第十二話 鮮赤の序章②

死体。

死体がぶら下がっていた。

ドラマではよく死体を見つけた人はその場で吐いたり、口元を押さえ苦しそうな表情をして僕たち視聴者に現実味を与えるのだが、僕は心のどこかでそんなことはありえない、と断定していた。


だけど、現実は。日常に発生した異常は。

すごく気味が悪かった。胸の右下斜め奥から何か、おぞましいもやもやがわき出るように、這い上がっていくように、感じた。


口元を押さえ、その場に崩れ落ちる。急に吐き気を感じ胸をおさえ、口から何かが出ないようにする。

口の中に広がる酸味の味覚から逃れるために目を閉じ、脳を働かせる。


絶対にないと思っていたことが現実ではっきりと行われる。これが人にとって一番の恐怖だ。と、開野があいつらしくもなくいきなり言い出していたのが頭によぎる。


「おい、月見里。大丈夫か」

膝をついた僕に先生は声をかける。


「ここは俺が後で処理する。だから、お前は」

教室に戻れ。僕は自力で気を保ち先生を見上げながら言う。


「無理ですよ、先生。こんな異常に出会ってしまったんですよ。そんな簡単に『そういえばそんなことがあったな。まあ、いいか』みたいに楽観的に考えられるわけがないじゃないですか」


「そう、だな。だが、お前は戻れ。まだ間に合う。このようなことはなかった、と自分で決めつけろ」

お前には、まだ早すぎる。先生はそう言い残した後、僕の方に歩いてきた。

先生が僕の目の寸前に立ったところで僕の意識は暗闇に刈り取られた。





「やあ、またあったね〜、灼梨。どうしたのー?悪さして〜先生にアッパーカットでもされた〜?」

どこからか、弾んだ声が聴こえてくる。歓迎の天国か、それとも恐怖の地獄か。

無駄な考えを改め、目を開く。目が光に慣れるとつい先ほどの見覚えのある光景が顕われた。

保健室のベッドの上だった。


「ああ、綿引。またあったな。その答えに関してはそうであってそうではなかったな」


「ふ〜ん。むずかしーねー。なかなかに〜、中身がーいっぱい、つまってる〜ことだったんだ〜」


「まあ、そういうややこしいのだ」

そうだ。

見つかったのは死体だった。割られた窓や破壊された扉などではなく、なんというか、死体だった。

中身が今も、そしてこれから先も何もつまっていない空虚な死体だった。

やはり、先生に忠告されても思い出してしまう。


視聴覚室の片隅に存在した赤い水たまり。無音の世界においての流動的な何か。平面にそって放射状に広がっていく赤の地面。

赤。暖色の代表といえる色なのに寒色よりもどこか淡々とコンクリートでさえ全てを包み込んでしまいそうな冷たさを感じるのであった。

どこをとっても胸のドロドロが溢れかえりそうになる。


「またすごくー、顔色がー悪いよー、何かあったのー?灼梨はー、人にー、頼らなきゃ〜。自分でー、抱え込んじゃ〜いつかー、パンクしちゃうよー」

綿引が僕の顔を正面から覗き込んで首をかしげる。


「じゃあ、今度美味しいレストランを教えてくれ。今、料理に困っているんだ」

適当に誤魔化しを入れる。


「でも〜灼梨。君はー、料理ふつうにー、できたじゃーん」


「作りたくない日が増えたんだよ」


「灼梨の大好きなーコンビニは〜?」


「この前、潰れただろ。唐揚げとともにおさらばだぜ、まったく。酷いものだ」


「あはは〜。それだったらー、ル・レーブに行けばいいよー。あそこのー、オムライスはー絶品だから〜」

ル・レーブ。確か、フランス語かイタリア語で欲望だったか、将来の夢だったか、はたまた煉獄だったか地獄だったか。聞いたことの有無も忘れていた僕には思い出せるはずもなく、単語だけは頭の中に残しておくために心の中で何度もル・レーブを連呼する。


「そうか、なら今度行ってみるよ」

僕はそう言いながらベッドから出る。

数十分前に走ったからなのか足に力が入らず少しふらつく。


「また〜、どっか行くの〜?もう残りー数分で三限がー、終わるんだから〜、ここにいれば〜?」


「うん、ああ。ただと思っただけだ。別にそれぐらいは先生であっても束縛はしないだろ」


保健室のドアに手をかけ横にズラす。

外からはムワッとした風が僕の体にまとわりついたように感じる。


「ああー、そうだ灼梨〜。ひとつだけちゅーこくー。もっとマシなウソついた方が〜いいよー。いまどき、友達に〜、そんなカタコトはー言わないからねー」

いとも簡単にバレた。これじゃあ、僕には手品などは向かないだろう。


「余計なお世話だよ」

少し、悔しさが残るものの、やはり友人と会話ほど僕ら凡人にとって楽しいことは他にはないだろう。


廊下は暑い、というよりむしろひんやりと冷えていた。今まで解放的に歩けていた真っ白な廊下はいつしか他に行き場のない一本道へと化していた。

恐怖が何度も自分を襲う。


まだ、何も分からない。わかったのは存在していたのが首吊り死体ということのみ。あの死体が誰なのか、なぜあの部屋なのか。自殺なのかそれとも他殺なのか。なぜあの時間帯なのか。他にも、何故首吊りなのに血が流れていたのか。

沢山の疑問が浮かぶ。自分では到底理解できるとは思えないような難題。


だけど。

関わってしまったのだ。自分は誰かの死体を見てそれを無視し続けるほど薄情な人間ではない。遠嵐先生には後で謝らなければならない。彼も彼で気にしているのだろう。一人の生徒を不快にさせてしまったから。


今回のこの事件については自分一人で捜査は行う、そう決めた。遠嵐先生には応援を要すると思うが笹橋などにはしない。僕の方が彼女たちを他殺ならば危害が被られるかもしれないからだ。


いま、学校側での捜査がどこまで進んでいるのかはわからない。

もしかしたら、僕は一生答えにたどり着けないかもしれない。


廊下を歩いては止まって。また歩いては止まって。何度も後ろを振り向いて保健室に戻ろうともした。

側から見れば怪しい人物だ。僕は両手で頰を叩く。ムワっとした空間を振動させ僕の耳にパンっと音が響くのが聴こえる。


クヨクヨしてはいけない。僕の行動が空振りになっても、無意味だったとしても歩く。それが、今一番必要なことだと胸に手を置き、もう一度前を廊下をまっすぐ奥まで、はっきりと見る。

真っ白な廊下はところどころ光のせいか透明に輝いているように見えた。

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