第9話
空がすっかり暗くなってから、昇降口から、まとまった人数の女子が出てきた。
外に突っ立っている俺をちらりと見る人もいたが、特に注目されることはなかった。
たぶんあれは吹奏楽部の部員だろう。女子ばかりだと言っていた。
それに、こんな時間まで残っているのは、吹奏楽部以外は運動部だ。
女子たちが帰ってしまって、しばらくして、ぽつり、ぽつりと女子が出てくる。
やがて一番最後に、放課後、音楽室の前で話した女子、黒川先輩と、花村さんが出てきた。
近くに立っている俺を見て立ち止まる。
それから、無視して行こうとする花村さんの腕を、黒川先輩がつかんだ。
「間菜。確認だけど、鈴木君と、花粉症のことで相談してたって本当?」
花村さんは黙っていた。
「さっき鈴木君には、二人は話をしたり、合宿所に来てもらうくらいには仲がいいとは聞いたんだけど。もし完全に嘘ならそう言って。あの人はストーカーとして警察に連れてくから」
即警察。
「どうする? 帰る?」
黒川先輩は花村さんに言った。
「すこし、話します」
花村さんは言った。
正門から道路をわたってすぐの場所に、小さな公園がある。
遊具はなく、ベンチと水飲み場だけ。
道路沿いにある街灯で公園内は明るかった。
俺と花村さんはベンチに座った。
「花村さんは、他の人より遅いんだね」
「すこしなら残って練習しててもいいから。他の人より多くやらないとレギュラーになれないし」
「ごめん」
「え?」
「大事な日に遅刻して」
「別にいいよ」
「よくはない」
「いいよ」
俺はさらに否定しようとしたけれど、ダンプカーが近くを通った騒音のせいでかき消された。
それで思い直した。
こんなことを言いに来たわけじゃない。
「それでその、なんというか、俺が遅刻をしたわけだけど、その、今後遅刻があったとしても、うまくやっていける方法を考えようと思って今日、来たんだけど。そういう話をしようと思って。もっとうまい方法を考えたい」
昇降口の前でいろいろ考えたつもりの文章は、もうぐちゃぐちゃだった。
できてるつもりで全然できてない。
紙にでも書けばよかった。
「それを言いたくて、黒川先輩に頼んだの?」
「黒川先輩には音楽室の前で会って」
「それで? 私の花粉症が治ってないって聞いて、どう思った?」
「……どうも」
「どうも? どうもっていうことはないでしょ」
「まあ、そうなんだけど、でも意味がわからなかったから。どう考えていいのかも、よくわからなかった」
花村さんが嘘をついているか、黒川先輩が嘘をついているか。
どちらも考えにくい。
「私、中学生のとき、バス通学してたの」
急に花村さんが話を始めた。
「学校まで二十分くらい乗って。吹奏楽部の朝練があるから、七時には音楽室にいなきゃならなくて。時間的に、バスはガラガラだったんだけど」
「一番うしろの席によく座ってて。眠いし、揺られながら、うとうとしてるときも多かったの。で、中二のとき、ふと目がさめたら、となりにスーツのおじさんが座ってたの。おじさんっていうか、まあ、お兄さんとおじさんの間くらい? その人が、私の胸をさわってたの」
「一番うしろの席で、私が窓側の端、その人が私の左隣。なんか、雑誌を広げて、前を向いたまま、右手で雑誌を持って、左手で自分の右手の下を通って私の胸をさわってたの」
自分の右に座ってる花村さんをさわるのに、右を向いてさわるんだとあまりにあからさまだから、自分の右手で隠しながら、ということなんだろう。
「胸をさわられてる、と思って左を見たら、その人と目が会ったの、その人はふつうに手を引いて、なにもなかったみたいに雑誌を読んでた。私、なにこれ? と思って。どう考えてもおかしいんだけど、夢かな、ってちょっと思ったの。だって、となりの人は、平然とそのままだから。すぐ停留所が来たけど、降りなかったの。痴漢だったら逃げるんじゃない?」
「それで、停留所で扉が閉まって、バスが走り始めたら、その人が私を見たの。それで、『いいんだね?』って言ったの」
「それでまた、右手の下を通して、左手で私の胸をさわろうとしたの。私、カバンを抱えて胸を防いで。そしたらその人、なんだこいつ、っていう顔で私を見て、舌打ちしたの。それからそのままその席にいた。私はその人がじゃまで動けなくて。結局、その人は次の停留所で降りた」
「私、混んでるバスで通ってる子が痴漢されたっていう話を聞いて、私はすいてる時間でよかった、と思ったんだけど、全然よくなかった。混んでても、すいてても、全然逃げ場所なんてないんだって思った。となりにどっしり座ってたらなにも言えないし、動けないし」
