第6話 歩み寄る心
波の音を聞きながら重い足取りで歩いていると、次第に怒りは消え失せ、代わりに悲しい気持ちがエリーネの心を覆っていった。
シズネとは些細なことで幾度となくケンカをしてきたが、ここまで胸を押しつぶされるような気持ちになったのは初めてだ。
インティリア職人としての誇り。エリーネの母の思い。
思い出す度に心が重くなっていく。
さらには、エリーネよりも長く母から教えを受けていたシズネに対し、嫉妬や妬みという感情まで湧き出てくる。
「もう、やだ……シズネさんのばか」
自分への苛立ちも感じながら、無意識に工房へと歩みを進めていく。
灯りもついておらず、真っ暗なままの工房兼、エリーネとシズネの家を見上げる。
「あれ? 女王さまがいるはずなのに。暗いままだ」
静かにドアを開け家の中へと入る。
「女王さま……帰っちゃったのかなぁ」
真っ暗なリビングを見ていると、心が悲しみに満ちてくる。誰もいない家。これでシズネも帰ってこなかったら、エリーネは本当に一人ぼっちになってしまう。
「ぐすっ」
鼻をすすりながら明かりをつけようとすると、
「泣いているのですか?」
突然、暗闇から声が聞こえ、エリーネは悲鳴をあげてしまいそうだった。次第に目が慣れてくると、エリーネを心配そうに見つめるミリアムの姿があった。
ブランケットを頭までかぶり、体を丸める様子はまるで一人きりで不安がる幼子のようだった。
「女王さま……? 明かり点ければいいのに」
ミリアムが恨みがましくエリーネを見る。
「どうやって明かりを点ければよかったのですか? ろうそくも暖炉も無いのに」
「あ」とエリーネが小さく漏らす。うっかりしていた。
エリーネは手のひらを上に向けると、二本指を立てる。指先に淡い光が宿る。指先から放たれる魔法の粒子を、玄関にある丸い水晶に近づけた。水晶の中心に星のような点が生まれると、次第に大きくなり部屋に明かりが満ちる。
「すいません。うっかりしていました。アトランティスの照明は外の大陸とは違うんです」
「これが、魔法……」
申し訳なさそうなエリーネをよそに、ミリアムはブランケットをかぶったまま、ひょこひょこと歩き出すと、水晶に顔を近づけ目を輝かせていた。
「女王さまは魔法を見るのは初めてですか?」
ミリアムはしゃがみ込むと、ブランケットの中で膝を抱え、水晶に目を奪われている。
「幼少の頃に一度アトランティスには訪問したことがありますが、目の前で魔法を見たのは初めてです」
「港の周りだけでは外の大陸の品があふれていて、あまり魔法を見る機会もないかもしれないですね。港の反対側では今でも、昔ながらのアトランティスが見られますよ」
ミリアムが瞳を輝かせ、素早く顔だけをエリーネに向ける。
「そうなのですね! あぁ……見てみたいです」
新しいおもちゃを与えられた子供のような表情のミリアムを見ていると、エリーネの手の中に納まっていた黒いインティリアがやけに冷たく感じる。
水晶を見つめているミリアムが何かを思い出したようにエリーネに振り向く。かぶっていたブランケットを脱ぐと、綺麗に畳んでエリーネに差し出した。
「勝手に使って申し訳ありませんでした。外はだんだん暗くなってきますし、あなたは一向に帰ってきませんし……少し怖かったのです」
「すいません! こんなに遅くなるとは思っていなかったので」
ブランケットを受け取ると、ほんのりとミリアムのぬくもりが感じられた。
「このブランケットお酒臭くありませんでしたか?」
「ああ、言われてみれば……でも」
ミリアムは言葉を切ると、両手で自分の体を抱き、目を細める。
「少し、懐かしい香りがしました」
そう言うと、ミリアムの表情に笑みが浮かぶ。
懐かしい香り。
やはり、シズネとミリアムは何らかの関係があるのかもしれない。
「女王さま。シズネ、という人をご存知ですか?」
ミリアムはシズネの名を聞くと、小さな顎に指をあて記憶を探っているようだった。一国の女王と言っても、小首をかしげる様は大人になり切れていない少女の表情だった。
「いえ。存じ上げません。お知り合いの方ですか?」
「ええ。探しに行ったこの工房の職人がシズネという名です。あちらは女王さまのことをよく知っている素振りでしたが……」
「そうなのですね。まあ、こちらの工房の方でしたら会った時に伺ってみましょう。そういえば、その方を探しに行かれたのですよね。見つかりましたか?」
「ええ……見つかりましたが、今日はこちらには来ません。ひょっとすると、女王さまが帰るまでには会えないかも……」
「そうですか。それは残念です」
