第3話
整理できない気持ちのまま、次の日はやってきた。
朝、ホームルームが終わると花村さんに呼び出され、俺はついていった。三日目ともなると、花村さんが教室の出入り口でちょっと俺を見るだけで察することができるようになっていた。
屋上前に到着すると、花村さんはブレザーを脱いだ。
「あの、それで昨日言ってたことを……」
「理由?」
という花村さんの声はかなり鼻声だった。
「うん。あれ、カゼ?」
「じゃないよ」
花村さんはワイシャツも脱ぐ。
マスクを外した。
俺を見る。
なんと言っていいかわからず黙って見返す。
花村さんの鼻の穴には、ティッシュが詰まっていた。
ティッシュがしっかりと詰まっている他人の姿を見たのは、小学生のころに鼻血を出した同級生がいたとき以来だ。
「鼻血?」
俺が言うと、花村さんは首を振ってから、テッシュに手をかけた。
引き抜いた。
詰まっていたティッシュの先端が抜けたか抜けないかくらいでもう、すー、と水のような鼻水が流れ出た。
流れは早く、あっという間に唇を通り抜けて、あごに到達すると、ぽたりぽたりと床に落ちた。
から、つーっ、とたれさがってきてそれを花村さんは取り出した新しいティッシュペーパーですくい取り、鼻をかんで他のティッシュを詰め直し、床に落ちた分もふきとって用意されていたビニールの小袋にしまっていた。
「花粉症なの」
花村さんは鼻声で言った。
ひどい人は水のような鼻水が出るとはよく聞く。
「私、トランペットやってるんだけど、花粉症がひどくて。高校入ってからは特に。だからパーカスに、打楽器にまわろうかどうしようかって話にもなったんだけど」
「杉、は終わったんじゃ?」
四月のメインは別のものだったような。
「そういうレベルじゃないの。ホコリとか、いろいろ、複合的で、鼻炎もあって。もう私の場合、ほとんど一年中こういう感じ」
「大変だね」
だからいつもマスクをしてるのか。
とは思いましたけれども。
それが、いまなんなのか。
「じゃあ、やって」
花村さんは胸を張った。
「なにを?」
「胸」
花村さんが揉み待ちの体勢に入った。
全然わからない。
わからないが、揉めというのなら俺は揉む。
揉めるのだから。
理由はそれで充分だ。
「もういい」
「はい」
俺は手を離した。
花村さんは、服装を整えるのではなく、またマスクを外した。
鼻にティッシュが詰まっている。
そのティッシュをまた抜いた。
鼻からはなにも出てこない。
「花粉症が治ったでしょ? これが、胸をさわらせてる理由」
花村さんは言った。
言葉の意味がわからなかった。
俺はよっぽど変な顔をしていたんだろう。
花村さんはちょっと笑ってから、鈴木くんのマッサージのおかげだよ、と続けた。
「花粉症が治った?」
「鈴木くんのおかげで」
「ちょっと意味がわからない」
「私も意味はわからないけど、治ったの」
「なんで?」
「知らないよ。朝になったらまた花粉症になってたから、たまたまかと思ったけど、昨日もそうだった」
「え……、まじですか」
「まじ」
「いや、でも、吹奏楽部のために?」
「そうだね」
「嫌じゃないの?」
「そりゃまあ気持ち悪いけど、花粉症が治ればペット吹けるようになるし、がまんするしかないでしょ」
「え、でもさ。え……」
絶句。
意味・途中で言葉に詰まること。
いま俺はそれである。
部活のために?
男子に胸をさわらせる?
気持ち悪いけどがまんする?
「すごい顔してるよ」
花村さんがまた笑う。
「本気で部活、やってんだね」
「吹部でこの高校選んだくらいだから」
「ああ……」
「去年花粉症がきつくなって、ほんとしんどかった。レギュラー外されちゃって、練習もできないときもあって。薬飲むと、ちょっと集中力落ちるんだ、私の場合」
「なんかごめん」
「え?」
花村さんがちょっと驚いたように俺を見た。
「いや、なんか」
「鈴木くんが謝ることじゃないでしょ。私からお願いしてるんだから。ちょっと恥ずかしいけどね。あ、気持ち悪いとか言ってごめんね? 鈴木くんが気持ち悪いとかじゃなくて、みんな気持ち悪いから」
花村さんは照れたように笑った。
結局気持ち悪いんだなと思ったけど、フォローしようという気持ちは伝わった。
この場合、気持ちが伝われば充分だ。
「じゃ、教室もどろっか」
ちょっとごまかすように花村さんが言う。
「別々でもどったほうがいいと思うけど。先、いいよ」
「そう? それじゃ」
俺はその場にいた。
一時間目のチャイムが鳴っても動かなかった。
歩きだせなかった。
仕組みは不明。
効果がいままでどおり続くのかも不明。
でも俺が揉むと、花村さんの花粉症がおさまる。
それにより、本気の吹奏楽部で、さらにがんばれるようになっているらしい。
信じられないけどそういうことらしい。
部活のためだったらそれくらい、とがまんできるらしい。
俺の中にわきおこる気持ち、これはなんだろうか。
恥ずかしさ、だろうか。
そうかもしれない。
悔しさ、というのも入っている気もする。
なにをしてるんだろう、俺は。
俺が、胸を揉ませてもらって喜んでいる間、花村さんは自分の目標に向かって走っている。
そのために、自分の大切な一部を切り捨てても平気だという。
一方の俺はどうだろう。
ぼんやりと、ただ与えられたおっぱいを喜んで揉んでいるだけだ。
赤ん坊のころとなにも変わっていないんじゃないか。
花村さんとの距離は、途方もないほど開いているのではないか。
おっぱいを揉んでラッキー、としか思えてない。
なんだそれ。
バカじゃないのか。
もちろん揉みたくないといえば嘘になる。
それどころかいまの花村さんの話によれば、俺は花村さんのお手伝いという名目で、今後もかなりの期間、揉みが保証されているといえる。
揉める。
揉みたければ揉める。
花村さんの花粉症がおさまるまでは、いくらでも揉める。
でも。
それってなんだ?
口を開けてエサを待っているヒナドリと、ヒナドリにエサを運んでいる親鳥、くらいの差がないか?
なんだかぞっとした。
別に、将来の目標があるかどうかなんて高校生で決まるわけじゃない。
いつ見つけたっていい。
でも、いつだっていいや、と安心してたら人生が終わってるんじゃないのか?
そう思ったら、一歩も出なくなった。
もがけばいいってものでもない。
俺にできることをやればいい。
受験勉強とかやって、力をたくわえて、それでもいいはず。
でもいま。
花村さんに対してできることもあるんじゃないか。
そんな気がした。
「おはよう」
「おはよう」
四日目の朝、六時。
俺と花村さんは朝の学校にいた。
場所はいつもの、屋上への入り口前。
いつもなら起きてすらいない。
ほとんど異空間だ。
「ごめんね、朝早く来てもらうことになっちゃって」
「俺が言ったことだから」
それだけ真剣な部活なら、朝練があるのでは、と思ったら、そのとおりだった。
だったら、早起きしてそれに合わせてみる。
そこからなにか変わるんじゃないかと思った。
「じゃあ、さっそく」
花村さんはブレザーを脱いだ。
「そのことなんだけど」
「ん?」
「もうひとつ、考えがあるんだ」
俺はスマホを出して、用意してきた台に設置した。
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