第22話 未来へ

 穴の中は静寂と暗闇に満ちている。幸い、辺りに飛び回る魔法の粒子は淡い光を発しているため、周りの岩肌の模様がわかる程度には明るい。穴底は息が詰まるほどの狭さではなかったが、両手を広げれば両端に手が付くほどだ。


 幸い大きなけがはなく、軽い打撲と擦り傷程度のものだった。ミリアムもけがはなかったようで、一緒に落ちてきた黒いインティリアを握り締め、体を丸めている。

 何度か、エリーネが岩肌を昇ろうとしてみるが、意外ともろく体重をかけると崩れてしまう。


「どうしよう……」


 思わず出た言葉が静寂のためか、妙に耳についた。


 近くにカーミラが住む集落はあるが、何度叫んでも声は届いていないようだった。

 エリーネは岩肌に背中を預けると、ずるずると腰を下ろした。ミリアムと同じように膝を抱え上空を見上げた。


 上空の穴からは、いくつかの星と魔法の粒子が瞬いて見えるだけだった。


「……あなたのせいです」


 うめき声にも似たミリアムの声は、再び静寂にかき消されていった。


「え?」


 ミリアムが膝を抱えたまま、顔を上げるとエリーネを鋭く睨んだ。しかし、その視線は怒りというよりも、駄々をこねる子供のようにも見えた。


「明日の朝には、私はアトランティスを離れなければなりません。ウィランドに帰るのが遅くなれば、それだけ国の機能は麻痺するのです。それをわかっているのですか?」


 ミリアムの言葉が執拗にエリーネを責め立てる。


「でも、放ってなんかおけないよ。ミリアムちゃんのことも、シズネさんのことも!」


「それはあなたの感情でしょう? もう私はここでの用事は終わったのです。それをあなたが無理やり……」


 エリーネの体の芯が一気に熱くなる。まだ何かミリアムが言っているようだったがエリーネの耳には入ってこない。母の想い、シズネの想い、ミリアムの想い。そういったものがどうでもよくなってくるくらいには怒りの感情がエリーネの体を支配する。


「ん……もおおおぉぉぉぉぉおおぉぉ!」


 エリーネが力の限り、地面に足を叩きつける。ふーふー、と獣のように鼻息を漏らすエリーネに対し、ミリアムは体をびくつかせる。狭い穴の底。逃げる場所もなくミリアムは岩肌に背をつけ、どうにかエリーネから距離を取ろうとしている。


「ぐちぐちぐちぐち勝手なこと、い、言わないでよおおぉ! じゃあさ! それじゃあ、最初からインティリアを直すために、私のところ来なければよかったのに!」


 エリーネの絶叫がミリアムに向けられる。


「な、な、な……」

「へ、へぇえぇぇ! 女王の責務? 友好にひびが入る? 黙って船を抜け出して、工房に来たりしたのに? それは女王の責務を放棄したことに入らないんだ! 会食の予定もすっぽかしたのに? 笑っちゃうよね! こうなったのはミリアムちゃんのせいもあると思うよ! 女王の責務を放棄したのはそっちなんじゃないの?」

「女王の責務を……私が?」


 エリーネの剣幕におびえていたミリアムの震えがピタリ、と止まる。するとこぶしを握り締め再び震えだす。


「あーあー。怒った? 怒っちゃったの? 図星? そうだよね! わかっちゃったんだもんね! 自分のやってたこと。全部自分が悪いんじゃないの?」


 エリーネがそうまくし立てると、ミリアムは地面の砂を掴み全力でエリーネに向かって投げつけた。

 砂を顔に浴びたエリーネはせき込みながら、口に入ってしまった砂を吐き出している。


「す、砂を投げるなんて……そんなこと女王のするこ――ぐえっ」


 砂で視界がふさがれたままのエリーネの背中に、ミリアムが覆いかぶさってきた。


「あ、あなたに何がわかるのですか! 一般人のあなたに! 女王というものがどんな重圧を抱えているのかが! ほんの少し判断を間違えれば、国民が路頭に迷うのですよ? と、時には非情な判断も下さねばなりません! 心のよりどころにしていたインティリアを直しに来るぐらい……いいじゃありませんか!」


 エリーネはミリアムの腕を掴む。お互いがにらみ合う形になる。


「へ、へー。女王の重圧? そんなの全然わかんないよ! だって私女王じゃないもん! 言ってくれなきゃわからないよ!」

「言ってわかるものではないですよ! わ、私は一人になっちゃって……だ、だからお姉ちゃんから貰ったインティリアを……ずっと大切に……」


 ミリアムの言葉が詰まる。力なく腕をだらり、と下げると、エリーネに馬乗りになったままミリアムの瞳からは大粒の涙が流れ始めた。顔をくしゃくしゃに歪め、ミリアムは嗚咽を漏らす。


