第8話 ミリアムの胸中

 まだ昇りかけて間もない陽の光がエリーネに降り注ぐ。目を細めて空を見上げると、アトランティスの抜けるような青空が目にしみた。穏やかな風が吹き、薄い雲がゆっくりと漂っていた。

 エリーネの隣に佇んでいるミリアムはというと、深い藍色のローブを頭からすっぽりとかぶり、下を向いていた。


 ミリアムもアトランティスの陽の光を全身に浴びたいのだろう。ローブに隠された全身をうずうずと揺らしている。


「ミリアムちゃん。だめだよ。顔出しちゃ」

「わかっています」


 ミリアムはエリーネをちらり、と見ると口をへの字に曲げた。

『核』を購入しにアトランティス大陸の反対側――『追憶の地』までミリアムと同行することになったが、さすがに王女という立場上、そのままの格好で外を出歩くのはまずい。


 地味な藍色のローブとぴん、と立ったとんがり帽子。エリーネ自身、あまり着たことはない伝統的な魔法使いの正装ではあるが、アトランティスのご年輩の方々の中にはまだ着る人も多い。


 ミリアムの美しい金髪は、背中でまとめており、フードを深くかぶれば目立つことはないだろう。

 ほんのつい最近、ホルストがエリーネの十五の誕生日にとプレゼントしてくれたものだ。体型に合わせ作られていたので、ミリアムに合うかどうか不安ではあったが、横を歩いているふくれっ面の女王さまはエリーネよりも体が小さく、ローブは体全体をすっぽりと覆っていた。


 ――はずではあるが。


「やはり胸の部分は少しきついですね。もしかして採寸を間違えているのでは?」


 ミリアムは胸の部分をさすりながら、そんな不満を漏らした。


「へ、へえぇぇぇ……そうなんだ。ふーん……そうなんだ」


 エリーネは口端をひくつかせると、ミリアムを恨みがましく見つめた。


「どうしたのですか?」


「……どうもこうも無いよ……はぁ」


 自分の胸の辺りを撫でても、あまり飛び出たところは無い。エリーネの心はアトランティスの晴れやかな空とは裏腹にどんどん、暗く沈んでいった。

 そんな胸中を知らずに、ミリアムがフードの奥から興味深そうな視線を朝の喧噪に向けていた。


 通常、この時間、人はまばらではあるが、交易船が入港している時期だけは違う。港には先日降ろし損ねた積み荷を運ぶ人たちでごった返している。昨晩見た、ウィランド王国の人間と思わしき人物も今日は見られない。エリーネはほっと胸をなで下ろしミリアムを見る。


「ねぇねぇ。エリーネ。あの食べ物は何ですか? それと、あのアクセサリーなどとてもすてき。あれは、インティリアとは違うのですね。とてもおもしろいです。見てきてもいいですか?」


 ミリアムは小声ではあるが、うきうきとした様子でエリーネに話しかける。時折、ふらふらと食べ物の屋台へと足を向けようとするので、とっさに制止する。


「ちょ、ちょっと。あんまり目立つ行動しちゃだめだよ。何のために素性隠しているのかわかんなくなっちゃう」


 初めて出会ったときの女王の威厳はどこへいったのか。

 子供のようにはしゃぎ回るミリアムにあきれつつも、エリーネの口元にはわずかな笑みが浮かんでいたのだった。




 目の前には、どこまでも続くアトランティスの海が広がっていた。


 細かく砕いた宝石を敷き詰めたようなビーチは陽光に照らされ、砂粒一つ一つが眩いほどに輝いていた。


「エリーネぇぇぇ! こっちですよぉぉ!」


 そんな中、ミリアムがエリーネに大きく手を振りながら、波打ち際を駆けていた。

 ローブの裾をつかみ太股までめくりあげ、子犬のようにはしゃいでいる。


「ええっと……なんでこんなところにいるんだろう……」


『追憶の地』へと行く途中、アトランティスの海岸が見えてきたと思うと、ミリアムは好奇心に瞳を輝かせ、エリーネをずっと見つめていた。ミリアムにはアトランティスを満喫させてあげたい思いはあるが、港を出るまでにあっちこっちへと寄り道をしてしまったのだ。


