第三十話 さよなら、

ほのかな明かりしか灯っていない通路の先には、すこし開けた場所に入る。

周りには、段ボールしかなく、部屋の中は通路よりも明るくなかった。


そして、目の前のエレベーターに目を向ける。

デパートでよく見かけるような豪華絢爛ではなく、ただの質素な色合いのしたもので、どこの階層に通じるのかがわかる標識もなかった。


エレベーターの横に設置されてある起動のためのボタンを押す。

すると、三秒も経たずにエレベーターのドアが開かれ、鋼の箱を思わせるような場所が現れる。


中に入り、右横を見ると、『B3』と『MR』と開閉のボタンが用意されてあった。その上に設置されてある液晶画面に『B3』と表示されてあるのでたぶんこの場所のことを指しているのだろう。


『MR』を押す。すると、ドアが自動的に閉まり、一拍置いて上に上がっていく。

ただ、機械音に耳を傾けてドアが開かれるのを待つ。


機械音が消え、チンと、軽やかな音がする。

ドアが開かれると、そこは横が全てガラス張りの大きな居間だった。

明かりは無駄だと思えるほど多く、自分の目の前に存在する赤紫色のソファについ目がいってしまう。そして、その向こう。前面ガラス張りとなっている壁からはこの街が一望できた。所々で火が燃え上がっているのが静かに見える。


「あれ、青年じゃん」

エレベーターから降りると、懐かしい声が横から聞こえる。


「クマさん、なんでここにいるんですか」

そこには、クマさんこと綾杉さんが奥に設置されてある一人用ソファに座っていた。


「おいおい、綾杉さんって呼んでくれって言ったよなあ、物覚えの悪い奴は嫌いだぜ」


「すみません、貴女を見てしまうとつい、そっちの名前が出てきて」

素直に謝る。


「ああ、そう。で、ここにいる理由だっけ。なにを、馬鹿なことを言ってんだ、青年。ここまでたどり着いたってことは全部知っているんじゃねえのか」綾杉さんは頬杖をつきながら、足を組み直す。


