壱
「
襖の向こうから政司の声が聞こえる。
「ああ、何かあったか」
うっすらと目を開いて、籐也は聞き返した。
「いえ、
「こちらに来ている。心配ない」
「かしこまりました。では、あさげの準備が出来ておりますので、美羽さまもお連れください」
政司がそう言い置く間に身を起こした籐也は、布団の端で身体を丸めて眠る幼女に声を掛ける。
「美羽、起きて…、美羽」
そう声を掛けるも目覚める気配はない。
どうしたものかと思うも、とりあえず布団を掛けてやる。
藤也が彼女を屋敷に連れ帰ってから、十日程が経っていた。身の回りの世話にと小間使いも付けているのだが、警戒心を解かず誰とも話そうとしない。藤也だけが頼りとばかりに、美羽は彼の側を離れようとしないし、籐也の方もそれを気にする様子もなく、まとわりつかせるままにしている。
とはいえ、籐也と寝床を一緒にさせるわけにもいかず、小間使いが毎晩寝かしつけているのだが、いつの間にか籐也の寝所に忍び込んでしまうのだった。
初めて美羽を目にした時は、痩せ細って薄汚れ、こけた頬は大きな目を更に強調し、餓鬼とはこういうものかと思わせるような有り様であった。
だが今は、清潔な着物を着せられ、きちんと食事も与えられたため頬もふっくらとし、随分と子供らしい見た目になっている。
「美羽、起きないなら置いて行くよ」
籐也は身支度を整えながら、眠ったままの美羽に声を掛ける。
「とーさま?」
瞼をこすりつつ目覚めた美羽は、藤也の姿を見つけ呟く。もちろん父親を呼ぶ意味で言っているわけではない。屋敷の者が「籐也さま」と呼ぶのを聞いて、彼女もそう呼んでいるつもりである。
ただそうして呼び掛けるのも、籐也と二人きりの時だけであったのだが。
「ご飯、一緒に食べるんだろう」
体を起こしたものの、まだぼんやりとしている美羽を、籐也はそっと抱き上げる。すると小さな暖かい体が、籐也にしがみついてくる。
「とーさま、まだ眠い」
「あさげが済んだら、また寝ればいいさ」
美羽の背中をぽんぽんと叩いてあやす籐也に、更にしがみついて美羽はねだる。
「とーさまも一緒にね」
既に眠気は吹っ飛んだ様子で、目をきらきらさせ見つめる美羽に「うーん」と、考え込みながらも籐也は居間へと足を進めた。
「美羽さま、こちらへ」
美羽を抱いた籐也の姿を見るや、すぐに政司が手を差し出す。瞬間ぎゅっと籐也にしがみついた美羽であるが、政司に促され渋々籐也から離れる。
用意された二人分の食事を、美羽は小間使いに面倒を見られながら、籐也は政司に食事を残さないよう監視されながら食べてゆく。
食事を終え、皆がほっと一息ついたその時に、「美羽、一緒に寝ようか」と、幼女に微笑む主人に、政司は内心頭を抱えるのであった。
※ ※ ※ ※ ※
武家の生まれである籐也が未だ元服もせず、別宅で気ままに暮らしていられるのは、その出生の#
もちろん彼が長子ではなく、その下にも健康な男児が数人いるという事も大きい。ただ、そうであったとしても彼の身分であれば、いづれは主家に仕える身の上だ、学問や武芸に励むようたしなめられるのが当たり前というものである。
しかし、天下の
事情を知らない者からすれば、籐也を見捨て関心がないのだろうと思われているが、実際はそうでない事を政司はもちろん籐也の近くに仕える者皆、心得ている。
『世間の噂とは相反して、殿様の籐也への偏愛ぶりは激しい』と。
籐也が竹風荘に住みたいと申し出た時も、最初は自分の目の届かないところに行くのは駄目だと許さなかった殿様だったが、籐也に何度か許しを請われれば、渋々ながらも許してしまう。しかも「竹風荘」で暮らす条件が、月に二度は本宅へ顔を出す事、お目付け役の政司はもちろんだが、本宅で籐也の身の回りに付いていた使用人全てを連れて行く事であった。
