第17話 小さな胸に宿った強い心

「すまない。俺は本当に情けない。何もしてやることができなかった」


 ホルストがソファに座り、震える手でこぶしを握り締めていた。その横ではシズネが肩を落とし、死人のような表情で床を見つめている。

 ラウラが工房を出ていってから数分しか経っていないが、静けさと焦燥感でエリーネにはこの時が永遠に続くのではないかと感じていた。


 ありがとう、という言葉。ミリアムの口からは聞けなかった別れの言葉。


 短い間ではあったが、ミリアムと過ごした時間はエリーネにとっても生涯忘れることのできない思い出だ。それが、まるで夢だったかのように突然消え去ってしまった。


「私……ミリアムちゃんに会わないといけない」


 納得できるはずがない。


 ミリアムは女王でその身は自分一人だけのものではない。ウィランドの人々、果てはその命の責任が小さな体には宿っている。


「ミリアム……」


 シズネがソファに浅く座り、祈るようにこぶしを堅く握ると自分の額に押し当て、置いてきてしまった妹の名を呟いた。


「ねぇ、シズネさん。いつまでもそうしているつもり?」


 あえて辛辣な言葉を浴びせる。

 シズネの肩が小さく震える。


 過去に置いてきてしまった妹。謝罪の機会さえ与えてもらえなかった焦燥感は痛いほどに伝わってくる。できれば優しい言葉をかけてあげたい。ミリアムとの望まない別れを告げられた者同士、傷を舐め合っていればこれほど楽なことはないだろう。


 でも、それではいけない。


 エリーネは床を踏みならし、シズネの元へと歩んでいく。大きく腕を振りかぶる。その様子にシズネが頭を上げる。一度、エリーネは奥歯を噛みしめると――シズネの頬を叩いた。


 乾いた音が静まりかえった工房に響き渡る。


「しっかりしてよ! まさかしょうがないなんて思ってないよね?」


 シズネは呆然とエリーネを見る。


「こんなのはミリアムちゃんの本心じゃない。あんなに楽しそうにしていたのに、喜んでいたのに……心の闇が晴れるくらいに希望が見えてきていたのに……」


 言葉が詰まる。目の周りに熱いものがこみ上げ涙がこぼれそうになる。エリーネが自分のほっぺたを強く引っ張る。悲しみを紛らわすように。


「う……痛い」

「……エリーネ」


 じんじん、と痛みが広がる自分の頬をなでながら、ソファに座るシズネの前でひざまずく。手を取る。冷たい。幼い頃に母を亡くして哀しみに暮れていたエリーネの手を取ってくれたシズネの手はもっと暖かかった。


 次は自分の番なのだ。与えてもらったものを返すために。


「まだ、会えるチャンスはある」


 きっぱりとエリーネは言う。シズネが悲しそうに目を伏せた。


「もう無理だよ。ミリアムは今頃ラウラたちに監視されているはずだ。演説が終われば、すぐウィランドに帰るだろうし……。連絡も取れない以上、もう」

「演説中がある」


 エリーネは自分の言っていることに何の疑いもなく言い放つ。


「演説中なら、ミリアムちゃんだって姿を見せないといけない。そのときに私たちの思いを届ければ……」


「お、おい! ちょっとまった!」


 ホルストがエリーネの提案を遮る。 


「エリーネ。お前まさか演説を邪魔するなんて考えてるんじゃないだろうな? そんなことしたら今度こそ逮捕されちまうぞ!」


 ホルストが、エリーネの隣で目をしぱしぱさせながら喚き散らしている。


「エリーネと女王さまの間に何があったかは詳しくは知らんが、お前を危ない目に合わせるわけにはいかない! ……姉貴に頼まれているんだ。お前を見守るって」


 子供ではない。ホルストの思いはよくわかる。それでも、大人のように要領よく立ち回ることなどできはしないのだ。

 エリーネはひたむきな視線をホルストに向けた。そのまっすぐな瞳に、ホルストは一瞬怯んでしまう。


「……姉貴?」


 ホルストはそうつぶやくと、武骨な手で自分の目を乱暴に擦った。頭を大きく振ると、負けじとエリーネをまっすぐ見つめる。


「い、いや……許さない! 俺はお前の親……っていうわけじゃないが、俺自身、親と同じような気持ちでお前を大事にしてきたんだ。未来に傷を残すような振る舞いは黙っているわけにはいかない!」


