第三十二話 犠牲
頬に違和感を覚える。喉の渇きでどこかもどかしい。
だが、それが苦しいだとか、気持ち悪いだとか、そんなことを感じはせず、ただ納得のいくような感覚。
泣いた。
いつぶりからだろうか、こんなに泣いたのは。心の中で泣くことはあっても、涙として外に表すと言うことはほとんどなかった。
喉の渇きが激しい。
前へ進もうとしてなにか段差につまずく。危うくこけそうになり、ぼやける目をはっきりとさせる。
階段だった。
いつのまにか、通路は歩き終わっていた。泣きながら歩いたのだろうか。我ながら恥ずかしいことだ。
鉄の扉を開けると、見覚えのある森が広がる。つい最近見た光景。
綾杉さんから渡された帽子をかぶる。
本当に、こんなものが自身の危機を回避してくれるのか、不安でしかない。
もう一度、かぶり直し、笹橋の家に向かう。
彼女の家には何度かお邪魔させてもらったことがあるため、どこにあるのかはわかりきっている。
森を抜ける。
だが、そこには見慣れた街並みなどはあるはずもなく、新鮮味のある荒れ果てた街並みだった。だれにも、会わない。それが余計に荒廃感を出してくる。奥の方の景色では煙が上がっている。
森の近くの住宅地はまだ全て、壊れてはいなかった。ほとんどの家が壊れていたら、たどり着けなかったな、と軽く心に秘めながら、黒い屋根で三階建ての家の前に着く。
しかし、ここで自分は彼女の家の鍵をもらっていないのでは、と思うも、ポケットから取り出した三つの鍵の一つによって開いたため、すこし安堵する。
鍵を開けると、誰もいないのだろう、明かりはついていなかった。
靴を脱ぎ、どこか明かりをつけることに躊躇いを覚え、奥へ進んでいく。
自分の家のような造りであった。唯一違うといえるのは置かれてあるものの多さの違いだろう。
一階には、彼女の部屋らしきものはない。そう判断し、階段で二階に上がる。
二階に上がったすぐ右の部屋のドアに『こはるの部屋』と丸い字で書かれた看板を見つける。案外簡単に見つかってすこし安堵する。
扉に鍵がかかっていることなどなく、ゆっくりと扉を開いていく。
部屋は暗かった。
部屋の中を見回す。彼女の言葉通りに置かれてあるパソコンと、その隣に南京錠のついた箱を見つける。
三つのうちの一つで開ける。
そこには、メモ用紙が入っていた。
書かれてあるのは、パソコンのユーザーIDとパスワード。そして、『ファイル748』という文字。
即座に、起動させる。
普通の液晶画面が立ち上がり、コードをうっていく。
新たに立ち上がった画面にそのファイルを、見つける。748、なるほど
ファイルの中には、大量のデータがあった。
一つずつ、見ていく。彼女が残してくれた希望の数々を。
為縛街。色々な人たちから聞いたことと同じことが書かれていた。八つの大きな研究区画から成り立つ、新たな戦力となる軍隊の開発。
『
そして、それは終戦とともに実験停止という結果となりつつも、それは外の世界から隠蔽され、一部の政治家等で秘密裏に計画は進行していた。もちろん、為縛も含めて。為縛は人の行動パターン分析などを行うだけでほぼそこに住んでいる人々に影響は与えない。
だから、そこは、戦時中の日本では『
だから、当時そこだけは最も安全で快適で。恐怖に囚われない日々が送れるこの街に誰もが住みたいと考えていた。
その立候補者の当選は1925年に一部の地域で一度だけ行われておりそれ以降は行われていなかったようだ。
ちなみに、得られたデータは自動的に為縛街の隅にある建物に送られてそこで記録されているらしい。
そして、外の世界でどこからかこの計画の情報が漏れたらしく、世間はこれに、注目。そして、一年とすこし前。メディアが世間に大々的に公表。
これを恐れた政治家たちが自分の関わったこの計画を隠そうと、動き出し、結果的に、為縛を最後にすべてが破壊された。
ただ、隔離されてあるだけで一見普通に見える為縛が最後に回され、そして、ある組織の協力のもと、区画は世界から消えていった。
次の項目に目を移す。今回の街の破壊に協力した組織。『シルヴァクヲック』。目的も不明、構成員もほとんど不明。戦力も不明。存在していることだけが確かな不思議な組織。資料にはわかっている構成員も書かれていた。綾杉さんや、上蹴坂さん、葭原凛。そして、協力者として片滌秀樹。
次に目がついたのは、葭原凛のプロフィール。本名だったらしく、案外簡単に見つかった、と笹橋からコメントされてあった。胸が痛い。
