第4話 幻化について

 梅崎春男の『幻化』について。

 この作品を考える上で、まず重要なのは、「頭がむき出しになっているから、普通人が持たない感覚を持ち、感じないものを感じているのではないか。」という一文である。作中での主人公の行動は、多少風変りといえども、普通の人が行っているのであればただのぶらり旅のようなものである。それを、上記のような人物が行っているからこそ、普通の人にはない視点で物事を見て、体験する。よくも悪くも、普通の人よりも敏感に物事を感じ取ることができる、あるいは感じ取ってしまう。作者が自分の書きたい世界を語るには、こういう視点が必要だったと考えられる。


 普通の人と、普通でない人とは、近代化された世の中に上手く適応している人、そうでない人を暗示しているともいえる。古い友人の一人であった小城などは、「戦後小城は、進歩的な学者として、名前を挙げた。」と紹介されているように、適応している人の典型であり、友人から「あいつは損得になると、損の方を平気で捨ててしまうんだ。」と批判されている。精神病院で一緒だった、大正エビ、チンドン爺さんなどは、それとは対照的に描かれている。かつて五郎や小城は同じ世界にいたはずであるが、いつのまにか、五郎は後者のような人々のいる世界の住人となっている。日本が近代化されていく過程で、人々はより理性的な割り切れる生き方を選ぶようになってきた。しかし、それに馴染めない人もいるのであり、その様子が書かれているといえる。


 また、白い花の章で登場する女は、かつては普通に生きようとしていたのが、離婚するなどして、普通から外れたところで生きている人物といえる。同様に、福、丹尾も、かつては普通人であったが、生きていく過程で徐々に普通から外れていった人物である。底と呼ぶしかないような、深い部分にたどり着いてしまった人、といえるかもしれない。家族があっけなく他界してしまうなど、普通に生きていれば特に知る必要のなかった世界があることを知ってしまい、普通の感覚で生きられなくなってしまった彼ら。五郎が彼らを観察したり思い出したりすることは、まるで鏡に映る自分の姿を見るように、自分を客観的に見ることにつながっている。丹尾の兄は昔は死と隣り合わせの状況であり、普通ではなかったと思われるが、今では絵に描いたような普通に落ち着いているおり、このことは、人は必ずしも決まったカテゴリーにいるわけではなく、一つの人生の中で両方を行き来することを示唆している。


 三分の一ほど進んだ白い花の章で、通りがかりの女から、「遠くからあんたは、何のためにやって来たのよ?」と問われる場面がある。こういった問いは、作中で「普通」の人たちから出てくることはないであろう、重要なものである。「まあ、見物かな」ととりあえず答えてはいるものの、しかし単なる見物であるはずはない。この問いかけをきっかけに、五郎が戦時中ここにいたことや、戦友の死などが明らかにされていく。


 主人公は、現実しかない世界では生きにくい反面、境界のあちらとこちらを行き来できるような自由な存在として描かれているともいえる。境界とは何の境界か。死と生との境界とも考えられるが、同時に意識と無意識との境界とも考えられる。河合の定義によると、人間の心には言語によって内容を把握できる領域(意識)、言語化することが難しい、自我によって確実に把握することの難しい領域(無意識)、両者の中間にある領域(イメージの世界)に分けられる。五郎は言語化しきれないような、心の深くて曖昧な領域を彷徨っているといえる。つまり、彼がやってきた「遠く」という言葉から、物理的に距離の遠い東京だけのことを考えるのは不十分であり、それまで主な生活圏だった「意識」の世界から、「イメージ」の世界へやってきたことに対する問いという二重の意味を含んでいる。「『意識の世界』だけで生きていればもっと楽でいられるのに、なぜ、より深く、危険な領域に立ち入ろうとするのか」というのが、作者が作品を書く上で最も重要な問いであり、それに対する答えから、この作品が生まれたものと思われる。


 実際に梅崎が九州を旅行したのは、幻化が書かれる二年前のことだった。作中には風景の具体的な描写などが多々あり、実際に旅行で見たものが多く盛り込まれているが、作者自身、「なぜ自分はここに来たのか」をずっと自問自答しており、二年間かけてようやく答えをつかんで書き上げたのがこの作品だったのではないか。

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