第15話 異国の悲しき王女

 出会ってから十年。エリーネはシズネのことを知っているようで、何も知らないのだ。シズネの謝罪は黒いインティリアだけのことではないのだろう。絞り出すような謝罪の言葉はこれまでのことが蓄積された淀みのようなものなのかもしれない。


「ごめんね。シズネさん。責めているわけじゃないんだよ。今回の黒いインティリアの件。手伝えない理由があるならちゃんと訳を言ってほしい。じゃないと、私たちこれから――」


 エリーネはこれ以上何も言わなかった。ただ、子供のように嗚咽を漏らすシズネの頭をやさしく撫で続けた。エリーネの手のひらに心地よい上質な絹糸のような感触が感じられた。


「……私の名前……シズネじゃないんだ。本当の名前は『アデリア・ウィランド』」


 ふいに、エリーネの頭にミリアムの顔が浮かんだ。


「シズネさん……それって、まさか」

「私はウィランド王国の王女だった」


 シズネはそれだけを言うと、長年溜まっていた思いを吐き出すかのように、深呼吸をした。


「十年前、アトランティスに訪れたとき、師匠……あんたのお母さんの作ったインティリアに心を奪われた……美しいという言葉だけじゃ足りないくらい繊細ですべてを見透かされているような魔法の結界」


 シズネのこれまでの思い、感情。

 言葉は震え、途切れ途切れに語る。


「私は国を捨て、両親を捨てた……妹さえ捨てて」


 シズネが強く唇を噛んだ。次第に宝石のように輝く瞳からは涙が流れ、頬を伝う。


「昨日入港した船に乗っていたウィランド王国の女王『ミリアム・ウィランド』は私の妹なの」


 エリーネの喉が大きく嚥下する。「でも」という言葉を発する前に、シズネが自分の黒髪に触れた。


「ミリアムとは腹違いの姉妹。私の母は極東で生まれ、ウィランドに渡ってきた踊り子だと聞いた。一度も会ったことはないけどね。ミリアムと違う髪色はそのせい」


 シズネが自虐的に笑う。


「エリーネ。私はね。広い部屋と何不自由ない生活を与えられたけど、子供心にどこか閉塞感のようなものを感じていたの。王女とはいっても、望まれなかった人間。みんなの腫れ物を扱うような態度……でも、ミリアムは私に屈託なく接してくれた。そんなミリアムを私は捨て、アトランティスに逃げてきた」


