第十話 凡才
彼を真似てウインクの練習をした翌日、つまり水曜日、今日も片滌先生の疲れた『おはよう』以外は通常通りの学校生活が始まった。
今日も今日とて元気が良い、という評判を持つ我らが二年一組は絶えず休み時間、授業中でさえなにかと盛り上がっていた。なにで、毎日盛り上がるのかと問われれば毎日話題が違うので答えにくいが今日、この水曜日はやはり『海喫茶』の話題で盛り上がっていた。
話題、と僕の頭に浮かんだことにより、昨日のことを聞きに笹橋のもとへ向かう。
「なあ、笹橋さん。ちょっといいですか」
「ん、なんだい、リンゴくん」
「もう僕の名前の原型もなくなってしまっているじゃないか」
「まあまあ、気にしない気にしない。で、なにかあったの」
「ああ、少し聞きたいことがあって。上蹴坂晴海って知ってますか」
「…うーん、と知ってるよ。一年ぐらい前にやった青春ドラマで主演俳優の演技が良くて爆発的に人気になってて、その俳優がたしか上蹴坂晴海だったと思うよ」
ネット上の情報だけど、と彼女は頰をかいてそう言った。
たしかに。
為縛街は、客観的に考えて良い街である。しかし、短所を挙げるとすれば都会から離れていることとテレビが使えないことである。この街はテレビの回線が通っていないため、テレビ番組を見ることができない。だが、ネット回線はあるため動画投稿されているサイトで投稿されているものもあるのでそこで観れる。
しかし、いや、それでも。
僕はそういうのに疎いのもあるが、彼女も名前だけでそこまでの情報をくれるのもやはりすごい。
「……そう思えばなんでそんなこと聞いたの」
「ああ、昨日その名前を名乗る人がいまして、どういう人物かと」
「……」
笹橋は考え込むように顔を下げ顎に手を置いて静かに目を瞑った。
僕と彼女の間には静寂が訪れた。
「えっと、どうかしたんですか」
少し、不安になり声をかける。
「ん、ああ、大丈夫。ちょっと考え事をしてね。なんでそんな大物がこの街にいるのかと」
「観光とかじゃないんですか。ほら、よくお忍びで行くとかあるじゃないですか」
「うん、そうなの、かもね」
笹橋はうん、と頷いてそう言った。
「あっ、そういえば何かするって言ってましたよ。この街で」
この言葉に笹橋は驚き、目を見開く。
そして、その表情をしたことに少し驚きながらもすぐに僕に笑ってみせた。
「じゃあ、楽しみだね。どういうことをしてくれるのか」
笹橋は微笑んでそう言った。やはり、美しい。だが、この前の図書室での感じや、一昨日話したときに感じたものは今は感じられなかった。やはりどこか、なにかが抜けている。いや、余っている、多いのか。
なにがだろう。なにかが。
まだ、パズルのピースはどこか、はまりそうで、うまく噛み合っていない。やはり、僕の勘違いだったのだろうか。僕は馬鹿だ、愚かだ。だから、これは僕が考えるのではなくて、
こんな疑問はやはり、天才が解いてくれないと。いや、天才が解くのが当たり前だ。
僕みたいな半端で愚者な人間ではなく、万能の天才が。
自分の自虐さに心を痛めながらも「そうですね」と無理に笑いながら僕は心の中でため息をついた。
「じゃあ、僕は戻ります。次の授業の用意をまだしていないので」
僕はこの場を離れるために最低限嘘とは思われない嘘をつく。
「そだね、リンゴくんはなんてったって国語が苦手なんだもんね。特に今回の単元の漢文は、ね」
笹橋は意地悪そうに僕をニヤニヤと見ていた。
というか、なんで僕の苦手科目知っているんだ。僕は一度も彼女に教えた覚えはない。彼女とテストの点数で競う時は絶対に勝てはしない、一番よく高得点をとっている化学の分野でも厳しいだろう。
「……どうして、僕がその質問をすると思ったんですか」
