第10話:歪んだ愛。

 屋上にて————。


「さて、殴り合いは置いといて、話し合いで何とかならないですかね?」


 屋上に辿り着いた俺と朝原は距離を五歩くらい空けて、会話を始めた。俺の後ろには扉があり、いつでも逃げれるようにしてはいる。


「君とは、話し合う気はない」


 そう言われてもなぁ。急に刺されるのはごめんだし。


「ナイフ持ってるんですよね? こっちはステゴロなのにあなたは刃物とか卑怯じゃないですか? 刺されるこっちの身にもなって欲しいですよ」


 刺されることを前提に話しているが、刺されたくないのが本心だ。当たり前だけど。だからと言って喧嘩とはならない。痛いのは嫌だ。結論、どっちも嫌だ。


「話し合いで何とかならないですかね。あなたは最初から負けてるんですよ。それでも尚、執着して、執拗に霞に近づいてさ、ストーカーと変わりない。今あなたがやろうとしてる事は自分自身を殺してるものだと、考えて分かんないのか? それに家族も世間から後ろ指を差される事を加味した上での行動ですか?」


 俺は彼を犯罪者にしたいわけではない。できるのであればそうならないようにしたい。

 こんな歪んだ愛で、この一時で人生がお先真っ暗になる。だから、それだけは避けたい。


「もういいんだよ。僕は君を殺したくてたまらない。邪魔ばかりする君が許せない。本当はね、このナイフ霞ちゃんに使う予定だったんだぁ。君を殺すと脅せば、彼女は僕の物になる。いいなりさ。脱げと言えば脱ぐだろ? 君を守るためにね。想像するだけで滑稽だよ。くっくっく……」


 ナイフを取り出し、刃先を舐めながらそう言った。

 すっごい気持ち悪いし、気持ち悪い。同情した俺が馬鹿だった。


「だろうな。お前が逆の立場だったら絶対守ってくれないぞ。俺らは相思相愛なんだよ。だから彼女を守るためなら俺も何だってするさ。お前が俺を殺して満足するならそれでいい。大切な人を守れるなら殺されることを選ぶよ。————だが、一つだけ言わせてもらう。あんたが流した噂で、霞に優しくしたら縋ってくるなんて思い上がりだ。初めてが欲しい? 心底気持ち悪い。それとあいつの初めては……もうわかるよなぁ?」


 笑いながら皮肉ったらしく、嫌味を言ってやる。


「お前……」


 目を細め、殺すぞと言わんばかりに睨みつけてきた。朝原は今の言葉で苛立ち、体が震えている。声音も怒りが混じり前面に出てきた。

 そして目がやばい。とにかくやばい。

 言わなければ良かったと後悔するが、いまさら遅かった。


「殺す殺す殺す! お前なんて殺してやる!!」


 ナイフを両手で持ち、俺に向かって真っすぐ突っ込んでくる。

 刺される覚悟なんてねーよ、馬鹿野郎! 俺が死んだら誰が霞を守るんだよ! 俺が死んだからといって、お前が霞に手を出さないとは限らないだろ。むしろ出すだろ! 喜んで死ねるか!


 脈が上がり、呼吸も乱れてくる。

 ドックン、ドックンと心臓が跳ねる。口から飛び出そうなほどに。


 落ち着け、落ち着け、俺! 大丈夫、落ち着くんだ!


 朝原が突き出したナイフをギリギリの所で横に飛んで何とか回避した。だが、そのまま倒れこんでしまった。


 ……恐怖で足に力がはいらない。


 やばいやばいやばいっ!! 立て! 立て! 立つんだ!! 動け! 動け俺の足!! 今立たないと死ぬぞ!!


 突っ込んできた朝原は勢いのままに倒れる。彼はもう理性を失ってる。もうどうにも制御できる気がしない。


「死ぬ覚悟できてんじゃないのか? 何で避けるの? 一瞬で楽にしてあげるのに。ひひっ!」

「いざ刺されるってなったら怖いだろ! 反射だよ反射!」


 抑えられるか分からないけど、とりあえず話で時間稼ぎをするしかない。足が……足が竦んで動かない!