両親は、父、葭原耕太郎と母、葭原幸枝。五歳の頃から行方不明となっており、それ以降見つかっていない、と記されていた。その頃にはもうシルヴァクヲックに所属していたのだろう。詳しいことは、不明。他にも、色々書かれてあり、流し読みする。
他にも、為縛のデータからできた新薬、他の区画で行われていたこと。
多いかった。だが、ある程度は記憶できた。必要な情報はある程度揃った。
「ん」
途中でアプリをインストールするQRコードを見つける。自身のスマホをかざす。
数秒後に、新たなアプリが登場する。訝しげに見ながら、押す。
それは、正常に動き、新たな画面がスマホに出てくる。そこに、葭原凛と書かれた欄を見つける。
押してみると、この街の地図のある一つのポイントがずっと点滅している。画面の一番上には『葭原凛・現在地』と書かれていた。
「葭原から、片付けていけって、ことか」
そうなのだろうと思い、一度背伸びをする。
再び、パソコンに向き直し、スクロールしていくと最後に、彼女の目的とその手段が書かれていた。
「なるほど、こんなこと思いつかないよ。それに、うん。こんな方法を行わすなんて、あの人はどれだけ僕に意地悪がしたいんだ」
ため息を吐く。そして、他に何かないか、部屋を見回す。
すると、壁に大きく貼られている為縛の地図を見つける。赤色の文字で笹橋家と書かれてある一方、青色の文字で『研究所・集合場所 12:00』と書かれていた。よく見れば、その隣に大きく『REM』という文字を見つける。なるほど、これは最重要要項か、と心の中で思いながら、ふと疑問を覚える。
笹橋の伝えたいことはわかった。だが、鍵はまだ一つ余っている。
どこで、使うのだろうか、と考えていると下のフローリングに大きくガムテープで『REM』とまた書かれてあり、矢印もあった。
矢印はベッドの下を指しており、下を覗くと小さなケースを見つける。
そこに、最後の使っていない鍵でケースを開錠する。
中には、何かの入った注射器と説明書があった。
「ドライブ型脳活性薬、か」
意味がわからない。説明書を開いて、内容を理解しようとする。
読み終え、深くため息を吐く。
要約すると、この薬によって脳を活性化させ、処理速度を急激に上げることにより、思考速度を速めることができるようだ。これで、窮地を逃れろということだろうが、これを使った十分後に脳細胞がそれに耐えきれなくなり、死滅していき、死ぬ可能性もある代物だった。
使う、ということは死ぬことと同じようだ。
切り札の中の切り札。できれば、使いたくない。死にたくはない。
階段を降りる。こまめに掃除がされているこの階段は外の混乱など知らずいつもの日常を写しだし続けたまま。
リビングに戻ってくる。電気はつけない。
生活感にあふれているリビング。今日の日付の書かれた新聞紙。コンセントにプラグは繋がっており、食洗機の作動する音が鼓動する。部屋は暗いまま、そんな中を夕焼けが照らすも、より一層古びた場所に見える。
灰色の机に灰色のノート。灰色の台所に、灰色のフローリング。灰色の壁に灰色の世界。色を失った世界とはこういうものなのか、と思わず呟く。
すると、玄関のドアが勢いよく開く音がする。開かれたドアから漏れる光はドアが閉まるにつれて減っていく。
ドアが閉まるとともに、リビングと廊下を繋ぐ扉も開かれる。
「胡春っ、いるか、って君は…」
「お久しぶりです。笹橋さん」
笹橋胡春の父、笹橋
「どうして、君が、ここに。それよりっ、娘は、胡春はどこにいるか知っているかい」
笹橋さんは焦った様子で聞いてくる。
「胡春さんは、殺されました。テロリストによって」
率直に言う。
「っ……。そうか、そうか殺されたのか」
彼は膝から崩れ落ちて、涙を零した。
「あの時、彼女にこの街が破壊されることを伝えてよかったのか、今でも悩んで。そして君からあの子が亡くなったことを聞いて、悔やんだ」
「知っていたんですか、実験のことを」
「……ああ。僕たちはこの街を任された一族。だから、この街に愛着も持っていたし、それとは反対に計画を行った政治家たちへの忠誠もあった」
「だから、どっちを選んでどっちを捨てればいいか。僕にはその選択ができなかった。だから、軽はずみにあの子に言ってしまった。胡春は天才だ。僕たちが思いもよらない考えを思いついて。どこかで、あの子ならなんとかしてくれるだろう、なんて思ってしまった」
「その結果、あの子を死なせてしまったのだろう」
彼はポツリポツリと話していく。
「それは、ないですね。全然違いますよ」
すこし、反論する。顔を上げた彼と目を合わせて話す。
「彼女はたぶん、貴方の様子に疑問を思って独自に調べると思いますよ。彼女の観察眼はすごいですから。だから、貴方のせいだとか、そういう問題ではないと思います」