「僕はなにも知りません、ただ、会いたい人がここにいるって聞いただけです」


「逢いたい人。ああ、天然ちゃんのこと。あー、そういうことね。彼女の言っていた子ってそう思えばお前のことだったな」

なんだ、簡単じゃねえか、と綾杉さんは派手に笑う。


「それで、あの」


「天然ちゃん、笹橋胡春がどこにいるのかって。そいつは知らねえなあ、なあ、志士織しししき

彼女は僕に語りかけるように大声で言う。


「解答。資料室へ向かう、と私の時計で一三○一イチサンマルイチに固有名、笹橋胡春が話しておりましたが」


「ひっ」

いきなり真後ろから声がし、尻餅をつく。そこには、長い黒髪を後ろにまとめた背の高い女性がいた。


「お前の時計は五分早いだろう、それくらい自分の頭の中で計算しやがれ」


「肯定。しかし、数分前の出来事が記憶にない主人様あるじさまにすこし、危機感を覚えます。病院へ行くことを勧めます」


「いらねえよ、てかボケてねえし。オレはまだ三十一歳だよ」

綾杉さんは不貞腐れたように頬杖をついている肘に自分の体重をかけていく。


「あの、貴女はいったい、」

いきなり後ろに現れた彼女、志士織と呼ばれた人に聞く。


「旧特殊固有名、月見里灼梨。志士織波丮しししきはけきです。お噂はかねがね」


「どんな噂が流れているのっ⁉︎」

そこまで、なにかやらかしたことはないのだが。


その後の彼女の言葉を待つ。しかし、自分にかけてくる言葉はなく、ただこちらの方をじっと見つめていた。


「えっと、なにか」


「意味無し。ただ、貧弱そうだ、と思ったまでです」

志士織は無表情のまま、そう答える。というか余計なお世話だ。


「まあ、それくらいにしておいてやれ。おい、青年。お前はそこの木偶の坊と話すために来たのか」


立ち上がり、綾杉さんの方を向く。


「…、貴女がこの街を今爆破させているんですか」


「うん、その質問が一番無難だな。それに対しては、イエスとだけ言っておこう。この街を爆破したのはオレたちだ」

あとは、アイツ。あの用務員を殺したのも、と彼女は淡々と述べる。


「…なぜ、」


「なぜ、と。その理由か。人に聞くよりもまず自分自身で何度か考えてみろ。ほら、思い返せ、お前はこの街について何を知っている」


「思い、返す」


「そうだ、お前がこの街で感じたおかしな現象、おかしな発言、おかしな勘違い。ないかそんなこと」

考える。

自分の体験した記憶の中に、答えがある、と彼女は言った。それならば、なにか僕が忘れている重要なことがあるはずだ。


「…この街が実験区画の一つだっていうのを聞きました。他にも貴女がこの前、コンビニで話していた街もその一つだと」


「予想以上の答えだよ。よく知っているじゃねえか」

予想以上とは。


「では、本当に」


「ああ、ここは実験施設だ。大日本帝国時代に他国との戦争に打ち勝つために超人兵士を作り上げようとして、できた八つの区画のひとつ、為縛」


「でも、ここは、ただの街で。約八十年前ならなにも変わっていないって」


「ああ。なんにも、変わってない、変わっているわけがないんだよ」

「なんでかって、それは、」


「それは、この区画の目的に沿ったものだったからだよ」

他の部屋に通ずるだろう木製のドアが開かれ、一人の男が入ってくる。


「貴方は、上蹴坂さん」


「やあ、またあったね。どうだった、僕のプレゼントは」


「あれを、プレゼントとは、イかれたやつだぜ」


「そう言って、楽しそうに起爆スイッチを押したのは誰かな」


