川下に向け緩やかな曲線を描きつつ流れる川は、雨の少ないこの時期は深いところでも大人の膝までの高さしかない。その為、湾曲が強く岸辺に近い場所は流れが淀み、上流から枯れ葉や人の垂れ流した野菜くず、元が何であったか判らない怪しい肉片等が流れ着いている。

 そうした堆積物を糧にすすきや芦が、所々に茂みを作っており、犬の鳴き声は藤也から少し離れたすすきの茂みの向こう側から聞こえていた。

 声を頼りに茂みに突っ込んだ藤也であったが、聞こえてきた子供の叫びに驚き立ち止まる。

「母さまを、食べないで!」

 その言葉に、心臓がびくんと跳ねる。

 もちろん藤也に向けられたものではないが、何故かその言葉に衝撃を受けた。

 このまま引き返してしまおうか、……嫌なものを見てしまいそうだ。逡巡する藤也の耳に「母さま、母さま」と、絶望に満ちた声が響く。

 その声が、あの時の自分の声と重なり、思い出してはいけない過去の記憶に、飲み込まれてしまいそうで怖かった。藤也は唇を噛み締め、何かを振りきるかのように、茂みを駆け抜けて行った。


※ ※ ※

 暮れ時の河原、残照を背に小さな影が幾つか動いている。

 五匹の野犬が己らより僅かに背の高い獲物を追い詰め、吠え立てていた。

 ここは、彼らにとって大事な餌場の一つであり、川上から川下へ、川下から川上へと餌を求め移動しつつ、数ヵ所の餌場を確保していた。

 常にかつえ、噛み砕き腹に入れられるものであれば、何でも喰らった。この場に漂う臭いから、滅多にありつけないごであるのは解っている。仲間といえど、弱さを見せれば己が餌食となるだけだ、誰よりも早く、少しでも多く、得物にありつかなければならなかった。そんな一瞬の時も無駄に出来ない、ぺちゃんこになった腹が早く早くと急かしているというのに、喚きながら小枝を振り回している邪魔者がいるのだ。

 立ち去れと威嚇した。もうそれはお前には不要のものではないか。食らいもせぬのに何故自分の物だと、独り占めにしようとするのか?

 動かなければ、お前とて食らうものを…………

 威嚇が止み、辺りに不気味な静けさが漂っていた。


※ ※ ※

 気づかれたか?

 茂みを抜け、彼らの背後に飛び出した藤也であったが、突如止んだ鳴き声に状況を伺う。だが、興奮しきった犬共は藤也には気付いておらず、目の前でがたがたと震える獲物に飛び掛かろうと包囲を狭めていた。そして他の犬より一回りは大きい黒犬が、子供の喉笛目掛け飛び掛かった。

「あ~た~れ~」

 藤也は握りしめていた石を投げ放つ。もちろんではなく、黒犬を狙ってだ。投げた石は狙い過たず黒犬の横っ腹に命中し、「ぎゃんっ」と大きな悲鳴を上げて黒犬は地面に落下した。

 ようやく新たな邪魔者に気づいた犬共は、藤也に狙いを変え唸り声を洩らす。四匹の攻撃に備え、藤也もすらりと、刀を抜いた。

 牙を剥き出し涎を垂らした一匹が、藤也に向け走り出したのを合図に、他の犬も一斉に襲いかかって来る。正面から飛び掛かってくるのを身を交わしつつ刀で凪ぎ払い、藤也を引き倒そうと横から飛び付いてきた、薄汚れた白犬に返す刃で打撃を加える。どちらの犬も地面に倒れ痛みにのたうち回っているが、生きていた。犬を殺す気になれない藤也は、刀の峰を使っていた。

 左側から噛みついてこようとするのを、腰に差したままの鞘で防御し、もう一匹に右の蹴りを食らわせ、残る一匹に向き直ると、尻尾は垂れ怯えている。気が付けば黒犬の姿は無くなっており、よろよろと立ち上がった他の犬も、これ以上戦うつもりはないと見て、藤也は大袈裟な身ぶりで刀を振り回し、犬共をその場から追い払う。犬共が三々五々と散らばってゆくのを見届けた藤也は、刀を納めほっと肩の力を抜いた。

 藤也は暴力が嫌いである。はっきりいって虫一つ殺せない人間だ。出来れば帯刀等したくもないのだが、幾つかの理由で身の危険に晒されている彼にとって、丸腰でいる事は許されなかった。

