第十七話 見慣れぬ前と見慣れぬ横。そして、見慣れぬ下

朝礼に片滌先生は来なかった。

そんなことがあれば、どの学校も、どの教室でさえ、担任がいない時にうるさくなるのも当然なことである。

しかし、そんな予想に反して、教室はいつもの数倍は静かだった。

誰かが椅子を引いて発してしまった音でさえ、彼らは目線をそちらに向け、まるで親の仇でも見るかのように相手を睨みつける。朝の仲つつまじい光景はどこへ行ったのやら、教室はお互いがお互いを牽制し合う一種の暴力のないバトルフィールドと化していた。

なぜ、こうなったのか。ある結果にはもちろんそれ相応の理由・原因が付いてまわる。

一つは、代わりに朝礼に来たのが遠嵐先生だからだろう。そのまま、授業が行えるからという理由で任を請け負った遠嵐先生はその威圧感を出したまま、教卓で合気道の心得などどという本(その分厚さから一種の石板としか思えない僕の感性は間違ってはいない)によりいつも以上に圧がすごい。そして、それをキラキラした目で見る数人の男子学生。おそらく、彼の威圧感に惚れた生徒なのだろう。絶対にやめておけ、後悔するぞ。

そして、たまに視線を感じてはギュンっと首を本から話し、彼を見ていた生徒を睨む。

『何かようか』

『い、いえ。な、何もありません』

『声が小さいっ!もっとはっきり喋ろっ、相手に自分の思いが伝わらんぞっ!』

『はいっ!何も、ありませんっ!』

そして、クラス中から睨まれる生徒A。

このやりとりを一回聴くだけでも地獄であるのに朝礼と一限目の間にある少ない読書時間にこの一式が先ほどまでで十回を超える。早く二限目になってほしい。

この前、開野が言っていたのはこういうことだったのか。


これだけでも過剰威力なのだが、もう一つ原因がある。

片滌先生と初めて出会ったあの日以来学校に来なかった葭原が粛々とすることなく、眠たそうにあくびをしながら隣で座っていた。

勘で片滌先生が来ない日を狙ったのだろうか。いや、そうなれば、金曜は来てもいいはずだ。ますますわからない。

誰もが彼女に話しかけたいのだが、遠嵐先生のせいで誰も無断で立ち歩くことができない。

よって、クラスメイトたちは本を読むフリをしながら彼女の一挙一動に注目する。彼女と良い関係を気づくために皆が皆、頭の中で『葭原とのお友達計画(そこまでの関係で終わらせるとは言っていない)』が構築されていく。

このご時世、一番重要なのは情報なのだ。早いうちに多く情報を手に入れ、なおかつそれを使いこなさなければ生きていくことはできないのだ。嫌な世の中だ。迂闊に言葉を発することさえできない。

そんな情報獲得戦に気付いているのか、気付いていないのか、葭原は机の中から『初心者必見‼︎わかりやすい、ドイツ語講座』なる本を読み始めたかと思いきや、案外面白くなかったのかそれを机の端に置き、今度は『自然の不思議 〜シダと愉快な仲間たち〜』を取り出して読み始める。選んだ本のジャンルが広すぎる。

そして、それの中身を数秒眺めた後、ドイツ語講座の上に置き、果てには少女漫画を中から取り出して読み始める。この学校二日目だよね?机の中にいろいろありすぎではないか。まるで、四次元ポケット状態だ。


クラスメイトも彼女が違う本を取り出すたびに『え〜』という難しい顔をしながら髪をいじったり、顎を触ったりしながら難しい顔をする。もう、お前らコイツを狙うの、諦めろよ。


「おい、月見里っ。どこを見ている!正面を向いて本に目を向けろ!」


「は、はいっ」

キョロキョロしすぎたせいで先生に目をつけられてしまう。


「それと。一限目が終わったら職員室の俺の席に来い。いいな?」


「はいっ」

周りから『お前なにやらかしたのだよ』や、『ざまあみやがれ』などといった人を嘲るような顔をしてくる。

ねえ、僕、何か君たちにした?ひどくない?