その結果、本宅では急遽使用人を雇い入れる必要が生じたが、「籐也の身の安全のためなのだから、そちとて同じ考えであろう」と、不必要な出費と手間に激怒する二人目の奥方を黙らせてしまう程の過保護ぶりだ。
そんな父親の庇護下にある籐也であったが、彼には彼なりの悩みがあり、本宅にいる苦痛に耐えかねて別宅に移り住んでいるのである。故に月に二度の本宅への顔見せは、行かずに済ませたい、避けて通りたい決め事であった。
その日も気詰まりな時を過ごした本宅からの帰り道で、もう半時もすれば日が落ちるという頃合いであった。
身体に纏わりつく不快感に苛立ちながら、籐也は河原に降りていく。草履が濡れるのも気にせず、水際をばしゃばしゃと音を立てて歩く。
あまり感情を表に出すことのない籐也であるが、汚らわしいと言わんばかりの視線をくれる継母や、敵愾心を隠そうともしない異母兄弟達と半日以上一緒に過ごせば、流石に気が滅入った。
しかも、息子の成長を気に掛ける父は、そんな寒々しい雰囲気などお構い無しで、不自由はないか、変わったことはないか、近況を話せと質問攻めにした挙げ句「お前がいないと寂しいから帰って来い」と懇願するのだ。
そうやって籐也への偏愛ぶりを毎度見せつけられる訳だから、ただでさえ彼の事を疎ましく思っている者達の心中は、いかばかりであろうか。
自分に何かあれば例え些細なことでも、政司や他の使用人が半時も経たない内に知らせに走る。それで十分ではないか。自分の事を忌み嫌っている者達に、わざわざこの顔を見せ、憎しみを煽る必要もないのにと、藤也は思うのである。
「あの人はどうしたら、忘れてくれるのだろう」
憤りに震え、その場にしゃがみ込む。
何を忘れてほしいのか……
我が子である藤也の存在?
彼とそっくりだったという母親の事であろうか。
いや、母親の死に繋がるあの忌まわしい事件の事であろう。あれ以来、父は藤也に負い目を感じているらしく、彼の嫌がる事は一切させず、愛情だけを注いでいる。
確かにあの事件の後しばらくは、放心する事が多く、しばしば
子供じみているとは思ったが、何かに八つ当たりしたかった。しかし、元々穏やかな性格で周囲に気を使って生活してきた藤也が、この気分を発散する方法等たかがしれていた。
目についた石を拾い上げ、川に放り投げる。何度か繰り返す。鬱憤を叫ぶでもなく、ただ投げるだけ。
それで気分が晴れる、とまではいかないが大分落ち着いた。その場に政司が居れば、藤也さまらしいと苦笑いしていることだろう。
「政司が探しに来る前に、帰るか」
暗くなる前に屋敷に戻らないと、政司が捜索隊を組みかねない。竹風荘に住むようになってから気付いたことだが、政司は父以上に過保護だ。藤也の身の回りの世話も政司自らが行うし、外出にも常に同行する。
今日も政司が一緒に行くと言うのに、兄弟達に馬鹿にされるからと、勝手に飛び出して来たのだ。
最後にもう一つだけと、石を拾い上げた時だった。激しく吠えたてる犬の鳴き声と、泣き叫ぶ人の声が聞こえてきた。
「誰か、助けて…母さまー」
犬の声に紛れてはっきりしないが、子供の声のようだ。野犬に襲われているのかもしれない。
「面倒な事には、関わらないように!」と戒める政司の顔が浮かんだが、「たまたま投げた石が、たまたま犬にあたっちゃうのは仕方ないよな」と、言い訳になりそうに無い事を呟きながら、藤也は駆け出していた。
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