 黒犬に飛び掛かられへたりこんだままの子供に、藤也は視線を向ける。犬は追っ払ってやったし、このまま捨て置いたからといって誰かに非難される謂れもない。

 しかし子供がその背に庇うようにしているものを目にしてしまった藤也は、そのまま立ち去る事が出来ずにいた。


「大丈夫か? おい、聞こえてるか」

 子供に近付き声を掛けるが、放心状態の子供は気がつかない。驚かさないようそっと子供の正面に腰を落とした藤也は、その顔を覗き込んだ。がりがりに痩せ薄汚れていたが子供は、女の子のようだ。藤也はもう一度優しく声を掛ける。

「怖かっただろ、もう大丈夫だよ」

 近いところから聞こえる声に、ようやく幼女の意識が戻ってくる。

 瞳が揺れ、びくっと体が震える。きょろきょろと視線を動かしていたが、やがて自分を覗き込んでいる顔に気づき視線を据えると、またもや固まってしまった。

「あれ、どうした。また気が遠くなったのかな?」

 藤也は首を傾げるが、幼女の顔はみるみる真っ赤に染まる。

 幼くとも女子おなごは女子という反応なのであるが、その手の方面に疎い藤也には理解できない。

「気分が悪いのか? 立てるか?」

 そう言いながら藤也は幼女を立たせてやる。

 立ち上がった事でようやく意識を取り戻した幼女は、辺りを見回し藤也に尋ねる。

「犬は?」

「追っ払ったよ」

 その答えに安堵した様子で、幼女は藤也に礼を述べた。

「そこにいるのは……、お前のおっかさんかい」

「うん」

 それ以外の答えが返って来るはずはないのだが、そうでなければいいと藤也は思っていた。

 藤也の視線の先、横たわる人物は、どう見ても、息絶えていたから……。


※ ※ ※

 ぬかるみの中に半ば埋まった状態で、それは横たわっていた。

 おっかさんと言うからには、女性なのであろうが遠目に見ただけでは、最早判別は困難だった。物凄い腐臭が藤也の鼻を刺激している。

 かなり腐敗の進んだ死体は青黒く変色し、先程の犬共の仕業であろう噛みちぎられた部分から、どろりとした液体が滲み出している。それ以外にも何かにつつかれたような、噛みほぐされた小さな傷が、見える範囲殆どについており、川の干満で水に浸る間に小魚の餌にされたと思われる。

 今は仰向けの上半身は乾いているが、傷口から染み出す油を求め蝿がたかり、子を産み付け、米粒程の白い蛆が体をゆすりさざ波を真似ていた。

 大きくはだけた胸元は乳房らしき膨らみさえなく、あばらの形がくっきりと浮かび上がっており、生前も肉付きは決して良くなかっのであろうと藤也は思った。

 そのあばらの辺り、薄い皮膚の下をと何かが蠢いている。おそらく沢蟹等の雑食性の小さな生き物が、ふやけた肉をみながら中へ中へと潜り込んで行ったのだろう。

 乾いた表面でさえこの状態であれば、水に浸った背中側はいったいどんな有り様であろうか、考えるだけで口の中に酸っぱいものが込み上げてくる。

 死体の状況から、昨日今日死んだのでないことは明らかであった。この子はどれ程の時をここで過ごしたのだろうか、……母の屍を守って。

 母親の屍を見つめ、必死に涙を堪えている幼女に、藤也は過去の自分を重ねていた。

 冷たくなってゆく母を前に、泣いてはいけないと自分に言い聞かせていた。愛する母が「強くなりなさい。何があっても、生きるのですよ」と最後に言い残したから。

 自分は男で武士の子だ。簡単に泣いてはいけない、そうも思った。だが、この子は女の子で、あの頃の藤也よりも幼い。たった一人、寒さや飢えに耐えながら、母親を守っていたのだ。泣きたくなって当然だし、泣いていいんだと藤也は思った。


「一緒に、帰ろう」

 藤也は幼女に声を掛ける。

 泣き笑いの表情で幼女は藤也の顔を見上げたが、母に視線を戻し静かに首を振った。

 母を置いては行けない、小さな背中が語っていた。

「今は無理だけど、おっかさんも連れて帰ると約束するよ」

「本当に? 母さまを助けてくれるの」

 ああ、この子は母親を助けてくれと、どれだけ叫んだのだろうか。

「一人で怖かっただろ、もう大丈夫だから」

 そう言って腕を広げた藤也に、幼女が抱きついて泣きだした。

「母さま、母さま」と泣き続ける幼女を抱き上げ、藤也は屋敷へと歩き出した。

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