のような声で傍にいてくれると言った。手を血濡れにした本人だというのに―――その言葉に安堵を覚えてしまう。
「最初は、さっきの薬を俺に使うつもりだったのか?」
「もしあなたが暴れるなら、無理矢理にでも眠らせている所でした」
「なら、今日は診察か‥‥いらない。そんな薬、俺には無駄だ‥‥」
「そうですね‥‥。そうでしたね」
強張っていた神経は、既に消えてしまった。今は、体がほどけるように、肺を手放してしまう―――すぐ傍に、思いを寄せている人がいる。この感情を捨てられない。
でも、マトイは俺が起きる頃にはいないのだろう。だから言っておきたい。
「マトイ‥‥言っておきたい事がある」
「私には二度と会いたくないですか?」
自嘲気味に笑った。
夢の中では俺もそう思っていた、だけど、実際に会っている今、心が波打った。
「そんな訳ない。‥‥俺はまたマトイに‥‥こうして欲しい」
マトイは目の上で手の熱を続けてくれている。これで‥‥安心して眠れる。
「傍にいてくれ‥‥。それだけいい‥‥」
「私はここにいます。‥‥おやすみ」
今まで努力して起きていたがもう眠い―――まだ言わなくていけない事があるというのに。
「待ってろ‥‥迎えに行く‥‥」
「え、」
最後にマトイの驚いた声が聞けた――確信した。ネガイは俺に嘘をついていると。
俺の目はもう羽化している。そして、俺やネガイが想定していた中でも、もっとも悪しき方向に進んでいた。
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