第11話 忘れてはいけない過去
「『核』かい? せっかく来てもらって悪いんだけど、在庫は無いねぇ」
カーミラはそう言いながら、空になったミリアムのティーカップにお茶を注いだ。
ミリアムはあわてた様子でお礼を言うと、再びカップに口を付ける。
甘くて、酸っぱくて、ほんのりと花の香りがして不思議なお茶だった。
「ううーん。困ったなぁ。そうだよね。交易船の入港前にインティリアの在庫作っておこうって、シズネさんと一緒に『核』を買いに来たばっかりだったし……」
エリーネは腕を組みながら、うんうんと唸っていた。
「そう言えば今日、シズネは一緒じゃないのかい?」
エリーネは腕を組みながら、ソッポを向いた。
「シズネさんなんか知らないもん」
ぽかん、と口を開けたままのカーミラは問うようにミリアムに視線を向ける。事情を知らないミリアムは、小首を傾げた。
カーミラはポットから自分のカップにお茶を注ぐと、引いたイスに腰を下ろした。頬杖を突き、穏やかな表情をエリーネに向ける。
その流れるような動作に、本当に目が見えないのかと疑ってしまうほどだ。
「今日は時間あるかい? 日が暮れれば、魔法の粒子も見えやすくなるし、そうしたら『核』も少しだけだけど精製してやるさ」
「時間……時間かぁ……」
エリーネはちらり、とミリアムに視線を向ける。
そう、時間がないのだ。
ミリアムは演説の後には女王としての予定が入ってしまい自由な時間が無くなる。翌日には国へ帰ってしまうのだ。暗くなってしまえば、帰り道も危険が伴う。『核』を手に入れた後は、速やかに工房へと帰りたかったのだ。
ミリアムもアトランティスへの好奇心と、限られた時間への焦りがあるようだ。
ローブのポケットに入れたままの黒いインティリアを握りながら、物憂げな表情を浮かべていた。
「なにか事情があるみたいだね」
そんな様子を察してか、カーミラは見えていないはずの目をミリアムに向けた。心中まで見透かされているようなその視線に、ミリアムの体は小さく震えた。
「あ、あの」
ミリアムがおずおずとポケットから黒いインティリアを取り出した。静かにテーブルの上に置く。
「十年前、私はこのアトランティスでエリーネのお母様からインティリアを頂きました」
エリーネの背筋に冷たいものが走る。禍々しいとさえ思うこの黒いインティリアは何度見ても慣れることはない。
「ふむ」
カーミラは顎を撫でながら、何かを思うように喉の奥を鳴らした。
「触ってみてもいいかい?」
カーミラの視線は黒いインティリアに固定されたままだ。
「はい」
ミリアムは小さく頷くと、黒いインティリアを差し出した。
カーミラは黒いインティリアを受け取ると、視覚以外の感覚を総動員するかのように、瞼を閉じた。天井を仰ぎ、手の中に収めた黒いインティリアを胸の辺りに持っていく。
エリーネもミリアムも、カーミラのその様子をじっと見守っている。
風の音だけが年季の入った家の中にまで聞こえてくる。
「なんだか、昔のアトランティスを思い出しちまうねぇ……。よどんだ空気に、陽の射し込んでこない暗い空。生き物がいない死んだような海」
誰に言うでもなくカーミラがつぶやいた。目を細め、天井を見上げるカーミラの表情はどこか哀愁を帯びていた。
「ねぇ。おばあちゃん。ミリアムちゃんのインティリア……真っ黒になっちゃってるの。こんなの……見たことないよ」
カーミラはふむ、と小さく漏らすと、ミリアムの方へと視線を向けた。
「インティリアは感情に晒され色を変える。エリーネ。もしこのインティリアが見たことのない色をしているのなら……」
カーミラはそこで一旦言葉を止める。ゆっくりと腕を伸ばすと、ミリアムの手を握った。カーミラの手は僅かに震えていた。
「この子は……エリーネ。あんたが思っている以上に、過酷な半生を送ってきているんだよ」
