第58話 小脇の皇帝

 

 ーーピチャピチャっ


 踏めばひぴく水の音。

 ぐっしょり濡れた黒の布を放り捨てて、いちめんにうっすらと水たまりが出来た廊下をいく。


 その突き当たり、豪奢な貴服に身をつつんだ少年を発見。


 軽いその体をひょいっと持ちあげてかつぎ、再びきた水浸しの廊下を歩いていく。


 遠くからたくさんの足音が聞こえる。


 深い洞窟のように反響する音と、相容れない視界の景色を愉しみながら、俺はそっと杖をぬいておくことにした。



 ⌛︎⌛︎⌛︎



 ツンと痛む鼻の感覚が、暗闇から体を引きあげる。


「ぅ、うぅ、げほっ、げほっ!」


 苦しい、苦しいぞ。


 この大陸で最も強い国の、最も偉い皇帝であるオレがどうしてこんな不快な思いをしなければならないのだ。


 喉をつっかえる流体の違和感にせきこむ。


「よかった、生きてるな。お前に死なれたら困るんだ」


 声が聞こえる。


 男の声だ、そして大人の声だ。


 顔にはりついたわずらわしい濡れ髪をはらい、瞳をあける。


 そこには青紫の、まるで魔力の源のような色の髪をした、二十歳半ばのびしょ濡れの男がいた。


 木箱に腰かけ見おろしてくる態度、礼節のなっていない友達に話しかけるかような口調。

 くわえて、どうやらオレが芝のうえに寝かされているらしいという事実。


 怒りを覚えていないと言ったら嘘になる。


 だが、それ以前になにかがおかしいと察する勘は、考えるまでもなく受け入れられるべき直感だろう。


 びしょ濡れ青白い瞳に見下ろされながら、あたりをキョロキョロと見渡してみる。


 すぐちかくにそこそこの大きさの屋敷がある。


 それなりに有力な貴族の家、そんな評価をあたえられる屋敷だ。


 続いて目にはいるのは遠くに見える長大な柵と、呑気な陽光に水を打ちあげる噴水。


 芝、柵、噴水……どうやらオレはどこかの貴族の家の庭に寝かされていたらしい。


 うぅ、直前の記憶が思いだせない。


 なぜだ、なぜオレはこんなところにいる。


 思い出せ、頭を働かせろ、それだけがオレの持てる最高の武器なのだから。


「おい、平気か? 激流にのまれて錯乱しているのか?」


 青紫髪の男が心配そうに近づいてきた。


「平気である。それより、おまえ、我が何故こんなところにいるのか教えろ。

 我は騎士団から戦争の経過を聞かなければならない。こんなところで霊薬を売ってる暇などないのだ」


「なんだ、達者に喋れるな。だったら話ははやい」


「っ!」


 青紫髪の男は肩をすくめたと思ったら、いきなりオレの腰に手をまわして、オレのご尊体を軽々と持ちあげてしまった。


 まるで荷物のようにこのゲオニエス帝国の皇帝を持ちあげるなど、万死に値する狼藉だ。


 この男、オレのことを知らないようだな。


「おまえ、今すぐにおろせ。我はゲオニエス帝国の皇帝であるぞ」

「知ってます、だから持ってきたんですよ」

「……え?」


 意味がわからない。


「あ、サリィ! サリィだ! サリィが帰ってきたわー!」

「おかえりなさいませ、サラモンド先生」


 同い年くらいの女と、使用人の女が屋敷が出でくる。


 いや、まて。


 それより、今なんと言った。


 サリィ……サラモンドだと、この男がサラモンドだというのか!?


「あ、サリィがなんかもってる! うぇー、動いた! なんか濡れたねずみみたい! それなに持ってるのー?」


「はは、これはゲオニエス帝国の皇帝ですよ、レティスお嬢様」


 勝手に進められる会話。


 追いつかない状況。


 なぜか敵国へ亡命した元宮廷魔術師にかかえられる事実。


 どうやらオレはかなりまずい状況にいるらしい。


 それだけ、ただそれだけは何となく理解した。

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