第19話 無駄な時間でした。

 アトランティスの夜は更けていく。


 月の光が辺りを淡く照らし、時折潮の香りを乗せた穏やかな風がエリーネたちを優しく包み込む。心地よいと感じる余裕もなく、エリーネたちはミリアムの指し示した場所へと赴いた。

 ミリアムは無事演説を終えると、速やかに船の中へと戻っていった。未だ、演説を聞いていた人々は帰ろうとせず、アトランティスとウィランドの友好を声高らかに口にしていた。明日の朝にはミリアムたちはウィランドへと戻る。これが会うことのできる最後のチャンスだろう。エリーネははやる気持ちを抑えられず、歩んでいく。


 船に近づいていくたびにその巨大さに圧倒される。強固な外壁は魔法の結界にも勝るとも劣らず、ウィランドという国の強大さを示していた。この国の未来をミリアムという、まだ大人になり切れていない少女が背負っているのだ。今更ながらエリーネの体に震えが走った。


 アトランティスの要人たちが上っていたタラップの下まで来ると、外からは見えない場所の船の扉から一人、辺りを気にするように現れた。ラウラだ。エリーネは少し身構えてしまう。


「……ミリアム!」


 シズネが懐かしさと、驚き――そして、ほんの少し恐れも抱いたような感情を口にした。

 ラウラの背後。初めてエリーネの工房を訪れた際に着ていたローブのようなものを身に纏い、ミリアムが姿を現せた。


 一足先に駆けていこうとするシズネをラウラは手で制する。


「ミリアムさまのお慈悲です。感謝されますように」


 そう短く述べると、ラウラはミリアムに振り返る。


「この後はアトランティスの方々との会食を控えております。早めに終えられますよう」


 恭しくおじぎをすると、ミリアムの背後に控える。


 手を腰の辺りで合わせ、屹立と背を伸ばすミリアムは凛としており、話しかけるのも戸惑ってしまうほどだ。ウィランド王国の女王――『ミリアム・ウィランド』がそこにいた。


「ミリアム……私」


 シズネが十年ぶりに再会する妹の元へと、おぼつかない足取りで近づいていく。ミリアムはその姿には目もくれず、背後にいるエリーネへと視線を向けた。


「……一体なんですか。エリーネ。あんな真似をするなんて。もし、民衆が混乱していたらどうするつもりだったんです?」

「え……ミリアムちゃん?」


 ミリアムの瞳は、友人に向けられるものではなかった。冷酷な王が、無能な配下に向けるような――失望を含んだ視線であった。


「あの光は私へのメッセージでしょう? 何が言いたいのかはわかりませんが、あのような真似はよしてください。民衆が怯えます」

「ご、ごめんなさい……私、ミリアムちゃんに会わせたい人がいて……先日、工房に腕の良い職人がいるって言ったでしょ」


 聞いていた話と違うミリアムの様子に、シズネは動揺を隠しきれてはいない。ミリアムは少し眉をひそめると、怪訝な表情でシズネに視線を移した。

 シズネとミリアム。お互い見つめ合う時間が過ぎる。エリーネが固唾を飲み見守る中、口を開いたのはミリアムだった。


「ああ……あなたがシズネさんですね。初めまして」


 シズネがめまいを起こしたかのようにふらついた。ホルストが急いで体を寄せる。


 ――ミリアムはシズネのことを覚えていない?