エリーネの瞳が見開かれる。女王なのだ。所詮、一般人のエリーネにはその圧倒的な重圧は理解できない。
「……私は」
出会ってからというもの、ミリアムは自分の弱さを外に出さない。その小さな胸にはどのような思いを抱いているのだろう。ミリアムとは心を通わせる友人になったと思っていた。しかし、本当の意味でのミリアムの心中はわからないのだ。
エリーネはミリアムのことをわかったようになっていた自分を情けなく思った。
「ミリアム。あんたは外の人間なのだろう? しかも、相当重要な位置にいる人間のはず。そうじゃなきゃ、ここまで恐ろしい感情を放つインティリアがあるわけない」
カーミラはミリアムの手を強く握る。
「迫害されてこのアトランティスに逃げてきた私の親や過去の魔法使いたち……陰鬱とした開放以前のアトランティスに立ち込める感情にそっくりだよ」
ミリアムは奥歯をきつく噛みしめた。まるで痛みがあるかのように、表情を歪めながら目を閉じた。何を思い出しているのだろう。何を感じているのだろう。
「カーミラさん。聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんだい?」
カーミラはミリアムの小さな手を決して離さずに、問いかけに耳を傾ける。
「……カーミラさんは、外の人間を憎んでいますか?」
「ミリアムちゃん……!」
予想外の問いかけに、エリーネはカーミラとミリアムの顔を交互に見る。
「ああ……憎んでいた、ね」
その言葉に、ミリアムの口の端が震える。そんなミリアムを落ち着かせるように、カーミラは笑みを返した。
「私はね。ミリアム。アトランティスで生まれ育ったけど、親たちは外の人間に迫害され、逃げてきた世代だ。物心ついたときには、アトランティスは結界で覆われて、今みたいな青い空なんて拝めなかったんだよ」
ミリアムが唾を飲みこんだ。
「わかるかい? ミリアム。生気の抜け落ちた人々が語る外の世界のことを。穢れ切ったアトランティスで、ろうそくの僅かな明かりのなか、語られる自分たちが捨てた世界のことを」
エリーネもアトランティスの過去の歴史は何度も聞かされていたが、実際経験した人物から聞かされるのでは臨場感が違う。体験談は感情を揺さぶる。
「物心ついたときから、白い雲、大きく青い空を知らなかった私に、親たちはよく言ってたね。『私たちを迫害した、外の大陸の人間を許すな』って」
「わ、私たちは、そんな……」
ミリアムの瞳にはうっすらと涙の膜が張る。もちろん、この時代の人間たちは、過去、アトランティスの人々に行ったような迫害などはしていない。
「ああ……すまないね。おびえさせるつもりなんか無かったんだ。いやね……そんなことを毎日聞かされていたら、そりゃ嫌っちまうもんだよ。一度も会ったことのない人間を、ね」
カーミラも深く後悔しているのだろう。ため息を吐きながら頭を振った。
「だからさ。アトランティスが結界から解放されて、青い空を見た時……未来のことを想像したよ。過去に捕らわれちゃいけない。この空があるなら大丈夫。未来を生きていこうって」
カーミラが真摯なまなざしを向けているエリーネを見た。未来を生きるアトランティスの希望がそこにはあった。
「ま、それがこの目で見た最後の光景だけどね。結界開放の時の衝撃で、この目がやられちまったんだ」
カーミラは握っていたミリアムの手を離すと、自分の瞼に触れた。
「そりゃあ、最初は落ち込んださ。美しい空に、輝くようなアトランティスの大海原。新しい時代をこの目で見ることができないなんてね……でも、それ以上に聞こえてくる子供たちの楽しそうな声。肌で感じる陽光の暖かさ。私たちが切り開いた未来がこのアトランティスに満ち溢れていたんだよ。未来への一歩を踏み出せた。それが私は誇らしい」
