第5話 『別所さん』について

「物はくれる方が決めるんだから受け取るしかないって。お母さんが言ってたよ」。


『別所さん』とはどういう作品なのか、と問われたとき、一言で答えるとしたらこの一文が最も相応しい。この言葉は別所さんの行いに対して使われている。しかしそれ以外にも、冒頭にある鉄道橋の崩落、妹が暴行されてしまった事件なども「くれる方が決める物」といえるだろう。例えそれが災難であろうと、来てしまったら受け入れるしかない。作品全体を通してこの考えが貫かれている。


 その、何かをくれるという別所さんは、謎めいた存在である。物語の主人公である龍一は、家族の中で一人だけ別所さんの存在を知らない。さらに、この作品では、最後まで別所さんが何者であるかは明かされない。ここでは、別所さんが何者であるかよりも、別所さんが何をしたかが重要なのだろう。別所さんについて、龍一が妹に「物々交換のひとってわけ」と問うと、妹は「そういう言い方なら価値価値交換だよ」と答える。接待する家族は宿や食事という価値を提供することに対して、別所さんの置き土産はそれに見合ったものであるはずなので、何の役にも立たないものではないはずだ。「昔来たとき、手品してくれたじゃん」というのは、彼らが小さかったので、喜ぶようにと手品をしたのかもしれない。古新聞を置いて行った話にせよ、その新聞にはその家族には価値のある記事が掲載されているなど、資源ゴミ以上の意味を持っていたのだろう。しかし、別所さんはそれらの品物について語ることはせず、受け手も「これは何ですか」と尋ねることはしない。価値は自ら見出さなければいけないのである。


 また、この作品は、鉄道橋の崩落から始まっており、これはある二つの世界の断絶を象徴している。「かれにとって橋のこっち側である都内のアパート」という記述がある。多摩川は東京都と神奈川県の境を流れる川であり、橋のあっち側には神奈川県、彼の実家がある。あっち側とは家族を表し、家族との隔たりの象徴とも考えられるが、むしろ実家にいた頃の自分を表しており、過去を受け入れられていないことをほのめかしていそうだ。後半部分で、妹に自分の暗い過去について語られた後、龍一は「でも俺にそう言う日も来るかもよ」と言っている。彼もまた「生きててよかったんだ」と誰かから言ってもらいたい、辛い過去を抱えているのかもしれない。妹は身に降りかかった災難を受け入れられつつあるのに対して、龍一は拒んだままでいるのかもしれない。


 作中では、龍一のことを「龍一」ではなく「かれ」と呼ぶ箇所が三か所出てくるが、この「かれ」で表される部分は、そういった「過去を受け入れられない龍一」を表していると考えられる。一か所目は「かれにとっては橋のこっち側である都内のアパートにとどまっていた」とあり、二か所目は、妹を送り届けて一安心しているであろう場面で、「少し緊張しているのだろう」とある。そして三か所目は、芋版について語る場面だ。


 では、芋版にはどんな価値があるのか。この芋版セットは、自分で曼陀羅が作成できるものである。作品中で曼陀羅とは何を表しているのか。「えー曼陀羅ってなんだっけ」と言った妹に対して、龍一の答えは「そんなもんネットで調べろ」の一言で片づけられている。実際ネットを調べてみると、「こういうものだ」と説明するのは至難の業であり、また人によって捉え方が違うことが伺える。ここでは、数ある解釈の中から、作者は作品中で説明した事柄を特に作品に反映していると思われるので、これについては深く追求しないことにする。さらにこの芋版は、時間がたつと腐って使えなくなってしまう。「可能性は無限なのだ」とあるのは、何を描くかということに対しては、幾通りも方法があることを示している。しかし、時間に限りがあるので、その中からすべてを選び取れるわけではなく、選択できることがらには限りがある。芋版が腐るのは、人間の肉体もやがて衰えるものであることを暗に伝えているようだ。


 また、龍一は芋版で曼陀羅を作成できることを知っており、作成する意志もあったものの、実際には実家にたどり着くことができなかった。このこともまた興味深い。かれは芋版の使い方を知っている、つまり生きていくことに対しての知識はあるものの、「物はくれる方が決めるんだから受け取るしかない」という境地に達していないため、生き抜くための心構えができていないのだ。せっかくの贈り物も、受け取る資格がなかったのだといえる。




絲山秋子 『別所さん』の感想です。

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