 確かに、十年という歳月は短い時間ではない。でも、黒くなったインティリアはシズネとの思い出の一品のはずだ。当時、幼かったとはいえ忘れてしまうものだろうか。


「ミリアム。私だよ。アデリアだよ!」


 ミリアムはシズネの顔を睨む。ラウラは全くと言っていいほどに表情を変えず、ただその場に佇んでいた。


「仮にも私は女王です。少し失礼ではありませんか? あなたはエリーネの友人だとしても私とは何の関係もありません」


 そう吐き捨てた後、ミリアムはシズネに背を向けた。


「ミリアムちゃん! 忘れちゃったの? シズネさんはミリアムちゃんのお姉さんだよ!」


 エリーネの背筋に冷たいものが走った。振り返ったミリアムの顔からは表情というものは感じられなかったからだ。


「あなたはシズネという名ですよね? エリーネからそう聞きました」

「そんな、ミリアムちゃん……」

「あなたはシズネなのですか? アデリアなのですか? 人が二つの名をかたるなど滑稽です」


 シズネの顔色は病人のように蒼白になっている。ホルストに支えられていなかったら、その場に崩れ落ちていたかもしれない。


「まあ、いいです」


 ミリアムは厳かに歩いてくると、エリーネの蒼白になった顔を見つめた。


「初めて会った時にあなたに依頼したことを覚えていますか? 私のインティリア……お約束の期限は今日までです」


 ミリアムはそう言うと、ローブの中に手を入れた。インティリアを手に取るとエリーネに突きつけた。


「エリーネ。インティリアの修理をお願いします」


 黒い。

 黒い。黒い。


 背筋が凍る。心臓の鼓動が跳ねる。冷たい血が逆流する。吐き気がする。

 ミリアムの手の上に乗っているインティリアは、外壁にはひびがいくつも入っており、内部からは瘴気が漏れ出しそうなほど黒く濁っていた。

 エリーネは胃を何者かに強く握られているような感覚になり、思わず口を手で覆った。


「エリーネ。インティリアの修理をお願いします」


 何があったのだろう。『追憶の地』から帰ってきた後のインティリアは確かに、直りかけていた。それが今や、初めて出会ったときよりもどす黒く変色していた。

 エリーネは底のない谷に落ちていくような感触を受けた。ミリアムの態度ではない。黒いインティリアはその闇をさらに濃くし、見つめているだけで体が蝕まれるような感覚に陥る。


 あまりの禍々しさに、エリーネの額には冷や汗が滲み、手先にはしびれが走る。


「エリーネ。こちらのシズネさんはとても腕の良い職人なのでしょう? きっと直してくださいますよね?」


 威圧とも取れる問いかけ。恐怖さえ覚えるほどの黒いインティリア。ミリアムの心が乗っ取られてしまったのではないかと思わせるほどに。

 ミリアムの言葉にその場にいた全員が次の言葉を発せないでいた。


「結局……駄目じゃないですか」


 重苦しい声を絞り出すと、踵を返しエリーネに背を向ける。


「無駄な時間でした」


 そう吐き捨てる。


 無駄。


 出会ってから、今日までのことが思い出される。夜中語り合ったこと。『追憶の地』ではほんの少しかもしれないが、心を通わせられたこと。その時間も無駄だったのだろうか。すべてを否定された気がして、エリーネの目には大粒の涙が浮かぶ。


 ホルストに支えられていたシズネがおぼつかない脚でミリアムに近づいていく。よろよろと腕をミリアムに伸ばす。


 触れようとした瞬間、ラウラが素早くシズネの腕を捻り上げた。


「……ぐっ。ミリアム……」

「近づかないでください」


 ラウラが無情にもそう言い放つ。


「必ず私が直すから! お願い……行かないで」


 エリーネが懇願する。


 必ず直す。このままではミリアムも、シズネもエリーネ自身も心が晴れることはない。エリーネの母の思いが果たされない。


「これまで何の解決策も見いだせなかったのに、今、この場で直る見込みがあるとは到底思えません」


 思いが砕かれる。届かない。


「私はインティリアを直すためにアトランティスに来たのです。それがなされないのならここにいる理由もないでしょう」


 ミリアムはエリーネの言葉を振り切り、船へと歩いていく。


「さようなら。エリーネ」


 引き裂かれるような辛い言葉。納得ができない。


「ミリアムちゃん!」


 反射的に足が動く。


 これ以上、引き留めてもきっとミリアムには迷惑がかかるだろう。これはただのわがままなのかもしれない。それでも。

 ミリアムを求め、エリーネは腕を伸ばす。が、ラウラの体がその間に入り、ミリアムに届くことは無かった。


「もうおやめなさい。これ以上は許可できません」


 エリーネよりも、頭一つ分高い位置からラウラが見下ろす。エリーネはその圧力に屈することなく、振り返らずに船に入っていったミリアムを追おうともがく。


「いやだよ! こんな別れ方!」


 懇願する。届かない。


 ふいに、母の顔が思い出される。結局自分は母のようにはなれなかった。エリーネの体から力が抜けていく。目を開けているのに目の前が黒く染まっていく。すべての感覚が鈍くなっていき、何も考えられなくなって――。


「エリーネ。どきな」


 ふと聞こえてきた声に、エリーネが我に返った。

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