第13話 天保の大飢饉

 天保の大飢饉は江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。


 寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。単に天保の飢饉とも言う。  


 阿修羅からスマホに連絡があり、ヤスダが死んだとのことだった。

 また、西澤ノリオって上総の部下を味方にしたらしい。デガワ大佐も倒し順調なようだ。「武器をたくさん用意しておけ?」阿修羅に言われた。船だったらこの時代にあった。そいつごと2020年に戻ればいい!


 産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいたが、のちにそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。


 当時の人口は、アメリカ合衆が1833年に約1,416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2,760万人であった。


 アメリカは1833年にシャムとマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。


 産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、おもにマッコウクジラの鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で捕鯨を盛んに行っていた。日本近海ではジャパン・グラウンドと呼ばれる伊豆諸島・小笠原諸島付近、カムチャツカ・グラウンドと呼ばれるカムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国東海岸を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行うのが普通であった。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。


 加えて難破船の問題もあった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務のひとつであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シックスナイト♥ 鷹山トシキ @1982

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る