第109話 ご挨拶


 失われた密度、引き延ばされた1秒。


 古典魔術≪怪腕かいわん≫によって強化された筋力で、上方から思いきり腕をふりおろす。


 時間の密度は、通常の半分。


 これなら十分に、運動の威力を伝えられる。


「ウラァっ!」


 全身の体重を乗せて、黒い体積を上から叩きつぶし、飛散させるーーゆっくりと。


 飛び散る黒たちが、時の流れに逆らって、希薄された時間のなかで、ありえないほど早く動きだす


 それらは、空中を泳ぐように自由に動いて、円を描きながら小部屋をまわりはじめてしまう。


 魔法の効果を受けていない。

 この短時間で適応された?


 とにかく、まずった、これは。


 体外魔力の使用は、俺でも他者の魔感覚に引っかかる恐れがあったので、大事をとって物理したが、完全に失敗した。


 もうこうなっては、ここで仕留めることは出来ない。


 俺は飛び散る体積が、流動的だったことに眉をひそめながら、小部屋の時間密度をもとに戻した。


「≪みず≫」


 水属性の最初級魔法で、黒い炎の消火を試みる……しかし、それは自然法則にしたがった炎ではないらしく、炎の勢いが衰えることはない。


 本だけでも回収したかったが、これでは仕方ない。

 

 俺は杖を懐にしまい、急ぎ小部屋から離脱した。



 ⌛︎⌛︎⌛︎



 事態は一刻を争う。


 禁書庫の扉を筋力強化した蹴りで破り、飛びだした。


「先生、この扉はなんですかー?」


「あぁ、触ってはいけませんよ。その扉の先は非常な危険な魔導書や、ヨルプウィスト人間国が、禁忌指定した不適切な蔵書が保管されている禁書庫なので、決して立ち入らないように」


「ぁ、サラモンド・ゴルゴンドーラだ!」


 誰かが俺に気づき声をあげる。


 それが誰だったかなんて、もはやわからないほど、すぐそこには若い生徒たちが溢れていた。


 キラキラした瞳で、綺麗な図書館を散策する第一期生たちを先導し、たった今、

 俺の出てきた扉を指し示して説明をしていた司書のひとりが、ポカンと口を開けている。


「ぇ、どうして、その中から……」


 まずい、何か、何か言い訳を、いや、それよりも中の奴の脅威を知らせないと、ああ、いやでも、それより俺がなかにいる方がまずいーー。


「ふ、不穏な気配をたどり、念のために確認したら魔導書の召喚陣が暴走していてなだから別に俺はこの部屋から禁書を持ち出そうとかそういうじゃなくてーー」


 魔感覚が警告を知らせてくる。


 爆発的に膨らむ火属性魔力。


「走れぇぇぇえ!」


 俺はそう言って杖をぬく。


 そして、背後へと振りかえると同時に、水属性三式魔術≪みずうみ≫でもって、背後の火属性魔力への魔法抵抗レジストを行なった。


 ーージュワァァァアッッ


「うわぁあああ!」


「熱い……ッ!」


「っ、皆さん、今すぐに逃げなさい!」


 小部屋のなかから壁を破壊し、砕き、押しのけて膨らむ空気の膨張と、火炎の狂騒。


「ぐぅうう!」


 たいして俺は、圧倒的な水の質量と魔力のコントロールでもって蔵書と棚々を台無しに濡らしながら、

 熱された水蒸気を、弾け飛ぶ木片を、ましてや無垢な命を蹂躙しようとする業火の熱たちを、すべて圧迫して押さえつける。


「ゴルゴンドーラ様、加勢します!」


 加勢しようとしてくる司書。


「馬鹿、やめろ!」


 杖をぬく彼へ、炎の波が意思を持って、水の壁を一点突破していく。


 すかさず、俺は雑な風属性魔力のかたまりを、司書へと叩きつけて、おおきくその体を吹き飛ばした。


 炎の槍は空をつらぬく。


 と、同時に、炎はその槍先を枝分かれさせ、瞬くに拡散する触手のように変形すると、軌道をぐるり、俺目掛けてホーミングして飛んできた。


 水の塊から質量壁を移動させ、大水でもって炎の曲芸弾をレジスト、やや勢いを遅れさせることに成功し、その間にすぐにその場を飛びのいた。


 湖と火炎、拮抗していた魔力たちは、そのバランスを失い、あたりには炎で温められたエキゾチックな温泉だけが残る。


 もはや温かい水蒸気と、腰までつかる水位のせいでここが図書館なのを忘れそうになっていると、深い霧の向こうからひとつの影が歩み寄ってきた。


「こんにちは、貴方にお会いするのを楽しみにおしておりましたよ。いやはや、これほどとは。ずいぶんと人間を殺してきたのでますね、サラモンド・ゴルゴンドーラ」


 揺れる水面に気品高くたたずむ、その紳士。

 物理法則を無視した、その芸当を披露する彼が人間でないことは、その禍々しい魔力のおかげで自明の事実だ。


 だからこそ、何の疑いもなく、切り返せる。


「俺も会いたかった……死の悪魔」


 赤いシャツに黒のジャケットを着込んだ、背の高いその紳士は、口端をもちあげて、三日月のように細くながい笑顔をたたえていた。

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