ミリアムはそれ以上何も聞かなかった。エリーネの涙を見て何かを察したのかもしれない。
水晶から放たれる淡い暖色が、部屋の隅々にまで染み渡る。会話が途切れ沈黙が満ちていった。
――くうぅ、と切ない音が鳴り響いたのはその時だった。
エリーネが周りを見渡すと、顔を真っ赤にしたミリアムがお腹を押さえうつむいていた。
「あ、お腹すきました? そ、そうですよね。もうこんな時間」
「お、お構いなく……」
顔から煙が出そうなほど顔を赤らめたミリアムを見て、鬱々とした気持ちが消え去っていくようだった。一国を束ねる女王とはいえ一人の女の子なんだ。そう思うと妙に親近感がわいてくる。
「私も朝から何も食べていないんです。女王さまさえよければ、ご一緒に夕食どうですか? 今日、港で買った食材がたくさんあるんですよ」
ミリアムは体の前でもじもじと指を絡ませている。もう一度ミリアムのお腹から、くうぅと鳴ると、
「い、いただきます!」
と、お腹の音を隠すように大声を出した。
少しだけ、びっくりしながらエリーネは穏やかに笑った。
「あ、おいしい」
上品に口元を隠しながら、ミリアムはエリーネ特製のスープに舌鼓を打っていた。
ミリアムは背筋をしっかりと伸ばし、音を全く立てずにスープを口に運んでいた。女王ということで、もちろんちゃんとした食事作法は身に着けているのだろう。あまりにお腹が減っていたエリーネはスープにがっついていた手を止めた。なんだか恥ずかしくなってしまう。
アトランティスで収穫されたジャガイモにタマネギなどの野菜。羊の肉を少々。コショウは外の大陸のものだったが、特に変哲もない大衆的なスープだ。
ミリアムは小麦のパンを小さくちぎると、おしとやかに口に運んだ。味をしっかりと確かめるように咀嚼し飲み込んだ。
「こちらのパンは、我がウィランド王国の小麦を使用していますね。今年はとても出来が良いようです」
ミリアムは自国の農作物の出来に安心しているようだった。
「ウィランドの小麦はとても品質が良いと評判なんです。ほら。あんなに買い込んじゃった。今度私もパンを作ってみようと思って」
炊事場の近くには小麦粉が麻の袋で二つ転がっていた。
「ふふ。あんなにたくさん」
「ちょっと買いすぎちゃったかもしれませんね」
エリーネとミリアムがお互いの顔を見合わせ、屈託無く笑った。
穏やかな時間が流れる。
ミリアムは食卓に着いてからも、黒いインティリアの事は話題に出さなかった。
エリーネの涙。帰ってこないシズネ。インティリアの修理がうまくいっていないことはミリアムもなんとなく気がついているはず。
このまま、黒いインティリアの事は忘れてくれないだろうか。なんなら自分が新しいインティリアを作ってミリアムに渡してもいい。諦めにも似た、妥協の言葉が思わず声に出そうになる。
母も知らないであろう、インティリアの変貌。自分には直せない。
心音が強くなり、早鐘を打つ。スプーンを握っている手には汗がにじむ。
「心にしみ入る優しい味」
スープの味がわからなくなるほど動揺している中、ミリアムが吐息のように小さく言った。
「エリーネさんは、料理がお上手なのですね」
諦めの言葉を飲みこんだ後、エリーネは少し恥ずかしそうに笑った。
「このスープのレシピは母に教わったものなんです。野菜を炒めてから煮込んで……そうすれば、ジャガイモも玉ねぎもスープに溶け出してやさしい味に……」
ふと、視線を落とすとエリーネのスープに何かが落ちた。二度、三度。スープの表面には小さな波紋が生まれ、すぐに消えた。
「エリーネさん……どうされましたか?」
ミリアムの声は穏やかではあったが、表情は驚きを隠せてはいない。
エリーネは自分の頬に涙が流れていることがわかった。自分が泣いていることを認識すると、とめどなく涙があふれてくる。
「……ひぐっ……ぁう……」
母のことを思い出し、悲しくなっただけではなかった。黒いインティリアの修理を諦めてしまった。できればこのまま忘れてほしい。ミリアムには新しいインティリアを渡せばいい。
シズネにはわかったような口を利いてしまった。母の思いは自分には伝わっていなかった。それを思うと、エリーネは自分自身をどうしようもなく情けなく感じてしまう。
悲しみ、困惑、自分への苛立ち、様々な思いが幾重にも重なり、エリーネの体から押し流される。感情は涙となり溢れてくる。
ミリアムは腕を伸ばすとエリーネの頬を両手で覆った。そのままエリーネの涙を親指で拭うと、額を合わせた。
「これまでよく頑張ってこられました。まだ会って間もないですが、よくわかります」