「お、お願いだから……インティリアを、なお、直してよぉ……私、これがなくなっちゃったら、本当に一人ぼっちに、なっちゃう」


 ミリアムの涙が、エリーネの頬にポタポタと落ちてくる。エリーネの瞳にも大粒の涙が浮かぶ。


「わ、私だって……直してあげたいよぉ。でも、お母さん死んじゃったし……もっと、インティリアのこと、教えてもらいたかったのに……死んじゃったから……」


 エリーネの脳裏に浮かぶのは、母の思い出。母の残したインティリアを本当の意味でエリーネは受け継ぐことはできなかった。

 ミリアムの悲しみを全身に受け、エリーネは空を眺めた。狭い穴の中から眺める星空。きっと、過去のアトランティスの人々も、どうしようもない悲しみと焦燥感に取りつかれていたのだろうか。


 ――過去を恨み続けるより、この地で生まれた子供たちが幸せになれる道を探すために、アトランティスを解き放った。


 脳裏に浮かぶのは、幼いエリーネに母が語ったアトランティスの歴史。


 抑圧からの解放。


 エリーネは服の袖で涙を拭くと、馬乗りになったミリアムを跳ね除け、地面に押し倒した。ミリアムは抵抗もせず、ヒクヒクと嗚咽を漏らしているだけだった。

 エリーネは何も言わず、ミリアムのローブの袖に手を入れるとインティリアを取り出した。


 黒い。この世の何よりも黒い色をしているインティリアだ。


 自分のローブからインティリアがかすめ取られたことを知ったミリアムは、半狂乱になりながらエリーネの足元にすがった。


「な、なんで! 私のインティリア……ねぇ、どうするの? かえし、って……返してよお!」


 なおも足元に絡みついてくるミリアムの手を跳ね除け、エリーネは黒いインティリアを天高く掲げた。


「ミリアムちゃん。わかった……わかったよ」


 ミリアムのこれまでの重圧は想像を絶するものだったのだろう。ここまで黒くなったインティリアを見れば想像にたやすい。

 鬱積された想いは過去を憂いでいるかぎり、解消されることは無い。黒いインティリアは過去のアトランティスと同じものなのだ。ならばしなければいけないことは――。


 エリーネは同じように手を空に掲げる。指先からは淡い光が発生し、暗い穴の中をやさしく照らす。


「ミリアムちゃん。見て」


 エリーネは黒いインティリアにそっと指先を当てた。過去、魔法使いたちは同じ魔法でアトランティスを覆っていた結界を解こうとした。


 エリーネは一瞬、結界解除の魔法をためらう。


 このインティリアはミリアムにとって、過去の大切な思い出に違いない。エリーネにとっても、母親がミリアムに幸せになってほしいと願って、渡したものだ。


「でも、私は」


 過去からの解放。未来への一歩。確証などは無い。


「それでも」


 過去を憂うよりも、未来へ。


「きっと大丈夫」


 エリーネはもう一度、そっとインティリアに触れる。


 それは、一瞬だった。


 インティリアを覆っていた結界が細かな魔法の粒子となり四散する。インティリアの外壁は消失し、台座は外れ地に落ちた。エリーネの手の中に残ったのは、十年もの間、ミリアムがため込んだ様々な感情だけだ。


