第7話
俺は、遅刻というのはしないほうだ。
中学二年のときに寝坊をして一回、あとはない。
誰かと待ち合わせても、十五分前には到着している。ちょっと離れた場所で、電車やバスを使う現地集合の場合は、最低一本は遅れる可能性があると考えて行動をする。
そんな俺なのでまず時計の表示を疑った。
九時?
待ち合わせてるのは五時半だ。
はは、ないない。
ありえない。
と思って一度目を閉じる。
だけどなんだか違和感があって、目を開け、壁の高いところにある古い時計の針を見る。
なんか変だ。
ゆっくり起き上がってみる。
夢にしてはなんというか……。
意識がはっきりしている。
その意識も、だんだんはっきりしてきて、胸がざわざわする。
「たろうー、そろそろお昼だけどー。まだ寝てるのー」
母の、のんびりした声が胸騒ぎを加速する。
枕元に置いてあった携帯を見る。
画面が暗いままだ。
ホームボタンを連打。つかない。
電源ボタンをカッチン……、カッチン……、と長押し連打。
それから電源コードに接続してみてやっと、電池切れだとわかった。
血の気が引く、なんていうけれども、いまの俺は魂が抜けるという感じだった。
いくら畑仕事まで手伝ったからって、そんなに寝るか?
まだ現実を受け入れたくない。
受け入れたくないが、電源が入った携帯のLINEやメールで何件か花村さんのメッセージが入ってるのを見つけ、俺は立ち上がった。
のろのろ動き出したのがだんだん加速がついてくる。
着替えて部屋を出て玄関に直行した。
「太郎? どうしたの?」
物音に、居間から母が顔を見せる。
「別に」
どう見ても別にっていう態度じゃない俺は外に出て。
自転車をこぎ出した。
こういうとき、ペダルをこぐ力は無限にわいてくる。
風を切る。
車の数も増えてきている。
空気が朝よりずっとあたたかい。
くそ、くそ、くそ!
時速百キロ(気分)で合宿所に到着して、そのまま自転車をこいで入っていく。
門の横に守衛室のような小さな建物があったが、誰にも止められることはなかった。
どこだ!
あそこだ!
宿舎のような建物の先。
体育館みたいな建物がある。
ギュンギュン自転車を走らせて、入り口で自転車を乗り捨てるように降りて裸足でペタペタペタペタ走っていく。
ここも受付もなければ警備員的な人もいない。
通路を走って、最初に見えてきた大きな扉を開けた。
ばっ、と視界がひらけた。
外の印象は体育館だったけど、実際は、客席とステージに分かれた場所で、中は小さいコンサートホールだった。
客席側には、客席に座った百人をこえるジャージ姿の部員たちがいる。
中央には、顧問っぽい太ったおっさん。
みんな突然現れた俺を見ている。
視線、視線、視線。
ステージ上は金色の楽器を持った女子たちがいた。
その中のひとり、口を開けて驚いているのが花村さんだった。
「なんだ。誰だ」
顧問(仮)は言った。
「え、と……」
「いまテスト中だ、そこ開けるな!」
半ギレ、いや全ギレだった。
そのとき、ステージに立っていた花村さんが袖に消える。
どうしたと思ったら下に出てきて、俺の手を引いて通路へ。
「ごめん、寝坊した」
花村さんは無言で俺の手を引いていく。
楽器は持っていなかった。
通路に出ると、花村さんは立ち止まった。
「あ、もっと向こうでやらないと」
「……」
「花村さん? テスト、時間ないんだよね? ほら」
「ごめんなさい」
「え?」
「もう……」
「もう終わった?」
しまった!
間に合わなかった……。
「これから」
「なんだ!」
ギリギリセーフ!
「これから演奏だから、帰って」
「え?」
「花粉症の薬を飲んだから」
「あ、そうか。でも、いちおうやっておいたほうが」
「もうだいじょうぶ」
「あの」
「もう、だいじょうぶだから。いままでありがとう」
「え?」
「いままで、本当にありがとう」
そう言って、花村さんはポケットから出した白い封筒を俺にわたした。
「これは?」
「もう、だいじょうぶだから」
花村さんはホールにもどっていく。
「え、でも」
「ありがとう」
花村さんは扉を閉めた。
中から、鍵がかかった音がした。
念の為、扉の取っ手を持って押したり引いたりしても、動かなかった。
すぐ、別の入り口もあるだろうと思った。
でもそれはなんの解決にもなっていない気がした。
もうだいじょうぶだから。
花村さんの声が頭の中から聞こえた。
俺は、わたされた封筒の中を見た。
手紙と、五千円札が入っていた。
『鈴木くんへ。この数日、私のために変なことにつきあってくれてありがとう。これはお礼です。なにかおみやげでも買ってください。ありがとうございました』
「なんだ、これ」
文面も何度も読んだ。
読んでも読んでもわからない。
中からは、トランペット、と思われる演奏が聞こえてくる。
聞いたこともない曲だった。
こもった音で、聞いていると頭が痛くなってきたので、俺はその場から離れた。
脱ぎ捨てた靴を拾って、ホールから出た。
倒れた自転車を起こし、またがる。
ポケットから封筒が落ちた。
そのままにして帰ろうと思ったが、思い直して拾った。
軽く拾ったつもりが、握りつぶしてしまった。
かたまりになった封筒をポケットに押し込み、自転車に乗った。
朝食をとって、祖父母にあいさつをしてから車に乗り、家に帰った。
その間、ふしぎなことに、みんながなにか言ってきてもあまり意味がわからなかった。
なのに俺はちゃんと返事をしていた。
別の俺が自動的に判断をしている。
その全部が、他人同士の会話のようで気持ちが悪かった。
帰りの車の中で、花村さんに何度かメッセージを送った。
その全部に返事がなく、既読にもならなかった。
連休明けの朝、俺は朝六時にいつもの場所にいた。
花村さんは現れなかった。
遠くから、吹奏楽部が練習している音が聞こえていた。
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