エリーネは嗚咽を漏らしながら、ミリアムの瞳をじっと見つめる。
「十年も前になりますでしょうか。インティリアを頂いたときに、あなたのお母様にお会いしました。とても朗らかで、すべてを包み込む雰囲気を持った素晴らしい女性でした」
エリーネは小さく、嗚咽を漏らしながら何度もうなずく。
「あなたはその女性の娘なのです。もっと自信をお持ちになってください。そして、その心に母の気高き思いを」
ミリアムの言葉がエリーネの心に染みわたる。
エリーネは負の感情を洗い流すように、ただ涙を流し続けているだけだった。
「落ち着かれましたか?」
ミリアムがエリーネの肩をやさしく撫で続けていた。
「恥ずかしいところをお見せしました……でも、なんだかすっきりしました」
「それは結構なことです」
ミリアムが小さく笑う。
今になってなんだか恥ずかしくなってしまい、無意識に自分の額に触れる。
「突然、失礼いたしました。心を落ち着けるおまじないです。亡くなった母も私によくしてくださいました」
「女王さまもお母さんを……」
ミリアムはエリーネの肩をやさしく撫でながら、柔和な笑顔を作る。その様子は、とてもエリーネと同い年とは思えなかった。気高い女王の表情。ふとした時に見せる少女の表情。エリーネはミリアムという人物をもっとよく知りたいと思った。
「数年前に父も亡くなり、一国の王になりましたが、ふとした時に不安になり心を掻き乱されるのです。その時は、母のおまじないを思い出しています」
エリーネの胸が、ちくりと痛む。
同じく両親を失ったミリアムは母の思い出を胸に、前を見据えている。自分は母の思いを無視し、自分が傷つかない方法を探していた。
「私はまだ未熟者ですが、ウィランド王国の女王です。どんな時でも皆を導いていかなくてはなりません」
本当に情けない。
エリーネはお腹に力を入れた。深呼吸をすると、息が震える。
このままではいけない。
「女王さま!」
思いがけず大きな声が出てしまい、ミリアムはぴくり、と肩を震わせた。
「お預かりしたインティリアですが……まだ直す方法は見つかっていません」
ミリアムは「あ」と小さく漏らすと肩を落とす。
「でも、必ず直して見せますから!」
あまりの勢いにミリアムが体を後ろに引く。
「そのためには、まず!」
「ま、まず?」
ミリアムの表情が強張っていく。
「いろいろとお話ししましょう!」
「……はい?」
口端をひくつかせ、ミリアムの声が裏返る。
「インティリアは感情をため込む性質があるんです。女王さまがこれまでに何を思ってきたのか、何を考えてきたのかを聞けば修理のきっかけがつかめると思ったんです。あ、もちろん私の話もします! たくさんお話ししましょう!」
エリーネが一息にしゃべると、ミリアムは引いていた体を正し、まっすぐに見つめてくる。
「私とあなたが友人のように、ですか?」
エリーネはその言葉を聞くと我に返った。目の前にいるのは一国の女王なのだ。
「あう……調子に乗ってしまいました。申し訳ありません」
エリーネはぺらぺらと言わなくてもいいことを言ってしまう口を恨んだ。
「いえ。遠く離れたアトランティスの友人……とても素晴らしいではありませんか」
会ってから一番の笑顔をエリーネに向ける。
「よかった! 女王さまと友達になれるなんて嬉しい!」
「女王さま、というのはやめてください。友人同士ではふさわしくありません。ミリアムとお呼びください。私もこれからは『エリーネ』と呼ぶことにしますので」
「わあぁ。嬉しい。でも、いきなり呼び捨ては戸惑っちゃうなぁ。『ミリアムちゃん』でいいかな?」
ミリアムの頬がふるふると震える。
「み、ミリアムちゃん……ちゃんですか……うふふふ。ミリアムちゃん」
にやにやと表情を崩すミリアムを見ていると、エリーネもなんだか嬉しくなってしまう。
「だからさ! ミリアムちゃんも私に対して敬語を使うのやめようよ。普通でいいよ」
「普通? 普通とは?」
「え? だから……えっと、普通……に」
「私は幼い頃から、ずっとこの話し方です。普通の話し方でなければ、友人にはなれませんか?」
少しだけ頬を膨らませたミリアムに、エリーネはぶんぶんと首を振る。
「いやいやいや。大丈夫大丈夫。そんなことないよ」
お互い顔を見合わせ、気楽に笑う。
淡い月あかりが窓から差し込み、部屋をやさしく照らす。
食卓で笑い合う二人は、まるで昔からの友人のようだった。
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