 人は極限の恐怖で腰が抜けるとはよく言ったものだ。本当にその通りで力が入らない。


「朝原!! お前この先の事ちゃんと考えてるのか? ここで俺を刺せば、お先真っ暗だぞ! 世の中には霞よりもっと可愛い人は沢山いる! 運命的な出会いだってあるかもしれない! それでもここで全部を捨てるのか!? それでいいのか!」


「僕はねぇ、霞ちゃんじゃないとダメなんだよ。彼女の全てが欲しい。僕に見合うのは彼女だけなんだよ」


「それはお前の勝手な理由だろ? 霞の意思は何処にもないじゃないか。落ち着いて考えてみろ。ただの傲慢で、自分の理想を押し付けてるだけだ。たまたま霞がお前の理想なだけで、霞がお前に縋る理由にはならない。前提が間違ってることに気付け。好きなら真っ向から勝負しろよ」


 心拍数と呼吸も落ち着いた。これならもう立てそうだ。ズボンを払いながら立ち上がった。さて、どうしようか。


「好きだと? 笑わせないでくれよ。僕は彼女が好きなんじゃない。僕の隣に、傍に置いておきたいんだけだ。僕のいう事を聞かせるために弱らせ、どん底まで落として、縋って、善がって欲しいのさ。それで僕は彼女を慰めるんだ。僕じゃないとダメだと、そう思われたい。愉悦に浸りたいのさ。……それもあと少しだった。だけどそれをお前が邪魔したんじゃないかぁぁ!!」


「でもこの前好きって言ってたじゃん。あれは嘘だったのか? 少なくとも俺には本心にしか聞こえなかったぞ」


「嘘に決まってんだろ!! 勘づかれないように言ったんだ! 僕に見合う、そして彼女にも見合うのは僕しかいないんだ! だから邪魔者のお前は排除するしかないんだ!!」


 ナイフを拾い、叫びながらこっちに向かってくる。

 振りかざされるナイフをバックステップで避けた。だが、もうこれ以上は逃げられない。避ける術がない。背中はフェンスに当たり、そしてすぐさま突き出されるナイフ。


「くそっ!!」


 ギリギリの所で手首と刃を抑えた。手が切れ、滴る血。


「ぐっ……」

「死ねよ。このまま突き刺して終わりなんだから」


 このままじゃ刺される……。

 力が入り、だんだんと刃が自分へと近づいてくる。

 こちらも負けじとナイフを握った手に力を込めた。先ほどより増して血がポタポタと垂れ、黒ずんだコンクリートに染み込んでいく。


「朝原……お前がしてることは間違ってる。これ以上自分を殺す事はしないでくれ」

「今更、命乞いか? もう遅いんだよ!!」

「いい加減にしろっ!!」


 怒号と勢いに任せて朝原を蹴り飛ばす。反動でフェンスに食い込み、ズルズルと落ちる。手が切れて、滝のように血が流れる。痛いとかのレベルじゃい。感覚もほぼない。


「痛いじゃないか。抵抗したってなんの意味もない。君はもう死ぬ運命なんだよ」

「確かにこのままじゃ殺されるな」


 朝原は立ち上がり、ナイフを力強く握りしめた。

 そして一歩、また一歩と近づいてくる。

 もうだめだ。ひ弱すぎる自分を恨む。もう立てそうにもない。力も入らない。手も痛い。

 

 霞、ごめん……。格好つけてこのざまだよ。


 ちゃんと気持ち伝えたかったな。


 好きだって伝えたかった。後悔ばかりが残る。


 空を仰ぎ、虚空に向け一言だけ、風にさらわれ、誰にもきこえない、届かない思いを。

 

 目の前に立ちはだかる朝原にすら、届かない。


 ナイフを振り上げられたその瞬間に。その刹那に。




 ————好きだよ、霞。


 


 空虚にぽつりと呟き、目を瞑った。



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