 ホルストの言葉を受け取っても、エリーネの表情は一切揺らぐことは無い。


「おじさん。ありがとう。私をそんなに大事に思っていてくれて」

「エリーネ。俺は」

「でもね、おじさん。この場で何もしなかったら、私の『未来』は何も見えないの」


 ホルストの喉の奥が、ぐぐと鳴る。


「ねぇ。おじさん。お母さんは……どんな人だったの?」

「え?」


 突然の問いかけに、ホルストが間抜けな声を出した。


「聞かせて」


 ホルストが思い出を探るように目を細めた。


「姉貴は……可憐で、儚くて……やさしくて……本当に俺なんかの姉貴だとは思えないくらいによくできた人間だった」


 照れたように頭を掻き、ホルストは穏やかな顔で語りだす。


「でも、自分が正しいと思ったことは決して曲げない人だった。どんな突拍子もないことでも、どんな無理だと思うことでも……頑固な人だったよ。今のエリーネみたいだ」


 まるで観念したようにホルストは笑う。


「私はその人の娘なんだよね?」

「ああ……そうだな。そうなんだよな」

「だから私は曲げられない。曲げることはできない」

「ああ……うん。そうだよな」


 ホルストは大きな手で自分の目を覆う。嗚咽を押し殺し、肩を揺らす。そんなホルストの胸に体を預けると、エリーネは大きく息を吐いた。


「ごめんね。おじさん。迷惑かけっぱなしで……。絶対におじさんを悲しませるようなことはしないから。約束する」


 ホルストは、ずずずと鼻をすすると、エリーネを抱きしめた。


「エリーネ。お前の気持ちはわかった! だけど俺も連れてけ! お前が危ないときは俺が助けてやる! どんな敵が来ても守ってやる! だから……!」

「お、おじさん……く、苦しい……! 強い……つよい、って」


 エリーネがホルストの胸から顔を出すと、ぷはぁっと息を吐いた。呼吸を整えながら、眼前に迫るホルストの顔を見つめた。


「おじさん。敵なんていないよ。私はただ、ミリアムちゃんに会いに行くだけ……そうだよね? シズネさん」


 シズネはソファに深く体を預けてはいたが、その瞳にはいつもの活力が戻り始めていた。口を引き結びエリーネをまっすぐ見つめている。


「インティリアを持つ人にはいつも幸せでいてほしい」


 エリーネの母の言葉だ。それを聞いたシズネの腕には力が入る。


「……はぁっ」


 シズネは呆れたようにため息を吐くと、自分の頭をがりがり、と掻いた。


「本当に師匠そっくりだよ。あんた」


 うりうり、と顔をこすりつけてくるホルストを無視し、エリーネは笑顔を作る。

「あっ! ほんと? お母さんみたいに美人になってる?」

「あんたはあんな美人じゃないし、雰囲気はまったくの正反対」

「うぐっ」

「でも……心の芯はそっくりだよ」


 シズネは今日一番の笑顔をエリーネに向ける。


「あんたと話してると、しんみりした気分も吹き飛んでいくよ。私も落ちこんじゃいられない」


 シズネは自分の膝を叩くと、力強く立ち上がった。その瞳は、工房の窓を通り、ウィランド王国の船が停泊する港へと向けられていた。


「それで、どうするの? そりゃ演説中ならミリアムの顔は見られるだろうけど、人でごった返していて私たちの声なんか届かないよ? 何か策はあるの?」


 エリーネは迫りくるホルストの顔面を掴みながら、にやぁっと笑った。


「うふふふふふ。私にちょぉっと、考えがあるんだぁ」


「うわっ。にやけ顔が気持ち悪い。そうやって舞い上がるところも師匠に似てないんだよね」


 そんなシズネの言葉も意に介さずに、エリーネは大きく胸を張ったのだった。

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