「はっ、オレしかいねえだろ」

お互いに小言を言い合う。

そして、上蹴坂さんはこちらを向き直す。


「為縛での目的は、人の行動パターンの分析、習性の理解、心的ダメージにおける肉体的行動のパターン検出そして、組み替え、だったんだ」

上蹴坂さんは平然と言う。


「組み替え、ってそれはもう、」


「そう、脳みそを弄りまくって遊んでたってことさ」

綾杉さんは手を上に伸ばして言う。


「だから、すこしの違和感しかなかったのだよ、監視されている以外、君たちは普通の生活を送るんだから」

上蹴坂さんは僕に微笑みながら綾杉さんの隣にあるソファに腰をかけ、それに、と言葉を続ける。


「君は他の場所をあまりに知っていない、と聞いたから仕方ないと思うのだけど、ひとつ、君たちも疑える決定的におかしいところがあるんだ」

上蹴坂さんは、人差し指を上に突き立てる。


「おかしい、ところ」


「うん、そう。おかしいところ」

自分の脳にもう一度問う。そのようなことがあったか。

結論は出ない。


「難航しているようだ。じゃあ、君に質問だ。何故、為縛街の『街』は難しい方の『街』なんだろう?」


「えっ、『街』って普通に使うと思うんですけど」


「まあ、そうだね。使わなければ、存在意義がないからね。うーんと、そういうことではなくてね。…君は、難しい方の『街』と簡単な方の『町』、使い分けがわかるかい」


「いえ、わかりません」

そんなこと、考えたこともなかった。


「そっか、それなら仕方ないね。教えるよ。『街』はある区画のこと。主に商業区画のことを指すんだ。で、もう一つの簡単な『町』は人の住居地などを指す。さて、問題だね。このまちは、どちらの『まち』を使ったらいい」


「…簡単な方の『町』ですかね。だけど、実際は難しい方の『街』。ということは、」


「そう、ここはただの商業区画だと、言っていいね。何の、と聞かれれば、」

そう言い、彼はこちらに目配せをする。


「超人の育成、そして、売買」


「ちょっと、惜しいかな。さっきも言ったように超人の素となる脳のパターン分岐と大量のデータの売買、つまりは自動車の部品を使っている中小工業のようなものさ」


「…」


「つまり、僕は、僕たちは。ただの商売道具だった、ということですか」


「まあ、そう捉えた方が簡単だね。そして僕たちは、その計画が廃止した今では不必要な君たちを処分するのがお仕事なんだよ」

処分。その言葉を聞き、彼の目を見た時、全身に冷たい水を被ったかのような感覚がした。

彼の目は、初めて会った時に見せた優しさで包まれてしまうようなものを思わせる目ではな、ただな獲物を見る狩人のような目だった。


「だから、君がここに来てくれたことにすこし感謝を伝えたくてね。殺されに来てくれてありがとう、ってね」

上蹴坂さんはおもむろに立ち上がる。

彼と僕の身長の差は約三十センチメートルくらい。しかし、今は自分がその高さ以上に下から見ているように感じる。


「あっ、もういいのか」

綾杉さんはどこから取り出したのかわからない拳銃を手の中で遊んでいた。


「うん、だからごめんね、これが仕事なんだ」

そう、彼は言うと、数歩、後ろに下がる。そして、その反対に綾杉さんは一歩前に踏み出す。


なにも、声が出せない。恐怖に心が震えて、その振動を受けたかのように体全身から滝のように汗が流れていくのを感じる。もう、自身の命の終わりかと客観的に感じようとするもやはり主観なため怖さと諦めが波のように押し寄せてくる。