「そんなの、君がよくその単元の質問をしてくるからだよ。君の質問回数は数学で八問、理科分野で一問、社会分野、英語は共に十問、そして君の苦手ナンバーワンの国語分野は計三十六問。ほら、結構差が激しいでしょ」
たしかに。自分では数えたことはなかったが彼女はそこまで正確に覚えているようだ。
「まあ、ただの予想だよ。Aの言葉に対しBはある一般的な特定されたことを考える。その一般的な考えから導き出される相手の応答に対してAが先にBの発言の目的の返答を言ってあげる」
ほら、誰でもできるでしょ。と言いたげな顔で笹橋は僕に向けてくる。
そんな簡単にできるわけねえだろ。凡人はある一般的な相手の応答を思い浮かべるのが無理なんだよ。
「はあ、もういいです。僕は戻ります」
「そうか、じゃあ頑張ってね漢文。今日は再読文字の応用だよ」
マジかよ。
「
なにが言いたいのかさっぱり分からない。
「ノートに復習すればって言ってるんだよ。なに、こんなんも分からないの?蓋ぞを
いや、だからどういう意味だよ。
彼女は僕に漢文で会話しようとしていると思うのだが生憎と僕はうまく授業内容が記憶できていなかったのか笹橋の、言っていることがさっぱり理解できなかった。
「まあ、いいさ。頑張ってね」
僕は一度、教室を離れ授業を受ける前に、というかためにトイレに行く。
どこまで、僕の思考は理解されているのか。それが、彼女、笹橋と会話するにあたって毎回引き起こされる悩みだった。
いつものイタズラのように、海喫茶の計画のように、今日の心理学のように、彼女には僕の腹の底までもが見透かされているように感じた。僕にはやはり、才能という脳がない。だから、彼女ら、天才がなにを考えなんのために行動しているのか、その過程は僕には到底。
否。一生理解することはできないだろう。だから、やはり彼女ら天才のことがたまに怖く感じる。僕と同じ人間なのに。僕と同じヒトなのに。例え話で聞くアインシュタインは実はあまり幼少期は賢くなかっただの、エジソンの人生の中で思い浮かばれたありとあらゆる発想も到底理解されることがなかったからこそ、こうやって伝記にのり、なにも知らずに彼らはすごい、とだけ伝える。やはり、いつの時代も天才と凡人は分かり合えない。天才の思考は凡人には分からないし、凡人の凡人なりの覚悟や苦悩も天才には分からないだろう。それに天才は凡人がいてこその天才であり、凡人も天才が存在するからこその比較対象として存在する。
天才と凡人は互いに相容れぬ存在であり、また互いを必要とする存在である。僕はこれは数学の背理法では証明できないAとA'(結果がAという答えにならない事象)、つまり鏡写しの真逆の事象でありながらこの天才と凡人は空集合にも片方の集合にもならずイコールにもならない。いうならばニアリイコールであり、またノットイコールでもある。全くもってややこしいものだ。
まあ、しかし。天才が凡人の思考を理解できるのなら、今の、今までの僕の行動や考えも笹橋等にはお見通しなのだろう。
だから。
なので。
つまりは。
まとめると。
僕は、凡人は一人ではどう足掻いたって天才には勝てない。
トイレを出て教室までの帰路に着く。授業前一分前なので廊下には誰も居ず、教室からは楽しそうな声が聞こえてくる。その考えに至って、僕は廊下に立ち尽くす。
僕は。間違っていた。やはり、勘違いをしていた。勘違い、というか思い違いをしていた。
凡人は天才には勝てない。だけど。いや、だからこそ。
その分、僕たちは楽しむことに一歩秀でているのかもしれない。
階段から、床が揺れる音がする。遠嵐先生だろう。どこか、違うクラスで授業をするのかもしれない。
まあ、そんなことよりも。今は、教室に向かって。走ろう。
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