「な、なんで……エリーネ……」


 ミリアムは生気を失った表情で、消え去ってしまったインティリアを求め、腕をエリーネに伸ばす。


 結界を失った感情は、一度大きく躍動すると、急激に広がっていく。狭い穴の中は手の先も見えないほどに黒く染まり、エリーネとミリアムを飲みこんでいった。

 自分が今どこにいるのかもわからない。まるで自分の体が闇に溶け込み、一体化してしまったのではないか。そう思ったとき、目の前に小さな光が瞬いた。

 その光はゆっくりと広がっていく。暖かい光だ。助けを求めるように、その光に手を伸ばす。


 ――ねぇ、ミリアム? お姉ちゃんはどこにいてもあなたを思っているからね。


 シズネの声だ。


 ――だから、このインティリアを、お姉ちゃんだと思って大切にしてね。


 小さなもやだった光が、暗闇を削り取り、視界いっぱいに広がった。

 エリーネの目の前では、驚愕の表情で周りを窺うミリアムの姿があった。


 目も明けていられないほどのまばゆい光が、辺りに満ちると出口を求め上空へ解き放たれていく。

 一本の光の柱となり、立ち上っていく感情のうねりは上空ではじけ飛ぶと、光球となりゆらゆらとエリーネとミリアムの元へと戻ってくる。


 その光球一つ、一つに幼い頃のミリアムが笑顔で映りこんでいた。いくつかにはシズネも映り込み、同じように笑い合っていた。


 この一つ、一つがミリアムの心の支えになる思い出なのだ。


 確かにこの十年間。ミリアムは辛い出来事のほうが多かったのかもしれない。でも、シズネとの思い出はそれをかき消すほどの力があるはずだ。

 シズネとの思い出の光球を慈しむように眺めているミリアムを見ると、そう思わずにはいられない。


「お姉ちゃん……ごめんなさい。ごめんなさい」


 ミリアムも光球を見つめながら謝罪の言葉をつぶやいていた。


 過去を悔やんでいたのはシズネだけではない。ミリアムだってそうなのだ。


「良かった……本当に良かった」


 ミリアムの表情からは険が取れ、飛び交う光球に向けて手を伸ばしていた。

 辛いことしか思い出せない。


 そんなことをつぶやいていたミリアムではあったが、いくつもの思い出はこの闇の中、はっきりと光を放ち漂っている。


 その一つ一つが、未来へと向けて活力になる想いだ。


 いくつもの光球が闇を照らす中、見覚えのある光景がエリーネの目に飛び込んできた。

 ミリアムが砂浜に絵を描いている光景だった。エリーネもミリアムの顔を見つめながら、困ったように笑っている。


「これって……昨日の」


『追憶の地』へ行く前に、ミリアムのお願いでアトランティスの海岸に立ち寄った時の思い出だった。


 シズネの思い出だけではない。ミリアムにとって、エリーネと過ごした僅かな時間も、未来へと希望をはせるだけの力があったのだ。


 エリーネはそっと、胸に手をあて、空を仰いだ。


 光球から発せられた光は、闇を払い、空の星の光をエリーネに届けていた。


「お母さん……! 私、これでよかったのかな? お母さんの思い。受け取ることができたのかな?」


 今、ここにはいない母に問う。

 

 ――エリーネ。


 母の声が聞こえた気がした。


 エリーネは突然聞こえた声に驚きながら周りを見渡すと、光球のうちの一つに幼いエリーネが映っていた。

 幼いエリーネの頭に添えられるやさしい手。母が温かいまなざしで幼いエリーネを見つめていた。


 穏やかに笑う母と父の目の前には十年前のシズネがいた。そのそばにはインティリアを手に取り、嬉しそうに笑うミリアムの姿もある。

 これは、十年前シズネがミリアムにインティリアを買ってあげたときの思い出だ。幼いエリーネが母の足に抱き付いている。


 エリーネが過去の母に手を伸ばす。触れたい。もう一度、母に抱きしめてもらいたい。


 伸ばした腕は『未来』を掴むためにある。『過去』に触れるためではない。踏み出そうとした足は地面から飛び出た岩にけつまずき、よろけてしまう。


 映像の中の母は、決して『現在』のエリーネに微笑みかけることは無い。


 エリーネの口からは母を求める言葉が出そうになる。自分でもわかっているのだ。過去をいくら望んでも、それは戻ってくることは無い。ならば、その手は明日へ。踏み出した足は未来へと進まなければいけない。


 エリーネは乱暴に目をこすると、もう一度、映像の中に母をしっかりと見つめる。

 思い出の中の母は、ただ笑みを浮かべているだけだった。

 次第に、光球は周りに溶け込むように薄くなっていく。


 完全に空気に溶け込んだ光球は、一度大きく明滅すると、四散し細かな粒子となっていく。


 姿形は消えても、心に刻まれた思い出は消えることはない。過去、現在、未来。それはいつの時代も変わらない。


「お母さん。私はこれからもインティリアを作り続ける……だからいつまでも」


 母の思いを胸に、上空を見る。


 インティリアの歴史はまだ浅い。抑圧からの解放。この選択肢は本当に正しいことだったのか。

 エリーネの全身に熱いものが込みあがってくる。

 インティリアを持つ人は、幸せになってほしい。


 この想いが心に刻まれている限り、道を踏み外すことは無いはずだ。


 エリーネは一度、気合を入れるように、自分の頬を叩いた。ぐずぐずと子供のように泣きはらすミリアムに歩み寄っていく。お互いに目が合うと、どちらからともなく腕を伸ばし抱き合う。


 エリーネもミリアムも言葉は発しない。


「おぉっ! エリーネ! 大丈夫か!」


 突然、ホルストの顔がひょっこりと出てきて、穴を覗いている。


「お、おじさん! どうしてここがわかったの?」

「女王さまを探し周っていたら『追憶の地』のほうからものすげぇ光が見えてな。何かお前がやらかしたんじゃないと思ってきたら……っと、女王さまもそこにいるか?」


 エリーネがミリアムの無事を伝えようとすると、


「ミリアム!」


 絶叫に近い声が、穴の中にこだました。シズネがホルストの横から同じように顔を出していた。ラウラも瞳に涙を溜め、こちらを見ていた。

 その声に、体を震わせたミリアムがシズネに向かって腕を振り上げる。


「おっ、おねえちゃあああぁぁん! うえぇえぇぇん!」


 まるで、ミリアムは迷子の子供が家族と出会えたかのように、わき目も振らずに泣き出してしまった。


 そんなミリアムの様子に、エリーネは少しだけ笑みを浮かべながら、思い出のかけらとなった光の粒子を眺めていたのだった。

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