「じゃ、さいならだ」

「待ってっ」

聞き覚えのある声がドアが開かれる音ともにこの静かな部屋に反響する。

振り向けば、笹橋が息を整えながらドアの前に立っていた。


「笹橋、さん」

そうだ。僕は彼女を探しに来たのだ。

彼女と会ってこの街について聞こうと。


「あら、貴方は…」

また、聞き覚えのある声。


「葭原さん、も」


「へえ、お前らもしかしてトモダチってヤツか。ってそりゃそうか。かああっ、いいねえ、そういうの、そういう物語のような展開。さいっこうだぜ」

綾杉さんはカラカラと笑う。


「自分の慕っていた奴が、知り合いが自分の敵とか。なんって傑作なんだ。ああっ、だからやめられねえんだよ。面白い境遇を持ったやつがどう考えて、どう行動し、最終的にどうオレの手で殺されるのは」

彼女の笑いがこの部屋に響き渡る。


「クマ、うるさいわ」


「おうおう、それはすまねえな。そうだ、おい青年。お前、オレらになぜこんなことをするのか気になっていたよな。こんなこと、つまりはなぜ人を巻き込むような、人を殺すような行為をしたのか、その仕事を請け負ったのか。

そんなこと、簡単だ。

オレたちは人の死にしか興味がない。いや、言い方が悪いな、人の歩んできた物語、そして、その最期にしか興奮しねえんだ」

興奮するのは、君だけだけどね、と上蹴坂さんが茶化すように言う。


なにも言えない。これは、自分が否定していいものではない。彼らの生き方に僕なんかが口を出して、元に戻せ、などと言えるくらい賢いわけではないのだ。


「なによ、この雰囲気。キライだわ…クマ、なにか仕事はないのかしら」

顔を歪めて、葭原は言う。


「…お前もタイミングが悪いなあ。それに仕事熱心ときた。いつか、任務で失敗するぞ」


「いいわよ、別に。だってそんな生き方でしか私は自分を保てないもの。貴方も知っているでしょ」


「そうかい、ならこの周囲一帯になにか不審なものがあるか、探してきてくれるか」


「そう、わかったわ」

そう言うと彼女はゆっくりとこの部屋から出ていく。


「…さて、話がものすごくそれたが。なぜ止める、天然ちゃん。お前との契約はもう他にないぞ」


「月見里灼梨を一度だけ殺さない、という契約はどうなったの」

やはり、笹橋がそのようなものを綾杉さんたちと結んでいた。

嬉しいが、心の中で困惑する。なぜ彼女はこのようなことをするのか。


「はぁっ、そんなものとっくに行ったただろう」

その言い草から喫茶店であった時にはすでに殺されていたのだろうか。


「ほら、コイツを電話でデパートに誘導して、爆弾から助けてやったじゃねえか」


「…あの時の声は貴女だったのですか」

彼女に問う。


「ああ、そうだ。なんせ声帯模写、変装はオレの特技の一つだからな」

彼女はニッと笑う。

「、まあそんなことはどうでもよくてな。オレは自分の仕事を済まして、お前はオレらに協力するだけだ。それだけだろう。別にコイツを撃ち殺しても構わねえじゃねえか」


笹橋は顎に手を置き、黙る。


「さ、笹橋さん」

完全に僕のせいだ。僕がここへ来たばかりに、僕がこの街の真実を知りたいと思ったがために、彼女はいま困惑している。

僕がなにも考えなしに、敵との遭遇をしてしまったばかりに彼女の考えていたより良い未来のための布石を壊してしまったのかもしれない。

全部、僕のせいだ。


「笹橋さん、もういいよ。僕が」


「貴女の言い分なら、死ぬのは誰でもいいみたいに聞こえるわ。それならば、死ぬのは彼じゃなくて私でもいいということでしょう」

…彼女の言葉に呆然とする。彼女が僕みたいな奴の代わりに死ぬと。


「笹橋さん、それは」


「はっはっはっはっ。はぁ、ハハハハハ。イヒヒヒヒ」

場が綾杉さんの大笑いに包まれる。


「お前、マジで言っているのか、傑作だなぁ、おい。だが、それならば、契約はどうするんだ。そいつを守るための契約だろう」


「あれ、私は最初に伝えたよね。私がこの契約をする理由は月見里灼梨を守るため。だけど、今、この場において、その理由が危機に晒されている。それなら、別に最初から私はこの契約に参加していなかった、と言える。だから、その契約の対価としての『貴女たちの協力をする』という契約は無かったと言っても等しい。だけど、私は手を貸して、自分の手さえ悪に染めた。これは、不公平な契約だとは思わないかな。貴女たちの組織が考える、お互いの真意が十分に満たされる契約とは言わないでしょう。だから、私の命で彼をもう一度、見逃してあげて」


「なるほど。たしかに、それは筋が通っていないようで、私たちの理にかなっているな。オレたちは、結果は結果でも、双方の真意を満たされた契約しか行えない。契約はよく、相手を騙すためにあるが、それはシルヴァクヲックでは禁じ手だからな。今回のは、それに同類すると。お前、最高だよ」


「お世辞として受け取っておくよ」


「ならば、そういう契約にしよう。安心しろ、オレらは絶対に守るからな」



「笹橋さん、どうして」


「ごめんね、私はこういうやり方でしか貴方を守ることができなかったみたい」

彼女は儚げに笑う。


「違う、そう言うことじゃないんです。なんで、僕みたいな意味のない奴を助けようとするんですか。僕はなにもすることができない、誰も助けられない、今この場で生きていること事態が不思議な僕を――」

左頬に衝撃が走る。

次に目に映るのは、右手を振り上げる笹橋胡春。僕は彼女にビンタされた。

そして、両肩を掴まれる。


「そんな自分を卑下するようなことを言わないで。この事態において、貴方はなにも悪くないの。だから、自分が悪いとか、自分は出来損ないだとか、そんなことを思わないで。この罪を背負う権利があるのは私だけ。これは、私の罪なの。だから、この街の一件の結果が自分のせいだとは思わないで」


「いいねえ、いいねいいねいいねええ。さいっこうだよ、おまえら。なんだよ、その物語のような展開。テンプレートのようで自分たちがその中心にいると思うだけで興奮してくる。だから、やめられねえんだよ、こういう奴らをオレの手で殺すのが」

ああ、傑作だ、と綾杉さんは大声で叫ぶ。


「だが、お前の命だけじゃあ足りねえ。別に、もう一人連れてこいとかそんな面倒なことを言うつもりはない、だがな、笹橋。お前の其の交換条件ではオレたちは満たされない。だから、お前の饒舌を評してスパイスを与えよう。おい、青年。そこで立っとけ。天然ちゃんはオレとソイツの間に立って、と。よし、ここに弾が六つ入った銃がある。これを今からその青年に向けて全て放つ。天然ちゃんはその弾をすべて自身の体で受けろ。もしも、お前が倒れたら、その時は残りの弾がソイツを撃ち殺すことになる。どうだ、最高だろ」