 シズネは手のひらを見つめる。その手に残ったミリアムの感触を思い出しているのだろうか。


「十年前……私がインティリアをミリアムに買ってあげたんだよ。一昨日の夜、触れたときにわかった。あの黒いインティリアはあの時のものだよ……」

「ミリアムちゃんのインティリア……あんな真っ黒になっちゃうなんて、私聞いたことないよ」

「私のせいかもしれない」


 シズネは広げていた手のひらを固く握りしめる。


「私はミリアムを捨てた……恨まれていても仕方ないよ」

「そんなこと……」

「インティリアの性質はエリーネも知っているよね? 私への感情。女王としての重圧。まだ、大人にもなり切れていないのに……」

「そんなことないって!」


 頭で考えるよりも先に、言葉が出てしまう。


「ミリアムちゃんはそんなこと考える子じゃないよ! 私なんかよりも、ずっと大人だし、シズネさんを恨むはずなんてない!」


 シズネは無言のまま、両手を広げる。そのまま、エリーネの頭を胸に抱く。


「エリーネ。あんたは本当にいい子だよ。こうしてると、師匠の香りがする」


 シズネの心音がエリーネの耳に届く。やさしい落ち着く音色だ。エリーネは目を閉じると、シズネの胸に身をゆだねた。


「私はエリーネを本当の妹だと思ってるよ。師匠がいなくなっても、インティリアを作ってこられたのはあんたのおかげだ」


 その言葉に、エリーネの瞳からは暖かいものが流れ落ちる。


「私も……シズネさんを本当のお姉ちゃんみたいに思ってるから……同じ気持ちだよ」


 シズネはより温もりを感じようと、息が詰まるほど強くエリーネを抱きしめた。

 どのくらいお互いを感じあっていたのだろうか。シズネから体を離すと、エリーネの肩に手を置きじっと瞳を見つめる。


「いつかは話さないといけないと思ってたんだ。ただ、逃げてきた過去と向き合うのが怖かった」


 思い出されるのは辛い過去。それでも、その中にはいつまでも光り輝く思い出もあるに違いない。


「……ミリアムは私のことを許してくれるのかな?」


 シズネにとって、ミリアムとの思い出は闇を照らす光だったと思う。その光までも無かったことにしてしまえば、シズネの過去はただ、心の奥底に閉まっておきたい辛いものになってしまう。


「許してくれるよ! だって、ミリアムちゃん、シズネさんにもらったインティリアをわざわざ直してほしいって工房まで来たんだよ」


 シズネは小さく何度も頷くが、表情は暗いままだ。


「ミリアムちゃんもきっとシズネさんに会いたがってる。本当のお姉ちゃんだもん」

「私も会わなきゃいけないと思ってる……でも」


 シズネは震える指先で、自分の太股を強く掴んだ。


「足が動いてくれないんだ。行かなきゃって思っても、頭ではわかっていても体が動いてくれない。だって私はただ逃げてきただけだから。卑怯な姉なんだよ。今更会って――」


「シズネさあぁぁぁん!」


 その時、ドアが勢いよく開くとホルストが仁王立ちで部屋の入り口に立っていた。顔を真っ赤にして、シズネを興奮したまなざしで見つめていた。


「ちょ、ちょっとおじさん! 入って来ちゃだめだって!」


 エリーネが止めるのも聞かず、ホルストは鼻息を荒くし、地響きをたてながらシズネに近づいてくる。下着姿のシズネは、驚きのあまり恥ずかしがる素振りも見せず、ただ丸くなった目でホルストを見つめていた。


「突然入ってきてすまない。いてもたってもいられなくなってな……とりあえず服を着てくれ。そのままじゃ風邪をひく」

「えっ……? あ、ハイ」


 差し出されたのは、麻で作られた質素な服だった。反射的に受け取ったシズネは目をしぱしぱさせながら、麻の服を広げている。


「普段俺がパジャマとして使っているものだ。そう何度も袖を通していないし、洗ってあるから綺麗だとは思うが……いやだったらすぐに他のを買ってくる」

「い、いや。そんなことは……ありがとう。ホルストさん」


 ホルストは照れ臭そうに頭を掻くと、シズネに背を向けた。


 もそもそとシズネが麻の服に袖を通す。相当大きいらしく、上だけでもシズネの膝まですっぽりと隠れてしまった。シズネは袖をまくり、ばつが悪そうに細い腕で自分の体を抱いた。


 ホルストは一つ咳ばらいをすると、しゃがんでベッドに座るシズネに目線を合わせた。岩のような顔は威圧感を与えるが、瞳だけは優しくシズネを見つめていた。


「シズネさん。一つ言わせてくれないか? あんたは自分が思っているほど卑怯者なんかじゃない」


 ホルストはシズネの手を握ろうとするが、途中で思い立ったらしくすぐに引っ込めてしまう。


「現状を変えようと、勇気をもって一歩を踏み出すことは卑怯者に出来ることじゃない!」

「でも……」

「あんたが姉貴に弟子入りしたのは、今のエリーネと同じくらいの年だったよな? 俺に取っちゃまだまだ子供だよ。そんな子供が目を血走らせて、地面に頭をこすりつけて弟子入りを懇願してたんだ」