まあ、呼ばれた理由はだいたい分かっている。あの事件のことに違いないだろう。これで、数学の成績が悪いことについての面談ならば、僕は相当な勘違いをしていたことになる。


「よし、そろそろ時間だ。お前ら、今すぐ読書本から手を離して教科書にありつけ、授業を開始する」

教室に壁にかかっている時計は八時半を指している。しかし、人間の察知能力は悲しいことに。何か訓練をしない限り、生物界最大といっていいほどない。

他のクラスメイトは、先生に畏怖してばかりでそのことについて気づいていない。級長である笹橋でさえやれやれとした呆れ顔をする。


「よし、ここの問題は…、そうだな月見里、やれ。三十秒以内で解け。

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「で、先生。何の御用ですか?あの事件に進展があったのですか?」

職員室。

その角に位置する応接室のドアが閉められ、僕と遠嵐先生の二人だけとなった。


「ああ、その通りだ。だがな、」

先生はそこで言い淀む。いつも熱気と威圧で何事も事情を済ませてきた先生とは思えないほど普通の声だった。


「どうしたのですか。まさか、生徒の誰かが殺人を犯したってことですか。ですけど、それはあまりにも」



「いや、そんなことはなかった。だが、放送室前にある監視カメラがあるのを知っているか」


「ええ、警備室から見えているのかなってたまに、手を振っています」


「ああ、それも知っている。週に四回から十回はやっているのを他のカメラでも確認した」

意外と多くやっていたようだ。『たまに』の割合ではない。


「それで、その監視カメラにその犯人が映っていたと」


「ああ、一見自殺に見せかけたこの事件はいささかおかしいところがある。一つは、遺書の字。三年前に職員の契約書にサインをしてもらったときと比べてあまりにも字の形が違う。これは、歳の関係もあるから、あまり、大きな疑問となる証拠ではないがゴシック体と明朝体ほどの差があった」

「そして、二つ目。なにによって亡くなったか。最初は縄で首を絞めたのだと思っていた。が、そこには縄ではつかないような跡も残っていた。手の痕だ。そして、その痕を隠すかのように縄の痕がついていた」

「そして、最後に監視カメラ。この学校に警備用として警備室に繋がっているあのカメラにはその時間帯、俺たちが来る数分前に人の入ったところが映っていた。その顔もな」


「なら、よかったじゃないですか。その人を捕まえれば一件落着じゃな、」


「ああ、ここまではいい。だが、問題はその入った人間なんだ。その男は、」



「お前の担任の片滌先生だったんだ」


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遠嵐先生から話を聞いた時、心のどこかで何か、違和感があったのを感じた。

いや。

実際に考えてみれば、なにもおかしなところはない。

先生の態度によって被害者は精神を傷つけられた、それを学校側に訴えようとするも、片滌先生にそのことを知られてしまった。そう、遺書には書かれていたらしい。

普通の文章だった。だけど、そこに一つ疑問が脳内に浮かび上がる。

『なぜ、その遺書が死体の前に置かれてあったのかについて』、だ。片滌先生が隠し忘れたということもありうるが大抵の人は放送室の放送が鳴っただけでは動揺しない、ましてや、放送された時間は決して短くはなくむしろ、長々と十秒以上は時間があった。あきらかにおかしい。だけど、今の僕には事件の真相を明かして、いると仮定された真犯人を見つける以外、なにも動くことができない。


先生の話によると、この事件に関して、自分は一切関係がない、片滌先生は主張するも成立するアリバイがないようだ。

また、彼は、勾留場に連れて行かれたと先生は僕に伝えてきた。


ありふれている。

ありふれているからこそ、この話は現実味を帯びている。だから、今のところは片滌先生の仕業としてことを進めるようだ。

あまりにも事件が終わるのが早すぎる、と探偵風に思考し、やめる。

これが、現実では当たり前のことなのだと思ってしまえば、どうとでも感じてくる。そして、黒い、深いなにかに包まれる感覚を脱力する度に思い出さす、全てを諦めてしまいそうで。

すべてを失ってしまいそうで。


目の前の視覚に光が再び入ってくる。

浮遊感の中、手に持つ棒状のもの、シャープペンをそれでも、しきりに動かす。やはり、何かを失いそうで。人それぞれが持つ、自分だけが持てるこの感覚を忘れないために。

忘れないために、ずっと目の前のことに噛みつき続ける。

周りはモヤでうまく見えない。

今、ただ一つ。見えている。プリントに綺麗に並んでいる文字によって表すされた問題に目を向けて、大きく深呼吸する。忘れそうになるから。忘れた後の孤独がどのようなものか、怖くて仕方がないから。

いつもは解けない応用問題が頭には入ってこないのにペンは進んでいく。カリカリという音にさえ、自分の感情が吸い込まれていきそうになり、慌てて視覚情報だけに頼ろうとする。