「ええ、それで、いいわ」

誰がどう見ても最悪といえる賭けに彼女は僕の方を向いて、少し微笑むだけであった。


「ダメだ、それは」

そんなもの、彼女の苦痛でしかない。

そんなことをしては。


「じゃあ、カウントは五からな。いくぞ、五、四」


「ごめんね、こんな私で」

笹橋はカウントダウンを無視して話しかける。


「三」


「こんなことになって」


「二」

恐怖で汗が背中を伝うのがすぐにわかる。

ダメだ。止めなきゃ、彼女の代わりに自分が死ななければ。

だが、体は動こうとしない。


「一」

カチリと音が聞こえる。

彼女は微笑んだまま。


「零」

耳をつんざくような音がする。


一発目。彼女は微笑んだまま。

二発目。体が大きく揺れる。

三発目。唇から少量の血が流れて。

四発目。苦痛、という感情が次第に表に現れて、また、大きく揺れる。

五発目。だが、それでも彼女は自分に微笑む。

六発目。彼女は崩れ落ちた。


「笹橋さんっ」

彼女の体を受け止める。


「笹橋さん、笹橋さんっ」

前から倒れた彼女は震える手で懐から取り出した何かを僕に渡す。それは、三つの鍵がついたブレスレットだった。


「これ、私の、部屋の鍵。パソコンの、隣の、箱の鍵。そこに、」

彼女は小さな声で言う。


「わかった。わかったから、お願いだ。もう喋らないで」


「…泣かないで。前に、言ったじゃん。人はみんな、自分の死で悲しんで、ほしくないんだよ」


「だけど、だけどっ」

彼女は僕の背中に手をまわす。

僕もそれにつられて、彼女の背中に手をまわす。そこは、血で濡れており、生温い感触だった。


「こんなことに、なるんだったら、こんな思いを、するのだったら、君ともう一度、会いたいなんて、思わなければ良かったね」

彼女は天井をただ見つめてアハハとすこし微笑む。


「私ね、ずっと」

そう笹橋は言うと、自分の背中にあった彼女の手がすこしずつ上にのぼり、後ろ髪に行き、そして自分の頬に手が添えられる。


「ずっと」

そう言うと、彼女の顔がいきなり近づき、そして、唇と唇が触れる。


「………んっ……」

キス。

そして、どちらからともなく、ゆっくりと離す。


「もっと、話したかった。もっと、一緒にいたかった。もっと、側にいたかった。だけど、もう会うことはないから。だから、これだけは、伝えたかったの。


私、貴方のことが。ずっと前から、大好きでした」

笹橋は涙を流してそう、どこか照れ臭そうに言う。彼女もやはり恥ずかしかったのだろう。


だから、自分も。この想いを。心の中で渦巻く、胸を焦がすような想いを。


「んっ⁉︎、……」

すこし寂しそうな彼女に自分から強く抱きしめ、口づけをする。

自分の淡い、淡い、純愛を、初恋を彼女にぶつける。


至近距離にある彼女はすこし目を見開き驚く。だが、それでもふっと微笑むと頬にあった彼女の手は自分の頭の後ろにまわされる。


ずっと、この瞬間が続けばいい、とは思わない。

ただ、この時間を大事にしたい。

ネガティブな思考しかできない僕の脳が出した唯一の正解と言っていい解答。胸の中が暖かい。


唇を離す。彼女の荒い呼吸が顔にかかる。


「僕も、貴女のことが、好きでした」


「ふふ、ありがとう。だけど、ごめんね。もう何もできないや」

「あとのことは、すべて貴方に、託します」

「だから、もう泣かないで。私のことなんか、忘れて」

そう突き放すような発言をすると、彼女は静かに目を閉じる。


彼女はぴくりとも動かない。彼女は死んだ。

そう思うと、どっと恐怖が自分を包む。もう、彼女に出会えないと思うと、胸が痛い。悲しい。

僕は孤独だ。


「流石だな。六発も弾丸撃たれて、あそこまで喋ったり動いたりできるなんて。これを愛の力とでも言うのか」

横から綾杉さんの声が聞こえる。

ゆっくりと立ち上がる。


「綾杉さん」


「あん、なんだ」


「彼女を弔ってくれませんか。僕には、どうすることもできないので」


「…ああ、いいぞ。オレらのボスはそういうことは必ず行う。そういう律儀な奴なんだ」


「…そうですか。それならば、良かった」


「あっ、そうだ。おい、青年。これを持っていけ」

そう彼女は言うと、深緑色の帽子を渡す。たしか、文化祭で見た外国人たちが同じものを被っていた、と思い出す。


「それを被っていれば、外にいるテロリスト共に撃たれることはねえ。だが、あまりこそこそするんじゃねえぞ。躊躇いなく撃ってくるからな」


「それと、出口はお前が来た道で帰れ」


「ありがとうございます」

エレベーターに入り『B3』を押すと、ゆっくりと閉まっていき、そして、下降する。


ドアが開かれる。

見えるのは淡い光で輝く通路と部屋。

天井を見上げる。


「あ、あ、」

蛍光灯の光のどこか優しい感じが余計に僕のこころを締め付けていく。

ダメだ、やはり悲しい。

泣くな、なんて難しいお願いだ。


「ああああああああ」

叫ぶ…涙が溢れる。天井はもう、見えない。

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