第二十三話 準備
激しい痛みとともに、植物の独特なにおいに鼻孔が刺激される。
横を見てみると僕のせいで折れたのであろう先ほどの木の枝が共に寝そべり、赤い空にはさっきまで地に落ちていた枯葉たちがいつぶりなのか空を舞っていた。
全身に痛みを感じながら、ぎこちなく体を起こす。体は枯葉たちのおかげなのか砂などはついておらずただ葉っぱが体に少しついていただけだった。
自分は犯人に見られた。
それだけで心が締め付けられる、身動きが取れないような、縛られている気持ちにさせる。犯人が何を考え、次の行動に移すのか、僕にはわからない。だからこそ、何を自分にしでかすのかもわかったものではない。
そして。犯人は別にいるという不確かであいまいなことに謎の達成感を感じる。犯人は、片滌先生ではない。それだけで僕の心は安らぎを持った。
よろめきながら立ち上がり、校舎の壁を頼りに裏から出る。もう、今日は何もほかにすることはない。なにもすることができない。そして、明日や明後日も。
このことを遠嵐先生に話しておいたほうがいいとは思わない。僕でさえ、遠嵐先生でさえ、個々の力だけではなにもすることができない。ただでさえ先生方も文化祭の用意や報告書などで忙しい時期にほかのことができるわけがない。たとえ、それが自分たちの間近に起こった殺人事件の捜査であっても。
今日、放送室に行ったのは最終的にはただの自己満足だった。犯人が片滌先生ではないという証明に対する資料と、あわよくば犯人の手掛かりとなる決定的な証拠が残されていれば、という願望。それだけのために自分の身を危険にさらした。
それだけ、自分が信じようとした人の無罪を証明したかっただけ。
だが、逆に。
もし、次の矛先が数割自分に向いた、と考えてしまえばすこし楽に、嬉しくなる。綿引や彼女のような天才を狙わずに自分のような凡人が肉壁となって…そして犯人を捕まえる。凡人の死に方についてはこれが至高ではないのか、そう思ってしまう自分がいる。凡人を糧として新たな天才が生まれるとしたら、僕は喜んで自分の身を投げ渡すだろう。
だから、せめてもう少しは。この生活を楽しませてくれてもいいんじゃないか。神様。
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数日が経ち、自分の身には何も降りかからなかった。だからと言ってほかのクラスメイトに危害が及んでいるというわけでもなく、こつこつと文化祭の準備が執り行われていた。
「だからって、なんで僕は毎日教室の壁を拭いているのかなあ。ねえ、葭原さん」
「…」
「おーい、葭原さーん、聞こえてる?」
「私は貴方なんかと会話のキャッチボールなんか、したくないわ」
「はあ、会話のキャッチボール」
なぜ、会話とキャッチボールが文章的につながるんだ。
「あら、そう思えば貴方には通じない会話だったわね、ごめんなさい」
「いや、謝るのはいいけどさ、何でそんなに上から目線なんだ」
葭原はわざわざ、椅子に乗ってまで僕を見下して話す。
「これくらいが貴方と話すのにちょうどいいものと聞いたからよ。五十センチ高く、五尺離れて、その右肩に着いた絵の具のシミを見ながらあなたと話す、と。常識じゃないの」
「ちなみに、それは誰から聞いたんだ」
「もちろん、困ったときの学級委員長の笹橋さんよ、当たり前じゃない」
「全然、当たり前じゃないし、そこを見るのが常識じゃない、というかこのシミを見ないでくれますか」
シミを手で隠す。笹橋は僕のどこを見させようとしているのか。
「そんなこと、いまはどうでもいいの」
どうでも良くはない。
「たしかに、貴方の言うことについて異論はないわ、私もこの役割というのは中々に嫌ね」
「雑巾の水を絞るのに水がかかって冷たいからか」
「一割は。後は貴方がいるからよ」
ほとんど僕のせいじゃないか。
「違うんだ、あのことについては」
「やめて、話さないで、気持ち悪い。私、あんな甘い言葉を吐く人が一番嫌いなのよ。それと、笹橋には伝えたけど、私、別にそんな気はないから」
葭原は僕とは目を合わせず、窓の向こうを見続ける。
「……」
会話は無くなり、熱という熱が冷め始める。己の担当した範囲を水に濡れた新品の雑巾で磨き上げる。そこに、使い古された雑巾に感じる手になじむ感覚などあるはずもなく、新品特有の肌に合わない、世界に合わないとも思えてしまいそうな感覚。
気持ち悪い。その一言としか感じられなかった。
磨き終わり、雑巾を黒色のゴミ袋に投げ入れる。そう、指示されたのだからそうするしかないのだ。だからといってコレを憐んで持って帰ったりはしない。
役目の終わった新品の雑巾はそのまま、暗闇に消えていった。もったいない精神をぶったぎる、と言っても過言ではない大胆でもっとも綺麗な使い方。
新品で出荷され、新品として手に取られ、新人として最初の仕事が始まって、そして、新人のまま、新人として棄てられる。
雑巾ではなく、人。そう捉えても違和感がない。むしろ、そっちの方がわかりやすい、清々しい。だけど、気持ち悪い。
『スペアなぞいくらでもある』
どこかで聞いた言葉。一番、気合の入る言葉であり、一番自分が怯えてしまう言葉。
どうしてだろう、その場を思い出せない。
「あら、終わったの」
葭原がいつものように興味なさげな顔で聞いてくる。
「うん、もういいかなって。それよりも、葭原さんから話しかけるなんて珍しいね」
「ちょっと謝らないといけないことがあって」
「さっきのこと、僕は気にしてないよ」
「私が気にするのよ。その、訂正があって」
訂正って。
「貴方のこと、甘い言葉を吐くから嫌いだと思っていたのだけれど、ごめんなさい。違うの」
「私、貴方のこと、」
風が心地よい、とは思えない。まるで嘲り笑っているようで。
「その一部分だけじゃなくて、全部が。貴方自身ののことが嫌いなの。こう、生理的に受け付けない、とこの場合言うのかしら」
顔を背けて早口で彼女は言う。
なるほど。僕はどこで彼女との会話に間違いを生じさせてしまったのだろう。いや、一つしかないじゃないか。
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