エリーネの胸に熱いものがこみ上げてくる。
物心ついたときから、エリーネの目にはいつも、美しいアトランティスの空とどこまでも青い景色が広がる海があったのだ。過去に確かに存在した陰鬱としたアトランティスは想像できない。
「だからミリアム。過去にあったこと……それは忘れちゃいけないよ。経験したことは大事なことだ。でもね。過去に縛られ、未来へ目を向けることができないのはいけない」
ミリアムは視線を黒いインティリアに向けた。小さくカーミラの言葉に頷いた。
カーミラはそのミリアムの様子を、じっと眺めていたが、ふと、エリーネに視線を向けた。
「エリーネ。あんたもだよ。この時代には、この時代の悩みや葛藤がある。ゆっくりでいいんだ。一歩ずつ進んでいきな」
「……うん」
エリーネがカーミラの視線を真正面から受け止める。カーミラは、ふっと小さく笑みを作ると、ミリアムから手を放し、自分の頭をがりがりと掻いた。
「ああー……やっぱりババァになったのかねぇ。どうにも説教くさくなっちまう。こんなのは私の性には合わないよ」
「うーん。おばあちゃんは私が小さい頃からおばあちゃんだから、よくわかんないよ」
カーミラは細い腕を伸ばし、エリーネの頭を乱暴に撫でた。華奢な体ではあるが、その腕には確かな力強さが感じられた。
「エリーネも言うようになったもんだ。つい最近まで、ここに連れてこられるとびーびー泣いてたのにさ。成長したもんだよ」
エリーネは慌てながら、カーミラの腕を逃れようとじたばたともがいている。
「い、いつの話してるの……! もう私は大人なんだから、泣いたりしないよ!」
「はっ! 酒も飲めないようなお子様がどの口でほざいてるんだい」
「ううー……」
「まあ、あんたも直ぐに酒が飲める年齢になるだろうよ。そうしたらシズネと一緒に朝まで飲み明かそう。それまでは生きていないとね」
「おばあちゃん……ずっと元気でいてよね」
カーミラは今日一番の笑顔をエリーネに向けると、力強く手を叩いた。
「さぁて! 辛気臭い話はもうやめやめ! アトランティス開放後の面白い話でもしようかね。そうすれば、直ぐに日も落ちて『核』も造れるさ」
カーミラは妙にうきうきとした様子だ。
エリーネは先ほどから言葉を発しないミリアムを見る。ミリアムは未だ、黒いインティリアから視線を動かさない。それに気がついたミリアムが、ゆっくりと楽しそうなカーミラを見た。
「カーミラさん……私お話を聞きたいです」
「ミリアムちゃん……時間は」
「いいのです。時間が無いのはわかっています。でも、このお話を聞くことが、黒いインティリアを直すヒントにもなるかもしれません。だから私は……」
ミリアムはもう一度、黒いインティリアを慈しむように撫でた。必ず直したいのだろう。そのきっかけがあるならば、と。
「すみません。エリーネ。あなたには迷惑を掛けてばっかりで」
「ううん! いいよ。へへ……実は私もおばあちゃんの話をたくさん聞いてみたかったんだよね。まだ聞いたことない話もあるから」
一転、エリーネは瞳を輝かすと、テーブルに身を乗り出した。未だ神妙な表情のミリアムをのぞき込む。その笑顔につられて、ミリアムも頬を染めながら、僅かにほほ笑んだ。
「さぁて……! 長くなるよ。本当は酒でも用意したいところだけど」
カーミラは机の上に、木のボウルに山盛りになったクッキーを置いた。オレンジの果実を絞った飲み物が入ったビンも数本持ってきて、エリーネとミリアムの目の前に置く。
うわぁ、と二人の少女は瞳をきらきらと輝かせる。
そんな様子を見て、カーミラは慈しむように目を細めるのだった。
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