 周りを見渡してみても、海岸には人影は見受けられない。ウィランド王国の船が港に停泊しているため、皆そっちに興味がいっているのだろう。


 すでに、太陽が空のてっぺんに近づいている。普段であれば『追憶の地』へと到着し、用事を済ませ、帰路に就いている頃だ。


 ミリアムの圧力に負け、海岸に寄り道してしまったが、そろそろ本気で『追憶の地』へと急がなければならない。ミリアムに付き合っていては、どれだけ時間があっても足りない。


つねに透明度の高いアトランティスの海からは、わずかに香る潮の香りと、心を落ち着ける波の音が聞こえてきた。アトランティスの空に浮かぶ太陽よりも輝く笑顔を放ちながら、ミリアムは走り回っていた。


「まあ……でも」


 エリーネは砂浜に腰を降ろすと、ポーチから紙で包まれたサンドイッチを取り出した。香ばしく焼いたチキンと新鮮なレタスを小麦のパンで挟んだサンドイッチだ。包まれた紙を丁寧にはがして、ぱくりと頬張る。


「ミリアムちゃんに付き合ってたら疲れちゃったし……これ食べてからでもいいかな」


 もぐもぐしながら目を細め、ぼぉっとミリアムを見つめる。


 陽光が海面に反射し、その部分が光り輝いている。波打ち、空中に舞ったしぶきはその一つ一つが水晶のように透き通っている。そんな自然が織りなす輝きにも負けずに、ミリアムの笑顔はエリーネの瞳に飛び込んでくる。


「エリーネ! なんだか変な形の魚がいますよ! これは何という魚ですか! ねぇ、エリーネ聞いていますか?」

「ミリアムちゃん……可愛いなぁ」


 なにか、妙なものを見つけたのだろうか? 膝まで海につかり、必死に何かを追いかけているミリアムを見つめながら、エリーネはサンドイッチの最後の一口を口の中に放った。


「きゃっ!」


 と、その時。小さな悲鳴を上げて、波に足を取られたミリアムが顔から海の中へと倒れ込んだ。小さな体は右へ左へと波に揺られ、必死にもがいている。


「ミリアムちゃん!」


 溺れているのではないかと、焦ったエリーネは走りにくい砂浜を駆け、ミリアムの元へと急ぐ。

 そんなエリーネの心配をよそに、ミリアムはすぐに立ち上がると目を丸くさせていた。うべぇっと舌を出すと眉間にしわを寄せる。


「辛いです!」


 ミリアムの素っ頓狂な声に、足の力が抜けてしまったエリーネは、そのまま柔らかい砂浜に突っ伏してしまう。


「当たり前だよ……海なんだから」


 エリーネは体中にくっついてしまった細かい砂粒を払うと、あきれ顔をミリアムに向けた。


「私は……海に入るのは初めてなのです。こんなにも美しい海に」


 ミリアムはそう小さくつぶやくと、水平線に視線を向けた。しっとりと水を含んだミリアムの金色の髪からは、しずくがポタポタと落ちていた。


「ウィランドからは海は見えないの?」

「いいえ。見えますよ。ただ、ここまで透き通った海ではありませんが」


 ミリアムは両手で海の水を掬うと顔の前に持っていく。普段からアトランティスの海を飽きるほど見ているエリーネにとっては、なにも変哲もない海の水ではあった。

 ミリアムはまるでそれが希少な宝石であるかのように、頬を染めて手の中に収まった宝物をじっと見つめていた。


「我がウィランドも美しい場所はたくさんあるのです。でも、ここまで穢れの無い無垢な光景はウィランドにはありません」

「……穢れ?」


 エリーネの脳裏には、一瞬、あの黒いインティアが浮かんでくる。穢れ。ミリアムの口から出たその言葉に、僅かではあるがエリーネの心に痛みが走る。


「あっ!」


 突然、ミリアムが声を張り上げる。エリーネに顔を向けると、慌てた表情で足元を指さす。


「そっ! それです! その魚です!」

「ええっ? な、なに?」


 エリーネは突然のことに、足をばたつかせながらミリアムが指し示した場所を見る。

 すると、何かが逃げている様子が、視界の隅に移る。『それ』はミリアムから距離を取ると、ぴたりと動きを止め、海の中を漂っていた。


「そこの! ヒレの大きな魚!」


 先ほどまでの神妙な雰囲気は微塵にも感じられない。

 再び、子供のような好奇心いっぱいの表情を作ると、ミリアムはばちゃばちゃと、魚を追い海の中をおぼつかない足取りで走り始めた。


 ヒレの大きな魚は、ミリアムが近づいてくると、目にも止まらぬ動きで沖の方へと逃げていった。


「ああ……行ってしまいました」


 ミリアムはわかりやすく肩を落とし、ヒレの大きな魚が逃げていった方に寂しげな視線を向けていた。


「うん。きれいだよね。臆病だからすぐ逃げちゃうけど……。それにね、あの魚――」


 ミリアムはなにを思ったのか、海岸の方へと駆けていくと、その辺に落ちていた小振りな枝を拾った。膝を抱えてしゃがみ込むと、手に持った枝で水を含んだ砂浜に何かを描いている。