「そうか。君がそういうならそうなんだろう」
彼は疲れた笑みを浮かべる。どこかやつれている。
「どういうことですか」
「どういうこともない。今の僕には、君しか信じることができないだけだ」
理解できない。彼はなにが言いたいのだろうか。
「そう思えば、なぜ僕に両親はいないんですか。僕の記憶では最初に会ったのは貴方だから、一度尋ねようと思って」
ふと、今まで疑問に思っていたことを彼に訊く。
「ふむ、そのことは、たぶん僕からは話さないほうがいいだろう」
「どういうことですか」
「そのままの意味だよ。君はこれから先、そのことについて話されて、立ち向かう時が来ると思ったからね」
「この街から抜け出せない限り、そんな未来は来ないと思いますけど」
「君には、あるんだろう。その方法が」
あの子ならいくつか作りそうだ、と彼は言う。
「ありませんよ、そんな都合の良い方法」
「それなら、なぜ君は絶望していないんだい。この街を出ない限り、この街に住み人たちには死の絶望しかないはずだ」
「いえ、ただテロリストたちと交渉しようと考えているだけです」
「対話で、かい」
「できれば。ですけど、たぶん命を張って戦うことになるでしょう」
「なるほど。だけど、君に敗北という意思はないようだ」
「ええ、まあ勝利の女神がついていますから」
「そうか。君に一つ教えておきたいことがある。今、この街の中だけでなく、まわりでも戦闘が行われている」
「交戦中、ですか」
「ああ、君の知るテロリストたちと、もう一方。この国の警察がね」
「警察は、この街の調査のために、ですか」
「それもあるが、それよりもこの街にはほとんど情報のない『シルヴァクヲック』という組織が関与している、とわかったみたいだね。この街に乗り込もうとしているんだ。だが、この街一帯からはよく見えないのだが、実はこの街は塀で囲まれていてね。中々、侵入することが厳しいみたいなんだよ」
ついさっき、テロリストたちが英語でそう話していてね、と彼は面倒そうに言う。
「だから、それのお手伝いをすこしね」
「なにをなさるつもりなんですか」
「だから、お手伝いさ。自分だけ何もしない、というのはこの街の長としての面子が潰れてしまうからね」
笹橋さんは、そう言うとスーツの上着を脱ぐ。カッターシャツだけとなった彼は肩を回す。
「それじゃあ、君にシルヴァクヲックのことは任せるよ」
彼は、外に出ていく。
しばらく、その場に佇む。改めて静かになったことにより先ほどは聞こえなかった時計の針の音が大きく聞こえる。彼はなにを為そうとしているのだろうか。
「よし、行くか」
彼女の残したケースを片手に、ローファーを履く。
「…家に一度変えるか」
色々、家に置いてあるものを取りに行かなければならない。彼女らと敵対するのだ、あれくらいの武装は必要だ。
それに、ローファーでは動きにくい。
扉を開ける。外は先ほどまで強く強調していた夕日でさえ、沈みかけだった。もうすぐ、夜になる。
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家に帰って必要なものを回収し、外に出る。
明かりは電灯しかなく、空に星々が綺麗に見える。
「さて、次はっと、」
スマホを取り出し、アプリを起動する。やはり、そこに登録されてある名前は、一人しかなかった。
「森の中にいる」
なぜ、彼女はそこにいるのだろうか。現在の時刻は八時半。素早く済ませなければ、全てがうまくいかない。
森まで駆け出す。夜の道は、すこし怖いイメージがあった。いや、夜自体が僕は苦手だった。
こんな、静かなままでいいのか、と。なにか、他の人のために動かなければいけないのだはないのか、と考えていた。
森の中を駆ける。現在地と、彼女のいるであろう場所を比較しながら移動する。
走っていると、途端に森から抜ける。しかし、彼女のGPS反応があった場所は、そこから左に二十メートルいった場所。
左を向く。いた。
彼女も自分の足音で気づいたのだろう、こちらを驚いた様子で見る。
「やあ、また会ったね」
話しかける。
「なんで、ここにいるんですか。理解していますか。笹橋胡春の命の犠牲によって貴方は今生き延びている。それなのに、なぜ貴方はのうのうと私の前に立っているのですか」
「理由なんて一つだけだよ、すこし君たちと決着をつかなければならないからだよ」
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