「帰ってから、頭の中で、その人の腕をつかんで運転手さんのところまで連れていって、痴漢です、って言うのを思い浮かべた。何度も。こうできてたらなあ、って」
「でもあの日の私にはできないと思ったし、それからもできないと思った。私にできたのは、バスの時間をもっと早くして、いつも運転手の近くに座るようにすることだけだった。他にもあった。吹奏楽部の大会に行くとき、混んでる電車で、私だけ痴漢されてたときもあった。みんなは緊張してたり、話をしてたりするのに、私はこわかった。演奏もさんざんで、みんなになぐさめられて。なんでこんなことになるんだろうって思った。他にもあった。何度もあった。マスクをして顔を隠してみたらと思ってもだめで、そのうち花粉症になってマスクが手放せなくなって、だから私が、私がなにか悪いのかと思った」
「最近は、練習が終わったら、この公園に迎えに来てもらってるから平気だけど。朝のバスも平気。他の部員にも会えるし」
花村さんは、斜め下を向いたまま、俺に言っているような、誰にも言ってないような口調で続けていた。
見上げると、この公園は街灯が立派だとあらためて感じた。
園内すべてが明るく照らされているようだった。
「それで……、連絡できなくて、ごめんね」
花村さんは言った。
「いや」
「私、よくわかんなくなっちゃって。鈴木くんさ。階段で私を助けてくれて、そのとき、胸を揉んだでしょ」
「あの件は本当に……」
「あのとき私、やっぱりな、って思った。こんなときでも、チャンスさえあれば男の人って体をさわろうとするんだな、って」
「いやそれは」
「でもね。土下座されて、イラッとした」
「え?」
「痴漢のくせに、なに、ちゃんとした倫理観持ってるみたいな態度して、って思った」
「それは……」
助かりたい一心の土下座だったことは否めない。
だけど、痴漢と言われるのは、俺としてはちがうと思っている。
それはまちがってるんだろうか。
「だから、次の日呼び出して、さわらせたの。うっかりさわったなんてわけのわからない理由じゃなくて、さわりたかったからさわったんだ、って自覚させたかったの。あなたは痴漢なんだって」
「でも、そのためにさわられてるよ?」
「いい。それでもいいの。二度、三度ってさわらせてでも、一回目のはわざとだったって認めさせたかったの。罰はどうせ与えられないだろうけど、罪の意識は感じてほしいとおもったの。高校生活の一ページじゃなくて、トラブルを利用した痴漢行為をしたって思わせたかった」
俺はなにも言えなかった。
痴漢に、痴漢だと認めさせることは、花村さんにとっては大きなことなんだ。
俺はまだわざとじゃないと思ってるけど、不自然だったことはたしかだ。
「でもいまいち正体見せないし、なんか、とまどってる演技してるから、花粉症が治ったなんてわけのわからないことを言ってでも、続けてみたの」
「でも鼻水が」
「いくら花粉症がひどくたって、鼻水が永遠に出続けるわけないんだから。一回出し切ったら、ちょっと出なくなっただけだよ」
そう言われればそうなのか。
「でも鈴木くん、ほんと、わけわかんなくて。花粉症が治ったって、ふつうそれ信じる? バカじゃない? しかも、私のためとか言って、スマホで撮って自分でマッサージすればいいんじゃないかとか言い出すし。さわればいいじゃん。さわらせてもらえるんだからさ! 合宿所まで来てって言ったら親の実家が近いからに来てくれるとか言い出すし。いつもいつも、私の胸にさわるとき、怯えてる顔っていうか、困った顔っていうか、全然うれしそうじゃないし! ねえ、なんなの? ちょっとはうれしそうな顔したら? 鈴木くん、さわりたいんでしょ?」
「それは……」
それはたしかにそうだ。
俺は、なにを思っているのだろうか。
「たしかに、俺は、さわりたいのはさわりたい。いつもそう思ってると言っても過言ではない」
「はあ? なに堂々と」
「でも、あのときわざと花村さんの胸を揉んだわけじゃない。花村さんの力になりたいと思ってるのも嘘じゃない。なんていうか、俺は」
花村さんは俺を見ていた。
そのとき、公園の入り口に車が停まった。
「間菜ー?」
車の窓を開けて、中から呼びかけていたのは、花村さんの母親のようだった。
その声で、俺は自分がなにを言おうとしていたのかを見失った。
花村さんは車に乗り込み、帰っていった。
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