「私もあの魚に似た鳥を知っています。我がウィランドの紋章のモチーフになっている鳥です」


 さらさらと、楽しそうに描いているミリアムの絵を覗き込む。


「描けました!」


 えっへんと誇らしげに胸を張るミリアムであったが――。


「えぇ……」


 ミリアムの描いた絵は、楕円の胴体……? に羽のようなひらひらとしたものがくっついているだけの鳥? のような、よくわからないものだった。


「これは鳥……なのかな? いや、鳥というか……生き物にも見えないんだけど……」


「鳥ですよ。ほら。これが翼で体で……。ああ、そうでした。エリーネは見たことがないんですよね。それではわからないのかもしれません」


 紋章の鳥ならば、ウィランドの船が入港したときに見たことがある。似ても似つかない絵を、胸を張って自慢するミリアムにエリーネはただ苦笑いを返すことしかできなかった。

 どうにか鳥に見えないものかと、砂浜を見つめながらうんうんうなっていると、ふと水平線をじっと見つめているミリアムに気がついた。


「こんな世界があるなど、私は知りませんでした」


 まるで自分に言い聞かせるような小さな声は、波の音にかき消される。


「ウィランドはアトランティスよりも強大な土地を所有する、強大な国家です。でも、今見ているような雄大な景色はウィランドにはありません」


 波が砂浜を覆い尽くし、先ほどミリアムが描いた絵までも飲み込んでいく。波が退いた後には、一片の汚れもない真っ白なキャンバスのような砂浜が現れた。


「もちろん、ウィランドは私の故郷であり、愛すべき国です」


 ミリアムはそっと胸の前で祈るように手を絡める。


「それでも、私はもっと外の世界に目を向けないといけなかったのです」


 水面に反射した光は帯となり、ミリアムにまで伸びてきている。

 遠くを見つめるミリアムの様子は、先ほどまでとは違い、近寄りがたいほどに神秘的な様子を醸し出していた。


 なんと声をかけていいのかわからないエリーネは、様々な表情を見せるミリアムをただ、見つめていた。


 海の香りを含んだ風が、水面を撫でたとき――すぐそばで水の跳ねる音が聞こえた。


「あ……! うっ……わあぁ!」


 ミリアムの声が、次第に興奮したものに変わっていく。


 はじめは一つだった水音も、徐々に数が増えてくる。複数の音が混ざり合い、静かだった海岸は音に包まれていった。


「あっ……もしかしてこれって」


 エリーネが水面をじっと見ていると、きらりと水中でなにかが光った。いくつもの光が不規則に動き出すと、水面に向かい浮き上がってくる。その中から一つの水泡が水面ではじけた瞬間――一斉にそれらはエリーネとミリアムの眼前に飛び出してきた。


 先ほど、ミリアムが追いかけていたヒレの大きな魚だ。それらが数えきれないほど姿を現せ、水面を跳ねるように遠ざかっていく。


「……っ! ふぁ……!」


 ミリアムはあまりの光景に声も出せずに、その場で視線をあちこちに向けている。


「さっきの子……はぐれちゃってたんだね。群れで泳ぐ魚だから、仲間と会えたのかも……」


 次々に水面を跳ねていく魚に、ミリアムの瞳は輝きを絶やさない。


「え、エリーネ! 追いかけましょう! どこまでも!」


 そう言うと、ミリアムはばちゃばちゃと沖の方へと歩んでいく。


「ちょ、ちょっとミリアムちゃん。深いところあるから危ないよ!」


 エリーネは腰まで海に浸かっているミリアムに声をかける。


「ミリアムちゃんに貸してる私のローブ。びちゃびちゃだなぁ」


そんなことをつぶやきながら、エリーネもミリアムを追いかけていった。

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