 シズネはホルストの言葉を聞くと、ベッドに置いた手を固く握りしめた。小さく何度も頭を振った。


「あの時はただ、逃げてきただけ。もう戻るところなんて無かったから。ここで生きていかないといけないって、必死だったから!」


 語気を強め、自分自身を否定する。


「シズネさん。俺ってさ、この風貌だろ? でっかくってごつごつしてて。そりゃあ、子供に近づいただけで泣かれちまうよ」


 ホルストの突然の言葉に、うつむいていたシズネが顔を上げる。


「エリーネが赤ん坊の頃も随分と泣かれたよ。いやぁ、あの時はずいぶんとショックをうけたなぁ。俺だってこんな怖い顔に生まれたくて生まれたわけじゃないのにさ」


 疑問の表情を浮かべるシズネに、ホルストははにかんだ笑顔を向ける。


「それでどうしようかと困ってな。それで思い出したんだよ。俺って結構器用だから、可愛らしいネックレスを作ってやって、エリーネにプレゼントしたんだ。そうしたら、ものすごい嬉しそうな顔してさ。ああ、これならこいつを笑顔にしてやれるって」

「私は小さくて貰った時のこと覚えてないけど……今でもちゃんとつけてるよ」


 そう言うと、エリーネは胸元で光るネックレスを指でなぞった。

 ホルストが目じりを下げ、暖かい視線をエリーネに送った。しかし、その表情に徐々に影が差してくる。


「でも、エリーネの母親が死んだときは……俺じゃあ、こいつに笑顔を取り戻してやることはできなかった」


 エリーネの頭にその時のことが思い起こされる。

 どんなやさしくされても、どんな言葉をかけられても、その思いは心には届かない。大切な人がいた過去ばかりを振り返り、未来には霞がかかっている。


「無力だったよ。何をしてやればいいのかわからなかった。でも、シズネさん。あんたはエリーネに笑顔を取り戻すことができたんだ」

「私はただ、エリーネと一緒にいただけ。特別なことは何もしていない」

「それでよかったんだよ。同じ悲しみを共有してやるだけでよかったんだ。俺はエリーネと一緒に悲しんでやることはできなかった」


シズネは天井を仰ぐと、何かを思い出すように目を瞑った。


「それじゃあ、私はミリアムに許してもらう資格はないよね。一緒に居ることができなかったんだから」


突然ホルストは身を乗り出し、シズネの手を取った。一瞬体を震わせたシズネだったが、ホルストの真摯な視線をしっかりと受け止めていた。


「まだわかんないのかよ! あんたはその震える足で、たった一人アトランティスに来てインティリアの職人になったんだ。人を笑顔にするインティリアを作るために! 会って、インティリアを直してやって……妹を笑顔にしてやってくれよ。このままじゃ、あんたもあんたの妹もしっかりと未来を見据えることなんてできやしない」


 ホルストの言葉が心に突き刺さったかのように、シズネが身をのけぞらせる。


「俺はあんたにはもっと笑顔でいてほしいんだ。暗い顔なんて見ていたくはない!」

「……ほ、ホルストさん。あの……」


 シズネは頬を赤く染めながら、ホルストから視線を逸らす。シズネの眼前まで迫っていたホルストは慌てながら手を離した。


「す、すまない。勝手なことばかり。俺はなんてことを……」


 慌てふためくホルストの肩に、シズネが頭をのせる。力が抜けたようになったシズネを見てホルストは顔を真っ赤にして体をこわばらせた。


「し、し、シズネさん! どうした? 大丈夫か!」

「ホルストさん。私、足が震えちゃってどうしようもないの。不安で仕方がない。だから一緒に来てくれると嬉しい」


 シズネが秘め事のようにつぶやいた。


「……ねー。私もいるんだけど?」


 エリーネがそう漏らすと、シズネは柔和な笑みを浮かべた。


「エリーネも一緒に来てほしい。本当に情けない姉だけど……おねがい」

「もー。しょうがないなー。一緒に行ってあげるよ」

「ふふ。生意気言って」


 そう言うと、エリーネはシズネの胸に体を預けた。やさしい香りがした。

 ホルストはただ固まって、頭をこくこくと小刻みに縦に振っているだけだった。

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