形がうねり始め、プリントの長方形でさえ、丸みを帯び始める。

だけど。だからといって、文字が見えないわけではない。周りを無視し、いつも以上に人工的な感じを出す文字と睨み合う。

口角が上がる。体は溶けてそうでなにも感じないのに、何故か、楽しさを覚える。

ふたたび。視界はカメラの明るさをひとつ、ひとつ、下げていくように。暗みが強くなっていく。

だけど、カリカリという音だけは微かに遠くから聞こえてくる。


________________________________



「へー、あっているじゃん。すごい、すごいっ。ご褒美として頭、撫でてあげよっか」

いつからだろうか。自分の数学のテストを盗み見した笹橋からの提案によって深まっていったこの関係はいつも、オレンジ色の天然の光によって包まれていると感じたのは。


「褒められるのは、嬉しいですけど。いりません。僕は、あなたを信用していませんから」


「えー、加奈子からは良い評判なんだけどなあ」

となりの席からほんわかとした声がまた聞こえる。机を繋げ、僕のとなりにいる笹橋は机に肘を置いて前屈みになる。


「ちなみに、どんな感想を?」


「なんだったけなー、ああっ、『途端にフワフワと感じ出して、いつのまにか天国にいるのだけれど、』」


「それ、絶対ダメなやつじゃないですか。というか、いつのまにか天国って怖いわ。いろいろな意味で怖いわ」

その気持ちよさとか、天国を知っているとか。


「だけど、毎回すっごい笑顔で感想をくれるからさー」

ぶう、と言いたげな顔を僕にする。


「いや、加奈子―邦塚さんはいつも笑顔じゃないですか」


「まあ、なんでも褒めちぎるからね、彼女。あの子は正真正銘の褒め上手だよ」

そう言いながら、自分が殴り書きしたプリントに目を向け、左手に赤ペンをスタンバイさせる。いや、見るのは良いんだけどね、『あちゃー』とか『うへぇー』とか赤ペンを動かさずに言うのやらないでくれる、ちょっと心が折れそう。


「まあ、あっているよ。これは、以前よりも進歩したのではないか、焼きリンゴくん」

えぇー。まったく問題が思い出されない。


「ま、まあ。毎日勉強していますからね。それなりにはあ、上がるんじゃないですか」


「あー、勉強していないのかあ。なんだ、ただのまぐれか」

自分の嘘がすぐにバレる。悪かったな、まぐれで。

「まあ、一応公式は使っているみたいだし。同じ問題は出なくても、公式は絶対に同じものが出るから、要暗記だよ」

そう言い、笹橋は僕の解答の一行に赤ペンで線を引き、『REM』と大きく書く。


「何ですか、それ」

「うん、そのままの意味。君の記憶に残るかなあって。ほら、Remember とかRemindみたいな意味で覚えてくれればそれで幸いだ」

なるほど、わかりやすい。


「この範囲は私の予想ではここが一番難しいかな」


「ここが難しいって、これ一応授業で習ったことは出ているけれど、あきらか今までやってきた問題集とは毛色が違うじゃないですか」


「まあ、何事も挑戦だよ、焼きリンゴくん」


「だから、僕は焼きリンゴじゃないっ」


「毛色が違う、それはそうとも。私が君のために作ったからさ」

話を聞いてねえ。


「で、なんでこんな難しい問題を僕に解かしたのですか」


「えー、言わなければダメェ」


「言ってください」


「うーん、えー、恥ずかしいなあ。ほんとに言わなければ、」

「ダメです」


「うぅー。えへへ。うーんとね、き、君の困っているところが、見たかったからじゃダメ。えへへ」

何とまあ、鬼畜な理由で。

笹橋はポリポリと頬をかきながら上目遣いで僕を見上げる。いつも、ほかの人に見せる凛とした顔に表れるキリッとした笑顔ではなく、年ごろ、いや、少し幼く感じさせる、にへら、と笑った朗らかな顔は僕の胸の奥でなりを潜めていた胸の鼓動を急激に大きくさせた。

少しずつ、僕と彼女の距離がゼロに近づいていく。


「うはー」

じりじりと近づくたびに狭まる僕たちの間は彼女の行動によって一気に消える。


「へぇっ」

笹橋は僕の胸あたりにしばらく動かなくなる。どんどん、鼓動は力を強め、耳の裏さえドクドクと言い出す。顔に熱が集まる。


「えっ、ちょっ、さ、笹橋さんっ。えっと、これは」

彼女の肩を掴んで自分から離そうとする。彼女から発する独特の甘い花のような香りに顔に熱がこもっていく。

僕の声が届いたのか、彼女は僕の胸から顔を離す。そして、今度は胸に耳をあてる。


「ふふ、どっくん、どっくんしてる。ヤキリ君の変態」

『変態』という言葉を彼女から聞いたとき、より激しく鼓動が鳴った気がした。

「まあ、いいよ。そのまま。あと少し」

彼女の唇からゆっくり言葉が紡ぎ出される。

「このままでいさせて」

僕の心音は少し弱まる。彼女の艶 のある茶髪に手を置き、ぎこちなく撫でる。

少し、涙が出そうだ。

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